節
訳語
翻訳
解説
第7章
ドローナの息子、罰せられる
節
śaunaka uvāca
nirgate nārade sūta
bhagavān bādarāyaṇaḥ
śrutavāṁs tad-abhipretaṁ
tataḥ kim akarod vibhuḥ
nirgate nārade sūta
bhagavān bādarāyaṇaḥ
śrutavāṁs tad-abhipretaṁ
tataḥ kim akarod vibhuḥ
訳語
śaunakaḥ—シュリー・シャウナカ; uvāca—言った; nirgate—行ってしまった; nārade—ナーラダ・ムニ; sūta—スータよ; bhagavān—超絶した力を持つ; bādarāyaṇaḥ—ヴェーダヴィヤーサ; śrutavān—聞いた者; tat—彼の; abhipretam—心の望み; tataḥ—そのあと; kim—~であるもの; akarot—彼はしたのか; vibhuḥ—偉大な人物。
翻訳
リシ・シャウナカが尋ねた。「スータよ。偉大で、超絶した力を備えたヴィヤーサデーヴァはシュリー・ナーラダ・ムニから余すところなく学びました。それでは、ナーラダが去った後、何をしたのでしょうか」
解説
この章では、『シュリーマド・バーガヴァタム』を描写する糸口として、マハーラージャ・パリークシットが母親の胎内で奇跡的に救われた話が取り上げられています。これは、これは、アーチャーリャ・ドローナの息子であるドラウニ(別名アシュヴァッターマー)が、ドラウパディーの5人の息子たちを眠っているときに殺害したことによるものであり、そのために彼はアルジュナに罰せられました。シュリー・ヴィヤーサデーヴァは、この偉大な史書『シュリーマド・バーガヴァタム』の執筆を始める前に、献身奉仕による法悦の境地を通して真実を全て熟知しました。
節
sūta uvāca
brahma-nadyāṁ sarasvatyām
āśramaḥ paścime taṭe
śamyāprāsa iti prokta
ṛṣīṇāṁ satra-vardhanaḥ
brahma-nadyāṁ sarasvatyām
āśramaḥ paścime taṭe
śamyāprāsa iti prokta
ṛṣīṇāṁ satra-vardhanaḥ
訳語
sūtaḥ—シュリー・スータ; uvāca—言った; brahma-nadyām—ヴェーダ、ブラーフマナ、聖者、そして主と密接な関係のある川辺で; sarasvatyām—サラスヴァティー川; āśramaḥ—瞑想のための庵; paścime—西側に; taṭe—岸辺; śamyāprāsaḥ—シャミャープラーサという名の場所; iti—このように; proktaḥ—~と言われている; ṛṣīṇām—聖者たちの; satra-vardhanaḥ—行動に活力を与えるもの。
翻訳
シュリー・スータが言った:ヴェーダと密接に関わりのあるサラスヴァティー川の西側の岸辺に、瞑想のための草庵がある。そこはシャミャープラーサという地で、聖者たちの神聖な営みに力を与えている。
解説
崇高な知識を究めるには、それなりのふさわしい場所や環境が欠かせません。サラスヴァティー川の西側の岸辺は、特にその目的にかなう場所とされています。また、シャミャープラーサには、ヴィヤーサデーヴァのアーシュラマがあります。シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは世帯者でしたが、その住まいはアーシュラマと呼ばれています。アーシュラマとは、常に神聖な教養が優先される場所です。その場所に住むのが世帯者であろうと修行僧であろうと、それは問題ではありません。ヴァルナーシュラマ制度では、どの地位もアーシュラマと呼ばれています。つまり、神聖な文化は誰もが培わなくてはならないことを示しているのです。ブラフマチャーリー、グリハスタ、ヴァーナプラスタ、サンニヤーシーは、至高者の悟りという共通の使命をまっとうするためにある地位です。ですから、神聖な文化を追求する道では、地位の優劣に違いはありません。あるのは、放棄の程度に応じて呼ばれる形式的な呼称です。サンニヤーシー階級は、放棄を実践する力を備える尊い地位とされています。
節
tasmin sva āśrame vyāso
badarī-ṣaṇḍa-maṇḍite
āsīno ’pa upaspṛśya
praṇidadhyau manaḥ svayam
badarī-ṣaṇḍa-maṇḍite
āsīno ’pa upaspṛśya
praṇidadhyau manaḥ svayam
訳語
tasmin—その(アーシュラマ)の中に; sve—自分の; āśrame—その庵の中で; vyāsaḥ—ヴィヤーサデーヴァ; badarī—果実; ṣaṇḍa—木; maṇḍite—~に囲まれて; āsīnaḥ—座っている; apaḥ upaspṛśya—水に触れている; praṇidadhyau—集中して; manaḥ—心; svayam—自分自身。
翻訳
シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァはその地で、さまざまな果樹に囲まれたアーシュラマの中に一人座し、水に触れて身を清めた後、瞑想に入った。
解説
ヴィヤーサデーヴァは、精神指導者シュリーラ・ナーラダ・ムニの教えに従い、瞑想するにふさわしい神聖な場所で心を集中させました。
節
bhakti-yogena manasi
samyak praṇihite ’male
apaśyat puruṣaṁ pūrṇaṁ
māyāṁ ca tad-apāśrayām
samyak praṇihite ’male
apaśyat puruṣaṁ pūrṇaṁ
māyāṁ ca tad-apāśrayām
訳語
bhakti—献身奉仕; yogena—結びつける方法によって; manasi—心に; samyak—完璧に; praṇihite—~に従事して立脚する; amale—物質的要素が全くない; apaśyat—見た; puruṣam—人格神; pūrṇam—絶対的な; māyām—エネルギー; ca—〜もまた; tat—主の; apāśrayam—完全に支配して。
翻訳
こうしてヴィヤーサデーヴァは、物質的な意識を一切持たずに、心を献身奉仕 [バクティ・ヨーガ] に結びつけて完全に瞑想した結果、主が自ら完全に支配している外的エネルギーを伴って存在している絶対人格神を見た。
解説
絶対真理の完璧な視野は、献身奉仕でつながる過程によってのみ得ることができます。『バガヴァッド・ギーター』もそう確証しています。献身奉仕をしてこそ、絶対真理である人格神を悟ることができ、そのような完璧な知識のある人だけが神の国に入ることができます。絶対真理を、姿のないブラフマンや局所的存在のパラマートマーとして不完全に理解している状態では、神の国に入ることは許されません。シュリー・ナーラダはシュリーラ・ヴィヤーサデーヴァに、人格神とその活動だけに心を集中させるよう助言しました。シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァはブラフマンの光に関心はありません。最終的な悟りではないからです。究極の悟りは人格神であり、それは『バガヴァッド・ギーター』(7-19)で、vāsudevaḥ sarvam itiと確証されている通りです。ウパニシャッドでも、人格神、ヴァースデーヴァは姿のないブラフマンという金色に輝くヒランマイェーナ パートレーナのヴェールで覆われており、そのヴェールが主の慈悲で取り除かれるとき、絶対者の本当の顔を見ることができる、と述べられています。この節で、絶対者はプルシャ、すなわち人物として表現されています。絶対人格神は数多くのヴェーダ経典の中で述べられており、『バガヴァッド・ギーター』もそのプルシャを永遠で根源の人物と断言しています。絶対人格神は完璧な人物なのです。至高の人物はさまざまなエネルギーを持ち、中でも内的、外的、そして境界エネルギーが重要です。ここで述べられている外的エネルギーについては、その活動についての記述によって明らかにされていきます。内的エネルギーは、月光が月と共にあるように、絶対者と共にあります。外的エネルギーは、生命体を無知の暗闇に縛りつけることから暗闇に例えられます。この節の「アパーシュラヤム」という言葉は、主のこのエネルギーが完全に支配されていることを示しています。内的勢力や優性エネルギーもマーヤーと呼ばれることがありますが、これは精神的なマーヤー、つまり絶対的な世界にあるエネルギーです。この内的勢力に身を委ねれば、無知の暗闇は跡形もなく消えていきます。そして、法悦の境地にいるアートマーラーマの人々でさえ、このマーヤー、すなわち内的エネルギーに身を委ねます。献身奉仕、またはバクティ・ヨーガは内的エネルギーの作用です。そのため、劣性エネルギー、すなわち物質エネルギーが入り込む余地はありません。精神的な光の中に暗闇が存在できないのと同じです。内的エネルギーは、非人格ブラフマンの悟りによる精神的な至福さえも超えています。『バガヴァッド・ギーター』では非人格ブラフマンの光は、絶対人格神シュリー・クリシュナから発散されている光であると述べられています。パラマ・プルシャは、シュリー・クリシュナ以外にいるはずがなく、それはこれからのシュローカ(節)で追って説明されていきます。
節
yayā sammohito jīva
ātmānaṁ tri-guṇātmakam
paro ’pi manute ’narthaṁ
tat-kṛtaṁ cābhipadyate
ātmānaṁ tri-guṇātmakam
paro ’pi manute ’narthaṁ
tat-kṛtaṁ cābhipadyate
訳語
yayā—である者によって; sammohitaḥ—幻惑されて; jīvaḥ—生命体; ātmānam—自己; tri-guṇa-ātmakam—自然の三様式、あるいは物質の産物に束縛されて; paraḥ—超越的な; api—にもかかわらず; manute—それを当然のことと思う; anartham—望ましくない物事; tat—それによって; kṛtam ca—反動; abhipadyate—それゆえに経験する。
翻訳
本来は物質自然の三様式を超越した存在である生命体は、この外的エネルギーに惑わされ、自分を物質の産物と考え、その反動のために苦しんでいる。
解説
物質主義の生命体が味わっている苦しみの根源、そして実践できる解決法と手に入れられる究極の完成の境地がここで指摘されています。この節でこれら全てについて述べられています。生命体は本来物質に束縛されない境地にいるのですが、今は外的エネルギーに縛られているために、自分のことを物質によって作り出された産物と考えています。そして、その不浄な関わりのために、純粋で神聖な生命体は、物質自然の様式に惑わされて苦しんでいます。自分を物質の産物だと勘違いしているのです。しかし、物質に操られている今の歪んだ考え方、感じ方、そして望み方は、本来の状態ではありません。生命体は自分本来の正常な考え方、感じ方、そして望み方を持っています。生命体本来の状態は、考えたり、望んだり、感じたりしないというわけではありません。『バガヴァッド・ギーター』が確証しているように、束縛された魂の真の知識は、今無知に包まれています。ですから、生命体が絶対的非人格ブラフマンであるという理論は、この節で否定されています。姿のないブラフマンのはずがありません。なぜなら、生命体は自分本来の束縛されていない状態でも、自分独自の意識で考えているからです。束縛されている今の状態は、外的エネルギーに影響されている結果であり、言い換えれば、至高主と離れている状態では幻想エネルギーが主導権を握る、ということです。主は、生命体が外的エネルギーに惑わされることを望んでいません。外的エネルギー自身もこの事実を知っているのですが、忘却状態にいる魂たちを妄想の世界に縛りつけるという、誰にも感謝されない仕事をしています。主は幻想エネルギーの働きを妨げることはしません。その働きがあってこそ束縛された魂が矯正されるからです。子どもを深く愛する父親は、我が子が他人に罰せられるのを望みはしませんが、聞き分けのない子どもを正しく育てるために厳しい人に預けることがあります。しかし同時に、完全に愛情深い、そして全能の父なる神は、束縛された魂が幻想エネルギーから救われることを望んでいます。王は、不従順な市民を牢獄に閉じこめることがありますが、時には囚人たちを自由の身にさせるため自ら牢獄を訪れ、心を入れ替えるよういさめた結果、囚人が解放されることがあります。同じように、至高主は自分の王国からこの幻想エネルギーの世界に降臨し、『バガヴァッド・ギーター』という形で解脱の方法を示しました。その中で、幻想エネルギーは克服するのが難しいが、主の蓮華の御足に身を委ねる人は、至高主の配慮によって自由の身になれるとおっしゃっています。身を委ねる方法こそが、幻想エネルギーの魔力から逃れる治療法です。その帰依の方法は、献身者との交流の力によって完成します。だからこそ主は、至高主を正しく悟っている聖なる人物の言葉の力によって、主への愛情奉仕ができるようになると説いています。束縛された魂は、まず主にまつわる話を聞くことに魅力を感じるようになります。そしてその聞くという方法だけで主を尊び、主に専心し、主に執着する境地に高められていきます。この段階を完結させるのが身を委ねる方法です。同じことが、この節でヴィヤーサデーヴァという主の化身を通し、主によって示されています。これは、束縛された魂は主によってふたつの方法で解放されるということです。その二つの方法とは、主の外的エネルギーによる懲罰と、内にも外にもいる精神指導者によって矯正されるという方法です。全生命体の心の中で主は至高の魂(パラマートマー)として精神指導者となり、外からは経典、聖者、そして入門を授ける精神指導者というぞれぞれの形で精神指導者になります。これについては、次のシュローカでさらに明らかにされます。
幻想エネルギーは個人であり、その個人による管理については、神々たちの支配力に関連してヴェーダ(『ケーナ・ウパニシャッド』)の中で述べられています。この中で、生命体は外的エネルギーという個人の能力によって支配されている、と述べられています。ゆえに外的エネルギーに支配されている生命体は、本来の純粋な状態から離れた状態にいます。しかし、このバーガヴァタムの言葉からはっきりしているように、その外的エネルギーでさえ人格神という完璧な生命体の前では劣った立場にいます。普通の生命体だけを操ることのできる幻想エネルギーは、完璧な存在である主には近づけません。ですから、至高主が幻想エネルギーに惑わされ、その結果、普通の生物になる、という考えは単なる想像にすぎません。生命体と主が同じ境地にいるとすれば、ヴィヤーサデーヴァにはそれを見ることができたはずです。さらに、至高の存在である主は全てを完全に知っているお方ですから、幻惑された生命体が(主と同じ境地にいるのであれば)物質的な苦悩を感じるはずがありません。なぜなら至高の存在は完全に全てを意識しているからです。このように、一元論者は数多くの不徳な想像を巡らせ、主と生命体を何とか同じ段階に並べようと躍起になっています。主と生命体が同じだとしたら、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはことさら主の崇高な遊戯について説明などしなかったはずです。なぜなら、そのような主の行為が単なる幻想エネルギーの表れになってしまうからです。
『シュリーマド・バーガヴァタム』は、マーヤーに捕らえられて苦悩する人類への最善の治療法です。ですからシュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは、最初に束縛された魂の本当の病気を診断し、外的エネルギーに惑わされている状態を見て取りました。また、病に侵された魂とその病気の原因をも見ることができましたが、完璧な至高の存在と、そして幻想エネルギーがその至高の存在からはるか遠く離れていることも目の当たりにしました。その治療法については次の節で述べられています。言うまでもなく、至高人格神も生命体も質的にはひとつですが、主は幻想エネルギーの支配者であり、生命体はその幻想エネルギーに支配されています。主と生命体は同時に同じで同時に異なる、ということです。この節で明らかとなるもう一つの点は、主と生命体の永遠な絆は超越的だということです。超越的でなければ、主は束縛された魂をマーヤーの支配から救うという厄介なことはしないはずです。同じように生命体も、主への自然な愛情や愛着心をよみがえらせる必要があり、またそれが生命体の最高完成でもあります。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、束縛された魂を治療し、その人生のゴールに導こうとしています。
節
anarthopaśamaṁ sākṣād
bhakti-yogam adhokṣaje
lokasyājānato vidvāṁś
cakre sātvata-saṁhitām
bhakti-yogam adhokṣaje
lokasyājānato vidvāṁś
cakre sātvata-saṁhitām
訳語
anartha—不必要な物事; upaśamam—緩和; sākṣāt—直接; bhakti-yogam—献身奉仕という連結方法; adhokṣaje—超越者に; lokasya—一般大衆の; ajānataḥ—~に気付いていない人々の; vidvān—至極の博識者; cakre—編集した; sātvata—至高真理に関連した; saṃhitām—ヴェーダ経典。
翻訳
生命体に本来関係のない物質的な苦しみは、献身奉仕でつながる方法によってのみ和らげることができる。しかし大衆はこのことを知らない。ゆえに博識なヴィヤーサデーヴァは、至高真理に関連するヴェーダ経典を編集した。
解説
シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは、あらゆる面で完璧な人格神に出会いました。この節が示しているのは、人格神という完全な個人にはその部分体も含まれているということです。ですから、ヴィヤーサデーヴァは主の内的エネルギー、境界エネルギー、外的エネルギーというさまざまなエネルギーを見たことになります。さらに、主のあらゆる完全分身やその完全分身の部分体、すなわち主の化身も目にし、特に外的エネルギーに惑わされている束縛された魂の不必要な苦しみを見ることもできました。最後に、束縛された魂のための治療法、すなわち献身奉仕の方法も見ました。この方法は素晴らしい超越的な科学であり、至高人格神の御名、名声、栄光などについて聞いて唱えることから始まります。休眠状態である神への愛情や愛を復活させるのは、聞いて唱えるという機械的な方法に左右されるのではなく、神のいわれのない慈悲だけにかかっています。献身者の真剣な努力に満足した主は、愛情あふれる純粋で超越的な奉仕を授けるのです。しかし、聞く、唱えるという規定された方法によってでさえ、生命体には無縁で不必要な物質的苦悩をたちどころに和らげることができます。物質的な病気を和らげるためには、超越的な知識が高められるのを待つ必要はありません。むしろ知識の向上は、至高の真理を究極的に悟るためにある献身奉仕にかかっているのです。
節
yasyāṁ vai śrūyamāṇāyāṁ
kṛṣṇe parama-pūruṣe
bhaktir utpadyate puṁsaḥ
śoka-moha-bhayāpahā
kṛṣṇe parama-pūruṣe
bhaktir utpadyate puṁsaḥ
śoka-moha-bhayāpahā
訳語
yasyām—このヴェーダ経典; vai—確かに; śrūyamāṇāyām—ただ耳を傾けるだけで; kṛṣṇe—主クリシュナに; parama—至高の; pūruṣe—人格神に; bhaktiḥ—献身奉仕の感情; utpadyate—芽生える; puṃsaḥ—生命体の; śoka—嘆き; moha—幻想; bhaya—恐れ; apahā—消し去るもの。
翻訳
このヴェーダ経典の言葉に耳を傾けるだけで、至高人格神、主クリシュナへの愛情に支えられた献身奉仕の感情がたちどころに芽生え、嘆き、幻想、そして恐れの火を消し去ってくれる。
解説
さまざまな感覚の中でも、耳は最も効果的です。耳は熟睡している時でも働いています。目覚めていれば、敵の攻撃を防ぐことができますが、眠っているときに自分を守ってくれるのは耳しかありません。聞くことの重要性は、人生の最高完成、つまり3種類の苦悩から救われることに関連して述べられています。多くの人々がいつも悲しみに打ちひしがれ、幻にすぎない蜃気楼を追い求め、仮想の敵を恐れています。どれも物質的な病気の主おもな兆候です。そしてこの節では、『シュリーマド・バーガヴァタム』の言葉を聞くだけで、至高人格神、主クリシュナへの愛着心を育み、またその兆候が出ると同時に物質的な病気の症状は消えていく、と断言されています。シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは完璧な人格神を見ましたがこの節では、人格神、主クリシュナについて明確に確証されています。
献身奉仕の究極の目的は、至高人格者への純粋無垢な愛情を育むことです。愛情は通常男女間に関連して使われる場合がほとんどですが、この愛情こそが、主クリシュナと生命体の絆を正しく表わすために使われる唯一の言葉です。生命体は『バガヴァッド・ギーター』でプラクリティと表現されており、これは女性という対象を指すサンスクリット語です。一方、主は常にパラマ・プルシャ、至高の男性、と述べられています。このように、主と生命体の間にある愛情は、男女間の愛情に似ています。ですから「神への愛情」という言葉は、最も的確な表現と言えます。
愛情を込めた主への献身奉仕は、主について聞くことから始まります。主と主にまつわる話との間に違いはありません。主はあらゆる面で絶対的なお方ですから、主と主について聞く話との間に差はないのです。ですから、主について聞く行為は、崇高な音の響きという過程を通して主とじかに接していることになります。そしてその音には素晴らしい効果があり、前述した物質的病を全て取り除く力をすぐに発揮します。すでに述べたように、生命体は物質に関わることで複雑な意識を作り上げ、肉体という幻想の足かせを真実と考えるようになります。そのような間違った複雑な意識のために、多種多様な肉体を持つ生命体は、さまざまな形で幻惑されます。最も優れた段階にある人間社会の中でも、同じ幻想は数多くの「主義」という形で広がり、主との愛情の絆を切り離し、さらに人と人との愛情関係を寸断します。『シュリーマド・バーガヴァタム』を聞くことで、物質主義というこの間違った混乱状態が取り除かれ、政治家がさまざまな政情において強く望んでいる真の平和が訪れます。政治家は人と人の間に、国と国の間に平和を築きたいと思っているのですが、物質的な政治にとらわれているため、幻想と恐れに悩まされています。そのため、政治家たちの平和会議では社会に平和をもたらすことはできません。その平和は、『シュリーマド・バーガヴァタム』にある至高人格神シュリー・クリシュナにまつわる話を聞くことだけでしか達成できません。愚かな政治家は平和会議やサミット会議を何百年も続けることでしょうが、成功の二文字をつかむことはできないでしょう。失われたクリシュナとの絆を再び結ぶ境地に辿り着くまでは、肉体を自分だと思い込む幻想ははびこり、それにともなって恐れも広がっていきます。シュリー・クリシュナが至高人格神であるという正論は啓示された経典の中に無数にあり、ヴリンダーヴァナ、ナヴァドヴィーパ、プリーなどの聖地に住む献身者たちが自ら体験した数限りない証拠があります。カウムディー辞書にでさえ、クリシュナの同義語が「ヤショーダーの息子」や「至高人格神、パラブラフマン」という言葉で記述されています。結論として、ヴェーダ経典『シュリーマド・バーガヴァタム』の言葉を聞くだけで、至高人格神シュリー・クリシュナとじかに接することができ、その結果、苦しみ、幻想、そして恐れを乗り越えて人生の最高完成に到達することができるのです。これが、『シュリーマド・バーガヴァタム』を従順に読んで聞いている人が会得する境地です。
節
sa saṁhitāṁ bhāgavatīṁ
kṛtvānukramya cātma-jam
śukam adhyāpayām āsa
nivṛtti-nirataṁ muniḥ
kṛtvānukramya cātma-jam
śukam adhyāpayām āsa
nivṛtti-nirataṁ muniḥ
訳語
saḥ—その; saṃhitām—ヴェーダ経典; bhāgavatīm—人格神と関連した; kṛtvā—行って; anukramya—修正と反復によって; ca—そして; ātma-jam—我が息子; śukam—シュカデーヴァ・ゴースヴァーミー; adhyāpayām āsa—教えた; nivṛtti—自己を悟る道; niratam—従事して; muniḥ—その聖者。
翻訳
偉大な聖者ヴィヤーサデーヴァは『シュリーマド・バーガヴァタム』を編集し、修正した後、それを、すでに自己の悟りの境地にあった我が子、シュリー・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーに教えた。
解説
『シュリーマド・バーガヴァタム』は、『ブラフマ・スートラ』を著した本人によるありのままの解説書です。この『ブラフマ・スートラ』すなわち『ヴェーダーンタ・スートラ』は、すでに自己を悟った活動をしている人のためにあります。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、その内容を聞くだけですぐに読者が自己の悟りの道を歩けるように作られています。パラマハンサ、つまり完全に自己の悟りの活動をしている人のためにあるのですが、この書物は一般大衆の心の奥底にも浸透していきます。大衆は皆、感覚を満たすために行動しています。しかしそのような人たちでも、このヴェーダ経典に物質的な病気の治療法を見い出すことができます。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは誕生したときすでに解脱の境地にいた人物でしたが、父は彼に『シュリーマド・バーガヴァタム』を教えました。俗な学者たちの間には『シュリーマド・バーガヴァタム』が編集された時代についてさまざまな意見がありますが、この書物を読めば、パリークシット王が他界する前、そして主クリシュナが去って行った後に編集されたことがわかります。マハーラージャ・パリークシットがバーラタ・ヴァルシャの王として世界を統治していたとき、カリの権化を懲罰しています。啓示経典や占星術の計算によると、カリ時代に入ってすでに5千年が経過しています。つまり、『シュリーマド・バーガヴァタム』が編集されて少なくとも5千年は経っているということです。『マハーバーラタ』は『シュリーマド・バーガヴァタム』以前に編集され、各プラーナは『マハーバーラタ』以前に編集されました。さまざまなヴェーダ経典が編集された時代を概算するとこうなります。『シュリーマド・バーガヴァタム』の大意は、ナーラダの指示によって詳細な内容が書かれる以前に示されています。この書物はニヴリッティ・マールガの道に従うための科学です。ナーラダはプラヴリッティ・マールガを認めていませんが、束縛された魂たちはどうしてもこの生き方を求めようとします。『シュリーマド・バーガヴァタム』の主題は、人類の物質的な病気を治療し、物質存在の苦悩を完全に断ち切ることにあります。
節
śaunaka uvāca
sa vai nivṛtti-nirataḥ
sarvatropekṣako muniḥ
kasya vā bṛhatīm etām
ātmārāmaḥ samabhyasat
sa vai nivṛtti-nirataḥ
sarvatropekṣako muniḥ
kasya vā bṛhatīm etām
ātmārāmaḥ samabhyasat
訳語
śaunakaḥ uvāca—シュリー・シャウナカが尋ねた; saḥ—彼; vai—もちろん; nivṛtti—自己の悟りの道にいる; nirataḥ—常に従事して; sarvatra—あらゆる面で; upekṣakaḥ—無関心; muniḥ—聖者; kasya—どのような理由で; vā—あるいは; bṛhatīm—広大な; etām—この; ātma-ārāmaḥ—自ら満足している人物; samabhyasat—研究する。
翻訳
シュリー・シャウナカがスータ・ゴースヴァーミーに尋ねた。「シュリー・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは自己の悟りの道を歩んでいた人物であり、すでに自己の内に満足していました。なぜ、それほどまでしてこの膨大な経典を研究したのでしょうか」
解説
一般人にとっての人生の最高完成は、物質的な活動を止め、自己の悟りの道を着実に歩むことにあります。感覚の楽しみに喜びを見い出す人々、あるいは肉体に関わる幸せにとどまっている人々をカルミーといいます。無数のカルミーの中のたったひとりが自己を悟ってアートマーラーマになることができます。アートマーは自己、アーラーマは喜びを見い出すという意味です。誰でも最上の喜びを求めていますが、喜びの基準は人によって違います。ですから、何を喜びの基準にするかは、カルミーとアートマーラーマでは異なります。アートマーラーマは、物質的な喜びには目もくれません。シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはすでにその境地に達していました。しかしなおかつ、深遠な『シュリーマド・バーガヴァタム』の刻苦勉励に魅了されました。これは『シュリーマド・バーガヴァタム』が、ヴェーダ知識を学び終えたアートマーラーマでさえ、さらなる研究対象にするほどの文献であるという証しです。
節
sūta uvāca
ātmārāmāś ca munayo
nirgranthā apy urukrame
kurvanty ahaitukīṁ bhaktim
ittham-bhūta-guṇo hariḥ
ātmārāmāś ca munayo
nirgranthā apy urukrame
kurvanty ahaitukīṁ bhaktim
ittham-bhūta-guṇo hariḥ
訳語
sūtaḥ uvāca—スータ・ゴースヴァーミーが言った; ātmārāmāḥ—アートマー(通常、精神的な自己)の内に喜びを感じる人々; ca—もまた; munayaḥ—聖者たち; nirgranthāḥ—全ての束縛から自由な; api—にもかかわらず; urukrame—偉大な冒険家に対して; kurvanti—する; ahaitukīm—無垢な; bhaktim—献身奉仕; ittham-bhūta—それほど素晴らしい; guṇaḥ—質; hariḥ—主の。
翻訳
スータ・ゴースヴァーミーが言った:さまざまな境地のアートマーラーマ[アートマー、精神的な自己に喜びを見い出す人々]、中でも自己の悟りの道に立脚している人々は、物質的な束縛から完全に解放されていながら、人格神に汚れなき献身奉仕をしたいと望んでいる。これは、主が超越的な質を備えているために、解脱した魂をも含む全ての魂が魅了されるということである。
解説
主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブはこのアートマーラーマのシュローカについて、主要な弟子であるシュリーラ・サナータナ・ゴースヴァーミーに明確に説明しました。主は、このシュローカの11の単語、すなわち(1)アートマーラーマ、(2)ムナヤハ、(3)ニルグランタ、(4)アピ、(5)チャ、(6)ウルクラマ、(7)クルヴァンティ、(8)アハイトゥキーム、(9)バクティム、(10)イッタム・ブータ・グナハ、(11)ハリヒ、について解説しました。『ヴィシュヴァ・プラカーシャ・サンスクリット語辞書』によると、アートマーには次の7つの同意語があります。(1)ブラフマン(絶対真理)、(2)肉体、(3)心、(4)努力、(5)忍耐、(6)知性、(7)個人の習慣。
「ムナヤハ」という言葉は(1)思慮深い人々、(2)威厳に満ち、寡黙な人物、(3)苦行者、(4)根気強い人物、(5)托鉢たくはつ僧、(6)賢者、(7)聖人、を指します。
「ニルグランタ」は以下の意味を含んでいます。(1)無知から解放されている人物、(2)経典の教えと関わっていない人物、すなわち道徳律、ヴェーダ、哲学、心理学、形而上学のような啓示経典が述べる規則や原則という義務と無関係の人々(言い換えれば、愚者、無学、浮浪者など、規定原則と関わりのない者たち)、(3)資本家、(4)貧者。
『シャブダ・コーシャ辞書』によると、「ニ」という接辞は、(1)確実性、(2)計算、(3)建物、(4)禁止を、また「グランタ」は富、論題、語彙などの意味として使われます。
「ウルクラマ」は「栄光あふれる行為をする者」という意味があります。「クラマ」は「歩行」です。ウルクラマは特に、測ることのできないほどの歩みで全宇宙を覆い尽くした主のヴァーマナとしての化身を指しています。主ヴィシュヌは力強く、またその行いも栄光にあふれ、自らの内的勢力を使って精神界を創造し、外的勢力を使って物質界を創造しました。主は、遍在する姿となって至高の真理としてあらゆる場所に存在し、個人の姿としては、ゴーローカ・ヴリンダーヴァナという神々しい住処に住み、多彩な遊戯を繰り広げています。主に匹敵する行いは誰にもできないため、「ウルクラマ」は主だけにふさわしい言葉です。
サンスクリット語の動詞の配置によって、「クルヴァンティ」は「誰かのために何かをする」という意味になります。つまり、アートマーラーマは主のために献身奉仕をするのであり、自分の興味ではなく、主ウルクラマの喜びのために行動する、という意味になります。
「ヘートゥ」の意味は「原因」です。感覚を満たそうとする原因には数多くありますが、それらは主に一般的な生活の向上を望む人が得ようとする物質的な楽しみ、神秘的な力、解脱などに分類されます。物質的な楽しみは数限りなく、幻想エネルギーに動かされている物質主義者はさらに際限なく楽しみを増やそうとします。物欲は尽きることがなく、物質宇宙に住む生命体がその全てを味わうのは不可能です。神秘的な力については、合計8種類(見えないほどの大きさになる、無重力になる、望む物全てを手に入れる、物質自然を支配する、他の生物を操る、物質惑星を大気圏外に放出させる、など)があります。この神秘的な力は『シュリーマド・バーガヴァタム』の中でも言及されています。解脱には合わせて5種類あります。
ですから純粋な献身奉仕とは、このような個人的な見返りを期待せずに主に仕えることを言います。力強い人格神シュリー・クリシュナは、そのような利己的な欲から解放された純粋無垢な献身者の奉仕に心から満足するのです。
純粋な献身奉仕に到達するまでにはさまざまな段階があります。物質的領域での献身奉仕には81の質が含まれ、そのような奉仕を超えた境地に崇高な献身奉仕があります。それが唯一無二の境地、サーダナ・バクティです。サーダナ・バクティという汚れのない修練が主への崇高な愛情として円熟するとき、主への超越的な愛情奉仕が徐々に始まり、執着、愛、愛着、感情、親密な関係、忠実、従順、法悦心、惜別の強烈な感情などの名称で、愛情奉仕という9つの段階を通って高まっていきます。
中立段階にある献身者の執着は神への超越的な愛情にまで高まります。積極的に仕える献身者の執着心は不動の忠誠心の段階まで高まり、友好的な献身者あるいは親子愛を持つ献身者の執着は従順心の段階まで高まります。主に恋愛感情を持つ献身者は、強い離別の念という法悦の境地まで高められます。これらが、主への純粋な献身奉仕の兆候です。
『ハリ・バクティ・スドーダヤ』によると、イッタム・ブータという言葉の意味は「完全なる至福」です。非人格ブラフマンを悟った超越的な至福感は、牛のひづめの跡にたまったわずかな水に比較されます。人格神を見るという至福の大海とは比較にもなりません。主シュリー・クリシュナの姿は並外れて魅力的で、全ての魅力、全ての至福、全ての味わい(ラサ)を備えています。それらはとても魅力的なため、誰も物質の楽しみ、神秘的な力、解脱と取り替えたいとは思いません。これは特に理論的に説明する必要はありませんが、自分が本来備えている特質に応じて、主シュリー・クリシュナの質に魅了されます。私たちは、主の個性に俗な要素は全くないことを見極めなくてなりません。主の特質全てが至福、知識、永遠性によって完全に満たされているのです。主は無数の特質を備え、献身者たちは自分の気質に応じてそのさまざまな質に魅了されます。
4人の未婚の偉大な献身者サナカ、サナータナ、サナンダ、サナット・クマーラたちは、主の蓮華の御足に捧げられた白檀のペーストが塗られた花やトゥラシーの葉の香りに心を奪われました。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは主の神々しい遊戯に魅了されました。すでに解脱の境地にいた人物ですが、主の遊戯に心を奪われたのです。これは、主の遊戯には俗な質が全くないことを証明しています。同じように、若い牛飼いの乙女たちは主の姿に心を奪われ、ルクミニーは主の輝かしい栄光を聞いて心を奪われました。主クリシュナは幸運の女神の心さえとりこにします。主は、特別な場合に、全ての若い女性たちの心を魅了します。また、年長の女性たちは母性愛から主クリシュナに魅了されます。一方、男性たちは、奉仕と友人関係を通して主に魅力を感じます。
「ハリ」という言葉にはさまざまな意味が含まれていますが、不吉なことを全て取り除き、純粋で超越的な愛情を授けることで献身者たちの心を奪い去る、という意味が主要です。絶望的な苦しみにあっても、主を思い出せばどのような苦しみや不安からでも救われます。主は、純粋な献身者の奉仕の道にある障害を少しずつ取り除き、やがて聞いたり唱えたりする9種類の献身奉仕の結果を授けます。
主は、自分の姿や超越的な特質を示しながら、純粋な献身者の心をとりこにします。それが主の全てを魅了する力です。その魅力ゆえに、心の清い献身者は宗教の4原則に全く関心を示さなくなります。これが、主の魅力的かつ超越的な特質なのです。そして、その表現に「アピ」や「チャ」をつければ、その意味は限りなく増えていきます。サンスクリット語の文法によると、「アピ」には7つの類義語があります。
このシュローカの全ての言葉を解釈することで、純粋な献身者の心を引きつけてやまない主クリシュナの超越的な質を見い出すことができます。
節
harer guṇākṣipta-matir
bhagavān bādarāyaṇiḥ
adhyagān mahad ākhyānaṁ
nityaṁ viṣṇu-jana-priyaḥ
bhagavān bādarāyaṇiḥ
adhyagān mahad ākhyānaṁ
nityaṁ viṣṇu-jana-priyaḥ
訳語
hareḥ—人格神、ハリの; guṇa—超越的な特質; ākṣipta—~に没頭して; matiḥ—心; bhagavān—力強い; bādarāyaṇiḥ—ヴィヤーサデーヴァの子; adhyagāt—研究に励んだ; mahat—偉大な; ākhyānam—物語; nityam—定期的に; viṣṇu-jana—主の献身者; priyaḥ—最愛の。
翻訳
シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァの息子であるシュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、超越的な力を備えていただけではない。主の献身者にとって最愛の人物だったのである。こうして、彼はこの偉大な物語『シュリーマド・バーガヴァタム』の研究に取り組んだ。
解説
『ブラフマ・ヴァイヴァルタ・プラーナ』によると、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、母親の胎内にいたときすでに解脱の境地にありました。シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは、その子が生まれても家にはとどまらないことを知っていました。そこでヴィヤーサデーヴァは、その子が主の神聖な活動に魅了されるよう、バーガヴァタムの大意を彼の心に注ぎました。生まれた後も、実際にバーガヴァタムを唱えることでその子をさらに教育しました。
一般的に言えるのは、解脱した魂は非人格のブラフマンに執着しているということであり、それは至高の完全体と一体化する一元論的な考えに基づいています。しかし、ヴィヤーサデーヴァのように純粋な献身者と交流すれば、解脱した魂でさえ、主の超越的な質に魅了されるようになります。シュリー・ナーラダの慈悲を授かったシュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは、『シュリーマド・バーガヴァタム』という素晴らしい叙事詩を語ることができ、シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァの慈悲により、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはその内容を理解することができました。主の崇高な質は非常に魅力的で、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは非人格的ブラフマンに完全に没頭していた境地から無執着になり、積極的に主の人物としての行動を受け入れるようになりました。
彼は、絶対者の非人格的概念を全て捨て去ったのであり、至高主には姿も人格もないと考えて時間を無駄にしてしまった、と考えました。言い換えれば、非人格的な姿よりも優れた個人的な姿に超越的な至福を感じたということです。それ以来、主の献身者であるヴィシュヌ・ジャナは彼を愛しく思うようになったことは言うまでもなく、彼もヴィシュヌ・ジャナたちを愛しく感じるようになりました。生命体の個性を消してしまうのではなく、主の個人的な召使いになることを望んでいる献身者は、非人格論者を特に好んではいません。また非人格論者も至高主と一体になりたいと思っていますから、主の献身者の真価が分かりません。このように、太古の昔からこの2種類の超越的な巡礼者たちはときに競い合うことがありました。つまり両者は、神に対する究極的な人格と非人格という認識の違いによって、お互いを避けてきたということです。ですから、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーも献身者にはそれほど好意を抱いていなかったようです。しかし、自ら主を深く瞑想する献身者になったために、ヴィシュヌ・ジャナとの神聖な交流を望むようになり、また自らバーガヴァタになったことから、ヴィシュヌ・ジャナたちも彼との交流を望むようになりました。こうして父と子は、ブラフマンに関する超越的な知識を悟った後、至高主の個人としての姿を一心に思うようになりました。このシュローカは、なぜシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーがバーガヴァタムの話題に心を奪われるようになったのか、という質問に答えています。
節
parīkṣito ’tha rājarṣer
janma-karma-vilāpanam
saṁsthāṁ ca pāṇḍu-putrāṇāṁ
vakṣye kṛṣṇa-kathodayam
janma-karma-vilāpanam
saṁsthāṁ ca pāṇḍu-putrāṇāṁ
vakṣye kṛṣṇa-kathodayam
訳語
parīkṣitaḥ—パリークシット王の; atha—このように; rājarṣeḥ—王の中のリシであった王; janma—誕生; karma—活動; vilāpanam—救命; saṃsthām—世界の放棄; ca—そして; pāṇḍu-putrāṇām—パーンドゥの息子たち; vakṣye—私は語ろう; kṛṣṇa-kathā-udayam—至高人格神、クリシュナにまつわる崇高な話を生じさせるものごと。
翻訳
スータ・ゴースヴァーミーは、シャウナカを筆頭とするリシたちに語りかけた。「ではこれから、主シュリー・クリシュナにまつわる超越的な話を、そして王の中の聖人であるパリークシット王の誕生、行動と救いについて、そしてパーンドゥの息子たちが俗世の身分を放棄したことについて話を始めよう」
解説
主クリシュナは堕落した魂たちにとても優しいお方であり、さまざまな生物の中に自ら降誕し、日々の活動を共にします。古いものであろうと新しいものであろうと、主の行動にまつわる歴史的事実は、主の神聖な話として理解しなくてはなりません。もしもクリシュナに関係がなければ、プラーナや『マハーバーラタ』のような補足的文献は、ただの物語や史実にすぎません。しかしクリシュナが関係していれば神聖な話になり、それを聞けばすぐに主と超越的に結ばれます。『シュリーマド・バーガヴァタム』もプラーナのひとつですが、このプラーナの特筆すべき重要性は、主の行動が中心であって、単なる補足的な史実ではない、という点にあります。ゆえに『シュリーマド・バーガヴァタム』は、主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブによって純粋無垢なプラーナとして勧められています。『バーガヴァタ・プラーナ』を読んでいても知性に欠ける献身者はすぐに第10巻から読み始め、それまでの9巻を理解せずに、主が示した行為の描写を先に楽しもうとします。1巻から9巻まで描写されているのはクリシュナと無関係のことだと誤解しているのであり、賢明さよりもその愚かさゆえに、第10巻を好んで読みます。ここではこのような読者に、バーガヴァタムの1巻から9巻は、第10巻と同じくらい重要であると教えています。他の9巻の意味を深く知りもせずに、第10巻を読むべきではありません。クリシュナとパーンダヴァのような純粋な献身者たちは同じ境地にいます。クリシュナがラサを楽しむところには必ず献身者たちもいますし、パーンダヴァのような純粋な献身者もクリシュナといつも一緒にいます。献身者と主は結ばれており、切り離すことはできません。ですから、両者にまつわる話はどれもクリシュナ・カター、すなわち主の話題と言われています。
節
yadā mṛdhe kaurava-sṛñjayānāṁ
vīreṣv atho vīra-gatiṁ gateṣu
vṛkodarāviddha-gadābhimarśa-
bhagnoru-daṇḍe dhṛtarāṣṭra-putre
vīreṣv atho vīra-gatiṁ gateṣu
vṛkodarāviddha-gadābhimarśa-
bhagnoru-daṇḍe dhṛtarāṣṭra-putre
bhartuḥ priyaṁ drauṇir iti sma paśyan
kṛṣṇā-sutānāṁ svapatāṁ śirāṁsi
upāharad vipriyam eva tasya
jugupsitaṁ karma vigarhayanti
kṛṣṇā-sutānāṁ svapatāṁ śirāṁsi
upāharad vipriyam eva tasya
jugupsitaṁ karma vigarhayanti
訳語
yadā—~の時; mṛdhe—戦場で; kaurava—ドリタラーシュトラ陣営; sṛñjayānām—パーンダヴァ陣営の; vīreṣu—兵士たちの; atho—このように; vīra-gatim—兵士にふさわしい行き先; gateṣu—手に入れて; vṛkodara—ビーマ(パーンダヴァ兄弟の次男); āviddha—打たれて; gadā—戦闘棒で; abhimarśa—嘆いている; bhagna—砕かれて; uru-daṇḍe—脊髄; dhṛtarāṣṭra-putre—ドリタラーシュトラ王の息子; bhartuḥ—君主の; priyam—喜んでいる; drauṇiḥ—ドローナーチャーリャの息子; iti—このように; sma—~になるだろう; paśyan—見ている; kṛṣṇā—ドラウパディー; sutānām—息子たちの; svapatām—眠っている間に; śirāṃsi—頭; upāharat—戦果として届けた; vipriyam—喜んでいる; eva—~のような; tasya—彼の; jugupsitam—極悪非道な; karma—行為; vigarhayanti—同意しない。
翻訳
カウラヴァとパーンダヴァ両陣営の兵士がクルクシェートラの戦場に没し、死者となった兵士たちが各自にふさわしい行き先にたどり着き、ドリタラーシュトラの息子はビーマセーナの戦闘棒で脊髄を打ち砕かれ、悲嘆に暮れていた。そこへ、ドローナーチャーリャの息子[アシュヴァッターマー]が、ドラウパディーの5人の息子の頭を手に現れた。愚かなことに、この男は君主を喜ばせようと、眠っていた5人の息子たちの首を切り落として戦果のつもりで持ってきたのである。しかしドゥルヨーダナはそのような極悪非道な行為を認めず、全く喜ばなかった。
解説
『シュリーマド・バーガヴァタム』に登場する主シュリー・クリシュナにまつわる超越的な話題は、主が『バガヴァッド・ギーター』の中で自らについて語ったクルクシェートラの戦争が終わった時点から始まります。つまり『バガヴァッド・ギーター』も『シュリーマド・バーガヴァタム』も、主クリシュナにまつわる超越的な話題だということです。ギーターはクリシュナが自ら語ったもの、そしてバーガヴァタムも主について語られているものですから、両方ともクリシュナ・カター、すなわちクリシュナの話題です。主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブは、このふたつのクリシュナ・カターが、主の指示通りに人々に伝わることを望みました。主クリシュナ・チャイタニヤは、献身者を装って降誕したクリシュナ自身でしたので、主クリシュナとシュリー・クリシュナ・チャイタニヤ・マハープラブの説明は同じです。主チャイタニヤは、インドに生まれた全ての人がこのクリシュナ・カターを真剣に学んで理解し、その内容を完全に悟った後、世界各国の人々にその崇高なメッセージを広めるよう望みました。それが実現されるとき、嘆き悲しむ地球の住民は、待ち望んでいた平和と繁栄を手に入れるのです。
節
mātā śiśūnāṁ nidhanaṁ sutānāṁ
niśamya ghoraṁ paritapyamānā
tadārudad vāṣpa-kalākulākṣī
tāṁ sāntvayann āha kirīṭamālī
niśamya ghoraṁ paritapyamānā
tadārudad vāṣpa-kalākulākṣī
tāṁ sāntvayann āha kirīṭamālī
訳語
mātā—その母親; śiśūnām—子どもたちの; nidhanam—虐殺; sutānām—息子たちの; niśamya—聞いた後; ghoram—恐ろしい; paritapyamānā—嘆き悲しんでいる; tadā—そのとき; arudat—泣きだした; vāṣpa-kala-ākula-akṣī—目に涙を浮かべて; tām—彼女の; sāntvayan—なだめている; āha—言った; kirīṭamālī—アルジュナ。
翻訳
5人のパーンダヴァ兄弟の母親ドラウパディーは、子どもたちの虐殺の知らせを聞いて泣き崩れた。かけがえのないものを失った妻に、アルジュナは次のように語りかけた。
節
tadā śucas te pramṛjāmi bhadre
yad brahma-bandhoḥ śira ātatāyinaḥ
gāṇḍīva-muktair viśikhair upāhare
tvākramya yat snāsyasi dagdha-putrā
yad brahma-bandhoḥ śira ātatāyinaḥ
gāṇḍīva-muktair viśikhair upāhare
tvākramya yat snāsyasi dagdha-putrā
訳語
tadā—そのときにこそ; śucaḥ—悲しみの涙; te—あなたの; pramṛjāmi—ぬぐい去るだろう; bhadre—高貴な淑女よ; yat—のとき; brahma-bandhoḥ—堕落したブラーフマナの; śiraḥ—頭; ātatāyinaḥ—侵害者; gāṇḍīva-muktaiḥ—ガーンディーヴァという名の弓で打ち落とした; viśikhaiḥ—矢で; upāhare—あなたに捧げよう; tvā—あなた自身; ākramya—その上に乗って; yat—それ; snāsyasi—沐浴する; dagdha-putrā—子どもたちを荼毘に付した後。
翻訳
淑女よ。あのブラーフマナの首を我が愛弓ガーンディーヴァで射落とし、そなたに捧げよう。そのとき、いたわりの言葉と共に、その悲しみの涙をぬぐい去ってやろう。そしてそなたは子どもたちを荼毘に付した後、その男の頭の上に立って沐浴するがよい。
解説
放火する者、毒を盛る者、凶器を手に急襲する者、財産や農耕地を強奪する者、人妻をかどわかす者、そのような敵は侵害者と呼ばれます。そのような侵害者は、ブラーフマナであろうが、ブラーフマナの子であろうが、どのような事情があっても罰せられなくてはなりません。アルジュナはアシュヴァッターマーという侵害者の首を切り落とす約束をしましたが、彼がブラーフマナの息子であることを承知した上でのことです。しかし、いわゆるブラーフマナと呼ばれる者が虐殺者に落ちぶれれば、それなりに対応すべきであり、そう対応したからといって、悪人と決まったブラーフマナの息子を殺す罪をかぶることはありません。
節
iti priyāṁ valgu-vicitra-jalpaiḥ
sa sāntvayitvācyuta-mitra-sūtaḥ
anvādravad daṁśita ugra-dhanvā
kapi-dhvajo guru-putraṁ rathena
sa sāntvayitvācyuta-mitra-sūtaḥ
anvādravad daṁśita ugra-dhanvā
kapi-dhvajo guru-putraṁ rathena
訳語
iti—このように; priyām—最愛の者に; valgu—優しい; vicitra—さまざまな; jalpaiḥ—言葉によって; saḥ—彼は; sāntvayitvā—満足させている; acyuta-mitra-sūtaḥ—友人と御者となった完全無欠の主によって導かれているアルジュナ; anvādravat—追った; daṃśitaḥ—カヴァチャで守られて; ugra-dhanvā—恐るべき武器を手に; kapi-dhvajaḥ—アルジュナ; guru-putram—軍学の師の息子; rathena—戦闘馬車に乗っている。
翻訳
無二の友であり、また戦闘馬車の御者となった完全無欠の主に導かれたアルジュナは、最愛の女性の心をそのように癒した。そして、自分の軍師の息子、アシュヴァッターマーを追撃するために甲冑をまとい、恐ろしい武器を手にして戦闘馬車に乗り込んだ。
節
tam āpatantaṁ sa vilakṣya dūrāt
kumāra-hodvigna-manā rathena
parādravat prāṇa-parīpsur urvyāṁ
yāvad-gamaṁ rudra-bhayād yathā kaḥ
kumāra-hodvigna-manā rathena
parādravat prāṇa-parīpsur urvyāṁ
yāvad-gamaṁ rudra-bhayād yathā kaḥ
訳語
tam—彼を; āpatantam—恐ろしい形相で近づいてくる; saḥ—彼は; vilakṣya—見ている; dūrāt—遠距離から; kumāra-hā—王子たちの殺害者; udvigna-manāḥ—動揺して; rathena—馬車に; parādravat—逃げた; prāṇa—命; parīpsuḥ—守るために; urvyām—ものすごい速度で; yāvat-gamam—~のように逃げた; rudra-bhayāt—シヴァを恐れて; yathā—のように; kaḥ—ブラフマー(あるいはアルカハ、スーリャ)。
翻訳
王子たちを殺したアシュヴァッターマーは、驚くべき速さで彼方から自分をめがけて近づいてくるアルジュナを見て、かつてブラフマーがシヴァを恐れて逃げたように、慌てふためいて馬車に飛び乗り、命惜しさに逃げ出した。
解説
プラーナには、「カハ」あるいは「アルカハ」についてふたつの引用文があります。「カハ」はブラフマーを指します。かつてブラフマーは自分の娘に魅せられ、追い求めたことがあります。激怒した主シヴァが三つ叉の槍でブラフマーを攻撃すると、ブラフマーは身の危険を感じて逃げ出しました。「アルカハ」については『ヴァーマナ・プラーナ』に記載があります。ヴィデュンマーリーという名の悪魔が、太陽の裏側を飛べる黄金の飛行船を授かったことがあります。その飛行船のまばゆい光りのために、夜が消滅しました。これに怒った太陽神は激しい敵意を込めた光を発し、その飛行船を溶かしました。さらに、この出来事に激怒した主シヴァが太陽神を攻撃します。太陽神は逃げ、やがてカーシー(ヴァーラーナシー)まで辿り着きました。以来、その場所はローラールカという名で知られるようになりました。
節
yadāśaraṇam ātmānam
aikṣata śrānta-vājinam
astraṁ brahma-śiro mene
ātma-trāṇaṁ dvijātmajaḥ
aikṣata śrānta-vājinam
astraṁ brahma-śiro mene
ātma-trāṇaṁ dvijātmajaḥ
訳語
yadā—~の時; aśaraṇam—自分を守る他の方法がなく; ātmānam—自分自身; aikṣata—見た; śrānta-vājinam—馬が疲れて; astram—武器; brahma-śiraḥ—最上の、あるいは究極の(原子力の); mene—使った; ātma-trāṇam—自分を守るためだけに; dvija-ātma-jaḥ—ブラーフマナの息子。
翻訳
ブラーフマナの息子[アシュヴァッターマー]は馬が疲れ果てた様子を見て、身を守るには究極の武器であるブラフマーストラ[核兵器]を使う以外にないと考えた。
解説
他に手の打ちようがないとき、すなわち代わりの手段がない場合に限り、ブラフマーストラと呼ばれる核兵器が使用されます。ドヴィジャートマジャハという言葉はこの節で重要な意味を持っています。アシュヴァッターマーはドローナーチャーリャの息子ではあったのですが、正しい質を備えたブラーフマナではなかったからです。最も賢い人物はブラーフマナと呼ばれるのですが、それは世襲の称号ではありません。アシュヴァッターマーはかつてブラフマ・バンドゥ、すなわちブラーフマナの友人、と呼ばれていました。ブラーフマナの友人だとしても、資格を持つブラーフマナということではありません。ブラーフマナの友人あるいは息子であっても、十分な質を備えてこそブラーフマナと呼ばれるのであって、そうでなければその呼称はふさわしくありません。アシュヴァッターマーの決断は未熟だったため、この節で意図的にブラーフマナの息子と呼ばれたのでした。
節
athopaspṛśya salilaṁ
sandadhe tat samāhitaḥ
ajānann api saṁhāraṁ
prāṇa-kṛcchra upasthite
sandadhe tat samāhitaḥ
ajānann api saṁhāraṁ
prāṇa-kṛcchra upasthite
訳語
atha—こうして; upaspṛśya—浄化のために触れている; salilam—水; sandadhe—そのマントラを唱えた; tat—その; samāhitaḥ—意識を集中して; ajānan—知らずに; api—であるのに; saṃhāram—取り消す; prāṇa-kṛcchre—命が脅かされて; upasthite—そのような状態に置かれて。
翻訳
身の危険を感じたアシュヴァッターマーは、その兵器を無効にする手段を知らなかったにも関わらず、身を清めるために水に触れ、意識を集中して核兵器を放出させるマントラを唱えた。
解説
高次元の行動は物質的であっても、低次元の物質的な行動よりも繊細です。そのような高次元の物質的な活動は、音を浄化させることで力を発揮します。核兵器として作用するマントラを唱える時に、同じ方法が使われました。
節
tataḥ prāduṣkṛtaṁ tejaḥ
pracaṇḍaṁ sarvato diśam
prāṇāpadam abhiprekṣya
viṣṇuṁ jiṣṇur uvāca ha
pracaṇḍaṁ sarvato diśam
prāṇāpadam abhiprekṣya
viṣṇuṁ jiṣṇur uvāca ha
訳語
tataḥ—その直後; prāduṣkṛtam—広められた; tejaḥ—まばゆい光; pracaṇḍam—すさまじい; sarvataḥ—あたり一面に; diśam—方角; prāṇa-āpadam—命を脅かしている; abhiprekṣya—それを見て; viṣṇum—主に向かって; jiṣṇuḥ—アルジュナ; uvāca—言った; ha—過去に。
翻訳
その瞬間、目が眩むような光りがあたり一面を覆い尽くした。そのあまりのすさまじさに、絶体絶命の脅威を感じたアルジュナは、主シュリー・クリシュナに語りかけた。
節
arjuna uvāca
kṛṣṇa kṛṣṇa mahā-bāho
bhaktānām abhayaṅkara
tvam eko dahyamānānām
apavargo ’si saṁsṛteḥ
kṛṣṇa kṛṣṇa mahā-bāho
bhaktānām abhayaṅkara
tvam eko dahyamānānām
apavargo ’si saṁsṛteḥ
訳語
arjunaḥ uvāca—アルジュナが言った; kṛṣṇa—主クリシュナよ; kṛṣṇa—主クリシュナよ; mahā-bāho—全能の主; bhaktānām—献身者の; abhayaṅkara—~の恐れを根絶している; tvam—あなた; ekaḥ—~だけ; dahyamānānām—~で苦しんでいる者たち; apavargaḥ—解脱への道; asi—~です; saṃsṛteḥ—物質的な苦しみのただ中で。
翻訳
アルジュナが言った。「主シュリー・クリシュナよ。あなたは全能の人格神であり、あなたのさまざまなエネルギーは無限です。ですから、あなただけが献身者の心に恐れのない境地を作り出すことができます。物質の苦しみという炎に焼かれている者は、あなたの内だけに解脱の道を見い出すことができます」
解説
アルジュナは、主シュリー・クリシュナの神聖な質をよく知っていました。クリシュナと共に戦ったクルクシェートラの戦場ですでに体験していたからです。ですから、主クリシュナの特質について語るアルジュナの言葉は正しい権威に裏づけられています。クリシュナは全能であり、特に献身者の心に恐れのない境地を作り出すお方です。献身者はいつでも主に守られているため、恐れを知りません。物質存在は山火事の炎に比べられますが、主シュリー・クリシュナの慈悲によって消し止められます。精神指導者は主の慈悲の権化です。ですから、物質存在の炎に焼かれている人は、自己を悟った精神指導者という無色透明の媒体を通して主の慈悲を授かることができます。師は、苦しんでいる人の心に言葉を介して超越的な知識を注ぐことができます。その知識だけが物質存在の炎を消し去ることができるのです。
節
tvam ādyaḥ puruṣaḥ sākṣād
īśvaraḥ prakṛteḥ paraḥ
māyāṁ vyudasya cic-chaktyā
kaivalye sthita ātmani
īśvaraḥ prakṛteḥ paraḥ
māyāṁ vyudasya cic-chaktyā
kaivalye sthita ātmani
訳語
tvam ādyaḥ—あなたは根源の人物です; puruṣaḥ—享楽者; sākṣāt—直接; īśvaraḥ—支配者; prakṛteḥ—物質自然の; paraḥ—超越している; māyām—物質エネルギー; vyudasya—放棄した人物; cit-śaktyā—内的勢力の力によって; kaivalye—純粋かつ永遠の知識と至福の中で; sthitaḥ—置いた; ātmani—自分自身。
翻訳
あなたは、自らを全創造界の中に分散させ、物質エネルギーを超越した根源の人格神であり、ご自身の神聖なエネルギーを使って物質エネルギーの力を消失させました。あなたは、常に永遠の至福と超越的な知識の中に立脚していらっしゃいます。
解説
主は『バガヴァッド・ギーター』の中で、「私の蓮華の御足に身を委ねた者は無知の支配から逃れられる」と仰っています。クリシュナはまさに太陽、そしてマーヤー、すなわち物質存在は暗闇です。太陽の光が差し込めば、暗闇や無知はすぐに消えます。無知の世界から逃れる最善の方法がこの節に示されています。アルジュナは主を根源の人格神、と呼びかけています。主ひとりから他の人格神が拡張されました。あまねく存在する主ヴィシュヌは主クリシュナの完全分身あるいは拡張体です。主は多様なエネルギーを使って自らを無数の主神や生命体の姿に分散させました。しかしシュリー・クリシュナは、万物を発出させた根源の主です。物質界で見られる主のあまねく広がる姿も、主の部分的な現れです。ですからパラマートマーは主の内に包括されます。主は絶対人格神であり、物質創造界を超越したお方なので、この世界の活動とその反動に全く影響されません。暗闇は太陽が作り出す倒錯された現象であり、そのため暗闇の有無は太陽にかかっていますが、太陽そのものに暗闇はひとかけらもありません。太陽が光だけに満たされているように、絶対人格神は物質存在を超越し、至福に満ちあふれています。至福に満たされ、さらに神聖な多様性にも満たされています。超越的な境地には全く動きがない、というのは間違いであり、実はダイナミックな多様性にあふれています。主は、三様式によって複雑化している物質自然とは隔絶した存在です。主はパラマ、または筆頭者であり、だからこそ絶対的と言われるのです。主は多岐にわたるエネルギーを持ち、そのエネルギーを使って物質界を創造、維持、そして破壊します。しかしご自身の住処では、全てが永遠で絶対的です。世界は単なるエネルギーや強大な力によって自ら動いているのではなく、全エネルギーを支配する全能な存在によって動かされているのです。
節
sa eva jīva-lokasya
māyā-mohita-cetasaḥ
vidhatse svena vīryeṇa
śreyo dharmādi-lakṣaṇam
māyā-mohita-cetasaḥ
vidhatse svena vīryeṇa
śreyo dharmādi-lakṣaṇam
訳語
saḥ—その超越性; eva—確かに; jīva-lokasya—束縛された生命体の; māyā-mohita—幻想エネルギーによって魅了されて; cetasaḥ—心によって; vidhatse—実行する; svena—あなたによって; vīryeṇa—影響; śreyaḥ—究極の善; dharma-ādi—解脱の4原則; lakṣaṇam—~によって特徴づけられる。
翻訳
しかしなおかつ、物質エネルギーの範囲を超えたお方でありながら、束縛された魂の究極の善のために、宗教などを含む解脱のための4原則に従っておられます。
解説
人格神シュリー・クリシュナは、いわれのない慈悲心から物質界に降誕しますが、自然の三様式に影響されることはありません。永久に物質界の影響を超越しているのです。いわれのない慈悲心から降誕するのは、幻想エネルギーに魅了されている堕落した魂たちを呼び戻すためです。彼らは物質エネルギーに襲われ、もともと自分だけでは楽しめないのに、彼女(マーヤー)の口車に乗せられて物質界を楽しもうとしています。私たちは本来主の永遠の召使なのですが、その立場を忘れてしまうと物質界を楽しもうとします。それが幻想です。主は、楽しもうとするこの間違った偽の感情を根絶するために降誕し、束縛された魂を自分のもとに連れ戻そうとします。それが、堕落してしまった魂に対する主の完璧に慈悲深い特質です。
節
tathāyaṁ cāvatāras te
bhuvo bhāra-jihīrṣayā
svānāṁ cānanya-bhāvānām
anudhyānāya cāsakṛt
bhuvo bhāra-jihīrṣayā
svānāṁ cānanya-bhāvānām
anudhyānāya cāsakṛt
訳語
tathā—こうして; ayam—この; ca—そして; avatāraḥ—化身; te—あなたの; bhuvaḥ—物質界の; bhāra—重荷; jihīrṣayā—取り除くために; svānām—友人たちの; ca ananya-bhāvānām—そして秀でた献身者たちの; anudhyānāya—繰り返し思い出すために; ca—そして; asakṛt—心から満足して。
翻訳
こうしてあなたは、世界の苦しみを取り除き、あなたの友人、特にあなたについていつも瞑想している優れた献身者たちを幸せにするために、化身として降誕されます。
解説
主は自分の献身者をひいきしているように見えます。誰でも主と関わりを持っていますし、主は誰に対しても平等です。しかし、仲間や献身者を気にかけるのも事実です。主はあらゆる人々の父です。誰も主の父にはなれませんし、主の子どもにもなれません。献身者は主の親族として、またさまざまな関係を通して結ばれています。これこそ主の超越的な遊戯です。しかし、俗にいう父親やその他の関係とはなんの関係もありません。先に説明したように、主は物質自然の様式を超えているお方であり、献身奉仕をする親族や仲間たちと主の間の関係に俗な質などありません。
節
kim idaṁ svit kuto veti
deva-deva na vedmy aham
sarvato mukham āyāti
tejaḥ parama-dāruṇam
deva-deva na vedmy aham
sarvato mukham āyāti
tejaḥ parama-dāruṇam
訳語
kim—何か; idam—これ; svit—来るのか; kutaḥ—どこから; vā iti—どちらも; deva-deva—神々の主よ; na—ではない; vedmi—私は知っている; aham—私; sarvataḥ—周囲に; mukham—方角; āyāti—~からやってくる; tejaḥ—光; parama—非常に; dāruṇam—危険な。
翻訳
神々の主よ。この険悪な光が、なぜあたり一面を覆い尽くしているのでしょうか。いったいどこから放出されているのか、私には分かりません。
解説
人格神に語りかけるときにはいつでも、相応の敬意のこもった祈りを捧げた後でなくてはなりません。それが決まりであり、シュリー・アルジュナも、主と親友の仲ではありましたが、その決まりに従って主に語りかけました。
節
śrī-bhagavān uvāca
vetthedaṁ droṇa-putrasya
brāhmam astraṁ pradarśitam
naivāsau veda saṁhāraṁ
prāṇa-bādha upasthite
vetthedaṁ droṇa-putrasya
brāhmam astraṁ pradarśitam
naivāsau veda saṁhāraṁ
prāṇa-bādha upasthite
訳語
śrī-bhagavān—至高人格神; uvāca—言った; vettha—私から知れ; idam—これ; droṇa-putrasya—ドローナの息子の; brāhmam astram—ブラーフマ(核)兵器の聖歌; pradarśitam—表わされた; na—ではない; eva—~さえ; asau—彼; veda—それを知っている; saṃhāram—取り消し; prāṇa-bādhe—命の死滅; upasthite—差し迫っている。
翻訳
至高人格主神が言った。「これはドローナの息子のしわざだ。ブラフマーストラという核兵器のマントラを発したのだが、その光を無効にするすべを知らない。差し迫った死の恐怖から切羽詰まってしでかしたことだ」
解説
ブラフマーストラという武器は、原子エネルギーを使う現代の核兵器に似ています。原子エネルギーは核反応による燃焼によって発生し、ブラフマーストラも同じように機能して放射線に似た強烈な熱を発生させます。異なる点は、原子爆弾が粗雑な核兵器である一方、ブラフマーストラは聖歌を唱えて発生させる繊細な武器だという点です。これは別次元の科学であり、ずっと昔にバーラタ・ヴァルシャの地で使われていました。マントラを唱えるという繊細な科学もやはり物質によるものですが、現代の物質科学者には未知の世界です。しかし繊細ではあっても、物質科学は物質的であり、精神的とは言えません。一方、より繊細で精神的な方法と直接関連しています。マントラを唱える者は、武器を発生させると同時に、それを無効にする方法も知っていました。それが完璧な知識というものです。ところが、ドローナーチャーリャの息子は、この繊細な武器を作り出しはしたものの、無効にする方法を知りませんでした。追い詰められ、死の恐怖ゆえにこの武器を取り出したのですから、不適切であり、同時に宗教原則からも逸脱していました。ブラーフマナの息子ならばこのようにたくさんの間違いを犯すべきではなく、またブラーフマナとしての義務を無視してしまったために、主に罰せられる定めにありました。
節
na hy asyānyatamaṁ kiñcid
astraṁ pratyavakarśanam
jahy astra-teja unnaddham
astra-jño hy astra-tejasā
astraṁ pratyavakarśanam
jahy astra-teja unnaddham
astra-jño hy astra-tejasā
訳語
na—~ではない; hi—確かに; asya—それの; anyatamam—別の; kiñcit—何でも; astram—武器; prati—反撃する; avakarśanam—反動の; jahi—それを抑える; astra-tejaḥ—この武器の光; unnaddham—非常に力強い; astra-jñaḥ—軍事科学に熟達した; hi—実際のところ; astra-tejasā—お前の武器の力によって。
翻訳
アルジュナよ。この武器に対抗するには別のブラフマーストラを使うしかない。君は兵法に長けているから、自分の武器の力でこの光を打ち消すのだ。
解説
原子爆弾に対抗できる武器はありません。しかし繊細な科学を使えば、ブラフマーストラの動きを制御でき、当時の軍事学に長けている兵士はそのブラフマーストラを撃退することができました。ドローナーチャーリャの息子はその方法を知らなかったため、アルジュナは自分の武器で対抗するよう助言を受けたのでした。
節
sūta uvāca
śrutvā bhagavatā proktaṁ
phālgunaḥ para-vīra-hā
spṛṣṭvāpas taṁ parikramya
brāhmaṁ brāhmāstraṁ sandadhe
śrutvā bhagavatā proktaṁ
phālgunaḥ para-vīra-hā
spṛṣṭvāpas taṁ parikramya
brāhmaṁ brāhmāstraṁ sandadhe
訳語
sūtaḥ—スータ・ゴースヴァーミー; uvāca—言った; śrutvā—聞いた後; bhagavatā—人格神によって; proktam—言われたこと; phālgunaḥ—シュリー・アルジュナの別名; para-vīra-hā—敵の兵士の殺戮者; spṛṣṭvā—触れた後; āpaḥ—水; tam—主を; parikramya—周りを回っている; brāhmam—至高主; brāhma-astram—至上の武器; sandadhe—発射した。
翻訳
シュリー・スータ・ゴースヴァーミーが言った。「人格神の助言を聞いたアルジュナは、身を清めるために水に触れ、主シュリー・クリシュナの周りを歩いた後、別のブラフマーストラを撃退するためにブラフマーストラを発射した。」
節
saṁhatyānyonyam ubhayos
tejasī śara-saṁvṛte
āvṛtya rodasī khaṁ ca
vavṛdhāte ’rka-vahnivat
tejasī śara-saṁvṛte
āvṛtya rodasī khaṁ ca
vavṛdhāte ’rka-vahnivat
訳語
saṃhatya—~の結合によって; anyonyam—互いに; ubhayoḥ—両方の; tejasī—その光; śara—武器; saṃvṛte—覆っている; āvṛtya—覆っている; rodasī—天空全体; kham ca—大気圏外も; vavṛdhāte—増大している; arka—太陽球体; vahni-vat—火のように。
翻訳
ふたつのブラフマーストラが融合したとき、太陽のような巨大な火の輪が大気圏外と全惑星の天空を覆い尽くした。
解説
ブラフマーストラの閃光が放出した熱は、宇宙破壊時に太陽の中に作り出される火に似ていました。原子エネルギーの放射熱は、ブラフマーストラが作る熱と比べれば取るに足らないほどのものです。最大級の原子爆弾はひとつの惑星を破壊しますが、ブラフマーストラが作り出す熱は全宇宙を破壊することができます。その違いを比較するため、宇宙破壊時に放出される熱として表現されています。
節
dṛṣṭvāstra-tejas tu tayos
trīl lokān pradahan mahat
dahyamānāḥ prajāḥ sarvāḥ
sāṁvartakam amaṁsata
trīl lokān pradahan mahat
dahyamānāḥ prajāḥ sarvāḥ
sāṁvartakam amaṁsata
訳語
dṛṣṭvā—そのように見ている; astra—武器; tejaḥ—熱; tu—しかし; tayoḥ—両方の; trīn—3; lokān—惑星; pradahat—燃えている; mahat—ひどく; dahyamānāḥ—焼けている; prajāḥ—住民; sarvāḥ—いたるところ; sāṃvartakam—宇宙の破壊時期に全てを荒廃させる火の名前; amaṃsata—考え始めた。
翻訳
三界の住人たちは、ふたつの武器が作り出した熱を浴びて、宇宙破壊時に発生するサーンヴァルタカの火を連想した。
解説
この節の三界とは、宇宙の上位、下位と中位を指しています。ブラフマーストラは地上で放出されたのですが、ふたつの武器が合体して出現した熱は全宇宙を包み込んだため、全ての惑星の住人はすさまじい熱を感じ、サーンヴァルタカの火の熱と比べました。この節の言葉から分かるように、知性のない物質主義者が言う、どの惑星にも住人はいない、という考えは間違っています。
節
prajopadravam ālakṣya
loka-vyatikaraṁ ca tam
mataṁ ca vāsudevasya
sañjahārārjuno dvayam
loka-vyatikaraṁ ca tam
mataṁ ca vāsudevasya
sañjahārārjuno dvayam
訳語
prajā—一般大衆; upadravam—騒動; ālakṣya—それを見て; loka—惑星; vyatikaram—破壊; ca—もまた; tam—それ; matam ca—そしてその意見; vāsudevasya—ヴァースデーヴァ、シュリー・クリシュナの; sañjahāra—破棄した; arjunaḥ—アルジュナ; dvayam—両方の武器。
翻訳
人々の混乱する様子と迫り来る惑星の滅亡を見たアルジュナは、主シュリー・クリシュナの望みを満たすために、ふたつのブラフマーストラを消滅させた。
解説
現代の原子爆弾が世界を破滅させるという考えは、幼稚な想像です。まず、原子エネルギーには世界を破壊するほどの力はありません。次に、至高主の意志や許しがなければ何も創造されず破壊されないため、世界の破壊は究極的には至高主の最終判断にかかっていると言えます。自然の法則が究極の力を持つ、と考えることも愚かです。物質自然の法則は主の指示で動いているのであり、それは『バガヴァッド・ギーター』でも確証されています。主は、自然の法則は自身の管理下で機能していると述べています。世界は主の意志によってのみ破壊されるのであり、取るに足らない政治家の気まぐれで決まるのではありません。主シュリー・クリシュナは、ドラウニとアルジュナが発射した武器が取り消されることを望み、アルジュナはその意志をすぐさま実行しました。同じように、全能の主には数多くの代表者がおり、主の意志ひとつで、主の望みは遂行されます。
節
tata āsādya tarasā
dāruṇaṁ gautamī-sutam
babandhāmarṣa-tāmrākṣaḥ
paśuṁ raśanayā yathā
dāruṇaṁ gautamī-sutam
babandhāmarṣa-tāmrākṣaḥ
paśuṁ raśanayā yathā
訳語
tataḥ—そこで直ちに; āsādya—捕らえた; tarasā—機敏に; dāruṇam—危険な; gautamī-sutam—ガウタミーの息子; babandha—縛りあげた; amarṣa—怒って; tāmra-akṣaḥ—赤褐色の目で; paśum—動物; raśanayā—紐で; yathā—あたかも~のように。
翻訳
アルジュナの眼球は灼熱した銅のように怒気に燃えていた。そして、またたくまにガウタミーの息子を捕らえたアルジュナは、まるで動物を扱うように彼を紐で縛り上げた。
解説
アシュヴァッターマーの母であるクリピーは、ガウタマの家族に生まれています。このシュローカの要点は、アシュヴァッターマーが捕らえられ、まるで動物のように紐で縛られたことにあります。シュリーダラ・スヴァーミーは、アルジュナはこのブラーフマナの息子を、自分の義務(ダルマ)として、動物のように捕獲しなくてはならなかった、と説明しています。シュリーダラ・スヴァーミーのこの説明は、シュリー・クリシュナの言葉でのちに確証されています。アシュヴァッターマーはドローナーチャーリャとクリピーという正統な両親を持つ立場にありましたが、愚劣な状態に自らを堕落させてしまったため、ブラーフマナではなく動物のように扱うことは適切な処罰だったのです。
節
śibirāya ninīṣantaṁ
rajjvā baddhvā ripuṁ balāt
prāhārjunaṁ prakupito
bhagavān ambujekṣaṇaḥ
rajjvā baddhvā ripuṁ balāt
prāhārjunaṁ prakupito
bhagavān ambujekṣaṇaḥ
訳語
śibirāya—基地へ向かう途中で; ninīṣantam—彼を連行している間; rajjvā—紐で; baddhvā—縛られた; ripum—その敵; balāt—力づくで; prāha—言った; arjunam—アルジュナに; prakupitaḥ—怒って; bhagavān—人格神; ambuja-īkṣaṇaḥ—蓮華のような目で見る人。
翻訳
アルジュナは、アシュヴァッターマーを縛り上げた後、基地まで連行したいと考えていた。怒りの表情を浮かべた人格神シュリー・クリシュナは、蓮華のような目で見つめながら、アルジュナに話しかけた。
解説
この節では、アルジュナも主シュリー・クリシュナも怒っている、と表現されていますが、アルジュナの目は灼熱した銅の眼球に、そして主の目は蓮華の花に例えられています。これは、アルジュナと主の怒りの質が同じレベルではないことを示しています。主は超越的なお方ですから、どのような境地にあっても絶対的です。主の怒りは、物質自然の様式の中にいる束縛された生命体の怒りとは次元が違います。主は絶対的なお方ですから、主の怒りも喜びも同じです。主の怒りは物質自然の様式から表現されるのではありません。献身者に対する主の好意の表れにすぎません。なぜならそれが主の超越的な特質だからです。ゆえに、主が怒ったとしても、その怒りが向けられた相手も祝福を受けます。主はどのような状況にあっても不変不動のお方なのです。
節
mainaṁ pārthārhasi trātuṁ
brahma-bandhum imaṁ jahi
yo ’sāv anāgasaḥ suptān
avadhīn niśi bālakān
brahma-bandhum imaṁ jahi
yo ’sāv anāgasaḥ suptān
avadhīn niśi bālakān
訳語
mā enam—彼には決して~ではない; pārtha—アルジュナよ; arhasi—~べきである; trātum—自由にする; brahma-bandhum—ブラーフマナの親族; imam—彼を; jahi—殺す; yaḥ—彼(~である者); asau—それら; anāgasaḥ—過失のない; suptān—眠っている間に; avadhīt—殺した; niśi—夜; bālakān—子どもたち。
翻訳
主シュリー・クリシュナが言った:アルジュナよ。このブラーフマナの親族[ブラフマ・バンドゥ]に情けなどかけることはない。あどけない5人の息子を、しかも眠っているときに殺したのだから。
解説
ブラフマ・バンドゥという言葉には重要な意味があります。ブラーフマナの家庭に生まれたのに、ブラーフマナと呼ぶにふさわしい資質を持たない者をブラフマナの親族と呼び、ブラーフマナとは呼びません。高等裁判所の裁判官の息子はもちろん裁判官ではありませんが、高等裁判所の裁判官の親族と呼ぶことに問題はありません。ですから、誕生する家庭次第で高等裁判所の裁判官になるわけではないように、生まれながらにしてブラーフマナになるのではなく、ブラーフマナとして必要な資質を得ることでブラーフマナになります。高等裁判所の裁判官の地位がそれなりの資格を持つ人のためにあるように、ブラーフマナの地位を決定するのはその資質にほかなりません。シャーストラは、ブラーフマナの家庭に生まれていなくても、素晴らしい資質を持っている人物であればブラーフマナとして受け入れるべきであり、同じように、ブラーフマナの家庭に生まれてもブラーフマナの資質に欠けていれば、非ブラーフマナ、あるいはもっと妥当な表現としてブラーフマナの親族と呼ぶべきである、と断言しています。全ての宗教原則、ヴェーダの至高権威者である主シュリー・クリシュナが、両者の違いを自ら指摘し、これからのシュローカを通してその理由を述べていきます。
節
mattaṁ pramattam unmattaṁ
suptaṁ bālaṁ striyaṁ jaḍam
prapannaṁ virathaṁ bhītaṁ
na ripuṁ hanti dharma-vit
suptaṁ bālaṁ striyaṁ jaḍam
prapannaṁ virathaṁ bhītaṁ
na ripuṁ hanti dharma-vit
訳語
mattam—不注意の; pramattam—陶酔して; unmattam—狂気; suptam—眠っている; bālam—少年; striyam—女性; jaḍam—愚かな; prapannam—降参した; viratham—自分の戦闘馬車を失った者; bhītam—恐れて; na—~ではない; ripum—敵; hanti—殺す; dharma-vit—宗教原則を知っている者。
翻訳
宗教原則を知っている人物なら、不注意な者、陶酔している者、狂っている者、眠っている者、怖がっている者、自分の戦闘馬車を失った者は殺さない。少年、女性、愚かな生き物、降参した者も殺さない。
解説
宗教原則を知る兵士は、無抵抗の敵を殺しません。昔、戦闘は宗教原則に基づいて行われ、決して感覚満足のためではありませんでした。上記のように、敵が酔っぱらっていたり眠っていたりしていれば、絶対に殺してはなりません。それは宗教戦争の約束事です。昔の戦争は、身勝手な政治的指導者の気まぐれで布告されたことはありません。あらゆる悪行とは無縁の宗教原則に則って実行されました。宗教原則に従って為された暴力は、世間一般で言われている非暴力よりはるかに優れています。
節
sva-prāṇān yaḥ para-prāṇaiḥ
prapuṣṇāty aghṛṇaḥ khalaḥ
tad-vadhas tasya hi śreyo
yad-doṣād yāty adhaḥ pumān
prapuṣṇāty aghṛṇaḥ khalaḥ
tad-vadhas tasya hi śreyo
yad-doṣād yāty adhaḥ pumān
訳語
sva-prāṇān—自分の生活; yaḥ—~である者; para-prāṇaiḥ—他人の生活を犠牲にして; prapuṣṇāti—適切に維持する; aghṛṇaḥ—恥知らずの; khalaḥ—卑劣な; tat-vadhaḥ—彼を殺すこと; tasya—彼の; hi—確かに; śreyaḥ—幸福; yat—それによって; doṣāt—その欠陥によって; yāti—行く; adhaḥ—下に向かって; pumān—人物。
翻訳
他人の生活を食い物にして生きている残酷であこぎな者は、本人のためにも殺されてしかるべきである。さもなければ、自らの行為のために堕落していくばかりである。
解説
「目には目、歯には歯」という制裁措置は、残酷で羞恥心もなく他人の生活を食い物にして生きている人間に対する妥当な懲罰です。政治倫理では、残虐な犯罪人が地獄に落ちないよう死刑を宣告して罰することになっています。殺人犯は殺人行為の代償として、来世で相応の苦しみが課せられますが、国に死刑を宣告されればその苦しみから救われるため、正当な判決と言えます。殺人犯に対する死刑判決はその人間に対する最低限の罰であり、スムリティ・シャーストラには王によって懲罰を受けた者は全ての罪を洗い流し、その結果、天国の惑星に入ることさえできる、と言われています。人類の法典と宗教原則の偉大な権威者であるマヌによると、動物の肉を食糧とすることは、神の元に帰る準備をするのが主要な義務である文化人にふさわしくないため、動物を殺す者でさえ殺人者と見なされます。また、動物を殺す行為は、罪深い者たちによる常習の陰謀であり、その行為に関わる者全てが、結託して殺人を犯す罪人が罰せられるのと同じように罰せられるとも述べています。動物の殺害許可を出す者、動物を殺す者、殺された動物を売る者、動物を料理する者、その食糧の配布に関わる者、そして調理された動物を食べる者、それら全員、自然の法律によって罰せられます。物質科学をどれほど発達させても、誰も生物を作り出すことはできませんから、身勝手な都合で生き物を殺す権利など人間にはありません。動物を食べる者に対して経典が許可しているのは、条件つきのいけにえの儀式だけであり、またその儀式は屠殺場が無制限に作られないよう決められているのであり、動物の屠殺を助長しているわけではありません。経典の中で許されている動物のいけにえは、捧げられる動物にも、動物を食べる者にも、双方に恵みがあります。動物は祭壇で捧げられた後すぐに人間の体に入り、動物を食べる者はさらに忌まわしい罪(社会、国、大衆にあらゆる苦悩をもたらす陰惨な場所である、組織ぐるみで経営された屠殺場が提供する肉を食べること)から救われます。物質界そのものがいつも多種多様な不安に満ちた場所ですから、動物の殺害が助長されれば社会はさらに汚れ、人々は、戦争、疫病、飢饉、その他さまざまな不要の悲劇で苦しめられるようになります。
節
pratiśrutaṁ ca bhavatā
pāñcālyai śṛṇvato mama
āhariṣye śiras tasya
yas te mānini putra-hā
pāñcālyai śṛṇvato mama
āhariṣye śiras tasya
yas te mānini putra-hā
訳語
pratiśrutam—約束された; ca—そして; bhavatā—あなたによって; pāñcālyai—パーンチャーラの王の娘(ドラウパディー)に; śṛṇvataḥ—聴かれた; mama—私個人によって; āhariṣye—私は持ってこなくてはならない; śiraḥ—その頭; tasya—彼の; yaḥ—~である者を; te—あなたの; mānini—考慮する; putra-hā—あなたの子どもたちを殺した者。
翻訳
さらに私は、子どもたちを殺した男の首を持ってくる、とドラウパディー妃に約束した君の言葉をこの耳で聴いた。
節
tad asau vadhyatāṁ pāpa
ātatāyy ātma-bandhu-hā
bhartuś ca vipriyaṁ vīra
kṛtavān kula-pāṁsanaḥ
ātatāyy ātma-bandhu-hā
bhartuś ca vipriyaṁ vīra
kṛtavān kula-pāṁsanaḥ
訳語
tat—ゆえに; asau—この男; vadhyatām—殺されるだろう; pāpaḥ—罪人; ātatāyī—暴行者; ātma—自分の; bandhu-hā—息子たちの殺害者; bhartuḥ—主人の; ca—もまた; vipriyam—満足せずに; vīra—兵士よ; kṛtavān—それを為した者; kula-pāṃsanaḥ—家族の燃えた残り物。
翻訳
この男は殺人犯であり、君の家族を殺害した。それだけではない、自分の主人を失望させている。彼の一族にとっての燃えかすである。今すぐ殺したほうがよい。
解説
この節では、ドローナーチャーリャの息子が、一族の燃えかすとして厳しく非難されています。ドローナーチャーリャの高名は世の崇敬を集めていました。パーンダヴァ兄弟は、この人物が敵方にまわっても常に敬意を払い、アルジュナは戦いが始まる前に敬礼をしています。それは正しい対応ではありますが、ドローナーチャーリャの息子は、再誕者という位の高いドヴィジャには全く似つかわしくない行動をとって自らを堕落させてしまいました。ドローナーチャーリャの息子、アシュヴァッターマーは、眠っていた5人のドラウパディーの息子を殺し、その結果、自分の主人であるドゥルヨーダナを幻滅させました。ドゥルヨーダナは、パーンダヴァ家の眠っていた5人の子を殺すなどという極悪非道な行為を認めたことなどありません。これは、アシュヴァッターマーがアルジュナの家族に対する加害者になったということであり、アルジュナに罰せられて当然でした。シャーストラでは、事前通告なしに攻撃したり、背後から人を殺したり、放火をしたり、また人妻を誘拐する者たちは死をもって償うべきだと述べられています。クリシュナはアルジュナにこのような鉄則を思い起こさせ、アルジュナがそれらに気付き、自分のなすべきことをするように望みました。
節
sūta uvāca
evaṁ parīkṣatā dharmaṁ
pārthaḥ kṛṣṇena coditaḥ
naicchad dhantuṁ guru-sutaṁ
yadyapy ātma-hanaṁ mahān
evaṁ parīkṣatā dharmaṁ
pārthaḥ kṛṣṇena coditaḥ
naicchad dhantuṁ guru-sutaṁ
yadyapy ātma-hanaṁ mahān
訳語
sūtaḥ—スータ・ゴースヴァーミー; uvāca—言った; evam—この; parīkṣatā—試されて; dharmam—義務について; pārthaḥ—シュリー・アルジュナ; kṛṣṇena—主クリシュナに; coditaḥ—促されて; na aicchat—好まなかった; hantum—殺すこと; guru-sutam—自分の師の息子; yadyapi—~であるが; ātma-hanam—子どもたちの殺害者; mahān—非常に偉大な。
翻訳
スータ・ゴースヴァーミーが言った。「アルジュナの宗教原則に対する認識を試そうとしていたクリシュナは、師のドローナーチャーリャの息子を殺すよう仕向けたが、偉大な魂であるアルジュナは、自分の家族を殺した凶悪な人間であったにもかかわらず、アシュヴァッターマーを殺す気にはなれなかった。
解説
アルジュナは疑いなく偉大な魂であり、この節でもそう確証されています。アルジュナはこの状況で、ドローナの息子を殺すようクリシュナに促されていますが、偉大な師の息子の命は殺さずに助けてやるべきだと考えていました。確かにアシュヴァッターマーは、誰の恩恵にもならない非道なことをしでかした無価値な男でしたが、なんと言ってもドローナーチャーリャの息子だったからです。
主シュリー・クリシュナは、アルジュナを励ますことにより、彼が義務をまっとうするかどうか試そうとしていました。アルジュナに義務遂行の力がないわけでも、アルジュナの義務遂行の力を主シュリー・クリシュナが知らなかったわけでもありません。主シュリー・クリシュナは、純粋な献身者に対して、義務感を高めるために献身者を試すことがよくあります。ゴーピーたちも、プラフラーダ・マハーラージャもそのように試されました。全ての純粋な献身者は、主が用意したそれぞれの試練を上手く乗り越えることができます。
節
athopetya sva-śibiraṁ
govinda-priya-sārathiḥ
nyavedayat taṁ priyāyai
śocantyā ātma-jān hatān
govinda-priya-sārathiḥ
nyavedayat taṁ priyāyai
śocantyā ātma-jān hatān
訳語
atha—その後; upetya—到着して; sva—自分の; śibiram—基地; govinda—感覚に活気を与える人物(主シュリー・クリシュナ); priya—愛しい; sārathiḥ—御者; nyavedayat—~に預けた; tam—彼を; priyāyai—愛する人に; śocantyai—~を嘆いていた; ātma-jān—自分の子どもたち; hatān—殺された。
翻訳
アルジュナは基地に帰還した後、御者でもあった親友[シュリー・クリシュナ]と共に、息子たちを殺されて悲嘆にくれていた愛妻に殺人犯を引き渡した。
解説
アルジュナとクリシュナは、無二の友人関係という神聖な絆で結ばれています。『バガヴァッド・ギーター』では、主自ら、アルジュナを最も愛しい友人であると公言しています。全ての生命体が至高主との愛情に支えられた絆を持っており、召使、友人、両親、あるいは恋愛関係の対象として、愛情の絆で結ばれています。自分の絆を築こうと真剣に願い、バクティ・ヨーガの方法を真剣に実行すれば、誰でも精神界で主との交流を楽しむことができます。
節
tathāhṛtaṁ paśuvat pāśa-baddham
avāṅ-mukhaṁ karma-jugupsitena
nirīkṣya kṛṣṇāpakṛtaṁ guroḥ sutaṁ
vāma-svabhāvā kṛpayā nanāma ca
avāṅ-mukhaṁ karma-jugupsitena
nirīkṣya kṛṣṇāpakṛtaṁ guroḥ sutaṁ
vāma-svabhāvā kṛpayā nanāma ca
訳語
tathā—こうして; āhṛtam—引き出された; paśu-vat—動物のように; pāśa-baddham—紐で縛られて; avāk-mukham—言葉を発することなく; karma—行動; jugupsitena—凶悪で; nirīkṣya—見ることで; kṛṣṇā—ドラウパディー; apakṛtam—愚劣なことをした者; guroḥ—教師; sutam—息子; vāma—美しい; svabhāvā—気質; kṛpayā—同情心から; nanāma—お辞儀をした; ca—そして。
翻訳
シュリー・スータ・ゴースヴァーミーが言った。ドラウパディーは、動物のように縛られ、不名誉な惨殺者に落ちぶれた無言のアシュヴァッターマーを見た。そして女性特有の気質や持って生まれた仁愛と育ちの良さゆえ、この男に対してブラーフマナにふさわしい敬意を払った。
解説
アシュヴァッターマーは主に糾弾され、アルジュナによってブラーフマナや教師の息子ではなく、犯罪者として扱われました。しかしこの男と向き合ったとき、シュリーマティー・ドラウパディーは、我が子を殺されたことで深く悲しみ、そして当の殺害者が目の前にいるというのに、ブラーフマナやブラーフマナの息子に対する敬意を示さずにはいられませんでした。これは、女性特有の優しい性質によるものです。女性の意識段階は少年のものとあまり変わらず、男性の持つような判断力に欠けています。アシュヴァッターマーは、ドローナーチャーリャやブラーフマナの息子にふさわしくないことを自ら露呈し、それゆえに最高権威者である主シュリー・クリシュナに糾弾されたのですが、心根の優しい淑女だったドラウパディーは、ブラーフマナに対する礼儀を示さずにはいられませんでした。
今でもヒンドゥー教の家族の女性は、どれほど堕落し、邪悪なブラフマ・バンドゥであったとしても、ブラーフマナ階級に相応の敬意を払います。しかし男性たちは、優れたブラーフマナの家庭に生まれても、シュードラ以下の振る舞いをするブラフマ・バンドゥに厳しく対応するようになりました。
このシュローカで使われている特別な言葉は「生来穏やかで優しい」という意味のvāma-svabhāvāです。気立ての優しい男性や女性は、何でも簡単に受け入れますが、平均的な知性を持つ男性はそうではありません。しかしいずれにしても、分別や判断力を捨ててまで温厚な紳士になるべきではありません。ある物事の真価を知るには、その価値を正しく見極める判断力が必要なのです。女性特有の穏やかさを基準にして、間違ったことを正しいと考えるべきではありません。アシュヴァッターマーは、情の篤い女性には敬われるかもしれませんが、だからといって彼が真正なブラーフマナであるということではありません。
節
uvāca cāsahanty asya
bandhanānayanaṁ satī
mucyatāṁ mucyatām eṣa
brāhmaṇo nitarāṁ guruḥ
bandhanānayanaṁ satī
mucyatāṁ mucyatām eṣa
brāhmaṇo nitarāṁ guruḥ
訳語
uvāca—言った; ca—そして; asahantī—彼女にとって耐えられなかったため; asya—彼の; bandhana—縛られて; ānayanam—彼を連れてくる; satī—献身者; mucyatām mucyatām—彼を自由にしてください; eṣaḥ—この; brāhmaṇaḥ—ブラーフマナ; nitarām—私たちの; guruḥ—教師。
翻訳
ドラウパディーはアシュヴァッターマーが紐で縛られている様を見るに忍びなく、献身的な女性だったことから、こう言った。「今すぐ、この人を自由にしてください。ブラーフマナですから、彼は私たちの精神指導者なのです」
解説
アシュヴァッターマーが目の前に連れてこられ、ブラーフマナにもかかわらず犯罪者のように縛られたみじめな有様で引き出されたのを見たドラウパディーは、特にこのブラーフマナが教師の息子だということもあって、いたたまれない思いになりました。
アルジュナは、アシュヴァッターマーがドローナーチャーリャの息子であることをよく知ったうえで捕らえました。クリシュナも同じように理解していましたが、ふたりとも、ブラーフマナの息子ということは考慮せずにこの殺人者を非難しています。経典では、たとえ教師や精神指導者であっても、その地位にふさわしい資質を持たないことが証明されれば、拒否してしかるべきであると述べられています。グルはアーチャーリャとも呼ばれますが、それはシャーストラのあらゆる真髄を達観し、弟子も同じ道を進めるように導く人物を指します。アシュヴァッターマーは、ブラーフマナあるいは教師としての義務を履行できなかったため、ブラーフマナという高尚な立場から追放されるべき人間でした。この点を考慮して、主シュリー・クリシュナとアルジュナがアシュヴァッターマーを糾弾することは正しい判断でした。しかし、ドラウパディーのような心根の優しい女性は、シャーストラの見解とは違った見方で状況を判断し、慣習を重視するものです。慣習からすれば、アシュヴァッターマーには父親と同様の敬意が捧げられます。なぜなら、一般人は感傷的に考えるため、ブラーフマナの息子なら誰でも本当のブラーフマナだと思いがちだからです。しかし実際はそうではありません。ブラーフマナは資質に基づいて受け入れられるべきであり、ブラーフマナの子だから、という理由だけで受け入れられるべきではありません。
こういう状況にもかかわらず、ドラウパディーは、アシュヴァッターマーをすぐに自由の身にすべきと考えましたが、それは彼女の善良な感情によるものでした。これは、主の献身者は自分の試練にはどんなことでも耐えられても、他人のこととなるとたとえ敵であっても不親切ではいられないという気質を示しています。これが、主の純粋な献身者の特質なのです。
節
sarahasyo dhanur-vedaḥ
savisargopasaṁyamaḥ
astra-grāmaś ca bhavatā
śikṣito yad-anugrahāt
savisargopasaṁyamaḥ
astra-grāmaś ca bhavatā
śikṣito yad-anugrahāt
訳語
sa-rahasyaḥ—機密の; dhanuḥ-vedaḥ—弓術の知識; sa-visarga—放つこと; upasaṃyamaḥ—操ること; astra—武器; grāmaḥ—あらゆる種類の; ca—そして; bhavatā—あなた自身によって; śikṣitaḥ—学んだ; yat—~の人物によって; anugrahāt—~の慈悲。
翻訳
あなたが弓術を学べたのも、秘密の武器を操る極意を学べたのも、ドローナーチャーリャの慈悲を授かったからにほかなりません。
解説
ダヌル・ヴェーダ、または軍事科学には、ヴェーダ・マントラを唱えて秘奥な武器を駆使する極意などが含まれ、数々の秘伝がドローナーチャーリャによって伝授されました。通常の軍事科学では物質的な武器だけが使われますが、さらに緻密な武術になると、ヴェーダ・マントラの力をこめて発射する矢の極意が駆使され、機関銃や原子爆弾のような粗悪で物質的な武器よりも、効果的な力を発揮します。その武器を制御するのはヴェーダ・マントラという神聖な音響を駆使する科学です。『ラーマーヤナ』では、主シュリー・ラーマの父であるマハーラージャ・ダシャラタが、音だけで矢を操っていたことが述べられています。標的を見ずに音だけを聴いて射止めることができたのです。ヴェーダの武器は、現在使われている物質的な武器よりもはるかに緻密な軍事科学です。ドラウパディーは、アルジュナがこの武術を全てアーチャーリャ・ドローナから授かって会得したのだから、その師に恩義を感じてほしいと思いました。そして、ドローナーチャーリャがいなくなった今、その息子は父の代表者でもあります。それが淑女ドラウパディーの言い分でした。一方、厳格なブラーフマナであるドローナーチャーリャが、なぜ軍事科学の師だったのか疑問に思う者もいるかもしれません。しかしブラーフマナは、どんな分野であろうと教師になるべきなのです。学識あるブラーフマナは、教師、聖職者、そして施しを受ける人になるべきです。正しいブラーフマナはそのような職業に就く権限が与えられています。
節
sa eṣa bhagavān droṇaḥ
prajā-rūpeṇa vartate
tasyātmano ’rdhaṁ patny āste
nānvagād vīrasūḥ kṛpī
prajā-rūpeṇa vartate
tasyātmano ’rdhaṁ patny āste
nānvagād vīrasūḥ kṛpī
訳語
saḥ—彼; eṣaḥ—確かに; bhagavān—主人; droṇaḥ—ドローナーチャーリャ; prajā-rūpeṇa—息子のアシュヴァッターマーという姿で; vartate—存在している; tasya—彼の; ātmanaḥ—肉体の; ardham—半分; patnī—妻; āste—生きている; na—ではない; anvagāt—引き受けた; vīrasūḥ—自分の子どもがいたことから; kṛpī—クリパーチャーリャの妹。
翻訳
彼[ドローナーチャーリャ]は、ご自分のご子息を通して今でも確かに生きておられます。奥方のクリピーは、ご子息がいたためにサティーをなさいませんでした。
解説
ドローナーチャーリャの妻であるクリピーは、クリパーチャーリャの姉妹です。経典が夫の良き伴侶と定義する貞節な妻は、子どもがいなければ、死去した夫と共に自ら命を絶つことは正統な行為とされています。しかし、ドローナーチャーリャの妻の場合、夫の代表者とも言える息子がいたためその試練を受け入れませんでした。未亡人は、夫の子どもが生きていれば未亡人と呼ばれているだけの立場にいます。いずれにしても、アシュヴァッターマーは、ドローナーチャーリャの代表者ですから、アシュヴァッターマーを殺すことはドローナーチャーリャを殺すも同然のことでした。それが、アシュヴァッターマーを殺すことに対するドラウパディーの言い分だったのです。
節
tad dharmajña mahā-bhāga
bhavadbhir gauravaṁ kulam
vṛjinaṁ nārhati prāptuṁ
pūjyaṁ vandyam abhīkṣṇaśaḥ
bhavadbhir gauravaṁ kulam
vṛjinaṁ nārhati prāptuṁ
pūjyaṁ vandyam abhīkṣṇaśaḥ
訳語
tat—ゆえに; dharma-jña—宗教原則を熟知している者; mahā-bhāga—最も幸運な人; bhavadbhiḥ—あなた自身によって; gauravam—讃えられて; kulam—家系; vṛjinam—苦痛であるもの; na—ではない; arhati—ふさわしい; prāptum—得るために; pūjyam—崇拝に値する; vandyam—尊い; abhīkṣṇaśaḥ—常に。
翻訳
あなたは宗教原則を知る幸運なお方です。常に尊ばれ、崇拝に値する誉れ高い家族の人々を悲しませるようなことをするのは、あなたにとって好ましいことではありません。
解説
高貴な家族に無礼を働けば、たとえそれが些細なことでも大きな悲しみを引き起こします。ですから、礼儀をわきまえる人なら、崇拝に値する家族との交流においては常に注意を払わなくてはなりません。
節
mā rodīd asya jananī
gautamī pati-devatā
yathāhaṁ mṛta-vatsārtā
rodimy aśru-mukhī muhuḥ
gautamī pati-devatā
yathāhaṁ mṛta-vatsārtā
rodimy aśru-mukhī muhuḥ
訳語
mā—~しない; rodīt—泣かせる; asya—彼の; jananī—母親; gautamī—ドローナの妻; pati-devatā—貞節な; yathā—~のように; aham—私自身; mṛta-vatsā—子どもを失った者; ārtā—苦しんでいる; rodimi—泣いている; aśru-mukhī—目にあふれる涙; muhuḥ—常に。
翻訳
主人よ。どうか、ドローナーチャーリャの奥方を私のように泣かせないでください。私は息子たちを失い、涙に暮れています。あの方も私のように泣き続ける必要はありません。
解説
シュリーマティー・ドラウパディーは同情心の篤い女性でしたから、ドローナーチャーリャの妻を、息子たちを失った自分と同じ苦境に立たせたくありませんでした。母親として、そしてドローナーチャーリャの妻という高貴な立場からそう考えたのです。
節
yaiḥ kopitaṁ brahma-kulaṁ
rājanyair ajitātmabhiḥ
tat kulaṁ pradahaty āśu
sānubandhaṁ śucārpitam
rājanyair ajitātmabhiḥ
tat kulaṁ pradahaty āśu
sānubandhaṁ śucārpitam
訳語
yaiḥ—彼らによって; kopitam—激怒させて; brahma-kulam—ブラーフマナの階級; rājanyaiḥ—管理階級者によって; ajita—無制限の; ātmabhiḥ—自分自身で; tat—それ; kulam—家族; pradahati—焼き尽くされて; āśu—またたくまに; sa-anubandham—家族たちと共に; śucā-arpitam—悲しみに打ちひしがれて。
翻訳
王族の管理階級者が、感覚を抑えきれないためにブラーフマナ階級を冒涜して激怒させれば、その怒りの火は王家全体を焼き尽くし、王家の人々全てが悲しみの奈落に突き落とされるでしょう。
解説
ブラーフマナ階級、すなわち精神的に発達した地位や社会、そしてその高貴な家族は、管理王宮階級、商人階級、労働者階級など、他の付随する階級の人々から常に高い崇敬を受けていました。
節
sūta uvāca
dharmyaṁ nyāyyaṁ sakaruṇaṁ
nirvyalīkaṁ samaṁ mahat
rājā dharma-suto rājñyāḥ
pratyanandad vaco dvijāḥ
dharmyaṁ nyāyyaṁ sakaruṇaṁ
nirvyalīkaṁ samaṁ mahat
rājā dharma-suto rājñyāḥ
pratyanandad vaco dvijāḥ
訳語
sūtaḥ uvāca—スータ・ゴースヴァーミーが言った; dharmyam—宗教原則にのっとった; nyāyyam—正義; sa-karuṇam—慈悲心に満ちた; nirvyalīkam—ダルマに照らして偽りのない; samam—公正; mahat—栄光ある; rājā—王; dharma-sutaḥ—息子; rājñyāḥ—女王によって; pratyanandat—支持した; vacaḥ—言葉; dvijāḥ—ブラーフマナたちよ。
翻訳
スータ・ゴースヴァーミーが言った。「ブラーフマナたちよ。ユディシュティラ王は、ドラウパディー妃の言葉を全面的に支持した。その言葉は宗教原則に則り、道理にかない、誉れ高く、慈悲と公正に支えられ、嘘偽りがなかった」
解説
ダルマラージャ(ヤマラージャ)の息子であるマハーラージャ・ユディシュティラは、アシュヴァッターマーを自由の身にさせたいというドラウパディー女王の言葉を全面的に支持しました。偉大な家族に対する恥辱を許してはなりません。アルジュナはドローナーチャーリャから武術を授かったため、アルジュナとその家族はドローナーチャーリャの家族に恩義がありました。そのような情け深い家族に恥辱を与える言動は、道徳律に照らしても正当化できるものではありません。ドローナーチャーリャの妻は偉大なこの人物の伴侶であり、同情心をもって接するべきであり、息子を失う悲しみを味わわせてはなりません。それが本当の同情心です。どんな行動も十分な知識に支えられてなされるべきであり、ドラウパディーの言葉に嘘偽りはありません。ドラウパディーは自分自身の体験を通して話しており、その言葉には人の悲しみを察する思いがこもっています。子どもを持たない女性に母親の悲しみは分かりません。ドラウパディーは母親でしたから、クリピーの悲しみの深さを推し量る心はまさに的を得ており、偉大な家族に適切な敬意を表すことは気高い行為でした。
節
nakulaḥ sahadevaś ca
yuyudhāno dhanañjayaḥ
bhagavān devakī-putro
ye cānye yāś ca yoṣitaḥ
yuyudhāno dhanañjayaḥ
bhagavān devakī-putro
ye cānye yāś ca yoṣitaḥ
訳語
nakulaḥ—ナクラ; sahadevaḥ—サハデーヴァ; ca—そして; yuyudhānaḥ—サーティヤキ; dhanañjayaḥ—アルジュナ; bhagavān—人格神; devakī-putraḥ—デーヴァキーの子、主シュリー・クリシュナ; ye—それら; ca—そして; anye—他の者たち; yāḥ—それら; ca—そして; yoṣitaḥ—淑女たち。
翻訳
ナクラとサハデーヴァ[王の弟たち]、サーティヤキ、アルジュナ、デーヴァキーの子である人格神、主シュリー・クリシュナ、そして居合わせた淑女や人々全てが、王の言葉に同意した。
節
tatrāhāmarṣito bhīmas
tasya śreyān vadhaḥ smṛtaḥ
na bhartur nātmanaś cārthe
yo ’han suptān śiśūn vṛthā
tasya śreyān vadhaḥ smṛtaḥ
na bhartur nātmanaś cārthe
yo ’han suptān śiśūn vṛthā
訳語
tatra—その時; āha—言った; amarṣitaḥ—怒って; bhīmaḥ—ビーマ; tasya—彼の; śreyān—究極の善; vadhaḥ—殺すこと; smṛtaḥ—記録された; na—ではない; bhartuḥ—師の; na—~でもない; ātmanaḥ—自分自身の; ca—そして; arthe—~のために; yaḥ—~である者; ahan—殺した; suptān—眠っている; śiśūn—子どもたち; vṛthā—目的もなしに。
翻訳
しかし、ビーマは怒りをあらわにしてこの犯罪者を殺すよう訴えた。眠っている子どもたちを目的もなく殺し、その行為は自分自身も、師をも満足させることはできなかった。
節
niśamya bhīma-gaditaṁ
draupadyāś ca catur-bhujaḥ
ālokya vadanaṁ sakhyur
idam āha hasann iva
draupadyāś ca catur-bhujaḥ
ālokya vadanaṁ sakhyur
idam āha hasann iva
訳語
niśamya—聞いたすぐ後; bhīma—ビーマ; gaditam—~によって語られた; draupadyāḥ—ドラウパディーの; ca—そして; catuḥ-bhujaḥ—四本腕の者(人格神); ālokya—見て; vadanam—顔; sakhyuḥ—主の友の; idam—これ; āha—言った; hasan—ほほえんでいる; iva—~かのように。
翻訳
チャトゥルブジャ[四本腕を持つ者]すなわち人格神は、ビーマ、ドラウパディー、その他の意見を聞いた後、愛しい友、アルジュナの顔を見て、ほほ笑んでいるかのような表情で語り始めた。
解説
主シュリー・クリシュナには二本の腕がありますが、ここで四本腕と呼ばれている理由をシュリーダラ・スヴァーミーが説明しています。ビーマとドラウパディーは、アシュヴァッターマーを殺すことに関して意見が食い違っていました。ビーマはすぐに殺すべきであると感じている一方、ドラウパディーは助けてあげたいと思っていました。ビーマが今にも首をはねようとし、ドラウパディーがそれを止めようとする、そのような場面を想像することができます。そこで主は、両者を止めるため別の二本の腕を出したのです。根源の姿である主シュリー・クリシュナには二本の腕がありますが、ナーラーヤナの姿には4本の腕があります。ナーラーヤナの姿では、献身者たちと一緒にヴァイクンタ惑星に住んでいますが、本来のシュリー・クリシュナの姿では、精神界のヴァイクンタから遙かに高い位置にあるクリシュナローカに住んでいます。ですから、シュリー・クリシュナが「チャトゥルブジャハ」と呼ばれることに矛盾はありません。必要とあらば、アルジュナに見せたヴィシュヴァ・ルーパのように、何百本もの腕を現すことさえできます。ですから、腕を何百、何千本も現すことができる人物なのですから、状況に応じて腕を4本現すことができるのも不思議なことではありません。
アルジュナがアシュヴァッターマーの対応に苦慮していたとき、主シュリー・クリシュナは愛しい親友として、打開策を打ち出すために自ら働きかけました。そして、その顔には笑みも浮かんでいました。
節
śrī-bhagavān uvāca
brahma-bandhur na hantavya
ātatāyī vadhārhaṇaḥ
mayaivobhayam āmnātaṁ
paripāhy anuśāsanam
brahma-bandhur na hantavya
ātatāyī vadhārhaṇaḥ
mayaivobhayam āmnātaṁ
paripāhy anuśāsanam
kuru pratiśrutaṁ satyaṁ
yat tat sāntvayatā priyām
priyaṁ ca bhīmasenasya
pāñcālyā mahyam eva ca
yat tat sāntvayatā priyām
priyaṁ ca bhīmasenasya
pāñcālyā mahyam eva ca
訳語
śrī-bhagavān—人格神; uvāca—言った; brahma-bandhuḥ—ブラーフマナの親族; na—ではない; hantavyaḥ—殺されること; ātatāyī—侵略者; vadha-arhaṇaḥ—殺されるべきである; mayā—私によって; eva—確かに; ubhayam—両者; āmnātam—権威者の決定に応じて述べられている; paripāhi—実行される; anuśāsanam—決定; kuru—を守る; pratiśrutam—によって約束されたように; satyam—真理; yat tat—であること; sāntvayatā—なだめている間; priyām—愛しい妻; priyam—満足; ca—もまた; bhīmasenasya—シュリー・ビーマセーナの; pāñcālyāḥ—ドラウパディーの; mahyam—私にも; eva—確かに; ca—そして。
翻訳
人格神シュリー・クリシュナが言った。「ブラーフマナの友人を殺すべきではない。しかし、侵略者であれば殺されてしかるべきである。それが経典の結論であり、その通りに行動しなくてはならない。君は、妻との約束を果たし、同時にビーマセーナや私が満足する行動をとらなくてはならない」
解説
アルジュナは途方に暮れていました。さまざまな人物が語った経典の言葉に従うと、アシュヴァッターマーは殺されるべきであり、また同時に命を助ける必要もあったからです。ブラフマ・バンドゥ、すなわちブラーフマナの無価値の息子、アシュヴァッターマーは殺されるべきではなかったのですが、同時に侵略者でもありました。マヌの規定によると、ブラーフマナでさえ(ブラーフマナの無価値の息子は言うまでもなく)侵略者であれば、殺されるべきでした。ドローナーチャーリャは正真正銘のブラーフマナでしたが、参戦したために殺されました。ところがアシュヴァッターマーの場合、侵略者ではあっても、手に武器を持たずにその場にいます。経典の規定からすれば、侵略者ではあっても、武器も馬車もなければ命を奪ってはなりません。こういう状況に置かれれば、誰でも混乱するものです。そして、アルジュナはドラウパディーをなだめようと誓った約束を果たさなくてはなりませんでした。しかもアシュヴァッターマーを殺すよう勧めるビーマとクリシュナも満足させなくてなりませんでした。アルジュナはこのジレンマに立たされ、クリシュナがその打開策を示したのでした。
節
sūta uvāca
arjunaḥ sahasājñāya
harer hārdam athāsinā
maṇiṁ jahāra mūrdhanyaṁ
dvijasya saha-mūrdhajam
arjunaḥ sahasājñāya
harer hārdam athāsinā
maṇiṁ jahāra mūrdhanyaṁ
dvijasya saha-mūrdhajam
訳語
sūtaḥ—スータ・ゴースヴァーミー; uvāca—言った; arjunaḥ—アルジュナ; sahasā—ちょうどその時; ājñāya—それを知っている; hareḥ—主の; hārdam—真意; atha—そのように; asinā—剣で; maṇim—宝石; jahāra—切り離した; mūrdhanyam—頭上の; dvijasya—再誕者の; saha—~と共に; mūrdhajam—毛髪。
翻訳
スータ・ゴースヴァーミーは言った。相反する二つの命令を聞いたまさにその時、アルジュナは主の真意を理解した。剣を抜き、アシュヴァッターマーの頭から頭髪と宝石を切り離したのである。
解説
複数の人間が出す矛盾した命令を実行することは不可能です。そこで、アルジュナは鋭い知性を使って折衷案を考え出し、アシュヴァッターマーの頭から宝石を切り離しました。これは斬首に匹敵する行為ですが、実際に命が奪われることはありませんでした。ここでアシュヴァッターマーは再誕者と表現されています。確かに彼は再誕者ではありますが、その地位から失墜したために適切に罰せられました。
節
vimucya raśanā-baddhaṁ
bāla-hatyā-hata-prabham
tejasā maṇinā hīnaṁ
śibirān nirayāpayat
bāla-hatyā-hata-prabham
tejasā maṇinā hīnaṁ
śibirān nirayāpayat
訳語
vimucya—自由の身にさせた後; raśanā-baddham—紐の束縛から; bāla-hatyā—幼児殺し; hata-prabham—体の輝きの喪失; tejasā—~の力の; maṇinā—宝石によって; hīnam—~を奪われて; śibirāt—基地から; nirayāpayat—彼を追い出した。
翻訳
彼 [アシュヴァッターマー] は幼児虐殺の罪のためすでに体の精彩を失っていたが、頭を飾っていた宝石を失った今、さらに力を失った。こうして彼は紐をほどかれ、基地から追放されたのである。
解説
こうして自尊心を傷つけられ、屈辱を味わったアシュヴァッターマーは、主クリシュナとアルジュナの知性によって、殺され、そして同時に殺されない、という懲罰を受けたのでした。
節
vapanaṁ draviṇādānaṁ
sthānān niryāpaṇaṁ tathā
eṣa hi brahma-bandhūnāṁ
vadho nānyo ’sti daihikaḥ
sthānān niryāpaṇaṁ tathā
eṣa hi brahma-bandhūnāṁ
vadho nānyo ’sti daihikaḥ
訳語
vapanam—頭髪を剃り落とす; draviṇa—富; adānam—没収すること; sthānāt—居住地から; niryāpaṇam—追い出すこと; tathā—もまた; eṣaḥ—これら全て; hi—確かに; brahma-bandhūnām—ブラーフマナの親族の; vadhaḥ—殺すこと; na—ではない; anyaḥ—他の方法; asti—~がある; daihikaḥ—肉体に関して。
翻訳
頭髪を剃り落とし、富を没収し、居住地から追放することは、ブラーフマナの親族に対する規定通りの処罰である。肉体を殺害するという処罰は規定にはない。
節
putra-śokāturāḥ sarve
pāṇḍavāḥ saha kṛṣṇayā
svānāṁ mṛtānāṁ yat kṛtyaṁ
cakrur nirharaṇādikam
pāṇḍavāḥ saha kṛṣṇayā
svānāṁ mṛtānāṁ yat kṛtyaṁ
cakrur nirharaṇādikam
訳語
putra—息子; śoka—死別; āturāḥ—~に打ちひしがれて; sarve—彼ら全員; pāṇḍavāḥ—パーンドゥの息子たち; saha—~と共に; kṛṣṇayā—ドラウパディーと; svānām—同族の; mṛtānām—死の; yat—であるもの; kṛtyam—為されるべき; cakruḥ—執行した; nirharaṇa-ādikam—実行できる。
翻訳
その後、悲しみに打ちひしがれたパーンドゥの息子たちとドラウパディーは、親族たちの遺体のためにしかるべき儀式を執行した。
解説
これで『シュリーマド・バーガヴァタム』の第1編・第7章、表題「ドローナの息子、罰せられる」に関するバクティヴェーダンタの要旨解説を終了します。