シュリーマド・バーガヴァタム 1.7.11

harer guṇākṣipta-matir
bhagavān bādarāyaṇiḥ
adhyagān mahad ākhyānaṁ
nityaṁ viṣṇu-jana-priyaḥ

訳語

翻訳

シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァの息子であるシュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、超越的な力を備えていただけではない。主の献身者にとって最愛の人物だったのである。こうして、彼はこの偉大な物語『シュリーマド・バーガヴァタム』の研究に取り組んだ。

解説

『ブラフマ・ヴァイヴァルタ・プラーナ』によると、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、母親の胎内にいたときすでに解脱の境地にありました。シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは、その子が生まれても家にはとどまらないことを知っていました。そこでヴィヤーサデーヴァは、その子が主の神聖な活動に魅了されるよう、バーガヴァタムの大意を彼の心に注ぎました。生まれた後も、実際にバーガヴァタムを唱えることでその子をさらに教育しました。
一般的に言えるのは、解脱した魂は非人格のブラフマンに執着しているということであり、それは至高の完全体と一体化する一元論的な考えに基づいています。しかし、ヴィヤーサデーヴァのように純粋な献身者と交流すれば、解脱した魂でさえ、主の超越的な質に魅了されるようになります。シュリー・ナーラダの慈悲を授かったシュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは、『シュリーマド・バーガヴァタム』という素晴らしい叙事詩を語ることができ、シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァの慈悲により、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはその内容を理解することができました。主の崇高な質は非常に魅力的で、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは非人格的ブラフマンに完全に没頭していた境地から無執着になり、積極的に主の人物としての行動を受け入れるようになりました。
彼は、絶対者の非人格的概念を全て捨て去ったのであり、至高主には姿も人格もないと考えて時間を無駄にしてしまった、と考えました。言い換えれば、非人格的な姿よりも優れた個人的な姿に超越的な至福を感じたということです。それ以来、主の献身者であるヴィシュヌ・ジャナは彼を愛しく思うようになったことは言うまでもなく、彼もヴィシュヌ・ジャナたちを愛しく感じるようになりました。生命体の個性を消してしまうのではなく、主の個人的な召使いになることを望んでいる献身者は、非人格論者を特に好んではいません。また非人格論者も至高主と一体になりたいと思っていますから、主の献身者の真価が分かりません。このように、太古の昔からこの2種類の超越的な巡礼者たちはときに競い合うことがありました。つまり両者は、神に対する究極的な人格と非人格という認識の違いによって、お互いを避けてきたということです。ですから、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーも献身者にはそれほど好意を抱いていなかったようです。しかし、自ら主を深く瞑想する献身者になったために、ヴィシュヌ・ジャナとの神聖な交流を望むようになり、また自らバーガヴァタになったことから、ヴィシュヌ・ジャナたちも彼との交流を望むようになりました。こうして父と子は、ブラフマンに関する超越的な知識を悟った後、至高主の個人としての姿を一心に思うようになりました。このシュローカは、なぜシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーがバーガヴァタムの話題に心を奪われるようになったのか、という質問に答えています。