節
訳語
翻訳
解説
第14章
主クリシュナの他界
節
sūta uvāca
samprasthite dvārakāyāṁ
jiṣṇau bandhu-didṛkṣayā
jñātuṁ ca puṇya-ślokasya
kṛṣṇasya ca viceṣṭitam
samprasthite dvārakāyāṁ
jiṣṇau bandhu-didṛkṣayā
jñātuṁ ca puṇya-ślokasya
kṛṣṇasya ca viceṣṭitam
訳語
sūtaḥ uvāca—シュリー・スータ・ゴースヴァーミーが言った; samprasthite—~に行ったあと; dvārakāyām—ドヴァーラカーの都; jiṣṇau—アルジュナ; bandhu—友人や親族たち; didṛkṣayā—彼らに会うために; jñātum—知るために; ca—もまた; puṇya-ślokasya—自らの栄光がヴェーダ聖歌で歌われている人物の; kṛṣṇasya—主クリシュナの; ca—そして; viceṣṭitam—さらなる活動の計画。
翻訳
シュリー・スータ・ゴースヴァーミーが言った。「アルジュナは、主シュリー・クリシュナや友人たちに会いに、そして主が次に何をしようとしているのかを知るためにドヴァーラカーに向かった」
解説
『バガヴァッド・ギーター』で言われているように、主は信心深い人々を守り、不敬な者たちを滅ぼすため地上に降誕されます。そして、クルクシェートラの戦争が終わり、マハーラージャ・ユディシュティラを王座に就けたことで、主の使命はまっとうされました。パーンダヴァ兄弟、特にシュリー・アルジュナは主の永遠の仲間であることから、アルジュナは、主が次にどのような活動を考えているのかを聞きに、ドヴァーラカーに向かったのでした。
節
vyatītāḥ katicin māsās
tadā nāyāt tato ’rjunaḥ
dadarśa ghora-rūpāṇi
nimittāni kurūdvahaḥ
tadā nāyāt tato ’rjunaḥ
dadarśa ghora-rūpāṇi
nimittāni kurūdvahaḥ
訳語
vyatītāḥ—経過したあと; katicit—2、3の; māsāḥ—月; tadā—その時; na āyāt—戻らなかった; tataḥ—そこから; arjunaḥ—アルジュナ; dadarśa—見た; ghora—恐ろしい; rūpāṇi—現れ; nimittāni—さまざまな原因; kuru-udvahaḥ—マハーラージャ・ユディシュティラ。
翻訳
数ヶ月が過ぎてもアルジュナはまだ戻ってこなかった。マハーラージャ・ユディシュティラは、恐ろしくて不吉な前兆を見るようになった。
解説
主シュリー・クリシュナ、至高人格神は永遠なる存在と言われており、私たちが知る太陽という最も強力な存在よりも強力なお方です。主がひと呼吸する間に、何億何千という太陽が主によって作られ、また破壊されるのです。物質界にある太陽は、あらゆる生産力と物質エネルギーの源と考えられ、たったひとつの太陽から、生活に必要な物資が私たちに供給されています。ですから、主が地上に自ら存在していたとき、人類の平和と繁栄に必要な物事、特に宗教と知識は、主がいたことで完璧に示されていました。それはまさに燃え盛る太陽という存在によって世界が光に満ちあふれるのと同じです。マハーラージャ・ユディシュティラは、自分の王国に矛盾がいくつか起こっている様子が見え、そのため、長く不在になっているアルジュナの身を案じ、ドヴァーラカーの幸福の知らせが届かないことを不安に思うようになりました。こうして彼は、主クリシュナが他界したのではないかと疑いました。そうでなければ、このような恐ろしくて不吉な前兆が見えるはずがなかったのです。
節
kālasya ca gatiṁ raudrāṁ
viparyastartu-dharmiṇaḥ
pāpīyasīṁ nṛṇāṁ vārtāṁ
krodha-lobhānṛtātmanām
viparyastartu-dharmiṇaḥ
pāpīyasīṁ nṛṇāṁ vārtāṁ
krodha-lobhānṛtātmanām
訳語
kālasya—永遠なる時の; ca—もまた; gatim—方向; raudrām—恐ろしい; viparyasta—逆行して; ṛtu—季節の; dharmiṇaḥ—秩序; pāpīyasīm—罪深い; nṛṇām—人類の; vārtām—生計の方法; krodha—怒り; lobha—貪欲; anṛta—偽り; ātmanām—人々の。
翻訳
彼は、永遠なる時の方向が変化したのを見た。これは実に恐ろしい光景であった。そして季節の秩序が乱れた。大衆は、貪欲、怒り、虚偽の質を募らせている。また、彼らが不正な手段で生計を立てるようになっていく様子を目の当たりにした。
解説
人類の文化が至高人格神との愛情関係と切り離された状態に陥ると、季節の秩序が乱れ、不正な手段を使った生活、貪欲、怒り、詐欺などの兆しがはびこるようになります。季節の秩序が乱れるというのは、ある季節の環境が別の季節に見られるようになるということです。例えば雨期が秋になったり、花が狂い咲き、果物が別の季節に実ったりします。不信心な人間はいつの世でも貪欲、怒り、偽りに満ちています。そのような者は、正規の方法であろうとなかろうと、どのような手段を使ってでも生計を立てようとします。マハーラージャ・ユディシュティラが統治していた時代、このような兆しは全く見られませんでした。しかし、マハーラージャ・ユディシュティラは自分の王国で神聖な雰囲気のわずかな異変に大変驚き、やがて主が物質界から去って行くのでは、という思いをそこはかとなく感じました。不正な手段による生計とは、定められた義務からの逸脱を意味します。ブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラなど、誰に対しても、定められた義務が用意されているのですが、そのような義務を果たすことなく、人の義務を自分の義務と主張する者は、不正で不適当な義務を果たしていることになります。人生における高尚な目標を見失い、この地上における束の間の生涯が全てだと思う人々は、富や権力を飽くことなく求めるようになります。無知が、人間社会の異常な状態の元凶であり、特にこの堕落の時代でこの無知を消し去るために『シュリーマド・バーガヴァタム』という姿で光を投げかける力強い太陽が用意されています。
節
jihma-prāyaṁ vyavahṛtaṁ
śāṭhya-miśraṁ ca sauhṛdam
pitṛ-mātṛ-suhṛd-bhrātṛ-
dam-patīnāṁ ca kalkanam
śāṭhya-miśraṁ ca sauhṛdam
pitṛ-mātṛ-suhṛd-bhrātṛ-
dam-patīnāṁ ca kalkanam
訳語
jihma-prāyam—騙している; vyavahṛtam—全ての通常の取引において; śāṭhya—二枚舌; miśram—~へと悪化して; ca—そして; sauhṛdam—友好的で、好意を寄せる者に関して; pitṛ—父親; mātṛ—母親に関して; suhṛt—好意を寄せる者; bhrātṛ—自分の兄弟; dam-patīnām—夫と妻に関して; ca—もまた; kalkanam—互いの口論。
翻訳
一般の商取引やつきあいは、人々のだまし合いのために汚れたものとなり、それは友人同士にさえ見られた。家族の間では、父、母、子、好意を寄せる人々、兄弟たちの間でいつも誤解が生じ、妻と夫の間にも、緊張と口論が絶えなかった。
解説
束縛された生命体は、間違いを犯す、幻想に陥る、無力である、人を騙す、といった4つの欠陥を備えています。この4つが生命体の不完全さを表しており、なかでも人をだまそうとする傾向がひときわ目立っています。このような偽りの質が束縛された魂の内にあるのは、もともと彼らは物質界を支配しようとする不自然な望みに染まってしまい、この世界にいるからです。純粋な境地にいる生命体はこの法則の影響を受けません。自分が至高の生物に永遠に仕える立場にいることをよく知っているからであり、彼らにとっては、至高主の所有物を間違って支配しようという気持ちでいるより、奉仕の精神を持ち続けることがいつでも正しいのです。束縛された状態にいる生命体は、たとえ自分が見渡すもの全ての支配者になったとしても満たされません。全ての支配者になるのは不可能なため、そのような人は最も近い、あるいは親しい親族たちを含むさまざまな人たちとの関係においても、だましの犠牲となります。満たされないそのような状況では、父と息子、あるいは夫と妻の間でさえ、調和などありえません。しかし、争いに満ちたこのような苦境は、一つの方法で鎮めることができます。それが主への献身奉仕です。偽りの世界は主への献身奉仕によってのみ阻止することができ、それ以外に方法はありません。マハーラージャ・ユディシュティラは目の前に起こっているさまざまな不均衡な兆しを見て、主が地球から姿を消そうとしていると推測したのです。
節
nimittāny atyariṣṭāni
kāle tv anugate nṛṇām
lobhādy-adharma-prakṛtiṁ
dṛṣṭvovācānujaṁ nṛpaḥ
kāle tv anugate nṛṇām
lobhādy-adharma-prakṛtiṁ
dṛṣṭvovācānujaṁ nṛpaḥ
訳語
nimittāni—原因になる; ati—非常に重大な; ariṣṭāni—悪い兆し; kāle—そのうちに; tu—しかし; anugate—終わっている; nṛṇām—一般大衆の; lobha-ādi—たとえば貪欲のような; adharma—無宗教; prakṛtim—習慣; dṛṣṭvā—見ている; uvāca—言った; anujam—弟; nṛpaḥ—王。
翻訳
やがて大衆は、貪欲、怒り、うぬぼれなどを何とも思わなくなっていった。このような不吉な兆しを見たマハーラージャ・ユディシュティラは、弟に話し始めた。
解説
とても敬虔(ルビ:けいけん)な王だったマハーラージャ・ユディシュティラは、貪欲、怒り、無宗教、偽善といった冷酷な気質が社会に瞬く間にはびこる様を見て困惑しています。この節の言葉からわかるように、当時の人々は堕落した社会にあるこのような兆しは経験したことがなく、そんな彼らにとって、カリ・ユガという争いの時代の到来は実に驚くべき事態だったのです。
節
yudhiṣṭhira uvāca
sampreṣito dvārakāyāṁ
jiṣṇur bandhu-didṛkṣayā
jñātuṁ ca puṇya-ślokasya
kṛṣṇasya ca viceṣṭitam
sampreṣito dvārakāyāṁ
jiṣṇur bandhu-didṛkṣayā
jñātuṁ ca puṇya-ślokasya
kṛṣṇasya ca viceṣṭitam
訳語
yudhiṣṭhiraḥ uvāca—マハーラージャ・ユディシュティラが言った; sampreṣitaḥ—~に行って; dvārakāyām—ドヴァーラカー; jiṣṇuḥ—アルジュナ; bandhu—友人たち; didṛkṣayā—会うために; jñātum—知ること; ca—もまた; puṇya-ślokasya—人格神の; kṛṣṇasya—主シュリー・クリシュナの; ca—そして; viceṣṭitam—活動の予定。
翻訳
マハーラージャ・ユディシュティラが弟のビーマセーナに言った。「私はアルジュナをドヴァーラカーに送り、友人たちに会い、人格神クリシュナがこれから何をするのかを主ご自身から聞くように頼んだ」
節
gatāḥ saptādhunā māsā
bhīmasena tavānujaḥ
nāyāti kasya vā hetor
nāhaṁ vededam añjasā
bhīmasena tavānujaḥ
nāyāti kasya vā hetor
nāhaṁ vededam añjasā
訳語
gatāḥ—行ってしまった; sapta—7; adhunā—現在まで; māsāḥ—月; bhīmasena—おおビーマセーナよ; tava—あなたの; anujaḥ—弟; na—~しない; āyāti—戻ってくる; kasya—なんのために; vā—あるいは; hetoḥ—理由; na—~ない; aham—私; veda—知っている; idam—これ; añjasā—実際に。
翻訳
かれこれ6ヶ月が過ぎたというのに、彼はまだ戻ってこない。向こうで一体何が起こっているのか、私にはわからない。
節
api devarṣiṇādiṣṭaḥ
sa kālo ’yam upasthitaḥ
yadātmano ’ṅgam ākrīḍaṁ
bhagavān utsisṛkṣati
sa kālo ’yam upasthitaḥ
yadātmano ’ṅgam ākrīḍaṁ
bhagavān utsisṛkṣati
訳語
api—~かどうか; deva-ṛṣiṇā—神々・聖者(ナーラダ)によって; ādiṣṭaḥ—教えた; saḥ—それ; kālaḥ—永遠なる時; ayam—これ; upasthitaḥ—到着した; yadā—~の時; ātmanaḥ—主自身の; aṅgam—完全部分; ākrīḍam—表れ; bhagavān—人格神; utsisṛkṣati—終わろうとしている。
翻訳
デーヴァリシ・ナーラダがそれとなく語られたように、主は地上での遊戯を終わらせようとされているのだろうか。もうその時が来てしまったのだろうか。
解説
何度も話してきたように、至高人格神、主シュリー・クリシュナは、無数の完全拡張体を持ち、そのどれもが等しい力を備えてはいても、別々の機能を果たします。『バガヴァッド・ギーター』には主自ら語った言葉があり、それぞれさまざまな完全部分体あるいは完全部分体の部分体に向けられています。例えば『バガヴァッド・ギーター』で主クリシュナはこのようにおっしゃっています:
「宗教が正しく実践されなくなったとき、反宗教的な風潮が世にはびこったとき、バラタ王の子孫よ、私はいつどこへでも現れる(4-7)」
「信心深い者を助け、邪悪な者をこらしめ、宗教原則を再確立するために、私はどの時代にも降臨する(4-8)」
「もし私が義務を怠れば、三界は破滅するであろう。望ましくない人間を創り出す原因となり、生命体全ての平和を脅かすことになるのだ(3-24)」
「何事によらず偉人の行ったことに、庶民はつき従っていくものだ。彼が立派な行為で模範を示せば、世界中がその道をたどることとなる(3-21)」
このような主の言葉は、主のさまざまな完全部分体、すなわちサンカルシャナ、ヴァースデーヴァ、プラデュムナ、アニルッダ、ナーラーヤナといった主の拡張体を指しています。これらはどれも、主の超越的な拡張体としての主自身ですが、主シュリー・クリシュナの場合、さまざまな段階の献身者たちと崇高な交流をしながら活動します。そしてなおかつ主クリシュナは、ブラフマーの時間の24時間(86億年)に1回、各宇宙に本来の姿で現れ、そしてその崇高な遊戯全てが、規則的な一連の流れの中で、各宇宙で展開されるのです。しかしその規則的な流れでなされる主クリシュナ、主ヴァースデーヴァなどの活動は、無知な人々にとってはあまりにも複雑なため、理解できるものではありません。主自身と主の超越的な体の間に違いはありません。拡張体はさまざまな活動を行ないますが、主が主シュリー・クリシュナとして降誕するとき、主の他の完全部分体がヨーガマーヤーと呼ばれる想像を絶する力で主と一体になります。そのためヴリンダーヴァナの主クリシュナは、マトゥラーのクリシュナとも、そしてドヴァーラカーのクリシュナとも違っています。ヴィラーット・ルーパにしても、想像を絶する主の力ゆえに、主クリシュナと同じ存在ではありません。クルクシェートラの戦場で示されたヴィラート・ルーパは、主の物質的観念の姿です。ですから、一見、主クリシュナは狩人の矢で殺されたように見えるのですが、私たちは、主がいわゆる物質的な体を物質界に残したと理解しなくてはなりません。主はカイヴァリャであり、全ては主から作り出されたのですから、主にとっては物質も精神も全く同じです。ですから、主がある種類の体を捨てたり、あるいは別の体を受け入れたりしても、主が普通の生命体と同じということではありません。このような活動はどれも、主の想像を絶する力ゆえに、ひとつであると同時に異なっているのです。マハーラージャ・ユディシュティラが、主の他界の可能性を嘆いているのは、一人の偉大な友人の他界を嘆いているだけのことであり、実際に主は、知性のない人たちが考えるように、その超越的な体を捨ててしまうわけではありません。その程度の知性しかない人たちは、主自身が『バガヴァッド・ギーター』で、ムーダという名前を使って非難しています。主が自分の体を残していったということはちょうど主が物質界にヴィラーット・ルーパを残して行ったように、主がそれぞれのダーマ(超越的な住処)に完全部分体を残して行ったということです。
節
yasmān naḥ sampado rājyaṁ
dārāḥ prāṇāḥ kulaṁ prajāḥ
āsan sapatna-vijayo
lokāś ca yad-anugrahāt
dārāḥ prāṇāḥ kulaṁ prajāḥ
āsan sapatna-vijayo
lokāś ca yad-anugrahāt
訳語
yasmāt—~である者から; naḥ—私たちの; sampadaḥ—富; rājyam—王国; dārāḥ—優れた妻; prāṇāḥ—命の存在; kulam—王家; prajāḥ—臣下たち; āsan—可能になる; sapatna—競争者たち; vijayaḥ—征服している; lokāḥ—高い惑星での将来の生活; ca—そして; yat—~である者によって; anugrahāt—~の慈悲によって。
翻訳
主の慈悲によってのみ、王にふさわしい富、良妻、生活、子どもたち、臣下への支配力、敵を破って得た勝利、将来高い惑星に住むことなどが可能になったのである。何もかも、私たちへの主のいわれなき慈悲に他ならない。
解説
物質的な繁栄には、良き妻、幸せな家庭、充分な土地、賢い子ども、高貴な親族、競争者に勝つこと、そして善行を積んで快適で充分な便宜を楽しめる天国の惑星に高められることなどが含まれます。このような便宜を手に入れるには、肉体労働や不正な手段でも得られるのですが、至高主の慈悲があってこそ実現するものです。努力して得られる繁栄も、主の慈悲次第です。主の恩恵の他に、一生懸命働くことも必要ですが、主の恩恵がなければ、ただ働くだけでは成功できません。カリ・ユガにいる現代人は、努力さえすればいいと考え、至高主の恩恵を否定します。インド人のある有名なサンニャーシーでさえ、シカゴで演説をしたときに至高主の恩恵を否定していました。しかしヴェーダやシャーストラの見解は違います。『シュリーマド・バーガヴァタム』には、成功は主の許可次第である、と書かれています。マハーラージャ・ユディシュティラは、自分が成功したのも主のおかげであることを真実として認めており、私たちも人生を完璧な成功に導くために、偉大な献身者や主の献身者の足跡に従わなくてはなりません。主の許可がなくても成功できるのであれば、医者はどんな患者でも治せるはずです。最新の医学を使って苦しんでいる患者を治そうとしても、死は避けられず、助からないと思われていた患者が、特に治療もしていないのに生き延びて驚かされることがあります。ですから結論として言えるのは、神の許可こそが、善悪全ての直接の原因だということです。成功した人は誰でも、自分が得たものは主のおかげだと考え、主に感謝しなくてはなりません。
節
paśyotpātān nara-vyāghra
divyān bhaumān sadaihikān
dāruṇān śaṁsato ’dūrād
bhayaṁ no buddhi-mohanam
divyān bhaumān sadaihikān
dāruṇān śaṁsato ’dūrād
bhayaṁ no buddhi-mohanam
訳語
paśya—見よ; utpātān—妨害; nara-vyāghra—虎に匹敵する力を持つ者よ; divyān—空で、あるいは天体の影響で起こっていること; bhaumān—地上での出来事; sa-daihikān—肉体と心で起こっている物事; dāruṇān—恐ろしく危険な; śaṃsataḥ—示している; adūrāt—近い将来に; bhayam—危険; naḥ—私たちの; buddhi—知性; mohanam—惑わせている。
翻訳
よく見るのだ、虎の力を持つ男よ。どれほど多くの危険な天体の影響、地球による反動、肉体の苦痛による苦しみが私たちの知性を惑わせ、近い将来さらに迫ってくる危険を予告しているのかを。
解説
物質文明の発達とは、天体による影響、地球による反動、肉体と心理的な苦痛による三重の苦しみの反動がさらに高まることを意味しています。宇宙の星々の影響で、酷暑、酷寒、豪雨、干ばつ、そのあとの飢饉(ルビ:ききん)、病気、疫病など、数多くの災禍が発生します。それらの災いが合わさり、体と心の苦悩となって私たちを苦しめます。人間が作った物質科学では、このような三重の苦しみには全く太刀打ちできません。これらの苦しみは、至高主に動かされているマーヤーという優位のエネルギーによる罰です。ですから、献身奉仕を通して主と絶えずふれあっている献身者は、乱されることなく、人としての義務を果たし続けることができます。しかし、神の存在を信じないアスラたちは、三重の苦しみを止めるためにさまざまな計画を立て、その度に失敗に直面しています。『バガヴァッド・ギーター』(7-14)は、三様式という避けられない力のために、物質エネルギーの反動には絶対対抗できない、と明言しています。しかし、主の蓮華の御足にすがり奉仕に没頭している人は、その力をいともたやすく克服することができます。
節
ūrv-akṣi-bāhavo mahyaṁ
sphuranty aṅga punaḥ punaḥ
vepathuś cāpi hṛdaye
ārād dāsyanti vipriyam
sphuranty aṅga punaḥ punaḥ
vepathuś cāpi hṛdaye
ārād dāsyanti vipriyam
訳語
ūru—太もも; akṣi—目; bāhavaḥ—腕; mahyam—私の内の; sphuranti—震えている; aṅga—体の左側; punaḥ punaḥ—何度も何度も; vepathuḥ—鼓動; ca—もまた; api—確かに; hṛdaye—心臓の中の; ārāt—恐れのために; dāsyanti—示している; vipriyam—望ましくない物事。
翻訳
私の体の左部分、左太ももと左腕と左目が震え続けている。あまりの恐ろしさに心臓が激しく鼓動している。どれも、これから望ましくないことが起こる前触れなのだ。
解説
物質存在は、望ましくないものが渦巻く世界です。私たちをしのぐ力によって、望んでもいない出来事が私たちに強いられるのですが、そのような不吉な出来事が物質自然界の三様式の力によって起こっていることが私たちには見えません。目、腕、太ももが震え続けているのは、これからなにか不吉なできごとが起こる前兆であると理解しなくてはなりません。このような望ましくない物事は山火事にたとえられています。誰かが山に入って火をつけたわけでもないのに、自然に火が発生し、森に住む生き物たちは思いもよらない災難にみまわれるのです。その火は、人間の努力で消せるものではありません。主の慈悲によってのみそれらを消すことができます。森に水を注ぐために雲を送るのです。同じように、人生の不吉な出来事は、どれほど計画を練っても止められません。主の慈悲だけが救いです。主は人類を目覚めさせるために本物の代表者を送り、その慈悲によってのみ苦しみは取り除かれ、全ての災いから救われるのです。
節
śivaiṣodyantam ādityam
abhirauty analānanā
mām aṅga sārameyo ’yam
abhirebhaty abhīruvat
abhirauty analānanā
mām aṅga sārameyo ’yam
abhirebhaty abhīruvat
訳語
śivā—ジャッカル; eṣā—これ; udyantam—昇っている; ādityam—太陽に; abhi—~に向かって; rauti—泣き叫んでいる; anala—火; ānanā—顔; mām—私に; aṅga—ビーマよ; sārameyaḥ—犬; ayam—これ; abhirebhati—~に吠えかかる; abhīru-vat—恐れることなく。
翻訳
ビーマよ、よく見よ。日の出に向かって雌のジャッカルが口から火を吐きながら叫び、犬はひるむことなく私に牙をむいてほえかかっている。
解説
これらは将来起こるだろう不吉な出来事をほのめかしています。
節
śastāḥ kurvanti māṁ savyaṁ
dakṣiṇaṁ paśavo ’pare
vāhāṁś ca puruṣa-vyāghra
lakṣaye rudato mama
dakṣiṇaṁ paśavo ’pare
vāhāṁś ca puruṣa-vyāghra
lakṣaye rudato mama
訳語
śastāḥ—牛のような有益な動物たち; kurvanti—留まっている; mām—私を; savyam—左側; dakṣiṇam—回っている; paśavaḥ apare—ロバのような他の下等な動物たち; vāhān—馬(運搬者); ca—もまた; puruṣa-vyāghra—人間の中の虎よ; lakṣaye—私は見ている; rudataḥ—泣いている; mama—私のもの。
翻訳
ビーマセーナよ、人類の中の虎よ。今、牛のような価値ある動物たちが私の左側を通り、ロバのような下等な動物らが私のまわりを回っている。私の馬は、私を見て涙を流している。
節
mṛtyu-dūtaḥ kapoto ’yam
ulūkaḥ kampayan manaḥ
pratyulūkaś ca kuhvānair
viśvaṁ vai śūnyam icchataḥ
ulūkaḥ kampayan manaḥ
pratyulūkaś ca kuhvānair
viśvaṁ vai śūnyam icchataḥ
訳語
mṛtyu—死; dūtaḥ—~の使者; kapotaḥ—ハト; ayam—この; ulūkaḥ—フクロウ; kampayan—震えている; manaḥ—心; pratyulūkaḥ—フクロウの競争相手(カラス); ca—そして; kuhvānaiḥ—けたたましい叫び声; viśvam—宇宙; vai—どちらも; śūnyam—空虚; icchataḥ—望んでいる。
翻訳
見よ!このハトはまるで死の使いのようではないか。フクロウ、そしてその敵のカラスたちのけたたましい叫び声が私の心を震えさせている。彼らはあたかも全宇宙を虚無の世界にしようとしているかのようだ。
節
dhūmrā diśaḥ paridhayaḥ
kampate bhūḥ sahādribhiḥ
nirghātaś ca mahāṁs tāta
sākaṁ ca stanayitnubhiḥ
kampate bhūḥ sahādribhiḥ
nirghātaś ca mahāṁs tāta
sākaṁ ca stanayitnubhiḥ
訳語
dhūmrāḥ—煙い; diśaḥ—あらゆる方角; paridhayaḥ—包囲; kampate—鼓動している; bhūḥ—地球; saha adribhiḥ—丘や山と共に; nirghātaḥ—青空からの稲妻; ca—もまた; mahān—非常に強烈な; tāta—ビーマよ; sākam—~と共に; ca—もまた; stanayitnubhiḥ—雲のない雷の轟(ルビ:とどろ)き。
翻訳
雲が空を覆っている様を見よ。大地も山々も震えているようだ。雲なき空にとどろく雷鳴、そして青空に光る稲妻を見よ。
節
vāyur vāti khara-sparśo
rajasā visṛjaṁs tamaḥ
asṛg varṣanti jaladā
bībhatsam iva sarvataḥ
rajasā visṛjaṁs tamaḥ
asṛg varṣanti jaladā
bībhatsam iva sarvataḥ
訳語
vāyuḥ—風; vāti—吹いている; khara-sparśaḥ—鋭く; rajasā—土ぼこりによって; visṛjan—作っている; tamaḥ—暗闇; asṛk—血; varṣanti—降らせている; jaladāḥ—雲; bībhatsam—悲惨な; iva—~のような; sarvataḥ—あらゆる場所に。
翻訳
風が吹き荒れ、ほこりをそこかしこに巻き上げ、闇を作り出している。雲は血のような災禍の雨を全世界に降らせている。
節
sūryaṁ hata-prabhaṁ paśya
graha-mardaṁ mitho divi
sasaṅkulair bhūta-gaṇair
jvalite iva rodasī
graha-mardaṁ mitho divi
sasaṅkulair bhūta-gaṇair
jvalite iva rodasī
訳語
sūryam—太陽; hata-prabham—衰えているその光線; paśya—見よ; graha-mardam—星々の衝突; mithaḥ—互いに; divi—空で; sa-saṅkulaiḥ—~と混ざり合って; bhūta-gaṇaiḥ—生命体たちによって; jvalite—発火して; iva—まるで~のように; rodasī—泣いている。
翻訳
太陽の光は衰え、星々は互いに争っているようだ。困惑した生命体たちがあたかも火に焼かれ、そして泣いているように見える。
節
nadyo nadāś ca kṣubhitāḥ
sarāṁsi ca manāṁsi ca
na jvalaty agnir ājyena
kālo ’yaṁ kiṁ vidhāsyati
sarāṁsi ca manāṁsi ca
na jvalaty agnir ājyena
kālo ’yaṁ kiṁ vidhāsyati
訳語
nadyaḥ—川; nadāḥ ca—そして支流; kṣubhitāḥ—全てが混乱して; sarāṃsi—貯水池; ca—そして; manāṃsi—心; ca—もまた; na—~しない; jvalati—火をつける; agniḥ—火; ājyena—バターの助けで; kālaḥ—時期; ayam—異常な事態; kim—何; vidhāsyati—起こるだろう。
翻訳
川、支流、池、湖、心、どれも混乱をきたしている。バターが火を燃焼させることもない。なんという異常な時が来たのだろう。何が起ころうとしているのだろう。
節
na pibanti stanaṁ vatsā
na duhyanti ca mātaraḥ
rudanty aśru-mukhā gāvo
na hṛṣyanty ṛṣabhā vraje
na duhyanti ca mātaraḥ
rudanty aśru-mukhā gāvo
na hṛṣyanty ṛṣabhā vraje
訳語
na—~しない; pibanti—吸う; stanam—乳房; vatsāḥ—仔牛; na—~しない; duhyanti—乳を絞ることを許す; ca—もまた; mātaraḥ—雌牛; rudanti—泣いている; aśru-mukhāḥ—涙にくれた顔で; gāvaḥ—牝牛; na—~しない; hṛṣyanti—喜びを感じる; ṛṣabhāḥ—雄牛; vraje—牧草地で。
翻訳
仔牛は雌牛の乳首を吸おうとせず、雌牛も乳を与えようとしない。彼らは立ち尽くし、泣き続け、目に涙を浮かべ、雄牛たちは牧草地さえ楽しもうとしない。
節
daivatāni rudantīva
svidyanti hy uccalanti ca
ime jana-padā grāmāḥ
purodyānākarāśramāḥ
bhraṣṭa-śriyo nirānandāḥ
kim aghaṁ darśayanti naḥ
svidyanti hy uccalanti ca
ime jana-padā grāmāḥ
purodyānākarāśramāḥ
bhraṣṭa-śriyo nirānandāḥ
kim aghaṁ darśayanti naḥ
訳語
daivatāni—寺院の神像; rudanti—泣いているように見える; iva—そのように; svidyanti—汗をかいている; hi—確かに; uccalanti—あたかも出ていくかのように; ca—もまた; ime—これら; jana-padāḥ—都市; grāmāḥ—村; pura—町; udyāna—庭園; ākara—鉱山; āśramāḥ—庵など; bhraṣṭa—〜を欠いている; śriyaḥ—美しさ; nirānandāḥ—全ての喜びを失くし; kim—どのような; agham—災難; darśayanti—出現するのか; naḥ—私たちに。
翻訳
神像は寺院で泣き、嘆き、そして汗を流しているように見える。そしてあたかもその場から立ち去ろうとしているようだ。都市、村、町、庭園、鉱山、庵など、どこも美しさを失い、幸せの兆しは消え失せてしまった。どのような災難が私たちを待ち受けているのか、私にはわからない。
節
manya etair mahotpātair
nūnaṁ bhagavataḥ padaiḥ
ananya-puruṣa-śrībhir
hīnā bhūr hata-saubhagā
nūnaṁ bhagavataḥ padaiḥ
ananya-puruṣa-śrībhir
hīnā bhūr hata-saubhagā
訳語
manye—私は当然のことと思う; etaiḥ—これら全てによって; mahā—偉大な; utpātaiḥ—高まり; nūnam—~の欠如のために; bhagavataḥ—人格神の; padaiḥ—足の裏の印; ananya—異常な; puruṣa—至高人格者の; śrībhiḥ—吉兆な印によって; hīnā—奪われて; bhūḥ—地球; hata-saubhagā—幸運がない。
翻訳
思うに、地上に現れているこの混乱は、世界の幸運が大きく損なわれる前兆なのだろう。世界は、主の蓮華の御足の跡が大地に残されていたからこそ幸運に恵まれていた。これらの兆しは、もはやそのような幸運に見放されていくことをほのめかしている。
節
iti cintayatas tasya
dṛṣṭāriṣṭena cetasā
rājñaḥ pratyāgamad brahman
yadu-puryāḥ kapi-dhvajaḥ
dṛṣṭāriṣṭena cetasā
rājñaḥ pratyāgamad brahman
yadu-puryāḥ kapi-dhvajaḥ
訳語
iti—このように; cintayataḥ—自分で考えていたとき; tasya—彼; dṛṣṭā—見ることで; ariṣṭena—不吉な兆し; cetasā—心で; rājñaḥ—王; prati—戻る; āgamat—来た; brahman—ブラーフマナよ; yadu-puryāḥ—ヤドゥ家の王国から; kapi-dhvajaḥ—アルジュナ。
翻訳
ブラーフマナ・シャウナカよ。マハーラージャ・ユディシュティラが地上に不吉な兆しを見ながらこのように考えていたとき、アルジュナがヤドゥ家の都(ドヴァーラカー)から帰還した。
節
taṁ pādayor nipatitam
ayathā-pūrvam āturam
adho-vadanam ab-bindūn
sṛjantaṁ nayanābjayoḥ
ayathā-pūrvam āturam
adho-vadanam ab-bindūn
sṛjantaṁ nayanābjayoḥ
訳語
tam—彼(アルジュナ)を; pādayoḥ—その足に; nipatitam—お辞儀をしている; ayathā-pūrvam—前例のない; āturam—失望して; adhaḥ-vadanam—うなだれた顔; ap-bindūn—水のしずく; sṛjantam—作っている; nayana-abjayoḥ—蓮華のような目から。
翻訳
彼(アルジュナ)がその足に向かってお辞儀をしたとき、王はそれまで見たことのない失望が彼の顔に刻まれている様を見た。深くうなだれ、その蓮華の目から涙が流れている。
節
vilokyodvigna-hṛdayo
vicchāyam anujaṁ nṛpaḥ
pṛcchati sma suhṛn madhye
saṁsmaran nāraderitam
vicchāyam anujaṁ nṛpaḥ
pṛcchati sma suhṛn madhye
saṁsmaran nāraderitam
訳語
vilokya—見ることで; udvigna—不安; hṛdayaḥ—心; vicchāyam—青ざめた表情; anujam—アルジュナ; nṛpaḥ—王; pṛcchati sma—尋ねた; suhṛt—友人たち; madhye—~の中で; saṃsmaran—思い出している; nārada—聖者ナーラダ; īritam—~で示されている。
翻訳
苦渋と不安のために青ざめたアルジュナの表情を見た王は、聖者ナーラダの教えを思い出し、友人たちの前でアルジュナに尋ねた。
節
yudhiṣṭhira uvāca
kaccid ānarta-puryāṁ naḥ
sva-janāḥ sukham āsate
madhu-bhoja-daśārhārha-
sātvatāndhaka-vṛṣṇayaḥ
kaccid ānarta-puryāṁ naḥ
sva-janāḥ sukham āsate
madhu-bhoja-daśārhārha-
sātvatāndhaka-vṛṣṇayaḥ
訳語
yudhiṣṭhiraḥ uvāca—ユディシュティラが言った; kaccit—~かどうか; ānarta-puryām—ドヴァーラカーの; naḥ—私たちの; sva-janāḥ—親族たち; sukham—幸せに; āsate—日々を過ごしている; madhu—マドゥ; bhoja—ボージャ; daśārha—ダシャールハ; ārha—アールハ; sātvata—サートヴァタ; andhaka—アンダカ; vṛṣṇayaḥ—ヴリシュニ家の。
翻訳
マハーラージャ・ユディシュティラが言った。「愛する弟よ。マドゥ、ボージャ、ダシャールハ、アールハ、サートヴァタ、アンダカ、そしてヤドゥ家の人々など、私の友人や親族たちは幸せに暮らしているのだろうか」
節
śūro mātāmahaḥ kaccit
svasty āste vātha māriṣaḥ
mātulaḥ sānujaḥ kaccit
kuśaly ānakadundubhiḥ
svasty āste vātha māriṣaḥ
mātulaḥ sānujaḥ kaccit
kuśaly ānakadundubhiḥ
訳語
śūraḥ—シューラセーナ; mātāmahaḥ—母方の祖父; kaccit—~かどうか; svasti—全て順調な; āste—日々を過ごしている; vā—あるいは; atha—ゆえに; māriṣaḥ—尊い; mātulaḥ—母方の伯父; sa-anujaḥ—弟たちと共に; kaccit—~かどうか; kuśalī—全員が健康である; ānaka-dundubhiḥ—ヴァスデーヴァ。
翻訳
私の高貴な祖父シューラセーナは幸せに暮らしておられるだろうか。そして、母方の伯父ヴァスデーヴァと弟の皆様は元気でおられるだろうか。
節
sapta sva-sāras tat-patnyo
mātulānyaḥ sahātmajāḥ
āsate sasnuṣāḥ kṣemaṁ
devakī-pramukhāḥ svayam
mātulānyaḥ sahātmajāḥ
āsate sasnuṣāḥ kṣemaṁ
devakī-pramukhāḥ svayam
訳語
sapta—7; sva-sāraḥ—自分の姉妹たち; tat-patnyaḥ—彼の妻たち; mātulānyaḥ—母方の叔母; saha—~と共に; ātma-jāḥ—息子と孫たち; āsate—~は全て; sasnuṣāḥ—彼女たちの義理の娘たち; kṣemam—幸福; devakī—デーヴァキー; pramukhāḥ—~を筆頭に; svayam—個人的に。
翻訳
デーヴァキーをはじめとした7人の奥方たちは全員が姉妹だ。あの方たち、そしてご子息たち、義理のご息女たちは、みな幸せに暮らしているのか。
節
kaccid rājāhuko jīvaty
asat-putro ’sya cānujaḥ
hṛdīkaḥ sasuto ’krūro
jayanta-gada-sāraṇāḥ
asat-putro ’sya cānujaḥ
hṛdīkaḥ sasuto ’krūro
jayanta-gada-sāraṇāḥ
āsate kuśalaṁ kaccid
ye ca śatrujid-ādayaḥ
kaccid āste sukhaṁ rāmo
bhagavān sātvatāṁ prabhuḥ
ye ca śatrujid-ādayaḥ
kaccid āste sukhaṁ rāmo
bhagavān sātvatāṁ prabhuḥ
訳語
kaccit—~かどうか; rājā—王; āhukaḥ—ウグラセーナの別名; jīvati—今でも生きている; asat—邪悪な; putraḥ—息子; asya—彼の; ca—もまた; anujaḥ—弟; hṛdīkaḥ—フリディーカ; sa-sutaḥ—息子クリタヴァルマーと共に; akrūraḥ—アクルーラ; jayanta—ジャヤンタ; gada—ガダ; sāraṇāḥ—サーラナ; āsate—~は彼ら全員; kuśalam—幸福に; kaccit—~かどうか; ye—彼ら; ca—もまた; śatrujit—シャトゥジトゥ; ādayaḥ—~を筆頭に; kaccit—~かどうか; āste—彼らは~か; sukham—順調な; rāmaḥ—バララーマ; bhagavān—人格神; sātvatām—献身者の; prabhuḥ—保護者。
翻訳
邪悪なカンサを息子に持っておられたウグラセーナ、そして彼の弟はいまでもご存命だろうか。フリディーカと、その子クリタヴァルマーは幸せだろうか。アクルーラ、ジャヤンタ、ガダ、サーラナ、シャトルジットの皆様は幸せに暮らしておられるだろうか。そして、人格神であり、献身者を守るお方バララーマはいかがお過ごしか?
解説
パーンダヴァ兄弟たちの都市ハスティナープラは、現在のニューデリー近郊にあり、ウグラセーナの王国はマトゥラーにありました。アルジュナは、ドヴァーラカーからデリーに戻るときにマトゥラーを訪ねたはずですから、マトゥラーの王について質問するのには根拠があります。さまざまな親族の名前のなかでも、ラーマあるいはバララーマ、すなわち主クリシュナの兄は、ここで「人格神」と呼ばれています。それは、主バララーマは、主クリシュナのプラカーシャ・ヴィグラハとしてのヴィシュヌ・タットゥヴァの直接の拡張体だからです。至高主は唯一絶対のお方ですが、自分を他の無数の生命体に拡張させます。ヴィシュヌ・タットゥヴァ生命体は至高主の拡張体であり、その全てが主と質的にも量的にも同じです。しかし、ジーヴァ・シャクティの拡張体、つまり普通の生命体と主とは全く異なるカテゴリーです。ジーヴァ・シャクティとヴィシュヌ・タットゥヴァを同じ段階のものと考える者は、非難されてしかるべきです。シュリー・ラーマ、すなわちバララーマは主の献身者の保護者です。バラデーヴァは献身者たちの精神指導者として活動し、主によるそのいわれなき慈悲によって堕落した魂たちを救われるのです。シュリー・バラデーヴァは、主チャイタンニャが降誕されたときシュリー・ニテャーナンダ・プラブとして現れ、そしてその偉大な主ニチャーナンダ・プラブは、ジャガーイとマーダーイというどうしようもなく堕落した二人の魂を救うことで、いわれのない慈悲を示しました。ですからここで、バララーマは主の献身者の保護者であると特に述べられています。主の神聖な恩恵があってこそ、私たちは至高主シュリー・クリシュナに近づくことができるのですから、シュリー・バララーマは主の慈悲の化身であり、精神指導者であり、また純粋な献身者を救うお方なのです。
節
pradyumnaḥ sarva-vṛṣṇīnāṁ
sukham āste mahā-rathaḥ
gambhīra-rayo ’niruddho
vardhate bhagavān uta
sukham āste mahā-rathaḥ
gambhīra-rayo ’niruddho
vardhate bhagavān uta
訳語
pradyumnaḥ—プラデュムナ(主クリシュナの子); sarva—全て; vṛṣṇīnām—ヴリシュヌ家の家族の; sukham—幸福; āste—~にいる; mahā-rathaḥ—偉大な将軍; gambhīra—深く; rayaḥ—利口さ; aniruddhaḥ—アニルッダ(主クリシュナの孫); vardhate—繁栄している; bhagavān—人格神; uta—~に違いない。
翻訳
ヴリシュニ家の偉大な将軍であるプラデュムナ様はいかがお過ごしか。幸せに暮らしておられるだろうか。人格神の完全拡張体、アニルッダ様はつつがなくお過ごしだろうか。
解説
プラデュムナとアニルッダも人格神の拡張体ですから、どちらもヴィシュヌ・タットゥヴァです。主ヴァースデーヴァはドヴァーラカーで、自分の完全拡張体、すなわちサンカルシャナ、プラデュムナ、アニルッダと超越的な遊戯を楽しんでおり、ここでアニルッダという名前と関連づけて述べられているように、全員が人格神と呼ばれています。
節
suṣeṇaś cārudeṣṇaś ca
sāmbo jāmbavatī-sutaḥ
anye ca kārṣṇi-pravarāḥ
saputrā ṛṣabhādayaḥ
sāmbo jāmbavatī-sutaḥ
anye ca kārṣṇi-pravarāḥ
saputrā ṛṣabhādayaḥ
訳語
suṣeṇaḥ—スシェーナ; cārudeṣṇaḥ—チャールデーシュナ; ca—そして; sāmbaḥ—サーンバ; jāmbavatī-sutaḥ—ジャーンバヴァティーの息子; anye—他の者たち; ca—もまた; kārṣṇi—主クリシュナの子どもたち; pravarāḥ—全員が指導者; sa-putrāḥ—彼らの子どもたちと共に; ṛṣabha—リシャバ; ādayaḥ—~など。
翻訳
主クリシュナの主要な子たち、スシェーナ、チャールデーシュナ、ジャーンバヴァティーの息子サーンバ、リシャバ、そしてその彼らの子どもたちは全員すこやかに暮らしているだろうか。
解説
すでに述べられたように、主クリシュナは16,108人の女性と結婚し、それぞれ10人の子をもうけています。つまり、16,108×10=161,080人の子がいるということになります。それぞれ成長し、さらに父親と同じように多くの子をもうけ、主には総勢1,610,800人近くの家族がいたことになります。主は全生命体の父親であり、その数は計り知れません。ですからその中の数人だけが、この地球でドヴァーラカーの主として現れた彼の崇高な遊戯において、主と交流することができたのです。主がそれほどの家族を目に見える形で維持していたとしても、特に驚くべきことではありません。主の立場と私たちの立場を比べることは避けるべきであり、少なくとも主の超越的な立場を少しでも理解すれば、私たちはそのことを簡単明瞭な真理として悟ることができます。ユディシュティラ王は、ドヴァーラカーにいる主の子どもや孫たちについて尋ねましたが、とりわけ主要な名前だけを挙げています。その家族の構成員全員の名前を思い出すことなど到底できないことだったからです。
節
tathaivānucarāḥ śaureḥ
śrutadevoddhavādayaḥ
sunanda-nanda-śīrṣaṇyā
ye cānye sātvatarṣabhāḥ
śrutadevoddhavādayaḥ
sunanda-nanda-śīrṣaṇyā
ye cānye sātvatarṣabhāḥ
api svasty āsate sarve
rāma-kṛṣṇa-bhujāśrayāḥ
api smaranti kuśalam
asmākaṁ baddha-sauhṛdāḥ
rāma-kṛṣṇa-bhujāśrayāḥ
api smaranti kuśalam
asmākaṁ baddha-sauhṛdāḥ
訳語
tathā eva—同様に; anucarāḥ—絶えず共にいる者; śaureḥ—~といった、主シュリー・クリシュナの; śrutadeva—シュルタデーヴァ; uddhava-ādayaḥ—ウッダヴァ、そして他の者たち; sunanda—スナンダ; nanda—ナンダ; śīrṣaṇyāḥ—他の指導者たち; ye—彼ら全員; ca—そして; anye—他の者たち; sātvata—解放された魂たち; ṛṣabhāḥ—最善の者たち; api—~かどうか; svasti—健康に暮らしている; āsate—~である; sarve—彼ら全員; rāma—バララーマ; kṛṣṇa—主クリシュナ; bhuja-āśrayāḥ—~の保護下で; api—も~かどうか; smaranti—思い出す; kuśalam—幸福; asmākam—私たちについて; baddha-sauhṛdāḥ—永遠の友人関係に縛られて。
翻訳
またシュルタデーヴァ、ウッダヴァ、そして主といつも行動を共にするナンダ、スナンダのような解放された魂たちの指導者は主バララーマとクリシュナに守られている。彼らは、それぞれの職務を首尾よくこなしているだろうか。私たちと友人としての絆で永遠に結ばれている彼らは、私たちの幸せを思ってくれているだろうか。
解説
ウッダヴァのような、主といつも一緒にいる仲間たちは全員が解放された魂であり、主クリシュナの使命を実現させるために、主と一緒に物質界に降誕します。パーンダヴァ兄弟も解放された魂であり、地上で主の崇高な遊戯を通して主クリシュナに仕えるため共に降誕しました。『バガヴァッド・ギーター』(4-8)で言われているように、主と、そして主と同じように解放された魂である交流者たちは、特定の間隔をおいて地球に降りてきます。主は彼らを全て覚えているのですが、主の交流者たちは、解放された魂であっても、タタスタ・シャクティ(主の境界エネルギー)という立場ゆえに忘れてしまいます。それが、ヴィシュヌ・タットヴァとジーヴァ・タットヴァの違いです。ジーヴァ・タットヴァは主のわずかな力を備えた部分体であり、そのため、いつでも主に守られなくてはならない立場にいます。そして主は、そのような永遠の召使いをいつでも喜んで守ろうとします。ですから、解放された魂は、自分を主のように自由な身であるとか、主と同じ力を持っているとは考えず、物質界にいようが、精神界にいようが、どのような状況に置かれても主の保護を求めようとします。主に頼ろうとするこの解放された魂の思いは、魂そのものが本来備えているものです。解放された魂は火から出る火の粉のようなものであり、それは火から離れずに、火と共にありさえすればその火の輝きを同じように表すことができるからです。火から離れてしまった火の粉は、火の質は備えていてもやがて消えてしまいます。ですから、主の保護を拒否し、自分が主だと思い込んでしまう者たちは、厳しく長いタパスャをしても、精神的な本質を知らないために、この物質界に再び戻って来ます。それが全てのヴェーダ経典の見解です。
節
bhagavān api govindo
brahmaṇyo bhakta-vatsalaḥ
kaccit pure sudharmāyāṁ
sukham āste suhṛd-vṛtaḥ
brahmaṇyo bhakta-vatsalaḥ
kaccit pure sudharmāyāṁ
sukham āste suhṛd-vṛtaḥ
訳語
bhagavān—人格神、クリシュナ; api—もまた; govindaḥ—牛、感覚を活気づける者; brahmaṇyaḥ—ブラーフマナの献身者を強く愛して; bhakta-vatsalaḥ—献身者に優しい; kaccit—~かどうか; pure—ドヴァーラカー・プリーで; sudharmāyām—敬虔な集まり; sukham—幸福; āste—楽しむ; suhṛt-vṛtaḥ—友人たちに囲まれて。
翻訳
主クリシュナ、至高人格神、そして牛と感覚とブラーフマナに喜びを与える方、さらに自分の献身者にとても愛情深い方は、友人たちに囲まれて、ドヴァーラカーに住む敬虔な人々との集いを楽しんでおられるのだろうか。
解説
主はこの特別な節で、バガヴァーン、ゴーヴィンダ、ブラフマニャ、そしてバクタ・ヴァトツァラという名前で呼ばれています。主はバガヴァーン・スヴァヤム、すなわち根源の至高人格神であり、全ての富、全ての力、全ての知識、全ての美しさ、全ての名声、全ての放棄心を備えたお方です。主に等しく、そして主に勝る者はいません。主は牛と感覚に喜びを与えるため、その名をゴーヴィンダといいます。主への献身奉仕を通して感覚を純粋にした人は、主に本当の奉仕を捧げることができ、その純粋になった感覚から超越的な喜びを感じることができます。純粋ではなく、束縛された生命体だけが、感覚から全く喜びを得ることができず、間違った感覚の喜びに惑わされているため、感覚の召使いになっています。ですから私たちは、自分の利益のためにも主に守られなくてはなりません。主は牛とブラーフマナの文化を守るお方です。牛もブラーフマナ文化も守られていない社会は主に直接守られることはなく、それはまるで、刑務所にいる囚人たちが王に守られているのではなく、王の冷酷な代理人に守られている状態と同じです。社会の中で牛が守られる、そして少なくとも社会の一部で、ブラーフマナの気質を修養しなければ、人間文化は少しも繁栄することはできません。ブラーフマナの文化によって、眠っている徳の気質、すなわち誠実さ、平静さ、感覚の抑制、忍耐心、率直さ、一般的知識、超越的知識、ヴェーダの知恵に対する固い信念を高めることでブラーフマナになり、主をありのままに見ることができるようになります。そして、ブラーフマナとして完成の境地を得た後に、主の献身者になり、所有者、主人、友人、息子、愛する者という姿を通して、主の愛情を手に入れることができます。主の超越的な愛情を引きつけることのできる献身者の境地は、上記のようなブラーフマナの質を高めてこそ得られるものです。主が魅了されるのはブラーフマナの気質であって、偽の地位ではありません。ブラーフマナよりも劣る質を持つ人は、主とどのような関係をも築くことはできません。それは、木と土には関係があっても、木がなければ土だけで火をおこすことができない状況と同じです。主は自らの内で完璧なお方ですから、主が幸せかどうかを尋ねる必要はなく、マハーラージャ・ユディシュティラもそのような質問はしていません。したがって主が住んでいる場所、つまりドヴァーラカー・プリーという敬虔な人々が集まっている場所について尋ねているのです。主は、敬虔な人々が集うところにしかいませんし、至高の真理が讃えられる場所にいることに喜びを感じます。マハーラージャ・ユディシュティラは、ドヴァーラカーの都に住む敬虔な人々のこと、そして彼らの敬虔な行いについて知りたがっていました。
節
maṅgalāya ca lokānāṁ
kṣemāya ca bhavāya ca
āste yadu-kulāmbhodhāv
ādyo ’nanta-sakhaḥ pumān
kṣemāya ca bhavāya ca
āste yadu-kulāmbhodhāv
ādyo ’nanta-sakhaḥ pumān
yad bāhu-daṇḍa-guptāyāṁ
sva-puryāṁ yadavo ’rcitāḥ
krīḍanti paramānandaṁ
mahā-pauruṣikā iva
sva-puryāṁ yadavo ’rcitāḥ
krīḍanti paramānandaṁ
mahā-pauruṣikā iva
訳語
maṅgalāya—あらゆる善のために; ca—もまた; lokānām—全惑星の; kṣemāya—保護のために; ca—そして; bhavāya—高まりのために; ca—もまた; āste—そこにいる; yadu-kula-ambhodhau—ヤドゥ王家という海の中に; ādyaḥ—根源のお方; ananta-sakhaḥ—アナンタ(バララーマ)との集まりの中で; pumān—至上の享楽者; yat—誰のもの; bāhu-daṇḍa-guptāyām—主の腕に守られて; sva-puryām—主の都市の中で; yadavaḥ—ヤドゥ王家の人々; arcitāḥ—彼らはその価値がある; krīḍanti—味わっている; parama-ānandam—超越的な喜び; mahā-pauruṣikāḥ—精神界の住民たち; iva—~のように。
翻訳
根源の人格神である享楽者、そして原初の主アナンタであるバララーマは、全宇宙の幸福、保護、普遍的な発達のために、ヤドゥ王家という海にとどまっておられる。そしてヤドゥ王家の人々は、主の腕に守られているため、精神界の住人のように生活を楽しんでいる。
解説
これまで何度も議論してきたように、人格神ヴィシュヌは、ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌとクシーローダカシャーイー・ヴィシュヌというふたつの能力で全ての宇宙の中に住んでいます。クシーローダカシャーイー・ヴィシュヌは宇宙の北側の頂点に自分の惑星を持っており、巨大な乳海に浮かぶバラデーヴァの化身、アナンタのベッドの上に横たわっています。そのことからマハーラージャ・ユディシュティラは、ヤドゥ王家を乳海と、そしてシュリー・バラデーヴァを主クリシュナが横たわっているアナンタと比較しています。またドヴァーラカーの住人をヴァイクンタ・ローカの解放された住人と比較しています。私たちが自分の目で見られる物質界をはるかに超えたところに、そして宇宙の7層の覆いを超えたところに原因の海があり、その海に全ての宇宙がフットボールのように浮かび、その原因の海を越えたところに、ブラフマンの光輝として一般的に知られている無限の精神界があります。この光輝の中には無数の精神的惑星が存在し、ヴァイクンタ惑星として知られています。そのヴァイクンタ惑星全ては、物質界にある最大の宇宙よりもはるかに巨大で、そのそれぞれに、主ヴィシュヌと全く同じ姿をした無数の住人たちが住んでいます。その住人たちはマハー・パウルシカ、すなわち主の奉仕に直接従事している人々、と呼ばれています。彼らはそれらの惑星の中で幸せに暮らしていて、苦しみもなく、完全な若々しさを備えて永遠に住み、喜びと知識に満ち、誕生、死、老い、病気のない、そしてカーラ、永遠の時に影響されずに生活を満喫しています。マハーラージャ・ユディシュティラは、ドヴァーラカーの住人をヴァイクンタにいるマハー・パウルシカと比較していますが、それは彼らが主と幸せに暮らしているからです。『バガヴァッド・ギーター』にはヴァイクンタローカについて多くの記述があり、そこではマドゥ・ダーマ、主の王国と述べられています。
節
yat-pāda-śuśrūṣaṇa-mukhya-karmaṇā
satyādayo dvy-aṣṭa-sahasra-yoṣitaḥ
nirjitya saṅkhye tri-daśāṁs tad-āśiṣo
haranti vajrāyudha-vallabhocitāḥ
satyādayo dvy-aṣṭa-sahasra-yoṣitaḥ
nirjitya saṅkhye tri-daśāṁs tad-āśiṣo
haranti vajrāyudha-vallabhocitāḥ
訳語
yat—~である者の; pāda—足; śuśrūṣaṇa—快適さの管理; mukhya—最も重要なこと; karmaṇā—~の行動によって; satya-ādayaḥ—サテャバーマーを筆頭とする女王たち; dvi-aṣṭa—8の2倍; sahasra—1,000; yoṣitaḥ—その女性; nirjitya—征服することで; saṅkhye—戦場で; tri-daśān—天国の住人たちの; tat-āśiṣaḥ—神々によって楽しまれるもの; haranti—取り去る; vajra-āyudha-vallabhā—雷を支配する人物の妻たち; ucitāḥ—価値がある。
翻訳
サテャバーマーを筆頭とするドヴァーラカーの女王たちは、全ての奉仕のなかで最も重要である、主の蓮華の御足を快適に保つことだけで、神々を打ち破るよう主に求めた。こうして彼女たちは、雷の支配者の妻たちに与えられた特権を楽しんだのである。
解説
サッティヤバーマー ドヴァーラカーにおける主シュリー・クリシュナの主要な女王の一人。主クリシュナはナラカースラを殺したあと、サッティヤバーマーを伴ってナラカースラの宮殿を訪ねました。また共にインドラローカにも行き、シャチーデーヴィーに迎えられ、シャチーデーヴィーは神々の母であるアディティにサッティヤバーマーを紹介しました。アディティはサテャバーマーをたいそう気にいり、主クリシュナが地上にとどまっている限り、永遠に若さを保っていられる恩恵を授けました。またアディティは彼女を、天界の惑星の神々が持つ特権を見せるために案内します。サッティヤバーマーは天界に咲くパーリジャータの花を見たとき、それをドヴァーラカーにある自分の宮殿に持ち帰りたいと思いました。ドヴァーラカーに戻った彼女は、自分の宮殿にパーリジャータの花を咲かせたいと夫にねだります。その宮殿は高価な宝石で飾られ、焼けつくような夏の間でも、まるで冷房が効いているかのように宮殿内部は涼しく保たれていました。彼女は、すばらしい夫がここにいることを告げるかのように宮殿をさまざまな旗で飾りました。ある時、夫と共にドラウパディーと会い、どうすれば夫を喜ばせることができるかということをドラウパディーから学びたいと思いました。ドラウパディーはそのことに精通していた女性です。なんといっても、5人の夫、つまりパーンダヴァ兄弟という夫たちを持ち、その誰もがドラウパディーに心から満足していたからです。ドラウパディーの教えを授かった彼女はとても喜び、心からの祝福を贈り、ドヴァーラカーに戻って行きました。サッティヤバーマーはサトラージットの娘です。主クリシュナが他界したあと、アルジュナがドヴァーラカーを訪ねたとき、サッティヤバーマーやルクミニーを含む全ての女王たちは主を思って深く嘆き悲しみました。人生の最期を迎えるときには、厳しい苦行をするために森に入っていきました。
サッティヤバーマーは天界の惑星からパーリジャータの花を持ってきてくれるよう夫にせがみ、そして主は、ありきたりの夫として妻を喜ばせるために品物を手に入れるために、神々から無理やり奪い取りました。すでに説明したことですが、主は多くの妻たちが何かを言いつけても、普通の男性のようにそれを叶えてあげることに特に頓着しているわけではありません。しかし、女王たちが優れた献身奉仕をし、主がどんな状況でも快適に暮らせるように気を遣っていてくれたからこそ、忠実で申し分のない夫としての役割を演じていました。地球に住む人間が天界から何かを手に入れることなど、特に神々だけが使っているパーリジャータの花を手に入れるなどありえないことです。それでも、女王たちは忠実な妻として仕えていたからこそ、天界の住人の偉大な妻の特権を楽しむことができました。言い換えれば、主は自分が作った創造界にあるもの全ての所有者ですから、ドヴァーラカーの女王たちには、宇宙のどこからであろうと、大変珍しいものを手に入れることなど、特に驚くことでもなかったのです。
節
yad bāhu-daṇḍābhyudayānujīvino
yadu-pravīrā hy akutobhayā muhuḥ
adhikramanty aṅghribhir āhṛtāṁ balāt
sabhāṁ sudharmāṁ sura-sattamocitām
yadu-pravīrā hy akutobhayā muhuḥ
adhikramanty aṅghribhir āhṛtāṁ balāt
sabhāṁ sudharmāṁ sura-sattamocitām
訳語
yat—~である者の; bāhu-daṇḍa—腕; abhyudaya—~に影響されて; anujīvinaḥ—いつも住んでいる; yadu—ヤドゥ王家の人々; pravīrāḥ—偉大な英雄たち; hi akutobhayāḥ—あらゆる状況でも恐れのない; muhuḥ—絶えず; adhikramanti—旅している; aṅghribhiḥ—足で; āhṛtām—もたらした; balāt—力づくで; sabhām—集会堂; sudharmām—スダルマー; sura-sat-tama—神々の中の最善者; ucitām—~に値する。
翻訳
ヤドゥ王家の最も気高い英雄たちは、主シュリー・クリシュナの腕に守られていたために、どのような状況にあっても恐れることはなかった。だからこそ彼らの足は、頂点の神々にふさわしかったスダルマー集会堂の地を踏むことができたのであり、そしてそれを彼らの手から奪い取ったのである。
解説
主に直接仕える人々は、主によっていかなる恐怖からも守られており、力づくで集められた品々であっても、その最高の質を楽しみます。主は全ての生命体と等しく接しますが、とりわけ純粋な献身者には強い愛情を感じているので彼らを大切にします。ドヴァーラカーの都は、物質界で最高の質を備えたものにあふれ、繁栄を極めていました。国の集会堂は、その国の威厳に基づいて建てられます。天界の惑星にある集会堂をスダルマーといい、最高位の神々の威厳にふさわしいものとされています。そのような集会堂は地上の国々とは全く無縁の建物です。地球の人間は、どれほど国が物質的に繁栄していても、そのような建築物を建てることはできないからです。ところがヤドゥ王家の人々は、主クリシュナが地上にいたとき、その天界の集会堂を力づくで地球に取り寄せてドヴァーラカーに設置しました。彼らがそのような力を行使できたのは、至高主クリシュナが自分たちに寛大であること、自分たちを守っていることを確信していたからです。言い換えれば、主は純粋な献身者から宇宙で最も優れたものを提供される、ということです。主クリシュナは、ヤドゥ王家の人々から宇宙で手に入る快適な環境と便宜を全て提供されていたのであり、その返礼として主の召使いたちは守られ、恐れることなく暮らすことができたのです。
忘れやすく、束縛された魂は恐れを感じています。しかし、解放された魂は絶対に恐れません。父親の慈悲に完全にすがっている小さな子どもが誰も怖がらないのと同じです。生命体が眠っている状態にあり、主との永遠の絆を忘れている時、彼にとって、恐れとは一種の幻想です。『バガヴァッド・ギーター』(2-20)で言われているように、生命体は決して死なないのですから、恐れる理由などどこにもありません。ある人が虎の夢を見て怖がっているとしても、起きて横にいる人は、虎がいないのを知っています。虎は、夢を見ている人、目覚めている人どちらにとっても架空の存在です。本当は虎などどこにもいないのです。しかし、目覚めているときのことを忘れている人には恐怖そのものである一方、自分本来の立場を忘れていない人にとって恐怖はどこにも存在しません。ヤドゥ王家の人々は主への奉仕を通して完全に目覚めているため、どんな時でも、彼らにとって恐ろしい虎など存在しませんでした。またたとえ本物の虎がいたとしても、主はそこで彼らを守ってくれたことでしょう。
節
kaccit te ’nāmayaṁ tāta
bhraṣṭa-tejā vibhāsi me
alabdha-māno ’vajñātaḥ
kiṁ vā tāta ciroṣitaḥ
bhraṣṭa-tejā vibhāsi me
alabdha-māno ’vajñātaḥ
kiṁ vā tāta ciroṣitaḥ
訳語
kaccit—~かどうか; te—あなたの; anāmayam—健康である; tāta—弟よ; bhraṣṭa—失って; tejāḥ—輝き; vibhāsi—~に見える; me—私にとって; alabdha-mānaḥ—敬意がない; avajñātaḥ—無視されて; kim—~かどうか; vā—または; tāta—弟よ; ciroṣitaḥ—長期の住居ゆえに。
翻訳
私の弟アルジュナよ、今健康かどうか教えてくれ。私には、君が体の輝きを失っているように見えるのだ。ドヴァーラカーに長くいたために、人から無礼を受けたり無視されたりしたのか。
解説
マハーラージャは、あらゆる角度からアルジュナにドヴァーラカーの安泰について尋ねましたが、最後は、主シュリー・クリシュナがそこにいる限り、不吉なことなど起こるはずがないと断定しました。しかし同時に、アルジュナが本来の体の輝きを失ったように思えたので、アルジュナの個人的な幸せについて尋ね、そして多くの重要な質問をしています。
節
kaccin nābhihato ’bhāvaiḥ
śabdādibhir amaṅgalaiḥ
na dattam uktam arthibhya
āśayā yat pratiśrutam
śabdādibhir amaṅgalaiḥ
na dattam uktam arthibhya
āśayā yat pratiśrutam
訳語
kaccit—~かどうか; na—できなかった; abhihataḥ—~に呼ばれた; abhāvaiḥ—不親切に; śabda-ādibhiḥ—音によって; amaṅgalaiḥ—不吉な; na—しなかった; dattam—慈善を施す; uktam—言われて; arthibhyaḥ—頼んだ者に; āśayā—希望と共に; yat—何; pratiśrutam—払うと約束された。
翻訳
誰かが君に冷たい言葉をかけたのか、それとも君を脅したのか。慈善を乞うた者に応えられなかったのか、あるいは誰かとの約束を破ったとでもいうのか。
解説
クシャトリヤや裕福な人は、金銭を必要としている人たちの訪問を受けることがあります。財産を持つ人は、寄付を乞われるとき、相手、場所、時間を考慮した上で応えなくてはなりません。クシャトリヤや裕福な人物がこの義務をまっとうできなければ、そのような言動の不一致を悔やむはずです。同じように、慈善を施す約束を破ってはなりません。このような不一致はときに失望の原因となり、義務をまっとうできなかった人が非難されることがあります。これがアルジュナの苦境の原因だったのかもしれません。
節
kaccit tvaṁ brāhmaṇaṁ bālaṁ
gāṁ vṛddhaṁ rogiṇaṁ striyam
śaraṇopasṛtaṁ sattvaṁ
nātyākṣīḥ śaraṇa-pradaḥ
gāṁ vṛddhaṁ rogiṇaṁ striyam
śaraṇopasṛtaṁ sattvaṁ
nātyākṣīḥ śaraṇa-pradaḥ
訳語
kaccit—~かどうか; tvam—あなた自身; brāhmaṇam—ブラーフマナたち; bālam—子ども; gām—牛; vṛddham—年老いた; rogiṇam—病人; striyam—女性; śaraṇa-upasṛtam—助けを求められて; sattvam—どの生命体も; na—~かどうか; atyākṣīḥ—庇護を与えずに; śaraṇa-pradaḥ—保護されるに値する。
翻訳
君はいつも、ブラーフマナ、子ども、牛、女性、そして病人など、守られるべき者たちを守ってきた。そんな彼らが君に救いを求めてきた時に保護できなかったのだろうか。
解説
ブラーフマナは、社会が物質的にも精神的にも幸せになれるよう、いつも知識を高めようとしているので、あらゆる面で国王の保護を受ける資格を備えています。同じように、国内の子ども、牛、病人、女性、老人などは特に、国からの、あるいはクシャトリヤである国王の保護が必要です。仮に、そのような生命体たちがクシャトリヤ、王家、国家によって守られなければ、それはクシャトリヤや国にとって実に恥ずべきことです。マハーラージャ・ユディシュティラは、アルジュナにそのような義務の不履行が実際に起こったのではと案じ、アルジュナに尋ねました。
節
kaccit tvaṁ nāgamo ’gamyāṁ
gamyāṁ vāsat-kṛtāṁ striyam
parājito vātha bhavān
nottamair nāsamaiḥ pathi
gamyāṁ vāsat-kṛtāṁ striyam
parājito vātha bhavān
nottamair nāsamaiḥ pathi
訳語
kaccit—~かどうか; tvam—あなた自身; na—ではない; agamaḥ—触れた; agamyām—弾劾すべき; gamyām—ふさわしい; vā—どちらか; asat-kṛtām—不適切に扱った; striyam—ある女性; parājitaḥ—に負けて; vā—どちらか; atha—結局; bhavān—あなた自身; na—もまた〜ない; uttamaiḥ—優位な力によって; na—ではない; asamaiḥ—等しい者によって; pathi—道で.
翻訳
非難されてしかるべき女性とでも交わったのか、あるいはふさわしい女性を適切にもてなさなかったのか。それとも、君よりも弱い者か同じ力を持つ者に破れたのか。
解説
この節からは、パーンダヴァ兄弟がいた当時は、男性と女性の自由な交わりは、ある一定の条件下だけで許されていたことがわかります。優れた家系、つまりブラーフマナとクシャトリヤの男性は、ヴァイシャあるいはシュードラ階級の女性を妻として迎えることができますが、身分が劣る男性は高い身分の女性と交わることはできませんでした。クシャトリヤの男性でも、ブラーフマナの女性と結ばれることはできません。ブラーフマナの妻は、7人の母(実母、精神指導者あるいは教師の妻、ブラーフマナの妻、国王の妻、牛、乳母、地球)の一人と考えられています。このような男女間の接触をウッタマあるいはアダマと言います。ブラーフマナの男性とクシャトリヤの女性の結びつきはウッタマですが、クシャトリヤの男性とブラーフマナの女性の関係はアダマとされ、非難の対象になります。女性から交際を求められた男性は拒否すべきではありませんが、同時に、上記のような状況も考慮しなくてはなりません。ビーマは、ヒディンビーというシュードラ以下の女性から求愛され、またヤヤーティは、シュクラーチャーリャがブラーフマナだったために、その娘との結婚を断りました。またブラーフマナだったヴィヤーサデーヴァは、パーンドゥとドリタラーシュトラをもうけるために結婚を要請されました。サッティヤヴァティーは漁師の家の娘でしたが、偉大なブラーフマナであるパラーシャラはサッティヤヴァティーとの間にヴィヤーサデーヴァをもうけています。このように、女性との交わりについては多くの例が残されていますが、いずれの場合でもそれが忌まわしいものとなったり、その接触の結果が悪いものになったりしたわけではありません。男性と女性の交わりは自然なことですが、それは規定原則に基づいてなされるべきであり、そうすれば、社会が乱されることなく神聖な秩序を保ち、不必要で無価値な子孫が作られて世界が不安定になるのを避けることができます。
クシャトリヤが、力関係で劣った相手、または等しい相手に負けるのは不名誉なことです。負けるとすれば、自分よりも優れた力量を持つ相手でなくてはなりません。アルジュナはビーシュマデーヴァに負けそうになったのですが、主クリシュナは、その窮地からアルジュナを救いました。しかし、そのことがアルジュナの名誉を傷つけたわけではありません。ビーシュマデーヴァは、年齢、尊さ、力など、あらゆる面でアルジュナよりも優れていた人物でした。一方カルナはアルジュナと互角の力を持っていたため、アルジュナはカルナとの戦いで窮地に陥りました。アルジュナは危機的状況に置かれ、そのために、カルナは不正な手段を使ってでも殺されなくてはなりませんでした。それはクシャトリヤの間でよく行なわれることで、だからこそマハーラージャ・ユディシュティラは弟に、ドヴァーラカーから故郷に戻って来るとき、何か望ましくないことが起こったのではないか、と尋ねているのです。
節
api svit parya-bhuṅkthās tvaṁ
sambhojyān vṛddha-bālakān
jugupsitaṁ karma kiñcit
kṛtavān na yad akṣamam
sambhojyān vṛddha-bālakān
jugupsitaṁ karma kiñcit
kṛtavān na yad akṣamam
訳語
api svit—もし~そうだとしたら; parya—放置することで; bhuṅkthāḥ—食事をした; tvam—あなた自身; sambhojyān—共に食事をするにふさわしい; vṛddha—老人; bālakān—少年; jugupsitam—非道な; karma—行為; kiñcit—何か; kṛtavān—あなたはしたに違いない; na—ではない; yat—~であるもの; akṣamam—許せない。
翻訳
君と食事を共にするべき老人や少年らを招かなかったのか。彼らを放っておいて、自分だけ食事をしてしまったのか。あるいは、非道な許しがたい間違いを犯してしまったのか。
解説
世帯者なら、食事を最初に家族の子ども全員、そして老人、ブラーフマナ、病弱な人々に提供する義務があります。さらに理想的な世帯者は、飢えている人がいれば、たとえ見知らぬ人であっても招き、自分よりも先に食事を食べてもらわなくてはなりません。空腹な人がいないかどうか、道路に出て3度呼ぶのも世帯者の務めです。このような定められた義務を無視し、特に老人や子どもたちの世話を無視すれば、それは許されない行為といえます。
節
kaccit preṣṭhatamenātha
hṛdayenātma-bandhunā
śūnyo ’smi rahito nityaṁ
manyase te ’nyathā na ruk
hṛdayenātma-bandhunā
śūnyo ’smi rahito nityaṁ
manyase te ’nyathā na ruk
訳語
kaccit—~かどうか; preṣṭha-tamena—最も愛しい者に; atha—私の弟アルジュナ; hṛdayena—最も親しい; ātma-bandhunā—自分の友、主クリシュナ; śūnyaḥ—空虚な; asmi—私は~である; rahitaḥ—失って; nityam—いつまでも; manyase—あなたは考える; te—あなたの; anyathā—さもなければ; na—決して~にない; ruk—心の苦しみ。
翻訳
それとも、最も親しい友、主クリシュナを失ったことで底知れぬむなしさを感じているのだろうか。アルジュナよ。私には、君がこれほどふさぎこんでいる理由は他には考えられないのだ。
解説
世界が変わっていくその理由をマハーラージャ・ユディシュティラは知ろうとしているのですが、それはすでに彼自身が、主シュリー・クリシュナがこの世界から去ったのではないかと推測した考えに基づいており、それは今、アルジュナが見せている深い落胆の表情から明らかになっています。それ以外に、アルジュナがこれほどふさぎ込む理由がなかったからです。ですから、マハーラージャ・ユディシュティラはその推測が当たっているのか定かではないのですが、シュリー・ナーラダがそれとなく話したことに基づいて、アルジュナに率直に尋ねるしかなかったのです。
これで、バクティヴェーダンタによる『シュリーマド・バーガヴァタム』、第1編・第14章、「主クリシュナの他界」の解説を終了します。