シュリーマド・バーガヴァタム 1.14.8
節
api devarṣiṇādiṣṭaḥ
sa kālo ’yam upasthitaḥ
yadātmano ’ṅgam ākrīḍaṁ
bhagavān utsisṛkṣati
sa kālo ’yam upasthitaḥ
yadātmano ’ṅgam ākrīḍaṁ
bhagavān utsisṛkṣati
訳語
api—~かどうか; deva-ṛṣiṇā—神々・聖者(ナーラダ)によって; ādiṣṭaḥ—教えた; saḥ—それ; kālaḥ—永遠なる時; ayam—これ; upasthitaḥ—到着した; yadā—~の時; ātmanaḥ—主自身の; aṅgam—完全部分; ākrīḍam—表れ; bhagavān—人格神; utsisṛkṣati—終わろうとしている。
翻訳
デーヴァリシ・ナーラダがそれとなく語られたように、主は地上での遊戯を終わらせようとされているのだろうか。もうその時が来てしまったのだろうか。
解説
何度も話してきたように、至高人格神、主シュリー・クリシュナは、無数の完全拡張体を持ち、そのどれもが等しい力を備えてはいても、別々の機能を果たします。『バガヴァッド・ギーター』には主自ら語った言葉があり、それぞれさまざまな完全部分体あるいは完全部分体の部分体に向けられています。例えば『バガヴァッド・ギーター』で主クリシュナはこのようにおっしゃっています:
「宗教が正しく実践されなくなったとき、反宗教的な風潮が世にはびこったとき、バラタ王の子孫よ、私はいつどこへでも現れる(4-7)」
「信心深い者を助け、邪悪な者をこらしめ、宗教原則を再確立するために、私はどの時代にも降臨する(4-8)」
「もし私が義務を怠れば、三界は破滅するであろう。望ましくない人間を創り出す原因となり、生命体全ての平和を脅かすことになるのだ(3-24)」
「何事によらず偉人の行ったことに、庶民はつき従っていくものだ。彼が立派な行為で模範を示せば、世界中がその道をたどることとなる(3-21)」
このような主の言葉は、主のさまざまな完全部分体、すなわちサンカルシャナ、ヴァースデーヴァ、プラデュムナ、アニルッダ、ナーラーヤナといった主の拡張体を指しています。これらはどれも、主の超越的な拡張体としての主自身ですが、主シュリー・クリシュナの場合、さまざまな段階の献身者たちと崇高な交流をしながら活動します。そしてなおかつ主クリシュナは、ブラフマーの時間の24時間(86億年)に1回、各宇宙に本来の姿で現れ、そしてその崇高な遊戯全てが、規則的な一連の流れの中で、各宇宙で展開されるのです。しかしその規則的な流れでなされる主クリシュナ、主ヴァースデーヴァなどの活動は、無知な人々にとってはあまりにも複雑なため、理解できるものではありません。主自身と主の超越的な体の間に違いはありません。拡張体はさまざまな活動を行ないますが、主が主シュリー・クリシュナとして降誕するとき、主の他の完全部分体がヨーガマーヤーと呼ばれる想像を絶する力で主と一体になります。そのためヴリンダーヴァナの主クリシュナは、マトゥラーのクリシュナとも、そしてドヴァーラカーのクリシュナとも違っています。ヴィラーット・ルーパにしても、想像を絶する主の力ゆえに、主クリシュナと同じ存在ではありません。クルクシェートラの戦場で示されたヴィラート・ルーパは、主の物質的観念の姿です。ですから、一見、主クリシュナは狩人の矢で殺されたように見えるのですが、私たちは、主がいわゆる物質的な体を物質界に残したと理解しなくてはなりません。主はカイヴァリャであり、全ては主から作り出されたのですから、主にとっては物質も精神も全く同じです。ですから、主がある種類の体を捨てたり、あるいは別の体を受け入れたりしても、主が普通の生命体と同じということではありません。このような活動はどれも、主の想像を絶する力ゆえに、ひとつであると同時に異なっているのです。マハーラージャ・ユディシュティラが、主の他界の可能性を嘆いているのは、一人の偉大な友人の他界を嘆いているだけのことであり、実際に主は、知性のない人たちが考えるように、その超越的な体を捨ててしまうわけではありません。その程度の知性しかない人たちは、主自身が『バガヴァッド・ギーター』で、ムーダという名前を使って非難しています。主が自分の体を残していったということはちょうど主が物質界にヴィラーット・ルーパを残して行ったように、主がそれぞれのダーマ(超越的な住処)に完全部分体を残して行ったということです。