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解説

第18章

放棄の完成

arjuna uvāca
sannyāsasya mahā-bāho
tattvam icchāmi veditum
tyāgasya ca hṛṣīkeśa
pṛthak keśi-niṣūdana

訳語

翻訳

アルジュナは言った。
強靭武装なるお方よ
悪魔ケーシーを滅ぼした感覚の主人であるお方よ
放棄(テャーガ)と放棄階級(サンニャーサ)の目的について
私は知りたいのです。

解説

 実際には『バガヴァッド・ギーター』は第17章で完結していて、第18章はそれまでに語られたことの補足的まとめである。主クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』の全章で、至高人格神への献身奉仕こそが人生の究極的目的であることを強調しておられるが、まさにその同じポイントが第18章の中で、最も秘奥な知識への道として要約されている。最初の6つの章では yoginām api sarveṣām「あらゆるヨーギーまたは超越主義者の中でも、常に私に思いを馳せている者が最高である」と献身奉仕を強調なさった。また続く6つの章では、純粋な献身奉仕とその質および活動について語られた。そして最後の6つの章では知識、放棄、物質自然と超越自然の活動、献身奉仕について説明され、すべての活動はオーム、タット、サットという言葉で表される至高主、すなわち至高なるヴィシュヌに結びついていなければならないという結論に達している。『バガヴァッド・ギーター』の第三部とも言うべきこの最後の6つの章は、人生の本質的な目標は献身奉仕であって、それに代わるものは存在しないことを示しているのだ。過去のアーチャーリャや『ブラフマ・スートラ』すなわち『ヴェーダーンタ・スートラ』を引用してそのことが立証されている。非人格主義者の中には、自分だけが『ヴェーダーンタ・スートラ』の知識を知っているような顔をする者もいるが、実際にはこれは献身奉仕を理解するためのものである。なぜなら『ヴェーダーンタ・スートラ』を編纂したのは主御自身であり、主こそがこれを知るお方だからである。そのことは第15章で説明されている。どの経典においても、どのヴェーダにおいても、対象となっているのは献身奉仕なのである。『バガヴァッド・ギーター』はそのことを説明している。
 第2章で『バガヴァッド・ギーター』の全概要が述べられているように、第18章では全教示がまとめられている。放棄することと物質自然の三様式を超えた超越的段階に達することこそ、人生の目的である。アルジュナは放棄(テャーガ)と放棄階級(サンニャーサ)という『バガヴァッド・ギーター』のふたつの主題を明確にしたいという思いから質問をした。
 この節の中で至高主への呼びかけとして用いられている「フリシーケーシャ」と「ケーシ・ニシューダナ」というふたつのサンスクリット語は重要である。「フリシーケーシャ」とはすべての感覚の主という意味で、私たちの心が平静を保てるように助けてくださるクリシュナのことである。アルジュナは、平静心を保てるようにすべてを要約してくださいとクリシュナにお願いした。それでもまだ疑いの気持ちが晴れない。疑いは常に悪魔にたとえられる。だからクリシュナのことをケーシ・ニシューダナと呼びかけたのである。ケーシーは主に滅ぼされた悪魔の中でも最も恐ろしい者であり、今アルジュナはクリシュナに疑いという悪魔を殺してくださいと願っているのだ。
śrī-bhagavān uvāca
kāmyānāṁ karmaṇāṁ nyāsaṁ
sannyāsaṁ kavayo viduḥ
sarva-karma-phala-tyāgaṁ
prāhus tyāgaṁ vicakṣaṇāḥ

訳語

翻訳

至高人格神は言った。
物質欲に基づく活動をやめることを
卓越して博学な者は放棄階級(サンニャーサ)と呼び
あらゆる活動の結果を捨てることを
賢者は放棄(ディヤーガ)と呼ぶ。

解説

 結果を期待する活動はやめなくてはならない。これが『バガヴァッド・ギーター』の教えである。しかし精神的知識の育成につながる活動を投げ出してはならず、そのことは続く節の中で明らかにされていく。ヴェーダ文献には、特定の目的のために行われるさまざまな供養のことが規定されている。良い子供をもうけるための供養や、高位の惑星に昇るための特定の供養があるが、欲望にかられた供養は行うべきではない。しかしハートを浄化するためや精神科学を向上させるための供養は、放棄してはならない。
tyājyaṁ doṣa-vad ity eke
karma prāhur manīṣiṇaḥ
yajña-dāna-tapaḥ-karma
na tyājyam iti cāpare

訳語

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結果を求める活動はすべて過ちとし
放棄せよと主張する賢者もいれば
供養、慈善、苦行などの活動は
やめてはならぬと考える賢者もいる。

解説

 ヴェーダ文献の中には論争の主題となる多くの行為がある。例えば、供養では動物を殺してよいとされているが、いかなる理由であれ動物を殺すことすべてが忌まわしい行為であるという考え方を支持する人もいる。ヴェーダ文献では供養で動物を殺すことを認めていて、これは殺しとはみなされない。供養はその動物に新しい命を与えるのである。供養で殺されたあと、別の動物として新しい命が与えられる場合もあれば、直ちに人間として生まれ変わるという向上を遂げる場合もある。それでも賢者の間ではさまざまに意見が分かれる。どのような場合でも動物を殺してはならないという者もいれば、特別な供養の場合はよしとする者もいる。供養に関するこうした意見の相違について、主御自身が明らかにしてくださる。
niścayaṁ śṛṇu me tatra
tyāge bharata-sattama
tyāgo hi puruṣa-vyāghra
tri-vidhaḥ samprakīrtitaḥ

訳語

翻訳

バーラタ家の最たる者よ
放棄に関する私の判断に耳を傾けよ。
人間界の虎よ
放棄には3種類あると経典は宣言している。

解説

 放棄に関してはさまざまな意見が飛び交っているが、至高人格神シュリー・クリシュナはここでその判断を下しておられる。私たちはこれを決定的なものとして受け入れなくてはならない。なんといってもヴェーダは、主から授かったさまざまな法律である。主が実際にそこにおられるのであり、そのお言葉は決定的なものとして受け入れるべきである。そして同じ放棄でも物質の様式によってそのプロセスはさまざまだということを、よく心得ておかなければならないと主はおっしゃる。
yajña-dāna-tapaḥ-karma
na tyājyaṁ kāryam eva tat
yajño dānaṁ tapaś caiva
pāvanāni manīṣiṇām

訳語

翻訳

供養、慈善、苦行の行為を投げ出してはならない。
実際に供養、慈善、苦行は
偉大な魂さえをも浄化する。

解説

 ヨーギーは人間社会の向上のために活動すべきである。人間を精神生活の段階まで引き上げるための浄化法はいろいろある。例えば結婚式もそうした供養のひとつとみなされ、これはヴィヴァーハ・ヤジュニャと呼ばれる。家庭生活を離れて放棄階級に身を置くサンニャーシーが結婚式を奨励すべきであろうか? 人間の福祉のために行う供養は、いかなるものであろうと決してやめてはならないと主は言われる。結婚の儀式であるヴィヴァーハ・ヤジュニャは、心をいつも穏やかにして精神的に向上できるようにするためのものである。放棄階級にある人でさえ、このヴィヴァーハ・ヤジュニャは大多数の人に奨励すべきである。サンニャーシーは女性とは決して関わってはならないが、これはまだ人生の浅い段階にある青年が結婚式をして妻をめとってはならないという意味ではない。あらゆる規定原則は至高主に到達するためにあるのだから、まだ低い段階のうちは守り続けなくてはならない。慈善も同様にハートを浄化するためのものであり、以前にも説明されたように、しかるべき人に対して慈善を施せばそれは精神生活を向上させるのである。
etāny api tu karmāṇi
saṅgaṁ tyaktvā phalāni ca
kartavyānīti me pārtha
niścitaṁ matam uttamam

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これらの活動は執着を持たず
結果を期待せずに行わなくてはならない。
プリターの子よ
ただ義務として行うのだ。
これが私の究極的な見解である。

解説

 供養にはすべて浄化の力があるが、その結果を期待して行ってはならない。つまり物質面の向上を求める供養はすべきでないが、自己の存在を清めて精神的に向上するための供養はすべきだということである。何事もクリシュナ意識へ導くものは積極的に受け入れるべきであり、『シュリーマド・バーガヴァタム』にも「主への献身奉仕に結びつく活動は受け入れなさい」と書かれている。それが宗教の最高基準である。主の献身者たる者は供養であれ、慈善であれ、いかなる仕事であれ、それが主への献身奉仕につながるのなら受け入れるべきなのだ。
niyatasya tu sannyāsaḥ
karmaṇo nopapadyate
mohāt tasya parityāgas
tāmasaḥ parikīrtitaḥ

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規定された義務は決して放棄してはならない。
幻想に惑わされて規定義務を投げ出すなら
そのような放棄は無知の様式のものと言われる。

解説

 物質面を満たそうとする活動はやめなくてはならないが、至高主のために料理して捧げたお下がりをいただくというような、精神的活動に結びつく行為は奨励されている。放棄階級にある者は自分のために料理することは禁じられているが、至高主のためにすることは許されている。同様にサンニャーシーは弟子のクリシュナ意識向上のために結婚式を行うこともあるが、こうした行いを放棄するならばそれは闇の様式で行動していると理解される。
duḥkham ity eva yat karma
kāya-kleśa-bhayāt tyajet
sa kṛtvā rājasaṁ tyāgaṁ
naiva tyāga-phalaṁ labhet

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困難だという理由から
あるいは体への不快感を恐れるがために
規定された義務を投げ出すことは
激情の様式の放棄である。
そのような行為を続けても
決して放棄の向上にはつながらない。

解説

 クリシュナ意識の人は、お金を稼ぐことが果報的な活動ではないかと恐れて投げ出してはならない。働いて稼いだお金をクリシュナ意識のために活用できるなら、また早起きすることが超越的なクリシュナ意識を育むことにつながるなら、恐れたり困難だからと言ってそれらの行為をやめてはならない。それは激情の様式の放棄であり、激情的な行動の結果は常に悲惨である。そのような思いで仕事を投げ出しても、決して放棄という結果を得ることにはならない。
kāryam ity eva yat karma
niyataṁ kriyate ’rjuna
saṅgaṁ tyaktvā phalaṁ caiva
sa tyāgaḥ sāttviko mataḥ

訳語

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アルジュナよ
為すべきという理由だけで規定された義務を果たし
物質的な交際をせず、結果に執着しない人の放棄は
徳の様式の放棄と呼ばれる。

解説

 規定された義務はこのような意識で遂行しなくてはならない。結果に執着することなく、仕事の様式の影響を受けることなく行動するのだ。クリシュナ意識の人は工場で働く場合、その仕事からも工場の労働者からも影響を受けることはない。ただクリシュナのために働いているだけであり、そのようにクリシュナのために結果を手放すなら、その人の行動は超越的である。
na dveṣṭy akuśalaṁ karma
kuśale nānuṣajjate
tyāgī sattva-samāviṣṭo
medhāvī chinna-saṁśayaḥ

訳語

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徳の様式にあって知性で物事を放棄している人は
不吉なものを嫌うこともなければ
吉兆なものに執着することもなく
為すべき仕事に疑いを持たない。

解説

 クリシュナ意識の人あるいは徳の様式にある人は、自分の体に苦痛を与える人や物に対しても嫌悪感を抱かない。面倒を恐れず、為すべき場所で為すべき時にきちんと義務を果たす。このように超越的な状態にある人は最も知性ある人であり、自分の為すべきことにまったく疑いを持っていない。
na hi deha-bhṛtā śakyaṁ
tyaktuṁ karmāṇy aśeṣataḥ
yas tu karma-phala-tyāgī
sa tyāgīty abhidhīyate

訳語

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体を与えられている生命体にとって
すべての活動をやめることは不可能である。
しかし活動の結果を放棄した者は
真の放棄者と呼ばれる。

解説

 いかなるときも人は活動をやめることはできないと『バガヴァッド・ギーター』は言う。ゆえに、クリシュナのために働き、その結果を自分で味わうことなくすべてクリシュナに捧げる人こそ、真の放棄者である。クリシュナ意識国際協会の会員の中には、会社や工場などで懸命に働いて得たお金を右から左へ協会に差し出す者もたくさんいるが、そのような崇高な魂こそ本当の放棄階級にあるサンニャーシーである。いかにして活動の結果を放棄するのか、いかなる目的のためにそうすべきなのかがここではっきりと説明されている。
aniṣṭam iṣṭaṁ miśraṁ ca
tri-vidhaṁ karmaṇaḥ phalam
bhavaty atyāgināṁ pretya
na tu sannyāsināṁ kvacit

訳語

翻訳

放棄しない者には
好ましいもの、好ましくないもの、両者の混ざったものという
三要素の活動の結果が死後生じる。
しかし放棄階級にある者には
苦しみや喜びを伴う結果はもたらされない。

解説

 クリシュナと自分との関係をよく理解して行動するクリシュナ意識の人は、常に解放されている。したがって死んだのちに、自分の行動の結果を味わったり苦しんだりすることはない。
pañcaitāni mahā-bāho
kāraṇāni nibodha me
sāṅkhye kṛtānte proktāni
siddhaye sarva-karmaṇām

訳語

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剛勇の士アルジュナよ
ヴェーダーンタには
あらゆる活動の元となる5つの要因が記されている。
私の語るその説明を聞くがよい。

解説

 「いかなる活動にも何らかの反動があるというのに、なぜクリシュナ意識の人は活動の反動で苦しんだり楽しんだりしないのか?」という疑問が生じるかもしれない。それがどうして可能なのか、主はヴェーダーンタ哲学を引用し、すべての活動には5つの要因があり、成功するにはそれらについて熟考しなくてはならないとおっしゃる。サーンキャとは知識の宝庫という意味で、ヴェーダーンタはあらゆる優れたアーチャーリャたちが受け入れた究極的な知識の宝庫である。かのシャンカラでさえ『ヴェーダーンタ・スートラ』をそのように受け入れている。ゆえに、そのような権威から助言を求めるべきなのだ。
 究極的な支配者は至高の魂であり、そのことは『バガヴァッド・ギーター』の中で sarvasya cāhaṁ hṛdi sanniviṣṭaḥ と説明されている。至高の魂はすべての者に過去の行動を思い出させ、特定の活動に就かせている。そして内なる至高の魂の指示に従ってクリシュナ意識で行った行動には、今生でも死後でも反動が生じないのである。
adhiṣṭhānaṁ tathā kartā
karaṇaṁ ca pṛthag-vidham
vividhāś ca pṛthak ceṣṭā
daivaṁ caivātra pañcamam

訳語

翻訳

活動の場(体)、行為者、さまざまな感覚、あらゆる努力
そして究極的には至高の魂
これらが活動の五要素である。

解説

 アディシュターナムというサンスクリット語は体のことである。体内にある魂は活動してその結果をもたらす。ゆえに魂はカルターすなわち「行為者」として知られている。魂は知覚する者であり行為者であると、シュルティは述べている。Eṣa hi draṣṭā sraṣṭā (『プラシュナ・ウパニシャッド』4-9)。また『ヴェーダーンタ・スートラ』の中でも、jño ’ta eva(2-3-18)と、kartā śāstrārthavattvāt(2-3-33)というふたつの節の中で、そのことが確証されている。行為の道具となるのが感覚であり、その感覚によって魂がさまざまに活動する。どんな活動をするにしてもそれなりの努力が必要であるが、全活動はハートの中に友として宿る至高の魂の意志にかかっている。至高主は至高の原因である。こうした状況のもとで、ハートに宿る至高の魂の指示に従ってクリシュナ意識で行動する人は、自然といかなる活動にも束縛されない。完全なクリシュナ意識でいる人は、究極的には自分の行動の責任を負わない。すべては至高の魂、すなわち至高人格神の至高なる意思に依存しているのである。
śarīra-vāṅ-manobhir yat
karma prārabhate naraḥ
nyāyyaṁ vā viparītaṁ vā
pañcaite tasya hetavaḥ

訳語

翻訳

正しいものであれ正しくないものであれ
体、心、言葉で人が行う行為には
この五要因がある。

解説

 この節では「正しい」「正しくない」というサンスクリット語が非常に重要である。正しい行為とは経典で定められている指示に従った行為であり、正しくない行為とは経典の教えに背く行為である。しかしいずれの行為であれ、それを完全なものとするにはこの5つの要因が必要なのだ。
tatraivaṁ sati kartāram
ātmānaṁ kevalaṁ tu yaḥ
paśyaty akṛta-buddhitvān
na sa paśyati durmatiḥ

訳語

翻訳

ゆえに自分だけが行為者であると考え
5つの要素についてよく考えない者は
明らかに知性が乏しく
物事をありのままに見ることができない人である。

解説

 至高の魂が友として自分の内に座し行動を指揮していることが、知性乏しき者には理解できない。物質的な原因は場所、行為者、努力、感覚であるが、究極的な原因は至高人格神である。ゆえにこうした4つの物質的原因だけでなく、最も力ある至高の原因に目を向けなくてはならない。至高主を見ない者は自分が行為者であると考えてしまう。
yasya nāhaṅkṛto bhāvo
buddhir yasya na lipyate
hatvāpi sa imāḻ lokān
na hanti na nibadhyate

訳語

翻訳

誤った自我意識に刺激されることなく
知性が混乱していない人は
この世界で人を殺しても殺すことなく
自分の行為に縛られることもない。

解説

 戦いたくないという望みは誤った自我意識から生じるものであることを、主はこの節の中でアルジュナに語っておられる。アルジュナは至高主が内にも外にも認可を与えているということを顧みず、自分が活動の行為者であると考えた。至高なる認可が存在することを知らない者は、行動の必要性が見いだせない。しかし行為の道具を理解し、自分はただ行為をする者であって究極的な認可を与えるのは至高主であるとわかっている者は、何をしてもすべて完璧であり、幻想に陥ることがない。自分勝手な行動や責務は間違った自我意識や不信心から、すなわちクリシュナ意識の欠如から生じる。至高の魂、すなわち至高人格神の指示に従ってクリシュナ意識で行動する人は、たとえ何かを殺したとしても殺しているわけではないし、その殺すという行為の反動を受けることもない。兵士が司令官の命令に従って人を殺したとしても裁かれることはないが、もし自分のために殺人を起こしたなら、間違いなく法廷で法の裁きを受けることになる。
jñānaṁ jñeyaṁ parijñātā
tri-vidhā karma-codanā
karaṇaṁ karma karteti
tri-vidhaḥ karma-saṅgrahaḥ

訳語

翻訳

知識、知識の対象物、知る者が
行動の原動力となる3つの要因であり
感覚、行為、行為者が
行為を構成する3つの要素である。

解説

 日常的な行為の原動力となるのは、知識、知識の対象、知る者の3つであり、行為の道具、行為そのもの、行為者は行為の構成要素と呼ばれる。人間のとる行動はすべてこれらの要素で構成されているのだ。行動を起こす前には何らかの刺激があり、これをインスピレーションと呼ぶ。実際に行為が形となる前に頭や心の中で思い浮かべたりすることも、目に見えない行為である。まず人は思う、感じる、望むという心理的な過程を踏むが、これが原動力と呼ばれるものである。その行為へのインスピレーションは経典から得ることもあるし、精神の師が与える教えの中から得ることもある。行為する者が存在してインスピレーションが湧き、全感覚の中心である心と感覚の助けにより、そこで実際の行動という形になる。行動を構成するすべての要素を総合したものが、行為の集積と呼ばれるのである。
jñānaṁ karma ca kartā ca
tridhaiva guṇa-bhedataḥ
procyate guṇa-saṅkhyāne
yathāvac chṛṇu tāny api

訳語

翻訳

物質自然の三様式に沿った3種類の知識、行動、行為者がある。
私の語るその説明に耳を傾けよ。

解説

 第14章では物質自然の三様式のことが詳しく説明されているが、徳の様式は光り輝き、激情の様式は物質的で、無知の様式は怠惰を助長する。物質自然の様式はどれも人を束縛し、その行く手に解放はない。徳の様式にあったとしても制約されている。第17章では様式によって人のタイプも異なれば崇拝の方法も多様であることが説明されている。そしてこの節では、その三様式に従ったさまざまな知識、行為者、行為そのものについて述べていくと主はおっしゃっているのである。
sarva-bhūteṣu yenaikaṁ
bhāvam avyayam īkṣate
avibhaktaṁ vibhakteṣu
taj jñānaṁ viddhi sāttvikam

訳語

翻訳

無数の姿に分かれた生命体の中に
分けることのできない精神的本質を見出す知識は
徳の様式であると知りなさい。

解説

 神々にも人間にも、動物、鳥、水生生物、植物などいかなる生命体の中にも精神的な魂が宿っていることを理解できる人は、徳の様式の知識を備えている。過去に行った行為によって与えられた体は皆それぞれ違うが、すべての生命体には精神的な魂が宿っているのだ。第7章で述べられているように、至高主の高位エネルギーによって、どの体にも生命力がみなぎっている。すべての体の中に高位エネルギーである生命力を見ることは、徳の様式の視点である。体は滅びても生きているエネルギーは滅びない。体にはさまざまな違いがある。生命体は制約された状態でさまざまな姿となって物質界に存在しているため、生命エネルギーも分離しているように見えるが、そのような非人格的な知識もある角度からとらえた自己の悟りである。
pṛthaktvena tu yaj jñānaṁ
nānā-bhāvān pṛthag-vidhān
vetti sarveṣu bhūteṣu
taj jñānaṁ viddhi rājasam

訳語

翻訳

さまざまな体の中にさまざまな生命体が入っていると教える知識は
激情の様式のものと知りなさい。

解説

 体が生命体そのものであって体が滅びれば意識も滅びるという概念は、激情の様式の知識である。そのような知識によれば、体が一つひとつ皆違うのは意識の発達程度によるものだということになり、意識の表れである個別の魂が存在しないことになる。体そのものが魂であって、体を超える存在の魂などないと言うのだ。この知識は意識を一時的なものだととらえている。また個々の魂など存在せず、知識に溢れたあまねく遍満する魂が存在し、この体は無知が一時的に形となって現れたものだと考える者もいれば、この体を超える特別な個体や至高の魂など存在しないと主張する者もいる。こうした概念はどれも激情の様式の産物であるとみなされる。
yat tu kṛtsna-vad ekasmin
kārye saktam ahaitukam
atattvārtha-vad alpaṁ ca
tat tāmasam udāhṛtam

訳語

翻訳

他の何よりも大切だと思わせて
ある種の行動に執着させてしまう知識
真実を欠いたこのような知識は
闇の様式のものである。

解説

 制約された状態にあるすべての生命体は無知の様式の中に誕生するため、一般人に備わった知識は常に無知、すなわち闇の様式のものである。権威筋や経典の教えを通して知識を育まない人は体に関する知識しか持つことができず、経典の指示に従った行動には関心がない。そのような人にとって神とは金銭のことであり、知識とは体の欲求を満たすことだと考えている。この種の知識は絶対真理とは何の関係もなく、食べる、寝る、防御する、性を営むという、おおよそ普通の動物と同等の知識にすぎない。こうした知識は闇の様式の産物であると、ここでは説明されている。つまりこの体を超越した精神的な魂に関する知識は徳の様式、世俗的理論や思索によって作り上げられた理論や教義は激情の様式、ただ体を快適にするためだけの知識は無知の様式なのである。
niyataṁ saṅga-rahitam
arāga-dveṣataḥ kṛtam
aphala-prepsunā karma
yat tat sāttvikam ucyate

訳語

翻訳

執着を持たずに規則正しく行われ
愛着や嫌悪なく結果を求めずに為される行為は
徳の様式であると言われる。

解説

 経典には社会のさまざまな階級や区分に応じて定められている規則がたくさんあるが、それらを規則正しく職業的義務として行い、執着したり独占権を求めなければそこには愛着も嫌悪もない。そのように自分ではなく至高主に満足していただくためにクリシュナ意識で為す行為は、徳の様式のものであると言われる。
yat tu kāmepsunā karma
sāhaṅkāreṇa vā punaḥ
kriyate bahulāyāsaṁ
tad rājasam udāhṛtam

訳語

翻訳

しかし自分の欲望を満たしたいがために
誤った自我意識から多大な努力を払って行う活動は
激情の様式の行為と呼ばれる。
anubandhaṁ kṣayaṁ hiṁsām
anapekṣya ca pauruṣam
mohād ārabhyate karma
yat tat tāmasam ucyate

訳語

翻訳

経典の教えを無視し 、将来の束縛を考慮せず
他人に与える暴力や苦悩を考えずに幻想の中で行う行為は
無知の様式である。

解説

 人は自分の行動に対して、国家あるいはヤマドゥータと呼ばれる至高主の代理人にその代償を支払わなくてはならない。無責任な行動は経典で教えている規定原則を破ることになり、破滅的である。暴力が基本となっている場合が多く、周りの人を苦しめる。このような無責任な行為は個々の経験という観点から行われ、これを幻想と呼ぶ。そしてこうした幻想の行為は無知の様式の産物である。
mukta-saṅgo ’nahaṁ-vādī
dhṛty-utsāha-samanvitaḥ
siddhy-asiddhyor nirvikāraḥ
kartā sāttvika ucyate

訳語

翻訳

物質自然の様式と関わることなく
誤った自我意識を持たず
大いなる決意と熱意を持ち
成功にも失敗にも左右されず義務を遂行する者は
徳の様式の行為者であると言われる。

解説

 クリシュナ意識の人は常に物質自然の様式を超越している。自分に託された仕事の結果に期待を持たない。それは誤った自我意識や自尊心というものを超越しているからである。それでいて仕事が完成するまで、常に大いなる熱意を持ち続ける。どれほど仕事が苦しくても悲嘆にくれることなく、常に熱意に満ちている。結果が成功に終わろうと失敗に終わろうと、苦悩や幸せに乱されることがない。このような人は徳の様式にいるのだ。
rāgī karma-phala-prepsur
lubdho hiṁsātmako ’śuciḥ
harṣa-śokānvitaḥ kartā
rājasaḥ parikīrtitaḥ

訳語

翻訳

行為と行為の結果に執着し
結果を楽しもうと貪欲で
いつも妬み深く不純で
喜びと悲しみに心乱れる人は
激情の様式にいると言われる。

解説

 物質的なことや家庭、妻子などに執着しすぎるがために、特定の仕事やそれがもたらす結果に過剰な執着を持っている人がいる。そのような人は人生を向上させたいとは思わず、可能なかぎりこの世界を物質面で快適にすることにしか関心がない。概して非常に貪欲で、手に入れたものは何でも永遠に自分のものだと考える傾向にある。常に他人を妬み、自分の感覚を満たすためなら何でもやる。ゆえにこうした人は不浄で、自分の収入が清いものか汚れたものかなど気にもしない。仕事がうまくいけば有頂天になり、うまくいかないとひどく落ち込む。こうした人は激情の様式の人間である。
ayuktaḥ prākṛtaḥ stabdhaḥ
śaṭho naiṣkṛtiko ’lasaḥ
viṣādī dīrgha-sūtrī ca
kartā tāmasa ucyate

訳語

翻訳

常に経典の教えに背いた行動をし
物質的で頑固で噓つきで
他人を侮辱するのに長け
怠惰で気難しく、ぐずぐずしている者は
無知の様式の行為者であると言われる。

解説

 私たちは経典の教えから、何をすべきか何をすべきでないかを学ぶことができる。そうした教えに関心がない者は一般的に物質的な人であり、為すべきでないことをする。経典の教えではなく自然の様式に従って行動するそのような人たちはあまり穏やかではなく、狡猾であったり人に対して侮辱的なことが多い。ひどく怠惰で、果たすべき義務があってもきちんとやらずあとまわしにする。そのため気難しく見える。何をするにもぐずぐずしていて、1時間で終わる仕事が何年もかかる。このような人は無知の様式にいる行為者である。
buddher bhedaṁ dhṛteś caiva
guṇatas tri-vidhaṁ śṛṇu
procyamānam aśeṣeṇa
pṛthaktvena dhanañ-jaya

訳語

翻訳

富の勝者よ
物質自然の三様式の違いによって
理解と決意もさまざまに異なる。
今から語るその詳細をよく聴きなさい。

解説

 物質自然の三様式の違いにより、知識、知識の対象物、それを知る者がどのように違うのかを説明されたあと、主は行為する者の知性と決意について同じように説明なさる。
pravṛttiṁ ca nivṛttiṁ ca
kāryākārye bhayābhaye
bandhaṁ mokṣaṁ ca yā vetti
buddhiḥ sā pārtha sāttvikī

訳語

翻訳

プリターの子よ
何を為すべきで何を為すべきでないか
何を恐れ何を恐れるべきでないか
何が束縛を与え何が解放を与えるのか
これらを知ることが徳の様式の理解である。

解説

 経典の指示に従って行動することはプラヴリッティ(行うべきことを行うこと)と呼ばれる。経典で指示されていないことは行うべきではない。経典の教えを知らない者は、行為の作用反作用に束縛される。知識に基づいて判断できる理解は、徳の様式である。
yayā dharmam adharmaṁ ca
kāryaṁ cākāryam eva ca
ayathāvat prajānāti
buddhiḥ sā pārtha rājasī

訳語

翻訳

プリターの子よ
宗教と反宗教の区別
為すべき行為と為すべきでない行為の区別
これができない理解は激情の様式である。
adharmaṁ dharmam iti yā
manyate tamasāvṛtā
sarvārthān viparītāṁś ca
buddhiḥ sā pārtha tāmasī

訳語

翻訳

パールタよ
幻想と暗闇に心を奪われ
反宗教を宗教、宗教を反宗教だと考え
常に誤った方向で努力する者の理解は
無知の様式である。

解説

 無知の様式の知性は常にあるべき方向と逆の方向に作用し、本当は宗教でないものを宗教であると受け入れて、真の宗教を拒絶する。また無知の様式の人は偉大な魂を普通の人と考え、普通の人を偉大な魂であると受け入れてしまう。真実を偽りだと考え、偽りを真実だと受け入れるのである。そして何をするにしてもことごとく間違った方向に進む。このような人の知性は無知の様式である。
dhṛtyā yayā dhārayate
manaḥ-prāṇendriya-kriyāḥ
yogenāvyabhicāriṇyā
dhṛtiḥ sā pārtha sāttvikī

訳語

翻訳

プリターの子よ
心、生命、感覚の活動を支配し
ヨーガ修練で培った断固たる信念がもたらす揺るがぬ決意は
徳の様式である。

解説

 ヨーガとは至高の魂を理解する手段である。心、生命、感覚の活動を至高主に集中させ、固い決意で至高の魂にしっかりと定着している人は、クリシュナ意識で行動している。このような決意は徳の様式のものである。アヴィヤビチャーリニャーというサンスクリット語は非常に重要で、クリシュナ意識の人は決してほかの活動に逸れることがないことを表している。
yayā tu dharma-kāmārthān
dhṛtyā dhārayate ’rjuna
prasaṅgena phalākāṅkṣī
dhṛtiḥ sā pārtha rājasī

訳語

翻訳

しかし宗教、経済発展、感覚の満足に
実りある結果を求めて止まない者の固い決意は
アルジュナよ
激情の様式なのである。

解説

 宗教や経済発展に実りある結果を常に求め、自分の感覚を満たしたいという欲求しか頭になく、心も生命も感覚もそのことに没頭させてしまう人は、激情の様式の人である。
yayā svapnaṁ bhayaṁ śokaṁ
viṣādaṁ madam eva ca
na vimuñcati durmedhā
dhṛtiḥ sā pārtha tāmasī

訳語

翻訳

そして夢、恐怖、嘆き、気難しさ
幻想を超えることのできない知性なき決意は
プリターの子よ
闇の様式のものである。

解説

 徳の様式の人は夢を見ないというわけではない。ここで言う「夢」とは眠り過ぎるという意味である。徳、激情、無知のいかなる様式にも夢は付きもので、夢を見るのは自然なこと。しかし眠り過ぎをやめられない人、物質的な快楽に対する自尊心を捨てられない人、物質界の支配を夢見ている人、命も心も感覚もそのために用いる人は、無知の様式の決意を抱いていると考えられるのである。
sukhaṁ tv idānīṁ tri-vidhaṁ
śṛṇu me bharatarṣabha
abhyāsād ramate yatra
duḥkhāntaṁ ca nigacchati

訳語

翻訳

バーラタ家の最高の者よ
制約された魂に楽しみを与え
あらゆる苦悩に終止符を打つ3種類の幸せについて
今から語ることに耳を傾けよ。

解説

 制約された魂は物質的な幸せを何度も楽しもうとして、噛んだものをまた噛み直している。しかしそうして楽しんでいるうちに偉大な魂との交際を得れば、物質の束縛から解放されていく。つまり制約された魂は常に感覚を満たそうとする何らかの行動をとっているが、良い交際に恵まれてそんなことは同じことの繰り返しに過ぎないとわかれば、クリシュナ意識に目覚め、そのようないわゆる幸せの追求から解放されるのである。
yat tad agre viṣam iva
pariṇāme ’mṛtopamam
tat sukhaṁ sāttvikaṁ proktam
ātma-buddhi-prasāda-jam

訳語

翻訳

最初は毒のように思えるかもしれないが
最後には甘露のようになり
自己の悟りに目覚めさせてくれるもの
これが徳の様式の幸せと言われる。

解説

 自己の悟りを追求するには心や感覚を制御して、自己に心を集中させるためのさまざまな規定原則に従わなくてはならない。こうした原則を守るのはとても困難で毒のように苦いが、もしきちんと守って超越的な段階に昇ることができたなら真の甘露を味わい、人生を楽しめるのである。
viṣayendriya-saṁyogād
yat tad agre ’mṛtopamam
pariṇāme viṣam iva
tat sukhaṁ rājasaṁ smṛtam

訳語

翻訳

感覚がその対象に触れることから生じ
最初は甘露のようでも最後には毒になってしまう幸せは
激情の様式であると言われる。

解説

 若い男女が出会えば男性は感覚の言いなりになって女性を見つめ、その体に触れ、性的関係を持つようになる。こうしたことは最初大いに感覚を喜ばせてくれるが、しばらくすると、あるいは最終的には毒のようになってしまう。やがて男女は別れ、あるいは離婚して嘆き悲しみだけが残る。このような幸せは常に激情の様式のものである。感覚とその対象物が出会って生じる幸せは苦悩の原因となることが常であり、なんとかしてこれを避けるように努めなくてはならない。
yad agre cānubandhe ca
sukhaṁ mohanam ātmanaḥ
nidrālasya-pramādotthaṁ
tat tāmasam udāhṛtam

訳語

翻訳

自己の悟りに盲目的で
最初から最後まで妄想にすぎず
睡眠や怠惰や幻想から生じる幸せは
無知の様式であると言われる。

解説

 怠惰でいることや眠ることを喜びとしている人は、間違いなく暗闇、すなわち無知の様式にいる。またどのように行動すべきか、どのように行動すべきでないのかわかっていない人も同じである。無知の様式にいる人には何もかもが幻想であり、最初にも最後にも幸福はない。激情の様式の人ははかない幸せで始まって苦悩で終わるが、無知の様式の人の場合は初めも終わりも苦悩しかないのである。
na tad asti pṛthivyāṁ vā
divi deveṣu vā punaḥ
sattvaṁ prakṛti-jair muktaṁ
yad ebhiḥ syāt tribhir guṇaiḥ

訳語

翻訳

物質自然から生じる三様式から解放された者など
ここにも、高位の惑星系に住む神々の中にも存在しない。

解説

 主はここで物質自然の三様式は全宇宙に存在すると手短に述べられた。
brāhmaṇa-kṣatriya-viśāṁ
śūdrāṇāṁ ca paran-tapa
karmāṇi pravibhaktāni
svabhāva-prabhavair guṇaiḥ

訳語

翻訳

敵を懲らしめる者よ
ブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラは
物質の様式から生じた性質によって区別されている。
śamo damas tapaḥ śaucaṁ
kṣāntir ārjavam eva ca
jñānaṁ vijñānam āstikyaṁ
brahma-karma svabhāva-jam

訳語

翻訳

穏やかさ、自己制御、苦行、純粋さ
忍耐、正直さ、知識、知恵、宗教性
これらはブラーフマナの行動の元となる性質である。
śauryaṁ tejo dhṛtir dākṣyaṁ
yuddhe cāpy apalāyanam
dānam īśvara-bhāvaś ca
kṣātraṁ karma svabhāva-jam

訳語

翻訳

英雄のようにふるまい
力、決意、機知に富み
戦場で勇ましく、寛大で指導力がある
これらはクシャトリヤの行動の性質である。
kṛṣi-go-rakṣya-vāṇijyaṁ
vaiśya-karma svabhāva-jam
paricaryātmakaṁ karma
śūdrasyāpi svabhāva-jam

訳語

翻訳

農耕、牛の保護、商業がヴァイシャにとって生来の仕事であり
労働や他人に仕えることがシュードラの仕事である。
sve sve karmaṇy abhirataḥ
saṁsiddhiṁ labhate naraḥ
sva-karma-nirataḥ siddhiṁ
yathā vindati tac chṛṇu

訳語

翻訳

自分の性質に応じた仕事をすることにより
誰もが完全になることができる。
どのようにしてそれが可能なのか
私の語ることに耳を傾けよ。
yataḥ pravṛttir bhūtānāṁ
yena sarvam idaṁ tatam
sva-karmaṇā tam abhyarcya
siddhiṁ vindati mānavaḥ

訳語

翻訳

万物の源であり
あまねく遍満する主を崇拝することによって
人は自分の仕事を通して完成に達することができる。

解説

 第15章で述べられているように、生きとし生ける者はすべて至高主の微細な一部分である。至高主はあらゆる生命体の始まりであり、そのことは『ヴェーダーンタ・スートラ』の中で、janmādy asya yataḥ と確証されている。したがって至高主はあらゆる生命体の命の源なのである。また『バガヴァッド・ギーター』の第7章で述べられているように、至高主は外的エネルギーと内的エネルギーというふたつのエネルギーであまねく遍満しておられる。ゆえに人は主のエネルギーで主を崇拝しなくてはならない。一般的にヴァイシュナヴァの献身者は、至高主を主の内的エネルギーで崇拝する。主の外的エネルギーは内的エネルギーの歪ひずんだ反映である。外的エネルギーが背後にはあるが、主はパラマートマーという完全拡張体としてどこにでも遍在しておられる。あらゆる神々の、全人類の、全動物の至高の魂として、すべての場所に存在しておられるのだ。ゆえに人は、至高主の一部分として主に仕えるのが義務であることを知っておかなければならない。誰もが完全なるクリシュナ意識で主に献身的に仕えるべきであり、そのことがこの節で勧められている。
 自分は感覚の支配者であるフリシーケーシャの計らいで特定の職業に就いているのだと、誰もが考えるべきである。そしてその仕事の結果で至高人格神シュリー・クリシュナを崇拝すべきなのだ。もし完全なるクリシュナ意識でいつもそのように考えていたなら、その人は主の慈悲によってすべてを十分に知ることになる。これが人生の完成である。主は『バガヴァッド・ギーター』(12-7)の中で、teṣām ahaṁ samuddhartā と言っておられるように、そのような献身者は至高主御自身がお救いになる。それこそが人生最高の完成である。どのような職業に就いていようと、至高主に仕える人は最高の完成に達成できるのだ。
śreyān sva-dharmo viguṇaḥ
para-dharmāt sv-anuṣṭhitāt
svabhāva-niyataṁ karma
kurvan nāpnoti kilbiṣam

訳語

翻訳

他人の仕事を完全に行うよりも
たとえ不完全でも自分の仕事を行うほうが良い。
自分の性質に応じて与えられた義務の遂行は
決して罪の反動を受けることがない。

解説

 職業面での義務については『バガヴァッド・ギーター』で規定されている。以前の節で述べられているように、ブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの義務はそれぞれの持つ自然の様式に応じて規定されているのであって、決して他人の義務をまねてはならない。たとえブラーフマナの家庭に生まれたとしても、自然とシュードラが行う仕事に魅せられる者は、わざとらしくブラーフマナを名乗るべきではない。人は自分の性質に応じた仕事をするべきなのだ。至高主への奉仕として行うかぎり、職業に高いも低いもない。ブラーフマナの職業的義務は明らかに徳の様式のものではあるが、生来の性質が徳の様式でないならばブラーフマナの義務を模倣してはならない。クシャトリヤ、すなわち行政を行う者にはさまざまな忌まわしい行為が付きものであり、暴力を行使して敵を殺すことを余儀なくされることもあれば、駆け引きのために嘘をつかねばならないこともある。そのような暴力や二枚舌は政治を行う上で避けられないものであるが、クシャトリヤたる者はこうした自分の義務を放棄してブラーフマナの義務を行おうなどとしてはならない。
 人は至高主に満足していただくために行動すべきである。例えばアルジュナはクシャトリヤであったが、敵と戦うことを躊躇していた。しかしその戦闘が至高人格神クリシュナのためのものであれば、堕落する心配はない。そういうことは商売の世界にもあり、商人は利益を上げるためにたくさんの嘘をつかざるを得ないことがある。そうしなければ利益が上がらないからだ。「お客様には、こちらの利益なしでお売りいたしましょう」などと商人が言うことがあるが、利益のない商いを商人がするはずのないことをわきまえておかなければならない。だから「もうけがない」と商人が言ったときには、単なる嘘だと受け取るべきである。しかし「嘘をつかざるを得ない仕事を辞めてブラーフマナの仕事に就こう」などと商人が考えてはならない。そのようなことが勧められているのではない。自分の仕事を通して至高人格神に仕えるなら、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラなど、問題ではないのだ。さまざまな供養を行うブラーフマナでさえ、動物を捧げる儀式において殺すことを余儀なくされる場合もある。同様にクシャトリヤが自分の仕事として敵を殺したとしても、罪にはならない。第3章で明確かつ入念に説明されているように、誰もがヤジュニャすなわち至高人格神ヴィシュヌを目的として働くべきである。自分の感覚を満たそうとしてする行動は束縛の原因となる。すなわち各自に備わっている性質に応じた仕事に就き、ただ至高主の至高なる原因に仕えるためだけに働くと、意を決しなくてはならないということである。
saha-jaṁ karma kaunteya
sa-doṣam api na tyajet
sarvārambhā hi doṣeṇa
dhūmenāgnir ivāvṛtāḥ

訳語

翻訳

火が煙に覆われているように
いかなる努力も何らかの欠点に覆われている。
クンティーの子よ
ゆえにたとえ欠点に満ちていたとしても
自分の性質から生じた仕事を投げ出してはならない。

解説

 制約された生活の中では、いかなる行為も物質自然の様式に汚されている。ブラーフマナでさえも供養で動物を殺さなくてはならない場合がある。同様にいかに敬虔であろうとクシャトリヤは敵と戦うことが義務であり、避けては通れない。商人もしかりで、いかに敬虔な性質を備えていようと、商い上では自分の利益を隠したり、闇市での仕事を余儀なくされる場合もある。こうしたことは必要なことであり、避けることはできない。シュードラも同じで、よからぬ主人の言いつけを実行するためには、すべきでないことをしなくてはならないこともある。こうした欠点があったとしても、人は自分に定められた義務を行わなくてはならない。なぜならそれがその人の性質から生じた義務だからである。
 非常に良い例がここに挙げられている。火という純粋なものにも煙は生じる。しかし煙が火を汚すことはない。煙を伴っていても火は全要素の中で最も純粋であるとされている。クシャトリヤとしての仕事を放棄してブラーフマナの仕事に就きたいと思うかもしれないが、ブラーフマナの仕事にも嫌な任務がないとは限らない。つまり物質世界では、物質自然の汚れから完全に解放されている人はいないという結論に至る。この点について火と煙の例は非常に適切である。冬に火中から焼石を取り出す際は煙に包まれるが、そうした不快な状況でも火を扱わなくてはならない。仕事も同じで、不快なことがあるからといって生来の質に応じたものを放棄してはならず、むしろその職務を通して至高主に仕えるのだと決意すべきである。それが完成という段階なのだ。いかなる職業に就こうとも、至高主に満足していただくために行うなら、その仕事に付随した欠点はすべて浄化される。仕事の結果が浄化されて献身奉仕と結びついたとき、人は内なる自己を完全に見ることができるようになる。これこそが自己の悟りである。
asakta-buddhiḥ sarvatra
jitātmā vigata-spṛhaḥ
naiṣkarmya-siddhiṁ paramāṁ
sannyāsenādhigacchati

訳語

翻訳

自己を制御し執着を持たず
物質的快楽に見向きもしない者は
放棄を修練することにより
反動のない最高の完成段階に達することができる。

解説

 自らを至高主の一部分とみなし、自分には行為の結果を楽しむ権利はないと考えることが真の放棄である。私たちは主の一部分であるから、行為の結果を楽しむのは至高主だと考えるべきで、これが本当のクリシュナ意識なのだ。クリシュナ意識で行動する人こそ真のサンニャーシーすなわち放棄階級の人であり、このような心情でいると満足を感じることができる。なぜなら至高主のために行動しているからである。この状態にある人は物質的なものへの執着がなく、主への奉仕から味わう超越的な幸せ以外に楽しみを得ようとは思わない。サンニャーシーは過去の行為の反動から解放されているとされているが、クリシュナ意識の人はいわゆる放棄階級を受け入れなくても自動的にこの完成に達している。この心の状態をヨーガールーダすなわちヨーガの完成段階と呼ぶ。第3章で yas tv ātma-ratir eva syāt と確証されているように、自分の内で満たされている人は自らの行為に対していかなる反動をも恐れる必要はない。
siddhiṁ prāpto yathā brahma
tathāpnoti nibodha me
samāsenaiva kaunteya
niṣṭhā jñānasya yā parā

訳語

翻訳

クンティーの子よ
この完成を得た者がどのようにふるまえば
至高の完成段階すなわちブラフマンという
最高の知識段階に達することができるのか
これから私の述べる要旨を学べ。

解説

 自分の職務を至高人格神のために行うことで、どのように最高の完成段階に達することができるのか、主はアルジュナに語ろうとなさっている。至高主に満足していただくためにただ自分の行為の結果を放棄するだけで、人はブラフマンという最高段階に到達することができる。これが自己の悟りのプロセスである。知識の真の完成とは純粋なクリシュナ意識に到達することであり、そのことが以下の節で説明される。
buddhyā viśuddhayā yukto
dhṛtyātmānaṁ niyamya ca
śabdādīn viṣayāṁs tyaktvā
rāga-dveṣau vyudasya ca
vivikta-sevī laghv-āśī
yata-vāk-kāya-mānasaḥ
dhyāna-yoga-paro nityaṁ
vairāgyaṁ samupāśritaḥ
ahaṅkāraṁ balaṁ darpaṁ
kāmaṁ krodhaṁ parigraham
vimucya nirmamaḥ śānto
brahma-bhūyāya kalpate

訳語

翻訳

知性によって浄化され、決意を持って心を制御し
感覚を喜ばせる対象を放棄し
愛着と憎悪から解放されていて
人里離れたところに住んで食を控え
体と心と話す衝動を制御し、常に三昧を味わい
誤った自我意識や偽りの強さ
偽りの自尊心、情欲、怒りを持たず
物質的なものを受け入れず
偽りの所有欲を持たずに心穏やかな者
そのような者は確実に自己の悟りの段階に高められていく。

解説

 人は知性によって浄化されると徳の様式にとどまり、心を制御して常に三昧を味わうようになる。感覚を喜ばせるような物に愛着することなく、何をしていても愛着や嫌悪から解放された状態にある。このように無執着な人は自然と人里離れた場所に住むことを好み、必要以上には食べないで体や心の動きを制御している。体が自分だと思っていないので誤った自我意識がなく、あれこれ物質的手段を講じて体を大きく強くしようなどとはせず、間違った自尊心を持っていない。主の慈悲によって与えられたすべてのものに満足していて、快楽を得られなくても怒ることなく、その対象となるものを手に入れようと努力することもない。このように誤った自我意識がまったくない人は、いかなる物質的なことにも執着しない。これがブラフマンの自己の悟りの段階、すなわちブラフマ・ブータと呼ばれる段階である。生命は物質的であるという概念から解放されると、人は心穏やかになって乱されなくなる。このことは『バガヴァッド・ギーター』(2-70)でも述べられている。
āpūryamāṇam acala-pratiṣṭhaṁ
samudram āpaḥ praviśanti yadvat
tadvat kāmā yaṁ praviśanti sarve
sa śāntim āpnoti na kāma-kāmī
 「流れ込む川の水にも泰然としている海のごとく、次々と湧き起こる欲望にも心乱さずにいる者は、平安を手に入れることができる。だが欲望を満たそうとする者はそうではない」
brahma-bhūtaḥ prasannātmā
na śocati na kāṅkṣati
samaḥ sarveṣu bhūteṣu
mad-bhaktiṁ labhate parām

訳語

翻訳

このように超越的な段階にある者は
即座に至上ブラフマンを悟り、完全なる喜びに包まれる。
嘆くことも何かを求めることもなく
命あるすべての者に平等である。
この段階にある者は私への純粋な献身奉仕に到達する。

解説

 非人格主義者にとっては、絶対者とひとつになるブラフマ・ブータの段階に達することが最終目標であるが、人格主義者すなわち純粋な献身者は、純粋な献身奉仕に就くためにさらに歩を進めなくてはならない。これはつまり至高主への純粋な献身奉仕に就いている者は、ブラフマ・ブータと呼ばれる絶対者と一体になる解放をすでに得ているということである。至高主すなわち絶対者とひとつにならないかぎり、主に奉仕を捧げることはできない。絶対概念においては奉仕する者と奉仕を受ける者に相違はないが、より高い精神的意味においてはその区別が存在する。
 生命が物質であるという概念のもとで自分の感覚を満たそうとする行為には苦悩がつきまとうが、絶対世界で行う純粋な献身奉仕には苦悩が存在しない。クリシュナ意識の献身者には嘆いたり望んだりすることがない。神は完全に満ち足りておられるため、クリシュナ意識で神に仕える生命体もまた、自らの内で満ち足りている。まるで汚れた水がすっかり浄化された河のようである。純粋な献身者の頭にはクリシュナのほかに何もなく、自然といつも喜びに溢れている。主への奉仕で満ち足りているため、物質的なものを失って嘆くこともなければ、何かを手に入れようと必死になることもない。生きとし生けるものはすべて至高主の一部分で、永遠なるしもべであるということを知っているため、物質的な喜びを求めないのである。物質世界において誰が上で誰が下などという見方をしない。身分の上下など儚いものであり、現れては消えていくような当てにならないものに、献身者は関わらないのだ。そのような献身者にとっては石も金も同じ価値である。この状態をブラフマ・ブータの段階と呼び、純粋な献身者はいともたやすくこの段階に達する。この段階では、至上ブラフマンとひとつになって個別性をなくしてしまうという概念は忌まわしいものとなり、天界の王国に到達するという考え方は幻想となり、感覚は毒歯を折られた蛇のようになる。毒歯の折れた蛇は怖くない。つまり自然に制御できる感覚は恐れる必要がないということである。物質に侵された人にとってここは悲惨な世界であるが、献身者にとってはヴァイクンタ、すなわち精神界と変わりがない。この世界で最も偉大とされる人も、献身者にとっては蟻と同じほどの価値でしかないのだ。この時代において純粋な献身奉仕を説いた主チャイタニヤ。この方の慈悲あってこそ、こうした段階に到達することが可能となるのである。
bhaktyā mām abhijānāti
yāvān yaś cāsmi tattvataḥ
tato māṁ tattvato jñātvā
viśate tad-anantaram

訳語

翻訳

ただ献身奉仕によってのみ
私を至高人格神としてありのままに理解することができる。
そのような献身的態度で私を十分に意識する者は
神の王国に入ることができる。

解説

 至高人格神クリシュナやその完全拡張体をどれほど推測してもわからないし、献身者でない者には理解できない。至高人格神を理解したいなら、純粋な献身者の指導のもとで純粋な献身奉仕を行うことである。そうでなければ至高人格神の真実はいつまでも隠されたままである。『バガヴァッド・ギーター』(7-25)で nāhaṁ prakāśaḥ sarvasya と語られているように、主は誰の前にでも御自身を現されるわけではなく、学識や心の思索で神を理解することはできない。クリシュナ意識で献身奉仕を行った者だけがクリシュナを理解することができるのであり、大学の学位はその助けにはならない。
 クリシュナがお住まいになる精神王国に入れるのは、クリシュナの科学に完全に精通している人だけである。ブラフマンになるとは個別性を失うことではない。献身奉仕が存在するかぎり、神、献身者、そして献身奉仕の過程は存在する。たとえ解放を得ようとも、こうした知識は決して失うことがない。解放とは物質生活という概念から解き放たれるということである。精神生活にも同様の特質や個性はあるが、純粋なクリシュナ意識の形で存在しているのだ。ヴィシャテー「私の内に入る」というサンスクリット語が、無機質なブラフマンと同化するという一元論を支持していると誤解してはならない。そうではない。ヴィシャテーとは個別性を備えたまま至高主の王国に入り、主に仕えるという意味である。例えば緑色の鳥が緑の木に入っていくのは木と一体になるためではなく、木の実を味わうためである。非人格主義者たちは、海に流れ込む川が海と同化する例をよく挙げる。彼らにとってはそれが幸せの源なのかもしれないが、人格主義者は自らの個別性を海に住む水生動物のようにとらえている。海の深いところには膨大な数の生命体がいて、海面の観察だけでは不十分である。深海にいる水生動物のことも完全に知らなくてはならない。
 献身者は純粋な献身奉仕によって至高主の超越的な質や富の真実を理解できる。第11章で説明されているように、これを理解する方法は献身奉仕だけであり、同じことがここで確証されている。人は献身奉仕によって至高人格神を理解し、主の王国に入って行けるのである。
 物質的概念から解放されるブラフマ・ブータの段階を達成したのち、人は主についての話を聞き、献身奉仕を始めることができる。至高主についての話に耳を傾けるとブラフマ・ブータの段階がさらに向上し、感覚を満たそうとする貪欲や欲情という物質的な汚れが消えていく。そして献身者のハートから情欲や欲望が消えていくと、主に仕えたいという気持ちがさらに高まり、その愛着によって人は物質的な汚れから解放されていくのだ。至高主を理解できるのはこの段階である。これについては『シュリーマド・バーガヴァタム』にも書かれている。解放を得たのちもバクティという超越的な奉仕は続く。『ヴェーダーンタ・スートラ』(4-1-12)も ā-prāyaṇāt tatrāpi hi dṛṣṭam「解放のあとも献身奉仕のプロセスは続く」と確証している。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、生命体が自らの本質、すなわち本来の立場に戻ることこそ真の献身的解放であると定義している。生命体の本来の立場とはすでに説明されているように、至高主の微細な一部分である。したがって仕えることが生来の立場なのだ。解放を得てもこの奉仕が終わることはない。真の解放とは、生命についての誤った概念から解放されることである。
sarva-karmāṇy api sadā
kurvāṇo mad-vyapāśrayaḥ
mat-prasādād avāpnoti
śāśvataṁ padam avyayam

訳語

翻訳

さまざまな活動を行っていても
私の純粋な献身者は私に守られ私の慈悲を得て
永遠で滅びることのない王国に到達する。

解説

 マド・ヴィヤパーシュラヤハというサンスクリット語は「至高主の保護のもと」という意味である。純粋な献身者は物質の汚れから解放されようと、至高主やその代表者である精神の師に従って行動する。純粋な献身者には時間の制限がない。一日24時間100%至高主の指示に従って行動する。クリシュナ意識で行動するこのような献身者に対し、主はとても慈悲深く、いかなる困難に見舞われようと献身者が最終的にクリシュナローカという超越的な王国へ昇っていけるようにしてくださる。彼がその王国に入ることは保証されていて、それには疑いの余地がない。この至高の王国では何も変化せず、すべてが永遠で決して滅びることなく、知識に満ちているのだ。
cetasā sarva-karmāṇi
mayi sannyasya mat-paraḥ
buddhi-yogam upāśritya
mac-cittaḥ satataṁ bhava

訳語

翻訳

いかなる活動をするにもただ私に依存し
常に私の保護のもとにあれ。
そのように献身奉仕を行って
溢れるほど私を想いなさい。

解説

 クリシュナ意識で行動する人は、世界の支配者であるかのように振る舞ったりしない。人はまさに召使のように、至高主の指示に完全に従って行動すべきである。召使には独立権がなく、ただ主人の命令に従って行動する。至高の主の代表として行動する召使は損得の影響を受けることなく、ただ主に命令された義務を忠実に果たす。ここで、このような議論が持ち上がるかもしれない。「アルジュナの場合はじかにクリシュナの個人的な指示を受けて行動したが、クリシュナがその場にいないとき、人はどのように行動すべきか?」クリシュナの代表者の導きのもと、クリシュナがこの本の中で与えてくださる指示に従って行動するなら、結果は同じなのだ。マット・パラというサンスクリット語は、この節において非常に重要である。これは人生の目的はクリシュナに満足していただくためにクリシュナ意識で行動することであり、それ以外にはないという意味である。そしてそのように行動する間も「私はクリシュナが与えてくださった義務を遂行している」とクリシュナのことだけを考えていなくてはならない。そのように行動していれば自然とクリシュナのことを考えずにはいられなくなる。これが完全なクリシュナ意識である。しかし、気まぐれに何かをして、あとからその結果を至高主に捧げるべきではないと理解しておかなくてはならない。その種の義務はクリシュナ意識の献身奉仕ではない。私たちはクリシュナの指示に従って行動すべきであり、ここが非常に重要なポイントなのである。クリシュナの命令は正統な精神の師から師弟継承を通じて与えられる。したがって精神の師の命令は、人生の最も重要な義務であると受け取らなくてはならない。正統な精神の師を受け入れてその指導に従って行動するなら、クリシュナ意識での人生の完成は保証されている。
mac-cittaḥ sarva-durgāṇi
mat-prasādāt tariṣyasi
atha cet tvam ahaṅkārān
na śroṣyasi vinaṅkṣyasi

訳語

翻訳

私を意識するようになれば私の慈悲を得て
君は制約された人生の障害をすべて克服するであろう。
しかし私の言葉に耳を傾けず
そうした意識ではなく誤った自我意識で行動するなら
君は道を見失うであろう。

解説

 完全なクリシュナ意識の人は生活のための義務を遂行することに過度の不安を感じないが、知性乏しき人はあらゆる不安から解放されるというこの大いなる自由を理解できない。主クリシュナはクリシュナ意識で行動する人にとって最愛の友であり、常に友のことを思っておられる。主を喜ばせようと一日24時間献身的に仕えている友には、御自身をお与えになるのである。だから私たちは生命に関する誤った肉体概念に振り回されてはならない。自分は物質自然の法則には依存せず、何でも自由にしてよいなどと誤った考え方をしてはならないのだ。人は物質自然の厳格な法則に縛られている。しかしクリシュナ意識で行動すれば直ちに解放され、物質的な困難はなくなる。クリシュナ意識で行動しない者は、生と死の繰り返しという物質的な海の渦に巻き込まれて自分を見失ってしまうということを、よく知っておかなければならない。制約された魂は何をすべきか何をすべきでないのかがわかっていないが、クリシュナ意識で行動する人は内からクリシュナに駆り立てられ、精神の師の承認も得ているため、何でも自由に行動できるのである。
yad ahaṅkāram āśritya
na yotsya iti manyase
mithyaiṣa vyavasāyas te
prakṛtis tvāṁ niyokṣyati

訳語

翻訳

私の指示に従わず戦わないのなら
君は道を誤ることになる。
生来の質に従って君は戦うべきなのだ。

解説

 アルジュナは軍人であり、クシャトリヤの質を備えて生まれた。ゆえに戦うことが彼の生来の義務である。しかし誤った自我意識のために、自分の師や祖父や友人を殺せば罪の反動を受けると恐れていた。彼は実際に自分が行為の主であると、まるで自分が行為の結果の善悪を支配しているような気になってしまい、自分に戦えと指示なさっている至高人格神の存在をすっかり忘れてしまっていたのだ。これが制約された魂が陥る忘却である。何が善で何が悪か教えてくださるのは至高人格神であり、人は人生の完成を目指してただクリシュナ意識で行動しなければならない。運命は誰にもわからない。ご存知なのは至高主だけである。ゆえに至高主の指示に従って行動することが最善の策なのだ。至高人格神、そして主の代表者である精神の師の教えを決して軽視してはならない。人は躊躇することなく至高人格神の指示に従わなくてはならない。これがいかなる状況においても守られる秘訣なのである。
svabhāva-jena kaunteya
nibaddhaḥ svena karmaṇā
kartuṁ necchasi yan mohāt
kariṣyasy avaśo ’pi tat

訳語

翻訳

幻想に包まれた君は
私の指図に従うことを拒んでいる。
しかしクンティーの子よ
生まれ持ったその性質によって
君はまったく同じことをするであろう。

解説

 至高主の指示に従うことを拒む人は、自分の置かれた様式に従って行動することを強いられる。誰もが特定に組み合わせられた自然の様式に影響されて行動しているのだが、自ら進んで至高主の指示に従うことを選んだ者は、栄光に満ちている。
īśvaraḥ sarva-bhūtānāṁ
hṛd-deśe ’rjuna tiṣṭhati
bhrāmayan sarva-bhūtāni
yantrārūḍhāni māyayā

訳語

翻訳

アルジュナよ
至高主はすべての者のハートに宿り
物質エネルギーでできた機械に座すかのごとく彷徨う全生命体に
道を教えているのだ。

解説

 アルジュナには至上の知識がないため、戦うべきか否かを判断するには限界があった。個別の魂はすべてではないと主クリシュナは教えられた。至高人格神クリシュナ御自身が至高の魂として生命体のハートに座し、導いてくださっているのだ。生命体は新しい体を得るたびに過去の出来事を忘れてしまうが、過去、現在、未来のすべてを御存知である至高の魂があらゆる活動の証人である。つまり生命体の行動はすべて至高の魂に指示されているのだ。生命体は自分にふさわしい体を得るが、それは至高の魂の指示のもと物質エネルギーで作られた体である。その特定の体に入れられたとたん、生命体はその体の状況に強いられた行動をする。運転するのは同じ人でも、速いスピードの自動車に乗れば遅いスピードの自動車に乗るよりも速く走れる。それと同じように物質自然は至高の魂の指示に従って、生命体が過去の望みを叶えられるような特定の体を形成する。生命体は独立した存在ではない。自分が至高人格神から独立していると決して考えてはならない。個別の魂は常に主の支配下にある。ゆえに身を委ねることが私たちの義務であり、そのことが次の節で指示されている。
tam eva śaraṇaṁ gaccha
sarva-bhāvena bhārata
tat-prasādāt parāṁ śāntiṁ
sthānaṁ prāpsyasi śāśvatam

訳語

翻訳

バラタの子孫よ
至高主に完全に身を委ねよ。
主の恩寵により君は超越的な平安を得て
永遠なる至高の王国に到達するであろう。

解説

 ゆえに生命体は、すべてのハートに宿り物質存在のあらゆる苦しみから解放してくださる至高人格神に、自分を明け渡さなくてはならない。そのように身を委ねることで人生のあらゆる苦しみから解放されるばかりか、最終的に至高主のもとに到達できるのだ。ヴェーダ文献(『リグ・ヴェーダ』1-22-20)には超越世界のことが tad viṣṇoḥ paramaṁ padam と説明されている。全創造物は神の王国であるため、物質的なものも実際にはすべて精神的である。しかし paramaṁ padam とは特に精神世界、すなわちヴァイクンタと呼ばれる永遠の王国のことである。
 『バガヴァッド・ギーター』の第15章には sarvasya cāhaṁ hṛdi sanniviṣṭaḥ すなわち主はすべての者のハートに宿っておられると書かれている。したがって内に宿る至高の魂に身を委ねよという教えは、至高人格神クリシュナに身を委ねよという意味なのだ。アルジュナはすでにクリシュナを至高主と認め、第10章で paraṁ brahma paraṁ dhāma と受け入れている。アルジュナは自分の経験からだけでなくナーラダ、アシタ、デーヴァラ、ヴィヤーサのような権威ある方々を証人として、クリシュナのことを至高人格神であり全生命体の至上の王国であると受け入れたのである。
iti te jñānam ākhyātaṁ
guhyād guhya-taraṁ mayā
vimṛśyaitad aśeṣeṇa
yathecchasi tathā kuru

訳語

翻訳

このように私はさらに秘奥な知識を君に与えた。
この知識を熟考した上で
君の思い通りに行動するがよい。

解説

 主はすでにブラフマ・ブータの知識をアルジュナに説明なさった。ブラフマ・ブータの状態にいる人は喜びに満ちていて、決して嘆かず、何もほしいと思わない。これは内密な知識のなせる業である。またクリシュナは至高の魂に関する知識も明らかにされた。これもブラフマンの知識であるが、より高い知識である。
 ここに yathecchasi tathā kuru「好きなように行動すればよい」という言葉があるが、これは神が生命体の小さな独立性を妨げないということを表している。『バガヴァッド・ギーター』の中で主は、いかにすれば生活状況を向上できるかについて、あらゆる面で説明された。アルジュナに与えられた最高のアドバイスは、ハートの中に宿る至高の魂に身を委ねよというものであった。人は正しい判断力を持って、至高の魂の指示に従って行動しなくてはならない。そうすれば人間生活の最高完成段階であるクリシュナ意識に、常にとどまることができる。アルジュナは戦うことを至高人格神からじかに命じられた。至高人格神に身を委ねることは至高主にとってではなく、生命体にとっての最重要事項である。服従する前に、人はまずこのことを知性の及ぶかぎり熟考すべきであり、それが至高人格神の教えを受け入れる最善の方法である。またそのような教えはクリシュナの真正な代表者である精神の師を通しても授けられるのだ。
sarva-guhyatamaṁ bhūyaḥ
śṛṇu me paramaṁ vacaḥ
iṣṭo ’si me dṛḍham iti
tato vakṣyāmi te hitam

訳語

翻訳

君は私の親友であるから
万物の中で最も内密な知識である至高の教えを
私は君に語っている。
君のためであるこの教えに耳を傾けよ。

解説

 主はアルジュナに内密な知識(ブラフマンの知識)と、さらに内密な知識(すべての者のハートに宿る至高の魂の知識)を与え、今まさに「ただ至高人格神に身を委ねよ」という最も秘奥な知識をお授けになる。第9章の最後で主は man-manāḥ「ただいつも私のことを想っていなさい」とおっしゃった。この同じ教えが『バガヴァッド・ギーター』の教えの真髄を強調するために、またここで繰り返されている。この真髄は一般の人には理解できない。理解できるのは、本当にクリシュナにとって愛しい純粋な献身者だけである。あらゆるヴェーダ経典の中で、これが最も重要な教えなのだ。ここでクリシュナが語っておられることこそ最も重要な知識であり、アルジュナだけでなく生きとし生ける者すべてが従うべきなのである。
man-manā bhava mad-bhakto
mad-yājī māṁ namaskuru
mām evaiṣyasi satyaṁ te
pratijāne priyo ’si me

訳語

翻訳

常に私を想い、私の献身者となり
私を崇拝し、私に敬意を捧げよ。
そうすれば君は間違いなく私のもとに来る。
愛しい友である君にそれを約束しよう。

解説

 最も内密な知識とは、人はクリシュナの純粋な献身者となって常にクリシュナのことを想い、クリシュナに仕えなくてはならないということである。見せかけだけの瞑想家になってはならない。常にクリシュナのことを想っていられるように生活を整え、日々の行動すべてがクリシュナと結びついているようにすべきである。一日24時間クリシュナのことだけを考えているような生活を送ることである。そのような純粋な献身者は間違いなくクリシュナの王国に戻り、そこでクリシュナと直接交際できると主が約束してくださっている。この最も内密な知識がアルジュナに語られたのは、彼がクリシュナにとって親愛なる友であったからだ。アルジュナの足跡をたどる者は誰でもクリシュナの親愛なる友となり、アルジュナと同じ完成に達することができるのである。
 これらの言葉はクリシュナに心を集中せよと私たちに強く説いている。2本の腕でフルートを携え、髪に孔雀の羽根を飾る美しい顔立ち、青っぽい肌の少年のお姿をいつも心に留めておかなくてはならない。『ブラフマ・サンヒター』およびほかの経典には、クリシュナについての記述がある。人はこの至高主クリシュナの本来のお姿を心に留めておくべきであり、ほかの姿に注意を逸らせてはならない。主はヴィシュヌ、ナーラーヤナ、ラーマ、ヴァラーハなど無数のお姿をお持ちであるが、献身者が心を集中させるべきはアルジュナの前に現されたお姿である。クリシュナのお姿に心を集中させることは最も重要な知識である。アルジュナがクリシュナの親友であったために、この知識が語られたのだ。
sarva-dharmān parityajya
mām ekaṁ śaraṇaṁ vraja
ahaṁ tvāṁ sarva-pāpebhyo
mokṣayiṣyāmi mā śucaḥ

訳語

翻訳

すべての宗教を捨て
ただ私に身を委ねよ。
私がすべての罪の報いから君を救おう。
恐れるな。

解説

 至上ブラフマンの知識、至高の魂の知識、社会生活のさまざまな階級や地位の知識、放棄階級の知識、無執着の知識、感覚や心の制御、瞑想など、主はさまざまな知識や宗教のプロセスについて解説された。さまざまなタイプの宗教についてもいろいろな方法で説明なさった。そして『バガヴァッド・ギーター』をまとめるにあたり、主クリシュナはアルジュナにこうおっしゃる。「これまで私が君に説明してきたプロセスのすべてを捨てて、ただ私に身を委ねなさい」と。主のこの言葉に服従することが、アルジュナをすべての罪の報いから救うことになる。なぜなら主御自身が守ると約束なさったからである。
 第7章では、主クリシュナを崇拝できるのはあらゆる罪の報いから解放された人だけであると述べられている。「それでは、すべての罪の報いから解放されなければ主に身を委ねるという方法を始められないではないか?」と考える人もいるだろう。そのような疑問に対してここでは、たとえすべてから解放されていなくてもただシュリー・クリシュナに身を委ねるだけで自動的に解放されると説明されている。罪の報いから解放されようと必死になる必要はない。ただクリシュナを、全生命体を救ってくださる至高の救い主として迷うことなく受け入れること、愛と信念を持って主に身を委ねることである。
 『ハリ・バクティ・ヴィラーサ』(11-676)には、クリシュナに服従する方法が述べられている。
ānukūlyasya saṅkalpaḥ
prātikūlyasya varjanam
rakṣiṣyatīti viśvāso
goptṛtve varaṇaṁ tathā
ātma-nikṣepa-kārpaṇye
ṣaḍ-vidhā śaraṇāgatiḥ
 人は、最終的に主への献身奉仕に導くような宗教原則だけを受け入れるべきであるというのが、献身奉仕のプロセスである。社会での自分の地位に合った特定の仕事を行っていても、その仕事という義務の遂行がクリシュナ意識に結びつかないなら、その行為は無駄である。クリシュナ意識の完成段階に導かないようなものは、避けなくてはならない。いかなる状況にあろうともクリシュナがあらゆる困難から自分を守ってくださるのだということを、確信しているべきである。どうすれば体と魂を維持していけるかなど考える必要はない。それはクリシュナが取り計らってくださる。自分は無力であり、人生を向上させてくださるのはクリシュナだと考えるべきなのだ。完全なクリシュナ意識で真剣に主への献身奉仕をする人は、物質自然の汚れから直ちに解放される。宗教のプロセスにもいろいろあり、知識の育成、瞑想、神秘的ヨーガ体制などさまざまな浄化の過程があるが、クリシュナに身を委ねる人はそのような方法を行う必要はない。ただクリシュナに服従するだけで直ちにあらゆる進歩を遂げ、すべての罪の報いから解放されるのである。
 私たちは主の美しいお姿に魅力を感じるべきである。主は最高に魅力的なお方であるがゆえに、クリシュナという名前で呼ばれる。全能で最高の力を秘めた美しいクリシュナのお姿に心を奪われた人は、幸運である。無機質なブラフマンの様相に魅せられる者もいれば、至高の魂のお姿に魅了される者もいるというように、超越主義者もさまざまではあるが、至高人格神の人格をもつ姿に魅了される人、とりわけ至高人格神のクリシュナ御自身としてのお姿に関心をもつ人は、最も完全な超越主義者である。つまり完全なる意識で行うクリシュナへの献身奉仕は、最も内密な知識そのものであり、これが『バガヴァッド・ギーター』全体の真髄なのだ。カルマ・ヨーギーも、経験的哲学者も、神秘主義者も、献身者もすべて超越主義者と呼ばれるが、純粋な献身者が最高の超越主義者である。ここで特に使われているマーシュ・チャハという言葉は「恐れるな、躊躇するな、心配するな」という意味で非常に重要である。あらゆる宗教体制を放棄して、ただクリシュナに身を委ねることに当惑する人もいるだろうが、そのような心配は無用なのである。
idaṁ te nātapaskāya
nābhaktāya kadācana
na cāśuśrūṣave vācyaṁ
na ca māṁ yo ’bhyasūyati

訳語

翻訳

厳格でない者、献身的でない者
献身奉仕を行わない者、私を妬む者には
この内密な知識は決して教えてはならない。

解説

 宗教の過程で禁欲生活をしたことのない者、クリシュナ意識で献身奉仕をしたことのない者、純粋な献身者に仕えたことのない者、特にクリシュナのことを歴史上の人物でしかないととらえる者やクリシュナの偉大さを妬む者には、この最も内密な知識を決して教えてはならない。クリシュナに妬み心を持つ悪質な人間の中には違った方法でクリシュナを崇め、『バガヴァッド・ギーター』の解説を職業とし、勝手な説明を付けて商売にしている者がいるが、本当にクリシュナを理解したいと望む人は、そのような『バガヴァッド・ギーター』の注解に耳を傾けてはならない。事実、自分の感覚を喜ばせようとしている人には『バガヴァッド・ギーター』の目的を理解することなどできない。感覚を満たそうとせずにヴェーダ文献で定められている原則に忠実に従っている者であっても、献身者でなければクリシュナを理解することはできない。また、献身者のふりをしながらクリシュナ意識の活動に携わらない人にも、クリシュナの理解は不可能である。クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』の中で、御自身が至高であり、御自身に優まさる者も等しい者も存在しないと説明されたが、このためにクリシュナを妬む者が大勢いる。このような人たちに『バガヴァッド・ギーター』を教えてはならない。なぜなら彼らには理解することができないからである。信念のない人間が『バガヴァッド・ギーター』やクリシュナを理解することは不可能である。純粋な献身者という権威を通してクリシュナを理解した人でないかぎり、『バガヴァッド・ギーター』に注解をつけようとしてはならないのだ。
ya idaṁ paramaṁ guhyaṁ
mad-bhakteṣv abhidhāsyati
bhaktiṁ mayi parāṁ kṛtvā
mām evaiṣyaty asaṁśayaḥ

訳語

翻訳

この至高の神秘を献身者に説く者には
純粋な献身奉仕が保証され
彼らは最終的に私のもとに戻ってくるのだ。

解説

 一般的に『バガヴァッド・ギーター』は献身者の間だけで語り合うことが勧められている。献身者でない者には、クリシュナのことも『バガヴァッド・ギーター』のことも理解できないからである。クリシュナや『バガヴァッド・ギーター』をありのままに受け入れられない者が、気まぐれに『バガヴァッド・ギーター』を説明しようと試みて侮辱を犯してはならない。『バガヴァッド・ギーター』は、クリシュナを至高人格神として受け入れる準備ができている人に語るべきである。これは献身者のためのものであり、哲学者が思索するためのものではない。しかし『バガヴァッド・ギーター』をありのままに誠実に提示しようとする者は、献身的な活動の中で向上し、純粋な献身の段階に到達する。そしてその純粋な献身の結果として、神の王国に帰っていくことができるのである。
na ca tasmān manuṣyeṣu
kaścin me priya-kṛttamaḥ
bhavitā na ca me tasmād
anyaḥ priya-taro bhuvi

訳語

翻訳

そのような献身者ほど
私にとって愛しい者はこの世にはいない。
現在においても、未来においても
それ以上に愛しい者はいない。
adhyeṣyate ca ya imaṁ
dharmyaṁ saṁvādam āvayoḥ
jñāna-yajñena tenāham
iṣṭaḥ syām iti me matiḥ

訳語

翻訳

そして私は宣言する。
私たちの間で取り交わされたこの神聖な会話を学ぶ者は
知性によって私を崇拝すると。
śraddhāvān anasūyaś ca
śṛṇuyād api yo naraḥ
so ’pi muktaḥ śubhāḻ lokān
prāpnuyāt puṇya-karmaṇām

訳語

翻訳

また妬み心をもたずに信念をもって耳を傾ける者は
罪の報いから解放されて
敬虔な者たちが住む吉兆な惑星に到達する。

解説

 この章の第67節では、主を妬む者がギーターを語ることを、主は堅く禁じておられる。つまり『バガヴァッド・ギーター』は献身者だけのものだということである。しかし主の献身者が講義を公開することがあり、その講義に出席する人が全員献身者であるとはかぎらない。なぜそのような公開講座を開くのであろうか? そのことがここで説明されている。誰もが献身者というわけではないが、クリシュナに妬み心を抱かず、クリシュナが至高人格神だということに信念をもっている人はたくさんいる。もしそのような人たちが真正なる献身者からクリシュナの話を聞けば、直ちにあらゆる罪の報いから解放され、敬虔な人々の住む惑星系に到達できるからである。ゆえに、純粋な献身者になろうとしなくても、ただ『バガヴァッド・ギーター』に耳を傾けるだけで正当な活動の結果を手にすることができる。このように主の純粋な献身者はあらゆる罪の報いから解放され、主の献身者となり得る機会をすべての人に与えているのである。
 一般的に罪の反動から解放されている者、すなわち正義の者は容易にクリシュナ意識を受け入れる。ここでプニヤ・カルマナームというサンスクリット語が用いられていることは非常に重要であり、これはヴェーダ文献で記されているアシュヴァメーダ・ヤジュニャのような大供養を行うという意味である。純粋ではなくても献身奉仕を行う正義の者は、ドルヴァ・マハーラージャの住む北極星のある惑星系に到達する。ドルヴァ・マハーラージャは主の偉大な献身者であり、北極星と呼ばれる特別な惑星を所有しているのだ。
kaccid etac chrutaṁ pārtha
tvayaikāgreṇa cetasā
kaccid ajñāna-sammohaḥ
praṇaṣṭas te dhanañ-jaya

訳語

翻訳

プリターの子よ、富を征服した者よ
心を集中させて聞いたであろうか?
そして君の無知と幻想は
今や消え去ったであろうか?

解説

 主はアルジュナに対して精神の師という役目を果たしておられたため、彼が『バガヴァッド・ギーター』を正しく理解したかどうか問いただすのは主の義務であった。もし彼が理解できていなくてさらなる説明を求めるなら、主はどの点であろうと再度説明するつもりでおられた。事実、クリシュナあるいはクリシュナの代表者のような正当な精神の師から『バガヴァッド・ギーター』を聞く人は、自分の無知が消えていくのがわかるであろう。『バガヴァッド・ギーター』は詩人や作家が創作した普通の本ではなく、至高人格神が語ったものである。クリシュナあるいはクリシュナの真正なる精神的代表者からこの教えを聴くことのできた幸運な人が、解放されて無知の暗闇から自由になれることは間違いない。
arjuna uvāca
naṣṭo mohaḥ smṛtir labdhā
tvat-prasādān mayācyuta
sthito ’smi gata-sandehaḥ
kariṣye vacanaṁ tava

訳語

翻訳

アルジュナは言った。
親愛なるクリシュナ、過つことなきお方よ
私の幻想は今消え去りました。
あなたの慈悲により私の記憶は甦りました。
もはや疑いも揺らぐこともありません。
あなたの教えに従って行動いたします。

解説

 アルジュナが示したように、生命体の本来の立場は至高主の指示に従って行動するということであり、自己を抑制しなくてはならない。生命体の本来の立場は至高主の永遠なるしもべであると主チャイタニヤ・マハープラブはおっしゃる。生命体はこの原則を忘れて物質自然の制約を受けているが、至高主に仕えることによって解放された神の仕え人となる。仕えることが生命体本来の立場であり、幻想のマーヤーか至高主かのどちらかに仕えなくてはならない。至高主に仕えれば正常な状態であるが、幻想すなわち外的エネルギーに仕えることを選ぶなら確実に束縛されてしまう。生命体は幻想の中でこの物質界に仕え、情欲や貪欲に縛られているにもかかわらず、自分が世界を支配しているかのように思っている。これを幻想と呼ぶ。解放された人は幻想から抜け出し、自ら至高主に身を委ねて主が望まれるとおりに行動しようとする。最大の幻想、すなわちマーヤーが生命体に仕掛ける究極の罠は、自分は神であると思わせることである。自分はもはや制約された魂ではなく神なのだと生命体は考える。あまりにも知性がないため、もし自分が神なら疑問や疑いなど持つわけがないとは考えないのだ。そのようには頭が回らない。これが幻想の究極的な罠である。実際に幻想エネルギーから解放されるということは、クリシュナすなわち至高人格神を理解して、主の教えに従って行動すると決めることである。
 この節ではモーハというサンスクリット語が非常に重要である。モーハとは知識と反するものという意味である。実際には真の知識とは、生きとし生きる者はすべて主の永遠なる仕え人であるということを理解することであるが、生命体は仕えることが自分の立場だとは思わずに、自分はこの物質世界の支配者だと考える。物質自然を我が物にしたいと思っているからである。これが幻想なのだ。この幻想から抜け出るには主の慈悲に頼るか、あるいは純粋な献身者の慈悲にすがるしかない。そして幻想が消え去れば、クリシュナ意識で行動しようと決意するのである。
 クリシュナ意識とは、クリシュナの指図によって行動することである。物質という外的エネルギーに惑わされ制約されている魂は、至高主こそがあらゆる知識を備え、万物を供給してくださっている主人であるということを知らない。主は献身者に与えたいと思われるものは何でもお与えになる。主はすべての生命体の友であり、とりわけ御自身の献身者に対しては心を傾ける。主はこの物質自然とすべての生命体を支配するお方であり、また尽きることのない時間の支配者でもあり、すべての富とすべてのエネルギーに満ちておられる。至高人格神は献身者に御自分さえもお与えになる。主を知らない者は幻想の虜となり、献身者とならずにマーヤーのしもべとなってしまう。しかしアルジュナは至高人格神から『バガヴァッド・ギーター』を聞いてあらゆる幻想から解き放たれ、クリシュナはただ友達であるだけでなく至高人格神であるということを理解できた。つまりクリシュナを真に理解することができたのである。このように、『バガヴァッド・ギーター』を学ぶということはクリシュナを正しく理解することである。完全な知識を備えた人は自然とクリシュナに身を委ねるようになる。不必要な人口増加を阻むのもクリシュナの計画であることを理解したアルジュナは、クリシュナの望み通りに戦うことを決意した。そして至高人格神の指示のもと戦わんと、再び弓矢を手にしたのである。
sañjaya uvāca
ity ahaṁ vāsudevasya
pārthasya ca mahātmanaḥ
saṁvādam imam aśrauṣam
adbhutaṁ roma-harṣaṇam

訳語

翻訳

サンジャヤは言った。
このように私は、クリシュナとアルジュナという
ふたつの偉大な魂の会話を聞きました。
そのあまりのすばらしさに
私の髪は逆立っております。

解説

 『バガヴァッド・ギーター』の冒頭でドリタラーシュトラは「クルクシェートラの戦場はどのようであろうか」と側近のサンジャヤに尋ねた。サンジャヤのハートには精神の師であるヴィヤーサの慈悲によってこの出来事のすべてが伝えられ、それで彼は戦場の様子を伝えることができたのである。この偉大なふたつの魂の間で交わされた重要な会話は、これまでにもそしてこれからも二度と交わされることなく、それゆえにすばらしいものであった。至高人格神が御自身とそのエネルギーについて、主の偉大な献身者であるアルジュナという生命体に語られたからこそすばらしいのである。アルジュナの足跡に従ってクリシュナを理解できたなら、私たちの人生はバラ色となり大成功を収めるだろう。サンジャヤはそのことを悟り、理解したままにその会話をドリタラーシュトラに伝えた。そして「クリシュナとアルジュナのいるところには必ず勝利あり」という結論に達したのである。
vyāsa-prasādāc chrutavān
etad guhyam ahaṁ param
yogaṁ yogeśvarāt kṛṣṇāt
sākṣāt kathayataḥ svayam

訳語

翻訳

あらゆる神秘主義の支配者であるクリシュナが
自らアルジュナに語られたこの最も秘奥な言葉の数々を
ヴィヤーサの慈悲により
私はじかに聴くことができました。

解説

 ヴィヤーサはサンジャヤにとって精神の師であり、サンジャヤは自分が至高人格神を理解できたのはヴィヤーサの慈悲であると認めている。つまり私たちはクリシュナをじかに理解しようとするのではなく、精神の師という媒体を通さなくてはならないということである。体験は確かにじかにするものではあるが、精神の師というのは透明な媒体であり、これが師弟継承の神秘である。精神の師が正統であれば、弟子はアルジュナが聞いたのと同じように『バガヴァッド・ギーター』をじかに聞くことができる。世界には神秘主義者やヨーギーが大勢いるが、クリシュナこそがあらゆるヨーガ体系を支配するお方である。『バガヴァッド・ギーター』には「クリシュナに身を委ねよ」というクリシュナの教えが明確に述べられている。これを実行するのが最高のヨーギーであり、このことは第6章の最終節で Yoginām api sarveṣām と確認されている。
 ナーラダはクリシュナの直弟子であり、ヴィヤーサの精神の師であった。ヴィヤーサは師弟継承でつながっているのでアルジュナ同様に正統である。ゆえにサンジャヤの感覚はヴィヤーサの慈悲によって浄化されていたため、クリシュナのことをじかに見聞きできたのである。クリシュナの言葉をじかに聞くことのできる者は、この秘奥の知識を理解することができる。師弟継承上にない人はクリシュナのことを耳にすることができないため、少なくとも『バガヴァッド・ギーター』の理解に関する知識はいつも不完全である。
 『バガヴァッド・ギーター』ではカルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガのすべてのヨーガ体系が説明されている。クリシュナはこうしたすべての神秘主義の支配者であるが、私たちが理解すべきは、アルジュナが幸運にもクリシュナをじかに理解できたように、サンジャヤもまたヴィヤーサの慈悲によってクリシュナの言葉をじかに聞けたということである。実際、クリシュナからじかに聞くことと、ヴィヤーサのように真正な精神の師を通してクリシュナの言葉を聞くこととは、何の違いもない。精神の師はヴィヤーサデーヴァの代表者でもある。そのため師の誕生日には、弟子はヴェーダ方式に従ってヴィヤーサ・プージャという儀式をするのである。
rājan saṁsmṛtya saṁsmṛtya
saṁvādam imam adbhutam
keśavārjunayoḥ puṇyaṁ
hṛṣyāmi ca muhur muhuḥ

訳語

翻訳

王よ
クリシュナとアルジュナの間で交わされた
このすばらしく聖なる会話を思い返し
私は毎瞬間身震いするほどの喜びを味わっております。

解説

 『バガヴァッド・ギーター』を理解することは非常に超越的なので、アルジュナとクリシュナの話題に精通する者は正しい人となり、決してこのふたりの会話を忘れることはできない。これが精神生活という超越的な立場である。つまり正しい源であるクリシュナからじかにギーターを聞いた人は、完全なるクリシュナ意識を得る。そしてクリシュナ意識を得た結果、人はさらなる啓発を受け続けて、時々ではなく毎瞬間喜びの感動に溢れた人生を送るのである。
tac ca saṁsmṛtya saṁsmṛtya
rūpam aty-adbhutaṁ hareḥ
vismayo me mahān rājan
hṛṣyāmi ca punaḥ punaḥ

訳語

翻訳

王よ
主クリシュナの美しいお姿を思い出すたび
私はさらなる驚きに打ちのめされ
何度も何度も喜びをかみしめております。

解説

 クリシュナがアルジュナにお見せになった宇宙体を、ヴィヤーサの慈悲を得たサンジャヤも見たことがうかがえる。もちろん、主クリシュナはそのような姿をそれまでに現されたことがないと言われている。それはアルジュナだけのためにお見せになったのだが、偉大な献身者の中にはその姿を見ることができた者がいて、ヴィヤーサもそのひとりであった。ヴィヤーサは主の偉大な献身者のひとりであり、クリシュナの強力な化身であるとされている。彼はそのクリシュナの姿を弟子のサンジャヤに見せたのだ。そしてサンジャヤはその美しいお姿を思い出しては、何度も何度も喜びを味わっているのである。
yatra yogeśvaraḥ kṛṣṇo
yatra pārtho dhanur-dharaḥ
tatra śrīr vijayo bhūtir
dhruvā nītir matir mama

訳語

翻訳

全神秘家の支配者であるクリシュナのいるところ
至上の射手アルジュナのいるところには
富、勝利、非凡な力、道徳性が間違いなく存在します。
これが私の見解です。

解説

 『バガヴァッド・ギーター』はドリタラーシュトラの質問で始まった。ビーシュマ、ドローナ、カルナのような偉大な戦士たちに支えられた自分の息子たちが、勝利を収めるものと期待していた。勝利は自分側にあり、と希望に満ちていたのだ。しかし戦場の様子を語ったのち、サンジャヤは「陛下は勝利するものとお考えのようですが、私の見解は違います。クリシュナとアルジュナのいるところにはあらゆる幸運が待ち受けていると思われます」と王に告げたのである。ドリタラーシュトラ側の勝利は望めないことをまさに確証したのである。アルジュナ側にはクリシュナがついていた。だから彼の勝利は確実であった。クリシュナがアルジュナの御者役を引き受けられたことも、別の富の現れである。クリシュナはあらゆる富に満ちておられ、放棄もそのひとつである。クリシュナは放棄の支配者でもあるため、このような放棄の例はほかにもたくさんある。
 この戦いは実際にはドリタラーシュトラとユディシュティラの間のものであった。アルジュナは兄であるユディシュティラのために戦った。クリシュナとアルジュナが味方についていたのでユディシュティラの勝利は決まっていたのだ。この戦いは誰が世界を支配するかを決めるためのものであり、ユディシュティラがその力を獲得するとサンジャヤは予言した。ユディシュティラは正しく敬虔なだけでなく、厳格に道徳を重んじる人でもあったので、勝利を得たあとますます繁栄していくことも予言されていた。彼は生涯を通して決して嘘をつくことがなかった人である。
 『バガヴァッド・ギーター』はふたりの友人同士が戦場で交わした単なる会話にすぎないと考える、知性乏しき者はたくさんいる。しかしただそれだけの本なら経典にはなり得ない。クリシュナがアルジュナに戦えと駆り立てたのは不道徳ではないかと異義を唱える人もいるかもしれないが、真実の状態は明らかに述べられているとおり、『バガヴァッド・ギーター』こそ道徳における至上の教えなのである。その第9章第34節に man-manā bhava mad-bhaktaḥ と、その至上なる道徳の教えについて述べられている。人はクリシュナの献身者にならなくてはならない。あらゆる宗教の真髄はクリシュナに身を委ねること(sarva-dharmān parityajya mām ekaṁ śaraṇaṁ vraja)である。『バガヴァッド・ギーター』の教えは宗教と道徳に関する至上のプロセスで構成されている。その他のプロセスはどれも浄化はするかもしれないが、「クリシュナに身を委ねよ」というギーターの結論となる指示こそが、全道徳と全宗教の究極的な教えであり、これが第18章の結論となっている。
 『バガヴァッド・ギーター』から私たちが理解できることは、哲学的思索も瞑想も自己を悟る手段ではあるが、クリシュナに完全に身を委ねることこそ最高の完成だということである。これが『バガヴァッド・ギーター』の教えの真髄なのだ。社会生活上の規定原則や宗教上のさまざまな原則に従う道も知識を得る秘訣であるかもしれないが、宗教儀式がいかに内密であるといっても、瞑想や知識の育成のほうがさらに内密である。そして完全なるクリシュナ意識で献身的に仕えながら、クリシュナに身を委ねることこそ最も秘奥な教えであり、これが第18章の真髄である。
 『バガヴァッド・ギーター』のもうひとつの主要点は、事実上の真理とは至高人格神クリシュナだということである。絶対真理を悟るには、無機質なブラフマン、局所的なパラマートマー、そして究極的に至高人格神クリシュナという3つの様相がある。絶対真理の完全な知識とはクリシュナを完全に知ることである。クリシュナを理解すればあらゆる分野の知識がその理解の一部分となり、すべてを理解したことになる。クリシュナは常に御自身の永遠なる内的エネルギーの中にいらっしゃるので、超越的である。生きとし生けるものは主のエネルギーの現れであり、永遠に制約された者と永遠に解放されている者の2種類に分類される。こうした生命体は無数に存在し、クリシュナの主要な部分だとみなされる。物質エネルギーは24の要素として現れ、創造は永遠なる時の影響を受けて外的エネルギーによって創造され破壊される。こうして宇宙に出現するものは顕現・未顕現を繰り返すのである。
 『バガヴァッド・ギーター』では、至高人格神、物質自然、生命体、永遠なる時間、あらゆる種類の活動という5つの主題について語られていて、そのすべてが至高人格神クリシュナに依存している。無機質なブラフマンも局所的なパラマートマーも、その他いかなる超越的概念も、すべて至高人格神の理解の中に存在する。至高人格神、生命体、物質自然、時間というのは表面的にはどれも違ったもののように見えるが、どれも至高主と変わりがない。しかし至高主は常に万物と異なっている。これが主チャイタニヤの説かれた「驚くべき一致と相違」の哲学である。この哲学システムが絶対真理の完全なる知識を構成している。
 生命体の本来の立場は純粋な魂であり、至高なる魂の極小部分である。主クリシュナは太陽に、そして生命体は太陽光線にたとえられる。生命体はクリシュナの境界エネルギーであるため、物質エネルギーか精神エネルギーのどちらかに触れようとする傾向がある。つまり生命体は主のふたつのエネルギーの間に位置していて、上位エネルギーに属するためわずかな独立性を備えているのだ。この独立性を正しく使うことによって、生命体はクリシュナから直接指示を受けることができるようになり、喜びを与える力の中で本来の位置に到達できるのである。
 以上、『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第18章「放棄の完成」に関するバクティヴェーダンタの解説は終了。