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第6章

ナーラダとヴィヤーサデーヴァの会話

sūta uvāca
evaṁ niśamya bhagavān
devarṣer janma karma ca
bhūyaḥ papraccha taṁ brahman
vyāsaḥ satyavatī-sutaḥ

訳語

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スータが言った。ブラーフマナたちよ。神の化身であり、サッティヤヴァティーの息子でもあるヴィヤーサデーヴァは、シュリー・ナーラダの誕生と活動について余すところなく拝聴した後、次のように尋ねた。

解説

ヴィヤーサデーヴァはナーラダジーが到達した完成の域について、さらにはその人となりについてもっと詳しく知りたいと願いました。この章でナーラダージは、主とのつかの間の出会いがいかに叶ったかを説明します。それは、ナーラダジーが、神との離別という超越的な感情に浸っている間、そして彼にとってそれが耐え難いものとなった時に起こったのです。
vyāsa uvāca
bhikṣubhir vipravasite
vijñānādeṣṭṛbhis tava
vartamāno vayasy ādye
tataḥ kim akarod bhavān

訳語

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シュリー・ヴィヤーサデーヴァが言った。科学的で神聖な知識を説いた偉大な聖者たちが去って行った後、今世が始まる前に、あなた[ナーラダ]は何をなさったのでしょうか。

解説

ヴィヤーサデーヴァはナーラダジーの弟子であることから、ナーラダが入門後にしたことについて知りたいと思うのは自然なことです。ナーラダの足跡に従って同じ境地にたどり着きたいと考えたのです。精神指導者に物事を尋ねようとする望みは、献身生活を完成させるためには欠かせません。この見解をサンスクリット語でサッ・ダルマ・プリッチャーといいます。
svāyambhuva kayā vṛttyā
vartitaṁ te paraṁ vayaḥ
kathaṁ cedam udasrākṣīḥ
kāle prāpte kalevaram

訳語

翻訳

ブラフマーの息子であるおお方よ。入門を受けた後はどのように過ごされたのでしょうか。やがてその体を捨てた後、どのようにして今の体を得られたのでしょうか。

解説

シュリー・ナーラダ・ムニは前世では平凡な下女の息子でしたから、どのように永遠の命、至福、そして知識にあふれた精神的な体に完全に移行したのかを知ることは、確かに重要です。シュリー・ヴィヤーサデーヴァは、全ての人がその話を聞いて満足できるよう、ナーラダ・ムニに全てを説明してほしいと願いました。
prāk-kalpa-viṣayām etāṁ
smṛtiṁ te muni-sattama
na hy eṣa vyavadhāt kāla
eṣa sarva-nirākṛtiḥ

訳語

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偉大な聖者よ。時は、やがて全てを破壊します。それでも、ブラフマーのこの一日、この日以前に起こったその出来事が、時の力に影響されることなくあなたの記憶に新しいのは、なぜなのでしょうか。

解説

肉体が消滅しても魂は消えないように、精神的な意識も消滅しません。シュリー・ナーラダは物質的な体を持ちながら、前代のカルパに生きていたときでさえ、この精神的な意識を持っていました。肉体意識とは、肉体を通して表される精神的な意識を指します。その質は劣り、歪んでおり、やがて消滅するものです。しかし、精神的な状態にある心を超越した超意識は、精神魂と同じで、決して消滅しません。
nārada uvāca
bhikṣubhir vipravasite
vijñānādeṣṭṛbhir mama
vartamāno vayasy ādye
tata etad akāraṣam

訳語

翻訳

シュリー・ナーラダが言った。私に崇高な科学的知識を授けた偉大な聖者たちは、新たな場所に向けて去って行った。私は残りの生涯をひとりで過ごさなくてはならなかった。

解説

ナーラダジーは、前世で偉大な聖者たちから崇高な知識を授かった時、5歳の少年にすぎませんでしたが、人生に明らかな変化が現れました。それこそが、真正な精神指導者から入門を授かった後に見られる重要な証しです。献身者との確かな交流は、神聖な悟りとなってすぐに変革をもたらします。シュリー・ナーラダ・ムニの前世でそれがどのように起こったのかが、この章で説明されていきます。
ekātmajā me jananī
yoṣin mūḍhā ca kiṅkarī
mayy ātmaje ’nanya-gatau
cakre snehānubandhanam

訳語

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純朴で、使用人にすぎなかった母にとって、私は唯一の息子だった。私以外に家族はなく、他に守ってくれる人もいなかった。母は、愛情という紐で私を縛りつけていた。
sāsvatantrā na kalpāsīd
yoga-kṣemaṁ mamecchatī
īśasya hi vaśe loko
yoṣā dārumayī yathā

訳語

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母は、人並みに私を養おうとしたが、しかし彼女自身、依存している身であったので、それもかなわなかった。世界は全て至高主の意志で動いている。ゆえに誰であろうと、人形使いに操られる木の人形と同じである。
ahaṁ ca tad-brahma-kule
ūṣivāṁs tad-upekṣayā
dig-deśa-kālāvyutpanno
bālakaḥ pañca-hāyanaḥ

訳語

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まだほんの5歳の頃、私はブラーフマナの学校に住んでいた。母の愛情にすがり、異郷の地を踏んだこともなかった。
ekadā nirgatāṁ gehād
duhantīṁ niśi gāṁ pathi
sarpo ’daśat padā spṛṣṭaḥ
kṛpaṇāṁ kāla-coditaḥ

訳語

翻訳

ある夜、哀れな母は、牛の乳を絞りに行く途中、蛇に足を噛まれた。それは至高の時が定めた宿命によるものだった。

解説

これが、真剣な魂を神に近づける手段です。哀れなこの男児は、我が子をいとしむ母親だけに育てられていたのですが、それでも、その子が主の慈悲だけに身を委ねるようにと、至高の意志によって彼の母親でさえこの世を去ったのでした。
tadā tad aham īśasya
bhaktānāṁ śam abhīpsataḥ
anugrahaṁ manyamānaḥ
prātiṣṭhaṁ diśam uttarām

訳語

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これは、いつでも献身者に恵みを施したいと望んでいらっしゃる主の特別の慈悲に違いないと考えた私は、北に向って旅立った。

解説

主と親密な関係にある献身者は、いつも主の優しさに導かれていることを知っています。普通の見方では数奇な、あるいは困難な状況だとしても、献身者は主の特別の慈悲として受け入れます。通俗な繁栄は、いわば物質的な熱にうかされている状態ですが、主の思いやりによって物質的な熱はやがて引き、着実に精神的な健康を手に入れるようになります。一般の人はそれを誤解してしまうものです。
sphītāñ janapadāṁs tatra
pura-grāma-vrajākarān
kheṭa-kharvaṭa-vāṭīś ca
vanāny upavanāni ca

訳語

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旅に出た後、にぎわう大都市、町や村、牧草地帯、鉱山、農場、谷間、花畑、種苗場、原生林などをいくつも巡り歩いた。

解説

人類が農業、鉱業、農場経営、工場、園芸などに携わっている様子は、昔も今も同じです。先代の創造期から今の創造期でも、そして次の創造期にまで同様の営みは続けられるのです。何億何千年後、自然の法則によって次の創造期が始まり、再び同じような宇宙の歴史が繰り返されます。俗な口論しかできない人々は、生活に欠かせない事には見向きもせず、遺跡の発掘調査のためならいくらでも時間を浪費します。シュリー・ナーラダ・ムニは、精神生活を始める決意を固めた後、小さな子どもではありましたが、一瞬たりとも時間を無駄にすることなく、町や村、鉱山や工場を通り過ぎて行きました。崇高な解脱の境地を目指して歩き続けたのです。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、数億年前に起こった歴史を物語っています。ここで述べられているように、この真正な書物には最も重要な史実だけが選ばれ、記録されています。
citra-dhātu-vicitrādrīn
ibha-bhagna-bhuja-drumān
jalāśayāñ chiva-jalān
nalinīḥ sura-sevitāḥ
citra-svanaiḥ patra-rathair
vibhramad bhramara-śriyaḥ

訳語

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私は、金、銀、銅などさまざまな鉱山資源の宝庫である丘や山を通り過ぎた。そしてさらに、美しい蓮華の花が咲き乱れ、狂おしく飛びまわる蜂やさえずる鳥によって飾られた湖が点在する、まさに天上の住民が住むにふさわしい一帯を通り過ぎた。
nala-veṇu-śaras-tanba-
kuśa-kīcaka-gahvaram
eka evātiyāto ’ham
adrākṣaṁ vipinaṁ mahat
ghoraṁ pratibhayākāraṁ
vyālolūka-śivājiram

訳語

翻訳

次に私は、イグサ、竹、アシ、鋭い葉の草、雑草が生い茂る森、洞穴など、ひとりで通るには困難を極める場所を歩いていった。蛇、フクロウ、ジャッカルたちがうろつく、うっそうとした、そして不気味な森を進んでいった。

解説

修行僧(パリヴラージャカーチャーリャ)には、森、丘、町や村といった神のさまざまな創造界をひとりで旅をする義務があり、その目的は、神への信念と心の強さを築き、旅先の住民を神の言葉で啓発することにあります。サンニヤーシーは、このような危険を顧みることなく義務を果たさなくてはならず、現代ではその模範となるのが主チャイタニヤです。主はインド中部に広がるジャングルを旅し、虎、熊、蛇、鹿、象などジャングルに住む動物らも啓発されました。現代のカリ・ユガでは、一般の人がサンニヤーサ階級になることは禁じられています。ただ身なりを変えただけで布教活動をするだけの人間は、真のサンニヤーシーとは似て非なる者です。しかしながら、社会との交友関係を全て断つ誓いを立て、主への奉仕だけに生涯を捧げなければなりません。衣服を変えるのは単なる見せかけにすぎません。主チャイタニヤはサンニヤーシーの名前を受け入れませんでしたが、カリ・ユガでは、いわゆるサンニヤーシーと呼ばれる人々も、主チャイタニヤの足跡に従い、自分の名前を変えるべきではありません。現代では、主の神聖な栄光について聞いて唱えるという献身奉仕が強く勧められており、家庭生活の放棄を誓った人は、ナーラダや主チャイタニヤのようなパリヴラージャカーチャーリャをまねる必要はないですが、聖地に行って腰を据えて修行に励み、ヴリンダーヴァナの6人のゴースヴァーミーのような偉大なアーチャーリャが残した神聖な経典を、全生涯と全力をかけて聞き、そして繰り返し唱えなくてはなりません。
pariśrāntendriyātmāhaṁ
tṛṭ-parīto bubhukṣitaḥ
snātvā pītvā hrade nadyā
upaspṛṣṭo gata-śramaḥ

訳語

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なおも歩き続けるうちに身も心も疲れ、喉が渇き、空腹を感じるようになった。私は川で体を洗い、水を飲んだ。水に触れることで、疲れは癒されていった。

解説

行脚僧は、一般家庭の入り口に立って物乞いをすることなく、自然の恵みで喉の渇きや空腹感といった体の欲求を満たすことができます。ですから、行脚僧が世帯者の家を訪ねるのは、物乞いをするためではなく、尊い知識を与えて人々を啓発するためなのです。
tasmin nirmanuje ’raṇye
pippalopastha āśritaḥ
ātmanātmānam ātmasthaṁ
yathā-śrutam acintayam

訳語

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その後、人里離れた森に立つバニヤン樹の木陰に座り、解脱した魂たちから学んだように、知性を使って内なる超霊魂を瞑想し始めた。

解説

瞑想は好き勝手な方法でするものではありません。澄み切った媒体者である真正な精神指導者に従い、正しい情報源である経典を熟知し、訓練された知性を正しく使って全生命体の内に住む超霊魂を瞑想するのです。この意識は、精神指導者の指示に従って主に愛情奉仕をしている献身者の内に確実に育まれます。シュリー・ナーラダ・ムニは誠実な精神指導者とふれあう機会に恵まれ、彼らに心を込めて仕え、正しく啓発されました。こうして彼は瞑想を始めたのでした。
dhyāyataś caraṇāmbhojaṁ
bhāva-nirjita-cetasā
autkaṇṭhyāśru-kalākṣasya
hṛdy āsīn me śanair hariḥ

訳語

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崇高な愛情に触れて様変わりした心で主の蓮華の御足を瞑想し始めた時、涙があふれた。すると時を移さず、人格神シュリー・クリシュナが私の心の蓮華の上に現れた。

解説

この節でバーヴァという言葉に重要な意味があります。バーヴァの境地は、主に気高い愛情を抱くようになったときに得られます。最初の段階がシュラッダー、つまり至高主に興味を持った状態で、その興味をさらに高めるには主の純粋な献身者と交流しなくてはなりません。3つ目の段階は、献身奉仕のために定められた規則や原則を修練する状態です。この修練によって全ての疑いは消え、献身奉仕を妨げる個人的な未熟さを取り除くことができます。
疑いや未熟さが全て取り除かれれば、超越的な物事に対する基本的な信念が築かれ、同時にその味わいもさらに深くなります。そこからさらなる魅力を感じる境地に高まり、そのあとに神への純粋な愛情を得る直前の、バーヴァという段階にたどり着きます。上記のさまざまな境地は、崇高な愛情に高められるまでに生じるさまざまな段階です。崇高な愛情に満たされると、主と離れているという思いが強くなり、その思いが8種類の法悦の境地へと高まっていきます。そのような献身者の目からはひとりでに涙が溢れ出ます。シュリー・ナーラダ・ムニは前世で家を離れた直後にその境地に入っていたので、主に出会うのは必然の結果であり、またそれは物質的な傾向のない高尚な精神的感覚による鮮明な体験でした。
premātibhara-nirbhinna-
pulakāṅgo ’tinirvṛtaḥ
ānanda-samplave līno
nāpaśyam ubhayaṁ mune

訳語

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ヴィヤーサデーヴァよ。そのとき、えも言われぬ幸福感に打たれていたために、私の体の各部分はそれぞれ活力に満たされていた。法悦の海に没頭していた私は、自分も主も見ることができなくなった。

解説

精神的な幸福感や深い法悦心は、俗な感情とは全く比較になりません。ゆえにそのような感情を表現し尽くすのはとても難しいことです。私たちは、シュリー・ナーラダ・ムニの言葉の中にその法悦の境地を垣間見ることができます。体の各部分や感覚はそれぞれ特有の機能を備えています。主に出会うと、それら全てが、主に仕えられるよう完全に目覚めます。感覚の機能は、解脱の境地で主のために使われてこそ発揮されるからです。ですから、そのような超越的な法悦の境地で、感覚が主に仕えるためにそれぞれが活気に満ちたのです。ナーラダ・ムニはそのような状態にあったため、自分自身も主自身も見ることができませんでした。
rūpaṁ bhagavato yat tan
manaḥ-kāntaṁ śucāpaham
apaśyan sahasottasthe
vaiklavyād durmanā iva

訳語

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主のありのままの超越的な姿は、心の願いを満たし、一瞬にして心の乱れを全て消し去ってくれる。突然その姿を見失った私は動揺し、立ち上がった。かけがえのないものを見失った時のように。

解説

主は姿を持たない存在ではないということを、ナーラダ・ムニは体験しました。しかし、その姿は物質的な体験を通して得られる姿とは全く違います。私たちはこの世にあるさまざまな姿や形を目にしますが、どれひとつをとっても心を満たすものはなく、また心の乱れを癒すものもありません。心を満たしたり癒したりできるのは主の崇高な姿だけであり、その姿を一度でも見れば、どんなものを見ても満足できなくなります。物質界にある姿はどれも、見る者を満足させてはくれません。主に姿はない、または非人格であるという表現は主は物質的な姿を持たず、物質的な人物ではないという意味です。
私たちは精神的な存在であり、主の崇高な姿と永遠な関係を持っているため、幾生涯を経て主の姿を求めているのですが、物質的な楽しみしか与えてくれない他の姿では満足できません。ナーラダ・ムニはその姿をほんの少し見ることができたのですが、すぐに見えなくなったために戸惑い、またその姿を求めて突然立ち上がりました。私たちが幾生涯もかけて求めてきたものをナーラダ・ムニは得ました。その主の姿を見失ってしまったことは、間違いなく彼にとって大きな衝撃だったに違いありません。
didṛkṣus tad ahaṁ bhūyaḥ
praṇidhāya mano hṛdi
vīkṣamāṇo ’pi nāpaśyam
avitṛpta ivāturaḥ

訳語

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その崇高な姿をもう一度見ようと瞑想を一生懸命に試みたが、どうしても見ることができなかった。満たされず、私は深い悲しみに沈んだ。

解説

主の姿を見るための機械的な方法はありません。全て主のいわれのない慈悲にかかっているのです。私たちの前に現れるよう、主に要求することはできません。こちらの都合通りに太陽に昇るよう要求できないのと同じです。太陽は太陽の軌道に沿って昇るのであり、主もいわれのない慈悲心から現れてくださいます。主に仕えながら、その瞬間が訪れるのを忍耐強く待ち続けなくてはなりません。ナーラダ・ムニは、最初の試みで成功したのと同じ機械的な方法を使えば、再び主を見ることができるだろうと考えたのですが、いくら努力しても2度目の試みは成功しませんでした。主は恩義に縛られるお方ではありません。唯一主を縛ることができるのは、純粋無垢な献身奉仕だけです。そして物質的な感覚では、見ることも感じることもできません。主の慈悲にすがって行う誠意のこもった献身奉仕に主が喜びを感じたとき、主は自分の判断で姿を見せてくださいます。
evaṁ yatantaṁ vijane
mām āhāgocaro girām
gambhīra-ślakṣṇayā vācā
śucaḥ praśamayann iva

訳語

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誰もいない所で再会を試みている私を見て、俗的な説明では語り尽くせない人格神は、悲しみを和らげようと、荘厳で心地よい言葉で私に語りかけた。

解説

ヴェーダには、神は俗的な言葉や知性では近づけないお方であると言われています。それでも、いわれのない慈悲があれば、主の言葉を聞いたり主に語りかけたりするにふさわしい感覚を授かることができます。これが人智の及ばない主の力です。主によって慈悲が注がれる人物だけが、主の言葉を聞くことができます。主はナーラダ・ムニにとても満足し、主の言葉を聞くことができる力を授けました。しかし、献身奉仕を始めたばかりの人が主と直接ふれあうことはできません。ナーラダへは特別の贈り物として授けられました。主の妙なる言葉を聞き、主と離れている彼の悲しみは幾分和らげられました。神を愛する献身者は常に別れの苦痛を感じているのですが、その思いゆえに、いつも超越的な法悦感に包まれています。
hantāsmiñ janmani bhavān
mā māṁ draṣṭum ihārhati
avipakva-kaṣāyāṇāṁ
durdarśo ’haṁ kuyoginām

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[主が語った]ナーラダよ。あなたが今生で再び私を見ることができないことを気の毒に思う。奉仕が不完全な者、物質的な汚れから完全に解放されていない者は、私を見ることはほとんどできない。

解説

『バガヴァッド・ギーター』では、人格神は最も純粋なお方、そして至高の絶対真理であると述べられています。主の内に物質性はみじんもありませんから、ほんの少しでも物質的な望みを持つ人は主に近づくことはできません。献身奉仕は、少なくとも2種類の物質の性質、すなわち激性と無知のない状態から始まります。その結果は、カーマ(欲情)とローバ(強欲)がない兆候として表れます。すなわち、感覚満足への望みと貪欲さに縛られていてはならない、ということです。自然の様式でバランスがとれているのは徳性ですが、物質的状態から完全に自由になるためには、徳性さえも超えなくてはなりません。人里離れた場所で神との出会いを求めるのは徳性です。ですが精神的完成を求めて森に入っても、それで主に会えるとは限りません。物質的な執着心を全て捨て、超越的な境地に位置することだけが人格神と個人的に出会える助けになります。最も素晴らしい方法は、主の崇高な姿が礼拝されている場所に住むことです。森は物質的生活に適した場所ですが、主の寺院は神聖な場所です。初心の献身者は、主を探しに森に入るよりは、主の神像(アルチャナー)を崇拝するよう勧められています。献身奉仕はアルチャナーから始まるものであり、それは森に行くよりも優れた方法です。シュリー・ナーラダ・ムニは現世で物欲を全て捨て去った境地にあり、その存在によってどんな場所でもヴァイクンタに変えられるのですが、森に入ることはしません。人類、神々、キンナラ、ガンダルヴァ、リシ、ムニ、その他全ての人々を主の献身者に変貌させるために、惑星から惑星へと旅を続けています。彼の言動を通して、プラフラーダ・マハーラージャ、ドルヴァ・マハーラージャなど、多くの献身者を主の崇高な奉仕に従事させています。ですから、主の純粋な献身者は、ナーラダやプラフラーダのような偉大な献身者の足跡に従い、自分の時間を全てキールタンという主を讃える方法に使っています。そのような布教方法は全ての通俗な質を超越しています。
sakṛd yad darśitaṁ rūpam
etat kāmāya te ’nagha
mat-kāmaḥ śanakaiḥ sādhu
sarvān muñcati hṛc-chayān

訳語

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徳高き者よ。あなたは私を一度だけ見ることができたが、それも私を求める望みを強くさせようとするがゆえだ。私を求めるほどに、物質的な望みを全て捨てられるようになるからである。

解説

生物の心から望みがなくなることはありません。命のない石ころではないからです。必ず動き、考え、感じ、そして望んでいます。しかしその考え、感情、そして希望が物質的であれば束縛され、逆に主への奉仕のために考え、感じ、望むのであればあらゆる束縛から徐々に自由になっていきます。主に崇高な奉仕をすればするほど、さらに奉仕をしたいという気持ちが強くなっていきます。それが神聖な奉仕の特質です。物質的奉仕はいつか飽きるものですが、精神的奉仕は飽きることも終わることもありません。主への崇高な愛情奉仕を高めようと望み続けることができますし、なおかつ飽きもせず終わりもありません。情熱を込めて主に仕えることで、主の存在を超越的に感じることができます。主への奉仕と主自身が同じですから、主に会うということは、主に仕えることとも言えます。真剣な献身者は主に真剣に仕えながら前進しなくてはなりません。主はそういう献身者を正しく導き、どのように、どこで行うべきかを教えてくれます。ナーラダは物質的な望みを持っていたわけではありませんでしたが、それでも主は、彼が自分をより強く求めるよう助言したのでした。
sat-sevayādīrghayāpi
jātā mayi dṛḍhā matiḥ
hitvāvadyam imaṁ lokaṁ
gantā maj-janatām asi

訳語

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たとえ数日間でも絶対真理者に仕えると、献身者は私に対する堅固で不動の知性を築き上げる。その結果、この無常な物質界を捨てて超越的世界でやがて私の仲間になる。

解説

絶対真理に仕えることは、主と初心の献身者の間にいる透明な媒体である正しい精神指導者の指導のもと、絶対人格神に仕える、ということです。初心の献身者は、不完全な感覚の力ゆえに人格神に近づくことができないため、精神指導者に導かれて主に仕える訓練を受けなくてはなりません。その訓練がたとえ幾日かの間だったとしても、初心の献身者はその奉仕を通して知性を授かります。そしてその知性によって、物質界に住み続ける束縛から抜け出し、精神界に高められ、主の解放された仲間のひとりになることができます。
matir mayi nibaddheyaṁ
na vipadyeta karhicit
prajā-sarga-nirodhe ’pi
smṛtiś ca mad-anugrahāt

訳語

翻訳

私への奉仕に使われている知性は、どのようなときでも惑わされることはない。世界が創造されるときでさえも、あるいは破壊されるときでも、あなたの記憶は私の慈悲によって永続する。

解説

人格神に捧げられた奉仕は、決して徒労に終わることはありません。主は永遠ですから、主のために使う知性や主のためにする活動も永遠です。『バガヴァッド・ギーター』では、主のために行う超越的な奉仕は幾生涯もの間蓄えられ、奉仕をした献身者が充分に成熟したときには、積み重ねられた奉仕のおかげで、主との交流の仲間入りを許される、と言われています。神への奉仕の蓄積は決してなくならず、完全に成熟されるまで増大し続けます。
etāvad uktvopararāma tan mahad
bhūtaṁ nabho-liṅgam aliṅgam īśvaram
ahaṁ ca tasmai mahatāṁ mahīyase
śīrṣṇāvanāmaṁ vidadhe ’nukampitaḥ

訳語

翻訳

やがて、耳には聞こえても目には見えない存在として、なおかつ最も素晴らしい人物として私に語りかけた至高の権威者は、そこで話をやめた。私は感謝の念に打たれ、頭を下げて尊敬の礼を捧げた。

解説

人格神は目に見えず、しかし聞くことができるということにはなんら違いはありません。主は4つのヴェーダを呼吸で創造します。その主を私たちはヴェーダという超越的な音を通して見、そして悟ることができます。同じように『バガヴァッド・ギーター』は主の音の権化であり、その両方に違いはありません。結論として、超越的な音を忍耐強く唱えることで主を見ることも聞くこともできる、ということが言えます。
nāmāny anantasya hata-trapaḥ paṭhan
guhyāni bhadrāṇi kṛtāni ca smaran
gāṁ paryaṭaṁs tuṣṭa-manā gata-spṛhaḥ
kālaṁ pratīkṣan vimado vimatsaraḥ

訳語

翻訳

こうして私は、物質界の形式に一切とらわれることなく主の聖なる御名と名声を繰り返し唱え始めた。主の崇高な遊戯について唱えたり思い続けたりする行為は祝福に満ちている。完全に満たされた心で、謙虚な気持ちで、そして誰をも妬むことなく、私は主を思い、主の御名を唱えながら地上をくまなく旅した。

解説

ここでは主の誠実な献身者の生涯について、ナーラダ・ムニの実例を通して概説されています。このような献身者は、主または主の真実の代表者から入門を受けた後、主の栄光の唱名を厳粛に受けとめ、人々がその栄光を聞くことができるように世界中を旅します。彼らには物質的な欲求などありません。唯一の望みは神の元に帰るということです。この望みは、彼らが肉体を捨てる時に満たされます。神の元に帰るという気高い目標がありますから、誰も妬むことはなく、自分が神の元に帰って行けることを鼻にかけることもありません。唯一の営みは、主の聖なる御名、名声、遊戯を唱えて思い出すことです。そして、持てる能力の限りを尽くし、損得を考えることなく、この教えを人々の幸せのために分け与えています。
evaṁ kṛṣṇa-mater brahman
nāsaktasyāmalātmanaḥ
kālaḥ prādurabhūt kāle
taḍit saudāmanī yathā

訳語

翻訳

ブラーフマナ・ヴィヤーサデーヴァよ。主クリシュナへの思いに没頭していたがために、物質に汚されず、執着心を持たなかった私は、やがて時の流れとともに死に臨んだ。それはあたかも、稲妻と稲光が同時に起こるようなものであった。

解説

心をクリシュナへの思いに没頭させるとは、物質の汚れや物欲を心から洗い流す、という意味です。裕福な人が安物に関心を示さないように、永遠な暮らし、そして完全な認識と至福がある神の国に間違いなく帰って行ける主クリシュナの献身者も、永遠の価値のない人形や真実の影のような俗事には関心がありません。それが精神的に豊かな人物の証しです。そして時の流れとともに、純粋な献身者の準備がすっかり整ったとき、一般に死と呼ばれる肉体の変化が突然起こります。純粋な献身者にとって、そのような変化はまさに稲妻のように起こり、そして同時に稲光も発生します。この表現は至高者の意志によって瞬時に起こる献身者の肉体と精神的な体の入れ替えを表しています。純粋な献身者は、死ぬ前にすでに物質的な想念を捨てています。火と接触した鉄が赤熱状態に変化するように、体がすでに精神的であるからです。
prayujyamāne mayi tāṁ
śuddhāṁ bhāgavatīṁ tanum
ārabdha-karma-nirvāṇo
nyapatat pāñca-bhautikaḥ

訳語

翻訳

人格神との交流にふさわしい神聖な体を授かった私は、5種類の物質要素でできた肉体を捨てた。こうして過去の活動[カルマ]によって生じた物質的な反動は全て停止した。

解説

主との交流にふさわしい神聖な体を与えると主に告げられた通り、ナーラダは肉体を捨てた後、すぐに精神的な体を授かりました。この体には物質的な質はなく、永遠で、物質の様式とは無縁で、果報的活動の反動がない、という3種類の超越的な性質が備わっています。物質の肉体はこの3つの質が欠如しているために常に苦しみを味わっています。献身者の体は主に献身奉仕をすることで、すぐに崇高な質に満たされます。崇高な献身奉仕の影響は、タッチストーン(※)が鉄に対して起こす磁石の力に似ています。ですから、肉体の変化は、物質自然の3つの性質が純粋な献身者に及ぼす反動の停止を意味します。経典にはこの実例を示す出来事がたくさんあります。ドルヴァ・マハーラージャやプラフラーダ・マハーラージャ、その他多くの献身者が、見た目には以前の体と変わらない体で人格神と出会っています。これは、献身者の体が物質的な体から超越的な体に変化することを意味しています。それが、権威ある経典に基づいたゴースヴァーミーたちの見解です。『ブラフマ・サンヒター』は、インドラ・ゴーパという細菌から天上の王である偉大なインドラまで、全ての生命体はカルマの法則に拘束され、自らの活動で生じる苦楽に縛られている、と述べています。献身者だけがその反動に縛られていません。それは至高の権威者である人格神のいわれのない慈悲によるものです。

※タッチストーンとは、その石が鉄に触れると金に変わるという特別な石を意味する。
kalpānta idam ādāya
śayāne ’mbhasy udanvataḥ
śiśayiṣor anuprāṇaṁ
viviśe ’ntar ahaṁ vibhoḥ

訳語

翻訳

宇宙の存続期の終わりに、人格神、主ナーラーヤナが破壊の海に横たわるとき、ブラフマーは、創造に必要な要素を全て伴って主の中に入り始め、私も主の呼吸を通して入って行った。

解説

主クリシュナがヴァスデーヴァの子として知られているのと同じように、ナーラダはブラフマーの子として知られています。人格神、そしてナーラダのような解脱した献身者は、同じ過程を通って物質界に現れます。『バガヴァッド・ギーター』で述べられているように、主の誕生と活動は全て超越的です。ですから、権威ある意見によると、ブラフマーの息子としてのナーラダの誕生は、聖なる遊戯です。その降誕と消滅は、主とほぼ同じ境地で行われます。つまり、主と献身者は、精神的生命体として同時に同じで、同時に異なると言えます。両者とも同じ超越的な境地にいるのです。
sahasra-yuga-paryante
utthāyedaṁ sisṛkṣataḥ
marīci-miśrā ṛṣayaḥ
prāṇebhyo ’haṁ ca jajñire

訳語

翻訳

43億年(太陽年)が終わり、ブラフマーが主の意志に従って再び創造するために目覚めるとき、主の超越的な体からマリーチ、アンギラー、アトリを筆頭とするリシたちが全て創造され、私も彼らとともに現れた。

解説

ブラフマーの一日の長さは43億太陽年です。これは『バガヴァッド・ギーター』にも記述されています。つまり、この間ブラフマジーは、ブラフマーの創造者であるガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌの体内でヨーガ・ニドラーの状態で休んでいます。ブラフマーが休眠期間から覚め、主の意志によってブラフマーという媒体者を通して再び世界が創造されるとき、主の崇高な体の各部分から全ての偉大なリシたちが現れ、そしてナーラダも現れます。これは、人間が同じ体で眠りから覚めるように、ナーラダが同じ崇高な体で現れるということを指しています。シュリー・ナーラダは、全能の主が作り出した超越的世界と物質的世界をどこへでも、いつまでも自由に移動できます。束縛された魂が持つ肉体とは違い、肉体と魂という区別のない精神的な体で出現し、そして消えることができます。
antar bahiś ca lokāṁs trīn
paryemy askandita-vrataḥ
anugrahān mahā-viṣṇor
avighāta-gatiḥ kvacit

訳語

翻訳

それ以来、全能のヴィシュヌの恩恵によって、私は精神界であろうと、物質の三界であろうと、制約を一切受けずに旅している。これは、私が主に絶え間ない献身奉仕をしているからである。

解説

『バガヴァッド・ギーター』で言われているように、物質界には3つの領域があり、それぞれウールドヴァ・ローカ(高位の惑星)、マディヤ・ローカ(中位の惑星)、アドー・ローカ(下位の惑星)と呼ばれています。ウールドヴァ・ローカ、つまりブラフマローカの上には、宇宙の物質要素の覆いがあり、その領域を超えたところに果てしなく広い精神界があります。精神界には無限で自ら光り輝くヴァイクンタ惑星が広がり、そこには神自らが、永遠に解放されている生命体たちと暮らしています。シュリー・ナーラダ・ムニは、このような精神界と物質界どちらの世界にも自由に行き来でき、その様子は主が自らの創造界を自由に移動するのに似ています。物質界にいる生命体は、徳性、激性、そして無知という自然の三様式の影響を受けています。しかしシュリー・ナーラダ・ムニは物質界の三様式を超えているため、どこにでも自由に行くことができます。解放された宇宙飛行士とも言うべき人物なのです。主ヴィシュヌのいわれのない慈悲はすばらしく、その慈悲は主の恩恵によって献身者だけが感じることができます。ですから、献身者は絶対に道から外れませんが、結果だけにとらわれる物質主義者や推論に頼る哲学者は、自然の様式に操られているために道を踏み外します。先に述べたリシたちは、ナーラダのように崇高な世界に入ることはできません。この事実については『ナラシンハ・プラーナ』で言及されています。マリーチのようなリシたちは果報活動の権威者であり、サナカ、サナータナのようなリシたちは哲学推論の権威者です。しかし、シュリー・ナーラダ・ムニは主へ超越的な献身奉仕をする者の中での第一の権威者です。主の献身奉仕に関わる全ての偉大な権威者は、『ナーラダ・バクティ・スートラ』で述べられているナーラダ・ムニの足跡に従っていますから、主の献身者は誰でも、神の国、ヴァイクンタに入る資格を備えています。
deva-dattām imāṁ vīṇāṁ
svara-brahma-vibhūṣitām
mūrcchayitvā hari-kathāṁ
gāyamānaś carāmy aham

訳語

翻訳

こうして私は、主クリシュナから授かったこのヴィーナーという神聖な音を奏でる楽器を手に、主の崇高な栄光を常に歌いながら旅し続けている。

解説

主シュリー・クリシュナからナーラダに渡されたこのヴィーナーという楽器については、『リンガ・プラーナ』に記述があり、シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーも確証しています。この神々しい楽器と主シュリー・クリシュナ、そしてナーラダは同じ超越的な境地にあるので、同一のものなのです。この楽器から奏でられる音が物質的であるはずがありません。ですから、ナーラダの楽器を通して広められた主の栄光と遊戯も超越的であり、通俗な質は一切ありません。七音階、すなわちシャ(シャドジャ)、リ(リシャバ)、ガー(ガーンダーラ)、マ(マディヤマ)、パ(パンチャマ)、ダ(ダイヴァタ)、ニ(ニシャーダ)も神聖な音であり、特に神聖な歌のために使われています。主の純粋な献身者であるシュリー・ナーラダデーヴァは、この楽器を授けてくれた主への恩返しとして主の崇高な栄光を歌っていますので、その気高い地位にふさわしい確固たる人物であり続けます。物質界にいながらにして自己を悟った魂は、『バガヴァッド・ギーター』が確証しているように、シュリーラ・ナーラダ・ムニの足跡に従いながら、シャ・リ・ガー・マなどの七音階を使って、主の栄光をいつも歌いながら主に仕えるべきです。
pragāyataḥ sva-vīryāṇi
tīrtha-pādaḥ priya-śravāḥ
āhūta iva me śīghraṁ
darśanaṁ yāti cetasi

訳語

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至高主シュリー・クリシュナの栄光と活動は、聞く者の耳に快く響く。私が至高主の神聖な活動について唱えるやいなや、あたかも呼ばれたかのように、私の心の座に至高主はたちまち現れる。

解説

絶対人格神は、その崇高な御名、姿、遊戯、それらにまつわる音や言葉となんら変わりありません。純粋な献身者は、主の御名、名声、そして活動について聞き、唱え、思い出すという純粋な奉仕を行った瞬間、超越的な視力によって主を見ることができます。精神的な受信機を通して心の鏡に主の姿が映し出されるのです。ですから、愛情を込めた奉仕で主と結ばれている純粋な献身者は、毎瞬間主の存在を実感しています。誰かが自分を讃えているのを聞いて楽しむという気持ちは、誰にでも共通しています。それは自然な本能であり、主も、普通の生命体と同じように個性を持っているため、この心理も共通しています。なぜなら、個々の魂に見られる心理的特徴は、絶対的な主が持つ同じ心理の表れだからです。唯一異なるのは、主は全ての魂の頂点にあり、為すこと全てが絶対的だという点です。ですから、純粋な献身者が主を賛美し、主がその言葉に魅了されても、それは特に驚くことではありません。主は絶対的なお方ですから、主を讃える肖像として現れることもでき、その肖像と主は同じ存在です。シュリーラ・ナーラダは主の栄光を自分のために唱えているわけではなく、その賛美が主と同じだからこそ讃えています。ナーラダ・ムニは、超越的な唱名を通して主と直接関わっているのです。
etad dhy ātura-cittānāṁ
mātrā-sparśecchayā muhuḥ
bhava-sindhu-plavo dṛṣṭo
hari-caryānuvarṇanam

訳語

翻訳

感覚を感覚の対象物で満たそうと、不安や悩みに常に苦しめられている人々は、無知の海を渡るのに最もふさわしい船、すなわち人格神の超越的な活動の唱名という船に乗らなくてはならない。私はこのことを自ら体験した。

解説

生命体はほんの一瞬たりとも黙っていられません。何かをし、何かを考え、何かについて話していなければなりません。普通、物質中心の人は、自分の感覚を満たしてくれることについて考えたり話し合ったりします。しかし、感覚に動かされる行動は外的な幻想エネルギーに操られているため、心から満たされることはありません。逆に、心配と不安にさいなまれるばかりです。これがマーヤー、すなわち「実在しないもの」の正体です。本当に満足させてくれないものが、満足の対象として受け入れられているのです。ですからナーラダ・ムニは自分の体験に照らして、感覚満足を求めているのに満足できない人は、主の活動を常に語れば満足できる、と言っています。話し合う内容さえ変えればいいのです。何も考えない、あるいは感じない、望まない、働かない、ということは誰にもできません。しかし本当の幸せをつかむには、話す対象だけを変えればいいのです。死にゆく政治家の政策を論じるよりも、主自身が見せた政治的手腕について話せばいいのです。映画スターの活動に喜びを感じるよりも、主とその永遠の親交者であるゴーピーたちやラクシュミーたちの活動を話し合えばいいのです。全能の人格神は、いわれのない慈悲の心によって地上に降誕し、普通の人間とほとんど変わらない、それでいて並外れた行動を見せましたが、それは主が全能ゆえにできたことです。束縛された魂が超越的な世界に目を向けるようにという主の配慮からです。その結果、やがて彼らは崇高な境地に高められ、全ての苦しみの源である無知の海をたやすく渡り切ることができます。これは、シュリー・ナーラダ・ムニのような権威者が自分の経験をもとにして語っている教えです。そして、私たちも主の最も親しい偉大な聖者の足跡に従いさえすれば、同じ体験をすることができます。
yamādibhir yoga-pathaiḥ
kāma-lobha-hato muhuḥ
mukunda-sevayā yadvat
tathātmāddhā na śāmyati

訳語

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ヨーガで感覚を抑制することによって、願望や欲情による障害からのがれることができるのは事実だが、魂を満足させるには十分ではない。それ[満足]は、人格神への献身奉仕によって得られるものだからである。

解説

ヨーガは感覚を抑制するためにあります。座法、思考、感情、意志、集中、瞑想などの身体に関わる神秘的な手段を経て、最終的に超越的な境地に入り、感覚を制御できるようになります。感覚は毒蛇に例えられ、ヨーガはそれを支配する手段です。一方、ナーラダ・ムニが勧めているのは、人格神ムクンダへの崇高な愛情奉仕を通して感覚を制御するという方法です。自分の体験に照らして、感覚を人為的に抑える方法よりも、主に奉仕をする方がより効果的で実用的だとしています。主ムクンダに奉仕することで、感覚も神聖な奉仕をすることになります。そのため、感覚満足のために使われることもありません。感覚は対象を求めています。表面的に抑えても、それは本当に抑えたことにはなりません。なぜなら蛇にも例えられる感覚器官は、楽しむチャンスがあれば、その対象に飛びかかろうとするものだからです。歴史にもそのような出来事が数多く残されており、ヴィシュヴァーミトラ・ムニがメーナカーの美しさのとりことなった例があります。ところがタークラ・ハリダーサの場合、真夜中に美しく着飾ったマーヤーに誘惑されたのですが、さすがのマーヤーもこの偉大な献身者を陥れることはできませんでした。
大切なのは、主に献身奉仕をしていなければ、ヨーガ法であろうと哲学の推論であろうと、完成の境地には到達できないということです。果報的活動、神秘ヨーガ、推論哲学を帯びていない純粋な献身奉仕は、自己の悟りに到達する最も重要な方法です。そのような純粋な献身奉仕は超越的な質を備えており、ヨーガもジュニャーナも献身奉仕より劣っています。神聖な献身奉仕が劣った方法と混じり合うと、その超越的な性質は失われ、混合された献身奉仕と呼ばれます。『シュリーマド・バーガヴァタム』の著者であるシュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは、この文献の中で、超越的な悟りに到達するさまざまな方法全てを段階的に説明していきます。
sarvaṁ tad idam ākhyātaṁ
yat pṛṣṭo ’haṁ tvayānagha
janma-karma-rahasyaṁ me
bhavataś cātma-toṣaṇam

訳語

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ヴィヤーサデーヴァよ。あなたはどのような罪にも汚れていない。だから、あなたの求めに応じて、私の誕生と自己を悟るための活動について説明した。これら全てが、あなたを満足させるはずである。

解説

献身奉仕を始めたばかりの状態から超越的な境地に至る過程が、ヴィヤーサデーヴァの質問を満たすよう秩序立てて説明されています。ナーラダ・ムニは、神聖な交流を通して献身奉仕の種が心に植えつけられたこと、その種が聖者の話を聞くことでどのように育っていったかを説明しました。話を聞いた結果として俗世への未練を断ち切ったことで、幼い少年ながら、ただひとりで自分を養っていた母親の死の知らせを聞いても、それを神の祝福だと受け取ることができました。そしてそれを機に、主を探し求める旅に出ました。通俗な目では主を見ることはできませんが、どうしても主に会いたいという彼の一念が受け入れられました。またナーラダ・ムニは、誠実な献身奉仕をすることで、過去の活動からつながる果報的活動を断ち切られること、そして体が物質的なものから精神的なものへと変わったことも説明しています。精神的な体によってのみ、主の精神的な世界に入ることができ、またその世界に入るのは心の清い献身者だけに限られています。超越的な悟りの神秘については、ナーラダ・ムニ自身が体験しているため、そのような権威者の話を聞くことで、ヴェーダの原書にでさえほとんど描写されていない献身生活の結果がどういうものかを把握できます。ヴェーダやウパニシャッドにはこのような話題については間接的な描写しかありません。直接言及されているわけではなく、その点が『シュリーマド・バーガヴァタム』が、全ヴェーダという木の熟した果実といわれる由縁です。
sūta uvāca
evaṁ sambhāṣya bhagavān
nārado vāsavī-sutam
āmantrya vīṇāṁ raṇayan
yayau yādṛcchiko muniḥ

訳語

翻訳

スータ・ゴースヴァーミーが言った。シュリー・ナーラダ・ムニはこのようにヴィヤーサデーヴァに話した後、いとまごいをしてヴィーナーを奏でながら意のままに去って行った。

解説

誰でも完全な自由を求めています。それが本来の超越的な状態だからです。そしてその自由は、主への崇高な奉仕だけを通して得られるものです。誰もが、外的エネルギーに幻惑されているために自分は自由だと考えていますが、実は自然の法則にがんじがらめになっています。束縛された魂は、この地上でさえ自由に行き来できないのですから、別の星に行くことなど言うまでもありません。しかし、ナーラダのような完全に自由な魂は、常に主の栄光を唱え、地上はもちろん、宇宙の、さらには精神界のどこにでも行くことができます。至高主に匹敵するほど無限に自由なこの人物について、私たちはその自由奔放さを想像するしかありません。何かの理由や義務があって旅をしているのではありませんし、またどこへ行こうと誰も彼を止められません。同じように、献身奉仕という超越的な方法も自由です。規則原則に逐一従う人が奉仕の機会に恵まれる場合も、そうでない場合もあります。献身者との交流も自由です。その機会を得る幸運な人もいれば、努力の限りを尽くしても得られない人もいます。このように、献身奉仕全体は自由が中心になっています。自由がなければ献身奉仕は実践できません。主に身を委ねる自由といっても、どんな状態でも依存しているというわけではありません。精神指導者という透き通った媒体者を介して主に仕えることが、完全に自由な生活を手に入れるということなのです。
aho devarṣir dhanyo ’yaṁ
yat-kīrtiṁ śārṅgadhanvanaḥ
gāyan mādyann idaṁ tantryā
ramayaty āturaṁ jagat

訳語

翻訳

シュリーラ・ナーラダ・ムニにあらゆる栄光と成功あれ。人格神の活動を讃えることに喜びを感じ、全宇宙の苦しむ魂たちに活力を吹き込む人物だからである。

解説

シュリー・ナーラダ・ムニは楽器を奏でながら主の神聖な栄光を讃え、全宇宙の苦しむ生命体を救っています。物質界には誰ひとりとして幸せな者はおらず、幸福と感じるのはマーヤーが作り出した幻想です。主の幻想の力は非常に力強く、汚らわしい排泄物にまみれて生きている豚でさえ自分は幸福だと感じています。しかし、物質界では誰も心から幸せになることはありません。シュリー・ナーラダ・ムニは、苦しんでいる宇宙の住人に教えを説くためにあらゆる場所を旅しています。その使命は、彼らを古里へ、神の元へ返すことにあります。それこそが、この偉大な聖者の足跡に従う誠実な献身者全ての使命でもあります。
これで、『シュリーマド・バーガヴァタム』の第1編・第6章、表題「ナーラダとヴィヤーサデーヴァの会話」に関するバクティヴェーダンタの要旨解説を終了します。