シュリーマド・バーガヴァタム 1.6.34
節
etad dhy ātura-cittānāṁ
mātrā-sparśecchayā muhuḥ
bhava-sindhu-plavo dṛṣṭo
hari-caryānuvarṇanam
mātrā-sparśecchayā muhuḥ
bhava-sindhu-plavo dṛṣṭo
hari-caryānuvarṇanam
訳語
etat—この; hi—確かに; ātura-cittānām—心が心配や悩みで常に満ちている人々の; mātrā—感覚の楽しみの対象物; sparśa—諸感覚; icchayā—望みによって; muhuḥ—いつも; bhava-sindhu—無知の海; plavaḥ—船; dṛṣṭaḥ—経験した; hari-carya—ハリ、人格神の活動; anuvarṇanam—絶えまない吟唱。
翻訳
感覚を感覚の対象物で満たそうと、不安や悩みに常に苦しめられている人々は、無知の海を渡るのに最もふさわしい船、すなわち人格神の超越的な活動の唱名という船に乗らなくてはならない。私はこのことを自ら体験した。
解説
生命体はほんの一瞬たりとも黙っていられません。何かをし、何かを考え、何かについて話していなければなりません。普通、物質中心の人は、自分の感覚を満たしてくれることについて考えたり話し合ったりします。しかし、感覚に動かされる行動は外的な幻想エネルギーに操られているため、心から満たされることはありません。逆に、心配と不安にさいなまれるばかりです。これがマーヤー、すなわち「実在しないもの」の正体です。本当に満足させてくれないものが、満足の対象として受け入れられているのです。ですからナーラダ・ムニは自分の体験に照らして、感覚満足を求めているのに満足できない人は、主の活動を常に語れば満足できる、と言っています。話し合う内容さえ変えればいいのです。何も考えない、あるいは感じない、望まない、働かない、ということは誰にもできません。しかし本当の幸せをつかむには、話す対象だけを変えればいいのです。死にゆく政治家の政策を論じるよりも、主自身が見せた政治的手腕について話せばいいのです。映画スターの活動に喜びを感じるよりも、主とその永遠の親交者であるゴーピーたちやラクシュミーたちの活動を話し合えばいいのです。全能の人格神は、いわれのない慈悲の心によって地上に降誕し、普通の人間とほとんど変わらない、それでいて並外れた行動を見せましたが、それは主が全能ゆえにできたことです。束縛された魂が超越的な世界に目を向けるようにという主の配慮からです。その結果、やがて彼らは崇高な境地に高められ、全ての苦しみの源である無知の海をたやすく渡り切ることができます。これは、シュリー・ナーラダ・ムニのような権威者が自分の経験をもとにして語っている教えです。そして、私たちも主の最も親しい偉大な聖者の足跡に従いさえすれば、同じ体験をすることができます。