シュリーマド・バーガヴァタム 1.6.35
節
yamādibhir yoga-pathaiḥ
kāma-lobha-hato muhuḥ
mukunda-sevayā yadvat
tathātmāddhā na śāmyati
kāma-lobha-hato muhuḥ
mukunda-sevayā yadvat
tathātmāddhā na śāmyati
訳語
yama-ādibhiḥ—自己抑制を修練する方法によって; yoga-pathaiḥ—ヨーガのシステム(神聖な境地に到達するための神秘的な肉体の力)によって; kāma—感覚満足への望み; lobha—感覚の満足に対する欲望; hataḥ—抑制された; muhuḥ—いつも; mukunda—人格神; sevayā—~への奉仕によって; yadvat—ありのままに; tathā—そのように; ātmā—魂; addhā—全ての実践的な目的のために; na—~しない; śāmyati—満足して。
翻訳
ヨーガで感覚を抑制することによって、願望や欲情による障害からのがれることができるのは事実だが、魂を満足させるには十分ではない。それ[満足]は、人格神への献身奉仕によって得られるものだからである。
解説
ヨーガは感覚を抑制するためにあります。座法、思考、感情、意志、集中、瞑想などの身体に関わる神秘的な手段を経て、最終的に超越的な境地に入り、感覚を制御できるようになります。感覚は毒蛇に例えられ、ヨーガはそれを支配する手段です。一方、ナーラダ・ムニが勧めているのは、人格神ムクンダへの崇高な愛情奉仕を通して感覚を制御するという方法です。自分の体験に照らして、感覚を人為的に抑える方法よりも、主に奉仕をする方がより効果的で実用的だとしています。主ムクンダに奉仕することで、感覚も神聖な奉仕をすることになります。そのため、感覚満足のために使われることもありません。感覚は対象を求めています。表面的に抑えても、それは本当に抑えたことにはなりません。なぜなら蛇にも例えられる感覚器官は、楽しむチャンスがあれば、その対象に飛びかかろうとするものだからです。歴史にもそのような出来事が数多く残されており、ヴィシュヴァーミトラ・ムニがメーナカーの美しさのとりことなった例があります。ところがタークラ・ハリダーサの場合、真夜中に美しく着飾ったマーヤーに誘惑されたのですが、さすがのマーヤーもこの偉大な献身者を陥れることはできませんでした。
大切なのは、主に献身奉仕をしていなければ、ヨーガ法であろうと哲学の推論であろうと、完成の境地には到達できないということです。果報的活動、神秘ヨーガ、推論哲学を帯びていない純粋な献身奉仕は、自己の悟りに到達する最も重要な方法です。そのような純粋な献身奉仕は超越的な質を備えており、ヨーガもジュニャーナも献身奉仕より劣っています。神聖な献身奉仕が劣った方法と混じり合うと、その超越的な性質は失われ、混合された献身奉仕と呼ばれます。『シュリーマド・バーガヴァタム』の著者であるシュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは、この文献の中で、超越的な悟りに到達するさまざまな方法全てを段階的に説明していきます。