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第8章

クンティー女王の祈りとパリークシットの救い

sūta uvāca
atha te samparetānāṁ
svānām udakam icchatām
dātuṁ sakṛṣṇā gaṅgāyāṁ
puraskṛtya yayuḥ striyaḥ

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スータ・ゴースヴァーミーが言った:その後パーンダヴァ兄弟は、故人の縁者たちが欲しがっている水を汲みに、ドラウパディーと共にガンジス川に行った。女性たちが先頭を歩いた。

解説

ヒンドゥー社会では、家族に不幸があった時にはガンジス川や神聖な川で沐浴する習慣が今でも続いています。親族が一人ひとり、ガンジス川の水を容器に入れ、死者のために注ぎ、女性たちを先頭にして列を作って歩きます。5千年前、パーンダヴァたちも同じ決まりに従っていました。主クリシュナはパーンダヴァたちのいとこだったことから、その行列に加わりました。
te ninīyodakaṁ sarve
vilapya ca bhṛśaṁ punaḥ
āplutā hari-pādābja-
rajaḥ-pūta-sarij-jale

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彼らは親族たちの死を悼み、主の蓮華の御足の埃と混ざって清められたガンジス川の水を充分に注いだ後、自らガンジス川に入って沐浴した。
tatrāsīnaṁ kuru-patiṁ
dhṛtarāṣṭraṁ sahānujam
gāndhārīṁ putra-śokārtāṁ
pṛthāṁ kṛṣṇāṁ ca mādhavaḥ

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そこで、クル家の王マハーラージャ・ユディシュティラは、弟たち、ドリタラーシュトラ、ガーンダーリー、クンティー、ドラウパディーたちと共に、悲しみに沈んで座っていた。そこには主クリシュナもいらっしゃった。

解説

クルクシェートラの戦争は親族の間で起こり、その結果として苦しんだのはマハーラージャ・ユディシュティラ、その兄弟たち、クンティー、ドラウパディー、スバドラー、ドリタラーシュトラ、ガーンダーリー、そしてガーンダーリーの義理の娘たちなど、同族の人々でした。戦死した主要な兵士たちも互いに何らかの関係があり、その親族たちも一層の悲しみに見舞われました。主クリシュナも、パーンダヴァ兄弟のいとことして、クンティーの甥として、またスバドラーの兄としてその場に居合わせました。そのため主は親族たち全員に等しく哀れみを感じ、彼らにふさわしい言葉をかけて慰めたのでした。
sāntvayām āsa munibhir
hata-bandhūñ śucārpitān
bhūteṣu kālasya gatiṁ
darśayan na pratikriyām

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主シュリー・クリシュナとムニたちは、全能者の厳格な法則について、そしてそれが生命体に及ぼす力について説き聞かせ、心に痛手を受けて悲しんでいる人々をなだめ始めた。

解説

至高人格神の命令で機能している厳しい自然の法則は、どのような生命体であっても変えることができません。生命体は永遠に全能の主に従う立場にあります。主が全ての法則や秩序を作り、それらは一般的にダルマ、宗教として知られています。誰も宗教原則を作ることはできません。真実の宗教とは、主の命令に従うことを指します。主の命令は『バガヴァッド・ギーター』で言明されています。主だけに、あるいは主の命令に従えば、誰でも物質的に、そして精神的に幸せになれます。物質界にいる限り主の命令に従う義務があり、主の恵みを受けて物質界の束縛から自由になれば、その解脱の境地で主に神聖な愛情奉仕をすることができます。物質に縛られている私たちには、精神的な目が備わっていないために、自分自身はおろか、主を見ることもできません。しかし、物質的な病から解き放たれ、本来の精神的姿を取り戻したとき、自分を見つけ、主に巡り合うことができます。ムクティとは、物質的な生活観念を捨て去った後に自分本来の精神的な境地に戻るということです。ですから人間生活は、この精神的解放が得られるよう自分を高めるためにあります。不運なことに、幻想の物質エネルギーに惑わされた私たちは、このうたかたの生活を、あたかもいつまでも続くものと思い込み、マーヤー(幻想)に作り出された偽りの現れでしかない国、家庭、土地、子ども、妻、地域社会、富を得ることに惑わされています。そしてマーヤーに命じられるまま、幻にすぎない所有物を守ろうとして他人と争うのです。しかし精神的な知識を高めれば、このような物質的な品々と自分は実は何の関係もないことを悟ることができ、一瞬にして物質的な執着から解放されます。物質存在にある不安は、幻惑された心の奥深くに超越的な音を注ぎ、全ての嘆きや幻想から解放させてくれる主の献身者と交流することによって払拭されます。これが、物質界では決して解決できない誕生、死、老年、病気という厳格な物質自然界の法則の反動に苦しむ人々を救う方法です。戦争の犠牲者たち、すなわちクル家の親族たちは、死という問題に苦しめられ、主はそのような彼らに知識を授けて慰めました。
sādhayitvājāta-śatroḥ
svaṁ rājyaṁ kitavair hṛtam
ghātayitvāsato rājñaḥ
kaca-sparśa-kṣatāyuṣaḥ

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悪賢いドゥルヨーダナとその一味は、無敵のユディシュティラ王の国を謀略によって強奪した。やがてその王国も主のはからいで王の手に返され、ドゥルヨーダナに荷担した不徳の王らは主によって殺された。他の者たちも戦死したが、それは、ドラウパディー女王の髪を乱暴に扱ったために寿命が減少したことによるものである。

解説

カリ時代が到来する前、すなわち栄光に輝いた時代、ブラフマー、牛、女性、子ども、老人は正しく守られていました。
1. ブラフマーを保護することで、ヴァルナとアーシュラマ制度という精神生活達成のための最も科学的な文化が維持されます。
2. 牛を守ることで、最も奇跡的な食糧である牛乳が確保されます。牛乳は、人生の高尚な目標を理解するための繊細な脳組織を維持することができます。
3. 女性を守ることで、社会の貞節さが維持されます。その結果、平和で落ち着いた優秀な世代と生活の発展が得られます。
4. 子どもを守ることで、社会は、物質的な束縛からの解放を目指す最大の可能性を得ることができます。子どもの保護は、ガルバーダーナ・サムスカーラという純粋な生命体を得る浄化方法を通して、子どもを授かる時点から始まります。
5. 老人を守ることで、死後に優れた生活を手に入れるために準備をする機会を与えます。
この完璧な見解は、洗練された犬や猫の文化に陥ることのない、優れた人間性へ導く要素に基づいています。前述した無垢な生物を殺すことは、単に彼らを侮辱するだけでも、その人の寿命を短くすることから、固く禁じられています。カリ時代では、この生物たちは正しく守られてはおらず、そのため、現代人の寿命は非常に短命になっています。『バガヴァッド・ギーター』は、女性が正しく守られず、貞節さを失ってしまうと、不必要な子どもたち、ヴァルナ・サンカラが生まれてくる、と説いています。貞節な女性を侮辱する人は、自分の生涯に大災難を招き入れている、ということです。ドゥルヨーダナの弟だったドゥフシャーサナは、理想的な淑女であるドラウパディーを冒涜したため最低の人間になり下がり、若くして命を落としました。これらが前述した主の厳格な法則の一例です。
yājayitvāśvamedhais taṁ
tribhir uttama-kalpakaiḥ
tad-yaśaḥ pāvanaṁ dikṣu
śata-manyor ivātanot

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主シュリー・クリシュナは、アシュヴァメーダ・ヤジュニャ[馬のいけにえ儀式]をするようマハーラージャ・ユディシュティラ王に促し、王はそれらを3回にわたって見事に執行した。主は、そのことで同じ儀式を100回執行したインドラのように、王の徳高き栄光があらゆる場所で讃えられるきっかけを作った。

解説

これは、マハーラージャ・ユディシュティラが行ったアシュヴァメーダ・ヤジュニャの序文のようなものです。マハーラージャ・ユディシュティラと天上のインドラ王と比較することには重要な意味が含まれています。天上の王はマハーラージャ・ユディシュティラよりはるかに膨大な富を持っていますが、マハーラージャ・ユディシュティラの名声はインドラに劣りません。天上の王はヤジュニャを何百回も執行していますが、ユディシュティラ王は主の純粋な献身者であるため、同じヤジュニャを3回しか執行していないにもかかわらず、ただ主の恩恵によって天上の王に匹敵する境地に高められたのです。それが献身者の特権です。主は誰にも平等ですが、献身者は誰よりも讃えられます。あらゆる面で偉大な人物といつも結ばれているからです。太陽の光は分けへだてなく全てを照らしていますが、それでもいつも暗い場所があるものです。その暗さは太陽のせいではなく、照らされる側の問題です。同じように、完全に主に仕える人物は、どこにでも平等に分け与えられている主の慈悲をあますところなく授かることができます。
āmantrya pāṇḍu-putrāṁś ca
śaineyoddhava-saṁyutaḥ
dvaipāyanādibhir vipraiḥ
pūjitaiḥ pratipūjitaḥ

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そして主シュリー・クリシュナは出立の準備を始めた。主はシュリーラ・ヴィヤーサデーヴァをはじめとするブラーフマナたちの崇拝を受けた後、パーンドゥの子たちを招いた。また、主は人々の表敬に応えた。

解説

主シュリー・クリシュナはクシャトリヤで、ブラーフマナの崇敬を受ける立場にはいませんでした。しかし、シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァをはじめとするブラーフマナたちは主が人格神であることを承知していたため、主を崇拝したのです。主が彼らの敬意に応えたのは、クシャトリヤがブラーフマナに従う階級規範に敬意を表するためです。主シュリー・クリシュナは、あらゆる階級の有力者から至高主にふさわしい敬意をいつも受けていますが、4つの社会階級の慣習を無視することはありません。主は、社会の規範に従った自らの行為に、将来の人々が見習うことを意図して振舞っていたのです。
gantuṁ kṛtamatir brahman
dvārakāṁ ratham āsthitaḥ
upalebhe ’bhidhāvantīm
uttarāṁ bhaya-vihvalām

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主がドヴァーラカーに向けて発とうと、馬車に座ったそのとき、恐怖にかられたウッタラーがひどく動揺して走ってくるのを見た。

解説

パーンダヴァ家の人々は主に完全に身を委ねており、ゆえに主も、どのような状況にあっても彼らを守ってきました。主はどんな人をも守りますが、自分に全てを任せている人をとりわけ大切にします。父親は、自分に頼り切っている幼い息子により注意を払うものです。
uttarovāca
pāhi pāhi mahā-yogin
deva-deva jagat-pate
nānyaṁ tvad abhayaṁ paśye
yatra mṛtyuḥ parasparam

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ウッタラーが言った:神々の主よ、宇宙の主よ!あなたは最も偉大な神秘家です。どうか私をお守りください。この二元性の世界では、あなた以外に私を死の手から救ってくださる方はいないからです。

解説

物質界は二元性の世界であり、絶対的世界にある一体性と対比されます。二元性の世界は物質と精神で組み合わされていますが、絶対的世界は物質に全く関わりのない完璧な精神的要素で作られています。二元性の世界では、誰もが主人になろうという間違った考え方をしていますが、絶対的世界では主が絶対的な主人であり、その他全ての魂は主の絶対的な召使いです。二元性の世界では、誰もが他の人全てに嫉妬しており、物質と精神という二元性の中で生きているために、死は免れません。主は、身を委ねた魂にとって唯一の恐れのない保護者です。物質界では、主の蓮華の御足に全てを委ねない限り、誰も残酷な死から自分を救うことはできません。
abhidravati mām īśa
śaras taptāyaso vibho
kāmaṁ dahatu māṁ nātha
mā me garbho nipātyatām

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主よ、あなたは万能の力をお持ちです。今、真っ赤に燃える矢がすさまじい速さで私に迫っています。主よ、あなたがお望みなら私は燃え尽きてもかまいません。でも、どうかお腹の子が焼かれず、流産しないようにお守りください。主よ、どうかこの願いをお聞き入れください。

解説

この出来事は、ウッタラーの夫であるアビマニユが戦死した後に起こりました。未亡人となったウッタラーは夫の後を追うべき立場にあったのですが、子を宿していたために、しかもその子が偉大な献身者であるマハーラージャ・パリークシットであったため、その子を守る責任がありました。母親は何があってもその子を守る責任があるため、ウッタラーは恥も外聞もかなぐり捨てて主クリシュナに救いを求めたのです。ウッタラーは偉大な王の娘であり、偉大な英雄の妻であり、そして偉大な献身者の生徒であり、やがてのちには偉大な王の母親にもなる女性でした。あらゆる面で幸運な女性だったのです。
sūta uvāca
upadhārya vacas tasyā
bhagavān bhakta-vatsalaḥ
apāṇḍavam idaṁ kartuṁ
drauṇer astram abudhyata

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スータ・ゴースヴァーミーが言った:献身者にはいつでも愛情深い主シュリー・クリシュナは、ウッタラーの言葉を最後まで聞き、ウッタラーの窮地をすぐに理解した。ドローナーチャーリャの息子であるアシュヴァッターマーが、パーンダヴァ家の最後の命を奪うために、ブラフマーストラを投げたのである。

解説

主はどんなときでも公平にふるまうお方ですが、献身者を特に大事にします。それが全ての人の幸福に必要なことだからです。パーンダヴァ家は主の従者の家系であり、主はこの一族に世界を治めてほしいと思っていました。ドゥルヨーダナ一族の統治を終わらせ、マハーラージャ・ユディシュティラの統治を築いたのも、このためです。ですから主は、まだ体の中にいたマハーラージャ・パリークシットをも守るつもりでした。理想的な献身者の家系であるパーンダヴァ家のいない世界を望んでいなかったのです。
tarhy evātha muni-śreṣṭha
pāṇḍavāḥ pañca sāyakān
ātmano ’bhimukhān dīptān
ālakṣyāstrāṇy upādaduḥ

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偉大な思索家の中の筆頭者[ムニ][シャウナカ]よ。まばゆい光を放ちながら迫ってくるブラフマーストラを見たパーンダヴァ兄弟は、それぞれの武器を手に、迎え撃つ体勢をとった。

解説

ブラフマーストラは核兵器よりも緻密な武器です。アシュヴァッターマーがブラフマーストラを放ったのは、マハーラージャ・ユディシュティラを筆頭とする5人のパーンダヴァ兄弟、そしてウッタラーの胎内にいた唯一の孫を殺すためでした。ですから、原子爆弾よりも精密な力を発揮するブラフマーストラは、原子爆弾のような無軌道な武器ではありません。原子爆弾はいったん投下されると、標的とそれ以外の物体とを識別することができません。制御が全く効かないため、必ず一般市民も犠牲になります。ブラフマーストラはそのような武器ではありません。狙った標的だけに迫り、無関係の人々を傷つけずに攻撃します。
vyasanaṁ vīkṣya tat teṣām
ananya-viṣayātmanām
sudarśanena svāstreṇa
svānāṁ rakṣāṁ vyadhād vibhuḥ

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全能の人格神シュリー・クリシュナは、完全に身を委ねた魂である純粋な献身者が一刻を争う危機にさらされているのを見て、彼らを守るためにすぐさま自分の武器スダルシャナを取り出した。

解説

アシュヴァッターマーから放たれた究極の武器ブラフマーストラは核兵器に似ていますが、より強い放射線と熱を持っています。この武器はヴェーダに記録されている緻密な音によって作り出されることから、より洗練された科学による産物です。この武器の優れたもうひとつの特徴は、標的だけを攻撃し、それ以外に害は加えないという点であり、核兵器のように見境なく破壊することはありません。アシュヴァッターマーはこの武器を、ただパーンドゥ家の男性全員を殺害するために放ちました。ですからこの武器は、完璧に守られている場所にいながらにして100%正確無比に命中させられることから、原子爆弾よりも危険だと言えます。主シュリー・クリシュナはこのことを承知していたため、クリシュナだけを知っている献身者を守るためにすぐに自分の武器を取り出しました。『バガヴァッド・ギーター』で主は、献身者は決して滅びない、とはっきり約束しています。そして、献身者が行う献身奉仕の質や段階に合わせて対応します。この節にあるananya-viṣayātmanāmという言葉は重要です。パーンダヴァ兄弟は全員偉大な兵士でしたが、主だけに完全に頼っていました。しかし主は最強の兵士でさえ軽視したり、また瞬時に倒したりします。パーンダヴァたちがこのブラフマーストラを撃破する一刻の猶予もないことを見てとった時、主は誓いを破る危険を冒してでも自分の武器を取り出しました。クルクシェートラの戦いはほぼ終結していましたが、主は誓いを守って自分の武器を使うべきではありませんでした。しかし、誓いを守るよりも緊急事態を脱出するのが先決です。主は、バクタ・ヴァツァラ、献身者をこよなく愛する人、と知られています。ですから、立てた誓いは破らない、と言う世間一般の道徳家よりも、バクタ・ヴァツァラであり続けることを選んだのです。
antaḥsthaḥ sarva-bhūtānām
ātmā yogeśvaro hariḥ
sva-māyayāvṛṇod garbhaṁ
vairāṭyāḥ kuru-tantave

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至高の神秘家、主シュリー・クリシュナは、パラマートマーとして全てのハートの中に宿っている。そのように、クル王家の子孫を守るためだけに、自らの力でウッタラーの胎児を包み込んだ。

解説

至高の神秘家である主は、完全分身の姿であるパラマートマーとして同時に全てのハートの中に、そして原子の中にさえ宿ることができます。ですから、ウッタラーの胎内のマハーラージャ・パリークシットを救うために胎児を包み込み、パーンドゥ王の孫として生まれてくるマハーラージャ・クルの子孫を守りました。ドリタラーシュトラの息子たち、そしてパーンドゥ王の息子たち双方とも、マハーラージャ・クルの王家に属しています。ですから、両者とも一般的にクル家として知られています。しかし、ふたつの家系に不和が生じた時、ドリタラーシュトラの息子たちはクル家として、パーンドゥ王の息子たちはパーンダヴァ家として知られるようになりました。ドリタラーシュトラの息子や孫たちは全員クルクシェートラの戦いで戦死したため、この王家の最後の息子はクル家の息子として呼ばれるようになります。
yadyapy astraṁ brahma-śiras
tv amoghaṁ cāpratikriyam
vaiṣṇavaṁ teja āsādya
samaśāmyad bhṛgūdvaha

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シャウナカよ。アシュヴァッターマーが放った究極の武器ブラフマーストラは止めることも反撃することもできないが、ヴィシュヌ[主クリシュナ]の力の前でその力は消滅し、不発に終わった。

解説

『バガヴァッド・ギーター』では、まばゆく光る神々しい光ブラフマジョーティは主シュリー・クリシュナに支えられていると言われています。言葉を変えると、ブラフマ・テージャスとして知られるまばゆい光は、太陽から放たれている太陽光線のように、主から発出されている光そのものである、ということです。このように、このブラフマンの武器が物質的には対抗できない武器であっても、主の至高の力をしのぐことはできませんでした。アシュヴァッターマーが放ったブラフマーストラは、主シュリー・クリシュナによってその力が消滅し、無力になりました。それは主自身の力によるものです。つまり、主は絶対者であるため別の力に救いを求める必要がなかった、ということです。
mā maṁsthā hy etad āścaryaṁ
sarvāścaryamaye ’cyute
ya idaṁ māyayā devyā
sṛjaty avati hanty ajaḥ

訳語

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ブラーフマナたちよ。この出来事を、不可思議かつ完全無欠の人格神がなした何か特に素晴らしい活動であると考えてはならない。主は誕生しないお方であっても、自分の超越的なエネルギーを使って物質全てを創造し、維持し、そして破壊する。

解説

主の活動は、生命体の小さな頭脳には想像を絶するものばかりです。至高主に不可能なことは何もありませんが、主の行動は私たちにとって全て素晴らしく、そのようにして主はいつも私たちの想像の範囲を超えています。主はあらゆる力を備え、あらゆる面で完璧な人格神です。主は完璧ですが、その他の、例えばナーラーヤナ、ブラフマー、シヴァ、神々、他の一切の生命体は、主の完璧な力を部分的に備えています。主と同等な者も、主をしのぐ者もいないということです。主に競争相手はいないのです。
brahma-tejo-vinirmuktair
ātmajaiḥ saha kṛṣṇayā
prayāṇābhimukhaṁ kṛṣṇam
idam āha pṛthā satī

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こうしてブラフマーストラの放射線から救われ、主に忠実なクンティー、そして5人の息子たちとドラウパディーは、自国に戻ろうとする主に向かって話しかけた。

解説

クンティーはこの節でサティーという言葉で表現されています。これは忠実であることを指す言葉で、主シュリー・クリシュナに対するその純粋な愛情ゆえに使われています。クンティーの思いは、主クリシュナに向けられた祈りの中に表現されていきます。主の忠実な献身者は、危機に直面しても他の生命や神々などに救いを求めることはありません。それが、パーンダヴァ家に受け継がれてきた特質です。パーンダヴァたちの心にはクリシュナしかいなかったため、主も、どんなときでも彼らを助けることを考えていました。それが主の崇高な気質です。献身者が主に頼る度合いに応じて、主はそれに応えます。ですから、不完全な生命体や神々に救いを求めることはせず、献身者を救うことのできる主クリシュナに助けを求めなくてはなりません。そのような忠実な献身者は主の助けを求めることはしないのですが、主のほうが助けたいといつも考えています。
kunty uvāca
namasye puruṣaṁ tvādyam
īśvaraṁ prakṛteḥ param
alakṣyaṁ sarva-bhūtānām
antar bahir avasthitam

訳語

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シュリーマティー・クンティーが言った:クリシュナよ、私はあなたに敬意を表します。根源の人物であり、物質界の質に乱されない人物だからです。そしてあなたは、万物の内にも外にも存在し、それでいて誰も見ることのできないお方です。

解説

シュリーマティー・クンティーデーヴィーは、クリシュナが自分の甥としてふるまってはいても、根源の人格神であることをよく知っていました。このように達観した女性が、自分の甥に敬意を表すというような間違いを犯すはずがありません。ですから、彼女はクリシュナに物質宇宙を超えた根源のプルシャ、と呼びかけています。どの生命体も超越的ではありますが、根源でも完全無欠でもありません。生命体は物質自然に操られ、堕落しがちなのですが、主にそのような傾向はありません。ゆえにヴェーダでは、主は全ての生命体の筆頭者である(nityo nityānāṃ cetanaś cetanānām)と言われています。また、主はイーシュヴァラ、つまり支配者とも呼ばれています。生命体あるいはチャンドラやスーリャのような神々もある程度の力を持ったイーシュヴァラと呼べますが、至高のイーシュヴァラ、すなわち究極の支配者とは呼べません。主こそがパラメーシュヴァラ、超霊魂です。主は内にも外にもいます。シュリーマティー・クンティーの甥として目の前にいても、同時にクンティーの内にも他の皆の内にもいます。『バガヴァッド・ギーター』(15-15)で、「私はすべての者のハートに宿り、記憶と知識と忘却を与えている。全ヴェーダは私を知るためにあり私こそヴェーダンタの編纂へんさん者であり、全ヴェーダを知る者である」と言っています。主は全生命体の内にも外にもいるが、目には見えないお方だと、クンティー女王は断言しています。主は、一般人には不可思議な存在なのです。クンティー女王は、主が自分の目の前にいながら、ウッタラーの胎内に入り、胎児をブラフマーストラの攻撃から守ったことを知りました。女王本人が、シュリー・クリシュナが遍在しているのか1ヵ所にいるのかわからず混乱したのです。実はどちらの存在でもあるのですが、身を委ねていない魂には正体を見せない、という主の権利があります。この遮断するカーテンは至高主のマーヤーの力と呼ばれ、主に反抗する魂の狭い視野を操っているのです。そのことが次の節で説明されています。
māyā-javanikācchannam
ajñādhokṣajam avyayam
na lakṣyase mūḍha-dṛśā
naṭo nāṭyadharo yathā

訳語

翻訳

あなたは、私たちの限界がある感覚の知覚範囲を超えておられるため、眩惑の力という幕に覆われた永遠かつ完璧なお方です。あたかも、衣装をまとった役者の本性が分からないように、愚か者にはあなたが見えません。

解説

『バガヴァッド・ギーター』で主シュリー・クリシュナは、知性に欠ける人は主を自分と同じ普通の人間と見るため主をあざ笑う、と述べています。同じことが、この節でクンティー女王によって確証されています。知性に欠ける人々とは、主の権威に対抗する人たちを指し、アスラという名前で知られています。アスラは主の権威を認めることができません。主は私たち人間社会に、ラーマ、ヌリシンハ、ヴァラーハなどとして、あるいは本来の姿であるクリシュナとして現れ、人間には到底できない素晴らしいことをします。この偉大な書物の第10編にあるように、主シュリー・クリシュナは、母親の膝の上にいるときから、人間には不可能なことを見せました。魔女プータナーは乳房に毒を塗って主を殺そうとしたのですが、逆に主に殺されました。普通の幼児のようにプータナーの乳房を吸い、そして命まで吸い取ったのです。同じように、主は子どもが傘をさすかのように、ゴーヴァルダナの丘を持ち上げ、ヴリンダーヴァナの住民たちを守るために数日間そのまま立ち続けました。これらが、プラーナ、イティハーサ(史書)、ウパニシャッドなど権威あるヴェーダ経典に描写されている主の超人的活動です。また『バガヴァッド・ギーター』という形で素晴らしい教えも残しました。英雄として、世帯者として、教師として、また放棄者として素晴らしい能力も見せています。主は、ヴィヤーサ、デーヴァラ、アシタ、ナーラダ、マダヴァ、シャンカラ、ラーマーヌジャ、シュリー・チャイタニヤ・マハープラブ、ジーヴァ・ゴースヴァーミー、ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティー、バクティシッダーンタ・サラスヴァティー、他の師弟継承上の権威者によって、至高人格神として受け入れられています。また自ら、由緒ある文献の数多くの箇所で同じことを宣言しています。しかしそれでも、主を至高絶対真理として受け入れようとしない邪悪な心を持つ人々がいます。その原因のひとつは彼らの貧弱な知識、そしてもうひとつは、過去と現在のさまざまな罪の行いの結果である凝り固まった頑迷な気質です。そのような人たちは、主が目の前にいた時でさえ、主シュリー・クリシュナを認識できませんでした。もうひとつの問題点は、不完全な感覚に頼っている人々は主を至高主として認識できない、ということです。現代の科学者がその典型です。科学者は、経験で得た知識で全てを知ろうとしています。しかし、至高者を不完全な経験知識で知ることはできません。主はこの節でアドークシャジャ、経験的知識の範囲を超えたお方、という言葉で表現されています。私たちの感覚はどれも不完全です。何でも見てみせる、と豪語する人がいますが、目はある物理的条件下でしか物を見ることができませんし、その条件さえ私たちの思い通りになりません。主は感覚で捉えられる範囲を超えているお方です。クンティー女王は、束縛された魂の、特に知性が劣るとされる女性のこの欠陥を自ら認めました。知性の劣る人々には、主の権威を認識するために、またそのような神聖な場所で正しい権威者から主について話を聞くために、寺院、モスク、教会のような施設が必要です。そのような人々にはこの精神生活の始まりは欠かせないものですが、愚かな人々だけが、一般大衆が精神的な特質を高めるのに必要な崇拝の場所を非難します。寺院やモスクや教会で行われているように、知性に欠ける人々が主という権威者にひれ伏すことは、高尚な献身者が積極的な奉仕を通して主を瞑想しているように、非常に恩恵があることです。
tathā paramahaṁsānāṁ
munīnām amalātmanām
bhakti-yoga-vidhānārthaṁ
kathaṁ paśyema hi striyaḥ

訳語

翻訳

あなたは、献身奉仕という超越的な科学を、物質と精神の違いを知って清められた高尚な超越主義者や思索家の心に授けるために降誕されました。では、私たちのような女性はどうやってあなたを完璧に知ることができるのでしょうか。

解説

最も優れた哲学者でさえ、主の国に近づくことはできません。ウパニシャッドでは、至高の真理、絶対人格神は、偉大な哲学者の思考力の範囲を超えていると言われています。どれほど高い学識や優れた頭脳で推測しても、主を知ることはできません。主の慈悲を授かった人だけが知ることができます。それ以外の人々は、主について何年間考え続けても理解することができません。この動かしがたい事実が、純朴な女性として振る舞っているクンティー女王によって確証されています。普通の女性は哲学者のような思索はできませんが、主の祝福を授かっています。それは、主の卓越性や全能性をすぐに信じることができ、ためらうことなく主に敬意を表すことができるからです。主は優しいお方ですから、偉大な哲学者だけを特別扱いすることはありません。主は、人がどれほど真剣に自分を求めているかよく分かっています。そのために、どんな宗教の儀式にも、たいてい女性が大勢参加します。どの国のどの宗教でも、ほとんどの場合女性信者の数が勝っています。主の権威を受け入れるこの純朴さは、人目を引いても中味は偽善の宗教熱よりも、意味があります。
kṛṣṇāya vāsudevāya
devakī-nandanāya ca
nanda-gopa-kumārāya
govindāya namo namaḥ

訳語

翻訳

ですから私は、ヴァスデーヴァの息子となった方、デーヴァキーの喜びの源、ナンダとヴリンダーヴァナの牛飼いたちの愛し子、そして牛と感覚に活力を与える主に心から敬意を表します。

解説

主は、どれほど物質的な美質を持っている人物でも近づくことができないことから、尽きることのない、そしていわれのない慈悲の心から、ありのままの姿で地上に降誕しました。それは、純粋無垢な献身者に特別の慈悲を授け、そして邪悪な人間たちの増大を抑えるためでもあります。クンティー女王は、さまざまな化身以上に、特に主クリシュナの化身あるいは降誕を崇めています。その他の化身と比べ、主クリシュナという化身に親しみを感じるからです。ラーマとしての化身で主は、幼い頃から王子として育てられていました。一方でクリシュナの化身は王子でしたが、降誕した直後に両親(ヴァスデーヴァ王とデーヴァキー女王)の元を離れ、ヤショーダーマーイーの元に身を寄せ、神聖な地ヴラジャブーミで普通の牛飼いの少年として暮らしました。そしてその地は、主の幼い頃の遊戯が行われたことから、非常に神聖な場所とされています。ですから、主クリシュナは主ラーマよりも慈悲深いと言えます。もちろん主は、クンティーの兄であるヴァスデーヴァとその家族にとても優しく接していました。ヴァスデーヴァとデーヴァキーの子になっていなければ、クンティー女王は主クリシュナを甥として話しかけることはできなかったはずです。そして親の愛情をもってクリシュナに呼びかけることはできなかったでしょう。しかし、ナンダとヤショーダーは、主の他の遊戯よりもっと魅力的な幼少期の遊戯を味わえたため、ヴァスデーヴァとデーヴァキーよりも幸運です。『ブラフマ・サンヒター』で、根源の地クリシュナローカはチンターマニ・ダーマと描写されています。ヴラジャブーミで繰り広げられた主の幼少期の遊戯は、そのクリシュナローカでの永遠の暮らしの写しであり、その遊戯に匹敵するものはありません。主シュリー・クリシュナは自ら、神々しい仲間や品々と共にヴラジャブーミに現れました。ゆえにシュリー・チャイタニヤ・マハープラブは、ヴラジャブーミの住人たち、特に主を満足させるために全てを捧げた牛飼いの少女たちほど幸運な人たちはいないと断言しました。ナンダとヤショーダーとの遊戯、また牛飼いの男性たちとの遊戯、そして特に牛飼いの少年や牛たちとの遊戯にちなんで、主はゴーヴィンダという名前で呼ばれるようになりました。ゴーヴィンダとしての主クリシュナは、ブラーフマナや牛たちに心が向けられていますが、それは人類の繁栄がブラーフマナ文化と牛の保護に頼っていることを示しています。主クリシュナがブラーフマナや牛の保護がなされていない場所で満足なさることは決してありません。
namaḥ paṅkaja-nābhāya
namaḥ paṅkaja-māline
namaḥ paṅkaja-netrāya
namas te paṅkajāṅghraye

訳語

翻訳

主よ、心からの敬意をあなたに捧げます。あなたは腹部に蓮華の花びらのようなくぼみを持ち、いつも蓮華の花輪で飾られ、蓮華の花のような涼しげなまなざしを持ち、その御足には蓮華の花模様が刻まれています。

解説

この節では、人格神の精神的な体に見られる特別な印について述べられています。その印が主の体と他の体の違いを明確にしています。どれも主の体にしか見られない特別な様相なのです。主は人間のように思われることがありますが、その比類のない姿ゆえの決定的な違いがあります。シュリーマティー・クンティーは、自分が女性であることを理由に、主を見る資格がないと言っています。女性、シュードラ(労働者階級)、上流の3階級にふさわしくない子孫ドヴィジャ・バンドゥは、至高の絶対真理の精神的名前、名声、特質、姿などにまつわる超越的な主題を理解する知性に欠けているからです。そのため、主にまつわる精神的な話題に加わるにはふさわしくないかもしれませんが、主のアルチャー・ビグラハの姿なら見ることができます。主のその姿は、女性、シュードラ、ドヴィジャ・バンドゥを含む堕落した魂に恩恵を授けるために物質界に降誕しました。堕落した魂たちは、物質を超えたものは何も見ることができないため、主はまず無数の宇宙の一つひとつの中にガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌとして入ります。このヴィシュヌは、超越的な腹部の中央にあるくぼみから蓮華の茎を伸ばし、その頂点の花の上から宇宙最初の生物、ブラフマーが誕生します。ですから、主はパンカジャナービという名前でも知られています。パンカジャナービとしての主は、さまざまな要素、すなわち心の内の姿、木でできた姿、土でできた姿、金属でできた姿、宝石でできた姿、絵の具で描写された姿、砂の上に描かれた姿などのアルチャー・ビグラハ(主の超越的姿)を受け入れます。このような主の姿はどれも蓮華の花輪で飾られており、崇拝が行われる寺院では、俗な論争ばかりをしている人々の熱い関心を魅了する穏やかな雰囲気が漂っていなくてはなりません。瞑想者は心の中の姿を崇拝するものです。ですから主は、女性、シュードラ、ドヴィジャ・バンドゥたちのためにある崇拝寺院を訪ねることに彼ら自身が同意しさえすれば、慈悲を授けてくれます。そのような訪問者は、乏しい知識の持ち主が言う偶像の崇拝をしているのではありません。偉大なアーチャーリャたちが、知性に欠ける人のためにさまざまな場所に崇拝のための寺院を用意しており、そのため自分は本当はシュードラや女性、それ以下の段階にいるのに、まるで寺院での崇拝を超越しているかのようなふりをしてはなりません。主を見るときは、まず蓮華の御足から、そして大腿部、腰、胸、そして顔という順番に視線を移していきます。主の蓮華の御足を見る習慣ができていないのに、最初から主の顔を見るのは避けるべきです。シュリーマティー・クンティーは、主の叔母であったことから、主が恥ずかしがらないように、蓮華の御足から見ることはしませんでした。主の心を傷つけないよう、蓮華の御足の上部から、つまり主の腰から見はじめ、徐々に顔まで見つめ、そして蓮華の足を見たのでした。すべてにおいて、物事には望ましい順番があるということです。
yathā hṛṣīkeśa khalena devakī
kaṁsena ruddhāticiraṁ śucārpitā
vimocitāhaṁ ca sahātmajā vibho
tvayaiva nāthena muhur vipad-gaṇāt

訳語

翻訳

感覚の主、神々の主、フリシーケーシャよ。あなたは、嫉妬深いカンサ王によって長く投獄されて苦しんでいた母上のデーヴァキーを自由の身にし、また私や私の子どもたちを、繰り返し襲いかかる危険から救ってくださいました。

解説

クリシュナの母であり、カンサ王の妹であるデーヴァキーは、夫のヴァスデーヴァと共に投獄されていました。嫉妬深いカンサ王が、デーヴァキーの8番目の子(クリシュナ)に殺されることを恐れていたからです。王は、クリシュナの前に生まれたデーヴァキーの子どもたち全てを殺しましたが、クリシュナは、育ての父であるナンダ・マハーラージャの元へ移されたため難を逃れました。クンティーデーヴィーも、息子たちと共に、度重なる危険から救われています。しかしクンティーデーヴィーは、はるかに深い恩恵を授かっています。主クリシュナはデーヴァキーの子どもたちを救いませんでしたが、クンティーデーヴィーの子どもたちは救ったからです。またこれは、デーヴァキーの夫であるヴァスデーヴァが生きていたからであり、一方クンティー女王は未亡人で、クリシュナ以外に女王を救う人はいなかったからです。結論として、クリシュナは、より危険な状態にいる献身者に恩恵を示す、ということが言えます。ときに主は純粋な献身者を危険な状態に陥れますが、それは献身者が絶望の淵にいればそれまで以上に主に心を集中させるからです。主に執着するほどに、献身者には成功が待っているのです。
viṣān mahāgneḥ puruṣāda-darśanād
asat-sabhāyā vana-vāsa-kṛcchrataḥ
mṛdhe mṛdhe ’neka-mahārathāstrato
drauṇy-astrataś cāsma hare ’bhirakṣitāḥ

訳語

翻訳

我が主クリシュナよ。あなたは私たちを、毒入りの菓子、猛火、人喰族、邪悪な一味、森への追放生活での苦しみ、大将軍たちが加わった戦争から救ってくださいました。そして今、アシュヴァッターマーの武器から、私たちを救ってくださいました。

解説

クンティー女王たちがどのような危険に遭遇したかがここで述べられています。デーヴァキーは嫉妬深い兄によって苦境に陥れられましたが、それがなければ幸せに暮らしていたはずの女性です。しかしクンティーデーヴィーと彼女の子どもたちは長年にわたって次から次へと苦境に落とされました。クンティーの子どもたちは王国をめぐってドゥルヨーダナとその一族に苦しめられましたが、その度にクリシュナに助けられました。ビーマが菓子の中に毒を盛られ、シェラックでできた家に入れられて放火され、ドラウパディー女王は公衆の面前でクル家の邪悪な心を持つ集団に衣服を脱がされそうになり、侮辱を受けました。主はこのとき、尽きることのない布をドラウパディーに送って救いの手を差し伸べたため、結局ドゥルヨーダナたちは女王の裸を見ることができませんでした。同じように、兄弟たちが森に追放されたとき、ビーマは人喰族のヒディンバ・ラークシャサと戦いを交えましたが、主がビーマを助けました。一難去ってまた一難、このような艱難辛苦の後にはクルクシェートラの戦いが待ち受けており、アルジュナは、ドローナ、ビーシュマ、カルナなど、恐るべき兵士たちと剣を交える定めにありました。そしてついに、全てが終わったと思われたとき、ドローナーチャーリャの息子がウッタラーの胎児を殺すために放ったブラフマーストラが襲いかかりました。そして主は、クル家のただひとりの子孫、マハーラージャ・パリークシットを救ったのでした。
vipadaḥ santu tāḥ śaśvat
tatra tatra jagad-guro
bhavato darśanaṁ yat syād
apunar bhava-darśanam

訳語

翻訳

私は、このような災難が何度も起こることを願っています。その度にあなたを見ることができるからです。あなたを見るということは、誕生と死の繰り返しには直面しない、ということです。

解説

一般的に、苦しむ人、貧しい人、知性のある人、探求心の強い人のなかで、善良な行いを過去に行った人々が神を崇拝したり、崇拝を始めようとします。一方、悪事で成功している人々は、どのような地位にあっても、幻想エネルギーに翻弄されているために至高者に近づくことはできません。ですから、善良な人がある災難に遭遇した場合、主の蓮華の御足に救いを求める以外に方法はありません。主の蓮華の御足をいつも心に思うことは、誕生と死からの解放の準備をしていることを意味しています。ですから、いわゆる災難とされる状況に置かれても、敬虔な人々はそれを喜んで迎えます。その機会が主を思い出す機会を与え、そのことが解脱につながるからです。
無知の海を渡るのに最適な船である主の蓮華の御足に身を委ねた人は、子牛のひづめの足跡を飛び越えるほど簡単に、解脱を達成することができます。そのような人は主の住処に住む資格があり、歩く度に危険が待ち受けている物質界とは何の関係もありません。
主は『バガヴァッド・ギーター』で、物質界は災難だらけの危険な場所だと断定しています。知性に欠ける人は、物質界そのものが災難に満ちているという実態を知らずに、いろいろな計画を立てて災難を制御しようとしています。至福にあふれた、全く災難のない主の住処のことも知りません。ですから、正気の人なら、どのような状況でも必ず発生する俗世間の災難に心を乱されずにいるべきです。避けられない不運に苦しめられつつも、私たちは精神的悟りを高めながら進まなくてはなりません。それが人間生活の使命だからです。精神魂そのものは、どのような物質的な災難も超越しているため、災難は現実にはありません。ある人は夢でトラに呑みこまれそうになって、その災難に絶叫するかもしれません。しかし実は、トラもいなければ、その苦しみもありません。ただの夢です。同じように、人生にある災難はどれも夢だと言われています。献身奉仕を通して主と関わることのできる幸運な人には全てが利益となります。9種類の献身奉仕のどの方法によってでも、主と接触することができれば、神の元に帰る道を一歩進んだことになるのです。
janmaiśvarya-śruta-śrībhir
edhamāna-madaḥ pumān
naivārhaty abhidhātuṁ vai
tvām akiñcana-gocaram

訳語

翻訳

主よ。誰でもあなたに簡単に近づくことができます。しかし、それは物質的に疲れ果てた人に限ります。高貴な家柄、莫大な富、高い教育、体の美しさなどを通して、[物質的に]生活を高めようと求めている人は、真剣な思いを込めてあなたに近づくことはできません。

解説

物質的に高められるとは、高貴な家系に誕生すること、莫大な富を持つこと、教育や美しい体を持つことを指しています。物中心主義の人は誰でも、そのような富を目指して狂奔し、これが物質文化の発展と捉えます。しかしその結果として、物質的な美質を備えたために横柄な人間になり、その場だけの財産に自己陶酔してしまいます。従って、陶酔した人間は、心を込めて「ゴーヴィンダよ、クリシュナよ」と主の御名を唱えることはできません。シャーストラで言われているように、一度でも主の聖なる御名を唱えた人は、一生かかっても犯すことができないほどの罪を取り除くことができます。それが、主の聖なる御名の唱名の力です。この言葉に、誇張はみじんもありません。本当に主の聖なる御名はその力を持っています。しかし、唱える行為の質も大切です。それは主を思う強さにかかっています。絶望しきった人は、思いを込めて主の聖なる御名を唱えるものですが、物質的な満足感にどっぷり浸った人には真剣な唱名はできません。尊大になっている人もときには主の聖なる御名を唱えるかもしれませんが、気持ちのこもった質の高い唱え方はできません。ですから、4つの物質的な発達、すなわち(1)優れた家柄、(2)すばらしい財産、(3)高い教育、(4)魅力的な容姿などは、いわば、精神的な発達の道を進むには失格といえる質です。純粋な精神魂を覆っている物質は表面的な要素であり、それは病気の熱が健康を害した体の表面に表れるようなものです。病気の最初の処方は解熱であり、体を酷使して熱を上げる処方は勧められません。ときに精神的に高められた人が、物質的に貧しくなることがあります。しかしそれは支障ではありません。逆にそのような貧困は、病気の熱が下がることが良い兆候であるように、好ましい条件なのです。生活の原則は、人生の目的をますます幻惑させるだけの物質的な陶酔の程度を鎮めることにあります。完全に惑わされている人は、神の国に入る資格はありません。
namo ’kiñcana-vittāya
nivṛtta-guṇa-vṛttaye
ātmārāmāya śāntāya
kaivalya-pataye namaḥ

訳語

翻訳

私の敬意を、貧しい者の財産であるあなたに捧げます。あなたは、自然の物質様式の活動とその反動には全く関わりのないお方です。自ら満足されているゆえに最も穏やかなお方であり、一元論者の主です。

解説

生命体は、所有するものがなくなった時に全てが終わります。ですから「放棄」という言葉の本当の意味から見ても、生命体は放棄者にはなれません。生命体は、より価値のあるものを得るために、何かを放棄します。生徒は、より高い教育を受けるために子どもじみた考え方を捨てます。召使いは、もっといい仕事につくために現在の職場を変えます。同じように献身者も、無のために物質界を放棄するのではなく、精神的価値における具体的な対象のために放棄します。シュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーと、サナータナ・ゴースヴァーミー、シュリーラ・ラグナータ・ダーサ・ゴースヴァーミーなど他の献身者は、主に仕えるために世間の虚飾や財産を捨てました。世間の目から見れば重要人物とされた人物ばかりです。ゴースヴァーミーたちはベンガル政府の役職にあり、シュリーラ・ラグナータ・ダーサ・ゴースヴァーミーは、当時の有力な地主(ザミンダー)の息子でした。それでも、はるかに優れたものを得るためにそれまで所有していたもの全てを捨てたのです。献身者には財産などないのが普通ですが、実は主の蓮華の御足の中に秘密の宝箱を持っています。そのことを如実に示す話があります。シュリーラ・サナータナ・ゴースヴァーミーはタッチストーンを持っていましたが、それをごみくずの中に置いていました。ある貧しい人がそれを持ち去ったのですが、よく考えてみるとこのような価値のある石がなぜどうでもいい場所に放っておかれていたのか不思議でなりませんでした。そこで男性はサナータナに、一番価値あるものは何なのかと尋ね、主の聖なる御名を授かりました。アキンチャナは、物質的なものを一切与えられない者、という意味です。本物の献身者、マハートマーは、すでに物質的な財産を全て放棄しているため、誰にも物質的なものは授けません。しかし、最も素晴らしい財産である人格神を与えることができます。なぜなら、人格神こそが、本物の献身者の唯一の所有物だからです。サナータナ・ゴースヴァーミーのタッチストーンはごみくずの中に捨てられていましたが、ゴースヴァーミーの所有物ではなかったからです。でなければ、そのような場所に放っておかれるはずがありません。この特別な例は、初心の献身者に、物質的欲望と精神的発達は両立しないことを確信させるために挙げられています。全てを至高主と結びつけられない人は、いつも精神と物質を区別して見る必要があります。シュリーラ・サナータナ・ゴースヴァーミーのような精神指導者は、全てを精神的なものとして見られる人物ですが、私たちにはその視野がないため、このような例を私たちに示したのでした。
物質的な視野や文化を高めることは、精神的な発達には大きな障害となります。物質的な発達は、生命体をあらゆる苦しみの原因である肉体に縛り付けます。そのような発達をアナルタ、すなわち不要な物事、といいます。これは事実です。物質的に発達した昨今、50セントの口紅を使いますが、物質的な生活観念から作り出されたそのような不要なものがたくさんあります。私たちのエネルギーは、不要な物事に関心が向けられることで、何よりも大切な精神的悟りを得ることなくすり減らされます。月に行こうとする試みも、エネルギーの無駄の一例です。月に行っても人生の問題はそのままだからです。主の献身者をアキンチャナといいますが、それは、彼らが物質的な財産を持っていないからです。物質的な財産は物質自然の三様式から作り出されます。物質的な財産は精神的エネルギーを台無しにするため、持っている物質自然の産物が少ないほど、精神的に高められる優れたチャンスがあります。
至高人格神が行うことは、物質的な行動とは何の関係もありません。主が行うことは全て、たとえ物質界の中であっても精神的であり、物質自然の様式に対する執着はありません。『バガヴァッド・ギーター』で主がおっしゃっているように、主の行動は全て、物質界内外での降誕や他界であろうと、超越的であり、この事実を完璧に知っている人物は、物質界に二度と生まれることはなく、神の元に帰っていきます。
物質的な病は、物質自然を支配しようとする望みのために起こります。この望みは自然の三様式の作用によるもので、主も献身者もそのような偽の楽しみには執着していません。ですから、主と献身者はニヴリッタ・グナ・ヴリッティと呼ばれます。完璧なニヴリッタ・グナ・ヴリッティは至高主です。主は自然の様式に魅了されませんが、生命体にはその傾向があるからです。生命体の一部は、物質自然の幻想の魅力にとらわれています。
主は献身者の財産であり、献身者は主の財産でもあるため、献身者は間違いなく物質自然の様式を超越しています。それは当然の結論です。無垢な献身者は、苦しみや貧困から逃れたり探求心や推論のために主を求めたりする動機の混ざった献身者とは違います。純粋な献身者と主は、神聖な心で互いに結ばれています。主はそれ以外の人々とは関わらない、アートマーラーマ、自ら満足している者、と呼ばれます。主は自ら満足しているお方であるため、主と一体化しようとする一元論者の主人でもあります。一元論者は、ブラフマジョーティという主の体からの光に溶け込もうとしています。一方、献身者は主の崇高な遊戯の中に入ります。そのような崇高な遊戯を俗な楽しみと理解してはなりません。
manye tvāṁ kālam īśānam
anādi-nidhanaṁ vibhum
samaṁ carantaṁ sarvatra
bhūtānāṁ yan mithaḥ kaliḥ

訳語

翻訳

我が主よ。私はあなたを永遠なる時、至高の支配者、始まりも終わりもない方、遍在する方だと思っています。ご自分の慈悲を分け与えることにおいて、あなたは誰にでも平等です。生命体の間での意見の相違は、個人間の交流ゆえに起こることです。

解説

クンティーデーヴィーは、クリシュナが自分の甥でもなく、また両親の家系に属するありきたりの親族でもないことを知っていました。そしてクリシュナがパラマートマー、超霊魂として全ての生物の心の内にいる、根源の主であることも熟知していました。主のパラマートマーの姿の別名をカーラ、すなわち永遠なる時と言います。永遠の時は私たちの善悪どちらの行為も把握しており、その結果としての反動も主によって決定されます。なぜ、何のために自分は苦しんでいるのか分からない、と言っても無駄なことです。私たちは今苦しんでいる原因である過去の悪業を忘れているかもしれませんが、パラマートマーはいつも私たちと一緒にいるため、過去、現在、未来の全てを知っているという事実をよく心得ておくべきです。主クリシュナのパラマートマーの姿が、全ての活動と反動を決定づけるお方であるため、主こそが至上の支配者です。主の許しがなければ、たった一枚の葉さえ動くことはできません。生命体は、自分が授かるに値する自由を得ていますが、その自由を間違って使うことが苦しみの原因となっています。主の献身者は自由を間違って使うことはないため、主の優秀な息子たちなのです。それ以外の人たちは、永遠のカーラが決める苦しみに縛られ続けます。カーラは、束縛された魂に幸福も苦しみも与えます。全ては永遠なる時によって運命づけられています。求めてもいない苦しみが待ち受けているように、望んだわけでもない幸福にも出会います。全てカーラが決定しているからです。ですから、主にとっては誰も敵でも友人でもありません。誰もが、自分の運命通りに苦しみ、そして楽しんでいます。この運命は、世間との関わりの中で生命体が自分で作り出していきます。誰もが物質自然を操りたいと考えているため、至高主に見守られながら、自分の運命を創造しています。主はどこにでもいますから、誰が何をしようと全て見ることができます。そして、主は始まりも終わりもないお方であるため、永遠なる時、すなわちカーラとしても知られています。
na veda kaścid bhagavaṁś cikīrṣitaṁ
tavehamānasya nṛṇāṁ viḍambanam
na yasya kaścid dayito ’sti karhicid
dveṣyaś ca yasmin viṣamā matir nṛṇām

訳語

翻訳

主よ。あたかも人間がしているような、そして誤解を招くようなあなたの崇高な遊戯は誰にも理解できません。またあなたは特別に好意を示す相手もいなければ、嫉妬する相手もいません。人々が、あなたが公平ではないと勝手に想像しているだけです。

解説

主の慈悲は、束縛された魂に分けへだてなく授けられています。特に敵対するような相手もいません。人格神を人間と捉える考え方そのものが間違っています。主の崇高な遊戯は人間のものと全く同じように見えるのですが、物質の汚れが一切ない神々しい遊戯です。主は確かに純粋な献身者にひいきをしますが、実際は、太陽が全生命体に不公平ではないように、主は決して不公平ではありません。太陽光線を利用すればただの石でさえ価値ある石になりますが、目の見えない人は、あたりに光が広がっていても、太陽を見ることはできません。暗闇と光は相反していますが、それでも、太陽は光を不公平に放っているわけではありません。太陽光線は誰をも等しく照らしていますが、それを受け取る側の受容能力に違いがあります。愚かな人は、献身奉仕は主から特別の慈悲を授かるためのつらい行為だと考えます。しかし実際は、主に崇高な愛情奉仕をしている人は、商売をしているのではありません。商売をする人は、代価と交換に客人に奉仕をします。純粋な献身者は、そのような返礼を期待して主に仕えているわけではありませんから、主のあふれる慈悲が献身者に注がれるのです。苦しんでいたり、貧しかったり、探求心のある人や哲学者は、何かの目的を叶えるために、主と一時的な関係を築きます。しかしその目的が叶うと、主との関係はなくなってしまいます。苦しんでいる人が、もし善良なら、立ち直ることができるよう主に祈ります。しかし望みが叶ったとたん、ほとんどの場合苦しんでいたその人は、主との絆など気にかけなくなります。主の慈悲は誰にでも用意されています。しかしある人は受け入れることをためらいます。それが、純粋な献身者と混ざった献身者との違いです。主への奉仕を全く否定する者は救いがたい暗闇の中にあり、主の恩恵を欲しいときだけ授かろうとする者は主の慈悲を部分的に受け取り、主への奉仕に完全に打ち込んでいる人は、主の慈悲を全て受け取ります。主の慈悲を受け取るそのような違いは、受け取る側が作っているのであり、誰にも慈悲深い主の不公平さによるものではありません。
主があらゆる面で慈悲深いその力を通して物質界に降誕すると、まるで普通の人間のように行動するため、主は献身者だけに好意を示しているように見えます。でも、それは事実ではありません。一見不公平には見えても、主の慈悲は誰にもわけへだてなく注がれます。クルクシェートラの戦場で、主がいる同じ場所で戦死した兵士たちは、必要な資格もなかったにもかかわらず解脱の境地に入りました。主の前で死ぬ者は、全ての罪から解放されるため、死亡した兵士は、崇高な住処のいずれかに入ることができます。太陽の光を浴びる人は、熱と紫外線という恩恵を必然的に得ることができます。ですから、結論として主は決して不公平ではないと断言できます。一般の人々が、主を不公平だと考えるのは間違っています。
janma karma ca viśvātmann
ajasyākartur ātmanaḥ
tiryaṅ-nṝṣiṣu yādaḥsu
tad atyanta-viḍambanam

訳語

翻訳

もちろん、これは私たちを惑わせるものです。宇宙の魂よ、あなたは活動しないお方でありながら活動され、生まれないお方でありながら生命力の源として誕生されます。あなたご自身、動物や人類や聖者や水生生物の中に降誕されます。確かに私たちはこれらに惑わされています。

解説

主の崇高な遊戯は、私たちを混乱させるだけではなく、一見矛盾しているようにも見えます。言い換えると、それらはどれも人間の限られた思考力を超えている、ということです。主は万物の中に遍在する至高の魂として存在していますが、同時に、動物界の中にイノシシとして現れたり、人間界の中にラーマやクリシュナなどとして現れたり、ナーラーヤナのようなリシとして、また魚の姿として現れたりします。それでも、主は生まれることのない方、そして何もすべきことのない方と言われています。シュルティ・マントラでは、至高のブラフマンには何もすべきことがない、と言われています。主に等しい者も、主を超える者も存在しません。主は無数のエネルギーを備え、全ては自然に機能する知識、力、活動を通して主によってなされます。このような表現は、主の活動、姿、行動が私たちの限られた思考力を超えていることを疑いもなく証明しています。そして主は想像を絶する力を備えているからこそ、主にできないことはありません。ですから、誰も主を正確に推測することはできません。主がなさることは全て、俗人を混乱させます。ヴェーダ知識を学んでも主のことは分かりませんが、主と親密に結ばれている純粋な献身者だけは理解できます。ですから献身者は、主が動物として現れても、主はその動物でも、あるいは人間でもリシでも魚でもない、ということをよく知っています。主は永久に、どのような状況でも至高主なのです。
gopy ādade tvayi kṛtāgasi dāma tāvad
yā te daśāśru-kalilāñjana-sambhramākṣam
vaktraṁ ninīya bhaya-bhāvanayā sthitasya
sā māṁ vimohayati bhīr api yad bibheti

訳語

翻訳

愛しいクリシュナ。ヤショーダーは、あなたがいたずらをした時にひもであなたを縛ろうとしました。当惑しきったその目からは涙があふれ、マスカラが頬をつたいました。恐れの権化にさえ恐れられるあなたが、それほど怖がっておられたのです。私はこの情景に困惑するばかりです。

解説

この節には、至高主の遊戯が作り出す困惑についてさらに説明されています。すでに説明したように、至高主はどのような状況においても至高の存在です。この節には、主が至高者でありながら同時に純粋な献身者の目の前で遊んでいる情景が描写されています。純粋な献身者は無垢な愛情だけで主に仕えており、奉仕をしているときには至高主の立場をすっかり忘れています。至高主も献身者からの愛情奉仕を受け入れますが、恭しく崇められるよりも、純粋な愛情から自然に捧げられる奉仕を深く味わいます。普段はかしこまった崇拝を受ける主ですが、献身者が素朴な愛着や愛を込めて、まるで自分の方が主よりも立場が上のようにふるまう時のほうが、完全な喜びを味わいます。根源の地ゴーローカ・ヴリンダーヴァナでの崇高な遊戯は、まさにそのような心情で行われています。クリシュナの友達は、クリシュナのことを同じ仲間だと思っているのです。畏敬の念は全くありません。主の両親たちは(全員が純粋な献身者であり)、主を自分の子どもとしか考えていませんでした。主は、ヴェーダの聖歌よりも、両親から叱られることを喜んで受け入れていました。同じように、ヴェーダの聖歌よりも、恋人に叱られるほうが嬉しいと感じます。主は、精神界にある崇高な住処であるゴーローカ・ヴリンダーヴァナでの永遠の遊戯を示すために物質界に降誕し、人々をとりこにしていましたが、育ての母親だったヤショーダーの言いなりになる、というたぐいまれな遊戯を見せました。いたずら好きだった主はバターの入った容器を壊し、その中身を友達や遊び仲間、気前のよい主からおこぼれをもらおうとやってきたヴリンダーヴァナの名高いサルたちに配り、せっかくヤショーダーが蓄えていたバターを台無しにすることがありました。それを見たヤショーダーは、純朴な愛情から、神秘的な我が子を叱るふりをしたいと思いました。そしてどこの家庭でも母親がしているように、ひもをつかみ、主をおどかすようなふりをしました。お母さんが握っているひもを見て驚いた主は、うつむき、普通の子どものように泣き始めました。美しい目を飾っていた黒いマスカラが涙と共に頬をつたいました。その姿が、主の至高の境地をよく知っていたクンティーデーヴィーによって崇められています。主は恐れの権化にも恐れられるお方ですが、普通の母親のように叱ろうとしたヤショーダーを怖がりました。クンティーはクリシュナの高貴な立場をよく知っていましたが、ヤショーダーは知りませんでした。ですから、ヤショーダーの境地はクンティーよりも高いと言えます。ヤショーダーは主を我が子として授かり、主は、自分が至高主であることをヤショーダーに忘れさせたのです。ヤショーダーが主の高貴な立場を知っていたら、主を叱ることをためらったはずです。しかしヤショーダーは主の計らいで、我が子が至高主であるとは全く考えもしませんでした。主は、優しいヤショーダーの前であどけない子どもでいたかったのです。母親と息子のこの愛情交換はごく自然に交わされ、クンティーはその情景を思い出しながら、戸惑い、その超越的な母親の愛情を讃えずにはいられませんでした。クンティーは、たぐいまれな愛情に恵まれたヤショーダーを間接的に讃えています。あらゆる力を備えた主を、愛する我が子として支配できたのですから。
kecid āhur ajaṁ jātaṁ
puṇya-ślokasya kīrtaye
yadoḥ priyasyānvavāye
malayasyeva candanam

訳語

翻訳

ある人は、「敬虔な王たちを讃えるために生まれることのない者が生まれる」と表現し、またある人は、「最も愛しい献身者のひとりであるヤドゥ王を喜ばせるために生まれる」と表現しています。あなたは、マラヤの丘に白檀の木が現れるように、ヤドゥ王家の中に現れます。

解説

主が物質界に現れることは不可解に見えるため、この「生まれることのない者」の誕生についてはさまざまな意見があります。『バガヴァッド・ギーター』では、主は全創造物の主であり、生まれることのない存在ではあるが、物質界に誕生する、と言われています。主自身がその事実を確立なさったのですから、誰もそのことは否定できません。それでも、主の誕生についてはさまざまな意見があります。『バガヴァッド・ギーター』でもその事実が説明されています。主は、宗教原則を再確立させるために、そして敬虔な人を守り、邪悪な者を抹殺するために、内的エネルギーを通して降誕されます。それが、生まれることのない者が降誕する使命です。一方、主は敬虔なユディシュティラ王を讃えるために現れた、とも言われています。主シュリー・クリシュナは、世界中の人々の幸福を願ってパーンダヴァの王国を築きたいと思っていました。敬虔な王が世界を治めれば、人々は幸せになれるのです。ところが、統治者が邪悪な心を持っていれば誰も幸福になれません。カリ時代では、ほとんどの統治者の心は敬虔ではなく、そのために国民も不幸な生活を強いられています。しかし民主主義では、不敬虔な国民が自分たちを導く代表者を選んでいるのですから、自分たちの不幸を人のせいにはできないはずです。マハーラージャ・ナラも敬虔で偉大な王として知られていましたが、主クリシュナとは関係がありませんでした。ですから、この節で主クリシュナに讃えられているのはマハーラージャ・ユディシュティラです。主はヤドゥ王も讃えました。主が同じ家系に誕生しているからです。主は、家族間の義理にしばられるお方ではありませんが、ヤーダヴァ、ヤドゥヴィーラ、ヤドゥナンダナなどの別名でも知られています。例えばマラヤの丘に生えている白檀の木のようです。木はどこにでも生えますが、白檀のほとんどがマラヤの丘一帯に育つため、白檀という名前とマラヤの丘はつながりがあります。ゆえに、主は太陽のように生まれることのない存在ですが、太陽が東の地平線に姿を見せるように降誕されます。太陽を「東の地平線の太陽」と限定できないように、主は誰の息子でもなく、存在するもの全ての父親です。
apare vasudevasya
devakyāṁ yācito ’bhyagāt
ajas tvam asya kṣemāya
vadhāya ca sura-dviṣām

訳語

翻訳

それ以外にも、ヴァスデーヴァとデーヴァキーがあなたに祈ったからこそ、ふたりの息子としてあなたは誕生なさった、という人たちがいます。あなたが生まれないお方であることに疑いの余地はありませんが、それでもふたりの幸せのために、そして神々を妬んでいる者たちを葬り去るために誕生なさいます。

解説

ヴァスデーヴァとデーヴァキーは、前世ではスタパーとプリシュニという夫婦であり、主を彼らの息子として迎えるために厳しい苦行に耐え、そしてそれらの苦行の結果として、主が彼らの息子として現れたとも言われています。『バガヴァッド・ギーター』が宣言しているように、主は世界中の人々を幸せにするために、そしてアスラ、すなわち物質主義的な無神論者を破滅させるために降誕なさいます。
bhārāvatāraṇāyānye
bhuvo nāva ivodadhau
sīdantyā bhūri-bhāreṇa
jāto hy ātma-bhuvārthitaḥ

訳語

翻訳

荷を積みすぎた海上の船のように、世界が苦悩で満ちあふれており、そのためにあなたの息子であるブラフマーがあなたに祈りを捧げたので、あなたは世界の負担を軽くするために降誕なさった、と言う人々もいます。

解説

世界が創造された直後に誕生した最初の生命体ブラフマーは、ナーラーヤナの直接の息子です。ナーラーヤナは、ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌとして最初に物質宇宙に入りました。物体そのものは、精神と接触しなければ創造することはできません。この原則は、宇宙創造の始まりから続いています。至高の精神が宇宙に入り、ヴィシュヌの超越的腹部から出ている蓮華の花の上に最初の生命体ブラフマーが誕生しました。そのため、ヴィシュヌはパドマナーバという名前でも知られています。ブラフマーにはアートマ・ブーという別名がありますが、それは、母親であるラクシュミージーとの接触もなく、父親から直接生まれたことにちなんでいます。ラクシュミージーは、ナーラーヤナのそばで仕えていましたが、それでもナーラーヤナは、ラクシュミージーと一切接触することなくブラフマーをもうけました。それが主の全能の力を示しています。ナーラーヤナと普通の生命体を一緒にして考える愚かな人は、この事実から教訓を得なくてはなりません。ナーラーヤナは普通の生命体ではありません。人格神自身であり、自分の超越的な体の各部分全てが、あらゆる感覚の力を備えています。普通の生命体は性交渉を通して子どもをもうけますが、運命で定められた子ども以外は得られません。しかしナーラーヤナは全能であるため、どのような力の条件にも左右されません。主は完全無欠で、さまざまな力を使って何にも拘束されずに、簡単にそして完璧に物事を実現できます。ですから、ブラフマーは父親から直接生まれた子供であり、母親の胎内に入れられたわけではありません。その理由のため、アートマ・ブーと呼ばれています。ブラフマーは、全能者の力を二次的に与えられて宇宙のさらなる創造を託されました。宇宙に広がる光の中には、シュヴェータドヴィーパという神聖な惑星があり、至高主のパラマートマーの様相であるクシーローダカシャーイー・ヴィシュヌが住んでいます。宇宙の管理をつかさどっている神々たちに解決できない問題が発生したときには、神々がブラフマーに解決策を仰ぎ、ブラフマーにも解決できないときは、ブラフマーが、クシーローダカシャーイー・ヴィシュヌに祈り、化身となって降誕し、問題を解決するよう救いを求めます。カンサや他の悪漢たちが地球を支配していた時にそのような問題が生じ、そのアスラたちの悪行のために地球に大きな負担がかかっていました。ブラフマージーは他の神々たちとクシーローダカ海の浜辺で祈りを捧げ、クリシュナがヴァスデーヴァとデーヴァキーの子として生まれるという言葉を授かりました。この理由から、主はブラフマージーの祈りを受けて降誕した、と言われています。
bhave ’smin kliśyamānānām
avidyā-kāma-karmabhiḥ
śravaṇa-smaraṇārhāṇi
kariṣyann iti kecana

訳語

翻訳

さらに、あなたは聞くこと、思い出すこと、崇拝することなどといった献身奉仕の原則を復活させ、苦境にいる束縛された魂がその教えを利用し、解脱を達成できるように降誕した、と説明する人たちもいます。

解説

『バガヴァッド・ギーター』で主は、宗教の道を再確立させるために全ての創造期に現れる、と断言しています。宗教は至高主が作るものです。ある野心家たちにとっての流行りのように、新しい宗教を作ることなど誰もできません。宗教の本当の道は、主を至高の権威者として受け入れること、そして自然に起こる愛情から主に仕えることにあります。生命体には仕えること以外に道はありません。そのために生きているのです。生命体が持つ唯一の性質は主に仕えることです。主は偉大なお方であり、生命体は主に従う立場にあります。主だけに仕えることが私たち生命体の義務なのです。不運なことに、幻惑された生命体は誤解というたったひとつの原因で、物質的な望みに駆られ、感覚の召使いになっています。この望みをアヴィディヤー、無知といいます。そのような望みに操られた生命体は、倒錯した性生活を中心とした楽しみを味わうためにさまざまな計画をたてます。そのために、至高主の管理のもとで、さまざまな惑星のさまざまな肉体に入り、生と死の鎖に絡まっています。ですから、この無知の領域を超えなければ、物質生活の三重の苦しみから抜け出すことはできません。それが自然の法則です。
しかし主はいわれのない慈悲心から、聞き、唱え、思い出し、仕え、崇拝し、祈り、主と協力し、主に身を委ねるという献身奉仕の原則を復活させるために生命体たちの前に現れます。なぜなら主は、苦しんでいる生命体が望むよりもっと深い慈悲心を抱いているお方だからです。これらの方法を全て、あるいはひとつでも実践すれば、束縛された魂は無知の束縛から抜け出すことができ、その結果、外的勢力に惑わされた生命体が自分で作り上げている全ての苦しみから解放されます。この慈悲こそ、主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブとして降誕した主によって生命体に授けられたものです。
śṛṇvanti gāyanti gṛṇanty abhīkṣṇaśaḥ
smaranti nandanti tavehitaṁ janāḥ
ta eva paśyanty acireṇa tāvakaṁ
bhava-pravāhoparamaṁ padāmbujam

訳語

翻訳

クリシュナよ。あなたの神々しい活動について聞き、唱え、繰り返し語る人々、あるいは同じことを他の人々がしているのを見て喜びを感じる人々は、間違いなく、誕生と死の繰り返しを唯一止めることができる、あなたの蓮華の御足を見つめています。

解説

至高主シュリー・クリシュナを、いま私たちが置かれている束縛された状態で見ることはできません。主を見るには、主への自然な愛情を育むことで、新しい見る力を得なくてはなりません。シュリー・クリシュナが地球にいた頃、誰もが主を至高人格神として見ていたわけではありません。ラーヴァナ、ヒラニヤカシプ、カンサ、ジャラーサンダ、シシュパーラのような物質主義者は、獲得した財産からすれば高い段階にあるかもしれませんが、主の存在を認めることはできませんでした。ですから、主が私たちの目の前にいるとしても、必要な眼識がなければ、主を見ることはできません。この資格は献身奉仕だけによって得ることができ、その奉仕は正しい情報源から主について聞くことから始まります。『バガヴァッド・ギーター』は、多くの人に知られ、聞かれ、唱えられ、復唱されている名高い書物ですが、その教えを聞いていても、献身奉仕を通して主と巡り会えないことがあります。その理由として挙げられるのは、1番目の方法であるシュラヴァナの方法に問題があるということです。正しい情報源から聞けば、その効果はすぐに現れます。ほとんどの人は正しい権限のない人から話を聞いています。学術的知識の豊富な人物だとしても、正しい権威に従っていない人は献身奉仕の原則に従っていないため、その人物から聞いても時間の無駄にすぎません。原文が、自分の都合のいいように流行に合わせて変えられることもあります。ですから、まず資格のある正しい語り手を選ぶのが第一条件であり、その条件を満たす人から話を聞くことが大事です。聞く方法が完璧で完全ならその他の手段も自然に正しく行われます。
主はさまざまな崇高な活動を示していますが、聞く手段が完璧であれば、その活動の一つひとつが望ましい結果を授ける力を備えています。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、主とパーンダヴァ兄弟たちの関わりから話が始まります。他にも、主がアスラやその他の多くの人々と関わる遊戯が述べられています。そして第10編では、主が恋愛感情を分かちあっていたゴーピーたちとの崇高な関係について、またドヴァーラカーで結婚した妻たちとの話も述べられています。主は絶対的なので、主のそれぞれの行動において示される超越的な性質に相違はありません。しかし時に人々は、誤った手段を通して聞くために、他の話よりも主のゴーピーたちとの関係に興味を抱きます。その心には情欲的な感情が含まれており、主の行動を正しく語る人物は、そのような話を聞くことにふけることはありません。主については、『シュリーマド・バーガヴァタム』や他の経典を通して最初から順序正しく聞くべきであり、その結果、聞き手は徐々に高められて完璧な境地にたどりつくことができます。ですから、主のパーンダヴァたちとの関係を、ゴーピーたちとの関係と比べてそれほど重要ではないと考えてはなりません。主は俗な執着心を超えたお方である、ということを常に覚えておくべきです。主と献身者たちとのこのような関わりの中で、主はいつでも英雄であり、主について、主の献身者について、あるいは主と戦った人々について聞くことで精神生活は高められていきます。ヴェーダやプラーナなどは、私たちが失ってしまった主との絆を取り戻すためにあると言われています。そのような経典を全て聞くことが、何よりも大切なことです。
apy adya nas tvaṁ sva-kṛtehita prabho
jihāsasi svit suhṛdo ’nujīvinaḥ
yeṣāṁ na cānyad bhavataḥ padāmbujāt
parāyaṇaṁ rājasu yojitāṁhasām

訳語

翻訳

愛しい主よ、あなたは全ての義務を自ら遂行されました。私たちは完全にあなたの慈悲に頼っていて、私たちを守ってくれる人はあなた以外におりません。全ての王たちが今、私たちを目の敵にしているというのに、あなたは私たちを置いて今日、行ってしまわれるのですか。

解説

パーンダヴァたちはとても幸運です。全てを主の慈悲に任せていたからです。物質界では、誰かの慈悲に頼ることは不運の兆しですが、主との超越的な関係においては、主に頼り切って生きるのはこの上なく幸運なことです。物質的な病は、あらゆることで気ままに生きようと考えることに原因があります。しかし冷酷な物質自然界は、私たちが自由奔放に生きることを許してはくれません。自然の厳格な法則から逃れようとする試みは、経験的知識を土台にした物質的発達として知られています。物質界全体が、自然の法則から逃れようとする間違った試みで動いています。天上の惑星に達する階段を作ろうとしたラーヴァナから現代人に至るまで、誰もが自然の法則を克服しようとしています。今では、科学者たちが機械技術を使って遠く離れた天体に行こうとしています。しかし、人間文化の最上の目標は、主に導かれながら力の限り働き、そして主に全てを任せることにあります。完璧な文化という最上の到達点は、勇敢に働くことで達成されますが、同時に完全に主を頼って働くことも必要です。パーンダヴァたちはこの文化の規範の模範となる人々です。彼らが主シュリー・クリシュナの素晴らしい意志に頼り切っていたことは間違いありませんが、主に寄生している怠惰な人間だったわけではありません。素晴らしい人格を持ち、正しい行動をする人々でした。それでも、生命体は本来何かに依存するものであることを知っていたからこそ、いつも主の慈悲を求めていました。ですから、人生の完成とは物質界で自然の法則から逃れるのではなく、主の意志にすがることにあります。主から離れようとする間違った人々をアナータ、保護者のいない者、といいますが、主の意志に頼りきっている人々をサナータ、守ってくれる人がいる者、といいます。ですから私たちはサナータになる努力をすべきであり、そうすることで物質存在の逆境からいつでも守られます。物質自然の力に惑わされた私たちは、物中心に生きる生活は望ましくない混乱状態であることを忘れてしまいます。ゆえに『バガヴァッド・ギーター』(7-19)は、幾度となく誕生を経た後、幸運な人物はヴァースデーヴァが全てであるという事実に目覚め、一生を正しく過ごす最善の方法は主に完全に身を委ねることであることに気づく、と説いています。その事実を知っている人がマハートマーです。パーンダヴァ家の人々は全て世帯者として生きていたマハートマーです。マハーラージャ・ユディシュティラはその筆頭者で、クンティーデーヴィー女王はその母親でした。ですから『バガヴァッド・ギーター』と全てのプラーナ、特に『バーガヴァタ・プラーナ』の教えは、パーンダヴァ・マハートマーたちの歴史と必然的に関係があります。パーンダヴァたちにとって、主と離ればなれになるのは、魚が水の中から出されるに等しいものです。ですからシュリーマティー・クンティーデーヴィーにとっては、そのような別れが落雷であるかのように感じられました。女王の祈りは全て、主が自分たちといつまでもいてくれるよう思いとどまらせようとする願いなのです。クルクシェートラの戦争が終わった後、敵意を持つ王たちは全て殺害されましたが、その息子や孫たちがパーンダヴァたちと対決しようとしていました。敵視される状態にいるのはパーンダヴァたちだけではありません。私たちは誰でも、いつでもそのような状態にあります。最善の策は、主の意志に頼り切ることであり、そうすることで、物質存在にある全ての困難を克服することができるのです。
ke vayaṁ nāma-rūpābhyāṁ
yadubhiḥ saha pāṇḍavāḥ
bhavato ’darśanaṁ yarhi
hṛṣīkāṇām iveśituḥ

訳語

翻訳

ある肉体の名前も名声も、その中にいた魂が去った瞬間に終わるように、もし、あなたが私たちを見守ってくださらなければ、私たちの名声も行動も、パーンダヴァ家とヤドゥ家と共にあっという間に消滅することでしょう。

解説

クンティーデーヴィーは、パーンダヴァ家の存在がシュリー・クリシュナだけに支えられていることをよく知っていました。パーンダヴァ家は確かに優れた名前や名声に支えられ、道徳の権化である偉大なユディシュティラ王に導かれています。ヤドゥ家も優れた朋友でしたが、主クリシュナの導きがなければ、両家とも取るに足らない存在でした。それは意識の導きがなければ肉体の感覚が動かないことに似ています。人望、権力、名声などは、至高主の恩恵に導かれていなければ誇れるものではありません。生命体はいつも依存する立場にあり、その依存の究極の相手は至高主です。ですから、物質的な知識を高めることで物質資源に対抗するほどのあらゆる種類のものを発明できるかもしれませんが、主の導きがなければ、どれほど強力で頑丈な物質であろうと失敗するに決まっています。
neyaṁ śobhiṣyate tatra
yathedānīṁ gadādhara
tvat-padair aṅkitā bhāti
sva-lakṣaṇa-vilakṣitaiḥ

訳語

翻訳

ガダーダラ[クリシュナ]よ。今、私たちの王国の大地は、あなたの蓮華の御足の印に飾られて美しく見えます。しかしあなたが去ってしまえば、その美しさも消えうせてしまうことでしょう。

解説

主の御足には、他の生命体とは異なる特別の印が刻まれています。旗、雷、象を操る道具、傘、蓮華、輪などが主の御足の裏に刻まれています。この印は、主が柔らかい土地を歩くところに印されていきます。ハスティナープラの大地で主シュリー・クリシュナがパーンダヴァたちと暮らしていた時、これらの印がつけられ、、パーダンヴァ家の王国はこうして吉兆な印によって繁栄していたのでした。クンティーデーヴィーは、この素晴らしい特質について語り、主が去った後に待ち受けている悲運を恐れています。
ime jana-padāḥ svṛddhāḥ
supakvauṣadhi-vīrudhaḥ
vanādri-nady-udanvanto
hy edhante tava vīkṣitaiḥ

訳語

翻訳

この国の都市や町はあらゆる面で繁栄しています。それは薬草や穀物が豊かに実り、木々が果実をたわわに実らせ、川がよどみなく流れ、山が多量の鉱物に恵まれ、海に富があふれているからです。これは、あなたがそれらにまなざしを向けたからにほかなりません。

解説

人類の繁栄は自然からの贈り物によって実現するのであり、巨大な産業都市によるものではありません。大がかりな工業施設は無神論文化の産物であり、人類のためにある崇高な目標を台無しにする原因になります。人間の活力を搾り取るようなやっかいな工場が増えるにつれ、一部の人間がその搾取によって私腹を肥やし、一般市民はますます不安と不満に苦しめられます。穀物や野菜、果物、川、宝石や鉱物を蓄える山、真珠を豊富に作り出す海など、自然の贈り物は至高者の命令によって供給されるものであり、物質自然界は主が望む通りにさまざまな贈り物を豊富に作り出し、また時にはその供給を制限します。物質自然界を支配しようとする搾取的な動機に心を奪われることなく、自然界が作り出す神聖な贈り物を活用すれば、人類は満ち足りた生活を満喫できます。それが自然の法則です。気まぐれな快楽を求めて物質自然界を搾取しようとすればするほど、私たちは搾取の反動に縛られます。十分な穀物、果物、野菜、薬草があれば、食肉処理場を作って哀れな動物たちを殺す必要はありません。食糧となる穀物や野菜が豊富にあれば、動物を殺さなくてもいいのです。川が土地を肥沃にし、有り余るほどの恵みが私たちに授けられます。鉱物は山から作られ、宝石は海で作られます。十分な穀物、鉱物、宝石、水、ミルクなどに恵まれれば、不運な人たちの労力を犠牲にしてひどい工業施設を追い求める必要はありません。しかし、このような自然の贈り物は全て主の慈悲にかかっています。ですから、私たちは主の法則に対する従順な心を持ち、献身奉仕を通して人間生活を完成させるべきです。クンティー女王の言葉は核心をついています。女王の望みは、神の慈悲が人類に注がれ、そのことで自然の繁栄が主の恩恵によって維持されることにあります。
atha viśveśa viśvātman
viśva-mūrte svakeṣu me
sneha-pāśam imaṁ chindhi
dṛḍhaṁ pāṇḍuṣu vṛṣṇiṣu

訳語

翻訳

宇宙の主よ、宇宙の魂よ、宇宙の姿の権化よ。ですから、どうか私の親族であるパーンダヴァ家とヴリシュニ家への私の愛情の絆を切断してください。

解説

純粋な献身者は、主に向かって個人的なことで願い事をするのを恥ずかしく思います。それでも、家族への愛情という絆に縛られている世帯者は、恩恵を求めずにはいられないことがあります。シュリーマティー・クンティーデーヴィーはそのことに気づいていたため、主に、パーダンヴァ家とヴリシュニ家という親族に対する愛着という結び目を切断してくれるよう祈っています。パーンダヴァ家は自分の子どもたち、そしてヴリシュニ家は父方の家族です。クリシュナは両方の家族と等しく関係がありました。双方とも主に依存している献身者たちであったため、主の助けが必要でした。クンティーデーヴィーは、シュリー・クリシュナがパーンダヴァ兄弟という自分の息子たちと一緒にいてほしいと願いましたが、主がそうすれば、父方の家族は恩恵を授かることができません。このような親の欲目がクンティーの心を悩ませ、そのために愛情の絆が切断されるよう望んだのでした。
純粋な献身者は、家族への愛情という束縛の結び目を切断し、主を忘れた全ての魂たちのために、自分の献身奉仕の範囲を広めたいと考えます。その模範ともいえる例が、主チャイタニヤの道に従った6人のゴースヴァーミーたちです。6人とも、博識で教養ある上流階級の裕福な家庭に育ちましたが、一般大衆の幸せのために快適な家庭を離れ、修行僧になりました。家族への愛着を断てば、活動の範囲が広がります。そうしなければ、ブラーフマナ、王、人々の指導者、あるいは主の献身者にはなれません。人格神は、理想的な王となってこの模範を示しています。それが主シュリー・ラーマチャンドラです。主は理想的な王の気質を示すために、愛する妻への思いを断ち切りました。
ブラーフマナ、献身者、王、あるいは国民の指導者たちは、自分の義務を履行するにあたって、広い心を持たなくてはなりません。シュリーマティー・クンティーデーヴィーはこの事実を、そして自分の弱さをも知っていたので、家族への愛着という束縛から解放されるよう祈りました。主はこの節で「宇宙の主、宇宙の心の主」と呼びかけられていますが、それは家族への愛着という堅い絆を切断できる主の絶大な能力を示しています。主は、弱い献身者を特に気遣っているため、全能の力を通して、その献身者が感じている家族への愛情を強制的に切断することがあります。そうすることで、献身者は主に完全に身を委ね、神の元に帰る道をはっきりと見い出すのです。
tvayi me ’nanya-viṣayā
matir madhu-pate ’sakṛt
ratim udvahatād addhā
gaṅgevaugham udanvati

訳語

翻訳

マドゥの主よ。ガンジス川がよどみなく海に向かって流れるように、私の気持ちが他の誰にでもなく、常にあなたに向けられますように。

解説

全身全霊を込めて主に仕えるとき、愛情のこもった純粋な奉仕が達成されます。さまざまな愛情の絆を切断するといっても、誰かに対する愛着といった細やかな部分を捨てるわけではありません。それは不可能です。どんな生命体でも、誰かに心を寄せる感情を持っています。それこそ生きている証なのですから。命の兆候、例えば望み、怒り、渇望、魅力を感じる心などは、消せるわけがありません。心を寄せる対象さえ変えればいいのです。望みをなくすことはできませんが、献身奉仕においてその望みは、自分の感覚を満たすためではなく、主に対する奉仕への望みに変わります。家族、社会、国などに対する愛着の中味は、実は自分の感覚を満たそうとするさまざまな望みの現れです。この望みが、主を満足させたいという思いに変われば、献身奉仕になります。
『バガヴァッド・ギーター』で、アルジュナは兄弟や親族と戦いたくありませんでしたが、その本音はひとつ、自分の望みを満たしたい、という思いでした。しかし、主の『バガヴァッド・ギーター』という教えを聞いた後、考えを翻して主に仕えました。主の教えに従ったからこそ、アルジュナは名高い献身者となりました。全ての経典で、アルジュナが主に友人として仕えた結果、精神的完成に到達したと宣言されています。戦いが繰り広げられ、友同士の会話があり、そこにアルジュナとクリシュナがいました。そんな状況を経て、アルジュナはクリシュナに仕えることで別人のようになりました。ですから、クンティーの祈りにも、することを変えさえすればいい、という考えが含まれています。他の事は一切考えずに主に仕えたい、という思いが祈りの言葉になったのです。この汚れのない奉仕が人生の究極目標です。私たちの関心は、とにかく不信心で主の望みに合致していないものに向けられています。その関心が主への奉仕に向けられれば、つまり、主に仕えることで感覚が清められれば、それは純粋な献身奉仕と呼ばれます。シュリーマティー・クンティーデーヴィーはその完成の境地を求めて主に祈っています。
パーンダヴァ家やヴリシュニ家の人々に対する愛着は、献身奉仕に反する感情ではありません。主への奉仕と献身者への奉仕は同じだからです。ときには、主に仕えるよりも献身者に仕えるほうが価値があります。しかしこの節にあるクンティーデーヴィーのパーンダヴァ家とヴリシュニ家への愛着は、家族関係に基づいています。物質的な関係に基づいた愛情の絆はマーヤーです。体や心に基づく関係は、外的エネルギーが作り出しているからです。魂との関係、それも至高の魂と関連して築かれているのが真実の絆です。クンティーデーヴィーは家族との絆を断ち切りたいと思いましたが、それは肌の関係、すなわち血縁関係を断ち切るという意味でした。血縁関係に執着すれば束縛されますが、魂の関係は自由をもたらします。魂と魂の関係は、至高の魂との関係を通して築くことができます。暗闇の中では何も見えません。しかし、太陽の光のもとで見るということは、太陽、そして今まで暗闇で見えなかったものを見るという意味です。それが献身奉仕の道です。
śrī-kṛṣṇa kṛṣṇa-sakha vṛṣṇy-ṛṣabhāvani-dhrug-
rājanya-vaṁśa-dahanānapavarga-vīrya
govinda go-dvija-surārti-harāvatāra
yogeśvarākhila-guro bhagavan namas te

訳語

翻訳

クリシュナよ。アルジュナの友よ。ヴリシュニ家の筆頭者よ。あなたは、地球を混乱させている政治集団を壊滅させるお方です。あなたの力は決して衰えません。超越的住処を持ち、牛、ブラーフマナ、献身者を苦しみから救うために降誕されます。あらゆる神秘的力を備え、全宇宙の住民を導くお方です。全能の神であるあなたに、私は心からの敬意を表します。

解説

至高主シュリー・クリシュナについて、シュリーマティー・クンティーデーヴィーが要約しています。全能の主は永遠で神々しい住処を持ち、そこでスラビ牛を飼っています。そして無数の幸運の女神たちの奉仕を受けています。主は献身者を呼び戻すために、そして管理職を努めているにもかかわらず実は地球を混乱させている政治家や王たちを抹殺するために物質界に降誕されます。主は無尽蔵の力を使って創造、維持、破壊を行い、常に力に満ちあふれ、力が衰えることはありません。牛、ブラーフマナ、献身者は、生命体の幸せにはなくてはならない存在であるため、主は彼らに特別な愛情を注いでいます。
sūta uvāca
pṛthayetthaṁ kala-padaiḥ
pariṇūtākhilodayaḥ
mandaṁ jahāsa vaikuṇṭho
mohayann iva māyayā

訳語

翻訳

スータ・ゴースヴァーミーが言った:より優れた言葉で主を讃えたクンティーデーヴィーの祈りを聞いた後、主は優しく微笑んだ。その微笑みは、主の神秘的な力のように魅力にあふれていた。

解説

私たちを魅了してやまないもの、それは全て主の現れであると言われています。物質界を支配しようとしている束縛された魂たちも、主の神秘的な力に魅了されていますが、献身者は別の思いで主の栄光に魅了されていて、主の慈悲心にあふれた祝福は彼らに注がれています。主の力は多彩な形で表れますが、それは電気が多様な力となって機能しているのと同じです。シュリーマティー・クンティーデーヴィーは、主の栄光の一部分を表現するために祈りを捧げました。献身者たちは、よりすぐった称讃の言葉で主を崇拝します。そのことから、主はウッタマシュローカという別名を持っています。どれほど多くの言葉を選んでも主の栄光を語り尽くすことはできませんが、それでも主はそのような祈りに満足します。それは、育ちゆく子が片言で話そうとする試みを見て喜ぶ父親のようなものです。マーヤーには幻惑と慈悲というふたつの意味がありますが、この節では、主のクンティーデーヴィーに対する慈悲の意味で使われています。
tāṁ bāḍham ity upāmantrya
praviśya gajasāhvayam
striyaś ca sva-puraṁ yāsyan
premṇā rājñā nivāritaḥ

訳語

翻訳

主はシュリーマティー・クンティーデーヴィーの祈りを聞いた後、ハスティナープラの宮殿に入ることで、出立の意志を他の女性たちに告げた。しかし、その場を離れようとした時、愛情を込めて嘆願するユディシュティラ王に引き止められた。

解説

主クリシュナがドヴァーラカーに向かうことを決心した時、ハスティナープラにいるよう思い留まらせることは誰にもできませんでしたが、せめてもう数日だけでも、というユディシュティラ王の短い言葉に、主は心を動かされました。これは、主でさえ断わり切れなかったユディシュティラ王の言葉が愛情に支えられていることを如実に示しています。全能の神は愛情を込めた奉仕によって征服されるのであり、それ以外は、何をもってしても主を征服することはできません。主の行動は完全に独立していますが、それでも純粋な献身者への愛情ゆえ、進んで物事を引き受けてくださいます。
vyāsādyair īśvarehājñaiḥ
kṛṣṇenādbhuta-karmaṇā
prabodhito ’pītihāsair
nābudhyata śucārpitaḥ

訳語

翻訳

深い悲しみに沈んでいたユディシュティラ王は、ヴィヤーサを筆頭とする偉大な聖者たちや、超人的偉業を行う主クリシュナ自身から教えを授かっても、またあらゆる歴史的証拠を示されても納得できなかった。

解説

敬虔なユディシュティラ王は、クルクシェートラの戦場での大量殺人が、特に自分のために引き起こされたことに心を痛めていました。戦争前はドゥルヨーダナが王座に就き、巧みな政治的手腕を発揮していたことから、その意味では戦争をする必要はありませんでした。しかし、正義の理念からすれば、ドゥルヨーダナがユディシュティラ王に王座を譲る状況にありました。全ての派閥がこの点をめぐって争い、全世界の王や住民たちは、対立する兄弟間の戦争に巻き込まれることとなりました。主クリシュナもこの抗争に加わり、ユディシュティラ王の側についています。『マハーバーラタ』のアーディ・パルヴァ(2-25)では、クルクシェートラの戦争の18日間に6億4,000万人が殺され、その他にも何百何千もの人々が行方不明になったと記されています。まさにこの戦争は、過去5千年の間で起こった最大規模の戦争でした。
マハーラージャ・ユディシュティラを国王にするためだけに引き起こされたこの大量殺人は、痛ましい悲劇でした。王は、自分が勝者になったこの戦いが正義に基づくものであることを確信するために、ヴィヤーサのような偉大な聖者たちや主自身から歴史的証拠を得ようとしました。しかし、当時最も偉大とされていた賢人たちの意見を聞いても納得のいく答えは得られませんでした。クリシュナはここで、超人的な偉業をなす人物と呼ばれていますが、王の質問に対しては、主やヴィヤーサでさえもユディシュティラ王を納得させられませんでした。ということは、その超人的な偉業を示すことができなかった、ということでしょうか。いいえ、もちろん違います。実は、ユディシュティラ王とヴィヤーサの心にいる至高の魂、イーシュヴァラとして主がさらに超人的なことを行い、しかも主がそのことを望んでいたという経緯があったのです。主はユディシュティラ王の至高の魂として、王がヴィヤーサや他の聖者たち、そして主自身の言葉にさえ納得できないよう仕向けました。それは、もうひとりの偉大な献身者で、臨終の床にあったビーシュマデーヴァから教えを聞いてほしいと考えていたからです。主は、偉大な兵士ビーシュマデーヴァが物質界を去る直前に自分と会い、そして愛する孫であるユディシュティラ王たちが王座についている様子を見ながら、静かに息を引き取ることを願ったのでした。ビーシュマデーヴァはパーンダヴァ兄弟と戦うつもりはつゆほどもありませんでした。父親を失った愛しい孫たちと、どうして剣を交えることなどできるでしょうか。しかし、クシャトリヤは何事にも徹底した人々であり、またドゥルヨーダナに生計を委ねていた立場上、心ならずもドゥルヨーダナ側につかなくてはなりませんでした。また主は、ユディシュティラ王がビーシュマデーヴァの言葉に慰められることで、知識においてはビーシュマデーヴァが主を含めて全ての人々より秀でていたことを、世界中の人々が理解するように望んだのです。
āha rājā dharma-sutaś
cintayan suhṛdāṁ vadham
prākṛtenātmanā viprāḥ
sneha-moha-vaśaṁ gataḥ

訳語

翻訳

ダルマの息子、ユディシュティラ王は友人たちの死に打ちひしがれ、物質的な俗人のように悲嘆に暮れていた。聖者たちよ。そのような愛着ゆえに理性を失っていた王が口を開いた。

解説

ユディシュティラ王が俗人のように嘆くことは思いもよらないでことでしたが、主の意志が背後にあり、俗世間の愛着というものによって惑わされました(まさにアルジュナが惑わされた時と同じように)。物事を正しく見る人は、生命体は肉体でも心でもなく、物質的な概念を超越していることをよく知っています。一般の人は、暴力や非暴力を肉体に結びつけて考えますが、それは幻惑です。誰でも自分に定められた義務を遂行しなくてはなりません。クシャトリヤは、正義のためなら相手が誰であろうと戦います。その義務を遂行するとき、魂を包む衣服にすぎない肉体が消滅することについて心を乱されるべきではありません。それはユディシュティラ王にとっても百も承知のことでしたが、主の意志によって、俗人と同じ心境に陥りました。王が幻惑された背後には主の崇高な計画がありました。アルジュナが主クリシュナから教えを授かったように、ユディシュティラ王はビーシュマから教えを授かろうとしていたのです。
aho me paśyatājñānaṁ
hṛdi rūḍhaṁ durātmanaḥ
pārakyasyaiva dehasya
bahvyo me ’kṣauhiṇīr hatāḥ

訳語

翻訳

ユディシュティラ王が言った「ああ、私ほど罪な男がいるだろうか!私の心を見よ、無知にむしばまれたこの心を!人のためにあるはずのこの肉体が、無数の師団に配属されていた兵士たちを殺してしまったのだ」

解説

1個師団をアクシャウヒニーといい、21,870台の戦闘馬車、21,870頭の象、109,650人の歩兵、65,600の騎兵隊の陣構えになっています。クルクシェートラの戦場では、数知れないほどのアクシャウヒニーが壊滅しました。世界を治める最も敬虔な王だったマハーラージャ・ユディシュティラは、これほど多くの生命体が戦場で殺された責任は自分にあると思っていました。自分を王座に就かせるための戦争だったからです。肉体は他者のためにあります。命が宿っているうちは人の役に立つために、死んでしまえば犬やジャッカルやウジ虫たちの腹を満たすためにあります。そんなはかない肉体のために大量虐殺が引き起こされたことで、王は深い悲しみに沈んでいます。
bāla-dvija-suhṛn-mitra-
pitṛ-bhrātṛ-guru-druhaḥ
na me syān nirayān mokṣo
hy api varṣāyutāyutaiḥ

訳語

翻訳

私は多くの少年、ブラーフマナ、私が好意を寄せる人々、友人、両親、教師、兄弟たちを殺してしまった。例えこれから何百万年生きようとも、大罪を犯した私は、決して無間地獄から解放されることはない。

解説

一度戦争が起これば、少年、ブラーフマナ、女性など、殺すことが大罪とされている無垢な人々が確実に大量虐殺されます。経典では、いかなる場合でもそのような無垢な生き物の殺害は禁じられています。マハーラージャ・ユディシュティラはこのような大量殺人について知っていました。また、この戦いでは、友人、両親、教師などが両軍に参加し、全員が戦死しています。現実に大量殺害が起こったことは、王にとっては考えるだけでも恐ろしいことであり、そのため、これから何百万年何億年もの間地獄に住み続けることを覚悟していました。
naino rājñaḥ prajā-bhartur
dharma-yuddhe vadho dviṣām
iti me na tu bodhāya
kalpate śāsanaṁ vacaḥ

訳語

翻訳

市民を養うために力を尽くし、正義に基づいて天罰を加える王は罪を被ることはない。しかし、その教えは私にあてはまらない。

解説

マハーラージャ・ユディシュティラは以下のように考えました。ドゥルヨーダナが国民を苦しめることなく巧みに統治していた王国の運営に、自分は実際関与していなかったのにもかかわらず、自分はドゥルヨーダナから王国を奪い返すという私利私欲のために数多くの命を奪い、統治のためではなく権力を増大させるための殺りくをした。そのため罰せられるのは自分だ、と考えていました。
strīṇāṁ mad-dhata-bandhūnāṁ
droho yo ’sāv ihotthitaḥ
karmabhir gṛhamedhīyair
nāhaṁ kalpo vyapohitum

訳語

翻訳

女性たちの友を数多く殺害した私の悪行は、人々の心に根深い怨念を作り上げてしまった。どれほど福利活動をしても、その憎しみが消えることはないだろう。

解説

グリハメーディーとは、物質的な繁栄を求めて福祉活動をするためだけに働いている人たちのことです。そのような物質的な繁栄は時に罪深い活動によって妨害されることもあります。物質主義者は、物質的な義務を果たしている時、意識していなくても罪を犯してしまうからです。その罪の反動に巻き込まれないよう、ヴェーダは数種類の儀式をするよう勧めています。ヴェーダには、アシュヴァメーダ・ヤジュニャ(馬のいけにえの儀式)をすればブラフマ・ハティヤー(ブラーフマナの殺害)からでさえ救われるとあります。
ユディシュティラ・マハーラージャはこのアシュヴァメーダ・ヤジュニャを行いましたが、ヤジュニャをしても犯してしまった罪を償うことはできない、と考えました。ひとたび戦争になれば、夫や兄弟、あるいは父親や息子たちでさえ戦いに駆り出されます。彼らの死によって新たな憎しみが作り出され、アシュヴァメーダ・ヤジュニャを何千回行っても相殺することができない活動と反動の悪循環が増えていきます。
行動(カルマ)はそのように発生するものです。カルマは活動と反動を同時に発生させ、結果として物質的な活動に拍車をかけ、活動する人をがんじがらめに縛りつけていきます。バガヴァッド・ギーター (9-27〜28)ではその治療法として、義務を主のために行うことにより、その義務の活動と反動を止めることができると述べられています。クルクシェートラの戦いの真因は至高主シュリー・クリシュナの意志であり、それは主の説明から明白です。主が望んだからこそ、ユディシュティラ王はハスティナープラの王座に就きました。ですから、主の命令を実行していたにすぎないパーンダヴァ兄弟側に落ち度はありません。そうではなく、我欲だけで戦争を起こす者は、その結果を自ら償わなくてはなりません。
yathā paṅkena paṅkāmbhaḥ
surayā vā surākṛtam
bhūta-hatyāṁ tathaivaikāṁ
na yajñair mārṣṭum arhati

訳語

翻訳

泥で泥水をろ過することができないように、あるいは酒の入っていた容器を酒で浄化することができないように、儀式で動物をいけにえにしても人々を殺す罪は相殺できるものではない。

解説

馬がいけにえにされるアシュヴァメーダ・ヤジュニャや、牡牛がいけにえにされるゴーメーダ・ヤジュニャは、もちろん、動物を殺すために定められているのではありません。主チャイタニヤは、ヤジュニャの祭壇でいけにえにされる動物たちは、若返り、そして新しい次の命が与えられる、と言っています。ヴェーダのマントラの効果を証明するために行われたのです。ヴェーダのマントラを正しく唱えれば、執行者は罪の反動から救われますが、未熟な指導の元で不正に行われると、間違いなく、その動物のいけにえの責任を取らなくてはなりません。争いと偽善の現代では、ヤジュニャを正しく執行できる熟達したブラーフマナがいないため、儀式を完璧に行うことはできません。これは、マハーラージャ・ユディシュティラの言葉が、カリ時代の儀式を暗に示しているということです。カリ・ユガに勧められている唯一の儀式は、主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブが始めたハリ・ナーマ・ヤジュニャです。しかし気ままに動物の殺害を行い、その反動をハリ・ナーマ・ヤジュニャを行うことで打ち消そうとしてはなりません。献身者は自分の物欲だけで動物を殺すことはしませんし、また(主がアルジュナに命じたように)クシャトリヤとしての義務遂行を放棄することもありません。全てが主の意志のためになされた時に目的はことごとく達成されます。それは献身者にしかできないことです。
 これで、『シュリーマド・バーガヴァタム』の第1編・第8章、表題「クンティー女王の祈りとパリークシットの救い」に関するバクティヴェーダンタの要旨解説を終了します。