シュリーマド・バーガヴァタム 1.8.25
節
vipadaḥ santu tāḥ śaśvat
tatra tatra jagad-guro
bhavato darśanaṁ yat syād
apunar bhava-darśanam
tatra tatra jagad-guro
bhavato darśanaṁ yat syād
apunar bhava-darśanam
訳語
vipadaḥ—災難; santu—起こるように; tāḥ—全て; śaśvat—繰り返し; tatra—そこに; tatra—そしてそこに; jagat-guro—宇宙の主よ; bhavataḥ—あなたの; darśanam—会うこと; yat—~であるもの; syāt—~である; apunaḥ—繰り返さない; bhava-darśanam—誕生と死の繰り返しを見ること。
翻訳
私は、このような災難が何度も起こることを願っています。その度にあなたを見ることができるからです。あなたを見るということは、誕生と死の繰り返しには直面しない、ということです。
解説
一般的に、苦しむ人、貧しい人、知性のある人、探求心の強い人のなかで、善良な行いを過去に行った人々が神を崇拝したり、崇拝を始めようとします。一方、悪事で成功している人々は、どのような地位にあっても、幻想エネルギーに翻弄されているために至高者に近づくことはできません。ですから、善良な人がある災難に遭遇した場合、主の蓮華の御足に救いを求める以外に方法はありません。主の蓮華の御足をいつも心に思うことは、誕生と死からの解放の準備をしていることを意味しています。ですから、いわゆる災難とされる状況に置かれても、敬虔な人々はそれを喜んで迎えます。その機会が主を思い出す機会を与え、そのことが解脱につながるからです。
無知の海を渡るのに最適な船である主の蓮華の御足に身を委ねた人は、子牛のひづめの足跡を飛び越えるほど簡単に、解脱を達成することができます。そのような人は主の住処に住む資格があり、歩く度に危険が待ち受けている物質界とは何の関係もありません。
主は『バガヴァッド・ギーター』で、物質界は災難だらけの危険な場所だと断定しています。知性に欠ける人は、物質界そのものが災難に満ちているという実態を知らずに、いろいろな計画を立てて災難を制御しようとしています。至福にあふれた、全く災難のない主の住処のことも知りません。ですから、正気の人なら、どのような状況でも必ず発生する俗世間の災難に心を乱されずにいるべきです。避けられない不運に苦しめられつつも、私たちは精神的悟りを高めながら進まなくてはなりません。それが人間生活の使命だからです。精神魂そのものは、どのような物質的な災難も超越しているため、災難は現実にはありません。ある人は夢でトラに呑みこまれそうになって、その災難に絶叫するかもしれません。しかし実は、トラもいなければ、その苦しみもありません。ただの夢です。同じように、人生にある災難はどれも夢だと言われています。献身奉仕を通して主と関わることのできる幸運な人には全てが利益となります。9種類の献身奉仕のどの方法によってでも、主と接触することができれば、神の元に帰る道を一歩進んだことになるのです。