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第13章

ドリタラーシュトラ、宮殿を去る

sūta uvāca
viduras tīrtha-yātrāyāṁ
maitreyād ātmano gatim
jñātvāgād dhāstinapuraṁ
tayāvāpta-vivitsitaḥ

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シュリー・スータ・ゴースヴァーミーが言った。「ヴィドゥラは、巡礼地を巡りながら、偉大な聖者マイトレーヤから自己が目指すべき境地に関する知識を授かり、そしてハスティナープラに戻った。自分が望んだとおりに、その知識に精通するようになったのである」

解説

ヴィドゥラ 『マハーバーラタ』の歴史に登場する重要人物のひとり。ヴィヤーサデーヴァが、マハーラージャ・パーンドゥの母親であるアンビカーの女中との間にもうけた人物です。ヤマラージャの化身でもあります。マンドゥーカ・ムニに呪われ、シュードラとして再誕しました。この背景には次のような話があります。
昔、マンドゥーカ・ムニのすみかに数人の盗賊が逃げ込みましたが、隠れているところを警察に捕らえられ、当然マンドゥーカ・ムニも一緒に捕らえられました。警察長官は、ムニには特に厳しく、磔刑(ルビ:たっけい)を言い渡します。刑が執行されようとするその時、王の元に一報が入り、相手が偉大なムニであることを知ります。王は執行を中断させ、臣下の間違いを自ら謝罪しました。ムニはすぐさま、生命体の運命を定めているヤマラージャのもとに向かいます。ムニから事の真相を聞かれたヤマラージャは、昔、ムニが子どもの頃、わらの切っ先でアリを突き殺し、その行為ゆえにこのような窮地に陥る定めにあった、と説明します。ムニは何も知らない子どもを罰するのはヤマラージャの理不尽な判断であると言い、ヤマラージャをシュードラになるように呪います。シュードラとして再誕したヤマラージャがこのヴィドゥラであり、ドリタラーシュトラとマハーラージャ・パーンドゥの兄弟にあたります。しかしビーシュマデーヴァは、王家に生まれたこのシュードラの子に他の甥(ルビ:おい)たちと同じように接し、やがてヴィドゥラは、これもやはりブラーフマナとシュードラーニーの間に生まれた少女と結婚します。ヴィドゥラは父(ビーシュマデーヴァの兄弟)の遺産を受け継ぐことはありませんでしたが、兄にあたるドリタラーシュトラから充分な財産を受け取りました。ヴィドゥラは兄に大変執着し、いつも正しい道に導こうとしていました。クルクシェートラの戦いという同胞間による戦争の時でも、パーンドゥの息子たちを公平に扱うようくり返し嘆願したのですが、ドゥルヨーダナは叔父の言葉を余計な口出しと考え、侮辱さえしました。この侮辱がきっかけとなり、ヴィドゥラは巡礼に出て、旅先で出会ったマイトレーヤから教えを授かります。
yāvataḥ kṛtavān praśnān
kṣattā kauṣāravāgrataḥ
jātaika-bhaktir govinde
tebhyaś copararāma ha

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さまざまな質問をし、主クリシュナへの超越的な愛情奉仕に心を定めたヴィドゥラは、マイトレーヤ・ムニへの質問を終えた。

解説

ヴィドゥラはマイトレーヤ・ムニから、人生の至高善は、ゴーヴィンダ、すなわち献身者をあらゆる面で満足させる主シュリー・クリシュナへの崇高な愛情奉仕に立脚することであると確信した後、質問を止めました。物質界にいる生命体、すなわち束縛された魂たちは、感覚を物質的に使うことで幸せを求めていますが、それで満足できるわけではありません。そこで、経験や哲学的推論に頼ったり、頭脳を駆使したりして至高の真理を求めるようになります。しかしそこまで到達しても、究極のゴールが見つからなければ、再び物質的な活動に逆戻りし、博愛主義や利他主義の活動を始めるのですが、それで満足できるわけでもありません。果報的活動にしても、無味乾燥な哲学的推論にしても、満足感は得られません。なぜなら生命体はもともと至高主シュリー・クリシュナの永遠の召使いだからです。ヴェーダ経典もその究極目標にたどり着くための教えを提供しており、『バガヴァッド・ギーター』(15-15)も、この点を確証しています。
探求心旺盛な生命体は、ヴィドゥラのように、マイトレーヤのような本物の精神指導者に近づかなくてはなりませんし、知性を使ってカルマ(果報的活動)、ジュニャーナ(至高真理への哲学的探求)、そしてヨーガ(精神的悟りへと結びつく方法)について全てを理解しなくてはなりません。精神指導者に真剣な質問をしようとしない人は、見せかけの精神指導者を受け入れても意味がありませんし、また精神指導者と言われる人でも、弟子を主シュリー・クリシュナへの超越的な愛情奉仕に導くことができなければ、師のふりをすべきではありません。ヴィドゥラはマイトレーヤという真の精神指導者から教えを授かることができ、人生の究極目標、すなわちゴーヴィンダへのバクティを達成しました。この境地に至れば、精神的に高められる方法を知り尽くしたことになります。
taṁ bandhum āgataṁ dṛṣṭvā
dharma-putraḥ sahānujaḥ
dhṛtarāṣṭro yuyutsuś ca
sūtaḥ śāradvataḥ pṛthā
gāndhārī draupadī brahman
subhadrā cottarā kṛpī
anyāś ca jāmayaḥ pāṇḍor
jñātayaḥ sasutāḥ striyaḥ

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宮殿に戻ってきたヴィドゥラを見た人々、つまりマハーラージャ・ユディシュティラ、弟たち、ドリタラーシュトラ、サーティヤキ、サンジャヤ、クリパーチャーリャ、クンティー、ガーンダーリー、ドラウパディー、スバドラー、ウッタラー、クリピー、カウラヴァ家の多くの妻たち、そして子をともなった多くの女性たちが、歓喜に沸いて駆け寄って彼を迎えた。それは長い間意識を失っていた人がよみがえるかのようだった。

解説

ガーンダーリー 歴史上まれにみる理想的な貞節な女性。ガーンダーラ(現在のカブール地方のカンダハル)の王マハーラージャ・スバラの娘で、未婚のとき主シヴァを崇拝していました。主シヴァは、優れた夫を求めるヒンドゥー社会の女性たちによく崇拝されています。ガーンダーリーは主シヴァを満足させ、100人の息子をもうけることができるというシヴァの恩恵を受けたことによって、ドリタラーシュトラが盲目であったにもかかわらず、彼と婚約しました。ガーンダーリーは、嫁ぐ相手が盲人であることを知り、生涯を通じて伴侶に従うために自身も盲目として生きる決意をします。目に絹の布を幾重にも巻き、兄のシャクニに導かれてドリタラーシュトラに嫁いだのでした。その時代で最も美しい女性だった彼女は、女性特有の美質も充分に備え、カウラヴァ家の誰からも慕われました。しかし、優れた気質に恵まれる一方で、女性特有の弱点も備えていました。クンティーが男児を出産したことに嫉妬したのです。どちらも同じ時期に身ごもっていたのですが、先にクンティーが男児を出産したことでガーンダーリーは強い怒りを抑えることができず、自分の腹を激しく叩きました。結果として生まれてきたのは肉の塊だけでしたが、ヴィヤーサデーヴァの献身者だったことから、ヴィヤーサデーヴァの指示でその肉の塊は100個に分けられ、やがてそれぞれが健康な男児として成長していきました。こうして、100人の子の母になるという望みは満たされ、高尚なその地位にある女性にふさわしい形で子どもたちを育てました。クルクシェートラの戦いという陰謀が企てられている間、彼女はパーンダヴァ兄弟との戦いを望んでいませんでした。むしろ、親族同士の争いを引き起こした夫のドリタラーシュトラを非難しています。パーンドゥの子どもたちも自分の子なのですから、国をふたつに分けて共有することを希望していたのです。戦争が終わり、我が子たちが全て戦死してしまったことを深く悲しみ、ビーマセーナとユディシュティラを呪おうとしましたが、ヴィヤーサデーヴァに止められます。我が子ドゥルヨーダナとドゥフシャーサナの死を悼む言葉を主クリシュナの前で切々と訴える様は実に哀れで、主は彼女を崇高な言葉で慰めるのでした。カルナの死も同じように悼み、カルナの妻の悲しみを主に訴えました。シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは、戦死した後に天国に送られた息子たちをガーンダーリーに見せ、彼女の心を慰めました。やがて、ガンジス川河口近くのヒマラヤ山脈の密林で夫と共に他界します。山火事のなかで身を焼き、死んだのです。マハーラージャ・ユディシュティラが叔父と叔母の葬式をいとなみました。
プリター マハーラージャ・シューラセーナの娘、そして主クリシュナの父であるヴァスデーヴァの妹。幼い頃マハーラージャ・クンティボージャの養女になり、以来クンティーと呼ばれるようになりました。人格神がもつ成功の力の化身です。天界の上位にある惑星の住人たちは、よくクンティボージャの宮殿を訪ねていましたが、クンティーはその客人たちをもてなす役を担っていました。聖者ドゥルヴァーサー・ムニという神秘家にも仕え、誠実な彼女の奉仕に満足したムニは、どのような神々でも望み通りに呼び寄せられるマントラを彼女に授けます。あるとき興味本位で太陽神を呼び、呼びかけに応じた太陽神はすぐに姿を現し、彼女との関係を求めましたが、クンティーはその申し出を断わりました。太陽神は、自分と関係を持っても処女を失うことはないと約束したため、彼女は太陽神の申し出を受け入れました。そしてクンティーは身ごもり、カルナが生まれます。太陽神の恩恵によって、彼女は再び処女になりましたが、両親を恐れ、生まれたばかりのカルナを放棄しました。その後自ら夫を選ぶ時、マハーラージャ・パーンドゥが夫になることを望みました。結婚後、パーンドゥは家族生活から離れて放棄階級に入ろうとします。クンティーは反対しましたが、マハーラージャ・パーンドゥは最終的に、彼女が夫にふさわしい人物たちを呼び寄せて息子たちを授かることを許しました。クンティーはその申し出を最初は断りましたが、パーンドゥが明快な例を挙げたことで、最終的に同意しました。クンティーは、ドゥルヴァーサー・ムニから授かったマントラの力でダルマラージャを呼び、その結果ユディシュティラが生まれました。ヴァーユ(空気)の神を呼び、ビーマが生まれました。天界の王インドラを呼び、アルジュナが生まれました。他のふたり、ナクラとサハデーヴァはパーンドゥがマードリーとの間にもうけた息子たちです。やがて、マハーラージャ・パーンドゥが若くして他界した時、クンティーはあまりの悲しみに気を失いました。ふたりの妻、すなわちクンティーとマードリーは話し合い、クンティーが5人の幼いパーンドゥ兄弟を養うために生き残ることに決め、マードリーは死んだ夫の後を追って命を絶つサティーの儀式をし、他界しました。ふたりの同意は、居合わせたシャタシュリンガを含む偉大な聖者たちによって認められています。
のちに、パーンダヴァ兄弟がドゥルヨーダナの策略によって王国から追放された時、クンティーは彼らと行動を共にし、その苦難の日々を同じように耐え忍びました。森で暮らしていたある日、女性の悪魔ヒディンバーがビーマを夫にほしいと申し出ます。ビーマは断りましたが、彼女がクンティーとユディシュティラにすがると、ふたりはビーマに結婚して子をもうけるよう命じました。ふたりは結ばれてガトートカチャが生まれ、この子は父と共にカウラヴァ軍と勇敢に戦いました。また同じ時期にバカースラという悪魔に苦しめられていたブラーフマナの家で世話になっていたのですが、クンティーはビーマに、そのブラーフマナを守るためにバカースラを殺すよう命じました。またユディシュティラに、パーンチャーラデーシャに行くよう勧めました。このパーンチャーラデーシャでアルジュナがドラウパディー(別名パーンチャーリー)をめとったのですが、クンティーの命令で、パーンダヴァ兄弟の5人全員が彼女の夫になりました。5人のパーンダヴァ兄弟との結婚式にはヴィヤーサデーヴァも同席しています。クンティーデーヴィーは、最初に産んだカルナを忘れることは決してなく、カルナがクルクシェートラの戦場で死ぬと大いに嘆き悲しみ、5人の息子たちにマハーラージャ・パーンドゥと結婚する前に産んだ長男であることを打ち明けました。クルクシェートラの戦争が終わり、主が自分のふるさとに帰って行こうとするときにクンティーは祈りを捧げていますが、その素晴らしい内容が残されています。のちに、ガーンダーリーと共に森に入り、厳しい苦行をしました。食事は30日毎に食べるだけで、やがて最後は深い瞑想に入り、山火事で灰となりました。
ドラウパディー マハーラージャ・ドルパダの最も貞節な娘で、インドラの妻であるシャチーの部分的化身とされています。マハーラージャ・ドルパダは、聖者ヤジャの指揮下で盛大な供犠を行いました。最初の供物を捧げたときにドリシュタデュムナが産まれ、2番目の供物を捧げたときに、ドラウパディーが産まれました。ですから彼女はドリシュタデュムナの妹であり、パーンチャーリーという名前でも知られています。5人のパーンダヴァ兄弟は彼女を共通の妻としてめとり、それぞれ息子をひとりずつ授かっています。マハーラージャ・ユディシュティラはプラティビット、ビーマセーナはスタソーマ、アルジュナはシュルタキールティ、ナクラはシャターニーカ、サハデーヴァはシュルタカルマーをそれぞれ授かりました。ドラウパディーは非常に美しい女性で、その美しさは義理の母であるクンティーに匹敵するほどでした。産まれる時、どこからともなく声が響き「クリシュナーと呼ばれることになる」とお告げがありました。またその時多くのクシャトリヤを殺す、とも予言されています。シャンカラの祝福の力で、優れた質を等しく備えた5人の夫を授かりました。ドラウパディーが自ら婿を選ぶと決めた際、全世界から王子や国王が招かれました。パーンダヴァ兄弟と結婚したのは森での追放生活の時でしたが、国に戻ってきた時、マハーラージャ・ドルパダは兄弟たちに持参金として莫大な富を与えました。彼女もドリタラーシュトラの義理の娘たちも彼女を暖かく迎え入れました。彼女自身を掛けた賭博で負けたために無理やり集会場に引き出され、ビーシュマやドローナといった年長者の前でドゥフシャーサナによって裸にされそうになりました。主クリシュナの偉大な献身者だったドラウパディーは主に祈り、その祈りを聞いた主は、尽きることのない布となって彼女の体を包み、彼女は侮辱から救われたのでした。ジャタースラという名前の悪魔が彼女を誘拐したことがありましたが、2番目の夫、ビーマセーナが悪魔を殺し彼女を救いました。彼女自身も主クリシュナの恩恵によって、パーンダヴァ兄弟がマハリシ・ドゥルヴァーサーに呪われるところを救っています。パーンダヴァ兄弟がヴィラータ王の宮殿に名を明かすことなく住んでいた時、悪魔のキーチャカがドラウパディーの美しさに魅了されましたが、ビーマに殺され彼女は救われました。5人の息子をアシュヴァッターマーに殺されたドラウパディーは嘆き悲しみました。生涯の終わり、彼女はユディシュティラたちと隠棲の旅に出ますが途中で倒れました。ユディシュティラは彼女の死亡の原因を説明していますが、彼が天界の惑星に入った時、天上の幸運の女神としてドラウパディーが壮麗な姿となって住んでいる様を目の当たりにしました。
スバドラー ヴァスデーヴァの娘、そして主クリシュナの妹。ヴァスデーヴァの愛しい娘であっただけではなく、クリシュナとバラデーヴァの愛しい妹でもありました。このふたりの兄弟と妹は、プリーにある有名なジャガンナータ寺院で祭られていて、今でもその寺院は毎日多くの巡礼者が訪れます。この寺院は主が日食のときにクルクシェートラを訪ね、そこでヴリンダーヴァナの住民たちと再会した出来事を追憶するために建てられたものです。このときのラーダーとクリシュナの出会いの話は聞く者の涙を誘い、主シュリー・チャイタニヤは、ジャガンナータ・プリーで、ラーダーラーニーの恍惚の境地で、常に主シュリー・クリシュナへの思いに没頭しています。アルジュナがドヴァーラカーにいたとき、スバドラーを女王として迎えたいと思い、その気持ちを主クリシュナに伝えました。シュリー・クリシュナは、兄の主バラデーヴァが別の場所で彼女の結婚を進めていることを知っており、バラデーヴァの計画に背くことを好まなかったため、アルジュナにスバドラーを誘拐するよう助言します。こうして、結婚式の一行がライヴァタの丘に向かう途中、アルジュナはシュリー・クリシュナの計画に従ってスバドラーを誘拐しました。シュリー・バラデーヴァは激怒し、アルジュナを殺そうとしましたが、主クリシュナがアルジュナを許すよう説得します。こうして、スバドラーはアルジュナと正式に結婚することができ、ふたりからアビマニユが誕生しました。アビマニユは若くして死亡し、スバドラーの悲しみは計り知れないものでしたが、パリークシットが誕生したことをうれしく思い、彼女の悲しみは癒されました。
pratyujjagmuḥ praharṣeṇa
prāṇaṁ tanva ivāgatam
abhisaṅgamya vidhivat
pariṣvaṅgābhivādanaiḥ

訳語

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体に命が戻ってきたかのように、彼らはたいそう喜んでヴィドゥラに駆け寄った。互いに抱擁し、お辞儀をしながら挨拶を交わした。

解説

意識がなければ手足は動きません。しかしその意識が戻ってくれば、手足も感覚も再び動き出し、体の存在そのものが喜びに包まれます。カウラヴァ家の人々にとってかけがえのないヴィドゥラが長く宮殿にいなかったことから、人々はその間何もしていないような心境にありました。彼らは皆、ヴィドゥラとの別れを強く感じていたので、彼が宮殿に戻ってきたことを喜んだのです。
mumucuḥ prema-bāṣpaughaṁ
virahautkaṇṭhya-kātarāḥ
rājā tam arhayāṁ cakre
kṛtāsana-parigraham

訳語

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長かった離別の不安と悲しみを思い起こし、誰もが感極まってむせび泣いた。やがてユディシュティラ王がヴィドゥラの座る場所を、そして歓迎の準備をした。
taṁ bhuktavantaṁ viśrāntam
āsīnaṁ sukham āsane
praśrayāvanato rājā
prāha teṣāṁ ca śṛṇvatām

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ヴィドゥラは心ゆくまで食べ、充分に休息をとったあとゆったりと席に座った。そして王がヴィドゥラに話しかけ、集まった人々もその話に耳を傾けた。

解説

ユディシュティラ王は客人を迎えることが非常に上手で、家族を迎えるときでさえもその例に漏れません。ヴィドゥラは家族の人々に暖かく迎えられ、互いに抱擁したりお辞儀を交わしたりしました。まず沐浴や素晴らしい食事が用意され、そのあと充分に休む時間も提供されました。ヴィドゥラが休息をとったあと、心地よい席が用意され、王が家族や知人に、これまでに起こったことを話し始めました。それが愛する友を迎える正しい方法です。インドの道徳律によると、招かれた敵でさえも恐れを感じないよう、適切にもてなさなくてはなりません。敵は自分の敵を恐れるものですが、敵を自宅に招いたとき、その敵がこちらに恐怖心を感じないようもてなすべきです。これは、ある家庭に招かれた人物は、その家庭の親戚のように迎えられるべきだということであり、この節のように、家族の人たち全ての幸せを願っていたヴィドゥラの場合は言うまでもありません。こうして、ユディシュティラ・マハーラージャは家族の前で話を始めました。
yudhiṣṭhira uvāca
api smaratha no yuṣmat-
pakṣa-cchāyā-samedhitān
vipad-gaṇād viṣāgnyāder
mocitā yat samātṛkāḥ

訳語

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マハーラージャ・ユディシュティラが言った。「叔父様。母を、そして私たちを、ありとあらゆる災難からいつも守っておられたことを覚えておいででしょうか。あなたの特別な愛情が、鳥の翼のように私たちを毒や放火から救ってくれたのです」

解説

マハーラージャ・パーンドゥが若くして他界したため、未亡人となった母、そして幼い子どもたちは、特にビーシュマデーヴァやマハートマー・ヴィドゥラといった家族の年長者たちに見守られる立場になりました。ヴィドゥラは、パーンダヴァ兄弟たちが置かれていた政治的立場がよくわかっており、彼らを支えていました。ドリタラーシュトラもパーンドゥの幼い子たちを我が子と等しく世話していたのですが、国の支配者の座に自分の息子たちを就かせたいがために、パーンドゥの子孫の滅亡をもくろんでいたひとりでもありました。マハートマー・ヴィドゥラはドリタラーシュトラと彼の仲間のこの策謀を見抜いていたので、兄のドリタラーシュトラに誠実に仕えてはいたものの、息子たちだけに目をかける政治的画策を快く思っていませんでした。だからこそ、なんとかしてパーンダヴァ兄弟と母を守ろうとしていたのです。ですから、どちらにも愛情をかけていたとはいえ、彼の愛情はパーンダヴァ兄弟たちにより強く向けられていました。そして、ドゥルヨーダナがいとこたちを陥れようとする良からぬ画策を厳しくとがめていたのも、彼がどちらの甥たちにも等しく愛情をかけている証拠でした。そして、息子たちの策略をあおる兄を厳しく戒める一方で、パーンダヴァ兄弟の身を守ることに常に注意を払っていました。宮殿内でヴィドゥラが見せていたこのような挙動から、彼がパーンダヴァたちを特に愛していたことは誰の目にも明らかでした。マハーラージャ・ユディシュティラはここで、ヴィドゥラが宮殿を離れて長い巡礼の旅に出る前に起こった出来事について話しています。家族間で勃発したクルクシェートラの戦いという悲劇が終わった後も、成長した甥たちに同じように優しく、特別な愛情を注いでくれたことを、ヴィドゥラに思い起こさせたのです。
クルクシェートラの戦いが始まる前、ドリタラーシュトラは秘密裏に、甥たちを殺そうと考えていました。そして、プローチャナに命じてヴァーラナーヴァタにラックで家を建てさせ、その家に弟家族をしばらく住まわせることにしました。パーンダヴァ兄弟たちが、宮殿の人々とその地に向かおうとしていた時、ヴィドゥラが機転を利かせ、ドリタラーシュトラが密かに考えていた策略を知らせました。このときの様子は『マハーバーラタ』(アーディ・パルヴァ 第114節)で詳しく述べられています。ヴィドゥラはユディシュティラにそれとなくこう言います。「鉄または他の材料から作られたものではない武器さえも、敵を殺すには十分に鋭い武器となりえる。そしてその事を知るものは、決して殺されることはないだろう」 これは、パーンダヴァ兄弟たちは殺されるためにヴァーラナーヴァタに送られようとしていることを意味し、ヴィドゥラはこうしてユディシュティラに、新しい家ではくれぐれも油断してはならない、と警告したのです。またそれとなく火を引き合いに出して、「火は魂を焼き尽くすことはできないが、肉体を滅ぼすことはできる。しかし魂を守る者は生き延びる」と言います。クンティーは、ヴィドゥラとマハーラージャ・ユディシュティラの謎めいたこの会話の意味がよく分からず、何を話していたのか後で息子に聞きました。するとユディシュティラはヴィドゥラの話からすると、自分たちが行こうとしている家は火に包まれるのかもしれない、と答えました。やがてヴィドゥラは変装してパーンダヴァ兄弟の前に現れ、月が欠けて14日目に、家の掃除人が放火することを知らせました。ドリタラーシュトラは、パーンダヴァ兄弟を母親もろとも殺そうとたくらんでいたのです。ヴィドゥラの警告を聞いたパーンダヴァ兄弟は、家の下に掘られたトンネルから脱出したため、彼らが逃れたことはドリタラーシュトラには、わからずじまいでした。カウラヴァたちは、パーンダヴァ兄弟が焼け死んだと確信し、ドリタラーシュトラは彼らの葬儀を大変な喜びをもって行いました。宮殿の人々は悲しみに打ちひしがれて喪に服しましたが、ヴィドゥラだけは真相を知っていたため、涙を見せることはありませんでした。パーンダヴァ兄弟がどこかで生き延びていることを知っていたのです。このような悲惨な出来事が繰り返し起こりましたが、その度にヴィドゥラは彼らを守り、その一方では兄のドリタラーシュトラが恐ろしい陰謀などを企てることがないように説得していました。鳥が翼の下で卵を守るように、ヴィドゥラはパーンダヴァたちをいつも愛護していたのです。
kayā vṛttyā vartitaṁ vaś
caradbhiḥ kṣiti-maṇḍalam
tīrthāni kṣetra-mukhyāni
sevitānīha bhūtale

訳語

翻訳

各地を旅していたとき、どのように暮らしておられたのですか。どのような聖地や巡礼地で奉仕をされていたのでしょうか。

解説

ヴィドゥラは家族の問題、特に政治的な陰謀から逃れるために宮殿を出て行きました。自分の祖母について軽口をたたくのは度が過ぎたことではなかったとはいえ、すでに述べられたように、ドゥルヨーダナが彼をシュードラの息子と呼んだことは、ヴィドゥラを侮辱することとなりました。ヴィドゥラの母はシュードラーニーでしたが、ドゥルヨーダナの祖母でもあり、祖母と孫の間では軽い冗談は許されることもあります。しかし、口にされたことがまぎれもない事実だったことから、ヴィドゥラには不快な冗談に思え、まともに侮辱されたと受けとったのです。その思いゆえに、父親の家を去り、放棄階級を受け入れる決意をしたのでした。このような準備段階をヴァーナプラスタ・アーシュラマ、すなわち地上の聖地や巡礼地を旅するための隠遁生活といいます。インドの聖地には、ヴリンダーヴァナ、ハルドワル、ジャガンナータ・プリー、プラヤーガなどがあり、そこには偉大な聖者たちが数多く住み、精神的に高まろうとする意欲を持つ人々が、無料で食事ができる施設が現在でもあります。マハーラージャ・ユディシュティラは、ヴィドゥラがそのような無料の食堂(チャトゥラ)に頼っていたのかどうか知りたいと思っていました。
bhavad-vidhā bhāgavatās
tīrtha-bhūtāḥ svayaṁ vibho
tīrthī-kurvanti tīrthāni
svāntaḥ-sthena gadābhṛtā

訳語

翻訳

主よ。あなたのような高尚な献身者は、聖地の権化でもあります。人格神を胸に抱いておられるからこそ、どのような場所でも聖地に変えてしまうのです。

解説

人格神は、さまざまな力を通してあらゆる場所に遍在しています。それは、電力が空間全体に浸透している様に似ています。電気が電球を通じて現れるように、主が遍在していることは、ヴィドゥラのような純粋で無垢な献身者によって知覚され、また表されます。ヴィドゥラのような純粋な献身者は、主の存在をいつでも、どこにでも感じています。彼は、一切万物を主の力の中に、主を一切万物の中に見ることができるのです。地球各地にある聖地は、主の無垢な献身者の存在が作り出す精神的な力にあふれた環境を通して、人間の汚れた意識を清めるためにあります。聖地を訪れる人は、その地に住む純粋な献身者を探し求め、教えを授かり、その教えを実生活に応用し、やがて究極の解放、すなわちふるさとへ、神の元へ返る準備をしなくてはなりません。聖地の巡礼に行くのは、ガンジス川やヤムナー川でただ沐浴したり、その地に建てられた寺院を訪ねたりするためではありません。人格神に仕えることだけを生涯の望みとしているヴィドゥラの代表者を見つけなくてはならないのです。人格神は、果報的活動や夢物語の推論とは無縁の、純真無垢な奉仕をしている純粋な献身者と、いつも行動を共にしています。彼らは、特に聞いて唱えるという方法を通して主に真実の奉仕をしています。そして、権威者から話を聞き、主の栄光を唱え、歌い、そして主の栄光について書きつづります。マハームニ・ヴィヤーサデーヴァはナーラダから聞き、そして執筆を通して唱えました。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは父親から学び、学んだことをパリークシットに説明しました。それが『シュリーマド・バーガヴァタム』を学ぶ方法です。ですから、主の純粋な献身者は、自分の行動を通してどのような場所でも巡礼地に変えることができ、その聖地は彼らがいるからこそ、聖地と呼ばれるにふさわしい場所になります。その純粋な献身者は、どれほど汚れた場所でも神聖化させることができるため、聖地で聖職者の仕事をしながら、不審なことをする不純な人間たちが不浄にしてしまった聖地も、純粋な献身者によって浄化されるのです。
api naḥ suhṛdas tāta
bāndhavāḥ kṛṣṇa-devatāḥ
dṛṣṭāḥ śrutā vā yadavaḥ
sva-puryāṁ sukham āsate

訳語

翻訳

叔父様、あなたはドヴァーラカーに行かれたはずです。その聖地には、主シュリー・クリシュナへの奉仕にいつも没頭している友や私たちの幸せを願うヤドゥ家の人々が住んでいます。あの方たちに会われ、あるいはあの方たちについて話を聞かれたのではないでしょうか。皆、幸せに暮らしているのでしょうか?

解説

この節にあるクリシュナ・デーヴァターハという言葉は、主クリシュナへの奉仕にいつも打ち込んでいる人々を指し、とても重要です。主クリシュナのこと、そして主クリシュナが繰り広げたさまざまな活動について聞くことに没頭しているヤーダヴァ家とパーンダヴァ家の人々は、ヴィドゥラと同じように、全て純粋な献身者です。ヴィドゥラは主への奉仕に完全に身を委ねるため宮殿を去ったのですが、ヤーダヴァ家とパーンダヴァ家の人々は常に主クリシュナへの思いに没頭していました。ですから、彼らの純粋な献身奉仕の質には違いはありません。家にとどまっていようとあるいは家を出ていこうと、純粋な献身者の本当の資質とは、クリシュナを好意的に思っていることにあります。それはすなわち、主クリシュナが絶対人格神であることがよく分かっている境地です。カンサ、ジャラーサンダ、シシュパーラをはじめとする悪魔たちも、主クリシュナへの思いに没頭していましたが、別の意味で、つまり敵意の目で、クリシュナを桁外れの力を持つ男としてしか見ていませんでした。ですから、カンサやシシュパーラは、ヴィドゥラ、パーンダヴァ兄弟、ヤーダヴァ家の人々のような純粋な献身者と同じ立場にいたわけではありません。
マハーラージャ・ユディシュティラも、主クリシュナとドヴァーラカーに住む人々に常に思いを馳せていました。その思いがなければ、ヴィドゥラからこのようなことを聞こうとはしなかったはずです。ですからマハーラージャ・ユディシュティラは王国に関わる世事に関わってはいたものの、ヴィドゥラと同じような主クリシュナへの愛情を備えていた人物だったのです。
ity ukto dharma-rājena
sarvaṁ tat samavarṇayat
yathānubhūtaṁ kramaśo
vinā yadu-kula-kṣayam

訳語

翻訳

マハーラージャ・ユディシュティラに尋ねられたマハートマ・ヴィドゥラは、ヤドゥ家の消滅の知らせを除いて、これまで自ら体験してきたこと全てを語った。
nanv apriyaṁ durviṣahaṁ
nṛṇāṁ svayam upasthitam
nāvedayat sakaruṇo
duḥkhitān draṣṭum akṣamaḥ

訳語

翻訳

情け深いマハートマー・ヴィドゥラは、パーンダヴァ兄弟の悲嘆を見るのは忍びなかった。災難とは、自然の成り行きで生じるものであるから、その受け入れ難くつらい出来事を口にすることはなかった。

解説

『ニーティ・シャーストラ』(道徳律)では、人に苦痛をもたらす不快な事実を話してはならないとされています。苦しみは自然界の法則の成り行きで生じるものですから、そのような情報を広めることで苦しみを増大させるべきではありません。ヴィドゥラのような慈悲深い魂にとって、とりわけ愛するパーンダヴァ兄弟との関係においては、ヤドゥ家が滅亡したという耐え難い知らせを、どうしても口にすることができませんでした。だから、あえてその話をしなかったのです。
kañcit kālam athāvātsīt
sat-kṛto devavat sukham
bhrātur jyeṣṭhasya śreyas-kṛt
sarveṣāṁ sukham āvahan

訳語

翻訳

マハートマー・ヴィドゥラは、このように親族たちに神聖な人物のようにもてなされ、しばらくその地にとどまった。それはただ兄の心を改めるためであり、そうすることで周囲の人々全てに幸せをもたらすためである。

解説

ヴィドゥラのような神聖な人物は、天国の住人のようにもてなさなくてはなりません。当時は、天国の住人がマハーラージャ・ユディシュティラのような人物の家を訪れることがあり、またアルジュナなどの人間が、上位の惑星を尋ねたりすることもありました。ナーラダは物質宇宙でも、また精神界でさえ自由に往来できる宇宙飛行士でした。ナーラダでさえマハーラージャ・ユディシュティラの宮殿をよく訪れることがあったのですから、天上界の神々が訪ねてくるのはいうまでもありません。たとえ肉体を持っている現在の状態であっても惑星間の旅行が可能なのは精神的文化のおかげです。ですからマハーラージャ・ユディシュティラは、神々を歓待するようにヴィドゥラをもてなしたのでした。
マハートマー・ヴィドゥラは、すでに放棄階級を受け入れていたため、世俗の慰安を楽しむために両親の宮殿に戻ることはありませんでした。マハーラージャ・ユディシュティラからのもてなしは自らの慈悲心から受け入れていたのですが、宮殿にとどまった理由は、俗生活に強く執着し過ぎていた兄のドリタラーシュトラを救うことにありました。マハーラージャ・ユディシュティラとの戦争が終わり、国も子どもも失った彼は、あまりの虚脱感のためにマハーラージャ・ユディシュティラからの施しや厚意に甘んじても羞恥心さえ感じていませんでした。マハーラージャ・ユディシュティラからしてみれば叔父に、それ相応の世話をすることは妥当な振る舞いだったのですが、ドリタラーシュトラがその寛大さに甘んじるのは望ましいことではありません。ドリタラーシュトラは他になすすべがない、という思いで厚意を受け入れていたのです。ヴィドゥラはそんなドリタラーシュトラを目覚めさせるために彼を訪ね、より高い精神的な理解を授けようとしていました。達観した魂の義務は堕落した魂を救うことにあり、ヴィドゥラはそのためにやってきたのです。しかしまた、精神的な啓発に関する話は聞く人々に力を与えるものであり、ヴィドゥラは集まっていた家族全員の注意を引きつけ、彼らも喜びを感じながらじっと聞き入っていました。これが精神的悟りの道です。その教えは傾聴されなければなりませんし、また悟った魂が語っている教えは束縛された魂の眠っている心に訴えかけるのです。そして、その教えを聞き続けることによって、私たちは自己の悟りという完璧な境地に到達することができるのです。
abibhrad aryamā daṇḍaṁ
yathāvad agha-kāriṣu
yāvad dadhāra śūdratvaṁ
śāpād varṣa-śataṁ yamaḥ

訳語

翻訳

ヴィドゥラがマンドゥーカ・ムニに呪われ、シュードラとしての人生を生きていた間、アリャマーがヤマラージャの職務を務め、罪を犯した者たちを罰していた。

解説

ヴィドゥラはシュードラの女性の体から誕生したため、兄弟のドリタラーシュトラやパーンドゥと共に王室の一員として暮らすことができませんでした。ではなぜヴィドゥラは、博識な王やクシャトリヤというドリタラーシュトラやマハーラージャ・ユディシュティラのような人々に教えを授ける立場になることができたのでしょうか。その答えとしてまず言えるのが、確かにヴィドゥラはシュードラの生まれだと受け入れられていますが、リシ・マイトレーヤという権威によって精神的な啓発を受けるために世俗を放棄し、彼のもとで精神的知識を完全に習得したために、アーチャーリャすなわち精神的教師という地位に就く充分な能力を備えていた、という点です。シュリー・チャイタニヤ・マハープラブによれば、超越的な知識すなわち神の科学に精通している人物であれば、ブラーフマナやシュードラでも世帯者でもサンニヤーシーでも精神指導者になる資格があります。大政治家、そして道徳家でもあったチャーナキャ・パンディタが説いた一般的な道徳律によると、たとえシュードラにも劣る地位で生まれた人物からでも、私たちは教えを受け入れることができます。これが最初の答えです。さらに別の視点から、ヴィドゥラは本当はシュードラではなかった、という点が挙げられます。マンドゥーカ・ムニに呪われたことで、いわゆるシュードラとして100年間生きなくてはならなかったのです。ヴィドゥラは、12人のマハージャナのひとりであるヤマラージャの化身であり、ブラフマー、ナーラダ、シヴァ、カピラ、ビーシュマ、プラフラーダなど、気高い人物と同じ段階にいた人物です。ヤマラージャは、マハージャナのひとりとして、ナーラダ、ブラフマーや他のマハージャナたちのように、世界の人々に献身奉仕の文化を説く義務がありました。しかしヤマラージャは主によって地球からはるか遠く離れた惑星に遣わされ、堕落した魂を死後連れ去り、その者の罪に応じて罰を下します。このように、ヤマラージャには、犯罪者を罰する責任ある仕事から離れる時間はほとんどありません。世界には徳の高い人間よりも悪事を働く人間のほうが多く存在しています。ですからヤマラージャは至高主の権威ある代表者として、他の神々たちよりも果たすべき任務がたくさんあります。しかし、主の栄光を讃えたいと考えたヤマラージャは、主の意志によってマンドゥーカ・ムニに呪われ、ヴィドゥラという化身となってこの世界に現れ、偉大な献身者として懸命に活動しました。そのような献身者がシュードラやブラーフマナであるはずがありません。彼は、俗社会の区分というものを超越しているのです。いわば、人格神が猪の姿で化身してもその正体は、猪でもブラフマーでもないのと同じです。主は俗世界の全ての生き物を超えた存在です。主と、主の権威あるさまざまな献身者たちは、束縛された魂たちを呼び戻すために、時として数多くの下等な生き物としての役割を演じることがありますが、主も純粋な献身者も、常に超越的な境地にいます。ヤマラージャがこのようにヴィドゥラとなって化身した時、その職務はカシャパとアディティの息子のひとりであるアリャマーによって遂行されました。アーディッティヤとはアディティの子どもたちで、12人のアーディッティヤがいます。アリャマーは12人のアーディッティヤのひとりでしたから、ヤマラージャがヴィドゥラとして100年間職務を離れている間任務を代行するにふさわしい人物でした。結論として言えるのは、ヴィドゥラは決してシュードラではなく、最も純粋なブラーフマナよりも偉大な人物だった、という事実です。
yudhiṣṭhiro labdha-rājyo
dṛṣṭvā pautraṁ kulan-dharam
bhrātṛbhir loka-pālābhair
mumude parayā śriyā

訳語

翻訳

自分の王国を勝ち取り、高貴な家族の伝統を継ぐにふさわしい、ひとりの孫の誕生に恵まれたマハーラージャ・ユディシュティラは、一般市民を治めるのに長けた弟たちと協力し合いながら平和に国を統治し、非凡な富を満喫した。

解説

マハーラージャ・ユディシュティラとアルジュナは、クルクシェートラの戦いが始まる前から心を痛めていました。彼らは身近な者たちを殺したくはなかったものの、義務を果たすためにもその戦いは避けられませんでした。それが主シュリー・クリシュナの至高の意志だったからです。戦いが終わった後も、大勢の人々が殺されたことをマハーラージャ・ユディシュティラは悲しんでいました。実際、パーンダヴァ兄弟以外にクル家を継承する人がいなかったのです。ただひとつ残されていた希望が義理の娘ウッタラーのお腹にいた子で、アシュヴァッターマーに襲われたものの、主の恩恵でその子は救われました。こうして混乱していた状況を全て解決させ、国に平和な秩序をもたらした後、生き残った子、つまりパリークシットを見るマハーラージャ・ユディシュティラの心は満たされました。彼は幻想ではかない物質的な幸福に魅力を感じていなかったものの、普通の人として安らぎの気持ちを味わったのでした。
evaṁ gṛheṣu saktānāṁ
pramattānāṁ tad-īhayā
atyakrāmad avijñātaḥ
kālaḥ parama-dustaraḥ

訳語

翻訳

誰も克服できない永遠なる時は、家族の雑事にあまりに執着し、その思いにいつも没頭している者を、知らぬまに屈服させる。

解説

「私は幸せだ。私には全てがそろっている。銀行にも充分な預金がある。我が子たちにも充分な財産を与えることができる。私は成功したのだ。哀れな物もらいのサンニヤーシーは神にすがっているが、私のところに寄付を乞いに来るではないか。だから私は最高の神さえ凌ぐ人間なのだ」 これが永遠の時の移り変わりに盲目で、異常に執着心を持った世帯者たちの考えです。人の寿命はすでに定められており、至高の意志によって決定された時に反して1秒たりとも延ばすことはできません。そのような貴重な時は、特に人間なら注意深く使わなくてはなりません。なぜなら、知らぬ間に過ぎていく時がたった1秒であっても、重労働の結果で得る何千枚もの金貨と交換しても取り返すことはできないからです。人間生活の毎瞬間が、840万種の生物種の循環のなかで誕生と死を繰り返すという、人生の問題に終止符を打つためにあります。誕生、死、病気、老いに脅かされる物質の体は、生命体全ての苦しみの原因なのですが、生命体そのものは永遠です。生まれることも、死ぬこともありません。愚かな人々はこの問題を忘れています。人々は人生の問題をどう解決するのか全く知りません。生老病死という大きな問題を解決させることなく、永遠な時が知らぬ間に過ぎて、定められた寿命が刻一刻と減っていくことを知らないまま、家族に関わる一時的な物事に没頭しています。これを幻想と呼びます。
しかしその幻想は、主に献身奉仕をして目覚めている人に影響を与えることはできません。ユディシュティラ・マハーラージャを筆頭とするパーンダヴァ兄弟たちは、主シュリー・クリシュナへの奉仕に没頭しており、物質界の幻想の幸福にはほとんど魅力を感じていませんでした。これまで議論してきたように、マハーラージャ・ユディシュティラの心は主ムクンダ(解放を授けることのできる主)に定められていたので、天国で手に入れられるほどの快適な生活にさえ魅了されませんでした。ブラフマローカ惑星で得られる幸せも結局は一時的であり幻想だからです。生命体は永遠なので、神の王国という永遠の住まい(パラヴィヨーマ)でしか幸福にはなれません。その国に行く人は誕生、死、病気、老いが繰り返されるこの物質界に戻ってくることはありません。ですから、どれほど快適な生活を送ったり物質的な幸せを感じたりしても、それが永遠の生活を保証してくれないのであれば、永遠の生命体にとってはどれも幻想にすぎません。この事実をしっかり理解している人こそが賢いのであり、そのような博識な人物は本当に望ましい目標であるブラフマ・スカム、つまり絶対的な幸福を得るためであれば、どれだけ物質的に幸福でも、それを犠牲にすることができます。真の超越主義者はこの幸福に飢えています。お腹を空かせた人はどんなに快適でも、食べ物を口にできない生活では幸福になれないように、永遠で絶対的な幸福に飢えている人は、物質的な幸福をどれほど与えられても満足することはありません。ですから、この節で述べられている教えはマハーラージャ・ユディシュティラやその兄弟や母親に向けられているのではなく、ヴィドゥラが特に教えを授けるためにやってきた相手、すなわちドリタラーシュトラのような人々に用意されているのです。
viduras tad abhipretya
dhṛtarāṣṭram abhāṣata
rājan nirgamyatāṁ śīghraṁ
paśyedaṁ bhayam āgatam

訳語

翻訳

マハートマー・ヴィドゥラにはそれがよく分かってわかっていた。だからドリタラーシュトラにこう言ったのである。「王よ、すぐにここから出てください。一刻の猶予も許されません。恐怖心に取りつかれている自分をよく見つめるのです」

解説

ドリタラーシュトラであろうと、マハーラージャ・ユディシュティラであろうと、冷酷な死は誰も容赦しません。ですから、年老いたドリタラーシュトラに授けられたこの精神的な教えは、若いマハーラージャ・ユディシュティラにもあてはまることでした。実際、国王やその兄弟や母親を含む宮殿にいた誰もが、ヴィドゥラの話しに真剣に聞き入っていました。しかしヴィドゥラの教えは、あまりにも物質的になっていたドリタラーシュトラのために授けられていました。この節にあるラージャンは、特に重要な意味を込めてドリタラーシュトラに向けられています。ドリタラーシュトラは長男だったため、ハスティナープラの王として王座を受け継ぐはずでした。しかし盲目として生まれたことから、その正当な主張ができない立場にありました。こうして自分の不遇を嘆いていたのですが、その嘆きは弟のパーンドゥが死ぬことで償われることになります。弟パーンドゥは幼い子どもたちを残して他界し、ドリタラーシュトラは必然的に彼らを守る立場に置かれました。ところが、内心では自分が国王になり、その国をドゥルヨーダナを筆頭とする我が子たちに受け継がせたいと考えていました。王座への野心を胸に秘めたドリタラーシュトラは国王になるため、義理の兄弟であるシャクニと結託してあらゆる策略を企てました。しかし全てが主の意志で挫折し、人生の終末を迎えようとしていたのですが、人も財産も全て失ったというのに、マハーラージャ・ユディシュティラの最年長の叔父だったことから、国王の座に執着していました。マハーラージャ・ユディシュティラは、義務としてドリタラーシュトラを名誉ある王として養い、ドリタラーシュトラも、自分は国王である、あるいはユディシュティラ王の名誉ある叔父である、という幻想を抱きながら、残された限りある日々を安穏と過ごしていました。ヴィドゥラは、聖者の立場として、そして愛情を寄せるドリタラーシュトラの弟として、病と老いという眠りからなんとかしてドリタラーシュトラを目覚めさせなくてはならない、という責任を感じていました。だからこそヴィドゥラはドリタラーシュトラに皮肉をこめて、実際はそうではなかったのですが、「王よ」と呼びかけたのです。誰もが永遠なる時の召使いですから、物質界では誰も王になることはできません。王とは命令を下すことのできる人物です。名高いイギリス国王は時の流れに命令したかったのですが、時の流れはその命令を拒みました。ですから私たちは物質界のなかで偽りの国王として生きているのであり、ドリタラーシュトラもそのような偽りの地位のことを、そしてその時すでに迫っていた恐ろしい現実を迎えなくてはならないことを告げられたのです。ヴィドゥラは、刻々と迫ってくるその恐ろしい瞬間からドリタラーシュトラが救われるよう、すぐにここから立ち去るように、と言い放ちました。マハーラージャ・ユディシュティラにはこのような言葉は向けられませんでした。なぜならヴィドゥラは、マハーラージャ・ユディシュティラがこのもろい物質界の恐ろしさを知っていることも、やがて自分がいなくなった時に、ユディシュティラが正しく対応できることもよく分かっていたからです。
pratikriyā na yasyeha
kutaścit karhicit prabho
sa eṣa bhagavān kālaḥ
sarveṣāṁ naḥ samāgataḥ

訳語

翻訳

この恐ろしい状況は、物質界にいる誰であっても改善することはできません。主人よ、私たち全員に切迫しているのは、永遠なる時[カーラ]として現れた至高人格神なのです。

解説

死という過酷な手を阻止できる優れた力はどこにもありません。どれほど激しい身体上の苦痛にさいなまれていても、誰も死にたいとは思いません。いわゆる科学的知識が発達している現代でも、老いや死を解決できる治療法はありません。老いとは、残酷な時によって暗示されている死の到来の予告です。誰もこの予告を拒むことも、永遠なる時の、至高なる判決を断ることはできません。このことはドリタラーシュトラにはっきりと説明されました。なぜならドリタラーシュトラは以前から何度もヴィドゥラにそう命じてきたように、今回も差し迫っている恐ろしい状況に対する解決策をヴィドゥラに尋ねるかもしれないからです。しかしドリタラーシュトラがそう命じる前に、ヴィドゥラのほうから誰もその治療法を示すことはできないし、また物質界のどこにもその治療法は見つからない、と知らせました。そして、そのようなものは物質界には存在しないことから、死とは至高人格神そのものなのです。主ご自身も『バガヴァッド・ギーター』(10-34)でそのようにおっしゃっています。
誰も、そして物質界にあるどんなものも死を止めることはできません。ヒラニヤカシプは不死身になろうとし、全宇宙を震撼(ルビ:しんかん)させるほどの厳しい苦行をしたためブラフマー自身が彼を訪れ、その厳しい修行を思いとどまらせようとしました。ヒラニヤカシプはブラフマーに不死身の祝福を授けてくれるよう求めましたが、ブラフマーは宇宙にある頂点の惑星にいる自分でさえ死ぬのだから、不死身の恩恵を授けることなどできようか、と答えます。この宇宙の頂点にある惑星でさえ死は免れないのですから、ブラフマーが住むブラフマローカよりも質的にはるかに劣る他の惑星で不死身になれるわけがありません。永遠の時が影響を及ぼしている場所には、生老病死という一連の苦難も必ずあり、またその苦難は誰も克服することができません。
yena caivābhipanno ’yaṁ
prāṇaiḥ priyatamair api
janaḥ sadyo viyujyeta
kim utānyair dhanādibhiḥ

訳語

翻訳

至上のカーラ[永遠なる時]の支配下にある者は誰であろうと、自分にとってかけがえのない命を手放すことを余儀なくされるのですから、富、名声、子ども、家庭などはいうまでもありません。

解説

ある有名なインド人科学者は、計画策定の勤めに多忙な日々を過ごしていたのですが、ある重要な計画委員会の会議に出席する途中、突然、姿なき永遠の時に襲われ、命、妻、子どもたち、家、土地、財産など全てを手放す羽目になりました。インドの政治的動乱期では、インドがパキスタンとヒンドゥスタンに分割され、時という力によって、裕福で影響力のあった多くのインド人が命や財産や名誉を捨てなければなりませんでした。このような例は世界の、いや宇宙の歴史に幾度となく起こったことであり、どれも時の影響力が現れたものです。ですから、結論として言えるのは、時の力に対抗できる力を持つ生命体は宇宙にはいない、ということです。今まで数多くの詩人たちが時の影響を嘆く詩を書いてきました。時の力によって宇宙では何度も荒廃が起こり、それはどのような方法を使っても、誰にも止めることができませんでした。日々の生活のなかでも、私たちにはなすすべもなく、多くの物事がやって来ては去っていきますが、対策を講じることができないまま、苦しみ、そして耐えなくてはなりません。それが時の力の結果なのです。
pitṛ-bhrātṛ-suhṛt-putrā
hatās te vigataṁ vayam
ātmā ca jarayā grastaḥ
para-geham upāsase

訳語

翻訳

あなたの父上、兄弟、幸福を願う人々、息子たちは、すでに他界してこの世にはおりません。あなた自身も生涯の大半を使い果たし、その体も今や病弱となり、そして他人の家に住んでいます。

解説

ドリタラーシュトラ王は、冷酷な時に操られている現在の危機的境遇を知らされ、これまでの体験に照らして、自分の生涯に起こった出来事をもっと知的に見つめるべきだったことを思い知らされています。父ヴィチトラヴィーリャはドリタラーシュトラや彼の弟たちがまだ幼い時に他界しました。彼らが成長できたのはビーシュマデーヴァの世話と優しさのおかげでした。そして弟のパーンドゥも死にます。次にクルクシェートラの戦いで、自分の幸せを望んでくれるビーシュマデーヴァ、ドローナーチャーリャ、カルナ、その他多くの王と友人が、さらには100人の息子と孫息子たちも戦死しました。こうして仲間も財産も全て失い、今では、それまでさんざん苦しめてきた甥の恩情にすがって暮らしているのです。それでも王は、これほど不運な境遇にありながら、さらに生き延びたいと考えていたのです。ヴィドゥラがドリタラーシュトラに知らせたかったのは、誰であろうと、自分の行動と主の慈悲によって自分を守らなくてはならない、ということです。結果は至上の権威者に委ね、自分の義務を忠実に果たさなくてはなりません。どのような友も、子どもも、父親も、兄弟も、国も、誰であろうと至高主に守られていない人を守ることはできません。ですから、私たちは至高主の保護を求めなくてはなりません。人間生活はその保護を得るためにあるのです。ドリタラーシュトラは自分が置かれている危機的状況をこれから続く言葉によって、繰り返し思い知らされます。
andhaḥ puraiva vadhiro
manda-prajñāś ca sāmprataṁ
viśīrṇa-danto mandāgniḥ
sarāgaḥ kapham udvahan

訳語

翻訳

あなたは生まれた時から目が見えず、最近は耳も遠くなっている。物覚えはひどくなり、理解力も衰えている。歯は抜け、肝臓の機能は低下し、咳き込んで痰をたくさん出しておられる。

解説

ドリタラーシュトラの体にはすでに老いの兆しが現れており、迫っている死期を警告するためにその症状が一つひとつ指摘されているのですが、愚かなことに、ドリタラーシュトラは自分の未来を心配することは全くありませんでした。ドリタラーシュトラの身体についてヴィドゥラが指摘した兆候をアパクシャヤといい、これは死という最期の一撃の直前に現れる、肉体の縮小を指します。肉体は誕生し、発育し、留まり、他の肉体を作り、減少し、そして消滅します。しかし愚かな人々は、いつかは消滅する体を永遠の居場所にしようとし、財産、子ども、社会、国などが自分を守ってくれる、と考えています。そのような愚かな考えに支えられた彼らは、はかない体を捨てて新しい体に入り、そして新しい社会、友人関係、愛情関係を築き、再びその関係を捨てる羽目に陥ることをすっかり忘れ、束の間の仕事に追われています。自分の永遠の正体を忘れ、愚か者のように一時的な仕事のために必死で働き、一番大切な義務を忘れ去っているのです。神聖な気質を備えた人物やヴィドゥラのような聖者は、そのような愚かな人々に向かって現実を説いて気づかせようとします。しかし人々は見せかけのサードゥや物欲を満たしてくれるいかにも聖者風の人間たちは歓迎するというのに、本物のサードゥや聖者を社会の寄生虫のように考え、彼らの神聖な言葉に耳を傾けることを拒否します。ヴィドゥラはドリタラーシュトラの間違った感情を喜ばせるような聖者ではありません。現実をありのままに正しく指摘し、そのような大きな不幸から救われる方法を教えたのです。
aho mahīyasī jantor
jīvitāśā yathā bhavān
bhīmāpavarjitaṁ piṇḍam
ādatte gṛha-pālavat

訳語

翻訳

ああ、生き続けようとする生命体の望みはなんと強いことか。まさに、あなたは飼い犬のように生きながら、ビーマが食べ残した食物を食べているのです。

解説

サードゥたる者は、王や裕福な人々に取り入って快適な生活を保証してもらおうなどと思うべきではありません。サードゥは人生の赤裸々な真理を世帯者に説き、彼らが物質存在という危険な生涯から目覚めるよう導かなくてはなりません。ドリタラーシュトラは、家庭生活に執着している高齢者の典型と言えます。無一文になったというのに、パーンダヴァ兄弟の家で快適に暮らそうとしていました。兄弟たちのなかで特にビーマの名前が挙げられています。これは、ドリタラーシュトラの息子たちのなかでも、名高いドゥルヨーダナとドゥフシャーサナを、ビーマが殺したからです。悪評高く非道な行いのために、特にドリタラーシュトラにとって大切な存在だったふたりをビーマが殺したので、ここで特に彼のことが述べられているのです。なぜドリタラーシュトラはパーンダヴァ兄弟の家に住んでいたのでしょうか。それは、たとえそれほどの屈辱を味わおうとも、快適に暮らし続けたいという思いゆえのことでした。だからこそヴィドゥラは、生き続けようとする感情の強さに驚いたのです。どうしても生きたいと思うこの感情は、生命体は永遠に生きようとする生き物であり、肉体という住み家を変えたくないと思っていることを示しています。愚かな人は、一定の拘束期間に耐えるため特定の肉体に存在する期間が与えられることも、そして無数の誕生と死を繰り返した後に人間の体が与えられ、それは自己を悟ったふるさとへ、神の元に帰る絶好の機会であることも知りません。しかしドリタラーシュトラのような人々は、物事を正しく見ることができないために、利益も興味も満たされる快適な生活環境を得るために計画を立てようとします。ドリタラーシュトラは盲目で、どれほどの逆境にあっても快適に暮らす希望を抱いていました。ヴィドゥラのようなサードゥは、そのような盲目の人々を目覚めさせ、永遠の生活ができるふるさとへ、神の元へ返すために存在しています。ひとたびその地へ戻った人は、苦しみに満ちたこの物質界に戻りたいとは思いません。マハートマー・ヴィドゥラのようなサードゥにどれほど重大な責任が託されているのか、容易に想像できます。
agnir nisṛṣṭo dattaś ca
garo dārāś ca dūṣitāḥ
hṛtaṁ kṣetraṁ dhanaṁ yeṣāṁ
tad-dattair asubhiḥ kiyat

訳語

翻訳

放火や毒で殺そうとした相手の恩情にすがって生きるという、落ちぶれた生活をする必要がどこにあるのでしょうか。またあなたは、彼らの妻を侮辱し、彼らの王国や富を強奪したのです。

解説

ヴァルナーシュラマ宗教の制度は、生活の一部を、完全な自己の悟りと人間生活における解放達成のために使うよう用意されています。それが定められた生活区分ですが、ドリタラーシュトラのような人々は、見る影もない老年期に及んでも、敵の恩情を受けながら落ちぶれた生活をしてでも家庭にとどまりたいと考えます。ヴィドゥラはそのことを指摘し、惨めに慈善を受け入れるよりも、息子たちのように死んだほうがましだと強調しました。5千年前にはひとりのドリタラーシュトラが生きていました。ところが今ではどの家にもドリタラーシュトラがいます。特に政治家は、無慈悲な死や敵対する政治勢力に殺されたり引きずり下ろされたりしなければ、政治活動から身を引こうとしません。人間の生活において、最後の最後まで家庭生活にしがみついているのは、最もひどく堕落しているということであり、ヴィドゥラのような人々がドリタラーシュトラのような人々に教えを授けるのは、現代においても必要なことなのです。
tasyāpi tava deho ’yaṁ
kṛpaṇasya jijīviṣoḥ
paraity anicchato jīrṇo
jarayā vāsasī iva

訳語

翻訳

たとえあなたが死を望まずとも、名誉と威信を犠牲にして生きながらえようと望んでも、そのみすぼらしい肉体は、古い衣服のように確実に縮み、そして衰えていくのです。

解説

この節のクリパナスャ・ジジーヴィショーホは重要です。2種類の人間がいます。一方はクリパナ、もう一方はブラーフマナです。クリパナ、すなわちけちな人間は自分の肉体を見極めることができませんが、ブラーフマナは自分自身と肉体を正しく見極めています。クリパナは自分の体を間違って評価しているため、最大限の力を駆使して感覚満足を楽しもうとし、老人になっても、医療や他の方法に頼って若返りたいと思っています。ドリタラーシュトラはここでクリパナと呼ばれていますが、それは自分の肉体を正しく見ず、是が非でも生き続けたい、と思っているからです。ヴィドゥラは、定められた寿命より長くは生きられないこと、そして死ぬ準備をすべきことを教えてドリタラーシュトラの目を開けさせようとしています。死は避けられないのですから、自尊心を捨ててまで生きようとして何になるというのでしょう? 死を覚悟してでも、正しい道を選ぶべきなのです。人間生活は、物質存在にある全ての苦しみを終わらせるためにあり、その望ましいゴールに到達するために人生を制御しなくてはなりません。ドリタラーシュトラは間違った人生観を持っていたために、自分に用意された活力の80%はすでに使い果たしているのですから、無駄に過ごしてきた人生の残りの日々を究極の善のために使うべきです。無駄に使われたそのような人生は欲深い人生と呼ばれます。人間生活の利点を正しく活用しなかったからです。欲深い人間がヴィドゥラのような自己を悟った人物に巡り会うのはまさに幸運に他ならず、その教えを授かることで、物質存在の闇を取り除くことができます。
gata-svārtham imaṁ dehaṁ
virakto mukta-bandhanaḥ
avijñāta-gatir jahyāt
sa vai dhīra udāhṛtaḥ

訳語

翻訳

人里離れ、そして知らない場所に行き、全ての義務から解放され、無用になった肉体を捨て去る者は、心が乱されない者、と呼ばれます。

解説

ガウディーヤ・ヴァイシュナヴァの偉大な献身者、そしてアーチャーリャであるナローッタマ・ダーサ・タークラが「主よ。私は生涯を全く無駄に過ごしてきました。人間の体を得たというのに、あなたへの奉仕をこれまで無視してきたため、自ら毒を飲んできたのです」と詠っています。言い換えれば、人間の体は特に主への献身奉仕の知識を高めるためにあるということであり、奉仕をしない一生は不安と苦しみに満ちたものになります。ですから、人間として必要な文化的活動をせずに生涯を無駄にしてしまった人は、友人や親族に知られることなく家を出て、家族、社会、国などへの義務から解放され、どこでどのように死と向き合ったのか知られないように、誰も知らない場所で肉体を捨てることが勧められています。ディーラとは、乱されても当然と思われる状況でも心が乱されない人物を指します。妻や子どもへの愛情に縛られた関係のために、快適な家庭生活を捨てることは至難の業です。自己の悟りは、そのような家族に対する過度の愛着のために妨げられることがありますが、そのような関係をきっぱり忘れることのできる人は乱されない者、ディーラと呼ばれます。しかしこれは、挫折感を味わった生活ゆえの放棄の道ですが、そのような放棄の確立は、本物の聖者や自己を悟った魂との交流を通して初めて可能になり、その結果主への愛情あふれる献身奉仕に励むことができるようになります。主の蓮華の御足に誠実に身を委ねることは、奉仕という超越的な意識を目覚めさせることで実現できます。さらにこれは、主の純粋な献身者との交流を通してのみ可能になります。ドリタラーシュトラは、挫折の生涯からの解放を授けてくれる兄弟に恵まれた幸運な境地にいたのです。
yaḥ svakāt parato veha
jāta-nirveda ātmavān
hṛdi kṛtvā hariṁ gehāt
pravrajet sa narottamaḥ

訳語

翻訳

自分で、あるいは人から聞いて目覚め、そしてこの物質界の虚偽と苦しみを理解し、家を出て、心の中に住む人格神を完全に頼る人物は疑いなく一流と呼ばれるにふさわしい。

解説

3種類の超越主義者がいます。それらは(1)ディーラ、つまり家族と離れていても心が乱されない者、(2)挫折感ゆえに放棄階級、すなわちサンニヤーシーとなった者、(3)聞いて唱えることで神の意識を目覚めさせ、ハートの中に住む人格神を完全に頼って家庭から離れる誠実な主の献身者です。大切なのは、物質界で挫折感を味わった結果としての放棄階級生活は、自己を悟る道への踏み石になるかもしれませんが、解放の道における真の完成は、パラマートマーとして誰ものハートの中に住む最高人格神に、完全に身を委ねる修練を重ねたあとに達成できる、という事実です。家を離れて密林で一人暮らすことはできるかもしれませんが、意思堅固な献身者は、独りではないことをよく知っています。最高人格神は献身者と共にいますし、どのような苦境にあっても主は誠実な献身者を守ることができます。ですから私たちは自宅で献身奉仕を修練し、純粋な献身者との交流を通して、聖なる御名、主の資質、姿、遊戯、主にまつわる人々などについて唱えたり聞いたりすればいいのです。その修練が、目標を目指す誠実さに応じて神の意識を目覚めさせる助けになります。そのような献身奉仕をしているのにもかかわらず物質的な恩恵を求めている人は、たとえ主がハートの中にいるとしても、最高人格神に身を委ねることはできません。また主は、物質的な利益のために主を崇拝する人々を導くことはありません。物質的な献身者は、物質的な恩恵を主から授かるかもしれませんが、上記のような、一流の人間の段階に到達することはできません。世界の歴史には、そのような誠実な献身者の模範となる人物たちが、特にインドにはたくさん存在しており、彼らは自己の悟りにおける道の案内人です。マハートマー・ヴィドゥラはそのような主の偉大な献身者であり、私たちは自己の悟りを求めて、こぞってその蓮華の足跡に従わなくてはなりません。
athodīcīṁ diśaṁ yātu
svair ajñāta-gatir bhavān
ito ’rvāk prāyaśaḥ kālaḥ
puṁsāṁ guṇa-vikarṣaṇaḥ

訳語

翻訳

だからこそ今すぐに家を出て、親族に知られることなく北に向かって立ち去ってください。なぜなら、人間の優れた気質を衰えさせる時代がすぐそこに近づいているからです。

解説

ディーラになることによって、あるいは親族に伝えることなく永遠に家から離れることで挫折の人生を償うことができ、ヴィドゥラは兄にすぐこの方法に従うよう助言しました。カリ時代が目の前に迫っていたからです。束縛された魂は物質との関わりのため、すでに堕落しているのですが、カリ・ユガでは人の優れた気質は最低の段階にまで堕落していきます。彼はカリ・ユガが到来する前に家を出るよう助言を受けました。なぜならヴィドゥラが説いた人生の真実に関する価値ある教えと、ヴィドゥラによって作り出された雰囲気は、そのカリ・ユガの影響によって消え失せてしまうからです。至高主シュリー・クリシュナに完全に身を委ねた一流の人間であるナローッタマになるということは、一般人にできることではありません。『バガヴァッド・ギーター』(7-28)では、全ての悪業の汚れから完全に離れている人物だけが至高主シュリー・クリシュナ、人格神に身を任せることができる、と言われています。ドリタラーシュトラはヴィドゥラから、サンニヤーシー、あるいはナローッタマになるのが不可能なら、まずディーラになるべきだという助言を受けました。自己の悟りの進路において根気強く努力することは、私たちをディーラの段階からナローッタマの状態に高める助けになります。ディーラの段階は、ヨーガ法を長期間修練したあとに達成できるものですが、ヴィドゥラから恩恵を授かれば、ディーラの段階に高められる方法を受け入れる意思を持つだけで、すぐにサンニヤーサの準備段階であるその境地に到達できます。サンニヤーサの段階は、パラマハンサ、すなわち主の一流の献身者の準備段階です。
evaṁ rājā vidureṇānujena
prajñā-cakṣur bodhita ājamīḍhaḥ
chittvā sveṣu sneha-pāśān draḍhimno
niścakrāma bhrātṛ-sandarśitādhvā

訳語

翻訳

こうして、アジャミーダの家系の子孫であるマハーラージャ・ドリタラーシュトラは、内省的な知識(プラジュニャー)を通して全てを深く理解し、固い決意とともに家族への愛着という頑丈な網を打ち壊した。すぐに宮殿を出た彼は、弟ヴィドゥラに指示されたように、解放に向かって旅立って行った。

解説

『シュリーマド・バーガヴァタム』の根本的な教えを説く偉大な布教徒である主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブは、主の純粋な献身者、すなわちサードゥとの交流の重要性を強調しています。主は、純粋な献身者との交流は、たとえ束の間であってもあらゆる完成をもたらしてくれる、と言われました。私も、自分の生涯でそのことを、実際に体験したことを何の恥じらいもなく認めることができます。尊師シュリーマド・バクティシッダーンタ・サラスヴァティー・ゴースヴァーミー・マハーラージャと初めて出会った数分間で恩恵を授かっていなければ、『シュリーマド・バーガヴァタム』を英語で説明するという重要な使命を受け入れることなどありえなかったはずです。その好機に師に出会っていなければ、私は事業の勝利者になっていたかもしれませんが、解放の道を歩くことも、尊師の教えに導かれて主への真実の奉仕をすることもできなかったことでしょう。そしてこの節でも、ヴィドゥラとドリタラーシュトラの交流で実際に起こった、もうひとつの例を見ることができます。マハーラージャ・ドリタラーシュトラは、政治、経済、家族に関連する物質的な執着の網にがんじがらめになっており、彼が立てた計画におけるいわゆる成功を手に入れるために、彼の力の及ぶ限りのことは何でもしましたが、物質的な活動という面から見れば、その計画は最初から最後まで挫折の連続でした。それでも、そのような不成功の生涯にもかかわらず、サードゥという典型的な象徴である主の純粋な献身者の力強い教えによって、自己の悟りにおけるあらゆる成功のなかでも、最大の成功を手に入れることができました。だからこそ経典は、全ての関わりを捨てサードゥとだけ交流することを勧めています。そうすれば物質界における幻の愛情という束縛を壊すサードゥによる教えを聞く機会をたくさん得ることができるのです。物質界が巨大な幻想であることは事実です。この世にあるもの全てが明白な現実に見えても、次の瞬間には、泡立つ海のあぶくや空の雲のように、跡形もなく消えうせてしまうからです。空に浮かぶ雲は雨を降らせるので、見かけ上は事実です。その雨によって、植物が一時的に姿を現しますが、やがて雲も、雨も、緑の植物も、全てその姿を消していきます。しかし空は残り、さまざまな空や発光体は永遠に残ります。同様に空と比較される絶対真理も永遠に残り、一時的な雲のような幻想は現れ、そして消えていきます。愚かな生命体は、一時的な雲に心奪われますが、知性ある人々は、永遠な空と、その多様性に関心を寄せます。
patiṁ prayāntaṁ subalasya putrī
pati-vratā cānujagāma sādhvī
himālayaṁ nyasta-daṇḍa-praharṣaṁ
manasvinām iva sat samprahāraḥ

訳語

翻訳

カンダハル(ガーンダーラ)のスバラ王の娘であるガーンダーリーは、心穏やかで貞節な女性であり、ヒマーラヤに向かおうとしていた夫を見て、その跡に従った。ヒマラヤこそ、敵の痛烈な攻撃を受け入れた戦士のように、放棄階級の杖を受け入れた者にとって喜びとも言える場所である。

解説

スバラ王の娘であり、ドリタラーシュトラの妻であるサウバリニー、すなわちガーンダーリーは、夫に献身的に仕える理想的な妻でした。ヴェーダ文明では、特に貞節で献身的な妻が育てられますが、なかでもガーンダーリーは、歴史に数多く登場するそのような女性の一人です。ラクシュミージー・シーターデーヴィーも偉大な王の娘でしたが、夫の主ラーマチャンドラに従って森に入っていきました。ガーンダーリーは女性の立場上、自分の、あるいは父親の家にとどまることもできたのですが、貞節で心穏やかな女性として、ためらうことなく夫に従いました。放棄階級における生活のための教えがヴィドゥラからドリタラーシュトラに授けられ、ガーンダーリーは夫の横でその教えを聞いていました。しかしドリタラーシュトラはすでにその時、戦場であらゆる危険に直面する偉大な戦士のように堅い決心を抱いていたため、自分についてくるよう告げたわけではありませんでした。いわゆる妻や親族に対する魅力はすでになく、一人で旅立つことを決めていましたが、一方ガーンダーリーは貞節な女性として、最後の瞬間まで夫に従うつもりでいました。マハーラージャ・ドリタラーシュトラはヴァーナプラスタの階級を受け入れ、この階級では、妻は自発的な召使いとして夫に従うことが許されましたが、サンニヤーサ階級では、妻は以前の夫と一緒にいることは許されません。サンニヤーシーは法律上では死んだ人間とされ、妻も、以前の夫とは関係がなくなった未亡人になります。マハーラージャ・ドリタラーシュトラは、その忠実な妻を拒むことはしませんでしたし、彼女も危険を覚悟で夫に従ったのでした。
サンニヤーシーは放棄階級の印である杖を持っています。サンニヤーシーには2種類あります。シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャを代表とするマーヤーヴァーディー哲学に従う人々は、1本の杖(エーカ・ダンダ)だけを受けいれますが、ヴァイシュナヴァ派の哲学を受けいれる人々は3本の杖を合わせた1本の杖(トゥリ・ダンダ)を受けいれます。マーヤーヴァーディーのサンニヤーシーはエーカダンディ・スヴァーミー、そしてヴァイシュナヴァ・サンニヤーシーはトゥリダンディ・スヴァーミーという名前で知られ、さらに、マーヤーヴァーディー哲学者と区別するために明確にはトゥリダンディ・ゴスヴァーミーと呼ばれます。ほとんどのエーカダンディ・スヴァーミーはヒマラヤを好むのですが、ヴァイシュナヴァ・サンニヤーシーはヴリンダーヴァナやプリーを好みます。ヴァイシュナヴァ・サンニヤーシーはナローッタマたちですが、マーヤーヴァーディー・サンニヤーシーはディーラです。マハーラージャ・ドリタラーシュトラはディーラに従うよう助言を受けました。それは、その歳になってナローッタマになるのはあまりにも難しいことだったからです。
ajāta-śatruḥ kṛta-maitro hutāgnir
viprān natvā tila-go-bhūmi-rukmaiḥ
gṛhaṁ praviṣṭo guru-vandanāya
na cāpaśyat pitarau saubalīṁ ca

訳語

翻訳

敵を作ることのないマハーラージャ・ユディシュティラは、太陽神に火の儀式を捧げたり、穀物、土地、金をブラーフマナたちに捧げたりすることで毎朝の義務を執行していた。この日も、年長者たちに敬意を捧げるため宮殿に入って行った。しかし、叔父たちも、そしてスバラ王の娘である叔母の姿も見えなかった。

解説

マハーラージャ・ユディシュティラはとても敬虔な王でした。世帯者に定められた敬虔な義務を毎日遂行していたからです。世帯者は朝早く起きなくてはならず、そして沐浴したあと、自宅に祭った神像に向かって、祈りを捧げ、神聖な火のなかに燃料を捧げ、ブラーフマナたちに土地、牛、穀物、金などを施し、そして最後に家族の年長者に礼を尽くさなければなりません。シャーストラが定める教えを修練する心の準備ができていなければ、書物の知識だけで善人になることはできません。現代の世帯者はさまざまな生活スタイルを営んでいますが、上記のような清潔さや浄化のための修練などとは全く関係のない生活、つまり遅く起き、起きたあとはベッドでお茶を飲んだりする生活を続けています。子どもたちも両親と同じことをしますから、世代全体が徐々に地獄に向かって転落していきます。サードゥと交流する機会がなければ、彼らに良いことが起こる希望はありません。ドリタラーシュトラのように物質主義者的な人々は、ヴィドゥラのような聖者から教えを授かることで、現代生活の悪影響から浄化されることができます。
しかし、マハーラージャ・ユディシュティラは、宮殿のなかで二人の叔父、すなわちドリタラーシュトラとヴィドゥラ、さらにスバラ王の娘ガーンダーリーを見つけることができませんでした。そのため、ドリタラーシュトラの秘書だったサンジャヤに行方を尋ねました。
tatra sañjayam āsīnaṁ
papracchodvigna-mānasaḥ
gāvalgaṇe kva nas tāto
vṛddho hīnaś ca netrayoḥ

訳語

翻訳

気が気でないマハーラージャ・ユディシュティラは、そこに座っていたサンジャヤに尋ねた。「サンジャヤ様、盲目で年老いた叔父様はどこにいらっしゃるのでしょう」。
ambā ca hata-putrārtā
pitṛvyaḥ kva gataḥ suhṛt
api mayy akṛta-prajñe
hata-bandhuḥ sa bhāryayā
āśaṁsamānaḥ śamalaṁ
gaṅgāyāṁ duḥkhito ’patat

訳語

翻訳

私の幸福を願うヴィドゥラ叔父様はどこに、そしてご子息を失われて失意の底におられる母なるガーンダーリーはどこにおられるのでしょう。ドリタラーシュトラ叔父様も、子息と孫全て失われ、屈辱を感じられていたことでしょう。私は間違いなく恩知らずの人間です。だから叔父様は、私の冒涜を深刻にとられ、奥様とともにガンジス川に身を投げられてしまったのではないでしょうか。

解説

パーンダヴァ兄弟、特にマハーラージャ・ユディシュティラとアルジュナは、クルクシェートラの戦いの悪影響を予想していたため、戦うことを拒みました。戦いは主の意志で起こったのですが、家族の悲しみという結果は、その予想どおり現実となって起こりました。マハーラージャ・ユディシュティラは、叔父のドリタラーシュトラと叔母のガーンダーリーの苦しみをいつも意識してため、高齢で苦境にあった二人を可能な限り世話しました。そのため、彼らが宮殿からいなくなったことに気づいたとき、二人はガンジス川に身を投げてしまったのでは、という疑念に襲われたのです。パーンダヴァ兄弟が父親を亡くしたとき、マハーラージャ・ドリタラーシュトラは彼らが宮殿で暮らせるよう便宜をはかったのですが、マハーラージャ・ユディシュティラはその見返りとしてクルクシェートラの戦いで叔父の息子たちを殺してしまったので、自分ほど恩知らずの人間はいないと考えたのです。敬虔なマハーラージャ・ユディシュティラは、避けられなかった自分の行為だけを考え、叔父やその仲間たちの悪事を考えませんでした。主の意志によって、ドリタラーシュトラは自分の悪事のために苦しんでいたのですが、マハーラージャ・ユディシュティラは避けられなかった自分の悪事のことしか考えていませんでした。これが善人、そして主の献身者の気質です。献身者は決して他人の欠点を見ません。自分の至らなさを見つめ、できる限り自分を正そうとするのです。
pitary uparate pāṇḍau
sarvān naḥ suhṛdaḥ śiśūn
arakṣatāṁ vyasanataḥ
pitṛvyau kva gatāv itaḥ

訳語

翻訳

父パーンドゥが倒れたとき、お二人の叔父はまだ幼い子どもだった私たちをあらゆる悲劇から守ってくださいました。いつも私たちの幸運を願っておられました。ああ、この宮殿からお二人はいったいどこへ行ってしまったのでしょう。
sūta uvāca
kṛpayā sneha-vaiklavyāt
sūto viraha-karśitaḥ
ātmeśvaram acakṣāṇo
na pratyāhātipīḍitaḥ

訳語

翻訳

スータ・ゴースヴァーミーが言った。「サンジャヤは哀れみと心の動揺に襲われ、主人ドリタラーシュトラの姿が見えないことを嘆き、マハーラージャ・ユディシュティラにまともな返事をすることができなかった」

解説

サンジャヤは、長くマハーラージャ・ドリタラーシュトラに側近として仕えていた人物で、間近に主人の人生を見てきました。そして最後に、ドリタラーシュトラが自分の知らぬ間に宮殿を去って行ったことに、彼は計り知れない悲しみに襲われます。彼は、ドリタラーシュトラに深い同情心を抱いていました。クルクシェートラの戦いが終わり、ドリタラーシュトラ王は、臣下や財産など全てを失い、あげくの果てに王も女王も失望の極みのうちに家を去らなくてはならなかったと考えたからです。サンジャヤは彼なりに状況を判断しようとしていました。ヴィドゥラの教えでドリタラーシュトラが目覚めたこと、また彼が家庭という深い闇から出たあとにより素晴らしい生活を目指して喜び勇んで宮殿を後にした、という事実を知らなかったからです。今の生活を捨て、その後にもっと素晴らしい生活が待っていることを確信していなければ、サンニヤーシーの格好だけをしたり家庭を離れたりしても、放棄階級の生活を続けることはできません。
vimṛjyāśrūṇi pāṇibhyāṁ
viṣṭabhyātmānam ātmanā
ajāta-śatruṁ pratyūce
prabhoḥ pādāv anusmaran

訳語

翻訳

サンジャヤは最初、知性を使って自分の心をゆっくりと落ち着かせ、涙を拭きながら、主人、ドリタラーシュトラの御足を思いながら、マハーラージャ・ユディシュティラに答え始めた。
sañjaya uvāca
nāhaṁ veda vyavasitaṁ
pitror vaḥ kula-nandana
gāndhāryā vā mahā-bāho
muṣito ’smi mahātmabhiḥ

訳語

翻訳

サンジャヤが言った。「クル王家の子孫よ。私は、あなたの二人の叔父とガーンダーリーがどのような決意を持っておられたのか知らない。王よ。私はあの偉大な魂たちにだまされてしまったのだ」

解説

[NEED TO PASTE FOOTNOTE!]
偉大な魂たちが人を欺くと聞けば、誰でも驚いてしまうものですが、偉大な魂が高尚な目的のために人を騙すことは事実です。主クリシュナもユディシュティラに、ドローナーチャーリャの前で嘘をつくように助言しており、それはやはり最適な目的のためでした。主がそのことを望まれた、だからそれは正しい目的だったのです。主の満足を考える人が正しい人物の基準であり、人生の最高完成は自分に定められた義務を通して主を満足させることにあります。それが『バガヴァッド・ギーター』と『シュリーマド・バーガヴァタム』*の見解であり、ドリタラーシュトラとヴィドゥラ、そしてふたりに従ったガーンダーリーたちは、彼らの決意を、ドリタラーシュトラに側近として仕えていたサンジャヤに打ち明けることをしませんでした。サンジャヤは、ドリタラーシュトラが自分と相談せずに何かすることは決してない、と考えていました。しかし、ドリタラーシュトラが家を出ていくことは極めて秘密裏になされたことで、サンジャヤにさえ知らされませんでした。サナータナ・ゴースヴァーミーも、シュリー・チャイタニヤ・マハープラブに会うために、刑務所の門番をうまく言いくるめ、また同じようにラグナータ・ダーサ・ゴースヴァーミーも主を満足させるために、司祭を騙して家を出てい行きました。主を満足させるためなら、絶対真理者と関係しているため、どのようなことでも正しいことになります。私も『シュリーマド・バーガヴァタム』の奉仕をするために家族を欺いて家を出て行きました。そのような騙し方は、優れた目的のために必要なことであり、誰にとっても、そのような超越的なごまかしによって失うものは何もありません。

*yataḥ pravṛttir bhūtānāṃ
yena sarvam idaṃ tatam
sva-karmaṇā tam abhyarcya
siddhiṃ vindati mānavaḥ
(バガヴァッド・ギーター 18-46)

*ataḥ pumbhir dvija-śreṣṭhā
varṇāśrama-vibhāgaśaḥ
svanuṣṭhitasya dharmasya
saṃsiddhir hari-toṣaṇam
(バーガヴァタム 1-2-13)
athājagāma bhagavān
nāradaḥ saha-tumburuḥ
pratyutthāyābhivādyāha
sānujo ’bhyarcayan munim

訳語

翻訳

サンジャヤがこう話していたとき、主に仕える力強い献身者シュリー・ナーラダがトゥンブルを持ってその場に姿を現した。マハーラージャ・ユディシュティラと弟たちは、座っていた座から立ち上がり、敬意を表しながら恭しく迎えた。

解説

デーヴァルシ・ナーラダは、主の親密な献身者であることから、ここではバガヴァーンと呼ばれています。主と主の親密な献身者は、どちらも主に愛情を込めて仕えている人々から同等に尊ばれています。そのような親密な献身者は主にとって愛しい存在です。さまざまな能力を使いながら主の栄光を人々に説き、最大限の努力をし、献身者ではない人たちを献身者に変えることで、彼らを健全な段階に高めようとしているからです。生命体はもともと主の献身者という本質を備えているため、非献身者であるはずはないのですが、非献身者や非信者になってしまうのは、その人が健全な心境にはいないことを示しています。親密な献身者は、惑わされているそのような生命体たちを助けようとしているからこそ、主の目にはとても喜ばしい存在に映るのです。主は『バガヴァッド・ギーター』で、非信者や非献身者を変えるために主の栄光を説く者ほど愛しい者はいない、とおっしゃっています。ですから、その代表的なお方であるナーラダには、人格神に捧げるのと同じ程の敬意を捧げなくてはなりません。マハーラージャ・ユディシュティラも、気高い兄弟たちと一緒に、ナーラダという純粋な献身者を迎える模範を示しています。ナーラダは、いつも携えている弦楽器ヴィーナを奏でながら、主の栄光だけを詠うことに没頭している献身者なのです。
yudhiṣṭhira uvāca
nāhaṁ veda gatiṁ pitror
bhagavan kva gatāv itaḥ
ambā vā hata-putrārtā
kva gatā ca tapasvinī

訳語

翻訳

マハーラージャ・ユディシュティラが言った。「神聖なるお方よ。二人の叔父がどこへ行ってしまったのか、私にはわかりません。また、ご子息を全て失って悲しみに打ちひしがれた、苦行僧のような叔母をどこにも見つけることができません」

解説

高貴な魂であり、また主の献身者であるマハーラージャ・ユディシュティラは、叔母の喪失感、そして苦行者としての彼女の苦しみを思わないときはありませんでした。苦行僧はどのような苦しみに遭っても乱されませんし、逆にその苦しみが、精神的な道を進もうとする思いと決意を固くします。ガーンダーリー女王は、数多くの苦境のなかでも驚くべき気質を見せ、苦行に励む者の模範とも言える女性です。母親、妻、禁欲生活をする者として理想の女性であり、また世界の歴史を見ても、ガーンダーリーほどの素晴らしい質を備えた女性はほとんど見当たりません。
karṇadhāra ivāpāre
bhagavān pāra-darśakaḥ
athābabhāṣe bhagavān
nārado muni-sattamaḥ

訳語

翻訳

「あなたは広大な海に浮かぶ船の船長のようなお方であり、私たちを目的地に導くことができます」 このように讃えられた神聖な人物、哲学者と同時に献身者でもある者の中で最も偉大な人物、デーヴァルシ・ナーラダが話を始めた。

解説

さまざまな種類の哲学者がいます。その中で特に秀でているのは、人格神を実際に見て、主への崇高な愛情奉仕に自らを捧げた人物です。そのような主の純粋な献身者の中でも、デーヴァルシ・ナーラダは筆頭の人物であり、だからこそこの節で、全ての哲学者・献身者の第一人者と呼ばれています。真の精神指導者からヴェーダーンタ哲学を聞いて充分な資格を備えた哲学者にならなければ、博識な哲学者・献身者にはなれません。固い信念を持ち、博識で放棄心を備えてこそ、純粋な献身者になれるのです。主の純粋な献身者は、私たちを無知とは反対の対岸へと導くことができます。デーヴァルシ・ナーラダはよくマハーラージャ・ユディシュティラの宮殿を訪ねていました。パーンダヴァ兄弟は全員が純粋な献身者でしたし、デーヴァルシは、必要なときにはいつでも彼らに優れた助言を出すつもりでいました。
nārada uvāca
mā kañcana śuco rājan
yad īśvara-vaśaṁ jagat
lokāḥ sapālā yasyeme
vahanti balim īśituḥ
sa saṁyunakti bhūtāni
sa eva viyunakti ca

訳語

翻訳

シュリー・ナーラダが言った。「信仰心あつき王よ。誰もが至高主の支配のもとにいるのだから、誰のことであろうと嘆いてはいけない。だからこそ、全生命体とその指導者たちは、充分に守られるために主を崇拝している。彼らを一緒にし、そして離れ離れにさせるのは主ひとりである。」

解説

物質界にいようと精神界にいようと、どの生命体も至高主、人格神に支配されています。ブラフマージーというこの宇宙の指導者から、取るに足らないアリに至るまで、誰もが至高主の命令に従っています。このように生命体は、もともと主の支配に従属する立場にあります。愚かな生命体、とりわけ人間は、至高者の法則に不自然に逆らい、アスラという違法者になり、そして罰せられます。生命体は、至高主の命令によって特定の立場に置かれ、至高主、あるいは主に権威を与えられた代表者の命令で再びその立場から別の場所に移されます。ブラフマー、シヴァ、インドラ、チャンドラ、マハーラージャ・ユディシュティラ、あるいは現代の歴史では、ナポレオン、アクバル、アレキサンダー、ガンジー、スバス、ネールなどは全員主の召使いで、主の至高の意志によって特定の地位に置かれ、そしてその地位から別の地位に移されました。誰一人として自立している者はいません。指導者を含む誰もが主の至高性を認めたがらず、そして主に歯向かおうとしていますが、さまざまな苦しみという形で、さらに厳格な物質界の法則に従わされるのです。ですから、愚かな人間だけが神はいないと言います。マハーラージャ・ユディシュティラは年老いた二人の叔父、そして叔母との突然の別れのために耐え難い苦しみを感じていました。そしてこの紛れもない事実を受け入れるよう説得されました。マハーラージャ・ドリタラーシュトラは、過去の自分の行いでそのような境遇に置かれました。過去に行ったことで生じた恩恵で苦しんだり楽しんだりしていたのですが、幸運にも素晴らしい弟、ヴィドゥラに恵まれ、そのヴィドゥラの教えに従い、物質界の全ての関わりを閉ざして救われるために宮殿を出て行ったのでした。
自分に定められた幸福や苦悩は、計画で変えられるものではありません。誰であろうと、希薄なカーラ、すなわち目に見えない時によって課される苦楽に甘んじなくてはならないのです。抵抗しても無駄なことです。ですから取るべき最善な対応は、解放を求めて努力することにあり、またその特権は、高い心と知性を備えた人間だけに与えられています。人間として生きているうちに解放されるよう、さまざまなヴェーダの教えが用意されています。高い知性に恵まれたこの機会を見失う人は厳しく非難され、現世でも来世でもさまざまな種類の苦しみにさいなまれます。至高者はそのような方法で全てを支配するのです。
yathā gāvo nasi protās
tantyāṁ baddhāś ca dāmabhiḥ
vāk-tantyāṁ nāmabhir baddhā
vahanti balim īśituḥ

訳語

翻訳

鼻にくくりつけられた長い縄で牛が縛られ、条件付けられているように、人間も、数々のヴェーダの教えに縛られ、至高者の命令に従うように条件づけられている。

解説

どのような生物も、人であろうと、動物であろうと、あるいは鳥であろうと、「自分は自由だ」と思っていますが、実は主の厳格な法律に縛られない者は誰もいません。どのような状況にいようとその法律には背けない、だから主の法則は厳格なのです。人が作った法律は狡猾な無法者にはくぐり抜けられるかもしれませんが、最高の立法者が作った法典の目をかいくぐることはできません。神が作った法律をちょっとでも変えれば、罰せられる大きな危険をはらんでいるのです。至高者の法律は、さまざまな条件下で宗教法典と呼ばれていますが、宗教原則はどこでもひとつで同じ、すなわち至高の神の命令、宗教法典に従うことです。それが、物質界にある条件です。物質界にいる生物は、自分が選んだ束縛された生活という危険を受け入れ、そして物質界の法律に騙されています。その束縛から抜けだすただ一つの方法は、進んで至高者に従う気持ちに同意することです。しかし愚かな者たちは、マーヤー、幻想の束縛から解放されるかわりに、ブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ、ヒンドゥー、イスラム、インド人、ヨーロッパ人、アメリカ人、中国人、その他もろもろの呼び名に縛られ、それぞれの経典や法律が命じるままに至高主の命令を実行しています。国が作った法律は宗教法典をまねた不完全な模写にすぎません。宗教とは無縁の国、あるいは神を無視した国では、市民が神の法を破ってもとやかく言いませんが、国の法律を破れば徹底的に罰します。ところがその結果一般大衆は、人が作った不完全な法律を破るよりも、神の法律を破る罰に苦しめられています。誰であっても、ただ物質界にいるだけで不完全な状態にいるため、どれほど物質的に高められた人でも完全無欠の法律は作れません。しかし、神の法律にそのような不完全さはありません。指導者が神の法律を学びさえすれば、なんの展望もない人間たちが集まり間に合わせの立法会議をする必要はありません。人間がその場しのぎで作った法律はいずれ変更する必要が出てきますが、神が作った法律を変える必要はありません。あらゆる面で完璧な人格主神によって完璧に作られているからです。宗教法典や経典の教えは、さまざまな環境にいる生命体を考慮した上で、解放を得た神の代表者によって作られているので主の命令を実践すれば、束縛された生命体たちは物質界から徐々に解放されていきます。しかし生命体は、もともと至高主の永遠の召使です。解放された境地にいる生命体は、崇高な愛情を胸に主に仕えているため、自由な生活のなかで、主と同じ、あるいは時には主よりも高い生活を楽しみます。しかし、束縛された物質界にいる人たちは皆、主になりたいと思っているため、マーヤーの幻想ゆえに、支配しようとする思いが、束縛された生活を長引かせています。こうして物質界にいる生命体は、永遠の召使という本来の境地に戻って主に身を委ねるまで、ますます条件づけられていきます。『バガヴァッド・ギーター』の、そして世界に存在する認められた経典の最後の教えは、再び主の永遠なる召使いになることを説いているのです。
yathā krīḍopaskarāṇāṁ
saṁyoga-vigamāv iha
icchayā krīḍituḥ syātāṁ
tathaiveśecchayā nṛṇām

訳語

翻訳

遊ぶ者が、好き勝手におもちゃを出したり片付けたりするように、主の至上の意志が人々を寄せ集め、そして離れ離れにする。

解説

私たちが置かれている特定の環境は、昔したことに対する至高なる意志による配慮であることをよく心得ておかなくてはなりません。至高主は、『バガヴァッド・ギーター』(13-23)が確証しているように、全生命体のハートの中に局所的存在であるパラマートマーとして住んでいるため、私たちが一生を通してしてきたこと全てを知っておられます。私たちを特定の場所に置くことで、活動の反動を私たちに与えているのです。裕福な人は自分の子どもを富裕な息子として授かりますが、裕福な人の子として生まれたその子は、その場所を授かるにふさわしいことをしたため、主の意志によってそれなりの場所に置かれたのです。そして、その場所から離される時期が来れば、子も父も幸せな関係を捨てて離れ離れになりたくないと思っていても、至高者の意志で別の場所に連れて行かれるでしょう。同じことは貧しい人たちにも起こります。豊かな人でも貧しい人でも、そのような出会いや別れにはなすすべもありません。この節で挙げられている遊ぶ者とおもちゃの例は、誤解せずに理解すべきです。主は私たちがなした活動の反動に報いるよう縛られているのだから、遊ぶ者の例はあてはまらない、と言う人がいるかもしれません。しかしそれは違います。主は至高の意志そのものであり、どのような法則にも縛られないことを覚えておくべきです。カルマの法則によると、人は一般的に活動の結果を与えられますが、特別な場合、主の意志でその結果による活動が変えられることがあります。しかしこの変更は、主の意志によってなされるのであって、他の誰にもできることではありません。ですから、この節で挙げられている遊ぶ者の例は、実に的確です。なぜなら、至高者は思い通りに何でもでき、全く完璧であるために、活動あるいは反動に関して絶対に間違いを犯さない方だからです。主が活動の反動を変えるのは、大概、純粋な献身者が関わるときです。『バガヴァッド・ギーター』(9-30〜31)で確証されているように、罪の反動を全く気にせず無条件に身を委ねた純粋な献身者を、主は必ず守ります。そのことに疑いの余地はありません。世界の歴史には、主が活動の反動を変えた例が多く残されています。主が私たちの過去の活動による反動を変えられるのであれば、主自身が自分の行動の反動に縛られるわけがありません。主は完璧なお方であり、どのような法則をも超越したお方なのです。
yan manyase dhruvaṁ lokam
adhruvaṁ vā na cobhayam
sarvathā na hi śocyās te
snehād anyatra mohajāt

訳語

翻訳

王よ。魂の永遠の原理を考慮しようと、肉体は死滅するものであると考えようと、全ては非人格の絶対真理の中に存在すると考えようと、全ては物質と精神の説明不可能な結合体であると考えようと、いずれにしても惜別の思いは、幻にすぎない愛着ゆえに起こる。ただそれだけのことである。

解説

実際のところ、全生命体は至高の存在の個別的な部分体であり、主に従属し、仕えることで協力するのが本来の立場です。物質的な状態にいようと、完璧な知識と永遠性に満ちた解放の境地にいようと、生命体はいつまでも至高主に支配されています。しかし、真の知識がない人たちは、生命体の本来の立場についてあれこれと推論を持ち出します。それでも結局、どの分野の哲学者も、生命体は永遠で、5つの物質要素でできた外側の肉体はやがて滅び、一過性の存在であることを認めています。永遠の生命体は、カルマの法則によってある物質の体から別の体に転生し、その肉体も、根本的な構造ゆえにやがて滅びてなくなります。ですから、魂が別の体に転生しても、体がある段階で滅びたとしても何ら嘆くに及びません。また他にも、魂が肉体という物質による束縛から出た後に至高の魂の内に融合すると信じ、さらに精神も魂の存在もなく、あるのは物体だけ、と信じる人たちがいます。ある物が別の物に姿を変えている様子を、私たちは毎日目にしています。しかし、そのような変化を見ても悲しんだりはしません。上に挙げたどちらの場合でも、神聖な力は止められません。誰もその力を変えられないのですから、悲しむ理由はどこにもありません。
tasmāj jahy aṅga vaiklavyam
ajñāna-kṛtam ātmanaḥ
kathaṁ tv anāthāḥ kṛpaṇā
varteraṁs te ca māṁ vinā

訳語

翻訳

ゆえに自己についての無知によるその不安を捨てなさい。今あなたは、無力で哀れな彼らが、果たして自分なしで生きていけるのかどうかを考えている。

解説

知人や親戚が無力な状態にあり、頼れるのは自分しかいない、と考えているのは無知に他なりません。どのような生物でも、物質界で得たそれぞれの立場に応じて、至高主の命令の下、あらゆる面で守られます。主はブータ・ブリト、つまり全生命体を守る者という名前で知られています。私たちは自分の義務だけを果たせばいいのです。誰であろうと、至高主だけが守ることができるのですから。このことが、次の節でさらにはっきりと説明されます。
kāla-karma-guṇādhīno
deho ’yaṁ pāñca-bhautikaḥ
katham anyāṁs tu gopāyet
sarpa-grasto yathā param

訳語

翻訳

5つの要素でできているこの粗雑な体は、永遠なる時(カーラ)、活動(カルマ)、物質自然界の様式(グナ)によってすでに支配されている。ならば、すでに蛇の牙に噛まれている者たち同士が、互いに守れると思うか。

解説

自由を求めて行われている世界の解放運動は、政治、経済、社会、文化など、どれをとっても、誰にも何の恩恵ももたらしません。なぜなら彼らはすでに優位の力に支配されているからです。束縛された生命体は、永遠の時、そして自然界のさまざまな様式下にある活動として象徴される物質自然界に何から何まで支配されています。自然界には徳、激情、無知という3つの様式があります。徳の様式にいなければ物事をありのままに見ることはできません。激情と無知にいる限り、物事を正しく見ることはできません。ですから、激情と無知にいる人は、自分の活動を正しい方向に導くことは不可能です。徳の質にいる者だけが、ある程度助けることができます。大半の人は激情と無知の中にあり、そのためそのような人たちが立てる事業や計画が誰かの役に立つことはほとんどありません。自然界の様式を超えて、カーラと呼ばれる永遠なる時が存在します。物質界にあるもの全ての形を変えてしまうため、カーラと呼ばれます。しばらくの間有益なことはできても、やがて時の力で、どれほど素晴らしいプロジェクトでも挫折します。唯一できることは、カーラ・サルパ、つまり噛まれると致命的であるコブラに比較される時間の影響を取り除くことです。コブラに噛まれたら、誰も助かりません。コブラのようなカーラ、またはその統合である自然の様式の束縛から解放される最善の治療法は、『バガヴァッド・ギーター』(14-26)が勧めているバクティ・ヨーガです。博愛主義において最も完璧なプロジェクトは、世界の全ての人々にバクティ・ヨーガの布教活動に参加してもらうことです。なぜなら、その方法だけがマーヤーから、あるいはこの節で述べられているカーラ、カルマ、グナとして象徴される物質自然界から私たちを救うことができるからです。『バガヴァッド・ギーター』(14-26)がこの事実を確証しています。
ahastāni sahastānām
apadāni catuṣ-padām
phalgūni tatra mahatāṁ
jīvo jīvasya jīvanam

訳語

翻訳

手のない生物は手を持つ生物に食べられ、足のない生物は4本足の生物に食べられる。弱い者は強い者の食糧となり、ある生き物は別の生き物の食べ物になる。それが自然の摂理である。

解説

生存競争における体系的な法則は至高の意志によって存在し、どれほどの計画を立てても、誰もその法則から逃れることはできません。至高の生物の意志に背き、この世界に降りてきてしまった生命体たちは、マーヤー・シャクティ、つまり主に権限を与えられた代表者と呼ばれる至上の力に操られます。またそのダイヴィー・マーヤーは、束縛された魂を三重の苦悩で苦しめるためにあり、その苦悩の一つが、この節で弱肉強食と説明されています。自分よりも強い者に攻撃されれば自分を守ることはできませんし、主の意志によって、弱者、より強い者、最も強い者、という区分があります。トラが弱い動物を食べても、たとえそれが人間であっても、そのことを人間が嘆いてもしかたありません。それが至高主の法則なのです。一方、人間は他の生き物を食べて生存するべきだ、とたとえ国が法律で定めたとしても、同時に良識の法則も存在します。なぜなら人間は経典に従うべきだからです。これは他の動物にはあてはまりません。人間の人生は自己を悟るための機会であり、その目的を達成するためにも、最初に主に捧げられていないものは食べるべきではありません。主は、献身者が作った野菜、果物、葉、穀類を材料にした料理ならどのようなものでも受け入れてくださいます。果物、葉、牛乳を使ったバラエティーに富む料理も主に捧げられますし、主がその料理を召し上がった後に献身者がそれを味わうことで、生存競争の苦しみ全てが少しずつ和らいでいきます。これは『バガヴァッド・ギーター』(9-26)で確証されていることです。動物を食べる習慣のある人たちでも、直接主に捧げるのではなく、主の代表者に特定の宗教儀式を経て料理を捧げることができます。経典の指示は肉食を奨励するのではなく、決められた規則によって食生活を制限するためにあります。
ある生物は、他の強い生物の食料になってしまう。しかし、どのような状況に置かれても、どうやって生き延びようかなどと思い悩む必要はありません。生物はどこにでもいますし、どんな場所だとしても、食料不足で飢え死にする生物はいないからです。マハーラージャ・ユディシュティラはナーラダから、叔父たちが食べられずに苦しんでいるのではと心配するには及ばない、彼らは、ジャングルで得られる野菜を至高主のプラサーダとして食べ、解放への道を実現できるのだから、と助言を受けました。
弱い生物が強い生物の餌食になるのは存在の摂理です。どのような生物の世界でも、弱者をむさぼり食おうとしています。物質的な条件下では、不自然な方法でこの傾向を止めることはできません。止められる唯一の方法は、精神的規則を修練することで人の精神的感性を目覚めさせることだけです。しかし、精神的な規則をよりどころにして人間が弱い動物を殺しておきながら、一方で平和な共存世界を人々に説くことは許されないことです。人が動物たちの平和な共存を壊しておいて、自分たちは平和な暮らしを望むなどありえないことです。ですから盲目の指導者は、至高の存在についてよく知り、神の国を築かなくてはなりません。神の国、すなわちラーマ・ラージャは、世界中の人々の心に、神の意識を目覚めさせないかぎり、実現するのは不可能です。
tad idaṁ bhagavān rājann
eka ātmātmanāṁ sva-dṛk
antaro ’nantaro bhāti
paśya taṁ māyayorudhā

訳語

翻訳

ゆえに王よ。至高主だけに頼るのだ。唯一絶対のお方で、さまざまなエネルギーを通して自らを表し、内にも外にも存在する主を。

解説

最高人格神は絶対唯一のお方ですが、本来至福に満ちた存在であるためにさまざまなエネルギーを通して自らを表します。生命体も主の境界エネルギーの表れであり、質的に見れば主と等しく、主の外的、そして内的世界の内にも外にも無数の生命体が存在しています。精神界は主の内的エネルギーの表れであるため、その世界にいる生命体は、外的力に汚されることなく主と同じ質を保って暮らしています。生命体は、主と質的には一つでも、物質界に汚されているために、歪んだ形で表れ、いわゆる幸せや苦しみの感情を味わっています。どれもその場限りの経験にすぎず、精神魂に影響を与えているわけではありません。またその幸、不幸の表れは、自分は主と同じ質を備えている、という事実を忘れてしまったからに他なりません。しかし主は、生命体の堕落した状態を正すため、内からも外からも途切れることなく私たちを導こうとなさっています。内からは、局所のパラマートマーとして望みに駆られた生命体を正し、外からは、主自身の表れである精神指導者や啓示経典として生命体を正します。私たちは主を頼らなくてはなりません。いわゆる幸福や苦しみに乱されるのではなく、堕落した魂を外側から正そうとする主と協力するべきです。主の指示によってのみ精神指導者になり、そして主と協力すべきです。物質的な利益、ビジネスの手段、あるいは生計を立てるため、個人的な満足のために精神指導者になってはいけません。主に頼り、また主と協力している本物の精神指導者は真に主と同じ質を備えている一方、主を忘れている魂はただ歪んだ表れにすぎません。だからこそユディシュティラ・マハーラージャはナーラダに、いわゆる幸せや苦しみに乱されるのではなく、主だけに身を委ね、主が降誕した理由である使命をまっとうするよう助言されました。それが彼にとって何よりも大切な義務だったのです。
so ’yam adya mahārāja
bhagavān bhūta-bhāvanaḥ
kāla-rūpo ’vatīrṇo ’syām
abhāvāya sura-dviṣām

訳語

翻訳

その最高人格神、主シュリー・クリシュナは、全てを食い尽くす「時」(カーラ・ルーパ)として姿を変えて地上に現れ、妬ましい者たちを世界から取り除くために降誕されました。

解説

人間には2種類、すなわち嫉妬深い者と従順な者がいます。至高主は唯一のお方で、全生命体の父ですから、妬み深い者たちも実は主の子どもなのですが、彼らはアスラという名前で呼ばれています。一方至高の父に従順な生命体たちは、物質観念に汚れていないためにデーヴァター、または神々と呼ばれます。アスラたちは、存在を否定するほど主を嫌っているだけではなく、他の生命体たちも忌み嫌っています。世界がこのようなアスラで充満すると、主は自ら降誕して彼らを世界から取り除いて正すことがあり、そしてパーンダヴァ兄弟のようなデーヴァターたちに世界を統治させます。主が変装しカーラとなるという説明は重要です。主は危険な人物ではなく、永遠、知識、喜びという超越的な姿を持つお方です。主は、献身者には真の姿を示し、献身者でない者たちにはカーラ・ルーパという死の原因となる姿で現れます。主のこの死の原因としての姿はアスラたちには不快極まるもので、彼らは主に滅ぼされることはないと安心したいがために、主に姿はない、と考えます。
niṣpāditaṁ deva-kṛtyam
avaśeṣaṁ pratīkṣate
tāvad yūyam avekṣadhvaṁ
bhaved yāvad iheśvaraḥ

訳語

翻訳

主は神々を助ける義務をすでになし遂げられ、残りの時を待っておられる。あなたたちパーンダヴァ兄弟は、主が地上にとどまっておられる間は待つとよい。

解説

主は、主や献身者を憎むアスラたちに悩まされる物質界の管理者(神々)を救うために、精神界の頂点にある自分の住処(クリシュナローカ惑星)から降誕されます。これまで述べられているように、束縛された生命体は、この世界の資源を支配し、見渡すもの全ての偽の主人になろうとする強い望みに動かされ、自分から物質と関わることを選んでいます。誰もが偽の神になろうとしているのです。そのような偽の神々の間には激しい競争があり、互いに張り合っている彼らは「アスラ」という名前で一般に知られています。物質界にアスラがはびこれば、主の献身者にとっては地獄となんら変わりありません。アスラの数が増えれば、もともと主に仕える気質を持つ人々の大多数、そして高位の惑星に住む神々を含む主の純粋な献身者たちは主に救いを求めて祈ります。そして主は自分の住処から自ら降誕するか、あるいは自分の献身者を代理として遣わせることによって人間社会の、あるいは動物社会でさえその堕落した状態を変えようとなさります。そのような混乱は人の社会だけではなく、動物や鳥、そして高位の惑星の神々を含む、他の生物の間にさえ起こることです。主シュリー・クリシュナは、カンサ、ジャラーサンダ、シシュパーラのような悪魔たちを抹殺するために自ら降誕し、マハーラージャ・ユディシュティラが統治していた時代に、そのほとんどのアスラたちを殺しました。そして今、主の意志でこの世界に現れた主自身が所有する王家、すなわちヤドゥ・ヴァンシャの崩壊を待っています。主は永遠の住処に戻って行く前に、彼らを地上から連れ出したいと考えました。ナーラダは、ヴィドゥラのように、ヤドゥ王家の崩壊をすぐに打ち明けたわけではないのですが、間接的に、ユディシュティラ王と兄弟たちに、その出来事が起こるまで、そして主が去って行くまで待つように、とヒントを与えていたのです。
dhṛtarāṣṭraḥ saha bhrātrā
gāndhāryā ca sva-bhāryayā
dakṣiṇena himavata
ṛṣīṇām āśramaṁ gataḥ

訳語

翻訳

王よ。叔父のドリタラーシュトラ、その弟ヴィドゥラ、そして妻のガーンダーリーは、偉大な聖者たちの庇護下の地があるヒマラヤ山脈南部に行った。

解説

悲嘆にくれるマハーラージャ・ユディシュティラの気持ちをなだめるため、ナーラダはまず哲学的な視点から話し、次に未来を見る透視力で、叔父が将来することについて次のように説明を始めました。
srotobhiḥ saptabhir yā vai
svardhunī saptadhā vyadhāt
saptānāṁ prītaye nānā
sapta-srotaḥ pracakṣate

訳語

翻訳

その場所をサプタスロータ(7つに区分された領域)と言う。神聖なガンジス川の水がそこで7つの支流に分けられるからである。これは7人の偉大な聖者たちを満足させるためになされた。
snātvānusavanaṁ tasmin
hutvā cāgnīn yathā-vidhi
ab-bhakṣa upaśāntātmā
sa āste vigataiṣaṇaḥ

訳語

翻訳

サプタスロータの川岸で、ドリタラーシュトラはアグニ・ホートゥラの儀式を行い、毎日3回、朝、正午、夕方に沐浴し、水だけを飲んでアシュターンガ・ヨーガを始めた。この修練をすることで、心と感覚は抑制され、家族への愛着から完全に解放される。

解説

ヨーガ法は、感覚や心を抑制してそれらを物質から精神に向かわせる機械的な方法です。その準備段階として、座法、瞑想、精神的な思考、体内を流れる空気の操作、恍惚状態への段階的な高まり、そしてパラマートマーという絶対的人物との対面などが含まれます。精神的段階に高めてくれるこの機械的な方法には、1日3回の沐浴、可能な限りの絶食、座って思考を精神的物事に集中させることが含まれ、やがて徐々に物質的な対象(ヴィシャヤ)から解放されていきます。物質存在とは、幻でしかない物質的な物事に思いを没頭させることです。家、国、家族、社会、子どもたち、財産、仕事など、どれも精神魂、アートマーを包み込んでいる物質の覆いであり、ヨーガのシステムは、このような幻想の思考から私たちを解放させ、そして徐々に絶対的人物、パラマートマーに意識を向かわせてくれます。私たちは、世俗的な関わりや教育に導かれて軽薄な物事に夢中になることを学んできましたが、ヨーガはそのようなことを全て忘れるための方法です。現代のいわゆるヨーギーやヨーガは、奇術まがいの見せ物でしかなく、何も知らない人たちはそのような偽物に魅了されたり、ヨーガ・システムを、体の病気を治してくれたりする安価な治療法だと思い込んでいます。しかし真実のヨーガ・システムは、生存競争を通して積み重ねてきた思いを忘れる方法なのです。ドリタラーシュトラはこれまで、家族生活を改善するために息子たちの生活水準を高めたり、あるいはパーンダヴァ兄弟の財産を奪ったりして生きてきました。それはどれも、精神的な力について何も知らない完全な物質主義者が当たり前にしていることです。また、このような行いが人を天国から地獄に落とすことなど、ドリタラーシュトラは知る由もありませんでした。そんな彼も、弟のヴィドゥラのおかげで目覚め、幻想に駆られたそれまでの悪業に気づき、そしてその気づきによって、精神的悟りを得るため家を出ることができました。シュリー・ナーラダデーヴァはここで、神聖なガンジス川の流れにより浄化された場所で彼が精神的に高められていくことを予言しています。水だけを飲み、固形物を摂らないことも絶食です。これは精神的知識を高めるのに必要なことです。愚かな人は、定められた原則に従わない安っぽいヨーギーになろうとしています。まず舌がコントロールできない人はヨーギーにはとてもなれるはずがありません。ヨーギーとボーギーは相反するふたつの言葉です。ボーギー、つまりなんでも食べて飲んで楽しむ人間は、ヨーギーにはなれません。ヨーギーは無制限に飲食することが許されないからです。ドリタラーシュトラが、水だけを飲み、神聖な雰囲気が漂う場所で心穏やかに座り、人格主神、主ハリへの思いに深く没頭している様子をこの節から学ぶことができます。
jitāsano jita-śvāsaḥ
pratyāhṛta-ṣaḍ-indriyaḥ
hari-bhāvanayā dhvasta-
rajaḥ-sattva-tamo-malaḥ

訳語

翻訳

座法(ヨーガ・アーサナ)と呼吸を制御した者は、感覚を絶対人格神に向けることができ、その結果、物質自然界の様式、すなわち平凡な徳、激情、無知の汚れから免れる。

解説

ヨーガ法の準備段階には、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラティヤーハーラ、ディヤーナ、ダーラナーなどがあります。マハーラージャ・ドリタラーシュトラが、このような準備段階の修練を完遂するだろうことは、明らかなことでした。浄化された場所に座り、ひとつの対象、すなわち最高人格神(ハリ)に集中していたからです。こうして、彼の全ての感覚が、主への奉仕に使われました。この方法は、献身者を自然界の三様式による汚れから解放するのを直接助けてくれます。一番高い様式、つまり徳の様式でさえ、物質的な束縛の原因になるのですから、他の様式、つまり激情や無知が私たちを束縛することは言うまでもありません。激情と無知は、物質的な楽しみを求めようとする気質に拍車をかけ、強い欲望が富や権力を得ようとする気持ちを刺激します。このふたつの底辺の様式を超え、完全な知識と道徳に支えられた徳の様式に高められた人でも、さまざまな感覚、つまり目、舌、鼻、耳、感触などを抑えられるわけではありません。しかし、主ハリの蓮華の御足に身を委ねた人は、ここで言われているように、物質自然界の様式の影響を超越し、確固として主に奉仕することができます。ですから、バクティ・ヨーガの方法を使って、諸感覚を主への愛情奉仕に直接適用することができます。こうしてこの方法を修練する人は、物質的な活動に巻き込まれなくなります。感覚を物質的な執着から、主への超越的な愛情奉仕に方向転換させるこの方法をプラティヤーハーラ、またこの方法全体をプラーナーヤーマともいい、修練者を最終的にサマーディ、すなわち至高主を必ず満足させる没頭の境地に到達させてくれます。
vijñānātmani saṁyojya
kṣetrajñe pravilāpya tam
brahmaṇy ātmānam ādhāre
ghaṭāmbaram ivāmbare

訳語

翻訳

ドリタラーシュトラは、純粋な自己を知性と融合しなければならず、そして質的には至高のブラフマンと同じであるという知識を持ち、ひとりの生命体として至高の存在に溶け込まなければならない。覆われた空から解放されて精神的な空に昇るべきであろう。

解説

生命体は、物質界を支配しようとする望みを持ち、至高主との協力を拒もうとするため、物質の総合体、すなわちマハトゥ・タットヴァと関わるようになり、そのマハトゥ・タットヴァから、自分を物質界、知性、心、感覚と同一視する間違った考えが生まれます。この考えが、魂の純粋な精神的本性を覆い隠してしまうのです。ヨーガを修練することで、自分の純粋な本性が自己の悟りを通して実現されると、5つの粗雑な要素と微細な要素、心、知性をもう一度マハトゥ・タットヴァのなかに融合させ、自分本来の立場に戻らなくてはなりません。こうして、マハトゥ・タットヴァの束縛から解放され、至高の魂の中に自分を融合させるのです。言い換えれば、私たちは質的に至高の魂と全く同じであることを悟らなくてはならないのであり、その結果として、自分本来の純粋な知性を使って物質界の空間を超越し、そして主への超越的な愛情奉仕に励むことができるようになります。これが、精神的本性を最も高く、完璧に高めることであり、ドリタラーシュトラはこの境地をヴィドゥラと主の恩恵によって達成しました。主の慈悲は、ドリタラーシュトラがヴィドゥラと直接関わりを持ったからこそ授けられたものであり、主は実際に、彼がヴィドゥラの教えを修練していたときに完璧な境地に到達できるよう助けています。
主の純粋な献身者は、物質界の惑星に住むことはなく、物質要素との接触も感じません。献身者が持ついわゆる肉体も、主と同じ精神的流れに満たされているために存在しておらず、ゆえに、マハトゥ・タットヴァという物質総体の汚れからは永遠に解放されています。献身者はいつも精神界に住んでいます。その境地は、自分が行った献身奉仕の力で、物質界の7重の覆いを貫いた結果です。束縛された魂は、その覆いの中に住み、解放された魂はその覆いをはるか遠く超えた世界に住んでいます。
dhvasta-māyā-guṇodarko
niruddha-karaṇāśayaḥ
nivartitākhilāhāra
āste sthāṇur ivācalaḥ
tasyāntarāyo maivābhūḥ
sannyastākhila-karmaṇaḥ

訳語

翻訳

ドリタラーシュトラは、感覚の動きを外からでさえ全て止め、物質自然界の様式に動かされている感覚の相互作用に耐えなくてはならない。物質的な義務を全て放棄したあと、解放への道に横たわる全ての障害を越え、不動の境地に身を置かなくてはならないであろう。

解説

ドリタラーシュトラは、ヨーガの方法に従い、物質的な活動の反動を全てを打ち消す境地に達しました。物質自然界の様式の力は、様式の犠牲者を、物質を楽しもうとする飽くことのない望みに引きつけますが、ヨーガを修練すれば、このような偽の楽しみから逃れることができます。どの感覚も、楽しむ対象を求めていつも忙しく働いていて、このように束縛された魂はあらゆる方向から攻められており、何を求めても心の安定を得ることはできません。マハーラージャ・ユディシュティラは、叔父をまた宮殿に連れ戻そうなどという考えにとらわれないようナーラダから助言を受けました。すでにドリタラーシュトラは物質に対する執着を完全に超えていたのです。物質自然界の様式(グナ)は、各様式特有のさまざまな働きをしますが、その三様式を超えた次元には精神的な様式があり、それは絶対的です。ニルグナとは反動がないという意味です。精神的様式とその結果は同じです。ですから、精神的質とその対をなす物質的質とは、ニルグナという言葉によって区別されています。自然界の三様式を完全に克服した人が、精神的世界に入ることを許されるのであり、その精神的様式に導かれた活動が献身奉仕、すなわちバクティと呼ばれます。ですからバクティは、絶対者とじかに接触することで得られるニルグナの境地です。
sa vā adyatanād rājan
parataḥ pañcame ’hani
kalevaraṁ hāsyati svaṁ
tac ca bhasmī-bhaviṣyati

訳語

翻訳

王よ。彼は、ほぼ間違いなく、今日から5日後に肉体を捨てるだろう。そしてその体は灰と化すはずである。

解説

ナーラダ・ムニの予言が、叔父のいる場所に行こうとするユディシュティラ・マハーラージャを制止しています。たとえドリタラーシュトラが神秘力で体を捨てたとしても、葬式の必要はありませんでした。ナーラダ・ムニがその体は灰になると言っているのですから。そのような神秘的な力が、ヨーガ・システムの完成を可能にします。ヨーギーは、自分で作った火で自分の体を灰にし、時間を選んで肉体を捨て、行きたい惑星に行くことができるのです。
dahyamāne ’gnibhir dehe
patyuḥ patnī sahoṭaje
bahiḥ sthitā patiṁ sādhvī
tam agnim anu vekṣyati

訳語

翻訳

かの貞節な妻は、神秘力でかやぶきの小屋とともに自分の体を焼くであろう夫を見て、不動の集中力で自らも火の中に入っていくだろう。

解説

ガーンダーリーは、一生夫に付き添う貞節で理想的な女性だったからこそ、かやぶきの小屋とともに神秘力のヨーガの火で自分を焼いている夫を見て、絶望しました。100人の息子を失ったのち家を後にし、最も愛する夫が燃えている様を見たのです。そして今、孤独の身になってしまったことを感じた彼女は、夫の火の中に身を投げ、死んで夫に従ったのです。死んだ夫の火葬の火に、貞節な女性が入っていくことをサティーの儀式といい、その行為は女性にとっても最も完璧な境地だとされています。しかし最近では、このサティーの儀式は不快極まる犯罪行為と考えられています。それは、全くその気持ちがない女性にその行為を強いているからです。堕落した現代では、どのような女性でも、ガーンダーリーやいにしえの女性たちが従っていたサティーの儀式に従うことなどできるものではありません。ガーンダーリーのような貞節な女性は、夫との離別を、燃え盛る実際の火よりも強く感じます。そのような女性は、自ら進んでサティーの儀式をすることができ、それは強制されて行う罪の行為ではありません。ただ儀礼的になされるのであれば、そしてこの決まりに従うよう女性に強要するのであれば、それは犯罪行為となり、そのため今では国の法律で禁じられています。ナーラダからマハーラージャ・ユディシュティラに伝えられたこの予言は、彼が未亡人の叔母のもとに行くことを禁じているのです。
viduras tu tad āścaryaṁ
niśāmya kuru-nandana
harṣa-śoka-yutas tasmād
gantā tīrtha-niṣevakaḥ

訳語

翻訳

ヴィドゥラは喜びと悲しみに打たれ、その神聖な巡礼の地を去って行くことだろう。

解説

ヴィドゥラは、兄のドリタラーシュトラが解放されたヨーギーとして素晴らしい最期を遂げたことに驚きました。なぜなら、兄は物質主義に強く執着した生涯を送っていたからです。もちろん、ドリタラーシュトラが望ましい人生の目標を達成できたのは、ひとえにヴィドゥラのおかげです。ですからヴィドゥラはその出来事を聞いてうれしく思ったと同時に、兄を純粋な献身者に変えられなかったことを残念に思っています。ですがこれはヴィドゥラのせいではありません。ドリタラーシュトラが、主の献身者だったパーンダヴァ兄弟に敵意を抱いていたことの結果なのです。ヴァイシュナヴァの御足を侮辱することは、主の蓮華の御足を侮辱することよりも危険です。もちろんヴィドゥラは、物質主義的な生涯を送ってきたドリタラーシュトラに慈悲を授ける寛大な人物ですが、結局、現世におけるそのような慈悲の最終的な結果は、至高主の意志にかかっています。そのためドリタラーシュトラは解放だけを達成したのであり、そのような境地を何度も繰り返した後に、献身奉仕の境地に到達することができます。もちろんヴィドゥラは兄と義理の姉の死を痛ましく思っており、そのような悲しみを癒すには巡礼地に旅立つしかありません。こうしてマハーラージャ・ユディシュティラに、生き残ったもう一人の叔父であるヴィドゥラを呼び戻す可能性は残されていませんでした。
ity uktvāthāruhat svargaṁ
nāradaḥ saha-tumburuḥ
yudhiṣṭhiro vacas tasya
hṛdi kṛtvājahāc chucaḥ

訳語

翻訳

偉大な聖者ナーラダはこのように話した後、ヴィーナーを奏でながら宇宙に飛び立って行った。ユディシュティラは彼の教えを胸に刻み、一切の嘆きを絶つことができた。

解説

シュリー・ナーラダジーは、主の慈悲で精神的な体を授かった永遠なる宇宙飛行士です。物質界、精神界の両方の宇宙空間を、何者にも邪魔されることなく旅し、無限の空間にあるどの惑星にも瞬時に行くことができます。彼が前世で女給の子だったことはすでに学びました。純粋な献身者との交際によって、永遠の宇宙飛行士の境地に高められ、こうして自由に行動することができるようになったのです。ですから、私たちもナーラダ・ムニの足跡に従うべきであり、機械を使った方法で別の惑星に行こうとむなしい努力をするべきではありません。マハーラージャ・ユディシュティラは信心深い王であったため、ナーラダ・ムニに時折出会う機会がありました。ナーラダ・ムニに会いたいと願う人は、まず敬虔な気質を培い、ナーラダ・ムニの足跡に従わなくてはなりません。
これで、バクティヴェーダンタによる『シュリーマド・バーガヴァタム』、第1編・第13章、「ドリタラーシュトラ、宮殿を去る」の解説を終了します。