シュリーマド・バーガヴァタム 1.13.44
節
yan manyase dhruvaṁ lokam
adhruvaṁ vā na cobhayam
sarvathā na hi śocyās te
snehād anyatra mohajāt
adhruvaṁ vā na cobhayam
sarvathā na hi śocyās te
snehād anyatra mohajāt
訳語
yat—たとえ~でも; manyase—あなたは考える; dhruvam—絶対真理; lokam—人々; adhruvam—非現実; vā—どちらでも; na—あるいはそうでない; ca—もまた; ubhayam—あるいはどちらも; sarvathā—あらゆる状況において; na—決して~ない; hi—確かに; śocyāḥ—嘆きの対象; te—彼ら; snehāt—愛着のために; anyatra—あるいはその逆; moha-jāt—当惑のために。
翻訳
王よ。魂の永遠の原理を考慮しようと、肉体は死滅するものであると考えようと、全ては非人格の絶対真理の中に存在すると考えようと、全ては物質と精神の説明不可能な結合体であると考えようと、いずれにしても惜別の思いは、幻にすぎない愛着ゆえに起こる。ただそれだけのことである。
解説
実際のところ、全生命体は至高の存在の個別的な部分体であり、主に従属し、仕えることで協力するのが本来の立場です。物質的な状態にいようと、完璧な知識と永遠性に満ちた解放の境地にいようと、生命体はいつまでも至高主に支配されています。しかし、真の知識がない人たちは、生命体の本来の立場についてあれこれと推論を持ち出します。それでも結局、どの分野の哲学者も、生命体は永遠で、5つの物質要素でできた外側の肉体はやがて滅び、一過性の存在であることを認めています。永遠の生命体は、カルマの法則によってある物質の体から別の体に転生し、その肉体も、根本的な構造ゆえにやがて滅びてなくなります。ですから、魂が別の体に転生しても、体がある段階で滅びたとしても何ら嘆くに及びません。また他にも、魂が肉体という物質による束縛から出た後に至高の魂の内に融合すると信じ、さらに精神も魂の存在もなく、あるのは物体だけ、と信じる人たちがいます。ある物が別の物に姿を変えている様子を、私たちは毎日目にしています。しかし、そのような変化を見ても悲しんだりはしません。上に挙げたどちらの場合でも、神聖な力は止められません。誰もその力を変えられないのですから、悲しむ理由はどこにもありません。