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第2章

ギーターの要旨

sañjaya uvāca
taṁ tathā kṛpayāviṣṭam
aśru-pūrṇākulekṣaṇam
viṣīdantam idaṁ vākyam
uvāca madhusūdanaḥ

訳語

翻訳

サンジャヤ言う。
哀れみと悲しみに胸ふさがれて
はらはらと涙流すアルジュナを見て
マドゥスーダナ(クリシュナ)は
このように語られました。

解説

 物質次元の同情、悲嘆、涙などはすべて、本当の自分を知らない証拠であり、永遠の命を慈しむことが真の自己を知ることである。この節にある「マドゥスーダナ」という呼び名は、非常に重要である。主クリシュナは悪魔マドゥを殺された。果たすべき義務の遂行を妨げようと自分に襲いかかってくる迷妄の悪魔を、クリシュナに殺してもらいたいというアルジュナの思いが、この呼び名に表れている。哀れみとはどこに向けるべきものなのか、人はそれをわかっていない。溺れる人を見て、服が濡れて気の毒だと同情しても意味がない。衣服すなわち体だけ助けても、無知の大海に堕ちた人を救うことにはならないのだ。このことがわからず、ただ着ている服だけを哀れむ人をシュードラ、すなわち不必要なことを嘆く者と呼ぶ。アルジュナはクシャトリヤであるのだから、このようなふるまいをすべきではない。しかし主クリシュナは無知な者の嘆きを消し去ることができるお方。『バガヴァッド・ギーター』を語られた目的もそこにある。この章では、至高の権威者である主シュリー・クリシュナが物質の体と精神的な魂を分析しながら、自己の悟りへと私たちを誘う。結果にとらわれず行動し、自己の本質についての概念をしっかり体得できたとき、この悟りは可能となるのだ。
śrī-bhagavān uvāca
kutas tvā kaśmalam idaṁ
viṣame samupasthitam
anārya-juṣṭam asvargyam
akīrti-karam arjuna

訳語

翻訳

至高人格神は言う。
アルジュナよ、なぜそんな世迷い言を言うのか。
およそ、人生の意義を知る者の言葉ではない。
そんなことでは、より高い惑星にも行けず
汚名を着るばかりだ。

解説

 クリシュナと至高人格神は同一である。ゆえに主クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』の中でバガヴァーンと呼ばれている。バガヴァーンとは究極の絶対真理のことであり、その悟りには「ブラフマン(全宇宙に遍満する非人格的な精神エネルギー)」「パラマートマー(すべての生命体のハートに宿る絶対者の局部的様相)」「バガヴァーン(至高人格神シュリー・クリシュナ)」の3つがある。絶対真理の考え方について、『シュリーマド・バーガヴァタム』(1-2-11)では以下のように説明している。
vadanti tat tattva-vidas
tattvaṁ yaj jñānam advayam
brahmeti paramātmeti
bhagavān iti śabdyate
 「絶対真理を知る者はその3つの段階を悟り、それらが同一のものであることを知っている。3つの段階とはすなわち、ブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンのことである」。
 この神聖な三様相について、太陽を例に挙げて説明してみよう。太陽にも、光線、表面、太陽の天体そのもの、という3つの様相がある。太陽光線についてしか学んでいない人は初歩的段階である。太陽の表面を理解している人はかなり進んでいる。そして太陽という天体そのものの内部まで理解している人は、最も高い段階と言えよう。多くの学徒は、太陽が姿や形のないまばゆい光を宇宙に放っていることを知っただけで満足している。そしてその理解は、絶対真理の悟りにたとえるなら、あくまでブラフマンの様相だけの理解である。もう少し見識を深めた学徒は太陽の表面についても知っていて、これは絶対真理のパラマートマーの様相を理解している人にたとえられる。そして太陽という天体の核心にまで知識が及ぶ人は、至高絶対真理の人格を持つ様相を悟っている人にたとえられる。ゆえに、どの学徒も絶対真理という共通の対象について学んでいるのではあるが、バクタ、すなわち絶対真理のバガヴァーンとしての様相を悟っている者が最高の超越主義者なのである。太陽光線、太陽の表面、太陽という天体の内部は切り離すことはできないが、それぞれの様相だけを学んでいる学徒は、同じカテゴリーには属さないのだ。
 ヴィヤーサデーヴァの父であり、偉大な権威者であるパラーシャラ・ムニは、「バガヴァーン」というサンスクリット語を次のように説明している。「あらゆる富、力、名声、美、知識、放棄、そのすべてを備えた至高人格神をバガヴァーンと呼ぶ」と。たいへんな資産家、比類なき力を有する人、世に名の知れ渡った人、きわめて美しい人、完全なる知識を備えた人、何事にもまったく無執着な人。そういう人は大勢いるが、そのすべてを兼ね備えているのは、クリシュナ以外に誰もいない。それはクリシュナが至高人格神だからである。ブラフマーであれ、主シヴァであれ、ナーラーヤナであれ、いかなる生命体であろうとクリシュナほど完全な富を持つ者はいない。ゆえに主ブラフマーは自著『ブラフマ・サンヒター』の中で、主クリシュナこそ至高人格神であると断言しているのだ。主に優まさるのはもちろんのこと、肩を並べられる者などいない。主は根源の主であり、ゴーヴィンダとして知られるバガヴァーンであり、あらゆる原因の至高の原因なのである。
īśvaraḥ paramaḥ kṛṣṇaḥ
sac-cid-ānanda-vigrahaḥ
anādir ādir govindaḥ
sarva-kāraṇa-kāraṇam
 「バガヴァーンの質を有する者は数多くいるが、クリシュナに優る者はいない。ゆえにクリシュナは至高なのである。クリシュナは至上の人格を備えたお方であり、そのお体は永遠であり、知識と至福に満ちている。このお方こそ原初の主ゴーヴィンダであり、あらゆる原因の原因なのである」(『ブラフマ・サンヒター』5-1)。
 バーガヴァタムの中でも至高人格神の化身の名前が数多く挙げられているが、至高人格神から拡張されたその数えきれない化身のうち、クリシュナこそが根源のお姿であると書かれている。
ete cāṁśa-kalāḥ puṁsaḥ
kṛṣṇas tu bhagavān svayam
indrāri-vyākulaṁ lokaṁ
mṛḍayanti yuge yuge
 「ここに挙げられている主の化身はすべて、至高主の完全拡張体、あるいは完全拡張体の部分体であるが、クリシュナは至高人格神そのものである」(『シュリーマド・バーガヴァタム』1-3-28)。
 ゆえにクリシュナは根源の至高人格神であり、絶対真理であり、至高の魂と非人格的ブラフマンの両方の源なのである。
 この至高人格神を前にして、アルジュナの親族を思う嘆きは実に見苦しい。だからクリシュナは「クタハ」 つまり、「どこからそのような言葉が…」と、驚きの声を上げられたのだ。アーリヤ人として知られる教養ある階級の者の口から、そのような不道徳な言葉が出るとは予測していなかったからである。「アーリヤ人」という言葉は、人生の意義を知り、精神的な悟りを基盤としている文明人に対して使われる。ここでいう人生の意義とは、絶対真理であるヴィシュヌ、すなわちバガヴァーンを悟ることである。しかし物質的な人生観に身を任せている人は、 そのことを知らず、物質世界のうわべに心を奪われてしまっているため、真の自由とは何なのかがわかっていない。 物質的な束縛から解放されることの意味がわかっていない人を、非アーリヤ人と呼ぶ。アルジュナはクシャトリヤであるにもかかわらず、戦うという定められた義務を放り出そうとしていた。このような臆病な行為は、精神生活の向上に役立たないだけでなく、この世に名を残すことにもつながらない。こんなアルジュナの親族への同情なるものを、主クリシュナは決して認めなかったのである。
klaibyaṁ mā sma gamaḥ pārtha
naitat tvayy upapadyate
kṣudraṁ hṛdaya-daurbalyaṁ
tyaktvottiṣṭha paran-tapa

訳語

翻訳

プリターの子よ、女々しいことを考えるな。
それは君にまったく不似合いだ。
敵をこらしめ罰する者よ
卑小な心を捨てて、さあ立ち上がれ!

解説

 アルジュナはここで「プリターの子」と呼ばれているが、プリターとはクリシュナの父ヴァスデーヴァの妹である。つまりアルジュナはクリシュナと血縁関係にあった。クシャトリヤの家系に生まれた男子が戦いを拒めば、それは名ばかりのクシャトリヤであり、同様にブラーフマナの息子が不敬な行いをすれば、名前だけのブラーフマナということになる。このように、クシャトリヤやブラーフマナの質を備えていない息子は、父親にとって何の値打ちもない。アルジュナにはそんな息子になってほしくない と、 クリシュナは思われたのだ。アルジュナが無二の親友であったからこそ、クリシュナは共に戦車に乗り、直々に指示を与えてくださる。これほどの名誉にありながら戦いを避けるなら、アルジュナの名声は地に落ちよう。だからこそクリシュナは「そのような態度は君にふさわしくない」とおっしゃったのだ。尊敬してやまないビーシュマや親族を思う高潔な気持ちを放棄の理由にするかもしれないが、このたぐいの寛大さは心の弱さ以外の何物でもない、とクリシュナは考えていらっしゃる。権威者たる者には、そのような見せかけだけの寛大さは認められないのだ。ゆえにアルジュナともあろうものが、クリシュナ自らが御者となって導いてくださるこの場において、寛大さだの、いわゆる非暴力だのを唱えるべきではない。
arjuna uvāca
kathaṁ bhīṣmam ahaṁ saṅkhye
droṇaṁ ca madhusūdana
iṣubhiḥ pratiyotsyāmi
pūjārhāv ari-sūdana

訳語

翻訳

アルジュナ言う。
敵を滅ぼすお方よ、マドゥを殺したお方よ
ビーシュマやドローナのような方々に
どうして弓を向けられましょうか。
私はむしろ彼らを崇拝したいのです。

解説

 祖父であるビーシュマや、恩師ドローナーチャーリャのような尊い年長者には、常に敬意を抱いてなくてはならない。たとえ彼らのほうから攻撃をしかけてきても、反撃してはならない。口論という言葉だけの争いであっても、年長者に口ごたえしてはならない、というのが一般的な作法である。たとえ年長者から不愉快な扱いを受けたとしても、同じように仕返しをしてはならない。このような常識の中でアルジュナが年長者に刃向かうなど、どうしてできようか? クリシュナにしても、祖父であるウグラセーナや、恩師であるサーンディーパニ・ムニを攻撃したことなどあったであろうか? アルジュナの主張にはこのような思いも込められていた。
gurūn ahatvā hi mahānubhāvān
śreyo bhoktuṁ bhaikṣyam apīha loke
hatvārtha-kāmāṁs tu gurūn ihaiva
bhuñjīya bhogān rudhira-pradigdhān

訳語

翻訳

師と仰ぐ立派な人々を殺すくらいなら
私は物乞いをして暮らすほうがよい。
たとえ欲深でも年長の人を殺せば
戦利の物は血でのろわれましょう。

解説

 聖典の法規では、もし師たる者が忌まわしい行いに手を染めたり、正気を失って善悪の判断がつかなくなってしまったときは、弟子は師を見捨ててもよいとされている。ビーシュマやドローナーチャーリャはドゥルヨーダナから財政的援助を受けていたために、彼の側についた。しかし本来、経済的な理由などで味方すべきではなかったのだ。この状況からして、彼らは師として尊厳を失っていたことになる。それでもふたりを年長者として敬っていたアルジュナは、彼らを殺して得た物質的利益を享受するということは、血で汚れた戦利品を享受することにほかならないと考えていた。
na caitad vidmaḥ kataran no garīyo
yad vā jayema yadi vā no jayeyuḥ
yān eva hatvā na jijīviṣāmas
te ’vasthitāḥ pramukhe dhārtarāṣṭrāḥ

訳語

翻訳

おお我らはいかにすればよいのか。
敵に勝つべきか、また負けるべきか。
殺せば我らも生を望まぬ。
ドリタラーシュトラの子たちと対陣するとは。

解説

 戦うことがクシャトリヤの義務であると承知のうえで、アルジュナは迷っていた。無益な暴力と知りつつ戦うべきか、それとも戦わずに物乞いとなって生きるべきか。どちら側にも勝算があり、必ず勝つという確信もなかった。たとえ勝利を収めたとしても(そしてこれが正当な戦いであったとしても)、ドリタラーシュトラの息子たちが戦死したとなれば、どれほど苦しい思いをして生きていくことになろうか。この戦いでの勝利は、別な意味での敗北となるのだ。こういったさまざまなアルジュナの思いは、彼が主の偉大な献身者であった証あかしであるばかりか、高い知識を備え、心も体も制御できた人間であったことを物語っている。王家に誕生した身でありながら物乞いをして生きたいと望んだことも、無執着の証拠である。こういった徳の高い質を備え、シュリー・クリシュナという精神の師の教えに信念を持つアルジュナこそ、解脱を得るにふさわしい。感覚を制御できなくては知識を高めることができず、知識と献身なくしては解脱の機会は訪れない。アルジュナは物質的にもすばらしい関係に恵まれてはいたが、それ以上にもっとすばらしい特性を備えていたのである。
kārpaṇya-doṣopahata-svabhāvaḥ
pṛcchāmi tvāṁ dharma-sammūḍha-cetāḥ
yac chreyaḥ syān niścitaṁ brūhi tan me
śiṣyas te ’haṁ śādhi māṁ tvāṁ prapannam

訳語

翻訳

心の弱さゆえに平静を失い
義にかなう道はいずれか迷い果てました。
願わくは最善の法を教えたまえ。
私はあなたの弟子、絶対に服従します。

解説

 物質的な活動を続けるかぎり物事は複雑になり、誰もがやがては困惑する、これは自然の法則である。一歩足を踏み出せば途方に暮れることばかりの世界だからこそ、人は正統な精神指導者に近づいて、人生の目的を正しく手ほどきしてもらわなくてはならない。望んでもいないのに人生は困惑することばかり起こるもの。そこから抜け出すために本物の精神指導者のもとに行きなさいと、あらゆるヴェーダ経典は勧めている。人生にふりかかる困難は、自然に発生する山火事にたとえられる。誰も望んでなどいないのに火事は起こる。同様に、人生には誰も望みなどしない混乱がつきまとう。そういう世界なのだ。だからこそその解決方法を会得し、人生につきまとう混乱から抜け出すためにも、師弟継承上にある正統な精神指導者に近づかなくてはならないと、ヴェーダの叡智が教えてくれている。そういう方に導かれる者は、すべてを知ることができる。だから物質的な混乱の中に居続けないで精神指導者のもとへ行くべきだと、この節は説いているのだ。
 物質的な混乱の中にいる人間とは、どのような人のことであろうか? それは人生につきまとう問題とはいったい何であるかを理解していない人たちである。『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』(3-8-10)では、困惑する者について次のように説明している。yo vā etad akṣaraṁ gārgy aviditvāsmāḻ lokāt praiti sa kṛpaṇaḥ.「人間として生まれたのに人生の問題を解決できず、自己の悟りという科学を知らないまま、猫や犬のようにその生涯を閉じる哀れな者だ」。人間として誕生できることは、生命体にとって最も価値の高い利点である。人間として生まれたことを生かして人生の問題を解決できる。だからこそこの機会を生かさない人間は哀れなのである。反対に、肉体を活用してあらゆる人生の問題を解決するという、知性あふれたブラーフマナと呼ばれる人たちもいる。Ya etad akṣaraṁ gārgi viditvāsmāl lokāt praiti sa brāhmaṇaḥ.
 クリパナと呼ばれるこの哀れな人たちは、人生を物質的にとらえて、家族、社会、国などに過剰な愛情を向けて時間を無駄にしている。人は、妻、子供といった家族に執着しきっているが、そもそも家族とは、単に血のつながった関係でしかない。自分は家族を死から守ることができるし、家族や社会もきっと自分を死の淵から救ってくれるだろうと、クリパナは考えている。そのように家族に執着するのは下等な動物も同じ。動物も子供を守り育てる。家族に執着し、その命を守ってやりたいという自分の思いが人生の混乱を招くことを、知性あるアルジュナはよく心得ていた。戦うことが義務だとわかってはいるが、心の弱さゆえに遂行することができない。だからこそ至高の精神指導者である主クリシュナに決定的な答えを求め、弟子として身を委ねたのである。友達のような口の利き方もやめようと思っている。師と弟子の間に交わされる会話は真剣なものである。精神の師と決めたお方を前にして、真剣に話をしたいとアルジュナは思った。このようにクリシュナは『バガヴァッド・ギーター』という科学を最初に語った精神指導者であり、アルジュナはそのギーターを最初に会得した弟子なのである。アルジュナが『バガヴァッド・ギーター』をどのように理解したかは、ギーターそのものの中に述べられている。にもかかわらず、愚かな俗学者は「人としてのクリシュナに服従する必要などない。生まれることのない内なるクリシュナに従えばよいのだ」と言う。クリシュナには内も外も違いはない。このことも理解できずに『バガヴァッド・ギーター』をわかろうとするとは、これほど愚かなことはないであろう。
na hi prapaśyāmi mamāpanudyād
yac chokam ucchoṣaṇam indriyāṇām
avāpya bhūmāv asapatnam ṛddhaṁ
rājyaṁ surāṇām api cādhipatyam

訳語

翻訳

たとえ地上に無敵の王国を勝ち得て
天国の神々のような力を持つとも
心も枯れ朽ちるこの悲しみを
追い払うことはできません。

解説

 宗教や道徳の原則を盾にして次から次へと反論しているアルジュナだが、どうやら主シュリー・クリシュナという精神指導者の助けなくしては本当の問題解決はできないようである。アルジュナはようやく気づいた。自分の持つ知識なるものは、いざ自分の存在そのものを空虚にしてしまうような大問題が起こったとき、まったく解決の役に立たない。そして主クリシュナのような精神指導者に助けていただかなければ、この混乱を解決することはできないのだと。学校で得た知識も、学問も、名誉ある地位も、人生の問題解決にはまったく意味がない。唯一手を差し伸べてくれるのは、クリシュナのような精神の師だけである。完全にクリシュナ意識に満ちた精神指導者は人生の問題を解決できる。そのような人こそ本物の神聖なる師である。どのような社会的地位にあろうと関係ない。クリシュナ意識という科学の達人こそ本物の精神指導者であると、主チャイタニヤはおっしゃった。
kibā vipra, kibā nyāsī, śūdra kene naya
yei kṛṣṇa-tattva-vettā, sei ‘guru’ haya
 「ヴィプラ(ヴェーダ知識に長けた博識な学者)であろうと、低い家系に生まれた者であろうと、放棄階級にある者であろうと、関係ない。クリシュナの科学に精通している者こそが、完璧かつ真正な精神指導者である」(『チャイタニヤ・チャリタームリタ』マディヤ 8-128)。すなわち、クリシュナ意識という科学の指導者でなければ、本物の精神指導者とはいえないということである。またヴェーダ文献にも次のような記述がある。
ṣaṭ-karma-nipuṇo vipro
mantra-tantra-viśāradaḥ
avaiṣṇavo gurur na syād
vaiṣṇavaḥ śva-paco guruḥ
 「たとえ全ヴェーダ知識に精通した博識なブラーフマナであっても、ヴァイシュナヴァすなわちクリシュナ意識という科学の達人でなければ、精神指導者にはなれない。反対に低い階級に生まれた者でも、ヴァイシュナヴァすなわちクリシュナ意識であれば、精神の師になり得る」(『パドマ・プラーナ』)。
 生老病死という物質存在の問題は、いくらお金があっても経済が発展しても、解決されることはない。世界には、財政豊かで経済的に発展し、生きるためのあらゆる環境が整っている国もたくさんあるが、そんな場所でも物質存在の問題は付きもの。誰もがさまざまな方法で心身の平安を探し求めている。しかし本当の幸せを手に入れる方法はただひとつ。クリシュナの指導を仰ぐしかない。常にクリシュナ意識でいるクリシュナの真正な代理人の力を借りて、『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』といったクリシュナの科学を学ぶことである。
 自分の苦しみや悲しみは、地上に無敵の王国を勝ち得ても、天国の神々と同じ力を得ても、癒されることはないとアルジュナは言った。もし経済発展や快適な生活によって、家族や社会や国家、国際的紛糾などの苦悩を解決できるものなら、アルジュナはこんなことを言わなかったはず。だから彼はクリシュナに保護を求めたのであり、それこそが平和と調和を手に入れる正しい方法なのである。どれほど経済が発展しても、世界を制覇するまでに上り詰めたとしても、物質自然に激変が起こればすべて一貫の終わりであり、それがどの瞬間に起こるかわからない。今や人は月に行こうと必死になっているが、たとえ地球より高い惑星に昇れたとしても、消滅するのは一瞬のことである。このことについて『バガヴァッド・ギーター』は kṣīṇe puṇye martya-lokaṁ viśanti.「善行の果報が尽きたとき、人はまた幸福の絶頂から奈落の底へと落ちていく」と言っている。このような転落を味わった政治家が世界にはどれほどいることであろう。さらにこのような転落はさらなる苦しみや悲しみを生んでゆく。
 苦しみや悲しみから永遠に解放されたいと望むなら、その方法はただひとつ。アルジュナにならってクリシュナに保護を求めることである。アルジュナは問題の解決をクリシュナの手に委ねた。これがクリシュナ意識の道なのである。
sañjaya uvāca
evam uktvā hṛṣīkeśaṁ
guḍākeśaḥ paran-tapaḥ
na yotsya iti govindam
uktvā tūṣṇīṁ babhūva ha

訳語

翻訳

サンジャヤ言う。
懲罰者アルジュナはこのようにクリシュナに申し上げ
「ゴーヴィンダよ、私は戦いません」と
黙り込んでしまいました。

解説

 アルジュナが戦わずに戦場を去り、物乞いになると聞かされたドリタラーシュトラは大いに喜んだに違いない。しかし、続いてサンジャヤがアルジュナのことを「パラン・タパ」すなわち「敵を懲らしめる者」と呼んだため、またがっかりしてしまった。親族への愛着から、しばらくは悲しむ必要のない悲嘆にくれていたアルジュナであったが、至高の精神指導者クリシュナに弟子として身を委ねたのだ。ということは、親族を思うがゆえの的外れの嘆きからまもなく解放され、クリシュナ意識という完璧な自己の悟りの知識に目覚めて、立ち上がるに違いない。そしてクリシュナに啓発を受けたアルジュナは、間違いなく最後まで戦い抜くだろう。ドリタラーシュトラの喜びは一瞬のうちに消えてしまった。
tam uvāca hṛṣīkeśaḥ
prahasann iva bhārata
senayor ubhayor madhye
viṣīdantam idaṁ vacaḥ

訳語

翻訳

バラタの子孫よ
するとクリシュナはにっこりと微笑み
両軍の間で悲しみに沈むアルジュナに向かって
このように語られました。

解説

この会話は、フリシーケーシャとグダーケーシャという親友の間で交わされたものである。友人としては同等であったが、一方が他方の弟子になると申し出たのだ。自分の弟子になると決めた友を前に、クリシュナの顔は微笑んでいた。万物の主であるクリシュナは常に至高の立場におられる。それでも献身者の望みに応じて、友になったり、子になったり、恋人になったりしてくださる。そして師として受け入れたいと望まれたときには、ただちに威厳ある精神の師として弟子に接してくださるのだ。師と弟子のこの会話は両軍の目の前で交わされたが、これはすべての者の益となるためである。すなわち『バガヴァッド・ギーター』は特定の人、社会、集団のために語られたのではなく万人に向けたものであり、友も敵も等しく耳を傾ける権利が与えられているのである。
śrī-bhagavān uvāca
aśocyān anvaśocas tvaṁ
prajñā-vādāṁś ca bhāṣase
gatāsūn agatāsūṁś ca
nānuśocanti paṇḍitāḥ

訳語

翻訳

至高人格神は語る。
博学なことを君は話すが
悲しむ値打ちのないことを嘆いている。
真理を学んだ賢い人は
生者のためにも死者のためにも悲しまぬ。

解説

 主はすぐさま師としての立場をとり、間接的に「愚か者よ」と弟子を叱り、こうおっしゃった。「お前はまるで学ある者のように話しているが、学ある者とはどういう者かわかっていない。体とは何か、魂とは何か、これを知る者こそ真に学ある者であり、生きていようと死んでいようと、いかなる体の変化にも嘆いたりはしない」と。あとの章で説明されていくことだが、知識とは、物質と精神、およびその両者を支配している者を知ることである。政治的、社会的なことより、宗教原則をもっと重要視すべきだとアルジュナは主張するが、物質と魂および至高主に関する知識は、宗教原則よりさらに重要だということを彼は知らなかった。この肝心なことを知らないのであるから、博識ぶった言葉を並べるべきではなかった。真に学ある者ではなかったからこそ、嘆く必要のないことを嘆き続けていたのである。この世に誕生した体はいつか滅びゆく運命を背負っている。それは明日かも、また今日かもしれない。つまり体は魂ほど重要ではないのである。このことを理解している者こそ真に学ある者であり、そのような人は物質にすぎない体の状態がどうであれ、嘆いたりはしないのだ。
na tv evāhaṁ jātu nāsaṁ
na tvaṁ neme janādhipāḥ
na caiva na bhaviṣyāmaḥ
sarve vayam ataḥ param

訳語

翻訳

私も、君も、ここにいる王たちも
かつて存在しなかったことはなく
将来、存在しなくなることもない。
始めなく終わりなく永遠に存在し続けるのだ。

解説

 『カタ・ウパニシャッド』や『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』といったヴェーダ文献には、「生命体はそれぞれがとった行動と、それにともなう反動に応じて、数えきれない種類が存在する。そして至高人格神はそのすべてを維持なさっている」とある。またこの至高人格神は完全部分体という形で、すべての生命体のハートの中にも住んでおられる。完全かつ永遠の平安を手にすることができるのは、自己の内にも外にも同じ至高主が存在しておられることが理解できる神聖な人間だけである。
nityo nityānāṁ cetanaś cetanānām
eko bahūnāṁ yo vidadhāti kāmān
tam ātma-sthaṁ ye ’nupaśyanti dhīrās
teṣāṁ śāntiḥ śāśvatī netareṣām
(『カタ・ウパニシャッド』2.2.13)
 ここでアルジュナにヴェーダの真理が語られた。そしてそれと同じ真理が、乏しい知識で博識ぶるすべての者たちにも授けられたのだ。主御自身もアルジュナも、また戦場に集まったすべての王たちも皆、永遠に個別の意識を持つ存在であり、制約された状態であろうと解放された状態であろうと、主がすべての生命体を永遠に維持していると、自らはっきりとおっしゃっている。至高主は至高なる意識を持つ個別の存在であり、主の永遠の友であるアルジュナやそこに集まった王たちも、やはり永遠に個別の意識を持つ存在である。過去も未来もずっと個別の存在であり続けるのだ。過去には個々の存在ではなかったというわけでもないし、永遠に個人としてあり続けることはないというわけでもない。彼らの個別性は過去にもあったし、これからもずっと個別であり続けるのだ。だから誰のことも嘆く必要はないのである。
 個々の魂は解放を得るとマーヤーという幻想の覆いが取れ、非人格的なブラフマンに溶け込んで個別性を失う、というのがマーヤーヴァーディー※の理論であるが、至高の権威者である主クリシュナはこれを認めない。また制約された状況にあるときだけ個別性が表れるという理論も支持されてはいない。ウパニシャッドで確証されているように、主もすべての生命体も、その個別性は永遠に続くとクリシュナは明言なさっている。クリシュナは幻想に惑わされることがないため、その言葉には絶対の権威がある。もし個別性というものが真実でないなら、未来においてまでクリシュナが強調なさるはずがない。

 「クリシュナの語っている個別性とは物質面のことであって、精神面のことではない」とマーヤーヴァーディーは反論するかもしれない。その主張を受け入れたとして、ではクリシュナの個別性はどう考えればいいのだろうか? クリシュナは過去においても、未来においても、自らの個別性を断言しておられる。さまざまな方法でそれを確証され、人格をもたないブラフマンも御自身に従属するものであると宣言しておられる。クリシュナはずっと精神的個別性を保ち続けているのだ。もしクリシュナがそれぞれの意識で制約され続けている一般の生命体と同じなら、そんなクリシュナの語った『バガヴァッド・ギーター』など、権威ある経典とは呼べなくなってしまう。人間の弱さである4つの欠陥がある普通の人には、耳を傾けて聴くに値する教えを説くことはできない。『バガヴァッド・ギーター』に肩を並べる書物など存在しないのだ。クリシュナを普通の人だと考えた時点で、ギーターは重要なものでなくなってしまう。「この節に使われている複数形は慣習的なものであり、体のことを表している」とマーヤーヴァーディーは主張する。しかしこれまでの節で肉体的観念は否定されているのだ。クリシュナともあろうお方が、先には生命体を肉体としてとらえることをはっきりと禁じておきながら、あとになって形式的な肉体観念をまた持ち出すようなことをなさるわけがない。したがってここで複数形になっている個別性とは、あくまで精神的なものを指しているのであり、このことはシュリー・ラーマーヌジャなど偉大なアーチャーリャたちも確証している。またギーターの至る所で、主の献身者たちはこのことを理解しているとも書いてある。クリシュナが至高人格神であることに妬みを持つ者は、この偉大な文献の真意に触れることができないのだ。非献身者がギーターの教えを研究しようとする姿勢は、蜂蜜の入った瓶を外からなめている蜂のようなもの。瓶の蓋を開けないかぎり、蜜の味はわからない。同様に、本書の第4章にも書かれているように、『バガヴァッド・ギーター』の神秘を理解できるのは献身者だけであって、その他の人々にはわからない。ましてや主の存在そのものを妬む者は、ギーターに触れることすらできない。したがってマーヤーヴァーディーによるギーターの解説は、人々を真理から最も遠い所に誘導するものである。主チャイタニヤは、マーヤーヴァーディーの解説を読むことを固く禁じ、彼らの哲学を受け入れる者はギーターの神秘を理解する力を完全に失ってしまうと警告されている。もし個別性というものが、私たちが経験している世界だけに関するものなら、主がここで教えを説く必要はない。個々の魂と主は永遠に別の存在であり、ヴェーダ経典もこのことを裏付けている。

※マーヤーヴァーディーとは、シャンカラーチャーリャに従う非人格主義者の一派。世界は幻想であり、ただ非人格のブラフマンだけが存在すると主張する。
dehino ’smin yathā dehe
kaumāraṁ yauvanaṁ jarā
tathā dehāntara-prāptir
dhīras tatra na muhyati

訳語

翻訳

肉体をまとった魂は
幼年、青壮年を過ごして老年に達し
死後捨身してほかの体に移る。
自己の本性を知る魂はこの変化を平然と見る。

解説

 生命体はすべて個々の魂であり、毎瞬間体を変化させながら子供、若者、老人へと姿を変えていく。体はそのように変化しても、内なる精神魂は何の変化もしない。個々の魂は死とともにその体を替え、別の体へと移る。アルジュナはビーシュマやドローナのことをとても気にしているが、その死を嘆くことはない。物質的な体であれ、精神的な体であれ、別の体で誕生してくることは間違いないのだから。むしろ、彼らが古い体から新しい体に替えて新しいエネルギーで満ちることを喜ぶべきである。次の体が喜ばしいものかそうでないかは、今生でどんな行いをしたかによって決まる。ゆえに高貴な魂であるビーシュマやドローナは、来世で精神的な体を得るに違いない。そうでなかったとしても、少なくとも天界の惑星に行ける体を得て、物質存在としては最高の喜びを手に入れるであろう。どちらにしても嘆く必要などまったくないのである。
 個々の魂、至高の魂、物質と精神の特質。これらについて完全なる知識を持つ人をディーラ、すなわち最も分別ある者と呼ぶ。体の変化などに決して惑わされたりしない人のことである。
 「精神魂は皆同一である」というマーヤーヴァーディーの理論は決して受け入れられない。魂を切り刻んで、バラバラの断片にすることなどできないからである。もしそれができるなら、至高主も分裂したり変化したりするということになり、これは「至高の魂は不変なり」という原則に反する。ギーターで確証されているように、至高主の断片部分は永遠(サナータナ)に存在し、クシャラと呼ばれる。これは物質自然に堕ちる傾向があるという意味である。彼らは永遠であるため、解脱したあとも同じ個々の魂であり続ける。しかしひとたび解脱できたなら、至高人格神とともに至福と知識に溢れた生活を永遠に送ることができるのだ。個々の体に宿り、パラマートマーとして知られる至高の魂については、反映の理論を当てはめてみればよい。至高の魂は個々の生命体とは異なる。空が水面に映るとき、太陽も月も星も映し出されている。数々の星は生命体、太陽あるいは月は至高主にたとえられる。微小な魂の代表がアルジュナであり、至高の魂は至高人格神シュリー・クリシュナを表している。第4章の初めで明らかにされていくが、両者は同じレベルの存在ではないのだ。もしアルジュナがクリシュナと同等のレベルにあるなら、もはやクリシュナはアルジュナに優っていることにはならず、教える者と教えを授かる者という関係は成り立たなくなる。もし両者ともに幻想エネルギー(マーヤー)に惑わされているとすれば、教えたり教えられたりするはずもない。マーヤーの罠にかかった者が権威ある指導者になれるはずがないのだから、そこに取り交わされた教えはまったく無意味である。このような理由から主クリシュナは至高主であり、マーヤーに惑わされて何もかも忘れてしまう生命体であるアルジュナを、はるかに超えたお方なのだということを認めざるをえない。
mātrā-sparśās tu kaunteya
śītoṣṇa-sukha-duḥkha-dāḥ
āgamāpāyino ’nityās
tāṁs titikṣasva bhārata

訳語

翻訳

クンティーの子よ
苦楽は夏冬の巡るごとく去来するが
すべて感覚の一時的な作用に過ぎない。
バラタの子孫よ
それに乱されず耐えることを学べ。

解説

 義務をきちんと遂行するには、幸不幸といった一時的なものに心を乱されないよう修練しなければならない。ヴェーダの指示の中には、早朝の沐浴はマーガと呼ばれる月(1月~2月)であっても欠かしてはならない、というのがある。たいへん寒い時期ではあるが、宗教原則を守る男性は迷いなく沐浴する。同様に女性は、5月、6月といった最も暑い夏の日も当然のように台所で火を使う。気候がどうであれ、義務は遂行しなくてはならないのだ。同様に、クシャトリヤにとっては戦うことが宗教原則であり、たとえ相手が友であれ親族であれ、定められた義務をおろそかにしてはならない。マーヤー(幻想)の罠から解放させてくれるのは、知識と強い信仰心だけである。そしてその知識を得るためには、定められた義務や宗教原則を守らなくてはならないのだ。
 ここでアルジュナは2通りの名前で呼びかけられているが、これにも重要な意味がある。カウンテーヤという名は母方の立派な血縁を表していて、バーラタという名は父方家系の偉大さを示している。すなわちアルジュナは両側から偉大な天性という遺産を受け継いでいるのだ。大いなる遺産には、それ相応の義務を果たさなければならない責任がともなう。ゆえに彼は戦いを避けることはできないのである。
yaṁ hi na vyathayanty ete
puruṣaṁ puruṣarṣabha
sama-duḥkha-sukhaṁ dhīraṁ
so ’mṛtatvāya kalpate

訳語

翻訳

人類の中で最も優れた男(アルジュナ)よ
幸福と不幸に心を乱さず
常に泰然としてゆるがぬ者こそ
解脱を得るにふさわしい。

解説

 精神的な悟りを高めるという固い決意を持ち、苦しみに見舞われても幸せが訪れても同じように心乱さずにいられる人は、解脱を得るにふさわしい。ヴァルナーシュラマ制度の第四段階であるサンニャーサと呼ばれる放棄階級は、忍耐の場である。しかし人生を完成させたいと真剣に望む者は、いかなる困難が待ち受けていようともためらいなくサンニャーサの階級を受け入れる。たいていの場合、困難とは妻や子と別れ、家族の関係を断ち切ることに始まる。しかしこの難局をくぐり抜けた者は、間違いなく精神的悟りを手にすることができる。だからこそアルジュナは、家族や家族同様に愛する者たちと戦うことがいかに苦しくとも、クシャトリヤとしての義務を果たせと勧められているのだ。主チャイタニヤは24才でサンニャーサになられたが、主を頼りにする年老いた母と若い妻の面倒をみる者は誰もいなかった。それでも主はより大きな目的のためにその道を選び、より高い責務を確実に遂行されたのだ。これが物質の束縛から解放される方法である。
nāsato vidyate bhāvo
nābhāvo vidyate sataḥ
ubhayor api dṛṣṭo ’ntas
tv anayos tattva-darśibhiḥ

訳語

翻訳

物質と精神の本性を学んで
真理を徹見した人々は
非実在(肉体)は持続せず
実在(魂)は永遠に変化しないことを知る。

解説

 肉体は絶えず変化し、一時も同じ状態でいることはない。無数の細胞が作用と反作用を繰り返すことによって肉体が毎瞬間変化していることは、現代医学も認めている。そして体は成長し、やがては老年に達する。しかし体や心がどれほど変化しても、精神魂は変化することなく永遠に存在し続ける。これが物質と精神の違いである。体は無常であり、魂は永遠である。これは、絶対真理に人格があると考える者、人格がないと考える者を問わず、真理を体得したあらゆる階級の人が確証している結論である。『ヴィシュヌ・プラーナ』(2-12-38)には、ヴィシュヌとその住居は自ら光を放つ精神的存在である(jyotīṁṣi viṣṇur bhuvanāni viṣṇuḥ)と書かれている。「存在」と「非存在」という言葉は、精神と物質のために存在する。これが真理を知るすべての者の見解である。
 そしてこれが無知に惑わされる生命体に与えられた、主の最初の教えである。無知を追い払うことによって、崇拝する者とされる者との永遠の関係が再確立され、全体の一部分である生命体と、全体そのものである至高人格神の違いが理解できるようになる。自己について徹底的に研究すれば、自己と至高なる存在との関係は部分と全体の関係であると、わかるようになる。『シュリーマド・バーガヴァタム』はもちろんのこと『ヴェーダーンタ・スートラ』でも、至高主は万物の起源であるとされている。万物は、優勢の質と劣勢の質が連鎖することによって生じる。生命体は優勢の質であり、このことは第7章で明かされる。「エネルギー」と「エネルギーに溢れている存在」は同じであるが、エネルギーに溢れた存在は至高主であり、エネルギーあるいはその質は至高主に付随したものだと解釈されている。召使は主人に仕える身であるように、また生徒は先生に教えられる立場であるように、生命体はいつも至高主に従う立場にあるのだ。無知の魔力に魅せられているかぎり、この明白なる知識を理解することはできない。このような無知を追い払うために主は『バガヴァッド・ギーター』を説き、生きとし生ける者すべてにとっての永遠の教科書とされたのである。
avināśi tu tad viddhi
yena sarvam idaṁ tatam
vināśam avyayasyāsya
na kaścit kartum arhati

訳語

翻訳

体内にあまねく充満しているものは
決して傷つかず壊されもしない。
たとえいかなる人でも方法でも 
不滅の魂を滅ぼすことはできないと知るべきだ。

解説

 この節では、体全体に広がる魂の本質についてさらに詳しく説明されている。体中に広がっているもの、それは意識である。これについては誰でもわかるだろう。体の一部に、あるいは体全体に受けた苦痛や快感は誰もが感じる。しかしこの意識の広がりは、その人の体の中だけに限られている。自分の苦痛や快楽はほかの人にはわからない。つまり個々の体はそれぞれの魂がまとっているものであり、それぞれに意識があるということが魂の存在する標しるしなのである。そしてこの魂の大きさは毛先の1万分の1であると、『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』(5-9)に明記されている。
bālāgra-śata-bhāgasya
śatadhā kalpitasya ca
bhāgo jīvaḥ sa vijñeyaḥ
sa cānantyāya kalpate
 「毛先を100等分し、そのひとつをさらに100等分する。これが精神魂の大きさである」。
 また別の箇所でも同じ説明がある。
keśāgra-śata-bhāgasya
śatāṁśaḥ sādṛśātmakaḥ
jīvaḥ sūkṣma-svarūpo ’yaṁ
saṅkhyātīto hi cit-kaṇaḥ
 「精神的原子は無数にあり、その大きさは毛先の1万分の1である」。
 すなわち精神魂という個々の部分は、物質原子より小さい精神的原子であり、その数は計り知れない。この非常に小さい精神的スパークは、肉体が存在する基本原理となっていて、体中に影響を与えている。薬の効果が体中に影響を及ぼすのと同じである。精神魂の気流が体中で意識として感じられる、それこそ魂が存在する証拠なのだ。肉体から意識を取れば死体になるのは誰でもわかること。いかなる物質的手段を用いても、死体に意識を甦らせることはできない。つまり意識は物質の組み合わせでできているのではなく、精神魂があるからこそ存在するのである。『ムンダカ・ウパニシャッド』(3-1-9)では、微小な精神魂についてさらなる説明がなされている。
eṣo ’ṇur ātmā cetasā veditavyo
yasmin prāṇaḥ pañcadhā saṁviveśa
prāṇaiś cittaṁ sarvam otaṁ prajānāṁ
yasmin viśuddhe vibhavaty eṣa ātmā
 「魂の大きさは微小であり、完璧な知識なくしては知覚できない。この微小な魂は心臓の中に位置し、5つの気流(プラーナ、アパーナ、ヴィヤーナ、サマーナ、ウダーナ)の中を浮遊して、生命体を覆っている体全体に影響を与えている。この5つの物質的気流の汚れから浄化されたとき、魂はその精神的力を発揮する」。
 ハタ・ヨーガは、純粋な魂を取り囲むこの5つの気流をさまざまな座法によってコントロールする方法である。微小な魂を物質的環境から解放することがその目的であり、物質的な利点のためではない。
 この極めて小さな魂の本質はすべてのヴェーダ経典が認めており、健全な人間なら実際に修練する中で感じることができる。この微小の魂が至る所に広がるヴィシュヌ・タットヴァだと考えるのは、正気な人間ではない。
 微小な魂は特定の体の隅々にまで影響を与える。すべての生命体のハートの中にいるが、物質的な科学者の理解を超えた微小サイズであるため、「魂は存在しない」などと愚かな主張する者がいる、と『ムンダカ・ウパニシャッド』は説明している。微細な個々の魂は間違いなく存在し、至高の魂と共にハートの中にいる。そして体を動かすエネルギーのすべてがこの部分から送り出され、肺から酸素を運ぶ赤血球は魂からエネルギーを取り入れているのである。魂がそこから去ってしまえば血液の作用、すなわち融合機能が停止する。医学は赤血球の重要性を認めてはいるが、エネルギーの源が魂であることを突き止めてはいない。ただ、体のエネルギーの源が心臓であることは認めている。
 宇宙的大霊の微小部分は、太陽光線の光子にたとえられる。太陽光線には輝く光の粒子が無限に存在するのと同様に、至高主から放たれるプラバー、すなわち高位エネルギーと呼ばれる光線には、至高主の断片的な部分である微細な火花が無限に存在している。ゆえにヴェーダ知識に従おうと、近代科学に従おうと、体内の精神魂の存在を否定することはできない。この魂の科学について、至高人格神が自ら『バガヴァッド・ギーター』の中で明確に説明しているのだ。
antavanta ime dehā
nityasyoktāḥ śarīriṇaḥ
anāśino ’prameyasya
tasmād yudhyasva bhārata

訳語

翻訳

生きとし生けるものは永遠不滅であり
その実相は人知では測りがたい。
しかしその肉体は、いずれ朽ち果てる。
ゆえに戦え、バラタの子孫よ!

解説

 肉体は滅びる。このことは自然の法則である。その時は今すぐ訪れるかもしれないし、あるいは百年先かもしれない。単に時間の問題である。永遠にあり続けることなどできない。しかし精神魂は非常に微細であり、敵の目に見えることもなければ、殺されることもない。前節にもあるように、あまりにも小さいため大きさを測ることもできない。生命体は殺されることもないし、かといって体を永久に保ち続けることもできない。ゆえに、どちらの観点からしても嘆くことなどないのだ。宇宙全体としての大いなるスピリット(霊)の微小部分は、それぞれの働きに応じた肉体を得る。そこで宗教上の法則を守ることが必要となる。「生命体は光なり」と『ヴェーダーンタ・スートラ』は承認している。至高の光の一部分だからである。太陽光線が宇宙全体を支えているのと同様に、魂の光が肉体を支えている。精神魂が去ったとたん、肉体は腐敗し始める。つまり体を維持しているのは精神魂だということである。肉体そのものはさほど重要ではない。だからこそ主はアルジュナに「肉体概念にとらわれて宗教の決まりを無視してはならない。戦え!」と勧められたのだ。
ya enaṁ vetti hantāraṁ
yaś cainaṁ manyate hatam
ubhau tau na vijānīto
nāyaṁ hanti na hanyate

訳語

翻訳

生命体が他を殺す、また殺されると思うのは
真実相を知らないゆえである。
自己の本性は
殺しも殺されもしないのだから。

解説

 肉体をまとった生命体は武器によって致命傷を負っても、内なるそれ自身は殺されないということを知っていなければならない。精神魂は非常に微細で、いかなる武器であろうと殺すことなどできない。このことはこのあとに続く節の中で証明されていく。微細だからというだけでなく、もともと精神的な存在であるゆえに殺されないのである。殺されるのは肉体だけである。しかし、だからといって肉体を殺しても差し支えないということではない。いかなる者にも暴力をふるうなかれ、というのがヴェーダの教えである。生命体は殺されないからといって、動物の殺害を許すことなどありえない。正当に権威づけられていない殺害は相手が誰であれ非道な行為であり、主の法律はもちろんのこと、国の法律によっても罰せられる。しかしアルジュナの場合は決して気まぐれな殺人ではなく、宗教原則に基づいた戦いなのである。
na jāyate mriyate vā kadācin
nāyaṁ bhūtvā bhavitā vā na bhūyaḥ
ajo nityaḥ śāśvato ’yaṁ purāṇo
na hanyate hanyamāne śarīre

訳語

翻訳

魂にとって誕生はなく死もない。
原初より在りて永遠に在り続け
肉体は殺され朽ち滅びるとも
彼は常住して不壊不滅である。

解説

 至高の魂の微細な一片は、質の面においては至高主と同じであり、肉体のように変化することはない。魂は「不変なもの」つまり「クータ・スタ」と呼ばれることがある。一方で肉体は母体の子宮から誕生し、しばらくその状態を維持し、成長し、副産物をつくり、しだいに衰え、最後には忘却のかなたへ消滅する、という6つの変化を遂げる。ところが魂はそのように変化しない。魂は生まれることはないが、まとうための肉体が誕生する。魂は生まれもしなければ、死にもしない。生まれたものは死ぬ運命にあるが、誕生することのない魂には過去も現在も未来もない。永遠で、常に存在し、原始からある。すなわち魂には、いつ存在するようになったのかという経歴が存在しないということである。体という固定観念をもとに、私たちは魂の誕生だの何だのと変化を探ろうとするが、魂は体のように年をとらない。だからいわゆる老人になっても、少年や青年の頃と同じ気持ちでいるのだ。肉体が変わっても魂には何の影響もない。魂は樹木やその他の物質のように劣化することがないし、副産物をつくることもない。肉体がつくり出す子供という副産物も別の独立した魂であり、その体を持つがために特定の人の子供のように思われるだけのことである。魂があるからこそ肉体は変化するが、魂そのものは何かを産み出すことも、変化することもない。つまり魂は前述の肉体の6変化とは無関係なのである。
 『カタ・ウパニシャッド』(1-2-18)にも同じような一節がある。
na jāyate mriyate vā vipaścin
nāyaṁ kutaścin na babhūva kaścit
ajo nityaḥ śāśvato ’yaṁ purāṇo
na hanyate hanyamāne śarīre
 この節の意味および解説は、『バガヴァッド・ギーター』にあるものと同じであるが、この節には「ヴィパシュチット」という特別なサンスクリット語が使われている。これは「博学な」あるいは「知識ある」という意味である。
 魂は知識に満ち、いつも完全に覚醒した状態でいる。だから意識こそ魂の存在する兆候だと言える。意識があるという事実だけで、ハートの中にそれがあることはわからなくても、魂の存在だけは理解できるはず。太陽は雲に隠れたり、またほかの原因で見えないこともあるが、太陽光は常に射している。だから昼間だとわかるのだ。早朝にわずかでも日が射してくれば、太陽が昇ってきたとわかる。同じように、人間であれ動物であれ、意識があればその体に魂が宿っていることが理解できる。しかし魂の意識は至高主の意識と同じではない。至高の意識は過去、現在、未来のすべてを知り尽くしているのに対し、個々の魂の意識は「忘れる」という傾向を持つ。自分の本性を忘れてしまったら、崇高なクリシュナの教えを学んで啓発されなくてはならない。しかしクリシュナは忘れたりしない。でなければ『バガヴァッド・ギーター』の教えに価値はないであろう。
 魂には2種類ある。微小な魂の一片(アヌ・アートマー)と、至高の魂(ヴィブ・アートマー)である。このことは『カタ・ウパニシャッド』(1-2-20)でも、次のように明記されている。
aṇor aṇīyān mahato mahīyān
ātmāsya jantor nihito guhāyām
tam akratuḥ paśyati vīta-śoko
dhātuḥ prasādān mahimānam ātmanaḥ
 「至高の魂(パラマートマー)と微小な魂(ジーヴァートマー)は、どちらも生命体のハートの中の同じ木に止まっている。至高主の恩寵によって物質的欲望と悲嘆から解放された者だけが、魂の栄光を理解することができる」。あとの章で説明されるとおり、クリシュナは至高の魂の本源であり、アルジュナは自分の本質を忘れた微小な魂である。だからこそ彼はクリシュナから、あるいはクリシュナの正統な代表者(精神指導者)から、啓発を受ける必要があったのである。
vedāvināśinaṁ nityaṁ
ya enam ajam avyayam
kathaṁ sa puruṣaḥ pārtha
kaṁ ghātayati hanti kam

訳語

翻訳

パールタよ
魂は不生不滅にして不壊不変なりと知る者が
どうして誰かを殺し
また誰かに殺されることなどできようか。

解説

 物には何でも用途というものがあり、正しい知識を持つ人は、何をどこでどう使えばよいのかをしっかりわきまえている。暴力も同じで使い道があり、知識ある人はその使い方を知っている。裁判官が殺人犯に死刑を言い渡したからといって、非難を受けることはない。法律に従って下した暴力だからである。人類の法律書である『マヌ・サンヒター』には、殺人犯には死刑を下すべきだと書かれてある。そうすれば殺人犯は犯した大罪のために来世で苦しまなくて済むからである。ゆえに王が殺人犯を絞首刑にするのは、実は本人のためになることなのだ。同様にクリシュナが戦いを命じた場合、その暴力は至上の正義のためのものである。だからアルジュナは、クリシュナのために行う戦闘行為はいわゆる暴力とはまったく別のものだとよく心得て、その指示に従わなくてはならない。どうであれ、人間、すなわち魂は殺されることはないし、また処罰のためにはいわゆる暴力とされる行為も許されるのである。外科手術の目的は患者を殺すことではなく、治すことである。ゆえにクリシュナの指示のもとで行うアルジュナの戦いは完全なる知識に基づいたものであり、罪の反動を受けないのだ。
vāsāṁsi jīrṇāni yathā vihāya
navāni gṛhṇāti naro ’parāṇi
tathā śarīrāṇi vihāya jīrṇāny
anyāni saṁyāti navāni dehī

訳語

翻訳

人が古くなった衣服を捨てて
新しい別の衣服を着るように
魂は古びて役に立たない肉体を脱ぎ捨て
次々と新しい肉体をまとうのである。

解説

 原子ほどの大きさの微小な魂が肉体を変化させていくことは、受け入れざるを得ない事実である。近代の科学者は魂の存在を信じず、かといって心臓を動かすエネルギーがどこから来るのか説明もできない。しかしそんな彼らでも、肉体が幼少期から子供、青年、成人を経て老人へと変わっていく事実は否定できない。老齢の次に起こる変化は、別の体に移ることである。このことはすでに以前の節(2章13節)で説明されている。
 この微小な個々の魂が別の肉体をまとうことを可能にしているのは、至高の魂の恩寵によるものである。 友達の望みを叶えてあげるように、至高の魂は微小な魂の望みを叶えてくださる。『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』や『ムンダカ・ウパニシャッド』のようなヴェーダ経典では、魂と至高の魂との関係を、同じ木で羽根を休める2羽の仲の良い鳥にたとえている。1羽の鳥(微小な個々の魂)は木の実を食べ、もう1羽の鳥(クリシュナ)はその友をただ見つめている。2羽の鳥は質的には同じでも、一方は物質という木の実に心奪われ、他方はそんな友の行動をただ見守っている。クリシュナは見守っている鳥であり、アルジュナはただ食べている鳥である。仲が良いとはいえ、一方は主あるじであり、他方はそのしもべである。この関係を忘れてしまっているために、微小な魂はこの木からあの木へと、すなわち次々と肉体を変えなければならない。微小な魂(ジーヴァ)である鳥は物質の肉体という木に止まってもがき苦しんでいるが、アルジュナがクリシュナの指示を受け入れると決めたように、至高の精神指導者であるもう一方の鳥を受け入れると決めたなら、直ちにあらゆる悲嘆から解放されるのである。このことは『ムンダカ・ウパニシャッド』(3-1-2)や『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』(4-7)にも明記されている。
samāne vṛkṣe puruṣo nimagno
’nīśayā śocati muhyamānaḥ
juṣṭaṁ yadā paśyaty anyam īśam
asya mahimānam iti vīta-śokaḥ
 「2羽の鳥は同じ木に止まっているが、食べているほうの鳥は絶えず切望と落胆を繰り返しながらなんとか木の実を楽しもうとしている。しかしもしどうにかしてもう一方の鳥、すなわち友である至高主のほうに向き直り、その栄光を知ることができたなら、悩める鳥はたちどころにあらゆる苦しみから解放されるのである」。アルジュナはやっと永遠の友であるクリシュナに顔を向け、じかに『バガヴァッド・ギーター』を学びつつある。クリシュナの言葉に耳を傾ければ、主の至高なる栄光を理解でき、一切の苦悩から解放されるのである。
 祖父や恩師のまとう肉体が変わることを嘆くなと、至高主はアルジュナに諭された。正義の戦いで肉体が殺されることによって、これまで肉体の為した行為の反動が一挙に浄化されることを、むしろ喜んであげるべきなのだと。供儀の祭壇に我が身を捧げる者、正当な戦いで命を落とす者は、肉体行為の反動から直ちに浄化され、より高い境地に昇ることができる。ゆえに、アルジュナは嘆く必要などまったくないのである。
nainaṁ chindanti śastrāṇi
nainaṁ dahati pāvakaḥ
na cainaṁ kledayanty āpo
na śoṣayati mārutaḥ

訳語

翻訳

どのような武器を用いても
魂を切り刻むことはできない。
火でも焼けず、水にも濡れず
風にも干からびることはない。

解説

 剣、火の武器、雨の武器、竜巻の武器など、武器にはさまざまあるが、何を用いても精神魂を殺すことはできない。近代の火砲兵器のほかにも、かつては土、水、空気、空間などからできた武器が数多くあったようである。現代の核兵器は火砲兵器の分類に入るが、以前はありとあらゆる種類の物質要素でできた武器が存在した。火の武器での攻撃に対しては、近代科学では知られていない水の武器で応戦した。また現代の科学者たちは知らない竜巻の武器もあった。しかし、いかなる武器を用いようと魂を傷つけることはできないし、科学技術を駆使した武器をいくつ並べようと滅ぼすことなどできないのである。
 どのようにして個々の魂が無知の中に入り幻想エネルギーに覆われてしまうことになったのか、マーヤーヴァーディーには説明できない。個々の魂は根源の至高なる魂と切り離せるわけがない。つまり永遠に至高の魂の一部分なのである。魂は永遠(サナータナ)に微小な個々の存在であるため幻想エネルギーに覆われやすく、至高主との交際から離れてしまう。これは、火花が質的には火と同じでも、火から離れると消えてしまうのと同じである。『ヴァラーハ・プラーナ』では生命体のことを、至高主から独立した一部分であると表現している。『バガヴァッド・ギーター』も、永遠にそういう状態であると述べている。だから幻想から解放されたあとも生命体は独立した個別性を持つのであり、このことは主がアルジュナに授けた教えからも明白である。クリシュナから受けた教えによってアルジュナは解放されたが、決してクリシュナとひとつになってしまったのではない。
acchedyo ’yam adāhyo ’yam
akledyo ’śoṣya eva ca
nityaḥ sarva-gataḥ sthāṇur
acalo ’yaṁ sanātanaḥ

訳語

翻訳

この個々の魂は壊れず、溶けず
燃えることなく乾くことなく
不朽にしてあらゆるところに充満し
不変にして不動、不滅である。

解説

 微小な魂のこのような資質を見ても、個々の魂は、永遠に全体なる魂の微小な一部分であること、そして変わることなくずっと同じで、微小のまま存在し続けることがはっきりわかる。ここに一元論を当てはめることはきわめて難しい。なぜなら個々の魂は決して、同じ質を持つひとつの存在にはならないからである。物質的汚れから解放された微小な魂の中には、精神的な火花として至高人格神の光輝の中にとどまっていたいと望むものもあるが、知性ある魂は至高人格神との交際を望んで、精神界の惑星に入っていく。
 サルヴァ・ガタ(あらゆるところに遍在する)というサンスクリット語は重要である。神の創造物のいたるところに生命体が存在するということは、疑いようのない事実だからである。地上だけでなく、水中、空気中、地中、火の中にさえ、生命体は住んでいる。火の中では死んでしまうという理論は受け入れられない。魂は火にも焼けないと、ここにはっきり明記されているからである。ということは、太陽にもそこに住むのに適した体を持つ生命体が住んでいるということを疑ってはならない。太陽という天体に生命体が住めないのなら、サルヴァ・ガタ(あらゆるところに遍在する)という言葉は無意味になってしまう。
avyakto ’yam acintyo ’yam
avikāryo ’yam ucyate
tasmād evaṁ viditvainaṁ
nānuśocitum arhasi

訳語

翻訳

魂は目に見えず
人知で想像も及ばず
常に変化しないものと知って
肉体のために嘆き悲しむな。

解説

 これまで説明されてきたように、魂の大きさは私たちの物理的な計算では及ばないほどに小さく、いかに高性能の顕微鏡を使っても見ることはできない。すなわち目には見えない存在なのである。その存在に関しては、シュルティすなわちヴェーダの知識による立証でしか説明がつかない。魂の存在を事実として感じられたとしても、それについて詳しく教えてくれる知識はヴェーダのほかにはないのだから、この真実を受け入れなくてはならないのだ。ただ自分より上位の権威ある人の言うことだからという理由だけで受け入れなくてはならないことは、山ほどある。母親という権威者が「この人が父だ」といえば、それを否定できない。母親以外に父親を認知する方法がないからだ。同様に、魂について学ぶには、ヴェーダ経典を勉強する以外に方法がない。言い換えれば、魂は人間の経験的知識では想像もつかないような存在だということである。魂は意識そのものであり、同時にそれを自覚している。このこともヴェーダの声明であるから、受け入れなくてはならない。体は変化するが魂は変化せず、永遠に不変である。至高の魂は無限大であるのに対し、魂は微小である。つまり、変化することのない微小な魂が、至高人格神という無限大の魂と等しくなるなど、決してあり得ない。この概念はヴェーダの中でもさまざまな形で繰り返し語られ、魂という概念が確かであることを表している。物事を間違いなく徹底的に理解するためには、繰り返して述べる必要があるのだ。
atha cainaṁ nitya-jātaṁ
nityaṁ vā manyase mṛtam
tathāpi tvaṁ mahā-bāho
nainaṁ śocitum arhasi

訳語

翻訳

だが、魂(生命の兆候)が誕生と死を
絶え間なく繰り返すものと
君がたとえ考えていたとしても
悲しむ理由は何もない。大勇の士よ。

解説

 肉体を超えた魂という存在を信じない哲学者は、いつの世にもいるもの。彼らは仏教徒と似ている。主クリシュナが『バガヴァッド・ギーター』を語られた当時もそういう哲学者がいたようで、ローカーヤティカや、ヴァイバーシカとして知られていた。生命現象とは、物質がある状態で結合したときに起こるものだというのが、彼らの主張である。現代の物質主義の科学者や唯物論の哲学者たちも、これと同じような考え方をしている。「肉体は物質要素の結合であり、それがある一定の段階になると、物質要素と化学要素が作用し合って生命現象を起こすのだ」と、彼らは言う。人類学もこの哲学が基盤となっている。虚無主義で神への愛を持たない仏教団体はもとより、最近アメリカで流行りになってきた数々の偽宗教団体もこの哲学を支持している。
 たとえアルジュナがヴァイバーシカ哲学派の人たちと同じように魂の存在を信じなかったとしても、やはり嘆く理由はどこにもない。物質要素の化合物を少々無駄にしたからといって、果たすべき義務まで放り出して嘆く人などいるまい。現代の科学および化学戦争では、敵から勝利を勝ち得ようとして莫大な量の化合物を無駄にしているではないか。肉体の衰退とともに、いわゆる魂すなわちアートマーと呼ばれているものも消滅すると、ヴァイバーシカ哲学では説く。ということは、微小な魂が存在するというヴェーダの結論を受け入れようがなかろうが、どちらにせよ、アルジュナが嘆く理由はなかったのだ。彼らの理論でいくと、毎瞬間たいへんな数の生命体が物質から発生したり消滅したりしていることになり、そんな現象にいちいち心を痛める必要はまったくない。また、もし魂の生まれ変わりがないなら、アルジュナは祖父や恩師を殺したために罪深い反動を受けるのではないかと恐れる必要もないはずである。しかし同時にクリシュナは、アルジュナのことを「マハー・バーフ」すなわち「大勇の士よ」と皮肉をこめて呼んでおられる。なぜなら、ヴェーダの知識をまったく無視したヴァイバーシカの理論を、クリシュナは絶対に受け入れないからである。アルジュナはクシャトリヤとしてヴェーダ文化に属する身なのであるから、その原則に従って行動し続けなくてはならないのだ。
jātasya hi dhruvo mṛtyur
dhruvaṁ janma mṛtasya ca
tasmād aparihārye ’rthe
na tvaṁ śocitum arhasi

訳語

翻訳

生まれたものは必ず死に
死したものはまた必ず生まれる。
ゆえに避けられない己の義務を
嘆いてはならない。

解説

 人はどう生きたかによって、次にどんな誕生を迎えるのかが決まる。そしてある期間活動をし終えると、次に生まれ変わるために死ぬ。このようにして人は解放を得ることなく、何度も何度も生と死を繰り返す。しかし、だからといって不必要な殺生や屠殺、戦争をして良いわけではない。ところが人間社会では、法や秩序を守るために暴力や戦争が避けられない要因となっている。
 クルクシェートラの戦争は至高主の意志であり、起こるべくして起こった。正当な理由で戦うのはクシャトリヤの義務である。アルジュナは果たすべき義務を果たそうとしているのであるから、親族が命を落とすことを恐れたり、そのことで苦しむ必要はないのだ。戦争での殺人は法に触れないので罪にはならず、その意味からしても彼が心配しているような反動を受けることはない。果たすべき義務を避けて通ったからといって、親族の死を止められるわけではなく、それどころか誤った判断を下したために自分が堕落していくことになるのだ。
avyaktādīni bhūtāni
vyakta-madhyāni bhārata
avyakta-nidhanāny eva
tatra kā paridevanā

訳語

翻訳

万物はその始めにおいて姿、形なく
途中から姿をあらわし
終わり滅すれば、また姿をなくす。
この事実のどこに悲しむ必要があろうか。

解説

 魂の存在を信じる者と信じない者という2種類の哲学者がいることは認めたとして、どちらの場合も嘆く必要などない。ヴェーダの知識に従う者は、魂の存在を信じない者を「無神論者」と呼ぶ。たとえこの無神論者の理論を受け入れたとしても、やはり悲嘆にくれることはない。魂の存在の有無は別にしても、物質要素は物が創造される以前は目に見えない状態にある。空気から空気が生じ、空気から火が生じ、火から水が生じ、水から土が生じるように、万物はあまりにも小さくて、姿、形が明らかでない状態から姿を現してくる。土からはさまざまなものが現れる。高層ビルも土から現れたものの一例である。そしてその現れていた物が壊れて分解されてしまうと、また見えない状態になり、原子という基の形になって存在する。すなわちエネルギー保存の法則というものがあり、時が経つにつれて物質は現れたり消えたりするように見えても、エネルギーそのものは不変なのである。ならば、現れているから、いないからといって、なぜ嘆く必要があろうか? 見えないからといって、物がなくなったわけではない。すべての要素は初めにも終わりにも顕現せず、ただ途中の段階にだけ姿を現しているということであり、実質的には何の違いもないのだ。
 また『バガヴァッド・ギーター』が述べているように、物質の体は時と共に滅びる(antavanta ime dehāḥ)が、魂は永遠である(nityasyoktāḥ śarīriṇaḥ)というヴェーダの結論を受け入れるなら、肉体は衣服のようなものであることを常に忘れてはならない。ならば、服を着替えることを嘆く必要などあるだろうか? 永遠の魂にとって肉体は実際には存在するものではなく、夢のようなものにすぎない。夢の中では空を飛んだり王様になったりするが、夢から覚めれば飛んでもいないし、王でもない。物質の体は存在しないのだということを基本において自己を悟れ、とヴェーダの知恵は勧める。ゆえに魂の存在を信じようと信じまいと、肉体を失うことを嘆く理由など、どこにもないのである。
āścarya-vat paśyati kaścid enam
āścarya-vad vadati tathaiva cānyaḥ
āścarya-vac cainam anyaḥ śṛṇoti
śrutvāpy enaṁ veda na caiva kaścit

訳語

翻訳

魂の神秘を見て驚嘆する者あり
その驚くべき神秘を語る者あり
その神秘について耳を傾ける者あり。
しかしそれ以外の者は、聞いても理解できない。

解説

 『ギートーパニシャッド』は大部分が各ウパニシャッドの原則に基盤をおいたものであるため、『カタ・ウパニシャッド』(1-2-7)の中に次のような節があっても驚くことではない。
śravaṇayāpi bahubhir yo na labhyaḥ
śṛṇvanto ’pi bahavo yaṁ na vidyuḥ
āścaryo vaktā kuśalo ’sya labdhā
āścaryo ’sya jñātā kuśalānuśiṣṭaḥ
 微小な魂が大きな動物の中にも、バニヤン樹のような巨大な木の中にも、ほんのわずかなスペースに万も億もひしめく細菌の中にも宿っているというのは、驚愕の事実である。宇宙最初の生命体であるブラフマーにも教えを授けた、知識における至高の権威者が説明してくださっているにもかかわらず、知識の乏しい者やふしだらな生き方をしている者は、個々にきらめきを放つ魂の驚異が理解できない。物事を物質的な観念でしかとらえられないほとんどの現代人は、微小な一片がそこまで巨大にも、微細にもなれることが想像できない。だからいかに説明されても、魂はただ不可思議な存在だという見方をする。物質エネルギーに幻惑されて感覚を満たすことに夢中になり、「自己とは何か」と自分に問いかける暇さえない。自分が何者であるのかがわかっていなければ、何をしようと生きるための苦闘でしかなく、最終的には敗北という結果で終わってしまうというのに 。おそらく彼らは、魂についての深い考察が物質的苦しみへの解決策であるということが、わからないであろう。
 魂について聞きたいと思ってその種の集まりに参加する人たちもいるが、知識がないために道を間違い、至高の魂と微小な魂は同一のものだという、大きさを度外視した考えを受け入れてしまったりする。至高の魂、微小な魂、それぞれの役割および関係、その他諸々のことについて、完全に把握している人を見つけるのは容易ではない。まして実際にその知識を十分に役立てることができ、それをあらゆる角度から説明できる人を見つけるとなるとさらに難しい。しかしなんとかして魂についてのこの知識を理解できたなら、その人の人生は成功するのだ。
 自己の本性について理解する最も簡単な方法は、主クリシュナという至高の権威者が語った『バガヴァッド・ギーター』の内容を受け入れ、ほかの理論に惑わされないことである。とはいえ、クリシュナを至高人格神であると受け入れるようになるには、今生においても過去生においても、苦痛なことや犠牲にしなければならないことがたくさんある。クリシュナを知ることができる方法はただひとつ、 純粋な献身者のいわれのない慈悲を得ることであり、ほかに方法はない。
dehī nityam avadhyo ’yaṁ
dehe sarvasya bhārata
tasmāt sarvāṇi bhūtāni
na tvaṁ śocitum arhasi

訳語

翻訳

バラタの子孫よ
肉体の中に住むそれは
決して殺されはしない。
ゆえにいかなる生物に対しても
嘆き悲しむことはない。

解説

 主クリシュナはここで不変なる魂について結論を下している。さまざまな方向から説明しながら、魂は不滅であり肉体は一時的であるということを明確にしているのだ。ゆえにアルジュナは、祖父ビーシュマや恩師ドローナを戦いで亡くすことを恐れるあまり、クシャトリヤの義務を放棄してはならない。私たちもシュリー・クリシュナという権威を受け入れ、魂と肉体は違うのだと信じなくてはならない。魂は存在しないと考えたり、生命現象は化学物質の相互作用がある段階に達したときに発生するなどと信じてはならない。また魂は不滅であるからといって暴力を奮って良いわけではないが、戦争で暴力が必要とされる場合はためらうなということである。暴力の必要性は至高主が認可を下すものであり、気まぐれに決めてはならない。
sva-dharmam api cāvekṣya
na vikampitum arhasi
dharmyād dhi yuddhāc chreyo ’nyat
kṣatriyasya na vidyate

訳語

翻訳

クシャトリヤの義務から考えても
宗教原則を守るための戦いに
参加する以上の善事はないのに
どこにためらう必要があろうか。

解説

 人間社会における4階級のうち2番目にあたり、善良な統治を担う階級をクシャトリヤと言う。クシャは「傷害」、トラーヤテーは「保護を与える」という意味で、危害から人々を守る階級がクシャトリヤである。クシャトリヤ階級の人は、森で敵を殺す訓練を受ける。森に入って虎と剣で一騎打ちしたりもする。こうして殺された虎は盛大な火葬をして弔われる。ジャイプール州のクシャトリヤの王族の間では、今日でもこの儀式が行われている。宗教上、暴力が必要になることがあるため、クシャトリヤには決闘や殺人の特別な訓練が課せられる。ゆえにクシャトリヤはサンニャーサ、すなわち放棄階級にじかに入ることはできない。政治の場で非暴力を唱えるのは大義名分にすぎず、決して原則に基づくものではない。宗教法規の本には次のように書かれている。
āhaveṣu mitho ’nyonyaṁ
jighāṁsanto mahī-kṣitaḥ
yuddhamānāḥ paraṁ śaktyā
svargaṁ yānty aparāṅ-mukhāḥ
yajñeṣu paśavo brahman
hanyante satataṁ dvijaiḥ
saṁskṛtāḥ kila mantraiś ca
te ’pi svargam avāpnuvan
 「王あるいはクシャトリヤは、自分に妬心を抱く敵と戦って戦場で没した場合、天界の惑星に昇る資格を得る。これはブラーフマナが動物を供儀の聖火に供えることによって天界の惑星に昇るのと同じである」。したがって、宗教原則に従って戦場で敵を殺したり、供儀の聖火に供える動物を殺すことは、決して暴力的な行為ではない。宗教原則が伴っているかぎり、誰もが恩恵を得るからである。供儀として供えられた動物は次々と体を変えるという進化の過程をたどらず直ちに人間に生まれ変わり、戦場で命を落としたクシャトリヤは供儀を行ったブラーフマナ同様、天界に行くことができるのである。
 スヴァ・ダルマすなわち各個人が持っている義務には2種類ある。ひとつはまだ解脱していない者がそれぞれの体に則して与えられている義務であり、解脱を得るためにはこれを宗教原則に従って果たさなければならない。そしてもうひとつは解脱した者に与えられた義務であり、これはもはや物質的な肉体次元の義務ではなく、その人特有の精神的義務である。

 肉体次元においては、ブラーフマナにもクシャトリヤにもそれぞれに定められた義務があり、決しておろそかにしてはならない。スヴァ・ダルマは至高主によって定められたものであり、このことは第4章で明確に語られる。肉体次元のスヴァ・ダルマはヴァルナーシュラマ・ダルマと呼ばれ、人を精神的な理解へと導くものである。人間文明はこのヴァルナーシュラマ・ダルマの段階から、すなわち持って生まれた肉体的性質に応じて定められた義務を行うことから始まる。どの分野の行為であろうと、高い権威からの指示に従ってそれぞれの義務を遂行するなら、より高い境地へと自分を高めることができるのだ。
yadṛcchayā copapannaṁ
svarga-dvāram apāvṛtam
sukhinaḥ kṣatriyāḥ pārtha
labhante yuddham īdṛśam

訳語

翻訳

プリターの子よ
クシャトリヤとしてこのような機会にめぐり会うとは
なんと幸せなことか。
天界の惑星は扉を開いて彼らを待っている。

解説

 「この戦いに益があるとは思いません。永遠に抜け出せない地獄に堕ちることとなるでしょう」とアルジュナは言った。世の最高の師である主クリシュナは、この態度をたしなめる。アルジュナのこのような言葉は無知ゆえのものである。自分に定められた義務を非暴力で遂行したい、それがアルジュナの望みであった。クシャトリヤが戦場で非暴力を唱えるなど、愚か者の哲学と呼ぶしかない。偉大な聖者であり、ヴィヤーサデーヴァの父であるパラーシャラによって書かれた宗教法典『パラーシャラ・スムリティ』には、次のように書かれている。
kṣatriyo hi prajā rakṣan
śastra-pāṇiḥ pradaṇḍayan
nirjitya para-sainyādi
kṣitiṁ dharmeṇa pālayet
 「あらゆる困難から国民を守るのがクシャトリヤの義務であり、そのためには法律や規律の範囲内で、暴力を用いることも必要である。敵意を燃やす王たちの軍を打ち破り、宗教原則に従って世界を統治しなければならない」。
 これらの観点からしても、アルジュナが戦いを拒否する理由は見当たらない。敵を征服すれば王国の栄華を享受することとなり、戦場で命を落とせば天界の惑星に昇る。天界の門は彼のために大きく開かれているのである。どちらにしてもこの戦いは彼に益をもたらすのだ。
atha cet tvam imaṁ dharmyaṁ
saṅgrāmaṁ na kariṣyasi
tataḥ sva-dharmaṁ kīrtiṁ ca
hitvā pāpam avāpsyasi

訳語

翻訳

だがもし、この正義の戦いに
君が参戦しないならば
義務不履行の罪を犯すことになり
武人としての名誉を失うのだ。

解説

 アルジュナは名高い戦士であった。偉大な神々と戦い、主シヴァとさえも一戦を交えてその名声を築いた。狩人の姿をした主シヴァと戦った際、喜んだシヴァは彼にパーシュパタ・アストラという武器を授けた。彼が偉大な戦士であることは誰もが知るところであった。ドローナーチャーリャでさえ彼を祝福して、恩師をも殺すことのできる特別な武器を与えたほどである。そのようにアルジュナはさまざまな権威者からたくさんの免許皆伝を預かり、その中には天界の王であり養父であるインドラ神からのものもあった。しかし彼がこの戦いを放棄するのなら、クシャトリヤとしての義務を無視することになるだけでなく、これまでの名声も評判も失い、地獄へ真っ逆さまに堕ちていくであろう。すなわち戦ってではなく、戦わないで地獄行きとなるのである。
akīrtiṁ cāpi bhūtāni
kathayiṣyanti te ’vyayām
sambhāvitasya cākīrtir
maraṇād atiricyate

訳語

翻訳

のちの世までも人々は常に
君の汚名を語り継ぐであろう。
名誉ある者にとってこの屈辱は
死よりも耐え難いことではないか

解説

 友であり哲学者であるアルジュナに、主クリシュナは彼の戦闘拒否に対しての最終判断を下され、こうおっしゃった。「アルジュナよ、まだ始まってもいない戦いを放棄するなら、人は君を臆病者と呼ぶであろう。いかなる罵倒を浴びせられようと戦場を離れて自分の命を守りたいと思っているのなら、あえて言おう。戦って命を落としたほうがはるかに良いと。君のように品行方正な者にとって、悪名は死よりもっと悪い 。命惜しさに逃げてはならない。戦いの中で命を落とすほうがずっと良いのだ。そうすれば私との友情を誤用したと汚名を着ることなく、社会的地位を失うこともない」。
 「戦って死ね。逃げるな」これが、アルジュナに下した至高主の最終決定なのであった。
bhayād raṇād uparataṁ
maṁsyante tvāṁ mahā-rathāḥ
yeṣāṁ ca tvaṁ bahu-mato
bhūtvā yāsyasi lāghavam

訳語

翻訳

これまで君を讃えていた将軍たちは
君が戦いを恐れて戦場から逃亡したものと思い
臆病者とさげすむであろう。

解説

 主クリシュナはアルジュナへの評決を続けられる。「君が戦場を離れたのは兄弟や祖父への思いやりからだとは、ドゥルヨーダナやカルナのような大将軍たちは考えもしない。命が惜しくて逃げだしたと思うに違いない。そしてこれまでの君への高い評価は、地獄まで堕ちることになろう」。
avācya-vādāṁś ca bahūn
vadiṣyanti tavāhitāḥ
nindantas tava sāmarthyaṁ
tato duḥkha-taraṁ nu kim

訳語

翻訳

敵方の者たちは
聞くに耐えぬ言葉で君を愚弄し
その力量をさげすむことだろう。
これ以上の苦痛があると思うか。

解説

 初め、主クリシュナはアルジュナが同情ゆえに余計な愚痴を並べたてているのを聞いて驚き、そんな同情はアーリヤ人らしくないと言われた。そしてその同情なるものがいかに的外れであるかを、さまざまな言葉を用いて説明された。
hato vā prāpsyasi svargaṁ
jitvā vā bhokṣyase mahīm
tasmād uttiṣṭha kaunteya
yuddhāya kṛta-niścayaḥ

訳語

翻訳

クンティーの子よ
戦って死ねば天界の惑星に行き
勝てば地上で王侯の栄華を楽しむのだ。
さあ、立ち上がり、戦うと心を決めよ。

解説

 たとえアルジュナ側の勝利が確かなものでなくても、戦わなくてはならなかった。たとえこの戦いで命を落としたとしても、天界の惑星に昇ることができるのだ。
sukha-duḥkhe same kṛtvā
lābhālābhau jayājayau
tato yuddhāya yujyasva
naivaṁ pāpam avāpsyasi

訳語

翻訳

幸不幸、損得、勝ち負けのことを考えず
ただ戦うために戦え。
そうすれば君は決して罪を負うことがない。

解説

 ただ戦うために戦え。主クリシュナはアルジュナにそう指示している。この戦いは主の意志だからである。クリシュナ意識の活動には、幸も不幸も、得も損も、勝利も敗北もない。何を為すにもクリシュナのためにせよ 、これが超越的意識というものである。そこに物質的活動からの反動は生じない。徳の様式のものであれ、激情の様式のものであれ、自分の感覚を満たすための行為には、良くも悪くも反動が伴う。しかしクリシュナ意識の活動に全面的に身を投じるならば、普通の生活にありがちな義務や恩義を誰に対しても感じる必要はない。次のような言葉がある。
devarṣi-bhūtāpta-nṛṇāṁ pitṝṇāṁ
na kiṅkaro nāyam ṛṇī ca rājan
sarvātmanā yaḥ śaraṇaṁ śaraṇyaṁ
gato mukundaṁ parihṛtya kartam
 「あらゆる義務を手放し、完全にクリシュナすなわちムクンダに身を委ねる者は、神々、聖者、一般の人、親族、人類、祖先など、 誰に対しても義務を負わず、恩義を感じる必要もない」(『シュリーマド・バーガヴァタム』11-5-41)。これが、クリシュナがこの節の中で間接的にアルジュナに与えたヒントであり、あとに続く節でさらに明確に説明されていく。
eṣā te ’bhihitā sāṅkhye
buddhir yoge tv imāṁ śṛṇu
buddhyā yukto yayā pārtha
karma-bandhaṁ prahāsyasi

訳語

翻訳

プリターの子よ
これまで分析的知識を述べたが
さらに、成果を求めぬ行為について聞きなさい。
この知識に従って行動すれば
結果に束縛されることはない。

解説

 ヴェーダ辞典『ニルクティ』では、サーンキャとは物事を詳細に説明することであり、魂の本質を説明する哲学であると書かれている。そしてヨーガは、感覚を制御することも含んでいる。戦わないというアルジュナの申し出は、感覚を満たしたいという思いからきている。本来の義務を忘れて戦いを避けようとする理由は、兄弟同然のいとこであるドリタラーシュトラの息子たちを征服して王国の暮らしを楽しむより、親族や血縁者を殺さないでいるほうが自分にとって幸せだと思っているからである。どちらにしても基本となっているのは、感覚を満たしたいという思いである。いとこたちを征服して得られる喜びも、血縁者たちが生きていることを見て得られる幸福も、その根底にあるのは、知識や義務を犠牲にしてでも感覚を満たしたいという自分の喜びなのだ。だからクリシュナは、祖父の体を殺しても魂は殺されないとアルジュナに説き明かしたかった。

 人は皆、主御自身がそうであるように過去、現在、未来を通して永遠にその個別性を失うことなく生き続ける。なぜなら私たちは皆、永遠不滅の個々の魂だから。私たちはただそれぞれのやり方で肉体という衣服を取り換えているのだが、肉体という服から解放されたあとも個別性は持ち続ける。主クリシュナは魂と肉体を分析して、ありありと描写してくださった。そしてさまざまな視点から描写したその魂と肉体についての知識を、ここでは辞典『ニルクティ』の言葉を用いて、サーンキャと説明しているのである。このサーンキャは、無神論者カピラの説くサーンキャ哲学とは何の関係もない。ペテン師カピラがサーンキャを語るよりはるか昔に、主クリシュナの化身である本物の主カピラが真実のサーンキャ哲学を『シュリーマド・バーガヴァタム』の中で、母であるデーヴァフーティに語るという形で詳しく解説している。この中で主カピラは「プルシャすなわち至高者は活動的であり、ただプラクリティに視線を投げかけるだけで創造をなさる」と明確に説明している。このことはヴェーダ経典でも、ギーターでも認められている。

 「至高主はプラクリティすなわち自然に目をやるだけで、微小な個々の魂を受胎させた」と、ヴェーダ経典には記述されている。これらの魂は物質世界の中で感覚を満たすために活動し、物質エネルギーに魅せられて自分が「楽しむ者」だと思い込んでいる。そして解放という最終段階までこの思いを引きずっていき、果てには主と一体になりたいと望んでしまう。これが感覚を満足させたいという幻想、すなわちマーヤーの最後の罠である。このような状況にある魂が、ヴァースデーヴァすなわち主クリシュナにすべてを委ね、究極の真理を探求して満たされる偉大な魂となるまでには、感覚の満足に耽る人生を何度も何度も繰り返さなくてはならない。
 アルジュナはクリシュナを精神の師として受け入れ、すべてを委ねた(śiṣyas te ’haṁ śādhi māṁ tvāṁ prapannam)。その結果、クリシュナは彼にブッディ・ヨーガ、すなわちカルマ・ヨーガの実践方法を話すことにした。これは、至高主に満足していただくことだけを目的とする献身奉仕のやり方である。このブッディ・ヨーガとは、第10章第10節で明確に述べられているように、すべての者のハートの中にパラマートマーとして宿っておられる至高主と、じかに親交を持つということである。しかしこれは献身奉仕を欠いては起こりえない。ゆえに献身奉仕、すなわち至高主への超越的な愛情奉仕をする者、つまりクリシュナ意識の人だけが至高主の特別な恩恵によって、このブッディ・ヨーガという段階に達することができるのである。そして主は「超越的な愛情をもって常に献身奉仕をする者には、愛に満ちた純粋な献身奉仕の極意を授けよう」とおっしゃった。こうして献身者は容易に、永遠の至福あふれる神の王国に行き着くことができるのである。
 すなわちこの節で説明されているブッディ・ヨーガとは、至高主への献身奉仕のことであり、ここに出てくるサーンキャという言葉は、ペテン師カピラが説いた無神論のサーンキャ哲学とは何の関係もない。それを心に留め、誤解のないようにしなければならない。無神論サーンキャは当時の人々に影響を与えることもなかったし、主クリシュナがそのような無神論の思索でしかない哲学を取り上げるはずもない。本物のサーンキャ哲学は『シュリーマド・バーガヴァタム』の中で主カピラが述べているが、それも今ここで取り上げられている主題とは関係ない。ここで言うサーンキャとは、体と魂についての分析的説明を意味する言葉である。主クリシュナはアルジュナをブッディ・ヨーガ、すなわちバクティ・ヨーガの核心へと導くため、魂について分析的に説明された。またバーガヴァタムで述べられているように、主クリシュナのサーンキャ哲学と主カピラのサーンキャ哲学は同じである。どちらもバクティ・ヨーガである。だから主クリシュナは「私の言うサーンキャと主カピラのサーンキャを区別して見る者は、最も知性乏しき者である」とおっしゃっているのだ(sāṅkhya-yogau pṛthag bālāḥ pravadanti na paṇḍitāḥ)。
 無神論のサーンキャ・ヨーガがバクティ・ヨーガと何の関係もないことは言うまでもないが、知性乏しき者は『バガヴァッド・ギーター』の中で無神論サーンキャ・ヨーガが取り上げられていると主張する。
 だからこそ、ブッディ・ヨーガとはクリシュナ意識で活動すること、すなわち完全なる至福と知識に溢れた献身奉仕のことだと、よくわきまえていなければならない。至高主に満足していただくことだけを念頭においてブッディ・ヨーガの原則に従って行動する者は、どれほど困難な仕事をしていようと、いつも超越的な至福に満たされている。そのような超越的奉仕についている者は、知識を得ようと特別な努力を払わなくとも、主の恩恵によってあらゆる超越的理解が自動的に与えられ、やがて解脱できる。クリシュナ意識で行う活動と、成果を求めて行う活動には大きな違いがあり、中でも家族のため、物質的な幸せのために結果を出したいと自らの感覚を満たす行動をとる場合は顕著である。ゆえにブッディ・ヨーガとは超越的な質で行う活動なのである。
nehābhikrama-nāśo ’sti
pratyavāyo na vidyate
sv-alpam apy asya dharmasya
trāyate mahato bhayāt

訳語

翻訳

この努力には少しの無駄も退歩もなく
この道をわずかに進むだけでも
最も危険な種類の恐怖から
心身を守ることができるのだ。

解説

 クリシュナ意識でする活動、すなわち自分の感覚を満たすことを考えず、クリシュナを喜ばせるためにする行為は、最も上質の仕事である。そのような活動は、たとえ初めはどんなに小さな一歩であったとしても、その歩みを妨げるものはなく、またその行為が無駄になることもない。物質次元の仕事はいったん始めたら、最後までやり遂げなくてはならない。でなければ、その試みがすべて無駄になってしまう。しかしクリシュナ意識で始めた仕事はたとえ完成できなくても、その効力は永遠に続く。つまりクリシュナ意識で行ったことは、決して無駄にはならないのである。物質的な仕事は100%成功させなければ益とならないのに対し、クリシュナ意識で行ったことは、たとえ1%であったとしても永久にその結果を持続するので、次に始めるときは2%のところからでよい。アジャーミラがクリシュナ意識で行った義務は数%かのことであったが、主の慈悲によって最終的には100%喜びの結果を得た。このことに関して『シュリーマド・バーガヴァタム』(1-5-17)にすばらしい一節がある。
tyaktvā sva-dharmaṁ caraṇāmbujaṁ harer
bhajann apakvo ’tha patet tato yadi
yatra kva vābhadram abhūd amuṣya kiṁ
ko vārtha āpto ’bhajatāṁ sva-dharmataḥ
 「世俗の義務を捨ててクリシュナ意識の活動をしたが、それも完成できず堕落してしまった人であっても、失うものは何もない。反対に、たとえ完璧にやり遂げてもそれが物質的な活動であれば、得るものは何もない」。またキリスト教でも「たとえ全世界を得たとしても、永遠の魂を失って何の益があろうか?」と言っている。
 物質的な活動もその結果として得たものも、体と共に消滅する。しかしクリシュナ意識で為した行為は体を失ったあとも、その魂をまた再びクリシュナ意識へと導いてくれる。少なくとも次の生では必ず人間として生まれ、高い教養に恵まれたブラーフマナの家庭か裕福で高貴な家庭に誕生し、さらなる向上のチャンスが必ず与えられる。これがクリシュナ意識で行う仕事の、比類なきすばらしい特質なのである。
vyavasāyātmikā buddhir
ekeha kuru-nandana
bahu-śākhā hy anantāś ca
buddhayo ’vyavasāyinām

訳語

翻訳

この道を行く者は断固たる意志を持ち
一なる目的に向かってまっすぐ進む。
だが愛するクルの王子よ
優柔不断の者たちは
多くの枝葉に虚しく知力を逸らせている。

解説

 人生の最高完成まで人を導くのはクリシュナ意識であるという堅い信念は、ヴィヤヴァサーヤートミカー※知性と呼ばれる。『チャイタニヤ・チャリタームリタ』(マディヤ 22-62)にはこう書いてある。
‘śraddhā’-śabde – viśvāsa kahe sudṛḍha niścaya
kṛṣṇe bhakti kaile sarva-karma kṛta haya
 信念とは、何か崇高なるものに揺るぎない信頼を持つことである。クリシュナ意識での義務に従事していると、家庭の伝統的慣習や、人類、国家に関する世俗的な活動をする必要がなくなる。人が行為の結果に執着するのは、過去に行った善悪の行動の反作用によるものであり、クリシュナ意識に目覚めた人は、より良い結果を求めて努力する必要がない。クリシュナ意識の活動は、もはや善いとか悪いとかいう二元性の次元のものではないため、これにしっかりと固定された人のすべての行動が絶対的な基準に基づいている。クリシュナ意識における最高の完成は、人生に対しての物質的な人生観を放棄した段階であり、クリシュナ意識が高まると、自然とこの境地に達するものである。
 クリシュナ意識の人がも持つ確固たる目的は、知識に基づいている。Vāsudevaḥ sarvam iti sa mahātmā su-durlabhaḥ 現れているものの根本原因はヴァースデーヴァ、すなわちクリシュナであるということを完全に理解している人こそクリシュナ意識の人であり、たいへん稀なすばらしい魂である。木の根に水をやると葉にも枝にも自動的に水分が行き渡るのと同じように、クリシュナ意識で行動すると、自分自身だけでなく、家族、社会、国、人類そのものにも、最高の奉仕をしたことになる。誰かがした行為にクリシュナが満足を感じてくだされば、すべての者が満たされる。
 クリシュナ意識で奉仕をする際、クリシュナの真正な代表者である精神指導者の指導のもとで行うことが最善である。精神指導者は弟子の性質を理解していて、クリシュナ意識で行動できるように導いてくれるからである。したがって弟子はクリシュナ意識を極めるためにしっかりとした行動をし、クリシュナの代表者である真正な精神指導者に従い、その教えを人生の使命として受け入れなくてはならない。シュリーラ・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティ・タークラは精神指導者に捧げた有名な祈りの中で、次のように言っている。
yasya prasādād bhagavat-prasādo
yasyāprasādān na gatiḥ kuto ’pi
dhyāyan stuvaṁs tasya yaśas tri-sandhyaṁ
vande guroḥ śrī-caraṇāravindam
 「精神の師を満足させることができれば、至高人格神も満足してくださる。師を満足させられなければ、クリシュナ意識の段階に昇る機会は得られない。ゆえに私は日に3度、我が精神の師の慈悲を求めて祈り、尊敬の礼を捧げる」。
 しかし最も重要なのは、肉体という観念を超えた魂についての完璧な知識を、ただ理論として受け入れるのではなく、実際に体得することである。そうすれば、果報的活動によって自分の感覚を満たそうとは思わなくなる。しっかりと心が定まっていない者は、さまざまな成果を求める行為に心を奪われ、落ち着くことがない。

※ヴィヤヴァサーヤートミカーとは、固い決心のこと。
yām imāṁ puṣpitāṁ vācaṁ
pravadanty avipaścitaḥ
veda-vāda-ratāḥ pārtha
nānyad astīti vādinaḥ
kāmātmānaḥ svarga-parā
janma-karma-phala-pradām
kriyā-viśeṣa-bahulāṁ
bhogaiśvarya-gatiṁ prati

訳語

翻訳

知識乏しい者たちは
天国、良い生まれ、権力などを追い求め
ヴェーダの華麗な詩句を無上に尊び
御利益のある行事に必死になる。
感覚の満足と贅沢な生活に心奪われ
これに優まさるものはないと言う。

解説

 一般的に人はあまり知的ではないため、ヴェーダのカルマ・カーンダ部門で勧めている御利益のある行事を非常に重要視する。感覚を満たすこと以外に興味のない彼らは、酒と女性に不自由せず、ほしいものものは何でも手に入る天界の惑星での生活に優まさるものはないと信じている。ヴェーダは天界の惑星に昇るためのさまざまな供儀について述べ、中でもジョーティシュトーマ供儀を勧めている。事実、天界の惑星に昇りたい者はこれらの供儀を行うよう書かれており、知性乏しき者はこれこそヴェーダの叡智の目的だと考える。このような未熟な人々がクリシュナ意識の活動に固い決意を持つことは非常に難しい。騙されやすい者は毒のある木に咲く花を見て、それがどんな結果になるのかも知らずに魅了されてしまう。同様に、真理を知らぬ者は、華やかで思う存分楽しむことのできる天界の惑星に魅了されるのである。
 ヴェーダのカルマ・カーンダ部門には、apāma somam amṛtā abhūma そして akṣayyaṁ ha vai cāturmāsya-yājinaḥ sukṛtaṁ bhavati と書かれている。「4か月の苦行を行う者はソーマ・ラサを飲む資格を得て不死となり、永遠の幸せを手に入れる」という意味である。感覚の満足を増大させるため強くなろうと、この地上にいるうちからソーマ・ラサを飲みたいと思う者もいる。そのような人は物質の束縛から解放されることなど考えもせず、ヴェーダの勧める豪華な供儀に目を輝かせる。情欲が強い彼らは、天界での幸せな生活以外に考えられないのである。そこにはナンダナ・カーナナという庭園があり、天使のように美しい女性がいて、ソーマ・ラサ酒を思う存分飲ませてくれると言う。このような肉体にまつわる幸福は明らかに官能をそそるものであるため、物質世界の主人となって一時的でもそんな楽しみを味わいたいと、心焦がす者たちがいるのである。
bhogaiśvarya-prasaktānāṁ
tayāpahṛta-cetasām
vyavasāyātmikā buddhiḥ
samādhau na vidhīyate

訳語

翻訳

富の蓄積と感覚の歓びに執着し
その追求に右往左往する人々の心には
至高主へ献身奉仕をしようという
堅い決意は起こらない。

解説

 サマーディとは「不動心」という意味である。ヴェーダ辞書『ニルクティ』には、samyag ādhīyate ’sminn ātma-tattva-yāthātmyam「自己についての理解のもとに心が不動のものとなった状態を、サマーディと呼ぶ」とある。物質的な楽しみを追いかけ、儚いものに心を乱されているような人がサマーディに達することは決してない。多かれ少なかれ、彼らは物質エネルギーの支配下にいるのである。
trai-guṇya-viṣayā vedā
nistrai-guṇyo bhavārjuna
nirdvandvo nitya-sattva-stho
niryoga-kṣema ātmavān

訳語

翻訳

ヴェーダは主に自然界の三性質を説く。
アルジュナよ、この三性質と二元相対性を超えて
利得と安全に心惑わすことなく
確固として自己の本性に住せよ。

解説

 物質次元で行う活動にはすべて、物質自然の三様式の作用と反作用が伴う。そのような活動は結果に執着するため、それがもとで物質世界に縛りつけられてしまう。ヴェーダは主として果報的な活動について述べ、感覚を満たすことばかり考えている一般大衆を、少しずつ超越的な段階へと引き上げるものである。主クリシュナは弟子であり友であるアルジュナに、ヴェーダーンタ哲学という超越的な段階まで自分を高めよ、と勧められた。この哲学で最初にすべきこと、それはブラフマ・ジジュニャーサー、すなわち至高の超越性について問うことである。物質世界にいる生命体は皆、生存競争にあえいでいる。そんな生命体のために至高主は、物質世界を創造したあとでヴェーダの叡智を与え、どのように生きるべきか、どのようにして物質の束縛から抜け出すのかを教えてくださった。感覚を満たす行動、すなわちカルマ・カーンダの段階を終えると、ウパニシャッドという形で精神的悟りの機会が与えられる。『バガヴァッド・ギーター』が『マハーバーラタ』という第五番目のヴェーダの一部であるように、ウパニシャッドもヴェーダの一部であり、超越的な生き方への道標ともいうべきものである。
 肉体には、物質の三様式に基づく作用と反作用が付きものである。幸と不幸、また寒さと暑さといった二元性に直面しても、耐えるということを人は学ばなくてはならない。二元性を耐え抜くことによって、損得という不安な観念から解放される。完全なるクリシュナ意識になって、何もかもクリシュナの御意志に任せられるようになったとき、人はこの超越的な段階に到達できる。
yāvān artha uda-pāne
sarvataḥ samplutodake
tāvān sarveṣu vedeṣu
brāhmaṇasya vijānataḥ

訳語

翻訳

巨大な貯水池は
小さな井戸の役目をすべて果たすように
ヴェーダの真義を知る者は
ヴェーダのすべての目的を知る。

解説

 ヴェーダ文献のカルマ・カーンダ部門に書かれている祭典や供儀は、人々が段階を経て少しずつ自己の悟りに近づいていくようにするためのものである。自己を悟る目的については、『バガヴァッド・ギーター』の第15章第15節で「ヴェーダを学ぶ目的は、すべての根源である主クリシュナを知ることである」と明確に述べられている。ゆえに自己の悟りとは、クリシュナを知り、クリシュナと自分との永遠なる関係をよく理解することである。生命体がクリシュナとどのような関係にあるかについても、『バガヴァッド・ギーター』の第15章第7節で説明されている。生きとし生ける者はすべてクリシュナの一部分である。したがって、個々がクリシュナとの関係を取り戻すことが、ヴェーダ知識の最高完成の段階なのである。このことは『シュリーマド・バーガヴァタム』(3-33-7)で次のように断言されている。
aho bata śva-paco ’to garīyān
yaj-jihvāgre vartate nāma tubhyam
tepus tapas te juhuvuḥ sasnur āryā
brahmānūcur nāma gṛṇanti ye te
 「我が主よ、あなたの聖なる御名を唱える者は、たとえチャンダーラ(犬喰い)のような低い生まれであったとしても、自己の悟りという最高の境地にいます。きっと過去においてヴェーダの慣例に従ったさまざまな苦行を行い、あらゆる聖なる巡礼地で沐浴をし、何度も何度もヴェーダ文献を学んだ方々に違いありません。そのような方こそ、アーリヤ人家系の最高の人物と呼ぶに値します」。
 ゆえに、人は儀式だけにこだわるのではなく、ヴェーダの目的を理解できるほどの知性を養わなくてはならない。今よりもっと大きな感覚の喜びを求め、天界にある王国に昇りたいなどと望んではならない。現代人がヴェーダの定めた規定原則をひとつ残らず守ることなどできないし、ヴェーダーンタやウパニシャッドをあますことなく学ぶことも不可能である。ヴェーダの目指すものを実行するにはたいへんな時間と、エネルギーと、知識と、資産が必要とされる。まずこの時代にできることではない。しかし堕落した魂たちを救うお方である主チャイタニヤが勧められているように、ヴェーダ文化の目的の最たるものは、主の聖なる御名を唱えることである。偉大なヴェーダ学者であるプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーが主チャイタニヤにこう尋ねたことがあった。「あなたはなぜ、ヴェーダーンタ哲学を学びもせず、感傷的な人間のように主の聖なる 御名を唱えてばかりいるのですか」。主は答えられた。「精神の師は私が愚か者だとわかり、主クリシュナの聖なる御名を唱えるようにとおっしゃったのです」と。そうして気がふれたかのように恍惚になってしまわれた。カリと呼ばれる今の時代では、ほとんどの人は知性が乏しく、ヴェーダーンタ哲学を理解できるだけの教育を身に着けていない。しかし主の聖なる御名を侮辱を犯すことなく唱えるならば、ヴェーダーンタの最高の目的に達することができる。ヴェーダーンタはヴェーダ知識の究極点であり、主クリシュナこそが著者であり、それを理解するお方である。そして主の聖なる御名を唱えることに喜びを感じる偉大な魂こそ、最も高いヴェーダーンティストなのだ。これがヴェーダの神秘的な教えの最終目的なのである。
karmaṇy evādhikāras te
mā phaleṣu kadācana
mā karma-phala-hetur bhūr
mā te saṅgo ’stv akarmaṇi

訳語

翻訳

君に定められた義務を行う権利はあるが
行為の結果についてはどうする資格もない。
行為の起因が自分であると考えるな。
しかし怠惰に陥ってもならない。

解説

 ここに3つの考え方がある。「定められた義務」「気まぐれな行動」「無活動」 の3つである。「定められた義務」とは、物質自然の様式に従ってその人に課せられた活動のこと。「気まぐれな行動」とは、権威筋によって容認されていない活動のこと。そして「無活動」 とは、定められた義務を行わないことである。至高主はアルジュナに対して「無活動になるな。結果にこだわらずに定められた義務を果たせ」と助言された。自分のとった行動の結果に執着している人は、その行動の起因は自分だと思って結果を楽しんだり悲しんだりしているのである。
 また「定められた義務」は、さらに「日常の決まりきった仕事」「非常事態の仕事」「自ら進んで行う活動 」の3つに分けられる。「日常の決まりきった仕事」も精神的な教えに従いながら成果を期待しないで行うなら、それは徳の様式の行為である。結果にとらわれてする仕事は束縛の元となるため、祝福された仕事とは言えない。定められた義務を行う権利は誰にでもあるが、結果にとらわれてはならない。そのように私心を持たず義務として行うならば、間違いなく解脱へと続く道に導かれる。
 ゆえに至高主は、結果にとらわれず義務として戦え、とアルジュナに教えられた。戦わないというアルジュナの考えも執着の裏返しである。そのような執着は決して救いにはならない。前向きであれ否定的であれ、いかなる執着も束縛の原因となる。「無活動」すなわち定められた義務を遂行しないことも罪である。すなわちアルジュナにとって救いとなる祝福された道は、ただ義務として戦うこと。それよりほかにないのだ。
yoga-sthaḥ kuru karmāṇi
saṅgaṁ tyaktvā dhanañ-jaya
siddhy-asiddhyoḥ samo bhūtvā
samatvaṁ yoga ucyate

訳語

翻訳

アルジュナよ、義務を忠実に行え。
そして成功と失敗に関する
あらゆる執着を捨てよ。
このような心の平静をヨーガと言うのだ。

解説

 「ヨーガで行動せよ」。 クリシュナはアルジュナにそうおっしゃる。ではヨーガとは何なのか? それは乱れて止まない感覚を制御して、至高なるお方に心を集中させることである。では至高なるお方とは誰なのか? 至高なる存在とは主なる神のことである。その主御自身が戦えとアルジュナに命じておられるのだから、この戦いの結果はアルジュナの関与するところではない。利得も勝利もクリシュナのもの。アルジュナはただクリシュナの指示に従って行動すればよいのだ。クリシュナの指示に従うことこそ本当のヨーガであり、それはクリシュナ意識と呼ばれる方法を実践することである。クリシュナ意識によってのみ、人は所有しているという感覚を手放せるようになる。だから人はクリシュナのしもべ、いや、クリシュナのしもべのしもべにならなくてはならない。これがクリシュナ意識で義務を遂行する正しい方法であり、ヨーガで行動する助けとなるのはこれしかない。
 アルジュナはクシャトリヤであり、ヴァルナーシュラマ・ダルマを構成する一員である。ヴァルナーシュラマ・ダルマ全体の目的はヴィシュヌに満足していただくことであると『ヴィシュヌ・プラーナ』には書かれている。自分が満足すればいいというのが物質世界の常識であるが、そうであってはならない。自分を満足させようとするのではなく、クリシュナに満足していただけるよう努めなくてはならないのだ。クリシュナが満足なさらないかぎり、ヴァルナーシュラマ・ダルマの原則を正しく行ったことにはならない。「私の言うとおりに行動せよ」。 クリシュナは間接的にアルジュナにそう助言しておられるのである。
dūreṇa hy avaraṁ karma
buddhi-yogād dhanañ-jaya
buddhau śaranam anviccha
kṛpaṇāḥ phala-hetavaḥ

訳語

翻訳

ダナンジャヤよ
献身奉仕を行うことで
すべての忌まわしい行動を避けよ。
そのような意識で主に身を委ねよ。
果報を求めて働くのは、欲張りな人間なのだ。

解説

 「自分の本来の立場は至高主の永遠なるしもべなのだ」と真に理解できるようになった人は、あらゆる付き合いを手放し、クリシュナ意識で活動することに専念する。すでに説明したように、ブッディ・ヨーガとは至高主に捧げる超越的な愛情奉仕のことである。そのような献身奉仕こそ、生命体がとるべき正しい行為である。自分のした仕事の結果を楽しんでは、物質界に縛られる原因を次々と作り上げる、こんなことを望むのは、欲張りな人間だけである。クリシュナ意識で行わなければ、いかなる活動もすべて忌まわしい。なぜならそのような活動は、ただ人を生と死の繰り返しにつなぎとめるだけだからである。それゆえ私たちは自らの行動の結果にとらわれて、その反動に縛られてしまってはならない。何をするにせよ、クリシュナに満足していただくために、クリシュナ意識で行うべきである。欲張りな人間は幸運で得たものであろうと、必死に働いて得たものであろうと、そもそも富の有効な使い方がわからない。人はクリシュナ意識の活動に全エネルギーを注ぐべきであり、そうすれば人生の成功を収めることができる。不幸な人々は、せっかく授かった人間としてのエネルギーを主への奉仕に役立てることができないのである。
buddhi-yukto jahātīha
ubhe sukṛta-duṣkṛte
tasmād yogāya yujyasva
yogaḥ karmasu kauśalam

訳語

翻訳

献身奉仕をする者は
すでにこの世において善悪の行為を離れている。
それゆえ、ヨーガに励め。
これこそあらゆる仕事の秘訣なのだ。

解説

 はるか遠い昔から、個々の生命体は善悪さまざまな行動をして、その反動を積み重ねてきた。つまり自分の本来の立場がどういうものであるか知らないまま生きてきたことになる。『バガヴァッド・ギーター』は私たちに、主シュリー・クリシュナに完全に身を委ね、何度も何度も生まれ変わるという作用、反作用の苦悩の連鎖を断ち切れ、と教えている。この教えに従えば、昔からずっと逃れられずにいるこの無知を払いのけることができるのだ。だからこそアルジュナは、結果を伴う行動を浄化するクリシュナ意識で行動せよと、助言を受けているのである。
karma-jaṁ buddhi-yuktā hi
phalaṁ tyaktvā manīṣiṇaḥ
janma-bandha-vinirmuktāḥ
padaṁ gacchanty anāmayam

訳語

翻訳

偉大な賢者や献身者は献身奉仕によって
物質界での活動の反動から解放される。
このようにして輪廻転生から解脱し
(神の国に帰ることによって)
無憂の境地に達するのだ。

解説

 解脱した生命体の行く先は、物質次元の苦悩がまったくないところである。『シュリーマド・バーガヴァタム』(10-14-58)にはこう書いてある。
samāṣritā ye pada-pallava-plavaṁ
mahat-padaṁ puṇya-yaśo murāreḥ
bhavāmbudhir vatsa-padaṁ paraṁ padaṁ
padaṁ padaṁ yad vipadāṁ na teṣām
 「宇宙現象の庇護地であり、ムクンダすなわちムクティを与えるお方として知られる至高主の、蓮華の御足という船に乗った人にとっては、物質世界の大海も子牛の足跡にたまった水のよう。そのような人が目指すのは一歩踏み出せば危険だらけの世界ではなく、物質的苦悩のない場所(パラム・パダム)すなわちヴァイクンタである」。
 人は無知ゆえに、この世界は一歩踏み出せば危険だらけという悲惨な場所であることを知らない。知性の乏しい人たちは成果を期待して必死に働き、結果がよければきっと幸せになれるのだと信じてその状況を乗り切ろうとするが、それはただ彼らが無知なためである。宇宙のどこを探しても、苦しみのない生き物などいないということがわかっていない。物質世界で生きているかぎり、どこへ行こうが生老病死がつきまとう。しかし至高人格神の立場を理解して、自己の本性は主の永遠のしもべであると悟った人は、主への愛情奉仕に就く。そして物質界にあるような悲苦がなく、時や死に影響されることもないヴァイクンタ惑星に入る資格を得るのだ。自分の本来の立場を知るということは、主の崇高な立場を理解することでもある。生命体と至高主が同じレベルの立場にあると誤った考え方をしている者は、無知の暗闇の中にいるため、主に献身奉仕することができない。自分が支配者となって生と死を繰り返すだけである。しかし主に仕えることが自分の立場なのだと理解して献身奉仕に従事する者は、直ちにヴァイクンタ・ローカ行きの切符を手に入れる。主に仕えることをカルマ・ヨーガあるいはブッディ・ヨーガと呼ぶが、わかりやすく言えばこれは至高主への献身奉仕のことである。
yadā te moha-kalilaṁ
buddhir vyatitariṣyati
tadā gantāsi nirvedaṁ
śrotavyasya śrutasya ca

訳語

翻訳

知性が迷妄の密林から抜け出ると
いままで聞かされてきたことにも
これから聞くであろういかなることにも
超然として惑わされなくなるのだ。

解説

 ただ至高主に献身奉仕をしただけでヴェーダの儀式に無関心になったという例が、主の偉大な献身者たちの生涯において数多く見られる。クリシュナについて、そしてクリシュナと自分との関係について本当に理解した人は、御利益を期待して行う儀式への関心を自然と失うものであり、それは経験を積んだブラーフマナも例外ではない。偉大な献身者でありアーチャーリャであるシュリー・マーダヴェーンドラ・プリーはこのように言っている。
sandhyā-vandana bhadram astu bhavato bhoḥ snāna tubhyaṁ namo
bho devāḥ pitaraś ca tarpaṇa-vidhau nāhaṁ kṣamaḥ kṣamyatām
yatra kvāpi niṣadya yādava-kulottaṁsasya kaṁsa-dviṣaḥ
smāraṁ smāram aghaṁ harāmi tad alaṁ manye kim anyena me
 「主よ、私は日に3度沐浴をし、あなたに敬意を表し、祈りを捧げます。神々よ、祖先の方々よ、皆様方に尊敬の礼を捧げる意欲を失くしてしまった私を、どうかお許しください。どこに腰を下ろそうと私の脳裏に浮かぶのは、カンサの敵でありヤドゥ王朝の偉大な子孫であるお方(クリシュナ)のことばかり。こうしてあらゆる罪深い束縛から離れることができ、私は十分に満ち足りているのです」
 日に3度の祈りや早朝の沐浴、祖先の供養などのように、ヴェーダで定められた儀式は初心者にとっては欠かせないことである。しかし、完全なるクリシュナ意識で至高主に超越的な愛情奉仕をする人はすでに解脱に達しているため、こういった規定原則には無関心になる。至高主クリシュナへの奉仕によって真理を理解できる段階に達した人には、もはや啓示経典で勧められている苦行や儀式を行う義務はない。反対にヴェーダの目的がクリシュナへの到達であることを理解せず、ただ儀式ばかり行う者は時間を浪費しているにすぎない。クリシュナ意識の人はシャブダ・ブラフマ、すなわちヴェーダやウパニシャッドの範疇はんちゅうを超越しているのである。
śruti-vipratipannā te
yadā sthāsyati niścalā
samādhāv acalā buddhis
tadā yogam avāpsyasi

訳語

翻訳

心がヴェーダの美辞麗句に
決して惑わされることなく
自己実現の三昧に入るとき
君の意識は神聖なものとなる。

解説

 クリシュナ意識を完全に悟った人のことをサマーディの状態にいるという。完全なサマーディにいる人は、ブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンの悟りを得ている。人はクリシュナの永遠なるしもべであり、クリシュナ意識で義務を果たすことが為すべき務めであるという理解こそ、自己の悟りの最高段階である。クリシュナ意識の人、すなわち至高主に揺るぎない信念を持つ献身者は、ヴェーダの美辞麗句に惑わされたり、天界の惑星に昇ろうとして現世御利益の宗教儀式にとらわれてはならない。クリシュナ意識を実践することによって人はじかにクリシュナと親交を持つようになり、クリシュナの教えがあらゆる方面から超越的な状態で理解できるようになる。そして必ず究極的な知識に到達するのだ。私たちのすべきことは、クリシュナあるいはその代理である精神の師の指示を遂行することだけである。
arjuna uvāca
sthita-prajñasya kā bhāṣā
samādhi-sthasya keśava
sthita-dhīḥ kiṁ prabhāṣeta
kim āsīta vrajeta kim

訳語

翻訳

アルジュナは尋ねました。
クリシュナよ、教えてください。
意識が超越的な境地にある人は
いかなる兆候を見せ、いかなる言葉を話し
どのように座し、また歩くのか。

解説

 人はそれぞれ、置かれた環境によって違った兆候を見せる。同様にクリシュナ意識の人も、話し方、歩き方、考え方、感じ方などに特徴がある。金持ちには金持ち特有の、病人には病人特有の、知識人には知識人特有の兆候があるのと同じように、超越的なクリシュナ意識にある人にもさまざまな面で特徴がある。どのような特徴かは『バガヴァッド・ギーター』の中に書かれている。中でも、話すということは誰にとっても最も重要な質であるため、クリシュナ意識である人はどんなことを話すのかというのが、最も大切な点である。「愚か者も黙っていればわからない」と言われるとおり、立派な身なりをして沈黙を守っているかぎり愚かには見えない。だが話をしたとたんにばれてしまう。クリシュナ意識の人であるとすぐにわかる兆候は、クリシュナのこと、あるいはクリシュナに関連することをすぐに口にするという点である。その他の兆候も自然とそれに従って現れるが、それについては次の節で詳しく述べられている。
śrī-bhagavān uvāca
prajahāti yadā kāmān
sarvān pārtha mano-gatān
ātmany evātmanā tuṣṭaḥ
sthita-prajñas tadocyate

訳語

翻訳

至高人格神は語る。
プリターの子よ
心から生じる感覚の欲望をことごとく捨て去り
心を清めて自己の内に満足する者を
純粋な超越意識の人と呼ぶ。

解説

 「完全にクリシュナ意識の人、すなわち主への献身奉仕に没頭している人は、偉大な聖者の持つ良い質をすべて持っている。一方、超越的な段階にない人は心が作りあげる自分の思いにすぐ逃げ込もうとするため、良い性質が育めない」と、バーガヴァタムは断言する。ゆえに、人は心が作りあげるあらゆる種類の感覚の欲望を捨てなくてはならないと、ここで明確に述べられているのである。こういった欲望は見せかけだけで捨てようとしても捨てられるものではない。しかしクリシュナ意識で行動するならば、特に努力しなくても自然と抑えられるようになる。献身奉仕は私たちの意識を直ちに超越的な段階に高めてくれるのだ。だから人はためらわずにクリシュナ意識で行動しなくてはならない。高い段階にある魂は自分が至高主の永遠のしもべであることを心得ているため、常に自己の内で満ち足りている。そのような超越的段階にある人は、物質次元のささいなものに欲望を感じない。永遠に至高主に仕えるという本来の自然な状態にいて、いつも幸せを味わっているのだ。
duḥkheṣv anudvigna-manāḥ
sukheṣu vigata-spṛhaḥ
vīta-rāga-bhaya-krodhaḥ
sthita-dhīr munir ucyate

訳語

翻訳

三重の逆境に処して心を乱さず
順境にあっても決しておごらず
執着と恐れと怒りを捨てた人を
不動心の聖者と呼ぶ。

解説

 ムニとは、心であれこれ推し量るばかりでこれといった結論に達せず、ただ自分の心をかきたてる人、という意味である。ムニは皆それぞれ違った見識を持ち、厳格には「ほかと同じならばムニとは呼べない」という意味がこめられている。Nāsāv ṛṣir yasya mataṁ na bhinnam『マハーバーラタ』ヴァナ・パルヴァ313-117)しかし、ここで主が引き合いに出されたスティタ・ディール・ムニは普通のムニではない。ありとあらゆる哲学的考察に疲れ果てたあげく、やっと絶え間ないクリシュナ意識に到達したムニのことである。こういう人は praśānta-niḥśeṣa-mano-rathāntara (『ストートラ・ラトナ』43) すなわち「心で思索する段階を経て、主シュリー・クリシュナすなわちヴァースデーヴァこそすべてである(vāsudevaḥ sarvam iti sa mahātmā su-durlabhaḥ)という結論に達した者」と呼ばれ、不動のムニと称されている。そのようにクリシュナ意識で満たされている人は、三重の苦しみに襲われても心を乱すことがない。苦しいことがあると、これもすべて至高主の慈悲であると考え、「自分が過去に犯した罪からすれば本来もっと苦しむべきところだが、主が慈悲をかけてこんなに最小限度にしてくださった」と思う。また幸せなときも同様、「本来自分はこんなに幸せになる資格はない。こんなに快適な状態でいられるのは、ただただ主の御慈悲ゆえである。だからもっとお仕えしなければ」と考えるのだ。そして主への奉仕においては常に積極的かつ行動的で、執着しているわけでもなければ、かといって無関心でいるわけでもない。執着するというのは自分の感覚を満たすために物事を受け入れることであり、無関心というのは物事に興味がない状態である。しかしクリシュナ意識に揺るぎない確信を持つ者は執着がなく、かつ無関心でもない。生涯を至高主への奉仕に捧げているからである。だから物事がうまくいかなくても腹を立てたりしない。クリシュナ意識の人は至高主に固い決意を持ち、成功しようと失敗しようと心は常に落ち着いている。
yaḥ sarvatrānabhisnehas
tat tat prāpya śubhāśubham
nābhinandati na dveṣṭi
tasya prajñā pratiṣṭhitā

訳語

翻訳

この世に居ながらにして
善にも悪にも心乱れず
称賛にも蔑みにも泰然とする者は
もはや完全な知識に固定している。

解説

 善きにつけ悪しきにつけ、物質世界には常に大きな変動がつきものである。そのような変動にあっても平然としていられる人、すなわち良いことにも悪いことにも心が乱れない人は、確固たるクリシュナ意識にあると考えられる。物質世界は二元性で溢れているため、ここにいるかぎり必ず良いことにも悪いことにも遭遇する。しかしクリシュナ意識が不動のものとなっている人は、絶対完全なる善であるクリシュナのことしか頭にないため、善悪の影響を受けない。この完璧な超越的クリシュナ意識の境地を専門用語でサマーディと呼ぶ。
yadā saṁharate cāyaṁ
kūrmo ’ṅgānīva sarvaśaḥ
indriyāṇīndriyārthebhyas
tasya prajñā pratiṣṭhitā

訳語

翻訳

亀が手足を甲羅に収めるように
感覚の対象となる物から
自らの感覚を引き離すことのできる人は
完璧な意識に定着したと言える。

解説

 ヨーギー、献身者、自己を悟った魂、こうした人たちが本物かどうかは、思い通りに感覚を制御できるかどうかでわかる。ほとんどの人は感覚のしもべであり、感覚の思うがままに動かされている。ヨーギーはどのような境地にあるかと問われれば、それがその答えとなるであろう。感覚は勝手気ままに動き回る毒蛇にたとえられることがある。ヨーギーあるいは献身者は蛇使いのごとく厳しく蛇を調教し、決して勝手な行動をさせてはならない。啓示経典には「こうしてはならない」「このようにせよ」など、さまざまな注意事項が書かれている。そういった注意事項に従って感覚欲を制御しないかぎり、クリシュナ意識にしっかりと定着することは不可能である。ここに挙げられている亀は実に良い例である。亀はいつでも五感を引っ込めることができるし、必要とあらばまたいつでも出すことができる。同様に、クリシュナ意識の人は至高主への奉仕が目的のときだけ感覚を使い、それ以外のときは引っ込めておく。アルジュナはここで、自分の楽しみのためにではなく、至高主への奉仕のために感覚を使えと教示を受けているのだ。いつも至高主への奉仕のために感覚を抑えておく。亀はその良い例なのである。
viṣayā vinivartante
nirāhārasya dehinaḥ
rasa-varjaṁ raso ’py asya
paraṁ dṛṣṭvā nivartate

訳語

翻訳

肉体を持った魂は
禁欲しても過去の味わいを記憶している。
だが、より高い味わいを経験すればそれも忘れ
意識を不動にすることができるのだ。

解説

 超越的な境地にいないかぎり、感覚の楽しみを捨てることはできない。規則や原則を守って感覚を抑えようとするのは、病人に食事制限をさせるようなもの。そのような食事が口に合うはずがないし、好きだったものの味を忘れてしまったわけでもない。同様にアシュターンガ・ヨーガのような、ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラテャーハーラ、ダーラナー、デャーナといった特定の精神的方法で感覚を抑えようとする方法は、優れた知識をしっかりと学んでいない人に勧められるものである。一方、クリシュナ意識を向上させていく中で至高主クリシュナの美しさを味わった人は、もはや意味のない物質次元のものに何の関心も持たなくなっていく。したがって抑制というのは、まだ十分な知識を持っていない初心者が精神的に向上するためにすることであり、実際にクリシュナ意識を味わえるようになれば抑制する必要はなくなる。本当にクリシュナ意識になると、価値のないものの味わいなど自然に消え失せてしまうものなのだ。
yatato hy api kaunteya
puruṣasya vipaścitaḥ
indriyāṇi pramāthīni
haranti prasabhaṁ manaḥ

訳語

翻訳

アルジュナよ
感覚の欲求は非常に強く激しく
制御しようと努める分別ある人の心さえも
力づくで奪い去るのだ。

解説

 世の中には学識ある聖人、哲学者、超越主義者などが大勢いて、それぞれに感覚を制御しようと努めているが、必死の努力にもかかわらずなかなか成功しない。最も偉大だと仰がれるような者でも心が乱され、快楽の餌食となってしまうことがある。ヴィシュヴァーミトラは偉大な聖者、かつ完璧なヨーギーであり、厳しい苦行やヨーガを行って感覚の統制に努めていたにもかかわらず、メーナカーの誘惑に負けて性的快楽に目がくらんでしまった。世界の歴史を紐解けば、似たような例がたくさんある。完全なクリシュナ意識でないかぎり、心と感覚の制御がいかに難しいことかよくわかる。心をクリシュナとしっかり結びつけておかなければ、物質的な欲望を断つことはできないのだ。偉大な聖者であり献身者であるシュリー・ヤームナーチャーリャが語る次の言葉は実践的な手本と言えよう。
yad-avadhi mama cetaḥ kṛṣṇa-pādāravinde
nava-nava-rasa-dhāmany udyataṁ rantum āsīt
tad-avadhi bata nārī-saṅgame smaryamāne
bhavati mukha-vikāraḥ suṣṭhu niṣṭhīvanaṁ ca
 「心から主クリシュナの蓮華の御足にお仕えすることで、私はいつも超越的な気分を味わっている。女性との性生活のことが頭をかすめるたび、私は顔を背け、その思いに唾を吐く」。
 クリシュナ意識があまりにも優れているため、物質次元の楽しみは自然と味気ないものになっていく。それはちょうど飢えた人が栄養のある食べ物をお腹いっぱい食べて満ち足りた状態と似ている。sa vai manaḥ kṛṣṇa-padāravindayor vacāṁsi vaikuṇṭha-guṇānuvarṇane マハーラージャ・アンバリーシャがドゥルヴァーサ・ムニという偉大なヨーギーに勝利を収めたのも、ただ心がクリシュナ意識に没頭していたからである。
tāni sarvāṇi saṁyamya
yukta āsīta mat-paraḥ
vaśe hi yasyendriyāṇi
tasya prajñā pratiṣṭhitā

訳語

翻訳

感覚を制御して自らの支配下に置き
意識を私にしっかりと固定できる者は
不動の知性を得た者として
名を世に知らしめるであろう。

解説

 ヨーガ完成の最高の境地はクリシュナ意識であることが、この節ではっきりと述べられている。クリシュナ意識でないかぎり、感覚を制御することは絶対にできない。前節でも触れたが、偉大な聖者ドゥルヴァーサ・ムニは、マハーラージャ・アンバリーシャに口論を挑んだのだが、その際、自尊心から不必要な怒りが生じ、感覚を制御できなくなってしまった。一方アンバリーシャ王はその聖者ほど力のあるヨーギーではなかったが、主の献身者であったため、聖者の冒涜をただ静かに耐えていた。こうしてその戦いは王の勝利となったのである。感覚を制御できたアンバリーシャ王がどのような資質を持っていたのか、次に述べる『シュリーマド・バーガヴァタム』(9-4-18~20)でよくわかる。
sa vai manaḥ kṛṣṇa-padāravindayor
vacāṁsi vaikuṇṭha-guṇānuvarṇane
karau harer mandira-mārjanādiṣu
śrutiṁ cakārācyuta-sat-kathodaye
mukunda-liṅgālaya-darśane dṛśau
tad-bhṛtya-gātra-sparśe ’ṅga-saṅgamam
ghrāṇaṁ ca tat-pāda-saroja-saurabhe
śrīmat-tulasyā rasanāṁ tad-arpite
pādau hareḥ kṣetra-padānusarpaṇe
śiro hṛṣīkeśa-padābhivandane
kāmaṁ ca dāsye na tu kāma-kāmyayā
yathottama-śloka-janāśrayā ratiḥ
 「アンバリーシャ王は主クリシュナの蓮華の御足から心を離すことがなかった。主のお住まいについて語ることに口を使い、主の寺院を掃除することに手を使い、主の崇高な逸話を聴くことに耳を使い、主のお姿を見ることに目を使い、献身者の体と触れ合うことに体を使い、主の蓮華の御足に捧げられた花の香りをかぐことに鼻を使い、主に捧げられたトゥラシーの葉を味わうことに舌を使い、主の寺院がある聖地を巡礼することに足を使い、主を礼拝するために頭を下げ、主の望みを満たしてさしあげたいという思いを自分の望みに充てた。これらのすばらしい特質こそ、王がマット・パラ献身者となるにふさわしい資格である」。
 このマット・パラというサンスクリット語に最も重要な意味が込められている。どうすればマット・パラになれるのかは、マハーラージャ・アンバリーシャの生き方を見ればわかる。偉大な学者であり、マット・パラの継承上のアーチャーリャでもあるシュリーラ・バラデーヴァ・ヴィデャーブーシャナはこう語る。mad-bhakti-prabhāvena sarvendriya-vijaya-pūrvikā svātma-dṛṣṭiḥ su-labheti bhāvaḥ「クリシュナへの献身奉仕の力によってのみ、人は感覚を完璧に制御できる」。また「燃え盛る火が部屋のものすべてを焼き尽くすように、ヨーギーのハートの中に宿る主ヴィシュヌは、あらゆる不浄を焼き尽くしてくださる」と火をたとえにしている記述もある。『ヨーガ・スートラ』もヴィシュヌへの瞑想を説き、無を瞑想することを否定している。ヴィシュヌのお姿以外のものを瞑想する名ばかりのヨーギーは、幻想を追い求めて時間を無駄にしているにすぎない。私たちはクリシュナ意識になり、至高人格神に献身的に仕えなくてはならない。これがヨーガの真の目的である。
dhyāyato viṣayān puṁsaḥ
saṅgas teṣūpajāyate
saṅgāt sañjāyate kāmaḥ
kāmāt krodho ’bhijāyate

訳語

翻訳

感覚の対象を見、また思うことで
人はそれに愛着するようになり
その愛着より欲望が起こり
欲望から怒りが生じる。

解説

 クリシュナ意識でない人は、感覚の対象となるものを見つめたり心に描いたりしているうちに、物質的な欲望が湧き起こってくる。感覚というものは何かに直接関わっている必要があるため、それが主への超越的な愛情奉仕に向けられていないと、当然物質的なものに関与しようとする。この物質世界では、天界の惑星に住む神々は言うまでもなく、主シヴァや主ブラフマーに至るまで、誰もが感覚の対象物に影響を受ける。この物質現象という混乱から抜け出す方法はただひとつ、クリシュナ意識になることである。深い瞑想状態に入っていた主シヴァは、快楽を求めて近づいてきたパールヴァティの誘惑に乗ってしまい、カールティケーヤという子供をもうけた。主の若い献身者であったハリダーサ・タークラも同じようにマーヤー・デーヴィーの化身にそそのかされたが、彼の場合は簡単にその試練を乗り越えてしまった。それは彼が主クリシュナに純粋な愛を抱いていたからである。先に述べたシュリー・ヤームナーチャーリャの言葉が説明しているように、主の誠実な献身者は主との交際において精神的な高い喜びを味わっているため、物質的な快楽を避けて通る。これが成功の秘訣である。しかしクリシュナ意識でなければ、不自然な方法でどれほど感覚を押さえつけようとしても、最後には失敗に終わる。感覚の快楽はたとえわずかに頭をよぎっただけでも、なんとか満たしたいと心をかき乱すからである。
krodhād bhavati sammohaḥ
sammohāt smṛti-vibhramaḥ
smṛti-bhraṁśād buddhi-nāśo
buddhi-nāśāt praṇaśyati

訳語

翻訳

怒りに気が迷って妄想が生じ
妄想によって記憶が混乱し
記憶が混乱すれば知性を失い
その結果、人は再び物質の淵に落ちる。

解説

シュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーが語った教訓がある。
prāpañcikatayā buddhyā
hari-sambandhi-vastunaḥ
mumukṣubhiḥ parityāgo
vairāgyaṁ phalgu kathyate
『バクティ・ラサームリタ・シンドゥ』1-2-258)
 クリシュナ意識を育んでいくと、物事はすべて至高主への奉仕に役立てることができるとわかってくる。クリシュナ意識の知識がない人は物質的なものを故意に避けようとするが、その結果は、物質的な束縛から解放されたいという望みに反したものであり、放棄という完璧な段階には到達できない。そういう人たちが放棄だと思っているものは、パルグと呼ばれるもので、さほど重要ではないものである。一方クリシュナ意識の人は、どうすればすべてを主への奉仕に役立てられるかを知っているため、物質的な意識の犠牲にならない。例えば非人格主義者※は、「至高主すなわち絶対者は人格を持たない存在なのだから食べる行為はできない」と考えているため、美味しい食べ物を避けようとする。しかし献身者は、クリシュナは最高の享楽者であり、愛情をこめて捧げたものは何でも食べてくださることを知っているため、美味しい食べ物を主に捧げ、プラサーダムと呼ばれるそのお下がりをいただく。こうしてすべてが精神化されるので、堕落する危険にさらされない。献身者はクリシュナ意識でプラサーダムをいただくが、献身者でない人はプラサーダムが物質的だとして拒む。つまり非人格主義者は不自然な放棄をしているために、ほんのわずかな心の乱れからでも物質存在の深淵に陥れられ、結局は人生を楽しむことができないのだ。そのような魂は、たとえ解脱の境地にまで高められたとしても、献身奉仕という支えがないため、また堕ちてしまうことになる。

※非人格主義者とは、絶対真理には究極的に人格や姿があることを認めず、無機質なブラフマンの光に溶け込む解脱を最終目的としている者を意味する。
rāga-dveṣa-vimuktais tu
viṣayān indriyaiś caran
ātma-vaśyair vidheyātmā
prasādam adhigacchati

訳語

翻訳

しかし、あらゆる執着と嫌悪から離れ
解放のための規定原則に従って
感覚を制御できる者は
主の完全な慈悲を得ることができる。

解説

 不自然な方法でうわべだけ感覚を制御しても、感覚を至高主への超越的な奉仕に使っていなければ、堕落する危険性は常につきまとう。このことはすでに説明されている。完全にクリシュナ意識である人は、感覚を楽しんでいるように見えることがあっても、実はその行動に何の執着もしていない。クリシュナ意識の人の望みはクリシュナに満足していただくことだけであり、ほかには何の関心もない。つまり執着とか無執着というものを超越しているのである。クリシュナが望まれるなら誰もやりたくないようなこともできるし、クリシュナが望まないなら自分がやりたいことでもやろうとはしない。クリシュナ意識の人は何をするにもしないにも、すべてクリシュナの指示次第で動くので、自分を制御できるのだ。この意識こそ至高主のいわれのない慈悲であり、感覚を楽しませることにまだ執着を残している献身者にも、この意識は与えられている。
prasāde sarva-duḥkhānāṁ
hānir asyopajāyate
prasanna-cetaso hy āśu
buddhiḥ paryavatiṣṭhate

訳語

翻訳

クリシュナ意識に満ちた人にとって
物質界の三重苦は消滅し
この心満ち足りた境地において
すみやかに知性は安定する。
nāsti buddhir ayuktasya
na cāyuktasya bhāvanā
na cābhāvayataḥ śāntir
aśāntasya kutaḥ sukham

訳語

翻訳

クリシュナ意識で至高主と結びついていない者は
超越的な知性もなければ心も安定せず
平安の境地は望むべくもない。
平安なき所に真の幸福などあり得ようか。

解説

 クリシュナ意識でないかぎり、平安が訪れることはない。供儀や苦行から得られる良い結果を享楽するのはクリシュナだけであること、宇宙万物の所有者はクリシュナであること、クリシュナこそが生きとし生ける者にとっての真の友であること、この3つの点が理解できたとき、本当の平安がもたらされると、第5章第29節で明言されている。したがってクリシュナ意識でないかぎり、心が最終的に目指すところには行き着けない。究極的な目的地がわからないから絶えず不安がつきまとう。上記の3つ、すなわちクリシュナこそが享楽者であり、所有者であり、万物万人の真の友であることをはっきりと悟ったときに初めて、心に本当の平安が訪れるのである。ゆえに、どれほど平穏であるかのように、あるいは精神的に高められているかのようにふるまっても、クリシュナと結びつかない生活を送る者には常に苦悩がつきまとい、決して本当の平安は訪れない。クリシュナ意識とは内から湧きおこる平和な境地であり、それはクリシュナと固く結びついたときにだけ可能となるものである。
indriyāṇāṁ hi caratāṁ
yan mano ’nuvidhīyate
tad asya harati prajñāṁ
vāyur nāvam ivāmbhasi

訳語

翻訳

水の上を航く舟が強い風に吹き流されるように
たったひとつでも感覚に心を許してしまえば
人の知性はたちまち奪われてしまうのだ。

解説

 感覚はすべて、至高主への奉仕に従事させなくてはならない。たとえたったひとつの感覚だけでも自己の快楽に向けられてしまえば、献身者が超越的な向上を目指す道から逸れてしまうことになりかねない。マハーラージャ・アンバリーシャの人生から学べるように、すべての感覚をクリシュナ意識で働かせること、これこそ心を統制する正しい技術なのである。
tasmād yasya mahā-bāho
nigṛhītāni sarvaśaḥ
indriyāṇīndriyārthebhyas
tasya prajñā pratiṣṭhitā

訳語

翻訳

ゆえに剛勇の士よ
感覚がその対象のほうに向かぬよう抑制できる者こそ
安定した知性を備えた者である。

解説

 感覚を満たそうとする衝動を抑える方法はただひとつ。クリシュナ意識、つまりすべての感覚を至高主への超越的な愛情奉仕に使うことである。敵を制するには敵に勝る力で対さなくてはならないように、感覚を制するには人間の努力によってではなく、至高主への奉仕に感覚を働かせるという姿勢で対さなくてはならない。クリシュナ意識こそ真の知性を確立する唯一の方法であり、そのためには真正なる精神の師のもとでこの技術を磨かなくてはならず、このことを完全に理解できた者がサーダカ、すなわち「解脱を得るにふさわしい者」と呼ばれるのである。
yā niśā sarva-bhūtānāṁ
tasyāṁ jāgarti saṁyamī
yasyāṁ jāgrati bhūtāni
sā niśā paśyato muneḥ

訳語

翻訳

あらゆる生物が夜としている時は
自制の賢者にとって昼である。
あらゆる生物が昼としている時は
内観する賢者にとって夜である。

解説

 聡明な人には2種類ある。物欲を満たすことに関しては非常に頭の切れる人と、真剣に自分の内面を見つめて自己の悟りの道を歩むことに目覚めた人である。自己を見つめる賢者、すなわち思慮深い人間のする活動は、物質次元のことに浸りきっている人間にとっては夜のようなもの。物質的な人は自己の悟りに関して無知で、まだ眠っている状態だからである。自己を見つめる賢者は、物質的段階の人にとっての夜に目を覚ました状態にあり、精神的な教養が高まっていくことに超越的な喜びを感じる。しかし自己の悟りに目覚めていない物質段階の人は、さまざまな快楽の夢を追い求め、眠った状態の中で喜んだり悲しんだりしている。自己を見つめる人は、物質次元の幸、不幸には関心がない。物質的な活動から生じる反動に乱されることなく、自己を悟る道をまっすぐに進んでいくのである。
āpūryamāṇam acala-pratiṣṭhaṁ
samudram āpaḥ praviśanti yadvat
tadvat kāmā yaṁ praviśanti sarve
sa śāntim āpnoti na kāma-kāmī

訳語

翻訳

流れ込む川の水にも泰然としている海のごとく
次々と湧き起こる欲望に心乱さずにいる者は
平安に至る。
だが欲望を満たそうとする者はそうではない。

解説

 広大な海は絶えず水で満ちていて、ことに雨季となると流れ込む水の量はさらに増す。それなのに海は変わらない。乱されることなく、海岸線を越えることなく、いつも平然と同じでいる。安定してクリシュナ意識でいる人はこの状態と同じである。肉体を持っているかぎり、肉体に関する欲望は続く。しかし献身者は常に満たされているので、そのような欲望に乱されたりしない。クリシュナ意識の人はクリシュナによって必要なものが満たされているため、ほかの必要性を感じない。つまり海のように自己の内で満ち足りているのである。川から海に流れ込む水のように欲望は押し寄せはするが、やるべきことの妨げにならないし、そういう快楽を満たしたいという気も起こらない。欲望はあってもそれに取り合わないのがクリシュナ意識の人の証あかしである。至高主への超越的な愛情奉仕に満足しきっているので海のように悠然とし、平安を味わっている。しかし自分の望みを満たそうとする人は、それがたとえ解脱に対する望みであっても決して平安を得られないのであり、物質次元の成功を望む者が得られないことは言うまでもない。また、成果を期待して働く人も、慈善活動をする人も、神秘力を追い求めるヨーギーも、幸せとは言えない。なぜなら望みが満たされていないからである。しかしクリシュナ意識の人は至高主に仕えていて幸せであり、それ以外に満たしたい望みもない。物質的な束縛から解放されたいとさえ望まない。クリシュナの献身者は物質次元のものを望まないからこそ、いつも完璧な平安を味わっているのである。
vihāya kāmān yaḥ sarvān
pumāṁś carati niḥspṛhaḥ
nirmamo nirahaṅkāraḥ
sa śāntim adhigacchati

訳語

翻訳

感覚を満たしたいという思いを捨て
欲望にとらわれない生き方をし
所有感も偽りの自我も持たない者だけが
真の平安に達する。

解説

 無欲になるとは、感覚を満たしたいと望まなくなることであり、クリシュナ意識になるとは、実際には無欲になることである。肉体が自分であるという誤った考え方をせず、世の中のいかなるものに対しても自分のものだと誤解することもなく、自分の本当の立場はクリシュナの永遠なるしもべであるということをしっかりと理解している、これが完璧なクリシュナ意識の段階である。この完全な状態にいる人は、すべてはクリシュナのものだからクリシュナに満足していただくために使わなくてはならない、ということを知っている。アルジュナは自分の感覚を満たすためには戦う気がしなかったが、完全なクリシュナ意識になったときには戦うという行動を起こした。それは自分が戦うことをクリシュナが望んでいるとわかったからである。自分のためには戦う意欲のない彼がクリシュナのためには全力で戦ったのだ。真の無欲とは、クリシュナの思いを満たしたいと望むことであり、無理やり欲望を抑えつけることではない。生命体にとって、何も望まない、何も感じないというのは不可能なことだが、大切なのは、望みの質を変えるということである。物質次元の望みを持たない人は、すべてはクリシュナのものである(īśāvāsyam idaṁ sarvam)としっかりわかっているため、何に対しても自分の所有権を主張するような過ちをおかさない。この超越的な知識は自己の悟りによって得られる。その悟りとは、生きとし生ける者はすべてクリシュナの永遠なる一部分であるという精神的な境地に立ち、生命体の永遠の立場はクリシュナと同等ではなく、ましてやクリシュナに優まさることなどありえないと正しく理解することである。このクリシュナ意識についての理解こそ、真の平和の基本原理なのである。
eṣā brāhmī sthitiḥ pārtha
naināṁ prāpya vimuhyati
sthitvāsyām anta-kāle ’pi
brahma-nirvāṇam ṛcchati

訳語

翻訳

これが精神的かつ聖なる道である。
ここに達すれば一切の迷いは消える。
死の間際にあってさえこの境地にあれば
神の王国に入ることを許されるのだ。

解説

 瞬く間にクリシュナ意識すなわち真正な人生の段階に昇れる人もいれば、何百万回生まれ変わってもその段階に達しない人もいる。それはどれだけ事実を理解し、受け入れるかにかかっている。カトゥヴァーンガ・マハーラージャは、息を引き取る数分前にクリシュナに自分を明け渡し、この境地に達した。ニルヴァーナとは、物質的な生き方の終わりを意味している。仏教哲学ではこの物質生活を終えたあとにあるものは「無」だと言う。しかし『バガヴァッド・ギーター』の教えは違っていて、この物質生活を終えたところから本当の人生が始まると説いている。はなはだしく物質的な人にとっては、物質的な生き方をやめなくてはならないということがわかるだけで十分だが、精神的に高められた人にとっては、この物質的な生活を終えたあとに別の生活が待っているのだ。もし幸運にも、この人生を終える前にクリシュナ意識になれたなら、その人は直ちにブラフマ・ニルヴァーナの段階に到達できる。神の王国に住むことと至高主に献身的な奉仕をすることは、何ら変わりがない。どちらも絶対的な段階であり、主に超越的な愛情をこめてお仕えすることは、精神的な王国に到達したのと同じことだからである。物質世界には感覚欲を満たす活動があるのに対し、精神世界にはクリシュナ意識の活動がある。現世でクリシュナ意識になるということは、即座にブラフマンを達成することであり、つまりクリシュナ意識になった人はすでに神の王国に入っていることになる。
 ブラフマンとは物質と相反するものであり、ブラーフミー・スティティとは「物質的な活動という次元ではない」という意味である。『バガヴァッド・ギーター』は至高主への献身奉仕を解放された段階としてとらえている(sa guṇān samatītyaitān brahma-bhūyāya kalpate)。したがってブラーフミー・スティティとは「物質の束縛からの解放」という意味なのである。
 シュリーラ・バクティヴィノーダ・タークラは、この第2章は『バガヴァッド・ギーター』の要旨であると述べている。『バガヴァッド・ギーター』の主題はカルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、そしてバクティ・ヨーガである。第2章ではカルマ・ヨーガとジュニャーナ・ヨーガのことが明確に語られ、またバクティ・ヨーガについてもその全容が一見できるよう少し説明されている。
 以上、『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第2章「ギーターの要旨」に関するバクティヴェーダンタの解説は終了。