節
訳語
翻訳
解説
第9章
主クリシュナが見届けたビーシュマデーヴァの最期
節
sūta uvāca
iti bhītaḥ prajā-drohāt
sarva-dharma-vivitsayā
tato vinaśanaṁ prāgād
yatra deva-vrato ’patat
iti bhītaḥ prajā-drohāt
sarva-dharma-vivitsayā
tato vinaśanaṁ prāgād
yatra deva-vrato ’patat
訳語
sūtaḥ uvāca—シュリー・スータ・ゴースヴァーミーが言った; iti—こうして; bhītaḥ—~を恐れて; prajā-drohāt—臣下たちの殺害のため; sarva—全て; dharma—宗教上の行為; vivitsayā—理解のために; tataḥ—その後; vinaśanam—戦いがあった場所; prāgāt—彼は行った; yatra—その場所; deva-vrataḥ—ビーシュマデーヴァ; apatat—他界のために横たわっている。
翻訳
スータ・ゴースヴァーミーが言った。「クルクシェートラの戦場で数多くの臣下が殺されたことに心を痛めていたマハーラージャ・ユディシュティラは、多くの人が戦死した場所へ行った。そこには、いましも臨終の時を迎えようとしていたビーシュマデーヴァが矢の寝台に横たわっていた」
解説
この第9章では、主シュリー・クリシュナが望んだように、ビーシュマデーヴァがユディシュティラ王へ、職務上の義務について教えを授けます。また、ビーシュマデーヴァは、現世を去るときに主に祈りを捧げ、その結果、さらなる物質界での活動という束縛から解放されます。ビーシュマデーヴァは、自分の意志で物質界を去るという力を授かっており、矢の寝台に横たわることも自ら選んだことです。偉大な戦士の臨終に、当時の名士たち全てが注目し、偉大な魂に愛情と敬意と真心を示すためにその場所に集まりました。
節
tadā te bhrātaraḥ sarve
sadaśvaiḥ svarṇa-bhūṣitaiḥ
anvagacchan rathair viprā
vyāsa-dhaumyādayas tathā
sadaśvaiḥ svarṇa-bhūṣitaiḥ
anvagacchan rathair viprā
vyāsa-dhaumyādayas tathā
訳語
tadā—その時; te—彼ら全員; bhrātaraḥ—兄弟たち; sarve—一緒に; sat-aśvaiḥ—一流の馬に引かれて; svarṇa—金; bhūṣitaiḥ—~で飾られて; anvagacchan—あいついで従った; rathaiḥ—馬車の上で; viprāḥ—ブラーフマナたちよ; vyāsa—聖者ヴィヤーサ; dhaumya—ダウミャ; ādayaḥ—そして他の人々; tathā—もまた。
翻訳
その時、ユディシュティラ王の兄弟たちも、黄金の装飾品で飾られた見事な馬が引く華麗な戦闘馬車に乗って王に続いた。その後に、ヴィヤーサやダウミャ[パーンダヴァ家の博識な僧侶]といったリシたちも従った。
節
bhagavān api viprarṣe
rathena sa-dhanañjayaḥ
sa tair vyarocata nṛpaḥ
kuvera iva guhyakaiḥ
rathena sa-dhanañjayaḥ
sa tair vyarocata nṛpaḥ
kuvera iva guhyakaiḥ
訳語
bhagavān—人格神(シュリー・クリシュナ); api—もまた; vipra-ṛṣe—ブラーフマナたちのなかの聖者よ; rathena—馬車の上で; sa-dhanañjayaḥ—ダナンジャヤ(アルジュナ)と共に; saḥ—主; taiḥ—彼らによって; vyarocata—非常に高貴な人物に見えた; nṛpaḥ—王(ユディシュティラ); kuvera—神々の宝物の管理者クヴェーラ; iva—として; guhyakaiḥ—グヒャカという仲間たち。
翻訳
ブラーフマナのなかの聖者よ。人格神、主シュリー・クリシュナもアルジュナの馬車に座って後に続いた。ユディシュティラ王は、自分の仲間[グヒャカ]を率いるクヴェーラのように、非常に高貴な人物に見えた。
解説
主シュリー・クリシュナは、パーンダヴァたちが気品に満ちた王族としてビーシュマデーヴァの前に姿を見せることを望んでいました。ビーシュマデーヴァが、他界する時にその様子を見て、至福感に包まれることを願ったからです。クヴェーラは神々のなかで最も富を持つ人物で、この節でユディシュティラ王はそのクヴェーラのように映えた、と描写されています。それは、シュリー・クリシュナを伴うその行列が、ユディシュティラ王の威厳にふさわしかったからです。
節
dṛṣṭvā nipatitaṁ bhūmau
divaś cyutam ivāmaram
praṇemuḥ pāṇḍavā bhīṣmaṁ
sānugāḥ saha cakriṇā
divaś cyutam ivāmaram
praṇemuḥ pāṇḍavā bhīṣmaṁ
sānugāḥ saha cakriṇā
訳語
dṛṣṭvā—そのように見ている; nipatitam—横たわっている; bhūmau—地面に; divaḥ—空から; cyutam—落ちた; iva—のように; amaram—神々; praṇemuḥ—ひれ伏した; pāṇḍavāḥ—パーンドゥの息子たち; bhīṣmam—ビーシュマに; sa-anugāḥ—弟たちと; saha—も一緒に; cakriṇā—主(円盤を持っている)。
翻訳
彼[ビーシュマ]が、あたかも空から舞い降りてきた神々のように地面に横たわっている様を見て、パーンダヴァ家のユディシュティラ王は、弟たち、そして主クリシュナと共にビーシュマの前にひれ伏した。
解説
主クリシュナは、マハーラージャ・ユディシュティラの年下のいとこであり、またアルジュナの親友でもありました。しかし、パーンダヴァ家の人々は主クリシュナが人格神であることをよく知っていました。主も自分の至高の立場を認識した上で社会の慣習に従い、この時も、ユディシュティラ王の弟たちのひとりであるかのように、臨終を迎えるビーシュマデーヴァにひれ伏したのでした。
節
tatra brahmarṣayaḥ sarve
devarṣayaś ca sattama
rājarṣayaś ca tatrāsan
draṣṭuṁ bharata-puṅgavam
devarṣayaś ca sattama
rājarṣayaś ca tatrāsan
draṣṭuṁ bharata-puṅgavam
訳語
tatra—そこに; brahma-ṛṣayaḥ—ブラーフマナのなかのリシたち; sarve—全員; deva-ṛṣayaḥ—神々のなかのリシたち; ca—そして; sattama—徳性に置かれている; rāja-ṛṣayaḥ—王のなかのリシたち; ca—そして; tatra—その場所に; āsan—いた; draṣṭum—ただ見るために; bharata—バラタ王の子孫; puṅgavam—~の筆頭者。
翻訳
バラタ王の子孫の筆頭者[ビーシュマ]を見ようと、宇宙中の偉大な魂、すなわち神々のなかのリシ、ブラーフマナ、王など徳の性質を備えた者たちが全て、次々に集結した。
解説
リシとは、精神的な修養を達成して完璧な境地に入った人物を指します。そのような精神的達成は、王や修行僧であろうと誰でも得ることができます。ビーシュマデーヴァ自身がブラフマリシのひとりであり、バラタ王の子孫の筆頭者でした。リシは誰であろうと徳の様式を備えています。そのような人々が全て、この偉大な戦士が死を迎えようとしているという知らせを聞いて、この場所に集まって来たのでした。
節
parvato nārado dhaumyo
bhagavān bādarāyaṇaḥ
bṛhadaśvo bharadvājaḥ
saśiṣyo reṇukā-sutaḥ
bhagavān bādarāyaṇaḥ
bṛhadaśvo bharadvājaḥ
saśiṣyo reṇukā-sutaḥ
vasiṣṭha indrapramadas
trito gṛtsamado ’sitaḥ
kakṣīvān gautamo ’triś ca
kauśiko ’tha sudarśanaḥ
trito gṛtsamado ’sitaḥ
kakṣīvān gautamo ’triś ca
kauśiko ’tha sudarśanaḥ
訳語
parvataḥ—パルヴァタ・ムニ; nāradaḥ—ナーラダ・ムニ; dhaumyaḥ—ダウミャ; bhagavān—主神の化身; bādarāyaṇaḥ—ヴィヤーサデーヴァ; bṛhadaśvaḥ—ブリハダシュヴァ; bharadvājaḥ—バラドヴァージャ; sa-śiṣyaḥ—弟子たちと; reṇukā-sutaḥ—パラシュラーマ; vasiṣṭhaḥ—ヴァシシュタ; indrapramadaḥ—インドラプラマダ; tritaḥ—トリタ; gṛtsamadaḥ—グリツァマダ; asitaḥ—アシタ; kakṣīvān—カクシーヴァーン; gautamaḥ—ガウタマ; atriḥ—アトリ; ca—そして; kauśikaḥ—カウシカ; atha—~もまた; sudarśanaḥ—スダルシャナ。
翻訳
パルヴァタ・ムニ、ナーラダ、ダウミャ、神の化身ヴィヤーサ、ブリハダシュヴァ、バラドヴァージャ、弟子たちを率いたパラシュラーマ、ヴァシシュタ、インドラプラマダ、トリタ、グリツァマダ、アシタ、カクシーヴァーン、ガウタマ、アトリ、カウシカ、スダルシャナといった聖者たちもそこにいた。
解説
パルヴァタ・ムニは、最年長の聖者のひとりで、ほとんどいつもナーラダ・ムニと行動を共にしています。物質的な機械を使わずに空間を移動できる宇宙飛行士です。パルヴァタ・ムニは、ナーラダのように、神々たちの筆頭者である大聖者、デーヴァリシです。マハーラージャ・パリークシットの息子であるマハーラージャ・ジャナメージャヤの儀式にナーラダと共に出席しましたが、この儀式では世界中の蛇が殺されることになっていました。パルヴァタ・ムニとナーラダ・ムニはガンダルヴァとも呼ばれますが、それは主の栄光を歌いながら宇宙を旅することができるからです。そのような力を持っていたことから、ふたりはドラウパディーのスヴァヤンヴァラの儀式(夫を選ぶ儀式)を空から見ていました。またナーラダ・ムニと同じように、インドラ王が住む天国の王族たちをよく訪ねています。ガンダルヴァでもあるこの聖者は、重要な神々のひとりクヴェーラの宮殿を訪ねることがありました。ナーラダもパルヴァタも、一度マハーラージャ・スリンジャヤの娘との問題に巻き込まれたことがありました。マハーラージャ・スリンジャヤはパルヴァタ・ムニから息子を授かるという恩恵を授かっています。
ナーラダ・ムニは、プラーナとは切っても切れない関わりのある聖者です。バーガヴァタムにも登場しています。前世では下女の息子でしたが、純粋な献身者たちとの素晴らしい交流を通して献身奉仕に目覚め、次の世で、完璧な人と呼ぶにふさわしい人物になりました。『マハーバーラタ』でもその名前は多く登場します。主要なデーヴァリシ、つまり神々の中での筆頭の聖者でもあります。ブラフマジーの息子、そして弟子でもあり、この人物からブラフマーの師弟継承が伝わっています。ナーラダ・ムニのもとに入門した人々に、プラフラーダ・マハーラージャ、ドルヴァ・マハーラージャ、そして数多くの主の名高い献身者がいます。ヴェーダ経典の編集者であるヴィヤーサデーヴァさえ弟子として受け入れ、さらにヴィヤーサデーヴァはマダヴァーチャーリャを受け入れました。こうしてガウディーヤ・サンプラダーヤを発祥させたマダヴァ・サンプラダーヤが宇宙全体に広がりました。シュリー・チャイタニヤ・マハープラブはこのマダヴァ・サンプラダーヤに属しています。つまり、ブラフマジー、ナーラダ、ヴィヤーサ、そしてマダヴァ、チャイタニヤやゴースヴァーミーたちに至る師弟継承は同じ線上に属しているということです。ナーラダジーは太古の昔から多くの王たちを指導しています。バーガヴァタムを読むと、母親の体内にいたプラフラーダ・マハーラージャに教えを授けている記述があり、またクリシュナの父であるヴァスデーヴァに、そしてマハーラージャ・ユディシュティラにも教えを授けています。
ダウミャは、ウトコーチャカ・ティールタで厳しい苦行をした偉大な聖者で、パーンダヴァ王家の僧侶に任命されています。パーンダヴァ兄弟たちによる数多くの宗教儀式(サンスカーラ)で主宰僧として働き、また5人がドラウパディーと婚約式をする時にも、この聖者は兄弟一人ひとりの式に参列しています。パーンダヴァ兄弟が追放された時には、一年間彼らが誰にも知られずに住む方法など、さまざまな状況で助言し、5人ともその教えを厳格に守り通しました。ダウミャの名は、クルクシェートラの戦いが終わった後の葬式の時にも出てきます。『マハーバーラタ』の「アヌシャーサナ・パルヴァ」(127-15〜16)では、マハーラージャ・ユディシュティラに宗教上の教えを詳細に説いています。ダウミャこそ、世帯者を導く僧侶としてふさわしい人物です。パーンダヴァたちに正しい宗教の道を教えることができたからです。僧侶の仕事は、世帯者をアーシュラマ・ダルマ、つまり特定の階級における正しい職務上の義務について積極的に導くことにあります。家系の僧侶と精神指導者にはほとんど違いがありません。聖者、聖人、ブラーフマナとは、特にそのような機能を果たす人々のことをいいます。
バーダラーヤナ(ヴィヤーサデーヴァ)は、クリシュナ、クリシュナ・ドヴァイパーヤナ、ドヴァーパーヤナ、サッティヤヴァティー・スタ、パーラーシャリャ、パラーシャラートマジャ、バーダラーヤナ、ヴェーダヴィヤーサなどの名前でも知られている人物です。マハームニ・パラーシャラとサッティヤヴァティーの間に生まれた子であり、サッティヤヴァティーが、マハーラージャ・シャンタヌ(偉大な将軍である祖父ビーシュマデーヴァの父)と婚約する前に産んでいます。ナーラーヤナの強力な化身で、ヴェーダ知識を世界に広めました。そのためヴィヤーサデーヴァは、ヴェーダ経典、特にプラーナの吟唱の前に敬意を込めて讃えられています。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはその息子であり、ヴァイシャンパーヤナといったリシたちは、ヴェーダのさまざまな学派を司る弟子たちです。偉大な叙事詩『マハーバーラタ』、そして超越的な文献バーガヴァタムの著者でもあり、『ブラフマ・スートラ』(『ヴェーダンタ・スートラ』や『バーダラーヤナ・スートラ』)も編集しました。聖者たちのなかでも、ヴィヤーサデーヴァは厳しい苦行の力ゆえに、最も尊ばれています。カリ時代の人々が幸せになれるよう壮大な叙事詩『マハーバーラタ』を記録したいと考えた時、自分が口述する内容を書き留める力量のある執筆者がどうしても必要になりました。ブラフマジーの命令を受け、シュリー・ガネーシャジーがその記録を任せられ、ヴィヤーサデーヴァがその口述を一瞬たりとも止めることなく語り続けるという条件で、記録が始まりました。こうして、『マハーバーラタ』は、ヴィヤーサデーヴァとガネーシャの協力のもとで編集されました。
彼の母親であり、後にマハーラージャ・シャンタヌと結婚したサッティヤヴァティーの命令を受け、さらにシャンタヌ王とその最初の妻であるガンジスとの間に生まれたビーシュマデーヴァの依頼を受けて、ヴィヤーサデーヴァはドリタラーシュトラ、パーンドゥ、ヴィドゥラという3人の立派なの息子をもうけました。クルクシェートラの戦争の後、この叙事詩の英雄たちが全て亡くなった後に『マハーバーラタ』を編集しています。この叙事詩が初めて語られたのは、マハーラージャ・パリークシットの子であるマハーラージャ・ジャナメージャヤの宮殿でした。
ブリハダシュヴァは、マハーラージャ・ユディシュティラとよく会っていた老齢の聖者です。ふたりは最初にカーミャヴァナで会いました。マハーラージャ・ナラの伝記を語った聖者でもあります。イクシュヴァーク王家の子で同名の聖者がいますが、『マハーバーラタ』の『ヴァナ・パルヴァ(209-4〜5)』にその記述があります。
バラドゥヴァージャは7人の大聖者のひとりで、アルジュナの誕生儀式の時に出席していました。卓越した精神力を備えたこのリシは、時にガンジス川の岸辺で厳しい修行をしました。この聖者のアーシュラマは、今でもプラヤーガダーマで褒め讃えられています。ガンジス川で沐浴をしていた時、天上から舞い降りてきた美しい乙女グリタチーを偶然にも見たために射精しました。精液は土器に保存され、その精液からドローナが誕生しました。つまり、ドローナーチャーリャはバラドゥヴァージャ・ムニの子、ということになります。一方、ドローナの父親のバラドゥヴァージャは、マハリシのバラドゥヴァージャとは別人であるとする異論もあります。バラドヴァージャはブラフマーの偉大な従者でした。ドローナーチャーリャにクルクシェートラの戦争をやめさせるよう依頼したことがあります。
パラシュラーマ、別名レーヌカースタは、マハリシ・ジャマダグニとシュリーマティー・レーヌカーの間に誕生した人物です。レーヌカにちなんでレーヌカースタとも呼ばれています。神の強力な化身で、クシャトリヤ階級の者たちを21回にわたって殺し、そのクシャトリヤたちの血で、先祖の魂たちを喜ばせました。後に、マヘーンドラ・パルヴァタで厳しい修行に打ち込みました。クシャトリヤから地球全土を奪い取った後、その地球をカシャパ・ムニに施しました。パラシュラーマはダヌル・ヴェーダ、つまり軍事科学を、ブラーフマナだったドローナーチャーリャに授けました。マハーラージャ・ユディシュティラの戴冠式に出席し、他の偉大なリシたちとその出来事を祝福しています。
パラシュラーマは、ラーマとクリシュナに別々に会っているほど長老でした。ラーマと一戦を交えましたが、クリシュナを至高人格神として認めました。またクリシュナと一緒にいたアルジュナを讃えたことがあります。ビーシュマはアンバーという女性に求婚されましたが、その申し出を断りました。そこでアンバーはパラシュラーマに会い、ビーシュマを説得するよう頼みました。頼まれたパラシュラーマはアンバーを妻としてめとるようもちかけます。ビーシュマデーヴァにとってパラシュラーマは自分の精神指導者のひとりだったのですが、断りました。その結果、ふたりの間に激しい争いが起こりました。結局、パラシュラーマはビーシュマの武勇に満足し、世界屈指の戦士になる恩恵を授けました。
ヴァシシュタは、ブラーフマナたちの間で讃えられている偉大な聖者で、ブラフマリシ・ヴァシシュタデーヴァという名前でも知られています。『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』が語られた双方の時代で名高い人物で、人格神シュリー・ラーマの戴冠式を祝福し、クルクシェートラの戦争の時にもいました。高位、下位いずれの惑星にも行くことができ、その名前はヒラニヤカシプの歴史にも関係があります。昔、望みをかなえる牛、カーマデーヌを欲しがったヴィシュヴァーミトラとの間に大きな不和が生じたことがあります。ヴァシシュタ・ムニはカーマデーヌを与えることを拒絶し、対抗したヴィシュヴァーミトラは、ヴァシシュタの100人の息子を殺しました。完全なブラーフマナだったこの聖者は、ヴィシュヴァーミトラの度重なる嘲笑に耐えました。ヴィシュヴァーミトラの虐待に苦しんだ聖者は自殺を試みましたが、どうしても死ぬことができませんでした。崖から飛び降りれば転落した岩場が綿に変わり、海に飛びこめば波が聖者を岸まで戻します。川に飛び込んでも、やはり岸辺に打ち上げられます。何度試みても死にきれませんでした。ヴァシシュタ・ムニは7人の聖者のひとりで、有名な星の主宰神であるアルンダティーの夫でもあります。
インドラプラマダは名高いリシのひとりです。
トリタは、プラジャーパティ・ガウタマという3人の息子のひとりです。三番目の子で、他のふたりは、エーカトとドヴィタという名前で知られています。3人とも優れた聖者で、宗教原則に厳格に従いました。厳しい苦行の力で、やがてブラフマローカ(ブラフマーが住む惑星)に高められました。トリタが井戸に転落した逸話が残っています。この聖者は多くの儀式に関わる人々を采配し、偉大な聖者のひとりであったことから、臨終の床にあったビーシュマジーに敬意を示すために現れました。ヴァルナローカに住む7人の聖者のひとりでもあります。当時の西洋諸国から来ました。そのため、おそらく欧州諸国の出身だと思われます。当時、世界はひとつのヴェーダ文化の元で治められていました。
グリツァマダは、天上の王国に住む聖者のひとりです。天国の王インドラの親友であり、ブリハスパティに匹敵するほどの偉大な聖者でした。マハーラージャ・ユディシュティラの宮殿を訪ねることがよくあり、ビーシュマデーヴァが最後の息を引きとる時にも居合わせました。時に主シヴァの栄光をマハーラージャ・ユディシュティラに説くことがありました。ヴィタハヴィヤの子で、容姿がインドラによく似ていたため、インドラの敵がインドラと見間違えて捕らえることがありました。リグ・ヴェーダを司る偉大な学者であることから、ブラーフマナ社会から深い敬意を集めています。独身者として生涯を送り、あらゆる分野で力を発揮していました。
アシタには同名の王がいますが、この節で述べられているアシタは、アシタ・デーヴァラ・リシという当時の偉大で力強い聖者です。自分の父親に『マハーバーラタ』の150万の節について説明しました。マハーラージャ・ジャナメージャヤが執行した蛇のいけにえの儀式に、そしてユディシュティラ王の戴冠式にも他の偉大なリシたちと共に出席しています。ユディシュティラ王がアンジャナの丘にいた時に、王に教えを授けました。主シヴァの従者のひとりでもあります。
カクシーヴァーンは、ガウタマ・ムニの息子のひとりで、偉大な聖者チャンダカウシカの父親です。マハーラージャ・ユディシュティラが率いる議会の一員でもあります。
アトリ・ムニは偉大なブラーフマナの聖者で、ブラフマジーの心から作られた息子のひとりです。ブラフマジーは子どもを作ることを考えるだけで、創造できる力を備えています。そうして作られた息子をマーナサ・プトラといいます。ブラフマジーが作った7人の偉大なマーナサ・プトラのひとりがアトリでした。アトリの家系に偉大なプラチェーターたちが誕生しています。他にも、王になったふたりのクシャトリヤの息子をもうけています。アルタマ王がそのひとりです。アトリ・ムニは21人のプラジャーパティのひとりとされています。妻の名前をアナスーヤーといいます。この聖者はマハーラージャ・パリークシットの盛大な儀式に協力しました。
カウシカは、マハーラージャ・ユディシュティラの王家に属するリシのひとりで、ときどき主クリシュナに会っています。同じ名前をもつ聖者が数人います。
スダルシャナは、人格神(ヴィシュヌあるいはクリシュナ)がご自身の武器としている法輪で、最強の武器とされ、ブラフマーストラなどの破壊的な武器を凌ぐ力があります。ヴェーダ経典には、火の神アグニデーヴァがこの武器を主シュリー・クリシュナに贈ったとされていますが、実際は、主は永遠にこの武器を備えています。アグニデーヴァがこの武器をクリシュナに与えたことは、マハーラージャ・ルクマがルクミニーをクリシュナに送ったことと同じ意味合いがあります。主は献身者からのそのような贈り物を、実際は永遠に自分の所有物であっても、受け入れます。この武器については『マハーバーラタ』の「アーディ・パルヴァ」に詳しく説明されています。主シュリー・クリシュナは、敵対していたシシュパーラをこのスダルシャナで殺しました。また、シャールヴァもこの武器で殺し、時に主は、アルジュナが敵を殺害する時にこの武器を使ってほしいと思っていました(『マハーバーラタ』「ヴィラータ・パルヴァ」56-3)。
節
anye ca munayo brahman
brahmarātādayo ’malāḥ
śiṣyair upetā ājagmuḥ
kaśyapāṅgirasādayaḥ
brahmarātādayo ’malāḥ
śiṣyair upetā ājagmuḥ
kaśyapāṅgirasādayaḥ
訳語
anye—他の多くの; ca—もまた; munayaḥ—聖者たち; brahman—ブラーフマナたちよ; brahmarāta—シュカデーヴァ・ゴースヴァーミー; ādayaḥ—そしてそのような他の者たち; amalāḥ—完全に純粋な; śiṣyaiḥ—弟子たちと共に; upetāḥ—伴って; ājagmuḥ—到着した; kaśyapa—カシャパ; āṅgirasa—アーンギラサ; ādayaḥ—他の者たち。
翻訳
さらに、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーをはじめとする純粋な魂たち、カシャパ、アーンギラサなどの聖者が、弟子を伴ってその場に到着した。
解説
シュカデーヴァ・ゴースヴァーミー(ブラフマラータ)は、シュリー・ヴィヤーサデーヴァの名高い息子、そして弟子で、父から『マハーバーラタ』と『シュリーマド・バーガヴァタム』を教わりました。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、ガンダルヴァ、ヤクシャ、ラークシャサたちの集まりの中で『マハーバーラタ』の140万の節を吟唱し、マハーラージャ・パリークシットの前で初めて『シュリーマド・バーガヴァタム』を吟唱しました。偉大な父親を通して全てのヴェーダ経典を徹底的に研究しました。このようにして、宗教原則に関する広大な知識の力によって完全に純粋になった聖者です。『マハーバーラタ』の「サバー・パルヴァ」(4-1)からは、マハーラージャ・ユディシュティラの宮殿や、マハーラージャ・パリークシットが絶食していた時に居合わせていたことが分かります。父であるシュリーラ・ヴィヤーサデーヴァの正当な弟子として、宗教原則や精神的価値について広範囲にわたって質問をしました。偉大な父親も、精神界に行くことのできるヨーガ体系について説き、果報的活動と経験知識の違い、精神的悟りを得るための道と方法、4つのアーシュラマ(学習者、世帯者、隠遁、出家の生活)、至高人格神の崇高な境地、主と巡り合える方法、知識を授かるための真の候補者、5つの要素に関する考察、知性という独特の要素、物質自然と生命体の意識、自己を悟った魂の兆候、肉体の機能原則、影響を及ぼす自然の様式の兆候、永遠の望みの木、そして霊魂の活動などについて教え、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーを満足させました。ときには、父親とナーラダジーの許しを得て太陽惑星に行っています。この聖者の宇宙旅に関する説明は、『マハーバーラタ』の「シャーンティ・パルヴァ」(第332節)に記述されています。最終的に超越的な世界に帰って行きました。別名として、アラネーヤ、アルニスタ、ヴァイヤーサキ、ヴィヤーサートマジャなどが知られています。
カシャパは、プラジャーパティのひとりで、マリーチの息子、そしてプラジャーパティ・ダクシャの義理の息子で、象や亀を食糧とする巨大な鳥ガルダの父です。プラジャーパティ・ダクシャの13人の娘たちと結婚しました。その娘たちの名前は、アディティ、ディティ、ダヌ、カーシュター、アリシュター、スラサー、イラー、ムニ、クローダヴァシャー、ターンラー、スラビ、サラマー、ティミです。 この妻たちから神々や悪魔を含む数多くの子どもをもうけました。最初の妻アディティからは12人のアーディッティヤが誕生し、そのひとりに主神の化身であるヴァーマナがいます。偉大な聖者カシャパは、アルジュナが生まれる時に居合わせました。パラシュラーマから全世界を贈り物として授かり、後にパラシュラーマにその世界から出ていくよう頼んでいます。別名でアリシュタネーミとも呼ばれ、現在は宇宙の北側に住んでいます。
アーンギラサは、マハリシ・アンギラーの子で、ブリハスパティ、すなわち神々の僧侶として知られています。ドローナーチャーリャはこの聖者の部分的化身と言われています。シュクラチャーリャは悪魔たちの精神指導者であり、ブリハスパティは彼に戦いを挑んだことがあります。息子の名前はカチャといいます。最初にアーンギラサは、バラドヴァージャ・ムニに火の武器を授けました。名高い星でもある妻のチャンドゥラマーシーから6人の息子を得ています(火の神がそのひとり)。彼は宇宙を旅することができるため、ブラフマローカやインドラローカにも入ることができます。天上の王インドラに悪魔を撃退する方法について助言をしたことがあります。ある時インドラを呪い、豚に変えて地球に落としました。ところが、天国に戻る機会が与えられたというのに、豚になったインドラは帰ることをためらいました。これが幻想、マーヤが作り出す魅惑の力です。豚でさえ、天上の王国と引き替えにしても地球の暮らしを捨てたがらないのです。アーンギラサはさまざまな惑星の住人に宗教原則について教えています。
節
tān sametān mahā-bhāgān
upalabhya vasūttamaḥ
pūjayām āsa dharma-jño
deśa-kāla-vibhāgavit
upalabhya vasūttamaḥ
pūjayām āsa dharma-jño
deśa-kāla-vibhāgavit
訳語
tān—彼ら全員; sametān—共に集まった; mahā-bhāgān—全員が強大な力を持っている; upalabhya—受け入れて; vasu-uttamaḥ—ヴァスのなかで最善の人物(ビーシュマデーヴァ); pūjayām āsa—歓迎した; dharma-jñaḥ—宗教原則を知る者; deśa—場所; kāla—時; vibhāga-vit—場所と時間の調整の仕方を知る者。
翻訳
8人のヴァスの中で最も優れたビーシュマデーヴァは、集まった偉大で力強いリシたちを快く迎えた。時と場所に応じて、宗教原則全てを知り尽くしていたからである。
解説
熟達した宗教者は、時と場所に応じて宗教原則を整える方法をよく知っています。世界中の偉大なアーチャーリャ、説教徒、改革者は、自分の使命を、時や場所に合わせて実践してきました。世界にはさまざまな気候や環境があり、主の言葉を広める責務を背負った人は、時と場所に応じて臨機応変に対応しなくてはなりません。ビーシュマデーヴァは、献身奉仕の教えを説く偉大な12人の権威者のひとりでしたから、臨終を迎える自分に会おうと宇宙の各地から集まってきた大聖者たちを喜んで迎えることができました。もちろん、自宅にいたわけでも健康な状態でもなかったため、人をもてなす状態にはありませんでした。しかし、健全な心を持っていたため、心のこもった優しい言葉を語り、集まってきた人々は快く迎えられました。義務は、体の動き、心、言葉で遂行することができます。ビーシュマデーヴァは、それらを適切な場所で使う方法を熟知していたため、体は衰弱していたものの、聖者たちを難なく迎えることができました。
節
kṛṣṇaṁ ca tat-prabhāva-jña
āsīnaṁ jagad-īśvaram
hṛdi-sthaṁ pūjayām āsa
māyayopātta-vigraham
āsīnaṁ jagad-īśvaram
hṛdi-sthaṁ pūjayām āsa
māyayopātta-vigraham
訳語
kṛṣṇam—主シュリー・クリシュナに; ca—もまた; tat—主の; prabhāva-jñaḥ—その栄光を知る者(ビーシュマ); āsīnam—座っている; jagat-īśvaram—宇宙の主; hṛdi-stham—心のなかにいる; pūjayām āsa—崇拝した; māyayā—内的勢力によって; upātta—現した; vigraham—姿。
翻訳
主シュリー・クリシュナは全ての人の心の中にいる。それにもかかわらず、内なる力を使って人々の前にその崇高な姿を現す。今、その主がビーシュマデーヴァの前に座っている。ビーシュマデーヴァも主の栄光をよく知っている人物であったため、主を正しく崇拝した。
解説
主の全能の力は、全ての場所に同時に存在することで示されます。常に永遠の住まい、ゴーローカ・ヴリンダーヴァナに住んでいますが、それでも全ての魂の心の内にいます。目に見えない原子の中にさえいます。永遠で崇高な姿として物質界に現れるとき、主は内なる力を用います。外在の力、つまり物質エネルギーは、主の永遠の姿とは全く関係がありません。この真実をシュリー・ビーシュマデーヴァは全て理解していたため、それに応じて主を崇拝したのでした。
節
pāṇḍu-putrān upāsīnān
praśraya-prema-saṅgatān
abhyācaṣṭānurāgāśrair
andhībhūtena cakṣuṣā
praśraya-prema-saṅgatān
abhyācaṣṭānurāgāśrair
andhībhūtena cakṣuṣā
訳語
pāṇḍu—すでに他界しているマハーラージャ・ユディシュティラと彼の兄弟の父親、; putrān—~の息子たち; upāsīnān—すぐ近くに静かに座っている; praśraya—圧倒されて; prema—愛情を感じつつ; saṅgatān—集まって; abhyācaṣṭa—祝った; anurāga—思いを込めて; aśraiḥ—歓喜の涙で; andhībhūtena—感きわまって; cakṣuṣā—彼の目に。
翻訳
マハーラージャ・パーンドゥの息子たちが、臨終を迎えようとする祖父へのあふれ出る愛情ゆえ、近くで静かに座っていた。その様子を見たビーシュマデーヴァは、心から彼らを祝福した。その目からは歓喜の涙が流れていた。愛情と慈しみの念に感極まったのである。
解説
マハーラージャ・パーンドゥが亡くなった後、まだ幼かった子どもたちは、当然のことながら、王家の年長者たち、特にビーシュマデーヴァの愛情のもとで育てられました。時が経ち、成長したパーンダヴァ兄弟たちは、ずるがしこいドゥルヨーダナとその一味にだまされました。ビーシュマデーヴァは、パーンダヴァたちに落ち度はなく、理不尽に問題に巻き込まれていることを知っていたのですが、政治的なしがらみのために、パーンダヴァたちの側につくことができませんでした。人生の幕を引こうとしていたビーシュマデーヴァは、マハーラージャ・ユディシュティラをはじめとした最も高尚な孫たちが、目の前に穏やかな表情で座っている様子を見たとき、この偉大な戦士である祖父は、愛しさゆえに自然にあふれだす涙をおさえることができませんでした。非常に敬虔な孫たちが味わってきた耐え難い試練を思い出したのです。もちろん、ユディシュティラ王がドゥルヨーダナに代わって王位に就いたのですから、今誰よりも満足しているのはビーシュマにほかなりません。こうしてビーシュマデーヴァは、彼らを祝福し始めたのでした。
節
aho kaṣṭam aho ’nyāyyaṁ
yad yūyaṁ dharma-nandanāḥ
jīvituṁ nārhatha kliṣṭaṁ
vipra-dharmācyutāśrayāḥ
yad yūyaṁ dharma-nandanāḥ
jīvituṁ nārhatha kliṣṭaṁ
vipra-dharmācyutāśrayāḥ
訳語
aho—おお; kaṣṭam—何というひどい苦しみ; aho—おお; anyāyyam—何というむごい仕打ちだろう; yat—の理由で; yūyam—あなたたちは善良なる魂たちばかりである; dharma-nandanāḥ—宗教の権化の息子たち; jīvitum—生き続ける; na—決してない; arhatha—~にふさわしい; kliṣṭam—苦しみ; vipra—ブラーフマナたち; dharma—敬虔であること; acyuta—神; āśrayāḥ—~に守られて。
翻訳
ビーシュマデーヴァが言った:良い魂を持つ君たちは、宗教の権化の息子たちであったために、何というひどい苦しみやむごい仕打ちを受けたことか。到底生き続けられるはずのない苦境にあったのに、それでも君たちはブラーフマナ、神、そして宗教に守られていた。
解説
マハーラージャ・ユディシュティラは、クルクシェートラの戦いで多くの人が戦死したために心を痛めていました。ビーシュマデーヴァはその心を感じ取っていたため、はじめに、ユディシュティラ王の計りしれない苦しみについて言及したのでした。不正の巻き添えになって苦境に立たされていたのであり、クルクシェートラの戦いはその不正を正すために行われたものです。ですから、多くの人が戦死したことについて思い悩むことはなかったのです。祖父が特に言いたかったのは、兄弟たちはいつもブラーフマナたち、主、宗教原則に守られていたという事実です。この重要な3つに守られていれば、挫折感にさいなまれることはありません。ビーシュマデーヴァはこのようにユディシュティラ王に語りかけ、悲観することはない、と励ましました。何もかも主の意志に従い、本物のブラーフマナやヴァイシュナヴァに導かれ、そして宗教原則に従っていれば、どれほど辛い状況に立たされても、失望する原因はどこにもありません。ビーシュマデーヴァは権威者のひとりとして、このことをパーンダヴァたちに知ってほしかったのです。
節
saṁsthite ’tirathe pāṇḍau
pṛthā bāla-prajā vadhūḥ
yuṣmat-kṛte bahūn kleśān
prāptā tokavatī muhuḥ
pṛthā bāla-prajā vadhūḥ
yuṣmat-kṛte bahūn kleśān
prāptā tokavatī muhuḥ
訳語
saṃsthite—死去した後; ati-rathe—偉大な将軍; pāṇḍau—パーンドゥ; pṛthā—クンティー; bāla-prajā—幼い子どもたちと共に; vadhūḥ—私の義理の娘; yuṣmat-kṛte—お前たちのために; bahūn—さまざまな; kleśān—苦悩; prāptā—受けた; toka-vatī—成長した息子たちにもかかわらず; muhuḥ—いつも。
翻訳
義理の娘クンティーは、偉大な将軍パーンドゥが死去したために5人の子どもをかかえた未亡人となり、苦難の日々を送ってきた。そして、君たちが成長した今でも、君たちの生き様ゆえに生じる大きな苦しみに巻き込まれてきた。
解説
クンティーデーヴィーは二重の悲しみに襲われました。若くして未亡人になり、王家の人間として幼い5人の子どもたちを育てなくてはならず、やがて成長した我が子たちの行動ゆえに生じる苦しみにもさいなまれたのです。これは、クンティーデーヴィーは、神の摂理によって苦しむ定めにあったということです。私たちはそのような境遇に戸惑うことなく、耐え忍ばなくてはなりません。
節
sarvaṁ kāla-kṛtaṁ manye
bhavatāṁ ca yad-apriyam
sapālo yad-vaśe loko
vāyor iva ghanāvaliḥ
bhavatāṁ ca yad-apriyam
sapālo yad-vaśe loko
vāyor iva ghanāvaliḥ
訳語
sarvam—これら全て; kāla-kṛtam—避けられない時によって; manye—私は思う; bhavatām ca—お前たちにとっても; yat—何であっても; apriyam—不快な; sa-pālaḥ—支配者の; yat-vaśe—その時の支配下で; lokaḥ—全ての惑星にいる全ての者; vāyoḥ—風が運ぶ; iva—のように; ghana-āvaliḥ—雲の流れ。
翻訳
私が思うに、それは避けることのできない「時」によるものである。雲が風に流されるように、全惑星の全住民が時によって動かされている。
解説
全惑星が「時」に支配されているように、宇宙の全空間も「時」に支配されています。太陽を含む全ての巨大な惑星が空気の力で動かされており、それは雲が空気の力によって流されているのと同じです。同じように、誰も逃れられないカーラ(時)は、空気の流れや他の要素さえ支配しています。一切万物が、物質界における、主の圧倒的な力の現れである至高のカーラによって支配されているということです。ですから、ユディシュティラ王は、生命体には想像も及ばない時の動きに心を乱されるべきではありませんでした。誰であっても物質界の条件に左右されるのですから、時が作り出す動と反動に耐えなくてはなりません。ユディシュティラ王は自分は前世で罪を犯したから苦しんでいるのだ、と考えましたがそうではありません。最も敬虔な人でさえ、物質自然界の制約ゆえに苦しめられるものです。しかし、敬虔な人は宗教原則に従っている正しいブラーフマナとヴァイシュナヴァに導かれているため、主に信念を持っています。この3つの導きの原則を人生の目的としなくてはなりません。永遠の時のからくりに心を乱されてはなりません。宇宙最大の支配者であるブラフマジーでさえ、時の支配を受けています。ですから、宗教原則に正しく従う者として生きていようとも、時に支配されていることを恨んではなりません。
節
yatra dharma-suto rājā
gadā-pāṇir vṛkodaraḥ
kṛṣṇo ’strī gāṇḍivaṁ cāpaṁ
suhṛt kṛṣṇas tato vipat
gadā-pāṇir vṛkodaraḥ
kṛṣṇo ’strī gāṇḍivaṁ cāpaṁ
suhṛt kṛṣṇas tato vipat
訳語
yatra—~があるところ; dharma-sutaḥ—ダルマラージャの子; rājā—王; gadā-pāṇiḥ—手に強力な戦闘棒を持ち; vṛkodaraḥ—ビーマ; kṛṣṇaḥ—アルジュナ; astrī—武器を持つ者; gāṇḍivam—ガーンディーヴァ; cāpam—弓; suhṛt—幸せを願う者; kṛṣṇaḥ—主クリシュナ、人格神; tataḥ—それについて; vipat—逆境。
翻訳
何という霊妙なる時の力!これは避けられないのだ。さもなければ、宗教を支配する神々の子であるユディシュティラ王、戦闘棒を巧みに操る戦士ビーマ、強力な武器ガーンディーヴァを手にする偉大な射手アルジュナ、そしてとりわけ、パーンダヴァ家の幸福を願う主がいるのだから、このような逆境が起こるはずがないではないか。
解説
パーンダヴァ兄弟は、物質精神両面で十分に支えられていました。物質面では、ふたりの偉大な戦士ビーマとアルジュナに支えられていました。精神面では、王自身が宗教の象徴とも言える人物であり、それにもまして人格神主シュリー・クリシュナが幸福を願う者として兄弟たちの暮らしを自ら見守っていました。にもかかわらず、5人の生涯は受難の連続でした。善行の力、高潔な人格の力、巧みな管理、そして主クリシュナ自らの監督下にある武器の力があっても、パーンダヴァたちは茨の道を歩かなくてはなりませんでした。カーラという逃れられない時の力としか説明がつきません。カーラは主そのものですから、その影響力は、説明できない主自身の意志の表れにほかなりません。ある出来事が人間にはどうしようもない力で起こるのであれば、嘆いても仕方のないことです。
節
na hy asya karhicid rājan
pumān veda vidhitsitam
yad vijijñāsayā yuktā
muhyanti kavayo ’pi hi
pumān veda vidhitsitam
yad vijijñāsayā yuktā
muhyanti kavayo ’pi hi
訳語
na—決してない; hi—確かに; asya—主の; karhicit—何であっても; rājan—王よ; pumān—誰でも; veda—知っている; vidhitsitam—計画; yat—であるもの; vijijñāsayā—徹底的な質問で; yuktāḥ—従事して; muhyanti—当惑して; kavayaḥ—偉大な哲学者たち; api—でさえ; hi—確かに。
翻訳
王よ。主[シュリー・クリシュナ]にどのような計画があるのか、誰にも分からない。偉大な哲学者たちがどれほど徹底的に追求しても、当惑するばかりである。
解説
過去の悪事とそれによる苦しみに対してマハーラージャ・ユディシュティラが抱いていた当惑は、12人の権威者のひとりで偉大な権威者であるビーシュマによって完全に否定されています。ビーシュマは、太古の昔から、誰であろうと、シヴァやブラフマーのような神々たちでさえ、主の本当の計画は分からないということをマハーラージャ・ユディシュティラに理解してほしいと思っていました。ならば、私たちに分かるはずがありません。それについて尋ねることでさえ無駄なことです。聖者たちが哲学的に徹底的な追求をしても主の計画を明らかにすることはできません。異議なく、ひたすら主の命令に従うことが最善策です。パーンダヴァ兄弟たちの苦しみは、過去の行いから生じたものではありません。主は、美徳の王国を築く計画を実現させる必要があり、そして美徳による征服を確かなものにするためにも献身者たちが一時的に苦しむことは避けられませんでした。ビーシュマデーヴァは、その美徳の勝利を目のあたりにして心から満足しており、剣を交えはしましたが、ユディシュティラが晴れて王位に就いたことを見て嬉しく思いました。偉大な戦士であったビーシュマでさえ、クルクシェートラの戦争で勝つことはできませんでした。主は、邪悪な心を持つ者は誰でも、決して美徳には太刀打ちできないことを世に示したいと思っていました。ビーシュマデーヴァは偉大な献身者ではありましたが、主の意志によって、パーンダヴァ兄弟と交戦することを選びました。主は、ビーシュマほどの大将軍であっても、間違った側につけば必ず敗北するということを世に知らしめたかったのです。
節
tasmād idaṁ daiva-tantraṁ
vyavasya bharatarṣabha
tasyānuvihito ’nāthā
nātha pāhi prajāḥ prabho
vyavasya bharatarṣabha
tasyānuvihito ’nāthā
nātha pāhi prajāḥ prabho
訳語
tasmāt—ゆえに; idam—この; daiva-tantram—神意という不可思議な力だけで; vyavasya—確認すること; bharata-ṛṣabha—バラタの子孫のなかの第一人者よ; tasya—主によって; anuvihitaḥ—望んだように; anāthāḥ—無力; nātha—主人よ; pāhi—大切に保護しなさい; prajāḥ—臣民たちの; prabho—主よ。
翻訳
バラタ家の子孫の第一人者[ユディシュティラ]よ。ゆえに私は断言する。全てのことは、どれも主の計画どおりに起こったことなのだ。人智を絶する主の計画を受け入れ、従いなさい。今や、お前は正式に選ばれた行政の長であり、これからは、頼れる者なき臣民を守っていかなくてはならない。
解説
主婦は自分の娘に教えることで義理の娘に教える、とよく言われています。同じように、主は献身者を通して世界の人々に教えます。誠実な献身者はいつも心の中から主に導かれているため、主から新しいことを学ぶ必要はありません。ですから『バガヴァッド・ギーター』がそうだったように、献身者に教えが授けられるのは、実は知性の足りない人に教えを授けるためなのです。ですから献身者は、試練を主からの恩恵として快く受け入れなくてはなりません。パーンダヴァ兄弟は、ためらうことなく国を治める責任を受け入れよ、とビーシュマデーヴァに助言されました。哀れな国民は、クルクシェートラの戦争が勃発したために今は誰にも守られていない状態にあり、マハーラージャ・ユディシュティラが権力を行使することを待ち望んでいます。純粋な献身者は、自分の苦難を主からの恩恵と考えます。主は絶対的なお方であるため、主が授けるものは、苦しみであろうと恩恵であろうと同じことなのです。
節
eṣa vai bhagavān sākṣād
ādyo nārāyaṇaḥ pumān
mohayan māyayā lokaṁ
gūḍhaś carati vṛṣṇiṣu
ādyo nārāyaṇaḥ pumān
mohayan māyayā lokaṁ
gūḍhaś carati vṛṣṇiṣu
訳語
eṣaḥ—この; vai—明確に; bhagavān—人格神; sākṣāt—根源の; ādyaḥ—最初の人物; nārāyaṇaḥ—至高主(水の上に横たわる方); pumān—至高の享楽者; mohayan—当惑させる; māyayā—主の自己創造の力によって; lokam—惑星; gūḍhaḥ—人智を絶した方; carati—動く; vṛṣṇiṣu—ヴリシュニ家の中で。
翻訳
ここにおられるシュリー・クリシュナは、私たちには想像も及ばない根源の人格神そのお方だ。最初のナーラーヤナ、至高の享楽者である。しかし、今ヴリシュニ王の子孫たちに交ざり、私たちと同じように振る舞っておられる。そうして自己創造の力を使って、私たちを惑わせておられるのだ。
解説
ヴェーダ知識は、演繹(ルビ:えんえき)法を通して受け継がれます。権威を託された人物から師弟継承を通して完璧に受け継がれるのです。知性に欠ける人たちは、そのような知識を独断的なものと感じますが、決してそうではありません。母親は、父親である男性を証明する存在です。母親は、その事実を知る権威者なのです。ですから、権威を独断とするのは間違いです。『バガヴァッド・ギーター』がこの真実について第4章2節で確証しており、学問を追求する完璧な方法はまず権威者から授かることにあります。この方法は真理として広く受け入れられているのですが、間違った論争をする者だけが反対します。例えば、今は宇宙船が空を飛ぶ時代ですが、月の裏側に行ってきた、と科学者が言うと人々はそれを鵜呑みにします。現代科学者を権威者として受け入れているからです。権威者が語り、一般人が信じる。ところが、ヴェーダの説く真理となると信じてはいけない、と教え込まれています。受け入れても、別の解釈をします。誰もがヴェーダの知識を直接理解しようとしているのですが、愚かなことに実はそれを拒否しています。誤解をしている人はひとつの権威、つまり科学者を受け入れるのですが、ヴェーダの権威は否定するということです。その結果、人々は堕落していきます。
この節では、権威者がシュリー・クリシュナを人格神、そして最初のナーラーヤナであると語っています。アーチャーリャ・シャンカラのような非人格論者でさえ、『バガヴァッド・ギーター』の解説書の最初に、人格神ナーラーヤナは物質創造界を超越したお方である、と述べています。宇宙は物質創造界のひとつですが、ナーラーヤナはそのような物質的空間を超越しています。
ビーシュマデーヴァは、超越的な知識の原則を知る12人のマハージャナのひとりです。この人物がシュリー・クリシュナを根源の人格神として確証し、さらに非人格論者のシャンカラも同じことを確証しています。他のアーチャーリャもこぞってこの言葉を承認しているのですから、シュリー・クリシュナが人格神であることを受け入れない理由がどこにあるのでしょうか。ビーシュマデーヴァは、主が最初のナーラーヤナであると言っています。この言葉は、バーガヴァタム(10-14-14)でも確証されています。クリシュナは最初のナーラーヤナです。精神界(ヴァイクンタ)には数え切れないナーラーヤナが存在し、その全てが同じ人格神であり、根源の人格神シュリー・クリシュナの完全拡張体とされています。根源の主シュリー・クリシュナの姿は最初にバラデーヴァの姿で拡張され、バラデーヴァは別の姿、例えばサンカルシャナ、プラデュムナ、アニルッダ、ヴァースデーヴァ、ナーラーヤナ、プルシャ、ラーマ、ヌリシンハなどの姿に拡張されました。この拡張体は全て、同じヴィシュヌ・タットヴァで、シュリー・クリシュナはその全ての完全拡張体の根源です。すなわちシュリー・クリシュナは直接の人格神だということです。主は物質界を創造なさったお方であり、全てのヴァイクンタ惑星に住むナーラーヤナとして知られる主宰神でもあります。ですから、主が人間に交じって行動することは、私たちを混乱させる要因のひとつです。そのため主は『バガヴァッド・ギーター』で、愚かな者たちは主の行動の複雑さを知らないために、主を人間のひとりだと考えていると表現しています。
シュリー・クリシュナに関する当惑の原因は、主のふたつのエネルギーである内的エネルギーと外的エネルギーが3番目の境界エネルギーに及ぼす影響にあります。生命体は主の境界エネルギーの拡張体であり、時に内的エネルギーに、また時には外的エネルギーによって惑わされます。シュリー・クリシュナは、内的エネルギーによる幻惑によって無数のナーラーヤナに拡張し、精神界で生命体と崇高な愛情交換をします。そして、外的エネルギーの拡張体として、物質界で人間、動物、神々のなかに降誕し、さまざまな形の生物になっている生命体との間で、忘れ去られた主との絆を再び築きます。しかし、主の慈悲を授かっているビーシュマのような偉大な権威者は、そのような幻惑から逃れられるのです。
節
asyānubhāvaṁ bhagavān
veda guhyatamaṁ śivaḥ
devarṣir nāradaḥ sākṣād
bhagavān kapilo nṛpa
veda guhyatamaṁ śivaḥ
devarṣir nāradaḥ sākṣād
bhagavān kapilo nṛpa
訳語
asya—主の; anubhāvam—栄光; bhagavān—最も力強い方; veda—知っている; guhya-tamam—確信して; śivaḥ—主シヴァ; deva-ṛṣiḥ—神々たちの中の偉大な聖者; nāradaḥ—ナーラダ; sākṣāt—直接に; bhagavān—人格神; kapilaḥ—カピラ; nṛpa—王よ。
翻訳
王よ。主シヴァ、神々たちの中の聖者ナーラダ、主の化身カピラは、直接の体験を通して主の栄光を知り尽くしている。
解説
純粋な献身者は全てブダー、すなわち、さまざまな超越的愛情奉仕を通して主の栄光を知っている人々です。主は無数の完全拡張体の姿をお持ちのため、さまざまな感情で奉仕を交換している純粋な献身者も無数にいます。偉大な献身者としては通常12人、つまりブラフマー、ナーラダ、シヴァ、クマーラ、カピラ、マヌ、プラフラーダ、ビーシュマ、ジャナカ、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミー、バリ・マハーラージャ、ヤマラージャがいます。ビーシュマデーヴァはそのひとりではありますが、主の栄光を知る12人のなかで3人だけの名前を挙げています。現代の偉大なアーチャーリャのひとりであるシュリーラ・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティー・タークラが主の栄光(アヌバーヴァ)について説明しています。それによると、アヌバーウァを実感している献身者は最初に発汗、震え、泣くこと、体毛が逆立つ、などの兆候を表し、主の栄光を着実に理解することでその味わいはさらに高められていきます。バーヴァに関するそのようなさまざまな境地は、ヤショーダーと主の間で(主をひもで縛るという形で)、また愛情の交換を通して主がアルジュナの戦闘馬車を操縦するという形で表されました。このような主の栄光は、主が献身者に従うという形で表されましたが、それも主の栄光のひとつの要素です。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーとクマーラは超越的な境地にいますが、それぞれ異なる種類のバーヴァの境地から主の純粋な献身者に変わりました。主から献身者に与えられる苦難も、主と献身者の間で交わされる超越的なバーヴァのひとつです。主は「私は献身者を困難な状況に置く。こうして献身者は私と超越的なバーヴァを交換し、さらに清められるようになる」と言います。献身者を物質的に困難な状況に置くということは、その人を幻想の物質的関係から救うということなのです。物質的な関係は、双方が物質的な楽しみを共有することで成り立っており、それはおもに物質的な富に左右されます。ですから、その物質的な富が主に取り去られると、献身者の心は、完全に主への超越的な愛情奉仕に魅了されるようになります。こうして主は、堕落した魂を物質存在の泥沼から引き上げるのです。主が献身者に与える苦しみは、邪悪な行動から生じる苦しみとは違います。主の全ての栄光は、先に挙げたブラフマー、シヴァ、ナーラダ、カピラ、クマーラ、ビーシュマのようなマハージャナたちに特に知られており、彼らの恩恵によって、私たちもその栄光を知ることができます。
節
yaṁ manyase mātuleyaṁ
priyaṁ mitraṁ suhṛttamam
akaroḥ sacivaṁ dūtaṁ
sauhṛdād atha sārathim
priyaṁ mitraṁ suhṛttamam
akaroḥ sacivaṁ dūtaṁ
sauhṛdād atha sārathim
訳語
yam—その方; manyase—そなたが考えている; mātuleyam—いとこ; priyam—非常に愛しい; mitram—友人; suhṛt-tamam—強く幸福を願う者; akaroḥ—実行した; sacivam—相談する; dūtam—使者; sauhṛdāt—友好的な気持ちで; atha—そこで; sārathim—御者。
翻訳
王よ。そなたが、ただ無知ゆえに、いとこ、愛しい友人、幸福を願う者、相談相手、使者、恩人などと考えていた人物は、人格神、シュリー・クリシュナそのお方である。
解説
主シュリー・クリシュナは、パーンダヴァ兄弟のいとこ、兄弟、友、幸せを願う者、相談者、使者、恩人などとして行動していましたが、実は至高人格神そのものでした。主はいわれのない慈悲心から、そして汚れのない献身者に対する好意から、言われるままに仕えてきましたが、だからといって、絶対的な人物でなくなったわけではありません。主を普通の人間だと勘違いするのは救いようのない無知です。
節
sarvātmanaḥ sama-dṛśo
hy advayasyānahaṅkṛteḥ
tat-kṛtaṁ mati-vaiṣamyaṁ
niravadyasya na kvacit
hy advayasyānahaṅkṛteḥ
tat-kṛtaṁ mati-vaiṣamyaṁ
niravadyasya na kvacit
訳語
sarva-ātmanaḥ—誰もの心の中にいる方の; sama-dṛśaḥ—全ての人々に等しく親切な方の; hi—確かに; advayasya—絶対者の; anahaṅkṛteḥ—偽の自我という物質的同一心がない; tat-kṛtam—主によってなされる全て; mati—意識; vaiṣamyam—区別; niravadyasya—どのような執着心もない; na—決してない; kvacit—どの状態でも。
翻訳
主は絶対人格神であるため、全生命体の心の中に住み、誰にも等しく親切で、差別心という偽の自我を超越しておられる。ゆえに、主がすることに物質的な欠点はない。全く安定したお方なのである。
解説
主は絶対的なお方ですから、主と関係のないものは何もありません。主はカイヴァリャ、すなわち主以外に何も存在しません。人も物も全て主の力の表れですから、主は自分の力を通して、その表されたものと変わることなく遍在しています。太陽は、太陽光線そのものであり、そして光線の各構成分子そのものです。同じように、主はさまざまな力を通してあらゆる場所に存在しておられます。主はパラマートマー、すなわち至高の魂であり、全ての魂の心の中に至高の案内者として住んでいるため、すでに全生命体にとっては御者でもあり、良き相談者でもあります。ゆえに、主がアルジュナの御者として振る舞っても、その高貴な立場が変わるわけではありません。献身奉仕の力だけで、主は御者や使者として表れるのです。主は絶対的な精神魂そのものであり、物質的な概念は全くあてはまらないお方であるため、主の活動に優劣の差はありません。主は絶対人格神であるため偽の自我などなく、自分とは異質なものと自分を同一視することはありません。自我という物質的な概念は、主の内では同質です。ゆえに、主は純粋な献身者の馬車の御者になっても自分を劣る存在とは感じません。愛情あふれる主から奉仕をしてもらうことができるのは唯一、純粋な献身者であり、そのような人は至福に満ちています。
節
tathāpy ekānta-bhakteṣu
paśya bhūpānukampitam
yan me ’sūṁs tyajataḥ sākṣāt
kṛṣṇo darśanam āgataḥ
paśya bhūpānukampitam
yan me ’sūṁs tyajataḥ sākṣāt
kṛṣṇo darśanam āgataḥ
訳語
tathāpi—それでも; ekānta—揺るぎない; bhakteṣu—献身者たちに; paśya—ここを見る; bhū-pa—王よ; anukampitam—何と思いやりのあることか; yat—~のために; me—私の; asūn—命; tyajataḥ—終わろうとしている; sākṣāt—直接に; kṛṣṇaḥ—人格神; darśanam—私の視界に; āgataḥ—親切に来てくださった。
翻訳
主は誰にでも等しく優しいのにもかかわらず、生涯の幕を閉じようとしている私のもとに慈悲深くも来てくださった。これは私が主の揺るぎのない従者だからである。
解説
至高主、絶対人格神、シュリー・クリシュナは誰にも等しく接するお方ですが、完全に主に身を委ね、主だけを自分の保護者であり主人と考えている不動の献身者には、ひときわ好意を寄せます。至高主を保護者、友人、主人と思う揺るぎない信念を抱くのは、永遠な生活をしている人々にとってはあたりまえのことです。全能者の意志によって、生命体は、自分を完全な依存の立場に置いた時に最も幸福になるように創造されているのです。
それに抗うことは、堕落の原因となります。生命体は、自分が物質界を支配し、完全に独立していると誤解しているので、堕落する傾向にあります。全ての問題の原因は、彼らの誤った自我にあります。人はどんな状況でも主に魅力を感じるべきです。
主クリシュナがビーシュマジーの臨終の床に姿を見せたのは、この人物が意志堅固な献身者だったからです。アルジュナは、主クリシュナが母方のいとこだったことから、ふたりは血縁関係にありましたが、ビーシュマはそうではありませんでした。ですから、主とビーシュマが魅了されたのは、魂の親密な関係によるものでした。しかし、親族としてのつながりは心のなごむ自然な関係であることから、主は、マハーラージャ・ナンダの子、ヤショーダーの子、ラーダーラーニーを愛する人、などと呼ばれることに喜びを感じます。主との親密な血縁関係は、愛情奉仕を分かちあう形のひとつです。ビーシュマデーヴァはこの超越的な甘露をよく知っていたため、ナンダ・ナンダナやヤショーダー・ナンダナと全く同じように、主をヴィジャヤ・サケー、パールタ・サケーと呼ぶのを好んでいました。超越的な甘露に基づく絆を築く一番の方法は、主が認める献身者に近づくことです。主と直接結ばれたいと思ってはなりません。私たちを正しい道に導いてくれる透明で資格のある媒体となる人物が必要です。
節
bhaktyāveśya mano yasmin
vācā yan-nāma kīrtayan
tyajan kalevaraṁ yogī
mucyate kāma-karmabhiḥ
vācā yan-nāma kīrtayan
tyajan kalevaraṁ yogī
mucyate kāma-karmabhiḥ
訳語
bhaktyā—一心に集中することで; āveśya—瞑想すること; manaḥ—心; yasmin—~である人の中に; vācā—活動によって; yat—クリシュナ; nāma—聖なる御名; kīrtayan—唱えることで; tyajan—終わらせること; kalevaram—この物質の肉体; yogī—献身者; mucyate—解き放たれる; kāma-karmabhiḥ—果報的活動から。
翻訳
全霊を込めて仕え、瞑想し、聖なる御名を唱える献身者の心に人格神は現れる。そして、その献身者が肉体を離れようとするとき、彼を果報的活動の束縛から解き放つ。
解説
ヨーガとは、心を一切の物事から遮断して一点に集中させることです。その境地に達した状態をサマーディ、主への奉仕に没頭しきった状態といいます。そして、心をそのように集中させる人物をヨーギーといいます。ヨーギーの献身者は、心が9種類の献身奉仕、聞くこと、唱えること、思い出すこと、崇拝すること、祈ること、自発的な召使いになること、命令を実行すること、友人関係を築くこと、自分の持つもの全てを捧げることを通し、主に集中するために一日中奉仕に励みます。そのようなヨーガ、すなわち奉仕による主との交流を修練する人は、主自身から認められるようになります。『バガヴァッド・ギーター』でも、サマーディという最高完成の境地に関連してそのことが説明されています。主は、数少ないそのような献身者を「ヨーギーの中のヨーギー」と呼んでいます。完璧なヨーギーは、主の神聖な恩恵により、主に完璧に意識を集中させることができます。そして肉体を離れる時に聖なる御名を唱え、主の内なる力に助けられて、物質生活や俗事とは無縁の永遠な惑星に瞬時に移されます。物質界に住む生命体は、果報的活動に応じて、3種類の苦しみを幾生涯にわたって耐え忍ばなくてはなりません。物質生活の原因は物質的な望みにあります。主に仕えることで生命体に備わっている本来の望みが失われるわけではなく、献身奉仕という本義のために使われるのです。このことによって精神界に移行したいという望みを持つ資格を得ます。将軍ビーシュマデーヴァはバクティ・ヨーガについて言及し、主に見守られてこの世を去るという幸運を授かりました。そして続く節では、どうか臨終の時まで傍らにいてください、と主に語りかけています。
節
sa deva-devo bhagavān pratīkṣatāṁ
kalevaraṁ yāvad idaṁ hinomy aham
prasanna-hāsāruṇa-locanollasan-
mukhāmbujo dhyāna-pathaś catur-bhujaḥ
kalevaraṁ yāvad idaṁ hinomy aham
prasanna-hāsāruṇa-locanollasan-
mukhāmbujo dhyāna-pathaś catur-bhujaḥ
訳語
saḥ—主; deva-devaḥ—神々の中の至高主; bhagavān—人格神; pratīkṣatām—どうかお待ちください; kalevaram—肉体; yāvat—するかぎり; idam—これ(物質の肉体); hinomi—終えるように; aham—私; prasanna—朗らかな; hāsa—ほほえみ; aruṇa-locana—朝日のように赤い目; ullasat—美しく飾られて; mukha-ambujaḥ—主のお顔という蓮華の花; dhyāna-pathaḥ—私の瞑想の道で; catur-bhujaḥ—四本腕の姿のナーラーヤナ(ビーシュマデーヴァが崇拝する神)。
翻訳
4本の腕を持つ主よ。あなたの目は朝日のように赤く輝いています。そして、その美しい目で飾られた蓮華のお顔でほほ笑んでおられます。どうか、私がこの肉体を去る時まで、お待ちください。
解説
ビーシュマデーヴァには、主クリシュナが根源のナーラーヤナであることを、そして彼自身が崇拝していた神像の四本腕のナーラーヤナが、主クリシュナの完全拡張体であることを知っていました。この祈りは、主シュリー・クリシュナに四本腕のナーラーヤナの姿を現してほしい、というビーシュマデーヴァの願いを示しています。ヴァイシュナヴァはいつでも控えめに行動します。ビーシュマデーヴァが肉体を去った後ヴァイクンタ・ダーマに行くことは間違いありませんが、謙虚なヴァイシュナヴァとして、主の美しい顔を見たいと思いました。現在の肉体を去った後、もう主を見る立場にはいられないのでは、と考えたからです。主は純粋な献身者が主の住処に入ることを保証していますが、ヴァイシュナヴァはそれで傲慢(ルビ:ごうまん)になることはありません。ビーシュマデーヴァは「私がこの体を去らない限り」と言いました。これは、この偉大な将軍が自らの意志で肉体を去ることを意味しています。自然の法則に縛られる人物ではなかったのです。比類のない精神的力を持っていたために、望み通りに体にとどまることができました。父親からその恩恵を授かっていたのです。ビーシュマデーヴァは、主の四本腕の姿を間近に見つめることで主に意識を集中させ、法悦の境地にいたいと考えたのでした。そして心が主への思いによって清められれば、自分がどこへ行ってもかまわないと思いました。純粋な献身者は、神のふるさとに帰ることを熱望しているわけではありません。全てを主の崇高な意志に任せているのです。地獄に落ちるのが主の望みであれば、それで本望だと考えます。純粋な献身者のただひとつの望みは、何があろうと、絶えず主の蓮華の御足を思い、専心することです。ビーシュマデーヴァの思いはただひとつ、心を主に没頭させ、その思いの中で他界していくことです。それこそが、純粋な献身者の至上の願いです。
節
sūta uvāca
yudhiṣṭhiras tad ākarṇya
śayānaṁ śara-pañjare
apṛcchad vividhān dharmān
ṛṣīṇāṁ cānuśṛṇvatām
yudhiṣṭhiras tad ākarṇya
śayānaṁ śara-pañjare
apṛcchad vividhān dharmān
ṛṣīṇāṁ cānuśṛṇvatām
訳語
sūtaḥ uvāca—シュリー・スータ・ゴースヴァーミーが言った; yudhiṣṭhiraḥ—ユディシュティラ王; tat—それ; ākarṇya—聞いている; śayānam—横たわっている; śara-pañjare—矢の寝台の上に; apṛcchat—尋ねた; vividhān—さまざまな; dharmān—義務; ṛṣīṇām—リシたちの; ca—そして; anuśṛṇvatām—聞いたあと。
翻訳
スータ・ゴースヴァーミーが言った:マハーラージャ・ユディシュティラは、ビーシュマデーヴァの心に響く言葉を聞いた後、居並ぶ偉大なリシたちの前で、さまざまな宗教義務の原則について尋ねた。
解説
ビーシュマデーヴァは、マハーラージャ・ユディシュティラに対して、心に訴えかけるような口調で語りながら、もうすぐ自分が他界することを確信させました。そして主シュリー・クリシュナもまた、ユディシュティラ王に、多くの偉大な聖者のいる前で宗教原則について祖父に尋ねるよう促しました。そうすることでビーシュマデーヴァのような主の献身者は、普通の人間のように見えていても、実は並み居る偉大な聖者より、さらにヴィヤーサデーヴァよりもはるかに優れた人物であることを示したのです。もうひとつ言及しておくべきことは、ビーシュマデーヴァは矢の死の床に横たわっていただけではなく、身動きひとつできない辛い状態にあった、ということです。そのようなときに質問などすべきではないのですが、精神的啓蒙の力を持つ純粋な献身者は常に体や心が健全であり、だからこそどんな状況でも、人生の正しい道を理路整然と説明できることを証明してもらいたいと、主シュリー・クリシュナは考えていました。ビーシュマデーヴァよりも博学と思われる人格者たちもいたのですが、ユディシュティラ王は、思い悩んでいたことをビーシュマデーヴァに解決してほしいと思っていました。これは、法輪を手にした偉大な主シュリー・クリシュナが、献身者の栄光を確立させたいと望んでいたからこその配慮でした。父親は、息子が自分よりも有名になってほしいと願っています。主の献身者を崇拝するほうが主を崇拝することよりも価値があると、主は高らかに宣言しています。
節
puruṣa-sva-bhāva-vihitān
yathā-varṇaṁ yathāśramam
vairāgya-rāgopādhibhyām
āmnātobhaya-lakṣaṇān
yathā-varṇaṁ yathāśramam
vairāgya-rāgopādhibhyām
āmnātobhaya-lakṣaṇān
訳語
puruṣa—その人間; sva-bhāva—自分で得た質によって; vihitān—定められた; yathā—~に応じた; varṇam—階級の分類; yathā—~に応じて; āśramam—生活階級; vairāgya—無執着; rāga—執着; upādhibhyām—そのような呼称から; āmnāta—系統的に; ubhaya—両方; lakṣaṇān—兆候。
翻訳
マハーラージャ・ユディシュティラの問いに、ビーシュマデーヴァはまず、個人の性質にあった社会的階級と精神的階級に関する分類を全て定義した。次に、無執着による反作用と、執着による作用という2つの部門について系統的に説明した。
解説
『バガヴァッド・ギーター』(4-13)で説明されているように、主自身によって計画された4つの社会階級と4つの生活階級は個人の超越的な気質を高めるためにあり、それによって、精神的な本質を徐々に悟り、束縛された生活から自由になることができます。ほとんどのプラーナが同じ観点からその主題について述べており、また『マハーバーラタ』の「シャーンティ・パルヴァ」第6章で、ビーシュマデーヴァによってさらに詳しく説明されています。
ヴァルナーシュラマ・ダルマは、人としての生涯を成功に終わらせられるよう文化的な人類のために定められています。自己の悟りは、ただ食べ、眠り、恐れ、子孫を作ることだけに明け暮れている下等な動物の生活とは異なります。ビーシュマデーヴァは9つの質を人類に教えています。(1)怒らないこと、(2)嘘をつかないこと、(3)財産を等しく分け与えること、(4)許すこと、(5)結婚した妻だけと子をもうけること、(6)心の純粋さと体の衛生につとめること、(7)誰にも敵意を抱かないこと、(8)質素であること、(9)召使いや部下を適切に養うこと。この基本的な質がなければ文化人とは呼べません。さらに、ブラーフマナ(知識階級者)、管理階級者、商業従事者、労働階級者は、ヴェーダ経典が述べる各自の特質を備えていなくてはなりません。知識階級者であれば、感覚の抑制は最も必要不可欠な性質です。これが道徳の基礎です。正式な妻との性関係さえも抑制されるべきで、そのことで必然的に秩序ある家族計画が保たれます。知性のある人はヴェーダが教える生活に従うべきであり、そうでなければその素晴らしい特質を誤用していることになります。これはヴェーダ経典、特に『シュリーマド・バーガヴァタム』と『バガヴァッド・ギーター』を真剣に学ぶべきである、ということです。ヴェーダ知識を学ぶには、献身奉仕を完全に実践している人に従わなくてはなりません。シャーストラで禁じられていることは絶対にしてはなりません。飲酒や喫煙をしている人が教師になれるわけがありません。現代の教育制度では、教師は学術的な気質だけで決められ、道徳面は無視されていますゆえに、その教育の結果の表れとして、高い知性が様々な方面で、間違った形で使われているのです。
クシャトリヤ、すなわち管理階級者は、特に慈善をすること、そしてどのような状況においても慈善を受けてはならないと助言されています。現代の管理階級者は政治的行事に対して市民に寄金を要求しているのに、国として市民に慈善をすることはありません。これはシャーストラの教えに反しています。管理階級者はシャーストラに精通しているべきですが、職業教師になってはいけません。行政執行者が非暴力主義に従うのは間違いであり、非暴力主義者のまねをすれば地獄に落ちるばかりです。アルジュナはクルクシェートラの戦場で暴力を使わない臆病者になろうとしていましたが、主クリシュナに厳しく非難されました。非暴力という文化を公然と口にしたアルジュナを非文化人であるととがめたのです。行政に携わる者なら、十分に軍事教育を受けなくてはなりません。大量の票を得ただけの臆病者は大統領の席に座るべきではありません。昔の君主は、全て騎士道精神に徹していました。君主が王の義務を果たすために、規則的に訓練を受けて騎士道精神が維持されているならば、君主制は存続するべきです。戦いともなれば、王や大統領は、無傷で我が家に帰ることがあってはなりません。現代のいわゆる王は戦場に立ち寄りすらしません。安全な執務室から戦力強化を命じるのは巧みでも、その目的は国家の偽の名声を高めることにあります。行政官階級が商人や労働者の仕事をするようでは、国の政治は機能しません。
ヴァイシャ、すなわち商業階級者は、特に牛を守るよう助言されています。牛を守れば、チーズやバターのような乳製品の生産量が高まります。農業と食糧流通は、ヴェーダ知識を学び、そして寄付を実践することによって成り立つ商業階級の主要な義務です。クシャトリヤに市民を守る責任があるように、ヴァイシャには動物を守る責任があります。動物は絶対に殺してはなりません。動物の食肉処理は野蛮人の社会で行われることです。人間には、農産物、果物、ミルクが十分かつ最適な食糧です。人類は、動物を守ることに最も注意を傾けるべきです。労働者を工場で働かせるのは、労働者の生産能力を正しく使っていないことになります。工場がどれほどあっても、人間の必需品、つまり米、小麦、穀物、ミルク、果物、野菜を作り出すことはできません。機械や道具を生産しても、利益を得る側の不健全な生活を助長させるだけで、無数の人々が飢え、社会は不安定になっていきます。これが文化の標準になってはなりません。
シュードラ階級とは知性に恵まれていない人たちを指し、彼らは自由を手にしてはいけません。シュードラより上位3つの社会階級のために誠実な仕事をする人たちです。上位の階級のために働くことで、快適な生活に必要なものは全て供給されます。特に貯金をしないことが助言されています。シュードラが財産を貯めると、酒、女性、賭博といった罪なことに使われがちです。酒、女性、賭博は、人々がシュードラ以下の気質に堕落したことの現れです。上位階級の人々は、責任をもってシュードラ階級の人々を養わなくてはならず、中古の衣服を用意して与えなくてはなりません。シュードラは、自分の主人が老齢や病弱になったときにその主人を見捨ててはなりません。また主人も自分の召使が全面的に満足するよう養わなくてはなりません。どのような儀式を執行するにしても、その前にまずシュードラは十分な食料と衣服で満たされていなくてはなりません。現代では、多額のお金を費やしてさまざまな行事が行われていますが、哀れな労働者たちには十分な食糧や施しや衣服などが与えられていません。このように、労働者たちは満たされていないからこそ、騒ぎを起こしたりするのです。
ヴァルナはさまざまな職業の分類であり、アーシュラマ・ダルマは、自己を悟る精神的段階に基づく区分です。それぞれが相互関係を持ち、互いに依存し合っています。アーシュラマ・ダルマの主要目的は、知識と無執着に目覚めさせることにあります。ブラフマチャーリー・アーシュラマでは将来のために訓練を受けます。このアーシュラマでは、物質界は生命体の本当のふるさとではない、ということが教えられます。物質界にいる束縛された魂は物質という刑務所に縛られているため、自己の悟りこそが人生の究極目標になります。アーシュラマ・ダルマ全体は、私たちが無執着になれるように設計されています。無執着の生活を貫くことができない者は、無執着の心構えで家族生活に入ることが許されます。そのため、無執着の境地に到達した人は、すぐに4番目の放棄階級を受け入れ、財産に頓着せず、究極の悟りを目的とし、体と心を維持するためだけに施しを受けて暮らさなくてはなりません。世帯者生活は、執着心を持つ人々のためにあり、ヴァーナプラスタとサンニヤーサ階級は、物質生活に無執着になった人々のためにあります。ブラフマチャーリー・アーシュラマは特に、執着と無執着、両方の人を育てるために用意されています。
節
dāna-dharmān rāja-dharmān
mokṣa-dharmān vibhāgaśaḥ
strī-dharmān bhagavad-dharmān
samāsa-vyāsa-yogataḥ
mokṣa-dharmān vibhāgaśaḥ
strī-dharmān bhagavad-dharmān
samāsa-vyāsa-yogataḥ
訳語
dāna-dharmān—慈善行為; rāja-dharmān—王の具体的な活動; mokṣa-dharmān—解放のための活動; vibhāgaśaḥ—区分によって; strī-dharmān—女性の義務; bhagavat-dharmān—献身者の活動; samāsa—一般的に; vyāsa—明白に; yogataḥ—~によって。
翻訳
次に、慈善活動、王の統治活動、解脱のための活動について区分し説明した。さらに、女性と献身者の義務について、簡単かつ広範囲に述べた。
解説
寄付をすることは世帯者の主要な仕事のひとつであり、苦労して稼いだお金の50%を寄付すべきです。ブラフマチャーリー、すなわち学習者は儀式を執行し、世帯者は寄付をし、放棄階級にある人は改悛と苦行に励まなくてはなりません。それが、自己の悟りの生活に用意された全アーシュラマの役割です。ブラフマチャーリーの生活をする人は世界が至高主、人格神の所有物であることを理解できるよう、十分な指導を受けます。理解できれば、誰であっても、何ひとつ自分のものであると主張できないはずです。ですから、性生活の許可証とも言うべき世帯生活を許された人は、主への奉仕のために寄付をしなければなりません。誰の力であろうと、その力は主という力の源から作り出されている、あるいは主から拝借しているものです。ですから、そのような力の結果としての行動は、超越的な愛情奉仕という形で主に返されなくてはなりません。川は海からの水を雲を通して取り込み、再び海へ流すように、私たちの力は、至高の源である主からの借りものであるため、主に戻すべきです。それが完全な力の使い方です。ですから主は『バガヴァッド・ギーター』(9-27)で、することを全て、行う苦行を全て、犠牲としてするものを全て、食べるものを全て、慈善として施すもの全てを主に捧げなくてはならない、と説いています。それが拝借している力の正しい使い方です。自分の力がそのように使われれば、その力には物質的な魅力という汚れがなくなるため、私たちは主への奉仕という根源かつ本来の自然な生活ができるようになります。
ラージャ・ダルマは偉大な科学であり、政治中心の現代の外交とは違います。王は、税金を集めるだけの人間ではなく、寛大な人間になるよう正しく訓練されていました。国民の繁栄だけを考えてさまざまな儀式をするよう訓練を受けていたのです。解脱の境地に到達できるよう、プラジャー(国民)たちを導くことが王の大きな義務でした。父親、精神指導者、王は、自分に従う人々を誕生、死、病気、老年からの究極的な解脱の道に導くという責任を果たさなくてはなりません。このような主要な義務が正しく遂行されるのであれば、人民の、人民による政府は必要ではありません。現代では、巧みに操作された投票の力で一般大衆自身が管理者階級に収まっていますが、王としての主要な義務を果たす訓練を受けたわけではありませんし、またそれは誰もができることでもありません。このような状況の中で、訓練を受けていない行政者たちが、国民たちの幸福のため、と称して混乱を作り出しています。さらに、彼らは悪徳政治家や泥棒まがいの集団になり、無益な政治のために増税を繰り返しています。正しい質を備えたブラーフマナは、王が『マヌ・サンヒター』やパラーシャラが著した『ダルマ・シャーストラ』のような経典に沿った正しい国政ができるよう指導する立場にあります。そのような王は一般市民の理想像であり、敬虔で信仰心があつく、勇敢で寛大な王に国民が従うのはあたりまえのことです。正しい王は、臣下を食い物にして生きるような怠惰で感覚的な人間ではなく、泥棒や盗賊を成敗することに常に目を光らせています。敬虔な王は、的はずれのアヒンサー(非暴力)と称して犯罪人に情けをかけることはありません。泥棒や盗賊団には手本となるような厳罰を科して、組織的な犯罪を未然に防がなくてはなりません。今では盗賊集団が管理者側に立っており、これは本来あるべき姿ではありません。
税金の徴収はいたって簡単で、強制的な取り立ても強奪もありませんでした。王には、国民が得た利益の4分の1、つまり所有財産の4分の1を要求する権利がありました。当時は、敬虔な王と宗教上の調和の力で、穀物、果物、花、絹、綿、ミルク、宝石、鉱物などの自然の富が豊富に得られ、物質的に恵まれていない人などいなかったため、誰も財産を手放すことを惜しみませんでした。市民は豊かな農耕や酪農を営み、穀物や果物やミルクなども豊富にあり、石鹸、トイレ、映画、バーといったものは必要ありませんでした。
王には、蓄えられたエネルギーが適切に使われているかを見守る義務がありました。私たち人間のエネルギーは、動物じみたことではなく、自己を悟るために使われなくてはなりません。政府は特にこの目的を果たすために組織されていました。ですから、王は選挙などに頼らずに適切な大臣を選ぶ必要がありました。大臣、軍司令官、また一般兵士でさえ個人の資質に基づいて選ばれ、王は適材適所の視点から正しく監督しなくてはなりませんでした。特に、精神的知識を理解するために全てを捧げた人々、つまりタパスヴィーが軽んじられることのないよう心がけていました。純粋無垢な献身者が侮辱されることを人格神は決して許さないことをよく知っていたのです。そのようなタパスヴィーは、強盗や盗賊でさえ信頼していた指導者でした。悪人たちでさえタパスヴィーの命令に背かなかったということです。王は、国内にいる文盲、身寄りのない人々、夫を失った女性たちを注意深く守っていました。国防政策は、敵の攻撃を受ける前に完備されていました。税制は単純明瞭で、浪費のためではなく、蓄えられた資金を強化させるためにありました。兵士は全世界から集められ、特別な義務遂行のために訓練を受けていました。
解脱については、欲情、怒り、不法な望み、貪欲、当惑といった要因を征服しなければ達成できません。怒りを克服するには、許す心を育む必要があります。不法な望みを捨てるには、計画を立てないことです。精神的な文化を高めれば眠りを克服できます。忍耐心さえあれば、望みや貪欲を征服することができます。さまざまな病気による障害は、規則正しい食事で避けることができます。自己を抑制すれば虚しい期待を持たなくなり、望ましくない付き合いを避ければ、お金を貯めることができます。ヨーガを修練して飢えを抑制し、世俗への執着はこの世の無常を知れば避けられます。めまいは立ち上がることで抑えられ、間違った議論は事実を確認すれば克服できます。おしゃべりは厳粛さと寡黙さで避けることができ、勇敢さを身につければ恐怖心が克服できます。完璧な知識は自己修養によって得られます。誰であっても、解脱の境地にたどり着くために、欲情、貪欲、怒り、妄想などを克服しなくてはなりません。
女性は、男性にとって活力の源とされています。つまり、女性は男性よりも力があるということです。かの強大なジュリアス・シーザーはクレオパトラに支配されていました。このような偉大な女性を制御するのは、内気さです。ですから、女性には内気さが大切です。ひとたびこの制御が緩むと、女性は不貞を働くことによって社会を混乱に陥れます。不貞によって、世界を混乱させるヴァルナ・シャンカラという不必要な子どもたちを作り出すこととなります。
ビーシュマデーヴァが最後に教えたのは、主を喜ばせる方法です。誰もが主の永遠の召使いですが、この重要な本質を忘れると物質的な生活に巻き込まれます。主を喜ばせる簡単な方法(特に世帯者にとって)は、自宅に主の神像を設置することです。神像を中心に生活することで、毎日の決まった仕事を着実にこなすことができるようになります。自宅で神像を崇拝し、献身者に仕え、『シュリーマド・バーガヴァタム』を聞き、聖地に住み、主の聖なる御名を唱えることはどれも、大金を使わずに主を喜ばせる方法です。このような話が祖父から孫たちへ説かれたのでした。
節
dharmārtha-kāma-mokṣāṁś ca
sahopāyān yathā mune
nānākhyānetihāseṣu
varṇayām āsa tattvavit
sahopāyān yathā mune
nānākhyānetihāseṣu
varṇayām āsa tattvavit
訳語
dharma—職務上の義務; artha—経済発展; kāma—望みの実現; mokṣān—究極の解脱; ca—そして; saha—~と共に; upāyān—方法; yathā—ありのままに; mune—聖者よ; nānā—さまざまな; ākhyāna—歴史の物語を列挙して; itihāseṣu—歴史の中の; varṇayām āsa—述べた; tattva-vit—真実を知る者。
翻訳
次に、さまざまな地位と社会階級の義務について、史実を挙げて説明した。ビーシュマ自身が真理に精通する人物だったからである。
解説
プラーナ、『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』のようなヴェーダ経典で述べられている出来事は、年代順ではないものの、過去に実際に起こったことです。これらの歴史的事実は、一般人に有益なことであるため、年代を考慮することなく列挙されています。さらに、それらはさまざまな惑星で、いいえ、さまざまな宇宙で起こったことであるため、物語の描写は三次元の視点から説明されることがあります。私たちの限られた理解力では、順序立てて書かれていないように思うかもしれませんが、私たちはこれらの出来事の教訓や教えに着目しています。ビーシュマデーヴァは、マハーラージャ・ユディシュティラのさまざまな質問への答えとして、そのような物語を聞かせたのでした。
節
dharmaṁ pravadatas tasya
sa kālaḥ pratyupasthitaḥ
yo yoginaś chanda-mṛtyor
vāñchitas tūttarāyaṇaḥ
sa kālaḥ pratyupasthitaḥ
yo yoginaś chanda-mṛtyor
vāñchitas tūttarāyaṇaḥ
訳語
dharmam—職務上の義務; pravadataḥ—説明している時に; tasya—彼の; saḥ—その; kālaḥ—時; pratyupasthitaḥ—正確に現れた; yaḥ—それは~である; yoginaḥ—神秘家にとって; chanda-mṛtyoḥ—自分で選んだ時に従って死のうとする者の; vāñchitaḥ—~に望まれている; tu—しかし; uttarāyaṇaḥ—太陽が北側の地平線上に入る周期。
翻訳
ビーシュマデーヴァが職務上の義務について述べている時、太陽が北半球に入った。これは、自らの意志で死のうとする神秘家が望んでいる周期である。
解説
完璧なヨーギーや神秘家は、自分の意思で適切な時間帯を選んで肉体を去ることができ、望む通りの惑星に入ることができます。『バガヴァッド・ギーター』(8-24)では、自分の関心を至高主の関心と完全に一致させている自己を悟った魂は、太陽が北側の地平線上にあり、火の神が輝いている時期に肉体を離れることができ、そして崇高な世界に入ることができる、と言われています。またヴェーダ経典では、この時期は肉体を去るには吉兆な時間帯であり、ヨーガを極めた神秘家はそのような時に他界する、ともあります。ヨーガの完成とは、望み通りに物質の体を出ることのできるそのような超心理状態に達することをいいます。ヨーギーは、物質的な乗り物を使わずに目指す惑星にすぐに入ることができます。瞬時に最高位の天体系に到達できるのですが、これは物質主義者にできることではありません。最高位の天体系に到達するには、毎時何百万キロの速度で飛んでも何百万年もかかります。現代人にとっては異次元の科学であり、ビーシュマデーヴァはその科学に精通していました。肉体を出る好機を待っていたのであり、その絶好の機会が高潔な孫たちに教えを授けている時に訪れました。こうして、彼は高貴な主シュリー・クリシュナ、敬虔なパーンダヴァ兄弟、バガヴァーン・ヴィヤーサなど、偉大な魂を前にして肉体を去る準備をしました。
節
tadopasaṁhṛtya giraḥ sahasraṇīr
vimukta-saṅgaṁ mana ādi-pūruṣe
kṛṣṇe lasat-pīta-paṭe catur-bhuje
puraḥ sthite ’mīlita-dṛg vyadhārayat
vimukta-saṅgaṁ mana ādi-pūruṣe
kṛṣṇe lasat-pīta-paṭe catur-bhuje
puraḥ sthite ’mīlita-dṛg vyadhārayat
訳語
tadā—その時; upasaṃhṛtya—やめること; giraḥ—話; sahasraṇīḥ—ビーシュマデーヴァ(何千もの科学や芸術に長けた人物); vimukta-saṅgam—一切から完全に自由になって; manaḥ—心; ādi-pūruṣe—人格神に; kṛṣṇe—クリシュナに; lasat-pīta-paṭe—黄色の衣服で飾られた; catur-bhuje—四本腕の根源のナーラーヤナに; puraḥ—その直前; sthite—立っている; amīlita—広げられた; dṛk—視野; vyadhārayat—固定させた。
翻訳
無数の意味を含んだ数々の教えを説き、幾千もの戦争を戦い抜き、数え切れない人々を守った人物であるビーシュマデーヴァが、その時、話を終えた。そして、一切の束縛から解放されていた彼は、一切の思いを捨て、輝く黄色の衣服で飾られ、四本腕の姿で立つ根源の人格神、シュリー・クリシュナに、大きく見開いた目を固定させた。
解説
ビーシュマデーヴァは、人間生活をまっとうする使命を、肉体を去る瞬間に誉れ高い模範で示しました。死に直面している人がその時に魅了されている物事が、来世の始まりになります。ですから、その瞬間に至高主シュリー・クリシュナに思いを没頭させているのであれば、間違いなく主のもとに帰っていきます。これは『バガヴァッド・ギーター』(8-5〜15)でも確証されていることです。
第5節 死が訪れて体を離れる時に私だけを想っているものは、誰でも直ちに精神界の私のもとに来る。このことに疑いの余地はない。
第6節 誰もがこの体を捨てる時に想っている状態に間違いなく移っていくのだ。
第7節 ゆえにアルジュナよ、常にクリシュナの姿の私を心に抱き、戦いという君の義務を遂行せよ。行為を私に捧げ、心と知性を私に固く結びつけておけば君は間違いなく私のもとに到る。
第8節 パールタよ、私を至高人格神として瞑想し、この道から逸れることなく私を想い続ける者は、必ずや私のもとに到る。
第9節 全てを知る最古の指導者として、最小のものより小さく、すべてを維持する者として、物質概念を超えた、想像も及ばぬ存在であり、絶えず意識のみなぎる実在として、至高人格神を瞑想せよ。主は太陽のように燦然と輝き、物質自然を超越していると知れ。
第10節 死の瞬間に生気を眉間に集中し、ヨーガの力によって心を逸らすことなく献身に満ちて至高主を想う者は、必ずや至高人格神のもとに達する。
第11節 ヴェーダに精通し、オーム・カーラを唱え、放棄階級に身を置く偉大な賢者は、ブラフマンに帰入する。この完成を望む者は、独身禁欲生活を貫こうとする。救いとなるその方法について、ここで君に簡単に述べることとしよう。
第12節 ヨーガとは感覚に基づくすべてのものから無執着になることである。感覚の扉をすべて閉じて、心を心臓に、生気を頭頂に固定させ、ヨーガの中に自己を納めるのだ。
第13節 このヨーガの行を修め、至高の文字の組み合わせである聖なるオームの音節を唱え、至高人格神を想いつつ体を離れる者は確かに精神惑星に到達する。
第14節 プリターの子よ、揺らぐことなく常に私を想う者は、絶え間ない献身奉仕により、やすやすと私のもとに来る。
第15節 私のもとに到達した偉大な魂、すなわち信心深いヨーギーは、決して再び苦悩に満ちたこのはかない世界には戻らない。彼らは最高の完成に達したのだから。
シュリー・ビーシュマデーヴァは、自分の意思で肉体を終えるという完成を達成し、瞑想の対象である主クリシュナを、死ぬ時に目にすることができる幸運に恵まれました。だからこそ視線を主に集中させたのです。主シュリー・クリシュナに自然にあふれでる愛情を感じていたビーシュマデーヴァは、長い間主に会いたいと考えていました。純粋な献身者でしたから、ヨーガの込み入った原則にはほとんど関わりがありませんでした。簡単なバクティ・ヨーガだけで完成の境地に到達できるのです。ビーシュマデーヴァの燃えるような願いは、最も愛しいお方、主クリシュナという人物を見ることでしたが、その願いが、主の恩恵によって、最後の息を引き取る時に主を見るという好機となって叶えられたのでした。
節
viśuddhayā dhāraṇayā hatāśubhas
tad-īkṣayaivāśu gatā-yudha-śramaḥ
nivṛtta-sarvendriya-vṛtti-vibhramas
tuṣṭāva janyaṁ visṛjañ janārdanam
tad-īkṣayaivāśu gatā-yudha-śramaḥ
nivṛtta-sarvendriya-vṛtti-vibhramas
tuṣṭāva janyaṁ visṛjañ janārdanam
訳語
viśuddhayā—浄化された; dhāraṇayā—瞑想; hata-aśubhaḥ—物質存在の不吉な質を最小化させた者; tat—主に; īkṣayā—~を見つめながら; eva—ただ; āśu—すぐに; gatā—行ってしまって; yudha—矢から; śramaḥ—疲労; nivṛtta—終えて; sarva—全ての; indriya—感覚; vṛtti—活動; vibhramaḥ—広く従事して; tuṣṭāva—祈った; janyam—物質の肉体; visṛjan—終える時に; janārdanam—生命体の支配者に向かって。
翻訳
ビーシュマデーヴァは、一点の曇りもない瞑想で主シュリー・クリシュナを見つめながら、一切の不吉な物事から解放され、突き刺さった矢による激痛も感じなくなった。こうして、感覚の動きは全て停止し、物質の体を去るその時、全生命体の支配者に向かって崇高な祈りを捧げた。
解説
物質の体は物質エネルギーから与えられたものであり、的確に言えば幻想です。その体と自分を同じものと思ってしまうのは、主との永遠の絆を忘れた結果です。純粋な献身者であるビーシュマデーヴァの場合、この幻想は主がその場に現れた時点ですぐに取り除かれました。主クリシュナは太陽のようであり、幻想または外的な物質エネルギーは暗闇のようなものです。太陽が輝くところに暗闇は居続けることができません。ですから、主クリシュナが到着したその時、物質的な汚れは完全に消え去り、ビーシュマデーヴァは物体に備わる不純な感覚の活動を停止させ、超越的な境地に置かれました。魂は本来純粋で、感覚も純粋です。感覚は物質の汚れのために不完全で不純な機能を果たすようになります。至高で純粋な方、主クリシュナとの絆をよみがえらせることで、感覚は再びその汚れから解放されます。ビーシュマデーヴァは、主がその場にいたことから、肉体を離れる前にその超越的な境地に入っていました。主は全生命体の支配者であり、また恩人です。それがヴェーダの見解です。主は全てにおける永遠なる生命体のなかで、至高の永遠性、そして至高の生命体です※。そして主だけが、生命体に必要なもの全てを供給することができます。こうして主は、次の節の通りに祈った偉大な献身者ビーシュマデーヴァの超越的な望みを叶えたのでした。
(※脚注)nityo nityānāṃ cetanaś cetanānām
eko bahūnāṃ yo vidadhāti kāmān
『カタ・ウパニシャッド』
(※脚注)nityo nityānāṃ cetanaś cetanānām
eko bahūnāṃ yo vidadhāti kāmān
『カタ・ウパニシャッド』
節
śrī-bhīṣma uvāca
iti matir upakalpitā vitṛṣṇā
bhagavati sātvata-puṅgave vibhūmni
sva-sukham upagate kvacid vihartuṁ
prakṛtim upeyuṣi yad-bhava-pravāhaḥ
iti matir upakalpitā vitṛṣṇā
bhagavati sātvata-puṅgave vibhūmni
sva-sukham upagate kvacid vihartuṁ
prakṛtim upeyuṣi yad-bhava-pravāhaḥ
訳語
śrī-bhīṣmaḥ uvāca—シュリー・ビーシュマデーヴァが言った; iti—このように; matiḥ—思考、感情、望み; upakalpitā—使って; vitṛṣṇā—全ての感覚の望みから自由になって; bhagavati—人格神に; sātvata-puṅgave—献身者の指導者に; vibhūmni—その偉大な方に; sva-sukham—自己満足; upagate—それを達成した主に; kvacit—時々; vihartum—超越的な喜びから; prakṛtim—物質界に; upeyuṣi—それを受け入れる; yat-bhava—~からの創造界; pravāhaḥ—作られ、そして破壊される。
翻訳
ビーシュマデーヴァが言った:長い間さまざまな物事や義務に使われてきた私の思考、感情、望みを、今こそ、あらゆる力を持つ主シュリー・クリシュナだけに向けます。主は常に自己の内で満たされておられ、物質界は主だけによって創造されるのにもかかわらず、時に、献身者の指導者たる立場から、物質界に降誕して超越的な喜びを楽しまれます。
解説
ビーシュマデーヴァは、政治家、クル王家の代表者、偉大な将軍、そしてクシャトリヤの総帥であったため、その心はさまざまな物事に分散され、思考、感情、望みはあらゆる物事に向けられていました。今、純粋な献身奉仕を達成するため、思考、感情、望みの力を全て、至高の人物である主クリシュナに使いたいと考えていました。主はここで献身者の指導者、あらゆる力を持つ人物、と描写されています。主クリシュナは根源の人格神ですが、純粋な献身者たちに献身奉仕の恩恵を授けるために自ら地球に降誕されます。ときには主クリシュナご自身として、またときには主チャイタニヤとして降誕されます。両者とも純粋な献身者の指導者です。純粋な献身者は、主に仕えること以外に望みはなく、そのためサートヴァタと呼ばれることがあります。主はそのようなサートヴァタの筆頭者です。ですからビーシュマデーヴァにも、それ以外の望みはありませんでした。物質的な望み全てから浄化された人物でなければ、主はその指導者になろうとはしません。望みを消し去ることはできませんが、浄化させることだけが必要です。『バガヴァッド・ギーター』(10-10)でも主自身が確証しているように、主はいつも主に仕えている純粋な献身者の心の内から教えを授けます。そのような教えは物質的な目的ではなく、ふるさとへ、神のもとに帰るためだけに与えられます。物質自然を操りたいと思っている一般人には、それを許し、またその活動を見守りますが、献身者でない者たちに神のもとへ帰る教えは授けません。それが、献身者と非献身者という異なった生命体に対する主の対応の違いです。主は全生命体の指導者であり、国王が囚人と自由な市民の双方を治めるようなものです。しかし、主は献身者と非献身者とでは違った対応をします。献身者でない者たちは主の教えを何とも思わないので、主はその場合沈黙を貫きますが、彼らの活動を目撃し、良い、悪いにかかわらず結果を与えます。献身者はこの物質的な善悪を超えています。超越的な道を突き進んでいるため、物質的なものを達成する望みはありません。また献身者はシュリー・クリシュナが根源のナーラーヤナであることを知っています。主シュリー・クリシュナは、全ての物質創造の根源である完全分身カーラノーダカシャーイー・ヴィシュヌとして現れることを知っているからです。主も、純粋な献身者との交流を望んでおり、そのために主は地球に降誕し、彼らを元気づけるのです。主はご自分の意志で降誕されます。物質自然の条件に強いられているわけではありません。ですから、ヴィブまたは全能者と呼ばれます。物質自然の法則に束縛されることは絶対にありません。
節
tri-bhuvana-kamanaṁ tamāla-varṇaṁ
ravi-kara-gaura-vara-ambaraṁ dadhāne
vapur alaka-kulāvṛtānanābjaṁ
vijaya-sakhe ratir astu me ’navadyā
ravi-kara-gaura-vara-ambaraṁ dadhāne
vapur alaka-kulāvṛtānanābjaṁ
vijaya-sakhe ratir astu me ’navadyā
訳語
tri-bhuvana—三段階の天体系; kamanam—最も望ましい; tamāla-varṇam—タマーラの木のように青みがかっている; ravi-kara—太陽光線; gaura—金色; varāmbaram—輝いている衣服; dadhāne—着ている方; vapuḥ—体; alaka-kula-āvṛta—白檀の膏の絵で飾られて; anana-abjam—蓮華の花のようなお顔; vijaya-sakhe—アルジュナの友人に; ratiḥ astu—主に魅了されるように; me—私の; anavadyā—活動の結果を望むことなく。
翻訳
シュリー・クリシュナはアルジュナの親友です。主は超越的な体で地上に降誕し、その体はタマーラの木の青みがかった色を思わせます。主の体は、三天体系[上位、中間、下位]の誰をも魅了されてやみません。主の輝く黄色の衣服と、白檀のペーストの絵で飾られた蓮華のお顔が、私の魅力の対象でありますように。そして私が活動の結果を望むことがありませんように。
解説
シュリー・クリシュナは内なる喜びを通して地上に降誕なさる時、主の内的エネルギーという代表者を使います。主の超越的で魅力的な姿は、三界(上位、中間、下位)の誰もが見たいと望んでいます。宇宙のどこを探しても、主クリシュナのような美しい姿は見つかりません。ですから主の超越的な体は、物質の創造物とは一切関係ありません。アルジュナはこの節で征服者、クリシュナはその親友と述べられています。ビーシュマデーヴァは、クルクシェートラの戦争が終わった後、主がアルジュナの馬車の御者であった時に着ていた服のことを今、矢の寝台の上で思い出しています。アルジュナとビーシュマが戦っていた時、ビーシュマデーヴァはクリシュナの輝く衣服に心奪われ、敵のアルジュナが主の友人として主と関係を持っていたことを間接的に称賛しました。アルジュナは主を友人としていたので、常に征服者です。ビーシュマデーヴァはこの機会に、主をヴィジャヤ・サケー(アルジュナの友)と呼んでいます。主はさまざまな崇高な思いを通して献身者と結ばれていますが、献身者にまつわる名前で呼ばれると、特にうれしく思われるからです。クリシュナがアルジュナの戦車を操縦していた時、クリシュナの服が太陽に照らされ、その光の反射が織りなす美しい色がビーシュマデーヴァの脳裏に強く焼きついていました。偉大な戦士として、騎士道精神を通してクリシュナとの関係を味わっていたのです。さまざまなラサ(感情)を通した主との超越的な絆は、それぞれの献身者によって最も高い法悦心として味わわれています。あたかも主と崇高な関係を持っているかのように見せかける知性のない俗人は、ヴラジャダーマの乙女たちの気持ちをまねて、すぐに恋愛感情の関係に入ろうとします。そのような安っぽい関係は俗人の底意にある心理を露呈しています。主との恋愛感情を味わった人なら、一般的な倫理観にでさえ反する低俗な恋愛のラサに執着するはずがありません。特定の魂と主の永遠の絆は発展していくものです。生命体と至高主の真の絆は、5種類のラサからどのような形にでも発展していき、それは、真の献身者の超越的な程度の差を示すものではありません。ビーシュマデーヴァはこの模範であり、この偉大な将軍が主と超越的な絆を持っていることを、私たちは注意深く見極めなくてはなりません。
節
yudhi turaga-rajo-vidhūmra-viṣvak-
kaca-lulita-śramavāry-alaṅkṛtāsye
mama niśita-śarair vibhidyamāna-
tvaci vilasat-kavace ’stu kṛṣṇa ātmā
kaca-lulita-śramavāry-alaṅkṛtāsye
mama niśita-śarair vibhidyamāna-
tvaci vilasat-kavace ’stu kṛṣṇa ātmā
訳語
yudhi—戦場で; turaga—馬; rajaḥ—埃; vidhūmra—灰色に変化した; viṣvak—うねっている; kaca—髪; lulita—散らばって; śramavāri—発汗; alaṅkṛta—~に飾られて; āsye—顔に; mama—私の; niśita—鋭い; śaraiḥ—矢によって; vibhidyamāna—~に貫かれて; tvaci—肌に; vilasat—喜びを味わっている; kavace—よろいに守られている; astu—そうなるように; kṛṣṇe—シュリー・クリシュナに; ātmā—心。
翻訳
戦場[シュリー・クリシュナが友人であるアルジュナを思う気持ちから参戦した場所]では、流れるような主クリシュナの髪が、馬のひずめで巻き上げられた埃で灰色に染まり、馬車の操縦に奮闘していた主の顔には、玉の汗がにじんでいます。これらの飾りは私の鋭い矢で負った傷によって鮮やかに際立ち、主はそれをお楽しみになったのです。ゆえに、シュリー・クリシュナに私の心が魅了されますように。
解説
主は、永遠性、至福、知識の絶対的な姿です。そのため、5種類の関係、シャーンタ、ダースャ、サッキャ、ヴァーツァリャ、マードゥリャ、すなわち中立関係、主従関係、友人関係、親子関係、恋愛関係を通した主への超越的な愛情奉仕は、それが本当の愛情や愛着で捧げられる時、主によって恵み深く受け入れられます。シュリー・ビーシュマデーヴァは偉大な献身者であり、主とは主従関係にありました。そのため、将軍が主の超越的な体をめがけて放った鋭い矢は、他の献身者が主に柔らかいバラの花を投げるのと同じ形の崇拝です。
ビーシュマデーヴァは、主に対抗してとった行動を悔やんでいるように見えます。ところが、主の体は超越的な次元にあるため、主は全く苦痛を感じていませんでした。主の体は物質ではありません。主と主の体は完全に精神的です。精神魂は突き刺されることも、焼かれることも、乾くことも、濡れることなどもありません。『バガヴァッド・ギーター』もその事実を明確に説明しています。『スカンダ・プラーナ』にも同じ記述が見られ、精神魂は決して汚れず、破壊されないと述べられています。苦しめられることも、乾くこともありません。主ヴィシュヌが化身となって私たちの前に現れると、物質存在の中にいる束縛された魂のように見えますが、それは、主が降誕されたその時から、主を殺そうと隙を狙っている悪魔、すなわち無信仰な人間たちを混乱させるためです。カンサはクリシュナを殺したいと思い、ラーヴァナもラーマを殺したいと思いました。なぜなら彼らは愚かなことに、精神魂は何があろうと消滅しないため、主は決して殺されないということを知らなかったからです。
ですから、ビーシュマデーヴァが主の体を矢で射抜いたことは、不信心の無神論者には理解できないことですが、献身者や解脱した魂は戸惑うことはありません。
ビーシュマデーヴァは、とても慈悲深い主のことを高く評価しています。主はビーシュマデーヴァが放った矢に苦慮していたのですが、アルジュナの元を離れず、また戦場で容赦なく攻撃されたのに、他界しようとするビーシュマをためらうことなく訪ねてくださったからです。ビーシュマの後悔の念と主の慈悲深い行為は、まれな光景です。
恋愛感情で主に仕えていた偉大なアーチャーリャ、そして献身者であるシュリー・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティー・タークラは、この背景について非常に印象的な意見を述べています。ビーシュマデーヴァの鋭い矢による主の体の傷は、主にとって、フィアンセが強い性的衝動から主の体を噛んでいるかのように心地よいものである、というのです。異性同士が噛み合う行為は、体に傷ができたとしても、敵意によるものではありません。ですから、主と純粋な献身者シュリー・ビーシュマデーヴァの超越的な愛情の交換としての戦闘行為は、決して俗的なものではありません。さらに、主の体と主自身は同じですから、その絶対的な体に傷がつくはずがありません。一般の人は、鋭い矢で作られた主の傷を普通の傷と誤解するでしょうが、少しでも絶対的な知識を持つ人なら、騎士道精神で交わされた超越的な愛情の交換が理解できます。主は、ビーシュマデーヴァの鋭い矢で作られた傷をうれしく思っているのです。ヴィビデャマーナという言葉は重要です。主の皮膚は主と異なることはないからです。私たちの皮膚は私たちの魂とは異なるため、私たちの場合、傷つけられる、切られるという言葉があてはまります。超越的な至福にはさまざまな種類があり、俗世界のさまざまな活動は、その超越的な至福がゆがんだ形で表されたものです。俗世界にあるものは全て俗的で欠陥だらけですが、絶対的な世界では全てが同じ絶対的な質を備えているため、欠陥のないさまざまな楽しみがあります。主は偉大な献身者ビーシュマデーヴァが負わせた傷を楽しんでいるのであり、またビーシュマデーヴァは騎士道精神で主と結ばれているため、傷を負ったクリシュナを一心に思っているのです。
節
sapadi sakhi-vaco niśamya madhye
nija-parayor balayo rathaṁ niveśya
sthitavati para-sainikāyur akṣṇā
hṛtavati pārtha-sakhe ratir mamāstu
nija-parayor balayo rathaṁ niveśya
sthitavati para-sainikāyur akṣṇā
hṛtavati pārtha-sakhe ratir mamāstu
訳語
sapadi—戦場で; sakhi-vacaḥ—友人の命令; niśamya—聞いた後; madhye—~の中で; nija—主自らの; parayoḥ—敵陣を; balayoḥ—力; ratham—馬車; niveśya—~に入って; sthitavati—そこにいる間; para-sainika—敵陣にいる兵士たちの; āyuḥ—寿命; akṣṇā—見渡すことで; hṛtavati—減少させる行為; pārtha—プリター(クンティー)の子アルジュナの; sakhe—友人に; ratiḥ—近い関係; mama—私の; astu—そうなるように。
翻訳
主シュリー・クリシュナは、友人の命令に従い、アルジュナ側とドゥルヨーダナ側の両軍隊が結集したクルクシェートラの戦場に入り、そこにいる間、慈悲のまなざしを投げかけ、敵陣にいる兵士たちの寿命を縮めました。これは、敵兵を見つめるだけでなされています。私の心がそのクリシュナに固定されますように。
解説
『バガヴァッド・ギーター』(1-21〜25)では、アルジュナが完全無欠の主シュリー・クリシュナに対し、両軍の只中に戦闘馬車を進めて、結集した敵兵たちを見終わるまでそこにとどまってほしいと依頼しています。そのように頼まれた主は、まるで命令実行者のようにすぐに従いました。そして主は、敵方にいる重要人物を示しながら「ここにビーシュマがいる、ドローナがいる」と伝えました。主は至高の人物ですから、誰にとっても命令の提供者でも実行者でもありません。なおかつ、いわれのない慈悲心と純粋な献身者に対する情愛から、指図されることを待っている召使いのように、時には献身者の命令に従います。主は献身者の命令に従うことに喜びを感じているのであり、それは父親が幼い我が子の言われるままにして喜んでいるような心境です。これは、主と献身者の純粋で超越的な愛情があってこそ可能になることで、ビーシュマデーヴァにはそのことがよく分かっていました。だからこそ、主を「アルジュナの友」と呼んだのです。
主は、慈悲深いまなざしを向けて敵兵たちの寿命を縮めました。クルクシェートラの戦場に集まった兵士たちは、死ぬ時に主を目にしたことで解脱を達成したと言われています。ですから、アルジュナの敵兵たちの寿命を短くしたのは、アルジュナのためというわけでありません。兵士たちが普段の生活のなかで死んでも解脱は達成できなかったのですから、主は彼らにも慈悲を授けたのです。死ぬ時に主を見る機会に恵まれ、物質生活から解放された、ということです。ですから、主は善なるお方であり、すること全てが万民の益になります。戦争の結果から見れば親友のアルジュナの勝利でしたが、実はアルジュナの敵兵にも恩恵は授けられていました。それが主の超越的な活動であり、このことを理解する人は誰でも、肉体を終えた後に解脱の境地に入っていきます。主は常に完璧で善なるお方ですから、どのような状況でも間違ったことはしません。
節
vyavahita-pṛtanā-mukhaṁ nirīkṣya
sva-jana-vadhād vimukhasya doṣa-buddhyā
kumatim aharad ātma-vidyayā yaś
caraṇa-ratiḥ paramasya tasya me ’stu
sva-jana-vadhād vimukhasya doṣa-buddhyā
kumatim aharad ātma-vidyayā yaś
caraṇa-ratiḥ paramasya tasya me ’stu
訳語
vyavahita—離れたところに立っている; pṛtanā—兵士たち; mukham—顔; nirīkṣya—見ることで; sva-jana—親族; vadhāt—殺すという行為から; vimukhasya—ためらっている者; doṣa-buddhyā—汚れた知性によって; kumatim—貧弱な知識; aharat—根絶した; ātma-vidyayā—超越的な知識によって; yaḥ—~である主; caraṇa—足に; ratiḥ—魅力; paramasya—至高主の; tasya—主に向かって; me—私の; astu—そうなるように。
翻訳
アルジュナが、目の前に居並ぶ兵士や指揮官たちを見て無知に汚されたように思われた時、主は超越的な知識を授けてその無知を取り去りました。主の蓮華の御足が私の魅力の対象であり続けますように。
解説
王や指揮官は戦士たちの前に立って戦うというのが、本当の戦い方です。当時の王や指揮官は、現代の大統領や国防大臣とは比較の対象にさえなりません。当時の王や指揮官は貧しい兵士や雇い兵が敵軍と向き合っている間に自宅にいるわけではありません。民主主義の現代では当たり前のことかもしれませんが、世の中が真の君主制で治められていた時には、君主は、その素質も考慮されずに投票数だけで選ばれるような臆病者ではありませんでした。クルクシェートラの戦いの記録から分かるように、ドローナ、ビーシュマ、アルジュナ、ドゥルヨーダナといった両軍の武将たちは眠っていたわけではありません。国民の居住区から遠く離れた場所として選ばれた戦場に全員が結集したのです。つまり、対立する王家の戦闘が、戦争に加わらない市民に影響を与えることはないということです。市民が戦闘の様子を見る必要もありませんでした。彼らには、アルジュナであろうとドゥルヨーダナであろうと、収入の4分の1を支配者に支払う義務がありました。アルジュナは、クルクシェートラの戦場で両軍の司令官たちが睨みあっている様を目のあたりにし、これから王国のために親族を殺さなくてはならない現実に直面し、彼らを哀れみ、そして嘆きました。ドゥルヨーダナが率いる大軍勢に恐れをなしたわけではなく、慈悲深い献身者ゆえに、俗なことを放棄するのが自分にふさわしいと考え、物質的な財産のために戦わないことを決意したのでした。しかし、これは知識が足りないために行きついた考えであり、そのために「汚れた知性」と表現されています。しかし、『バガヴァッド・ギーター』の第4章で明言されているように、献身者としていつも主と行動していたアルジュナの知性が汚れるはずがありません。知性が汚れたように見えますが、それは、このようないきさつがなければ、肉体観念に束縛された魂を幸福にする『バガヴァッド・ギーター』の教えは語られなかったからです。『バガヴァッド・ギーター』は、肉体と魂を同一視する概念を持つ世界中の束縛された魂を救い、至高主と魂の永遠の絆を再び築くために説かれました。アートマ・ヴィディヤー、すなわち主の超越的な知識は、宇宙全体の全生命体の恩恵のために、主によって語られたのです。
節
sva-nigamam apahāya mat-pratijñām
ṛtam adhikartum avapluto rathasthaḥ
dhṛta-ratha-caraṇo ’bhyayāc caladgur
harir iva hantum ibhaṁ gatottarīyaḥ
ṛtam adhikartum avapluto rathasthaḥ
dhṛta-ratha-caraṇo ’bhyayāc caladgur
harir iva hantum ibhaṁ gatottarīyaḥ
訳語
sva-nigamam—自分の誠実さ; apahāya—破棄するために; mat-pratijñām—私の約束; ṛtam—事実の; adhi—もっと; kartum—それをするために; avaplutaḥ—降りること; ratha-sthaḥ—戦闘馬車から; dhṛta—取り上げて; ratha—戦闘馬車; caraṇaḥ—車輪; abhyayāt—急いで; caladguḥ—大地を踏みつけて; hariḥ—ライオン; iva—~のように; hantum—殺すために; ibham—象; gata—~を横に残して; uttarīyaḥ—着ていた衣服。
翻訳
主は、私の望みを満たすために約束を破り、馬車から飛び降り、車輪をつかみ、まるでライオンが象を殺すために飛びかかるように私に猛然と襲い掛かりました。主は身に着けていた布さえ途中で落としてしまいました。
解説
クルクシェートラの戦場は軍規に則って戦われましたが、同時に、スポーツ精神のような、友人が友人に戦いを挑む雰囲気さえ漂っていました。ビーシュマデーヴァが息子のように思っていたアルジュナを殺すことをためらっている、とドゥルヨーダナは悪態をついています。戦いの精神を無視している、などと非難されてはクシャトリヤとして黙っていられません。そこでビーシュマデーヴァは、ある特別な武器を使って翌日、パンダヴァの5人全員を殺すと約束しました。ドゥルヨーダナはその言葉に満足し、翌日の戦闘に使われる矢をとりあえず自分が持つことにしました。しかしアルジュナが一計を案じてドゥルヨーダナからその矢を取り上げると、ビーシュマデーヴァはそれが主クリシュナの計略であることを見抜きました。ビーシュマデーヴァは翌日、「クリシュナはどうしても武器を手にする、さもなくば友人のアルジュナは死ぬ」という誓いをたてました。翌日、ビーシュマデーヴァは激しい戦いを繰り広げ、アルジュナもクリシュナも苦戦を強いられます。アルジュナは息も絶え絶えになり、もはやビーシュマデーヴァに殺されるのは時間の問題でした。この時主クリシュナは、自分の約束よりも価値があるビーシュマの約束を守り、彼を喜ばせたいと考えました。つまり、主が約束を破ることになります。主は、クルクシェートラの戦いが始まる前、両軍のために武器は使わず、武力も行使しないと約束していました。しかし、アルジュナを守ろうと馬車から飛び降り、馬車の車輪を持ち上げ、ライオンが象に襲いかかるように、憤怒の形相でビーシュマデーヴァに向かって突進しました。途中、身に着けていた布を落としたのですが、あまりの怒りに落としたことさえ気づかなったほどです。ビーシュマデーヴァは持っていた武器をすぐに捨て、愛する主クリシュナに殺されるために立ち上がりました。その瞬間、その日の戦いの時間が終わり、アルジュナはこうして救われました。もちろん、主自ら馬車に乗っているのですからアルジュナが死ぬことはありえませんでしたが、ビーシュマデーヴァは主クリシュナが友人を助けるために武器を持つところを見たいと願っていたため、アルジュナを絶体絶命の状態にしたのです。主は車輪をつかんでビーシュマデーヴァの前に立ちはだかり、ビーシュマデーヴァの約束がかなったことを示したのでした。
節
śita-viśikha-hato viśīrṇa-daṁśaḥ
kṣataja-paripluta ātatāyino me
prasabham abhisasāra mad-vadhārthaṁ
sa bhavatu me bhagavān gatir mukundaḥ
kṣataja-paripluta ātatāyino me
prasabham abhisasāra mad-vadhārthaṁ
sa bhavatu me bhagavān gatir mukundaḥ
訳語
śita—鋭い; viśikha—矢; hataḥ—~で傷つけられた; viśīrṇa-daṃśaḥ—散らばった盾; kṣataja—傷によって; pariplutaḥ—血まみれ; ātatāyinaḥ—強大な侵略者; me—私の; prasabham—怒って; abhisasāra—動き出した; mat-vadha-artham—私を殺す目的で; saḥ—主は; bhavatu—~になるように; me—私の; bhagavān—人格神; gatiḥ—目的地; mukundaḥ—解脱を授ける方。
翻訳
解脱の境地を授ける人格神、主シュリー・クリシュナが、私の究極の目的となりますように。私が放った鋭い矢で傷つけられて逆上したかのように、主は戦場で私に襲い掛かりました。主の盾は砕け散り、主の体は傷から流れ出した血で真っ赤に染まっていました。
解説
クルクシェートラの戦場での主クリシュナとビーシュマデーヴァの駆け引きは、実に興味深いものです。一見主シュリー・クリシュナは、アルジュナには惜しみなく愛情をかけ、ビーシュマデーヴァには敵意をむき出しているように見えました。しかしこれは、主の偉大な献身者であるビーシュマデーヴァに対する特別な恩恵を示す行為だったのです。このような駆け引きが示す驚くべきことは、献身者が敵の役割を演じることで、主を喜ばせることができるということです。主は絶対的なお方ですから、敵を装う純粋な献身者からでも奉仕を受け取ることができます。至高主に敵がいるはずもなく、また敵にとっても主はアジタ、すなわち征服できないお方であるため、傷つけることさえできません。それでも主は、純粋な献身者がまるで敵のように主をたたいたり、立場が上であるかのように主を叱ったりすると、主より優れた者はいなくても、喜びを感じます。これらは、献身者と主との超越的なやりとりの形のひとつです。純粋な献身奉仕について何も知らなければ、そのような不思議な愛情交換を理解することはできません。ビーシュマデーヴァは剛勇の戦士として行動し、意図的に主の体を矢で射貫きました。一般の人には主を傷つける行為に見えますが、実は献身者でない人たちを当惑させるための行動だったのです。完全に精神的な体が傷つけられることはなく、献身者が主の敵になることもありません。ビーシュマデーヴァがそう思っていたとしたら、その主を人生の究極の目的として望むはずがありません。ビーシュマデーヴァが本当の敵なら、主クリシュナは指ひとつ動かさずに彼を殺すこともできます。血まみれの傷ついた体でビーシュマデーヴァの前に立ちはだかる必要もありません。しかし主はそうなさいました。戦士である献身者が、純粋な献身者によって負わされた傷で飾られた主の超越的な美しさを見たいと望んだからこそ、そのような行動を取ったのです。これが、超越的なラサの交換、つまり主と召使いの関係です。主と献身者がそのように接することで、両者のそれぞれの立場が讃えられるのです。主のあまりの怒りをみて、アルジュナはビーシュマデーヴァに襲いかかろうとする主を止めようとしましたが、そんな邪魔など気にすることなく、愛人が愛人を求めるように突き進みました。主はビーシュマデーヴァを殺す覚悟でいるように見えますが、実は偉大な献身者である彼を喜ばせようとしていました。主は、言うまでもなく束縛された魂を救うお方です。非人格論者は主から解脱を授かろうとし、主はその熱望に応じて報います。しかしこの節で見られるように、ビーシュマデーヴァは個性ある者としての主の姿を見たいと思っていました。純粋な献身者は誰もがそのような望みを持っているのです。
節
vijaya-ratha-kuṭumbha ātta-totre
dhṛta-haya-raśmini tac-chriyekṣaṇīye
bhagavati ratir astu me mumūrṣor
yam iha nirīkṣya hatā gatāḥ sva-rūpam
dhṛta-haya-raśmini tac-chriyekṣaṇīye
bhagavati ratir astu me mumūrṣor
yam iha nirīkṣya hatā gatāḥ sva-rūpam
訳語
vijaya—アルジュナ; ratha—戦闘馬車; kuṭumbe—あらゆる危険を冒しても守る対象; ātta-totre—右手にむちを持って; dhṛta-haya—馬を操っている; raśmini—手綱; tat-śriyā—美しく立っている; īkṣaṇīye—見ること; bhagavati—人格神に; ratiḥ astu—私の魅力がそう向けられるように; me—私の; mumūrṣoḥ—今まさに死のうとしている者; yam—~である者に; iha—この世界の; nirīkṣya—見つめることで; hatāḥ—死んだ人々; gatāḥ—達して; sva-rūpam—根源の姿。
翻訳
死の瞬間に、私の究極の想いが人格神、シュリー・クリシュナに魅了されますように。アルジュナの戦闘馬車の御者となって、右手にむちを持ち、左手に手綱を持ち、あらゆる手段を尽くしてアルジュナの馬車を守ろうとなさる主に、心を集中させます。クルクシェートラの戦場にいる主を見た者は、死後、根源の姿に到達したのです。
解説
主の純粋な献身者は、自分の内にいつも主を見ています。愛情奉仕を通して崇高な関係で結ばれているからです。一瞬たりとも主を忘れることができません。これが真の恍惚の境地です。神秘家(ヨーギー)は、自分の感覚を一切の物事から切り離して抑制することで、至高の魂に心を集中させ、そして最後にサマーディに到達します。しかし献身者は、主の聖なる御名、名声、遊戯などを思いながら主の姿を瞑想することで、より簡単にサマーディの境地に入ります。ですから、神秘的ヨーギーと献身者の瞑想は同じ段階ではありません。神秘家の瞑想は規則に従うだけの方法ですが、純粋な献身者の瞑想は汚れのない愛情と自然な愛着からなされています。ビーシュマデーヴァは純粋な献身者で、軍の高官として、主をパールタ・サーラティ、つまりアルジュナが乗る戦闘馬車の御者という戦場における主の姿をいつも思っていました。ですから、主のパールタ・サーラティとしての遊戯も永遠です。カンサの宮殿内にある牢獄での誕生から、最後のマウシャラ・リーラーに至るまで、主の崇高な遊戯は時計の針が、ひとつの点から次の点に移るように、全宇宙の中を次々に巡って行われます。そして、そのような遊戯に加わるパーンダヴァやビーシュマのような交流者は、常に永遠の仲間でもあります。ですからビーシュマデーヴァは、アルジュナでさえ見ることができなかった主のパールタ・サーラティの美しい姿を決して忘れませんでした。アルジュナはその美しいパールタ・サーラティの後ろにいましたが、ビーシュマデーヴァは主の目の前にいました。主が戦っている時の姿に関して言えば、ビーシュマデーヴァのほうがアルジュナよりも堪能することができたのです。
クルクシェートラの戦場にいた全ての兵士や人物たちは、戦死した後に本来の精神的姿を得ました。主によるいわれのない慈悲のおかげで、戦場で主と顔を合わせることができたからです。水生生物からブラフマーに至る進化の循環を漂っている束縛された魂たちは、マーヤーの姿、すなわち自分の行動の結果として得た姿、そして物質自然によって与えられた姿の中にいます。束縛された魂の物質的姿は、どれも外側の衣服であり、束縛された魂が物質エネルギーから解放される時、自分本来の姿を得ます。非人格論者は、主のブラフマンの光に入りたがっていますが、主の部分体でもある精神的火花の本質に反する状態です。そのため、非人格論者は再び転落し、精神魂には偽りでしかない物質的姿に入ります。献身者は、魂本来の特質にふさわしい姿として、二本腕、あるいは四本腕をした主の姿のような精神的姿を、ヴァイクンタあるいはゴーローカ惑星で得ます。完全に精神的なこの姿は、生命体のスヴァルーパであり、クルクシェートラの戦場に集まった両軍の兵士は全員、ビーシュマデーヴァが確証したようにスヴァルーパを得ています。ですから、主シュリー・クリシュナは、パーンダヴァ兄弟たちだけに慈悲を授けたわけではありません。戦った全員が同じ結果を得たのですから、他の軍隊も慈悲を授かったのです。ビーシュマデーヴァが主の交流者という立場にあるということに疑いの余地はありませんが、彼は同じ恩恵を主に求め、またそれが彼の主への祈りでもありました。結論は、人格神を心の内で、あるいは目の前に見ながら死ぬ人は全て、人生の最高完成である自分のスヴァルーパを得る、ということです。
節
lalita-gati-vilāsa-valguhāsa-
praṇaya-nirīkṣaṇa-kalpitorumānāḥ
kṛtam anukṛtavatya unmadāndhāḥ
prakṛtim agan kila yasya gopa-vadhvaḥ
praṇaya-nirīkṣaṇa-kalpitorumānāḥ
kṛtam anukṛtavatya unmadāndhāḥ
prakṛtim agan kila yasya gopa-vadhvaḥ
訳語
lalita—魅力的な; gati—動き; vilāsa—魅惑的な行動; valguhāsa—優しい微笑み; praṇaya—愛のこもった; nirīkṣaṇa—~を見つめている; kalpita—心理; urumānāḥ—高く讃えられている; kṛta-manu-kṛta-vatyaḥ—動きをまねて; unmada-andhāḥ—法悦の中で我を忘れて; prakṛtim—特徴; agan—耐えた; kila—確かに; yasya—~である者の; gopa-vadhvaḥ—牛飼いの乙女たち。
翻訳
私の心が主シュリー・クリシュナに固定されますように。主のしぐさ、愛情あふれる微笑みに、ヴラジャダーマの乙女たち[ゴーピーたち]はとりこになり、[主がラーサの踊りから姿を隠した後]その独特のしぐさをまねました。
解説
ヴラジャブーミの乙女たちは、深い恍惚の境地の中で仕えながら、主と同じ境地に入り、主と同じ思いで踊り、夫婦愛で抱擁し、おどけて笑いあったり、愛情を込めて主を見つめたりしました。もちろん、主とアルジュナの関係は、ビーシュマデーヴァのような献身者にとっては讃えるにふさわしいものですが、ゴーピーたちと主の関係ではさらに純粋な愛情が込められているため、さらに讃える価値があります。アルジュナは、主の恩恵を授かり御者として兄弟愛を込めて仕えることができましたが、主と同じ力を授かってはいません。しかしゴーピーたちは、主と同じ境地に入って主とほぼ一体になっています。ゴーピーたちを思い出そうとするビーシュマの思いは、生涯を閉じる時に彼女たちから慈悲を授かろうとする祈りだったのです。主は純粋な献身者が讃えられるほうがより大きな満足感を味わうことから、ビーシュマデーヴァは、自分が愛情をかけたアルジュナの行動を讃えただけではなく、さらに主に比類のない愛情奉仕をする機会に恵まれたゴーピーたちをも思い出しています。ゴーピーと主の対等性は、非人格論者が言うサーユジャの解脱とは全く違います。その対等性は完璧な恍惚の境地のひとつであり、愛する者と愛される者の興味が同じものになるため、互いの異なる考えが完全に消滅します。
節
muni-gaṇa-nṛpa-varya-saṅkule ’ntaḥ-
sadasi yudhiṣṭhira-rājasūya eṣām
arhaṇam upapeda īkṣaṇīyo
mama dṛśi-gocara eṣa āvir ātmā
sadasi yudhiṣṭhira-rājasūya eṣām
arhaṇam upapeda īkṣaṇīyo
mama dṛśi-gocara eṣa āvir ātmā
訳語
muni-gaṇa—偉大で博識な聖者たち; nṛpa-varya—統治する偉大な王たち; saṅkule—盛大な集会で; antaḥ-sadasi—会議; yudhiṣṭhira—皇帝ユディシュティラの; rāja-sūye—盛大な儀式の執行; eṣām—偉大な名士たちの; arhaṇam—敬意を込めた崇拝; upapeda—受けた; īkṣaṇīyaḥ—魅力の対象者; mama—私の; dṛśi—視野; gocaraḥ—~の視野のなか; eṣaḥ āviḥ—自ら出席して; ātmā—その魂。
翻訳
マハーラージャ・ユディシュティラが主宰したラージャスーヤ・ヤジュニャ[儀式]
には、世界中の名士、王族、学識階級者が多数出席し、その盛大な集まりの中で、主シュリー・クリシュナが満場の参加者によって、最も高貴な人格神として崇拝されました。私も同席しており、私の心を主に固定させるためにこの出来事を思い出しています。
には、世界中の名士、王族、学識階級者が多数出席し、その盛大な集まりの中で、主シュリー・クリシュナが満場の参加者によって、最も高貴な人格神として崇拝されました。私も同席しており、私の心を主に固定させるためにこの出来事を思い出しています。
解説
マハーラージャ・ユディシュティラは、クルクシェートラの戦争で勝利をおさめた後、世界の皇帝として、ラージャスーヤの儀式を執行しました。当時の皇帝は王座に就くと、自分の主権を宣言するために世界中の王国に挑戦状を送りつけ、受け取った各国の支配者である王子や王は、服従、不服従のいずれかを、挑戦を受けて立つか無言の快諾かを、自由に選択することができました。挑戦を受けて立つ者は、その皇帝と戦いを交じえ、勝利を収めることで自分の優位性を確立させなくてはなりませんでした。敗北者は命を犠牲にし、地位を別の王や支配者に譲ることになります。マハーラージャ・ユディシュティラもそのような挑戦状を世界中に送り、受け取った王子や王たちはみな、ユディシュティラ王の指導権を世界の皇帝として受け入れたのでした。この後、マハーラージャ・ユディシュティラの体制下にある世界中の支配者たちは、盛大なラージャスーヤの儀式に参加するよう招かれました。その儀式には膨大な資金が必要であり、度量の狭い王が執行できるものではありません。費用がかかりすぎ、また現状では執行が困難となったこのような儀式は、カリ・ユガの現代において執り行うことは不可能です。さらに、儀式を執行できるほど熟達した僧侶を確保することもできません。
こうして、招待された世界中の王や博識な大聖者たちがマハーラージャ・ユディシュティラの住む王都に集結し、その中には偉大な哲学者、宗教家、医者、科学者や偉大な聖者を含む学識者階級の人々がいました。つまり、ブラーフマナとクシャトリヤは社会の筆頭の指導者であり、全員がその集会に参加するよう招かれたということです。ヴァイシャとシュードラはそれほど重要な地位にはいないため、ここでは述べられていません。現代では社会そのものが変化したため、重要な地位にある人々も、職務に応じて変化しています。
この盛大な集会で、主シュリー・クリシュナが万人注視の的になっていました。誰もが主クリシュナを見たいと願い、主に慎ましい敬意を捧げたいと思っていました。ビーシュマデーヴァはこの出来事を全て覚えており、自分の崇拝する主 、人格神が、今目の前に立っていることを嬉しく思いました。このように、至高主の瞑想とは、その活動、姿、遊戯、御名、名声を瞑想することを指します。それは、至高者の姿形のない様相を想像することよりもずっとたやすくできます。『バガヴァッド・ギーター』(12-5)でも、至高者の非人格的様相を瞑想することは困難を極める、と明言されています。またそれは、望んでいる結果はほとんど得られないため、名ばかりの瞑想で、時間の無駄にすぎません。しかし献身者は主の実際の姿や遊戯を瞑想するため、簡単に主に近づくことができます。これは『バガヴァッド・ギーター』(12-9)でも述べられていることです。主と主の崇高な活動との間に、違いはありません。また、主シュリー・クリシュナが地上にいた時、特にクルクシェートラの戦場に関連して、至高人格神としてではなかったとしても、当時最も気高い人物として受け入れられていたと、このシュローカで示されています。偉大な人物が死んだ後に、その人を神として崇拝するという主張は正しくありません。人間は死んでも神にはなれないからです。人格神にしても、地上に降誕したら人間になるというわけではありません。どちらも間違った考えです。神人同形論という考えは、主クリシュナの場合にはあてはまりません。
節
tam imam aham ajaṁ śarīra-bhājāṁ
hṛdi hṛdi dhiṣṭhitam ātma-kalpitānām
pratidṛśam iva naikadhārkam ekaṁ
samadhi-gato ’smi vidhūta-bheda-mohaḥ
hṛdi hṛdi dhiṣṭhitam ātma-kalpitānām
pratidṛśam iva naikadhārkam ekaṁ
samadhi-gato ’smi vidhūta-bheda-mohaḥ
訳語
tam—その人格神; imam—今私の前におられる; aham—私; ajam—生まれることのない; śarīra-bhājām—束縛された魂の; hṛdi—心の中の; hṛdi—心の中の; dhiṣṭhitam—位置して; ātma—至高の魂; kalpitānām—推論家の; pratidṛśam—あらゆる方向に; iva—~のように; na ekadhā—ひとつではない; arkam—太陽; ekam—ひとつだけ; samadhi-gataḥ asmi—私は瞑想して恍惚の境地に入った; vidhūta—~から解放されて; bheda-mohaḥ—二元性という誤解。
翻訳
今私の前に立っておられる唯一の主、シュリー・クリシュナを、私は完全に集中して瞑想することができます。主が全生命体の心の中に、そして推論家の心にさえいるという事実に関して、二元性という誤った認識を克服したからです。主は全ての人々の心におられます。太陽はさまざまな視点から見られるでしょうが、太陽はひとつです。
解説
主シュリー・クリシュナは、唯一の絶対至高人格神ですが、人智を超えた力を使って無数の完全部分体に自らを拡張させました。二元性は、主の想像を絶する力を知らないために生じます。『バガヴァッド・ギーター』(9-11)で主は、愚かな者だけが主を普通の人間だと考える、と言っています。愚かな者は人智を超えた主の力を知りません。その力を通して主は皆の心の中におり、それは太陽が全世界の人々の前に姿を見せている様子に似ています。主のパラマートマーの姿は主の完全拡張体です。人智を超えた力で皆の心の中にパラマートマーとして入ったり、自分の光を拡張させてブラフマジョーティというまばゆい光として自らを拡張させたりします。『ブラフマ・サンヒター』では、ブラフマジョーティは主の体の光であると書かれています。ですから、主と主の体の光、また完全部分体のパラマートマーの間に違いはありません。この事実を知らない知性の乏しい人たちは、ブラフマジョーティとパラマートマーはシュリー・クリシュナとは異なる、と考えます。この二元性という誤解は、ビーシュマデーヴァの心から完全に取り除かれ、今、主シュリー・クリシュナこそがあらゆる様相における全てである、という悟りに満足しています。この悟りは、偉大なマハートマーまたは献身者が到達するもので、『バガヴァッド・ギーター』(7-19)では、ヴァースデーヴァが万物の根源であり、ヴァースデーヴァなくして存在できるものは何もないと言われています。このマハージャナによって確証されているように、ヴァースデーヴァ、すなわち主シュリー・クリシュナは根源の至高者であり、初心の献身者も純粋な献身者もマハージャナの足跡に従わなくてはなりません。それが献身奉仕の継承の道です。
ビーシュマデーヴァが崇拝する対象はパールタ・サーラティとしての主シュリー・クリシュナであり、ゴーピーたちはヴリンダーヴァナにいる同じクリシュナを、最も魅力的なシャーマスンダラとして崇拝します。時に、知性の乏しい学者は、ヴリンダーヴァナのクリシュナと、クルクシェートラの戦場にいるクリシュナを別人と考えたりします。しかしビーシュマデーヴァにこのような誤解はかけらもありません。非人格論者でさえ瞑想をしますが、その対象は非人格的ジョーティ(光)としてのクリシュナであり、ヨーギーが対象にするパラマートマーもクリシュナです。クリシュナはブラフマジョーティや局所に存在するパラマートマーですが、ブラフマジョーティの中にもパラマートマーの中にもクリシュナはいませんし、クリシュナとの甘露のような関係も存在しません。主の個人の姿として、主はパールタ・サーラティやヴリンダーヴァナのシャーマスンダラですが、非人格的姿としては、主はブラフマジョーティやパラマートマーの中にはいません。ビーシュマデーヴァのような偉大なマハートマーは、主シュリー・クリシュナのこれら全ての様相を理解しているため、主クリシュナを全ての姿の根源として崇拝するのです。
節
sūta uvāca
kṛṣṇa evaṁ bhagavati
mano-vāg-dṛṣṭi-vṛttibhiḥ
ātmany ātmānam āveśya
so ’ntaḥśvāsa upāramat
kṛṣṇa evaṁ bhagavati
mano-vāg-dṛṣṭi-vṛttibhiḥ
ātmany ātmānam āveśya
so ’ntaḥśvāsa upāramat
訳語
sūtaḥ uvāca—スータ・ゴースヴァーミーが言った; kṛṣṇe—主クリシュナ、至高人格神; evam—~だけ; bhagavati—主に; manaḥ—心と; vāk—発言; dṛṣṭi—視覚; vṛttibhiḥ—活動; ātmani—至高の魂に; ātmānam—生命体; āveśya—~の中に融合して; saḥ—彼; antaḥ-śvāsaḥ—息を吸っている; upāramat—静かになった。
翻訳
スータ・ゴースヴァーミーが言った:こうしてビーシュマデーヴァは、心、言葉、視覚、行動など全てを至高の魂、主シュリー・クリシュナ、至高人格神に没入させた。やがて静かになり、呼吸が停止した。
解説
ビーシュマデーヴァがその物質的な体から解放される時に到達した境地は、自身を主への思いに没頭させ、主のさまざまな活動を心の中で思い出していたことから、ニルヴィカルパ・サマーディと言われます。主の栄光を唱え、自分の目の前におられる主を見て、やがて意識をそらすことなく全ての活動を主に集中させたのです。これが最も気高い完成の境地であり、献身奉仕を修練すればこの境地に誰でも到達できます。主への献身奉仕には、9種類の奉仕活動があります。(1)聞くこと、(2)唱えること、(3)思い出すこと、(4)蓮華の御足に仕えること、(5)崇拝すること、(6)祈ること、(7)命令を実行すること、(8)親しく交わること、(9)完全に身を委ねること。この中のひとつ、あるいは全てに、望んでいる結果をもたらす力が秘められていますが、熟達した献身者に導かれながら根気よく修練しなくてはなりません。最初の項目である「聞く」という手段は9つのうちで最も重要であるため、生涯を終える時にビーシュマデーヴァと同じ境地を望む志願者はまず『バガヴァッド・ギーター』を聞き、次に『シュリーマド・バーガヴァタム』を聞くことが不可欠です。ビーシュマデーヴァが息を引き取る時の独特の境地に入ることは、主クリシュナがその場にいなくてもできることです。『バガヴァッド・ギーター』あるいは『シュリーマド・バーガヴァタム』にある主の言葉は、主そのものです。これらの聖典は主の音の権化であり、それらを最大限に活用すれば、8人のヴァスであるシュリー・ビーシュマデーヴァの境地に到達する資格を得ることができます。人も動物もいつか死ぬ定めにありますが、ビーシュマデーヴァのように他界する魂は完璧な境地を達成し、自然の法則に強いられて死ぬ魂は動物のように死んでいきます。それが人間と動物の違いです。人間としての生活は、特にビーシュマデーヴァのようにこの世を去っていくためにあるのです。
節
sampadyamānam ājñāya
bhīṣmaṁ brahmaṇi niṣkale
sarve babhūvus te tūṣṇīṁ
vayāṁsīva dinātyaye
bhīṣmaṁ brahmaṇi niṣkale
sarve babhūvus te tūṣṇīṁ
vayāṁsīva dinātyaye
訳語
sampadyamānam—~の中に没入して; ājñāya—このことを知った後; bhīṣmam—シュリー・ビーシュマデーヴァについて; brahmaṇi—至高の絶対者の中に; niṣkale—無限の; sarve—居合わせた全員; babhūvuḥ te—全員が~になった; tūṣṇīm—沈黙して; vayāṃsi iva—鳥のように; dina-atyaye—一日の終わりに。
翻訳
ビーシュマデーヴァが至高の絶対者の無限なる永遠性に入ったことを知り、そこにいたすべての者が、一日の終わりに寝静まった鳥たちのように、静まり返った。
解説
至高の絶対者の無限なる永遠性に入る、あるいは没入する、ということは、生命体のふるさとに入ることを指しています。生命体は絶対人格神の構成部分であるため、仕える者と仕えられる者という絆で主と永遠に結ばれています。機械の部品が機械全体に仕えるように、全ての部分体は、主に仕えています。機械のどの部分であっても、機械全体から離れてしまえば重要ではなくなります。同じように、絶対者のどの部分であっても、主の奉仕から離れてしまえば価値がなくなってしまいます。物質界にいる生命体は全て、至高の全体者から離れた部分であり、本来の部分体の重要性を失っています。しかし、永遠に解放され、主と結ばれている生命体もいます。離れてしまった部分体はドゥルガー・シャクティ、あるいは刑務所の監督者と呼ばれる主の物質エネルギーに動かされ、物質自然の法則に縛られた生活をしています。この事実に気づく生命体が、自分のふるさとへ、神のもとへ帰ろうとすることで、生命体の精神的衝動が高まります。この精神的衝動をブラフマ・ジジュニャーサー、すなわちブラフマンに関する問いと呼びます。おもにこのブラフマ・ジジュニャーサーは、知識、放棄心、主への献身奉仕で達成されます。ジュニャーナ、すなわち知識は、至高者ブラフマン全てに関わる知識を指します。放棄心は物質的感情に対する無執着を指し、また献身奉仕は、修練によって生命体本来の立場をよみがえらせることを指します。絶対者の世界に入る資格を得た生命体をジュニャーニー、ヨーギー、バクタといいます。ジュニャーニーとヨーギーは至高者の姿や形のない光の中に入りますが、バクタはヴァイクンタという精神的惑星に入ります。精神的惑星はナーラーヤナの姿の至高主によって治められ、そこでは健全で束縛されていない生命体が、召使い、友人、両親、恋人などとして主に愛情奉仕をしています。そこでは、束縛されていない生命体たちが、主と完全に自由な生活を満喫していますが、非人格論者のジュニャーニーやヨーギーたちは、ヴァイクンタ惑星から放たれるまばゆい光の中に入っていきます。ヴァイクンタ惑星は太陽のように自ら輝き、その光をブラフマジョーティといいます。ブラフマジョーティは無限に広がっていますが、物質界はその中にある覆われた狭いわずかな一部分にすぎません。その覆いは一時的ですから、幻といってもいいでしょう。
純粋な献身者ビーシュマデーヴァは、ヴァイクンタ惑星のひとつに入りましたが、そこでは主がパールタ・サーラティという永遠の姿で、常に主に仕えている自由な魂たちを統率しています。主と献身者を結びつける愛情と愛着は、ビーシュマデーヴァの生涯を通して示されています。彼はパールタ・サーラティという主の超越的な姿を決して忘れず、主も、彼が超越的世界に向かって他界しようとする時に居合わせました。これが人生の最高完成です。
節
tatra dundubhayo nedur
deva-mānava-vāditāḥ
śaśaṁsuḥ sādhavo rājñāṁ
khāt petuḥ puṣpa-vṛṣṭayaḥ
deva-mānava-vāditāḥ
śaśaṁsuḥ sādhavo rājñāṁ
khāt petuḥ puṣpa-vṛṣṭayaḥ
訳語
tatra—その後; dundubhayaḥ—太鼓; neduḥ—鳴らされた; deva—他の惑星から来た神々たち; mānava—全国から来た人々; vāditāḥ—~で打ち鳴らされて; śaśaṃsuḥ—讃えた; sādhavaḥ—誠実な; rājñām—王族によって; khāt—空から; petuḥ—降らせ始めた; puṣpa-vṛṣṭayaḥ—花の雨。
翻訳
その後、人と神々たちが称賛の意を込めて太鼓を打ちならし、誠実な王族階級は名誉と敬意を表明し始めた。そして空からは花びらが雨のように降り注いだ。
解説
ビーシュマデーヴァは、人類にも神々たちにも尊ばれていました。人類は、ブールとブヴァルの部類に入る、地球や地球に似たような惑星に住んでいますが、神々はスヴァル、すなわち天国の惑星に住み、その住民全てが、ビーシュマデーヴァが名だたる戦士、そして主の献身者であることを知っていました。人間ではありましたが、マハージャナ(権威者)として、ブラフマー、ナーラダ、シヴァの境地にいた人物です。偉大な神々と同じ気質は、精神的な完成を達成した時だけに得ることができます。このように、ビーシュマデーヴァの名は全宇宙に知れ渡っており、また当時、惑星間の移動は不完全な機械の宇宙船ではなく、より発達した手段が使われていました。ビーシュマデーヴァの他界が遠方の惑星に伝えられた時、高位の惑星の住人や地上の住人は、物質界を離れて行った偉大な人物を讃えて雨のように花びらを降らせました。天上から降らされる花びらは、偉大な神々たちによる承認の印であり、死体を飾るだけの花と比較できるものではありません。精神的な完成を達成したビーシュマデーヴァの体からは物質的な影響が全て消え、その体は、鉄が火に熱せられて真っ赤になるのと同じように精神化されました。自己を悟った魂の体は決して物質的ではありません。そのような精神的な体には特別な儀式が執り行われます。そのようなジャヤンティー儀式を俗人にも行うのが流行っていますが、ビーシュマデーヴァへ表された敬意と称賛は、形式的に真似されるべきではありません。権威あるシャーストラによれば、俗人のためのジャヤンティー儀式は、物質的にどれほど高い地位にある人間のためであっても、主への侮辱です。なぜなら、ジャヤンティーは主が地上に降誕した時に執り行われるものだからです。ビーシュマデーヴァの生きざまは比類のないものであり、神の国へ向かって他界したこともたぐいまれな出来事だったのです。
節
tasya nirharaṇādīni
samparetasya bhārgava
yudhiṣṭhiraḥ kārayitvā
muhūrtaṁ duḥkhito ’bhavat
samparetasya bhārgava
yudhiṣṭhiraḥ kārayitvā
muhūrtaṁ duḥkhito ’bhavat
訳語
tasya—彼の; nirharaṇa-ādīni—葬儀; samparetasya—死体の; bhārgava—ブリグの子孫よ; yudhiṣṭhiraḥ—マハーラージャ・ユディシュティラ; kārayitvā—それを執行して; muhūrtam—少しの間; duḥkhitaḥ—悲しんで sorry; abhavat—~になった。
翻訳
ブリグの子孫[シャウナカ]よ。ビーシュマデーヴァの遺体の葬儀を執行した後、つかの間、深い悲しみがマハーラージャ・ユディシュティラを襲った。
解説
ビーシュマデーヴァは、ユディシュティラ王の偉大な家系の長であったばかりでなく、優れた哲学者でもあり、王やその兄弟たち、そして王の母親の友人でもありました。マハーラージャ・ユディシュティラを筆頭とする5人の兄弟の父親であるマハーラージャ・パーンドゥが亡くなった後、パーンダヴァたちにとって、ビーシュマデーヴァは最も情け深い祖父であり、義理の娘で未亡人だったクンティーデーヴィーの世話人でした。マハーラージャ・ユディシュティラの叔父マハーラージャ・ドリタラーシュトラは、兄弟たちの世話をする立場にありましたが、その愛情のほとんどはドゥルヨーダナを始めとする100人の息子に注がれていました。最終的には、ハスティナープラの王国を治める正当な権利を父親のいない兄弟たちから奪うため、巨大な集団が組織されました。王宮ではよく起こる大規模な陰謀がめぐらされ、兄弟たちは荒れ地へ追放されました。しかしマハーラージャ・ユディシュティラにとって、ビーシュマデーヴァは、彼が息を引き取る瞬間まで常に、彼らの幸福を心から願い、そして彼らにとっての祖父、友人、また哲学者であり続けました。そして、ユディシュティラが王座に就いたことを見て心から満足して他界しました。さもなければ、パーンダヴァ兄弟の不当な苦しみを見て苦しむくらいなら、とうの昔に肉体を捨てていたはずです。自分の主であるシュリー・クリシュナが5人を守っていたために、パーンドゥの息子たちがクルクシェートラで勝利を収めることを確信していました。だからこそ、ひたすら絶好の機会を待ち続けていたのです。自分自身が主の献身者であったため、献身者は絶対に、どんな時でも、征服されないことを知っていました。マハーラージャ・ユディシュティラも、ビーシュマデーヴァのそのような誠実な思いをよく知っていましたから、王の惜別の念を察することができます。その悲しみは、ビーシュマデーヴァが捨てた肉体に向けられたものではなく、偉大な魂との別れによるものでした。ビーシュマデーヴァが偉大な魂であったことはいうまでもありませんが、葬儀は必要な義務でした。息子がいなかったことから、偉大な孫マハーラージャ・ユディシュティラがその式を執り行うにふさわしい人物でした。ビーシュマデーヴァにとって、家族の中で自分と同様に偉大な息子が偉人の最後の葬儀を執り行ったことは大きな恩恵だったのです。
節
tuṣṭuvur munayo hṛṣṭāḥ
kṛṣṇaṁ tad-guhya-nāmabhiḥ
tatas te kṛṣṇa-hṛdayāḥ
svāśramān prayayuḥ punaḥ
kṛṣṇaṁ tad-guhya-nāmabhiḥ
tatas te kṛṣṇa-hṛdayāḥ
svāśramān prayayuḥ punaḥ
訳語
tuṣṭuvuḥ—満足して; munayaḥ—ヴィヤーサデーヴァたちを筆頭とする偉大な聖者たち; hṛṣṭāḥ—幸福な気持ちに満たされて; kṛṣṇam—人格神、主クリシュナに; tat—主の; guhya—秘奥な; nāmabhiḥ—主の聖なる御名などで; tataḥ—その後; te—彼らは; kṛṣṇa-hṛdayāḥ—心の中にいつも主クリシュナを思っている人物たち; sva-āśramān—それぞれのすみかに; prayayuḥ—戻った; punaḥ—再び。
翻訳
偉大な聖者たちが秘奥なヴェーダ聖歌を唱え、その場にいた主シュリー・クリシュナをこぞって讃えた。やがて聖者たちは、常に心に主クリシュナを思いつつ、それぞれのすみかに戻っていった。
解説
主の献身者はいつも主の心の中にいて、主も常に献身者の心の中にいらっしゃいます。それが主と献身者の甘い関係です。献身者は汚れのない愛情で奉仕をしているため、その心にはいつも主が住み、主もまた、何をすることも何かを熱望することもありませんが、献身者が幸福になれるようにと忙しくしておられます。自然の法則は普通の生命体の活動と反動を作るためにありますが、主は、献身者たちが正しい道を進むよういつも気遣っています。ですから、彼らは主に直接守られているのです。そして主もまた、唯一献身者からのお世話を受け入れてくださいます。ヴィヤーサデーヴァを筆頭とする聖者たちは献身者であったため、その場にいた主を喜ばせようと、葬儀が終わった後、ヴェーダの聖歌を唱えたのでした。ヴェーダ聖歌は主クリシュナを喜ばせるためにあります。このことは『バガヴァッド・ギーター』(15-15)でも確証されています。全てのヴェーダ、ウパニシャッド、ヴェーダーンタは、主を悟るためだけにあり、全ての聖歌は主だけを讃えるためにあります。そのため聖者たちは、その目的にふさわしく振る舞い、心から満足してそれぞれの住処に戻って行ったのでした。
節
tato yudhiṣṭhiro gatvā
saha-kṛṣṇo gajāhvayam
pitaraṁ sāntvayām āsa
gāndhārīṁ ca tapasvinīm
saha-kṛṣṇo gajāhvayam
pitaraṁ sāntvayām āsa
gāndhārīṁ ca tapasvinīm
訳語
tataḥ—その後; yudhiṣṭhiraḥ—マハーラージャ・ユディシュティラ; gatvā—そこへ行く; saha—~と共に; kṛṣṇaḥ—主; gajāhvayam—ガジャーフヴァヤ・ハスティナープラという名の都; pitaram—自分の叔父(ドリタラーシュトラ)に; sāntvayām āsa—慰めた; gāndhārīm—ドリタラーシュトラの妻; ca—そして; tapasvinīm—女性の苦行僧。
翻訳
その後マハーラージャ・ユディシュティラは、すぐに主シュリー・クリシュナと共に自分の帝都ハスティナープラに戻り、叔父と苦行生活を送る叔母のガーンダーリーを慰めた。
解説
ドゥルヨーダナとその兄弟の両親であるドリタラーシュトラとガーンダーリーは、マハーラージャ・ユディシュティラにとって年長の叔父と叔母にあたります。名高いその夫婦は、クルクシェートラの戦争で息子や孫を失い、マハーラージャ・ユディシュティラに見守られて暮らしていました。耐えがたい喪失感の中で苦しみの日々を送っていた彼らは、苦行者のような生活をしていました。ドリタラーシュトラの叔父であるビーシュマデーヴァの死の知らせは、王と王女にはあまりにも過酷だったことから、マハーラージャ・ユディシュティラによる慰めが必要でした。ユディシュティラ王は自分のすべきことを知っていたため、すぐに主クリシュナと一緒にふたりの元に駆けつけ、悲嘆に暮れていたドリタラーシュトラに優しい言葉をかけたのでした。
ガーンダーリーは、誠実な妻、そして優しい母として暮らしていた女性ですが、力強い神秘的力を備えた苦行者でもありました。夫が盲目であったことから、自分も自ら目隠しをして生活したのです。妻の義務は夫に100%従うことにあります。ガーンダーリーの誠実さは、盲目の夫に死ぬまで従い続けた、という事実に示されています。ゆえに彼女は行動において、偉大な苦行者でした。それだけではなく、100人の息子や孫たちを一度に失った大きな悲しみは、女性にとっては耐えがたいものでした。それでも、その苦しみを苦行者のように耐え忍んできました。女性ではありましたが、その気質はビーシュマデーヴァに劣りません。両者とも『マハーバーラタ』に登場する非凡な人格者たちなのです。
節
pitrā cānumato rājā
vāsudevānumoditaḥ
cakāra rājyaṁ dharmeṇa
pitṛ-paitāmahaṁ vibhuḥ
vāsudevānumoditaḥ
cakāra rājyaṁ dharmeṇa
pitṛ-paitāmahaṁ vibhuḥ
訳語
pitrā—叔父のドリタラーシュトラによって; ca—そして; anumataḥ—その承認を得て; rājā—ユディシュティラ王; vāsudeva-anumoditaḥ—主シュリー・クリシュナに確証されて; cakāra—遂行した; rājyam—王国; dharmeṇa—王族のためにある規範に従って; pitṛ—父親; paitāmaham—先祖; vibhuḥ—~と同じほど偉大な。
翻訳
この後、信仰心のあつい偉大な王マハーラージャ・ユディシュティラは、叔父の承認や主シュリー・クリシュナの支援を受けて、王族の権力を行使した。
解説
マハーラージャ・ユディシュティラは、ただ税金を集めるだけの王ではありませんでした。王としての、父親や精神指導者と変わらない義務を常に意識していました。王は、市民たちが社会的、政治的、経済的、そして精神的に高められるのを見届けなくてはなりません。そのためにも、人間生活は、肉体に閉じ込められた魂が物質の束縛から解放されるためにあることを熟知していなくてはなりません。ですから、市民たちが最高完成の境地に到達できるよう、適切に見守るのが王の義務です。
マハーラージャ・ユディシュティラはこれらの原則に厳正に従い、そのことは次の章で明らかにされていきます。原則に従っただけではなく、政治事情に通じた年老いた叔父からも承認され、さらに『バガヴァッド・ギーター』の哲学を説いた主クリシュナからも支持を受けました。
マハーラージャ・ユディシュティラは理想的な君主であり、正しく訓練されたユディシュティラ王が率いる君主制政府は、人民の、人民による、という現代の共和体制や政府よりもはるかに優れています。一般大衆は、特にカリという現代では、全てシュードラとして生まれ、基本的には生まれが卑しく、正しく訓練されず、不運で、忌まわしい付き合いをしています。人生の最高の完成の目標も知りません。ですから、大衆の投票には価値がなく、そのような無責任な投票で選ばれた人々が、マハーラージャ・ユディシュティラのような責任ある代表者になれるわけがありません。
これで、『シュリーマド・バーガヴァタム』の第1編・第9章、表題「主クリシュナが見届けたビーシュマデーヴァの最期」に関するバクティヴェーダンタの要旨解説を終了します。