シュリーマド・バーガヴァタム 1.9.35
節
sapadi sakhi-vaco niśamya madhye
nija-parayor balayo rathaṁ niveśya
sthitavati para-sainikāyur akṣṇā
hṛtavati pārtha-sakhe ratir mamāstu
nija-parayor balayo rathaṁ niveśya
sthitavati para-sainikāyur akṣṇā
hṛtavati pārtha-sakhe ratir mamāstu
訳語
sapadi—戦場で; sakhi-vacaḥ—友人の命令; niśamya—聞いた後; madhye—~の中で; nija—主自らの; parayoḥ—敵陣を; balayoḥ—力; ratham—馬車; niveśya—~に入って; sthitavati—そこにいる間; para-sainika—敵陣にいる兵士たちの; āyuḥ—寿命; akṣṇā—見渡すことで; hṛtavati—減少させる行為; pārtha—プリター(クンティー)の子アルジュナの; sakhe—友人に; ratiḥ—近い関係; mama—私の; astu—そうなるように。
翻訳
主シュリー・クリシュナは、友人の命令に従い、アルジュナ側とドゥルヨーダナ側の両軍隊が結集したクルクシェートラの戦場に入り、そこにいる間、慈悲のまなざしを投げかけ、敵陣にいる兵士たちの寿命を縮めました。これは、敵兵を見つめるだけでなされています。私の心がそのクリシュナに固定されますように。
解説
『バガヴァッド・ギーター』(1-21〜25)では、アルジュナが完全無欠の主シュリー・クリシュナに対し、両軍の只中に戦闘馬車を進めて、結集した敵兵たちを見終わるまでそこにとどまってほしいと依頼しています。そのように頼まれた主は、まるで命令実行者のようにすぐに従いました。そして主は、敵方にいる重要人物を示しながら「ここにビーシュマがいる、ドローナがいる」と伝えました。主は至高の人物ですから、誰にとっても命令の提供者でも実行者でもありません。なおかつ、いわれのない慈悲心と純粋な献身者に対する情愛から、指図されることを待っている召使いのように、時には献身者の命令に従います。主は献身者の命令に従うことに喜びを感じているのであり、それは父親が幼い我が子の言われるままにして喜んでいるような心境です。これは、主と献身者の純粋で超越的な愛情があってこそ可能になることで、ビーシュマデーヴァにはそのことがよく分かっていました。だからこそ、主を「アルジュナの友」と呼んだのです。
主は、慈悲深いまなざしを向けて敵兵たちの寿命を縮めました。クルクシェートラの戦場に集まった兵士たちは、死ぬ時に主を目にしたことで解脱を達成したと言われています。ですから、アルジュナの敵兵たちの寿命を短くしたのは、アルジュナのためというわけでありません。兵士たちが普段の生活のなかで死んでも解脱は達成できなかったのですから、主は彼らにも慈悲を授けたのです。死ぬ時に主を見る機会に恵まれ、物質生活から解放された、ということです。ですから、主は善なるお方であり、すること全てが万民の益になります。戦争の結果から見れば親友のアルジュナの勝利でしたが、実はアルジュナの敵兵にも恩恵は授けられていました。それが主の超越的な活動であり、このことを理解する人は誰でも、肉体を終えた後に解脱の境地に入っていきます。主は常に完璧で善なるお方ですから、どのような状況でも間違ったことはしません。