シュリーマド・バーガヴァタム 1.9.40
節
lalita-gati-vilāsa-valguhāsa-
praṇaya-nirīkṣaṇa-kalpitorumānāḥ
kṛtam anukṛtavatya unmadāndhāḥ
prakṛtim agan kila yasya gopa-vadhvaḥ
praṇaya-nirīkṣaṇa-kalpitorumānāḥ
kṛtam anukṛtavatya unmadāndhāḥ
prakṛtim agan kila yasya gopa-vadhvaḥ
訳語
lalita—魅力的な; gati—動き; vilāsa—魅惑的な行動; valguhāsa—優しい微笑み; praṇaya—愛のこもった; nirīkṣaṇa—~を見つめている; kalpita—心理; urumānāḥ—高く讃えられている; kṛta-manu-kṛta-vatyaḥ—動きをまねて; unmada-andhāḥ—法悦の中で我を忘れて; prakṛtim—特徴; agan—耐えた; kila—確かに; yasya—~である者の; gopa-vadhvaḥ—牛飼いの乙女たち。
翻訳
私の心が主シュリー・クリシュナに固定されますように。主のしぐさ、愛情あふれる微笑みに、ヴラジャダーマの乙女たち[ゴーピーたち]はとりこになり、[主がラーサの踊りから姿を隠した後]その独特のしぐさをまねました。
解説
ヴラジャブーミの乙女たちは、深い恍惚の境地の中で仕えながら、主と同じ境地に入り、主と同じ思いで踊り、夫婦愛で抱擁し、おどけて笑いあったり、愛情を込めて主を見つめたりしました。もちろん、主とアルジュナの関係は、ビーシュマデーヴァのような献身者にとっては讃えるにふさわしいものですが、ゴーピーたちと主の関係ではさらに純粋な愛情が込められているため、さらに讃える価値があります。アルジュナは、主の恩恵を授かり御者として兄弟愛を込めて仕えることができましたが、主と同じ力を授かってはいません。しかしゴーピーたちは、主と同じ境地に入って主とほぼ一体になっています。ゴーピーたちを思い出そうとするビーシュマの思いは、生涯を閉じる時に彼女たちから慈悲を授かろうとする祈りだったのです。主は純粋な献身者が讃えられるほうがより大きな満足感を味わうことから、ビーシュマデーヴァは、自分が愛情をかけたアルジュナの行動を讃えただけではなく、さらに主に比類のない愛情奉仕をする機会に恵まれたゴーピーたちをも思い出しています。ゴーピーと主の対等性は、非人格論者が言うサーユジャの解脱とは全く違います。その対等性は完璧な恍惚の境地のひとつであり、愛する者と愛される者の興味が同じものになるため、互いの異なる考えが完全に消滅します。