シュリーマド・バーガヴァタム 1.9.38

śita-viśikha-hato viśīrṇa-daṁśaḥ
kṣataja-paripluta ātatāyino me
prasabham abhisasāra mad-vadhārthaṁ
sa bhavatu me bhagavān gatir mukundaḥ

訳語

翻訳

解脱の境地を授ける人格神、主シュリー・クリシュナが、私の究極の目的となりますように。私が放った鋭い矢で傷つけられて逆上したかのように、主は戦場で私に襲い掛かりました。主の盾は砕け散り、主の体は傷から流れ出した血で真っ赤に染まっていました。

解説

クルクシェートラの戦場での主クリシュナとビーシュマデーヴァの駆け引きは、実に興味深いものです。一見主シュリー・クリシュナは、アルジュナには惜しみなく愛情をかけ、ビーシュマデーヴァには敵意をむき出しているように見えました。しかしこれは、主の偉大な献身者であるビーシュマデーヴァに対する特別な恩恵を示す行為だったのです。このような駆け引きが示す驚くべきことは、献身者が敵の役割を演じることで、主を喜ばせることができるということです。主は絶対的なお方ですから、敵を装う純粋な献身者からでも奉仕を受け取ることができます。至高主に敵がいるはずもなく、また敵にとっても主はアジタ、すなわち征服できないお方であるため、傷つけることさえできません。それでも主は、純粋な献身者がまるで敵のように主をたたいたり、立場が上であるかのように主を叱ったりすると、主より優れた者はいなくても、喜びを感じます。これらは、献身者と主との超越的なやりとりの形のひとつです。純粋な献身奉仕について何も知らなければ、そのような不思議な愛情交換を理解することはできません。ビーシュマデーヴァは剛勇の戦士として行動し、意図的に主の体を矢で射貫きました。一般の人には主を傷つける行為に見えますが、実は献身者でない人たちを当惑させるための行動だったのです。完全に精神的な体が傷つけられることはなく、献身者が主の敵になることもありません。ビーシュマデーヴァがそう思っていたとしたら、その主を人生の究極の目的として望むはずがありません。ビーシュマデーヴァが本当の敵なら、主クリシュナは指ひとつ動かさずに彼を殺すこともできます。血まみれの傷ついた体でビーシュマデーヴァの前に立ちはだかる必要もありません。しかし主はそうなさいました。戦士である献身者が、純粋な献身者によって負わされた傷で飾られた主の超越的な美しさを見たいと望んだからこそ、そのような行動を取ったのです。これが、超越的なラサの交換、つまり主と召使いの関係です。主と献身者がそのように接することで、両者のそれぞれの立場が讃えられるのです。主のあまりの怒りをみて、アルジュナはビーシュマデーヴァに襲いかかろうとする主を止めようとしましたが、そんな邪魔など気にすることなく、愛人が愛人を求めるように突き進みました。主はビーシュマデーヴァを殺す覚悟でいるように見えますが、実は偉大な献身者である彼を喜ばせようとしていました。主は、言うまでもなく束縛された魂を救うお方です。非人格論者は主から解脱を授かろうとし、主はその熱望に応じて報います。しかしこの節で見られるように、ビーシュマデーヴァは個性ある者としての主の姿を見たいと思っていました。純粋な献身者は誰もがそのような望みを持っているのです。