節
訳語
翻訳
解説
第3章
クリシュナは全ての化身の源である
節
sūta uvāca
jagṛhe pauruṣaṁ rūpaṁ
bhagavān mahad-ādibhiḥ
sambhūtaṁ ṣoḍaśa-kalam
ādau loka-sisṛkṣayā
jagṛhe pauruṣaṁ rūpaṁ
bhagavān mahad-ādibhiḥ
sambhūtaṁ ṣoḍaśa-kalam
ādau loka-sisṛkṣayā
訳語
sūtaḥ uvāca—スータが言った; jagṛhe—受け入れた; pauruṣam—プルシャ化身としての完全分身; rūpam—姿; bhagavān—人格神; mahat-ādibhiḥ—物質界の構成物質を使って; sambhūtam—こうして~が創造された; ṣoḍaśa-kalam—16の主要原則; ādau—始めに; loka—各宇宙; sisṛkṣayā—創造する意図で。
翻訳
スータが言った:主は、創造の初期に、まずプルシャ化身という宇宙体に自らを拡張させ、物質界の創造に必要な構成要素を作った。こうして、物質の機能に必要な16の原則が、最初に作られた。これは、物質宇宙を創造するためになされたのである。
解説
『バガヴァッド・ギーター』は、人格神、シュリー・クリシュナが、自らを完全拡張体に拡張させて物質宇宙を維持している、と述べています。つまり、このプルシャの姿はこの同じ原則を確証しています。根源の人格神、ヴァースデーヴァ、すなわちヴァスデーヴァ王の子、あるいは養父ナンダ王の子として名高い主クリシュナは、全ての富、全ての力、全ての名声、全ての美しさ、全ての知識、全ての放棄心を完全に備えています。主の富の一部は姿形の無いブラフマン、別の一部はパラマートマーとして表れています。人格神、シュリー・クリシュナのこのプルシャの姿は、主の根源のパラマートマーの表れです。物質界の創造には3人のプルシャが関わりますが、このカーラノーダカシャーイー・ヴィシュヌという名の姿が最初のプルシャです。別のふたりのプルシャは、ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌとクシーローダカシャーイー・ヴィシュヌで、後に説明されます。無数の宇宙がカーラノーダカシャーイー・ヴィシュヌの体の毛穴から作り出され、主はその全ての宇宙にガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌとして入ります。
『バガヴァッド・ギーター』のなかで、物質界は一定の期間を置いて創造され、やがて破壊される、と述べられています。創造と破壊は至高者の意志で起こりますが、それは束縛された魂たち、ニッティヤ・バッダのために行われます。ニッティヤ・バッダ、つまり永遠に束縛された魂は自分固有の意識、すなわちアハンカーラを持ち、その意識が魂を感覚の満足に誘います。しかし、その満足はもともと魂には味わえないものです。主だけが楽しむ側であり、他の生命体は全て楽しまれる側です。生命体は支配されることを楽しみます。ところが、永久に束縛されている魂はこの本来の立場を忘れ、自分が楽しみたいと強く望んでいます。束縛された魂には、物質界の中で物質を楽しむ機会が与えられていると同時に、自分本来の立場を理解する機会も与えられています。物質界で幾度となく誕生を繰り返した後に真理を悟り、ヴァースデーヴァの蓮華の御足に身を委ねた幸運な生命体は、永遠に解放された魂の仲間入りをし、神の国に入ることを許されます。そのような幸運な魂は、作っては壊される物質創造界に戻ってくることはありません。しかし、真理に巡り合えない魂たちは、物質界が破壊される時に再びマハット・タットヴァに入っていきます。そして創造が再開される時にマハット・タットヴァは解き放たれます。マハット・タットヴァには束縛された魂を含む、物質現象界に必要な全ての構成要素が備わっています。主にマハット・タットヴァは、5つの粗雑な物質要素と11の道具、すなわち感覚の16要素に分けられます。マハット・タットヴァは、例えるならば快晴の空に浮かぶ雲です。精神界では、ブラフマンの光が満ちあふれ、全てが崇高な光でまばゆく輝いています。マハット・タットヴァは、広大かつ無限な精神界の一部に現れ、そのマハット・タットヴァで覆われた部分が物質界と呼ばれます。精神界に出現するこの部分には、精神界全体と比べれば微々たる領域にすぎませんが、無数の宇宙が漂っています。この宇宙は全てカーラノーダカシャーイー・ヴィシュヌ、すなわちマハー・ヴィシュヌによって一度に創り出されます。マハー・ヴィシュヌは、マハット・タットヴァを一瞥するだけで物質界に命を吹き込みます。
節
yasyāmbhasi śayānasya
yoga-nidrāṁ vitanvataḥ
nābhi-hradāmbujād āsīd
brahmā viśva-sṛjāṁ patiḥ
yoga-nidrāṁ vitanvataḥ
nābhi-hradāmbujād āsīd
brahmā viśva-sṛjāṁ patiḥ
訳語
yasya—誰の; ambhasi—水の中に; śayānasya—横たわっている; yoga-nidrām—瞑想しつつ眠っている; vitanvataḥ—つかさどっている; nābhi—へそ; hrada—池から; ambujāt—蓮華の花から; āsīt—表された; brahmā—生命体の祖父; viśva—宇宙; sṛjām—設計者たち; patiḥ—主人。
翻訳
そのプルシャは宇宙の水に横たわり、プルシャのへその池から蓮華の茎が伸びている。そしてその花の最上部に、宇宙の全ての設計者の筆頭であるブラフマーが誕生する。
解説
最初のプルシャはカーラノーダカシャーイー・ヴィシュヌで、その体の毛穴から無数の宇宙が放出されます。そしてプルシャは次に、ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌとして各宇宙に入ります。ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌは自分の体から出た水で宇宙の半分を満たし、その上に横たわります。ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌのへそからは蓮華の茎が伸び、その花がブラフマーの誕生地になります。ブラフマーは全生物の父であり、宇宙の秩序を完璧に設計し、機能させる管理者である神々たちの主人でもあります。その蓮華の茎の中に14段階の天体系が存在し、俗界の惑星はその中間に位置しています。その上部にはさらに優れた天体系があり、頂点にブラフマローカ、別名サッティヤローカがあります。俗界の天体系の下には、アスラや同類の物質主義的な生物が住む7つの低次の天体系があります。
ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌから、全ての生命体のパラマートマーの集合体であるクシーローダカシャーイー・ヴィシュヌが拡張されます。このヴィシュヌはハリとも呼ばれ、この方から宇宙の全ての化身が拡張されます。
結論として、プルシャ・アヴァターラには3つの様相があると言えます。最初はマハット・タットヴァの中に集合的な物質構成要素を創るカーラノーダカシャーイー・ヴィシュヌ、2番目が各宇宙に入るガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌ、そして3番目が全ての有機、そして無機の物質に入るパラマートマーであるクシーローダカシャーイー・ヴィシュヌです。人格神のこうした完全分身の姿を知っている人は、神を正しく知っているということであり、その人物は、『バガヴァッド・ギーター』が確証しているように、生老病死という物質の束縛から救われます。
このシュローカでは、マハー・ヴィシュヌについて要約されています。マハー・ヴィシュヌは、自らの意志で精神界の一部分に横たわります。カーラナの海に横たわる主がそこから物質自然界を一瞥すると、マハット・タットヴァがたちどころに創造されます。こうして主の力によってエネルギーを帯びた物質自然が無数の宇宙を作り出します。それは木が無数の熟した果物で木全体を飾っていく様子に似ています。木やツルの種は栽培者によって植えられ、やがて生長して多くの果物を実らせていきます。原因がなければ何も起こりません。そのことから、カーラナの海は「原因の海」と呼ばれます。カーラナは「原因」という意味です。無神論者が説く宇宙創造説を受け入れるのは愚かなことです。彼らの理論は『バガヴァッド・ギーター』で述べられています。無神論者は創造者の存在を信じませんが、創造について納得のいく説明はできません。物質自然界はプルシャの力を借りなければ何も作り出せません。いわば、プラクリティすなわち女性は、プルシャすなわち男性との関係なくして子どもを作り出せないのと同じです。プルシャが受胎させ、プラクリティが産むのです。ヤギの首にぶらさがっている肉質の袋は乳首のついた乳房に見えますが、そこからミルクは出ません。同じように、物体そのものに創造力があると考えてはなりません。プラクリティ、すなわち自然を受胎させるプルシャの創造力を信じなくてはならないのです。主が瞑想をしながら横たわりたい、と考えたからこそ、物質エネルギーが無数の宇宙を作り出し、それらの宇宙全てに主が横たわり、全ての惑星やさまざまな物質素材が主の意志によって瞬時に作られました。主には無限の力があり、自ら手を下すことなく、完璧な計画によって思うままに行動することができます。主より優れている者も、主に等しい者もいません。それがヴェーダの見解です。
節
yasyāvayava-saṁsthānaiḥ
kalpito loka-vistaraḥ
tad vai bhagavato rūpaṁ
viśuddhaṁ sattvam ūrjitam
kalpito loka-vistaraḥ
tad vai bhagavato rūpaṁ
viśuddhaṁ sattvam ūrjitam
訳語
yasya—~の人の; avayava—拡張体; saṃsthānaiḥ—~に位置して; kalpitaḥ—想像される; loka—居住者たちの惑星; vistaraḥ—さまざまな; tat vai—しかしそれは~である; bhagavataḥ—人格神の; rūpam—姿; viśuddham—純粋に; sattvam—存在; ūrjitam—優れた。
翻訳
全宇宙の天体系はプルシャの拡張体の上にあるとされているが、主はその創造された物質の構成要素には全く関わりがない。主の体に終わりはなく、極めて優れた精神的な存在である。
解説
至高絶対真理のヴィラーット・ルーパ、あるいはヴィシュヴァ・ルーパの概念は、主の超越的な姿をどうしても思い浮かべることのできない初心者のために用意されています。そのような人にとって、姿形というものは物質界に存在するもので、だからこそ、主の拡張されたエネルギーに心を集中するためにはまず、絶対真理とは反対の概念が必要なのです。上記のように、主は自らの力をマハット・タットヴァという形で拡張させ、その中には物質構成要素が全て含まれています。主の力の拡張体と主自身とはある意味では同じですが、同時にマハット・タットヴァと主は異なります。つまり主の力と主は、同時に同じで異なるということです。そのため、特に非人格論者にとって、ヴィラーット・ルーパは、主の永遠の姿と同じなのです。主の永遠な姿は、マハット・タットヴァが創造される前から存在していたため、この節では、主の永遠な姿は完全に精神的、あるいは物質自然界を超越している、と強調されています。その超越的な姿は主の内的勢力によって現され、主の多種多様な化身は、マハット・タットヴァとは全く関係のない超越的な性質を備えています。
節
paśyanty ado rūpam adabhra-cakṣuṣā
sahasra-pādoru-bhujānanādbhutam
sahasra-mūrdha-śravaṇākṣi-nāsikaṁ
sahasra-mauly-ambara-kuṇḍalollasat
sahasra-pādoru-bhujānanādbhutam
sahasra-mūrdha-śravaṇākṣi-nāsikaṁ
sahasra-mauly-ambara-kuṇḍalollasat
訳語
paśyanti—見る; adaḥ—プルシャの姿; rūpam—姿; adabhra—完璧な; cakṣuṣā—目によって; sahasra-pāda—何千もの足; ūru—太もも; bhuja-ānana—手と顔; adbhutam—素晴らしい; sahasra—何千もの; mūrdha—頭; śravaṇa—耳; akṣi—目; nāsikam—鼻; sahasra—何千もの; mauli—花輪; ambara—衣服; kuṇḍala—耳飾り; ullasat—全て輝いている。
翻訳
献身者は、完璧な目を通して、何千もの足、太もも、腕と顔を持つプルシャの人知を絶した超越的な姿を見ることができる。その姿は無数の頭、耳、目と鼻を備え、それぞれが王冠やきらめくイヤリングで飾られ、体に掛けられた花輪がその美しさを際立たせている。
解説
今の私たちの物質的な感覚では、超越的な主を知覚することは不可能です。私たちが今持っている感覚を献身奉仕によって正すべきであり、そうすれば、主は自ら、私たちに姿を現してくださいます。『バガヴァッド・ギーター』では、超越的な主は純粋な献身奉仕によってのみ知覚することができる、と断言されています。またヴェーダ経典も、献身奉仕だけが私たちを主の元に導き、主を私たちに示すことができる、と述べています。『ブラフマ・サンヒター』でも、主は献身奉仕に専念している献身者の目にいつも見えている、と言われています。ですから主の崇高な姿に関する情報は、献身奉仕を通して完璧な目で実際に主を見ている人物から得なくてはなりません。この物質世界でも、私たちの目がいつでも何でも見られるとは限りません。実際に見た人から、あるいは実際の体験を持つ人を通して、物事を見ることがあります。一般的なことでもそう言えるのであれば、超越的な物事ならまさにその手段が当てはまるはずです。ですから忍耐強くありさえすれば、絶対真理とそのさまざまな姿に関する超越的な教えが理解できます。初心者には主の姿は見えないでしょうが、優れた奉仕をする召使はその超越的な姿を見ることができるのです。
節
etan nānāvatārāṇāṁ
nidhānaṁ bījam avyayam
yasyāṁśāṁśena sṛjyante
deva-tiryaṅ-narādayaḥ
nidhānaṁ bījam avyayam
yasyāṁśāṁśena sṛjyante
deva-tiryaṅ-narādayaḥ
訳語
etat—これ(姿); nānā—多種多様な; avatārāṇām—化身の; nidhānam—源; bījam—種; avyayam—不滅の; yasya—人の; aṃśa—完全分身; aṃśena—完全分身の部分; sṛjyante—創造する; deva—神々たち; tiryak—動物; nara-ādayaḥ—人類、その他。
翻訳
この姿[プルシャの2番目の姿]は根源であり、また宇宙にある多種多様な化身の不滅の種である。この姿の一部分体から、神々や人類、そしてその他のさまざまな生物が創造される。
解説
プルシャは、マハット・タットヴァの中に無数の宇宙を創造した後、2番目のプルシャのガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌとなって各宇宙に入ります。宇宙に暗闇と空間だけが広がり、身を横たえる場所のない状態であることを見たガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌは、自らの体の汗である水で宇宙の半分を満たし、その水の上に横たわります。この水をガルボーダカといいます。次に、主のへそから蓮華の茎が生え、咲いた蓮華の花の上に、宇宙の管理の筆頭者であるブラフマーが誕生します。ブラフマーが宇宙の設計者になり、主自らがヴィシュヌとして宇宙を維持します。ブラフマーはプラクリティのラジョー・グナ、つまり激性によって創造され、ヴィシュヌは徳性の主になりました。ヴィシュヌは物質的な質を完全に超えているため、物質的な愛着を超越しています。このことはすでに説明した通りです。ブラフマーからは、無知あるいは暗闇の性質を管轄するルドラ(シヴァ)が創造されます。シヴァは、主の意志に従って宇宙全体を破壊します。ゆえに、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァという3人の主宰神はガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌの化身です。ブラフマーからは、宇宙内の生物を作り出すダクシャ、マリーチ、マヌをはじめとする多くの神々たちが現れます。ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌは、ヴェーダ経典の『ガルバ・ストゥティ』という聖歌で、何千もの頭を持つ主、などの記述で讃えられています。ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌは宇宙の主で、宇宙の中に横たわってはいますが、常に超越的な境地にあります。このこともすでに説明した通りです。ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌの完全分身であるヴィシュヌは、宇宙内の生物の至高の魂で、宇宙の維持者、すなわちクシーローダカシャーイー・ヴィシュヌとして知られています。これが、根源のプルシャから現れる3つの姿に関する説明です。また、宇宙の全ての化身はこのクシーローダカシャーイー・ヴィシュヌから出現します。
さまざまな時代にさまざまな化身が現れ、中にはマツヤ、クールマ、ヴァラーハ、ラーマ、ヌリシンハ、ヴァーマナなど、その名を知られた化身が登場しますが、その数は無数です。このような化身はリーラー化身と呼ばれています。次に、質的化身としてブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ(あるいはルドラ)が現れ、物質自然の性質を管理します。
主ヴィシュヌはまさに人格神そのお方です。主シヴァは人格神と生命体(ジーヴァ)の中間的な立場にあります。ブラフマーは常にジーヴァ・タットヴァです。最も高尚な生命体、つまり主の最も高尚な献身者は主から創造するための力を授かり、ブラフマーと名づけられます。主ブラフマーの力は、貴重な石や宝石に反射している太陽の力に似ています。ブラフマーの地位に就けるほどの生命体がいないときには、主自らがブラフマーとなって、その地位に就きます。
主シヴァは普通の生命体ではありません。主の完全部分体ですが、物質自然と直接関わっているため、主ヴィシュヌと全く同じ超越的な立場にいるのではありません。その違いは、牛乳と凝乳に例えられます。凝乳も乳製品ですが、牛乳の代用品として使うことはできません。
次の化身はマヌです。ブラフマーの一日(地球の太陽年で430万年×千年)に14人のマヌが現れます。つまり、ブラフマーの1ヶ月に420人のマヌが、1年間に5,040人のマヌが現れるということです。さらに、ブラフマーは百年間生きますから、ブラフマーの一生涯に5,040人×100年のマヌ、つまり504,000人のマヌが現れることになります。宇宙の数は無数で、各宇宙にブラフマーがひとり誕生し、その全てがプルシャの一呼吸の間に創造され、破壊されます。このように、プルシャの一呼吸の間にどれほど多くのマヌが現れるかが容易に想像できます。
この宇宙内で名の知れたマヌは以下のとおりです。スヴァーヤンブヴァ・マヌとしてのヤジュニャ、スヴァーローチシャ・マヌとしてのヴィブ、ウッタマ・マヌとしてのサッティヤセーナ、タマーサ・マヌとしてのハリ、ライヴァタ・マヌとしてのヴァイクンタ、チャークシュシャ・マヌとしてのアジタ、ヴァイヴァスヴァタ・マヌとしてのヴァーマナ(現在はヴァイヴァスヴァタ・マヌ)、サーヴァルニ・マヌとしてのサールヴァバウマ、ダクシャ・サーヴァルニ・マヌとしてのリシャバ、ブラフマ・サーヴァルニ・マヌとしてのヴィシュヴァクセーナ、ダルマ・サーヴァルニ・マヌとしてのダルマセートゥ、ルドラ・サーヴァルニ・マヌとしてのスダーマー、デーヴァ・サーヴァルニ・マヌとしてのヨーゲーシュヴァラ、インドラ・サーヴァルニ・マヌとしてのブリハドバーヌ。これらが上記のように43億太陽年間に現れる14人のマヌです。
さらに、時代ごとに現れるユガーヴァターラの化身がいます。そのユガは、サッティヤ・ユガ、トレーター・ユガ、ドヴァーパラ・ユガ、カリ・ユガの4つに分けられます。各ユガの化身はそれぞれ異なる肌の色で降誕します。それらの色は白、赤、黒と黄色です。ドヴァーパラ・ユガで主クリシュナは黒い肌で現れ、カリ・ユガで主チャイタニヤは黄金の肌で降誕されました。
このように、主の化身は全て啓示経典に書かれています。詐欺師が化身のふりをしても見破られる、ということです。化身というのであればシャーストラの記述と一致していなければなりません。一方、本当の化身は自分を主の化身であるとは公言しません。しかし偉大な聖者たちは啓示経典にある兆候を参考にして、化身であることを確認します。化身の姿や、その特定の使命については啓示経典に記載されています。
直接の化身の他に、力を授かった化身も無数に現れ、そのことも啓示経典が述べています。その化身は直接または間接的に力を授かっています。直接力を授かっている場合は化身と呼ばれますが、間接的に力を授かった化身をヴィブーティといいます。直接力を授かった化身には、クマーラたち、ナーラダ、プリトゥ、シェーシャ、アナンタなどがいます。ヴィブーティについては『バガヴァッド・ギーター』の「ヴィブーティ・ヨーガ」の章で明記されています。そして、これらさまざまな種類の化身全てが、ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌから拡張されているのです。
節
sa eva prathamaṁ devaḥ
kaumāraṁ sargam āśritaḥ
cacāra duścaraṁ brahmā
brahmacaryam akhaṇḍitam
kaumāraṁ sargam āśritaḥ
cacāra duścaraṁ brahmā
brahmacaryam akhaṇḍitam
訳語
saḥ—その; eva—確かに; prathamam—最初の; devaḥ—至高主; kaumāram—クマーラ(未婚)という名の; sargam—創造; āśritaḥ—~の下で; cacāra—実行した; duścaram—実行するのが困難な; brahmā—ブラフマンとして; brahmacaryam—絶対者(ブラフマン)を悟るための戒律に従って; akhaṇḍitam—壊れることのない。
翻訳
まず、創造の初期にブラフマーの未婚の息子たち[クマーラたち]がいた。彼らは独身の誓いを立て、絶対真理を悟るために厳しい苦行を修練した。
解説
物質界の創造は、発生し、維持され、そして一定期間後、再び破壊されます。そのため各宇宙は、物質界の生物の父ブラフマーの種類に応じてさまざまな名称で呼ばれます。この節で言及されているクマーラたちは、物質界のカウマーラ創造期に現れ、ブラフマンの悟りを広めるために未婚男性が修練する厳しい戒律に従いました。このクマーラたちは力を授けられた化身です。彼らはこの戒律を実践する前に、正しい資質を備えたブラーフマナになっています。つまり、ブラフマンを悟るのに必要な資格はブラーフマナの家庭に誕生することではなく、ブラーフマナとしての正しい資質を身につける、ということです。その資質があってこそ、ブラフマンを悟る方法を実践することができるのです。
節
dvitīyaṁ tu bhavāyāsya
rasātala-gatāṁ mahīm
uddhariṣyann upādatta
yajñeśaḥ saukaraṁ vapuḥ
rasātala-gatāṁ mahīm
uddhariṣyann upādatta
yajñeśaḥ saukaraṁ vapuḥ
訳語
dvitīyam—2番目; tu—しかし; bhavāya—繁栄のために; asya—この地球の; rasātala—最下等の領域の; gatām—行った; mahīm—地球; uddhariṣyan—持ち上げて; upādatta—確立した; yajñeśaḥ—所有者または至高の享楽者; saukaram—豚のような; vapuḥ—化身。
翻訳
全ての儀式の結果を楽しむ最高の人物は、イノシシの化身(2番目の化身)の姿となって、地球の繁栄のために、地球を宇宙の下部から救い上げた。
解説
この節は、人格神の各化身が行う特定の使命について記述しています。使命を持たない化身は存在せず、その使命は常に俗世界を超越しています。このような使命を遂行することは、どんな生き物であっても不可能なことです。このイノシシの化身の使命は、地球を冥王星の不潔な領域から救い上げることにありました。イノシシはよく汚いところから物を取り出しますが、あらゆる力を持つ人格神は、地球をそのような不潔な領域に隠したアスラたちに対抗してこの驚嘆すべき神業を見せたのです。人格神に不可能なことはなく、たとえ主がイノシシの姿になっても、常に超越的な境地にいらっしゃり、献身者に崇拝されるのです。
節
tṛtīyam ṛṣi-sargaṁ vai
devarṣitvam upetya saḥ
tantraṁ sātvatam ācaṣṭa
naiṣkarmyaṁ karmaṇāṁ yataḥ
devarṣitvam upetya saḥ
tantraṁ sātvatam ācaṣṭa
naiṣkarmyaṁ karmaṇāṁ yataḥ
訳語
tṛtīyam—3番目; ṛṣi-sargam—リシたちの時代; vai—確かに; devarṣitvam—神々たちの中のリシの化身; upetya—受け入れて; saḥ—彼; tantram—ヴェーダの解説; sātvatam—とくに献身奉仕のためにあるもの; ācaṣṭa—集めた; naiṣkarmyam—結果が生じない; karmaṇām—活動の; yataḥ—それから。
翻訳
人格神はリシたちの時代に、神々たちの間で聖者として知られるデーヴァリシ・ナーラダという姿で、力を授かった3番目の化身として現れた。ナーラダは献身奉仕について説き、また結果の生じない活動を勧めているヴェーダの解説を集大成した。
解説
偉大なリシ(聖者)であるナーラダは人格神に力を授けられた化身で、全宇宙に献身奉仕を広めています。全宇宙のさまざまな惑星や生物の間で知られた主の偉大な献身者たちは、全てナーラダの弟子です。シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは『シュリーマド・バーガヴァタム』の編集者であり、またナーラダの弟子でもあります。またナーラダは、主への献身奉仕について特筆しているヴェーダの解説書『ナーラダ・パンチャラートラ』の筆者でもあります。『ナーラダ・パンチャラートラ』は、果報的活動者、すなわちカルミーが果報的活動の束縛から解放されるよう指導しています。束縛された魂は、汗水流して働いて人生を楽しみたいと思っているため、結果を求めて働くことに引き付けられています。物質宇宙はそのような生き方をする生命体であふれています。果報的活動には、経済を発展させようとするあらゆる計画が含まれています。しかし自然の法則が作用するために、どのような活動にも結果が生じ、行為者は良い結果と悪い結果の両方に縛られます。良い活動の結果はそれ相応の物質的な繁栄として現れ、一方で悪い活動の結果はそれ相応の物質的な苦しみという形で現れます。しかしいずれにしても、物中心の生活には、いわゆる幸福であっても苦しみであっても、結局は苦しみを味わうためだけにあるものです。愚かな物質主義者は、制約のない境地で味わえる永遠の幸福について何も知りません。シュリー・ナーラダはこのような愚かな果報的活動者に真の幸福を悟る方法を教え、そして現世の行動を通して精神的な解放の道に向かえるよう、世界中の病める人々を導いています。医師は、乳製品の取りすぎで消化不良に苦しむ患者に凝乳という別の乳製品を勧めます。病気の原因と治療法は同じかもしれませんが、その処方箋はナーラダのような卓越した知識を持つ医師から受けなくてはなりません。『バガヴァッド・ギーター』も、自分の労働の結果を通して主に仕えるという同じ解決法を説いています。その方法が私たちをナイシュカルミャ、すなわち解脱の道へと導いてくれるのです。
節
turye dharma-kalā-sarge
nara-nārāyaṇāv ṛṣī
bhūtvātmopaśamopetam
akarot duścaraṁ tapaḥ
nara-nārāyaṇāv ṛṣī
bhūtvātmopaśamopetam
akarot duścaraṁ tapaḥ
訳語
turye—4番目に; dharma-kalā—ダルマラージャの妻; sarge—~から生まれて; nara-nārāyaṇau—ナラとナーラーヤナという名前の; ṛṣī—聖者たち; bhūtvā—~になること; ātma-upaśama—感覚を抑制する; upetam—~を達成するための; akarot—引き受けた; duścaram—非常に厳しい; tapaḥ—苦行。
翻訳
主は4番目の化身として、ダルマ王の妻の双子の息子、ナラとナーラーヤナとなった。そして感覚を抑制するために厳しくかつ模範的な苦行を行なった。
解説
リシャバ王が息子たちに諭したように、超越性を悟るために自ら苦行を修練するタパスャは、人間に与えられた唯一の義務です。主は私たちに苦行について教えるために、自ら模範として示しました。主は、忘れやすい魂に優しいのです。だからこそ自ら現れて、必要な教えを示し、優れた子どもたちを代表者として遣わせて、束縛された魂を全て神の元に呼び戻そうとします。私たちの記憶に新しい主チャイタニヤも同じ目的で降誕しました。この鉄の時代に生きる堕落した魂たちに特別な恩恵を示すためでした。ナーラーヤナの化身は、ヒマラヤ山脈の一帯にあるバダリー・ナーラーヤナで今でも崇拝されています。
節
pañcamaḥ kapilo nāma
siddheśaḥ kāla-viplutam
provācāsuraye sāṅkhyaṁ
tattva-grāma-vinirṇayam
siddheśaḥ kāla-viplutam
provācāsuraye sāṅkhyaṁ
tattva-grāma-vinirṇayam
訳語
pañcamaḥ—5番目; kapilaḥ—カピラ; nāma—という名前の; siddheśaḥ—完璧な人物の中の筆頭者; kāla—時間; viplutam—失われて; provāca—言われた; āsuraye—アースリという名前のブラーフマナに; sāṅkhyam—形而上学; tattva-grāma—創造された要素の総計; vinirṇayam—解説。
翻訳
5番目の化身の主カピラは、完璧な生命体の中で最も優れた人物である。主は、創造された物質構成要素と形而上学についてアースリ・ブラーフマナに解説した。その知識が時の流れと共に失われていたからである。
解説
創造の要素は合計で24あります。その全ての要素がサーンキャ哲学論で明確に説明されています。サーンキャ哲学は、ヨーロッパの学者には一般的に形而上学と呼ばれています。サーンキャの語源には「物質要素の分析によって非常に明快に説明されるもの」という意味が含まれています。その説明が5番目の化身である主カピラによって最初になされたということが、この節で述べられています。
節
ṣaṣṭham atrer apatyatvaṁ
vṛtaḥ prāpto ’nasūyayā
ānvīkṣikīm alarkāya
prahlādādibhya ūcivān
vṛtaḥ prāpto ’nasūyayā
ānvīkṣikīm alarkāya
prahlādādibhya ūcivān
訳語
ṣaṣṭham—6番目; atreḥ—アトリの; apatyatvam—子供; vṛtaḥ—祈りを受けて; prāptaḥ—得た; anasūyayā—アナスーヤーによって; ānvīkṣikīm—超越性に関して; alarkāya—アラルカに; prahlāda-ādibhyaḥ—プラフラーダやその他に; ūcivān—語った。
翻訳
プルシャの6番目の化身は聖者アトリの子供である。主は、化身を授かりたいと望んだアナスーヤーの体から誕生した。そして、超越性について、アラルカやプラフラーダ、また他の人物たち[ヤドゥ、ハイハヤなど]に語った。
解説
主は、ダッタートレーヤという化身として、リシ・アトリとアナスーヤーの間に誕生しました。ダッタートレーヤの主の化身としての誕生の歴史は『ブラフマーンダ・プラーナ』の中で、献身的な妻に関連して述べられています。その箇所では、リシ・アトリの妻アナスーヤーは主ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの前で次のように祈っています。「主よ。私の苦行に喜んでいただけたのであれば、そして私が祝福を授かることを許していただけるのであれば、皆さまがひとつになった子をお授けください」この祈りが3人の主に受け入れられ、主はダッタートレーヤとなって降誕し、精神魂に関する哲学を特にアラルカ、プラフラーダ、ヤドゥ、ハイハヤなどの人物に説きました。
節
tataḥ saptama ākūtyāṁ
rucer yajño ’bhyajāyata
sa yāmādyaiḥ sura-gaṇair
apāt svāyambhuvāntaram
rucer yajño ’bhyajāyata
sa yāmādyaiḥ sura-gaṇair
apāt svāyambhuvāntaram
訳語
tataḥ—その後; saptame—7番目; ākūtyām—アークーティの胎内に; ruceḥ—プラジャーパティ・ルチによって; yajñaḥ—ヤジュニャとしての主の化身; abhyajāyata—出現した; saḥ—彼; yāma-ādyaiḥ—ヤーマと他の人々; sura-gaṇaiḥ—神々たちと; apāt—支配した; svāyambhuva-antaram—スヴァーヤンブヴァ・マヌの時代の変換期。
翻訳
7番目の化身はプラジャーパティ・ルチとその妻アークーティの子、ヤジュニャである。ヤジュニャは、彼の息子であるヤーマなどの神々の助けを借りてスヴァーヤンブヴァ・マヌの統治時代の変動期を支配した。
解説
物質界の秩序を維持するために神々たちが占める地位は、高尚かつ敬虔な生命体に与えられます。そのような敬虔な生命体がいない場合、主自らブラフマー、プラジャーパティ、インドラなどとなって降誕し、その役目を担います。スヴァーヤンブヴァ・マヌの時代(現在はヴァイヴァスヴァタ・マヌの時代)には、インドラローカ(天上)惑星の王であるインドラの地位に就くにふさわしい生命体が見つかりませんでした。その時、主は自らインドラになっています。主ヤジュニャは、ヤーマなど自分の息子たちやその他の神々たちの支援を受けながら宇宙を支配しました。
節
aṣṭame merudevyāṁ tu
nābher jāta urukramaḥ
darśayan vartma dhīrāṇāṁ
sarvāśrama-namaskṛtam
nābher jāta urukramaḥ
darśayan vartma dhīrāṇāṁ
sarvāśrama-namaskṛtam
訳語
aṣṭame—化身の8番目; merudevyām tu—~の妻であるメールデーヴィーの胎内に; nābheḥ—ナービ王; jātaḥ—誕生した; urukramaḥ—あらゆる力を持つ主; darśayan—示すことで; vartma—道; dhīrāṇām—完璧な生命体たちの; sarva—全て; āśrama—生活の段階; namaskṛtam—~に讃えられて。
翻訳
8番目の化身はナービ王とメールデーヴィー王妃の息子、リシャバ王である。主はこの化身によって完璧な道を示した。それは、感覚を完全に抑制し、全ての階級の人々によって讃えられる人物たちが従う道である。
解説
人間社会は生活の階級と状態に応じて8つの段階、すなわち4つの職業区分と4つの文化的発達区分に自然と分けられます。知識者階級、管理者階級、生産者階級と労働者階級が職業上の分類です。学習者生活、世帯者生活、引退者生活と放棄者生活が、精神的な悟りを目指す4つの文化的な発達の段階です。なかでも放棄者(サンニヤーサ)階級の生活は他の段階の頂点とされ、制度上他の全ての階級と段階の精神の師に当たります。サンニヤーシー階級にも、完成境地に高められる4つの段階があり、それぞれクティーチャカ、バフーダカ、パリヴラージャカーチャーリャ、パラマハンサと呼ばれています。パラマハンサは最高位にあり、全ての人々から尊ばれています。ナービ王とメールデーヴィー王妃の子のマハーラージャ・リシャバは主の化身であり、自分の子どもたちにタパスャを修練して完璧な道を歩くよう教えました。それはタパスャが私たちの存在そのものを清め、永遠で果てしなく広がっていく精神的な幸福の境地に導いてくれるからです。誰もが幸せになろうとしていますが、永遠で無限な幸福がどこで手に入るのか誰も知りません。愚かな人々は物質的な感覚の喜びを本当の幸福として求めますが、感覚の喜びは犬や豚でも味わえる幸福感であることを忘れています。動物、鳥、獣などもこの感覚的な喜びを味わっているのです。人間生活を含め、どのような生物の生活でもそのような幸福は味わえます。しかし人間生活は、そのような安っぽい幸福を味わうために用意されているのではありません。精神的な悟りを得て、永遠不滅の幸福を味わうためにあるのです。この精神的な悟りは、タパスャ、すなわち自ら進んで苦行の道を選び、物質的な快楽を捨てることで得られます。物質的な喜びを抑制する訓練を受けた人物をディーラ、すなわち感覚に乱されない人物、といいます。このディーラだけがサンニヤーサ階級を受け入れることができ、社会の全ての人々から崇敬されるパラマハンサの境地に徐々に高められていきます。リシャバ王はこの使命をまっとうし、人生最後の段階で、肉体に必要な物事全てを超越しました。これは愚者のまねることのできない卓越した境地であって、万民の崇敬に値する境地です。
節
ṛṣibhir yācito bheje
navamaṁ pārthivaṁ vapuḥ
dugdhemām oṣadhīr viprās
tenāyaṁ sa uśattamaḥ
navamaṁ pārthivaṁ vapuḥ
dugdhemām oṣadhīr viprās
tenāyaṁ sa uśattamaḥ
訳語
ṛṣibhiḥ—聖者たちによって; yācitaḥ—~の祈りを受けて; bheje—受け入れた; navamam—9番目の化身; pārthivam—地球の支配者; vapuḥ—体; dugdha—乳を搾る; imām—これら全て; oṣadhīḥ—土地の産物; viprāḥ—ブラーフマナたちよ; tena—~によって; ayam—この; saḥ—彼は; uśattamaḥ—美しく魅力的な。
翻訳
ブラーフマナたちよ。主は9番目の化身で、聖者たちの祈りに応えて王[プリトゥ]の体を受け入れた。プリトゥ王はさまざまな産物を収穫するために土地を耕し、そのかいあって地球は美しく魅力的になった。
解説
マハーラージャ・プリトゥが降誕する前、先代の王で邪悪な心を持つ父親の悪政のため、国内は混乱状態にありました。識者たち(聖者やブラーフマナら)は、主の降誕を祈ると同時に、先代の王を王座から放逐しました。あつい信仰心を持ち、市民が全ての面で幸せに暮らせるように治めるのが王の務めです。王がその義務を履行しなければ、知識者階級はその王位を剥奪しなくてはなりません。しかし、識者は自ら王座に就くことはありません。それは彼らには大衆を幸せにするためのさらに重要な義務があるからです。識者たちは王座に就かずに主の化身の降誕を祈り、その結果、主はマハーラージャ・プリトゥとして降誕したのでした。真に知的な人物、すなわち資格を持ったブラーフマナには政治的な地位に対する野心はありません。マハーラージャ・プリトゥが地球から多くの産物を収穫し、市民はそのような優れた王に恵まれて幸せに暮らせるようになったばかりではなく、地球全体も美しく魅力的になったのでした。
節
rūpaṁ sa jagṛhe mātsyaṁ
cākṣuṣodadhi-samplave
nāvy āropya mahī-mayyām
apād vaivasvataṁ manum
cākṣuṣodadhi-samplave
nāvy āropya mahī-mayyām
apād vaivasvataṁ manum
訳語
rūpam—姿; saḥ—主; jagṛhe—受け入れた; mātsyam—魚の; cākṣuṣa—チャークシュシャ; udadhi—水; samplave—洪水; nāvi—船上に; āropya—続けて; mahī—地球; mayyām—~の中に沈んだ; apāt—守った; vaivasvatam—ヴァイヴァスヴァタ; manum—人類の父、マヌ。
翻訳
チャークシュシャ・マヌの時代の後に全宇宙に洪水が起こり、世界が水中深く没した時、主は魚の姿となって、ヴァイヴァスヴァタ・マヌを船に乗せて守った。
解説
バーガヴァタムの最初の解説者であるシュリーパーダ・シュリーダラ・スヴァーミーの意見では、各マヌが交替した後に必ず洪水が起こるとは限りません。チャークシュシャ・マヌの時代の後に起こったこの洪水は、サッティヤヴラタを驚嘆させるために起こりました。しかしシュリー・ジーヴァ・ゴースヴァーミーは由緒ある経典(『ヴィシュヌ・ダルモッタラ』、『マールカンデーヤ・プラーナ』、『ハリヴァンシャ』など)から確かな証拠として、各マヌが死去した後には必ず洪水が発生すると述べています。シュリーラ・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティーもシュリー・ジーヴァ・ゴースヴァーミーの意見を支持し、マヌが死去した後に発生する洪水について『バーガヴァタームリタ』から証拠を挙げています。このような理由以外にも、主はサッティヤヴラタという献身者に特別の恩恵を授けるために、この特定の時期に化身となって現れたのでした。
節
surāsurāṇām udadhiṁ
mathnatāṁ mandarācalam
dadhre kamaṭha-rūpeṇa
pṛṣṭha ekādaśe vibhuḥ
mathnatāṁ mandarācalam
dadhre kamaṭha-rūpeṇa
pṛṣṭha ekādaśe vibhuḥ
訳語
sura—有神論者たち; asurāṇām—無神論者たちの; udadhim—海で; mathnatām—撹拌; mandarācalam—マンダラーチャラの丘; dadhre—支えた; kamaṭha—亀; rūpeṇa—~の姿で; pṛṣṭhe—甲羅; ekādaśe—11番目に; vibhuḥ—偉大な方。
翻訳
主の11番目の化身は亀の姿をとり、その甲羅はマンダラーチャラの丘を旋回させる軸となった。その丘は、宇宙の有神論者たちと無神論者たちによって撹拌棒として使われた。
解説
昔、有神論者たちと無神論者たちが、不死身の甘露を海から作り出そうとしていました。その甘露を飲んで不死身の体になろうとしたのです。そのとき、マンダラーチャラの丘が撹拌用の棒になり、亀として現れた主の甲羅は、海上で丘を支える場所(旋回軸)になりました。
節
dhānvantaraṁ dvādaśamaṁ
trayodaśamam eva ca
apāyayat surān anyān
mohinyā mohayan striyā
trayodaśamam eva ca
apāyayat surān anyān
mohinyā mohayan striyā
訳語
dhānvantaram—ダンヴァンタリという名の主の化身; dvādaśamam—12番目; trayodaśamam—13番目; eva—確かに; ca—そして; apāyayat—飲ませるために与えた; surān—神々たち; anyān—その他; mohinyā—あでやかな美しさで; mohayan—惑わせる; striyā—女性の姿で。
翻訳
主は12番目の化身でダンヴァンタリとして降誕し、13番目の化身では女性となって、そのあでやかな姿で無神論者たちの心を虜にし、甘露を神々たちに飲ませた。
節
caturdaśaṁ nārasiṁhaṁ
bibhrad daityendram ūrjitam
dadāra karajair ūrāv
erakāṁ kaṭa-kṛd yathā
bibhrad daityendram ūrjitam
dadāra karajair ūrāv
erakāṁ kaṭa-kṛd yathā
訳語
caturdaśam—14番目; nāra-siṃham—主の半人間、半ライオンの化身; bibhrat—降誕した; daitya-indram—無神論者たちの王; ūrjitam—頑丈に作られた; dadāra—引き裂いた; karajaiḥ—爪で; ūrau—膝の上で; erakām—茎; kaṭa-kṛt—大工; yathā—まさにそのように。
翻訳
14番目の化身で主はヌリシンハとして現れ、無神論者のヒラニヤカシプの頑丈な体を、あたかも大工が棒を突き刺すように、爪で引き裂いた。
節
pañcadaśaṁ vāmanakaṁ
kṛtvāgād adhvaraṁ baleḥ
pada-trayaṁ yācamānaḥ
pratyāditsus tri-piṣṭapam
kṛtvāgād adhvaraṁ baleḥ
pada-trayaṁ yācamānaḥ
pratyāditsus tri-piṣṭapam
訳語
pañcadaśam—15番目; vāmanakam—小びとのブラーフマナ; kṛtvā—~の姿をして; agāt—行った; adhvaram—儀式の場; baleḥ—バリ王の; pada-trayam—三歩だけ; yācamānaḥ—乞うこと; pratyāditsuḥ—取り戻すことを考えている; tri-piṣṭapam—三天体系の王国。
翻訳
15番目の化身で、主は小びとのブラーフマナ[ヴァーマナ]の姿で現れ、マハーラージャ・バリが執行していた儀式の場所を訪れた。主の真意は三天体系全てを奪い返すことにあったが、ただ三歩分の土地を施してくれるよう頼みました。
解説
全能の神は、非常に小さな土地を持つ者に宇宙の王国を授けてやることもできれば、また同じように、ささいな土地を乞い願いつつ、全宇宙を奪い去ることもできます。
節
avatāre ṣoḍaśame
paśyan brahma-druho nṛpān
triḥ-sapta-kṛtvaḥ kupito
niḥ-kṣatrām akaron mahīm
paśyan brahma-druho nṛpān
triḥ-sapta-kṛtvaḥ kupito
niḥ-kṣatrām akaron mahīm
訳語
avatāre—主の化身で; ṣoḍaśame—16番目; paśyan—見ること; brahma-druhaḥ—ブラーフマナの命令に背くこと; nṛpān—王階級; triḥ-sapta—7回を3度; kṛtvaḥ—した; kupitaḥ—~をして; niḥ—否定; kṣatrām—行政者階級; akarot—実行した; mahīm—地球。
翻訳
主神の16番目の化身において主は[ブリグパティとして]、行政者階級[クシャトリヤ]がブラーフマナ[識者階級]に背いたことに激怒し、クシャトリヤ階級を21回にわたって絶滅させた。
解説
行政者階級のクシャトリヤは、規範となるシャーストラ(啓示経典)に基づいて支配者を導く識者に従って国を支配する立場にあります。支配者はその指示に従って国を治めるのです。クシャトリヤが学識者や知的なブラーフマナの命令に背くときには、その行政者たちは地位を剥奪され、より優れた行政のための策が講じられるのです。
節
tataḥ saptadaśe jātaḥ
satyavatyāṁ parāśarāt
cakre veda-taroḥ śākhā
dṛṣṭvā puṁso ’lpa-medhasaḥ
satyavatyāṁ parāśarāt
cakre veda-taroḥ śākhā
dṛṣṭvā puṁso ’lpa-medhasaḥ
訳語
tataḥ—その後; saptadaśe—17番目の化身で; jātaḥ—降誕した; satyavatyām—サッティヤヴァティーの胎内に; parāśarāt—パラーシャラ・ムニによって; cakre—準備した; veda-taroḥ—ヴェーダの望みの木の; śākhāḥ—枝; dṛṣṭvā—見ることで; puṃsaḥ—一般大衆; alpa-medhasaḥ—知性に欠ける。
翻訳
その後、主の17番目の化身であるシュリー・ヴィヤーサデーヴァが、パラーシャラ・ムニを父としてサッティヤヴァティーの胎内から現れ、本来ひとつであるヴェーダをいくつかの分野に分け、さらに細かな部分に分類した。一般大衆が知性に欠けることを見てとったからである。
解説
本来、ヴェーダはひとつです。しかし、シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァが根源のヴェーダをサーマ、ヤジュル、リグ、アタルヴァという4分野に分け、さらにプラーナや『マハーバーラタ』のようなさまざまな部門で説明しました。ヴェーダの言語や主題は一般の人々には極めて難しいとされています。高い知性を備え、なおかつ自己を悟ったブラーフマナが理解するものです。しかし今のカリ時代は無知な人々であふれています。ブラーフマナを父として生まれた人々でさえ、資質はシュードラや女性よりも劣っています。再誕した者、つまりブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャは、サンスカーラという浄化の儀式を受けることになっています。しかし、現代の悪影響のために、ブラーフマナと呼ばれる人たちや高貴とされる家系でさえ、気高い教養を失っています。そのような人々はドヴィジャ・バンドゥ、すなわち再誕した者の友人や家族と呼ばれています。しかし実は、このドヴィジャ・バンドゥはシュードラや女性と同じ段階に分類されています。シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァはヴェーダをさまざまな分野や部門に分けましたが、それはドヴィジャ・バンドゥ、シュードラ、女性たちのような知性の劣る人々のための配慮でした。
節
nara-devatvam āpannaḥ
sura-kārya-cikīrṣayā
samudra-nigrahādīni
cakre vīryāṇy ataḥ param
sura-kārya-cikīrṣayā
samudra-nigrahādīni
cakre vīryāṇy ataḥ param
訳語
nara—人類; devatvam—神性; āpannaḥ—~の姿となって; sura—神々たち; kārya—活動; cikīrṣayā—実行する目的で; samudra—インド洋; nigraha-ādīni—支配する、など; cakre—行なった; vīryāṇi—超人間的な力; ataḥ param—その後。
翻訳
18番目の化身で、主はラーマ王として降誕した。神々たちを喜ばせるためにインド洋を征服し、対岸に住んでいた無神論者であるラーヴァナ王を殺害するなど、超人間的な活躍を世に示した。
解説
人格神シュリー・ラーマは人間の姿をまとい、神々たち、または行政管理者を喜ばせ、宇宙の秩序を維持するために降誕しました。時にラーヴァナやヒラニヤカシプなどの多くの悪魔や無神論者たちは、主が定めた秩序に対抗する邪心から物質的な科学や同類の活動の力で物質文化を高め、非常に有名になることがあります。例えば、物質的な手段で他の惑星に行こうとする試みは、確立された秩序に対する挑戦です。各惑星の環境は全て異なり、主の法典が述べている特定の目的どおりに、さまざまな種類の人類が収容されています。しかし、ちょっとした物質的な発達を遂げたことで、高慢になった不敬な物質主義者が神の存在に挑戦することがあります。ラーヴァナがそのひとりで、必要な資格を考慮することなしに物質的な方法を使って、俗人をインドラの惑星(天国)に昇らせたい、と考えていました。天国に届くはしごを築けば、その惑星に入るために必要となる敬虔な活動の手順を踏まなくてもいい、というのがその理由です。その他にも主が定めた原則に反する行動を目論んでいました。人格神、シュリー・ラーマの権威に挑み、主の妻シーターを誘拐さえしたのです。もちろん主ラーマは、神々の祈りに応え、この無神論者を罰する行動に出ました。主はラーヴァナの挑戦を受けて立ち、その御業の一部始終が『ラーマーヤナ』に記録されています。主ラーマチャンドラは人格神であるため、物質的に優れたラーヴァナをはじめとする、どんな人間にも不可能な超人的な御業を示すことができました。主は水に浮かぶ石でインド洋の上に道を作りました。現代科学者は無重力について研究していますが、ありとあらゆる場所に無重力を作り出すことはできません。しかし、無重力現象そのものが主の創造物であり、主はその力で巨大な惑星を宇宙空間に浮かばせているのですから、地球上でも石の重さをなくし、橋脚を使わずに海上に石の橋を築きました。それが神の力の表れなのです。
節
ekonaviṁśe viṁśatime
vṛṣṇiṣu prāpya janmanī
rāma-kṛṣṇāv iti bhuvo
bhagavān aharad bharam
vṛṣṇiṣu prāpya janmanī
rāma-kṛṣṇāv iti bhuvo
bhagavān aharad bharam
訳語
ekonaviṃśe—19番目に; viṃśatime—そして20番目に; vṛṣṇiṣu—ヴリシュニ王家に; prāpya—達成して; janmanī—誕生; rāma—バララーマ; kṛṣṇau—シュリー・クリシュナ; iti—そうして; bhuvaḥ—世界の; bhagavān—人格神; aharat—取り除いた; bharam—重荷。
翻訳
19番目と20番目の化身で、主は、ヴリシュニの家系[ヤドゥ王家]に主バララーマと主クリシュナとして降誕し、世界の重苦を取り除いた。
解説
この節で特筆されているバガヴァーンという言葉は、バララーマとクリシュナが主の根源の姿であることを示唆しています。このことは後に続く節でさらに説明されます。この章の始めに説明したように、主クリシュナはプルシャの化身ではありません。根源の人格神そのお方であり、バララーマは主の最初の完全拡張体です。バラデーヴァから最初の一連の完全拡張体であるヴァースデーヴァ、サンカルシャナ、アニルッダ、プラデュムナが現れます。主シュリー・クリシュナはヴァースデーヴァ、そして主バラデーヴァはサンカルシャナです。
節
tataḥ kalau sampravṛtte
sammohāya sura-dviṣām
buddho nāmnāñjana-sutaḥ
kīkaṭeṣu bhaviṣyati
sammohāya sura-dviṣām
buddho nāmnāñjana-sutaḥ
kīkaṭeṣu bhaviṣyati
訳語
tataḥ—その後; kalau—カリの時代; sampravṛtte—結果として起こって; sammohāya—惑わせるために; sura—有神論者たち; dviṣām—妬んでいる者たち; buddhaḥ—主ブッダ; nāmnā—その名前の; añjana-sutaḥ—その方の母はアンジャナーだった; kīkaṭeṣu—ガヤー(ビハール州)地方で; bhaviṣyati—起こるであろう。
翻訳
次にカリ・ユガの始めに、主は、信仰厚き有神論者を妬む者たちを惑わすため、ガヤ地方にアンジャナーの息子の主ブッダとして降臨する。
解説
人格神の強力な化身である主ブッダは、ガヤー(ビハール州)でアンジャナーの息子として生まれ、独自の非暴力論を布教し、ヴェーダが認めている動物のいけにえの儀式さえも非難しました。主ブッダが降誕した当時、大衆は無神論者ばかりで、動物の肉を何よりも好んで食べていました。ヴェーダ儀式を口実にして、ほとんどの場所が屠殺場と化し、動物たちは無制限に殺されていました。主ブッダは動物たちを哀れんで非暴力を唱えたのでした。主は自らヴェーダの教えを信じないことを主張し、動物を殺すことで生じる心理的な悪影響を強調しました。神に対する信念もなく、知性に欠けるカリ時代の人々はブッダの教えに従うことで、神を悟る準備段階としてまず、道徳律と非暴力を修練したのです。無神論者は神を信じませんでしたが、神の化身である主ブッダには絶対的な信念を持ち、教えに従ったため、主によって惑わされたのです。こうして信念のない人々も主ブッダの姿の神を信じました。それこそが主ブッダの慈悲でした。信念のない人々に、自分への信念を抱かせたのです。
主ブッダが降誕する以前、屠殺行為は社会で顕著に行われていました。人々は屠殺をヴェーダの儀式だと主張していました。ヴェーダが権威ある師弟継承を通して伝えられないと、気まぐれな読者は美辞麗句で飾られた教義に間違って導かれるものです。『バガヴァッド・ギーター』では、そのような愚かな学者(アヴィパシュチタハ)について解説されています。超越的な悟りに支えられた師弟継承を介して崇高な教えを授かるつもりのない愚かなヴェーダ学者は、必ず惑わされます。そのような人々は宗教儀式を全てと考え、深淵な知識は持ちあわせていません。『バガヴァッド・ギーター』(15−15)では、vedaiś ca sarvair aham eva vedyaḥ ヴェーダの制度は読者を至高主への道へと徐々に導くためにある、と述べられています。ヴェーダ経典の主題は至高主、個々の魂、宇宙構造、そしてこれらの関係を知ることにあります。その関係が理解できたとき、その関係に伴うさまざまな活動が始まり、その活動の結果、神の元に帰るという人生の究極目標が最も簡単な方法で達成されます。しかし残念なことに、権限のないヴェーダ学者が浄化の儀式だけに心を奪われているために、ヴェーダを悟る自然な過程に支障が生じています。
主ブッダは、無神論に惑わされたそのような人々にとって有神論の象徴です。ゆえに、主はまず屠殺という悪癖を止めさせようとしました。動物の殺害者は神の元に帰る道を遮る危険な要素で、殺害者には二種類あります。魂は「動物」あるいは「生物」と呼ばれることがあります。ですから、動物を殺す人と、魂の本性を見失った人は、どちらも動物殺害者です。
マハーラージャ・パリークシットは、動物を殺す者だけが至高主の超越的な言葉を味わうことができない、と言いました。ですから、人々が神に行きつく道を歩む教育を受けるとき、先に述べた「動物を殺す習慣をやめる」よう教わらなくてはなりません。動物殺害と精神的な悟りにはなんの関係もない、と言うのは実に愚かなことです。このような危険な考え方に従い、ヴェーダを口実に動物殺害を促進するサンニヤーシーがカリ時代の恩恵を受けて増えてきました。この主題は、主チャイタニヤとマウラナ・チャンド・カジ・シャヘブの会話ですでに取り上げられました。ヴェーダの記述にある動物の「いけにえ」と、屠殺場で行なわれている無制限の動物殺害は同じものではありません。アスラやヴェーダ経典の学者を自称する者がヴェーダを動物殺害の根拠としたからこそ、主ブッダはヴェーダの権威を表向きには否定しました。主ブッダによるヴェーダの拒否は、人々を動物殺害という悪から救うため、そして普遍の兄弟愛、平和、正義、平等などと大言壮語する兄とも言うべき人間によって、哀れな動物たちが殺されるのを救うためでした。動物殺害に正義はありません。主ブッダはそれらを根絶するために、アヒンサーの教えをインドのみならず国外にも広めました。
理論的には主ブッダの哲学は無神論です。至高主を認めず、その哲学体系はヴェーダの権威を否定しているからです。しかし、それは主によるカムフラージュです。主ブッダは神の化身であり、ヴェーダ知識を広めた根源の人物です。ですから、主がヴェーダ哲学を否定するはずがありません。表面的に否定したのです。なぜなら神の献身者をいつも妬んでいるスラ・ドヴィシャ、すなわち悪魔たちが、ヴェーダの記述を盾に動物殺害を擁護し、今ではこの行為が現代のサンニヤーシーによってなされているからです。主ブッダはヴェーダの権威を根底から否定する必要がありました。これは表向きの教義にすぎません。本当の無神論者として広めたのであれば、神の化身として認められなかったはずです。また、ヴァイシュナヴァ・アーチャーリャである詩人ジャヤデーヴァの超越的な詩歌で讃えられなかったはずです。主ブッダは(そしてシャンカラーチャーリャも)、ヴェーダの権威を確立させるため、時代に応じた手段でヴェーダの予備的原則を説きました。主ブッダもアーチャーリャ・シャンカラも有神論の道を開拓したのであり、だからこそヴァイシュナヴァ・アーチャーリャたち、特に主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブは神の元に帰る道として、人々をその道へ導いたのです。
今、多くの人々が主ブッダの非暴力運動に興味を示していることは喜ばしいことです。しかし、彼らはこの問題を真剣にとらえて全ての屠殺場を閉鎖するでしょうか。それができないのであれば、アヒンサーの教義を掲げても無意味です。
『シュリーマド・バーガヴァタム』はカリ時代到来の直前(約5000年前)に編集され、主ブッダは約2600年前に降誕しました。ですから、『シュリーマド・バーガヴァタム』は主ブッダの降誕を予言しているのです。それが、一点の曇りもないこの経典の権威です。同じような予言はたくさんなされていますが、どれも相次いで実現しています。この事実は、束縛された魂の欠点、つまり間違いを犯し、眩惑され、人を騙し、不完全であるという性質とは無縁の『シュリーマド・バーガヴァタム』の威信を如実に示すものです。解脱した魂たちはこの欠陥を超越しています。だからこそ、遠い未来に実現するであろう出来事を予知し、予言できるのです。
節
athāsau yuga-sandhyāyāṁ
dasyu-prāyeṣu rājasu
janitā viṣṇu-yaśaso
nāmnā kalkir jagat-patiḥ
dasyu-prāyeṣu rājasu
janitā viṣṇu-yaśaso
nāmnā kalkir jagat-patiḥ
訳語
atha—その後; asau—同じ主; yuga-sandhyāyām—ユガの接点で; dasyu—略奪者; prāyeṣu—ほとんど全員; rājasu—行政者たち; janitā—主が誕生する; viṣṇu—ヴィシュヌという名前の; yaśasaḥ—ヤシャーという姓名の; nāmnā—~の名前で; kalkiḥ—主の化身; jagat-patiḥ—創造の主。
翻訳
その後、ふたつのユガの接点で創造の主はカルキ化身として現れ、ヴィシュヌ・ヤシャーの息子になる。その時代、地球の支配者たちは堕落し、略奪者に成り果てている。
解説
この節は主カルキという神の化身について予言しています。主はふたつのユガの接点、すなわちカリ・ユガの終わりとサッティヤ・ユガの始まりに降誕します。4つのユガ、すなわちサッティヤ、トレーター、ドヴァーパラ、カリの循環はカレンダー通りに月が巡る様子に似ています。現在のカリ・ユガは43万2千年続きますが、クルクシェートラの戦争が終わり、パリークシット王の統治が終結してから5千年しか経過していません。つまり、カリ・ユガの終わりまであと42万7千年残っているということです。そして『シュリーマド・バーガヴァタム』の予言どおりに、この時代の終わりにカルキ化身が現れます。主の父の名前はヴィシュヌ・ヤシャーという博学なブラーフマナで、シャンバラという村の名前も共に記述されています。上述したように、これらの予言は全て年代順に真実として実現されていくことでしょう。それが『シュリーマド・バーガヴァタム』のゆるぎない信頼性です。
節
avatārā hy asaṅkhyeyā
hareḥ sattva-nidher dvijāḥ
yathāvidāsinaḥ kulyāḥ
sarasaḥ syuḥ sahasraśaḥ
hareḥ sattva-nidher dvijāḥ
yathāvidāsinaḥ kulyāḥ
sarasaḥ syuḥ sahasraśaḥ
訳語
avatārāḥ—化身; hi—確かに; asaṅkhyeyāḥ—無数; hareḥ—ハリ、主の; sattva-nidheḥ—徳性の海の; dvijāḥ—そのブラーフマナたち; yathā—ありのままに; avidāsinaḥ—無尽蔵の; kulyāḥ—小川; sarasaḥ—広大な湖の; syuḥ—~である; sahasraśaḥ—数千の。
翻訳
ブラーフマナたちよ、まるで無尽蔵の水源から流れ出る無数の小川のように、主の化身は数え切れないのである。
解説
この章で全ての人格神が列挙されているわけではありません。全ての化身の一部を記載したにすぎません。他にも、シュリー・ハヤグリーヴァ、ハリ、ハンサ、プリシュニガルバ、ヴィブ、サッティヤセーナ、ヴァイクンタ、サールヴァバウマ、ヴィシュヴァクセーナ、ダルマセートゥ、スダーマー、ヨーゲーシュヴァラ、ブリハッドバーヌなど、遠い昔に無数の化身が登場しています。シュリー・プラフラーダ・マハーラージャは祈りました。「主よ、あなたは、水生動物、植物、爬虫類、鳥類、獣、人間、神々などの、ありとあらゆる生物の化身で現れ、誠実な人々を守り不誠実な者たちを破滅させるために降誕されました。さまざまなユガで、必要な状況に応じて降誕されたのです。カリ・ユガでは献身者の姿で降誕されています」。カリ・ユガの化身とは主チャイタニヤ・マハープラブを指しています。バーガヴァタムや他の経典の多くの箇所でも、主のシュリー・チャイタニヤ・マハープラブとしての化身について明確に記述されています。主は、ラーマ、ヌリシンハ、ヴァラーハ、マツヤ、クールマ、その他多くの化身として降誕していても、ときに自ら現れる、と『ブラフマ・サンヒター』でも間接的に述べられています。ですから、主クリシュナと主チャイタニヤ・マハープラブは実は化身ではなく、あらゆる化身の根源のお方です。これは次のシュローカで明確に説明されます。主は、記述し尽くされていない膨大な化身の無尽蔵なる源です。しかしその化身は人間には到底できるはずのない特別な並外れた神業によって、それが化身だと見分けられます。それが、直接または間接的に力を授けられた化身であることを判断する一般的な方法です。上記の化身の一部はほぼ完全部分体です。例えば、クマーラたちは超越的な知識という力を授けられました。シュリー・ナーラダは献身奉仕の力を授かりました。マハーラージャ・プリトゥは行政官の職務において力を授かった化身です。魚として現れたマツヤ化身は直接の完全部分体です。このように主の無数の化身は、滝から水が流れ続けるように絶え間なく宇宙全体に現れています。
節
ṛṣayo manavo devā
manu-putrā mahaujasaḥ
kalāḥ sarve harer eva
saprajāpatayaḥ smṛtāḥ
manu-putrā mahaujasaḥ
kalāḥ sarve harer eva
saprajāpatayaḥ smṛtāḥ
訳語
ṛṣayaḥ—全ての聖者たち; manavaḥ—全てのマヌたち; devāḥ—全ての神々たち; manu-putrāḥ—マヌの全ての子孫たち; mahā-ojasaḥ—非常に力強い; kalāḥ—完全部分体の部分体; sarve—全て集合的に; hareḥ—主の; eva—確かに; sa-prajāpatayaḥ—プラジャーパティたちと共に; smṛtāḥ—知られている。
翻訳
特別な力を備えたリシ、マヌ、神々、そしてマヌの子孫は、主の完全部分体、あるいは完全部分体の部分体である。その中にはプラジャーパティも含まれる。
解説
比較的力の劣る生命体をヴィブーティといい、比較的優れた力を持つ生命体をアーヴェーシャ化身といいます。
節
ete cāṁśa-kalāḥ puṁsaḥ
kṛṣṇas tu bhagavān svayam
indrāri-vyākulaṁ lokaṁ
mṛḍayanti yuge yuge
kṛṣṇas tu bhagavān svayam
indrāri-vyākulaṁ lokaṁ
mṛḍayanti yuge yuge
訳語
ete—これら全て; ca—そして; aṃśa—完全部分体; kalāḥ—完全部分体の部分体; puṃsaḥ—至高者の; kṛṣṇaḥ—主クリシュナ; tu—しかし; bhagavān—人格神; svayam—本人; indra-ari—インドラの敵; vyākulam—乱されて; lokam—全ての惑星; mṛḍayanti—保護する; yuge yuge—さまざまな時代で。
翻訳
これまで述べた化身は全て、主の完全部分体あるいは完全部分体の部分体のいずれかであるが、主シュリー・クリシュナは根源の人格神である。これらの化身は、無神論者によって秩序が乱された時に必ず現れる。主は有神論者を守るために降誕するのである。
解説
この節では、特に人格神、主シュリー・クリシュナが他の化身と区別して表現されています。主は、いわれのない慈悲心ゆえに自らの超越的な住まいから降誕するお方であることから、アヴァターラ(化身)の中に加えられています。アヴァターラとは「降りてくる者」という意味です。主の全ての化身は、主をも含め、特定の使命を果たすために物質界のさまざまな惑星に、さまざまな生物として降誕します。時には主自ら降誕したり、さまざまな完全部分体や完全部分体の部分体が降誕したり、また時には主に直接または間接的に力を授かったさまざまな部分体が物質界に降誕して特定の役割を果たします。主は本来、全ての富、力、名声、美しさ、知識、そして放棄心を持つお方です。これらの質が完全部分体やその部分体を通して部分的に表されるとき、それはその化身が特定の任務を遂行するのに必要な力だといえます。部屋の照明に小さな電球が使われているとしても、発電所がその小さな電球程度の電力しか供給できない、ということではありません。その発電所は、高い電圧が必要な巨大な発電機を動かせる電力も提供できます。同じように、主の化身は限られた力を表すことがありますが、それは特定の時代にその程度の力だけが必要だということです。
例えば、主パラシュラーマはブラーフマナに服従しないクシャトリヤたちを21世代にわたって殺し、主ヌリシンハはヒラニヤカシプという強靭凶悪の無神論者を殺して無類の富を示しました。ヒラニヤカシプの威力は強大で、他の惑星にいる神々たちでさえ、彼がただ眉を不機嫌そうに動かすだけで震えあがったものです。物質界の高水準の惑星に住む神々たちは、最も裕福な人間をはるかに凌ぐ寿命、美しさ、富、身の回りの品々など、あらゆる面で優れていました。そんな彼らでも、ヒラニヤカシプを恐れていたのです。ヒラニヤカシプがどれほどの力を物質界で誇示していたかが容易に分かるはずです。しかし、そのヒラニヤカシプでさえ、主ヌリシンハの爪で粉々に引き裂かれました。これは、どれほど物質的な力があっても、主の爪の力には太刀打ちできないということです。同じように、ジャーマダグニャも主の力を見せつけ、全世界の不服従の王たちを殺しました。主の力を授かった化身であるナーラダも、完全拡張体化身のヴァラーハも、そして間接的に力を授かった主ブッダも、大衆の心に信念を刻みつけました。ラーマとダンヴァンタリの化身は主の名声を、バララーマ、モーヒニー、ヴァーマナは主の美しさを表しました。ダッタートレーヤ、マツヤ、クマーラ、カピラは主の超越的な知識を示しました。ナラとナーラーヤナ・リシたちは主の放棄心を示しました。このように、間接的または直接的に力を授かった主のさまざまな化身はさまざまな様相を示しましたが、主クリシュナ、根源の主は人格神の完璧な様相を示しています。ゆえに、主こそが全ての化身の根源であることが確認できるのです。主シュリー・クリシュナが示した最も非凡な様相は、内的エネルギーを通して表された牛飼いの乙女たちとの振舞いです。主がゴーピーたちと交わした崇高な遊戯は全て、一見性的な愛情のように見えても、超越的な存在、至福、そして知識の表れです。主のゴーピーたちとの遊戯の特別な魅力は、決して誤解されてはなりません。バーガヴァタムは、これらの超越的な遊戯を第10編で取り上げています。主とゴーピーたちとの遊戯の崇高な気質を理解する境地にたどり着くために、バーガヴァタムは、他の9編を通して読者を徐々に高めようとしています。
シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーの言葉によると、由緒ある情報源が示しているように、主クリシュナは全ての化身の源です。別の源から表された化身ということではありません。絶対真理の全ての兆候が主シュリー・クリシュナという人物の中に完全に存在し、『バガヴァッド・ギーター』でも、主と同等な者も、主より偉大な者も存在しない、と主は自ら断言しています。この節にあるスヴァヤムという言葉は、主クリシュナには他の源がないことを確証するために特に使われています。別の箇所では、特別の役割を示す化身がバガヴァーンと呼ばれることもありますが、至高人格神と宣言されることはありません。この節のスヴァヤムは、至高善としての優越性を示しているのです。
至高善のクリシュナは唯一絶対の存在です。主は、スヴァヤム・ルーパ、スヴァヤム・プラカーシャ、タド・エーカートマー、プラーバヴァ、ヴァイバヴァ、ヴィラーサ、アヴァターラ、アーヴェーシャ、ジーヴァなど、自らをさまざまな部分体に拡張させ、その全てがそれぞれの人物や人格にふさわしい無数のエネルギーを備えています。超越的な学問に精通する博識な学者は、至高善のクリシュナを64の特質によって慎重に分析しています。主の拡張体あるいはカテゴリーは、これらの特質の一部だけを備えています。しかしシュリー・クリシュナはその特質を100%備えています。そしてスヴァヤム・プラカーシャやタド・エーカートマーのような主の個人的な拡張体からアヴァターラの範疇までの全てはヴィシュヌ・タットヴァであり、これら超越的な特質の93%を備えています。アヴァターラでもアーヴェーシャでもなく、またその中間にも位置しない主シヴァは、約84%の特質を備えています。しかしさまざまな生存状態にある個々の生命体、すなわちジーヴァは、最大78%の特質を備えています。しかし生命体は、物質存在という束縛された立場ではわずかな量を備え、敬虔な生活の程度によってその量は変化します。最も完璧な生物は、ひとつの宇宙の最高管理者であるブラフマーです。ブラフマーは78%の特質を完璧に持っています。その他の神々たちは同じ特質を低い程度で、人間はさらに少ない特質を備えています。人間の完成の基準は、特質を完全に78%にまで高めることにあります。生命体は、シヴァ、ヴィシュヌあるいは主クリシュナほどの特質を決して持つことはできません。78%の特質を完全に備えることで神聖な存在になることはできますが、シヴァ、ヴィシュヌあるいは主クリシュナのような神にはなれません。いつかブラフマーになることはできます。精神界の住民である神聖な生命体たちは、ハリ・ダーマやマヘーシャ・ダーマと呼ばれる多様な精神的惑星に住む神の永遠の親交者です。全ての精神的惑星を超えた領域にある主クリシュナの住まいは、クリシュナローカあるいはゴーローカ・ヴリンダーヴァナと呼ばれ、上記の特質の78%を完全に高めた完璧な生命体が、現在の肉体を離れた後にクリシュナローカに入ることができます。
節
janma guhyaṁ bhagavato
ya etat prayato naraḥ
sāyaṁ prātar gṛṇan bhaktyā
duḥkha-grāmād vimucyate
ya etat prayato naraḥ
sāyaṁ prātar gṛṇan bhaktyā
duḥkha-grāmād vimucyate
訳語
janma—誕生; guhyam—神秘的な; bhagavataḥ—主の; yaḥ—人; etat—これら全て; prayataḥ—注意深く; naraḥ—人間; sāyam—夕方; prātaḥ—朝; gṛṇan—唱える; bhaktyā—熱心に; duḥkha-grāmāt—全ての苦しみから; vimucyate—解放される。
翻訳
主の神秘的な降誕について、愛情を込めて、朝夕注意深く語る者は誰でも、生活に伴う全ての苦しみから解放される。
解説
人格神は『バガヴァッド・ギーター』で、主の超越的な誕生と、行動の原則を知る者は、物質界という迷宮から逃れたあと主の元に帰っていく、と述べています。物質界に降誕する主の化身の神秘性を正しく理解するだけで、物質の束縛から解放されるということです。ですから、私たちが幸福になれるよう示された主の誕生と行動は、どれも俗界とは一切関係がありません。精神的な愛情を胸に抱き、神秘のベールに包まれた主の誕生と行動を知ろうとする人だけがそのベールを取り去ることができ、やがて物質の束縛から解放されていきます。ですから、主のさまざまな化身の降誕について述べるこの章を、真剣に、そして熱心に朗読するだけで、主の誕生と行動の真相を理解できるようになります。ヴィムクティ、すなわち解脱というこの言葉は、主の誕生と行動は全て超越的であることを示しています。超越的でないとしたら、朗読するだけで解脱は達成できないはずです。この主題は神秘的であり、献身奉仕の規定原則に従わない人々は、主の誕生と行動の神秘なる世界に入る資格がありません。
節
etad rūpaṁ bhagavato
hy arūpasya cid-ātmanaḥ
māyā-guṇair viracitaṁ
mahadādibhir ātmani
hy arūpasya cid-ātmanaḥ
māyā-guṇair viracitaṁ
mahadādibhir ātmani
訳語
etat—これら全て; rūpam—姿; bhagavataḥ—主の; hi—確かに; arūpasya—物質でできた姿を持たない者の; cit-ātmanaḥ—超越性の; māyā—物質エネルギー; guṇaiḥ—質によって; viracitam—作り出された; mahat-ādibhiḥ—物質要素で; ātmani—自己の中で。
翻訳
物質界に出現する主のヴィラート宇宙体の概念は、想像上の存在である。知性に欠ける人々[そして初心者]が、主には姿があるという考えに順応できるようにとの配慮がなされている。しかし実際は、主は物質的な姿を持たない。
解説
ヴィシュヴァ・ルーパあるいはヴィラーット・ルーパとして知られる主の概念は、主のさまざまな化身と共に述べられていませんが、それは既述の化身は全て超越的であり、その化身の体は超越的で、物質的な概念のかけらもないからです。束縛された魂の体とは違い、主の化身の体と主ご自身には違いがありません。ヴィラーット・ルーパは初心の崇拝者が知覚できる概念です。初心者のためにヴィラーット・ルーパが示されるのであり、そのことは本書の第2編でも説明されています。さまざまな惑星の物質的な表れは、ヴィラーット・ルーパの中の主の足や手などとして描写されています。これらはどれも初心者のための説明です。初心者は物質を超えたものを知覚することができません。主に関する物質的な概念は、主の真実の姿を示すものとしては挙げられていません。主は、パラマートマー、すなわち超霊魂として、全ての物質の姿や原子の中にさえ存在しますが、外側の物質的な姿は主にとっても生命体にとっても想像の産物です。束縛された魂が持っている現在の姿は真実ではありません。結論として、主のヴィラートとしての体に関する物質的概念は想像上のものだと言うことができます。主と生命体は双方とも命を持つ精神魂であり、本来の精神的な体を持っています。
節
yathā nabhasi meghaugho
reṇur vā pārthivo ’nile
evaṁ draṣṭari dṛśyatvam
āropitam abuddhibhiḥ
reṇur vā pārthivo ’nile
evaṁ draṣṭari dṛśyatvam
āropitam abuddhibhiḥ
訳語
yathā—ありのままに; nabhasi—空の; megha-oghaḥ—雲のかたまり; reṇuḥ—埃; vā—同様に; pārthivaḥ—濁り; anile—空気の; evam—そのように; draṣṭari—見る者にとって; dṛśyatvam—見る目的で; āropitam—埋め込こまれる; abuddhibhiḥ—知性に欠ける人々によって。
翻訳
雲と埃は空気によって運ばれるが、知性に欠ける人々は、空が曇り、空気が汚いと言う。同じように、彼らは精神魂を物質的な肉体観念で見ようとする。
解説
この節は、物質的な目や感覚では完全に精神的である主を見ることはできないという事実をさらに裏付けています。私たちには生物の肉体のなかに存在する精神的火花さえ見ることができません。生命体の外側を包んでいる肉体や微細な心を見ることはできても、体内にいる精神的火花を見ることはできません。だからこそ、生命体の存在を目に見える体の存在を通して受け入れなくてはならないのです。同じように、物質的な目で主を見たいと思う人には、ヴィラーット・ルーパという巨大な外的姿を瞑想することが勧められています。例えば、ある人が車に乗っている時、車は私たちからよく見えるので、車内の人物と車を同一視することがあります。大統領が専用車に乗っているのを見て、私たちは「大統領がいる」と言いますが、それは、車と大統領を同一視しているのです。同じように、主は内にも外にも存在していますが、神を見る資格もないのにすぐに神を見ようとする知性に欠ける人には、主の姿としてまず巨大な物質宇宙が示されるのです。この見方で空の雲と空の青さをよりよく理解することができます。空の青さと空そのものは違いますが、空は青いものだと思います。しかしそれは、凡人が考える一般的な概念です。
節
ataḥ paraṁ yad avyaktam
avyūḍha-guṇa-bṛṁhitam
adṛṣṭāśruta-vastutvāt
sa jīvo yat punar-bhavaḥ
avyūḍha-guṇa-bṛṁhitam
adṛṣṭāśruta-vastutvāt
sa jīvo yat punar-bhavaḥ
訳語
ataḥ—この; param—超えた; yat—であるもの; avyaktam—未現の; avyūḍha—姿としての形を持たない; guṇa-bṛṃhitam—その質に影響されて; adṛṣṭa—見ることができない; aśruta—聞くことができない; vastutvāt—そのような状態で; saḥ—それ; jīvataḥ—この; param—超えた; yat—であるもの; avyaktam—未現の; avyūḍha—姿としての形を持たない; guṇa-bṛṃhitam—その質に影響されて; adṛṣṭa—見ることができない; aśruta—聞くことができない; vastutvāt—そのような状態で; saḥ—それ; jīv
翻訳
粗雑な肉体の概念を超えた次元に、姿や形のない、見ることも聞くこともできない、未顕現の微細な体の概念がある。生命体は、この微細な状態を超えた姿を持っている。そうでなければ、誕生を繰り返すことはできないはずである。
解説
粗雑な物質でできた宇宙現象界が主の巨大な体として考えられるように、主の微細な姿があり、それは見ることも聞くこともできず、表されてもいません。しかし実際は、粗雑な、あるいは微細な肉体に関する概念は生命体との関連性においてのみ存在します。生命体は、粗雑な物質や微細な霊的存在を超えた自分本来の精神的姿を持っています。粗雑な体と霊的な機能は、生命体が目に見える肉体を去った瞬間に停止します。目が見えなくなったり、声も音も聞こえなくなったりするとき、その生命は逝ってしまった、と表現されます。熟睡している人の場合、体が動いていなくても、呼吸をしているのを見れば、生命体が体内にいることがわかります。ですから、生命体が体から出たとしても、それは命を持つ魂は存在していない、と結論づけることはできません。存在するはずです。そうでなければ、魂が誕生を繰り返すはずがありません。
結論として、主は超越的な姿で永遠に存在し、その姿は生物が持っているような粗雑な、あるいは微細な体とは全く違います。主の体と、生物の粗雑な、あるいは微細な体を比べることはできません。そのような概念は想像の産物です。生命体は自分本来の永遠で精神的な姿を持っているのですが、物質的な汚れのために束縛されています。
節
yatreme sad-asad-rūpe
pratiṣiddhe sva-saṁvidā
avidyayātmani kṛte
iti tad brahma-darśanam
pratiṣiddhe sva-saṁvidā
avidyayātmani kṛte
iti tad brahma-darśanam
訳語
yatra—その時にはいつでも; ime—これら全ての中に; sat-asat—粗雑と微細; rūpe—~の姿で; pratiṣiddhe—無力にされて; sva-saṃvidā—自己を悟ることで; avidyayā—無知によって; ātmani—自己のうちに; kṛte—強いられて; iti—そうして; tat—それが~である; brahma-darśanam—絶対者を見る方法。
翻訳
自己を悟った結果、肉体と微細な体が純粋な自己とは一切関係がないことを会得する人物は、その時に、主も自分も見ることができる。
解説
自己の悟りと物質的な幻想との違いは、肉体と微細な体として現れている物質エネルギーの一時的で幻想的な表れが、魂を包む表面上の覆いである、と悟ることにあります。その覆いは無知ゆえに起こります。しかし、人格神という人物がそのような覆いで包まれることはありません。このことに確固たる信念を持つことが解脱、すなわち絶対者を見るということです。つまり、完璧な自己の悟りは、神聖な精神生活を取り入れることによって達成できるのです。自己の悟りとは、肉体と微細な肉体が要求する物事に乱されず、自分本来の活動に真剣に打ち込むことにあります。行動への衝動は自己から湧き起こりますが、自己の本来の境地を知らなければ幻惑された行動として表れます。自己の関心は、無知によって肉体と微細な体の見地から決定されるため、何をしても、無益な行動を幾生涯も繰り返す結果になります。しかし、正しい教育を受けて自己が見つめられるようになった時、本来の自分の活動が始まります。ですから、自己の活動に励んでいる人はジーヴァン・ムクタ、すなわち束縛された環境においても解放されている人物と呼ばれます。
この完璧な自己の悟りの境地は、不自然な方法に頼るのではなく、常に超越的なお方である主の蓮華の御足にすがってこそ到達できるものです。『バガヴァッド・ギーター』で主は、「私は全ての生物の心の中にいる、そして私だけから全ての知識、記憶、忘却が発生する」と言っています。生命体が物質エネルギー(妄想の世界)を楽しみたいと思うと、主はその生命体を忘却という神秘的な力で包み、やがてその生命体は肉体と微細な体を本当の自分だと思い込むようになります。そしてその生命体が、超越的な知識の理解に触れ、忘却という足かせから逃れられるよう主に祈ったとき、主はいわれのない慈悲を示します。幻想のカーテンが取り除かれれば、その生命体は本当の自己を悟ることができます。そしてその生命体は、永遠で自分本来の立場から主への奉仕に励むようになり、束縛された生活から自由になっていきます。これらは全て主の外的な力、あるいは内的な力によって直接なされます。
節
yady eṣoparatā devī
māyā vaiśāradī matiḥ
sampanna eveti vidur
mahimni sve mahīyate
māyā vaiśāradī matiḥ
sampanna eveti vidur
mahimni sve mahīyate
訳語
yadi—もし、しかし; eṣā—彼ら; uparatā—静まる; devī māyā—幻想エネルギー; vaiśāradī—知識に満ちあふれ; matiḥ—悟り; sampannaḥ—~で満たされる; eva—確かに; iti—こうして; viduḥ—~を認識して; mahimni—栄光の中で; sve—自己の; mahīyate—~に立脚して。
翻訳
幻想の力が静まり、主の恩恵によって完全に知識に満たされた生命体は、自己の悟りを通してすぐに啓発され、栄光ある自分本来の境地に立脚する。
解説
主は絶対的かつ超越的なお方であるため、主の姿、名前、超越的な遊戯、質、親交者、エネルギーは全て主と同じです。主の崇高な力は、主の全能の力に従って作用します。そのエネルギーは外的、内的、そして境界エネルギーとして作用します。また主は全能の力によって、これらのどの力を使っても、どのようなことも実行できます。自らの意志で外的力を内的エネルギーに変えることもできます。ですから、もともと生命体を眩惑させるために使われている幻想エネルギーは、束縛された魂が後悔と改心をすることで、主の意志によってその力が弱まっていきます。そしてその同じ力が、清められた生命体が自己の悟りの道を歩けるよう助けます。このことについては電気の例を見ればわかりやすくなります。高度な技術を持つ電気技師は、電気を調節するだけで加熱と冷却の両方を使い分けることができます。同じように、今は生命体を誕生と死の循環に陥れようとしている外的力が、生命体を永遠の生活に導くために、主の意志で内的力に変化していきます。こうして生命体が主の恩恵を授かるとき、本来の正しい立場に置かれ、永遠の精神生活を満喫できるようになります。
節
evaṁ janmāni karmāṇi
hy akartur ajanasya ca
varṇayanti sma kavayo
veda-guhyāni hṛt-pateḥ
hy akartur ajanasya ca
varṇayanti sma kavayo
veda-guhyāni hṛt-pateḥ
訳語
evam—このように; janmāni—誕生; karmāṇi—活動; hi—確かに; akartuḥ—行動しない者の; ajanasya—誕生しない者の; ca—そして; varṇayanti—記述する; sma—過去の; kavayaḥ—博識者; veda-guhyāni—ヴェーダには見つけられない; hṛt-pateḥ—心の主。
翻訳
このように、博識な人々は、生まれることのない主の誕生と、活動することのない主の活動について説明する。その教えはヴェーダ経典にさえ見つけられない。主は心の主人である。
解説
主と生命体はもともと精神的な存在です。ゆえに両者とも永遠で、生まれも死にもしません。違いは、主のいわゆる誕生と他界は、生命体のそれと同じものではない、という点にあります。誕生し死んでいく生命体は、物質自然の法則に縛られています。しかし主のいわゆる誕生と他界は、物質自然の活動ではなく、主の内的勢力が働いている証拠です。偉大な聖者たちは人々が自己を悟ることができるように、この主題について説明しています。『バガヴァッド・ギーター』では主自ら、物質界での主のいわゆる誕生と活動は全て超越的であると述べています。そして、そのような活動を瞑想するだけで、私たちはブラフマンの悟りに達し、物質的な束縛から救われます。シュルティには誕生しない者が誕生しているかのように見える、と述べられています。主にはすべきことは何もありませんが、主は全能であり、全てが主によって自然になされているため、全てが自動的に起こっているように見えます。しかし実際は、至高人格神の出現と他界、そして活動は全て誰にも理解できないものであり、ヴェーダ経典にすら明かされていません。それでも主は束縛された魂に慈悲を注ぐために、超越的な誕生と活動を繰り広げます。私たちは、常に主の活動についての物語を聞くべきです。それは、最も簡単で、甘露に満ちたブラフマンの瞑想です。
節
sa vā idaṁ viśvam amogha-līlaḥ
sṛjaty avaty atti na sajjate ’smin
bhūteṣu cāntarhita ātma-tantraḥ
ṣāḍ-vargikaṁ jighrati ṣaḍ-guṇeśaḥ
sṛjaty avaty atti na sajjate ’smin
bhūteṣu cāntarhita ātma-tantraḥ
ṣāḍ-vargikaṁ jighrati ṣaḍ-guṇeśaḥ
訳語
saḥ—至高主; vā—交互に; idam—この; viśvam—表された宇宙; amogha-līlaḥ—無垢な行動をする者; sṛjati—創造する; avati atti—維持し、破壊する; na—ではない; sajjate—~に影響される; asmin—それらの中に; bhūteṣu—全生物の中の; ca—〜も; antarhitaḥ—内に住んでいる; ātma-tantraḥ—自己自立; ṣāṭ-vargikam—主の富の力全てに恵まれている; jighrati— 香りを嗅ぐように、表面的に執着している; ṣaṭ-guṇa-īśaḥ—6つの感覚の主人。
翻訳
常に純粋な活動をする主は、6つの感覚の主人であり、6つの富を完全に備えた全能者である。物質宇宙を創造し、維持し、破壊し、その行為にいささかも影響されることはない。主は全ての生命体の内に存在し、何ものにも左右されないお方である。
解説
主と生命体の主な違いは、主が創造者であり、生命体は創造された者、という点にあります。この節で主はアモーガ・リーラハと呼ばれていますが、それは主の創造の中に落胆すべきものは何もない、という意味が込められています。主の創造界の中で混乱を起こす者たちは自分自身が混乱しています。主は全ての物質的な苦しみを超越しています。なぜなら主は富、力、名声、美しさ、知識、そして放棄心という富を完全に備えたお方であり、ゆえに感覚の主人だからです。主は宇宙を創造し、維持し、やがて消滅させますが、その行為に影響されることはありません。主が宇宙を創造するのは、その中で三重苦に苦しめられている生命体たちを取り戻すためです。主は物質創造界と表面的に関わっていますが、それは、香りを放つ物体に直接触れずに香りを嗅ぐようなものです。ですから、神聖な質を持たない者は、どれほど努力しても主に近づくことはできません。
節
na cāsya kaścin nipuṇena dhātur
avaiti jantuḥ kumanīṣa ūtīḥ
nāmāni rūpāṇi mano-vacobhiḥ
santanvato naṭa-caryām ivājñaḥ
avaiti jantuḥ kumanīṣa ūtīḥ
nāmāni rūpāṇi mano-vacobhiḥ
santanvato naṭa-caryām ivājñaḥ
訳語
na—ではない; ca—そして; asya—主の; kaścit—誰でも; nipuṇena—手腕によって; dhātuḥ—創造者の; avaiti—知ることができる; jantuḥ—生命体; kumanīṣaḥ—貧弱な知識を使って; ūtīḥ—主の活動; nāmāni—主の名前; rūpāṇi—主の姿; manaḥ-vacobhiḥ—思索の力によって、あるいは言葉の力によって; santanvataḥ—示している; naṭa-caryām—芝居がかった行動; iva—のような; ajñaḥ—愚かな者。
翻訳
知識に乏しい愚かな人々は、まるで芝居の俳優のように振る舞う主のお姿や御名、そして行動を理解できない。また、そのようなことを想像することも、言葉で描写することもできない。
解説
誰も絶対真理の超越的な本質を正しく述べることはできません。そのため、主は頭脳と言葉を越えたお方である、と言われます。それでも、知識に欠ける人々は、主の活動について不完全な空想をしてみたり、間違った説明をしたりしています。普通の人にとって、主の活動、降誕、他界、名前、姿、身の回りの品々、人格、そして主にまつわる物事はどれも神秘のベールに包まれています。物質主義者には、果報だけを求めて働く者と経験に基づいて哲学を論じる者の2種類が存在します。前者は絶対真理について何も知りません。そして思索家も、果報的活動に挫折した後に絶対真理に関心を示し、推論を始めます。このような人々にとって絶対真理は摩訶不思議な存在でしかなく、奇術師の手品が子供には謎に包まれているのと同じです。至高存在の手品に惑わされている不信心な人々は、果報的活動や推論を巧みにこなしても、いつも無知の中にいます。そのような限られた知識しかない彼らには、神秘的で超越的な領域を貫くことはできません。思索家は、愚鈍な物質主義者や果報的活動者よりは高い意識を持っているかもしれませんが、幻想の力に縛られているために、姿や名前を持ち、行動する者は誰でも物質エネルギーの産物であると当たり前のように考えています。彼らにとって至高の精神魂に姿はなく、名前もなく、行動もありません。またそのような思索家は、主の超越的な名前と姿を俗的な名前や姿と同じ次元で考えるために、実は無知の中にいます。そのような貧弱な知識では、至高存在の本質を理解することはできません。『バガヴァッド・ギーター』で述べられているように、主は常に超越的な境地にあり、それは物質界にいるときも同じです。しかし無知な人々は、主を世界に誕生した一偉人として考えているため、幻想エネルギーに間違って導かれているのです。
節
sa veda dhātuḥ padavīṁ parasya
duranta-vīryasya rathāṅga-pāṇeḥ
yo ’māyayā santatayānuvṛttyā
bhajeta tat-pāda-saroja-gandham
duranta-vīryasya rathāṅga-pāṇeḥ
yo ’māyayā santatayānuvṛttyā
bhajeta tat-pāda-saroja-gandham
訳語
saḥ—彼だけが; veda—知ることができる; dhātuḥ—創造者の; padavīm—栄光; parasya—超越性の; duranta-vīryasya—偉大な力を持つ方の; ratha-aṅga-pāṇeḥ—主クリシュナ、手に馬車の輪を持つ方の; yaḥ—であるお方; amāyayā—無条件で; santatayā—中断することなく; anuvṛttyā—好意的に; bhajeta—奉仕をする; tat-pāda—主の蓮華の御足の; saroja-gandham—蓮華の花の香り。
翻訳
戦闘馬車の法輪を手に持つ主クリシュナの蓮華の御足に、無条件で、途切れることなく、好意的な奉仕をする者たちだけが、主の完全な栄光、力、そして超越性を持つ宇宙の創造者を知ることができる。
解説
果報的活動や心の推論による反動に全く関わりのない純粋な献身者だけが、主クリシュナの超越的な名前、姿、そして活動を知ることができます。純粋な献身者は主への純粋な奉仕によって個人的な利益を得ようとしません。ごく自然に、無条件の奉仕を続けます。主の創造世界にいる生物は全て、間接的に、または直接主に奉仕をしています。この主の法則に当てはまらない人は誰もいません。間接的に奉仕をしている人々は、主の幻想の力に強いられ、不本意ながら奉仕をしています。一方、主に愛されている代表者に導かれて直接主に奉仕をしている人々は、好意的に奉仕をしています。そのような好意的な召使いが主の献身者であり、主の恩恵と慈悲によって、崇高かつ神秘的な境地に入ることができます。しかし、推論だけに頼る人々はいつも暗闇の中にいます。『バガヴァッド・ギーター』が説くように、主は自ら、純粋な献身者を悟りの道へと導きます。彼らが自発的な思いから主にたゆまぬ愛情奉仕をしているからです。それが神の国に入る秘訣です。果報的活動者や推論者には、その国に入る資格はありません。
節
atheha dhanyā bhagavanta itthaṁ
yad vāsudeve ’khila-loka-nāthe
kurvanti sarvātmakam ātma-bhāvaṁ
na yatra bhūyaḥ parivarta ugraḥ
yad vāsudeve ’khila-loka-nāthe
kurvanti sarvātmakam ātma-bhāvaṁ
na yatra bhūyaḥ parivarta ugraḥ
訳語
atha—このように; iha—この世界で; dhanyāḥ—成功する; bhagavantaḥ—完璧に認識する; ittham—そのような; yat—であるもの; vāsudeve—人格神に; akhila—全てを包括する; loka-nāthe—全宇宙の所有者に; kurvanti—起こさせる; sarva-ātmakam—100%; ātma—精神魂; bhāvam—恍惚; na—決して〜ない; yatra—そこで; bhūyaḥ—再び; parivartaḥ—繰り返し; ugraḥ—恐ろしい。
翻訳
この世界では、そのような質問をするだけで人生を成功させ、全てを認識した境地に入ることができる。なぜなら、そのような質問によって全宇宙の所有者である人格神への超越的かつ恍惚愛が目覚め、恐ろしい誕生と死の繰り返しからの完全な解放が保証されるからである。
解説
シャウナカを筆頭とする聖者たちの質問は、ここでスータ・ゴースヴァーミーによって、その超越的な質ゆえに讃えられています。すでに結論づけられたように、主の献身者だけが主を幅広く理解できるのであり、他の人々に主のことは分かりません。ゆえに献身者は精神的な知識を全て完璧に認識しています。人格神は絶対真理に関する究極の存在です。非人格的ブラフマンと局所的パラマートマー(至高の魂)は人格神の知識に含まれます。ゆえに、人格神を知る人は、主の全能の力、主の拡張体など、主に関する全てを理解できるようになります。また、献身者はあらゆる面での成功者として祝福されます。主の完全な献身者は、誕生と死という恐ろしい物質的な苦悩を免れるのです。
節
idaṁ bhāgavataṁ nāma
purāṇaṁ brahma-sammitam
uttama-śloka-caritaṁ
cakāra bhagavān ṛṣiḥ
niḥśreyasāya lokasya
dhanyaṁ svasty-ayanaṁ mahat
purāṇaṁ brahma-sammitam
uttama-śloka-caritaṁ
cakāra bhagavān ṛṣiḥ
niḥśreyasāya lokasya
dhanyaṁ svasty-ayanaṁ mahat
訳語
idam—この; bhāgavatam—人格神と、純粋な献身者に関する記述を含む書物; nāma—その名前の; purāṇam—ヴェーダの補足; brahma-sammitam—主シュリー・クリシュナの化身; uttama-śloka—人格神の; caritam—活動; cakāra—編集された; bhagavān—人格神の化身; ṛṣiḥ—シュリー・ヴィヤーサデーヴァ; niḥśreyasāya—究極の善のために; lokasya—全ての人々の; dhanyam—全ての面で成功して; svasti-ayanam—全ての面で至福に満ちあふれて; mahat—全ての面で完璧な。
翻訳
この『シュリーマド・バーガヴァタム』は、神の文学の化身であり、主の化身であるシュリーラ・ヴィヤーサデーヴァによって編集された。この書物は万民の究極の幸福のためにあり、あらゆる面で完成し、あらゆる面で至福に満ち、あらゆる面で完璧である。
解説
主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブは『シュリーマド・バーガヴァタム』がヴェーダの全知識と歴史を記述した純粋な音の表れである、と宣言しました。人格神と直接関わりのあった偉大な献身者たちについて、選りすぐられた歴史が記載されているのです。『シュリーマド・バーガヴァタム』は主シュリー・クリシュナの文学としての化身であり、ゆえに主と同じです。私たちが敬意を込めて主を崇拝するように、『シュリーマド・バーガヴァタム』も同じ気持ちで崇拝しなくてはなりません。そうすることで、注意深く忍耐強い研究を通して、主の究極の祝福を授かることができます。神が光と至福に満ち、あらゆる面で完璧なお方であるように、『シュリーマド・バーガヴァタム』も同じ質に満たされています。読者は『シュリーマド・バーガヴァタム』を読むことで、至高のブラフマン、シュリー・クリシュナの超越的光に照らされます。しかしそれは、純粋な精神指導者を介して受け取るときに限られます。主チャイタニヤの側近の秘書であるシュリーラ・スヴァルーパ・ダーモーダラ・ゴースヴァーミーは、プリーにいた主を訪ねてくる人々に対して、人物のバーガヴァタムからバーガヴァタムを学ぶよう助言しました。人物のバーガヴァタムとは、自己を悟った正しい精神指導者のことで、望むべき結果を得るためには、その人物だけを通して、バーガヴァタムの教えを授かることができます。バーガヴァタムを研究すれば、主自らの存在を通して得られるあらゆる祝福を授かることができます。この書物は、主シュリー・クリシュナとじかに接触して得られる超越的な祝福を全て含んでいるのです。
節
tad idaṁ grāhayām āsa
sutam ātmavatāṁ varam
sarva-vedetihāsānāṁ
sāraṁ sāraṁ samuddhṛtam
sutam ātmavatāṁ varam
sarva-vedetihāsānāṁ
sāraṁ sāraṁ samuddhṛtam
訳語
tat—その; idam—この; grāhayām āsa—受け入れさせた; sutam—我が子に; ātmavatām—自己の悟りの; varam—最も尊い; sarva—全ての; veda—ヴェーダ経典(知識の書物); itihāsānām—全ての歴史の; sāram—神髄; sāram—神髄; samuddhṛtam—取り出されて。
翻訳
シュリー・ヴィヤーサデーヴァはヴェーダ経典と宇宙の歴史の中から真髄を抽出し、それを自己を悟った人物の中で最も尊ばれていた息子に伝えた。
解説
充分な知識のない人々は、ブッダが降誕した時代、つまり紀元前600年以後の歴史だけを受け入れ、経典に登場するそれ以前の歴史はどれも想像上の物語である、と考えています。しかし、実際はそうではありません。プラーナや『マハーバーラタ』で記述されている物語は、この惑星だけではなく、宇宙内に無数に存在する他の惑星にまつわるものであろうと、全て歴史上の事実なのです。時に、彼らにとって、この世界を超えた惑星の歴史は理解しがたいものに映ります。しかし、さまざまな惑星の環境は全て同じではありませんから、他の惑星にある歴史的事実がこの惑星の状況には合わない場合があります。さまざまな惑星のさまざまな環境や時と状況を考慮すると、プラーナに出てくる話は特に驚くべきことでもなく、また想像上の話でもありません。甲の薬は乙の毒という格言があります。ですから、プラーナの話や歴史を空想の産物と考えて無視すべきではありません。ヴィヤーサのような偉大なリシたちが経典を捏造するはずがありません。
『シュリーマド・バーガヴァタム』には、さまざまな惑星の歴史から選び抜かれた歴史上の事実が記述されています。そのために、全ての精神的権威者から『マハー・プラーナ』として認められています。これら歴史的出来事の特筆すべき重要性は、それらがさまざまな時代や環境において主の活動と関係がある、という点にあります。シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、自己を悟った人物の中でも最も優れた人物であり、このバーガヴァタムを父ヴィヤーサデーヴァから学問の対象として受け入れました。シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは偉大な権威者であり、『シュリーマド・バーガヴァタム』の主題が非常に重要であることから、その内容をまず最初に偉大な息子のシュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーに伝えました。この書物の内容は生クリームに例えられます。ヴェーダ経典は、知識に満ちた牛乳の海のような存在です。生クリームやバターが、牛乳から得られる最も美味なエッセンスであるように、『シュリーマド・バーガヴァタム』も、魅惑的で有益で、そして正真正銘の主と主の献身者のさまざまな活動をすべて記しているがために、それはヴェーダのエッセンスなのです。しかし、バーガヴァタムのメッセージを、不信心者たちや無神論者から、あるいは俗人のためにバーガヴァタムを語って商売にしている職業吟唱家たちから学んでも何も得られません。この教えはシュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーに伝えられたものであり、バーガヴァタの利益追求とは全く関係ありません。彼には商売をして家族を養う必要などありませんでした。ですから、『シュリーマド・バーガヴァタム』は、シュカデーヴァの代表者から学ぶべきであり、またその代表者は家族を養う義務のない、放棄階級の人物でなくてはなりません。牛乳はもちろん美味で栄養豊富な食品ですが、蛇が触れた牛乳は、栄養があるどころか、死をもたらすことさえあります。同じように、ヴァイシュナヴァの原則に厳格に従っていない者たちは、このバーガヴァタムを商売道具にして、多くの読者を精神的な死に追いやってはなりません。『バガヴァッド・ギーター』で主は、全てのヴェーダの目的は主(主クリシュナ)を知るためにあると述べ、また『シュリーマド・バーガヴァタム』は記録された知識という姿での主シュリー・クリシュナ自身です。ですから本書は、全てのヴェーダのクリーム(真髄)であり、シュリー・クリシュナに関連するあらゆる時代のあらゆる歴史的事実を含んでいます。まさに、全ての歴史の神髄をまとめた書物なのです。
節
sa tu saṁśrāvayām āsa
mahārājaṁ parīkṣitam
prāyopaviṣṭaṁ gaṅgāyāṁ
parītaṁ paramarṣibhiḥ
mahārājaṁ parīkṣitam
prāyopaviṣṭaṁ gaṅgāyāṁ
parītaṁ paramarṣibhiḥ
訳語
saḥ—ヴィヤーサデーヴァの息子; tu—再び; saṃśrāvayām āsa—それらを聞けるようにする; mahā-rājam—皇帝に; parīkṣitam—パリークシットという名の; prāya-upaviṣṭam—食糧や飲み物を摂取せずに死ぬまで座った人物; gaṅgāyām—ガンジス川の岸辺で; parītam—囲まれて; parama-ṛṣibhiḥ—偉大な聖者たちによって。
翻訳
ヴィヤーサデーヴァの息子、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、次にこのバーガヴァタムを偉大な皇帝パリークシットに伝えた。皇帝は、ガンジス川の岸辺で聖者たちに囲まれ、食べることも飲むこともやめて死を待っていた。
解説
全ての超越的なメッセージは師弟継承の鎖を通して正しく受け継がれます。この師弟継承をパランパラーと呼びます。ですから、バーガヴァタムであろうと他のヴェーダ経典であろうと、このパランパラーという繋がりから学ばなければ、知識は正しく伝わりません。ヴィヤーサデーヴァはシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーにその内容を伝え、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーからスータ・ゴースヴァーミーに同じ内容が受け継がれました。ですから、バーガヴァタムの教えはスータ・ゴースヴァーミー、あるいはその代表者から受け入れるべきであり、他の不適切な解釈者から受け入れてはなりません。
パリークシット皇帝は、自分がまもなく死ぬことを知り、すぐに王国と家族を後にしてガンジス川の岸辺に座って死ぬまで絶食する決意でいました。全ての偉大な聖者、リシ、哲学者、神秘家たちも、パリークシットが皇帝であったことから、集まって来ました。彼らは、皇帝がさしあたって何をすべきかについて多くの助言をしましたが、最後に、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーから主クリシュナについて聞くことが決まりました。このようにしてバーガヴァタムが語られることになったのです。
マーヤーヴァーダ哲学を説き、絶対者には姿も形もないという悟りを強調したシュリーパーダ・シャンカラーチャーリャも、議論からは何も得られないのだから主クリシュナの蓮華の御足に身を委ねるべきである、と説きました。シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャは『ヴェーダンタ・スートラ』について美辞麗句を並べた文法的な解釈は、死ぬ時には全く役に立たないことを間接的に認めました。死という極限状態において、私たちはゴーヴィンダの名前を唱えなくてはなりません。これが、全ての偉大な超越主義者たちからの助言です。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、死ぬ時にナーラーヤナの名前を唱えるべきだという同じ真理を以前から教えていました。それが全ての精神的活動の最重要点です。この永遠の真理に従って、『シュリーマド・バーガヴァタム』は有能なシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーによって語られ、それをパリークシット皇帝が聴きました。バーガヴァタムのメッセージの語り手と受け手双方が、同じ媒体を通して確実に救われたのです。
節
kṛṣṇe sva-dhāmopagate
dharma-jñānādibhiḥ saha
kalau naṣṭa-dṛśām eṣa
purāṇārko ’dhunoditaḥ
dharma-jñānādibhiḥ saha
kalau naṣṭa-dṛśām eṣa
purāṇārko ’dhunoditaḥ
訳語
kṛṣṇe—クリシュナの〜の中に; sva-dhāma—自らの住居; upagate—戻って; dharma—宗教; jñāna—知識; ādibhiḥ—一緒になって; saha—~と一緒に; kalau—カリ・ユガにおいて; naṣṭa-dṛśām—自分の視力を失った人々の; eṣaḥ—これら全て; purāṇa-arkaḥ—太陽のように光輝くプラーナ; adhunā—ちょうど今; uditaḥ—昇った。
翻訳
このバーガヴァタ・プラーナは太陽のようにまばゆくきらめき、主クリシュナが宗教や知識を伴って自らの住まいに去って行った直後に姿を現した。カリ時代における無知という漆黒の闇のせいで視力を失った人々は、このプラーナから光を得ることができるだろう。
解説
主シュリー・クリシュナは自分の永遠のダーマ、すなわち住まいをお持ちであり、永遠の親交者やさまざまな身の回りの品々と共にその世界を永遠に楽しんでいます。その永遠の住まいは主の内的勢力の現れであり、物質界は外的勢力の現れです。主は物質界に降誕する時、アートマ・マーヤーと呼ばれる内的勢力の中であらゆる品々と共に自らを表します。『バガヴァッド・ギーター』で主は、自分の力(アートマ・マーヤー)によって降誕する、とおっしゃっています。ゆえに主の姿、名前、名声、身の回りの品々や住まいなどは、物質の産物ではありません。主は、堕落した魂たちを呼び戻すために、そして主によって直接定められた宗教法典を再構築するために降誕します。神以外に、宗教原則を定められる者はいません。主、あるいは主から力を授かった適切な人物が宗教原則を決定することができます。真の宗教とは、神を知ること、主との関係を知ること、その関係に基づく義務を知ること、そして最後に物質の体を去ったあとに行く場所を知ることです。物質エネルギーに縛られている束縛された魂は、この生活の原則についてほとんど知りません。ほとんどの人々が、動物のように食べたり、眠ったり、恐れたり、性交するために生きています。宗教、知識、解脱の名のもとで感覚満足にふけっているのです。また、争いの時代、カリ・ユガの悪影響で彼らはさらに盲目になります。カリ・ユガに生きる人々は、さしずめ国王級の動物と言えます。精神的な知識にも信心深い宗教生活にもほど遠い生活をしています。彼らは微細な心、知性そして自我の範囲を超えたものは何も見えないほどに盲目ですが、発達した知識や科学、物質的な繁栄を鼻に掛けています。人生の究極目標を完全に見失ったがために、今の肉体を捨てた後で自分たちが犬や豚になるという危険に身をさらしています。人格神シュリー・クリシュナは、カリ・ユガが始まる直前に降誕し、カリ・ユガが始まったと同時に、自らの永遠の住まいに戻って行かれました。主が地上にいらっしゃった時、さまざまな活動を通して私たちに全てを示しました。特に『バガヴァッド・ギーター』を語り、偽りの宗教原則を全て根絶しています。そして物質界を去る前に、ナーラダを介してシュリー・ヴィヤーサデーヴァに力を授け、『シュリーマド・バーガヴァタム』の教えを編集させ、こうして『バガヴァッド・ギーター』と『シュリーマド・バーガヴァタム』は、正しく見る目を失ってしまった現代人に光を照らす存在となりました。言い換えれば、カリ時代に生きる人々が人生の本当の光を見ようと望むならば、この2つの経典だけを信頼するべきです。そうすれば人生の目標は達成されるのです。『バガヴァッド・ギーター』はバーガヴァタムの予備学習であり、『シュリーマド・バーガヴァタム』は至高善、主シュリー・クリシュナの権化です。ですから私たちは『シュリーマド・バーガヴァタム』を、主クリシュナを直接代表する書物として受け入れなくてはなりません。『シュリーマド・バーガヴァタム』の本質を見ることのできる人は、主シュリー・クリシュナその方を見ることができます。双方に違いはありません。
節
tatra kīrtayato viprā
viprarṣer bhūri-tejasaḥ
ahaṁ cādhyagamaṁ tatra
niviṣṭas tad-anugrahāt
so ’haṁ vaḥ śrāvayiṣyāmi
yathādhītaṁ yathā-mati
viprarṣer bhūri-tejasaḥ
ahaṁ cādhyagamaṁ tatra
niviṣṭas tad-anugrahāt
so ’haṁ vaḥ śrāvayiṣyāmi
yathādhītaṁ yathā-mati
訳語
tatra—そこで; kīrtayataḥ—語っている間; viprāḥ—ブラーフマナたちよ; vipra-ṛṣeḥ—その偉大なブラーフマナ・リシから; bhūri—素晴らしく; tejasaḥ—力強い; aham—私; ca—もまた; adhyagamam—理解できた; tatra—その集まりの中で; niviṣṭaḥ—完璧に集中して; tat-anugrahāt—彼の慈悲で; saḥ—まさにそのこと; aham—私; vaḥ—皆さんに; śrāvayiṣyāmi—聞いていただきたい; yathā-adhītam yathā-mati—私の悟りが及ぶ限り。
翻訳
博識なるブラーフマナたちよ。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーがそこで[パリークシット皇帝の前で]バーガヴァタムを語ったとき、私は全身全霊でその話を聞き、偉大で精神的な力がみなぎるシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーの慈悲によってバーガヴァタムを学ぶことができた。ではこれから、私がシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーから聞き、そして悟った同じ内容を皆さんに聞いていただきたいと思う。
解説
シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような自己を悟った偉大な魂からバーガヴァタムを聞けば、間違いなくこの書物の頁に主シュリー・クリシュナの存在を直接見ることができます。しかし、バーガヴァタムを語ってお金を稼ぎ、そのお金を使って性欲を満たすような、偽物の雇われ吟唱家からは、絶対に学ぶことはできません。性生活に没頭している人間たちと関わっている人は『シュリーマド・バーガヴァタム』を学ぶことはできません。これが『シュリーマド・バーガヴァタム』を学ぶ秘訣です。また、俗な学識を使ってバーガヴァタムを解釈する人間からも学ぶことはできません。主シュリー・クリシュナをこの書物の中に見い出したいのであれば、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーの代表者から学ぶべきであり、それ以外の人物から学んではなりません。それが正しい方法であり、それ以外の方法はありません。スータ・ゴースヴァーミーは、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーという偉大で学識あるブラーフマナから得たメッセージを語ることを望んでいる人物であるため、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーの正しい代表者です。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはバーガヴァタムを偉大な父親から聞いたとおりに語り、スータ・ゴースヴァーミーも、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーから聞いたとおりに語ろうとしています。ただ聞くだけでは不十分です。正しく傾聴して、内容を理解しなくてはなりません。ニヴィシュタは、スータ・ゴースヴァーミーがバーガヴァタムの甘露を耳から飲んだ、ということを表しています。それがバーガヴァタムを受け取る真の方法です。権威ある人物から熱心に聞けば、主クリシュナの存在を全てのページを通して理解できます。バーガヴァタムを知る秘訣がこの節で述べられています。心が純粋でなければ、全身全霊を傾けることはできません。行動が純粋でない人は、心を純粋にすることはできません。そして、食べること、眠ること、恐れること、性交することにおいても純粋でない者は、純粋な行動をとることはできません。しかし何とかして、相応しい人物から熱心にバーガヴァタムを学べば、学び始めた瞬間から、各頁に主シュリー・クリシュナを確実に見ることができます。
これで『シュリーマド・バーガヴァタム』の第1編・第3章、表題「クリシュナは全ての化身の源である」に関するバクティヴェーダンタの要旨解説を終了します。