シュリーマド・バーガヴァタム 1.3.37
節
na cāsya kaścin nipuṇena dhātur
avaiti jantuḥ kumanīṣa ūtīḥ
nāmāni rūpāṇi mano-vacobhiḥ
santanvato naṭa-caryām ivājñaḥ
avaiti jantuḥ kumanīṣa ūtīḥ
nāmāni rūpāṇi mano-vacobhiḥ
santanvato naṭa-caryām ivājñaḥ
訳語
na—ではない; ca—そして; asya—主の; kaścit—誰でも; nipuṇena—手腕によって; dhātuḥ—創造者の; avaiti—知ることができる; jantuḥ—生命体; kumanīṣaḥ—貧弱な知識を使って; ūtīḥ—主の活動; nāmāni—主の名前; rūpāṇi—主の姿; manaḥ-vacobhiḥ—思索の力によって、あるいは言葉の力によって; santanvataḥ—示している; naṭa-caryām—芝居がかった行動; iva—のような; ajñaḥ—愚かな者。
翻訳
知識に乏しい愚かな人々は、まるで芝居の俳優のように振る舞う主のお姿や御名、そして行動を理解できない。また、そのようなことを想像することも、言葉で描写することもできない。
解説
誰も絶対真理の超越的な本質を正しく述べることはできません。そのため、主は頭脳と言葉を越えたお方である、と言われます。それでも、知識に欠ける人々は、主の活動について不完全な空想をしてみたり、間違った説明をしたりしています。普通の人にとって、主の活動、降誕、他界、名前、姿、身の回りの品々、人格、そして主にまつわる物事はどれも神秘のベールに包まれています。物質主義者には、果報だけを求めて働く者と経験に基づいて哲学を論じる者の2種類が存在します。前者は絶対真理について何も知りません。そして思索家も、果報的活動に挫折した後に絶対真理に関心を示し、推論を始めます。このような人々にとって絶対真理は摩訶不思議な存在でしかなく、奇術師の手品が子供には謎に包まれているのと同じです。至高存在の手品に惑わされている不信心な人々は、果報的活動や推論を巧みにこなしても、いつも無知の中にいます。そのような限られた知識しかない彼らには、神秘的で超越的な領域を貫くことはできません。思索家は、愚鈍な物質主義者や果報的活動者よりは高い意識を持っているかもしれませんが、幻想の力に縛られているために、姿や名前を持ち、行動する者は誰でも物質エネルギーの産物であると当たり前のように考えています。彼らにとって至高の精神魂に姿はなく、名前もなく、行動もありません。またそのような思索家は、主の超越的な名前と姿を俗的な名前や姿と同じ次元で考えるために、実は無知の中にいます。そのような貧弱な知識では、至高存在の本質を理解することはできません。『バガヴァッド・ギーター』で述べられているように、主は常に超越的な境地にあり、それは物質界にいるときも同じです。しかし無知な人々は、主を世界に誕生した一偉人として考えているため、幻想エネルギーに間違って導かれているのです。