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第18章

マハーラージャ・パリークシット、ブラーフマナの少年に呪われる

sūta uvāca
yo vai drauṇy-astra-vipluṣṭo
na mātur udare mṛtaḥ
anugrahād bhagavataḥ
kṛṣṇasyādbhuta-karmaṇaḥ

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シュリー・スータ・ゴースヴァーミーが言った。「素晴らしい活動を行う人格神、シュリー・クリシュナの慈悲に守られたマハーラージャ・パリークシットは、母親の胎内で、ドローナの息子の武器に襲われても、焼かれることはなかった」

解説

ナイミシャーラニャの聖者たちは、マハーラージャ・パリークシットの素晴らしい統治について、特に彼がカリの権化を処罰し、カリが王国でどんな害も及ぼすことができないようにしたことを聞いて、驚異の念に打たれました。スータ・ゴースヴァーミーもまた同様にマハーラージャ・パリークシットの素晴らしい誕生と死について描写したいと望んでおり、それでナイミシャーラニャの聖者たちの関心を高めるために、この節を詠ったのです。
brahma-kopotthitād yas tu
takṣakāt prāṇa-viplavāt
na sammumohorubhayād
bhagavaty arpitāśayaḥ

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さらに、人格神に身を委ねることをいつも心がけていたため、ブラーフマナの少年の憤怒ゆえに自分を噛み殺しに来る翼を持つ蛇を恐れることも、そのことに乱されることもなかった。

解説

自らを委ねた主の献身者をナーラーヤナ・パラーヤナと言います。そのような人は、どのような場所も人も、いいえ、死さえも恐れません。彼にとっては何であろうと至高主ほど大切なものはなく、そのため、天国も地獄も同じ価値を持つものとして捉えます。どちらも主の創造界であることを、また、生も死も主によって作られた異なる状況であることを知っているのです。しかし、どのような条件や状況にあっても、ナーラーヤナを思い出すことが重要です。ナーラーヤナ・パラーヤナは、いつもそのように修練しています。マハーラージャ・パリークシットはそのような純粋な献身者でした。カリの影響を受けていた未熟なブラーフマナに誤って呪われても、それさえナーラーヤナから送られたもの、と受け止めました。母親の胎内で焼かれるところをナーラーヤナ(主クリシュナ)に救われたことを覚えていましたし、たとえ蛇に噛まれて死のうとも、それも主の意志ゆえに起こるという事実を知っていました。献身者は、絶対に主の意志には逆らいません。献身者にとって神が送ったものは何であっても祝福なのです。だからこそマハーラージャ・パリークシットはそのようなことに恐れも惑わされもしませんでした。それが主の純粋な献身者の証しです。
utsṛjya sarvataḥ saṅgaṁ
vijñātājita-saṁsthitiḥ
vaiyāsaker jahau śiṣyo
gaṅgāyāṁ svaṁ kalevaram

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さらに王は、関わりのある人々の元を去ったあと、ヴィヤーサの息子(シュカデーヴァ・ゴースヴァーミー)の弟子として自らを委ね、やがて人格神の真実の立場を理解することができたのである。そして最後にガンジス川のほとりで物質の身体を捨てた。

解説

この節にあるアジタという言葉は重要です。人格神、シュリー・クリシュナはアジタ、すなわち征服されない者と呼ばれており、本当に主はあらゆる面でその通りのお方です。誰も主の本当の立場を知りません。主は、知識を使っても征服することができません。私たちは主のダーマ、すなわち住処である永遠なるゴーローカ・ヴリンダーヴァナについて話を聞いていますが、この場所についてさまざまな解釈をする学者が多くいます。しかしパリークシット王が最も謙虚な弟子として身を委ねた相手であるシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような精神指導者の恩恵によって、主の本当の立場、主の永遠の住処、そしてそのダーマにある崇高な全ての出来事や物事を知ることができます。王は、主の超越的な境地について、そしてその超越的なダーマに近づくことのできる超越的な方法を知っていたからこそ、自分の究極目的地を確信し、またそう理解することで、自分の体さえも含む物質的なもの全てを、執着という困難すら感じることなく捨てることができました。『バガヴァッド・ギーター』ではparaṃ dṛṣṭvā nivartateと言われています。パラム、すなわち物事の優性な質を見ることができる人は、物質的執着に関係のあるもの全てを捨てることができます。私たちは『バガヴァッド・ギーター』を通して、物質のエネルギーを超えた主のエネルギーを理解することができますし、主が優性エネルギーを通して自分の永遠な御名、質、遊戯、品々、多様性を表しているのですが、そのエネルギーを、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような本物の精神指導者の恩恵を授かって理解することができます。主によるこの優性の、そして永遠のエネルギーを完全に知らなければ、絶対真理の真実について、推論に頼った理論を駆使しても、物質エネルギーから逃れることはできません。マハーラージャ・パリークシットは、主クリシュナの恩恵があったからこそ、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような人物の慈悲を授かったのであり、そのおかげで、征服されない主の本当の立場を知ることができました。ヴェーダ経典を学んで主を見つけ出すのは至難の業ですが、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような解放された献身者の慈悲さえあれば、主を理解するのはたやすいことです。
nottamaśloka-vārtānāṁ
juṣatāṁ tat-kathāmṛtam
syāt sambhramo ’nta-kāle ’pi
smaratāṁ tat-padāmbujam

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自らの生涯を、ヴェーダ聖歌に謡われた人格神にまつわる崇高な話題に耳を傾けることに捧げ、主の蓮華の御足をいつも思う者は、生涯最期の瞬間にさえ、誤解を持つ危険を冒さないことから、このような出来事が起こったのである。

解説

人生の最高完成は、生涯を閉じる瞬間に主の超越的な特質を思い出すことで達成できます。この人生の完成は、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような解放された魂、あるいはその師弟継承にいる人物たちによって謡われたヴェーダ聖歌を通して主の真の超越的質を学んだ人が達成できます。頭だけで考える推論家からヴェーダ聖歌を聞いても、何も得られません。同じことを、本当に自己を悟った魂から聞き、奉仕と従順な心でその内容を正しく理解すれば、全ては透明な水のように明らかになります。こうして従順な弟子は崇高な生活を送り、その生き方を人生最期まで貫くことができます。この科学的な方法に従えば、肉体機能の混乱ゆえに記憶が弱まる人生最期の瞬間にさえ主を思い出すことができます。普通の人には、死ぬときに何かを思い出すことは難しいものですが、主、真実の献身者、そして精神指導者の恩恵さえあれば、苦もなくその機会を自分のものにできます。そして、それがマハーラージャ・パリークシットによって実現されたのです。
tāvat kalir na prabhavet
praviṣṭo ’pīha sarvataḥ
yāvad īśo mahān urvyām
ābhimanyava eka-rāṭ

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その偉大で力強いアビマンニュの息子が世界の皇帝として君臨する限り、カリの権化が世にはびこる可能性はない。

解説

すでに説明したように、カリの権化はすでに地球に入り込み、自分の影響力を全世界に広げることを虎視眈々と狙っていました。しかし、マハーラージャ・パリークシットの存在ゆえに、本望が遂げられませんでした。それが優れた政府のあり方です。カリの権化のような混乱を作り出す者は、いつでも邪悪な活動を横行させようとしていますが、有能な国家の義務は、あらゆる手を尽くしてそのような勢いを食い止めることにあります。マハーラージャ・パリークシットはカリの権化に場所を与えたと同時に、カリの権化が国民を惑わせる機会すら与えませんでした。
yasminn ahani yarhy eva
bhagavān utsasarja gām
tadaivehānuvṛtto ’sāv
adharma-prabhavaḥ kaliḥ

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人格神、主シュリー・クリシュナが地球から去って行ったその日から、ありとあらゆる無宗教的活動をはびこらせるカリの権化がこの世界に入り込んだ。

解説

人格神、そして主の聖なる御名や質などは全て同じです。カリの権化は、人格神がいたために地球に入ることができませんでした。同じように、至高人格神の聖なる名前や質などをいつも唱える状況が整えられていれば、カリの権化が入る余地は全くありません。それが、世界からカリの権化を追い払う方法です。現代社会では物質科学が大きな発展を遂げ、音を空間に拡散させるラジオが発明されました。ですから、感覚を楽しませるだけの不快な音を響かせるかわりに、『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』が認めているように、主の聖なる御名、名声、活動にまつわる超越的な音を広める配慮をすれば、有利な環境が作られ、世界中に宗教原則がよみがえります。その結果、世界の退廃を防ごうと躍起になっている国の代表者たちの願いも叶います。主の奉仕に使いさえすれば、悪いものは何もありません。
nānudveṣṭi kaliṁ samrāṭ
sāraṅga iva sāra-bhuk
kuśalāny āśu siddhyanti
netarāṇi kṛtāni yat

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マハーラージャ・パリークシットは(花の)エキスだけを吸いとるミツバチのような現実主義者である。そしてカリ時代では、吉兆な物事はすぐに素晴らしい結果を生み出すが、不吉な行動は実際に行われてはじめて結果を生み出すことをよく知っている。だから彼は、決してカリの権化を嫌っていたわけではなかったのである。

解説

カリ時代は堕落の時代、と言われています。この堕落した時代にいる生命体は苦しんでいるため、至高主は彼らのために便宜を図ってくださっています。そのため主のご意志により、実際に罪深い行動をしなければ、生命体はその行いの犠牲にはなりません。それまでの時代では、罪なことを考えるだけでその行為の犠牲になっていました。逆に、現代に生きる生命体は、敬虔(ルビ:けいけん)な行いを頭に描くだけでその行為の結果を授かることができます。マハーラージャ・パリークシットは、主の恩恵を授かっているため、とても博識で経験豊富であり、単にカリの権化を嫌悪していたわけではありません。罪なことをする機会を彼に与えるつもりはなかったからです。臣民たちがカリ時代の罪な行いの犠牲にならないよう守っていましたし、同時に、カリ時代にも特定の場所を与えることで、十分に便宜を図ってやりました。『シュリーマド・バーガヴァタム』の終わりには、たとえカリ時代の非道な行いがあっても、カリ時代には素晴らしい利点がある、と述べられています。ただ、主の聖なる御名を唱えるだけで解放されるのです。こうしてマハーラージャ・パリークシットは、主の聖なる名前の唱名を組織的に広める努力をし、市民をカリの支配から救いました。偉大な聖者たちがときにカリ時代のために幸運を願うのは、この恩恵があるゆえなのです。ヴェーダにも、主クリシュナの活動について話し合えばカリ時代にある不遇を取り除くことができる、と述べられています。『シュリーマド・バーガヴァタム』の始めには、『シュリーマド・バーガヴァタム』を吟唱することで、至高主はすぐに私たちの心の中に捕まえられる、と言われています。これらが、カリ時代にある素晴らしい利点であり、マハーラージャ・パリークシットはこの利点を全て受け入れ、ヴァイシュナヴァ文化への信念を持ち続け、カリ時代を悪く思うことはありませんでした。
kiṁ nu bāleṣu śūreṇa
kalinā dhīra-bhīruṇā
apramattaḥ pramatteṣu
yo vṛko nṛṣu vartate

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知性のない者にとってカリの権化は強力だと感じるだろうが、自己を抑制する者たちにとっては恐れるものなど何もない、とマハーラージャ・パリークシットは考えていた。パリークシット王は虎のように強く、そして愚か者や軽率な者たちを気遣っていたのである。

解説

主の献身者でない人々は軽率で知性がありません。真に知的でなければ主の献身者になることはできないのです。主の献身者でなければ、カリの行動の餌食になります。マハーラージャ・パリークシットが従った行動様式、すなわち一般人に主の献身奉仕を広める思いがなければ、社会に健全な環境を作ることはできません。
upavarṇitam etad vaḥ
puṇyaṁ pārīkṣitaṁ mayā
vāsudeva-kathopetam
ākhyānaṁ yad apṛcchata

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聖者たちよ。私は皆さんの問いに答えて、敬虔なマハーラージャ・パリークシットの生涯と関連した主クリシュナの話についてほぼ全てを語った。

解説

『シュリーマド・バーガヴァタム』は主の活動を伝える歴史書です。そして主の活動は主の献身者たちと関連して行われています。ですから、献身者の話は主クリシュナの活動と何ら変わることがありません。主の献身者は、主の活動と純粋な献身者の活動を同じように捉えます。どちらも全て超越的だからです。
yā yāḥ kathā bhagavataḥ
kathanīyoru-karmaṇaḥ
guṇa-karmāśrayāḥ pumbhiḥ
saṁsevyās tā bubhūṣubhiḥ

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人生を完璧にまっとうしたいと願うのであれば、素晴らしい活動をする人格神の超越的な活動と特質にまつわる話題全てについて、素直な気持ちで聞かなくてはならない。

解説

主シュリー・クリシュナの超越的活動、質、御名を系統的に聞くことで、私たちは永遠の生活に近づくことができます。系統的に聞くとは、主について徐々に正しくありのままに知るということであり、主を正しくありのままに知るとは、『バガヴァッド・ギーター』が述べるように、永遠の生活に到達することを指しています。主シュリー・クリシュナのそのような超越的かつ栄光あふれる活動は、束縛された生命体への物質的報酬と考えられる生老病死の過程を止める治療法です。そのような完成された生活を極めることが人間生活のゴールであり、超越的な喜びの達成でもあります。
ṛṣaya ūcuḥ
sūta jīva samāḥ saumya
śāśvatīr viśadaṁ yaśaḥ
yas tvaṁ śaṁsasi kṛṣṇasya
martyānām amṛtaṁ hi naḥ

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徳高き聖者たちが言った。「威厳あふれるスータ・ゴースヴァーミーよ!あなたが長寿と永久の名声に恵まれますように。あなたは人格神、主クリシュナの活動を巧みに語る方だからです。これは、私たちのような限りある命を持つ者にとっては甘露とも言えましょう」

解説

人格神の超越的な質と活動を聞けば、主が自ら『バガヴァッド・ギーター』(4-9)で語ったことをいつも思い出すことができます。主の活動は、物質エネルギーとは異なる主の精神エネルギーによって現されるため、たとえ人間社会でなされるものであっても超越的です。『バガヴァッド・ギーター』が言うように、そのような活動をディヴィヤムと言います。言い換えれば主の活動は、物質エネルギーに縛られている普通の生命体のような活動や誕生ではない、ということです。また主の体は、一般の生命体のように物質的でも変化するものでもありません。そしてこの真理を主から直接、あるいは権威ある情報源を通して理解する人は、物質の体を去ったあとに再び生まれることはありません。啓発されたそのような魂は主の精神界に入ることを許され、主に超越的な愛情奉仕をすることができます。ですから、『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』で確証されているように、主の超越的な活動を聞けば聞くほど主の超越的な質をさらに深く知ることができ、こうして神のもとに帰る道を着実に進むことができます。
karmaṇy asminn anāśvāse
dhūma-dhūmrātmanāṁ bhavān
āpāyayati govinda-
pāda-padmāsavaṁ madhu

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私たちは、果報的活動でもあるこの火の儀式を始めたばかりですが、その行為そのものに数多くの不備があるため、どのような結果をもたらすのかわからないままに行っています。私たちの体は煙のために黒くなりましたが、あなたが私たちに分け与えてくださっている人格神ゴーヴィンダの蓮華の御足からあふれる甘露を感じ、本当に喜びを味わっています。

解説

ナイミシャーラニャの聖者たちが焚いた儀式の火からは、多くの欠陥があったために、間違いなく煙や疑いが作り出されました。最初の欠点は、カリ時代ではそのような儀式を首尾良くこなせる熟達したブラーフマナがほとんどいなかった、という点にあります。そのような儀式における矛盾は、いかなるものであっても儀式全体を台無しにし、そしてその儀式がもたらす結果は、農業においてそうであるように、予測不可能なものです。農耕から良好な結果を得られるかどうかは自然の摂理による降雨に依存しているため、結果は見越せません。同じように、カリ時代ではどのような儀式をしても、いかなる結果が得られるかどうか定かではありません。カリ時代の無節操で貪欲なブラーフマナたちは、カリ時代において真の結果をもたらす儀式執行は、主の聖なる名前を集まって唱える儀式だけであるという経典の教えを人々に教えず、無知な大衆にあやふやで名ばかりの儀式を見せびらかしているだけです。スータ・ゴースヴァーミーは、集まっている聖者たちに主の超越的な活動について説明し、聞いた彼らも主の超越的な活動を聞いて甘露を味わっています。これは、人が食べ物を食べて満足感を得られるのと同じように、実際に感じることができるものです。
ナイミシャーラニャの聖者たちは儀式の火から出てくる煙に苦しめられ、儀式の結果も定かではありませんでしたが、スータ・ゴースヴァーミーのような悟った人物から話を聞くことで、心から満足しました。『ブラフマ・ヴァイヴァルタ・プラーナ』では、ヴィシュヌがシヴァに、さまざまな不安に満ちたカリ時代の人々は、果報的活動や哲学的推論を無益に行うことしかできないけれども、献身奉仕をすれば結果は間違いなく得られ、エネルギーを無駄にすることはない、と話しています。言い換えれば、主に献身奉仕をしなければ、精神的な悟りにしろ物質的な恩恵にしろ、成功しないということです。
tulayāma lavenāpi
na svargaṁ nāpunar-bhavam
bhagavat-saṅgi-saṅgasya
martyānāṁ kim utāśiṣaḥ

訳語

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主の献身者とのふれあいは、たとえほんの一瞬であっても、天国の惑星の達成や、物質からの解放とは比べものになりません。ならば、死にゆく者たちのためにある物質的な繁栄という形の俗的な恩恵など、言うまでもありません。

解説

共通した論点がいくつかある場合、それらを比較することができます。しかし、純粋な献身者とのふれあいを物質的なものと比べることはできません。物質的な幸福に没頭している人たちは、月、金星、インドラローカのような天国の惑星に行きたいと強く願い、また物質的な哲学的推論に熟達している人々は物質的な束縛からの解放を強く願っています。こういった物質的な発達にことごとく見放された人は、反対の種類の解放、アプナル・バヴァ、つまり再び誕生しない境地を望むようになります。ところが主の純粋な献身者は、天界での幸せも、物質的束縛から解放されることも望みません。言い換えると、彼らにとって天界での物質的な喜びはどれも蜃気楼(ルビ:しんきろう)にすぎず、喜びや悲しみという物質的概念から解放されているからこそ、物質界にいながらすでに解放されているのです。これは、物質界にいようと精神界にいようと、純粋な献身者は超越的境地、すなわち主への愛情奉仕のなかで生きているということです。政府の役人は官庁にいても、あるいは家庭や別の場所にいても同じ境遇にいるように、献身者は主への超越的な奉仕だけに打ち込んでいるので、物質的なものとは一切関わりません。物質的なものに関わっていないのですから、肉体の死滅とともに終わってしまう国王や君主の地位といった物質的な恩恵から喜びを得られるでしょうか。献身奉仕は永遠で精神的ですから、終わりはありません。そして純粋な献身者の美質は物質的な美質とは全く異質のものですから、ふたつを比べることなどできるわけがありません。
ko nāma tṛpyed rasavit kathāyāṁ
mahattamaikānta-parāyaṇasya
nāntaṁ guṇānām aguṇasya jagmur
yogeśvarā ye bhava-pādma-mukhyāḥ

訳語

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人格神、主クリシュナ(ゴーヴィンダ)は、全ての生命体にとって唯一の保護者であり、その超越的な特質は、主シヴァや主ブラフマーのような神秘的力の主でさえ推し量ることはできません。甘露(ラサ)を巧みに味わえる者が、主にまつわる話題を聴いて完全満足し尽くしてしまう、ということがあり得るでしょうか。

解説

主シヴァと主ブラフマーは神々たちのなかでも主要な存在であり、神秘的な力を多分に備えています。例えば主シヴァは毒の海を飲み干しましたが、その毒は普通の生命体が一滴でも飲めばすぐに命を落とすほどでした。同じようにブラフマーは、主シヴァを含む力強い神々たちを創造するほどの力を備えています。ですからふたりはイーシュヴァラ、宇宙の主人と呼ぶこともできるでしょう。しかしそれでも、それが最上級の力というわけではありません。最も力強い方はゴーヴィンダ、主クリシュナです。主は超越性そのものであり、その超越的特質はシヴァやブラフマーといった力強いイーシュヴァラにも推し量ることができません。だからこそ主クリシュナは、最も偉大な生命体たちにとっての唯一の保護者なのです。ブラフマーも生命体のひとりとして数えられていますが、それでも私たち生命体のなかでも最も偉大な存在です。ではなぜ、全生命体のなかで最も偉大な者が主クリシュナの超越的な話題にそれほど魅了されるのでしょうか。主が全ての喜びの源だからです。誰もが、何をするにしても何かの喜びを味わいたいと思っていますが、主に超越的な愛情奉仕をしている人はそのような奉仕から尽きることのない喜びを味わうことができます。主は無限のお方であり、主の名前、特質、崇高な遊戯、身の回りの物事、多様性など、全てが無限であり、それを味わうことのできる人たちは無限の喜びを味わうのですが、その喜びに上限はありません。この事実は『パドマ・プラーナ』で確証されています。
ramante yogino ’nante
satyānanda-cid-ātmani
iti rāma-padenāsau
paraṁ brahmābhidhīyate
「神秘主義者は絶対真理者から無限の超越的喜びを味わっており、そのことから、至高の絶対真理者、人格神はまたラーマという名前で呼ばれている」
そのような超越的な話題は尽きることがありません。俗な物事には飽きるという法則がありますが、超越的物事に関しては飽きるという感情は起こりません。スータ・ゴースヴァーミーはナイミシャーラニャの聖者たちに向かって主クリシュナの話題を語り続けたいと思い、聖者たちも彼から話を喜んで聞き続ける思いを告げました。主は超越的で、その特質も超越的ですから、主にまつわる話題は、純粋な聴衆の聴きたいという思いをさらに強めてくれます。
tan no bhavān vai bhagavat-pradhāno
mahattamaikānta-parāyaṇasya
harer udāraṁ caritaṁ viśuddhaṁ
śuśrūṣatāṁ no vitanotu vidvan

訳語

翻訳

スータ・ゴースヴァーミーよ。あなたは博識で、主の純粋な献身者です。なぜならあなたは人格神だけを、奉仕を捧げる主要な対象としているからです。ですからどうか、物質的観念を超越している主の崇高な遊戯についてご説明ください。私たちはそのような話を聞きたいと心から願っています。

解説

主の超越的な活動について話す人にとっての崇拝と奉仕の対象者は、主クリシュナ、至高人格神のみであるべきです。そしてその話題を聞く聴衆には、主について聞こうとする熱い思いがなくてはなりません。両方の、つまり資格を備えた語り手と聴衆がそろえば、超越性について意気投合した話し合いを続ける環境が整ったと言えます。プロの吟唱家と物質的なことしか頭にない聴衆が話を交わしても本当の恩恵は得られません。職業吟唱家は、自分の家族を維持するためにみせかけのバーガヴァタ・サプターハを開き、物質的聴衆は宗教、富、感覚の満足、そして解放という俗な恩恵が目的でその話を聞きます。そのような『シュリーマド・バーガヴァタム』の話し合いによって、物質的な質という汚れから清められることはありません。しかし、ナイミシャーラニャの聖者たちとシュリー・スータ・ゴースヴァーミーが交わした話は超越的な次元でなされました。物質的な利益とは何の関係もないのです。聴衆も語り手もそのような会話を通して無限の超越的喜びを味わいますから、何千年もの間話し続けることができます。今ではバーガヴァタ・サプターハは7日間しか続けられず、その見せ物が終わると、聴衆も語り手もいつもの物質的な活動に戻ります。そのような愚かなことができるのは、ここで述べられているように、語り手はバガヴァトゥ・プラダーナではなく、聴衆もシュシュルーシャターンムではないからです。
sa vai mahā-bhāgavataḥ parīkṣid
yenāpavargākhyam adabhra-buddhiḥ
jñānena vaiyāsaki-śabditena
bheje khagendra-dhvaja-pāda-mūlam

訳語

翻訳

スータ・ゴースヴァーミーよ。それらの主の話題についてお話しください。解放に知性を固定していたマハーラージャ・パリークシットはその話題を通して、鳥の王者ガルダの保護所である、主の蓮華の御足を達成しました。それらの話題はヴィヤーサの子(シュリーラ・シュカデーヴァ)によって語られたのです。

解説

解放の道を歩んでいる生徒の間には、争点がいくつかあります。超越的な生徒とは、非人格論者と主の献身者のことです。主の献身者は主の超越的な姿を崇拝しますが、非人格論者はまばゆい光輝、すなわち主の体から放たれている光であるブラフマジョーティを瞑想します。この節では、マハーラージャ・パリークシットは、ヴィヤーサデーヴァの息子であるシュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーの教えを通して、主の蓮華の御足を達成したと言われています。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、はじめは非人格論者で、そのことを自ら『シュリーマド・バーガヴァタム』(2-1-9)で認めています。しかしその後、主の崇高な遊戯のとりこになり、献身者になりました。完璧な知識を備えるそのような献身者は、マハー・バーガヴァタ、つまり一流の献身者と呼ばれています。献身者は3段階、すなわちプラークリタ、マデャマ、マハー・バーガヴァタに分けられます。プラークリタ、三流の献身者は、主や主の献身者に関する特別の知識も備えておらず、寺院で主を崇拝します。マデャマ、二流の献身者は、主のことも、主の献身者のことも、初心の献身者のことも、そして献身者ではない人々のこともよく知っています。しかし、マハー・バーガヴァタという一流の献身者は全てを主と関連付けて見ますし、全ての人々と関連付けて主を見ます。ですからマハー・バーガヴァタは誰でも、特に献身者と非献身者との区別をつけません。マハーラージャ・パリークシットはそのようなマハー・バーガヴァタでした。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーというマハー・バーガヴァタの献身者から入門を授かったからです。彼は誰に対しても、カリの権化にさえとても優しかったのですから、他の人に対しては言うまでもありません。
このように、世界の超越的な歴史には、非人格論者であった後に献身者になった人物に関する記述が数多く残されています。しかし、献身者は絶対に非人格論者にはなりません。この真実がはっきりと証明しているのは、献身者が手に入れた超越的な境地は、非人格論者の境地よりも高いということです。『バガヴァッド・ギーター』(12-5)でも述べられているように、非人格論の境地にしがみついている人々は、真実に到達するのではなく、さまざまな苦しみを経験しています。ですから、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーからマハーラージャ・パリークシットに授けられた知識は、マハーラージャ・パリークシットが主への奉仕に到達するための助けになりました。そしてこの完璧な境地はアパヴァルガ、解放の完璧な境地、と呼ばれています。知識だけを得た解放は物質的な知識にすぎません。物質的束縛から自由になることが解放ですが、主への超越的奉仕を達成することが完璧な解放の境地です。その境地は、『シュリーマド・バーガヴァタム』(1-2-12)で説明されているように、知識と放棄を通して得られるものであり、そして完璧な知識の結果とは、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーによって授けられたように、主への超越的な奉仕を達成することです。
tan naḥ paraṁ puṇyam asaṁvṛtārtham
ākhyānam atyadbhuta-yoga-niṣṭham
ākhyāhy anantācaritopapannaṁ
pārīkṣitaṁ bhāgavatābhirāmam

訳語

翻訳

ですから、私たちを浄化させ、そして頂点の無限なる方にまつわる話をお授けください。それはマハーラージャ・パリークシットに対して語られ、そしてバクティ・ヨーガに満たされているからこそ、純粋な献身者にはとても尊いものです。

解説

マハーラージャ・パリークシットに対して語られ、そして純粋な献身者にとってとても尊いのが『シュリーマド・バーガヴァタム』です。『シュリーマド・バーガヴァタム』は総じて至高の無限なる方の活動にまつわる話が満載されているため、バクティ・ヨーガの科学、すなわち主の献身奉仕の科学です。ですからそれはパラ、至高の文献と言えます。知識や宗教について全て網羅されているのですが、特に主への献身奉仕に関する話題で満たされているからです。
sūta uvāca
aho vayaṁ janma-bhṛto ’dya hāsma
vṛddhānuvṛttyāpi viloma-jātāḥ
dauṣkulyam ādhiṁ vidhunoti śīghraṁ
mahattamānām abhidhāna-yogaḥ

訳語

翻訳

シュリー・スータ・ゴースヴァーミーが言った。「神よ。私たちは混合した階級の中に誕生しましたが、知識の豊富な偉大な人物に仕え、そして従うだけで高い階級を得ることができました。そのような偉大な魂たちと話を交わすだけで、すぐさま、低い家庭に生まれることによる資格の欠如を補うことができます」

解説

スータ・ゴースヴァーミーは、ブラーフマナの家系に誕生した人物ではありませんでした。混合のカースト、つまり非文化的な家庭の生まれです。しかし、シュリー・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーやナイミシャーラニャの聖者たちと気高い交流をすることで、低い生まれによって生じる資格のなさは全て洗い流されました。主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブはその原則通りにヴェーダの慣例を遂行し、その結果、低い家庭に誕生した人々、あるいはそのような誕生や行いゆえに資格がないとされた人々を献身奉仕の生活に高め、彼らをアーチャーリャ(権威者)としての立場に確立させました。誰でも、どんな人であっても、ブラーフマナやシュードラとして生まれても、社会のなかで世帯者や商人として働いていても、クリシュナの科学に精通すれば、アーチャーリャ、グル、精神指導者として迎えられる、と主は明言されました。
スータ・ゴースヴァーミーは、シュカデーヴァやヴィヤーサデーヴァのような偉大なリシや権威者からクリシュナの科学を学び、そして高尚な資格を備えていたため、ナイミシャーラニャの聖者たちでさえ、クリシュナの科学を『シュリーマド・バーガヴァタム』という形で彼から熱心に聞こうとしました。つまり、聞き、布教することを通じて、偉大な魂と二通りの交流に恵まれたということです。超越的な科学、すなわちクリシュナの科学は権威者から学ぶべきものであり、その科学を布教する人は、さらに資格を高めることができます。このように、スータ・ゴースヴァーミーは両方の利点に恵まれたのであり、間違いなく、低い誕生と心の苦しみという無資格から完全に解放されていました。この節は、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはスータ・ゴースヴァーミーに超越的な科学を教えることを拒否したわけでもなく、またナイミシャーラニャの聖者たちも、相手が低い誕生だからという理由で聞くことを拒んだわけではないことをはっきりと証明しています。これは数千年前でさえ、劣る家庭に生まれても超越的な科学を学んだり広めたりすることには何の障害もなかったということです。ヒンドゥ社会のいわゆる厳格なカースト制度は、最近100年の間に、高いカーストに生まれても資格のないドゥヴィジャ・バンドゥたちが増えたことではびこるようになったものです。主シュリー・チャイタニヤは本来のヴェーダ体系を復活させ、そして自らイスラムの家庭に誕生したタークラ・ハリダーサを、ナーマーチャーリャという主の聖なる御名の栄光を布教する権威者としました。
それが主の純粋な献身者の力です。ガンジス川の水が純粋であることは誰もが認めるところであり、その水で沐浴をすれば純粋になることができます。しかし主の偉大な献身者に関して言えば、低い階級に生まれた人たちは、ただその献身者を見るだけで、堕落した魂を清めることができるのですから、じかに交流することの結果は言うまでもありません。主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブは資格ある布教徒を全世界に送ることで汚れた世界を清めたいと考えましたが、この使命を科学的に学び、最善の人道主義的活動を始めるかどうかはインド人次第です。現代人の心の病は、体の病気よりも深刻であり、できるだけ早く全世界に『シュリーマド・バーガヴァタム』を布教することが最もふさわしい方法です。この節のマハッタマーナーム アビダーナは、偉大な献身者の辞書、あるいは偉大な献身者の言葉が満載された本という意味です。偉大な献身者と主のそのような辞書とは、ヴェーダやそれに類する文献、特に『シュリーマド・バーガヴァタム』のことを指しています。
kutaḥ punar gṛṇato nāma tasya
mahattamaikānta-parāyaṇasya
yo ’nanta-śaktir bhagavān ananto
mahad-guṇatvād yam anantam āhuḥ

訳語

翻訳

ならば、無限の力を持つ無限なる方の聖なる御名を唱えている偉大な献身者たちの指導のもとにいる人々は、言うまでもありません。無限の力と超越的な特質を備えた人格神は、アナンタ(無限なる者)と呼ばれています。

解説

ドゥヴィジャ・バンドゥ、つまり高い階級に生まれたのに、知性もなく、文化的でない者は、低い階級に生まれた人が現世でブラーフマナになるという考えに反論します。シュードラの家庭、あるいはシュードラよりも低い階級での誕生は、前世の罪な行いのために起こることだから、そのような誕生ゆえに生じる不遇の期間を終えなくてはならない、と主張します。このような間違った考え方に対して『シュリーマド・バーガヴァタム』は、純粋な献身者に導かれて主の聖なる御名を唱える者は、低い階級に生まれたことによる不利な境遇からすぐに解放される、と言い切っています。純粋な献身者は、聖なる御名を侮辱することなく唱えます。聖なる御名の唱名には10の禁止事項があります。純粋な献身者に導かれて唱えれば、侮辱することなく唱えられます。侮辱せずに唱えることは超越的ですから、そのように唱えれば過去の罪全てからすぐに浄化されます。侮辱のない唱名は、聖なる御名の超越的質を知り尽くし、それゆえ主に身を委ねていることを示しています。主の聖なる御名と主自身は、どちらも超越的で絶対的であるため同じです。聖なる御名には主と同じ力があります。主はあらゆる力を備えた人格神であり、無数の御名を持ち、その御名は主と同じで、同じ力を備えています。主は『バガヴァッド・ギーター』の最後の言葉として、「完全に主に身を委ねた人は、その恩恵によりあらゆる罪から守られる」と断言なさっています。主の御名と主自身は同じですから、主の聖なる御名は、献身者を全ての罪の反動から守ってくれます。主の聖なる御名の唱名は、間違いなく私たちを、低い階級に生まれた不利な状況から救ってくれます。主の無限の力は、献身者と化身という無限の拡張体を通して広がり続けていますから、主の献身者や化身は全て、主と同じ力を備えることができます。献身者は主の力で満たされていますから、低い階級での誕生による不利な境遇のために邪魔されることなく突き進むことができます。
etāvatālaṁ nanu sūcitena
guṇair asāmyānatiśāyanasya
hitvetarān prārthayato vibhūtir
yasyāṅghri-reṇuṁ juṣate ’nabhīpsoḥ

訳語

翻訳

主(人格神)は無限なるお方であり、主と等しい者は誰もいないことがいま確かめられました。ゆえに、誰も主について正しく語り尽くすことはできません。偉大な神々でさえ、幸運の女神に祈りを捧げるだけではその恩恵を授かることはできません。しかし、まさにその幸運の女神自身が主に奉仕をしているのです。主が彼女の奉仕を受け入れるつもりがないにもかかわらずです。

解説

シュルティによると、人格神、すなわちパラメーシュヴァラ・パラブラフマンにはすることが何もない、と言われています。主に等しい者、匹敵する者、また主をしのぐ者もいません。主には無限の力があり、何をするにしても、その活動は自然に、完璧に、秩序正しく行われます。このように、至高人格神は自らの内で完璧なお方であり、ブラフマーのような偉大な神々をも含む誰からも何も受けとる必要はありません。普通の生命体は、幸運の女神の恩恵を求めていますが、女神はそのような祈りを捧げられても恩恵を授けることをためらっています。しかしそのような女神が至高人格神に対して奉仕をしているのです。主が彼女から受け取るものは何もないというのにです。ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌの姿としての人格神は、主に永遠に仕えている幸運の女神の胎内ではなく、自分のへそから延びている蓮華の茎の上でブラフマーを作りました。これらが、主が備える無欠の独立性と完璧さの例です。主にはすることがないからといって、主に姿がないわけではありません。主には人智を超える力が超越的にあふれ、主はただ望むだけで、特に自分で何かをしたり努力したりしなくても全ては行われます。ですから、主はヨーゲーシュヴァラ、全ての神秘的力の主人と呼ばれています。
athāpi yat-pāda-nakhāvasṛṣṭaṁ
jagad viriñcopahṛtārhaṇāmbhaḥ
seśaṁ punāty anyatamo mukundāt
ko nāma loke bhagavat-padārthaḥ

訳語

翻訳

人格神シュリー・クリシュナ以外に、至高主の名にふさわしい者がいるでしょうか。ブラフマジーは主シヴァを歓迎するため、主の御足の爪から流れ出ている水を集め、心を込めて捧げました。この水(ガンジス川)は主シヴァを含め全宇宙を清めることができるのです。

解説

無知な人々はヴェーダ経典が多くの神々について教えていると考えていますが、それは間違っています。主は唯一無二のお方ですが、自らを無数の姿に拡張させました。そのこともヴェーダが確証しています。主の拡張体に限りはありませんが、生命体もそのなかに含まれています。生命体は主の完全拡張体ほどの力はなく、そのため拡張体には2種類あります。主ブラフマーは生命体のひとりで、一方主シヴァは主と生命体の中間にいます。言い換えると、主ブラフマーや主シヴァほどの主要な神々でも、至高人格神、主ヴィシュヌとは等しくもなく、また主を凌ぐこともできないということです。幸運の女神ラクシュミー、ブラフマーやシヴァなど強力な神々はヴィシュヌあるいは主クリシュナを崇拝しています。ですから一体誰が、真に至高人格神と呼ばれるほど、ムクンダ(主クリシュナ)に匹敵する力を持っているでしょうか。幸運の女神ラクシュミジー、主ブラフマー、主シヴァも独立して力を持っているわけではありません。至高主の拡張体としての力を持っているのであり、私たち普通の生命体のように、彼らも主に超越的な愛情奉仕を行っています。崇拝に値する主の献身者の学派には4種類あり、そのなかでブラフマ・サンプラダーヤ、ルドラ・サンプラダーヤ、シュリー・サンプラダーヤが主要で、それぞれ主ブラフマー、主シヴァ、幸運の女神ラクシュミーから直接伝わっています。他に、サナトゥ・クマーラから伝わるクマーラ・サンプラダーヤがあります。この4種類の根源のサンプラダーヤに従う人たちは全て、現代に至るまで主への超越的な奉仕を誠実に行っており、誰もが異口同音に、主クリシュナすなわちムクンダこそが至高人格神であり、主と等しい者も主を凌ぐ者も存在しない、と宣言しています。
yatrānuraktāḥ sahasaiva dhīrā
vyapohya dehādiṣu saṅgam ūḍham
vrajanti tat pārama-haṁsyam antyaṁ
yasminn ahiṁsopaśamaḥ sva-dharmaḥ

訳語

翻訳

至高主である主クリシュナに心を没頭させ、自己抑制ができている人物は、粗雑な体や微細な心を含む物質的な執着の世界をすぐにでも捨てることができ、そして非暴力と放棄心を備えた放棄階級の生活という最高完成を達成するために、その世から立ち去ることができます。

解説

自己を抑制する人だけが至高人格神に徐々に執着できるようになっていきます。自己を抑制するとは、必要以上に感覚の楽しみに関わらないことを指します。抑制できない人は感覚の楽しみにふけっています。無味乾燥な推論も裏を返せば、心による微細な感覚の楽しみです。感覚の楽しみは私たちを暗闇の道に導きます。自己を抑制する人は、物質存在での条件付けられた生活から解放への道を突き進むことができます。ですからヴェーダは、暗闇の道ではなく、光の道、すなわち解放への道を突き進んでいなくてはならない、と教えています。自己の抑制は、物質的快楽のための感覚を不自然に止めるのではなく、純粋な感覚を超越的な主への奉仕に使うことにより実際に至高主に愛着することで達成されます。感覚を無理矢理抑えることはできませんが、しかるべき対象に向けることはできます。ですから浄化された感覚はいつでも主への超越的な奉仕に使われるものです。感覚を正しく使うこの完璧な境地がバクティ・ヨーガです。ですからバクティ・ヨーガに専念している人が本当に自己を抑制しているのであり、主への奉仕のために、家庭や肉体への執着をすぐにでも捨てることができます。これがパラマハンサの境地です。ハンサ、つまり白鳥は、牛乳と水が混ざっていても牛乳だけを飲むことができます。同じように、マーヤーへの奉仕ではなく主への奉仕をする人物をパラマハンサといいます。彼らは、高慢さや虚栄心のない心、非暴力、忍耐心、純朴な心、尊ぶ気持ち、崇拝、献身、誠実さなど、優れた気質をごく自然に備えています。このような高貴な質は全て、主の献身者のうちにおのずと備わっているものです。主への奉仕に完全に専心しているパラマハンサは、解放された魂の中にさえ、めったに存在しません。本当の非暴力とは、誰をも妬む気持ちがないことをいいます。物質界では、誰もが隣人を妬んでいます。しかし完璧なパラマハンサは、主への奉仕に全てを委ねているので、人を妬む気持ちはみじんもありません。全ての人を至高主と結びつけて愛しているのです。また真の放棄心とは、神にすっかり身を委ねることを指します。どの生物も他の生物に頼っています。そのように作られているのです。実際、誰もが至高主の慈悲のおかげで生きていられるのですが、主との絆を忘れてしまうと、物質自然界の条件に頼るようになります。放棄とは、物質自然界の条件に頼らず、主の慈悲だけにすがることを指します。真の独立とは、物質界の条件に頼るのではなく、主の慈悲に対する完全なる信念を持つことを意味します。これがパラマハンサの境地であり、至高主への献身奉仕であるバクティ・ヨーガにおける最高完成の境地です。
ahaṁ hi pṛṣṭo ’ryamaṇo bhavadbhir
ācakṣa ātmāvagamo ’tra yāvān
nabhaḥ patanty ātma-samaṁ patattriṇas
tathā samaṁ viṣṇu-gatiṁ vipaścitaḥ

訳語

翻訳

さて、リシたちよ。太陽のようにとても純粋な心を備えた皆さんに、私の知識の及ぶ限り、ヴィシュヌの超越的な遊戯について話したいと思う。鳥たちが力の及ぶ限り空を飛びつづけるように、博識な献身者たちは悟りの程度に応じて、主について説明するのである。

解説

至高絶対真理者は無限なお方です。限られた能力しかない生命体には、無限なるお方を知り尽くすことなど到底できるものではありません。主は非人格的でもあり、人格的でもあり、また局所的でもあります。姿のない様相としては遍在するブラフマン、局所的様相としては全生命体の心臓の内に住むお方、人格としての究極の様相では、主の幸運な交流者である、純粋な献身者の超越的な愛情奉仕の対象者です。さまざまな様相を通して繰り広げられる主の崇高な遊戯は、偉大で博識な献身者によって部分的に悟られるにすぎません。ですから、シュリーラ・スータ・ゴースヴァーミーは、主の遊戯について自分が知っていることだけを語るという正しい姿勢を示しています。実際、主自身について語ることができるのは主しかいませんし、主の博識な献身者は、説明する力を主から授かってこそ、説明することができるのです。
ekadā dhanur udyamya
vicaran mṛgayāṁ vane
mṛgān anugataḥ śrāntaḥ
kṣudhitas tṛṣito bhṛśam
jalāśayam acakṣāṇaḥ
praviveśa tam āśramam
dadarśa munim āsīnaṁ
śāntaṁ mīlita-locanam

訳語

翻訳

かつて、マハーラージャ・パリークシットは弓矢を手に森へ狩りに出かけ、鹿を追っている時に激しい疲れ、飢え、喉の渇きに襲われた。水を求めて歩き、やがて名高いシャミーカ・リシの小屋を見つけて中に入り、目を閉じて静かに座っているリシを見かけた。

解説

至高主は純粋な献身者にとても優しく、しかるべき時にその献身者を自分のもとに呼び寄せ、そうしてその彼にとって吉兆な状況を作ります。マハーラージャ・パリークシットは純粋な献身者でしたから、どうしようもなく疲れたり、飢えたり、喉が渇いたりするようなことはありません。なぜなら主の純粋な献身者は体の要求に心乱されることは決してないからです。しかし主の望みによって、献身者が俗的な活動を放棄するのに都合のよい状況を作り出すために、このような献身者でさえも疲れたり喉が渇いたように感じられるのです。神の元に帰るには世間への執着を全て捨てなくてはなりませんから、献身者があまりにも世俗的なことに夢中になると、それに無関心にさせる状況を主が作ります。たとえ純粋な献身者がいわゆる世俗的なことに従事していたとしても、至高主はその人を絶対に忘れません。ときに、主は苦しい状態を作り出すことがあり、そのために献身者は世俗のことを放棄しなくてはならなくなります。献身者は主の合図を通して気づきますが、献身者ではない人は、実に厄介で面倒なことになったと考えます。マハーラージャ・パリークシットは主シュリー・クリシュナの考えで、『シュリーマド・バーガヴァタム』を世に示す媒体者になる定めにありましたし、それは祖父のアルジュナが『バガヴァッド・ギーター』の媒体者となった状況と同じです。仮にアルジュナが、主の意志により家族への愛着という幻想を捨てなかったら、全ての人々の幸せのために主が『バガヴァッド・ギーター』を語ることはなかったことでしょう。同じように、マハーラージャ・パリークシットが疲れ、空腹になり、喉が渇かなかったとしたら、『シュリーマド・バーガヴァタム』も、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーというこの経典の主要な権威者によって語られなかったはずです。ですからこれは、全ての人々に対する恩恵のために『シュリーマド・バーガヴァタム』が語られる前兆だったのです。そのため、この前兆は「かつて」という言葉で始まっています。
pratiruddhendriya-prāṇa-
mano-buddhim upāratam
sthāna-trayāt paraṁ prāptaṁ
brahma-bhūtam avikriyam

訳語

翻訳

ムニの感覚器官、呼吸、心、知性は全て物質的な活動から切り離され、至高の絶対者と質的に等しい超越的な境地に到達し、3つの段階(目覚めた状態、夢、無意識)を超えた法悦境にいた。

解説

王が入った小屋にいたムニは、ヨーガの法悦境にいたかのように見えました。その超越的な境地は、3つの方法、すなわち超越性に関する理論的知識であるジュニャーナ、肉体の生理的、心理的機能を操作することによって法悦境を実際に達成するヨーガの方法、そして感覚を主への献身奉仕に使う方法である最も認められたバクティ・ヨーガによって得られます。『バガヴァッド・ギーター』からも、意識を物質から生命体に徐々に高めていくことについての知識を得ることができます。物質的な心や体は、生命体、すなわち魂から作り出されますが、物質の3つの質に影響されている私たちは自己の本質を忘れてしまっています。ジュニャーナは、魂の真実性について理論的に推測する方法です。しかしバクティ・ヨーガは精神魂を活動に向けます。物質の受容を超えたところに微細な感覚の段階があります。その感覚を超えたところに、より微細な心があり、そして呼吸活動、やがて知性へと高められていきます。知性を超えた存在、すなわち精神魂は、ヨーガ法という機械的な活動によって、あるいは感覚を抑制する瞑想の修練によって、呼吸を制御し、知性を超越的な境地に高めることに使うことで悟ることができます。この法悦境に入れば、体の物質的活動は止まります。王は、その境地にいるムニを見たのでした。王はまた、次のようにムニを描写しています。
viprakīrṇa-jaṭācchannaṁ
rauraveṇājinena ca
viśuṣyat-tālur udakaṁ
tathā-bhūtam ayācata

訳語

翻訳

深い瞑想の中にあったその聖者は、鹿革の衣服をまとい、長く、そして固まった長髪が全身に絡みついていた。喉が渇ききっていた王は、水を乞うた。

解説

喉が渇いていた王は水を求めました。これほどの偉大な献身者が、恍惚の境地にあった聖者に水を求めたのですから、背後に神の意志が働いていたことに間違いはありません。そうでなければ、これほどまれなことが起こるわけがないのです。マハーラージャ・パリークシットはこうして苦境に陥り、やがて『シュリーマド・バーガヴァタム』が世に示されることになりました。
alabdha-tṛṇa-bhūmy-ādir
asamprāptārghya-sūnṛtaḥ
avajñātam ivātmānaṁ
manyamānaś cukopa ha

訳語

翻訳

王は、座る場所、水、歓迎の挨拶など、作法に則ったもてなしを受けなかったため、自分は無視されたと感じ、怒りをあらわにした。

解説

ヴェーダ原則によって規定されている歓迎の作法では、たとえ訪ねてきた相手が敵だとしても丁重にもてなさなくてはならない、とされています。客が、自分の敵の家に来たことを理解できないように迎えます。主クリシュナは、アルジュナとビーマを連れて、マガダ国のジャラーサンダを訪ねましたが、ジャラーサンダ王は、尊敬に値する自らの敵を壮麗に出迎えました。客人でもある敵、つまりビーマはジャラーサンダと戦うことになっていたのですが、それでも丁重な歓迎を受けたのです。夜になれば、友人と客人として座り、昼になれば命をかけて激しく戦いました。それが接待の決まりです。接待の決まりとして、客人が来ても何も出せないほど貧しい人は、質素であっても座るむしろを差し出し、水一杯を出して、やさしい言葉をかけなくてはなりません。ですから、客人を迎えることは、それが友人であろうと敵であろうと、お金はかかりません。大切なのは心のこもったもてなしです。
マハーラージャ・パリークシットはシャミーカ・リシの小屋に入る際、リシからたいそうな歓待を期待していたわけではありません。聖者やリシは物質的に裕福ではないからです。しかしさすがに、質素な座も、一杯の水も、歓迎の言葉もないとは思っていませんでした。ありきたりの客人ではないし、リシの敵でもありませんでしたから、リシから冷淡に迎えられたことに、王はとても驚きました。実際、一杯の水を何よりも求めたので、王には怒る権利があったのです。これほどの由々しい状況に置かれれば王が怒るのもうなずけるのですが、偉大な聖者以上の人物でもあったので、激怒して行動を起こしたことには驚かされます。ですから、これは主の至高の意志によって定められたのだ、と考えてしかるべきところです。王は主の偉大な献身者であり、聖者も王と同等な質を備えていました。しかし主の意志があったからこそ、この状況を通して王が家族との関係や政界から離れ、やがて主クリシュナの蓮華の御足に完全に身を委ねる機会が作り出されたのでした。慈悲深い主は、純粋な献身者たちを物質存在の只中から自分の元に引き寄せるために、このような苦境を作ったりします。しかし外見上は、献身者にとっては困難な状況だと感じられます。主の献身者はいつでも主に守られており、どのような状況に置かれても、それが失敗であろうと成功であろうと、主が献身者にとって最高の導き手であることにかわりありません。ですから純粋な献身者は、どのような挫折も主からの祝福だと受けとるのです。
abhūta-pūrvaḥ sahasā
kṣut-tṛḍbhyām arditātmanaḥ
brāhmaṇaṁ praty abhūd brahman
matsaro manyur eva ca

訳語

翻訳

ブラーフマナたちよ。飢えと渇きという苦境に苦しめられた王は、今までブラーフマナに対して向けたことのない怒りと嫌悪感を、そのブラーフマナの聖者に向けた。

解説

マハーラージャ・パリークシットほどの王にとって、怒ったり嫌悪したりするのは、とりわけ相手が聖者やブラーフマナとあれば、前例がなかったはずです。パリークシット王は、ブラーフマナ、聖者、子ども、女性、老人は、何があっても処罰の対象にはならないことをよく知っていました。さらに王は、たとえ大きな間違いを犯しても、悪事を働いたことにはなりません。しかしこの場合、マハーラージャ・パリークシットは、自分の飢えと渇きのために、そして主の意志が働いていたこともあって、聖者に怒りと嫌悪感を感じています。王は、自分を冷淡に迎えたり無視したりする国民を処罰する権利がありますが、その相手が聖者やブラーフマナだったのですから、前例がありませんでした。主は誰をも嫌悪することのないお方ですから、主の献身者も、誰かを嫌悪することはありません。マハーラージャ・パリークシットがこのような態度をとった唯一の理由は、主が計画なさったことだったからです。
sa tu brahma-ṛṣer aṁse
gatāsum uragaṁ ruṣā
vinirgacchan dhanuṣ-koṭyā
nidhāya puram āgataḥ

訳語

翻訳

王は侮辱されたことに腹を立て、その場を離れる時に、死んだ蛇を弓で拾い上げて聖者の肩に掛けた。そして宮殿に戻っていった。

解説

王はこれまでにこのような愚行をしたことがありませんでしたが、こうして聖者に仕返しをしたのです。主の意志ゆえに、王は小屋を出て行く時に死んだ蛇を見つけ、自分を冷たくあしらったこの聖者に死んだ蛇の首飾りを掛けることで聖者が冷たい仕打ちを受けることになると考えたのでした。凡人ならあたりまえにすることでしょうが、マハーラージャ・パリークシットのブラーフマナ聖者に対するこのような仕返しはもちろん前例のないことでした。主の意志が背後で働いていたからこそ、このような事態になったのです。
eṣa kiṁ nibhṛtāśeṣa-
karaṇo mīlitekṣaṇaḥ
mṛṣā-samādhir āhosvit
kiṁ nu syāt kṣatra-bandhubhiḥ

訳語

翻訳

王は宮殿に戻る道すがら、その日の出来事に思いを巡らせていた。はたしてあの聖者は目を閉じて感覚を集中させ、本当に深い瞑想に入っていたのだろうか、もしや、自分より身分の低いクシャトリヤである私を迎えるのを避けようと、恍惚の境地に入っているふりをしていたのではないだろうか、と。

解説

パリークシット王は主の献身者でしたから、自分があのような行為に及んだことに納得がいかず、聖者が本当に恍惚の境地にあったのかどうか、あるいは国王という自分よりも身分の低いクシャトリヤを迎えたくなかったものだから、そのふりをしていたのではないか、と考えました。心優しい人が悪いことをすると、すぐにその心に後悔の念が湧き起こります。シュリーラ・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティー・タークラとシュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーは、パリークシット王の行為が過去の過ちによるものとは思っていません。彼をふるさとへ、神の元に呼び戻すための計らいだったのですから。
シュリーラ・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティーは、これこそ主のご意志で立てられた計画であり、そのご意志ゆえに失望の状況が整えられたと解釈しています。見た目には間違ったことをした王が、カリに影響された未熟なブラーフマナの少年に呪われ、そのために暖かい家庭から永遠に去っていく計画だったのです。彼のシュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーとの関係が、主の書物としての化身でもある、偉大なる『シュリーマド・バーガヴァタム』の出現を可能にしました。書物としての主の化身が、ヴラジャブーミにおける崇高な牛飼いの乙女たちとのラーサ・リーラのような超越的な遊戯について、私たちを魅了させる情報を提供してくれます。主が繰り広げたこの神々しい遊戯には特別な重要性があります。なぜなら、主のこの遊戯を正しく学んだ人は俗な性欲をきっぱりと捨て、主への崇高な献身奉仕の道を進んでいくからです。純粋な献身者が世俗への失望を感じるのは、その献身者がより高い超越的な境地に高められるためです。従兄弟たちの悪巧みを通してアルジュナとパーンダヴァ兄弟を失望させ、クルクシェートラの戦いのきっかけを作ったのは他ならぬ主です。『バガヴァッド・ギーター』という主の音の権化を化身させるためだったのです。同じように、パリークシット王がこのような厳しい状況に陥るという舞台が作られたことで、『シュリーマド・バーガヴァタム』という化身が主のご意志によって示されたのでした。飢えと渇きに苦しめられたのは見せかけにすぎません。王は母親の胎内でそれよりはるかにつらい思いに耐えています。アシュヴァッターマーが放ったブラフマーストラの灼熱の光に少しも乱されなかったのですから。王が体験した苦境は、確かに前例のないものでした。マハーラージャ・パリークシットほどの献身者は、そのような苦しみに耐える力を備えていますし、主の意志ゆえに、決して乱されることはありません。ですからこの一連の出来事は、主によって準備された計画だったのです。
tasya putro ’titejasvī
viharan bālako ’rbhakaiḥ
rājñāghaṁ prāpitaṁ tātaṁ
śrutvā tatredam abravīt

訳語

翻訳

その聖者にはひとりの息子がおり、ブラーフマナの息子ゆえの驚異的な力を備えていた。そして、未熟な他の子どもたちと遊んでいたとき、王がきっかけとなって起こった父親の問題を耳にした。そしてすぐさま、次のように語った。

解説

マハーラージャ・パリークシットが巧みに国を統治していたからこそ、幼い少年たちと遊んでいる未熟な少年でさえ、資格のあるブラーフマナに匹敵するほどの力を備えることができました。その少年の名をシュリンギといい、ブラフマチャリャ期の年齢であったのにも関わらず、ブラーフマナと同じ位強くなれるようにと彼は父親から優れた修練を受けていました。しかしカリ時代は、4つの生活階級という文化的財産を腐敗させる機会を狙っていたため、この未熟な少年は、カリ時代がヴェーダ文化圏内に入る機会を与えてしまったのです。低い生活階級を嫌う心は、カリに影響されたこのブラーフマナの少年から始まり、こうして文化的生活は日ごとに衰弱していきました。ブラーフマナによる不正行為で最初に犠牲になったのがマハーラージャ・パリークシットであり、こうして、カリの攻撃に対抗する王の保護の力は弱体化していったのです。
aho adharmaḥ pālānāṁ
pīvnāṁ bali-bhujām iva
svāminy aghaṁ yad dāsānāṁ
dvāra-pānāṁ śunām iva

訳語

翻訳

(ブラーフマナの子、シュリンギが言った)「国を治めるあの男がしでかした罪を、よく見るがいい。カラスか、あるいは扉の前に立っている番犬のように、公僕の決まりに反し、自分たちの主人に歯向かう罪を犯したのだ」

解説

ブラーフマナは社会という体の頭部あるいは頭脳、クシャトリヤは腕と考えられています。腕は、体が傷つけられないように守る役目がありますが、その腕は頭部と頭脳の指示に従って動かなくてはなりません。それが、至高の命令が定めたあり方です。『バガヴァッド・ギーター』でも、4つの社会体制、または階級、すなわちブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラは、各人の気質と仕事に応じて定められている、と確証されているからです。ブラーフマナの子どもに生まれれば、優れた質を備えた父親に導かれてブラーフマナになれるチャンスが用意されており、それはまた、医者の子どもが、やはりすぐれた医者の父に導かれて十分に質を備えた医者になる機会に恵まれているのと同じです。このように、カースト体制は極めて科学的に作られているのです。子どもは父親の気質を受け継がなくてはなりませんし、そうすれば、別の職務ではなく、ブラーフマナや医者になることができます。資質が伴わなければブラーフマナにも医者にもなれないのは、全ての経典や社会階級が定める通りです。ここに登場するシュリンギは、偉大なブラーフマナの優れた息子として、誕生と修練を通してブラーフマナの力を得ることができたのですが、未熟な少年ゆえに、正しい教養を身に付けていませんでした。カリに影響されたこのブラーフマナの息子は、ブラーフマナの力のために思い上がり、マハーラージャ・パリークシットをカラスや番犬と比べるという間違いを犯してしまいました。確かに、保護と防御のために国境に目を光らせているのですから、ある意味では、王を番犬と呼ぶことはできましょう。しかし、彼を番犬呼ばわりするのは、やはり実際に正しい修練を受けていない少年である証拠だと言えます。このようにして、ブラーフマナの力は彼らが正しい修練を受けずに生得権だけを重視するようになったことで、転落し始めたのです。ブラーフマナ階級の転落は、カリ時代から始まっています。そして、ブラーフマナは社会階級の頭部にあたりますから、その部分が衰退したことで、社会の他の階級も質が落ちていきました。ブラーフマナ文化の衰退の始まりは、これからはっきりしていくように、シュリンギの父によって大いに悔やまれることになります。
brāhmaṇaiḥ kṣatra-bandhur hi
gṛha-pālo nirūpitaḥ
sa kathaṁ tad-gṛhe dvāḥ-sthaḥ
sabhāṇḍaṁ bhoktum arhati

訳語

翻訳

王族の子孫など、番犬と呼ばれるにしかるべきもの。そして入り口に座らせておくべきものだ。そのような犬がどういう了見で家の中に入り込み、主人と同じ容器で食事をしたいなどと言えるのか。

解説

未熟なこの少年は、王が父に水を乞うたことも、そして父が答えなかったことも知っていたはずです。そして無教養の少年らしい生意気な態度で、父が冷たく客人をあしらったことを正しかったものと弁明しています。王が丁重に迎えられなかったことを気の毒に思う気持ちは全くありませんでした。それどころか、カリ・ユガのブラーフマナにありがちの間違った言い分で正当化しようとしています。王を番犬と比べ、王がブラーフマナの家に上がり込み、同じ容器で水を乞うなどもってのほか、というわけです。さらに、犬は主人に養われているとしても、だからといって主人と同じ容器で食べたり飲んだりできるわけがない、と言っています。このような間違った威信の思いこそが、完璧な社会階級が衰退してしまう元凶であり、この節からわかるように、それはブラーフマナの未熟な子どもに端を発しています。犬は部屋や炉端に入ることは許されないように、シュリンギの言い分では、王はシャミーカ・リシの家に入る権利はありませんでした。そして、間違っていたのは自分の父ではなく王のほうだと言い、こうして無言でいた父の立場を正当化しました。
kṛṣṇe gate bhagavati
śāstary utpatha-gāminām
tad bhinna-setūn adyāhaṁ
śāsmi paśyata me balam

訳語

翻訳

万民の至上の統治者、また我々を守るお方である人格神、主シュリー・クリシュナがこの世界から去って行ったあと、このような成り上がり者たちがのさばるようになった。だから今こそ、私がその問題を引き継ぎ、彼らを処罰してみせよう。私の力をよく見るのだ。

解説

たいしたブラーフマナ・テージャもないのに慢心している未熟なブラーフマナは、カリ・ユガの魔力に操られます。先に説明されたように、マハーラージャ・パリークシットはカリに4つの場所に住む許可を与えましたが、巧みに政治を行っていたため、カリは割り当てられた場所をほとんど見つけることができませんでした。そのため自分の権威を何とか確立させようとその機会をうかがっていたのですが、主の恩恵もあって、この思い上がった、しかも未熟なブラーフマナの息子を見つけたのです。この小さなブラーフマナは、自分が持つ破壊力を見せびらかすつもりで、マハーラージャ・パリークシットのような偉大な国王を処罰するという厚かましい行動に出ました。主が地球を去って行ったあと、その場所に自分が収まるつもりだったのです。これらが、カリ時代に影響され、シュリー・クリシュナの代わりになろうとする成り上がり者に見られる主な兆候です。彼らはたいした力もないのに、主の化身になりたがります。主クリシュナが去って行ったあと、世界各地に偽物の化身がたくさん現れ、偽の名声を維持するために大衆が持つ精神的従順さを利用し、無知な彼らを間違って導いています。つまりカリの権化は、このブラーフマナの子、シュリンギを通して世界に君臨する機会を得た、ということです。
ity uktvā roṣa-tāmrākṣo
vayasyān ṛṣi-bālakaḥ
kauśiky-āpa upaspṛśya
vāg-vajraṁ visasarja ha

訳語

翻訳

リシの息子の目は怒りのためにまっ赤になり、カウシカ川の水に触れ、遊び友達の前で次のような雷鳴にも似た言葉を放った。

解説

マハーラージャ・パリークシットが呪われた状況は子どもじみていた、としか言いようがありません。この節からそのことがわかります。シュリンギは、無邪気な遊び友達に向かって、自分の傲慢さを誇示していました。正気な人なら、全人類社会に害を及ぼす彼を制止したはずです。マハーラージャ・パリークシットのような王を、ただブラーフマナの力をひけらかすだけのために殺すことで、このブラーフマナの未熟な息子は大きな間違いを犯してしまったのでした。
iti laṅghita-maryādaṁ
takṣakaḥ saptame ’hani
daṅkṣyati sma kulāṅgāraṁ
codito me tata-druham

訳語

翻訳

ブラーフマナの子が王を次のように呪った。「あの王家の最悪の男(マハーラージャ・パリークシット)は、私の父を侮辱して礼儀作法を破ったため、きょうから7日後、翼を持つ蛇に噛まれることだろう」

解説

こうしてブラーフマナによる力の誤用が始まり、やがてカリ時代のブラーフマナたちはブラーフマナの力と文化を失っていくことになります。このブラーフマナの少年は、マハーラージャ・パリークシットをクランガーラ、つまり王家の卑劣な者と考えたのですが、実は、少年こそそう呼ばれてしかるべき人間でした。まるで、毒牙の折れた蛇のようにブラーフマナ階級の力が失われるきっかけとなった人物だからです。蛇は毒牙があれば恐ろしい生き物ですが、毒がなければ子どもに怖がられるだけです。カリの権化はまずブラーフマナの少年を餌食にし、そして徐々に他の階級も、その影響を受けていきます。こうして今では、社会階級という科学的制度全体が腐敗し切ったカースト制度になり、同じようにカリ時代に影響を受けた他の階級によって根絶されようとしています。よく見るべき点はこの腐敗の元凶であり、この制度における科学的価値の知識も持たずに、制度そのものを非難すべきではありません。
tato ’bhyetyāśramaṁ bālo
gale sarpa-kalevaram
pitaraṁ vīkṣya duḥkhārto
mukta-kaṇṭho ruroda ha

訳語

翻訳

そのあと、小屋に戻って父親の肩に掛けられた蛇を見ると、少年は悲しみに駆られて大声で泣き出した。

解説

少年はとんでもない過ちを犯したことで不安に駆られていたので、泣いてその重荷から解放されたいと思っていました。そして小屋に入り、父親のそのありさまを見た彼は、不安から解放されたいがために大声で泣きました。しかし、取り返しはつきません。父親はこの一連の出来事を嘆き悲しむばかりでした。
sa vā āṅgiraso brahman
śrutvā suta-vilāpanam
unmīlya śanakair netre
dṛṣṭvā cāṁse mṛtoragam

訳語

翻訳

ブラーフマナたちよ。アンギラー・ムニの家系に生まれたそのリシは、息子の泣き声を聞くと、ゆっくりと目を開け、自分の首に蛇の死骸がかけられているのに気づいた。
visṛjya taṁ ca papraccha
vatsa kasmād dhi rodiṣi
kena vā te ’pakṛtam
ity uktaḥ sa nyavedayat

訳語

翻訳

リシはその蛇の死骸を横に投げたあと、どうして泣いているのだ、誰かがおまえを傷つけたのか、と尋ねた。息子はそれを聞き、ことの一部始終を話した。

解説

父は、首に掛かっていた蛇を見ても、騒ぎませんでした。ただ摘まみ上げて捨てたにすぎません。実際、マハーラージャ・パリークシットがしたことに重大な過失があったわけではなかったのですが、愚かな息子は大げさに受け取り、カリに影響されていたために王を呪ったので、これまでの幸せな歴史に幕が降りたのです。
niśamya śaptam atad-arhaṁ narendraṁ
sa brāhmaṇo nātmajam abhyanandat
aho batāṁho mahad adya te kṛtam
alpīyasi droha urur damo dhṛtaḥ

訳語

翻訳

全人類のなかで最も優れ、決してとがめられるような人物ではなかった王に対して自分の息子が呪いをかけたことを、父は息子の口から聞いた。リシは息子を褒めるどころか、「ああ、我が息子は何という大罪を犯してしまったのか!ささいな侮辱に重い罰を科してしまったのだ」と言って、悲嘆にくれた。

解説

王は全人類の中で最も優れた人物です。神の代表者ですから、何をしてもとがめられません。言い換えれば、王は過ちを犯さない、ということです。王はブラーフマナの息子であっても、罪を犯したのであれば絞首刑さえ言い渡しますが、ブラーフマナを殺す罪の反動を被ることはありません。王側にどこか誤りがあっても、非難されません。医者が医療ミスで患者の命を絶つことになっても、死刑を科されることはありません。ならば、マハーラージャ・パリークシットほどの優れた、敬虔(ルビ:けいけん)な王なら言うまでもありません。ヴェーダの慣習では、王は、王として国を治める立場にいても、ラージャルシ、すなわち偉大な聖人になる訓練を受けています。国民が平和に、そして恐れることなく暮らせるのは、国王による優れた政府があってこそです。ラージャルシは国を巧みに、そして敬虔な態度で治めるため、国民は彼を主と同じほどに尊びます。それがヴェーダの教えでもあります。王をナレーンドラ、人類のなかでも最善の者、と呼びます。ならば、マハーラージャ・パリークシットほどの国王が、ブラーフマナの力を備えていても未熟で、そして思い上がったこのブラーフマナの息子に非難されることがあっていいものでしょうか。
シャミーカ・リシは十分な経験を積んだ、そして優れたブラーフマナだったため、過ちを犯した我が息子をかばうことはせず、その愚かな行為をただ嘆くばかりでした。王は一般的な規則の制限を受けませんから、マハーラージャ・パリークシットのような優れた王にそのような規則があてはまらないのは当然です。王の過ちは取るに足らないものでしたから、王が呪われたことは、呪いをかけたシュリンギの大罪です。だからこそリシ・シャミーカは、この一連の出来事を嘆き悲しんでいるのです。
na vai nṛbhir nara-devaṁ parākhyaṁ
sammātum arhasy avipakva-buddhe
yat-tejasā durviṣaheṇa guptā
vindanti bhadrāṇy akutobhayāḥ prajāḥ

訳語

翻訳

我が子よ。おまえの知性は未熟であり、人類のなかで最も優れた人間でもある王が人格神と同じ立場にいることを知らない。決して凡人と同じ位置にいるとは考えてはならない。国の民が豊かに暮らせるのは、王の卓越した勇敢さによって守られているからこそなのだ。
alakṣyamāṇe nara-deva-nāmni
rathāṅga-pāṇāv ayam aṅga lokaḥ
tadā hi caura-pracuro vinaṅkṣyaty
arakṣyamāṇo ’vivarūthavat kṣaṇāt

訳語

翻訳

愛する息子よ。君主政権は、戦闘馬車の車輪の役目を担う主を表すものである。そしてこの政権が廃止されるときには、全世界に盗賊がはびこるようになり、彼らは、あたかも群れを離れて迷える子羊のような、保護を受けない者たちにすぐさま襲いかかるのだ。

解説

『シュリーマド・バーガヴァタム』は、君主政権は至高主、人格神を表している、と言います。王は絶対人格神の代表者とされていますが、それは全ての生命体を守るために神と同じ質を備える教育を受けているからです。クルクシェートラの戦いは、主の真の代表者、すなわちマハーラージャ・ユディシュティラを王座に就かせるために計画されました。騎士道精神の文化と献身奉仕によって徹底的に教育された理想的な王は、完璧な王となります。そのような君主は、何の教育も受けていない無責任な、いわゆる民主主義の政治家よりはるかに優れています。現代の民主主義における盗賊や悪党は、偽りの意思表示でしかない選挙に頼り、成功した者が大衆を食いものにします。教育を受けたひとりの君主は、数百の無能の悪大臣たちよりもはるかに優れており、この節でも、マハーラージャ・パリークシットが統治していたような君主政権が廃止されてしまえば、大衆はカリ時代から無数の攻撃にさらされるようになる、と暗示されています。人々は、口先だけの民主主義体制では絶対に幸福になれません。国王不在のそのような管理体制について、次の節で説明されています。
tad adya naḥ pāpam upaity ananvayaṁ
yan naṣṭa-nāthasya vasor vilumpakāt
parasparaṁ ghnanti śapanti vṛñjate
paśūn striyo ’rthān puru-dasyavo janāḥ

訳語

翻訳

君主政権が終わり、悪党や盗賊たちが人々の富を略奪し始め、社会は大混乱に陥る。人々は殺され、また傷つけられ、動物や女性たちがさらわれる。このような大罪全ての責任を私たちが負うことになるのだ。

解説

この節のナハ(私たち)という言葉には、大変重要な意味があります。君主政府を倒したことで、いわゆる民主主義が一般的に国民の富を略奪する機会を与えてしまったことに対し、聖者はブラーフマナとして当然のことですが責任を感じました。民主主義者たちは、国民が裕福に暮らすための責任を引き受けることもなく、管理組織にしがみついています。個人の満足のためにその地位にのさばり、こうしてひとりの王ではなく、国民から税金を集める無責任な王が増えていきます。この節では、優れた君主政府が失われた結果、誰もが富、動物、女性などを略奪するようになり、互いに混乱を作り出すことが予言されています。
tadārya-dharmaḥ pravilīyate nṛṇāṁ
varṇāśramācāra-yutas trayīmayaḥ
tato ’rtha-kāmābhiniveśitātmanāṁ
śunāṁ kapīnām iva varṇa-saṅkaraḥ

訳語

翻訳

その時、一般大衆は社会階級と生活階級に見合った活動とヴェーダの教え、というふたつを基盤に発展した文化の道から段階的に逸脱していくだろう。こうして彼らは、感覚を満たしてくれる経済発展により魅了され、その結果、犬や猿と同じ程度の望ましくない人間が増えていく。

解説

この節では、君主政権が消失することで一般大衆は犬や猿のような望ましくない人間に落ちていくと予言されています。猿がいつでも性欲を満たそうとし、犬がところかまわず性行為をするように、不正な交わりの結果として誕生した大衆は、ヴェーダが定める優れた作法に従う生き方、社会の身分や階級にある優れた活動から段階的に逸脱していきます。
ヴェーダが示す生活は、アーリヤ人の文化に基づく進歩的な生き方です。アーリヤ人とはヴェーダ文化に積極的に従う人々です。ヴェーダ文化は、神の元に、ふるさとに帰って行けるよう私たちを導いており、その世界には誕生も死も、老いも病気もありません。物質界の暗闇にいつまでもいるのではなく、物質界をはるかに超えた精神的王国の光を目指して進まなくてはならないと、ヴェーダは私たち全員を導いています。人の気質に基づくカースト制度や生活階級は、主によって、あるいは主の代表者や偉大なリシたちによって科学的に定められています。完璧な人生の道には、物質と精神、どちらの教えも全て用意されています。ヴェーダの教えに従う生き方は、人が猿や犬のような生き方をするのを許しません。感覚満足と経済発展に根ざした堕落した文化は、無神論の、あるいは人民の、人民による、人民のための政治とうたった王のいない政府から作り出されたものです。ですから、人々が自分たちの手で選んだ貧弱な行政を非難するのは筋違いというものです。
dharma-pālo nara-patiḥ
sa tu samrāḍ bṛhac-chravāḥ
sākṣān mahā-bhāgavato
rājarṣir haya-medhayāṭ
kṣut-tṛṭ-śrama-yuto dīno
naivāsmac chāpam arhati

訳語

翻訳

パリークシット皇帝は実に信心深い王である。名高く、人格神に仕える一流の献身者でもある。王族のなかの聖者であり、馬の供犠を幾度となく執行した。そのような王が飢えと渇きのために疲労困憊に陥った場合、決して呪われることがあってはならない。

解説

シャミーカ聖者は、王族のための一般的な法典について説明し、王は過ちを犯さないために決して非難の対象にはならないことを力説したあと、パリークシット王について特に話したいことがありました。マハーラージャ・パリークシットの特別な気質はこの節に要約されています。パリークシット王は、王としての地位だけをとっても、王族階級の宗教原則を治める支配者として広く世に知られていた人物です。シャーストラには、社会の地位や階級に応じた義務が全て定められています。そしてパリークシット皇帝には、『バガヴァッド・ギーター』(18-43)で述べられているクシャトリヤの特質が全て備わっていました。また主の偉大な献身者、そして自己を悟った魂でもあります。そのような王を呪うことは、特に彼が疲労困憊の状態にあったときに、あってはならないことでした。こうしてシャミーカ・リシは、マハーラージャ・パリークシットが呪われたことは、あらゆる観点から見ても不当なことだった、と認めました。他のブラーフマナたちは、この出来事とは何の関係もないのですが、少年のブラーフマナが犯した子どもじみた行為のために、全世界の状況が一変してしまいました。こうして、ブラーフマナのリシ・シャミーカは、世界の優れた階級が堕落してしまったその責任を引き受けたのです。
apāpeṣu sva-bhṛtyeṣu
bālenāpakva-buddhinā
pāpaṁ kṛtaṁ tad bhagavān
sarvātmā kṣantum arhati

訳語

翻訳

そしてリシは遍在する人格神に祈り、未熟で知性のない我が子を許してほしいと乞うた。その子は、無罪の、そして自分たちよりも低い身分の、守られるべき立場にいる人物を呪うという取り返しのつかない大きな過ちを犯してしまったのである。

解説

敬虔なことであれ、罪なことであれ、自らの行為の責任は、誰もが自分で負うものです。マハーラージャ・パリークシットが敬虔な統治者であり、主の一流の献身者であるため、あらゆる罪とは無縁で、それゆえにブラーフマナに守られるべき立場の人物であったにもかかわらず、その彼を呪ったことで自分の息子が大罪を犯したことを、リシ・シャミーカは見て取ったのです。主の献身者に侮辱を犯したならば、その反動から逃れるのはとても困難です。ブラーフマナは社会階級の頂点にいることから、自分たちに従う人々を守るべき立場にあるのであって、呪うなどもってのほかです。ブラーフマナが下の位にいるクシャトリヤやヴァイシャたちを厳しく呪う出来事はときに起こりますが、マハーラージャ・パリークシットの場合は、これまで説明されてきたように、呪われるようなことは何もしていませんでした。愚かな少年が、自分はブラーフマナの子だという虚栄心ゆえにしでかしたことであり、こうして彼は神の法則で処罰されるはめになるのです。主は純粋な献身者を傷つける者を決して許しません。ですから、王を呪うことで愚かなシュリンギは罪を犯しただけではなく、取り返しのつかない侮辱を犯してしまったのです。リシは、罪を犯してしまった我が子を救えるのは至高人格神しかいないことを知っていました。だからこそ、不可能なことを可能にすることのできる唯一の存在である、至高主にじかに許しを乞いました。そしてその願いは、知性のかけらもない愚かな少年の名においてなされました。
物質存在から救われるためにパリークシット・マハーラージャが苦境に陥ることが主の意志だったのなら、なぜブラーフマナの少年が侮辱行為の責任を負わなくてはならないのかと疑問に思う人もいるかもしれません。その答えとして、侮辱行為は子供によって行われたことなので、簡単に許され、その結果父親の祈りが受け入れられたからだと言えます。しかし、なぜブラーフマナ社会全体が、カリが世界情勢に入り込むことを許した責任を負わなくてはならないのかという質問であれば、その答えは『ヴァラーハ・プラーナ』の中にあります。あるとき、人格神に敵意を抱いていたが、主に殺されなかった悪魔たちは、カリ時代の利点を得るためにブラーフマナの家系に誕生することを許されました。どこまでも慈悲深い主は彼らに敬虔なブラーフマナの家庭に誕生する機会を与えました。そのことで解放の境地に向かう配慮がなされたのです。しかし悪魔たちはその素晴らしい機会を活かすことなく、ブラーフマナになった虚栄心のためにブラーフマナ文化を誤用しました。その典型的な例がシャミーカ・リシの息子であり、この例を通して、現代のブラーフマナの愚かな息子たち全てに、シュリンギのような愚かなことをしないように、また前世で持っていた悪魔的な気質に影響されないようにと警告が発せられています。もちろん、この愚かなブラーフマナの少年は主に許されますが、シャミーカ・リシのような父親を持たない他のものたちが、ブラーフマナの家系に誕生した利点を誤用するならば、救いがたい困難に陥れられることでしょう。
tiraskṛtā vipralabdhāḥ
śaptāḥ kṣiptā hatā api
nāsya tat pratikurvanti
tad-bhaktāḥ prabhavo ’pi hi

訳語

翻訳

主の献身者は忍耐強いため、たとえ名誉を傷つけられたり、だまされたり、呪われたり、妨害されたり、軽視されたり、あるいは殺されたとしても、決して仕返ししようとはしない。

解説

リシ・シャミーカは、献身者の蓮華の御足に侮辱を犯した者を主は許さないことも知っていました。主は献身者に身を委ねよ、とだけ私たちに教えることができます。リシは、もしマハーラージャ・パリークシットが少年を呪い返せば救われるはず、と考えました。しかしまた、純粋な献身者は俗的な利益や逆境などを全く問題にしないことも知っていました。だから献身者は、名誉が傷つけられ、呪われ、無視されたりしても特に仕返しをしようとはしません。献身者たちは、自分の身に降りかかることに関しては、気にかけません。しかし、それが主や献身者に向かってなされたときには、断固として対抗します。この出来事は個人的なものでしたから、王は対抗しないとリシは知っていました。ですから、未熟な我が子のために主に懇願するしかなかったのです。
ブラーフマナだけが、呪いをかけたり祝福を授けたりする力を備えているわけではありません。主の献身者は、ブラーフマナではなくてもブラーフマナよりも力を備えています。しかし力強い献身者はその力を自分個人のために使うことはありません。献身者の力は全て、いつでも主と主の献身者に対する奉仕のためだけに使われるのです。
iti putra-kṛtāghena
so ’nutapto mahā-muniḥ
svayaṁ viprakṛto rājñā
naivāghaṁ tad acintayat

訳語

翻訳

こうして聖者は、我が子が犯した罪を悔やむばかりだった。王にされたことをたいした侮辱とは思っていなかったのである。

解説

こうして、事のいきさつが明らかになりました。マハーラージャ・パリークシットが死んだ蛇を聖者の首にぶらさげたことは深刻な侮辱ではなかったのですが、シュリンギの呪いは重大な侮辱でした。この深刻な侮辱は、愚かな子どもによってなされたので、罪の反動から逃れることはできなくても、彼が至高主によって許される余地は十分にありました。マハーラージャ・パリークシットにしても、愚かなブラーフマナに呪われたことをことさら気にしていたわけではありません。それどころか、この苦境を好機とし、主の偉大な意志によって、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーの恩恵を通して最高完成に到達することができました。実際、全ては主の望みから起こったことで、マハーラージャ・パリークシット、リシ・シャミーカ、そしてその息子シュリンギもその望みが実現されるための道具だったのです。ですから、実は誰もが困難な状況に陥ったわけではありません。全ては至高の人物との関連のなかで行われたことだったからです。
prāyaśaḥ sādhavo loke
parair dvandveṣu yojitāḥ
na vyathanti na hṛṣyanti
yata ātmā ’guṇāśrayaḥ

訳語

翻訳

一般的に超越主義者は、物質界の二元性のなかで行動しているが、苦しみ悩んでいるわけではない。(その俗なことに)喜びを感じているわけでもない。俗世を超えた活動をしているからである。

解説

超越主義者には、経験主義哲学者、神秘主義者、主の献身者がいます。経験主義哲学者は絶対者の中に融合する完成、神秘主義者は遍在する至高の魂の知覚、そして主の献身者は人格神への超越的な愛情奉仕を目指しています。ブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンは、同じひとりの超越者の異なる様相ですから、これらの超越主義者たちは全て、物質自然界の三様式を超えた境地にいます。物質的な苦悩や幸福感は三様式が作り出したもので、物質的な苦しみも幸せも、超越主義者には何の関係もないのです。パリークシット王は献身者で、リシは神秘主義者でした。したがってどちらも、至高のご意志によって作り出された偶発的なこの出来事に深く関わっていたわけではありませんでした。愚かなことをしたこの子どもも、主のご意志を満たす道具にすぎなかったのです。
これで、バクティヴェーダンタによる『シュリーマド・バーガヴァタム』、第1編・第18章、「マハーラージャ・パリークシット、ブラーフマナの少年に呪われる」の解説を終了します。