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第17章

カリに対する処罰と報い

sūta uvāca
tatra go-mithunaṁ rājā
hanyamānam anāthavat
daṇḍa-hastaṁ ca vṛṣalaṁ
dadṛśe nṛpa-lāñchanam

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スータ・ゴースヴァーミーが言った。「マハーラージャ・パリークシットは、その場所に到着したあと、王のような格好をした下等階級のシュードラが、棒を手に、飼い主のいないように見える雌牛と雄牛を殴りつけているのを見た」

解説

カリ時代のもっとも顕著な兆しは、低い階級のシュードラ、すなわちブラーフマナ文化もなく、精神的入門も受けていない者たちが政治的指導者か国王のような恰好をすることです。そしてそのような非クシャトリヤの指導者が何も悪いことをしていない動物たち、特に雌牛や雄牛を殺す状況がはびこっていることにあります。雄牛と雌牛が、本当のヴァイシャ、商業者階級に守られなくなってしまうのです。『バガヴァッド・ギーター』(18-44)では、ヴァイシャは農業と牛の保護、そして商取引に関わるもの、と定義されています。カリ時代では、堕落し切ったヴァイシャ、商人が牛を食肉処理場に送る仕事に従事しています。本来クシャトリヤは国内の臣民を守り、ヴァイシャは雌牛と雄牛を守って、穀物と牛乳の生産にそれらの動物を活用する本務があります。雌牛は牛乳を、雄牛は穀物を生産するためにいます。しかしカリ時代では、シュードラ階級たちが指導者の地位に収まり、ヴァイシャに守られていない雌牛と雄牛、すなわち母親と父親は、シュードラの政治家たちが管理する食肉処理場に送られているのです。
vṛṣaṁ mṛṇāla-dhavalaṁ
mehantam iva bibhyatam
vepamānaṁ padaikena
sīdantaṁ śūdra-tāḍitam

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その雄牛は、白い蓮華の花のような純白の体をしていた。自分を殴るそのシュードラに恐怖を感じ、あまりの恐ろしさに1本足で立ち尽くし、震えながら失禁していた。

解説

カリ時代の次の兆候は、一点の汚れのない、純白な蓮華の花のような宗教原則が、非文化的なシュードラの現代人に攻撃されることです。彼らはブラーフマナやクシャトリヤの先祖を持つ子孫かもしれませんが、充分な教育を受けておらず、またヴェーダの知恵を授かっていないためシュードラのようになって宗教原則を無視し、やがて宗教心の厚い人々はそのような人間たちに脅かされるようになります。彼らは宗教原則を一切拒絶することを公然と宣言し、宗教という純粋無垢な雄牛を殺すためだけに、多くの「~主義」や新興宗教が乱立します。国は、特定の宗教原則に関わらない非宗教国家をうたい、その結果、世の中は宗教原則にまったく無関心になります。市民たちは、サードゥ、シャーストラ、グルに何の敬意も払わず、好き勝手に振る舞うようになります。雄牛が1本足で立っている様子は、宗教原則が次第に減少していくことを物語っています。宗教原則がわずかに残っているとしても、怯えて震える者がいつでも倒れてしまう可能性があるように、多くの障害のため、その原則は混乱していきます。
gāṁ ca dharma-dughāṁ dīnāṁ
bhṛśaṁ śūdra-padāhatām
vivatsām āśru-vadanāṁ
kṣāmāṁ yavasam icchatīm

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人は雌牛から宗教原則を得ることができるため、雌牛は有益な動物であるが、今では子牛さえおらず、哀れな境遇に置かれている。その足はシュードラにたたかれつづけている。目からは涙が流れ、苦しみ、力なく立っている。彼女は野に芽吹く草を求めていた。

解説

カリ時代に現れる次の兆候は雌牛の苦しみです。牛乳を搾るとは、宗教原則を液体の形で引き出すことを表しています。かつては牛乳のみで生きた偉大なリシやムニたちがいました。シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、世帯者が牛乳を搾っているときに家を訪ね、少しだけもらうのを常としていました。50年前でさえ、世帯者たちはサードゥたちに1リットルでも2リットルでも、まるで水でも差し出すかのように牛乳を差し出していました。サナータニスト(ヴェーダ原則の従者)は、世帯生活の必需品として雌牛と雄牛を必ず所有しており、それは牛乳を飲むだけではなく、宗教原則を得るためでもありました。サナータニストは宗教原則に基づいて雌牛を崇拝し、ブラーフマナを尊ぶものです。牛乳は儀式の火のために必要で、儀式を行うことで世帯者は幸せになることができます。子牛は見た目に美しいばかりではなく、母牛に喜びをもたらし、満足した雌牛はたくさんの母乳を出します。しかしカリ・ユガになると、『シュリーマド・バーガヴァタム』では語られることのない目的で、子牛は母牛から引き離されます。雌牛は目に涙を浮かべながら立ち尽くし、シュードラは人工的な搾乳方法でミルクを搾り出し、搾れなくなると食肉処理場に送ります。このようなひどい罪の行為の代償として、現代社会には、あらゆる困難が充満しているのです。人々は、経済発展という名のもとで自分たちがいったい何をしているのかまったくわかっていません。カリの影響は人々を無知の暗闇に閉じ込め続けます。平和と繁栄を求めていろいろと努力しながらも、雌牛や雄牛たちがあらゆる面で幸せに生きられるよう、見守ってあげなくてはならないのです。愚かな人々は、雌牛と雄牛を幸せにすれば自分たちも幸せになることを知りませんが、それは自然の法則に定められた明白な事実なのです。その原則を『シュリーマド・バーガヴァタム』の権威に基づき、人類全ての幸せのために受け入れようではありませんか。
papraccha ratham ārūḍhaḥ
kārtasvara-paricchadam
megha-gambhīrayā vācā
samāropita-kārmukaḥ

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弓と矢で完全武装し、黄金の彫刻をほどこした馬車に座したマハーラージャ・パリークシットは、その男(シュードラ)に、雷鳴がとどろくような重厚な声で語りかけた。

解説

行政指導者、あるいはマハーラージャ・パリークシットのような国王は、威厳に満ちた権威を備え、無法者を処罰するために完全武装し、カリ時代の手先に戦いを挑むことができます。そうであってこそ、堕落した時代に対抗できるのです。しかし、それほどのたくましい指導者がいないために、平和の望みを打ち砕く混乱がいつもはびこっています。選ばれただけ、という見せかけの政治家は、堕落した大衆の代表者としては、マハーラージャ・パリークシットのように屈強な国王とは比べものにもなりません。大切なのは国王としての衣服でも雰囲気でもありません。行動こそがその地位を決定するのです。
kas tvaṁ mac-charaṇe loke
balād dhaṁsy abalān balī
nara-devo ’si veṣeṇa
naṭavat karmaṇā ’dvijaḥ

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あなたは何者か。強そうには見えるが、私に守られているこの地で無力な者を殺そうとしている!あなたの身なりは聖者か国王に見えるが、あなたの行為は再誕のクシャトリヤの原則に反しているではないか。

解説

ブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャは再誕者と呼ばれます。このような高尚な階級における人々は、両親の結合による1回目の誕生を経たあと、本物のアーチャーリャ、すなわち精神指導者から精神的入門を受けることで、文化的な回復を通して新しい誕生を授かるからです。ですからクシャトリヤは、ブラーフマナと同じ再誕者であり、その義務は無力な人々を守ることにあります。クシャトリヤの王は神の代表者であり、無力な者を守り、邪悪な者を懲罰します。統治者によるこの務めが正しく行われないときには、神聖な王国の原則を再確立させるために必ず主が降誕します。カリ時代では、哀れで無力な動物たち、特に乳牛たちは行政指導者による完全な保護を受けなくてはならないのにもかかわらず無制限に殺されています。ならば、指導者たちの目の前でそのようなことが起こっているのであれば、彼らは名ばかりの神の代表者というほかありません。無力な市民を守るべきなのに服装や名前だけで力を誇示している指導者や統治者は、実際は何の価値もない人間であり、再誕者としての文化的美質のない下等な人間です。下等な1回の誕生者(精神的な文化をもたない者)は、正しく平等な対応はできません。そのためにカリ時代では、悪政のために誰もが不幸な境遇に置かれているのです。現代社会は、精神的文化に支えられた再誕者の世界ではありません。ですから、人々が作り出した、すなわち再誕ではない人々が作った政府は、万民が不幸になっているカリの政府なのです。
yas tvaṁ kṛṣṇe gate dūraṁ
saha-gāṇḍīva-dhanvanā
śocyo ’sy aśocyān rahasi
praharan vadham arhasi

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極悪人よ、純真無垢な乳牛をたたくとは何ごとだ。主クリシュナが、そしてガーンディーヴァの弓を持つアルジュナがいなくなったゆえの悪業か。誰もいないこの場所で純真無垢な者を殴打しているお前は罪人であり、殺されるに値する。

解説

神がことごとく無視され、アルジュナのような献身者の戦士がいない文化において、カリ時代の仲間たちはこの無法の王国に乗じ、人目につかない食肉処理場で乳牛のような無垢な動物を殺そうとします。この動物の殺害者は、マハーラージャ・パリークシットのような敬虔(ルビ:けいけん)な王の命令で死罪を受けるに値します。人目につかないところで動物を殺すような犯罪者は、隠れた場所で無邪気な幼い子を殺す殺人者と同じように、死刑をもって断罪するにふさわしい、と敬虔な王は判断します。
tvaṁ vā mṛṇāla-dhavalaḥ
pādair nyūnaḥ padā caran
vṛṣa-rūpeṇa kiṁ kaścid
devo naḥ parikhedayan

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次に彼(マハーラージャ・パリークシット)は雄牛に語りかけた。「あなたはいったい誰なのでしょう。純白の蓮華のような肌をした雄牛か、それとも神々なのでしょうか。3本の足を失い、いまは1本の足だけで立っておられる。あなたは雄牛の姿となって私たちを悲しみに陥れようとしている神々なのでしょうか」

解説

少なくともマハーラージャ・パリークシットの時代までは、雌牛と雄牛がこのような哀れな境遇になることなど想像さえできないことでした。だからこそパリークシット王は、このような恐ろしい光景を見たことに衝撃を受けたのです。王は、この雄牛が、雌牛と雄牛の未来の姿をほのめかすために、半神がそのような悲惨な状態を装ったのではないのか、と尋ねています。
na jātu kauravendrāṇāṁ
dordaṇḍa-parirambhite
bhū-tale ’nupatanty asmin
vinā te prāṇināṁ śucaḥ

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クル王家の国王たちの軍隊に巧みに守られたこの国で、あなたが涙に暮れて悲しんでいる様子を見たのはこれが初めてです。これまで、地上の誰ひとりとして、王に無視されて涙を流した者はいませんでした。

解説

人類と動物の命を守ることは、政府にとって最初の、何よりも大切な義務です。政府はこの原則をないがしろにしてはなりません。純粋な心の魂にとって、カリ時代の国が組織立って動物を殺害している様子は、ただただ恐ろしい光景です。マハーラージャ・パリークシットは、雄牛が目に涙を浮かべている表情を見て悲しみ、そして自分の国でこのような前例のない事態が起こっていることに驚いています。それまでは人間も動物も、どちらの命も等しく守られていました。それが神の王国の決まりなのです。
mā saurabheyātra śuco
vyetu te vṛṣalād bhayam
mā rodīr amba bhadraṁ te
khalānāṁ mayi śāstari

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スラビの息子よ。あなたはこれ以上嘆くことはありません。この下劣なシュードラを恐れることもないのです。母なる牛よ、私が嫉妬深い者たち全ての支配者、鎮圧者として君臨しているかぎり、あなたが泣く理由はどこにもありません。全てはうまく行くでしょう。

解説

雄牛、雌牛、他の一切の動物の保護は、マハーラージャ・パリークシットのような指導者に治められた国でのみ実現することです。マハーラージャ・パリークシットは、雌牛に母親と呼び掛けました。優れた文化のもとで育ち、再誕者で、クシャトリヤの王だったからです。スラビは精神的惑星にいる乳牛の名前で、特に主シュリー・クリシュナ自身によって育てられています。人間が至高主の姿に合わせて作られたように、乳牛は精神的王国にいるスラビ牛の姿に似せて作られました。人間社会では人間があらゆる面で守られますが、奇跡の食べ物、牛乳を供給して人間を守っているスラビの子孫を守る法律はありません。しかしマハーラージャ・パリークシットとパーンダヴァ兄弟は、雌牛と雄牛の重要性を完璧に認識していたからこそ、牛を殺す者には死罪を含むあらゆる刑をもって処罰する用意がありました。時に牛を守る運動が起こったこともありますが、敬虔な指導者も適切な法律もないために雌牛も雄牛も守られていません。人間社会は雌牛と雄牛の大切さを認識し、マハーラージャ・パリークシットの足跡に従って、この大切な動物を全面的に守らなくてはなりません。牛とブラーフマナに優しい主(ゴー・ブラーフマナ・ヒターヤ)は、私たちが牛のブラーフマナを守る文化に従えば、その行為を喜び、本当の平和を私たちに授けてくださるのです。
yasya rāṣṭre prajāḥ sarvās
trasyante sādhvy asādhubhiḥ
tasya mattasya naśyanti
kīrtir āyur bhago gatiḥ
eṣa rājñāṁ paro dharmo
hy ārtānām ārti-nigrahaḥ
ata enaṁ vadhiṣyāmi
bhūta-druham asattamam

訳語

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貞節なるお方よ。国王の優れた名前、寿命、良い来世は、全ての生命体が、その国内に住む極悪人たちに脅されるときに消滅します。苦悩する者たちの苦しみをまず鎮めることが、国王の最初の義務であることに間違いありません。ですから私は、ほかの生物に暴力を振るっている最悪で卑劣なこの男を殺さなくてはなりません。

解説

町や村で野生動物が騒動を起こせば、警察や市民が動き、その動物を殺します。同じように、泥棒、盗賊、殺人者のような極悪人が世にはびこれば、政府はすぐに彼らを殺して義務をまっとうしなくてはなりません。同じ処罰は、動物を殺す者たちにも科せられるべきです。国内の動物たちもプラジャーだからです。プラジャーとは、その国に誕生した者、という意味で、それには人間も動物も含まれます。国内に誕生した生物には全て、国王に守られて生きる権利があります。ジャングルに住む動物でも国王にとっては臣民であり、彼らも生きる権利を持っています。雌牛や雄牛などは、言うまでもありません。
どのような生物だとしても、ほかの生物を脅かすのは非道なことであり、国王はすぐにそのような混乱の元凶を始末しなくてはなりません。野生動物が騒動を起こせば殺されるように、ジャングルの動物や他の動物たちを不必要に殺したり怖がらせたりするのであれば、すぐに処罰されてしかるべきです。至高主の法律のもとで、全ての生命体はどのような姿であっても主の子どもであり、自然の法則で命じられる以外、ほかの動物を殺す権利は誰にもありません。虎は自分が生きていくために弱い動物を殺すことはできますが、人間が同じ理由でほかの生物を殺すことは許されません。それが、ある生物はほかの生物を食べることで生き残る、という法則を作った神の法則です。ですから、菜食主義者でも、やはりほかの生物を食べて生きている、ということになります。神の法則で定められているように、特定の種類の生物だけを食べて生きるべきだということです。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』によると、私たちは自分の勝手な意志ではなく主の指示に従って生きるべきである、と教えています。人間はさまざまな穀物、果物、牛乳などで生きるよう神に定められており、動物性の食糧は、特別の例外を除いて必要ありません。
幻惑されている王や国の指導者は、時に偉大な哲学者や博識な学者であるかのように宣伝されることさえありますが、彼らは哀れな動物を苦しめる行為が愚かな王や指導者を地獄の道へと確実に導くとは知らずに、食肉処理場の設置を許可するのです。国の指導者は、人間でも動物でも、自分のプラジャーたちの安全にいつも目をこらし、どんな場所でも、どのような動物でも、ほかの生物に脅かされていないかどうかを警戒していなくてはなりません。彼らを苦しめる者は、マハーラージャ・パリークシットが示したように、すぐに捕らえて殺さなくてはなりません。
人民のための政府、あるいは人民による政府は、愚かな政治家たちの勝手な思いで無実の動物を殺すことを許すべきではありません。啓示経典に書かれているように、神の法典を知るべきです。マハーラージャ・パリークシットは神の法典を引用し、無責任な王や国の指導者は、名声、寿命、力、権力、そして最終的には死後の高尚な生涯と解放への発展を危険にさらしている、と言っています。このような愚かな者たちは来世があることさえ信じません。
この節を解説しているとき、ある有名な政治家が遺言を残して他界しましたが、その内容は、マハーラージャ・パリークシットが引用した神の法典に関して何も知らないことを露呈しています。その文面を見れば、その政治家の神の法典に対する無知がよくわかります。「私はそのような儀式などまったく信じていないし、たとえ形式的にでもその儀式に従うのは偽善で、自分と人々を欺く行為でしかない。私はそのような宗教的感情はない」
名の知れたこの現代政治家の言葉と、マハーラージャ・パリークシットの言葉には大きな違いがあります。マハーラージャ・パリークシットは経典の規則に従う信心深い人物ですが、現代政治家は個人的な信念と感情で行動します。物質界ではどんなに偉人であっても、結局は束縛された魂でしかありません。手も足も物質自然界というひもで縛られているのに、愚かで束縛された魂は「自分は思い通りに自由に行動できる」と考えています。結論として、マハーラージャ・パリークシットの時代に生きていた人々は誰もが幸せで、動物は正しく守られていた、と言い切ることができます。国の指導者は気まぐれではなく、神の法則を熟知していたからです。愚かで信念のない者たちは主の存在を無視しようとし、価値ある人間生活を犠牲にしながら「私は宗教とは無関係である」と主張しています。人間生活は特に神の科学を知るためにあります。ところが、特にカリ時代では、愚かな人間たちは誕生、死、老い、病気によって、常に神の法則に縛られているのにもかかわらず、神を知ることや神の存在についてはもちろん、宗教的信念をあからさまに否定しています。
ko ’vṛścat tava pādāṁs trīn
saurabheya catuṣ-pada
mā bhūvaṁs tvādṛśā rāṣṭre
rājñāṁ kṛṣṇānuvartinām

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彼(マハーラージャ・パリークシット)は、雄牛に何度も話し掛け、尋ねた。「スラビの息子よ。誰があなたの3本の足を切り落としたのでしょう。国王が最高人格神クリシュナが定めた法典に忠実に従っている国には、あなたほど不幸な方はいません」

解説

国王あるいは国の指導者は、主クリシュナが定めた規則(『バガヴァッド・ギーター』と『シュリーマド・バーガヴァタム』)を理解し、人生の使命をまっとうするため、つまり物質世界にある苦しみ全てに終止符を打つために、その教え通りに行動しなくてはなりません。主クリシュナの規則を知る人は、その終着点に難なく辿り着くことができます。『バガヴァッド・ギーター』を通じて、私たちはその大意の中に主の規則を理解することができます。また『シュリーマド・バーガヴァタム』においても同じ規則がさらに説明されています。
国民がクリシュナの教えに従っている国で、不幸な人はひとりもいません。逆に、従っていない場所における最初の兆候は、宗教の権化の3本足が切り落とされ、その結果として人々が苦しんでいることです。クリシュナが自ら存在していたとき、誰もがクリシュナの規則に疑いもなく従っていましたが、主がいなくなったあと、その規則は指導的立場にあっても盲目的状況に置かれている人々を導くために、『シュリーマド・バーガヴァタム』のページのなかに提示されています。
ākhyāhi vṛṣa bhadraṁ vaḥ
sādhūnām akṛtāgasām
ātma-vairūpya-kartāraṁ
pārthānāṁ kīrti-dūṣaṇam

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雄牛よ、あなたに非はなく、全てにおいて正直なお方です。だからこそ私は、あなたのこの上ない幸運を祈ります。どうか話していただきたい、あなたをこのように傷つけた者を、プリターの子息たちの名声を脅かす者たちを。

解説

マハーラージャ・ラーマチャンドラが治めた時代の、そしてその足跡に従ったパーンダヴァ兄弟たちのような王たちの名声は、決して忘れ去られることはありません。その王国では、罪のない、そして正直な生命体たちは決して不幸にはならなかったからです。雄牛と雌牛のふんも尿も人間社会の利益のために使われているのですから、彼らは罪なき生物の象徴と言えます。マハーラージャ・パリークシットを始めとするプリターの息子たちの子孫は、自分たちの名声が失われることを恐れていましたが、現代の指導者たちは、非のない動物たちを殺すことに何の恐怖も感じません。ここに、敬虔な王たちの統治と、神の規則を知らない無責任な国の代表者が支配する現代国家の違いを見ることができます。
jane ’nāgasy aghaṁ yuñjan
sarvato ’sya ca mad-bhayam
sādhūnāṁ bhadram eva syād
asādhu-damane kṛte

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罪なき生物に苦しみを与える者は誰であろうと、世界のどこにいようと、私への恐れから免れることはできません。不正直な極悪人を鎮圧すれば、おのずと罪なき者を助けることになるのです。

解説

弱腰で無能な指導者たちが原因で、不正直な極悪人が世にはびこるようになります。しかし、国の代表者が国内のどこでも、その不正直な極悪人全員を鎮圧する強硬な姿勢を貫けば、彼らははびこることができなくなります。極悪人が適切な見本として処罰されれば、自ずと全ての幸運も伴うものです。先に述べられたように、王や国の首脳陣にとって、国内にいる平和で罪のない国民たちを守ることこそ、彼らの最優先の義務です。主の献身者は、本来心穏やかで罪を犯しませんから、全ての人々を主の献身者に変えることが国の義務と言えます。それが実現すれば、自然に、国内には平和で罪のない人々があふれるようになります。王の唯一の義務は、不正直な極悪人を鎮圧することにあります。そのことが、人間社会全体に平和と調和をもたらすのです。
anāgaḥsv iha bhūteṣu
ya āgas-kṛn niraṅkuśaḥ
āhartāsmi bhujaṁ sākṣād
amartyasyāpi sāṅgadam

訳語

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罪なき者たちを虐待する成り上がり者たちは、甲冑と装飾品で身を固めた天界の住人であろうと、私がじかに手を下します。

解説

天界の住人はアマラ、つまり不死と言われることがありますが、それは彼らが人間とは比べものにならない長い寿命に恵まれているからです。長くて100年しか生きられない人間には、何百万年もの寿命は確かに不死に思えるはずです。たとえば『バガヴァッド・ギーター』では、ブラフマローカの1日は4,300,000×1,000(太陽年)と記述されています。同じように、ほかの天国の惑星では、1日が地球の6ヶ月に相当し、その住人たちは彼らの年月計算で1千万年生きるとされています。ですからこのような高い惑星での寿命が人間よりはるかに長いため、物質宇宙では誰も不死ではないはずなのに、人間は彼らのことを想像し、天界の住人は不死であると表現しているのです。
マハーラージャ・パリークシットは、そのような天界の住人に対してでさえ、もしも罪のない者を虐待するのであれば許さない、と挑戦しています。これは、国の代表者はマハーラージャ・パリークシットと同じほど強くあるべきであることを意味し、そうすることで最強の冒涜者であっても、絶対に処罰する決意で対処することができるからです。神の法律に対する冒涜者は必ず処罰することが国の代表者の原則とされなくてはなりません。
rājño hi paramo dharmaḥ
sva-dharma-sthānupālanam
śāsato ’nyān yathā-śāstram
anāpady utpathān iha

訳語

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世を治める王の至上の義務は、法を遵守する人々を守り、緊急を要さない平常時に、経典の教えに背く者たちを懲罰することにあります。

解説

経典にはアーパドゥ・ダルマ、つまり非常事態における定められた義務について説かれています。そこでは、あるとき大聖者ヴィシュヴァーミトラが、非常事態に置かれて犬の肉を食べるはめに陥った事例が挙げられています。緊急の事態では、どのような動物の肉だとしても食べて生きなければならないことがありますが、それでも肉食者たちのために食肉処理場を維持する必要があるわけではありませんし、政府がそのことを助長すべきだということでもありません。味覚を楽しむためだけに、定期的に肉を食べて生きるのは間違っています。王や国の代表者は、不正な楽しみにふけっているそのような人々を処罰しなくてはなりません。
さまざまな職務に従事するさまざまな人々のために規則的な経典の教えが用意されており、その教えに従う人々をスヴァダルマ・スタ、つまり自分に定められた本務に忠実な者といいます。『バガヴァッド・ギーター』(18-48)では、自分に定められた義務は、たとえ完璧にまっとうできなくても放棄してはならない、と言われています。スヴァ・ダルマは、状況に強いられて緊急時では破られることもありますが、平常時においてはもちろんそうではありません。国の代表者は、スヴァ・ダルマが、それが何であっても従者たちによって変えられないよう監視し、スヴァ・ダルマの従者を守らなくてはなりません。それらを破る者はシャーストラに基づいて罰せられるべきであり、また国王の義務は、人々が自分に定められた義務を、経典が示している通りに実践するよう見守ることにあります。
dharma uvāca
etad vaḥ pāṇḍaveyānāṁ
yuktam ārtābhayaṁ vacaḥ
yeṣāṁ guṇa-gaṇaiḥ kṛṣṇo
dautyādau bhagavān kṛtaḥ

訳語

翻訳

宗教の権化が言った。「今あなたが語ったそれらの言葉は、パーンダヴァ王家のひとりとして実にふさわしいものです。人格神である主クリシュナさえも、パーンダヴァ兄弟の献身奉仕の素晴らしさに魅了されて、使者としての義務をまっとうされたのです」

解説

マハーラージャ・パリークシットが口にした保証と挑戦は誇張ではありません。マハーラージャは、たとえ天界の住人たちでも宗教原則を破る者であれば、自分の厳格な政治体制から逃れることはできないと宣言しました。ありもしない力を自慢げに誇示しているわけではありません。主の献身者は主に匹敵する力を持ち、いや、ときには主の恩恵によって、主よりも力強くなることさえあり、献身者の約束は普通ではありえないことでも、主の恩恵によって正しく成就されます。パーンダヴァ兄弟は、純粋無垢な献身奉仕と主への全面的な服従によって、主を御者にしたり、使者にしたりしたこともあります。主は献身者のために、心から喜んでそのような義務を果たしているのです。深い愛情と熱意で主に仕えることしか考えていない無垢な献身者に主は仕えたいと思っているからです。アルジュナの孫で主の名高い友人、そして召使いであるマハーラージャ・パリークシットは、自分の祖父と同じくらい純粋な主の献身者ですから、主はいつでも彼の傍にいらっしゃり、彼が母親の胎内で無力に横たわっていた際に、アシュヴァッターマーが放った灼熱のブラフマーストラの武器に攻撃されたときでさえ、一緒におられました。献身者はいつでも主に守られていますから、マハーラージャ・パリークシットが「私が守る」と約束すれば、それは必ず実現されるのです。宗教の権化はそのことをありのままに受け入れ、パリークシット王が自らの高尚な立場に忠実であることに感謝しているのです。
na vayaṁ kleśa-bījāni
yataḥ syuḥ puruṣarṣabha
puruṣaṁ taṁ vijānīmo
vākya-bheda-vimohitāḥ

訳語

翻訳

人類の第一人者よ。私たちの苦しみの元凶となった極悪人を特定するのは難しいことです。なぜなら私たちは、理論にこだわる哲学者たちが言うさまざまな意見で混乱しているからです。

解説

世界には原因と結果について、特にさまざまな生命体の苦しみの原因について、自分たちの理論を主張する理論好きな哲学者たちであふれています。大別するとヴァイシェーシカ哲学の著者カナーダ、論理学者のガウタマ、神秘的ヨーガの著者パタンジャリ、サーンキャ哲学の著者カピラ、カルマ・ミーマーンシャーの著者ジャイミニ、ヴェーダーンタ・ダルシャナの著者ヴィヤーサデーヴァ、以上6人の哲学者が挙げられます。
宗教の権化である雄牛、地球の主宰神である雌牛は、カリ時代の権化が自分たちの苦しみの直接原因であることはわかっていたのですが、それでも主の献身者として、主の承認がなければ誰も自分たちを苦しめられないことを承知していました。『パドゥマ・プラーナ』によると、苦しみとは昔まいた種が今結実している状態ですが、まいて作ってしまった罪は純粋な献身奉仕をすることで徐々に弱まっていくと説かれています。ですから献身者は不快を与える人に会ったとしても、苦しみを負わせた彼らを責めません。何か間接的な原因があって、彼はそのように行動させられているのだと解釈するため、その苦しみに耐え、その苦しみが神に与えられた一服の薬だと捉えます。でなければ、自分はもっと大きな苦しみを感じているはずだ、と考えるのです。
マハーラージャ・パリークシットは、犯罪者を直接非難する言葉を聞くつもりだったのですが、彼らは上記の理由から答えることを断りました。しかし、推論に頼る哲学者たちは主の意志が働いていることを認めません。苦しみの原因を自分たちの力で探そうとするのです。シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーいわく、そのような推論家たちは自らが混乱しているため、全ての原因の根源は至高主、すなわち人格神であることが理解できないのです。
kecid vikalpa-vasanā
āhur ātmānam ātmanaḥ
daivam anye ’pare karma
svabhāvam apare prabhum

訳語

翻訳

あらゆる二元性を否定する哲学者のなかには、自分の幸福や苦しみの責任を負っているのは自分である、と言う者がいます。また超人的な力が原因だと考えたり、活動そのものが原因であると考えたりする者がいる一方、甚だしく物質的な人は自然界が究極の原因だと主張しています。

解説

上記のように、ジャイミニやその従者たちのような哲学者は、果報的活動が全ての苦しみと不幸の原因だと主張し、たとえ超人的な力を持つ神や神々という、何か高い権威が存在するとしても、その神や神々も活動に応じた結果を与えるのだから果報的活動に影響されている、と言います。彼らは、活動は活動者によってなされているのだから、活動と活動者は別々ではないと考えます。ですから、活動者自身が自分の幸福と苦しみの原因である、というわけです。『バガヴァッド・ギーター』(6-5)でも、物質的な病に冒されていない心によって、物質的痛みという苦しみから自分を解放させることができると確証しています。ですから心の物質的執着による問題に自分を巻き込むべきではありません。このように、自分の心が物質的な幸福や苦しみを作り出す友人であったり敵であったりするのです。
無神論で物質主義のサーンキャ哲学者は、物質自然界が全ての原因の原因であると結論しています。物質要素の結合が物質的な幸福と苦しみの原因であり、物質が分解すれば物質的苦悩から解放されると考えています。ガウタマやカナーダは分子の結合が全てであるとし、アシュターヴァクラのような非人格論者は、ブラフマンの精神的光が全ての原因の原因である、と結論しました。しかし『バガヴァッド・ギーター』で主は自ら、自身が非人格のブラフマンの源である、と宣言しています。ですから、人格神が全ての原因の原因です。そして『ブラフマ・サムヒター』も、主クリシュナこそがあらゆる原因の究極原因である、と確証しています。
apratarkyād anirdeśyād
iti keṣv api niścayaḥ
atrānurūpaṁ rājarṣe
vimṛśa sva-manīṣayā

訳語

翻訳

議論をして苦しみの原因を確かめたり、想像でその原因を特定したり、さらには言葉でそれらを表現することはできない、と信じる者たちがいます。王のなかの聖者よ、ご自分の知性を使ってこれらを全て熟考し、判断してください。

解説

上記の説明の通り、ヴァイシュナヴァ、すなわち主の献身者は至高主の許しがなければ何も起こり得ないことを信じています。主は至上の指揮官です。主自ら『バガヴァッド・ギーター』(15-15)で、遍在するパラマートマーとして全生命体の心の中にとどまり、彼らの行動の一部始終を注視し、また目撃している、と確証しているからです。無神論者が言う、充分な資格を備えた司法官に証明されない限り、間違った行為をしても処罰されない、という意見はこの節で論破されています。私たち献身者は、生命体の行動を常に目撃し、いつも行動を共にしている存在がいることを信じているからです。生命体は前世、あるいは現世に行ったことを忘れてしまうかもしれませんが、肉体という同じ1本の木に、個々の魂と、至高の魂であるパラマートマーが、2羽の鳥のように座っていることを心得ておくべきです。その片方、つまり生命体はその木の果物を味わっていますが、至高の生命体はその様子をじっと見つめています。ですから、パラマートマーの様相、至高の魂こそが、生命体の行動全てを目撃しているのであり、そしてパラマートマーの導きひとつで、生命体は過去を思い出したり忘れたりしています。ですから主は、遍在する非人格ブラフマンでもあり、また全ての心臓にいる局所的パラマートマーでもあります。主は、過去、現在、未来を知っているお方であり、主は何もかもをご存知です。献身者はこの真理をよく心得ているため、結果にこだわりすぎることなく、義務を誠実にまっとうします。また、主がどう反応するかは、推論によっても学識によっても知ることはできません。主が誰かを苦境に陥れたり、またそうでない状況に置いたりするのはなぜでしょうか。主はヴェーダ知識を知る至上の存在であり、真のヴェーダンティストです。同時に、主はヴェーダーンタの編集者でもあります。主から離れている者はひとりもいませんし、誰もがさまざまな形で主に奉仕をしています。束縛された状態にいる生命体は、その奉仕を物質自然界に強制されて行なっていますが、解放された境地にいる生命体は精神的エネルギーに助けられながら自発的に愛情奉仕をしています。主がなさることに矛盾も不明瞭さもありません。全てが絶対真実の道を歩んでいるのです。ビーシュマデーヴァは、主の人智を超えた活動を正しく判断しています。ですから結論として言えるのは、マハーラージャ・パリークシットに示された宗教の権化と地球の権化の苦しみは、マハーラージャ・パリークシットが理想的な指導者であることを証明するために用意されたということです。彼は、精神的発達の2本の柱、すなわち雌牛(地球)とブラーフマナ(宗教原則)を守る方法を知っていたからです。誰もが、主に1から10まで支配されています。主は、何かが誰かによってなされることを望むとき、主は全てを完璧に行います。マハーラージャ・パリークシットはこうして、自らの偉大さを試されようとしたのです。それでは、彼が賢明な心でどうこの問題を解決するか、見てみようではありませんか。
sūta uvāca
evaṁ dharme pravadati
sa samrāḍ dvija-sattamāḥ
samāhitena manasā
vikhedaḥ paryacaṣṭa tam

訳語

翻訳

スータ・ゴースヴァーミーが言った。「ブラーフマナの第一人者よ。宗教の権化の話を聞いたパリークシット皇帝は心から満足し、間違うことも悲嘆することもなく答えた」

解説

宗教の権化、雄牛の言葉は哲学と知識に完璧に支えられており、雄牛の苦しみが並みのものではないことを理解した王は、心から満足しました。至高主の法律に完璧に精通していなければ、哲学的真理を突いたこのような話はできません。皇帝は、同等の賢明さを備えていたからこそ、疑いも間違いもなく要点を捉えました。
rājovāca
dharmaṁ bravīṣi dharma-jña
dharmo ’si vṛṣa-rūpa-dhṛk
yad adharma-kṛtaḥ sthānaṁ
sūcakasyāpi tad bhavet

訳語

翻訳

王が言った。「ああ、雄牛の姿をまとったお方よ!あなたは、宗教の真理を知っているお方であり、無宗教的な行為を犯す罪人に用意されている運命は、その者を罪人とみなす者のためにもまた用意されているという原則に従って話されています。あなたは、他でもない、宗教の権化そのものです」

解説

主の承認なくしては、恩人であろうと危害を加える者であろうと、行為の直接的な責任を負うことは誰にもできない、と主の献身者は結論付けます。ですから、そのようなことをしても直接その人に責任があるとは考えません。しかし恩恵、損失どちらの場合でも、神が与えたものだから、それは主の恩恵によってなされたもの、と当然のように考えます。恩恵の場合には、神が与えたもの、ということを誰も否定しませんが、損失や不運の場合は、主が献身者を大きな災難に陥れるほど薄情なのか、と疑いを持ちます。イエス・キリストは、そのような苦境に陥れられたように見えますが、極悪人たちに怒りを感じることはありませんでした。それが、有利なことでも不利なことでも、ある物事を受け入れるときの方法です。ですから献身者にとって、罪人を罪人と見なす者は、その罪を犯したものと同じくらい罪深いのです。神の恩恵によって、献身者はどのような逆境にも耐えます。マハーラージャ・パリークシットはそのことを目の当たりにし、だからこそ、その雄牛がまさに宗教の権化そのお方であることを理解することができました。言い換えれば、献身者に苦しみは全くないということです。いわゆる苦しみといっても、それは全ての中に神を見ている献身者にとっては神の恩恵にほかなりません。普通の人間なら、国の権威者に苦情を訴えるところですが、雌牛と雄牛は、カリの権化から拷問を受けても王に苦情を訴えることはしませんでした。雄牛のこのような並外れた振る舞いを見た王は、この雄牛は宗教の権化に違いない、と結論を下しました。宗教原則がもつ非常に複雑な仕組みを、彼以外に誰も理解することなどできるはずがなかったからです。
athavā deva-māyāyā
nūnaṁ gatir agocarā
cetaso vacasaś cāpi
bhūtānām iti niścayaḥ

訳語

翻訳

ですから、主のエネルギーは想像を絶しているものと断言できます。頭脳や言葉を駆使しても、それらを把握することはできません。

解説

神があらゆる物事の究極の行為者であると確かに知っているにもかかわらず、なぜ行為の実行者を特定してはいけないのか、と、献身者が誰かに問われることがあるかもしれません。究極の行為者を知っているのであれば、本当の実行者のことを知らないふりをすべきではないはずです。この疑問の答えとして、全ては主の代理者であるマーヤー・シャクティ、つまり物質エネルギーによってなされているから、主は直接責任を負っているわけではない、と言うことができます。物質エネルギーはいつでも私たちの心の中に、主の至上の権威に対する疑いを起こさせようとしています。宗教原則の権化は、至高主の許しがなければ何も起こらないことを完璧に知っていたのですが、幻惑のエネルギーによって疑惑に包まれた彼は、至上の原因について言及することを避けています。この疑いは、カリと物質エネルギーの汚れから生じます。カリ時代の邪悪な環境は幻想エネルギーによって増大され、またそれがどれほど広がっているかは説明さえできません。
tapaḥ śaucaṁ dayā satyam
iti pādāḥ kṛte kṛtāḥ
adharmāṁśais trayo bhagnāḥ
smaya-saṅga-madais tava

訳語

翻訳

サッティヤ(誠実さ)の時代で、あなたの4本の足は、苦行、清潔さ、慈悲心、誠実さという4つの原則にしっかりと築かれていました。ところが今ではそのうちの3本の足が、高慢さ、女性への欲情、陶酔物という形で現れた無宗教の横行ゆえに折れてしまいました。

解説

幻惑させるエネルギー、すなわち物質自然は、マーヤーの惑わせる力に生命体が影響される程度に応じて、その力を発揮させます。蛾は光から出ているまばゆい明かりに惑わされ、その火の餌食になるのです。同じように、惑わせる力はいつも束縛された魂の心を捉まえ、幻惑の火の餌食にしようと待ち構えていますが、ヴェーダ経典は、その力に惑わされずにその力を取り除くようにと彼らに警告しています。ヴェーダは私たちに、無知の暗闇に入るのではなく、光の道を進むよう助言します。主も自ら、物質エネルギーの惑わす力はあまりにも強いために、独力で征服できるものではないと警告していますが、主にすっかり身を委ねた者は簡単に克服できます。しかし、主の蓮華の御足に身を委ねることも簡単なことではありません。帰衣できるのは、苦行、清潔さ、慈悲心、誠実さを備えた人物に限られています。この4つの高尚な文化の原則は、サッティヤ時代に顕著に現れていました。当時は誰もが充分な資質を備え、もっとも高い地位であるブラーフマナにふさわしく、誰もがパラマハンサ、すなわち放棄階級というもっとも高い境地にいました。文化的な基盤によって、人間は幻惑エネルギーに決して影響されることはありませんでした。そのような堅固な気質を備えた人々は、マーヤーの束縛から逃れられるだけの力を充分に備えていました。ところが徐々に、ブラーフマナ文化の基本的原則、すなわち苦行、清潔さ、慈悲心、誠実さに取って代わって、高慢さ、女性への執着、陶酔物の使用が次第に高まることで失われていき、解放への道、あるいは超越的な喜びの道は、人間社会から見る間に遠ざかってしまいました。カリ時代が進むにつれ、人々は高慢になり、女性と陶酔物に執着するようになっています。カリ時代の影響で、貧困者でさえわずかなお金を自慢し、女性は男性の心を惑わせるために情欲をかき立てる服を着て、男性は酒、たばこ、お茶などにうつつを抜かすようになりました。このような悪癖、あるいはいわゆる文化の発達は、あらゆる無宗教の根源であるため、堕落や賄賂や縁者びいきを阻止することはできません。人間はこのような忌まわしい傾向を、法律の制定や警察力に頼るだけでは止められませんが、適切な薬であるブラーフマナ文化、すなわち苦行、清潔さ、慈悲心、誠実さの原則を広めることで心の病を治すことができます。現代文化と経済発展は、貧困と食糧難、そして結果として消費者にとって物が手に入らない脅威という新しい状況を生み出しています。社会の指導者層と富裕階級者が蓄えた財産の半分を、間違って導かれた人々のために使い、彼らを『シュリーマド・バーガヴァタム』の知識を通して神の意識に導けば、間違いなくカリ時代は、束縛された魂を堕落させる試みに失敗するはずです。偽りのプライド、自分の価値の過大評価、女性への過度の執着と交わり、陶酔物は、どれほど人々が世界の平和を強く求めても、人間文化を平和の道から逸脱させてしまうことを、私たちはよく肝に銘じておかなくてはなりません。『シュリーマド・バーガヴァタム』の原則を世に広めればおのずから、誰もが節度ある生活をし、内面も外面も清潔となり、苦しむ人々への慈悲心や日々の暮らしのなかで誠実さを高めていきます。それが、いま世界に顕著に現れている人間社会の欠陥を正す道なのです。
idānīṁ dharma pādas te
satyaṁ nirvartayed yataḥ
taṁ jighṛkṣaty adharmo ’yam
anṛtenaidhitaḥ kaliḥ

訳語

翻訳

あなたは今、誠実さの印である1本の足だけで立ち、今にも倒れそうな状態にあります。しかし口論の権化(カリ)は、偽りによって力を増し、その足さえ破壊しようとしています。

解説

宗教原則は、教義や人間が作った宗教形式ではなく、4つの主要な規定、すなわち苦行、清潔、慈悲心、誠実さを遵守することによって支えられています。一般大衆は、幼い頃からこの原則を教わらなくてはなりません。苦行とは、体にはあまり快適ではないが、精神的悟りを助けてくれる行為を自分から進んで受け入れることを指し、絶食が例として挙げられます。ひと月に2回から4回の絶食は、精神的な悟りを得るためだけにする苦行であり、政治など、ほかの理由で行なうべきものではありません。自己を悟るのではなく、別の目的でなされる絶食は『バガヴァッド・ギーター』(17-5〜6)で非難されています。同じように、清潔さは心と体にも必要なことです。体を清潔にすればそれなりに高められるのですが、何よりも心を清潔にすべきであり、それは至高主を讃えることで達成できます。至高主を讃えなければ、心の中に積まれた汚れを洗い流すことはできません。無神論の文化では、神がおろそかにされているため、心を清潔にしてはくれませんし、この単純明快な理由から、その文化で育った人々は物質的には優れてはいても、真に優れた気質を備えることはできません。行動の結果を見れば、その行動の善し悪しがわかります。カリ時代において人類の文化が手にした結果は、人々の不満であり、だからこそ誰もが心の平和を強く求めています。サッティヤ・ユガにおいて人々の心の平和が完璧に満たされていたのは、上記の優れた質を全ての人々が完璧に備えていたからです。トレター・ユガになるとやがてその特質は4分の3に減り、ドゥヴァーパラ・ユガでは半分になり、カリ・ユガでは4分の1にまで減り、さらにそれさえも、世界に広がる不誠実のために次第に減少しています。高慢であれば、たとえ表面的な高慢さであったとしても、本当に高慢であったとしても、苦行の結果は消えてしまいます。女性への過度の執着のせいで清潔さは失われ、陶酔物にのめりこめば慈悲の心がなくなり、虚偽に満ちた政治宣伝のために人々は誠実さを失っていきます。人間文化は、バーガヴァタ・ダルマをよみがえらせることで、言葉では言い尽くせないほどの邪悪な堕落から救われます。
iyaṁ ca bhūmir bhagavatā
nyāsitoru-bharā satī
śrīmadbhis tat-pada-nyāsaiḥ
sarvataḥ kṛta-kautukā

訳語

翻訳

地球の重荷は、人格神によって、そして他の人々によって確実に和らげられました。主が化身としてこの世界にいらっしゃったとき、その吉兆な足跡があったからこそ、あらゆるすばらしい出来事が実現されたのです。
śocaty aśru-kalā sādhvī
durbhagevojjhitā satī
abrahmaṇyā nṛpa-vyājāḥ
śūdrā bhokṣyanti mām iti

訳語

翻訳

そして今、人格神に見捨てられた貞節な彼女は、目に涙を浮かべて自分の行く末を嘆いています。指導者のふりをしている下等な男たちに支配され、もてあそばれているからです。

解説

クシャトリヤ、あるいは苦しむ者を救うにふさわしい男性は、国を治めるためにいます。正しい訓練も受けていない下等な人間たち、あるいは苦しむ人々を守る気持ちもない者たちは、指導者の地位に就かせるべきではありません。嘆かわしいことにカリ時代では、下等な地位の人間たちが、何の訓練も受けることなく国民の投票という力に頼って支配者の地位に居座り、苦しむ人々を守る代わりに、誰も耐えられないような状況を作り出しています。そのような統治者は、違法な手段で市民の快適な生活を犠牲にしてでも自分の満足を優先させ、こうして、貞節な母なる地球は、人も動物も含む我が子たちの哀れな状況を見て泣いています。それが、無宗教が著しく世を包みこむカリ時代の世界の未来です。そして無宗教的傾向を抑えることのできる王がいない状況では、『シュリーマド・バーガヴァタム』の教えで人々を系統的に教育することで、退廃、賄賂、恐喝などがはびこる茫漠とした世界を清めることができるのです。
iti dharmaṁ mahīṁ caiva
sāntvayitvā mahā-rathaḥ
niśātam ādade khaḍgaṁ
kalaye ’dharma-hetave

訳語

翻訳

一千人の戦士とひとりで戦えるマハーラージャ・パリークシットは、このように宗教と地球の権化を慰めた。そして鋭い剣を抜き、あらゆる無宗教の根源となっているカリの権化を殺そうとした。

解説

これまで述べられてきたように、カリの権化とは、啓示経典で禁じられている罪を意図的に全て犯している人間を指します。カリ時代には確かにカリの活動がはびこっていますが、だからといって、社会の指導者、行政指導者、博識で知性ある人々、まして主の献身者は、ただじっと座ってカリ時代の反動を黙って見ていてもいい、というわけではありません。雨期になれば確実に大量の雨が降ってきますが、だからといって、雨から身を守る方法を採らなくてもいいというわけではありません。国の代表者の義務は、カリの、あるいはカリ時代に影響された人々の活動に対抗する必要策を全て講じることにあります。そしてマハーラージャ・パリークシットこそが、その国の理想的な代表者です。なぜなら、すぐさま鋭い剣を抜いてカリの権化を殺そうとしたからです。行政者たちは、いたずらに世の堕落を止める解決策を作るだけではなく、認められたシャーストラの視野と見解に基づいて、堕落した状況を作り出している人間たちを鋭い剣で殺そうとしなくてはなりません。行政者たちは、酒屋の営業を許すことで人々の堕落を止めることはできません。麻薬や酒を扱う場所をすぐに閉鎖し、たとえ死罪をもってしても、無差別に陶酔物にふけっている者たちを処罰しなくてはなりません。それがカリの活動を止める方法であり、そのことがここでマハーラージャ・パリークシットというマハー・ラタによって立証されています。
taṁ jighāṁsum abhipretya
vihāya nṛpa-lāñchanam
tat-pāda-mūlaṁ śirasā
samagād bhaya-vihvalaḥ

訳語

翻訳

王が本当に自分を殺そうとしていることがわかったカリの権化は、すぐに王の衣服を脱ぎ捨て、恐怖心に縮みあがりながら降参し、平伏した。

解説

カリの権化が身に着けていた衣服はただの見せかけでした。王としての服装は王やクシャトリヤにふさわしいのですが、低俗な人間が見せかけで王の服を着ても、マハーラージャ・パリークシットのような本物のクシャトリヤから戦いを挑まれるとおのずと暴かれるものです。真のクシャトリヤは絶対に降参しません。ライバルのクシャトリヤの挑戦を敢然と受け入れ、戦って死ぬか、勝利を手にするのです。降参するのは本物のクシャトリヤにはありえません。カリ時代では、自分を政治家や行政の代表者の格好をしたり見せかけたりする詐欺師が横行していますが、本物のクシャトリヤから挑戦されると本性を表すものです。ゆえに格好だけのカリの権化は、マハーラージャ・パリークシットと戦っても到底勝てるものではないことがわかると、家来のようにすぐに平伏し、着ていた王の衣服を脱ぎ捨てたのでした。
patitaṁ pādayor vīraḥ
kṛpayā dīna-vatsalaḥ
śaraṇyo nāvadhīc chlokya
āha cedaṁ hasann iva

訳語

翻訳

服従した者を受け入れ、歴史を通じてうたわれるにふさわしいマハーラージャ・パリークシットは、哀れな、また堕落したカリを殺さなかった。哀れな者に慈悲深い人物だった王は情け深く微笑んだ。

解説

普通のクシャトリヤでさえ、降参した敵は殺さないのですから、生まれつき心優しく、また哀れな者に優しいマハーラージャ・パリークシットが同じことをするのは当たり前です。パリークシット王は微笑んでいました。それは、偽装していたカリが下等な人間であることを露呈したからですが、また同時に、かつて自分が殺そうとした相手はその鋭い剣から逃れることができなかったのに、この哀れで下等なカリが実にタイミングよく服従したことを皮肉なことと感じていました。だからマハーラージャ・パリークシットの栄光と優しさはうたわれるにふさわしいのです。彼は心優しく、また哀れみ深い皇帝であり、敵であっても降参すれば受け入れる資質を備えていました。こうして、カリの権化は天の摂理によって救われたのでした。
rājovāca
na te guḍākeśa-yaśo-dharāṇāṁ
baddhāñjaler vai bhayam asti kiñcit
na vartitavyaṁ bhavatā kathañcana
kṣetre madīye tvam adharma-bandhuḥ

訳語

翻訳

そこで王は答えた。「私たちはアルジュナの名声を受け継いでいる。ゆえに、手を合わせて私に身を委ねているおまえを殺すわけにはいかない。だが、私の王国に住むのは許さない。おまえは無宗教の友人だからである」

解説

あらゆる無宗教の友であるカリの権化は降参して許されましたが、どのような状況であっても、福祉国家内ではどこであろうと住むことは許されません。パーンダヴァ兄弟は、クルクシェートラの戦いを起こしたお方である人格神、主クリシュナに選ばれた代表者ですが、それは主が個人的な利益を追求したわけではありません。主は、マハーラージャ・ユディシュティラのような理想的な国王に、そしてマハーラージャ・パリークシットのような子孫に世界を治めてほしいと望み、だからこそマハーラージャ・パリークシットのような責任ある国王は、パーンダヴァ兄弟のすばらしい名声を犠牲にしてまで、自分の王国内に無宗教の友人を住まわせるわけにはいきませんでした。それが国内の堕落を一掃する方法であり、ほかに方法はありません。無宗教の友は国内から抹殺しなくてはならず、そうすることで、国を堕落から救うことができるのです。
tvāṁ vartamānaṁ nara-deva-deheṣv
anupravṛtto ’yam adharma-pūgaḥ
lobho ’nṛtaṁ cauryam anāryam aṁho
jyeṣṭhā ca māyā kalahaś ca dambhaḥ

訳語

翻訳

もしもカリの権化である無宗教が、人が作った神、つまり国の代表者として振る舞うことが許されでもしたら、貪欲、虚偽、強盗、無礼な行為、背信行為、不運、詐欺、口論、虚栄心など、無宗教の原則が間違いなく世にはびこることだろう。

解説

宗教原則、すなわち苦行、清潔さ、慈悲心、誠実さは、すでに話し合ってきたように、どのような信仰をもつ者でも従うことができるものです。ヒンドゥ教からイスラム教やキリスト教、あるいは他の信仰に改宗する必要はなく、それゆえに背教者になったり、宗教原則に従わなくなるといったことはありません。バーガヴァタが説く宗教は、宗教原則に従うことを強く勧めています。宗教の原則とは、ある種の教義ではなく、特定の信仰に基づく決まり事でもありません。そのような決まりは時代や場所で違うことがあります。大切なのは、宗教の目的をまっとうできたかを見極めることにあります。真の原則を得ることなくある教義や形式だけにしがみつくのは良くありません。宗教と一線を画す国は特定の信仰に偏ることはないかもしれませんが、国家は、上記の宗教原則に無関心であってはならないのです。しかしカリ時代に入ると、国の代表者たちは宗教原則に無関心になり、そのため彼らの保護を受けて、宗教原則に反する物事、たとえば貪欲、虚偽、詐欺、盗みなどが自然に起こるようになるため、国の腐敗を阻止しようと叫ぶ運動など何の意味も持たなくなります。
na vartitavyaṁ tad adharma-bandho
dharmeṇa satyena ca vartitavye
brahmāvarte yatra yajanti yajñair
yajñeśvaraṁ yajña-vitāna-vijñāḥ

訳語

翻訳

ゆえに、無宗教の仲間よ。おまえは、熟達者たちが最高人格神の満足のために真理と宗教原則に基づいて儀式をする場所に居続ける資格はない。

解説

ヤジュニェーシュヴァラ、最高人格神は、あらゆる種類の儀式の受益者です。その儀式は時代に応じてさまざまな形式が定められています。言い換えると、儀式とは主の至高性を受け入れ、主があらゆる面で満足なさるような活動をすること、と定義することができます。無神論者は神の存在を信じませんし、主を満足させる儀式などもしません。主の至高性が認められ、儀式が行われている場所や国はどこでも、ブラフマーヴァルタと呼ばれています。世界各地にさまざまな国があり、どの国にも至高主を喜ばせるための多種多様な儀式がありますが、主を喜ばせる要点が『シュリーマド・バーガヴァタム』で定められており、それは誠実さです。宗教の基本原則は誠実さであり、全ての宗教の最終目的は主を満足させることにあります。カリ時代では、どの儀式にも共通するすばらしい方法がサンキールタナ・ヤジュニャです。それが、ヤジュニャの方法をどう世に広めるかを知っている熟練者の意見です。主チャイタニヤはこのヤジュニャの方法を説きましたが、この節からわかることは、カリの権化を追い払い、人間社会をこの時代の餌食になることから救うために、このサンキールタナ・ヤジュニャの儀式がどのような場所でも行なわれるという事実です。
yasmin harir bhagavān ijyamāna
ijyātma-mūrtir yajatāṁ śaṁ tanoti
kāmān amoghān sthira-jaṅgamānām
antar bahir vāyur ivaiṣa ātmā

訳語

翻訳

時に供儀が神々の崇拝のために執り行われるとしても、全ての供儀において崇拝の対象は、至高人格神である。主こそが誰にとっても至高の魂であり、空気のように内にも外にも存在しているからである。ゆえに、崇拝する者に幸福をもたらしているのは主しかいない。

解説

インドラやチャンドラのような神々が崇拝され、彼らに供物が捧げられることもありますが、儀式の報酬そのものは至高主から崇拝者に授けられるのであり、崇拝者に幸福をもたらすことができるのは主以外に誰もいません。神々は、たとえ崇拝されようとも、主の許可がなければ何もできない存在です。主が、動くものと動かないもの全ての至高の魂だからです。
『バガヴァッド・ギーター』(9-23)の中で主自ら、次のシュローカで確証しています。
ye ’py anya-devatā-bhaktā
yajante śraddhayānvitāḥ
te ’pi mām eva kaunteya
yajanty avidhi-pūrvakam
「クンティーの子よ。ほかの神々の信者で、信念を持ってその神を崇拝する者は、実は私を崇拝しているのだ。だが彼らは正しい理解のないまま崇拝している」
至高主が唯一無二であるという事実は、疑いの余地もありません。主以外に神はいません。ですから、至高主は未来永劫にわたって物質創造界を超越しています。それでも、太陽、月、インドラなど、至高主の物質的な代理でしかない神々を崇拝する人が多くいます。神々は、至高主の間接的な、主の質を表す代理人です。しかし博識な学者や献身者は、誰が誰なのかをよく知っています。ですから、至高主を直接崇拝し、物質的で質的代表者にその思いを逸らすことはありません。賢くない人だけが質的で物質的な代理人を崇拝するのですが、正しい規則に則っていないため、非礼な崇拝と言えます。
sūta uvāca
parīkṣitaivam ādiṣṭaḥ
sa kalir jāta-vepathuḥ
tam udyatāsim āhedaṁ
daṇḍa-pāṇim ivodyatam

訳語

翻訳

シュリー・スータ・ゴースヴァーミーが言った。「このようにマハーラージャ・パリークシットに命じられたカリの権化は、恐怖におののきはじめた。すぐにでも殺そうとするように立ちはだかる王は、カリの目にはヤマラージャのように見えた。やがてカリは次のように話した」

解説

パリークシット王は、命令に従わなければすぐにカリの権化を殺すつもりでいました。言うことを聞きさえすれば、命を奪うことはなかったのです。カリの権化も、いろいろと処罰を免れようとはしたのですが、王に服従するしかないと心に決め、震えながら命乞いをしています。王、すなわち国の代表者は、カリの権化の前では死の権化、ヤマラージャほどに強く、毅然(ルビ:きぜん)として向かわなくてはなりません。王の命令はどうあっても従わなくてなりませんし、従わない犯罪者は命を失うしかありません。それが市民の正常な生活を混乱させるカリの権化を支配する方法です。
kalir uvāca
yatra kva vātha vatsyāmi
sārva-bhauma tavājñayā
lakṣaye tatra tatrāpi
tvām ātteṣu-śarāsanam

訳語

翻訳

陛下よ。あなたのご命令でどこにでも住めるとしても、私の目に映るのは弓と矢を持つあなたでしかありません。

解説

カリの権化はマハーラージャ・パリークシットが、全世界の全土の皇帝であることを目の当たりにすることになり、そのため、自分がどこに住もうと、その威厳を漂わせる王に会わなくてはなりませんでした。カリの権化は害をもたらすだけであり、またマハーラージャ・パリークシットはそのような極悪非道な者たち、特にカリの権化を懲らしめる存在でした。ですから、カリの権化は、別の場所で殺されるよりは、そこで王の手にかかって殺されたほうがよかったはずです。しかし結局はこの男も王に服従した魂だったのですから、必要なことをする立場にあったのは王だったのです。
tan me dharma-bhṛtāṁ śreṣṭha
sthānaṁ nirdeṣṭum arhasi
yatraiva niyato vatsya
ātiṣṭhaṁs te ’nuśāsanam

訳語

翻訳

ですから、宗教の保護者の第一人者よ、どうか私のために、あなたの統治下で守られながらいつまでも住むことができる場所をお決めください。

解説

カリの権化は、マハーラージャ・パリークシットに対し、宗教を保護する代表者として話し掛けています。パリークシット王は、降参した者を殺さない人物だったからです。服従した魂は何があっても守られなくてはなりません。それが敵だとしても、です。それが宗教原則なのですから。ならば敵ではなく献身的な召使いとして主に身を委ねた人が、人格神からどのような保護を授かるかは簡単に想像できます。主は身を委ねた魂を、全ての罪から、そして罪の行いから生じる反動全てから守るのです(『バガヴァッド・ギーター』 18-66)。
sūta uvāca
abhyarthitas tadā tasmai
sthānāni kalaye dadau
dyūtaṁ pānaṁ striyaḥ sūnā
yatrādharmaś catur-vidhaḥ

訳語

翻訳

スータ・ゴースヴァーミーが言った。「そのように嘆願されたマハーラージャ・パリークシットは、カリの権化に賭博、飲酒、売春、動物の殺害が行われている場所に住む許可を与えた」

解説

無宗教の基本原則である高慢、売春、陶酔物、詐欺などは、宗教の4つの原則である苦行、清潔さ、慈悲心、誠実さを妨害します。カリの権化は、王が特に挙げた4つの場所、すなわち賭博の場所、売春の場所、飲酒の場所、動物食肉処理の場所に住む許可を得ました。
シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーは、サウトゥラーマニー・ヤジュニャのような経典の原則に反する飲酒、結婚外での女性とのつきあい、経典の教えに反する動物殺害は全て無宗教である、と説いています。ヴェーダには2種類の教えが、プラヴリッタ、すなわち物質的楽しみにふける者たち、そしてニヴリッタ、物質的束縛から解放されている者たちのために用意されています。プラヴリッタに対するヴェーダの教えは、彼らを徐々に解放の道に導く活動を定めています。ですから、無知という最低の段階にいる人たち、そして酒、女性、肉食にふけっている人々には、サウトゥラーマニー・ヤジュニャを執行したうえで酒を飲み、結婚して女性と交わり、儀式をして肉を食べることが勧められることがあります。ヴェーダ経典でのそのような勧めは、特定の人だけに向けられたものであり、誰にも共通しているわけではありません。しかしそれでも、特定の種類の人に向けられたヴェーダの教えですから、プラヴリッティの活動はアダルマではありません。ある人にとっては食糧であっても、別の人には毒であったりします。同じように、無知の様式の人への教えは、徳の様式にいる人たちには毒になったりします。ですからシュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミー・プラブは、特定の段階にいる人々に向けられる経典の勧めは、アダルマ、無宗教ではない、と断言しています。しかし、実際にこれらの活動はアダルマであり、勧められるべきではありません。経典の推奨はアダルマを助長するためではなく、必要とされるアダルマを徐々にダルマの道に向けるための制限なのです。
国の代表者全員が、マハーラージャ・パリークシットの足跡に従って、宗教原則である苦行、清潔さ、慈悲心、誠実さが国内で確立されていること、そして無宗教の原則である高慢、女性との非道徳的な交際や売春、陶酔物、偽りがあらゆる手段で禁じられていることを確かめなくてはなりません。そして、不利な状況にあっても最善を尽くすために、カリの権化は賭博、飲酒、売春、食肉処理場などのような場所があれば、そこへ移されるべきでしょう。このような無宗教的な習慣にふけっている人々は、経典の教えを通して矯正されます。どのような国であっても、彼らの無宗教的慣習が助長されるべきではありません。言い換えれば、国はどのようなものでも賭博、飲酒、売春、虚偽を徹底的にやめさせるべきだということです。大衆の堕落を根絶したい国家は、以下のように宗教原則を導入することができます。
1. 月に必ず2回の、また時にはそれ以上の絶食日に従う(苦行)。月に2回絶食することは経済的な面から見ても、膨大な量の食糧の節約につながりますし、市民の健康面でもたいへん都合のよいものです。
2. 男性は24歳になった際、女性は16歳になった際に、必ず結婚式を通して結ばれなくてはなりません。学校や大学での男女共学に関しては、男女が正しく結婚するのであれば問題はありませんが、男性と女性の生徒が親密な関係になった場合、不義な関係を続けていくのではなく、適切に結婚しなくてはなりません。離婚は売春を助長するものですから、廃止すべきです。
3.国民は、国や人間社会が精神的環境を作り出す目的のために、収入の最大半分を個人的にも、団体としても寄付すべきです。そして『バガヴァッド・ギーター』の原則を布教しなくてはなりません。その方法として、(a)カルマ・ヨーガ、すなわち主を満足させる活動、(b) 権威ある人物あるいは悟った魂から『シュリーマド・バーガヴァタム』を定期的に聞くこと、 (c) 家庭で、あるいは崇拝の場所で集まって主の栄光を唱えること、(d) 『シュリーマド・バーガヴァタム』の布教に専心しているバーガヴァタにあらゆる奉仕をすること、そして(e) 神の意識に満たされている環境がみなぎる場所に住むこと、が挙げられます。国がこのような方法で治められれば、自然にどの場所も神の意識で満たされるようになります。
賭博は、投機的ビジネス事業を含むどのような形であっても人を堕落させ、賭博が国内で助長されるのであれば、誠実さは完全に姿を消していきます。先に挙げた年齢に達している若い男女が未婚のままで生活すること、そしてありとあらゆる動物の食肉処理はすぐに禁止しなくてはなりません。肉を食べる人たちは、上記の経典が示す手段を通して食べることはできますが、それ以外は許されません。また、喫煙や紅茶を飲むことも含めて、あらゆる陶酔物も禁止されるべきです。
punaś ca yācamānāya
jāta-rūpam adāt prabhuḥ
tato ’nṛtaṁ madaṁ kāmaṁ
rajo vairaṁ ca pañcamam

訳語

翻訳

カリ時代の権化は、もっと何か欲しいと頼み、王は、彼の願いを聞き入れて、金があるところに住む許可を与えた。金があるところには虚偽、陶酔、欲望、嫉妬、敵意も同時に存在しているからである。

解説

マハーラージャ・パリークシットは、カリに4つの場所で住むことを許しましたが、それでもカリには厳しい条件だと言えます。マハーラージャ・パリークシットが統治している限り、そういう場所はなかったからです。そこでカリは、彼の非道な目的のために使える何か実用的なものを頼んだのです。その願いに対してマハーラージャ・パリークシットは、金がある場所に住むことを許可します。金があるところには、上記の4つの物事、さらに敵意も同時に存在するからです。こうしてカリの権化が金の基準になったのです。『シュリーマド・バーガヴァタム』によると、金は虚偽、陶酔、売春、嫉妬、敵意を増大させます。金本位制、そして流通貨幣だとしても悪い制度と言わざるをえません。金本位貨幣制度は、額面通りの価値がないため虚偽に支えられています。現実の金の価値を超えた価格で発行されているのですから、土台になっているのは虚偽です。国という権威に支えられたこの不自然な通貨の膨張のために、経済はさらに悪用されます。商品価格は、ありもしない悪い金、すなわち不自然な紙切れの貨幣のために不自然に高騰します。悪質な金が良質の金を排除するのです。為替取引には紙幣ではなく、本当の金貨が使われなくてはなりません、その結果、金の悪用を止めることができます。女性を飾る金は、金の質ではなく、量の制限によって許されるべきです。そうすれば、欲望、嫉妬、敵意を避けることができます。金貨という現実の金が流通すれば、虚偽や売春を作り出す金の影響は、おのずとなくなっていくものです。売春や虚偽を抑止しようとする省庁もいらなくなります。
amūni pañca sthānāni
hy adharma-prabhavaḥ kaliḥ
auttareyeṇa dattāni
nyavasat tan-nideśa-kṛt

訳語

翻訳

このようにしてカリの権化は、ウッタラーの子であるマハーラージャ・パリークシットに指示されて、これら5つの場所に住むことが許されたのである。

解説

このようにしてカリ時代は金を基準として始まりました。そのために虚偽、陶酔物、動物殺害、売春が全世界にはびこり、思慮分別のある人々は世の堕落を食い止めようとしています。その対策がここに述べられており、誰でもその方法を実践できます。
athaitāni na seveta
bubhūṣuḥ puruṣaḥ kvacit
viśeṣato dharma-śīlo
rājā loka-patir guruḥ

訳語

翻訳

ゆえに、確かな幸福を願う者は誰であろうと、とりわけ国王、宗教家、一般的な指導者、ブラーフマナ、サンニャーシーは、これら4つの無宗教の原則に関わるべきではない。

解説

ブラーフマナは他の階級の人々にとっては宗教の指導者であり、サンニャーシーは全ての階級と、社会の地位の精神指導者です。ですから、人々の物質的な幸せを任せられた国王や市民の指導者もやはり精神指導者と言えます。精力的な宗教家や責任ある立場にいる人、あるいは価値ある人間生活を無駄にしたくないと思う人々は、無宗教の原則、特に女性との不義の関係を避けなくてはなりません。もしブラーフマナが誠実でないならば、彼の全ての主張はすぐに無効で意味のないものになってしまいます。サンニャーシーが女性と不義の関係を持てば、サンニャーシーであるという主張もまやかしになります。同じように、国王や市民の指導者が高慢になり、酒を飲んだりたばこを吸ったりしているのであれば、市民を幸せに導くのに必要な資格を失います。誠実さは全ての宗教の基本原則です。人間社会の4種類の指導者、すなわちサンニャーシー、ブラーフマナ、王、市民の指導者は、それぞれの性格や資格に基づいてしっかりと判断されなくてはなりません。社会の精神指導者として、または物質指導者として受け入れられる以前に、上記の性格の基準に照らして判断されなくてはなりません。そのような市民の指導者は学術的な資質面では劣るとしても、資格を台無しにする賭博、飲酒、売春、動物殺害という汚れから自由でなくてはなりません。
vṛṣasya naṣṭāṁs trīn pādān
tapaḥ śaucaṁ dayām iti
pratisandadha āśvāsya
mahīṁ ca samavardhayat

訳語

翻訳

王はそのあと宗教の権化(雄牛)の失われた足をよみがえらせ、さまざまな活動を促進させ、地球の環境を十分に回復させた。

解説

マハーラージャ・パリークシットは、カリの権化に特定の場所を選ぶことで、カリをだましました。カリ、ダルマ(雄牛の姿)、地球(雌牛の姿)を前にして彼は自分の王国がどういう状態にあるのかを把握しており、そのためすぐに適切な処置をとり、雄牛の足、すなわち苦行、清潔さ、そして慈悲心を再生させました。そして世界中の人々が幸せになるよう、金の保有を経済安定のために使うことを考えました。金は確かに虚偽、陶酔物、売春、敵意、暴力の温床にはなりますが、正しい王や市民の指導者、またブラーフマナやサンニャーシーに管理されれば、同じ金を、失われた雄牛の足や宗教の権化をよみがえらせるために正しく使うことができます。
そのためマハーラージャ・パリークシットは、祖父アルジュナのように、カリの兆しのため保管されていた不正な金を集め、『シュリーマド・バーガヴァタム』が教えているように、サンキールタナ・ヤジュニャのために使いました。すでに提案されているように、蓄積した富は3つの部分、すなわち主への奉仕のための50%、家族のための25%、自分個人の出費としての25%に分けられます。それらを主への奉仕、あるいはサンキールタナ・ヤジュニャを通して社会に精神的知識を広めるために使うのは、人類の慈悲を最大限に発揮することになります。世界の人々は、精神的知識について、特に主への献身奉仕についてはほとんど何も知らないため、献身奉仕に関する系統的かつ超越的知識を広めることは、この世界で示すことのできる最大の慈悲です。各自がこれまで蓄積した金の50%を捧げることを教われば、間違いなく苦行、清潔さ、慈悲心もおのずとよみがえり、こうして、宗教の権化が失った3本の足は自動的に再生されます。充分な苦行、清潔さ、慈悲心、誠実さがあれば、自然に、母なる地球は心から満足し、カリが人間の社会構造の中に浸透する可能性はほとんどなくなります。
sa eṣa etarhy adhyāsta
āsanaṁ pārthivocitam
pitāmahenopanyastaṁ
rājñāraṇyaṁ vivikṣatā
āste ’dhunā sa rājarṣiḥ
kauravendra-śriyollasan
gajāhvaye mahā-bhāgaś
cakravartī bṛhac-chravāḥ

訳語

翻訳

森に引きこもる決意をしたマハーラージャ・ユディシュティラからハスティナープラ王を譲られた、最も幸運なマハーラージャ・パリークシット皇帝は、クル王家の王たちの業績によって讃えられることで、今世界を大成功のもとに治めている。

解説

ナイミシャーラニャの聖者たちの長期間にわたる供犠は、マハーラージャ・パリークシットが他界した直後に執行されています。この儀式は千年続けられることになっており、その初期には、主クリシュナの兄であるバラデーヴァの仲間たちがその儀式の場を訪れたとされています。ある権威者は、過去からの最短の時間差を示すために、この節では現在形が使われていると説明しています。その意味からするとこの現在形は、ここではマハーラージャ・パリークシットの統治にあてはまります。実際に継続していたのですから、現在形を使うことができます。マハーラージャ・パリークシットが定めた原則は今でも適用することができ、権威者たちに決意さえあれば人間社会全体は改善されます。私たちもマハーラージャ・パリークシットがしたことをすれば、カリの権化によって導入された不道徳な行いを国から追い払うことができます。パリークシット皇帝はカリのために場所をいくつか用意しましたが、実際にカリは世界のどこにもそのような場所を見つけることができませんでした。マハーラージャ・パリークシットが賭博、飲酒、売春、動物殺害の場所が作られないよう厳しく目を光らせていたからです。現代の政治家は国を退廃させたくないと思っていますが、愚かな彼らは、それをどう実行したらいいのかわかりません。賭博場、酒をはじめとする陶酔物を出す店、売春宿、ホテルでの売春、映画館、自分を含むあらゆる取引の虚偽を許可しているというのに、同時に国から退廃的な物事を追放したいと考えています。神の意識がないのにもかかわらず神の王国を作りたいと思っているのです。この2つの矛盾を共存させることなど、いかに可能でしょうか。国を退廃から守りたいのであれば、まず宗教原則、すなわち苦行、清潔さ、慈悲心、誠実さを受け入れる社会を組織するのが先決であり、その状況を正しく作り上げるには、まず賭博、飲酒、売春、虚偽の場所を封鎖しなくてはなりません。これらが『シュリーマド・バーガヴァタム』の各ページから学ぶことのできる実践的な教えです。
ittham-bhūtānubhāvo ’yam
abhimanyu-suto nṛpaḥ
yasya pālayataḥ kṣauṇīṁ
yūyaṁ satrāya dīkṣitāḥ

訳語

翻訳

アビマンニュの息子、マハーラージャ・パリークシットはとても経験豊かで、その卓越した管理と保護の力があったからこそ、あなたたちはこのような供犠を執行できるのである。

解説

ブラーフマナとサンニャーシーは社会の精神的発達に貢献できますが、一方クシャトリヤや管理者たちは、人類社会の物質的な平和と繁栄に貢献します。どちらも、完全な平和になくてはならない柱であり、ゆえに、人類共通の幸福のためにも互いに完全に協力し合わなくてはなりません。マハーラージャ・パリークシットは、カリを自分の活動の場から追放できる経験豊かな人物であり、その経験に基づいて精神的啓発を受容する国家を築きました。一般大衆に受け入れる気持ちがなければ、精神的啓発の必要性を彼らの心に植えつけることは困難です。苦行、清潔さ、慈悲心、誠実さという宗教の基本原則は、精神的知識の発達を受け入れる礎を築いてくれるものであり、マハーラージャ・パリークシットはそのための有利な環境を用意しました。だからこそ、ナイミシャーラニャのリシたちは、千年にわたる供犠を執行することができたのです。言い換えれば、国の支えがなければ哲学の教義や宗教原則は正しく高められないということです。この共通の善のためにブラーフマナとクシャトリヤは完全に協力し合うべきです。同じ精神はマハーラージャ・アショカの時代にまで世に浸透していました。主ブッダはアショカ王から必要な保護を受けていたからこそ、その特定の教えが全世界に広がっていったのです。
これで、バクティヴェーダンタによる『シュリーマド・バーガヴァタム』、第1編・第17章、「カリに対する処罰と報い」の解説を終了します。