シュリーマド・バーガヴァタム 1.17.22

rājovāca
dharmaṁ bravīṣi dharma-jña
dharmo ’si vṛṣa-rūpa-dhṛk
yad adharma-kṛtaḥ sthānaṁ
sūcakasyāpi tad bhavet

訳語

翻訳

王が言った。「ああ、雄牛の姿をまとったお方よ!あなたは、宗教の真理を知っているお方であり、無宗教的な行為を犯す罪人に用意されている運命は、その者を罪人とみなす者のためにもまた用意されているという原則に従って話されています。あなたは、他でもない、宗教の権化そのものです」

解説

主の承認なくしては、恩人であろうと危害を加える者であろうと、行為の直接的な責任を負うことは誰にもできない、と主の献身者は結論付けます。ですから、そのようなことをしても直接その人に責任があるとは考えません。しかし恩恵、損失どちらの場合でも、神が与えたものだから、それは主の恩恵によってなされたもの、と当然のように考えます。恩恵の場合には、神が与えたもの、ということを誰も否定しませんが、損失や不運の場合は、主が献身者を大きな災難に陥れるほど薄情なのか、と疑いを持ちます。イエス・キリストは、そのような苦境に陥れられたように見えますが、極悪人たちに怒りを感じることはありませんでした。それが、有利なことでも不利なことでも、ある物事を受け入れるときの方法です。ですから献身者にとって、罪人を罪人と見なす者は、その罪を犯したものと同じくらい罪深いのです。神の恩恵によって、献身者はどのような逆境にも耐えます。マハーラージャ・パリークシットはそのことを目の当たりにし、だからこそ、その雄牛がまさに宗教の権化そのお方であることを理解することができました。言い換えれば、献身者に苦しみは全くないということです。いわゆる苦しみといっても、それは全ての中に神を見ている献身者にとっては神の恩恵にほかなりません。普通の人間なら、国の権威者に苦情を訴えるところですが、雌牛と雄牛は、カリの権化から拷問を受けても王に苦情を訴えることはしませんでした。雄牛のこのような並外れた振る舞いを見た王は、この雄牛は宗教の権化に違いない、と結論を下しました。宗教原則がもつ非常に複雑な仕組みを、彼以外に誰も理解することなどできるはずがなかったからです。