シュリーマド・バーガヴァタム 1.17.10-11

yasya rāṣṭre prajāḥ sarvās
trasyante sādhvy asādhubhiḥ
tasya mattasya naśyanti
kīrtir āyur bhago gatiḥ
eṣa rājñāṁ paro dharmo
hy ārtānām ārti-nigrahaḥ
ata enaṁ vadhiṣyāmi
bhūta-druham asattamam

訳語

翻訳

貞節なるお方よ。国王の優れた名前、寿命、良い来世は、全ての生命体が、その国内に住む極悪人たちに脅されるときに消滅します。苦悩する者たちの苦しみをまず鎮めることが、国王の最初の義務であることに間違いありません。ですから私は、ほかの生物に暴力を振るっている最悪で卑劣なこの男を殺さなくてはなりません。

解説

町や村で野生動物が騒動を起こせば、警察や市民が動き、その動物を殺します。同じように、泥棒、盗賊、殺人者のような極悪人が世にはびこれば、政府はすぐに彼らを殺して義務をまっとうしなくてはなりません。同じ処罰は、動物を殺す者たちにも科せられるべきです。国内の動物たちもプラジャーだからです。プラジャーとは、その国に誕生した者、という意味で、それには人間も動物も含まれます。国内に誕生した生物には全て、国王に守られて生きる権利があります。ジャングルに住む動物でも国王にとっては臣民であり、彼らも生きる権利を持っています。雌牛や雄牛などは、言うまでもありません。
どのような生物だとしても、ほかの生物を脅かすのは非道なことであり、国王はすぐにそのような混乱の元凶を始末しなくてはなりません。野生動物が騒動を起こせば殺されるように、ジャングルの動物や他の動物たちを不必要に殺したり怖がらせたりするのであれば、すぐに処罰されてしかるべきです。至高主の法律のもとで、全ての生命体はどのような姿であっても主の子どもであり、自然の法則で命じられる以外、ほかの動物を殺す権利は誰にもありません。虎は自分が生きていくために弱い動物を殺すことはできますが、人間が同じ理由でほかの生物を殺すことは許されません。それが、ある生物はほかの生物を食べることで生き残る、という法則を作った神の法則です。ですから、菜食主義者でも、やはりほかの生物を食べて生きている、ということになります。神の法則で定められているように、特定の種類の生物だけを食べて生きるべきだということです。『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』によると、私たちは自分の勝手な意志ではなく主の指示に従って生きるべきである、と教えています。人間はさまざまな穀物、果物、牛乳などで生きるよう神に定められており、動物性の食糧は、特別の例外を除いて必要ありません。
幻惑されている王や国の指導者は、時に偉大な哲学者や博識な学者であるかのように宣伝されることさえありますが、彼らは哀れな動物を苦しめる行為が愚かな王や指導者を地獄の道へと確実に導くとは知らずに、食肉処理場の設置を許可するのです。国の指導者は、人間でも動物でも、自分のプラジャーたちの安全にいつも目をこらし、どんな場所でも、どのような動物でも、ほかの生物に脅かされていないかどうかを警戒していなくてはなりません。彼らを苦しめる者は、マハーラージャ・パリークシットが示したように、すぐに捕らえて殺さなくてはなりません。
人民のための政府、あるいは人民による政府は、愚かな政治家たちの勝手な思いで無実の動物を殺すことを許すべきではありません。啓示経典に書かれているように、神の法典を知るべきです。マハーラージャ・パリークシットは神の法典を引用し、無責任な王や国の指導者は、名声、寿命、力、権力、そして最終的には死後の高尚な生涯と解放への発展を危険にさらしている、と言っています。このような愚かな者たちは来世があることさえ信じません。
この節を解説しているとき、ある有名な政治家が遺言を残して他界しましたが、その内容は、マハーラージャ・パリークシットが引用した神の法典に関して何も知らないことを露呈しています。その文面を見れば、その政治家の神の法典に対する無知がよくわかります。「私はそのような儀式などまったく信じていないし、たとえ形式的にでもその儀式に従うのは偽善で、自分と人々を欺く行為でしかない。私はそのような宗教的感情はない」
名の知れたこの現代政治家の言葉と、マハーラージャ・パリークシットの言葉には大きな違いがあります。マハーラージャ・パリークシットは経典の規則に従う信心深い人物ですが、現代政治家は個人的な信念と感情で行動します。物質界ではどんなに偉人であっても、結局は束縛された魂でしかありません。手も足も物質自然界というひもで縛られているのに、愚かで束縛された魂は「自分は思い通りに自由に行動できる」と考えています。結論として、マハーラージャ・パリークシットの時代に生きていた人々は誰もが幸せで、動物は正しく守られていた、と言い切ることができます。国の指導者は気まぐれではなく、神の法則を熟知していたからです。愚かで信念のない者たちは主の存在を無視しようとし、価値ある人間生活を犠牲にしながら「私は宗教とは無関係である」と主張しています。人間生活は特に神の科学を知るためにあります。ところが、特にカリ時代では、愚かな人間たちは誕生、死、老い、病気によって、常に神の法則に縛られているのにもかかわらず、神を知ることや神の存在についてはもちろん、宗教的信念をあからさまに否定しています。