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第10章

絶対者の豊潤なる質

śrī-bhagavān uvāca
bhūya eva mahā-bāho
śṛṇu me paramaṁ vacaḥ
yat te ’haṁ prīyamāṇāya
vakṣyāmi hita-kāmyayā

訳語

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至高人格神は語る。
さらに聞け、剛勇の士アルジュナよ
君は私の親しい友であるから
君のためにさらに善き知識を話して聞かせよう。

解説

 バガヴァーンという言葉について、パラーシャラ・ムニは次のように説明している。「力、名声、富、知識、美、放棄という6つの豊潤な質に満ちたお方こそ、バガヴァーン、すなわち至高人格神である」。クリシュナはこの地上におられた時、この6つの豊潤さをすべて表された。ゆえにパラーシャラ・ムニのような偉大な賢人たちは皆、クリシュナを至高人格神として受け入れているのである。そして今クリシュナはアルジュナに、御自身の豊かさと活動についてさらに秘奥な知識を授けようとなさっている。すでに第7章の初めで御自身のさまざまなエネルギーについて、またそのエネルギーがどのように作用するかについて説明なさったが、この章ではその特別な質をアルジュナに語られる。前の章では堅い信念に基づく献身を確立させようと、さまざまなエネルギーのことを明確に説明されたが、この章で再びアルジュナに、御自身の現れとさまざまな特質について話そうとなさっているのである。
 至高主について聞けば聞くほど、人はその献身奉仕を強固なものにしていく。献身者との交際の中で、絶えずクリシュナについて耳を傾けるべきである。そうすることで献身奉仕の質がますます高まっていく。献身者の語らいは、クリシュナ意識になりたいと心から望む人たちの間でのみできることであり、そうでない人たちとはできない。アルジュナはとても愛しい献身者であるからこそ彼の益になることを願って話すのだ、と主は明言しておられる。
na me viduḥ sura-gaṇāḥ
prabhavaṁ na maharṣayaḥ
aham ādir hi devānāṁ
maharṣīṇāṁ ca sarvaśaḥ

訳語

翻訳

大勢の神々も偉大な聖者たちも
私の起源、豊潤さを知らない。
あらゆる点で私は神々の根源であり
聖者の源であるのだから。

解説

 『ブラフマ・サンヒター』に書かれているように、主クリシュナは至高主である。クリシュナより偉大な者など存在しない。あらゆる原因の原因であるお方なのだ。そしてここではあらゆる神々や聖者の源でもあると、御自身で語っておられる。神々や偉大な聖者でさえクリシュナのことをわかっていない。お名前も特質も理解してはいないのだ。それなのに、この小さな惑星に住むいわゆる学者に理解できるであろうか? なぜこの至高の神が普通の人間の姿をしてこの地球に降臨し、あのようにすばらしい非凡な活動を繰り広げられたのか、誰にも理解できるはずがない。学識はクリシュナを理解する資格になり得ないということを心得ておかなければならない。神々や偉大な聖者でさえ、あれこれ思索してクリシュナを理解しようとしたができなかったのだ。『シュリーマド・バーガヴァタム』には、偉大な神々でさえも至高人格神のことは理解できないと明確に書かれている。彼らはその不完全な感覚で可能なかぎりの推測をし、やっと行き着くところは非人格的でまったく正反対の結論である。物質自然の3つの質による現象ではない何かだと考えたり、空想で何かを思い描いたりする。しかしそのような愚かな思索でクリシュナを理解することなど不可能である。
 ここで主は「絶対真理を知りたいと望むなら、至高人格神なる私はここにいる。至高なる存在は私である」と間接的におっしゃっているのだ。このことをわかっていなくてはならない。想像を絶する存在である至高主のことを人が理解できなくても、主は間違いなく実在する。私たちはただ『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』の中で語られた主の言葉を学ぶだけで、永遠に至福と知識にあふれたクリシュナのことを理解できるのだ。主の低位エネルギーの内にいる者は、神とは単なる支配力だとか非人格的なブラフマンであると考えるが、超越的な段階にいる人でなければ至高主を理解することはできない。
 ほとんどの人はクリシュナの実相を理解できないため、主はそのいわれのない慈悲から、哀れな思索家たちに好意を示そうとして降りて来てくださる。にもかかわらず、至高主がどれほど非凡な活動を繰り広げられても、物質エネルギーに汚されている彼らは、非人格的なブラフマンの概念こそが至高なる存在だと思い込んでいる。そのお方こそクリシュナだということが理解できるのは至高主の恩寵によるものであり、主に完全に身を委ねた献身者だけにそれが可能である。至高人格神の恩寵によって、そのお方こそクリシュナだということが理解できるのは、主に完全に身を委ねた献身者だけである。主の献身者は神の非人格的ブラフマンの概念に心奪われることはない。彼らの堅い信念と献身が、直ちに至高主に身を委ねるようにさせてくれるのだ。そしてクリシュナはそんな彼らにいわれのない慈悲をかけ、御自身を理解できるようにしてくださる。クリシュナを理解できるのはこのような人たちだけである。アートマーとは何か、至高主とは何かということは、偉大な賢者たちでさえ認めている。 私たちが崇拝すべきは、そのお方なのである。
yo mām ajam anādiṁ ca
vetti loka-maheśvaram
asammūḍhaḥ sa martyeṣu
sarva-pāpaiḥ pramucyate

訳語

翻訳

私は誕生することなく、始まりなく
全世界の至高主である。
このことを知る者だけが
人類の中にあって幻惑されることなく
すべての罪から解放されている。

解説

 第7章第3節でmanuṣyāṇāṁ sahasreṣu kaścid yatati siddhaye と述べられているように、精神的なことを悟る段階まで自らを高めようと努める人は、普通の人ではない。精神的な悟りについて何も知らない何百万何千万の一般の人々よりもずっと優れている。しかしそうして自分の精神性を理解しようと努めている人々の中でも、クリシュナが至高人格神であり、万物の所有者であり、生まれることのないお方であることを理解できるようになった人こそ、最も正しく精神的悟りを得た人である。クリシュナの至高の立場を完全に理解し得た段階になって初めて、人はあらゆる罪の反動から完全に解放されるのである。
 ここで主は「生まれない」という意味のアジャという言葉で表現されているが、第2章でアジャと称されている生命体とは、はっきり区別されている。物質に執着したがために誕生して死にゆく生命体とはまったく違うのである。制約された魂は体を変えていくが、主のお体が変わることはない。主はこの物質界にいらした時でさえ、生まれることのない同じお姿であった。ゆえに第4章の中で、主はその内的な力によって低位エネルギーの影響を受けることなく、常に高位エネルギーの中にいらっしゃると説明されている。
 この節で用いられている vetti loka-maheśvaram という言葉は「人は、主クリシュナが宇宙の全惑星系の最高所有者であることを知っておかなくてはならない」という意味である。クリシュナは全創造の以前から存在し、御自身が創造なさったものとは異なる存在である。神々は皆、この物質界で創造されたのであるが、クリシュナは違う。クリシュナは創造された存在ではない。したがってクリシュナはブラフマーやシヴァのような偉大な神々とさえ、まるで別の存在なのだ。ブラフマー、シヴァ、その他すべての神々を創造した当事者なのだから、クリシュナこそがすべての惑星の至高人格神なのである。
 ゆえにシュリー・クリシュナはいかなる創造物とも異なっていて、そのことを理解できた者はあらゆる罪の反動から直ちに解放される。至高主に関する知識で満たされるためには、あらゆる罪深い活動から離れなくてはならない。『バガヴァッド・ギーター』に書かれているとおり、献身奉仕はクリシュナを知る唯一の方法であり、ほかのいかなる手段を用いても決して知ることはできないのである。
 クリシュナのことを人間だと考えてはならない。これまでにも説明されているように、そのような考えを持つ者は愚かな人間だと言わざるをえない。ここではそのことが別の表現で説明されている。愚かでない者、すなわち神の本来の立場を理解できるだけの知性を備えている人は、罪の反動から常に解放されているというのだ。
 クリシュナはデーヴァキーの息子として知られているが、それならなぜ「生まれない」と言われるのだろうか? そのことも『シュリーマド・バーガヴァタム』の中で説明されている。クリシュナがデーヴァキーとヴァスデーヴァの前に現れた時、普通の子供として生まれたわけではなかった。至高主本来の姿で現れ、それから普通の子供に姿を変えたのだ。
 何であれクリシュナの指示で為されたことはすべてが超越的である。吉兆なことも不吉なことも、物質的反動に汚されることは決してない。もともと物質界に吉兆なことなど存在しないのだから、物質界で吉だの凶だのととらえている概念は、少なからず人間が頭で作り出したことなのだ。物質自然そのものが不吉なのだから、何もかも不吉なのである。私たちがただそれを吉兆だと想像しているにすぎない。本当の吉兆さとは、愛と献身に満ちた奉仕をクリシュナ意識で行っているかどうかにかかっている。したがって自分の活動を吉兆なものにしたいと望むのなら、至高主の指示通りに行動しなければならない。『シュリーマド・バーガヴァタム』『バガヴァッド・ギーター』などの権威ある経典や真正な精神の師が、その指示を与えてくれる。精神の師は至高主の代表者なので、師の教えは至高主からの直接の教えである。精神の師も、聖者も、経典も、同じように私たちを導いてくれる。この3つの情報源に矛盾などない。これらの教えに従って行った行動は、物質界における吉凶な活動の反動とは無関係なのだ。献身者が活動するときの超越的な態度は、実際には放棄の態度であり、これをサンニャーサと呼ぶ。『バガヴァッド・ギーター』第6章の最初の節に書かれているように、至高主に命じられた義務として行動し、自分の行動の成果によりどころを求めない人(anāśritaḥ karma-phalam)は、真の放棄者である。至高主の指示通りに行動する人こそ、本当のサンニャーシーでありヨーギーであり、サンニャーシーの服をまとっただけの者や偽りのヨーギーはそうではないのだ。
buddhir jñānam asammohaḥ
kṣamā satyaṁ damaḥ śamaḥ
sukhaṁ duḥkhaṁ bhavo ’bhāvo
bhayaṁ cābhayam eva ca
ahiṁsā samatā tuṣṭis
tapo dānaṁ yaśo ’yaśaḥ
bhavanti bhāvā bhūtānāṁ
matta eva pṛthag-vidhāḥ

訳語

翻訳

知性、知識、疑いと妄想からの解放
寛容、正直、感覚と心の制御
幸と不幸、誕生と死、恐怖と無恐怖
非暴力、平静、満足、苦行、慈善、名誉と不名誉
生命体に備わるこれらすべてのさまざまな資質は
私だけが創造するものである。

解説

 生命体の持つさまざまな質は、良きにつけ悪しきにつけ、すべてクリシュナが創造なさったものであるとここで説明されている。
 知性とは物事を正しく見て分析する力のことであり、知識とは何が精神的で何が物質的かを理解することである。大学で得る一般的な知識は物質的なことに関することだけであり、ここでは知識として認めていない。知識とは精神と物質の違いを知ることである。現代の教育には精神に関する知識が欠けていて、物質的なことや体が必要とすることしか教えない。したがって、学校で教わる知識は完全ではないのだ。
 アサムモーハとは疑いや妄想のない状態のことで、ためらうことなく超越的哲学を理解できたときにこの状態になれる。ゆっくりと、しかし確実に迷いは消えていく。何事も盲目的に受け入れてはならない。慎重に注意深く受け入れるべきである。クシャマーとは忍耐と寛容性のこと。これは実践すべきである。人は忍耐強くあり、他人からのささいな無礼を許すように努めなくてはならない。サッティヤムとは正直さ、すなわちほかの人のためにも事実はありのままに話すことである。事実を偽って伝えてはならない。他人が不快にならない場合にのみ真実を言うのが社会の慣習であるが、これを正直とは呼ばない。真実は率直に述べなくてはならない。そうすることによって人々は何が真実なのか理解できるのだ。盗人がいたとして、その人が盗人であることをほかの人たちに知らせて警告することは正直さである。時として真実は受け入れてもらえないことがあるが、それでも真実を語ることを避けてはならない。人のためにも真実はそのまま報告する。それが正直さの定義である。
 感覚の制御とは、自分が楽しみたいという理由から不必要に感覚器官を用いてはならないということである。必要に応じて感覚器官を適正に満たすことは禁じられていないが、過剰に楽しませてしまうことは精神的向上の妨げとなる。ゆえに感覚器官は不必要に使わないよう抑制する必要があるのだ。同様に、心も必要のないことを考えないように自制すべきであり、これをシャマと呼ぶ。お金を稼ぐことばかり考えて時間を無駄にしてはならない。それは思考力の誤用である。思考は人として最も必要なことを理解するために使うべきであり、その内容は権威に基づいているものでなくてはならない。思考力は、経典に精通している人、聖人、精神の師など、高い思想を持つ人々との交際の中で培っていくべきである。

 スカムとは喜びや幸せのこと。クリシュナ意識の精神的知識を育てていくには、常にこの幸せな状態でいることが好ましい。同様に苦痛な状態、悩みの種となるようなことは、クリシュナ意識を育てていく上で好ましくない。何であれ、クリシュナ意識を育むために好ましいことは受け入れ、好ましくないことは避けるべきなのだ。
 バヴァとは誕生のことだが、これは体についてのことだと考えるべきである。『バガヴァッド・ギーター』の最初で語られているように、魂には誕生も死もない。誕生と死は、物質界で体を持つ者に対して用いられる言葉である。

 恐怖とは、未来を心配することから生じるものである。クリシュナ意識の人は恐れることがない。なぜなら日々の行動により精神世界すなわち神の国に戻る将来が約束されているからである。彼の未来は明るく輝いている。しかしクリシュナ意識でない人たちは、将来がどうなるのかわからない。どんな生を得ることになるかについての知識がないのだ。だから常に不安でいる。不安をなくしたいと望むなら、最高の方法はクリシュナを理解すること、そして絶えずクリシュナ意識でいることである。そのようにすればあらゆる恐れから解放される。『シュリーマド・バーガヴァタム』(11-2-37)には次のように書かれている。bhayaṁ dvitīyābhiniveśataḥ syāt「恐怖を覚えるのは、幻想エネルギーに捕まってしまっている証拠である」。しかし幻想エネルギーから解放されている人は、自分が体ではなく至高人格神の精神的一部分だということを確信している。そのため至高主に超越的な奉仕をしていて、恐怖を感じることがない。そのような人の未来はたいへん輝かしい。恐怖とは、クリシュナ意識でない人に課せられた制約のひとつである。アバヤムすなわち恐れを知らない状態は、クリシュナ意識の人にだけ可能なのだ。
 アヒンサーとは非暴力のこと。つまり人を苦しめたり混乱に陥れるようなことをしてはならないという意味である。政治家や社会学者や博愛主義者たちが確約しているたぐいの物質的活動は、良い結果にはつながらない。なぜなら彼らは超越的な視野を持っていないからである。人間社会にとって何が真の益となるのか、まるでわかっていない。人間として生まれたこの体を完全に有益に使えるように訓練すること、それがアヒンサーの意味である。人間の体は精神的なものを悟るためにあるのだから、その目的に沿わないような行いは、いかなるものでも人間の体への暴力となる。そして人間の精神的な幸せを助長する行いを、非暴力と呼ぶのである。
 サマターとは平静、すなわち愛着と嫌悪から解放された状態のことである。あまりにも執着しすぎたり、反対にあまりにも嫌うことも好ましくない。この物質界は執着することも嫌悪することもなく受けとめるべきである。クリシュナ意識を行う上で好ましいことは受け入れ、好ましくないことは受け入れない。この状態をサマター、すなわち平静と呼ぶ。クリシュナ意識の人は何を受け入れるにせよ拒否するにせよ、それがクリシュナ意識を遂行する上で有益かどうかという点だけで判断するのである。
 トゥシュティとは満足のこと。不必要な活動を重ねて、物質的なものを次々とほしがってはならないという意味である。何であれ至高主の恩寵によって与えられたもので満足するべきであり、足るを知れということである。

 タパスとは禁欲生活や苦行のこと。これに関してヴェーダにはたくさんの規則や原則が書かれている。朝早く起きて沐浴することもそのひとつ。早朝起きるのは非常につらいときもあるが、このようにめんどうなことを自発的に行うことを苦行と呼ぶ。また月のうち、ある決まった日に断食せよという規定もある。断食など気が進まないかもしれないが、クリシュナ意識という科学において自分を高めたいという決意ある者は、指導にしたがってこのような身体的に難儀なことも実行すべきである。ただし必要もなく断食をしたり、ヴェーダの指令に反して行ったり、政治的な目的でしてはならない。これは『バガヴァッド・ギーター』では無知の断食と呼ばれている。いかなることも無知や激情から行うことは精神的な向上にはつながらず、徳の様式で行うことはすべて人を高めてくれる。ヴェーダの指示にしたがって行う断食もまた、人の精神的知識を豊かにしてくれるのである。
 慈善に関しては、人は得た収入の半分を何か善い活動に費やすべきである。では善い活動とはどのようなものか? それはクリシュナ意識の見地から行われている活動のことである。これは単なる善ではなく最高の善なる活動なのだ。クリシュナが善そのものであるため、クリシュナに起因することも善である。したがって慈善行為をするなら、クリシュナ意識に携わっている人に対してすべきである。ヴェーダ文献では「慈善はブラーフマナに対して行うこと」と命じている。これは今日でも行われているが、ヴェーダの指示通りにあまり正しく行われてるとは言えない。それでもやはり慈善はブラーフマナに対してなされるべきものである。なぜか?それは、ブラーフマナは精神的知識を高めることに専念している人たちだからである。ブラーフマナはブラフマンを悟ることに一生を捧げる。Brahma jānātīti brāhmaṇaḥ すなわち、ブラフマンを知る者をブラーフマナと称するのだ。彼らは常に高い精神的な奉仕に就いていて、生活費を稼ぐ時間がない。だからブラーフマナに慈善を施せと言われるのである。またヴェーダ経典には、放棄階級にあるサンニャーシーにも慈善を施すべきであると書かれている。サンニャーシーが施しを求めて家々を回るのは金銭のためではない。伝道という目的のためである。世帯者を無知の眠りから目覚めさせるため、一軒一軒訪れるのだ。家庭を持つ者は家族のことに忙しく、人生本来の目的をすっかり忘れてしまう。そうした人々のクリシュナ意識を目覚めさせることがサンニャーシーの仕事である。そのため托鉢者として世帯者を訪れては、クリシュナ意識になるように奨励するのだ。ヴェーダに書いてあるとおり、人は人間として何をすべきかということに目覚め、その目的を達成しなくてはならない。サンニャーシーはその知識と方法を伝え回る者である。ゆえに慈善は放棄階級の人やブラーフマナ、あるいはそれと同じほど善なる活動に対して行うべきであり、決して気まぐれな目的でしてはならない。
 ヤーシャスとは名誉のことで、これに関しては主チャイタニヤの言葉に従って理解すべきである。主は「名誉ある人とは偉大な献身者として知られる人のことである」とおっしゃった。これが本当の名誉である。クリシュナ意識の偉大な人となってその名が知れ渡ったとき、その人は真に名誉ある人となる。そのような名誉を持たぬ人は不名誉なのだ。
 これらの質は、人間社会においても神々の社会においても宇宙中に現れている。地球以外の惑星にもさまざまな人間社会があるが、そのどこにもこれらの特質が存在する。クリシュナは、クリシュナ意識を高めたいと望む人のためにこうした質を造られたのであり、人はそれを自らの内で育てていく。至高主に献身的に仕える人は、至高主が用意してくださったとおりに良い質を育てていくのである。
 良いことであれ悪いことであれ、私たちの目に付くすべてのものの源はクリシュナである。クリシュナの中に存在しないものは何ひとつとして物質界に現れることがない。これこそが知識である。物事はさまざま違っていても、すべてはクリシュナから流れ出ているのだということをよく知っておかなければならない。
maharṣayaḥ sapta pūrve
catvāro manavas tathā
mad-bhāvā mānasā jātā
yeṣāṁ loka imāḥ prajāḥ

訳語

翻訳

七大聖者と、その以前の四大聖者
そしてマヌ(人類の祖)たちは
私の心から生まれた。
さまざまな惑星に住む生命体たちは皆
彼らを祖として発生したのである。

解説

 主はここで、宇宙に存在する生命体がどのようにして発生したのか、系統的にその概略を述べておられる。至高主はヒラニヤガルバとしても知られ、ブラフマーはその主のエネルギーから生まれた最初の生き物である。七大聖者は皆このブラフマーから生まれたが、その以前には、サナカ、サナンダ、サナータナ、サナト・クマーラという名の4人の聖者と、14人のマヌが誕生している。これら25人の偉大な聖者たちは全宇宙の生命体の始祖である。宇宙は無数にあり、それぞれの宇宙に無数の惑星が存在する。そしてそれぞれの惑星はさまざまな種類の生命体で満ちている。そのすべてがこの25人を始祖として発生したのだ。ブラフマーはクリシュナの恩寵で創造の方法を会得するまで、神々の計算での1000年間も苦行をした。そしてそのブラフマーからサナカ、サナンダ、サナータナ、サナト・クマーラが生まれ、それからルドラが、そして七大聖者が生まれた。このようにして至高人格神のエネルギーから、すべてのブラーフマナやクシャトリヤが誕生した。ブラーフマナはピターマハ、すなわち祖父として、またクリシュナはプラピターマハ、すなわち祖父の父親として知られている。このことは『バガヴァッド・ギーター』第11章(11-39)で説明されている。
etāṁ vibhūtiṁ yogaṁ ca
mama yo vetti tattvataḥ
so ’vikalpena yogena
yujyate nātra saṁśayaḥ

訳語

翻訳

私のこの豊潤なる質と神秘の力を正しく知る者は
不動の献身奉仕を行う。
このことに疑いの余地はない。

解説

 精神的完成の頂点は、至高人格神についての知識である。至高主の豊潤なる質について確固とした信念がなければ、献身奉仕はできない。一般的に人々は「神は偉大だ」と思ってはいるが、どのように偉大であるか詳しくは知らない。その詳細がここで述べられている。神がどれほど偉大であるか実際に知った人は、自然と身を委ねた魂となり、主への献身奉仕に就くようになる。至高主の豊潤さを知ったなら、自分を明け渡さずにはいられなくなるのである。この正しい知識は『シュリーマド・バーガヴァタム』や『バガヴァッド・ギーター』その他、同様の文献の記述から得ることができる。
 全惑星系には実に多くの神々が配置されていて、宇宙の管理を任されている。そしてブラフマー、主シヴァ、4人の偉大なクマーラ、その他の長老たちがその長となっている。宇宙に住む生命体にはたくさんの始祖がいて、そのすべてが至高主クリシュナから誕生している。至高人格神クリシュナこそあらゆる祖先の元祖なのだ。
 これらは至高主の豊潤なる質のほんの一部であるが、これを心の底から確信するようになったとき、人は何の疑いもなく確固とした信念を持ってクリシュナを受け入れ、献身奉仕に励むようになる。こうした特別な知識はどれも、主への愛情奉仕に対しての熱意を高めるために必要なのだ。クリシュナの偉大さを知ることによって揺るぎない誠実な献身奉仕に就くことができるのであるから、十分に理解することを怠ってはならない。
ahaṁ sarvasya prabhavo
mattaḥ sarvaṁ pravartate
iti matvā bhajante māṁ
budhā bhāva-samanvitāḥ

訳語

翻訳

私は精神界、物質界すべての根源である。
万物は私から発現する。
このことを正しく知る賢者は
全身全霊で私を崇拝し、献身奉仕をする。

解説

 ヴェーダを完全に学び、主チャイタニヤのような権威者から知識を得て、これらの教えをどのように適用させるか熟知している博学な者は、クリシュナが物質界においても精神界においてもすべての源であることを知っている。またそれを完全に理解しているため、至高主への献身奉仕は確実に揺るぎないものとなっていく。愚かな人々が無意味な解説をどれほど並べ立てても、このような賢者が道を外れることは決してない。クリシュナがブラフマー、シヴァなどあらゆる神々の源であることは、すべてのヴェーダ経典が認めている。アタルヴァ・ヴェーダ(『ゴーパーラ・ターパニー・ウパニシャッド』1-24)には、次のように書かれている。yo brahmāṇaṁ vidadhāti pūrvaṁ yo vai vedāṁś ca gāpayati sma kṛṣṇaḥ「最初にヴェーダの知識をブラフマーに伝えたのも、のちにそれを広めたのも、クリシュナであった」。また『ナーラーヤナ・ウパニシャッド』(1)でも、再度このように語られている。atha puruṣo ha vai nārāyaṇo ’kāmayata prajāḥ sṛjeyeti「それから至高人格神ナーラーヤナは、生命体を作りたいと望まれた」。そしてウパニシャッドはこのように続ける。nārāyaṇād brahmā jāyate, nārāyaṇād prajāpatiḥ prajāyate, nārāyaṇād indro jāyate, nārāyaṇād aṣṭau vasavo jāyante, nārāyaṇād ekādaśa rudrā jāyante, nārāyaṇād dvādaśādityāḥ「ブラフマーも、始祖たちもナーラーヤナから生まれた。またインドラも、8人のヴァスたちもナーラーヤナから生まれ、さらに11人のルドラも、12人のアーディッティヤも、ナーラーヤナから生まれたのである」。このナーラーヤナとはクリシュナの拡張体である。
 また同じヴェーダには、brahmaṇyo devakī-putraḥ「デーヴァキーの息子クリシュナこそ至高人格神である」(『ナーラーヤナ・ウパニシャッド』4)と書かれ、さらに、eko vai nārāyaṇa āsīn na brahmā neśāno nāpo nāgni-somau neme dyāv-āpṛthivī na nakṣatrāṇi na sūryaḥ「創造の初めには、至高人格神ナーラーヤナしか存在しなかった。ブラフマーも、シヴァも、水も、火も、月も、天国も、地球も、空にきらめく星も、太陽も、何もなかった」(『マハー・ウパニシャッド』1-2)と書かれている。また『マハー・ウパニシャッド』には主シヴァは至高主の額から誕生したとも書かれ、このようにヴェーダは、ブラフマーやシヴァを創造した至高主を崇拝すべきであると説いている。
 『マハーバーラタ』のモクシャ・ダルマ部門で、クリシュナもこのように語っておられる。
prajāpatiṁ ca rudraṁ cāpy
aham eva sṛjāmi vai
tau hi māṁ na vijānīto
mama māyā-vimohitau
 「シヴァやその他の始祖たちは私が創造した。しかし彼らは私の幻想エネルギーに幻惑されているため、その事実を知らない」。また『ヴァラーハ・プラーナ』も、次のように言っている。
nārāyaṇaḥ paro devas
tasmāj jātaś caturmukhaḥ
tasmād rudro ’bhavad devaḥ
sa ca sarva-jñatāṁ gataḥ
 「ナーラーヤナは至高人格神であり、その主よりブラフマーが生まれ、ブラフマーからシヴァが生まれた」。
 主クリシュナは現れるものすべての源であり、万物の至高原因である。クリシュナは「万物は私から誕生したのであるから、私はすべての根源である。すべては私の支配下にあり、私に優るものは存在しない」とおっしゃる。クリシュナを超える支配者などいない。あらゆるヴェーダ文献を参照しながら真正なる精神の師を通して学び、クリシュナのことを正しく理解した者は、持てるエネルギーをすべてクリシュナ意識のために費やして真に学ある人となる。一方、クリシュナを正しく知らない人たちは愚かと言わざるを得ない。クリシュナのことを普通の人間だと考えるなど、愚か者以外にはあり得ない。クリシュナ意識の人はそのような愚か者に惑わされてはならないのだ。『バガヴァッド・ギーター』について権威のない解説は避け、大いなる決意と固い信念を持ってクリシュナ意識の道を歩むべきである。
mac-cittā mad-gata-prāṇā
bodhayantaḥ parasparam
kathayantaś ca māṁ nityaṁ
tuṣyanti ca ramanti ca

訳語

翻訳

純粋な献身者の想いは私に集中し
彼らは生活のすべてを私への奉仕に捧げる。
常に私について語り合い、互いに啓発しあうことに
無常の満足と至福を味わう。 

解説

 ここでは純粋な献身者の特徴について書かれている。彼らは主への超越的な愛情奉仕に完全に没頭している。クリシュナの蓮華の御足から片時も心が逸れることはない。語ることは超越的な話題だけ。純粋な献身者の兆候がこの節で明確に説明されている。至高主の献身者は一日24時間、至高主の質や崇高な行いの栄光を讃えている。ハートと魂は常にクリシュナに没頭し、ほかの献身者と主について語ることを喜びとしている。
 献身奉仕の初期の段階にある人は奉仕自体から超越的な喜びを感じるが、完成した段階にある人はすでに神の愛の中にいる。一度この超越的な段階に達すると、至高主が御自身のお住まいでお示しになる最高の完成を味わうことができる。主チャイタニヤは超越的な献身奉仕のことを、生命体のハートに種を蒔くことにたとえている。宇宙には無数の生命体がいて、さまざまな惑星系を旅している。その中でもほんのひと握りの幸運な人だけが純粋な献身者と出会い、献身奉仕を理解する機会を得るのだ。この献身奉仕は種のようなものである。もしハートの中に種を蒔かれた人が、「ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー / ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー」に耳を傾け、唱え続けたなら、献身奉仕の種がきっと実を結ぶことであろう。それは、規則正しく水をあげれば木の種もやがて実を結ぶのと同じである。献身奉仕という精神的な木はどんどん育ち、物質宇宙の覆いを突き破るまでに成長し、精神世界にあるブラフマジョーティルの光輝に入って行く。その木は精神世界に行ってもなお伸び続け、ゴーローカ・ヴリンダーヴァナというクリシュナの至高惑星に到達するのだ。そして最終的にその木はクリシュナの蓮華の御足に保護を求め、そこに安住する。木がしだいに花や実をつけていくのと同じように献身奉仕という木も実をつけ、聴く、唱えるという形の水やりが続いていく。この献身奉仕の木のことは『チャイタニヤ・チャリタームリタ』(マディヤ・リーラ 19)に余すところなく書かれ、そこでは次のような説明がなされている。「完成した木は至高主の蓮華の御足に保護を求めると、神への愛に完全に浸ってしまう。水がなくては生きていけない魚のように、彼もまた至高主との触れ合いがなくては、一瞬たりとも生きていけなくなってしまうのだ」。このような状態で献身者は至高主との触れ合いの中、実際に超越的な質を帯びていくのである。
 『シュリーマド・バーガヴァタム』にはこのような至高主と献身者との関係についての話も満載されているため、献身者にとってはとても愛しい存在なのである。そのことはバーガヴァタムそのもの(12-13-18)にも書かれている。Śrīmad-bhāgavataṁ purāṇam amalaṁ yad vaiṣṇavānāṁ priyam. この本は物質的活動、経済発展、感覚の喜び、解放などについての話題にはまったく触れていない。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、至高主の超越的な質や献身者に関することが存分に書かれている唯一の本である。ゆえにクリシュナ意識に目覚めた魂たちは、そのような超越的文献に耳を傾けることにいつも喜びを覚える。それはまるで若い男女が交際を楽しんでいるかのようである。 
teṣāṁ satata-yuktānāṁ
bhajatāṁ prīti-pūrvakam
dadāmi buddhi-yogaṁ taṁ
yena mām upayānti te

訳語

翻訳

愛をこめて絶えず私に仕える者たちに
私は真の知性を与える。
それにより彼らは私のもとに来るのだ。

解説

 この節ではブッディ・ヨーガムという言葉が非常に重要である。第2章で主がアルジュナに教授したところを思い出してみよう。主は実に多くのことを語られ、そこからブッディ・ヨーガの方法でアルジュナを導いていかれる。そしてここで、そのブッディ・ヨーガについての説明がなされるのだ。ブッディ・ヨーガとはクリシュナ意識で行う行為のことで、最高の知性である。ブッディは知性、ヨーガは神秘的な活動や向上のこと。本当の故郷である神の国に帰ろうと、完全なるクリシュナ意識で献身奉仕をする人の行動をブッディ・ヨーガと呼ぶ。言い換えればブッディ・ヨーガとは、この物質世界のしがらみから抜け出すための方法とも言える。向上することの究極目的はクリシュナである。人々はそのことを知らないため、献身者や神聖な精神の師から交際を得ることが非常に重要なのだ。目的はクリシュナであると自覚しなければならない。目的が決まれば、そこに向かうプロセスはたとえゆっくりでも間違いなく前に進み、最終的には目的に到達する。
 人生の目的を知ってはいるが、行為のもたらす結果に夢中になってしまっている人は、カルマ・ヨーガを行っている。クリシュナが目的だと知っているのに、頭であれこれ考えてクリシュナを理解しようとすることに喜びを感じている人は、ジュニャーナ・ヨーガを行っている。そして目的を理解し、クリシュナを求めて完全なクリシュナ意識で献身奉仕を行っている人は、バクティ・ヨーガすなわちブッディ・ヨーガを行っていることになるのだ。これが完璧なヨーガであり、この完璧なヨーガこそ人生最高の完成段階なのである。
 真正な精神の師について精神的な団体に属してはいるが、向上するだけの知性を備えていない人もいるだろう。そのような人にはクリシュナが内から教えを授けてくださり、最終的には難なくクリシュナのもとに行けるようになる。そのために必要な資格は、いつも愛と献身のこもったクリシュナ意識であらゆる種類の奉仕に携わっていることである。クリシュナのために何かを行う。そしてそれは愛のこもったものでなくてはならない。自己の悟りを向上させるほどの知性を持ち合わせていない献身者でも、誠実に献身奉仕に取り組んでいれば、主は向上する機会を与えてくださり、最後にはクリシュナのもとに到達することができるのである。
teṣām evānukampārtham
aham ajñāna-jaṁ tamaḥ
nāśayāmy ātma-bhāva-stho
jñāna-dīpena bhāsvatā

訳語

翻訳

彼らに特別な慈悲を示すため
私は彼らのハートに宿り
輝く知識の燈火をもって
無知に生じた闇を破る。

解説

 主チャイタニヤがベナレスで、「ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー / ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー」の唱名を広めておられた時、何千もの人々がそのあとに従っていた。当時ベナレスで非常に影響力があり博識な学者であったプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーは、主チャイタニヤのことを感傷的だと嘲笑あざわらった。マーヤーヴァーディー哲学者たちは献身者のことを非難することがある。彼らは「ほとんどの献身者は無知の暗闇の中にいて哲学的に知識の乏しい感傷家だ」と考えているからである。これはまったく事実ではない。献身の哲学を提唱したきわめて学識ある学者たちがたくさんいるのだ。たとえ書物や精神の師からあまり力を得られなくても、誠実に献身奉仕に励むなら、ハートに宿るクリシュナがその献身者を助けてくださる。したがって、クリシュナ意識に携わっている誠実な献身者に知識がないことなどあり得ない。完全なるクリシュナ意識で献身的に仕えること、それが唯一の資格である。
 識別力なくして純粋な知識は得られないと、マーヤーヴァーディー哲学者たちは考える。そんな彼らに対して至高主はこの節に書かれているように、たとえ十分な教養やヴェーダ教典の知識がなくても、純粋な献身奉仕に携わっている者は至高者によって助けられるのだ、という答えを与えておられる。
 主がアルジュナに語られたこと、それはいくら思索や推測を重ねても、至高人格神すなわち至高の真理、絶対真理を理解するなど根本的に無理だということである。なぜなら、至高の真理たる主はあまりにも偉大で、頭の中でどれほど理解しようとしても近づこうとしても不可能だからである。何百万年間あれこれ思索を重ねようとも、献身的な姿勢がなければ、すなわち至高主に深い愛情を持っていなければ、至高の真理であるクリシュナを理解することはできない。クリシュナに喜んでいただけるのは献身奉仕以外にはない。そして主はその想像を絶したエネルギーによって、純粋な献身者のハートに御自身を現してくださるのだ。純粋な献身者はハートの中で常にクリシュナのことを想っている。よって、まるで太陽のようなクリシュナをハートに抱いている献身者には、無知の暗闇などたちまち消え失せてしまう。これがクリシュナが純粋な献身者にお与えになる特別な慈悲である。
 何百万回も生まれ変わり、物質的なものに関わってずっと汚れ続けてきたために、人のハートは物質主義という埃に常に覆われている。しかし献身奉仕に就いて常にハレー クリシュナを唱えるようになれば、純粋な知識の段階へと高められるのだ。究極的な目的地であるヴィシュヌに到達するにはこの唱名と献身奉仕しかなく、推論や議論をいくら重ねても成功しない。純粋な献身者は生活に必要なものの心配などしなくてよい。そんな心配は無用なのだ。心から暗闇が消え去ったなら、至高主が何でも自動的に与えてくださる。これが『バガヴァッド・ギーター』の教えの真髄である。『バガヴァッド・ギーター』を学ぶことにより、人は至高主に完全に身を委ねた魂となって、純粋な献身奉仕をするようになる。主が面倒をみてくださるから、人はあらゆる種類の物質的努力から完全に解放されるのだ。
arjuna uvāca
paraṁ brahma paraṁ dhāma
pavitraṁ paramaṁ bhavān
puruṣaṁ śāśvataṁ divyam
ādi-devam ajaṁ vibhum
āhus tvām ṛṣayaḥ sarve
devarṣir nāradas tathā
asito devalo vyāsaḥ
svayaṁ caiva bravīṣi me

訳語

翻訳

アルジュナは言った。
「あなたは至高人格神、究極の郷。
この上なく純粋で、絶対真理なるお方。
永遠にして超越的、生まれることのない最も偉大なる根源のお方。
ナーラダ、アシタ、デーヴァラ、ヴィヤーサなど
あらゆる大聖者があなたに関するこの真実を認め
そして今、あなた御自身がそれを私に宣言してくださいます」。

解説

 このふたつの節の中で、至高主はマーヤーヴァーディー哲学者にチャンスを与えておられる。ここを読めば、至高主が個々の魂と異なった存在であることが明白だからである。この章にある『バガヴァッド・ギーター』の4つの重要な節を聞いて、アルジュナはそれまで抱えていた疑念のすべてが氷解し、クリシュナを至高人格神として受け入れることができた。そしてすぐさま高らかに「あなたこそ、パラン・ブラフマ、至高人格神です」と宣言した。また以前にクリシュナは御自身が万物万民の元祖であると表明なさっている。 神々も人間もすべてクリシュナに依存しているのだ。人も神々も無知ゆえに、自分が絶対的で至高人格神から独立した存在だと考えている。献身奉仕をすることによってこうした無知が完全に取り除かれる。このことは主によって以前の節ですでに説明済みである。そして今、アルジュナはクリシュナの慈悲によって、ヴェーダ教義が示すとおりにクリシュナを至高の真実と受け入れたのだ。親友だからという理由で、アルジュナはクリシュナのことを至高人格神、絶対真理と呼んでおだてているわけではない。このふたつの節の中でアルジュナが言ったことはすべて、ヴェーダの真理によって確証されている。至高主へ献身奉仕をする者以外は誰も主を理解することができない、とヴェーダは明言している。この節でアルジュナが語った言葉の一字一句が、ヴェーダによって承認されているのだ。
 『ケーナ・ウパニシャッド』には「至高のブラフマンは万物の安息所なり」と書かれていて、何もかもがクリシュナの上で安らぐのだと、クリシュナはすでに説明なさった。『ムンダカ・ウパニシャッド』は、すべてがそこで羽根を休める存在である至高主を理解できるのは、絶え間なくクリシュナに想いを馳せている者だけであると明言している。このように絶えずクリシュナを想っていることがスマラナム、すなわち献身奉仕の方法のひとつである。自らの立場を理解し、この物質の体から抜け出すことができる方法はただひとつ、クリシュナへの献身奉仕しかない。
 ヴェーダは至高主を、純粋なるものの中で最高に純粋な存在であると受け入れている。クリシュナが、純粋なものの中で最も純粋な存在であることを理解できた人は、あらゆる罪の反動から浄化される。至高主に身を委ねないかぎり、罪深い活動からの影響を消し去ることはできない。アルジュナがクリシュナを最高に純粋な存在として受け入れたことは、ヴェーダ文献の教義と一致している。ナーラダをはじめとする偉大な人物たちもまた、このことを確証している。
 クリシュナは至高人格神であり、ゆえに人は絶えず主を瞑想して、主との超越的な関係を味わっているべきである。クリシュナは至高の存在なのだ。体に関して何も必要とはせず、誕生や死とも無関係である。このことを確証しているのはアルジュナだけではない。あらゆるヴェーダ経典、プラーナ、歴史書も承認している。すべてのヴェーダ文献はクリシュナをこのように認め、至高主自身も第4章で「私は誕生することはないが、宗教原則を確立するためにこの地上に現れた」とおっしゃっている。クリシュナは至高の源である。その存在に原因などない。なぜならクリシュナこそあらゆる原因の大原因であり、万物はそのクリシュナから現れたのだから。この完璧な知識は至高主の慈悲によって与えられるのだ。
 アルジュナはクリシュナの慈悲によって、ここで自分の確信を表明している。『バガヴァッド・ギーター』を理解したいと望むなら、このふたつの節に書かれていることを受け入れなくてはならない。これがパランパラーと呼ばれる師弟継承を受け入れる制度である。師弟継承の道にいないかぎり、人は『バガヴァッド・ギーター』を理解できない。高い教育と呼ばれるものをどれほど身に着けていても不可能である。ヴェーダ文献でこれほどまでに証拠が挙げられているのに、自らの学識を鼻にかけて「クリシュナはただの人間だ」という信念を頑固に持ち続ける人は、実に不幸なことである。
sarvam etad ṛtaṁ manye
yan māṁ vadasi keśava
na hi te bhagavan vyaktiṁ
vidur devā na dānavāḥ

訳語

翻訳

クリシュナよ
あなたが語ってくださったことは
すべて真理であると私は信じます。
おお主よ
神々も悪質な者たちも
あなたの魅力的な特質を理解できないのです。

解説

 ここでアルジュナは、信念のない人や悪質な人にはクリシュナが理解できないと確証している。神々でさえ知り得ないのだから、この現代社会のいわゆる学者たちに理解できるはずがない。至高主の慈悲によってアルジュナは、至高の真実とはクリシュナのことであり、完璧なお方であるということを理解できた。ゆえに人はアルジュナの足跡に従わなくてはならない。アルジュナは『バガヴァッド・ギーター』の権威を受け入れた。第4章に書かれているように、『バガヴァッド・ギーター』を理解するためのパランパラーという師弟継承の制度は失われた。だからクリシュナはアルジュナと共にそれを再確立したのである。それはアルジュナが主の親密な友人であり、偉大な献身者だと認められたからである。ゆえに『ギートーパニシャッド』の序説に書かれているように、『バガヴァッド・ギーター』はパランパラー制度の中で理解しなければならない。この制度が失われ、再確立のためにアルジュナが選ばれた。アルジュナはクリシュナの言葉をすべて受け入れた。私たちも彼を見習うべきである。そうすれば私たちは『バガヴァッド・ギーター』の真髄を理解できる。またそれこそが、クリシュナが至高人格神であることを理解できる唯一の方法なのだ。
svayam evātmanātmānaṁ
vettha tvaṁ puruṣottama
bhūta-bhāvana bhūteśa
deva-deva jagat-pate

訳語

翻訳

真に
あなただけが御自身の内的エネルギーによって
御自身を知っておられます。
至高なるお方よ
万物の源であり
存在するすべてのものの主ぬしであるお方よ
神々の神、全宇宙の主よ!

解説

 アルジュナや、アルジュナの足跡に従う者たちのように、献身奉仕を通して至高主クリシュナとつながっている人だけがクリシュナを知ることができる。悪質な人々や無神論的な思考を持った人々には、クリシュナのことが理解できない。人を至高主から遠ざけるような思索推論は重大な罪であり、クリシュナを知らない人が『バガヴァッド・ギーター』を解説しようとしてはならない。『バガヴァッド・ギーター』はクリシュナの言葉であり、それゆえクリシュナの科学なのだ。だからアルジュナがそうしたように、クリシュナを通して理解しなくてはならない。神を信じない人たちからは決して説明を受けてはならないのである。
 『シュリーマド・バーガヴァタム』(1-2-11)には、次のように書いてある。
vadanti tat tattva-vidas
tattvaṁ yaj jñānam advayam
brahmeti paramātmeti
bhagavān iti śabdyate
 至高の真実は、非人格ブラフマン、局所的パラマートマー、そして最後に至高人格神、この3つの局面から悟ることができる。つまり絶対真理を理解する最終段階で、人は至高人格神に到達できるのだ。一般の人ばかりでなく非人格のブラフマンや局所的なパラマートマーを悟った人でさえ、神の特質を理解できないかもしれない。だからそのような人々はクリシュナ御自身が語られた『バガヴァッド・ギーター』の詩節を読んで、至高主の理解に努めようとすべきである。非人格主義の人たちも時にはクリシュナのことをバガヴァーンとして受け入れ、その権威を認めることがある。しかし解脱した人々でも、その多くがクリシュナのことをプルショッタマ、すなわち至高のお方であると理解できない。そこでアルジュナはクリシュナをプルショッタマと呼んだ。それでもまだ人は、クリシュナがすべての生命体の父であることを理解できないかもしれない。だからさらにブータ・バーヴァナと呼びかけたのである。たとえ人がクリシュナは命あるすべての者の父であると理解したとしても、至高の支配者であることまでは理解していない人もいるであろう。そこでアルジュナはブーテーシャ、すなわち万物にとっての至高の支配者という名でクリシュナを呼んだ。これでクリシュナがすべての生命体の至高の支配者であることがわかったとしても、主が神々の起源であることまではわからないかもしれない。だからアルジュナは、すべての神々が崇拝する神という意味の、デーヴァ・デーヴァという名で呼びかけたのである。さらに、クリシュナがあらゆる神々から崇拝される神であることは理解できても、万物の至高の所有者であることまでは知らない人々のために、ジャガット・パティと呼んだ。このように、この節ではアルジュナの悟りによってクリシュナに関する真実が確立されている。ゆえに、私たちはクリシュナをありのまま理解するために、アルジュナの足跡に従わなければならないのだ。
vaktum arhasy aśeṣeṇa
divyā hy ātma-vibhūtayaḥ
yābhir vibhūtibhir lokān
imāṁs tvaṁ vyāpya tiṣṭhasi

訳語

翻訳

願わくば、すべての世界に満ちあふれている
あなたの聖なる豊潤な質について
詳しくお話しください。

解説

 この節から、アルジュナはすでに至高人格神のことを理解し、満足していることがわかる。個々の経験も、知性も知識も、何であれアルジュナが人として得たものはすべてクリシュナの慈悲によるものであり、それらの作用を通して彼はクリシュナが至高人格神であることを理解したのだ。今やアルジュナには何の疑念もない。それでもなお、あまねく遍満するクリシュナの豊潤なる質についての説明を求めている。一般の人々、特に非人格主義者が主に関心を持っているのは、至高主があらゆるところに充満しているという点である。だからアルジュナは、どのようにしてクリシュナが御自身のさまざまなエネルギーを通してすべてに遍満しておられるのかを尋ねたのだ。アルジュナは一般の人々に代わってこの質問をしたのだということを、私たちはよく心得ておかなければならない。
kathaṁ vidyām ahaṁ yogiṁs
tvāṁ sadā paricintayan
keṣu keṣu ca bhāveṣu
cintyo ’si bhagavan mayā

訳語

翻訳

おお、クリシュナ
至上の神秘家よ
至高人格神なるお方よ
いかにしてあなたを絶えず想い
あなたを知ればよいのでしょうか。
どのような姿のあなたを覚えていればよいのでしょうか。

解説

 前の章で説明されているように、至高人格神は御自身のヨーガ・マーヤーに覆われている。主を見ることができるのは身を委ねた魂と献身者だけである。今アルジュナ自身は親友のクリシュナが至高主であることを確信したが、どのようにすればあまねく遍満する主のことを一般の人々も理解できるようになるのか、その方法を知りたいと望んでいる。悪質な人や神を信じない人を含め、一般の人々はクリシュナを知ることができない。それはクリシュナが御自身のヨーガー・マーヤーのエネルギーによって覆われているからである。だからアルジュナはこうした人々のために、今一度これらの質問をした。優れた献身者は自分だけでなく、人類すべてが理解できることを願っている。アルジュナはヴァイシュナヴァ、つまり献身者なので、至高主がどこにでも遍在していることを一般の人々が理解できるように道を開いているのだ。アルジュナはここでクリシュナのことを「ヨーギン」と呼んでいる。これはシュリー・クリシュナはヨーガ・マーヤーのエネルギーの主あるじであり、普通の人々の前ではこのエネルギーで御自身を覆ったり、その覆いを取ったりなさるからである。クリシュナへの愛を育んでいない一般の人々は常にクリシュナのことを想っていられないから、物質的なことを思い巡らせているのだ。アルジュナは、この世界に住む物質的な人たちの思考様式について思いやっている。keṣu keṣu ca bhāveṣu とは、物質自然のこと(バーヴァは「物質的なもの」の意)。物質的な人はクリシュナのことを精神的にとらえることができない。ゆえにそのような人には、物質に心を集中させ、それらを通してクリシュナがいかに現れておられるか理解するように努めよ、と勧められている。
vistareṇātmano yogaṁ
vibhūtiṁ ca janārdana
bhūyaḥ kathaya tṛptir hi
śṛṇvato nāsti me ’mṛtam

訳語

翻訳

ジャナールダナよ
あなたの豊潤なる質の神秘力について
どうぞ今一度詳しくお話しください。
聞けば聞くほどもっとあなたの言葉の甘露を味わいたくなり
どれほど聞いても飽きることがありません。

解説

 シャウナカを筆頭とするナイミシャーラニヤに住むリシたちも、スータ・ゴースヴァーミーに同様のことを述べている。
vayaṁ tu na vitṛpyāma
uttama-śloka-vikrame
yac chṛṇvatāṁ rasa-jñānāṁ
svādu svādu pade pade
 「すばらしい祈りで讃えられているクリシュナの超越的な逸話をいくら聞き続けても、決して飽きることはない。クリシュナとの超越的な関係に目覚めた人は、主の崇高な行いについて述べる言葉の一つひとつを味わっている(『シュリーマド・バーガヴァタム』1-1-19)」。このようにアルジュナもクリシュナについて、いかにして至高主はあまねく遍満するお方であるのかということを特に聴きたいのである。
 ここでアムリタムすなわち甘露という言葉が使われているが、クリシュナに関しての説明や表現はどれもまるで甘露のようなものである。そしてその甘露は、実際の体験を通して味わうことができる。現代の物語、小説、歴史などは、主の超越的な逸話とはまったく別物である。世俗的な物語は飽きてしまうが、クリシュナについての話は決して飽きることがない。だから全宇宙の歴史は、至高主の化身の崇高な逸話で満ちているのだ。諸プラーナは、主のさまざまな化身の崇高な行いについて述べた過去の時代の歴史書である。このように主に関することは何度繰り返して読んでも、永遠に新鮮であり続けるのだ。
śrī-bhagavān uvāca
hanta te kathayiṣyāmi
divyā hy ātma-vibhūtayaḥ
prādhānyataḥ kuru-śreṣṭha
nāsty anto vistarasya me

訳語

翻訳

至高人格神は語る。
よろしい、では私の光輝く壮麗な顕現について話そう。
ただし主要なものだけにとどめておく。
アルジュナよ
私の豊潤さには際限がないのだから。

解説

 クリシュナの偉大さや豊潤さを理解することはできない。個々の魂の感覚には限界があり、クリシュナのすべてを理解することは不可能である。献身者はクリシュナを知ろうとするが、ある特定の場面あるいは人生のある段階に来れば完全に主を悟ることができるというようなものではない。むしろクリシュナの話題はあまりにも味わい深いので、献身者には甘露のように思える。だから常に楽しんでいるのだ。純粋な献身者はクリシュナの豊潤なる質やさまざまなエネルギーについて語ることに超越的な喜びを覚えるため、聴きたい、語りたいと望む。生命体にはクリシュナの豊潤なる質の深さが理解できないということを、クリシュナはご存知である。だからさまざまなエネルギーが現れた主要なものについてだけ語ることに同意なさった。プラーダーニヤタハ(主要な)という言葉は非常に重要である。至高主のお姿は無限にあり、私たちに理解できるのはほんのいくつかにすぎないからだ。すべての姿を理解し尽くすのは不可能なこと。この節で使われているように、ヴィブーティとはすべての顕現を支配している富のことである。『アマラ・コーシャ辞典』には、ヴィブーティとは並外れた豊潤さのことであると書かれている。
 非人格主義者や多神教信者には、至高主の豊潤さも主の神聖なるエネルギーの現れも理解できない。物質界でも、精神界でも、主のエネルギーはさまざまな形で現れて降り注がれている。ここでクリシュナは一般の人々が直接理解できることを説明してくださる。主の多様なるエネルギーの一部は、このようにして説明されていくのである。
aham ātmā guḍākeśa
sarva-bhūtāśaya-sthitaḥ
aham ādiś ca madhyaṁ ca
bhūtānām anta eva ca

訳語

翻訳

アルジュナよ
私は至高の魂であり
生きとし生ける者のハートの中に宿っている。
私は万物の起源であり、中間であり、終末である。

解説

 この節の中でアルジュナはグダーケーシャと呼ばれているが、これは「眠りの闇を克服した者」という意味である。無知の暗闇の中で眠っている者には、至高人格神がいかにして物質界、精神界で御自身をさまざまに顕現しておられるのか理解できない。ゆえにクリシュナがアルジュナをこのように呼んだことは重要なのである。アルジュナがそのような暗闇を克服した人間だからこそ、至高人格神はそのさまざまな豊潤なる質について話すことに同意されたのだ。
 最初にクリシュナは、御自身がその最初の拡張体の力によって現れた全宇宙の魂であるということをアルジュナに語られた。物質が創造される以前に至高主は御自身の最初の拡張体によってプルシャ化身を受け入れ、そこからすべてが始まる。ゆえに主はアートマー、すなわち宇宙要素マハット・タットヴァ※の魂なのだ。創造の原因は全物質エネルギーではなく、実際には全物質エネルギーであるマハット・タットヴァにマハー・ヴィシュヌが入ることで創造が始まる。主は魂である。宇宙現象に入ったマハー・ヴィシュヌは至高の魂として、すべての生命体の中に再び御自身を現される。精神的な火花があるからこそ生命体の個々の魂が存在するということは、私たちもすでに経験済みである。精神的な火花がなければ体は成長できない。同様に、至高の魂であるクリシュナが入らなければ、物質顕現は広がることができない。『スバーラ・ウパニシャッド』に書かれているように、prakṛty-ādi-sarva-bhūtāntar-yāmī sarva-śeṣī ca nārāyaṇaḥ「至高人格神はすべての宇宙顕現の中に至高なる魂として存在している」のである。
 3つのプルシャ・アヴァターラについては『シュリーマド・バーガヴァタム』の中に書かれている。また『サートヴァタ・タントラ』のひとつである『ナーラダ・パンチャラートラ』の中でも説明されている。Viṣṇos tu trīṇi rūpāṇi puruṣākhyāny atho viduḥ「至高人格神はこの物質現象の中にカーラノーダカ・シャーイー・ヴィシュヌ、ガルボーダカ・シャーイー・ヴィシュヌ、クシーローダカ・シャーイー・ヴィシュヌという3つの姿で現れる」。マハー・ヴィシュヌ、すなわちカーラノーダカ・シャーイー・ヴィシュヌについては、『ブラフマ・サンヒター』(5-47)の中で Yaḥ kāraṇārṇava-jale bhajati sma yoga-nidrām「あらゆる原因の源である至高主クリシュナは、マハー・ヴィシュヌとして宇宙の海に横たわっていらっしゃる」と説明されている。ゆえに至高人格神は宇宙の始まりであり、宇宙現象の維持者であり、あらゆるエネルギーの終末なのである。

※マハット・タットヴァとは、プラクリティから発生する最初の要素であり、最も微細な状態の物質である。根源の、総物質エネルギーから未分化のもので、マハット・タットヴァから物質界が顕現する。
ādityānām ahaṁ viṣṇur
jyotiṣāṁ ravir aṁśumān
marīcir marutām asmi
nakṣatrāṇām ahaṁ śaśī

訳語

翻訳

私は
アーディッティヤ※たちの中ではヴィシュヌであり
光るものの中ではまばゆい太陽であり
マルトたちの中ではマリーチであり
星々の中では月である。

解説

 アーディッティヤは12人いて、クリシュナがその長である。空に輝くすべての発光体の長は太陽であり、『ブラフマ・サンヒター』ではその太陽こそ至高主の輝く目であるとされている。宇宙を吹き抜ける風は50種類あり、これを治めている神格マリーチはクリシュナを象徴している。
 夜空にきらめく星々の中では月が格段に優れていて、これもクリシュナを表している。この節から月は星のひとつであることがわかる。したがって、空で光る星々も太陽の光を反射しているのだ。宇宙にはたくさんの太陽があるという学説を、ヴェーダ文献は受け入れていない。太陽はひとつであり、太陽の反射で月が輝き星も光る。月は星のひとつであると『バガヴァッド・ギーター』のこの節で述べられていることから、きらめく星々は太陽ではなく月のようなものだということがわかる。

※アーディッティヤとは、アディティの息子たちのこと。
vedānāṁ sāma-vedo ’smi
devānām asmi vāsavaḥ
indriyāṇāṁ manaś cāsmi
bhūtānām asmi cetanā

訳語

翻訳

私は
諸ヴェーダの中ではサーマ・ヴェーダであり
神々の中では天界の王インドラであり
感覚器官の中では心であり
生物の中では生命力(意識)である。

解説

 物質には生命体のような意識がない。それが物質と精神との違いである。ゆえに意識は最上であり永遠なのだ。物質をいくら組み合わせようと、意識を作り出すことはできない。
rudrāṇāṁ śaṅkaraś cāsmi
vitteśo yakṣa-rakṣasām
vasūnāṁ pāvakaś cāsmi
meruḥ śikhariṇām aham

訳語

翻訳

私は
全ルドラの中では主シヴァであり
ヤクシャやラークシャサたちの中では富(クヴェラ)の主であり
ヴァスの中では火(アグニ)であり
山々の中ではメール山である。

解説

 ルドラは11人いるが、中でもシャンカラすなわち主シヴァが最も卓越している。シヴァは至高主の化身であり、宇宙における無知の様式を管理している。ヤクシャやラークシャサたちの長はクヴェーラである。クヴェーラは神々の間の財務長官のような存在で、至高主の代理を務めている。メールは天然資源の豊富なことで名高い山である。
purodhasāṁ ca mukhyaṁ māṁ
viddhi pārtha bṛhaspatim
senānīnām ahaṁ skandaḥ
sarasām asmi sāgaraḥ

訳語

翻訳

アルジュナよ
私は
僧侶たちの中ではその長のブリハスパティであり
将軍たちの中ではカールティケーヤであり
水体の中では海である。

解説

 インドラは天界の惑星の神々の長であり、天界の王として知られている。インドラの統治している惑星はインドラローカと呼ばれ、ブリハスパティはインドラに仕える僧侶である。インドラが王たちの長なので、ブリハスパティは僧侶たちの長ということになる。またインドラが王たちの長であるように、パールヴァティーと主シヴァの息子であるスカンダ、すなわちカールティケーヤは軍の指揮官たちの長である。そして、水体の中では海が最も偉大である。クリシュナを表しているこれらのものは、ただクリシュナの偉大さを示唆しているにすぎない。
maharṣīṇāṁ bhṛgur ahaṁ
girām asmy ekam akṣaram
yajñānāṁ japa-yajño ’smi
sthāvarāṇāṁ himālayaḥ

訳語

翻訳

私は
偉大な聖者たちの中ではブリグであり
音響の中では超越的オームであり
供犧の中では聖なる御名の唱名(ジャパ)であり
動かぬものの中ではヒマラヤである。

解説

 宇宙で最初の生命体であるブラフマーは、さまざまな種類の生命体を繁殖させるために、何人かの息子をもうけた。その中で最も強力な聖者がブリグである。あらゆる超越的な音響の中ではオーム(オーム・カーラ)がクリシュナを表している。あらゆる供養の中では「ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー / ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー」の唱名がクリシュナを最も純粋に表している。時には動物の犠牲式が勧められることもあるが、ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナと唱える供養は暴力とはまったく無関係であり、最も簡単かつ純粋なのである。この世界で崇高なものはすべてクリシュナを表している。したがって、世界一すばらしい山であるヒマラヤもクリシュナを表しているのだ。メールという名の山は以前の節にも登場したが、時には動くことがある。それに対してヒマラヤは決して動くことがない。だからヒマラヤはメールより偉大なのである。
aśvatthaḥ sarva-vṛkṣāṇāṁ
devarṣīṇāṁ ca nāradaḥ
gandharvāṇāṁ citrarathaḥ
siddhānāṁ kapilo muniḥ

訳語

翻訳

私は
全樹木の中では菩提樹であり
デーヴァの聖者たちの中ではナーラダであり
ガンダルヴァの中ではチトララタであり
完成を遂げた者たちの中では聖者カピラである。

解説

 菩提樹(アシュヴァッタ)は最も高く最も美しい木のひとつであり、インドではこの木の崇拝を毎朝の日課にしている人々も少なくない。神々の間では、宇宙一偉大な献身者だと考えられているナーラダが崇拝されている。したがって、ナーラダは献身者としてのクリシュナの表れである。ガンダルヴァ惑星にはすばらしい歌声の生命体がたくさんいるが、その中でもチトララタの歌が最も美しい。完成に達した生命体の中では、デーヴァフーティの息子であるカピラがクリシュナを表している。カピラはクリシュナの化身だとされていて、彼の哲学は『シュリーマド・バーガヴァタム』の中に記載されている。後世になって別人のカピラが有名になったが、こちらのカピラは神を信じない哲学を説いている。したがって、この同名のふたりはまったくの別人なのである。
uccaiḥśravasam aśvānāṁ
viddhi mām amṛtodbhavam
airāvataṁ gajendrāṇāṁ
narāṇāṁ ca narādhipam

訳語

翻訳

私は、馬の中では
海の攪拌で生じた甘露から生まれた
ウッチャイフシュラヴァーであり
威厳ある象の中ではアイラーヴァタであり
人々の中では王である。

解説

 かつて献身者である神々と悪魔(アスラ)たちが一緒に海をかき混ぜたことがある。この攪拌から甘露と毒が生じ、主シヴァはその毒を飲み干した。甘露からはたくさんの生命体が生まれ、その中にウッチャイフシュラヴァーという名の馬がいた。同様にアイラーヴァタという名の象も甘露から生まれた。この2頭の動物は甘露から生じたので特に重要であり、共にクリシュナを表している。
 人間の中では王がクリシュナを表している。なぜならクリシュナは宇宙を維持するお方であり、王は神のような資質を備えているがゆえに任命されて王国を治めているからである。マハーラージャ・ユディシュティラ、マハーラージャ・パリークシット、主ラーマのような王たちは、常に国民の幸せを願う真に公正な王であった。ヴェーダ文献には、王は神の代表者とみなされると書かれている。しかし現代では宗教原則の堕落と共に君主政体は腐敗し、ついに廃止されてしまった。昔の人々は、公正な王のもとでもっと幸せだったのだということを理解すべきである。
āyudhānām ahaṁ vajraṁ
dhenūnām asmi kāma-dhuk
prajanaś cāsmi kandarpaḥ
sarpāṇām asmi vāsukiḥ

訳語

翻訳

私は
武器の中では雷電であり
牛の中ではスラビであり
生殖の原因の中では愛の神カンダルパであり
蛇の中ではヴァースキである。

解説

 雷電は実に強力な武器であり、クリシュナを表している。精神界にあるクリシュナローカにはいつでもミルクを出す牝牛たちがいて、好きなだけミルクを与えてくれる。もちろんこんな牛はこの物質界にはいないが、クリシュナローカにはいると書かれている。スラビと呼ばれるこの牛を主はたくさん飼っておられ、主がその群れを集めておられたと記述されている。カンダルパとは良い息子をもうけるための性欲のことであり、クリシュナを表している。感覚を楽しませるためだけに性行為が行われることがあるが、そのような行為は決してクリシュナの表れではない。良い子供を産むための性行為をカンダルパと呼ぶのであり、これはクリシュナを表している。
anantaś cāsmi nāgānāṁ
varuṇo yādasām aham
pitṝṇām aryamā cāsmi
yamaḥ saṁyamatām aham

訳語

翻訳

私は
多くの頭を持つナーガの中ではアナンタであり
水生動物の中では水の神ヴァルナであり
この世を去った先祖たちの中ではアリヤマンであり
法を施行する者の中では死の神ヤマである。

解説

 たくさんの頭を持つナーガという蛇の中で最も偉大なのはアナンタであり、水生動物の中で最も偉大なのはヴァルナ神である。両者ともクリシュナを表している。またピターすなわち先祖の惑星があり、クリシュナの代理のアリヤマンが治めている。邪悪な者に罰を与える生命体は数多くあるが、中でもヤマがその長であり、地球から遠くない惑星にいる。不敬虔な者は死後そこに連れて行かれ、ヤマによってさまざまな刑罰が下るのだ。
prahlādaś cāsmi daityānāṁ
kālaḥ kalayatām aham
mṛgāṇāṁ ca mṛgendro ’haṁ
vainateyaś ca pakṣiṇām

訳語

翻訳

私は
ダイティヤ悪魔の中では献身的なプラフラーダであり
征服者の中では「時」であり
動物の中ではライオンであり
鳥類の中ではガルダである。

解説

 ディティとアディティは姉妹である。 アディティの息子たちはアーディッティヤと呼ばれ、ディティの息子たちはダイティヤと呼ばれる。アーディッティヤは全員が主の献身者であり、ダイティヤは全員が神を信じない者である。プラフラーダはダイティヤの家庭に生まれたが、幼い頃から偉大な献身者だった。 プラフラーダは偉大な献身奉仕をし、神のような素質を持っていたため、クリシュナの表れだと考えられている。
 他者を征服する原理は多々あるが、「時」は物質宇宙に存在するものすべてをすり減らしていく。ゆえに「時」はクリシュナを表している。また数ある動物の中で最も強く獰猛なのはライオンである。そして百万種類ほどいる鳥類の中では主ヴィシュヌを乗せて運ぶガルダが最も偉大なのだ。
pavanaḥ pavatām asmi
rāmaḥ śastra-bhṛtām aham
jhaṣāṇāṁ makaraś cāsmi
srotasām asmi jāhnavī

訳語

翻訳

私は
浄化するものの中では風であり
武器を振り回す者の中ではラーマであり
魚類の中ではサメであり
流れる河川の中ではガンジスである

解説

 サメは最も大きい水生動物のひとつであり、人間にとって最も危険であることは間違いない。ゆえにサメはクリシュナを表している。
sargāṇām ādir antaś ca
madhyaṁ caivāham arjuna
adhyātma-vidyā vidyānāṁ
vādaḥ pravadatām aham

訳語

翻訳

アルジュナよ
私は
全創造物の始めであり、終わりであり、中間である。
全科学の中では自己に関する精神的科学が私であり
論理を語る者の中では決定的真実が私である。

解説

 創造現象のうち、まず最初に創造されるのが全物質要素である。以前にも説明されているように、宇宙現象は、マハー・ヴィシュヌ、ガルボーダカ・シャーイー・ヴィシュヌ、クシーローダカ・シャーイー・ヴィシュヌが創造し、管理する。そして主シヴァがそれを再び破壊する。ブラフマーはヴィシュヌに従属する副創造者であり、これらすべての創造、維持、破壊の力は、至高主の物質的資質の化身である。ゆえに主はあらゆる創造の始まりであり、中間であり、終末なのだ。
 高い教育のためのさまざまな種類の知識を載せた本がある。4つのヴェーダとその6種類の増補、『ヴェーダーンタ・スートラ』、論理の本、宗教理論の本、プラーナなどである。これらの教育書は全部で14の部門に分かれていて、このうち精神的知識である adhyātma-vidyā を説明している本、特に『ヴェーダーンタ・スートラ』がクリシュナを表している。
 論理を語る者たちの間でもさまざまな議論は生じる。相手側を支えることにもなる証拠を用いて自らの議論の裏書をする論法をジャルパと呼び、ただ相手側を論破する方法をヴィタンダーと呼ぶ。しかし本当の結論はヴァーダと呼ばれ、この決定的な真実こそクリシュナを表している。
akṣarāṇām a-kāro ’smi
dvandvaḥ sāmāsikasya ca
aham evākṣayaḥ kālo
dhātāhaṁ viśvato-mukhaḥ

訳語

翻訳

私は
文字の中では「ア」※であり
複合語の中では二重語である。
また果てることのない時間であり
創造者の中ではブラフマーである。

解説

 サンスクリットのアルファベットの最初の文字である「ア・カーラ」は、ヴェーダ文献の始まりである。「ア・カーラ」がなければ何も発音できない。つまり「ア」は音の始まりである。サンスクリットに語はたくさんの複合語があるが、その中でも「ラーマ・クリシュナ」のような複合語はドヴァンドヴァ(二重語)と呼ばれている。この複合語の場合、「ラーマ」と「クリシュナ」は同じ種類の単語であるため二重語だと言われる。
 あらゆる種類の死因の中で時間は究極のものである。なぜなら時間はすべてのものを死に至らしめるからだ。時が来れば大きな火災が起こり、あらゆるものが焼き尽くされる。ゆえに時間はクリシュナを代表している。
 物質創造ができる生命体の中では、4つの頭を持つブラフマーが最高である。ゆえにブラフマーは至高者クリシュナを代表している。

※「ア」はサンスクリット語の一番初めの文字を意味する
mṛtyuḥ sarva-haraś cāham
udbhavaś ca bhaviṣyatām
kīrtiḥ śrīr vāk ca nārīṇāṁ
smṛtir medhā dhṛtiḥ kṣamā

訳語

翻訳

私は
一切を貪り食う「死」であり
全活動の始まりである「出生」であり
女性たちの持つ名声、幸運、美しい話し方
記憶力、知性、堅実さ、忍耐強さである。

解説

 人は生まれた瞬間から毎瞬、死に近づいている。死は毎瞬間、生命体を貪り食っているのだ。そしてその最後の一撃を「死」と呼ぶ。「死」はクリシュナそのものである。すべての生命体は発育という面で、次の6つの基本的な変化をたどる。まず生まれ、成長し、しばらくの間その状態を維持し、副産物を作り、衰え、最後には消滅する。これらの変化のまず最初は子宮から出てくることであり、それがクリシュナである。この初めての発生が将来に起こるすべての活動の始まりなのだ。
 ここに挙げられている 「 名声、幸運、美しい話し方、記憶力、知性、堅実さ、忍耐強さ 」という7つの豊潤さは、女らしさとされている。この豊潤さをすべて、あるいはいくつかでも備えていれば、輝かしい人となる。公正な人として名が知られているなら、それだけで光輝ある存在なのだ。サンスクリットは完璧な言語であるため、とても栄光に満ちている。学んだあとでも主要な内容を覚えていられる人は、良い記憶力すなわちスムリティを授かっていると言える。またいろんな分野の本をたくさん読めるだけでなく、その内容をよく理解して必要なときに適応できることは、知性(メーダー)と呼ばれるひとつの豊かな質である。落ち着きのない心に打ち勝つ力を堅固さ、あるいは堅実さ(ドリティ)と呼ぶ。そしてこれら豊かな質を十分に備えていてもなお、謙虚で優しく、悲しみにあっても喜びの絶頂にあっても平静でいられる人は、忍耐(クシャマー)と呼ばれる豊潤さを持つ人である。
bṛhat-sāma tathā sāmnāṁ
gāyatrī chandasām aham
māsānāṁ mārga-śīrṣo ’ham
ṛtūnāṁ kusumākaraḥ

訳語

翻訳

私は
サーマ・ヴェーダの讃歌ではブリハット・サーマであり
詩の中ではガーヤトリーであり
月々の中ではマールガシールシャ(11~12月)であり
季節の中では花咲く春である。

解説

 主があらゆるヴェーダの中のサーマ・ヴェーダであることは、すでに主御自身によって説明されている。サーマ・ヴェーダには、さまざまな神々が捧げた美しい祈りがたくさん載っている。そのひとつが『ブリハット・サーマ』であり、これは真夜中に歌われるこの上なく美しいメロディの歌である。
 サンスクリットには詩を書く上での一定の規則があり、現代詩のように、韻や韻律を度外視して気まぐれに書かれたものではない。規則に従って書かれた詩の中では、ガーヤトリー・マントラが最も優れている。これは正式な資格のあるブラーフマナたちが唱えるマントラであり、『シュリーマド・バーガヴァタム』の中でも説明されている。ガーヤトリー・マントラは特に神を悟るためのものなので、至高主を表しているのだ。また精神的に優れた人のためのマントラであり、これを完璧に唱えることができるようになった人は、主の超越的な領域に入って行くことができる。ガーヤトリー・マントラを唱えるためには、まず最初に物質自然の法則に従い徳性の質を身につけ、非の打ちどころのない人としての資質を身につけなくてはならない。ガーヤトリー・マントラはヴェーダ文化において非常に重要であり、ブラフマンの音の化身であるとされている。ブラフマーが創始者であり、彼から師弟継承を通じて伝えられている。
 また1年のうち11月から12月が最も良い月とされているのは、インドではこの時期に穀物が収穫され、人々が大きな幸せを感じるからである。春は暑すぎず寒すぎず、花は咲き木々は青く茂り、言うまでもなく世界中で最も好まれる季節である。そしてクリシュナの崇高な行いを祝う記念祭が多くあるのも春である。ゆえに春はすべての季節の中で最も喜びあふれる時とされ、至高主クリシュナを表しているのだ。
dyūtaṁ chalayatām asmi
tejas tejasvinām aham
jayo ’smi vyavasāyo ’smi
sattvaṁ sattvavatām aham

訳語

翻訳

私は
詐欺の中では賭博であり
壮麗なるものの中では光輝である。
また私は勝利であり、冒険であり
強者の持つ強さでもある。

解説

 宇宙にはさまざまな詐欺が横行している。中でもギャンブルは最強であるため、クリシュナを表している。クリシュナは至高主であり、他者を欺くことにおいても肩を並べられる人間はいない。ひとたびクリシュナが誰かを騙そうと決めれば、誰も優まさることはできない。クリシュナの偉大さは一方だけではなく、あらゆる方面において偉大なのである。
 またクリシュナは勝利者の中の勝利そのものであり、輝くものの輝きそのものである。意欲的な者、勤勉な者たちの中では、クリシュナこそその最たる者である。冒険家の中では最高の冒険家であり、強き者の中では最強のお方であった。クリシュナがこの地上におられた時、その力に及ぶ者などいなかった。幼少期にゴーヴァルダナの丘を持ち上げてしまったほどだ。騙すことにおいてもクリシュナの右に出る者はなく、勝利においても、意欲においても、強さにおいても、クリシュナに優る者など存在しないのである。
vṛṣṇīnāṁ vāsudevo ’smi
pāṇḍavānāṁ dhanañ-jayaḥ
munīnām apy ahaṁ vyāsaḥ
kavīnām uśanā kaviḥ

訳語

翻訳

私は
ヴリシュニの子孫の中ではヴァースデーヴァであり
パーンダヴァの中ではアルジュナであり
聖者の中ではヴィヤーサであり
偉大な思想家の中ではウシャナーである。

解説

 クリシュナは根源の至高人格神であり、バラデーヴァはクリシュナの直接の拡張体である。主クリシュナもバラデーヴァも共にヴァスデーヴァの子として現れたため、どちらもヴァースデーヴァと呼ばれる。別の見方をすれば、クリシュナは決してヴリンダーヴァナを離れることがないため、ヴリンダーヴァナ以外の場所に現れるクリシュナのお姿はすべて拡張体なのである。ヴァースデーヴァはクリシュナの直接の拡張体であるため、ヴァースデーヴァとクリシュナは同じである。『バガヴァッド・ギーター』のこの節で使われているヴァースデーヴァはバラデーヴァ、すなわちバララーマのことであると理解しなくてはならない。なぜならバラデーヴァはすべての化身の根源であり、ヴァースデーヴァの唯一の源だからである。主からじかに拡張して現れた者はスヴァーンシャ(直接の拡張体)と呼ばれ、一方、ヴィビンナーンシャ(間接的拡張体)と呼ばれる拡張体もある。
 パーンドゥの息子たちのうち、アルジュナはダナンジャヤとして名が知れている。彼は最も優れた男性であるため、クリシュナを表している。ムニ、すなわちヴェーダの知識に精通している博学な者のうちで最も偉大なのはヴィヤーサである。ヴェーダの知識をカリ時代の一般大衆が理解できるようにさまざまな方法で説明したからである。またヴィヤーサはクリシュナの化身としても知られている。ゆえにヴィヤーサもクリシュナを表している。カヴィとは、どんな問題に関しても徹底的に考えることのできる人のこと。そのカヴィたちの中でもウシャナー、すなわち悪魔たちの精神の師であるシュクラーチャーリャは、とりわけ知性的で先見の明ある政治家であった。ゆえに彼もクリシュナの豊潤なる質を代表するひとりである。
daṇḍo damayatām asmi
nītir asmi jigīṣatām
maunaṁ caivāsmi guhyānāṁ
jñānaṁ jñānavatām aham

訳語

翻訳

私は
犯罪を抑制する方法の中では処罰であり
勝利を求める者たちにおける道徳性であり
秘めごとにおける沈黙であり
賢者の持つ智恵である。

解説

 犯罪を抑えるための機関はたくさんあり、中でも最も重要なことは邪悪な人間を減らすことである。悪人が処罰されるとき、その懲罰を行う機関はクリシュナを代表している。また何かの活動において勝利を収めようとするとき、最大の勝因は道徳性である。また聞く、考える、瞑想するなど内密な行動においては、無言でいることが速やかな向上につながるため、沈黙が最も重要である。賢者とは物質と精神を区別できる人、すなわち神の高位エネルギーと低位エネルギーの識別ができる人のことであり、そのような知識こそクリシュナ御自身なのである。
yac cāpi sarva-bhūtānāṁ
bījaṁ tad aham arjuna
na tad asti vinā yat syān
mayā bhūtaṁ carācaram

訳語

翻訳

アルジュナよ
さらに私はすべての存在を生み出す種でもある。
動くものも、動かぬものも
私なしには何ひとつ存在し得ない。

解説

 どんなものにも原因があり、現れたその原因あるいは種子がクリシュナである。クリシュナのエネルギーがなくては何ひとつ存在し得ない。ゆえにクリシュナは全能なるお方と呼ばれる。クリシュナの力がなければ、動くものも動かぬものも存在すらできない。何であれクリシュナのエネルギーに基づいていない存在はマーヤー、すなわち「真実でないもの」と呼ばれるのである。
nānto ’sti mama divyānāṁ
vibhūtīnāṁ paran-tapa
eṣa tūddeśataḥ prokto
vibhūter vistaro mayā

訳語

翻訳

敵を征服する強者よ
私の聖なる顕現に終わりはない。
今、君に話したことは
我が無限なる豊潤さの一部にすぎない。

解説

 ヴェーダ文献に書かれているとおり、至高主の豊潤なる質とエネルギーの理解の仕方にはいろいろあるが、その豊潤さには限界がない。そのためすべてを説明し尽くすことなど不可能である。ただアルジュナの知りたい気持ちを満たすためだけに、ほんのいくつかの例が語られたにすぎないのだ。
yad yad vibhūtimat sattvaṁ
śrīmad ūrjitam eva vā
tat tad evāvagaccha tvaṁ
mama tejo-’ṁśa-sambhavam

訳語

翻訳

豊潤なるもの、美しいもの
栄光に輝くものはすべて
私の華麗さより発した輝きの
ひとつにすぎないことを知れ。

解説

 精神界であろうと物質界であろうと、輝かしいもの、美しいものはすべてクリシュナの豊潤なる質から現れたきらめきのひとつであると理解しなくてはならない。並はずれて豊かなものはすべて、クリシュナの豊潤さを表していると考えるべきである。
atha vā bahunaitena
kiṁ jñātena tavārjuna
viṣṭabhyāham idaṁ kṛtsnam
ekāṁśena sthito jagat

訳語

翻訳

だがアルジュナよ
こうした詳細な知識が本当に必要であろうか?
私のほんのひとかけらによって私は遍満し
それによって全宇宙が支えられているにすぎないというのに。

解説

 至高主は万物の中に至高の魂として入ることによって、物質宇宙全体にあまねく御自身を現しておられる。そしてここで、その豊潤で壮大なる質の何がどう存在しているかなど、理解しようとする必要はないとアルジュナに語られた。クリシュナが至高の魂として入っておられるからすべてが存在すると知っていれば、それでよい。最も巨大な存在であるブラフマーから最も小さな蟻に至るまで、主がその一つひとつに入って支えておられるからこそ、万物が存在しているのである。
 どの神を崇拝しようと究極の目的地である至高人格神にたどり着くことができると説く教派がある。しかしここでは神々の崇拝を徹底的に反対している。なぜならブラフマーやシヴァのように最も偉大な神々でさえ、至高主の豊潤さのほんの一部を表しているにすぎないからである。至高主は命ある者すべての源であり、至高主を超える者は誰もいない。主は asamaurdhva すなわち主より偉大な者、主と肩を並べる者など存在しないという意味である。『パドマ・プラーナ』には、たとえブラフマーやシヴァであろうとも、主クリシュナがそのような神々と同じ部類に入ると考える人は、直ちに無神論者になり下がると書かれている。しかし、もしクリシュナのエネルギーの豊潤さや拡張体についてしっかりと学ぶなら、主シュリー・クリシュナの立場を何の疑いもなく理解し、クリシュナの崇拝に心が固定し、決して逸れることなどなくなるであろう。主は御自身の一部の現れを拡大してあまねく遍満し、万物の中に入っておられる。ゆえに、純粋な献身者は完全に献身奉仕に没頭して心をクリシュナ意識に集中させ、常に超越的な状態でいられるのだ。献身奉仕とクリシュナの崇拝に関しては、この章の第8節から第11節で明瞭に説明されていて、それこそが純粋な献身奉仕の方法なのである。どのようにすれば至高人格神との交際という献身奉仕の最高完成に到達できるのか。それが、この章の中で詳細に説明されている。クリシュナからの師弟継承上にある偉大なアーチャーリャのシュリーラ・バラデーヴァ・ヴィデャーブーシャナは、この章の解説を次の言葉で締めくくっている。
yac-chakti-leśāt sūryādyā
bhavanty aty-ugra-tejasaḥ
yad-aṁśena dhṛtaṁ viśvaṁ
sa kṛṣṇo daśame ’rcyate
 「あの強大な太陽でさえ、主クリシュナの偉大なエネルギーから力を得ている。そしてクリシュナの部分的拡張体によって全世界は支えられている。ゆえに主シュリー・クリシュナこそ、崇拝されるべきお方なのだ」。
 以上、『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第10章「絶対者の豊潤なる質」に関するバクティヴェーダンタの解説は終了。