節
訳語
翻訳
解説
第5章
『シュリーマド・バーガヴァタム』についてヴィヤーサデーヴァに授けられたナーラダの教え
節
sūta uvāca
atha taṁ sukham āsīna
upāsīnaṁ bṛhac-chravāḥ
devarṣiḥ prāha viprarṣiṁ
vīṇā-pāṇiḥ smayann iva
atha taṁ sukham āsīna
upāsīnaṁ bṛhac-chravāḥ
devarṣiḥ prāha viprarṣiṁ
vīṇā-pāṇiḥ smayann iva
訳語
sūtaḥ—スータ; uvāca—言った; atha—ゆえに; tam—彼に; sukham āsīnaḥ—ゆったりと座って; upāsīnam—近くに座っている者に向かって; bṛhat-śravāḥ—深い敬意を表して; devarṣiḥ—神々の中の偉大なリシ; prāha—言った; viprarṣim—ブラーフマナたちの中のリシに向かって; vīṇā-pāṇiḥ—手にヴィーナーを持っている者; smayan iva—微笑んでいるように見える。
翻訳
スータ・ゴースヴァーミーが言った。「神々の中の聖者[ナーラダ]は、笑みを浮かべながらゆったりと座り、ブラーフマナの中のリシ[ヴェーダヴィヤーサ]に話しかけた」
解説
ナーラダは大聖者ヴェーダヴィヤーサの失望の理由をよく知っていたため、微笑んでいました。これからナーラダが徐々に説明していくように、その失望感は、献身奉仕について充分に説明されなかったことに起因しています。ナーラダはその欠陥を知っていましたし、それはヴィヤーサの心境をみても明白なことでした。
節
nārada uvāca
pārāśarya mahā-bhāga
bhavataḥ kaccid ātmanā
parituṣyati śārīra
ātmā mānasa eva vā
pārāśarya mahā-bhāga
bhavataḥ kaccid ātmanā
parituṣyati śārīra
ātmā mānasa eva vā
訳語
nāradaḥ—ナーラダ; uvāca—言った; pārāśarya—パラーシャラの息子よ; mahā-bhāga—この上なく幸運な者; bhavataḥ—あなたの; kaccit—もしそうならば; ātmanā—~の自己の悟りによって; parituṣyati—それが満足させるか; śārīraḥ—体を〜と思う; ātmā—自己; mānasaḥ—心を〜と思う; eva—確かに; vā—そして。
翻訳
パラーシャラの息子、ヴィヤーサデーヴァにナーラダが尋ねた。あなたは体や心と自分を同一視し、それを悟りの対象にして満足しているのか。
解説
ナーラダはこう話しかけて、ヴィヤーサデーヴァの失望の原因をほのめかしています。強靱な精神力を持つパラーシャラの子孫であるヴィヤーサデーヴァには、失望感とは無縁の優れた血筋を引くという特権に恵まれていたはずです。偉大な父から生まれた偉大な息子だったのですから、体や心を自分とみなすべきではありませんでした。知識に欠ける凡人なら体や心を自分と思い込むかもしれませんが、ヴィヤーサデーヴァはそのような間違いを犯すべきではありませんでした。物質的な体や心を超越した自己の悟りの境地にいなければ、快活な性格にはなれません。
節
jijñāsitaṁ susampannam
api te mahad-adbhutam
kṛtavān bhārataṁ yas tvaṁ
sarvārtha-paribṛṁhitam
api te mahad-adbhutam
kṛtavān bhārataṁ yas tvaṁ
sarvārtha-paribṛṁhitam
訳語
jijñāsitam—充分に問いただした; susampannam—よく精通して; api—にもかかわらず; te—あなたの; mahat-adbhutam—偉大で素晴らしい; kṛtavān—準備した; bhāratam—『マハーバーラタ』; yaḥ tvam—あなたが成したこと; sarva-artha—全ての配列を含んでいる; paribṛṃhitam—詳細に説明されて。
翻訳
あなたは万全の質問を用意し、研究も首尾良く完結させ、一切のヴェーダの教えを入念に網羅した『マハーバーラタ』という偉大で素晴らしい書籍を著したことに、疑いの余地はない。
解説
ヴィヤーサデーヴァの失望が知識不足によるものでないことは明らかです。学習者の立場からヴェーダ経典について全ての問いを発し、その結果としてヴェーダに関する全ての説明を網羅した『マハーバーラタ』が作られたのです。
節
jijñāsitam adhītaṁ ca
brahma yat tat sanātanam
tathāpi śocasy ātmānam
akṛtārtha iva prabho
brahma yat tat sanātanam
tathāpi śocasy ātmānam
akṛtārtha iva prabho
訳語
jijñāsitam—熟考した; adhītam—得られる知識; ca—そして; brahma—絶対者; yat—であるもの; tat—それ; sanātanam—永遠な; tathāpi—それにもかかわらず; śocasi—嘆いている; ātmānam—自己に対して; akṛta-arthaḥ—何もしていない; iva—のような; prabho—私の愛しいお方よ。
翻訳
あなたは非人格のブラフマンについて、そしてその悟りから得られる知識について充分に描写している。ところが愛しいお方よ、このような数々の偉業にもかかわらず、全てが徒労に終わったかのように落胆しているのは、なぜか。
解説
シュリー・ヴィヤーサデーヴァが編集した『ヴェーダンタ・スートラ』、すなわち『ブラフマ・スートラ』には、姿を持たない絶対の様相について完全に描写されており、世界で最も深遠な解説書として認められています。永遠性に関する記述が網羅され、その方法も極めて学術的です。ですから、ヴィヤーサデーヴァの崇高な学識に疑いをはさむ余地はありません。では、なぜ彼は失望していたのでしょうか。
節
vyāsa uvāca
asty eva me sarvam idaṁ tvayoktaṁ
tathāpi nātmā parituṣyate me
tan-mūlam avyaktam agādha-bodhaṁ
pṛcchāmahe tvātma-bhavātma-bhūtam
asty eva me sarvam idaṁ tvayoktaṁ
tathāpi nātmā parituṣyate me
tan-mūlam avyaktam agādha-bodhaṁ
pṛcchāmahe tvātma-bhavātma-bhūtam
訳語
vyāsaḥ—ヴィヤーサ; uvāca—言った; asti—~がある; eva—確かに; me—私のもの; sarvam—全て; idam—これ; tvayā—あなたによって; uktam—語られた; tathāpi—それでも; na—ではない; ātmā—自己; parituṣyate—なだめる; me—私に; tat—~であるものの; mūlam—根源; avyaktam—見出されていない; agādha-bodham—無限の知識を持つ人物; pṛcchāmahe—尋ねる; tvā—あなたに; ātma-bhava—自分で誕生した; ātma-bhūtam—子孫。
翻訳
シュリー・ヴィヤーサデーヴァが答えた:私について今述べられたことは全て申し分のない真実です。にもかかわらず、わたしの心は釈然としていないのです。ですから、この不満の真因についてお尋ねします。なぜならあなたは、自ら誕生した俗世の父母を持たないブラフマーの息子であるゆえに、無尽蔵の知識を備えておられるからです。
解説
物質界に住む全ての人々が、体と心を自分だと思い込んでいます。そのため、この世界に行き渡っている知識は全て体や心にまつわるものであり、それが落胆の根源になっています。しかし、物質的な知識を極めた学者でさえ、この事実には気づいていない場合がほとんどです。ですから、ナーラダのような人物に頼って、落胆の原因を解明しようとする姿勢は正しいと言えます。なぜナーラダに頼るべきか、その理由がこれから説明されていきます。
節
sa vai bhavān veda samasta-guhyam
upāsito yat puruṣaḥ purāṇaḥ
parāvareśo manasaiva viśvaṁ
sṛjaty avaty atti guṇair asaṅgaḥ
upāsito yat puruṣaḥ purāṇaḥ
parāvareśo manasaiva viśvaṁ
sṛjaty avaty atti guṇair asaṅgaḥ
訳語
saḥ—このように; vai—確かに; bhavān—あなたご自身; veda—知っている; samasta—全てを含んでいる; guhyam—秘密の; upāsitaḥ—~の献身者; yat—なぜなら; puruṣaḥ—人格神; purāṇaḥ—最古の; parāvareśaḥ—物質界と精神界の支配者; manasā—心; eva—だけ; viśvam—宇宙; sṛjati—創造する; avati atti—破壊する; guṇaiḥ—物質によって; asaṅgaḥ—執着していない。
翻訳
師よ!あなたは神秘なるもの全てをご存知です。物質界を創造し、破壊し、精神界を維持し、そして物質自然の三性質を超越した根源の人格神を崇拝しておられるからです。
解説
全身全霊を傾けて主に奉仕をしている人物は、全ての知識の象徴です。完璧な献身奉仕をしているそのような献身者は、主の質を授かっているからこそ完璧です。ですから、8種類の完璧な神通力(アシュタ・シッディ)でさえ、その人物の神々しい富に比べれば大した価値はありません。ナーラダのような献身者は、誰もが到達したいと願う精神的完成のおかげで驚くべき力を発揮することができます。人格神に匹敵するわけではありませんが、完璧な生命体なのです。
節
tvaṁ paryaṭann arka iva tri-lokīm
antaś-caro vāyur ivātma-sākṣī
parāvare brahmaṇi dharmato vrataiḥ
snātasya me nyūnam alaṁ vicakṣva
antaś-caro vāyur ivātma-sākṣī
parāvare brahmaṇi dharmato vrataiḥ
snātasya me nyūnam alaṁ vicakṣva
訳語
tvam—あなた; paryaṭan—旅している; arkaḥ—太陽; iva—のように; tri-lokīm—三界; antaḥ-caraḥ—だれもの心の中に入ることができる; vāyuḥ iva—遍在する空気ほどの存在; ātma—自己を悟った; sākṣī—目撃者; parāvare—原因と結果に関することにおいて; brahmaṇi—絶対者の内に; dharmataḥ—規定原則に従って; vrataiḥ—誓いにおいて; snātasya—~に没頭して; me—私のもの; nyūnam—不足; alam—明確に; vicakṣva—探求する。
翻訳
あなたは、太陽のように三界のどこにでも行くことができ、空気のように全ての生命体の内なる心に入ることができます。ですから、遍在する超霊魂ともいうべきお方です。ですから、規定原則と誓いを守りつつ超越的な境地に没頭していたにもかかわらず、なぜ私に不足が生じてしまったのか、どうかご教示ください。
解説
超越的な悟り、敬虔な行い、神像崇拝、慈善、慈悲深さ、非暴力、厳格な規定原則に基づく経典の研究は、精神生活にとっていつでも有益です。
節
śrī-nārada uvāca
bhavatānudita-prāyaṁ
yaśo bhagavato ’malam
yenaivāsau na tuṣyeta
manye tad darśanaṁ khilam
bhavatānudita-prāyaṁ
yaśo bhagavato ’malam
yenaivāsau na tuṣyeta
manye tad darśanaṁ khilam
訳語
śrī-nāradaḥ—シュリー・ナーラダ; uvāca—言った; bhavatā—あなたによって; anudita-prāyam—ほとんど讃えられていない; yaśaḥ—栄光; bhagavataḥ—人格神の; amalam—無垢な; yena—それによって; eva—確かに; asau—彼(人格神); na—しない; tuṣyeta—喜ぶ; manye—私は考える; tat—その; darśanam—哲学; khilam—劣っている。
翻訳
シュリー・ナーラダが言った:あなたは、人格神の崇高かつ無垢な栄光を実際に世に広めるということをおろそかにしている。主の超越的な感覚を満足させない哲学に価値はない。
解説
超霊魂としての人格主神と個々の魂の永遠な絆は、永遠な主人と永遠な召使いの関係です。主は、愛情の込もった奉仕を受けるために自らを無数の生命体に拡張させました。ですから、主と生命体を満足させることができるのは両者が交わす愛情だけです。学者ヴィヤーサデーヴァは根源のヴェーダを数多くのヴェーダ経典に編集し、ヴェーダーンタ哲学として完結させたのですが、そのどれをとっても人格神を直接讃えてはいません。絶対者に関する超越的な主題についてむなしい哲学的思索を重ねても、主の栄光を直接語るのでなければ聞く者の心を魅了することはできません。人格神は超越的な悟りにおける究極的な終着点です。姿や形のないブラフマンの悟りと局所的存在のパラマートマーの悟りは、栄光に満ちた主を至高の人物として悟る境地ほどの超越的な至福は与えてくれません。
『ヴェーダーンタ・ダルシャナ』の編集者はヴィヤーサデーヴァ自身ですが、著者でありながら当惑しています。ならば、著者のヴィヤーサデーヴァが直接述べていないヴェーダンタを読者や聴衆者が聞いて、果たして超越的な喜びを感じることができるでしょうか。だからこそ、著者自身による『ヴェーダンタ・スートラ』の説明を、『シュリーマド・バーガヴァタム』という形で説明する必要が生じるのです。
節
yathā dharmādayaś cārthā
muni-varyānukīrtitāḥ
na tathā vāsudevasya
mahimā hy anuvarṇitaḥ
muni-varyānukīrtitāḥ
na tathā vāsudevasya
mahimā hy anuvarṇitaḥ
訳語
yathā—と同じ程度; dharma-ādayaḥ—宗教的振舞いに関する4つの原則; ca—そして; arthāḥ—目的; muni-varya—偉大な聖者、あなた自身; anukīrtitāḥ—繰り返し述べて; na—ではない; tathā—そのように; vāsudevasya—人格神、シュリー・クリシュナの; mahimā—栄光; hi—確かに; anuvarṇitaḥ—そのように絶えず述べて。
翻訳
大聖者よ、あなたは宗教上の活動から始まる4つの原則を、実に広範囲に記述してはいるものの、至高人格者、ヴァースデーヴァの栄光については述べていない。
解説
シュリー・ナーラダは、原因を即座に判断し、言い渡しました。ヴィヤーサデーヴァの落胆の根本原因は、さまざまなプラーナを著してはいるものの、主の栄光について述べることを意図的に避けていた点にあります。確かに、そして当然のことながらヴィヤーサデーヴァは主(シュリー・クリシュナ)の栄光について説明はしていますが、宗教、経済発展、感覚満足、解脱などに対する説明に比べると、充分な量ではありません。この4つの原則は、主への献身奉仕の活動に比べればはるかに劣っています。権威ある学者であるシュリー・ヴィヤーサデーヴァにもこの違いは分かっていたはずです。にもかかわらず主への献身奉仕という、より素晴らしい活動について重点を置くことなく、無駄に貴重な時間を費やしてしまいました。失望の原因はここにあります。このことから、主に献身奉仕をしなければ、心の底から満たされることはないのがわかります。『バガヴァッド・ギーター』でもこの事実について明確に述べられています。
宗教的活動から始まる4つの原則の最後となる解脱に到達した人は、純粋な献身奉仕をするようになります。これが自己の悟り、すなわちブラフマ・ブータと呼ばれる段階です。ブラフマ・ブータの境地に達した人は心が満たされます。しかしその満足は、崇高な至福の始まりにすぎません。この相対的な物質界で、私たちは中立で平等な心をもって前進しなくてはなりません。この安定した境地を通過した後に、主への超越的な愛情奉仕に立脚できるようになります。これが、『バガヴァッド・ギーター』で説かれている人格神の教えです。結論として、ナーラダはブラフマ・ブータの境地を維持し、また超越的な悟りをさらに高めるために、献身奉仕の道について熱意を込めて繰り返し説明すべきであると、ヴィヤーサデーヴァに勧めました。そうすることで、彼は不愉快な落胆から解放されるのです。
節
na yad vacaś citra-padaṁ harer yaśo
jagat-pavitraṁ pragṛṇīta karhicit
tad vāyasaṁ tīrtham uśanti mānasā
na yatra haṁsā niramanty uśik-kṣayāḥ
jagat-pavitraṁ pragṛṇīta karhicit
tad vāyasaṁ tīrtham uśanti mānasā
na yatra haṁsā niramanty uśik-kṣayāḥ
訳語
na—ではない; yat—それ; vacaḥ—用語; citra-padam—装飾的な; hareḥ—主の; yaśaḥ—栄光; jagat—宇宙; pavitram—浄化されて; pragṛṇīta—説明された; karhicit—ほとんどない; tat—それ; vāyasam—カラス; tīrtham—巡礼の場所; uśanti—考える; mānasāḥ—神聖な人物たち; na—ではない; yatra—場所; haṃsāḥ—あらゆる面で完璧な生物たち; niramanti—喜びを感じる; uśik-kṣayāḥ—超越的な住居に住む人々。
翻訳
全宇宙を清める唯一のお方である主を讃えていない言葉は、カラスが群がる巡礼地にすぎない、と神聖な人物たちは考える。全てにおいて完璧な人物たちは崇高な世界に住んでいるため、そのような言葉になんら喜びを見いだすことはない。
解説
カラスと白鳥の心境はそれぞれ異なっており、同類の鳥とは言えません。結果にこだわって働く労働者や激性の人々はカラスに、全てにおいて完璧な人々は白鳥に例えられます。カラスはゴミ捨て場に群がるものですが、それは激情に駆られた果報的活動者が、酒や女性、あるいは下品な感覚を楽しむ場所に喜びを感じるのと同じです。白鳥はカラスたちの会議や集会が行われる場所に喜びを感じません。透き通った水、そして自然な美しさを見せる色とりどりの蓮華の花で優雅に飾られているような、天然の美しい景観が広がる場所に姿を見せる鳥です。同じ鳥でも、白鳥とカラスはこれほどかけ離れているのです。
自然界はさまざまな生物たちに多様な心理を作り出すものであり、そのような生物たちをひとまとめに考えることはできません。
同様に、人々の様々な心理に応じた多種多様な書物があります。ほとんどの場合、カラスもどきの人々を引きつける市販の本は、捨てられたゴミくず同然の感覚を魅了する話題で埋めつくされています。扱われているのは、肉体と希薄な心にまつわるありきたりの話題ばかりで、美辞麗句を駆使して通俗的な比喩や隠喩が盛り込まれています。しかし、どれほど言葉の限りを尽くしても、どこにも主を讃える言葉は見つかりません。そのような詩や散文は、どのような主題を取りあげようとも、死体を飾るだけの文章にすぎません。白鳥に例えられる精神的に高められた人々は、精神的には死んだも同然の人間が喜ぶような書物を読んでも喜びを感じません。激性や無知に包まれたこのような書物は、種々雑多な売り出し文句でちまたに出回っていますが、私たちの精神的な望みに応えてくれることはありませんし、白鳥のような精神的に高貴な人々は、そのような書物には関わりません。そのような気高い人々はマーナサと呼ばれますが、それは彼らが精神的な境地で主に自発的に崇高な奉仕を捧げているからです。この奉仕には、感覚満足や物質的なエゴの心に基づく巧妙な推論が入る余地はありません。
世の文学者、科学者、凡俗詩人、観念的哲学者、政治家など、感覚を喜ばせる物質的な発達に没頭している人々は全て、物質エネルギーに動かされている操り人形にすぎません。無価値な話題の処分場に群がって喜びを感じている人々なのです。それをスヴァーミー・シュリーダラは、売春婦を物色する者たちの喜びであると言っています。
しかし、人類の活動の根本を理解しているパラマハンサは、主の栄光をつづる書物を楽しむのです。
節
tad-vāg-visargo janatāgha-viplavo
yasmin prati-ślokam abaddhavaty api
nāmāny anantasya yaśo ’ṅkitāni yat
śṛṇvanti gāyanti gṛṇanti sādhavaḥ
yasmin prati-ślokam abaddhavaty api
nāmāny anantasya yaśo ’ṅkitāni yat
śṛṇvanti gāyanti gṛṇanti sādhavaḥ
訳語
tat—それ; vāk—語彙; visargaḥ—創造; janatā—一般大衆; agha—罪; viplavaḥ—革命的な; yasmin—その中に; prati-ślokam—それぞれの節; abaddhavati—不規則に構成されている; api—にもかかわらず; nāmāni—超越的な名前など; anantasya—無限の主の; yaśaḥ—栄光; aṅkitāni—描写されている; yat—であるもの; śṛṇvanti—聞く; gāyanti—歌う; gṛṇanti—受け入れる; sādhavaḥ—正直で清らかな心の持ち主。
翻訳
一方、無限なる至高主の超越的な名前の栄光、名声、姿、神聖な遊戯などの描写を満載した文献は別次元の存在であり、多くの崇高な言葉は、この世界における間違った社会状態の不敬な生活に革命をもたらすよう導いている。そのような聖なる文献は、たとえ不完全な部分があるとしても、全く正直な心を持つ無垢な人々によって聞かれ、歌われ、受け入れられる。
解説
偉大な思想家は、最悪なものから最善なものを引き出すという資質を備えています。知的な人物は、毒から甘露を取り出し、不潔な場所からでも金を受け取り、素性の卑しい家族からさえも良妻をめとり、最下等の家族出身の教師や人からでも優れた教えを受け入れるべきである、と言われています。これは、どこの誰にでも例外なく当てはまる道徳律です。しかし、聖者は一般人の基準をはるかに超えた境地にいます。彼はいつも至高主を讃えることに没頭していますが、それは、至高主の名前や名声を広めることで汚れた世相が清められ、『シュリーマド・バーガヴァタム』のような超越的な文献を世に届けることで人々が健全に生きるようになるからです。ちょうどこの節の解説を書いている時、インドは重大な問題に直面しました。隣国で友好国の中国がインド国境を攻撃したのです。私たちは政治に関わることはありませんが、昔から中国とインドは、敵対することなく何世紀も友好関係を保っていました。それは、両国がそのような関係にあったときには世界中が神の意識に包まれていたからであり、どの国でも、神を恐れ、無垢な心を持ち、質素な生活が営まれていたため、政治的策略を巡らす必要はなかったからです。居住に適さない地区を巡って中国とインドが戦争を起こすどころか、争う必要もないのです。しかし、今まで述べて来たように、カリという争いの時代の影響で、ささいな刺激でいつでも争いが誘発される可能性が潜んでいます。これは、今回の問題が直接の原因ではなく、現代の汚れた世相が原因です。至高主の名前と名声を讃えることをやめさせようとする、一定の人たちの宣伝活動が常に存在しているのです。だからこそ、『シュリーマド・バーガヴァタム』のメッセージを全世界に流布させる必要性があるのです。インドで責任ある立場にある人々は皆、待ち望まれている平和を全世界にもたらし、極上の福利を世界に提供するために『シュリーマド・バーガヴァタム』の崇高なメッセージを広める義務があります。インドは、この責任ある仕事をおろそかにし、義務を遂行していないために、全世界に多くの争いと問題が蔓延しています。『シュリーマド・バーガヴァタム』の崇高な教えが世界の指導者たちに受け入れられさえすれば、間違いなく彼らの心は変化し、民衆も自然にそのような指導者に従うようになるということを私たちは確信しています。大衆は、現代政治家や民間指導者の掌中にいる道具とも言えます。その指導者たちの心に変化が起これば、世界の雰囲気に劇的な変化が生じるはずです。また、人々の神の意識をよみがえらせ、世界の空気を再び精神的に変えるこの超越的な言葉を世に広める誠実な試みに、幾多の困難が伴っていることを私たちは承知しています。適切な言語を使って、特に外国語でこの哲学を世に知らしめようとする私たちの試みは確実に失敗するでしょうし、正しく表現しようと誠実に試みたとしても、文法的な矛盾も多々あることでしょう。たとえその試みに欠陥があろうとも、私が伝えんとする事の重大さが考慮され、社会の指導者たちが、全能の神を讃える誠実なこの試みを認めてくれると確信しています。自分の家が火事になった人は、外に飛び出して近所の人たちに助けを求めますが、その隣人が外国人だったとしても、そしてたとえ通じない言葉で説明したとしても、相手は切迫した状況を理解してくれることでしょう。『シュリーマド・バーガヴァタム』の崇高なメッセージを汚れたこの世界に広めることにも、同じ協調精神が必要です。結局、この主題は精神的価値に関わる専門的科学ですから、大切なことは言語ではなく手段です。この偉大な書物が説く手段が世界の人々に理解されれば、成功を収めることができます。
全世界の大衆が物質的な物事に没頭し過ぎるとき、ささいなことで個人が別の個人を、国家が別の国家を攻撃するのは当然です。それが、カリという争いの時代の法則なのですから。世界がすでに名状しがたい堕落の極みに達しているのは周知の事実です。感覚を満たす物質的な考えを詰め込んだ不要な本が世にあふれ、多くの国ではわいせつな本を検閲する国営の組織があります。これは、政府や公共の指導者たちがこのような本を望んでいないのに、国民が感覚満足を求めているために市場に出まわっていることを如実に示しているということです。大衆は何かを読みたいと望むのですが(それは自然な欲求ですが)、心が汚れているためにそのような本を求めています。そのような状況で『シュリーマド・バーガヴァタム』のような超越的文献は、大衆の汚れた心の活動を減少させるだけではなく、おもしろい本を読もうとする彼らの欲求を満たす食べ物になってくれます。読み始めは楽しめないかもしれません。黄疸に苦しむ患者が氷砂糖を食べたがらない状態と同じですが、それでも氷砂糖だけが黄疸の治療薬だということも忘れてはなりません。同じように『バガヴァッド・ギーター』と『シュリーマド・バーガヴァタム』の読書を組織的に普及させれば、それが感覚満足という黄疸症状を治療する氷砂糖の役目を担ってくれるはずです。この文献に対する味覚を高めれば、社会を毒するだけのほかの書物もおのずと姿を消していくことでしょう。
ですから、この解説に多くの誤りがあったとしても『シュリーマド・バーガヴァタム』は、社会の全ての人々に受け入れられるだろうと、確信しています。なぜなら、この章に心優しくも登場してくださったシュリー・ナーラダによって勧められている書物だからです。
節
naiṣkarmyam apy acyuta-bhāva-varjitaṁ
na śobhate jñānam alaṁ nirañjanam
kutaḥ punaḥ śaśvad abhadram īśvare
na cārpitaṁ karma yad apy akāraṇam
na śobhate jñānam alaṁ nirañjanam
kutaḥ punaḥ śaśvad abhadram īśvare
na cārpitaṁ karma yad apy akāraṇam
訳語
naiṣkarmyam—自己の悟り、果報的活動の反動に解放されて; api—にもかかわらず; acyuta—完全無欠な主; bhāva—概念; varjitam—~がない; na—しない; śobhate—良く見える; jñānam—超越的な知識; alam—やがて; nirañjanam—肩書きにとらわれない; kutaḥ—そこに; punaḥ—再び; śaśvat—いつも; abhadram—適さない; īśvare—主に; na—ではない; ca—そして; arpitam—捧げた; karma—果報的活動; yat api—であるもの; akāraṇam—結果を生じない。
翻訳
自己を悟るための知識は、物質的な物事とは無縁ではあっても、完全無欠な人【神】について述べていなければ、さほど素晴らしい教えには見えない。ならば、最初から苦痛で空しい果報的活動が主への献身奉仕に向けられていなければ、その価値のなさは言うに及ばない。
解説
この節で言及されているように、主の超越的な栄光を述べていない通俗な本はもちろん、献身奉仕に関係のないヴェーダ経典や非人格的ブラフマンに対する推論も非難されています。非人格的ブラフマンに関する推論がこの理由で非難されるのですから、献身奉仕の目的から外れたありきたりの果報的活動は非難されて当然です。そのような推論的知識や果報的活動が、人生の完成という目標に導いてくれることはありません。あらゆる人々が行っている果報的活動は、苦しみに始まり、苦しみに終わります。果報的活動は献身奉仕に役立ってこそ、実りあるものになります。『バガヴァッド・ギーター』でも、活動の結果は主への奉仕に捧げるべきであり、さもなければ行為者を物質的に縛りつけるだけであると言われています。活動の結果を受け取る正当な人物は人格神であり、生命体がそれを感覚満足のために利用するならば、それは、耐えがたい困難の原因になります。
節
atho mahā-bhāga bhavān amogha-dṛk
śuci-śravāḥ satya-rato dhṛta-vrataḥ
urukramasyākhila-bandha-muktaye
samādhinānusmara tad-viceṣṭitam
śuci-śravāḥ satya-rato dhṛta-vrataḥ
urukramasyākhila-bandha-muktaye
samādhinānusmara tad-viceṣṭitam
訳語
atho—ゆえに; mahā-bhāga—非常に幸運な; bhavān—あなた自身; amogha-dṛk—完璧に見ることのできる者; śuci—無垢な; śravāḥ—名高い; satya-rataḥ—誠実の誓いをたてている; dhṛta-vrataḥ—精神的な質に立脚して; urukramasya—超自然的な行いをする者(神)の; akhila—普遍的な; bandha—束縛; muktaye—~からの解放のために; samādhinā—法悦境で; anusmara—熟考し、それらを説明する; tat-viceṣṭitam—主のさまざまな遊戯。
翻訳
ヴィヤーサデーヴァよ。あなたは完璧な洞察力を持ち、非のうちどころのない名声をそなえている。揺るぎない誓いを立てた真実の人だ。そういうあなただからこそ、大衆があらゆる物質的な束縛から救われるよう、恍惚の境地で主の崇高な遊戯を黙想することができる。
解説
誰でも本能的に読書を楽しみたいという気持ちを持っています。信頼できる情報源から未知の世界について聞いたり読んだりしたいと思っていても、そういった傾向は物質的な感覚を満たす情報だらけの嘆かわしい書物によって悪用されています。そのような書物に書かれているのは通俗な詩や哲学的思索などで、程度の差こそあれマーヤーに惑わされており、感覚満足にすぎません。その正体は、知性に欠ける人たちが興味を抱くような美辞麗句で飾られている無用の長物です。このような書物に魅了された人々は、幾世代もの誕生を繰り返しつつ、解脱の望みもなく物質的な束縛にますます絡まっていきます。シュリー・ナーラダ・リシは最高のヴァイシュナヴァとして、そのような無価値な書物の犠牲になった不運な人々を哀れみ、魅力的であると同時に束縛からの解放をもたらす崇高な文献を作るようシュリー・ヴィヤーサデーヴァに助言しました。シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァや彼の代表者は、物事を正しい視点で捉える訓練を受けているので、充分な資質を備えています。精神的に完成しているために純粋な思考力を備え、また献身奉仕に支えられた堅い誓いを持ち、物質界で朽ち果て堕落した魂を救うことを強く決心している人物たちなのです。堕落した魂たちは、毎日新しい情報を手に入れるのに熱心ですが、ヴィヤーサデーヴァやナーラダのような聖者たちは、そのような熱意ある人たちに、精神界から無限の知らせを届けることができます。『バガヴァッド・ギーター』によれば、物質界は全創造界のほんの一部を占めているだけで、地球はその物質界全体の小さなひとかけらにすぎません。
世界には無数の文学者がおり、大衆の楽しみのために、何千年もの間、数え切れないほどの文学書を作り出してきました。あいにく、そのどれひとつをとっても地上に平和と平安をもたらしたものはありません。その中に精神的な情報が欠けているからです。そのため、人間の活力源を食い物にする物質文化の苦しみからの解脱をもたらす文献として、ヴェーダ経典、特に『バガヴァッド・ギーター』と『シュリーマド・バーガヴァタム』が苦しむ人類に勧められています。『バガヴァッド・ギーター』は、ヴィヤーサデーヴァが記録した主自身の教えであり、そして『シュリーマド・バーガヴァタム』は、主クリシュナの活動に関する超越的な描写であり、これらの書物だけでも永遠な平和と苦しみからの解放という人類の悲願をかなえてくれます。ですから『シュリーマド・バーガヴァタム』は、全宇宙の全生命体が、全ての物質的な束縛から完全に解放されるために用意されています。主の崇高な遊戯をめぐるその超越的な記述を描写することができるのは、主への気高い愛情奉仕に没頭しているヴィヤーサデーヴァや、彼の代表者のような解脱した魂だけです。その献身奉仕の力ゆえに、献身者には主の遊戯とその崇高な質がおのずから示されます。献身者でなければ、誰であろうと何年推論し続けても、主の行動は理解も説明もできません。バーガヴァタムの説明は正確無比であり、この偉大な書物で5000年前に予言されたことが、今その言葉どおりになっています。つまり、この著者の視野には過去、現在、未来が含まれているということです。ヴィヤーサデーヴァのような解脱した魂が完璧であるのは、視野と知恵の力だけではなく、聴いて理解する力、思考力、感性、他の感覚活動の力によるものです。解脱を達成した人物には完璧な感覚が備わり、そのような感覚によってのみ、感覚の所有者フリシーケーシャ、すなわち人格神シュリー・クリシュナに仕えることができます。だからこそ『シュリーマド・バーガヴァタム』は、ヴェーダの編集者であるシュリーラ・ヴィヤーサデーヴァという完璧な人物が著した完全無欠の人格神に関する完璧な描写なのです。
節
tato ’nyathā kiñcana yad vivakṣataḥ
pṛthag dṛśas tat-kṛta-rūpa-nāmabhiḥ
na karhicit kvāpi ca duḥsthitā matir
labheta vātāhata-naur ivāspadam
pṛthag dṛśas tat-kṛta-rūpa-nāmabhiḥ
na karhicit kvāpi ca duḥsthitā matir
labheta vātāhata-naur ivāspadam
訳語
tataḥ—それから; anyathā—離れて; kiñcana—何か; yat—何でも; vivakṣataḥ—説明したいと思う; pṛthak—別々に; dṛśaḥ—視野; tat-kṛta—それに対する反動; rūpa—姿; nāmabhiḥ—名前によって; na karhicit—決してない; kvāpi—どの; ca—そして; duḥsthitā matiḥ—揺れ動く心; labheta—利益; vāta-āhata—風で乱される; nauḥ—舟; iva—のように; āspadam—場所。
翻訳
主とは異なる姿、名前や結果など、主と関係のないことを描写しようとすれば、風があてもなく波間を漂う舟を激しく揺らすように、心をかき乱すだけである。
解説
シュリー・ヴィヤーサデーヴァはヴェーダ経典に関する全ての解説書を著した人物であり、果報的活動、推測による知識、神秘的な力、献身奉仕など、さまざまな論法で超越的な悟りについて説明してきました。さらに、数々のプラーナを通してさまざまな姿や名前を持つ神々の崇拝を勧めています。しかしその結果、大衆は心をどのように主の奉仕に定めたらいいのか分からなくなっています。自己を悟る真の道が見つけられずに、いつも当惑しているのです。シュリーラ・ナーラダデーヴァは、ヴィヤーサデーヴァがまとめたヴェーダ経典のこの欠陥を指摘することで、全てを至高主だけに結びつけ、それ以外の誰にも結びつけることなく説明しなくてはならない、と強調しています。事実、主以外に存在するものはありません。主はさまざまな拡張体として自らを表しています。主は、いわば1本の木の根、そして体全体の胃とも言えます。木に水をあげるとき、水は根に注ぐものであり、同じように食べ物を胃に入れることで体全体に力を行き渡らせることができます。ですから、シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは『バーガヴァタ・プラーナ』以外にほかのプラーナを作る必要はありませんでした。そこから少しでも外れれば、自己を悟る道に大きな混乱が生じるかもしれないからです。少しの逸脱から大きな混乱が生じるのですから、絶対真理、人格神からかけ離れた見解を意図的に広めることへの結果は容易に想像できます。神々への崇拝の最大の欠陥は多神論を定着させることです。その結果、バーガヴァタムの教えを阻害する多くの宗派が作られます。ですがバーガヴァタムだけが私たちを確実に自己の悟りへと導き、超越的な愛情奉仕によって至高人格神との永遠の関係を築くことができます。吹き荒れる風に舟が翻弄されるという例は、この点を的確に表現しています。多神教者の逸脱した心は、自己の悟りの完成境地には絶対に辿りつくことができません。間違ったものを選んでしまったために、心が乱されているからです。
節
jugupsitaṁ dharma-kṛte ’nuśāsataḥ
svabhāva-raktasya mahān vyatikramaḥ
yad-vākyato dharma itītaraḥ sthito
na manyate tasya nivāraṇaṁ janaḥ
svabhāva-raktasya mahān vyatikramaḥ
yad-vākyato dharma itītaraḥ sthito
na manyate tasya nivāraṇaṁ janaḥ
訳語
jugupsitam—きつく非難されている; dharma-kṛte—宗教に関わることとして; anuśāsataḥ—教え; svabhāva-raktasya—自然にそう考えている; mahān—偉大な; vyatikramaḥ—不合理な; yat-vākyataḥ—誰の教えのもとに; dharmaḥ—宗教; iti—そのためそれは; itaraḥ—一般大衆; sthitaḥ—固定して; na—しない; manyate—考える; tasya—それの; nivāraṇam—禁止; janaḥ—彼らは。
翻訳
一般の人々は生まれつき楽しむ傾向にあり、あなたはその傾向を宗教の名のもとで助長させてしまった。これはとがめられてしかるべきことであり、無分別極まりない。彼らはあなたの教えに導かれ、そのような活動を宗教の名のもとに行うようになり、禁止要項を気にかけることもなくなるでしょう。
解説
『マハーバーラタ』や他の文献で述べられている果報的活動の実践をもとにシュリーラ・ヴィヤーサデーヴァがまとめたさまざまなヴェーダ経典が、ここでシュリーラ・ナーラダによって非難されています。人類は幾生涯を経て長く物質と関わってきたため、物質エネルギーをコントロールしようとする傾向にあります。人として果たすべき責任を感じることもありません。人間生活は、物質という幻想の束縛から逃れるチャンスなのです。ヴェーダは私たちが神の元へ、ふるさとへ帰るために用意されています。840万種類の生物の中を果てしなく転生することは、悲運な束縛された魂にとって投獄生活そのものです。人間生活はその投獄生活から抜け出す好機であり、それゆえ、人類の唯一の務めは神との失った絆をよみがえらせることにあります。そのような状態にあるのですから、宗教活動の名目で感覚を喜ばせるための計画は奨励されるべきではありません。人のエネルギーの誤用は、間違って導かれた文化へとつながります。シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは『マハーバーラタ』などのヴェーダに基づく解説の権威者ですから、どういう形にせよ、感覚の楽しみを助長させたことは、精神生活を高める際の大きな障害を作り出していることになります。なぜなら人々は、自分たちを縛りつけている物質的な活動を捨てようと思わなくなるからです。人類文明のある時期、宗教の名を使って物質的な活動(ヤジュニャの名目で行われる動物のいけにえの儀式など)があまりにも横行したために、主はブッダとして降誕し、宗教の名目による屠殺とさつの儀式を止めるためにヴェーダの権威を否定しました。ナーラダはこれを予見できたからこそ、人々を誤って導く文献を非難したのです。肉食をする人間は、宗教の名のもとに神々や女神の前で今でも動物をいけにえにしていますが、その理由は、ヴェーダ経典の一部ではそのような規制された儀式が勧められているからです。肉食をしないよう勧められてはいるものの、やがてそのような宗教活動の主眼は忘れ去られ、食肉処理場が多く見受けられるようになりました。これは、愚かで物質的な人々が、ヴェーダ儀式について説明できる人々の話を聞かないことが原因です。
ヴェーダでは、あくせく働いても、財産をためても、人口を増やしても、人生の完成は達成できないと明言されています。唯一の方法は放棄心です。物中心の人は、そのような教えを聞く気はありません。放棄生活は身体的な理由で生活費を稼ぐことのできない人間か、あるいは家族生活の繁栄を実現できなかった者たちのためにあると考えています。
もちろん、『マハーバーラタ』などの史実には、物質的な話題と共に超越的な話題も書かれています。『マハーバーラタ』の中に『バガヴァッド・ギーター』が含まれています。『マハーバーラタ』の言わんとするところは、「他の一切の仕事を放棄し、主シュリー・クリシュナの蓮華の御足に全身全霊を込めて仕えるべきである」という『バガヴァッド・ギーター』の究極の教えに尽きます。しかし、物質中心に考える人々は、『マハーバーラタ』が扱っている政治、経済、慈善活動などに魅了され、最も大切な話題である『バガヴァッド・ギーター』には興味を示しません。大衆に迎合するヴィヤーサデーヴァの姿勢は、ナーラダによって直接非難されました。ナーラダは人間生活の最重要課題は、自分と主との永遠な絆を悟り、一刻も早く主に身を委ねることにあると、率直に宣言すべきだと助言したのです。
ある病気で苦しんでいる患者は、大概自分に禁じられている食べ物を口にしたがるものです。熟練した医師は患者に譲歩せず、食べるべきでない食べ物は禁じます。『バガヴァッド・ギーター』でも、果報的活動に執着している人に対して、そのような仕事をやめるように勧めるべきではないと述べられています。自己を悟る境地に徐々に高められていくかもしれないからです。これは、精神的な悟りを持たずに無味乾燥な経験哲学だけにとらわれている人々に当てはまることがあります。しかし、献身奉仕に励んでいる人々にとっては、そのような助言がいつも適しているというわけではありません。
節
vicakṣaṇo ’syārhati vedituṁ vibhor
ananta-pārasya nivṛttitaḥ sukham
pravartamānasya guṇair anātmanas
tato bhavān darśaya ceṣṭitaṁ vibhoḥ
ananta-pārasya nivṛttitaḥ sukham
pravartamānasya guṇair anātmanas
tato bhavān darśaya ceṣṭitaṁ vibhoḥ
訳語
vicakṣaṇaḥ—非常に熟達した; asya—彼の; arhati—ふさわしい; veditum—理解するために; vibhoḥ—主の; ananta-pārasya—無限なお方の; nivṛttitaḥ—を放棄して; sukham—物質的な幸福; pravartamānasya—執着している人々; guṇaiḥ—物質的な質によって; anātmanaḥ—精神的な価値の知識を持たずに; tataḥ—ゆえに; bhavān—あなた; darśaya—道を示しなさい; ceṣṭitam—活動; vibhoḥ—主の。
翻訳
至高主は無限のお方である。熟達し、物質的に幸福になるための活動を放棄した人物だけが、精神的な価値を持つこの知識を理解するにふさわしい。ゆえにあなたは、物質的な執着ゆえに好ましくない境遇にある人々に至高主の崇高な活動について説明し、超越的な悟りの道を示さなくてはならない。
解説
神学は難しく、とりわけ神の超越的な質に関する主題は難解を極めます。物質的なことに没頭している人に理解できるものではありません。円熟した知性を持ち、精神的な知識を高めて物質的な行動をほぼ放棄した人だけが、この偉大な科学の勉学を許されます。『バガヴァッド・ギーター』では、無数の人々の中でひとりだけが超越的な悟りの境地に入る資格を得る、と言われています。さらに、そのような無数の人々の中でも、特に神が個性を持つとする神学を理解できるのは一握りの人々に限られます。ゆえにシュリー・ヴィヤーサデーヴァは、主の超越的な活動を率直に語って神の科学を説明するようナーラダから助言されました。ヴィヤーサデーヴァはこの科学に精通した人物であり、物質的な楽しみに執着していません。ですから、彼こそがそれを説明するにふさわしい人物であり、その息子、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーも、その教えを受け取るにふさわしい人物です。
『シュリーマド・バーガヴァタム』は神学の頂点にある書物ですから、一般の人々には治療薬として効き目を現します。主の崇高な活動について述べられているため、主とこの書物はまったく同じです。まさに文学書としての主の化身なのです。ですから、一般の人々でも主の崇高な活動の説明を聞くことができます。その結果、彼らは主と結ばれ、やがて物質的な病を治して清められていきます。また、熟達した献身者は時代や環境に即した新しい方法を見つけて、神に仕えない人々の心を変えることができます。献身奉仕は躍動的な活動であり、熟練した献身者は、その教えを物質主義的な人々の緩慢な頭脳に注ぐ効果的な方法を見つけ出すことができます。主への奉仕として献身者が行うそのような活動は、物質中心の愚かな社会に新しい秩序をもたらすことができます。主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブや主の足跡をたどる従者たちは、この方面で巧みに活動されました。同じ方法に従うことで、私たちは闘争の現代に住む物質主義的な人々を、平和な生活と超越的な悟りの境地に導くことができます。
節
tyaktvā sva-dharmaṁ caraṇāmbujaṁ harer
bhajann apakvo ’tha patet tato yadi
yatra kva vābhadram abhūd amuṣya kiṁ
ko vārtha āpto ’bhajatāṁ sva-dharmataḥ
bhajann apakvo ’tha patet tato yadi
yatra kva vābhadram abhūd amuṣya kiṁ
ko vārtha āpto ’bhajatāṁ sva-dharmataḥ
訳語
tyaktvā—捨て去って; sva-dharmam—自分に定められた職務; caraṇa-ambujam—蓮華の御足; hareḥ—ハリ(主)の; bhajan—献身奉仕をしているときに; apakvaḥ—未熟な; atha—~の問題のために; patet—転落する; tataḥ—その位置から; yadi—もし; yatra—そうすると; kva—どのような種類の; vā—あるいは(皮肉的に); abhadram—不都合な; abhūt—起こるだろう; amuṣya—彼の; kim—何もない; kaḥ vā arthaḥ—どのような興味; āptaḥ—得られる; abhajatām—非献身者の; sva-dharmataḥ—職務上の奉仕をして。
翻訳
主への献身奉仕をするために物質的な職務を捨てた人物は、未熟な段階で道から外れる可能性はあっても、成功しない危険性はない。一方、献身者でない者は、たとえ自分に定められた義務を完遂しても、得るものは何もない。
解説
私たち人間には無数の義務があります。両親、家族、社会、国、他の生命体、神々などに留まらず、偉大な哲学者、詩人、科学者たちにも恩があります。経典は、そのような義務を一切放棄して主に奉仕をすることができる、と教えています。ですから、その言葉に従って主への献身奉仕を見事に成し遂げるのであれば、それは素晴らしいことです。しかし時として、一時的な衝動に駆られて主の奉仕に励んでも、やがて何らかの理由で、望ましくない付き合いのためにその道から離れることがあります。歴史にはそのような例が数多く残されています。バラタ・マハーラージャは、鹿に執着していたために鹿として生まれ変わらなくてはなりませんでした。死ぬ間際に鹿のことを考えたからです。そのために、前世で起こったことを忘れはしなかったものの、来世では鹿に生まれ変わってしまいました。またチトラケートゥも、シヴァの蓮華の御足を侮辱したために、精神的な道から転落しています。しかし、このような出来事が起こり、転落する可能性があるにもかかわらず、この節では主の蓮華の御足に身を委ねることが強調されています。なぜなら、たとえ献身奉仕に定められている義務をまっとうできなかったとしても、その人が主の蓮華の御足を忘れることは決してないからです。ひとたび主に献身奉仕をした人は、どのような状況に置かれてもその奉仕を続けます。『バガヴァッド・ギーター』でも、ささやかな献身奉仕をするだけで、最も危険な状態に転落する危険から救われる、と言われています。歴史には、そのような事例が数多く残されています。アジャーミラもそのひとりです。若いころは献身者だったのですが、成長した後その道から外れました。それでも、最後には主に救われたのでした。
節
tasyaiva hetoḥ prayateta kovido
na labhyate yad bhramatām upary adhaḥ
tal labhyate duḥkhavad anyataḥ sukhaṁ
kālena sarvatra gabhīra-raṁhasā
na labhyate yad bhramatām upary adhaḥ
tal labhyate duḥkhavad anyataḥ sukhaṁ
kālena sarvatra gabhīra-raṁhasā
訳語
tasya—その目的のために; eva—だけ; hetoḥ—理由; prayateta—努力すべきである; kovidaḥ—哲学的思考を好む者; na labhyate—得られない; yat—であるもの; bhramatām—さまよう; upari adhaḥ—頂点から底辺まで; tat—それ; labhyate—得られる; duḥkhavat—苦悩があるように; anyataḥ—以前の活動の結果として; sukham—感覚の楽しみ; kālena—時がたつにつれて; sarvatra—どこでも; gabhīra—希薄な; raṃhasā—進展。
翻訳
真に聡明で哲学的思考を好む人々は、頂点の惑星[ブラフマローカ]から最底辺の惑星[パーターラ]を巡っても得られないその意義深い究極目的のために努力すべきである。感覚を楽しんで得られる幸福感は、時の流れと共に望んでもいないにもかかわらず苦しみを味わうように、時の流れと共におのずと得られるものである。
解説
どこでも誰でも、人々は最大限の感覚満足を得ようとさまざまな努力をしています。商売、産業、経済発展、政治勢力などに奔走したり、来世で高い惑星に行って幸福になろうと果報的活動に励む人もいます。月では、住民たちがソーマ・ラサを飲んで高い感覚の喜びを味わうことができ、またピトリローカには慈善事業をすることで到達できる、と言われています。このように、現世や死後に感覚の楽しみを得るための多種多様な手段が用意されています。技術を駆使して月やその他の惑星に到達しようとする人たちがいますが、それは彼らが善行を積まずに、そのような惑星へ行きたいと切望しているからです。しかしそれは実現しません。至高主の法則によって、これらの場所は、さまざまな段階の生命体が行った活動に応じて用意されています。経典が定めているように、善行だけが良い家庭、富、高い教育、美貌や優れた体を授けてくれます。前世に限らず、今生きている間でも、善行のおかげで教育やお金に恵まれることがあります。同じように来世でも、正しい行いだけで素晴らしい地位を得ることができます。このような条件があるからこそ、同じ場所、同じ時間に生まれたふたりが過去の活動に応じた異なる状態に置かれているのです。しかし、その物質的な状態はいつまでも続くわけではありません。頂点のブラフマローカでの立場も、最低位のパーターラでの立場も、自分自身の活動次第で、変わる可能性があるのです。哲学的思考を好む人は、そのような不安定な状態に誘惑されてはなりません。人は至福と知性のある永遠の人生を手に入れ、それがどんな惑星であったとしても、苦しみにあふれたこの物質世界に再び戻って来ないよう努力するべきです。苦しみ、そして苦しみが混ざった幸福は物質生活にあるふたつの境遇であり、ブラフマローカでも他のローカ(惑星)でも起こることです。神々の、そして犬や豚の生活でも同じことです。苦しみと幸福が混在した状況は、ただその程度や中身が違うだけで、結局は誰も生老病死の苦しみから逃れることはできません。また、誰でも定められた幸福に出会います。すでに決められた幸不幸を個人の努力で増減させることはできません。つかんでも、やがてその手から離れていきます。ですから、このようなはかないことのために時間を無駄にしてはなりません。神の元に帰るために切磋琢磨する、それが私たち生命体の使命なのです。
節
na vai jano jātu kathañcanāvrajen
mukunda-sevy anyavad aṅga saṁsṛtim
smaran mukundāṅghry-upagūhanaṁ punar
vihātum icchen na rasa-graho janaḥ
mukunda-sevy anyavad aṅga saṁsṛtim
smaran mukundāṅghry-upagūhanaṁ punar
vihātum icchen na rasa-graho janaḥ
訳語
na—決して~ない; vai—確かに; janaḥ—人物; jātu—どんなときでも; kathañcana—いつのまにか; āvrajet—経験しない; mukunda-sevī—主の献身者; anyavat—その他の人々のように; aṅga—親愛なる者よ; saṃsṛtim—物質存在; smaran—思い出している; mukunda-aṅghri—主の蓮華の御足; upagūhanam—抱きしめている; punaḥ—再び; vihātum—捨てることを望んでいる; icchet—望み; na—決して~ない; rasa-grahaḥ—その甘露を味わった者; janaḥ—人物。
翻訳
ヴィヤーサよ。主クリシュナの献身者が何かの理由で逸脱してしまうことはあるが、他の者たち[果報的活動者など]のような物質的な状態に陥ることはない。一度でも主の蓮華の御足の甘露を味わった人物は、必ずその法悦を何度も思い出すからである。
解説
主の献身者は、主クリシュナの蓮華の御足の甘露を味わった人物、すなわちラサ・グラハですから、おのずと物質存在に魅了されなくなります。果報的活動者にいつも堕落する傾向があるように、主の献身者が不適切な付き合いをしてしまったために奉仕の道から逸脱した例は数多く残されています。しかし、たとえそうだとしても、献身者と堕落したカルミーは絶対に同じではありません。カルミーは自分の活動の結果で苦しみますが、献身者は主からの直接の懲罰によって矯正させられます。身寄りのない子の苦しみと、王に愛されている子どもの苦しみは同じではありません。孤児は、自分を世話してくれる人がいないため本当に哀れですが、富豪の愛息は、孤児と同じ状態に見えても、いつでも有能な父親に見守られています。主の献身者は、悪い付き合いに染まって果報的活動者をまねることがあります。果報的活動者は物質界を支配したいと考えています。同じように初心の献身者は愚かなことに、献身奉仕と引き換えに物質的な力を蓄えたいと思うことがあります。そのような愚かな献身者は、主自身の意図によって災難に巻き込まれることがあります。特別なご好意により、主は献身者から財産を取り去るかもしれません。道を逸れ当惑した献身者は、友人や親戚からも見放されますが、やがて主の慈悲によって正気に戻り、再び献身奉仕の道を歩き始めます。
『バガヴァッド・ギーター』も、逸脱した献身者は、高貴な質をもつブラーフマナの家族や裕福な商家に生まれる機会が与えられる、と述べています。しかしそのような献身者でも、主に罰せられて希望を失っている献身者と比べれば幸運とは言えません。主の意志によって絶望的な状況に追いこまれた献身者は、立派な家庭に生まれた者たちよりも幸運です。良家に生まれた献身者は、実はそれほど幸運ではないため主の蓮華の御足を忘れるかもしれませんが、孤立無援に追い込まれた献身者は、誰も自分を助けてくれないことを知り、主の蓮華の御足にすぐさま戻ってくるからです。
純粋な献身奉仕には高い精神的な味わいがあり、献身者はおのずと物質的な快楽に無頓着になっていきます。その境地が、常なる献身奉仕において完成の域に達した証です。純粋な献身者は主シュリー・クリシュナの蓮華の御足を思い続け、ほんの一瞬たりとも、たとえ三界の全ての富を約束されたとしても、主を忘れることはありません。
節
idaṁ hi viśvaṁ bhagavān ivetaro
yato jagat-sthāna-nirodha-sambhavāḥ
tad dhi svayaṁ veda bhavāṁs tathāpi te
prādeśa-mātraṁ bhavataḥ pradarśitam
yato jagat-sthāna-nirodha-sambhavāḥ
tad dhi svayaṁ veda bhavāṁs tathāpi te
prādeśa-mātraṁ bhavataḥ pradarśitam
訳語
idam—この; hi—全て; viśvam—宇宙; bhagavān—至高主; iva—ほとんど同じ; itaraḥ—〜と違って; yataḥ—その人物から; jagat—世界; sthāna—存在する; nirodha—消滅; sambhavāḥ—創造; tat hi—~に関する全て; svayam—個人的に; veda—知っている; bhavān—あなた自身; tathā api—それでも; te—あなたに; prādeśa-mātram—概説のみ; bhavataḥ—あなたに; pradarśitam—説明した。
翻訳
至高人格神自らがこの宇宙そのものであり、なおかつその宇宙から離れた境地におられる。この宇宙現象界は、主だけから放出され、主の内に留まり、消滅後に再び主の内に入っていく。あなたはそのことをよく承知しているはずである。私は大意を述べているにすぎない。
解説
純粋な献身者にとって、ムクンダ(主シュリー・クリシュナ)の概念は、人物と非人物の両方を備えています。姿や形のない宇宙の状態はムクンダのエネルギーの表れですから、ムクンダです。例えば、木はそれだけで完全体ですが、葉や枝はその木から発生した部分体です。葉や枝を「木」と呼ぶことはできますが、木そのものは葉や枝とは違います。ヴェーダの見解である「全宇宙はブラフマンにほかならない」という表現は、「全ては至高のブラフマンから発生したものであるから、主から離れた存在はない」という意味です。同じように、部分体である手や足を「体」と呼ぶことはできますが、ひとつの完全体としての体は手でも足でもありません。主は、永遠性、認識力、そして美しさを象徴する超越的な姿を備えています。ですから、主のエネルギーによって創造された世界は、部分的に永遠で、知識にあふれ、美しさを備えています。そのために、外的エネルギー、マーヤーの力に魅惑され、束縛された魂たちは、物質自然が仕掛ける網に捕らえられるのです。そして万物の究極の原因である主について何も知らないため、マーヤーが全てだと思い込んでいます。さらに、体の一部分が体そのものから離れれば、もはや体につながっていたときの手や足とは違った存在になってしまう、ということも知りません。同じように、至高人格神への崇高な愛情奉仕から離れている不敬な文化は、切り離された手や足も同然です。手や足に見えても、実際は機能していません。主の献身者であるシュリーラ・ヴィヤーサデーヴァはこの状態をよく知っています。シュリーラ・ナーラダは、束縛された魂たちがシュリーラ・ヴィヤーサデーヴァから教えを授かることで至高主を究極の原因として理解できるよう、その点をさらに深めるように助言しました。
ヴェーダの見解では、主は本来完璧な力を備えているため、主の至高のエネルギーも常に完璧であり、主と全く同じです。精神と物質両世界、そして双方にある一切万物は、主の内的エネルギーと外的エネルギーの表れです。ふたつのエネルギーを比較すると、外的エネルギーは劣り、内的エネルギーは優れています。優位のエネルギーとは生命力のことであり、ゆえに主と完全に同じですが、外的エネルギーには生命力がないため、部分的に同じと言えます。しかしどちらのエネルギーも、主に比べれば等しくも優れてもいません。主は全てのエネルギーを作り出したお方だからです。どちらのエネルギーも常に主の支配下にあり、それはちょうど電気のエネルギーがどれほど強くても常に電気技師によって管理されている状態に似ています。
人類を含めた一切の生物は、人格神の内的エネルギーによって作られました。つまり生命体も主と同一であると言えます。しかし主に等しい、あるいは主よりも優れているということでは決してありません。主も生命体も個々の人物として存在しています。生命体も物質のエネルギーを利用して何かを作り出していますが、そのどれひとつをとっても、主の創造に比べて等しいものや優れたものはありません。人間は小さな玩具のような人工衛星を作って大気圏外に打ち上げることができるかもしれませんが、だからと言って主のように地球や月のような星を作って宇宙空間に浮遊させられるということではありません。知識に欠ける人間ほど、自分は神と同じだと公言するものです。主と対等になれるわけがありません。絶対にありえないことです。人間は、完璧な境地に到達したときに主の質の多くを(78パーセントまで)高めることができますが、主をしのぐ、あるいは主と同等の境地に高められたりすることはありません。病に侵されている愚か者だけが、主と一体になると吹聴し、その結果、幻想エネルギーに翻弄されます。ですから、惑わされた生命体は主の至高性を受け入れ、主に愛情奉仕をすることに同意しなくてはなりません。そのために私たち生命体は創造されたのです。このことが実現されなければ、世界には平和も安らぎもありません。シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァはシュリーラ・ナーラダに、バーガヴァタムでこの教えを広めるよう助言されました。『バガヴァッド・ギーター』でも同じことが説かれています。「主の蓮華の御足に全てを委ねなさい」それだけが、完璧な人間のための責務なのです。
節
tvam ātmanātmānam avehy amogha-dṛk
parasya puṁsaḥ paramātmanaḥ kalām
ajaṁ prajātaṁ jagataḥ śivāya tan
mahānubhāvābhyudayo ’dhigaṇyatām
parasya puṁsaḥ paramātmanaḥ kalām
ajaṁ prajātaṁ jagataḥ śivāya tan
mahānubhāvābhyudayo ’dhigaṇyatām
訳語
tvam—あなた自身; ātmanā—自分自身によって; ātmānam—超霊魂; avehi—探し出す; amogha-dṛk—完璧な視野を持つ者; parasya—超越性の; puṃsaḥ—人格神; paramātmanaḥ—至高主の; kalām—完全部分体; ajam—誕生しない; prajātam—誕生した; jagataḥ—世界の; śivāya—幸福のために; tat—それ; mahā-anubhāva—人格神シュリー・クリシュナの; abhyudayaḥ—遊戯; adhigaṇya-tām—きわめて明確に説明しなさい。
翻訳
あなたには完璧な視野が備わっている。そして、主の完全部分体として存在しているため、至高の魂である人格神を知ることができる。あなたは人として誕生しない人物だが、万民の幸福のために地上に降誕した。だから、どうか、至高人格神シュリー・クリシュナの崇高な遊戯についてさらに鮮明に説明していただきたい。
解説
シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは、人格神シュリー・クリシュナの完全分身として力を授かっています。物質界に陥った魂たちを救うために、いわれのない慈悲心で降誕しました。転落し、忘れられた魂たちは、主への超越的な愛情奉仕とは無縁の状態にいます。生命体は主の部分であり、主の永遠の召使いでもあります。ですから、どのヴェーダ経典も、転落した魂たちを幸せにするため系統的に整えられており、彼らは、その文献を活用して物質存在の束縛から解き放たれなくてはなりません。シュリーラ・ナーラダ・リシは、形式的には、シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァの精神指導者ではありますが、だからといってヴィヤーサデーヴァが精神指導者に全く依存しているわけではありません。実際には、彼こそが万民の精神指導者なのですから。しかし、彼はアーチャーリャの責務を帯びていたことから、神自身であったにもかかわらず、精神指導者は必ず受け入れなくてはならないという鉄則を自らの行動で私たちに示したのです。主シュリー・クリシュナ、主シュリー・ラーマ、主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブは神の化身であり、神の超越性ゆえにあらゆる知識を備えていたのですが、形式的ながら精神指導者を受け入れています。一般の人々を主シュリー・クリシュナに導くために、主は自らヴィヤーサデーヴァという化身として降誕し、主の超越的な遊戯について描写したのでした。
節
idaṁ hi puṁsas tapasaḥ śrutasya vā
sviṣṭasya sūktasya ca buddhi-dattayoḥ
avicyuto ’rthaḥ kavibhir nirūpito
yad-uttamaśloka-guṇānuvarṇanam
sviṣṭasya sūktasya ca buddhi-dattayoḥ
avicyuto ’rthaḥ kavibhir nirūpito
yad-uttamaśloka-guṇānuvarṇanam
訳語
idam—これ; hi—確かに; puṃsaḥ—万民の; tapasaḥ—苦行の力によって; śrutasya—ヴェーダ研究の力によって; vā—または; sviṣṭasya—犠牲; sūktasya—精神的な教育; ca—そして; buddhi—知識の修養; dattayoḥ—慈善; avicyutaḥ—絶対確実な; arthaḥ—関心; kavibhiḥ—認められた博識な人物によって; nirūpitaḥ—結論づけられた; yat—であるもの; uttamaśloka—選び抜かれた詩節によって描写される主; guṇa-anuvarṇanam—~の超越的な性質の説明。
翻訳
苦行、ヴェーダ研究、供犠、ヴェーダ賛歌の朗唱、慈善行為によって人々は知識を修養するが、それらの最も崇高な目的は、選りすぐりの詩節によって讃えられる主の超越性の描写することで頂点に達する、と博学な者たちは結論付けた。
解説
人間の知性は、芸術、科学、哲学、物理学、化学、心理学、経済学、政治学などの学問の進歩のために高められるべきものです。そのような知識の修養によって、人類は理想的な生活を達成できます。その生活の完成は、至高の生物、ヴィシュヌの悟りにおいて頂点に達します。ですからシュルティは、真に学識を高めた人々は主ヴィシュヌへの奉仕を求めよ、と命じています。しかし残念なことに、ヴィシュヌ・マーヤーのうわべの美しさに心が奪われている人々は、完璧な境地や自己の悟りはヴィシュヌの助けがあってこそ実現できるということが理解できません。ヴィシュヌ・マーヤーとは感覚の楽しみのことであり、得るのはむなしさと苦しみだけです。ヴィシュヌ・マーヤーの罠に捕らえられている人々は、知識の発達を感覚の楽しみのために利用しています。シュリー・ナーラダ・ムニは、宇宙の一切万物は主のさまざまなエネルギーから放出されたものであると説明しました。なぜなら、私たちの想像を絶するエネルギーを使って主が創造界の動きとその反動を始動させたからです。全ては主のエネルギーから発出され、主の力によって維持され、消滅させられたあと再び主の中に入っていきます。ですから、主と関係のないものは何もありませんが、同時に、主はそれらを超越した立場にいます。
知識の発達が主への奉仕に使われるとき、その手段は全て完璧になります。人格神とその超越的な名前、名声、栄光などは主と全く同じです。ですから、主に仕える聖者や献身者たちは、芸術、科学、哲学、物理学、化学、心理学などのあらゆる知識が全面的に主への奉仕に向けられるべきである、と勧めています。芸術、文学、詩、絵画などは、主を讃えるために使うことができます。小説作家、詩人、著名な文学者は読者の感覚に訴えるようなことを書くものですが、彼らの興味が主への奉仕に向けられれば、主の崇高な遊戯について描写できます。ヴァールミーキは偉大な詩人、またヴィヤーサデーヴァは偉大な作家であり、彼らは主の超越的な活動の描写に全力で取り組み、そして不死身になりました。科学や哲学も主への奉仕に向けられるべきです。感覚を満たすために空しい推論をして何が得られるのでしょう。哲学と科学は主の栄光を揺るぎないものにするために使うべきです。高い知識を持つ人々は科学を通して絶対真理を学びたいと願っていますから、偉大な科学者は、科学的根拠を示して主の存在を証明するよう努力すべきです。哲学的推論も、至高の真理者が意識を持ち、あらゆる力を備える人物であることを確立するために使われなくてはなりません。どのような知識も常に主の奉仕に使うべきです。『バガヴァッド・ギーター』も同じことを確証しています。主の奉仕に使われていない「知識」はどれも無知にすぎません。高度な知識を正しく使って主の栄光を確立させることが何よりも大切なことです。主への奉仕に使われている科学的知識、そして同様の活動は全てハリ・キールタナ、すなわち主の栄光を讃えることになります。
節
ahaṁ purātīta-bhave ’bhavaṁ mune
dāsyās tu kasyāścana veda-vādinām
nirūpito bālaka eva yogināṁ
śuśrūṣaṇe prāvṛṣi nirvivikṣatām
dāsyās tu kasyāścana veda-vādinām
nirūpito bālaka eva yogināṁ
śuśrūṣaṇe prāvṛṣi nirvivikṣatām
訳語
aham—私; purā—以前; atīta-bhave—前の千年紀に; abhavam—~になった; mune—ムニよ; dāsyāḥ—下女の; tu—しかし; kasyāścana—特定の; veda-vādinām—ヴェーダーンタの従者の; nirūpitaḥ—従事して; bālakaḥ—召使の少年; eva—にすぎない; yoginām—献身者たちの; śuśrūṣaṇe—~の奉仕において; prāvṛṣi—雨期の4ヶ月の間; nirvivikṣatām—共に住んでいる。
翻訳
ムニよ、前の千年紀において、私は、ヴェーダーンタの原則に従うブラーフマナたちに仕える下女の息子だった。ブラーフマナたちが4ヶ月の雨季の間、共に住んでいた時、私は彼らに個人的に仕えた。
解説
主に捧げる愛情奉仕があふれ出る環境の驚異的な力が、ここでシュリー・ナーラダ・ムニによって概説されています。彼は最下層の家庭に生まれた息子で、まともな教育も受けていませんでした。それでも、全身全霊で主に仕えたために、不死身の聖者となったのです。それが献身奉仕の力です。生命体は主の境界エネルギーですから、主への超越的な愛情奉仕を適切に実行する使命があります。それが適切になされていない状態をマーヤーといいます。ですから、マーヤーが持つ幻想の力は、持てる力を全て感覚の楽しみではなく主への奉仕に向けるときに消えていきます。シュリー・ナーラダ・ムニの前世における彼自身の例によれば、主への奉仕が主の真の召使いに仕えることから始まるのは明らかです。主の召使いに仕えることは、主に直接仕えることよりも優れている、と主もおっしゃっています。献身者への奉仕は主への奉仕よりも価値があります。ですからいつも主に仕えている誠実な献身者を精神指導者として選び、その師に誠意を込めて仕えなくてはなりません。そのような精神指導者は、物質的な感覚では理解できない主の姿を見せてくれる透明な媒体者です。誠実な精神指導者に仕えることで、主は、捧げられる奉仕の質に応じて自分自身を私たちに示してくださいます。主への奉仕に全力を注ぐことで、解脱の道を確実に進むことができます。正しい精神指導者に導かれて主とつながりのある奉仕をすれば、全創造宇宙界が主の創造物であり、主ご自身と宇宙創造は同じであることに気づくようになります。熟達した精神指導者は全てを利用して主を称賛する方法を知っているので、人々がそのような人物に導かれれば、その神聖な恩恵によって世界は精神的住居に変わるのです。
節
te mayy apetākhila-cāpale ’rbhake
dānte ’dhṛta-krīḍanake ’nuvartini
cakruḥ kṛpāṁ yadyapi tulya-darśanāḥ
śuśrūṣamāṇe munayo ’lpa-bhāṣiṇi
dānte ’dhṛta-krīḍanake ’nuvartini
cakruḥ kṛpāṁ yadyapi tulya-darśanāḥ
śuśrūṣamāṇe munayo ’lpa-bhāṣiṇi
訳語
te—彼らは; mayi—私に対し; apeta—経験することなく; akhila—あらゆる種類の; cāpale—気質; arbhake—少年に対して; dānte—感覚を抑制して; adhṛta-krīḍanake—娯楽を楽しむ習慣がない; anuvartini—従順な; cakruḥ—授けた; kṛpām—いわれのない慈悲; yadyapi—~ではあっても; tulya-darśanāḥ—生来公平な; śuśrūṣamāṇe—誠実な者に対して; munayaḥ—ヴェーダーンタに従うムニ; alpa-bhāṣiṇi—必要以上の話をしない者。
翻訳
このヴェーダーンタの従者たちは誰とでも公平に接する人々だったが、私にはいわれのない慈悲を授けてくださった。私は幼い子どもではあったが、自らを律し、遊ぶことに興味はなかった。さらに、悪さをすることもなく、余計なことは話さなかった。
解説
『バガヴァッド・ギーター』で主は、「全てのヴェーダは、私を探求するものである」とおっしゃっています。主シュリー・チャイタニヤは、ヴェーダには、生命体と人格神との絆を確立させること、献身奉仕に関係のある義務を遂行すること、その結果究極の目標である神の元にたどり着くこと、という3つの主題しかないとおっしゃっています。そのため、ヴェーダーンタの従者であるヴェーダーンタ・ヴァーディーとは、人格神の純粋な献身者を指しています。そのようなヴェーダーンタ・ヴァーディーあるいはバクティ・ヴェーダーンタは、献身奉仕に関わる崇高な知識を分けへだてなく人々に教えます。彼らにとっては誰であろうと敵でも友人でもありません。教養のある者、無い者に区別をつけることもありませんし、誰に対しても好意を持ったり嫌悪を抱いたりすることもありません。バクティ・ヴェーダーンタたちは、大衆が間違った物欲のために時間を無駄にしていることを知っています。だからこそ、無知な大衆が失った人格神との絆をよみがえらせ努力しています。ることに努めています。そのような努力によって、全てを忘れ去った魂でさえ精神生活の思いに目覚め、やがてバクティ・ヴェーダーンタの弟子となり、超越的な悟りの道を徐々に進むことができるようになります。このヴェーダーンタ・ヴァーディーたちは、幼いナーラダが自分を抑制したり、無邪気な遊びなどをやめたりする前から弟子として受け入れました。しかし彼(少年)は入門式を受ける前から、精神生活の向上を目指す人に欠かせない規律を習得していきました。真の人間生活の始まりであるヴァルナーシュラマ・ダルマ体制では、王様の子であれ一般市民の子であれ、5歳以上の少年たちはブラフマチャーリーになるためにグルのアーシュラマに入り、正しい教育を系統的に受けます。その訓練は、国のため、優れた市民を育てるために必要であることはもちろん、子ども自身が将来精神的な悟りを得るための準備でもあります。ヴァルナーシュラマ体制の従者の子どもにとって、物欲を満たすだけの無責任な生活は全く無縁の世界です。少年は、父親が母親の胎内に彼を宿す前から精神的な洞察力を授けられました。父親も母親も、子どもが物質の束縛から無事に解放されるよう見守る責任があります。それが、家族計画を成功させる正しい方法です。究極の完成のために子どもをもうけなくてはなりません。自己を抑制しなければ、規律を守らなければ、そして心から従順でなければ、精神指導者の教えに正しく従うことはできませんし、またそれが実践できなければ、誰も神の元に帰ることはできません。
節
ucchiṣṭa-lepān anumodito dvijaiḥ
sakṛt sma bhuñje tad-apāsta-kilbiṣaḥ
evaṁ pravṛttasya viśuddha-cetasas
tad-dharma evātma-ruciḥ prajāyate
sakṛt sma bhuñje tad-apāsta-kilbiṣaḥ
evaṁ pravṛttasya viśuddha-cetasas
tad-dharma evātma-ruciḥ prajāyate
訳語
ucchiṣṭa-lepān—食べ物の残り; anumoditaḥ—許可を得て; dvijaiḥ—ヴェーダーンタ・ブラーフマナーたちによって; sakṛt—昔; sma—過去において; bhuñje—食べた; tat—その行為によって; apāsta—取り除かれた; kilbiṣaḥ—全ての罪; evam—そのように; pravṛttasya—従事して; viśuddha-cetasaḥ—心が浄化された人物の; tat—その特定の; dharmaḥ—性質; eva—確かに; ātma-ruciḥ—超越的な魅力; prajāyate—表された。
翻訳
一度だけ、彼らの食べ残しを、許しを得ていただいたことがあり、そうすることでたちまち私の罪は跡形もなく消えていった。このように仕えていくうちに私の心はさらに清められ、その超越主義者たちの特質に魅力を感じるようになった。
解説
純粋な献身奉仕は、良い意味で、伝染病のように感染力が強いものです。純粋な献身者は、どのような罪にも汚されません。人格神は最も純粋な生命体ですから、誰であっても、物質に影響されないほど純粋でなければ、主の純粋な献身者にはなれません。上記のバクティ・ヴェーダーンタたちは純粋な献身者で、少年も彼らとの交流によって、そして彼らが残した食べ物を一度食べただけで、その純粋な性質に感化されました。そのような残り物は、純粋な献身者たちの許しがなくても食べることはできます。まがいものの献身者もいますから、そのような人々には気をつけなくてはなりません。献身奉仕を始めようとする人を邪魔する要素はいくらでもあります。しかし、心のきれいな献身者と交流すればどのような障害も取り除かれるものです。初心の献身者は、純粋な献身者の崇高な気質によって自分も高められ、人格神の名前、名声、質、超越的な遊戯などへの魅力を感じるようになります。純粋な献身者の気質に感化されるという表現は、人格神の神聖な活動の話を聞く度に、その純粋な愛情奉仕の甘露を感じ取るようになることを指しています。この超越的な甘露を味わうと、物質的な物事一切が味気ないものに思えてきます。だからこそ心の清らかな献身者は、物質的な活動に全く魅了されないのです。全ての罪を洗い流し、献身奉仕への障害を克服した人は、その奉仕に魅了され、動じなくなり、完璧な甘露を味わい、超越的な感情に浸り、やがて主への愛情奉仕に立脚した境地に入ることができます。このような段階は純粋無垢な献身者との交流を通して高まっていくのであり、それがこの節の要点です。
節
tatrānvahaṁ kṛṣṇa-kathāḥ pragāyatām
anugraheṇāśṛṇavaṁ manoharāḥ
tāḥ śraddhayā me ’nupadaṁ viśṛṇvataḥ
priyaśravasy aṅga mamābhavad ruciḥ
anugraheṇāśṛṇavaṁ manoharāḥ
tāḥ śraddhayā me ’nupadaṁ viśṛṇvataḥ
priyaśravasy aṅga mamābhavad ruciḥ
訳語
tatra—そこで; anu—毎日; aham—私は; kṛṣṇa-kathāḥ—主クリシュナの活動の話; pragāyatām—説明している; anugraheṇa—いわれのない慈悲によって; aśṛṇavam—聴覚を使って; manaḥ-harāḥ—魅力的な; tāḥ—それら; śraddhayā—敬意を込めて; me—私に; anupadam—毎瞬間; viśṛṇvataḥ—注意深く聞いている; priyaśravasi—人格神の; aṅga—ヴィヤーサデーヴァよ; mama—私のもの; abhavat—そのようになった; ruciḥ—味わい。
翻訳
ヴィヤーサデーヴァよ。そのような交流を通して、また偉大なヴェーダーンタ学者たちの慈悲によって、主クリシュナの魅力的な活動にまつわる彼らの話を聞くことができた。その話に一心に耳を傾けることで、人格神について聴くことへの味わいは徐々に深まっていった。
解説
絶対人格神主シュリー・クリシュナは、その姿はもちろんのこと、活動そのものも私たちを引きつけてやみません。なぜなら、絶対者は、自らの名前、名声、姿、遊戯仲間、身の回りの品々などと共に絶対的な存在だからです。主はいわれのない慈悲心で物質界に降誕し、主の美しさに心を奪われた人間たちが主のもとに帰ることができるように、人間としてさまざまな神聖な遊戯を繰り広げました。人間は、通俗な活動を行うさまざまな人物たちの歴史や物語を聞きたがるものですが、そういったものと関わるために貴重な時間を無駄にし、物質自然界の3つの質に心奪われてしまうことを知りません。時間を無駄にするのではなく、自分の関心を主の神聖な遊戯に向けることで精神的な成功を収めることができます。主のそのような遊戯の話を傾聴することで、主と実際にふれあうことができ、前述したように主にまつわる話を聞くことで心に積まれてきた罪が内から洗い流されます。このように罪をことごとく捨てた読者たちは、次第に通俗な付き合いから解放され、主の姿に魅了されるようになります。ナーラダ・ムニは、そのことを自分の体験を通して説明しました。この話の要旨は、主の神聖な遊戯をただ聞くだけで、主の仲間のひとりになれるということです。ナーラダ・ムニは永遠の命、無限の知識、そして果てしない至福に満たされ、物質と精神両方の世界を意のままに旅することができます。シュリー・ナーラダが、前世で純粋な献身愛者たち(ば・ヴェーダーンタ)の話を傾聴したように、私たちも正しい情報源から主の崇高な遊戯について聞くだけで、最も気高い人生に到達することが可能です。献身者と交流しながら主にまつわる話を聞く方法は、争い渦巻く今のカリ時代において特に勧められている方法です。
節
tasmiṁs tadā labdha-rucer mahā-mate
priyaśravasy askhalitā matir mama
yayāham etat sad-asat sva-māyayā
paśye mayi brahmaṇi kalpitaṁ pare
priyaśravasy askhalitā matir mama
yayāham etat sad-asat sva-māyayā
paśye mayi brahmaṇi kalpitaṁ pare
訳語
tasmin—そうであるために; tadā—そのとき; labdha—達成した; ruceḥ—味わい; mahā-mate—偉大な聖者よ; priyaśravasi—主について; askhalitā matiḥ—途切れることのない集中力; mama—私のもの; yayā—それによって; aham—私は; etat—これら全て; sat-asat—粗雑さと微細さ; sva-māyayā—自分の無知; paśye—見る; mayi—私の中の; brahmaṇi—至高者; kalpitam—受け入れる; pare—超越性の中で。
翻訳
偉大な聖者ヴィヤーサよ。人格神への味わいを手に入れた瞬間、主に関する話を聞きたいと願う心は、揺るぎないものとなった。その味わいが深まるごとに、粗雑な肉体と微細な肉体という覆いを受け入れたのは、私の無知がゆえだったことに気づいた。主も私も超越的な存在なのだから。
解説
物質存在での無知は暗闇に例えられ、全ヴェーダ経典で人格神は太陽に例えられています。光のある場所に暗闇はありません。主とその遊戯が全く同じであることから、主の崇高な遊戯を聞く行為そのものが主との超越的なふれあいです。至高の光と触れあうということは、全ての無知を消し去ることになります。束縛された魂は、無知ゆえに自分も主も物質自然界の産物であると誤解しています。しかし実際は主も生命体も超越的な存在であり、物質自然界とは何の関係もありません。無知が取り払われ、人格神の存在なしには、何も存在できないことを理解するとき、無知の暗闇は消えていきます。粗雑な体と微細な体は人格神から発出したものですから、知識という光に導かれて私たちは両方の体を主のために使うことができます。肉体は主に仕えるため(水を汲んだり、寺院を掃除したり、お辞儀をしたりなど)に使うことができます。アルチャナー、すなわち寺院における神像崇拝には、主への奉仕に体を使うことが含まれています。同じように、微細な心は主の超越的な遊戯について聞き、その内容を熟考し、主の御名を唱えたりするために使われるべきです。どれも超越的な活動です。粗雑な体と微細な体、いずれにしても物質的なことに使うべきではありません。このような超越的な活動への悟りは長年にわたる献身奉仕の修練が必要ですが、ナーラダ・ムニが傾聴するだけで高めたような人格神への愛情を育むだけで、とても効果的に悟りを得ることができます。
節
itthaṁ śarat-prāvṛṣikāv ṛtū harer
viśṛṇvato me ’nusavaṁ yaśo ’malam
saṅkīrtyamānaṁ munibhir mahātmabhir
bhaktiḥ pravṛttātma-rajas-tamopahā
viśṛṇvato me ’nusavaṁ yaśo ’malam
saṅkīrtyamānaṁ munibhir mahātmabhir
bhaktiḥ pravṛttātma-rajas-tamopahā
訳語
ittham—こうして; śarat—秋; prāvṛṣikau—雨期; ṛtū—ふたつの季節; hareḥ—主の; viśṛṇvataḥ—絶えず聞いている; me—私自身; anusavam—絶えず; yaśaḥ amalam—純粋無垢な栄光; saṅkīrtyamānam—~によって唱えられて; munibhiḥ—偉大な聖者たち; mahā-ātmabhiḥ—偉大な魂たち; bhaktiḥ—献身奉仕; pravṛttā—流れ始めた; ātma—生命体; rajaḥ—激性; tama—無知; upahā—消滅している。
翻訳
こうして雨期と秋というふたつの季節に、私はこの偉大な魂たちが主ハリの純粋な栄光を唱え続けているのを聞く機会に恵まれた。私の献身奉仕が湧き出し、流れ始めたとき、激性と無知の覆いは打ち砕かれた。
解説
至高主への神聖な愛情奉仕は、全ての生命体に備わっている素質です。その思いはどのような生物の中にも眠っているのですが、物質自然と関わっているために、激性と無知がその思いを悠久の昔から覆っています。もし主と、主の偉大な魂である献身者たちの恩恵によって、純粋な献身者との交流を得る幸運に恵まれ、主の汚れなき栄光を聞く機会に恵まれれば、間違いなく、川の流れのように献身奉仕は流れ始めるでしょう。川が海に辿りつくまで流れ続けるように、純粋な献身奉仕は純粋な献身者との交流によって、究極の目的地、すなわち神への崇高な愛情に向けて、流れ続けます。献身奉仕の流れは誰にも止められません。それどころか、流れる量は増え続けます。この流れには大きな力が込められており、その奉仕を見た人でさえ激性と無知の影響から解放されます。自然のこれらふたつの性質はこうして取り除かれ、生命体は自分本来の境地に戻り、そして解放されるのです。
節
tasyaivaṁ me ’nuraktasya
praśritasya hatainasaḥ
śraddadhānasya bālasya
dāntasyānucarasya ca
praśritasya hatainasaḥ
śraddadhānasya bālasya
dāntasyānucarasya ca
訳語
tasya—彼の; evam—こうして; me—私のもの; anuraktasya—らに執着して; praśritasya—従順に; hata—~から自由な; enasaḥ—罪; śraddadhānasya—忠実な人物の; bālasya—少年の; dāntasya—従属させて; anucarasya—教えに厳格に従っている; ca—そして。
翻訳
私は聖者たちに強い愛着を感じていた。私は穏やかにふるまい、これまでの罪は聖者たちに仕えるうちに全て消えて行った。彼らに対する堅い信頼を心に抱き、感覚を抑えながら、私は体と心を使って彼らに忠実に従った。
解説
これらが、純粋無垢な献身者の段階に達すると期待される候補者が備えるべき資格です。その境地を望むからには、常に純粋な献身者との交流を求めるべきです。偽物献身者にだまされてはなりません。純粋な献身者の教えを受け入れるためにも、素直で穏やかな人物であるべきです。純粋な献身者とは、人格神に身も心も委ねている人物を指します。人格神が至高の所有者であること、そして他の魂は誰でも主の召使いであることをよく理解しているのです。純粋な献身者との交流だけが、通俗な付き合いによって積み重ねられた罪を洗い流すことができます。初心の献身者は純粋な献身者に誠実に仕え、教えには従順かつ厳格に従わなくてはなりません。これらが、現世で完成を達成することを心に誓っている献身者の証です。
節
jñānaṁ guhyatamaṁ yat tat
sākṣād bhagavatoditam
anvavocan gamiṣyantaḥ
kṛpayā dīna-vatsalāḥ
sākṣād bhagavatoditam
anvavocan gamiṣyantaḥ
kṛpayā dīna-vatsalāḥ
訳語
jñānam—知識; guhyatamam—最も秘奥な; yat—~であるもの; tat—それ; sākṣāt—直接に; bhagavatā uditam—主自らが説いた; anvavocan—教えを授けた; gamiṣyantaḥ—~から去っていくとき; kṛpayā—いわれのない慈悲によって; dīna-vatsalāḥ—哀れで慎ましい者に非常に親切な人々。
翻訳
哀れな魂たちにこの上なく優しいバクティ・ヴェーダーンタたちは、去り際に人格神自らが説いた秘奥な知識を私に授けてくださった。
解説
純粋なヴェーダーンタ学者、すなわちバクティ・ヴェーダーンタは、主自身が説いた教えをそのまま従者たちに伝えます。人格神は『バガヴァッド・ギーター』や他の経典の中で、主だけに従うようはっきりと説いています。主は万物の創造者、維持者、そして破壊者です。表された全創造界は主の意志によって存在し、また主の意志によって宇宙の営みが全て終息するとき、主は身の周りの品々とともに永遠のお住まいにとどまります。創造の前に主はその永遠のお住まいにいましたし、破壊のあともその場所に留まります。ですから、主は創造された生物のひとりではありません。超越的な人物なのです。『バガヴァッド・ギーター』で主はおっしゃっています。アルジュナに教えが授けられるよりはるか前、同じ教えを主は太陽神に説かれましたが、時が経つにつれ内容が歪められ継承が途絶えてしまったため、主は再び同じ教えをご自身の完璧な献身者であり、友人でもあるアルジュナに授けられました。つまり、主の教えは献身者だけが理解できるのであり、それ以外の人々には分からないということです。主の崇高な姿について全く知らない非人格論者は、主の最も秘奥なこの教えは理解できません。「最も秘奥な」という言葉は重要です。献身奉仕の知識は、非人格的ブラフマンの知識をはるかに超えているからです。ジュニャーナムは、通常の知識あるいは知識そのものを指します。この知識は非人格的ブラフマンの知識にまで高めることができます。献身奉仕と混ざりあった時に、その知識はパラマートマー、つまり遍在する神についての知識に高められます。ブラフマンの知識よりも秘奥な境地です。しかし、そのような知識が純粋な献身奉仕に変化し、超越的な知識の秘奥な段階に達するとそれは「最も秘奥な知識」と呼ばれます。この最も秘奥な知識が主によって、ブラフマー、アルジュナ、ウッダヴァたちに授けられました。
節
yenaivāhaṁ bhagavato
vāsudevasya vedhasaḥ
māyānubhāvam avidaṁ
yena gacchanti tat-padam
vāsudevasya vedhasaḥ
māyānubhāvam avidaṁ
yena gacchanti tat-padam
訳語
yena—それによって; eva—確かに; aham—私は; bhagavataḥ—人格神の; vāsudevasya—主シュリー・クリシュナの; vedhasaḥ—至高の創造者の; māyā—エネルギー; anubhāvam—影響; avidam—簡単に理解した; yena—それによって; gacchanti—彼らは行く; tat-padam—主の蓮華の御足に。
翻訳
私は、その秘奥な知識を通して万物の創造者、維持者、そして破壊者である主シュリー・クリシュナのエネルギーの働きをはっきりと悟った。そのような悟りを得る人は誰でも主の元に帰り、主その方に会うことができる。
解説
献身奉仕や最も秘奥な知識を通して、主のさまざまなエネルギーがどう働いているかを容易に知ることができます。主のエネルギーの一部は物質界を作り出し、別の(優れた)エネルギーが精神界を作り出します。そして境界エネルギーが、これらのエネルギーのどちらかに仕える生命体を作り出しています。物質エネルギーに仕えている生命体は生存と幸福のために苦闘していますが、その幸福は幻想にほかなりません。一方、精神的エネルギーの中にいる生命体は、永遠の生活、完全な知識、永続する至福の中で主に直接仕えています。主は、『バガヴァッド・ギーター』で自ら述べているように、物質エネルギーの世界で堕落しきっている束縛された全ての魂が、物質界と縁を切って自分の元に帰ってくることを望んでいます。これこそが最も秘奥な知識です。しかし、これは純粋な献身者だけが理解できることであり、そのような献身者が神の王国に入って主に出会い、主に仕えることができます。その模範となる人物が、永遠の知識と至福の境地に到達したナーラダです。その道や方法は誰にでも示されていますが、シュリー・ナーラダ・ムニの足跡に従う人だけが達成することができます。シュルティによると、至高主は(自ら努力することなく)無限のエネルギーを持ち、それらが上記の3つの主な名称を通して説明されています。
節
etat saṁsūcitaṁ brahmaṁs
tāpa-traya-cikitsitam
yad īśvare bhagavati
karma brahmaṇi bhāvitam
tāpa-traya-cikitsitam
yad īśvare bhagavati
karma brahmaṇi bhāvitam
訳語
etat—この程度; saṃsūcitam—博識者によって決定された; brahman—ブラーフマナ・ヴィヤーサよ; tāpa-traya—3種類の苦しみ; cikitsitam—治療法; yat—~であるもの; īśvare—至高の支配者; bhagavati—人格神に; karma—定められた活動; brahmaṇi—偉大な人物に; bhāvitam—捧げられて。
翻訳
ブラーフマナ・ヴィヤーサデーヴァよ。博識ある人々は、あらゆる問題や苦しみを取り除く最善の方法は、自分の活動を至高主、人格神[シュリー・クリシュナ]に捧げることであると断言している。
解説
シュリー・ナーラダ・ムニが自ら体験したように、解放への道を開いたり人生の全ての苦しみから救われたりする最も実現可能で実践的な方法は、正しい情報源から主の超越的な活動について素直に聞くことです。これが、唯一の治療法です。全物質界は苦しみに満ちています。愚かな人々は、体や心、自然災害、そして他の生物によって生じるこのような三重の苦しみを取り除く方法を、小さな頭脳で数多く作り上げました。全世界の人がこのような苦しみから逃れようともがいていますが、どんな計画や治療法をめぐらしても、主の認可がなければ、待ち望んでいる平安は実現されないことを人類は知りません。患者を治すための治療も、主が認可しなければ効果はありません。例え安全な船で川や海を渡ろうとしても、主の許可がなければ無事に渡りきることはできません。主が究極の許諾者であるため、究極の成功を得るために、あるいは成功の道をふさぐ障害物を取り除くためには、主の慈悲を求めて全霊を込めて尽力する必要があると理解するべきです。主は遍在し、あらゆる力を備え、全知全能です。良い結果についても悪い結果についても、最終的な裁可を与えるのは主です。ですから、主の慈悲を授かることができるよう自分の行動を捧げ、主を非人格なブラフマン、局所的なパラマートマー、または至高人格神として受け入れなくてはなりません。自分が誰であろうと問題ではありません。全てを主の奉仕に捧げるのです。博識な学者、科学者、哲学者、詩人であれば、持てる教養を主の至高性を確立させるために使うべきです。人生のあらゆる面で、主のエネルギーについて研究してください。主を非難したり、価値のない知識をかき集めて主になろうとしたり、主の立場を奪い取ろうとするべきではありません。管理者、政治家、軍人なら、政治的手腕を使って主の至高性を確立しようとするべきです。シュリー・アルジュナのように、主のために戦うのです。最初、偉大な戦士であるシュリー・アルジュナは戦いを拒みました。しかし戦いは避けられないことを主に諭されて確信したとき、それまでの決心を翻して主のために戦ったのでした。同じように、実業家や農業従事者は、苦労して稼いだお金を主のために使えばいいのです。手に入れた金銭は全て主の富であることを胸に刻んでおいてください。富は幸運の女神(ラクシュミー)であり、主はナーラーヤナ、すなわちラクシュミーの夫です。ラクシュミーを主ナーラーヤナの奉仕に使い、幸せになってください。それが、生涯を通して主を悟る方法です。帰するところ、あらゆる物質的活動から解放され、主の崇高な遊戯を一心に聞くことが最善の生き方なのです。しかし、そのような機会に恵まれていなければ、自分が特に魅力を感じていることを主のために使うべきです。それが平和と繁栄に辿り着く道です。この節にあるサンスーチタムという言葉にも重要な意味が込められています。ナーラダの悟りを、子どもが考えるような絵空事と思ってはなりません。そうではないのです。それは、熟達し教養ある学者が到達した悟りでもあり、それがサンスーチタムという言葉の真意です。
節
āmayo yaś ca bhūtānāṁ
jāyate yena suvrata
tad eva hy āmayaṁ dravyaṁ
na punāti cikitsitam
jāyate yena suvrata
tad eva hy āmayaṁ dravyaṁ
na punāti cikitsitam
訳語
āmayaḥ—病気; yaḥ ca—何であっても; bhūtānām—生命体の; jāyate—可能になる; yena—その作用によって; suvrata—優れた魂よ; tat—その; eva—まさに; hi—確かに; āmayam—病気; dravyam—物事; na—そうではないか; punāti—治す; cikitsitam—~で処置する。
翻訳
善良なる魂よ。ある病気を生じさせた物質を、逆に治療薬として使えば、その物質がその病気を治すことがあるではないか。
解説
名医は、治療食を使って患者を治そうとします。例えば、乳製品は腸障害を起こすことがありますが、同じミルクを凝乳にして別の治療薬と混ぜて処方することで腸障害を治療できます。同じように、物質存在の三重苦は物質的な活動で静めることはできません。火によって鉄が赤く熱され、その結果、鉄が火のように作用するのと同様に、その物質的な活動を精神化する必要があります。同じように、ある物質的な概念も、主への奉仕に向けられた瞬間に変化します。それが精神的成功の秘訣です。物質自然界を支配しようとしてはいけませんし、物質的な物事を拒絶するだけでも不充分です。逆境に善処する最善策は、全てを至高の生物である神と関係させて使うことにあります。全ては至高の魂である主から発出されたものであり、主は私たちの想像も及ばない力を使って、精神を物質に、物質を精神に変えることができます。ですから、物質的な物事(と一般的に言われるもの)でも、主の偉大な意志によって精神的な力に変化します。その変化に必要な条件は、いわゆる物質的とされるものを魂本来の奉仕に利用することにあります。それが、物質的な病気を治し、苦しみや嘆きや恐れのない精神的境地へと昇るための方法です。こうして全てが主への奉仕に使われれば、至高のブラフマン以外に存在するものはないということを体験できます。ヴェーダのマントラが説く「全てはブラフマンである」という教えは、こうして悟ることができるのです。
節
evaṁ nṛṇāṁ kriyā-yogāḥ
sarve saṁsṛti-hetavaḥ
ta evātma-vināśāya
kalpante kalpitāḥ pare
sarve saṁsṛti-hetavaḥ
ta evātma-vināśāya
kalpante kalpitāḥ pare
訳語
evam—こうして; nṛṇām—人類の; kriyā-yogāḥ—全ての活動; sarve—全て; saṃsṛti—物質存在; hetavaḥ—原因になる; te—それ; eva—確かに; ātma—活動という大木; vināśāya—殺すこと; kalpante—できるようになる; kalpitāḥ—捧げる; pare—超越的な存在に向けて。
翻訳
このように、主のために活動することで、今まで自分を縛りつけていた同じ活動によって、束縛の活動という木を切り倒すことができるようになる。
解説
生命体を果てしなく操っている果報的活動は、地中深く根を張っているために、『バガヴァッド・ギーター』で菩提樹に例えられています。活動の結果を楽しみたいと思っているかぎり、その活動の性質に応じて肉体や場所を変えながら転生を続けなくてはなりません。楽しもうとする気持ちは、主の使命を満たそうとする望みに変えることができます。そうすれば活動そのものがカルマ・ヨーガに変化します。すなわち、自分の性質に応じた活動をしながら精神的な完成を得る方法になるのです。この節で使われているアートマーはあらゆる種類の果報的活動を指しています。結論として、果報的活動の結果やその他の活動が全て主のために行われるとき、活動はさらなるカルマの発生を止め、徐々に超越的な献身奉仕へと高められるのです。そして、菩提樹の根を断ち切るだけではなく、活動者を主の蓮華の御足へと導いていきます。
要点として、まずヴェーダーンタ哲学に精通していることは言うまでもなく、自己を悟り、主シュリー・クリシュナ、人格神に仕える純粋な献身者との交流を求める必要があるということが挙げられます。初心の献身者は、純粋な献身者との交流を続けながら、全身全霊で愛情奉仕をしなくてはなりません。そのような心がけが、偉大な魂の心の中に慈悲を授けようとする思いを起こさせます。そして彼らのその慈悲によって、純粋な献身者の神聖な気質が初心の献身者の中に注ぎ込まれるのです。慈悲を授かった献身者は主の崇高な遊戯を聞こうとする熱意を次第に高め、粗雑な体と微細な体の本質や、その体を超えた純粋な魂に関する知識、そして至高の魂、すなわち人格神との永遠の絆を理解できるようになります。永遠の絆が築かれ、互いの関係が認識されるとき、主への無垢な奉仕は非人格的ブラフマンと局所的なパラマートマーの悟りを超え、人格神に関する完璧な知識へと徐々に高められていきます。『バガヴァッド・ギーター』が説いているように、このようなプルショーッタマ・ヨーガによって、私たちは肉体内にいながらにして完璧な境地に入ることができそして主の全ての高貴な質を、自らが最大限に示すことができるようになります。こうして純粋な献身者との交流によって、段階的に向上していきます。
節
yad atra kriyate karma
bhagavat-paritoṣaṇam
jñānaṁ yat tad adhīnaṁ hi
bhakti-yoga-samanvitam
bhagavat-paritoṣaṇam
jñānaṁ yat tad adhīnaṁ hi
bhakti-yoga-samanvitam
訳語
yat—何であっても; atra—この生涯あるいは世界で; kriyate—実行する; karma—活動; bhagavat—人格神に; paritoṣaṇam—~の満足; jñānam—知識; yat tat—そのように呼ばれるもの; adhīnam—依存して; hi—確かに; bhakti-yoga—献身的; samanvitam—バクティ・ヨーガと合致して。
翻訳
現世で主の使命を実現させるために行うことは全て、バクティ・ヨーガ、すなわち主への崇高な愛情奉仕と呼ばれ、一般的に知識と呼ばれているものはその奉仕に付随する要素となる。
解説
経典が指示する通りに果報的活動をすれば、精神的な悟りに必要な超越的な知識を完璧に得られる、という考えが一般的に広く知られています。またバクティ・ヨーガを、別の形のカルマであると考えている人たちがいます。しかし、実はバクティ・ヨーガは、カルマもジュニャーナをも超越しています。バクティ・ヨーガは、ジュニャーナとカルマから独立していますが、ジュニャーナとカルマは、バクティ・ヨーガに依存しています。シュリー・ナーラダがヴィヤーサに助言したように、このクリヤー・ヨーガ、またはカルマ・ヨーガは、主を満足させることが原則であることから特に勧められています。主は我が子である生命体たちが三重苦に苦しむことを望んではいません。主は、全ての子どもが自分の元に戻り、共に住むことを望んでいますが、神の元に帰るためには、物質的な汚れを捨てて清い心を持たなくてはなりません。ですから、ある行為が主を満足させるために為されれば、その行為者は物質的な汚れから徐々に清められていきます。清められるとは、精神的な知識を得る、ということです。ですから、知識はカルマ、すなわち主のために為された活動によって得られるものです。それ以外の知識は、バクティ・ヨーガや主の満足とは関わりがないため、神の元には導いてくれません。つまりそのような知識は、この章の第12節でnaiṣkarmyam apy acyuta-bhāva-varjitamと説明されているように、解放すら授けてはくれません。結論として、『バガヴァッド・ギーター』が確証しているように、特に主の神々しい栄光について聞いたり唱えたりしながら、主に純粋に仕えている献身者は、神聖な恩恵のおかげで同時に精神的な悟りも授かっている、ということが言えます。
節
kurvāṇā yatra karmāṇi
bhagavac-chikṣayāsakṛt
gṛṇanti guṇa-nāmāni
kṛṣṇasyānusmaranti ca
bhagavac-chikṣayāsakṛt
gṛṇanti guṇa-nāmāni
kṛṣṇasyānusmaranti ca
訳語
kurvāṇāḥ—実践しているあいだ; yatra—そこですぐに; karmāṇi—義務; bhagavat—人格神; śikṣayā—~の意志によって; asakṛt—絶えず; gṛṇanti—持つようになる; guṇa—質; nāmāni—名前; kṛṣṇasya—クリシュナの; anusmaranti—絶えず思い続けている; ca—そして。
翻訳
至高人格神、シュリー・クリシュナの命令に従って義務を遂行しながら、修練者は主と主の御名、そして主の質を絶えず思い続けている。
解説
主の円熟した献身者は、現世や来世のためにあらゆる任務を果たしながら、主の御名や名声、質などをいつも思い続けられるよう生活を組み立てることができます。主の命令は『バガヴァッド・ギーター』に明言されています:どのような生活をしていても、いつも主のためだけに働くべきです。私たちは生涯を通じて、主を真の所有者として位置づけなくてはなりません。ヴェーダ儀式の決まりでは、インドラ、ブラフマー、サラスヴァティー、ガネーシャなどを崇拝するときでさえ、その儀式の支配力であるヤジュニェーシュヴァラとして、ヴィシュヌの権化が儀式執行中に存在していなくてはなりません。特定の目的のために特定の神々を崇拝することは勧められていますが、それでも円滑な儀式執行のためにはヴィシュヌの存在は不可欠です。
ヴェーダの義務以外にしても、日常生活(例えば、家庭や勤務先)でも活動の結果は、全て至高の享楽者である主クリシュナに捧げるものと考えるべきです。『バガヴァッド・ギーター』で主は、自らを全ての至高の享楽者、全ての惑星の至高の所有者、そして全ての生命体の至高の友人であると宣言しています。主シュリー・クリシュナ以外に、創造界の万物の所有者であることを断言できる者はいません。純粋な献身者はこの事実をいつも心に留めながら、主の超越的な御名、名声、そして質を繰り返し口にしています。そうすることで主といつもふれあっているのです。主は、主の御名や名声などと全く同じですから、主の御名や名声を唱えたり思ったりするのは、実際に主と交流しているということなのです。
収入の大部分、少なくとも50パーセントは、主クリシュナの命令を実行するために使うべきです。さらに、収入の利益をそのように使うだけではなく、このバクティの教えを人々に伝える努力もしなくてはなりません。それも主の命令のひとつだからです。主は、全世界で主の御名と名声を広めるために努力している献身者ほど愛しい人はいない、と断言しています。科学上の発見も、主の命令を実行するために使うことができます。主は、『バガヴァッド・ギーター』のメッセージが献身者同士で語り合われることを望んでいます。それは、苦行、慈善、教育などを評価しない人々にはできないことかもしれません。ですからその試みは、主の献身者になるつもりのない人々を献身者に変えるために為されるべきです。このことについて、主チャイタニヤがとても簡単な方法を私たちに教えています。歌い、踊り、楽しく食べる、という方法を通して超越的なメッセージを広めるよう説いたのです。ですから、収入の50パーセントはこのために使うことができます。争いと意見の衝突が繰り返される堕落した現代では、主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブが説いたように、社会の指導者や裕福な人々が収入の半分を主への奉仕に使えば、地獄のような混乱状態にある世界は必ず、主の神聖な住まいに変わるはずです。楽しい歌や踊り、そしておいしい料理が用意されている催し物があれば、行かない人はいないでしょう。誰でもその輪に加わるでしょうし、一人ひとりが主の崇高な存在を感じるはずです。ただそれだけで参加者は主とふれあうことができ、そして心を清めて精神的な悟りを高めることができます。そのような精神的な活動を成功させる唯一の条件は、俗的な望みや、果報的活動、そして主についての無味乾燥な推論から完全に解放された純粋な献身者の指導の下、精神的活動が行われることです。主がどういうお方なのか自分でつきとめる必要はありません。主自ら『バガヴァッド・ギーター』で語っていますし、数々のヴェーダ経典でも説明されています。それらの記述を全て受け入れ、主のその教えに従いさえすればいいことです。それこそが私たちを完成の道に導いてくれます。自分が今いる立場に居続けてもいいのです。多事多難の現代ですから、自分の地位を変える必要はありません。唯一の条件は、主と一体化しようとする無味乾燥な推論癖をやめることです。このような高慢で横柄な虚栄心を捨てれば、既に述べた質を備える正しい献身者の口から『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』にある主の命令が素直に受け入れられるようになります。それが全てを確実に成功させる方法です。
節
oṁ namo bhagavate tubhyaṁ
vāsudevāya dhīmahi
pradyumnāyāniruddhāya
namaḥ saṅkarṣaṇāya ca
vāsudevāya dhīmahi
pradyumnāyāniruddhāya
namaḥ saṅkarṣaṇāya ca
訳語
oṃ—主の超越的な栄光を唱える印; namaḥ—主にお辞儀を捧げる; bhagavate—人格神に; tubhyam—あなたに; vāsudevāya—ヴァースデーヴァの子である主へ; dhīmahi—共に唱えよう; pradyumnāya, aniruddhāya and saṅkarṣaṇāya—ヴァースデーヴァの全ての完全拡張体; namaḥ—敬意を込めたお辞儀; ca—そして。
翻訳
ヴァースデーヴァの栄光を、そしてその完全拡張体であるプラデュムナ、アニルッダ、サンカルシャナの栄光をこぞって讃えよう。
解説
『パンチャラートラ』は、ナーラーヤナが主神の全拡張体の根源であると述べています。それらは、ヴァースデーヴァ、サンカルシャナ、プラデュムナ、アニルッダのことです。ヴァースデーヴァとサンカルシャナは、向かって中央のそれぞれ左と右に立ち、プラデュムナはサンカルシャナの右側に、そしてアニルッダはヴァースデーヴァの左側に立ち、このように4人の主神が並んでいます。4人は、主シュリー・クリシュナの副神として知られています。
この節は、オームカーラ プラナヴァで始まるヴェーダ聖歌、すなわちマントラであり、このようにマントラはオーム ナモー ディーマヒなどの超越的な唱名法として構築されています。
これまでの話の要点は、果報的活動にしろ、経験哲学にしろ、至高主の超越的な悟りに導かない活動は無価値だという点にあります。ゆえにナーラダジーは、献身活動を徐々に高めることで、主と生命体との間に親密な関係を築いた実体験をもとに、純粋な献身奉仕の性質について説明しました。主への超越的な愛の進歩は、ラサ(味わい)という超越的な数々の多様性におけるプレーマー、つまり主への超越的な愛情奉仕に到達することでその頂点を極めます。そのような献身奉仕は、混ざり合った形で、すなわち果報的活動や哲学的推論と混ぜて行われることもあります。
ここでシャウナカを筆頭とする偉大なリシたちが尋ねた、精神指導者を介して達成したスータの境地ついての質問に対する答えとして、33の文字から成るこの節を唱えることで説明がなされています。そしてこのマントラは、4人の主宰神、あるいは完全拡張体を伴う主に向けて詠まれています。完全部分体は主の副神ですから、中心となる人物は主シュリー・クリシュナです。この教えの最も秘奥な部分は、至高人格神、主シュリー・クリシュナの栄光を、主の完全部分体であるヴァースデーヴァ、サンカルシャナ、プラデュムナ、アニルッダと共に唱え、思い出すべきである、という点にあります。これらの拡張体は、他の全ての真実、つまりヴィシュヌ・タットヴァやシャクティ・タットヴァの根源です。
節
iti mūrty-abhidhānena
mantra-mūrtim amūrtikam
yajate yajña-puruṣaṁ
sa samyag-darśanaḥ pumān
mantra-mūrtim amūrtikam
yajate yajña-puruṣaṁ
sa samyag-darśanaḥ pumān
訳語
iti—ゆえに; mūrti—代表者; abhidhānena—音として; mantra-mūrtim—超越的な音の姿としての権化; amūrtikam—物質的な姿を持たない主; yajate—崇拝する; yajña—ヴィシュヌ; puruṣam—人格神; saḥ—彼だけ; samyak—完璧に; darśanaḥ—見た者; pumān—人物。
翻訳
ゆえに超越的な音の権化として主を崇拝する者こそが、物質的な姿を持たない至高人格神、ヴィシュヌを実際に見る者である。
解説
今私たちが持っている感覚は全て物質でできているため、主ヴィシュヌの崇高な姿を悟るには不完全な道具といえます。ですから主は、唱名という超越的な方法を通して音の権化として崇拝されます。不完全な感覚で得られる経験を超えた物事は、音という媒体を通して理解することができます。遠い場所から発信されている人の声を受信して聞くことができます。このような事が物質的に可能なら、精神的にも可能なはずです。この体験は、漠然とした非人格的な体験ではありません。純粋な永遠性、至福、そして知識を持つ崇高な人格神を実体験する境地なのです。
『アマラコーシャ』というサンスクリット語辞典では、ムールティを「姿」と「困難」というふたつの意味で定義しています。そのため、アムールティカムはシュリー・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティー・タークラによって「困難なく」と説明されています。永遠な至福と知識の超越的な姿は、本来の精神的な感覚によって体験できることであり、それは聖なるマントラ、すなわち超越的な音の権化によってよみがえらせることができます。その音は、正しい精神指導者という濁りの一切ない代表者から受け入れるべきです。そして、精神指導者の導きを受けながら唱えることができます。その手段に従えば主の元に徐々に近づくことができます。この崇拝法は、権威ある、そして認められたパーンチャラートリカ体系で勧められています。パーンチャラートリカ体系は、超越的な献身奉仕についての最も由緒正しい規律です。そのような規律の助けなくして主に近づくことはできず、まして無味乾燥な推論では実現できるはずがありません。パーンチャラートリカ体系は、闘争のこの時代にとって実践的かつ適切であり、現代においてはヴェーダーンタよりも重要だと言えます。
節
imaṁ sva-nigamaṁ brahmann
avetya mad-anuṣṭhitam
adān me jñānam aiśvaryaṁ
svasmin bhāvaṁ ca keśavaḥ
avetya mad-anuṣṭhitam
adān me jñānam aiśvaryaṁ
svasmin bhāvaṁ ca keśavaḥ
訳語
imam—このように; sva-nigamam—至高人格神に関連したヴェーダの秘奥な知識; brahman—ブラーフマナ(ヴィヤーサデーヴァ)よ; avetya—それをよく知っていて; mat—私によって; anuṣṭhitam—実行した; adāt—私に授けられた; me—私に; jñānam—超越的な知識; aiśvaryam—富; svasmin—個人的な; bhāvam—親密な愛着と愛情; ca—そして; keśavaḥ—主クリシュナ。
翻訳
ブラーフマナよ。このようにして私は、至高主クリシュナからヴェーダの秘奥な箇所で繰り返し説かれている主に関する超越的な知識を最初に授かり、次に精神的な富、さらに主への親密な愛情奉仕を授かった。
解説
超越的な音を通して主とふれあうことは、全体的な魂である主シュリー・クリシュナとの交流にほかなりません。それは、主に近づくための全く完璧な方法です。(10に及ぶ)物質的概念による主への侮辱なしに主と純粋な交流を持った献身者は、物質的境地を超越し、崇高な世界における主の存在ついての記述を含むヴェーダ経典の内なる意味について理解できるようになります。精神指導者と至高主に揺るぎない信念を持つ人物に対し、主は徐々に自らを現します。そのあと、献身者は8種類に及ぶ神秘的な富を授かります。さらに高められた献身者は主の親しい仲間として迎えられ、精神指導者という代表者を通して主への特別な奉仕を任せられます。心の清らかな献身者は、内に込められている神秘的な力をひけらかすよりも、主への奉仕に関心を持っています。シュリー・ナーラダはこれらを自らの体験を通して説明しており、私たちも、主の音の権化を完璧に唱えることができれば、シュリー・ナーラダが得た益を全て授かることができます。この超越的な音は、師弟継承、すなわちパランパラーのつながりの中でナーラダの代表者を通して受け継がれていれば誰でも何事にも邪魔されずに唱えることができるのです。
節
tvam apy adabhra-śruta viśrutaṁ vibhoḥ
samāpyate yena vidāṁ bubhutsitam
prākhyāhi duḥkhair muhur arditātmanāṁ
saṅkleśa-nirvāṇam uśanti nānyathā
samāpyate yena vidāṁ bubhutsitam
prākhyāhi duḥkhair muhur arditātmanāṁ
saṅkleśa-nirvāṇam uśanti nānyathā
訳語
tvam—善き人よ; api—もまた; adabhra—広大な; śruta—ヴェーダ経典; viśrutam—も聞いた; vibhoḥ—全能者の; samāpyate—満たされて; yena—それによって; vidām—博識者の; bubhutsitam—超越的な知識についていつも聞きたいと願う人; prākhyāhi—説明する; duḥkhaiḥ—苦しみによって; muhuḥ—いつも; ardita-ātmanām—苦しんでいる大衆; saṅkleśa—苦しみ; nirvāṇam—軽減; uśanti na—出ない; anyathā—他の方法によって。
翻訳
よって、あなたがヴェーダの幅広い知識を通して学んだ全能の主の活動について、どうか説明していただきたい。それは優れた博識者たちの渇望を満たし、同時に、物質的な苦悩にいつも悩まされている大衆の苦しみを和らげるからである。まさに、そのような苦境から逃れる方法は他にはない。
解説
シュリー・ナーラダ・ムニは、物質的な活動に関する全ての問題の根本的な解決策は、至高主の超越的な栄光を広く伝えることである、と自分の体験を通して断言しています。人類には4種類の善人と4種類の悪人がいます。4種類の善人は全能なる神の存在を認めているので、①困難に直面しているとき、②お金が必要なとき、③高い知識を持っているとき、④神についてもっと知りたいと思うとき、本能的に主に救いを求めます。そのため、ナーラダジーはヴィヤーサデーヴァに、すでに得ている幅広いヴェーダ知識にもとづいて神に関する超越的な知識を広めるよう助言しました。
悪人も4種類に分けられます。それらは①次々と果報的活動に明け暮れ、結果として伴う苦しみに悩まされている人々、②感覚を満たすための背徳行為にふけり、それに伴う苦しみに悩まされている人々、③物質的な知識に長けていても、全能の主の権威を認める判断力がないために苦しんでいる人々、④いつも苦境にあるのに、無神論であるために神の名前を故意に忌み嫌っている人々です。
シュリー・ナーラダジーはヴィヤーサデーヴァに、善悪双方8種類の人々の幸福のために、主の栄光を説くよう勧めました。ですから、『シュリーマド・バーガヴァタム』は特定の種類の人種や宗派のために用意されているのではありません。自分自身の幸福や心の平安を心から求めている誠実な人々のためにあるのです。
これで、『シュリーマド・バーガヴァタム』の第1編・第5章、表題「『シュリーマド・バーガヴァタム』についてヴィヤーサデーヴァに授けられたナーラダの教え」に関するバクティヴェーダンタの要旨解説を終了します。