シュリーマド・バーガヴァタム 1.5.22
節
idaṁ hi puṁsas tapasaḥ śrutasya vā
sviṣṭasya sūktasya ca buddhi-dattayoḥ
avicyuto ’rthaḥ kavibhir nirūpito
yad-uttamaśloka-guṇānuvarṇanam
sviṣṭasya sūktasya ca buddhi-dattayoḥ
avicyuto ’rthaḥ kavibhir nirūpito
yad-uttamaśloka-guṇānuvarṇanam
訳語
idam—これ; hi—確かに; puṃsaḥ—万民の; tapasaḥ—苦行の力によって; śrutasya—ヴェーダ研究の力によって; vā—または; sviṣṭasya—犠牲; sūktasya—精神的な教育; ca—そして; buddhi—知識の修養; dattayoḥ—慈善; avicyutaḥ—絶対確実な; arthaḥ—関心; kavibhiḥ—認められた博識な人物によって; nirūpitaḥ—結論づけられた; yat—であるもの; uttamaśloka—選び抜かれた詩節によって描写される主; guṇa-anuvarṇanam—~の超越的な性質の説明。
翻訳
苦行、ヴェーダ研究、供犠、ヴェーダ賛歌の朗唱、慈善行為によって人々は知識を修養するが、それらの最も崇高な目的は、選りすぐりの詩節によって讃えられる主の超越性の描写することで頂点に達する、と博学な者たちは結論付けた。
解説
人間の知性は、芸術、科学、哲学、物理学、化学、心理学、経済学、政治学などの学問の進歩のために高められるべきものです。そのような知識の修養によって、人類は理想的な生活を達成できます。その生活の完成は、至高の生物、ヴィシュヌの悟りにおいて頂点に達します。ですからシュルティは、真に学識を高めた人々は主ヴィシュヌへの奉仕を求めよ、と命じています。しかし残念なことに、ヴィシュヌ・マーヤーのうわべの美しさに心が奪われている人々は、完璧な境地や自己の悟りはヴィシュヌの助けがあってこそ実現できるということが理解できません。ヴィシュヌ・マーヤーとは感覚の楽しみのことであり、得るのはむなしさと苦しみだけです。ヴィシュヌ・マーヤーの罠に捕らえられている人々は、知識の発達を感覚の楽しみのために利用しています。シュリー・ナーラダ・ムニは、宇宙の一切万物は主のさまざまなエネルギーから放出されたものであると説明しました。なぜなら、私たちの想像を絶するエネルギーを使って主が創造界の動きとその反動を始動させたからです。全ては主のエネルギーから発出され、主の力によって維持され、消滅させられたあと再び主の中に入っていきます。ですから、主と関係のないものは何もありませんが、同時に、主はそれらを超越した立場にいます。
知識の発達が主への奉仕に使われるとき、その手段は全て完璧になります。人格神とその超越的な名前、名声、栄光などは主と全く同じです。ですから、主に仕える聖者や献身者たちは、芸術、科学、哲学、物理学、化学、心理学などのあらゆる知識が全面的に主への奉仕に向けられるべきである、と勧めています。芸術、文学、詩、絵画などは、主を讃えるために使うことができます。小説作家、詩人、著名な文学者は読者の感覚に訴えるようなことを書くものですが、彼らの興味が主への奉仕に向けられれば、主の崇高な遊戯について描写できます。ヴァールミーキは偉大な詩人、またヴィヤーサデーヴァは偉大な作家であり、彼らは主の超越的な活動の描写に全力で取り組み、そして不死身になりました。科学や哲学も主への奉仕に向けられるべきです。感覚を満たすために空しい推論をして何が得られるのでしょう。哲学と科学は主の栄光を揺るぎないものにするために使うべきです。高い知識を持つ人々は科学を通して絶対真理を学びたいと願っていますから、偉大な科学者は、科学的根拠を示して主の存在を証明するよう努力すべきです。哲学的推論も、至高の真理者が意識を持ち、あらゆる力を備える人物であることを確立するために使われなくてはなりません。どのような知識も常に主の奉仕に使うべきです。『バガヴァッド・ギーター』も同じことを確証しています。主の奉仕に使われていない「知識」はどれも無知にすぎません。高度な知識を正しく使って主の栄光を確立させることが何よりも大切なことです。主への奉仕に使われている科学的知識、そして同様の活動は全てハリ・キールタナ、すなわち主の栄光を讃えることになります。