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第11章

主クリシュナ、ドヴァーラカーに入る

sūta uvāca
ānartān sa upavrajya
svṛddhāñ jana-padān svakān
dadhmau daravaraṁ teṣāṁ
viṣādaṁ śamayann iva

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スータ・ゴースヴァーミーが言った:アーナルタス国[ドヴァーラカー]という名で知られる繁栄を極めた自らの都市の国境に到着した主は、住民たちの悲しみを和らげるかのように、吉兆なほら貝を吹き鳴らして帰還を知らせた。

解説

人々に愛される主は、クルクシェートラの戦争に加わるべく、繁栄を極める自分の都市ドヴァーラカーをかなりの期間離れて過ごしていたため、市民たちは主との別れの悲しみに包まれていました。主が地上に降誕する時、側近が王のお供をするように、永遠の交流者たちも共に地上に誕生します。そのような交流者は永遠に解放された魂であり、主への深い愛情のために、ほんの一瞬たりとも主と離れていることに耐えられません。だからこそドヴァーラカーの住民は、失意の中で主の帰りを今か今かと待ち続けていたのです。ですから、帰還を知らせる吉兆なほら貝の音は、長い間つらい思いをしてきた彼らの気持ちを生き返らせました。住民たちは主との再会を強く願っていたので、帰ってきた主をふさわしい方法で出迎えたいと思いました。これが、神への自然な愛情の印です。
sa uccakāśe dhavalodaro daro
’py urukramasyādharaśoṇa-śoṇimā
dādhmāyamānaḥ kara-kañja-sampuṭe
yathābja-khaṇḍe kala-haṁsa utsvanaḥ

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白く、そして丸々としたほら貝は、主クリシュナの手に握られて吹き鳴らされ、主の超越的な唇に触れたことで赤みがかったかのようにみえる。あたかも白鳥が赤い蓮華の花の茎のなかで戯れているかのようであった。

解説

主の唇に触れたことで白いほら貝が赤みがかって見えたことは、精神的な重要性を象徴しています。主は完全に精神的なお方であり、物質はこの精神的存在に関する無知ゆえに生じます。精神的悟りを持つ人にとって、物質などというものは存在せず、そしてその精神的啓発は、至高主シュリー・クリシュナとの接触によってすぐに得られます。主は全創造界の隅々に存在し、誰にでも自らを現すことができます。主への熱烈な愛情と奉仕によって、言い換えれば、主との精神的接触によって、全ては主の手に握られたほら貝のように精神的に赤くなり、高い知性を備えたパラマハンサは、主の蓮華の御足によって永遠に飾られた精神的至福の水に浮かぶ白鳥のように戯れるのです。
tam upaśrutya ninadaṁ
jagad-bhaya-bhayāvaham
pratyudyayuḥ prajāḥ sarvā
bhartṛ-darśana-lālasāḥ

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ドヴァーラカーの住民は、物質界の恐怖の権化さえも恐れるその音を聞き、あらゆる献身者を守る主との待ち望んでいた再会を果たすため、その主に向かって全速力で走っていった。

解説

すでに説明したように、主クリシュナが地上にいた時のドヴァーラカーの住民は皆、解脱の境地にある魂で、主の身近な交流者として主と共に降誕していました。精神的なつながりによって、主と離れることは一度もなかったのですが、彼らは主との交流を待ち望んでいました。ヴリンダーヴァナのゴーピーたちは、主クリシュナが牛の世話のために村から離れている時もずっと主のことを考えていましたが、そのゴーピーたちのように、ドヴァーラカーの住民も、主がクルクシェートラの戦争に行っていた間、ずっと主のことを考えていました。ベンガル地方で名の知れた小説家のひとりは、ヴリンダーヴァナのクリシュナと、マトゥラーのクリシュナと、ドヴァーラカーのクリシュナは別人だと結論づけました。しかし、史実から見てその結論は正しくありません。クルクシェートラのクリシュナとドヴァーラカーのクリシュナは、全く同じ人物なのです。
日中、太陽が出ていない時には気がふさいでしまうように、ドヴァーラカーの住民は、主がこの崇高な都にいないことから、ふさいだ気持ちで暮らしていました。主クリシュナが告げた音は、日の出の前触れのように響きました。そのため住民は、クリシュナという日の出によって、眠りから覚め、主を迎えるために急いで外に出て来ました。主の献身者は、主以外に自分を守ってくれる人を知らないのです。
主が吹き鳴らしたこの音は、これまで主の非二元性について説明してきたとおり、主そのものです。今、私たちが住んでいる物質存在は恐れに満ちています。食糧、住処、恐れ、子孫繁栄という物質存在の4つの問題のうち、恐れの問題は他の3つよりも私たちを苦しめます。次の瞬間にどのような問題が待ち構えているかを知らない私たちは、いつも何かを恐れています。物質存在全体が問題に満ちているため、恐れの問題は常に顕著に表れています。これは、私たちが主の幻想エネルギー、つまりマーヤーと関わっているからです。しかし主の聖なる御名を象徴する音が現れる時、どのような恐れでも、瞬く間に消え去ります。それが主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブが響かせた次の16の言葉です。
ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー /
ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー
この音を活用すれば、私たちは物質存在にあるさまざまな恐ろしい問題から解放されるのです。
tatropanīta-balayo
raver dīpam ivādṛtāḥ
ātmārāmaṁ pūrṇa-kāmaṁ
nija-lābhena nityadā
prīty-utphulla-mukhāḥ procur
harṣa-gadgadayā girā
pitaraṁ sarva-suhṛdam
avitāram ivārbhakāḥ

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主の前にたどりついた住民は、完全に満たされ、自己充実し、自らの力で絶え間なく人々に供給するその方に、さまざまな贈り物を差し出した。それは太陽に向かって灯明を捧げるようなものである。それでも住民は、幼い者が保護者や父親を迎えるように、歓喜の言葉を口にしながら主を迎えた。

解説

至高主クリシュナは、ここでアートマーラーマと呼ばれています。主は自ら充実し、自分以外の源から幸福を求める必要はありません。主が自己充実しているのは、主の超越的存在そのものが完全な至福に満たされているからです。主は永遠に存在しており、全てを認識し、あらゆる面で至福に満ちあふれています。ですから、どれほど高価な贈り物を主にしても、主が必要としているものではありません。それでも万民の幸福を願うお方ですから、純粋な献身奉仕として捧げられたものは何でも、誰からでも受け入れます。主はそのような物を必要とするわけではないのです。なぜならあらゆるものは主の力によって作り出されたものだからです。この節では、主に何かを捧げることは、太陽神を崇拝するときにランプを捧げる行為に例えられています。火がついたもの、あるいは光っているものはどれも太陽のエネルギーの表れですが、太陽神を崇拝するにはランプの火を捧げなくてはなりません。太陽の崇拝では、崇拝者が何かを要求しているのですが、献身奉仕ではどちら側にもそのような要求はありません。中心になっているのは、主と献身者との純粋な愛情と愛着の交換です。
主は全生命体の至高の父親ですから、この神とのなくてはならない絆について知っている人は、至高の父親に子どもとして何かを要求できますし、父親は取引などせずに従順な子どもの要求に応えてくれます。主はまさに望みの木であり、主のいわれのない慈悲のおかげで、誰もが何でも主から得ることができます。一方、至高の父親である主は、純粋な献身者の奉仕を妨げるようなものは授けません。主に奉仕をしている人々は、主の超越的な魅力によって、純粋な献身奉仕をする境地に高められるのです。
natāḥ sma te nātha sadāṅghri-paṅkajaṁ
viriñca-vairiñcya-surendra-vanditam
parāyaṇaṁ kṣemam ihecchatāṁ paraṁ
na yatra kālaḥ prabhavet paraḥ prabhuḥ

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住民が言った。「主よ。あなたはブラフマーのような全ての神々によって、4人のサナたちによって、そして天界の王からも崇拝されています。また、人生で最高の恩恵を心から求めている人々にとって究極の安らぎでもあります。あなたは至高の、そして超越的な主であり、逃れられない時の力でさえ、あなたに影響を及ぼすことはできません。

解説

『バガヴァッド・ギーター』、『ブラフマ・サンヒター』、他の権威あるヴェーダ経典で確証されているように、至高主とはシュリー・クリシュナのことです。主より偉大な者や等しい者は誰もいませんし、それが全ての経典の見解でもあります。時や空間の影響は、至高主の部分体であり、依存する立場にある生命体に及ぼされます。生命体は支配される側のブラフマン、一方で至高主は支配する側の絶対者です。この明白な事実を忘れてしまえば、すぐに幻想にとらわれ、その結果として、漆黒の闇に閉じ込められるように三重の苦しみに陥ります。認識する力を持つ生命体の澄み切った意識が神の意識であり、その意識を持つ魂はどのような状況でも主にひれ伏します。
bhavāya nas tvaṁ bhava viśva-bhāvana
tvam eva mātātha suhṛt-patiḥ pitā
tvaṁ sad-gurur naḥ paramaṁ ca daivataṁ
yasyānuvṛttyā kṛtino babhūvima

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宇宙の創造者よ。あなたは私たちの母親であり、幸福を願うお方であり、主であり、父親であり、精神指導者であり、そして私たちの崇拝する神です。あなたの足跡に従うことで、私たちは何をしても成功することができます。ですから、あなたの慈悲で私たちをいつまでも祝福してください。

解説

あらゆる面で優れている人格神は、宇宙の創造者であることから、優れた質を備える全生命体のために計画を立てます。善き生命体は主の善き助言に従うよう主に助言され、それに従うことで、生活のあらゆる面で成功することができます。主以外の神を崇拝する必要はありません。あらゆる力を備えた主は、私たちが主の蓮華の御足に従順であることに満足すれば、物質と精神両方の生活をうまくこなせるようあらゆる祝福を授けてくださいます。人間の姿は、精神的境地を達成して神との永遠の絆を理解できる機会です。その絆は永遠で、途切れることも、壊れることもありません。忘れている時期もあるでしょう。しかし、私たちが、あらゆる時代や場所で用意されている啓示経典の主の教えに従えば、主の恩恵によってその絆がよみがえるのです。
aho sanāthā bhavatā sma yad vayaṁ
traiviṣṭapānām api dūra-darśanam
prema-smita-snigdha-nirīkṣaṇānanaṁ
paśyema rūpaṁ tava sarva-saubhagam

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あなたがいらっしゃることによって、私たちは今日こうしてあなたの保護の元に再び戻って来ることができました。これは実に幸運なことです。なぜなら、あなたは天国の住人たちを訪ねることさえほとんどないからです。今、私たちは、あなたの愛情あふれるまなざしをたたえた笑顔を見ることができます。そして、あらゆる吉兆な印をたたえた崇高な姿を見ることができます。

解説

純粋な献身者だけが主の永遠な姿を見ることができます。主は決して非人格ではありません。主は至高絶対人格神です。高位惑星にいる住民ですら会うことはできませんが、献身奉仕を通してのみ主とお会いすることができるのです。ブラフマージーや他の神々たちが、主クリシュナの完全分身である主ヴィシュヌの意見を求める時は、主ヴィシュヌが白い地(シュヴェータドヴィーパ)に横たわっている乳海の岸辺で待たなくてはなりません。この乳海とシュヴェータドヴィーパ惑星は、物質界におけるヴァイクンタ・ローカの複製です。ブラフマージーやインドラのような神々たちでさえ、このシュヴェータドヴィーパの領域に入ることができず、乳海の岸辺に立って、クシーローダカシャーイー・ヴィシュヌとも呼ばれる主ヴィシュヌに伝言を伝えなくてはなりません。ですから、神々たちはほとんど主に会うことはできませんが、ドヴァーラカーの住人は、果報的活動や経験哲学に基づく推論などによる物質的な汚れのない純粋な献身者ですから、主の恩恵によって主に会うことができます。これが生命体の本来の境地であり、本来の自然な生活を回復させることによってその境地を達成することができます。そしてそれは献身奉仕を通してのみ達成できるのです。
yarhy ambujākṣāpasasāra bho bhavān
kurūn madhūn vātha suhṛd-didṛkṣayā
tatrābda-koṭi-pratimaḥ kṣaṇo bhaved
raviṁ vinākṣṇor iva nas tavācyuta

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蓮華の目を持つお方よ。あなたが友人や親族に会うためにマトゥラー・ヴリンダーヴァナやハスティナープラに向け出発される時はいつでも、あなたのいない歳月の一瞬一瞬が、百万年のように感じられます。完全無欠なお方よ、その時の私たちの目は、太陽を失ったかのように、全く無意味なものとなるのです。

解説

私たちは、神の存在を肉体の感覚で知覚できると思い上がっています。しかし、感覚そのものが絶対的ではないことを忘れています。ある条件下だけでしか機能しないのです。例えば目。私たちの目は、太陽が出ていればある程度機能します。しかしその光線がなくなった時には全く役に立ちません。主シュリー・クリシュナは根源の主、至高の真理者であるため、太陽に例えられます。主がいなければ、私たちの知識はどれも偽物、あるいは部分的な知識でしかありません。太陽の反対が暗闇であるように、クリシュナの反対はマーヤー、幻想です。主の献身者は、主クリシュナから放出される光のおかげで全てを正しい視点で見ることができます。主の恩恵で、純粋な献身者は無知の暗闇に入ることはありません。ですから、私たちはいつも主クリシュナに見つめられていなくてはなりません。そうすれば、自分とさまざまな力を持つ主を見ることができます。太陽がなければ何も見えないように、主の存在を知らなければ、自分自身すら見ることができません。主を忘れてしまえば、どのような知識も幻想に包まれてしまいます。
kathaṁ vayaṁ nātha ciroṣite tvayi
prasanna-dṛṣṭyākhila-tāpa-śoṣaṇam
jīvema te sundara-hāsa-śobhitam
apaśyamānā vadanaṁ manoharam
iti codīritā vācaḥ
prajānāṁ bhakta-vatsalaḥ
śṛṇvāno ’nugrahaṁ dṛṣṭyā
vitanvan prāviśat puram

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「主よ。あなたがいつも国の外にいらっしゃるなら、私たちは、あらゆる苦しみを打ち消すその美しいお顔を見ることができません。あなたなしで、どうして生きていけましょう」
臣民や献身者に優しい主は、献身者たちの話を聞いた後でドヴァーラカーの都に入り、超越的なまなざしを注ぎ、彼らの歓迎を受け入れた。

解説

主クリシュナの魅力には強い力があり、ひとたび主に魅了されれば、主との別離に耐えられなくなります。なぜでしょうか。それは、太陽の光と太陽が永遠に不可分の関係にあるように、私たちも主と永遠の絆を持っているからです。太陽光線は、太陽から放射される粒子で構成されています。そのため、太陽光線と太陽は切っても切れない関係にあります。その間に雲が入って視界が閉ざされても、それは一時的で見かけ上の現象にすぎません。雲がなくなれば、光線は太陽から放たれる本来の輝きを取り戻します。同じように、生命体は全体の魂の小さな部分であり、幻想の力、マーヤーによって主から離れた状態にあります。この幻想の力、つまりマーヤーのカーテンを取り除かなくてはなりません。それができれば、主との対面が可能になり、苦しみはすぐに消えてなくなります。誰でも人生の苦しみを取り除きたいと願っていますがその方法を知りません。その答えがこの節にあり、私たちがその方法を理解できるかどうかにかかっています。
madhu-bhoja-daśārhārha-
kukurāndhaka-vṛṣṇibhiḥ
ātma-tulya-balair guptāṁ
nāgair bhogavatīm iva

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ナーガローカの首都であるボーガヴァティーが、ナーガたちに守られているように、ドヴァーラカーも、ボージャ、マドゥ、ダシャールハ、アルハ、ククラ、アンダカなど、主クリシュナに匹敵する力を持つヴリシュニの子孫によって守られていた。

解説

ナーガローカ惑星は地球よりも下位にあり、そこに太陽の光は届いていない、と言われています。しかしその暗闇は、ナーガ(天界の蛇)たちの頭部にある宝石の光によって取り除かれ、その惑星にはナーガたちの楽しみのために美しい庭や川があると表現されています。この節でも、その場所は住民たちによって完全に守られている、と書かれています。同じようにドヴァーラカーの都も主が地上で自らの力を発揮する限り、主に匹敵する力を持つヴリシュニの子孫によって堅固に守られています。
sarvartu-sarva-vibhava-
puṇya-vṛkṣa-latāśramaiḥ
udyānopavanārāmair
vṛta-padmākara-śriyam

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ドヴァーラカープリーの都は、四季折々の富に満ちあふれている。あずまや、果樹園、花園、公園、蓮華の花が咲き乱れる池が随所に広がっている。

解説

人類の文化は自然からの贈り物を正しく使うことで完成します。この節で説明されているようにドヴァーラカーは、蓮華の花が咲き誇る池をたたえた花園や果樹園などに囲まれています。現代の都市には欠かせない、食肉処理場で支えられている工場や施設の描写はありません。自然界の贈り物を活用する傾向は現代文化人の心に今でも残っています。現代の指導者たちは、自然豊かな庭園や池などがあるところに自分たちの住居を構えていますが、公園も庭園もないような住宅密集地に一般の人たちを住まわせています。もちろん、この節にはそのような環境とは異なるドヴァーラカーの様子が描写されており、このダーマ、すなわち居住区は蓮華の花が咲く池を配した庭園や公園に囲まれていることが分かります。また全ての人が自然界の贈り物である果物や花の恵みにあずかり、不潔な家や貧民街を作り出す工場や製造施設もなかったことが分かります。文化の発達は、繊細な感性を失わせる加工場や生産施設で決まるのではなく、堅固な精神的本質を高め、神のもとに帰る機会を提供できるかどうかで決まります。工場施設の発達はウグラ・カルマ、すなわち劣悪な労働と呼ばれ、そのような活動は人間と社会の繊細な感性を衰えさせ、劣悪な人間の住む地下ろうを作る原因になります。
またここでは、季節を通じて花や果物を実らせる敬虔な木々についても述べられています。質の劣る木々は密林だけに生えるもので、燃料にしか使うことができません。今では、そのような木が道路沿いに植えられています。人間に備わった力は、人生の問題の解決の鍵となる、精神的理解を提供する繊細な感覚を高めるために正しく使われなくてはなりません。果物、花、美しい庭園、公園、そして蓮華の花が咲き乱れるなかをアヒルや白鳥が泳ぎまわる池、十分な牛乳やバターを供給してくれる牛などは、人体の繊細な細胞を高めるために欠かせません。これらの要素に反する加工場や製造工場や作業場といった地下ろうは、働く人々の心に邪悪な気質を作り出します。既得権益を持つ階級は働く人々を犠牲にして繁栄し、その結果として労使の間でさまざまな形で衝突が起こります。ドヴァーラカー・ダーマの説明は、人間文化の理想的な姿です。
gopura-dvāra-mārgeṣu
kṛta-kautuka-toraṇām
citra-dhvaja-patākāgrair
antaḥ pratihatātapām

訳語

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都の入り口、各家の扉、道路沿いの花づなのアーチ門は、主を歓迎するためにプランタンの木やマンゴーの葉といった祝賀の植物で見事に飾られている。旗、花輪、絵や言葉が描かれた看板などがそこかしこに日陰を作っている。

解説

特別の祭典を飾る印として、プランタンの木、マンゴーの木、果物、花など、自然界の贈り物が使われます。マンゴーの木、ヤシの木、プランタンの木は今でも縁起のよい植物と考えられています。この節に述べられている旗には、主の偉大な召使いであるガルダやハヌマーンが描かれています。献身者はそのような絵画や装飾を今でも崇敬しており、主を満足させるため、主の召使いにはさらなる敬意が払われます。
sammārjita-mahā-mārga-
rathyāpaṇaka-catvarām
siktāṁ gandha-jalair uptāṁ
phala-puṣpākṣatāṅkuraiḥ

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幹線道路、地下道、路地、市場、集会場は余すところなく清掃され、香り高い水が打たれていた。そして主を歓迎するために、果物、花、形のよい種がそこかしこにまかれていた。

解説

バラやケオラといった花を蒸留して作られた香水は、ドヴァーラカー・ダーマの幹線道路、舗道、路地をぬらすために使われました。また市場や集会場も完全に掃除されました。この節の説明から、ドヴァーラカー・ダーマは、多くの幹線道路、道路、公園、貯水池、集会場などで整備された大都市で、あらゆる場所が花や果物で飾られていたことが分かります。そして主を歓迎するために、そのような花や果物、きれいな種などが公共の場所にまかれていました。形の壊れていない幼苗(ルビ:ようびょう)期の穀物や果物は大変縁起のよいものとされ、今でもヒンドゥー社会ではよく祭典の日に使われています。
dvāri dvāri gṛhāṇāṁ ca
dadhy-akṣata-phalekṣubhiḥ
alaṅkṛtāṁ pūrṇa-kumbhair
balibhir dhūpa-dīpakaiḥ

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各住宅の扉の前には、凝乳、形のよい果物、サトウキビ、崇拝用の満杯の水差し、お香やろうそくといった吉兆な品々が置かれていた。

解説

ヴェーダの儀式に則った歓待の方法は決して形式的なものではありません。上記のように道路をただ飾るだけではなく、各人が用意できるだけのお香、ランプ、花、お菓子、果物など必要な品々を用いて主を崇拝することで、主を出迎えました。全てが主に捧げられ、その食べ物の残りは、集まった住民たちの間で分けられました。現代に見られるような味気ない歓迎ではなかったのです。どの家も同じ方法で主を迎える準備をしており、そのため道路沿いの家に住む人々もその食べ物の残りを住民たちと分かちあい、こうして祭典は滞りなく終わりました。食べ物を配ってこそ儀式が完全になるのであり、またそれがヴェーダ文化のしきたりです。
niśamya preṣṭham āyāntaṁ
vasudevo mahā-manāḥ
akrūraś cograsenaś ca
rāmaś cādbhuta-vikramaḥ
pradyumnaś cārudeṣṇaś ca
sāmbo jāmbavatī-sutaḥ
praharṣa-vegocchaśita-
śayanāsana-bhojanāḥ

訳語

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誰よりも愛しいクリシュナがドヴァーラカー・ダーマに近づいていることを聞き、寛大なヴァスデーヴァ、アクルーラ、ウグラセーナ、バララーマ(超人的な力を持つ方)、プラデュムナ、チャールデーシュナ、ジャーンバヴァティーの息子、サーンバなど、誰もが大きな幸せを感じて、休息することもくつろぐごとも、そして食べることも中断した。

解説

ヴァスデーヴァ シューラセーナ王の息子であり、デーヴァキーの夫である主シュリー・クリシュナの父は、クンティーの兄、そしてスバドラーの父です。スバドラーはいとこのアルジュナと結婚しています。この慣習はインドの一部の地域でまだ残っています。ヴァスデーヴァはウグラセーナ王に任命された大臣で、後にウグラセーナの兄弟デーヴァカの8人の娘たちと結婚しました。デーヴァキーはそのなかのひとりです。カンサはヴァスデーヴァの義理の兄弟にあたりますが、投獄生活を自ら引き受け、デーヴァキーの8番目の子をカンサに引き渡すことで互いに同意しました。しかしこれは、クリシュナの意思によって、計画通りにはいきませんでした。また、パーンダヴァ兄弟の母方の叔父だったことから、パーンダヴァ兄弟の浄化儀式に積極的に参加しています。僧侶カッシャパをシャタシュリンガ・パルヴァタに呼び、その儀式を執行しました。主クリシュナはカンサの牢獄の中に現れましたが、ヴァスデーヴァの手で、ゴークラに住むクリシュナの育ての親となるナンダ・マハーラージャの家に移されました。クリシュナはバララーマと共に、ヴァスデーヴァが他界する前にこの世界から去って行きましたが、アルジュナ(ヴァスデーヴァのおい)が、ヴァスデーヴァの他界後にその葬式を執行しています。
アクルーラ ヴリシュニ王家の最高指揮官で、主クリシュナの偉大な献身者です。アクルーラは、祈りを捧げるというたったひとつの献身奉仕の方法を通して成功の境地に達しました。彼はアフーカの娘のスータニーの夫でした。アルジュナがクリシュナの意志に従ってスバドラーを奪う時に、彼はアルジュナを支持しました。クリシュナとアクルーラは、アルジュナがスバドラーを無事に連れ去った時、アルジュナに会いに行っています。またふたりは、この出来事の後にアルジュナに贈り物をしました。アクルーラは、スバドラーの息子であるアビマニユ とウッタラー(マハーラージャ・パリークシットの母)の結婚式にも出席しました。アクルーラは、義理の父であるアフーカとは折り合いが悪かったのですが、ふたりとも主の献身者でした。
ウグラセーナ ヴリシュヌ王家の強大な王のひとりで、マハーラージャ・クンティボージャのいとこにあたります。別名をアフーカといいます。ウグラセーナに仕える大臣がヴァスデーヴァで、ウグラセーナの息子が強大なカンサです。このカンサが自身の父親を投獄し、マトゥラーの王座に就きました。主クリシュナと兄の主バラデーヴァの恩恵でカンサは殺され、ウグラセーナは再び王座に就くことができました。シャールヴァがドヴァーラカーを攻撃した時に勇敢に戦い、敵を撃退しました。また主クリシュナの神性についてナーラダジーに問いかけています。ヤドゥ王家が滅亡する運命にあった時、ウグラセーナはサーンバの体内から作られた鉄の塊の処理を任されました。その塊を砕いて細かくし、糊状にし、ドヴァーラカーの海岸の水と混ぜ合わせました。この後、ドヴァーラカーの都と王国で完全に飲酒を禁じました。彼は死後、解脱の境地に達しています。
バラデーヴァ ヴァスデーヴァとローヒニーの間に誕生した神聖な息子です。ローヒニーの愛する子、すなわちローヒニー・ナンダナという名前でも知られています。ヴァスデーヴァがカンサとの約束どおり投獄された時、バラデーヴァは母親ローヒニーと共にナンダ・マハーラージャのもとに預けられました。つまりナンダ・マハーラージャは、主クリシュナと同様に、バラデーヴァの育ての父親でもありました。主クリシュナと主バラデーヴァは異母兄弟ではありましたが、幼いころからいつも一緒に暮らしてきました。主バラデーヴァは至高人格神の完全分身であるため、主クリシュナに引けを取らないほどの特質と力を備えています。ヴィシュヌ・タットヴァ(神の範囲)に属します。ドラウパディーのスヴァヤンヴァラ儀式にシュリー・クリシュナと一緒に参加しました。シュリー・クリシュナの綿密な計画のもとでスバドラーがアルジュナに連れ去られた時、バラデーヴァはアルジュナに怒り、すぐに殺そうとしました。シュリー・クリシュナは親友のために、主バラデーヴァの足元にひれ伏し、怒りを抑えるようにとなだめました。こうしてシュリー・バラデーヴァは満足しました。またある時、カウラヴァたちに怒り、彼らの住む都市をヤムナー川の底深く沈めようとしました。カウラヴァたちは、主バラデーヴァの蓮華の御足に身を委ねることで、主を満足させました。実は主クリシュナの誕生の前の第7番目の子ですが、主の意志で、カンサの怒りから逃れるためにローヒニーの胎内に移されたのでした。そのため、シュリー・バラデーヴァの完全分身であるサンカルシャナという別名も持っています。主クリシュナと同じ力を持ち、献身者に精神的力を授けられることからバラデーヴァとして知られています。ヴェーダのなかでも、バラデーヴァの恩恵を授からなければ至高主を知ることはできない、と説かれています。バラは精神的な力のことであり、肉体の力を指しているのではありません。知識の乏しい人はバラを肉体の力と勘違いしています。しかし肉体の力で精神的な悟りは得られません。肉体の力は、体の終わりとともになくなりますが、精神的力は精神魂と共に次の生にまで受け継がれるため、バラデーヴァから授かった力は決して無駄にはなりません。その力は永遠であるため、バラデーヴァは全ての献身者にとって根源の精神指導者とされています。
シュリー・バラデーヴァは、サーンディーパニ・ムニの学校で、主シュリー・クリシュナの学友として共に学びました。子供の頃、シュリー・クリシュナと一緒に多くのアスラを殺しましたが、特にターラヴァナの森でデーヌカースラを殺した話がよく知られています。クルクシェートラの戦いでは中立の立場を貫き通し、戦争にならないよう最善を尽くしています。ドゥルヨーダナの味方だったのですが、中立の立場を変えませんでした。ドゥルヨーダナとビーマセーナが戦闘棒で戦った時には、その様子を見ていました。しかし、ビーマがドゥルヨーダナのベルトの下の太ももを攻撃したことから、その邪道な戦いの報復をしようとしました。そこで主シュリー・クリシュナは、バラデーヴァの怒りからビーマを救いました。しかし主バラデーヴァはビーマセーナに幻滅し、すぐにその場所から立ち去り、その直後にドゥルヨーダナは倒れ、絶命しました。アルジュナの息子のアビマニユ の葬式は主バラデーヴァによって執行されました。母方の叔父だったからです。パーンダヴァ兄弟たちは、あまりの悲しみに、誰ひとりとしてその葬式を執行することができませんでした。主バラデーヴァは物質界を去る時、自分の口から白い大蛇を出し、そのシェーシャナーガという蛇によって運ばれて行きました。
プラデュムナ カーマデーヴァの化身、またある見解ではサナット・クマーラの化身で、人格神主シュリー・クリシュナと、ドヴァーラカーの主要な女王ラクシュミーデーヴィー、つまりシュリーマティー・ルクミニーの間に生まれた息子です。アルジュナがスバドラーと結婚した時に祝福しに行ったひとりです。またシャールヴァと戦った大将軍のひとりでしたが、戦闘中に失神します。御者が彼を野営地まで運びましたが、プラデュムナはその行為を叱責しました。しかし結局、シャールヴァと再び戦って勝利を収めました。ナーラダジーからさまざまな神々について話を聞きました。また主シュリー・クリシュナの4人の完全拡張体のひとりで、三番目にあたります。父親であるシュリー・クリシュナにブラーフマナの栄光について尋ねたこともあります。ヤドゥ家の兄弟同士で戦った時、ヴリシュニ家の王のひとりボージャの手で殺害されました。死後、自分本来の立場に戻っていきました。
チャールデーシュナ シュリー・クリシュナとルクミニーデーヴィーのもうひとりの息子です。ドラウパディーのスヴァヤンヴァラ儀式の時に参列しました。兄弟や父親同様、偉大な戦士で、ヴィヴィニダカと戦って、彼を殺しました。
サーンバ ヤドゥ王家の偉大な英雄のひとりで、主シュリー・クリシュナとその妻ジャーンバヴァティーの間に生まれました。矢を射る技術をアルジュナから学び、マハーラージャ・ユディシュティラの統制時代の議員でした。マハーラージャ・ユディシュティラのラージャスーヤ・ヤジュナにも参加しています。ヴリシュニ家の人々がプラバーサ・ヤジュナに参加した時、サーンバの誉れ高い行動はサーティヤキによって、主バラデーヴァの前で語られました。マハーラージャ・ユディシュティラが行ったアシュヴァメーダ・ヤジュナに、父親である主シュリー・クリシュナと共に参加しました。ある時、リシたちの前で、兄弟たちによって妊婦のふりをさせられ、冗談のつもりで、どんな子が生まれるか当ててみるよう聞きました。リシたちは、鉄の塊が生まれてそれがヤドゥ家の兄弟間の争いの原因になる、と予言しました。翌朝、サーンバは鉄の塊を産み落とし、その塊の処理がウグラセーナに任されました。実はその後、予言されていた兄弟間の争いが起こり、サーンバはその争いで命を落としました。
この主クリシュナの息子たちは、それぞれ休息をとったりくつろいでいたり、食事をしていたりしていましたが、高尚な父親を迎えるために、全てを投げ出して、宮殿を飛び出して行きました。
vāraṇendraṁ puraskṛtya
brāhmaṇaiḥ sasumaṅgalaiḥ
śaṅkha-tūrya-ninādena
brahma-ghoṣeṇa cādṛtāḥ
pratyujjagmū rathair hṛṣṭāḥ
praṇayāgata-sādhvasāḥ

訳語

翻訳

彼らは、花を手にしたブラーフマナたちと馬車に乗り、主を目指して駆けつけた。その前には幸運の象徴である象たちが進み、ほら貝やラッパが吹き鳴らされ、ヴェーダ聖歌が唱えられた。こうして、愛情を込めた敬意を示したのである。

解説

偉大な人物を迎えるヴェーダ式の歓迎は、その人への愛情と崇敬を込めた尊敬の雰囲気に満ちています。この節ではそのような吉兆な歓迎の雰囲気を醸し出す品々について述べられ、そのなかにはほら貝、花、お香、飾られた象、そしてヴェーダ経典の節を唱える資格あるブラーフマナたちが含まれています。そのような歓迎の儀式は、迎える者と迎えられる者との間の誠実さに満ちています。
vāramukhyāś ca śataśo
yānais tad-darśanotsukāḥ
lasat-kuṇḍala-nirbhāta-
kapola-vadana-śriyaḥ

訳語

翻訳

同時に、数多くの名高い娼婦たちもさまざまな乗り物に揺られて道路を進んだ。主に会いたい一心でやってきた彼女たちの美しい顔はきらめく耳飾りで彩られ、その額の美しさを際立たせている。

解説

娼婦であっても、主の献身者であれば嫌悪する必要はありません。今でもインドの大都市にはたくさんの娼婦がいて、彼女たちは主の誠実な献身者です。運命のいたずらで、社会的にさげすまれるような仕事をしなくてはならないことがありますが、それが献身奉仕の妨げになるわけではありません。献身奉仕はどのような状況でも妨げられることはありません。この節の記述から、約5千年前の当時でさえ、主クリシュナの住むドヴァーラカーのような都市にも娼婦たちがいたことが分かります。これは、社会を適切に維持させるために娼婦の存在が必要だったことを物語っています。政府は酒屋を開店しますが、だからといって飲酒を奨励しているわけではありません。どうしても酒を飲みたいと思う人たちがいるため、大都市で禁酒法を制定してしまえば、酒の密売を助長する結果になることは周知の事実です。同じように、家庭で満たされない男性たちにはしかるべき便宜も必要であり、もし娼婦がいなければ、低い意識を持つ男性たちが他の人々を売春に駆り立てることになります。ですから、公に娼婦との関係を持つことができれば、社会の尊厳は維持されます。売春が助長されるような社会になるよりは、売春を職業とする人々の環境を整えるほうがまだましだといえます。真の矯正とは人々を主の献身者になるよう啓発することであり、その結果、暮らしを堕落させる要因を抑制することができます。
ヴィシュヌスヴァーミーのヴァイシュナヴァ派に属するシュリー・ビルヴァマンガラ・タークラという偉大なアーチャーリャは、世帯者として暮らしていた時、主の献身者でもあった、チンターマニという娼婦にすっかり心を奪われていました。ある夜タークラは、土砂降りの雨と雷の中、チンターマニの家を訪ねましたが、彼女はそのような恐ろしい夜に、タークラが荒れ狂う川を渡って来たことに仰天しました。そして、自分のようなつまらない女の肉や骨への執着が、もしも主の超越的な美しさへの愛着を育むために、主への献身奉仕に向けられるなら、あなたの執着心は適切に使われることになるでしょう、とタークラ・ビルヴァマンガラを戒めました。娼婦の言葉はタークラの人生を一転させ、やがて精神的悟りの道を歩き始めました。後にタークラはその娼婦を精神指導者として受け入れ、書き残した文献の中で、自分に正しい道を示してくれたチンターマニという名前を幾度か讃えています。
『バガヴァッド・ギーター』(9-32)で主はおっしゃっています。「プリターの子よ。卑しいチャンダーラの家庭に生まれても、あるいは不信心者の家庭に生まれても、さらに娼婦であっても、私への無垢な献身奉仕に身を委ねれば、人生の完成に到達できる。献身奉仕の道には、卑しい誕生や職業による障害など全くないからである。その道は、従う気持ちのある者に、大きく開かれている」
ドヴァーラカーの娼婦たちは、主に会いたくてたまらず、また全員無垢な献身者だからこそ、『バガヴァッド・ギーター』のこの言葉のように、解脱の道を進んでいることが分かります。ですから、社会に必要な唯一の矯正は、住民を主の献身者に変える組織立った努力をすることです。そうすることで天国の住民が有する質の全てが彼らの内に培われる、ということです。一方、献身者でない者たちには、どれほど物質的に高められていても優れた質は全くありません。その違いは、主の献身者は解脱の道を歩き、非献身者は物質的束縛につながる道をさらに進んでいることです。文化の発達の基準は、人々が正しく教化されているか、そして解脱の道を歩いているか、という点にあります。
naṭa-nartaka-gandharvāḥ
sūta-māgadha-vandinaḥ
gāyanti cottamaśloka-
caritāny adbhutāni ca

訳語

翻訳

優れた劇作家、芸術家、踊り手、歌手、歴史学者、系図学者、博識な吟唱家たちは、主の超人的な遊戯に感銘を受け、主への贈り物としてそれぞれの能力を次々と披露した。

解説

この節より、5千年前の社会においても人々は劇作家、芸術家、踊り手、歌手、歴史学者、系図学者、演説者たちを必要としていたことが分かります。ダンサー、歌手、役者などは主にシュードラ社会の人々の仕事ですが、博学な歴史学者、系図学者、演説者はブラーフマナ社会出身です。各自が特定の階級に属し、それぞれの家系で訓練を受けます。このような劇作家、踊り手、歌手、歴史学者、系図学者、演説者たちは通俗なことにはかかわらず、さまざまな時代や創造期での主の超人的な活動にまつわる話題を克明に表現します。また、それは年代順に描写されるわけではありません。どのプラーナでも、さまざまな時代や時や惑星にまつわる至高主に関連する歴史的事実だけが述べられています。それが年代順になっていない理由です。ですから現代の歴史学者は各史実をつなげて見ることができず、プラーナを想像上の話として解釈しています。
インドでは100年前でさえ、どの劇作家も至高主の超人的な活動を中心に話をしていました。一般の人たちは演劇を心から楽しみ、ヤートラーの劇団は主の超人的な活動を巧みに演じ、こうして学術的な資質はほとんどなく文字が読めない農民でさえ、ヴェーダ経典の知識に通じることができました。一般の人たちを精神的に啓発させるためにも、熟達した劇を演じる役者、踊り手、歌手、語り手たちが必要になります。系図学者は、特定の家族の子孫について完璧に説明をします。今でも、インドの巡礼地にいる案内者は、初めて訪れる人たちに完璧な家系図を示すことができます。この素晴らしい活動は時に、大切な情報を得ようとやって来る、より多くの観客を魅了します。
bhagavāṁs tatra bandhūnāṁ
paurāṇām anuvartinām
yathā-vidhy upasaṅgamya
sarveṣāṁ mānam ādadhe

訳語

翻訳

人格神、主クリシュナは市民たちに近づき、迎えに来た友人、親族、住民など、全ての人々それぞれにふさわしい敬意を払った。

解説

至高人格神は、決して非人格ではありませんし、献身者の気持ちに応えられないような命のない存在ではありません。この節にあるヤター・ヴィディ「当然の義務として」という言葉は重要です。主は「自分がなすべきこと」としてさまざまな称賛者や献身者に応えているのです。もちろん純粋な献身者は主以外に仕える人はいませんから、主もそのように接します。だからこそ主も純粋な献身者たちに当然の義務として対応します。つまり、純粋な献身者全てに気を配っている、ということです。主には姿がないと考える人々がいますが、主はそのような人々に個人的な興味を示しません。主は、各自の精神的意識の高まりに応じて生命体を満足させます。そしてそのような対応の例が、主を迎えに来たさまざまな人々を通して表されています。
prahvābhivādanāśleṣa-
kara-sparśa-smitekṣaṇaiḥ
āśvāsya cāśvapākebhyo
varaiś cābhimatair vibhuḥ

訳語

翻訳

全能の主は、最下級の人々を含む、居合わせた全ての人々に、頭を下げたり、挨拶を交わしたり、抱擁したり、手を取ったり、見つめたり、ほほ笑んだり、約束したり、恩恵を授けたりしながら、出迎えに応えた。

解説

主シュリー・クリシュナを迎える人たちには、ヴァスデーヴァ、ウグラセーナ、ガルガムニ、すなわち父親、祖父、教師から、娼婦、犬を食べるチャンダーラまで、さまざまな人々が含まれ、その全ての人たちが、それぞれの地位に応じて主から適切な挨拶を受けました。生命体は誰であっても主と分離した純粋な部分体ですから、必ず主との永遠の絆を持っています。純粋な生命体は、物質自然の様式の汚れに応じてさまざまな段階に分けられますが、主はその部分体がどのような物質的段階にいても彼らを等しく愛しています。主はこのような物質的生命体を主の王国に呼び戻すために降誕するのであり、知性のある人は、人格神が生命体に与えたその機会を活用します。主は誰であっても神の王国に入ることを拒みませんが、その世界を受け入れるかどうかは生命体にかかっています。
svayaṁ ca gurubhir vipraiḥ
sadāraiḥ sthavirair api
āśīrbhir yujyamāno ’nyair
vandibhiś cāviśat puram

訳語

翻訳

そして主の栄光を歌い、祝福を与える年長の親族たち、そして妻たちを伴った弱ったブラーフマナたちと共に、主は都に入って行った。他の人々も主の栄光を讃えていた。

解説

ブラーフマナたちは、将来の隠遁生活のために貯金をすることなど全く考えていませんでした。年をとって体が衰弱すると、妻と共に王の傘下に入り、王の栄光ある行動を讃えるだけで、生活に必要なもの全てを受け取ります。しかし、王にへつらっているというわけではありません。王たちは自らの行動ゆえに実際に誉れ高い存在であったのであり、、ブラーフマナたちによって、さらに威厳に満ちた、そして信心深い生活をするよう力づけられます。主シュリー・クリシュナはあらゆる栄光にふさわしく、ブラーフマナや他の人々も、主を讃えることでさらに誉れ高い存在になるのです。
rāja-mārgaṁ gate kṛṣṇe
dvārakāyāḥ kula-striyaḥ
harmyāṇy āruruhur vipra
tad-īkṣaṇa-mahotsavāḥ

訳語

翻訳

主クリシュナが公道を歩くと、ドヴァーラカーに住む貴婦人たちが、主を見ようと宮殿の屋上に上った。この出来事を盛大な祭典と考えていたのである。

解説

ドヴァーラカーという都会の女性が考えたように、主を見つめる行為そのものが素晴らしい祝典であることに疑いの余地はありません。これは、今でもインドの信仰心のあつい女性たちが従っていることです。特に、ジュラナやジャンマーシュタミーの祭典になると、女性たちは、主の超越的かつ永遠の姿が崇拝されている寺院に大挙して集まって来ます。寺院で祭られている主の超越的な姿は、主ご自身と全く同じです。そのような主の姿をアルチャ・ヴィグラハあるいはアルチャー化身といい、物質界にいる無数の献身者の奉仕を促進させるために、主が内なる力を通して分身させた姿です。物質的な感覚では主の精神的な気質を知覚できないために、主は、見た目には、土、木、石といった物質で作られているアルチャ・ヴィグラハの姿を受け入れますが、その物質の姿に汚れはいささかもありません。カイヴァリャ(唯一)であることから、主の内に物質はないのです。主は絶対唯一の存在ですから、全能の主は、物質概念に汚されることなく、どのような姿を通してでも現れることができます。ですから、一般的に催されている主の寺院での祭典は、約5千年前に主がドヴァーラカーにいた時の祭典と同じように行われます。精神的科学を知り尽くした権威あるアーチャーリャたちは、一般の人々のために規定原則通りに主の寺院を建設しますが、精神的科学を知らない知性に欠ける人々は、その素晴らしい崇拝行為を偶像崇拝と解釈し、彼らの理解を越えていることにもかかわらずいろいろと難癖をつけます。ですから、主の崇高な姿を見たい一心で主の寺院での祭典に参加する女性も男性も、主の崇高な姿を信じない者たちより1,000倍も尊いのです。
この節から、ドヴァーラカーの住民は皆、壮麗な宮殿を持っていたことが分かります。この都市の繁栄を物語っているのです。女性たちはそのパレードと主を見ようと宮殿の屋上に上がりました。道路にいる人々と交じらないため、彼女たちの尊厳は完璧に守られていたのです。男性との不自然な平等はありませんでした。女性の尊厳は、男性と離れていることでより優雅に保たれます。異性同士は無制限に交わるべきではありません。
nityaṁ nirīkṣamāṇānāṁ
yad api dvārakaukasām
na vitṛpyanti hi dṛśaḥ
śriyo dhāmāṅgam acyutam

訳語

翻訳

ドヴァーラカーの住人たちは、全ての美の源、完全無欠の主を定期的に見るのが習慣になっていたのだが、主を見飽きることは決してなかった。

解説

ドヴァーラカーの女性たちが宮殿の屋上に上がった時、完全無欠の主の美しい体をこれまで何度も見ていたことなど考えませんでした。これは、主を見る望みは決して満たされないことを物語っています。物質的なものは何度も見るとやがてその魅力を失ってしまうものであり、それが自然の摂理です。飽満の原理は物質的なものに生じますが、精神界には存在しません。この節の完全無欠という言葉には重要な意味があります。主は私たちへの慈悲心から地上に降誕しましたが、それでも完全無欠の状態にありました。生命体は間違いを犯します。なぜなら、物質界と接触することで本来の精神的正体を見失うため、物質の肉体は、物質自然界の法則によって誕生、成長、変質、維持、劣化、消滅という経過をたどるからです。しかし主の体は違います。本来の姿で降誕し、決して自然界の法則に影響されることはありません。主の体は存在するもの全ての源、私たちの経験を超えたあらゆる美しさの根源です。ですから、主の崇高な体を見ても絶対に、誰も見飽きることがありません。見る度に、さらに新しい美しさを感じるからです。超越的な名前、姿、気質、主にまつわる物事など、全ては精神的な表れであり、主の聖なる名前を唱えても、主の特質について語り合っても飽きることはありませんし、主に従う人々にも限界がありません。主は全ての源であり、なおかつ無限なお方なのです。
śriyo nivāso yasyoraḥ
pāna-pātraṁ mukhaṁ dṛśām
bāhavo loka-pālānāṁ
sāraṅgāṇāṁ padāmbujam

訳語

翻訳

主の胸には幸運の女神が住んでいる。月のようなその顔は、美しいものを求める人々の目にとっては飲水をたたえた器である。主の腕は、管理する立場にある神々たちが身を委ねる場所である。そして主の蓮華の御足は、主以外のことは語りも歌いもしない純粋な献身者たちが身を委ねる場所である。

解説

多くの人々が、多様な対象からさまざまな楽しみを探し求めています。幸運の女神の恩恵を得ようとする人々に対して、ヴェーダ経典は以下のような情報を提供しています。木は全て望みの木、建物は全てを金に変える石でできている主の超越的住処、チンターマニ・ダーマ※で、主は何千何万もの幸運の女神から深い敬意のこもった奉仕を受けている、と。主ゴーヴィンダはそこで、スラビ牛の世話をするという自分本来の仕事をなさっています。そして、主の容姿の美しさに心引かれる人は、この幸運の女神たちを見ることができるようになります。非人格論者は味気ない推論癖があるため、幸運の女神を見ることはできません。そして美しい創造物に魅了されている芸術家たちは、主の美しいお顔を見て完全な満足を感じるべきです。主のお顔は美しさの権化です。芸術家が語る美しい自然とは主のほほ笑みに他ならず、鳥たちの甘露なさえずりは、まさに主のささやく声そのものです。神々たちは宇宙の管理という管轄の奉仕を任されていますが、国にも管理奉仕を託されたちっぽけな神々がいます。彼らは競争者をいつも恐れていますが、主の腕に救いを求めれば、敵からの攻撃から守られます。管理奉仕に励む主の忠実な召使いは理想的な幹部であり、一般市民の利益を適切に守ることができます。それ以外のいわゆる管理者といわれる者たちは、自分たちが統治する人々を苦境に陥れる時代錯誤の象徴にすぎません。管理階級者は、主の腕の保護下にいれば安全です。一切万物の根本は至高主です。主はサーラムとも呼ばれますが、主について歌ったり語ったりする人々をサーランガ、純粋な献身者といいます。純粋な献身者は、いつも主の蓮華の御足を求めています。献身者はその蓮華に含まれる超越的な蜜を味わいます。そのような献身者は、いつも蜜を求めているミツバチに例えられます。ガウディーヤ・ヴァイシュナヴァ・サンプラダーヤの偉大な献身者でありアーチャーリャであるシュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーは、この蓮華の蜜について歌い、自分をミツバチと比べています。「我が主よ。私はあなたに祈りを捧げます。私の心は、蜜を求めるミツバチです。ですから、どうかそのような私の心に、全ての超越的蜜の源であるあなたの蓮華の御足という場所をお与えください。私は知っています。ブラフマーのような巨大な神々たちでさえ長い歳月をかけて深い瞑想をしても、あなたの蓮華の御足の爪から放たれている輝きが見えないことを。完全無欠なお方よ、それでも私はその大望を抱いています。身を委ねた献身者にあなたはとても慈悲深いからです。主マーダヴァよ、私は自分があなたの蓮華の御足に本物の献身の心を持っていないことも分かっています。しかし、あなたは私たちには想像もできないほどの力をお持ちですので、不可能も可能にすることができます。あなたの蓮華の御足は、天上の王国にある甘露さえ遠く及びません。だからこそ私はその御足にこれほど魅了されているのです。至上の、そして永遠なるお方よ。どうか私の心があなたの蓮華の御足に集中し、あなたへの超越的奉仕の甘露を味わえるようにしてください」。献身者は、主の蓮華の御足の元に置かれることで心から満たされ、あらゆる美しさをたたえた主の顔を見ようという気持ちも、主の力強い腕で守られたいという熱意もありません。生来謙虚な心を持っているからこそ、主はそのような献身者にいつも心を傾けていらっしゃるのです。

(※脚注)
cintāmaṇi-prakara-sadmasu kalpa-vṛkṣa-
lakṣāvṛteṣu surabhīr abhipālayantam
lakṣmī-sahasra-śata-sambhrama-sevyamānaṃ
govindam ādi-puruṣaṃ tam ahaṃ bhajāmi
(『ブラフマ・サンヒター』5-29)
sitātapatra-vyajanair upaskṛtaḥ
prasūna-varṣair abhivarṣitaḥ pathi
piśaṅga-vāsā vana-mālayā babhau
ghano yathārkoḍupa-cāpa-vaidyutaiḥ

訳語

翻訳

主がドヴァーラカーの道路を歩いている間、主の頭は白い日傘で陽光から守られていた。白い羽の扇が半円形に動き、花吹雪が道に舞い落ちる。黄色の衣服と花輪に飾られた主の様子は、あたかも黒い雲が太陽、月、稲妻、虹に同時に囲まれているかのように見える。

解説

太陽、月、虹、稲妻が空に同時に現れることはありません。太陽が照っていれば月の光はほとんど感じられませんし、雲と虹があれば稲妻は現れません。主の体の色は、みずみずしいモンスーンの雲に例えられます。主はこの節で雲に、そして主の頭上にかざされた白い日傘は太陽に例えられています。動物の毛を束ねた扇の動きが月に、花びらのシャワーは星々に例えられています。さらに、主の黄色い衣服が虹に例えられています。このような大気での現象や動きは同時には存在しないことから、ただ比較するだけで理解できるものではありません。このような現象は、主の想像を絶する力を考慮してこそ納得できるものです。主はあらゆる力を備えており、主がいれば、主の想像を絶する力によってどのような不可能なことでも可能になります。しかし、主がドヴァーラカーの道を歩いていた時に醸し出された情景は例えようもなく美しく、その様子は自然現象以外に比較できるものはないほどです。
praviṣṭas tu gṛhaṁ pitroḥ
pariṣvaktaḥ sva-mātṛbhiḥ
vavande śirasā sapta
devakī-pramukhā mudā

訳語

翻訳

主は、父の家に入ったあと、出迎えた母親たちに抱擁され、彼女たちの足元に頭をつけて敬意を表した。母親とは、デーヴァキー[主の実母]をはじめとする女性たちである。

解説

主クリシュナの父親ヴァスデーヴァは、主クリシュナの実の母であるシュリーマティー・デーヴァキーを筆頭とした、18人の妻たちが住む別々の住居を構えていたことが分かります。しかし、どの継母たちも主に等しく愛情を注いでいたことが次の節からも分かります。主クリシュナも、実母と継母を区別することはなく、出迎えたヴァスデーヴァの妻たち全員に敬意を表しています。経典にも7人の母親がいる、と書かれています。 (1) 実母、(2) 精神指導者の妻、(3) ブラーフマナの妻、 (4) 王の妻、 (5) 牛、(6) 乳母、(7) 大地、これらはすべて母親です。このシャーストラの教えから、父親の妻でもある継母も母親と同じです。父親は精神指導者のひとりと考えられるからです。宇宙の主である主クリシュナは、理想の息子としてふるまい、継母に対してどう接するかを私たちに教えてくださっています。
tāḥ putram aṅkam āropya
sneha-snuta-payodharāḥ
harṣa-vihvalitātmānaḥ
siṣicur netrajair jalaiḥ

訳語

翻訳

母親たちは息子を抱き締めた後に主を膝に乗せた。無垢な愛情から、母親たちの胸から母乳があふれ出している。歓喜に満たされた彼女たちは、涙で主を濡らすのだった。

解説

主クリシュナがヴリンダーヴァナにいたころ、牛たちの乳房でさえ、主への愛情ゆえに乳で濡れていました。主は、自分に愛情を寄せるどのような生物の乳首に乳をあふれさせることができるのですから、母親と同じ境地にいる継母たちが表した愛情の兆しは当然のことだったのです。
athāviśat sva-bhavanaṁ
sarva-kāmam anuttamam
prāsādā yatra patnīnāṁ
sahasrāṇi ca ṣoḍaśa

訳語

翻訳

そのあと主は、非の打ちどころのない数々の宮殿に入った。宮殿一つひとつに妻たちが住んでいたのだが、その数は16,000人以上にのぼった。

解説

主クリシュナには16,108人の妻がおり、その一人ひとりが生活に必要な屋敷や庭園を完全に備えた宮殿に住んでいました。これらの宮殿については、本書の第10編に詳述されています。どの宮殿も最上級の大理石で造られ、宝石の光で輝き、金のレースや刺しゅうで見事に装飾されたベルベットや絹のカーテンやカーペットで飾られていました。人格神は、あらゆる力、あらゆるエネルギー、あらゆる富、あらゆる美しさ、あらゆる知識、あらゆる放棄心を完全に備えた人物です。ですから主の宮殿には、主の望みを全て満たす環境が整えられていました。主は無限なお方ですから主の望みも無限であり、その供給も無限です。全てが無限ですから、この節ではサルヴァ・カーマム、つまり望みどおりの品々が全て備わっている、という簡潔な言葉が使われています。
patnyaḥ patiṁ proṣya gṛhānupāgataṁ
vilokya sañjāta-mano-mahotsavāḥ
uttasthur ārāt sahasāsanāśayāt
sākaṁ vratair vrīḍita-locanānanāḥ

訳語

翻訳

主シュリー・クリシュナの妃たちは、長く国外にいた夫を見る喜びを心の中で味わっていた。瞑想から目覚め、席からすぐに立ち上がり、社会の慣習に倣って顔を覆い、はにかむように主を見つめた。

解説

上記のように、主は16,108人の女王が住む自分の宮殿に入りました。これは、主がすぐさま自分自身を女王や宮殿の数だけ拡張し、それぞれの宮殿に同時に、そして別々に入った、ということを意味します。ここに主の内なる力を見ることができます。主は絶対唯一のお方ですが、望み通りに自分の精神的な姿を無数に拡張させることができます。シュルティ・マントラで確証されているように、絶対者は唯一のお方ですが、望んだ瞬間に自らを無数に拡張させることができます。この至高主の無数の拡張体は、この至高主の無数の拡張体は、完全な部分と分離した部分として現れます。分離した部分とは、主の力の現れのことで、完全部分とは主自らの現れです。このように、人格神は自らを16,108に拡張させ、同時に女王たちの宮殿に入りました。これがヴァイバヴァ、すなわち主の超越的な力です。そして、主はそれができるからこそ、ヨーゲーシュヴァラという名前でも知られています。一般的にヨーギーや神秘力を持つ生命体は、自分の体を最大で10倍ほどに拡張させることができますが、主は何千もの、あるいは際限なく望み通りに拡張させることができます。信仰心を持たない人々は、主クリシュナが16,000人以上の王女と結婚したことを聞いて驚きます。主クリシュナを自分と同じ人間と考え、限られた能力で主の力を判断するからです。ですから、主が持つ境界エネルギーによる現れにすぎない普通の生命体と主は、異なる段階にあることを知るべきであり、またエネルギーとエネルギーの源を、質的にはほとんど違いはなくても、同じものとして見てはなりません。女王たちも主の内なるエネルギーの現れであるため、エネルギーとエネルギーの源が崇高な遊戯という超越的な楽しみを永遠に交わしていると解釈すべきです。ですから、主がこれほど多くの女性と結婚したことを聞いても驚くに値しません。たとえ160億人の妻と結婚したとしても、主は自らの無限で無尽蔵のエネルギーを完全に表したわけではないと確信しなくてはなりません。主はたった16,000人の女性と結婚し、それぞれの宮殿に入ったのですがそれは、主は人類史上のどれほど力強い人間とも比較にならず、劣らないことを世に知らしめるためにそうなさったのです。ですから、誰も主と等しく、また主をしのぐ者はいません。主は、あらゆる面で常に偉大なお方です。「神は偉大である」という表現は、永遠の真理なのです。
ゆえに、クルクシェートラの戦いに加わるために長く国外にいた夫を、離れたところから見た女王たちは、深い瞑想から覚め、こよなく愛する夫を迎える準備をしました。ヤージュニャヴァルキャの宗教の教えによると、夫が家庭から離れている妻は、社会の行事に参加したり、化粧をしたり、笑ったり、どのような状況でも親族の家に行ってはいけない、とされています。これが、夫が家を離れている女性の誓いです。また、妻は汚れた格好で夫の前に姿を見せてはいけない、と言われています。宝石と清潔な衣服を身に着け、そして幸福な、あるいは楽しい気持ちで接しなくてはならない、とも言われています。主クリシュナの妃たちは全員瞑想し、主がいないことを考え、いつも主のことを瞑想していました。主の献身者は、主を瞑想しなければ一瞬たりとも生きられません。ですから、女王となってドヴァーラカーで主の遊戯に加わった幸運の女神たちも同じです。主がその場にいなければ、あるいは主を瞑想しなければ、主と離れていては生きていけないのです。ヴリンダーヴァナのゴーピーたちも、主が牛たちを森に連れて行っている間、片時も主を忘れることができませんでした。主クリシュナが村から離れている間、家にいるゴーピーたちは、主がやわらかい蓮華の御足で荒れた地面を歩いている姿を思って心配していました。その思いから沸き上がる法悦心に包まれたり、心を痛めたりしていました。それが主の純粋な交流者の境地であり、女王たちも、主がそばにいない時に法悦の境地に浸っていました。そして今、遠くから主を見た彼女たちは、これまで述べた女性としての誓いを含め、一切の家事を投げ出しました。シュリー・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティー・タークラによると、この出来事には、一連の心理状態が見られます。まず、座っていた席を立ち上がり、夫を見つめたかったものの、女性特有の恥じらいゆえに思いとどまっています。しかし強い法悦心ゆえに、その恥じらいよりも主を抱きしめたいという考えが強くなり、その結果、自分が置かれている状況を全て忘れました。この最も高い法悦の境地ゆえに形式的なことも社会的慣習も一切どうでもよくなり、主に会う道にある障害全てを克服することができました。これこそが、魂の主人、シュリー・クリシュナに会う完璧な境地なのです。
tam ātmajair dṛṣṭibhir antarātmanā
duranta-bhāvāḥ parirebhire patim
niruddham apy āsravad ambu netrayor
vilajjatīnāṁ bhṛgu-varya vaiklavāt

訳語

翻訳

恥じらいを感じていた女王たちは、抑えられない法悦境の強さから、まず心の奥底で主を抱き締めた。次に目で抱き締め、そして子どもたちに主を抱き締めに行かせた[それは自分たちが抱き締めることと同じである]。ブリグ家の筆頭者よ。しかし、あふれる思いを抑えようとしても、ひとりでに涙があふれてくるのだった。

解説

女王たちは、女性としての恥じらいゆえに、愛しい夫、主シュリー・クリシュナを抱き締められないでいたのですが、主を見つめたり、主を心の奥底に留めたり、そして我が子たちに主を抱かせたりすることでその思いを満たしました。それでも、本当に抱きしめたわけではありませんから、涙がとめどなくあふれるのでした。妻は、我が子に夫を抱かせることで間接的に夫を抱き締めます。その息子は母親の体の一部として成長したからです。息子を抱きしめることは、性的な点から見れば夫と妻の抱擁そのものとは言えませんが、愛情の点から見れば心が満たされる行為といえます。見つめ合うことで抱き締めるという方法は、愛する者同士の間ではさらに効果的なため、シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーの見解は、そのような夫と妻の感情交換に不適切なことはない、と説明しています。
yadyapy asau pārśva-gato raho-gatas
tathāpi tasyāṅghri-yugaṁ navaṁ navam
pade pade kā virameta tat-padāc
calāpi yac chrīr na jahāti karhicit

訳語

翻訳

主シュリー・クリシュナはいつでも妃たちの横にいるのと同時に、いつもひとりでいるのであり、彼女たちにとって主の御足は見る度に新しく思えた。幸運の女神はいつもひとところに落ち着くことなく動いているが、主の御足から離れることはできなかった。ならば、一度身を委ねたその御足から離れられる女性が、果たしているだろうか。

解説

束縛された生命体は、ひとところに定着しない性格を持つ幸運の女神に恩恵を求めています。この物質世界で生きている限り、どれほど賢い人であっても永遠に幸運ではいられません。世界のさまざまな場所に巨大な帝国が築かれ、強い皇帝が国を治め、数多くの幸運な人たちが現れましたが、やがて次々に姿を消していきました。これが物質自然の法則です。しかし精神界ではそのようなことはありません。『ブラフマ・サンヒター』によると、主は数え切れないほどの幸運の女神から深い敬意を込めて仕えられています。女神たちはいつも誰もいない場所で、主と一緒にいます。本来いつもひとところに落ち着くことなく動いている女神たちですが、主との交流からは尽きることのない新鮮な満足感が得られるため、主から一瞬たりとも離れることができません。主との精神的関係からは大きな活力と知恵が得られるため、主に一度身を委ねれば、主から離れることができなくなります。
生命体は、本来女性の立場にあります。男性あるいは楽しむ側にいるのが主であり、主のさまざまなエネルギーの表れは、もともと女性的です。『バガヴァッド・ギーター』で、生命体はパラー・プラクリティ、つまり優位のエネルギーと呼ばれています。物質要素はアパラー・プラクリティ、つまり下位のエネルギーです。そのようなエネルギーは常に使用者、あるいは享楽者の満足のために使われます。至高の享楽者は主自身であり、それは『バガヴァッド・ギーター』(5-29)でも述べられています。ですからそれらのエネルギーは、主への奉仕に直接使われる時に自然な色彩をよみがえらせ、その結果、エネルギーとエネルギーの源に違いはなくなります。
一般的に、何らかの奉仕をしている人は、政府や国内最高の享楽者の元で、何らかの地位を求めています。主は宇宙の内でも外でも万物における至高の享楽者ですから、主に雇われることで幸福になれます。主による至高の政府への奉仕に一度加われば、その奉仕をやめたいと思う人はいません。人間生活の最高完成は、主の至高の奉仕に参加できるよう願うことにあります。それが私たちをこの上ない幸せに導いてくれます。主と関係を持たずにいつも動いている幸運の女神を求める必要はありません。
evaṁ nṛpāṇāṁ kṣiti-bhāra-janmanām
akṣauhiṇībhiḥ parivṛtta-tejasām
vidhāya vairaṁ śvasano yathānalaṁ
mitho vadhenoparato nirāyudhaḥ

訳語

翻訳

主は、地上の重荷になっていた王たちを殺した後、安堵(ルビ:あんど)した。彼らは、馬、象、戦闘馬車、軍隊など、膨大な軍事力を得たことで傲慢(ルビ:ごうまん)になっていた。主自身はこの戦闘に参加しなかった。強大な政治家たちの間で敵意をあおり、彼らを衝突させただけである。主は、竹をこすり合わせて火を作り出す風のような存在である。

解説

この節に述べられているように、生命体は、神の創造物として表された物事を楽しむ存在ではありません。主は、自ら創造した一切万物の真の所有者、そして享楽者です。残念なことに、幻惑の力に影響された生命体は自然界の様式に指図されるままに偽の享楽者になっています。神になるという間違った考えで横柄になって思い違いをしている生命体たちは、さまざまな活動を通して物質的な力を身に付けたために地上の重荷になり、その結果、地球は健全な精神を持つ人々には住めない場所に変わり果てます。この状況をダルマスャ・グラーニヒ、つまり人類の力の誤用と言います。人間の力が間違って使われると、分別ある人々は、地球の重荷である邪悪な政治家が作り出す苦境に混乱させられるため、主はそのような人々を救うために内的エネルギーを通して降誕し、世界各地の物質的な政治家たちが作り出す苦境を緩和させるのです。主は、不要な政治家の誰かをひいきにすることはありませんが、自分の力でその政治家たちの間に敵意を作り出します。それはあたかも、空気が森の竹同士を摩擦させて火を起こす現象に似ています。山火事は空気の力で自然発生しますが、同じように、政治家たちの敵意も主の見えない計画によって作り出されています。望ましくない政治家たちは、偽りの経済力と政治力で横柄になるがゆえに、意見の対立をもとに争い、全力を使い果たして疲労困憊(ルビ:こんぱい)します。世界の歴史には主の意志がそのまま写し出されており、それは生命体たちが主への奉仕に没頭できるようになるまで続きます。『バガヴァッド・ギーター』(7-14)はこの事実を鮮明に述べています。その節では、「物質自然の三様式からなるこの私の聖なるエネルギーに打ち勝つことはたいそう難しい。だが私に身を委ねた者は容易にこれを乗り越えていく」と言われています。これは、結果にこだわる活動や推論的な哲学や空論では世界に平和や繁栄をもたらすことはできない、ということです。唯一の方法は至高主に身を委ねることであり、そのことで幻惑エネルギーの幻想から解放されます。
あいにく、破壊的な仕事をしている人々は人格神に身を委ねることができません。一流の愚か者たち、そして最低の人類といえます。学術的な知識を備えているように見えても、実は知識を奪われています。邪悪な心に満ち、いつも主の至高の力に対抗しています。非常に物質的な者は、常に物質的な力を求め、生命体について何も知らないために、救いようのない愚か者です。至高の精神的科学を知らないため、肉体の終わりと共に消滅する物質的科学に没頭しています。人間生活は主との失われた絆を取り戻すためにあるので、物質的な行いに没頭して、その機会を失っている彼らは最低の人類と言えます。知識を奪われている、と言えるのは、長年推測しても人格神という万物の至高善を知る境地に到達できないからです。そして、全員が邪悪な主義主張を持っており、その結果に苦しめられています。その代表者が、ラーヴァナ、ヒラニヤカシプ、カンサという物質的な英雄です。
sa eṣa nara-loke ’sminn
avatīrṇaḥ sva-māyayā
reme strī-ratna-kūṭastho
bhagavān prākṛto yathā

訳語

翻訳

その至高人格神シュリー・クリシュナが、いわれのない慈悲心から内的エネルギーを通してこの惑星に降誕し、自分にふさわしい女性たちとのふれあいを楽しんだ。あたかも通俗なことをしているかのように。

解説

主は結婚し、普通の世帯者のように暮らしました。確かに通俗なことに見えますが、16,108人の女性と結婚し、それぞれ別の宮殿に同時に住んでいたのですから、もちろんそれは通俗的なことではありません。ですから主が世帯者として自分にふさわしい妻たちと暮らしたことは決して俗なことではありませんし、妻たちとの行動は俗な性的関係として理解できるものではありません。もちろん、主の妻になった女性たちも普通の女性ではありません。主を夫として迎えるのは、何百万回ものタパスャ(苦行)を経た誕生の結果なのです。主はさまざまなローカや惑星や人間の間に降誕し、崇高な遊戯を繰り広げて束縛された魂たちを魅了させ、そして彼らを精神界での主の永遠な召使い、友人、両親、恋人にして、その世界で永遠に奉仕の交換を味わいます。物質界での奉仕はゆがんだ形で表されており、その関係は突然壊れ、悲しい結果を作り出します。物質自然によって束縛され、幻惑された生命体は、無知ゆえに、俗世界にある関係がはかないことも、欠点だらけであることも知りません。そのような関係が私たちを永遠の幸福に導くことはできませんが、その関係が主との間で築かれれば、物質の肉体を終えたあとに崇高な世界に移され、私たちが望む主との永遠の関係を築くことができます。ですから、主を夫として迎えた女性たちは俗界の生命体ではなく、献身奉仕を完成したことで、主と永遠の絆を持つ崇高な妻としての立場を得たのです。それがこの女性たちの特質でした。主はパラム・ブラフマ、すなわち至高人格神です。束縛された魂は地球だけではなく宇宙中のあらゆる場所において永久の幸せを探し求めていますが、それは魂の本質が精神的な火花であり、神の創造世界のどこへでも行くことができるからです。しかし、物質自然の様式に束縛されているため、宇宙船に乗って宇宙を移動しようとしても目指す星に到達することはできません。重力の法則が、囚人の足かせのように、その飛行士を縛り付けているのです。別の方法を使えばどこにでも行けるのですが、たとえ頂点の惑星に達したとしても、幾生涯をかけて探し求めた永遠の幸福は得られません。しかし迷いから覚めれば、ブラフマンの幸福を求めるようになります。その幸福が今まで探していた、しかも物質界では絶対に見つからない無限の幸福であることに気づくからです。もちろん、至高の存在であるパラブラフマンが物質界で幸福を求めることはありません。また主が説いている幸福の環境は物質界にあるはずがありません。主は非人格ではありません。主は無数の生命体の指導者、そして至高の存在ですから、姿がないわけがありません。私たちと同じ存在であり、個々の生命体にある性質を全て完全に備えています。私たちと同じように結婚しますが、その結婚は、私たちが束縛された状態で体験しているような通俗なものでも制約されたものでもありません。ですから、主の妻たちは普通の女性たちに見えても、実は誰もが解脱を達成した超越的な魂であり、内的エネルギーの完璧な現れなのです。
uddāma-bhāva-piśunāmala-valgu-hāsa-
vrīḍāvaloka-nihato madano ’pi yāsām
sammuhya cāpam ajahāt pramadottamās tā
yasyendriyaṁ vimathituṁ kuhakair na śekuḥ

訳語

翻訳

女王たちの美しいほほ笑みとひそやかなまなざしは、無垢で人をときめかせるものであり、その魅力は、動揺したキューピッドに弓を落とさせることで彼を打ち負かしたほどで、さらには忍耐強いシヴァでさえとりこにしてしてしまう。しかし女王たちのそのような神秘的な力や魅力をもってしても、主の感覚を乱すことはできなかった。

解説

救済への道、すなわち神のもとに帰る修行の道では、女性との交際は常に禁じられており、また完全なサナータナ・ダルマ、あるいはヴァルナーシュラマ・ダルマの制度では、女性との交わりは禁止、または制限されています。だとしたら、16,000人以上の妻をめとったという至高人格神をそのまま受け入れることができるでしょうか。これは、至高主の超越的な気質を知ろうとする探求心ある人々の正直な質問です。そのような質問に答えるため、ナイミシャーラニヤの聖者たちは、この節と次に続く節で主の超越的な気質について話し合っています。この節で明確なことは、キューピッドや、誰よりも忍耐心のある主シヴァをも征服できる女性の魅力でさえ、主の感覚は征服できない、ということです。キューピッドの役割は、俗な情欲を高めることです。全宇宙がそのキューピッドの矢に刺激されて動いています。世界の活動は、男女間の執着が中心になって行われています。男性は自分の好みに応じた女性を求め、女性は自分にふさわしい男性を探しています。物質的な刺激はそのようにして発生します。そして男性が女性と結ばれたときから、生命体の物質的な束縛は性的関係を通して固く結ばれ、その結果として、楽しい家庭、母国、子孫、社会、友人関係、財産の蓄積などに対する執着が幻の活動の場となり、こうして偽の、しかし同時に苦しみだらけの一時的な物質存在に対する飽くことのない執着が生まれます。ですから、ふるさとへ、神のもとへ帰る救いの道を歩く人々には、物質的な執着という環境にとらわれないようにあらゆる経典の教えが示されています。そして、それはマハートマーという主の献身者との交流だけが可能にしてくれるものです。キューピッドは生命体たちに矢を放ち、そのふたりが美しかろうが美しくなかろうが、異性を強く求めるよう仕向けます。キューピッドの誘惑は、文化人からすれば醜い姿を持つ動物社会の中でさえも変わることなく続けられています。このように、キューピッドの力は最も醜い生物たちの間でさえ表されるのですから、完璧な美しさを備えた生命体の間にあることは言うまでもありません。最も忍耐強いとされる主シヴァでさえ、キューピッドの矢を浴び、主のモーヒニーの化身に心を奪われたために、自分が誘惑に負けたことを認めました。しかしそのキューピッドでさえ、幸運の女神の品格ある、魅惑的な振る舞いに惑わされ、欲求不満から弓と矢を捨てます。それが主クリシュナの女王たちの美しさと魅力です。しかしその彼女たちでも、主の超越的な感覚を乱すことはできませんでした。これは、主があらゆる面で完璧なアートマーラーマ、すなわち自己充足した方だからです。主は、自ら満足するのに誰かに助けてもらう必要はありません。ですから、女王たちは女性的魅力では主を満足させることはできなかったものの、誠実な愛情と奉仕によって主を満足させることができました。純粋無垢で、崇高な愛情奉仕だけが主を満足させることができるのであり、そして主も、彼女たちの愛情奉仕に喜んで応えようとされます。主は、妻たちの無垢な奉仕だけに満足し、情熱的な夫のようにその奉仕に応えます。さもなくば、これほど多くの妻の夫になる必要はどこにもありません。主は誰にとっても夫ですが、主をそのように受け入れる人に、主はお応えになります。主に対するこのような無垢な愛情は俗な欲情とは比較にもなりません。純粋で超越的なのです。そして女王たちが自然な女性らしさから気品あふれる振る舞いをしたこともやはり超越的です。その感情が超越的な法悦の心から表されたものだからです。先の節ですでに説明されましたが、主は一見ありきたりの夫に見えても、実は、主の妻との関係は超越的で、純粋で、そして物質自然の様式には汚されていませんでした。
tam ayaṁ manyate loko
hy asaṅgam api saṅginam
ātmaupamyena manujaṁ
vyāpṛṇvānaṁ yato ’budhaḥ

訳語

翻訳

物質主義的で、束縛された一般の魂たちは、主を自分たちと同じ人間のひとりであると勝手に考えている。無知なために、実際はそうではないが、主は物質の影響を受ける、と考える。

解説

アブダハという言葉はこの節で重要な意味があります。愚かで俗な論争者は、無知ゆえに至高主を誤解し、何も知らない人々の間で愚かな推論を言い広めています。至高の主シュリー・クリシュナは根源の人格神であり、降誕して人々の前に姿を見せたとき、神としての完全かつ神聖な力をあらゆる活動を通して示しました。『シュリーマド・バーガヴァタム』の最初の節で説明したように、主は望むことを思い通りにできるのですが、その行動全てが至福と知識と永遠性に満たされています。『バガヴァッド・ギーター』やウパニシャッドで確証されている主の知識と至福に満ちた永遠の姿を知らない愚かな俗人だけが、主を誤解します。主のさまざまな力は自然な順序という完璧な計画の中で実現され、主はその力の代表者を通して全てを行うことで、永遠に、完璧に自立した人物として居続けます。主はさまざまな生命体に対するいわれのない慈悲心から、自らの力を通して物質界に降誕します。自然の物質様式という条件に一切影響されず、本来の姿で降誕されます。推論者たちは至高の人物である主を誤解し、説明不可能なブラフマンとして存在する非人格的な姿が全てである、と考えます。そのような考え方も束縛された生活から作り出されるものです。自分の能力の範囲を出られないからです。ですから、俗人だけが主を自分の限られた能力で判断しようとします。そのような人は、人格神が物質自然の様式に決して影響されないことを確信することができません。太陽がいついかなる時でも伝染性の物質に影響されないことを理解できないのと同じです。推論者は、自分が経験した知識という基準と比較して全てを理解しようとします。そのため彼らは、主が1万6千人、あるいはそれ以上の女性とすぐに結婚できるという事実をよく考えもせずに、主も物質に縛られている俗人のように行動するのだから、自分たちと同じ人間であると考えます。このような人々は、貧弱な知識ゆえに物事の一面だけを受け入れて、別の面を受け入れようとはしません。これは、ただ無知のために自分なりの結論に従って主クリシュナを自分と同類のように考えている、ということであり、それは『シュリーマド・バーガヴァタム』の見解からすれば、ばかげており、また信頼できるものではありません。
etad īśanam īśasya
prakṛti-stho ’pi tad-guṇaiḥ
na yujyate sadātma-sthair
yathā buddhis tad-āśrayā

訳語

翻訳

これが人格神の持つ神聖な特質である。主は物質自然界と関わっていても、その質には影響されない。同じように、主に身を委ねた献身者も物質の影響は受けない。

解説

ヴェーダとヴェーダ文献(シュルティとスムリティ)では、神の内に物質的な特性は一切ない、と言われています。主は全く超越的(ニルグナ)であり、全てを認識する至高の人物です。人格神、ハリは、物質的欠陥の範囲を超えた境地にいる至高かつ超越的人物です。この言葉は、アーチャーリャ・シャンカラさえ確証しています。主と幸運の女神の関係は確かに超越的かもしれない、しかし、主が誕生したヤドゥ王家との関係、あるいはジャラーサンダなど、物質自然の様式に直接関わっているアスラたちとの関係はどうなのか、と反論する人もいるでしょう。その質問に対し、人格神の神性は、どのような状況にあっても物質自然の質とは全く関わりがない、と答えることができます。主は万物の究極の源であるため、実際にそのような質と接触しますが、それらの質の動きを超えています。そのため主はヨーゲーシュヴァラ、つまり神秘的力の主という名前で知られていますが、それはあらゆる力を持つという意味も含まれています。主の博識な献身者たちも物質自然の様式の影響を受けません。ヴリンダーヴァナの偉大な6人のゴースヴァーミーは、非常に裕福で高貴な家族の生まれで、修行僧の生活を始めた時、見かけはみすぼらしい生活をしているように見えましたが、実は精神的な価値を全て備えていました。そのようなマハー・バーガヴァタ、一流の献身者は、人々に交ざって活動していても、名誉や侮辱、飢えや満足、眠りや弱さといった物質自然の三様式の結果として表れる気質に汚されることはありません。同じように、中には世俗的な交流に関わっている献身者もいますが、その影響を受けているわけではありません。このようなバランスの取れた生活ができなければ、超越性に位置しているとは言えません。神と神の交流者は同じ超越的な境地にあり、両者の栄光はいつでもヨーガマーヤーという主の内なる力の動きにより神聖になっています。主の献身者は、時には堕落した振る舞いをしているように見えてもいつでも超越的です。主は『バガヴァッド・ギーター』(9-30)で、純粋無垢な献身者は過去の物質的な汚れのために堕落したとしても、完全に超越的な境地にあるとされています。それは、主への献身奉仕に完全に打ち込んでいるからです。主は、主への奉仕にいつも励んでいる献身者をいつも守り、堕落した状態に陥っても、それは不慮の出来事、あるいは一過性のものと判断されます。すぐに消え去っていくものなのです。
taṁ menire ’balā mūḍhāḥ
straiṇaṁ cānuvrataṁ rahaḥ
apramāṇa-vido bhartur
īśvaraṁ matayo yathā

訳語

翻訳

純真でしとやかな彼女たちは、夫である主シュリー・クリシュナが自分たちに従い、そして支配されているものと考えていた。主が至高の支配者であることを無神論者が知らないように、夫の果てしない栄光を知らなかったのである。

解説

主シュリー・クリシュナの超越的な妻たちでさえ、主の計り知れない栄光を知り尽くしてはいませんでした。しかしこの無知は俗なものではありません。なぜなら主と主の永遠の交流者が交わす感情には、主の内なるエネルギーが働いているからです。主は、所有者、主人、友人、息子、愛人という5種類の超越的な関係を通して献身者と気持ちを交わし、それぞれの遊戯においてヨーガマーヤー、内なるエネルギーを通してその役を完全に演じます。主は、同等の立場にいる友だちのひとりとして、牛飼いの男の子たちやアルジュナのような友人と行動します。ヤショーダーマーターのいる前ではその愛息のように、また牛飼いの乙女たちの前ではまさに恋人のように、そしてドヴァーラカーの女王たちの前では夫のように振る舞います。主のそのような献身者たちは、主を至高主とは決して考えてはおらず、あたかも普通の友人として、愛息として、あるいは恋人、夫、そして身も心も捧げた相手のように考えています。それが主と、そして無数のヴァイクンタ惑星で満たされた精神界で主の交流者として交わっている、超越的な献身者たちの関係です。主が降誕する時は、超越的世界の全貌を示すために現れます。その世界には、主の創造界を支配しようという俗な感情はなく、主への純粋な愛情と献身だけが広がっています。主のそのような献身者は全て、外的エネルギーに左右されない境界エネルギー、あるいは内的エネルギーを完璧に表している自由な魂たちです。感情の交換が妨げられないように、また妻たちが主のことを、誰もいないところでは自分の言う通りになると考えるように、彼女たちは、主の内的エネルギーによって主の計り知れない栄光を忘れています。言い換えると、主と身近に交流している献身者でも、主のことを完全には知らないということですから、評論家や推論家に主の崇高な栄光が分かるものでしょうか。推論者は、主が創造の原因であること、創造の材料を提供していること、創造の物質的で効果的な原因である、などとさまざまな理論を展開しますが、どれも主に関する部分的な知識にすぎません。実は、彼らも一般人と同じほど主について無知なのです。主については、主の慈悲があってこそ理解できるのであり、他の方法では分かりません。しかし、主と主の妻たちとの関係は、純粋な愛情と献身に基づいているため、どの妻も物質的な汚れの一切ない超越的な境地にいるのです。
これで、『シュリーマド・バーガヴァタム』の第1編・第11章、表題「主クリシュナ、ドヴァーラカーに入る」に関するバクティヴェーダンタの要旨解説を終了します。