シュリーマド・バーガヴァタム 1.11.34
節
evaṁ nṛpāṇāṁ kṣiti-bhāra-janmanām
akṣauhiṇībhiḥ parivṛtta-tejasām
vidhāya vairaṁ śvasano yathānalaṁ
mitho vadhenoparato nirāyudhaḥ
akṣauhiṇībhiḥ parivṛtta-tejasām
vidhāya vairaṁ śvasano yathānalaṁ
mitho vadhenoparato nirāyudhaḥ
訳語
evam — こうして; nṛpāṇām — 王たち、あるいは政治家たちの; kṣiti-bhāra — 地球の重荷; janmanām — そのように生まれた; akṣauhiṇībhiḥ — 馬、象、馬車、軍などの軍事力によって勢力を得て; parivṛtta — そのような環境のために思い上がって; tejasām — 力; vidhāya—作り出して; vairam — 敵意; śvasanaḥ — 風と管植物との相互の影響; yathā — そのように; analam — 火; mithaḥ — 互いに; vadhena — 彼らを殺すことで; uparataḥ — 救った; nirāyudhaḥ — そのような戦いに主自ら加わることなく。
翻訳
主は、地上の重荷になっていた王たちを殺した後、安堵(ルビ:あんど)した。彼らは、馬、象、戦闘馬車、軍隊など、膨大な軍事力を得たことで傲慢(ルビ:ごうまん)になっていた。主自身はこの戦闘に参加しなかった。強大な政治家たちの間で敵意をあおり、彼らを衝突させただけである。主は、竹をこすり合わせて火を作り出す風のような存在である。
解説
この節に述べられているように、生命体は、神の創造物として表された物事を楽しむ存在ではありません。主は、自ら創造した一切万物の真の所有者、そして享楽者です。残念なことに、幻惑の力に影響された生命体は自然界の様式に指図されるままに偽の享楽者になっています。神になるという間違った考えで横柄になって思い違いをしている生命体たちは、さまざまな活動を通して物質的な力を身に付けたために地上の重荷になり、その結果、地球は健全な精神を持つ人々には住めない場所に変わり果てます。この状況をダルマスャ・グラーニヒ、つまり人類の力の誤用と言います。人間の力が間違って使われると、分別ある人々は、地球の重荷である邪悪な政治家が作り出す苦境に混乱させられるため、主はそのような人々を救うために内的エネルギーを通して降誕し、世界各地の物質的な政治家たちが作り出す苦境を緩和させるのです。主は、不要な政治家の誰かをひいきにすることはありませんが、自分の力でその政治家たちの間に敵意を作り出します。それはあたかも、空気が森の竹同士を摩擦させて火を起こす現象に似ています。山火事は空気の力で自然発生しますが、同じように、政治家たちの敵意も主の見えない計画によって作り出されています。望ましくない政治家たちは、偽りの経済力と政治力で横柄になるがゆえに、意見の対立をもとに争い、全力を使い果たして疲労困憊(ルビ:こんぱい)します。世界の歴史には主の意志がそのまま写し出されており、それは生命体たちが主への奉仕に没頭できるようになるまで続きます。『バガヴァッド・ギーター』(7-14)はこの事実を鮮明に述べています。その節では、「物質自然の三様式からなるこの私の聖なるエネルギーに打ち勝つことはたいそう難しい。だが私に身を委ねた者は容易にこれを乗り越えていく」と言われています。これは、結果にこだわる活動や推論的な哲学や空論では世界に平和や繁栄をもたらすことはできない、ということです。唯一の方法は至高主に身を委ねることであり、そのことで幻惑エネルギーの幻想から解放されます。
あいにく、破壊的な仕事をしている人々は人格神に身を委ねることができません。一流の愚か者たち、そして最低の人類といえます。学術的な知識を備えているように見えても、実は知識を奪われています。邪悪な心に満ち、いつも主の至高の力に対抗しています。非常に物質的な者は、常に物質的な力を求め、生命体について何も知らないために、救いようのない愚か者です。至高の精神的科学を知らないため、肉体の終わりと共に消滅する物質的科学に没頭しています。人間生活は主との失われた絆を取り戻すためにあるので、物質的な行いに没頭して、その機会を失っている彼らは最低の人類と言えます。知識を奪われている、と言えるのは、長年推測しても人格神という万物の至高善を知る境地に到達できないからです。そして、全員が邪悪な主義主張を持っており、その結果に苦しめられています。その代表者が、ラーヴァナ、ヒラニヤカシプ、カンサという物質的な英雄です。