シュリーマド・バーガヴァタム 1.11.9
節
yarhy ambujākṣāpasasāra bho bhavān
kurūn madhūn vātha suhṛd-didṛkṣayā
tatrābda-koṭi-pratimaḥ kṣaṇo bhaved
raviṁ vinākṣṇor iva nas tavācyuta
kurūn madhūn vātha suhṛd-didṛkṣayā
tatrābda-koṭi-pratimaḥ kṣaṇo bhaved
raviṁ vinākṣṇor iva nas tavācyuta
訳語
yarhi — ~の時はいつでも; ambuja-akṣa — 蓮華の目を持つお方よ; apasasāra — あなたが行ってしまわれる; bho — おお; bhavān — あなたご自身; kurūn — クル王の子孫; madhūn — マトゥラー(ヴラジャブーミ)の住民たち; vā — どちらも; atha — ゆえに; suhṛt-didṛkṣayā — 彼らに会うために; tatra — その時; abda-koṭi — 数百万年; pratimaḥ — のように; kṣaṇaḥ — 瞬間; bhavet — ~になる; ravim — 太陽; vinā — ~なしで; akṣṇoḥ — 目の; iva — そのようなもの; naḥ — 私たちの; tava — あなたの; acyuta — おお、完全無欠なお方よ。
翻訳
蓮華の目を持つお方よ。あなたが友人や親族に会うためにマトゥラー・ヴリンダーヴァナやハスティナープラに向け出発される時はいつでも、あなたのいない歳月の一瞬一瞬が、百万年のように感じられます。完全無欠なお方よ、その時の私たちの目は、太陽を失ったかのように、全く無意味なものとなるのです。
解説
私たちは、神の存在を肉体の感覚で知覚できると思い上がっています。しかし、感覚そのものが絶対的ではないことを忘れています。ある条件下だけでしか機能しないのです。例えば目。私たちの目は、太陽が出ていればある程度機能します。しかしその光線がなくなった時には全く役に立ちません。主シュリー・クリシュナは根源の主、至高の真理者であるため、太陽に例えられます。主がいなければ、私たちの知識はどれも偽物、あるいは部分的な知識でしかありません。太陽の反対が暗闇であるように、クリシュナの反対はマーヤー、幻想です。主の献身者は、主クリシュナから放出される光のおかげで全てを正しい視点で見ることができます。主の恩恵で、純粋な献身者は無知の暗闇に入ることはありません。ですから、私たちはいつも主クリシュナに見つめられていなくてはなりません。そうすれば、自分とさまざまな力を持つ主を見ることができます。太陽がなければ何も見えないように、主の存在を知らなければ、自分自身すら見ることができません。主を忘れてしまえば、どのような知識も幻想に包まれてしまいます。