Default ViewAdvanced
Dual Language
訳語
翻訳
解説

第8章

パリークシット王の問い

rājovāca
brahmaṇā codito brahman
guṇākhyāne ’guṇasya ca
yasmai yasmai yathā prāha
nārado deva-darśanaḥ

訳語

翻訳

パリークシット王はシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーに尋ねた。ナーラダ・ムニの教えを聞く者は、主ブラフマーから教えを授かった者たちと同じくらい幸運だと言えますが、そのナーラダ・ムニは、物質的な質を持たない主の超越的な質についてどのように説明し、そして誰にそれを語ったのですか?」

解説

 デーヴァリシ・ナーラダはブラフマージーから直接教えを授かっており、そのブラフマージーは至高主から直接教えを授かりました。したがって、ナーラダから彼の弟子たちに与えられた教えは至高主の教えと同じほどにすばらしいものです。これこそがヴェーダの知識を理解する方法です。知識は師弟継承を通じて主から授けられるのであり、この超越的な知識はこのように上から下へと伝えられる形で世界中に広められます。しかし憶測によってヴェーダ知識を受け取ることは不可能です。ナーラダ・ムニはどこへ現れるにしても主によって権限を与えられた者としてふるまうため、彼の出現は至高主の出現と同じくらいすばらしいことなのです。同様に、超越的な教えに厳格に従う師弟継承が正真正銘の師弟継承であり、真正な精神指導者を見極める基準は、主から献身者へ授けられた知識と、師弟継承上の権威者によって与えられた知識の間に違いが存在しないことです。ナーラダ・ムニがどのようにして主の超越的な知識を広めたのかについては続く編にて説明されていきます。
 また主は物質創造以前に存在しており、それゆえ主の超越的な御名や資質などはどんな物質的な質も表さないということが明らかになっていきます。ですから主がアグナ、つまり何の質も持たないと描写されている場合、主には何の質もないということではなく、束縛された魂が持つような徳、激情、無知の様式などの物質的な質を持たないという意味なのです。主はあらゆる物質的な概念を超越しているため、アグナと呼ばれているのです。
etad veditum icchāmi
tattvaṁ tattva-vidāṁ vara
harer adbhuta-vīryasya
kathā loka-sumaṅgalāḥ

訳語

翻訳

王は言った。「私はぜひ知りたいのです。すばらしい力を持つ主に関する叙述は、あらゆる惑星に生きる生命体にとって間違いなく吉兆です。」

解説

 至高主の活動に関する叙述に溢れる『シュリーマド・バーガヴァタム』は、全ての惑星に住むあらゆる生命体にとって吉兆なものです。この書物を、ある特定の宗派に属するものとして捉える人は間違っています。もちろん『シュリーマド・バーガヴァタム』は、主の全ての献身者にとって重要な経典ですが、献身者ではない人々にとっても貴重なものです。なぜなら、たとえ物質エネルギーに惑わされた非献身者であっても、主を代表する師弟継承上の正しい情報源から、注意深く献身的に『シュリーマド・バーガヴァタム』の物語を聴くならば、物質エネルギーの囚われから解放されるとバーガヴァタムに説明されているからです。
kathayasva mahābhāga
yathāham akhilātmani
kṛṣṇe niveśya niḥsaṅgaṁ
manas tyakṣye kalevaram

訳語

翻訳

この上なく幸運なシュカデーヴァ・ゴースヴァーミよ、私が自分の心を至高なる魂、主クリシュナに集中させ、物質的な質から完全に解放された後にこの肉体を捨てることができるよう、どうかシュリーマド・バーガヴァタムを語り続けてください。

解説

 『シュリーマド・バーガヴァタム』に描かれている超越的な物語に耳を傾けることは、至高なる魂、シュリー・クリシュナと常にふれあうことを意味します。そして至高なる主クリシュナと常にふれあうということは、物質の質から解放されるということです。主クリシュナを太陽に例えるなら、物質的な汚れは暗闇のようなものです。太陽の存在が暗闇を消し去るように、人は主シュリー・クリシュナと常にふれあうことで、物質的な質の汚れから解放されます。物質的な質による汚れは、繰り返される生まれ変わりの原因であり、物質的な質からの解放は超越性を意味します。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーによる恩恵を受けて、マハーラージャ・パリークシットはこの解放の極意を知り、解放された魂となったのです。なぜならシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、一生の終わりにナーラーヤナを想うことが人生の最高なる完成であると王に伝えたからです。マハーラージャ・パリークシットは七日後に自身の肉体を捨てる運命だったため、『シュリーマド・バーガヴァタム』で描写されている主についての叙述を通して主とふれあうことで、主を想い続け、それにより至高なる魂、主シュリー・クリシュナ の存在を完全に意識しながら、自分の肉体を捨てようと心に決めたのです。
 職業朗唱家による『シュリーマド・バーガヴァタム』を人々が聞くのと、マハーラージャ・パリークシットが聴いた超越的な傾聴とは同じものではありません。マハーラージャ・パリークシットは絶対真理、人格神のシュリー・クリシュナを悟った魂でした。果報的な物質主義者は悟りを得た魂ではなく、『シュリーマド・バーガヴァタム』を聞くふりをしながら、なんらかの物質的な恩恵を求めています。そのような聴衆は、それを職業としている人から『シュリーマド・バーガヴァタム』を聞くことで、自分たちの望む物質的な恩恵を得ることは間違いありませんが、1週間に及ぶそのような偽の傾聴が、マハラージャ・パリークシットの傾聴と同じ効果があるわけではありません。
 教養ある者の義務は『シュリーマド・バーガヴァタム』を自己を悟った魂から聴くことであり、それを職業として行っている者に騙されないことです。私たちは生涯の最後まで『シュリーマド・バーガヴァタム』を聴き続け、それにより主との超越的な交際を実際に手に入れ、聴くだけで解放を得るべきです。
 マハーラージャ・パリークシットは、物質主義における最も魅力的なものである王国や家族との繋がりをすでに絶っていましたが、まだ物質的な肉体に関する意識を捨てることはできませんでした。彼は主との絶え間ない交際を通じて、そのような束縛から解放されることを望んでいたのです。
śṛṇvataḥ śraddhayā nityaṁ
gṛṇataś ca sva-ceṣṭitam
kālena nātidīrgheṇa
bhagavān viśate hṛdi

訳語

翻訳

いつも『シュリーマド・バーガヴァタム』に耳を傾け、その内容を真剣に会得することを常としている者の心の内には、じきに人格神シュリー・クリシュナが現れてくださるでしょう。

解説

 低級な主の献身者、あるいは物質的な主の献身者は、主を見るための必要な資格を持たずに、主を直接見たいと強く望むものです。そのような第三級の献身者は、物質的な執着がある限り、主を直接見ることなどできないということをよく理解するべきです。バーガヴァタムの朗唱を職業としている人が、第三級で物質的な偽の献身者のために機械的に朗唱するという方法を通じて、主にお会いすることができるようなものではありません。このことに関して、朗唱を職業としている者は役に立ちません。なぜなら彼らは自己を悟ったわけでも、聴衆に解放を与えることに関心を持っているわけでもないからです。彼らはただ家庭への執着という物質的な関係の維持と、職を通してなんらかの物質的な恩恵を得ることにしか関心がありません。マハーラージャ・パリークシットの余命はあと七日しかありませんでしたが、他の人々に対して彼は『シュリーマド・バーガヴァタム』を、常に、二ティヤム、つまり、努力を尽くし強い献身の心で絶えず聞くようにと、自ら勧めています。そうすることで人はすぐさま、心の中に現れる主シュリー・クリシュナを目にすることができるのです。
 しかし、偽の献身者は物質的な恩恵への執着を持たずに『シュリーマド・バーガヴァタム』を常に聴くことに対して真剣な努力を払わず、自分の気まぐれで主を見ることを望みます。しかしそれは、『シュリーマド・バーガヴァタム』を聴き、その傾聴によって恩恵を得たマハーラージャ・パリークシットのような権威者が勧めた方法ではありません。
praviṣṭaḥ karṇa-randhreṇa
svānāṁ bhāva-saroruham
dhunoti śamalaṁ kṛṣṇaḥ
salilasya yathā śarat

訳語

翻訳

至高なる魂、主クリシュナの音の権化(すなわち『シュリーマド・バーガヴァタム』)は自己を悟った献身者の心の中に入り、彼の愛情関係の蓮華の上に座り、情欲、怒り、渇望といった物質との関わりゆえに積もった塵を綺麗にしていく。したがってそれは、泥水の溜まった池に降り注ぐ秋の雨のようです。

解説

 主の純粋な献身者はたった一人で、世界の堕落した魂を全て救うことができると言われています。ナーラダやシュカデーヴァ・ゴースヴァーミのような純粋な献身者の信頼を得た者は、ブラフマージーからナーラダが力を授かったように、自らの精神指導者から力を授かることにより、純粋かつ強い力を得た献身奉仕によって自分だけでなく、世界中をマーヤ、つまり幻想の囚われから解放することができます。泥水の水たまりに降り注ぐ秋雨の例えは適切です。雨季の間、どの川の水も泥だらけになりますが、秋季の7月から8月の間、わずかに雨が降ることで世界中の川の泥水が一瞬にして透き通ります。何らかの化学薬品を少し加えることで、都市の上水道タンクのような小さな水源をきれいにすることはできますが、そのようなわずかな試みで川のような水源の全てをきれいにすることはできません。しかし、強い力を備えた主の純粋な献身者は、自身だけではなく、交流するなかでたくさんの人々を救うことができます。
In other words, the cleansing of the polluted heart by other methods (like the culture of empiric knowledge or mystic gymnastics) can simply cleanse one’s own heart, but devotional service to the Lord is so powerful that it can cleanse the hearts of the people in general, by the devotional service of the pure, empowered devotee. A true representative of the Lord like Nārada, Śukadeva Gosvāmī, Lord Caitanya, the Six Gosvāmīs and later Śrīla Bhaktivinoda Ṭhākura and Śrīmad Bhaktisiddhānta Sarasvatī Ṭhākura, etc., can deliver all people by their empowered devotional service.
By sincere efforts to hear Śrīmad-Bhāgavatam one realizes his constitutional relationship with the Lord in the transcendental humor of servitude, friendship, parental affection or conjugal love, and by such self-realization one becomes situated at once in the transcendental loving service of the Lord. Not only were all the pure devotees like Nārada self-realized souls, but they were engaged in preaching work automatically by spiritual impetus, and thus they delivered many poor souls entangled in the material modes. They became so powerful because they sincerely followed the Bhāgavatam principles by regular hearing and worshiping. By such actions the accumulated material lusts, etc., become cleansed by the personal endeavor of the Lord within the heart. The Lord is always within the heart of the living being, but He becomes manifested by one’s devotional service.
Purification of the heart by culture of knowledge or mystic yoga may be all right for the time being for an individual person, but it is like the cleansing of a small quantity of stagnant water by chemical processes. Such clarification of water may stand for the time being and the sediments settle down, but by a slight agitation everything becomes muddy. The idea is that devotional service to the Lord is the only method of cleansing the heart for good. Whereas other methods may be superficially good for the time being, there is a risk of becoming muddy again due to agitation of the mind. Devotional service to the Lord, with specific attention for hearing Śrīmad-Bhāgavatam regularly and always, is the best recommended method for liberation from the clutches of illusion.
dhautātmā puruṣaḥ kṛṣṇa-
pāda-mūlaṁ na muñcati
mukta-sarva-parikleśaḥ
pānthaḥ sva-śaraṇaṁ yathā

訳語

翻訳

献身奉仕の過程によって、心が清められた主の純粋な献身者は、主クリシュナの蓮華の御足を決して手放すことはありません。なぜなら困難な旅のあとで家に着いた旅人が満ち足りた気持ちになるように、主の御足は、彼に完全な満足を与えてくれるからです。

解説

 至高なる主クリシュナの純粋な献身者でない者の心は、完全には清められていません。しかし完璧に浄化された人は、主への献身奉仕を辞めることは決してありません。ブラフマージーによってナーラダに指示された『シュリマード・バーガヴァタム』を布教するといった献身奉仕を行う際に、布教に従事している主の代表者は、時に様々な困難とでもいうべき事柄に出くわします。その例が主二ティヤーナンダが二人の堕落した魂、ジャガーイとマーダーイを救った時に示され、また同様に主イエス・キリストも無信仰な人々によって十字架に架けられました。しかし布教を行う献身者たちは、このような困難をとても喜んで耐え忍びます。なぜなら一見とても過酷に見えるそれらの活動でも、主が満足なさっているため、献身者は超越的な喜びを感じるのです。プラフラーダ・マハーラージャも大変苦しみましたが、それでも決して主の蓮華の御足を忘れることはありませんでした。なぜなら純粋な献身者は、心がとても純粋なため、どんな状況下でも主クリシュナの保護を離れることができないからです。彼らの奉仕に私欲は一切ありません。ジュニャーニーによる知識を培う方法や、ヨーギーによる身体的な訓練は、それぞれの実行者によって最終的には放棄されますが、主の献身者は自身の精神指導者に命じられているため、決して主への奉仕を諦めることができません。ナーラダや二ティヤーナンダ・プラブのような純粋な献身者は、精神指導者の命令を自分の命をつなぐ使命のようにとらえています。彼らは自分の人生が将来どうなろうが気にしないのです。その指示がより高位の権威者、つまり主の代表者、あるいは主ご自身から出されているために、その指示に真剣に従うのです。
 ここで挙げられている例はとても適切です。旅人は時に森、海、山頂など、遠く離れた場所に富を求めて自分の家を離れます。もちろん知らない場所では、旅人にとってたくさんの困難が待ち受けています。しかし家族への愛情が思い出されると、それらの苦しみは軽減され、さらに家に戻ると、たちまち彼は道中の困難を全て忘れます。
 主と主の純粋な献身者は、まさに家族の絆で結ばれているため、主との完全な愛の絆のなかで不動の献身奉仕に従事しているのです。
yad adhātu-mato brahman
dehārambho ’sya dhātubhiḥ
yadṛcchayā hetunā vā
bhavanto jānate yathā

訳語

翻訳

博識なブラーフマナよ、超越的で精神的な魂は、物質的な肉体と異なります。魂は肉体を偶発的に、それともなんらかの原因によって手に入れるのですか?あなたはそれについてご存じですから、どうぞ説明してください。

解説

 マハーラージャ・パリークシットは典型的な献身者であったため、師弟継承を通じてブラフマージーの代表者から『シュリーマド・バーガヴァタム』を聞くことの大切さを確証するだけでは満足せず『シュリーマド・バーガヴァタム』の哲学的根拠を確立したいと望みました。『シュリーマド・バーガヴァタム』は至高人格神に関する科学であるため、真剣な生徒の心に浮かぶ疑問は、全て権威ある者の証言によって明らかにされる必要があります。献身奉仕の道を歩む人は自分の精神指導者に、神と生命体の精神的な立場についての質問を全て問い掛けることができます。『バガヴァッド・ギーター』そして『シュリーマド・バーガヴァタム』から分かるのは、主と生命体は質的に同じだということです。物質的存在の束縛された状態に置かれた生命体は、物質的な肉体の絶え間ない変化による転生を幾度も経験します。しかし、主の部分体が物質的に具現化する原因は何なのでしょうか。主への献身奉仕と自己の悟りの道を歩むあらゆる階級に属する志願者のため、マハーラージャ・パリクシットはこの大変重要な事柄について問いかけているのです。
 間接的に至高な存在である主には、体の物質的変化は起こらないと確証されています。主は精神的に総体であり、束縛された魂と違って精神的な完全体であり、主の体と魂には何の違いもありません。主と個人的に交流する解放された生命体も主とまったく同じです。解放を待つ束縛された魂だけが体の変化を体験するのです。この過程はどのように始まったのでしょうか。
 献身奉仕の過程において、最初の一歩は精神指導者の加護を求めることであり、そして精神指導者にその全過程について質問することです。この問いかけは、献身奉仕の道におけるあらゆる冒涜から身を守るために非常に重要なことです。マハーラージャ・パリークシットのように確固不動の献身奉仕に従事する者も、悟りを得た精神指導者に対して、これについて問うことが大切です。言い換えれば、精神指導者も献身者によるこのような問い全てに答えられるよう、教えに精通し、博識でなければなりません。したがって、権威ある経典に精通しておらず、このような重要な問いかけ全てに答えられない者は、物質的な利益を得るために精神指導者を装うべきではありません。弟子を救うことができないならば、精神指導者になることは禁じられているのです。
āsīd yad-udarāt padmaṁ
loka-saṁsthāna-lakṣaṇam
yāvān ayaṁ vai puruṣa
iyattāvayavaiḥ pṛthak
tāvān asāv iti proktaḥ
saṁsthāvayavavān iva

訳語

翻訳

蓮の茎がその腹部から伸びる至高人格神が、もし御自身の力量と寸法に応じた巨大な体をお持ちであるならば、主の体と、普通の生命体が持つ体との明確な違いは一体何なのでしょうか。

解説

 主の超越的な体に関して科学的な理解を得るため、マハーラージャ・パリークシットが精神指導者に対し、どのように聡明な問いかけをしたかに注目するべきです。これまでに何度も主は、その毛穴から無数の宇宙が生まれたカーラノーダカシャーイー・ヴィシュヌのような巨大な体を受け入れる、と説明されてきました。ガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌの体からは、宇宙のあらゆる惑星が位置している蓮の茎が生え、その茎の一番上には蓮の花があり、そこで主ブラフマーが生まれる、と説明されています。物質世界の創造において、至高主は確かに巨大な姿をとり、生命体も必要に応じて大小の肉体を手に入れます。例えば、象は自分の必要に応じて巨大な体を手に入れ、蟻も必要に応じてその体を得ています。同様に人格神が、宇宙や特定の宇宙の惑星を自らの内に含めるために、巨大な姿をとったとしても、必要に応じて特定の種類の体を受け入れる原理と何ら変わりません。単に体の大きさで生命体と主を区別することはできないのです。ですからこの問いの答えは、普通の生命体の身体とは異なる、主が持つ身体的特質の重要性の度合いにかかっているのです。
ajaḥ sṛjati bhūtāni
bhūtātmā yad-anugrahāt
dadṛśe yena tad-rūpaṁ
nābhi-padma-samudbhavaḥ

訳語

翻訳

物質的な源からではなく、主の腹部のへそより生えた蓮の花から生まれたブラフマーは、物質的に誕生した生物全ての創造者です。言うまでもなく、ブラフマーが主の姿を見ることができたのは、主の恩恵によるものでした。

解説

 最初の生命体であるブラフマーは、物質的な誕生を経た母親の胎内から生まれていないため、アジャハと呼ばれます。主の体から蓮の花が拡張し、ブラフマーはその花の上に直接誕生しました。ですから主の体とブラフマーの体が同じ質を持っているのか、いないのかということをすぐには理解することができませんが、これについてもしっかりと理解するべきです。しかし、一つだけ確かなことは、ブラフマーは完全に主の慈悲に頼っていたことです。なぜなら、彼は主の恩恵があってこそ、生命体を創造することができ、主の姿を見ることができたからです。ブラフマーが見た姿が、ブラフマーの姿と同じ質を持つのかどうかは複雑な問いであり、マハーラージャ・パリークシットは、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴスヴァーミーから明確な答えを得たいと望んでいたのです。
sa cāpi yatra puruṣo
viśva-sthity-udbhavāpyayaḥ
muktvātma-māyāṁ māyeśaḥ
śete sarva-guhāśayaḥ

訳語

翻訳

それぞれのハートの中に至高の魂として宿る人格神について、またあらゆるエネルギーの主であるにもかかわらず、自らの外的エネルギーと接触しない人格神について、どうかご説明ください。

解説

 ブラフマーが目にした主の姿は間違いなく超越的です。でなければどうやって、接触することなしに、主は創造のエネルギーを一瞥することができたのでしょうか?その同じプルシャが、あらゆる生命体の心の中に宿っていると理解されています。これについても適切に説明されるべきです。
puruṣāvayavair lokāḥ
sapālāḥ pūrva-kalpitāḥ
lokair amuṣyāvayavāḥ
sa-pālair iti śuśruma

訳語

翻訳

博識なブラーフマナよ、以前の説明では、宇宙のあらゆる惑星とそれぞれの統治者は、ヴィラート・プルシャの巨大な体の様々な部位に位置している、とありました。また、様々な惑星系はヴィラート・プルシャの巨大な体の中に存在しているはずだとも聞きました。しかし、実際にそれらはどこに位置しているのでしょうか。このことについて説明していただけないでしょうか。
yāvān kalpo vikalpo vā
yathā kālo ’numīyate
bhūta-bhavya-bhavac-chabda
āyur-mānaṁ ca yat sataḥ

訳語

翻訳

創造と破壊の間の期間がどれくらい続くのか、また二次創造にまつわる創造と破壊の間の期間の長さ、そして、過去、現在、過去の音によって示される時間の性質についても、どうか説明してください。また宇宙の様々な惑星に住む神々や人間など、といった多様な生命体の寿命についてもご説明ください。

解説

過去、現在、未来は、宇宙、そして様々な惑星に住む多様な生命体を含む、宇宙に存在する全てのものの寿命を表す、時間の異なる様相です。
kālasyānugatir yā tu
lakṣyate ’ṇvī bṛhaty api
yāvatyaḥ karma-gatayo
yādṛśīr dvija-sattama

訳語

翻訳

ブラーフマナの中で最も純粋なお方よ、短い期間と長い期間という異なる時間の長さが存在する原因、そして一連の活動を伴う時間の始まりについても説明をお願いします。
yasmin karma-samāvāyo
yathā yenopagṛhyate
guṇānāṁ guṇināṁ caiva
pariṇāmam abhīpsatām

訳語

翻訳

さらに、生命体の望みに応じて物質自然の異なる様式が、その者に相応しい形でいかにして蓄積し、その結果として神々から最も取るに足らない生物にまで、いかにして高められ、また落とされるのかについて、どうぞご説明ください。

解説

 小さい形であろうと、巨大な形であろうと、物質自然の様式で行われたあらゆる活動の行動と反動は蓄積され、それらのカルマ、すなわち活動が蓄積された行動と反動の結果は、それに比例して現れます。それらの行動と反動がどのようにして起きるのか、どのような手順があるのか、どのような比例で作用するのか、というのがマハーラージャ・パリークシットが偉大なブラーフマナ、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーに向けた問いの主題です。
 天界の住人の住処として知られる高位の惑星での生活は(未熟な科学者が思っているように)、宇宙船の力で手に入れられるものではなく、徳の様式で行われた活動によって手に入れられるのです。
 私たちが現在暮らしている惑星においても、国民の生活がより豊かな国では、外国人の入国に規制がかかっています。例えばアメリカ政府は、より貧しい国からの移民の入国に対し、多くの制限を課しています。なぜならアメリカ人は、アメリカ国民としての資格を得ていない外国人と、自分たちの繁栄を共有したくないからです。同様に、より知性の高い生命体が暮らす他のどの惑星でも、同じような考え方が一般的に通用しています。高位の惑星の生活環境は全て徳の様式の中にあり、月、太陽、金星などの高位の惑星に入ることを望んでいる人は誰でも、完全な徳の様式における活動によって、十分な資格を得る必要があります。
 マハーラージャ・パリークシットの問いは、この惑星にいる人を宇宙の最も高位な領域へと高めるのに相応する、徳の様式の活動に基づいた問いです。
 私たちが現在暮らしているこの惑星でも、社会階級において良い地位を得るには、それ相応の善業を行い、資格を得る必要があります。必要な資格を持たずに、高等裁判所の裁判官の椅子に無理矢理座ることはできません。同様にこの人生で善業を行い、資格を得なければ、高位の惑星系に入ることはできないのです。激情と無知の習慣に夢中になっている人が、機械の力だけを借りて高位の惑星系へ入れる可能性などありません。
 『バガヴァッド・ギーター』(9-25)によると、より高位な天空の惑星へと昇格する資格を得ようとする者は、その望みに応じた場所に行くことが可能であり、同じようにピトリローカへ向かおうとする者も、そこへ行くことが可能です。同様に、地球上で自分の生活条件を改善しようと試みる者も、それを達成することができ、そして神の元、故郷へと戻ろうとする者は、その結果を得ることができます。徳の様式の中で行われる様々な行動と反動は、一般的に献身奉仕を伴う敬虔な活動、献身奉仕を伴う知識の修養、献身奉仕を伴う神秘的力、そして(最後に)他の徳の種類が混ざっていない献身奉仕として知られています。この純粋な献身奉仕は超越的であり、パラー・バクティと呼ばれます。この献身奉仕のみが、人を神の超越的王国へ高めることができます。そのような超越的な王国は神話上のものではなく、月のように実在するものです。神の王国と神自身を理解するためには、超越的な資質を備えることが必要なのです。
bhū-pātāla-kakub-vyoma-
graha-nakṣatra-bhūbhṛtām
sarit-samudra-dvīpānāṁ
sambhavaś caitad-okasām

訳語

翻訳

ブラーフマナの中で最も優れたお方よ、宇宙に広がる球体、天空の4方向、空、惑星、星、山、川、海、島、そしてこれらの場所に居住する様々な生物の創造がどのように行われるのか、どうかご説明ください。

解説

 異なる場所に居住する生物は、それぞれ異なる状況に置かれており、全ての生物が全ての点において等しいというわけではありません。陸に住む生物は、水や空に住む生物とは異なり、同様に空に浮かぶ様々な惑星や星に住む生物もそれぞれ異なります。主の法則により、誰も住んでいない場所などありませんが、ある場所の生物は他の場所の生物と異なるのです。人間社会においても、森や砂漠の住人は、都市や村に暮らす住人と違います。彼らは自然の様式の様々な質に応じて創造されています。自然の法則によるこのような調節は、無分別に行われているのではありません。こうした計らいの背景には偉大な計画があるのです。マハーラージャ・パリークシットは偉大な聖者シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーに、これら全てのことに関して、適切な理解に基づき、正しい説明を聴きたいと依頼しています。
pramāṇam aṇḍa-kośasya
bāhyābhyantara-bhedataḥ
mahatāṁ cānucaritaṁ
varṇāśrama-viniścayaḥ

訳語

翻訳

さらに、宇宙の内側および外側の空間を、明確な区分に分けて説明してください。また偉大な魂の人格と活動、そして社会階級と生活階級の様々な分類の特徴もどうかご説明ください。

解説

 マハーラージャ・パリークシットは主クリシュナの典型的な献身者であり、それゆえ主の創造の重要性を完全に知りたいと望んでいました。彼は宇宙体の内側と外側の空間についての知識を得たかったのです。これについて、何もかも知ることは、知識の真の探求者に相応しいことです。主の献身者は単なる感情論で満足すると思っている者たちにとって、マハーラージャ・パリークシットの問いかけは、物事を完全に知りたいと望む純粋な献身者の探究心を示す良い例でしょう。現代の科学者たちは宇宙を覆う空間はおろか、宇宙領域の内側の空間についてさえ知ることはできません。
 マハーラージャ・パリークシットは物質的な知識だけでは満足しません。彼は主の献身者である偉大な魂の人格や活動についても尋ねています。『シュリマード・バーガヴァタム』の完全な知識は主と主の献身者の栄光によって構成されています。主クリシュナに魅せられた母親が、息子がどれほど土を食べたのか確かめるために口の中を見ようとしたとき、主はご自分の口を開けて、その口の中に広がる宇宙創造全体を見せました。主の恩恵により、献身者たちは主の口の中に、宇宙にある全てのものを見ることができるのです。
 人間社会の4つの社会階級と4つの生活階級の科学的な分類の概念そのものも、個々の個人的な質に基づいて問いかけられています。4つの区分は、人の身体の4つの部分と全く同じものです。体の部分というのは、体そのものと同じですが、それだけでは体のただの一部分にすぎません。これが4つのカーストと4つの社会階級の持つ科学的なシステムの重要性です。人間社会のそのような科学的な区分の価値は、それによって主への献身奉仕がどれほど発展するのかという観点からのみ評価することができます。官職についている者は、大統領も含め、政府全体の一部分です。誰もが政府に仕える者ですが、誰も政府そのものではありません。それが至高主の政府における、あらゆる生命体の立場です。誰も主の至高な立場を自分のものだと偽って主張することはできません。むしろ人々は皆、至高なる全体の目的に仕えるべきなのです。
yugāni yuga-mānaṁ ca
dharmo yaś ca yuge yuge
avatārānucaritaṁ
yad āścaryatamaṁ hareḥ

訳語

翻訳

創造界が持続している間に巡る様々な時代、そしてそれらの時代の長さについてもそれぞれご説明ください。それに加え、様々な時代に現れる主の多様な化身の多様な活動についても教えてください。

解説

 主クリシュナは根源の人格神であり、至高主のあらゆる化身は主と同一ではありますが、至高なるお方から現れた存在です。マハーラージャ・パリークシットは、偉大で博識な聖者シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーからそのような化身の様々な活動について問いかけました。そうすることによって権威経典に描写された主の活動として、主の化身の存在を確証できるからです。マハーラージャ・パリークシットは、主の化身を容易く受け入れてしまうような、大衆の感傷的な態度に感化されるような人ではありませんでした。それよりも、ヴェーダ文献に言及され、かつシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのようなアーチャーリヤの確証に基づいた主の化身を受け入れることを望んでいました。主は物質自然の法則に義務付けられているのではなく、ご自身の内的エネルギーを通して降誕なさいますから、主の活動もまた、並外れています。主の具体的な活動はどれも記述されており、主の活動と主ご自身は、絶対的な領域にあるために同一であると理解するべきです。したがって、主の活動を聞くということは、主と直接交流することを意味し、主との直接的な交流は物質的な汚れからの浄化を意味します。この点は前編ですでに説明されています。
nṛṇāṁ sādhāraṇo dharmaḥ
saviśeṣaś ca yādṛśaḥ
śreṇīnāṁ rājarṣīṇāṁ ca
dharmaḥ kṛcchreṣu jīvatām

訳語

翻訳

人間社会全体の共通の宗教となり得るものが何なのか、また宗教における具体的な職業的義務について、そして社会階級の分類および行政を司る王族階級について、さらに苦悩する者のための宗教原則についてもご説明ください。

解説

 誰であろうと、何であろうと、あらゆる階級の人間にとっての共通の宗教は献身奉仕です。動物たちも主への献身奉仕に加わることでき、その最良の例として、主シュリー・ラーマの偉大な献身者であったシュリー・ヴァジラーンガジー、すなわちハヌマーンが挙げられます。すでに説明した通り、原住民も人食い族も、主の真正な献身者の指導を受けることができれば、献身奉仕に従事することができます。『スカンダ・プラーナ』には森の狩人がシュリー・ナーラダ・ムニの指導によって、最高の悟りに達した主の献身者になった物語が描かれています。したがって、主への献身奉仕は全ての生命体の間で平等に共有できるものなのです。
 様々な国や文化の状況に応じて属する宗教は、人間にとって共通の宗教でないことは明らかです。むしろ宗教の基本原則は献身奉仕なのです。もしある特定の宗教原則が、至高人格神の至高性を認めていなくても、従者たちは特定の指導者によって定められた規律に従わなくてはなりません。そのような宗派の指導者は決して最高指導者ではありません。なぜなら、何らかの状況のもとで指導者となる者は、特定の苦行を経たのちに、指導する立場に就くからです。 しかし、主クリシュナの活動から見て取れるように、至高人格神は指導者になるための特別な訓練など受ける必要はないのです。
 生活手段の原則に従ったカーストや社会階級の職業的な義務も、献身奉仕の原理に基づいています。『バガヴァッド・ギーター 』では、人は職業的な義務の結果を主への献身奉仕に捧げるだけで、人生の最も高い完成を得ることができると述べられています。 主への献身奉仕に従っている人たちは決して困難に陥ることはないため、アーパド・ダルマ、つまり苦難の際の宗教など必要とはしないのです。最も偉大な権威者、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーによって本書で説明されていくように、(それが様々な形で表されていたとしても)主への献身奉仕以外の宗教など存在しないのです。
tattvānāṁ parisaṅkhyānaṁ
lakṣaṇaṁ hetu-lakṣaṇam
puruṣārādhana-vidhir
yogasyādhyātmikasya ca

訳語

翻訳

創造の基本要素とその数、それらの原因、発達、そして献身奉仕の過程と神秘的な力を得る方法について、どうか余すことなくご説明ください。
yogeśvaraiśvarya-gatir
liṅga-bhaṅgas tu yoginām
vedopaveda-dharmāṇām
itihāsa-purāṇayoḥ

訳語

翻訳

偉大な神秘主義者たちの富とは、そして彼らにとっての究極の悟りとは何なのでしょうか?完璧な神秘主義者は、どのようにして希薄な霊体から離れるのでしょうか?歴史に関する学問や補足的な書物であるプラーナを含む、ヴェーダ経典の基本知識となるものは一体何なのでしょうか?

解説

 ヨーゲーシュヴァラ、すなわち神秘的な力の持ち主は、分子よりも小さくなる、羽より軽くなる、望むものを何でも手に入れる、好きなところに行く、空に惑星をも作ることができるという八種類の完成の神秘を見せることができます。これら驚くべき力に関して異なる技量を持つヨーゲーシュヴァラがたくさんいますが、彼らの中で最も長けているのが主シヴァです。主シヴァは最も偉大なヨーギーであり、普通の生命体よりも遥かに驚くべきことを成し遂げることができます。至高人格神である主の献身者は、神秘的な力を直接修練するわけではないのです。しかし、主の献身者は、マハーラージャ・アンバリーシャに口論を持ちかけて、自分の神秘的な力の驚くべき成果を見せつけようとしたドゥルヴァーサー・ムニのような、驚異の力を持つヨーゲーシュヴァラに対してでさえ、主の恩恵によって打ち勝つことができるのです。マハーラージャ・アンバリーシャ王は、主の純粋な献身者であったため、自らは何をせずとも、主ご自身がヨーゲーシュヴァラ・ドゥルヴァーサー・ムニの怒りから彼を救い、そしてムニは王に許しを乞うこととなりました。同じように、ドラウパディーが、王族階級の集まりで彼女の一糸まとわぬ姿を見ようとしたクル族に襲われるという危機的状況に陥った。その時、主は、彼女の体を覆い隠すために、サリーの長さを無限にしたために、ドラウパディーは裸にされずに済んだのです。その上、ドラウパディーは神秘的な力について何も知らなかったのです。ですから子供が親の力によって力強くなるのと同様に、献身者も主の無限の力によってヨーゲーシュワラとなるのです。子供たちは不自然な方法で自分たちのことを守るのではなく、両親の慈悲によって守られているのです。
 マハーラージャ・パリークシットは博識なブラーフマナであるシュカデーヴァ・ゴースヴァーミに対し、そのような偉大な神秘主義者が最終的に到達する場所について、また彼らがどのように自分の努力、あるいは主の恩恵によってそのような驚異的な力を手に入れるのかと問いかけました。また、彼らがいかに希薄な、そして粗雑な肉体から離れるのかということについても問いました。そしてヴェーダ知識の趣旨についても質問しました。『バガヴァッド・ギーター』(15.15)で述べられているように、あらゆるヴェーダの要旨は至高人格神について知ること、そして超越的愛情奉仕を行う、主の召使になることなのです。
samplavaḥ sarva-bhūtānāṁ
vikramaḥ pratisaṅkramaḥ
iṣṭā-pūrtasya kāmyānāṁ
tri-vargasya ca yo vidhiḥ

訳語

翻訳

生命体がどのようにして創造され、維持され、破壊されるのか、どうか私にご説明ください。献身奉仕に従事する上で何が好ましく、何が好ましくないのかについても教えてください。ヴェーダの宗教儀式はどのようなもので、ヴェーダを補完する宗教儀式にはどのような教えがあるのでしょうか。そして宗教、経済発展、感覚満足を得るための手順はどのようなものでしょうか。

解説

 「完璧な手段」という意味で使われるサンプラヴァハという言葉は、献身奉仕の履行を指しており、プラティサンプラヴァハはその反対、つまり献身奉仕の発展を妨げるものを意味します。主への確実な献身奉仕の立場に身を置いている人は、束縛された人生において求められる役割を、容易に果たすことができます。束縛された人生を生きていくのは、大海の真ん中で、舟を必死にこぎ進めるようなものです。人は完全に海のなすがままであり、少しの動きで溺れてしまう危険性が常につきまといます。天候が良ければ、船はもちろん、支障なく進むでしょうが、嵐や霧、風や雲があれば海にのまれる可能性は常にあります。物質的には十分な装備を整えていたとしても、海の気まぐれを制御することは誰にもできないのです。船で海を渡ったことがある人は、海の慈悲に頼るという経験を十分に持っているかもしれません。しかし、人は主の恩恵によって、嵐や霧を全く恐れず、物質存在の海を容易く越えることができます。全ては主のご意志にかかっているのです。束縛された生活において、何らかの不運な危険があっても、誰も助けてはくれません。しかし、主の献身者は物質存在の海を恐れることなく越えることができます。なぜなら純粋な献身者は、主にいつも守られているからです (『バガヴァッド・ギーター』9-13)。主は物質的で、束縛された生活の中で活動する献身者に、特別な注意を向けてくださいます(『バガヴァッド・ギーター』9-29)。ですから人々は皆、主の蓮華の御足に保護を求め、何としてでも主の純粋な献身者になるべきなのです。
 ですからマハーラージャ・パリークシットが彼の精神指導者、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーに尋ねたように、人は熟練した精神の師から、献身奉仕に従事するにあたって何が好ましく、何が好ましくないのかについて知るべきです。献身奉仕の科学、『バクティ・ラサームリタ・シンドゥ』によると、人は、体と魂を共に維持するために必要とするものだけしか食べるべきではないと、あります。人間の身体を維持するには菜食と牛乳があれば十分であり、味覚を満たすためにそれ以外の物を食べる必要はないのです。さらに物質世界において、お金を貯め込んで傲慢になるべきではありません。人々は簡単な方法で、そして正直に生計を立てるべきです。手段を選ばずに、社会における偉大な人間になるよりも、正直な生活をするためにクーリー(労働者)になる方が良いからです。正直なやり方で世界一裕福な人になっても、何も悪いことはありませんが、富を蓄えるためだけに誠実な暮らしを犠牲にするべきではありません。そのような試みは献身奉仕を妨げることになります。また人は無意味なことを話すべきではありません。献身者の目的は主の恩恵を得ることです。ですから献身者は、いつも主のすばらしい創造について主を讃えるべきです。献身者は主が偽の世界を作ったと言って、主の創造物を見下して主に歯向かうべきではありません。この世界は偽りではないのです。実際、私たちは自らを維持するため、この世界から数多くの物を得なくてはなりません。ならばどうして、この世界が偽りなどと言えるのでしょうか。同じように、どうして主のことを姿のない存在だと考えることができるでしょうか。姿を持たないと同時に、知性と意識の全てを、直接的あるいは間接的に備えることなどできるでしょうか。ですから純粋な献身者には学ぶべきことが数多くあり、彼はシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような真正な存在から、それらについて完璧に学ぶべきなのです。
 献身奉仕に就くのための好ましい条件というのは、主に仕えることに対してとても熱心であることです。主はシュリー・チャイタニヤ・マハプラブの姿で、主への献身奉仕の教えが世界中の隅々まで広められることを望んでいました。ですから純粋な献身者の義務はこの命令をできる限り果たすことです。献身者は皆、自分の献身奉仕における日々の儀式に対してだけではなく、主チャイタニヤの足跡に従いながら、この教えを平和的に広めることに対しても、とても熱心であるべきなのです。そのような試みに表向きの成果がなくても、自らの義務を遂行することを思いとどまるべきではありません。純粋な献身者は、戦場の兵士であるため、彼にとって成功や失敗は何の意味も持たないのです。献身奉仕の教えの布教は、物質的な生活に対する宣戦布告のようなものです。結果を求めて働く者や、思索家、神秘的な力を操る者など、あらゆる種類の物質主義者が数多く存在します。彼らは皆、神の存在に反対しています。彼らは絶えず、どんな行動においても主の慈悲に頼っているにもかかわらず、自分自身が神であると言い張ります。ですから純粋な献身者は、そのような無神論者の集団と交流するべきではありません。主の確固たる献身者は、献身者でない者の無神論的な宣伝に惑わされることはありませんが、献身奉仕における初心者は、そのような人々に用心しなくてはなりません。献身者は形式だけにこだわるのではなく、真正な精神指導者の指導のもと、献身奉仕に正しく従事するよう務めるべきです。単に儀式を遂行するのではなく、真正な精神の師の指示のもと、どれほどの奉仕に従事しているのかを見極めるべきです。献身者は何かを強く欲するのではなく、主のご意志によって自然とやってくるもので満足するべきであり、そしてそれこそが献身生活の原則です。これらの原則はシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような精神指導者の指導の元で簡単に学ぶことができます。マハーラージャ・パリークシットはシュカデーヴァに正しく問いかけたのであり、私たちは彼の例に従うべきです。
 マハーラージャ・パリークシットは、物質世界の創造、維持、破壊の過程、ヴェーダの宗教儀式の手順、そしてプラーナや『マハーバーラタ』のような、補足的なヴェーダ文献に関する敬虔な活動を行う方法についても問いました。すでに説明されたように、『マハーバーラタ』もプラーナも、古代インドの歴史を書いたものです。敬虔な行いは補足的なヴェーダ(スムリティ)で定められており、具体的には一般の人々の水源を確保するために、水槽や井戸を掘ることについて特に描写されています。公共の道路への植樹、公共の寺院や崇拝場所の建設、貧しい人々に食事を提供する慈善活動の場の設立、また、その他類似の活動はプールタと呼ばれます。
 そして、当然の欲求として自分の感覚を満たしたいと望む全ての人たちのためにも、また、王は尋ねたのです。
yo vānuśāyināṁ sargaḥ
pāṣaṇḍasya ca sambhavaḥ
ātmano bandha-mokṣau ca
vyavasthānaṁ sva-rūpataḥ

訳語

翻訳

主の体と融合している生命体がどのように創造され、また不信心者がどのようにしてこの世界に現れるのかもご説明ください。それに加え、束縛されていない生命体がどのように存在しているのかもご説明ください。

解説

 完成に向かって進む主の献身者は、真正な精神指導者に、主の体に融合している生命体がどのようにして創造の時に再度戻って来るのかを問う必要があります。生命体には2種類あります。永遠に解放され、束縛されていない生命体と、永遠に束縛されている生命体です。永遠に束縛されている生命体にも二つの部類があります。一つが信仰を持つ者たちで、もう一つは不信心者たちです。信仰を持つ者の中にもまた二つの部類、すなわち献身者と思索家があります。思索家は主の存在に融合する、つまり主と一つになることを望みますが、主の献身者は個性を保ち、常に主の奉仕に携わることを望みます。完全に浄化されていない献身者や経験哲学者はさらなる浄化のため、次の創造期の際に再度束縛された存在となります。このような束縛された献身者は、主への献身奉仕において、さらに高みを極めることによって浄化されます。マハーラージャ・パリークシットは、神の科学に精通するため、真正な精神の師にこれら全てのことについて問いかけたのです。
yathātma-tantro bhagavān
vikrīḍaty ātma-māyayā
visṛjya vā yathā māyām
udāste sākṣivad vibhuḥ

訳語

翻訳

独立している人格神は自身の内的エネルギーを通して遊戯を楽しまれ、破壊の際にはそれらを外的エネルギーに引き渡します。そして主はそれら全ての目撃者として存在するのです。

解説

 至高人格神であり、そしてその他全ての化身の源である主シュリー・クリシュナは、唯一の独立した存在です。望みの通りに創造を通して遊戯を楽しまれ、破壊の時はそれらを外的エネルギーに引き渡します。主は内的エネルギーだけを使って、母ヤショーダーの膝の上で遊戯を楽しみながらも悪魔プータナを殺したのです。そしてこの世界を去ろうとお望みになった際、主は自分の家族(ヤドゥ・クラ)を滅亡させる遊戯を作り出し、そのような滅亡によっても何ら影響を受けることはありませんでした。主は起きている全ての事象の目撃者でありながらも、それらと何の関係もありません。主は全ての点で独立しているお方です。純粋な献身者は主について熟知している必要があるため、マハーラージャ・パリークシットはさらに完璧に知りたいと望んだのです。
sarvam etac ca bhagavan
pṛcchato me ’nupūrvaśaḥ
tattvato ’rhasy udāhartuṁ
prapannāya mahā-mune

訳語

翻訳

偉大な聖者よ、主を代表するお方よ、私がこれまであなたに尋ねたことや、問いを重ねる中で、まだ尋ねるに至らなかったことについても、どうか私の中のあらゆる探究心を満たしてください。私はあなたに身を委ねた魂ですから、どうかこれらについて完全なる知識を私にお与えください。

解説

 精神指導者はいつも弟子に知識を授ける準備ができており、弟子が強い探究心を持っている場合はなおさらです。探究心は、向上を望む弟子にとって必要不可欠なものです。マハーラージャ・パリークシットは完全な知識欲があることから、典型的な献身者と言えます。自己の悟りについて大した興味がないのであれば、弟子であることを誇示するためだけに精神の師に近づく必要はありません。マハーラージャ・パリークシットは自分が問いかけたこと全てに対して探究心があるだけでなく、質問することができなかった事柄に関しても知りたいと望みました。実際、精神の師に全てを問うことはできませんが、真正な精神指導者は弟子のためにあらゆる方法で彼を悟りへと導くことができるのです。
atra pramāṇaṁ hi bhavān
parameṣṭhī yathātma-bhūḥ
apare cānutiṣṭhanti
pūrveṣāṁ pūrva-jaiḥ kṛtam

訳語

翻訳

偉大な聖者よ、あなたは原初の生命体であるブラフマーにも劣らないお方です。他の者たちは、歴代の哲学的思索家たちと同様に慣習に従うことしかできません。

解説

 他にも数多くの聖者やその従者がいるため、スカデーヴァ・ゴースヴァーミーだけが、超越性に関する完璧な知識の権威者というわけではない、と反論する人もいるかもしれません。ヴィヤーサデーヴァと同時代に、あるいはその以前にもガウタマ、カナーダ、ジャイミニ、カプラやアスターヴァクラなどの偉大な聖者が存在し、各自が自らの哲学論を提示しました。パタンジャリもその一人であり、この6人の偉大なリシたちは皆、現代の哲学者や思索家のように、独自の考え方を持っていました。上記の名高い聖者たちが提唱した六つの哲学的な道と『シュリーマド・バーガヴァタム』で提示されているシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーの道の違いは、6人の聖者たちは自分の考えに基づいた事実を語っているのに対し、シュカデーヴァー・ゴースヴァーミはアートマ・ブー、すなわち全能なる人格神から生まれ、そして教育を受けたブラフマージーから直接伝わる知識を提示しているという点です。
 ヴェーダの超越的な知識は、人格神から直接伝えられているものです。主の慈悲により、宇宙の最初の生命体であるブラフマーは、主より教え導かれ、ブラフマージーよりナーラダが教えを授かり、ナーラダからヴィヤーサへと教えが伝わりました。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはそのような超越的な知識を父親のヴィヤーサデーヴァから直接授かりました。このように師弟継承を通して伝えられる知識は、完璧な知識です。師弟継承を通じて同じ知識を授からない限り、完全な形で精神指導者になることはできません。それが超越的な知識を授かる秘訣です。上記の6人の偉大な聖者は深遠な思想家かもしれませんが、推論による彼らの知識は完璧ではありません。 経験哲学者がどれほど完璧に哲学的な定説を提示したとしても、そのような知識は完璧ではありえないのです。なぜならそれは不完全な知性によって作られているからです。これらの偉大な聖者も自らの師弟継承を持ってはいますが、独立した至高人格神ナーラーヤナから伝わった知識ではないため、権威ある継承とは言えません。ナーラーヤナ以外に独立した存在はなく、それゆえ誰の知識も完璧ではありません。なぜなら人々の知識は不安定な心に左右されているからです。心は物質的であるため、物質的な思索家が提示する知識は、決して超越的ではなく、完璧になることもありえません。自らも不完全である世俗的な哲学者は、他の哲学者たちと議論を交わしますが、それは独自の理論を提示しない限り、哲学者とは呼ばれないからです。マハーラージャ・パリークシットのような知性ある人は、どれほど偉大な推論者であったとしても、彼らを認めることはせず、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような権威者から教えを聞きます。そのような権威者は『バガヴァッド・ギーター』で特に強調されているように、パランパラー制度を通して、至高人格神と相違のない存在なのです。
na me ’savaḥ parāyanti
brahmann anaśanād amī
pibato ’cyuta-pīyūṣam
tad vākya-abdhi-viniḥsṛtam

訳語

翻訳

博識なブラーフマナよ、私はあなたの言葉の海から溢れ出す、完全無欠な人格神の教えの甘露を飲んでいるため、断食による憔悴を全く感じません。

解説

 ブラフマー、ナーラダ、ヴィヤーサ、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーから伝わる師弟継承は他の継承と特に異なります。他の聖者から伝わる師弟継承は、アチュタ・カター、すなわち完全無欠の主に関する教えに欠けているため、時間の無駄に過ぎないのです。思索家は根拠と議論を並べて自らの理論をうまく提示するかもしれませんが、それらの根拠と議論はより優れた思索家によって打ち負かされるため、完全無欠ではありません。マハーラージャ・パリークシットはうつろいやすい心による無味乾燥な推論ではなく、主に関する話題に興味を抱いていました。なぜならシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーの口から甘露のような教えを聞くことで、間近に迫った死のために備えて断食を行いながらも、まったく憔悴を感じなかったからです。
 思索家の話に身を入れて聞くことはできても、長時間にわたって聞き続けることはできません。そうした陳腐な思考の在り方を聞くのにはすぐに疲れてしまいますし、そのような無意味な推論を聞いて満足する人などこの世に存在しないのです。主の教えは、特にシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような人から聞くならばなおさら、何らかの理由で憔悴した人でさえも、それによって疲れることなど決してないのです。
『シュリーマド・バーガヴァタム』の幾つかの版では、最後の節にanyatr、a kupitād dvijāt、つまり王は蛇に嚙まれたために、迫りくる死への思いで打ちのめされているだろう、と書かれています。蛇もまた再誕者であり、その怒りは、正しい知性を持ち合わせることなしに呪いをかけたブラーフマナーの少年と、比較されています。マハーラージャ・パリークシットは主の教えに勇気づけられていたため、全く死を恐れてはいませんでした。アチュタ・カターに完全に没頭している者は、この世界において恐れるべきことなど何一つないのです。
sūta uvāca
sa upāmantrito rājñā
kathāyām iti sat-pateḥ
brahmarāto bhṛśaṁ prīto
viṣṇurātena saṁsadi

訳語

翻訳

スータ・ゴースヴァーミーは言った。「こうして、マハーラージャ・パリークシットによって献身者たちと主シュリー・クリシュナの話題について話すよう招かれたシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、おおいに満足した」

解説

『シュリーマド・バーガヴァタム』を議論することが許されているのは、主の献身者の間においてのみです。『バガヴァッド・ギーター』が主クリシュナとアルジュナ(主と献身者)の間で正式に語られたように、『バガヴァッド・ギーター』を卒業した後に学ぶ『シュリマード・バーガヴァタム』も、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーやマハラージャ・パリークシットのような学者と献身者との間で話し合うことができます。そうでなければ、本物の甘露を味わうことはできません。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、マハーラージャ・パリークシットが主の話題を聞いても全く疲れることなく、より関心をもって聞き続けたいと切望していることに満足しました。愚かな解釈者はその主題を理解することもできないにもかかわらず、無意味にも『バガヴァッド・ギーター 』や『シュリーマド・バーガヴァタム』の解説に取り組もうとします。献身者でない人が、ヴェーダ経典の中でも最も崇高なこの二つの経典に手を出しても意味がないため、シャンカラーチャーリヤは『シュリーマド・バーガヴァタム』の解説を試みることはありませんでした。シュリーパーダ・シャンカラーチャーリヤは自身の『バガヴァッド・ギーター』の解説の中で主クリシュナを至高人格神として受け入れましたが、後に非人格論の観点から解説しました。しかし彼は自分の立場をわきまえており『シュリーマド・バーガヴァタム』を解説することはありませんでした。
 シュリーラ・シュカデーヴァは主クリシュナに守られていたため(ブラフマ・ヴァイヴァルタ参照)、ブラフマラータとして知られており、シュリーマン・パリークシット・マハーラージャはヴィシュヌに守られていたため、ヴィシュヌラータとして知られています。彼らは主の献身者として、常に主に守られています。この点からしても、ヴィシュヌラータは他の誰からでもなく、ブラフマラータから『シュリーマド・バーガヴァタム』を聴くべきだということが明らかです。なぜなら、それ以外の者たちは超越的な知識を歪曲し、そのために、聴く人の貴重な時間を無駄にすることになるからです。
prāha bhāgavataṁ nāma
purāṇaṁ brahma-sammitam
brahmaṇe bhagavat-proktaṁ
brahma-kalpa upāgate

訳語

翻訳

彼は、マハラージャ・パリークシットの問いに答えて、人格神に関する科学は、ブラフマーがこの世に現れた時にまず、主御自身からブラフマーに語られたのだと言った。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、補足的なヴェーダ文献であり、ヴェーダに完全に則っている。

解説

 『シュリーマド・バーガヴァタム』は人格神についての科学です。非人格主義者はこの偉大な知識の科学も知らずに、主の人格的な様相を歪曲しようと努めるものですが、『シュリーマド・バーガヴァタム』はヴェーダと人格神に関する科学的な知識に則っています。この科学を学ぶためには、解釈しようと愚かにも試みることで、結果的に主の御足に大きな侮辱を犯すのではなく、シュリー・シュカデーヴァの代表者の保護を求め、マハーラージャ・パリークシットの足跡に従うべきです。献身者でない者たちによる危険な解釈が『シュリーマド・バーガヴァタム』の理解を不可能なものにしたため、神の科学を学びたいと思う慎重な生徒は、常に気を付けなくてはなりません。
yad yat parīkṣid ṛṣabhaḥ
pāṇḍūnām anupṛcchati
ānupūrvyeṇa tat sarvam
ākyātum upacakrame

訳語

翻訳

彼はまた、パリークシット王が尋ねた問いの全てに答える準備を整えた。マハーラージャ・パリークシットは、パンドゥ王朝の中でも最も優れた人であったため、相応しい人に相応しい問いを投げかけることができたのである。

解説

 マハラージャ・パリークシットは、物事の本質を知るために多くの問いを投げかけ、そのうちのいくつかには非常に関心を持っていましたが、師は弟子の問いかけに順番通りに答える必要はありません。しかし経験豊富な師であったシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、師弟継承を通じて受け取ったとおりに、系統的に全ての質問に答えました。そして彼は質問に一つ残らず答えていったのです。
これで、バクティヴェーダンタによる『シュリーマド・バーガヴァタム』第2編・第8章「パリークシット王の問い」の要旨解説を終了します。