シュリーマド・バーガヴァタム 2.8.21
節
samplavaḥ sarva-bhūtānāṁ
vikramaḥ pratisaṅkramaḥ
iṣṭā-pūrtasya kāmyānāṁ
tri-vargasya ca yo vidhiḥ
vikramaḥ pratisaṅkramaḥ
iṣṭā-pūrtasya kāmyānāṁ
tri-vargasya ca yo vidhiḥ
訳語
samplavaḥ — 完璧な手段、または完全な壊滅; sarva-bhūtānām — あらゆる生命体の; vikramaḥ — 具体的な力や状況; pratisaṅkramaḥ — 最終的な破壊; iṣṭā — ヴェーダ儀式の遂行; pūrtasya — 宗教における敬虔な行い; kāmyānām — 経済発展のための儀式; tri-vargasya — 宗教、経済発展、感覚満足という三つの手段; ca — 〜もまた; yaḥ — 何でも; vidhiḥ — 手順
翻訳
生命体がどのようにして創造され、維持され、破壊されるのか、どうか私にご説明ください。献身奉仕に従事する上で何が好ましく、何が好ましくないのかについても教えてください。ヴェーダの宗教儀式はどのようなもので、ヴェーダを補完する宗教儀式にはどのような教えがあるのでしょうか。そして宗教、経済発展、感覚満足を得るための手順はどのようなものでしょうか。
解説
「完璧な手段」という意味で使われるサンプラヴァハという言葉は、献身奉仕の履行を指しており、プラティサンプラヴァハはその反対、つまり献身奉仕の発展を妨げるものを意味します。主への確実な献身奉仕の立場に身を置いている人は、束縛された人生において求められる役割を、容易に果たすことができます。束縛された人生を生きていくのは、大海の真ん中で、舟を必死にこぎ進めるようなものです。人は完全に海のなすがままであり、少しの動きで溺れてしまう危険性が常につきまといます。天候が良ければ、船はもちろん、支障なく進むでしょうが、嵐や霧、風や雲があれば海にのまれる可能性は常にあります。物質的には十分な装備を整えていたとしても、海の気まぐれを制御することは誰にもできないのです。船で海を渡ったことがある人は、海の慈悲に頼るという経験を十分に持っているかもしれません。しかし、人は主の恩恵によって、嵐や霧を全く恐れず、物質存在の海を容易く越えることができます。全ては主のご意志にかかっているのです。束縛された生活において、何らかの不運な危険があっても、誰も助けてはくれません。しかし、主の献身者は物質存在の海を恐れることなく越えることができます。なぜなら純粋な献身者は、主にいつも守られているからです (『バガヴァッド・ギーター』9-13)。主は物質的で、束縛された生活の中で活動する献身者に、特別な注意を向けてくださいます(『バガヴァッド・ギーター』9-29)。ですから人々は皆、主の蓮華の御足に保護を求め、何としてでも主の純粋な献身者になるべきなのです。
ですからマハーラージャ・パリークシットが彼の精神指導者、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーに尋ねたように、人は熟練した精神の師から、献身奉仕に従事するにあたって何が好ましく、何が好ましくないのかについて知るべきです。献身奉仕の科学、『バクティ・ラサームリタ・シンドゥ』によると、人は、体と魂を共に維持するために必要とするものだけしか食べるべきではないと、あります。人間の身体を維持するには菜食と牛乳があれば十分であり、味覚を満たすためにそれ以外の物を食べる必要はないのです。さらに物質世界において、お金を貯め込んで傲慢になるべきではありません。人々は簡単な方法で、そして正直に生計を立てるべきです。手段を選ばずに、社会における偉大な人間になるよりも、正直な生活をするためにクーリー(労働者)になる方が良いからです。正直なやり方で世界一裕福な人になっても、何も悪いことはありませんが、富を蓄えるためだけに誠実な暮らしを犠牲にするべきではありません。そのような試みは献身奉仕を妨げることになります。また人は無意味なことを話すべきではありません。献身者の目的は主の恩恵を得ることです。ですから献身者は、いつも主のすばらしい創造について主を讃えるべきです。献身者は主が偽の世界を作ったと言って、主の創造物を見下して主に歯向かうべきではありません。この世界は偽りではないのです。実際、私たちは自らを維持するため、この世界から数多くの物を得なくてはなりません。ならばどうして、この世界が偽りなどと言えるのでしょうか。同じように、どうして主のことを姿のない存在だと考えることができるでしょうか。姿を持たないと同時に、知性と意識の全てを、直接的あるいは間接的に備えることなどできるでしょうか。ですから純粋な献身者には学ぶべきことが数多くあり、彼はシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような真正な存在から、それらについて完璧に学ぶべきなのです。
献身奉仕に就くのための好ましい条件というのは、主に仕えることに対してとても熱心であることです。主はシュリー・チャイタニヤ・マハプラブの姿で、主への献身奉仕の教えが世界中の隅々まで広められることを望んでいました。ですから純粋な献身者の義務はこの命令をできる限り果たすことです。献身者は皆、自分の献身奉仕における日々の儀式に対してだけではなく、主チャイタニヤの足跡に従いながら、この教えを平和的に広めることに対しても、とても熱心であるべきなのです。そのような試みに表向きの成果がなくても、自らの義務を遂行することを思いとどまるべきではありません。純粋な献身者は、戦場の兵士であるため、彼にとって成功や失敗は何の意味も持たないのです。献身奉仕の教えの布教は、物質的な生活に対する宣戦布告のようなものです。結果を求めて働く者や、思索家、神秘的な力を操る者など、あらゆる種類の物質主義者が数多く存在します。彼らは皆、神の存在に反対しています。彼らは絶えず、どんな行動においても主の慈悲に頼っているにもかかわらず、自分自身が神であると言い張ります。ですから純粋な献身者は、そのような無神論者の集団と交流するべきではありません。主の確固たる献身者は、献身者でない者の無神論的な宣伝に惑わされることはありませんが、献身奉仕における初心者は、そのような人々に用心しなくてはなりません。献身者は形式だけにこだわるのではなく、真正な精神指導者の指導のもと、献身奉仕に正しく従事するよう務めるべきです。単に儀式を遂行するのではなく、真正な精神の師の指示のもと、どれほどの奉仕に従事しているのかを見極めるべきです。献身者は何かを強く欲するのではなく、主のご意志によって自然とやってくるもので満足するべきであり、そしてそれこそが献身生活の原則です。これらの原則はシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような精神指導者の指導の元で簡単に学ぶことができます。マハーラージャ・パリークシットはシュカデーヴァに正しく問いかけたのであり、私たちは彼の例に従うべきです。
マハーラージャ・パリークシットは、物質世界の創造、維持、破壊の過程、ヴェーダの宗教儀式の手順、そしてプラーナや『マハーバーラタ』のような、補足的なヴェーダ文献に関する敬虔な活動を行う方法についても問いました。すでに説明されたように、『マハーバーラタ』もプラーナも、古代インドの歴史を書いたものです。敬虔な行いは補足的なヴェーダ(スムリティ)で定められており、具体的には一般の人々の水源を確保するために、水槽や井戸を掘ることについて特に描写されています。公共の道路への植樹、公共の寺院や崇拝場所の建設、貧しい人々に食事を提供する慈善活動の場の設立、また、その他類似の活動はプールタと呼ばれます。
そして、当然の欲求として自分の感覚を満たしたいと望む全ての人たちのためにも、また、王は尋ねたのです。