Default ViewAdvanced
Dual Language
訳語
翻訳
解説

第16章

パリークシットがどのようにカリ時代を受け入れたか

sūta uvāca
tataḥ parīkṣid dvija-varya-śikṣayā
mahīṁ mahā-bhāgavataḥ śaśāsa ha
yathā hi sūtyām abhijāta-kovidāḥ
samādiśan vipra mahad-guṇas tathā

訳語

翻訳

スータ・ゴースヴァーミーが言った。「博識なブラーフマナたちよ。こうしてマハーラージャ・パリークシットは、最も優れた再誕のブラーフマナたちから教えを授かりながら、主の偉大な献身者として世界を統治するようになった。彼が誕生したとき、熟達した占星術師たちが予言したその優れた特質で世を治めたのである」

解説

マハーラージャ・パリークシットが誕生したとき、造詣の深い占星術師のブラーフマナが、彼の特質を予言しています。主の偉大な献身者だったからこそ、そのような質を全て発揮したのです。真の資格は主の献身者になることであり、献身者であってこそ、持つにふさわしい優れた質が全て発揮されます。マハーラージャ・パリークシットはマハー・バーガヴァタ、すなわち一流の献身者であり、献身奉仕の科学に長けていることはもちろん、超越的な教えを通して人々を献身者に変えることもできます。ゆえに彼は最上の献身者でした。こうして彼は、国政に関してシャーストラに基づいて助言することができる博学なブラーフマナたちや、偉大な聖者たちに相談していました。そのような偉大な王は、ヴェーダ経典に残された偉大な権威者たちの教えに従うことを義務としているからこそ、選挙で選ばれたような代表者たちよりも信頼に値します。毎日新しい法案を考え出し、さまざまな問題に対応しようとする非実用的な愚か者など必要ではなかったのです。規則や原則は、マヌ、ヤージュナヴァルキャ、パラーシャラのような大聖者や解放された人物たちによってすでに用意されており、あらゆる時代や場所に適応しています。ですから、このような原則が基準であり、そのなかには間違いや欠陥はありません。マハーラージャ・パリークシットのような国王たちには補佐役の顧問たちがいましたが、全員が偉大な聖者あるいは一流のブラーフマナでした。彼らは報酬をもらっていたわけではありませんし、また報酬を必要としていたわけでもありません。特にお金を払わなくても最上の助言を得ることができたのです。彼ら自身がサマ・ダルシー、すなわち、人間でも動物でも、誰をも等しく見ていました。彼らは王に対して、人間を保護する一方で哀れな動物を殺すようにと助言するようなことはありません。王の顧問たちは愚かな人間ではなく、愚者の楽園を作るための代表者でもありませんでした。全員が自己を悟った魂たちであり、また国に住む全ての生き物がどうすれば現世でも来世でも幸せに生きられるかをよく知っていました。快楽主義者が言う「食べて、飲んで、楽しむ」という哲学にはまったく関心がありませんでした。真の意味での哲学者であり、人間生活の使命を心得ていたのです。このような義務感に基づいて王の顧問たちは正しい指示を出し、自らが資格ある主の献身者であった国王や代表者は、国の繁栄のために、その教えに徹底的に従いました。マハーラージャ・ユディシュティラやマハーラージャ・パリークシットの時代の国は、真の意味で繁栄に満ちていました。なぜならその国では、人間でも動物でも、不幸なものは誰一人いなかったからです。マハーラージャ・パリークシットは世界の繁栄に満ちた国に君臨する理想的な王だったのです。
sa uttarasya tanayām
upayema irāvatīm
janamejayādīṁś caturas
tasyām utpādayat sutān

訳語

翻訳

パリークシット王はウッタラ王の娘と結婚し、マハーラージャ・ジャナメージャヤを長男とする4人の子をもうけた。

解説

マハーラージャ・ウッタラはヴィラータの息子で、マハーラージャ・パリークシットの母方の叔父にあたります。マハーラージャ・ウッタラの娘であるイラーヴァティーは、マハーラージャ・パリークシットのいとこ姉妹にあたりますが、いとこ兄弟と姉妹は、同じゴートゥラ、すなわち家族に属していなければ結婚することが許されていました。ヴェーダ式の結婚では、ゴートラ・家族の重要性が強調されています。アルジュナは、母方のいとこ姉妹であるスバドラーと結婚しています。
ジャナメージャヤはラージャルシ王の一人で、マハーラージャ・パリークシットの名高い息子です。母の名前はイラーヴァティー、またはマードゥラヴァティーという情報もあります。マハーラージャ・ジャナメージャヤは2人の息子、ジュニャーターニーカとシャンクカルナをもうけました。クルクシェートラの巡礼地で何度か供犠を催し、シュルタセーナ、ウグラセーナ、ビーマセーナ2世という3人の弟がいます。また自分の偉大な父、マハーラージャ・パリークシットが不当に呪われたことに対して報復することを決意し、タクシャシラー(アジャンタ)に攻め入りました。父を噛んで死なせたタクシャカを含む蛇の種族を殺すためのサルパ・ヤジュニャという大規模な供犠を執行しました。しかし、有力な神々や聖者たちの依頼を受け、蛇族を殺す決意を変えざるを得ませんでした。儀式は中断されたものの、参加した人々に適切に報酬を与えたことで、全ての人々を満足させました。その儀式にはマハームニ・ヴィヤーサデーヴァも参加し、王の前でクルクシェートラの戦いの歴史を語って聞かせました。のちに、ヴィヤーサデーヴァの命令で弟子のヴァイシャンパーヤナが、『マハーバーラタ』の主題について王に話をしています。ジャナメージャヤ王は、偉大な父の時ならぬ死を大層悲しみ、もう一度父に会いたいと強く願い、偉大な聖者ヴィヤーサデーヴァにその願いを叶えてもらえないか、と頼みます。ヴィヤーサデーヴァはその望みを満たしました。父が姿を現したあと、彼は父とヴィヤーサデーヴァに深い敬意をこめた壮大な崇拝の儀式を行いました。心から満足したジャナメージャヤ王は、儀式に参加したブラーフマナたちに寛大に寄付を施しました。
ājahārāśva-medhāṁs trīn
gaṅgāyāṁ bhūri-dakṣiṇān
śāradvataṁ guruṁ kṛtvā
devā yatrākṣi-gocarāḥ

訳語

翻訳

マハーラージャ・パリークシットは、自分を導いてくれる精神指導者としてクリパーチャーリャを選んだ後、ガンジス川のほとりで馬の供犠を3回執行した。列席した人々には報酬が十分になされ、儀式が行われている間は一般の人々でさえ神々の姿を見ることができた。

解説

この節から、高い惑星にいる住人たちが惑星間を行き来するのは簡単だったことがわかります。『シュリーマド・バーガヴァタム』には、天界から神々が地球を訪れ、有力な王や皇帝たちが執行した供犠に参加していた記述が数多くあります。またこの節には、マハーラージャ・パリークシットが主宰した馬の供犠の間、その儀式のおかげで、普通の人たちでも他の惑星から訪れていた神々を見ることができたこともわかります。主を見ることができないように、普通、神々は一般人には見えません。しかし、主がいわれのない慈悲で凡人にも見えるように降誕するように、神々も彼ら自身の慈悲を通して凡人でも見えるようになります。天界の生命体は、この地球にいる住人の目では見ることはできないのですが、神々が自分たちの姿を見せることに同意したのは、マハーラージャ・パリークシットの力に他なりません。王たちは、そのような儀式を通して惜しみなく財産を消費したものですが、それはいわば雲が雨を降らせるようなものです。雲は水の別の姿、あるいは言い換えれば、地球の水は雲に変わる、ということです。同じように、そのような儀式を通して示された施しは、市民たちから集められた別の形の税金でもあります。しかし雨が豊富に、または必要以上に降るように見えるのと同じく、そのような王たちの寛大な慈善も、市民たちには必要以上に与えられているように見えます。満足した市民たちは王に反対運動を起こしませんから、君主国を変える必要はどこにもありませんでした。
マハーラージャ・パリークシットほどの王でさえ、精神指導者の導きが必要でした。その導きがなければ、精神生活を高めることはできません。精神指導者は真の人物でなくてはなりませんし、自己の悟りを求めている人は、本当の成功を手に入れるためにも、必ず真の精神指導者に身を委ねなくてはなりません。
nijagrāhaujasā vīraḥ
kaliṁ digvijaye kvacit
nṛpa-liṅga-dharaṁ śūdraṁ
ghnantaṁ go-mithunaṁ padā

訳語

翻訳

あるときマハーラージャ・パリークシットは、世界制覇のために行軍していたとき、カリ・ユガの主(ルビ:ぬし)を見た。シュードラにも劣り、王に変装し、雌牛と雄牛の足を傷つけようとしている。王はすぐさまその男を拘束し、十分な罰を加えようとした。

解説

王が世界を制覇するために出立するのは、ただ自分の勢力を拡大させるためではありません。マハーラージャ・パリークシットは王座についたあと世界制覇に出向きましたが、それは他国侵略が目的ではありませんでした。彼は世界の皇帝であり、他の小国はすでに体制下に置いていました。出立した目的は、神を敬う国家という観点から世界の動向を見届けるためでした。王は主の代表者ですから、主の意志を正しく実現させなくてはなりません。勢力を増強させるつもりなどありませんでした。ですから王に変装していた下等な男が雌牛と雄牛の足を傷つけていた様子を見たマハーラージャ・パリークシットは、すぐにその男を捕らえ、処罰しました。王は最も重要な動物である牛が侵害されることを決して許しませんし、また最も重要な人間であるブラーフマナへの無礼には黙っていません。人間文化とは、ブラーフマナの文化を基準として高められなくてはならず、その状態を維持するために牛の保護は絶対不可欠です。牛乳は奇跡の食料であり、より高い成果を上げるため、生理学的条件を満たすビタミンを全て含んでいます。ブラフマンの文化は、人間が有徳の気質を高める教育を受けたときにだけ高まり、その目的のために牛乳、果物、穀物で作られた食料が必要なのです。マハーラージャ・パリークシットは、この肌の黒いシュードラが支配者の衣服をまとい、社会で最も大切な動物である牛を虐待している様子を見て驚きました。
カリ時代は、誤った管理と口論の時代です。そしてその元凶は、人生の高い志もなく、下等な様式にいる無価値な人間が、国家管理という指導的な立場に座っていることにあります。王の座にいるそのような人間は、牛とブラーフマナ文化をまず必ず傷つけ、社会全体を地獄に陥れるのです。マハーラージャ・パリークシットは正しい訓練を受けた人物であり、全世界の争いの根源を直感しました。だからこそ初期段階でそれを食い止めたいと考えたのです。
śaunaka uvāca
kasya hetor nijagrāha
kaliṁ digvijaye nṛpaḥ
nṛdeva-cihna-dhṛk śūdra-
ko ’sau gāṁ yaḥ padāhanat
tat kathyatāṁ mahā-bhāga
yadi kṛṣṇa-kathāśrayam

訳語

翻訳

シャウナカ・リシが尋ねた。「マハーラージャ・パリークシットはなぜ、その男を処罰するだけにとどめようとしたのでしょうか。最下等のシュードラで、王の恰好を真似て、牛の足を打っていたような男を。もし、その話が主クリシュナと結びついているのであれば、その全てをお話しください」

解説

シャウナカとリシたちは、敬虔(ルビ:けいけん)なマハーラージャ・パリークシットが、この犯罪者をただ処罰するだけで、殺さなかったことを聞いて驚いています。これは、マハーラージャ・パリークシットのような敬虔な王ならば、王のように着飾って大衆をだましつつ、最も純粋な動物である牛を侵害しようとしていた犯罪者をすぐに殺すべきだった、ということを表しています。しかし当時のリシたちは、カリ時代が進むと、最下等のシュードラが管理者として選ばれ、牛たちを殺す食肉処理場を組織的に運営することなど想像すらできませんでした。いずれにしても、シュードラカという詐欺師、牛の侵害者のことなど偉大なリシたちには何の関心もなかったのですが、それでも、この話が主クリシュナに関わっているのであれば聞きたいと願ったのです。クリシュナと関連している話は聞くに値するからこそ、彼らの関心は主クリシュナについての話だけに向けられていたのです。『シュリーマド・バーガヴァタム』には、社会学、政治学、経済学、文化的事業など多くの話題が含まれていますが、その全てがクリシュナと結びついているため、聞くに値します。内容が何であろうと、クリシュナが全ての話を純粋にする主要な要素です。俗世界にあるものは、3つの俗な気質によって作られているため、全て不純です。しかしそれを浄化させる代表者がクリシュナなのです。
athavāsya padāmbhoja-
makaranda-lihāṁ satām
kim anyair asad-ālāpair
āyuṣo yad asad-vyayaḥ

訳語

翻訳

主の献身者は、主の蓮華の御足からあふれ出る蜜をいつもなめて味わっている。貴重な人生を無駄にするにすぎない話に、どんな価値があろうか。

解説

主クリシュナとその献身者たちは、どちらも超越的な境地にいます。ですから、主クリシュナと純粋な献身者にまつわる話題は同じようにすばらしいのです。クルクシェートラの戦いは政治と外交の世界でしたが、主クリシュナと関係があったからこそ『バガヴァッド・ギーター』は全世界で崇められているのです。俗人にとって俗な話題でしかない政治学、経済学、社会学などを放棄する必要はありません。主と真に結ばれている純粋な献身者には俗な話題でも、主と、あるいは主の純粋な献身者と結びついていれば超越的な質に変わります。これまでパーンダヴァ兄弟について聞き、話してきましたが、これからはマハーラージャ・パリークシットについての話題に移ります。しかし、その全てが主シュリー・クリシュナと直結しているからこそ、全て超越的であり、純粋な献身者は強い関心で聞こうとします。この要点については、ビーシュマデーヴァの祈りの箇所ですでに学びました。
私たちの一生は長くありませんし、いつ何時、全てを残して立ち去るよう命じられて来世に連れていかれるのか定かではありません。ですから、生涯のほんの一瞬でさえ、主クリシュナと関係のない話題に巻き込まれて無駄にならないよう注視する義務があります。またどれほど耳に心地よくても、クリシュナと結ばれていない話は聞く価値がありません。
精神的惑星、そして主クリシュナの永遠の住処ゴーローカ・ヴリンダーヴァナは、蓮華の花の渦に似た形をしています。主は俗世界のどの惑星でさえ、自分の住処をそこにそのまま表して降誕なさります。ですから、主の御足はいつもその同じ巨大な蓮華の渦の上に置かれています。主クリシュナの御足は蓮華の花のように美しく、そのため主は蓮華の御足を持っている、と表現されています。
生命体は本来永遠です。しかし、物質エネルギーと接触しているために誕生と死の渦に縛られています。その物質エネルギーから自由になった生命体は解放され、ふるさとに、神の元に帰っていく資格を授かります。物質の体を変えずにいつまでも生きたいと願う人々は、主クリシュナと献身者に関連する話題以外のことで貴重な時間を無駄にすべきではありません。
kṣudrāyuṣāṁ nṛṇām aṅga
martyānām ṛtam icchatām
ihopahūto bhagavān
mṛtyuḥ śāmitra-karmaṇi

訳語

翻訳

スータ・ゴースヴァーミーよ。人間のなかには、死から解放されて永遠の命を求める人々がいます。彼らは、死の支配者、ヤマラージャの名を呼ぶことで、その殺戮の過程から逃れるのです。

解説

生命体は、下等な動物から高等な人間にまで徐々に高められていくうちに、死の束縛から解放されたいと強く願うようになります。現代の科学者は、生理化学の知識の力で死を避けようとしますが、哀れなことに、死の支配者ヤマラージャは非常に残酷で、その科学者の命さえ容赦なく奪い去ってしまいます。科学知識を発達させて死を止める理論を並び立てる科学者自身がヤマラージャに呼ばれ、死の犠牲になるのです。死を止めることはおろか、短い寿命のほんの一瞬さえ延ばすことはできないのです。ヤマラージャによる残酷な殺戮の過程を止める唯一の望みは、その名を呼んで、主の聖なる名前を聞いて唱えることしかありません。ヤマラージャは主の偉大な献身者であり、主への献身奉仕にいつも没頭している純粋な献身者が行うキールタナや儀式に招かれたいと思っています。だからこそシャウナカを筆頭とする偉大な聖者たちや他の人々は、ナイミシャーラニャで行われる供犠に参加するようヤマラージャを招いているのです。これは、死にたくないと思っている人々にとってすばらしいことです。
na kaścin mriyate tāvad
yāvad āsta ihāntakaḥ
etad-arthaṁ hi bhagavān
āhūtaḥ paramarṣibhiḥ
aho nṛ-loke pīyeta
hari-līlāmṛtaṁ vacaḥ

訳語

翻訳

全ての生命体に死をもたらすヤマラージャがここにいる限り、誰も死にません。偉大な聖者たちは、主の代表者である、死の支配者ヤマラージャを招きました。ヤマラージャの手の内に命を握られている生命体たちは、主の超越的な遊戯という姿をとった不死の甘露を聞き、この機会を活用しなくてはなりません。

解説

人間なら誰でも死にたいとは思いませんが、その死を止める方法を知りません。死を避ける最も確かな方法は、『シュリーマド・バーガヴァタム』の本文の中に秩序立てて語られており、それは主の甘露に満ちた遊戯についていつも聞く習慣を身に着けることにあります。ですからこの節では、死から解放されたいと望む全ての人間は、シャウナカを筆頭とするリシたちが勧めているように、この生涯を活用しなくてはなりません。
mandasya manda-prajñasya
vayo mandāyuṣaś ca vai
nidrayā hriyate naktaṁ
divā ca vyartha-karmabhiḥ

訳語

翻訳

無価値な知性と短い命しか持たない怠惰な人間たちは、夜は眠ることに、昼は無駄なことのために時間を費やしています。

解説

知性のない人は、人間生活が持つ本当の価値を知りません。人間の姿は、生命体が強いられた厳格な苦しみの法則の中で生涯を生きる上で、物質自然から与えられた特別な贈り物です。誕生と死の繰り返しという束縛から抜け出せるという、何よりも気高い恩恵なのです。賢い人はその束縛から抜け出すために奮闘し、その大切な贈り物を大事に使います。一方知性のない人は無気力で、束縛から解放されるためにある人間の体という贈り物にどれほどの価値があるかがわかりません。そんな彼らが関心を抱くのはいわゆる経済発展で、はかない体の感覚を楽しもうと朝から晩まで働くばかりです。感覚の楽しみは、自然界の定めによって下等な動物でも味わえるものですから、人間でも、過去、あるいは今していることに応じてある程度の感覚は楽しめるように定められているのです。しかし、そのような感覚の楽しみが人間生活の究極目標ではないことを、はっきりと理解しなくてはなりません。この節で、昼間、人は「無駄なこと」のために働いている、と言われていますが、それは目的が感覚の楽しみだけに向けられているからです。人間が、無駄なことのために大都市や工業都市で働いている様子を目の当たりにすることができます。人間のエネルギーで膨大な産物が作られますが、どれも感覚を楽しむためになされたもので、束縛から抜け出すためではありません。昼間一生懸命に働いたあと、疲れ切ったら夜は眠るか、あるいはセックスを楽しみます。それが、知性に欠ける人々に用意された物質主義的文化の計画です。そのため彼らはこの節で、怠惰で短命、と表現されているのです。
sūta uvāca
yadā parīkṣit kuru-jāṅgale ’vasat
kaliṁ praviṣṭaṁ nija-cakravartite
niśamya vārtām anatipriyāṁ tataḥ
śarāsanaṁ saṁyuga-śauṇḍir ādade

訳語

翻訳

スータ・ゴースヴァーミーが言った。「マハーラージャ・パリークシットがクル王国の首都に住んでいた時、直轄していた国内にカリ時代の兆しが入り込んだ。パリークシット王はその異常を察知し、快く思わなかった。しかしそれが、王に戦う機会を与えたのである。そして王は弓と矢を手に、戦いの準備に入った」

解説

マハーラージャ・パリークシットの国家管理体制は完璧で、彼自身は首都で平穏に暮らしていました。しかしその時、カリ時代の兆しがすでに国内に入り込んでいるという知らせを受けます。そしてこの知らせを不快に思いました。カリ時代の兆しとは何でしょうか。それは(1) 女性との不義の関係、(2) 肉食にふけること、(3) 陶酔物、(4) 賭博を楽しむことです。カリ時代とは文字通りには争いの時代で、上記の4つの兆しが、人間社会での争い全ての根源です。マハーラージャ・パリークシットは一部の市民がすでにこれらに関わっていることを聞き、不安を作り出すこの要因をすぐに一掃したいと考えました。これはつまり、少なくともマハーラージャ・パリークシットの政権までは、このような兆しは市民生活の中にほとんど見られなかったということですが、その兆しがわずかに現れた時点で、根絶したいと考えました。その知らせは彼にとって不快なものではありましたが、戦う機会を与えたため、ある意味では好機でもあります。パリークシット王に従属することで誰もが平和に暮らしていたのですから、小国相手に戦う必要はどこにもなかったのですが、カリ・ユガの悪人たちの存在が、闘魂を奮い立たせる機会を与えたのです。完璧なクシャトリヤは、戦いの機会を得るといつでも喜びます。いわばアスリートが競技に参加することを待ち望んでいるようなものです。カリ時代の忌まわしい兆しが予言されていたことに反論する余地はありません。すでに予言されているのなら、なぜその兆しと戦う準備をする必要があったのでしょうか。そのような議論は、怠惰で不運な人たちがよく持ち出すものです。雨期になれば雨が降ることは予想されますが、人々は自分たちの身を守るために、事前に対策をとります。同じように、カリ時代には上述された兆しは間違いなく世に入りこんできますが、国は市民がカリ時代の手先たちと関わることから救う義務があります。マハーラージャ・パリークシットはカリの兆候に溺れている悪人たちを処罰したいと考え、そうすることで、宗教文化に従って純粋な習慣を維持していた罪のない市民たちを救いたいと考えました。そのように市民を保護することが王の義務であり、マハーラージャ・パリークシットが戦う準備をしたのは正しい選択でした。
svalaṅkṛtaṁ śyāma-turaṅga-yojitaṁ
rathaṁ mṛgendra-dhvajam āśritaḥ purāt
vṛto rathāśva-dvipapatti-yuktayā
sva-senayā digvijayāya nirgataḥ

訳語

翻訳

マハーラージャ・パリークシットは、黒い馬に引かれた馬車に座った。馬車の旗には獅子が刻印されている。そのように飾られ、二輪戦車、騎兵隊、象、歩兵隊に囲まれた王は、四方をくまなく征服するために都を出立した。

解説

マハーラージャ・パリークシットと祖父のアルジュナとの違いがここにあります。白馬ではなく黒馬が彼の馬車を引いていたのです。そして馬車の旗には獅子が刻印されていますが、祖父の馬車にはハヌマーンジーが印されていました。マハーラージャ・パリークシットのような国王の行進は、美しく飾られた馬車、騎兵隊、歩兵隊、楽団など、目に心地よいだけではなく、最前線においても美的感覚を彷彿とさせる文化の印でもあります。
bhadrāśvaṁ ketumālaṁ ca
bhārataṁ cottarān kurūn
kimpuruṣādīni varṣāṇi
vijitya jagṛhe balim

訳語

翻訳

そしてマハーラージャ・パリークシットは、バドゥラーシュヴァ、ケートゥマーラ、バーラタ、クル北部、キンプルシャなど、地球全土を掌握し、各地域の支配者から貢ぎ物を徴収した。

解説

バドゥラーシュヴァ メール・パルヴァタ付近一帯にあり、ガンダ・マーダナ・パルヴァタから塩の海まで広がっています。このヴァルシャの説明は『マハーバーラタ』(ビーシュマ・パルヴァ 7-14〜18)にあり、サンジャヤからドリタラーシュトラに説明されています。
マハーラージャ・ユディシュティラもこのヴァルシャを制圧しており、彼の王国の管轄に含まれています。マハーラージャ・パリークシットが祖父から受け継いだ国土全ての皇帝であることはすでに宣言されているのですが、なおかつ、その国々から貢ぎ物を受け取るために諸外国に赴いた時、自らの主権を確立させる必要がありました。
ケートゥマーラ 地球は7つの海によって7つのドゥヴィーパに分割され、中央のドゥヴィーパをジャンブードゥヴィーパといい、それが8つの巨大な山によって9つのヴァルシャに分けられています。バーラタ・ヴァルシャは、上記の9つのヴァルシャのひとつで、ケートゥマーラもそのヴァルシャのひとつとして述べられています。ケートゥマーラのヴァルシャに住む女性たちは、大変美しいとも説明されています。このヴァルシャはアルジュナによって制圧されており、『マハーバーラタ』(サバー 28-6)でこの地域について知ることができます。
この地域はメール・パルヴァタの西部に位置しており、その住人たちは1万年生きていた、と述べられています(『マハーバーラタ』ビーシュマ・パルヴァ 6-31)。この地域の住民は金色の肌をし、女性たちは天国の天使によく似ています。またいっさいの病気や悲しみに苦しめられることがありませんでした。
バーラタ・ヴァルシャ この地域はジャンブードゥヴィーパの9つのヴァルシャのひとつです。バーラタ・ヴァルシャについては『マハーバーラタ』(ビーシュマ・パルヴァ 9章〜10章)で説明されています。
ジャンブードゥヴィーパの中心がイラーヴリタ・ヴァルシャで、イラーヴリタ・ヴァルシャの南側にハリ・ヴァルシャがあります。これらのヴァルシャについては『マハーバーラタ』(サバー・パルヴァ 28-7〜8)で次のように説明されています。
nagarāṁś ca vanāṁś caiva
nadīś ca vimalodakāḥ
puruṣān deva-kalpāṁś ca
nārīś ca priya-darśanāḥ
adṛṣṭa-pūrvān subhagān
sa dadarśa dhanañjayaḥ
sadanāni ca śubhrāṇi
nārīś cāpsarasāṁ nibhāḥ
この節では、どちらのヴァルシャの女性にも美女が多く、一部の女性は天界の女性、アプサラーにも匹敵する、と言われています。
ウッタラクル ヴェーダの地理学によると、ジャンブードゥヴィーパの北部をウッタラクル・ヴァルシャと呼びます。3方向を海に囲まれ、ヒランマヤ・ヴァルシャ側からは、シュリンガヴァーン山によって隔てられています。
キンプルシャ・ヴァルシャ ここはヒマラヤ山脈の北に位置し、長さと高さは8万平方マイル、広さ1万6,000マイルに及ぶ地域です。この地域もアルジュナによって制圧されました(『マハーバーラタ』 サバー 28-1〜2)。キンプルシャの住民はダクシャの娘の子孫です。マハーラージャ・ユディシュティラが馬の供犠のヤジュニャを執行したとき、これらの国々の住民たちもその祭りに加わり、皇帝に貢ぎ物をしました。この地域はキンプルシャ・ヴァルシャ、またときにはヒマラヤン地域(ヒマヴァティー)と呼ばれることがあります。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、ここヒマラヤ地区で生まれ、ヒマラヤの国々を通過したあとバーラタ・ヴァルシャに来た、とされています。
言い換えれば、マハーラージャ・パリークシットは全世界を制覇し、また四方の海に隣接する大陸、すなわち世界の東西南北全土を全て平定していたということです。
tatra tatropaśṛṇvānaḥ
sva-pūrveṣāṁ mahātmanām
pragīyamāṇaṁ ca yaśaḥ
kṛṣṇa-māhātmya-sūcakam
ātmānaṁ ca paritrātam
aśvatthāmno ’stra-tejasaḥ
snehaṁ ca vṛṣṇi-pārthānāṁ
teṣāṁ bhaktiṁ ca keśave
tebhyaḥ parama-santuṣṭaḥ
prīty-ujjṛmbhita-locanaḥ
mahā-dhanāni vāsāṁsi
dadau hārān mahā-manāḥ

訳語

翻訳

王がどこを訪ねても、主の偉大な献身者である高潔な先祖たちの栄光を、そして主クリシュナの栄光に満ちた活動について幾度となく耳にした。また王自身が主によって、アシュヴァッターマーが放った武器の強烈な熱から守られたことも耳にした。さらに人々は、ヴリシュニとプリターの子孫たちが交わす強い愛着について口々に語っていた。プリターが主ケーシャヴァに深い愛情を注いでいたからである。王は、そのような栄光を詠う吟唱家たちを心から嬉しく思い、大そう満足して目を輝かせた。そして寛大な心から、喜んで彼らに高価なネックレスや衣服を与えた。

解説

国王や偉人は歓迎の言葉とともに迎えられます。この慣習は昔から続けられ、マハーラージャ・パリークシットも、世界にその名を響かせていた皇帝の一人でしたから、どこを訪ねても歓迎の言葉で迎えられました。それら歓迎の言葉の主題はクリシュナでした。王と言えば王とその親密な側近を含むように、クリシュナと言えば、クリシュナとその永遠の献身者を指します。
クリシュナとクリシュナの純粋な献身者を別々にすることはできませんから、献身者を讃えることは、クリシュナ讃えるのと同じこと、その逆も同じです。マハーラージャ・パリークシットは、マハーラージャ・ユディシュティラやアルジュナという先祖たちの栄光が主クリシュナの活動と関係していなければ、話を聞いても特に喜ばなかったはずです。主は、特に献身者たちを救うために降誕なさいます(『バガヴァッド・ギーター』4-8)。献身者は主の存在を通して讃えられるものです。彼らは、主と主のさまざまなエネルギーの存在なくしては、一瞬たりとも生きられないからです。主は、主自身の行為と栄光を通して献身者のために存在していますから、マハーラージャ・パリークシットは、特に自分が母親の胎内で主によって救われたという主自らの行動によって主が讃えられる時に、主の存在を感じました。主の献身者は決して危険な目に遭いませんが、毎瞬間危険が潜む物質界にいるとき、危険な状態に陥るように見えるだけであり、彼らが主によって救われるとき、主が讃えられます。もしもパーンダヴァ兄弟のような主の献身者たちが、クルクシェートラの戦場で窮地に陥らなければ、主クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』の語り手として讃えられなかったでしょう。主のそのような行動全てが歓迎の言葉で述べられ、マハーラージャ・パリークシットはその話に心から満足し、語った人々に報酬を与えました。現代と当時の歓迎の言葉で違っているのは、かつてはマハーラージャ・パリークシットのような人物に対して、歓迎の言葉が向けられたという点にあります。その歓迎の言葉は正確無比な描写で語られ、語った人々は十分な報酬を授かりますが、現代ではいつも本当のことが語られているわけではなく、それなりの地位に就いている凡人を喜ばせることが多く、その中身は嘘のお世辞です。そして、その歓迎の言葉を口にする人たちも、言葉を受け取った凡人から報酬を受け取ることはほとんどありません。
sārathya-pāraṣada-sevana-sakhya-dautya-
vīrāsanānugamana-stavana-praṇāmān
snigdheṣu pāṇḍuṣu jagat-praṇatiṁ ca viṣṇor
bhaktiṁ karoti nṛ-patiś caraṇāravinde

訳語

翻訳

マハーラージャ・パリークシットは、誰もが服従する主クリシュナ(ヴィシュヌ)が、自らのいわれのない慈悲心から、パーンドゥの従順な息子たちのために御者、代表者、使者、友人、夜警などとして、どのようなことをしてでも仕えていたことを聞いた。パーンダヴァ兄弟の意思に沿えるよう、あたかも召使いのように従い、年下のように礼を尽くしていたのである。この話を聞いたマハーラージャ・パリークシットは、主の蓮華の御足への強い愛着に包まれた。

解説

パーンダヴァ兄弟のような純粋無垢な献身者にとっては、主クリシュナが全てです。彼らにとって主は至高主であり、精神指導者であり、崇拝する神像、案内者、御者、友人、召使い、使者、あるいは思い浮かべられるものの全てです。そして、主もパーンダヴァ兄弟の気持ちに応えます。マハーラージャ・パリークシットは純粋な献身者として、主が献身者と超越的な気持ちの交換をしていることを深く理解し、主のそのような振る舞いに胸を打たれたのでした。主の純粋な献身者に対する振る舞いの真価をただ認めるだけで、私たちは解放されます。主の献身者とのふれあいは、普通の人間同士の交流に見えますが、その真相を見ることのできる人は、すぐにふるさとへ、神の元へ帰る資格を備えることができます。パーンダヴァ兄弟は主の意志に完璧に従順であり、主に仕えるためならどのようなことでも犠牲にすることができ、そしてそのような無垢な決意を通して、望み通りに主の慈悲を確実に授かることができたのです。
tasyaivaṁ vartamānasya
pūrveṣāṁ vṛttim anvaham
nātidūre kilāścaryaṁ
yad āsīt tan nibodha me

訳語

翻訳

ではこれから、マハーラージャ・パリークシットが自分の先祖たちの優れた職務について聞き、彼らに思いをはせて過ごしていたときに、何が起こったか、聞いていただきたい。
dharmaḥ padaikena caran
vicchāyām upalabhya gām
pṛcchati smāśru-vadanāṁ
vivatsām iva mātaram

訳語

翻訳

宗教原則の権化、ダルマは雄牛の姿となってさまよっていた。やがて、雌牛の姿になっている地球の権化に出会った。雌牛は子を失った母親のように嘆き悲しんでいる。目に涙を浮かべ、その体からは美しさが消えうせている。この様子を見たダルマは次のように地球に尋ねた。

解説

雄牛は道義の象徴であり、雌牛は地球の権化です。雄牛と雌牛が喜々としていれば、世界の人々も喜びを感じている、ということです。なぜなら、雄牛は農業を通して穀物の生産を助け、雌牛はあらゆる食料のなかで最も優れた価値をそなえた奇跡の食料、牛乳を生み出してくれるからです。ならば、人間社会はこの2種類の重要な動物を注意深く育てなくてはなりません。それができれば、彼らがいきいきとしてどこでも自由に歩くことができるからです。しかしカリ時代となった今、雄牛も雌牛も殺され、ブラーフマナ文化について何も知らない人間たちに食べられています。全ての文化的物事の最高完成であるブラーフマナ文化を広めることによって、雄牛と雌牛を人間社会全体の正義のために守る事ができます。そのような文化を高めることで社会の道徳は保たれ、その結果、余計な努力をすることなく平和と繁栄を達成できます。ブラーフマナ文化が衰退すれば、雌牛も雄牛もむごい仕打ちを受け、その結果は次の節のような兆候となって現れます。
dharma uvāca
kaccid bhadre ’nāmayam ātmanas te
vicchāyāsi mlāyateṣan mukhena
ālakṣaye bhavatīm antarādhiṁ
dūre bandhuṁ śocasi kañcanāmba

訳語

翻訳

(雄牛という姿の)ダルマが尋ねた。「淑女よ。あなたの表情には活力も喜びも見い出すことができません。どうしてそのような暗い悲しみの影に包まれているのでしょう。あなたの顔が暗くなっているように見えます。何かの病で苦しんでいるのでしょうか、あるいは遠いところに行ってしまった親族のことで思い悩んでいるのでしょうか」

解説

カリという現代に生きる人々はいつも不安に満ちています。誰もがいつも何かの病に苦しめられています。現代人の顔を見ると、彼らの心の表情を察することができます。そして誰もが、家から遠く離れ、自分のそばにいない親族のことを思い続けています。カリ時代特有の兆候として、家族が共に暮らす幸せに恵まれていない、という点が挙げられます。生計を立てるために、父親は子どもや妻から、あるいは妻が夫から遠く離れて住んでいます。内臓疾患の苦しみ、身近で愛しい者との別れの苦しみ、生活を維持するための不安などがあり、これらが現代人を不幸に陥れている重要な要素です。
pādair nyūnaṁ śocasi maika-pādam
ātmānaṁ vā vṛṣalair bhokṣyamāṇam
āho surādīn hṛta-yajña-bhāgān
prajā uta svin maghavaty avarṣati

訳語

翻訳

私は3本の足を失い、今1本の足だけで立っています。あなたは、このような私のありさまを嘆いておられるのでしょうか。それとも、肉を食べる無法の者が、あなたを搾取することに不安を感じておられるのでしょうか。あるいは、今では儀式が行われなくなったことで、神々が儀式の供物の分配を失ったことを嘆いておられるのでしょうか。それとも、凶作や干ばつのために人間たちが苦しんでいる様子を悲しんでおられるのでしょうか。

解説

カリ時代が進むにつれ、特に4つのこと、つまり寿命、慈悲心、記憶力、道徳あるいは宗教原則が次第に廃れていきます。ダルマ、すなわち宗教原則は、その4分の3が失われるために、その象徴である雄牛は今1本足だけで立っています。全世界の人口の3分の1が無宗教になると、動物にとって世界は地獄に様変わりします。カリ時代では、神を信じない文化が、直接あるいは間接的に神を否定している、いわゆる宗教的社会を無数に作り出していくことでしょう。その結果、信仰を忘れた人間社会は健全な人々が住めない世界を作っていきます。人間は、至高人格神に対する信念に基づいて、いくつかの段階に分けられます。一流の信念をもつ人々をヴァイシュナヴァ、あるいはブラーフマナといい、次にクシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ、次にムレッチャ、ヤヴァナ、そして最後にチャンダーラと分類されます。人間の本能の堕落はムレッチャから始まり、そしてチャンダーラ階級は最も堕落した人間とされます。ヴェーダ経典が述べるこれらの段階は、ある特定の社会や誕生で決まるのではありません。一般大衆のさまざまな質に応じて決定されるのです。生得権や特定の共同社会とは全く関係がありません。それぞれの質は自分の努力で得ることができますから、ヴァイシュナヴァの息子がムレッチャになることもあれば、チャンダーラの子がブラーフマナを凌ぐ質を備えることもあります。それは、至高主とのつながりや親交に基づいて決まります。
肉食をする人々は、一般的にムレッチャと呼ばれます。一方、肉を食べる人が全てムレッチャというわけではありません。経典の教えに従って肉を食べる人はムレッチャではなく、無節操に肉を食べる人がムレッチャです。牛肉を食べることは経典で禁止されており、雄牛や雌牛はヴェーダの従者によって特別に守られています。しかしカリという現代になると、人々は好き勝手に雄牛や雌牛の体を搾取するようになり、その結果として彼ら自身がさまざまな苦しみを呼び寄せています。
現代人は儀式をしません。儀式は感覚を楽しみつつ物質生活を求める人に不可欠なのですが、ムレッチャは儀式をするつもりはまったくありません。『バガヴァッド・ギーター』(3-14~16)でも儀式の執行は強く勧められています。
生命体は創造者ブラフマーによって作られ、彼らが神の元に帰る道を歩いて行けるように、儀式を執行する規則もブラフマーが用意しました。それは、生命体は穀物と野菜で生きること、その食糧を食べて血液や精液という形で身体の活力を手に入れ、さらに生物はその血液と精液から別の生物を作り出すことができる、という過程です。しかし、穀物や葉などは雨が降ってこそ生産されるのであり、その雨は勧められた儀式の執行によって正しく地上に降り注がれます。そのような儀式は、サーマ、ヤジュル、リグ、アタルヴァといったヴェーダの供犠によって定められています。『マヌ・スムリティ』では、火の祭壇を通して儀式を捧げることで太陽神を喜ばせることができる、と勧められています。喜びを感じた太陽神は海から水を適切に集め、十分な雲が上空に集められ、そして雨が降り出します。十分な雨が降ったあと、人間や動物たちにとって十分な穀物が作られ、こうして生命体の中に生きていくためのエネルギーが作られます。しかしムレッチャは、雄牛や雌牛や他の動物たちを殺す食肉処理場を作ろうとし、工場をどんどん増やしていけば豊かになれると考え、儀式の執行や穀物生産を無視して動物という食糧で生きていこうとします。しかし彼らが知るべきことは、動物のために葉や野菜を作る必要があるということであり、作らなければ動物は生きていけません。そして、動物のために葉を作るには十分な雨が必要です。ですから、結局は彼らも、太陽神、インドラ、チャンドラといった神々の慈悲にすがらなくてはならないし、儀式をして神々を満足させなくてはなりません。
何度も説明してきたように、この物質界はいわば刑務所です。神々は主の召使いであり、この刑務所をきちんと維持する任務を負っています。神々は、信仰を無視して生きようとする反抗的な生命体が、次第に主の至上の力に顔を向けることを望んでいます。だからこそ、儀式を捧げる手順が経典の中で勧められているのです。
物質主義者は仕事に明け暮れ、感覚満足のために活動の結果を楽しみたいと思っています。こうして彼らは、毎瞬間、罪を犯しつづけながら生きています。しかし、真剣に主への献身奉仕に励んでいる人々は、罪や徳を超越しています。彼らの行為は、物質自然界の三様式という汚れから自由なのです。献身者は定められた儀式をする必要はありません。なぜなら献身者の生活そのものが、儀式の象徴と言えるからです。一方、感覚を楽しむために果報的活動に励んでいる人々は、定められた儀式をしなくてはなりません。それが、果報的活動者が犯す罪の反動全てから解放されるための、ただ一つの方法だからです。儀式は、蓄積されたそのような罪を中和させる方法なのです。刑務所の看守は、収容されている囚人が従順な人間に変わることで満足するように、神々は、そのような儀式が執行されると喜びます。しかし主チャイタンニャが勧めた唯一のヤジュニャ、つまり儀式は、誰でも参加することのできるハレークリシュナを唱えるサンキールタナ・ヤジュニャです。サンキールタン・ヤジュナの執行によって、献身者も果報的活動者も同じ恩恵を授かることができます。
arakṣyamāṇāḥ striya urvi bālān
śocasy atho puruṣādair ivārtān
vācaṁ devīṁ brahma-kule kukarmaṇy
abrahmaṇye rāja-kule kulāgryān

訳語

翻訳

あなたは、不徳な者たちのために苦境に取り残された女性や子どもたちのことで良心がとがめているのでしょうか。あるいは、学問の女神が宗教原則に反することにふけっているブラーフマナたちに、もてあそばれているからつらい思いをしているのでしょうか。それとも、ブラーフマナたちがブラーフマナ文化を尊重しない管理階級の家族に頼っていることを残念に思っているのでしょうか。

解説

カリ時代における女性と子どもは、ブラーフマナと雌牛たちのようにないがしろにされ、守られていません。この時代では、女性が不義の関係に巻き込まれることで、多くの女性や子どもたちが守られない状態になります。その結果、女性は男性に守られることを避けるようになり、結婚は男女がふたりで住むことに同意する形式的な形だけで行われるようになります。ほとんどの場合、子どもたちはきちんと面倒を見てもらえません。ブラーフマナにしても、本来知性あふれる人々であり、現代教育を最高段階に引き上げることはできるのでしょうが、道徳や宗教原則に関する限り、最も堕落した状態にいます。教育と邪悪な性質は相容れないものですが、それらは並行して存在します。管理階級のトップにいる政治家たちはヴェーダ知識を非難し、いわゆる宗教に関わらない国を作ろうとし、高い教育を受けたはずのブラーフマナたちが、そのような無節操な政治家たちに雇われます。哲学者でも、宗教原則について何冊も本を作った作家たちも、シャーストラの道徳律に反する政府高官の地位に就いたりします。ブラーフマナたちは、本来そのような職務には就かない立場にいなくてはなりません。しかし今では、その仕事を引き受けるばかりか、最も卑俗なことにも関わろうとします。これらがカリ時代に見られるいくつかの兆候であり、社会全体の福利には有害なものでしかありません。
kiṁ kṣatra-bandhūn kalinopasṛṣṭān
rāṣṭrāṇi vā tair avaropitāni
itas tato vāśana-pāna-vāsaḥ-
snāna-vyavāyonmukha-jīva-lokam

訳語

翻訳

名ばかりの政治家たちはカリ時代の力に惑わされ、国政を混乱状態に陥れています。あなたは今のこの無秩序な状態を嘆いているのですか。今では、食べたり、眠ったり、飲んだり、夫婦になる決まりに一般大衆は従わなくなり、どこでも無制限にそのような生活にふけっています。あなたはこのことが原因で不幸せなのでしょうか。

解説

下等な動物でも生きるために必要なこと、つまり食べること、眠ること、恐れること、交尾することがあります。これらの体の欲求は人間にも動物にもあります。しかし人間がその望みを満たすには、動物としてではなく、人間として満たさなくてはなりません。雄犬は人に見られてもいてもためらうことなく雌犬と交尾をしますが、人間が同じことをすれば違法行為と見なされ、法を犯した罰が与えられます。だからこそ人間には、たとえ同じ欲求を持っていても、従うべき規則や原則が用意されているのです。カリ時代に惑わされた人間社会は、そのような規則も原則も無視するようになってしまいました。現代人は、生活に欠かせない必需品を規則や原則に従わずに手に入れており、獣と変わらぬそのような害ある行為の結果、社会的・道徳的に堕落してしまった現況は確かに嘆くべき状態です。また現代では、父親も保護者も、子どもたちがしていることを嘆かわしく思っています。彼らが気づくべきことは、カリ時代の影響に毒された純真無垢な子どもたちが、忌まわしい交わりの犠牲になっている点です。『シュリーマド・バーガヴァタム』には、アジャーミラというブラーフマナの純真な息子が道を歩いていたとき、シュードラの男女がセックスする様子に魅了された話があります。その魅力の犠牲になった彼は、やがて道楽生活にふけるようになります。純粋なブラーフマナの境地から、見下げ果てた道楽息子に落ちぶれてしまいましたが、それは全て悪いつきあいが原因でした。当時は、アジャーミラというただ一人の犠牲者しかいなかったのですが、カリとなった現代では毎日のように、哀れで無知な学生たちがセックスに男性を引きつける映画の犠牲になっています。政治家と呼ばれる者たちも、クシャトリヤとして職務の訓練を受けたわけではありません。クシャトリヤは、ブラーフマナの本務が知識と指導であるように、管理する立場にいます。この節のクシャトゥラ・バンドゥは、文化的、伝統的訓練を受けずに政治家の地位に上り詰めた人間を指します。今彼らは、生活の規則や原則も知らない大衆に選ばれ、そのような高級官吏の地位にのしあがっています。本人が模範的な生活ができていないのに、果たして正しい人を選べるものでしょうか。ですからカリ時代の影響によって、どこでも、政治的に、社会的に、宗教的に全てが混乱状態にあり、そのため、良識ある人には全てが嘆かわしい状況になっているのです。
yadvāmba te bhūri-bharāvatāra-
kṛtāvatārasya harer dharitri
antarhitasya smaratī visṛṣṭā
karmāṇi nirvāṇa-vilambitāni

訳語

翻訳

母なる地球よ。最高人格神ハリは、主シュリー・クリシュナ御自身として、ただあなたの重荷を軽くするために化身されました。ここでなされたその活動はどれも超越的であり、解放への道を堅くするものです。しかし今、主はあなたの前から姿を消してしまいました。おそらくあなたは主がなさった数々の遊戯に思いをはせ、もう見ることができなくなったことを悲しんでいるのでしょう。

解説

主の活動には解放も含まれていますが、それらはニルヴァーナ、すなわち解放から得られる喜びよりも味わい深いものです。シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーとヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティー・タクーラによると、この節で使われているニルヴァーナ・ヴィランビターニは、解放の価値を低くする、という意味です。ニルヴァーナ、解放を達成するには厳しいタパッシャ、苦行をしなくてはなりませんが、主はとても心優しいお方であるため、地球の重荷を軽くするために化身されます。主のそのような活動に思いをはせるだけで、ニルヴァーナから得られる喜びなど取るに足らないものに感じるようになり、主の崇高な住処に到達し、喜びに満ちた愛情奉仕をしながら主とふれあうことができるようになります。
idaṁ mamācakṣva tavādhi-mūlaṁ
vasundhare yena vikarśitāsi
kālena vā te balināṁ balīyasā
surārcitaṁ kiṁ hṛtam amba saubhagam

訳語

翻訳

母よ、あなたはあらゆる富の源です。あなたをこれほどやつれさせてしまったその苦しみの原因を、どうか教えてください。最強なる者でさえ打ち砕く、時という強力な影響が、神々でさえ憧れるあなたの富を全て奪い去ったのではないかと私は考えています。

解説

主の恩恵により、どの惑星も完璧な状態で創造されています。ですから地球は、ここに住む生物たちを維持するのに必要な富を全て備えているばかりではなく、主が降誕なされば、地球そのものがあらゆる富に恵まれるので、天界の住人でさえ愛情を込めて崇拝します。しかし主のご意志で、そのような地球でも全てが瞬時に変わります。主は自らのご意志で、何かをなさることも、なさったことを元に戻すこともできます。ですから誰であろうと、自分は完全に満たされている、自分は主と独立していると決して考えるべきではありません。
dharaṇy uvāca
bhavān hi veda tat sarvaṁ
yan māṁ dharmānupṛcchasi
caturbhir vartase yena
pādair loka-sukhāvahaiḥ

訳語

翻訳

(雌牛の姿になっている)地球の主宰神が、(雄牛の姿になっている)宗教原則の権化に答えた。「ダルマよ、あなたが私に尋ねたこと全てが明かされるでしょう。今から全てお答えします。かつてはあなたも4本の足で立ち、主のご慈悲によって、全宇宙の幸せをあまねく高めていました」

解説

宗教原則は主が作ったものであり、その法律の執行者がダルマラージャ、すなわちヤマラージャです。サッティヤ・ユガではその原則が申し分なく機能していました。トゥレーター・ユガではその4分の1がなくなり、ドゥヴァーパラ・ユガでは半分になり、カリ・ユガになると、4分の1だけになり、そしてやがてゼロになって破壊が発生します。世界の幸せは、個人にとっても社会全体にとっても、宗教原則の維持と比例しています。真の勇気は、どれほどの逆境にあっても、この原則を守り続けることにあります。そうであってこそ、私たちは物質界で幸せに生きることができ、やがて神の元に帰っていくことができます。
satyaṁ śaucaṁ dayā kṣāntis
tyāgaḥ santoṣa ārjavam
śamo damas tapaḥ sāmyaṁ
titikṣoparatiḥ śrutam
jñānaṁ viraktir aiśvaryaṁ
śauryaṁ tejo balaṁ smṛtiḥ
svātantryaṁ kauśalaṁ kāntir
dhairyaṁ mārdavam eva ca
prāgalbhyaṁ praśrayaḥ śīlaṁ
saha ojo balaṁ bhagaḥ
gāmbhīryaṁ sthairyam āstikyaṁ
kīrtir māno ’nahaṅkṛtiḥ
ete cānye ca bhagavan
nityā yatra mahā-guṇāḥ
prārthyā mahattvam icchadbhir
na viyanti sma karhicit
tenāhaṁ guṇa-pātreṇa
śrī-nivāsena sāmpratam
śocāmi rahitaṁ lokaṁ
pāpmanā kalinekṣitam

訳語

翻訳

主の内にはこのような性質が内在しています。(1)誠実さ、(2)清潔さ、(3)他人の不幸に耐えられないこと、 (4)怒りを抑制する力、 (5)自己の内で満足していること、(6) 率直さ、(7)安定した心、(8)感覚器官を抑制する力、(9)責任感、(10)平等、(11)忍耐心、(12) 平静さ、(13)忠実さ、(14)知識、(15)感覚を楽しむ気持ちのないこと、(16)指導力、(17)騎士道精神、(18)影響力、(19)全てを実現させる力、(20)適切な義務の遂行、(21)完全な独立性、(22)巧妙さ、(23)完璧な美しさ、(24)落ち着き、(25)心優しさ、(26)明敏さ、(27)優雅さ、(28)寛大さ、(29)決断力、(30)あらゆる知識を完璧に備えている、(31)全てを適切に遂行する能力、(32)楽しみの対象物を全て所有する、(33)喜びにあふれている、(34)不動性、(35)忠誠心、(36)名声、(37)崇拝に値する質、(38)思い上がりのないこと、(39)(人格神としての)存在感、(40)永遠性。そしてその他数多くの超越的な気質を備え、それらは主とともに永遠にあり、決して主と離れることはありません。その人格神、全ての善と美の源である主シュリー・クリシュナは今、この地上における崇高な遊戯を完遂させました。主がいなくなったあと、カリ時代がその影響力をあらゆる場所に浸透させており、そのために私はこのような状況に陥っている様子を見て嘆き悲しんでいるのです。

解説

地球を粉々にして、その原子の数を全て数えることができたとしても、主の計り知れない超越的な特質を推測することは到底できません。主アナンタデーヴァは、無数の舌を使って至高主の超越的な質を語ろうとし、そのことに数え切れないほどの年数を費やしたけれども、主の特質を言い尽くすことは不可能だったと言われています。この節で挙げられている主の特質は、私たち人間が主を見ることのできる範囲内で、わかるように列挙されているにすぎません。しかしたとえそうだとしても、これらの質はさらに細かく分けることができます。シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーは3番目の質、すなわち「他人の不幸に耐えられない」という気質を(1)服従した魂を保護することと、(2)献身者の幸せを願うこと、とに分けました。『バガヴァッド・ギーター』で主は、全ての魂が主ただ一人に身を委ねるようにと望んでいることを強調し、そうすればあらゆる罪の反動から、そのような全ての人を自分が守ると約束しています。服従しない魂は献身者ではありませんし、そのために一般大衆は特に守られているわけではありません。主は献身者の良き望みを全て満たしてあげたいと考えていますから、超越的な愛情奉仕に真剣に励んでいる献身者を特に注意深く見守っています。そして、そのような純粋な献身者が神の元に帰る道において、責任をまっとうできるよう手を差し伸べます。10番目の平等という質については、太陽が皆に平等に太陽光線を注ぐように、主は皆に平等に親切であるということです。それでも、太陽光線による恩恵を受け取ることができない人々もたくさんいます。同じように、身を委ねさえすればあらゆる面で守る、と主は約束なさっているのに、不運な者たちはその気持ちを受け入れようとせず、そのためにあらゆる苦しみにさいなまれています。主は誰もが幸せになってほしいと思っていますが、不運な生命体は、ただ忌まわしいつきあいのために主の教えをそのまま受け止められません。しかしそのことで主が責められるべきでは決してありません。主は献身者によってのみ、幸せを願う者、と呼ばれています。主は献身者だけをひいきにしているように見えますが、実際のところ主の平等な対応を生命体が受け入れるか拒むか、という点にかかっています。
主は必ず約束を守ります。必ず守る、と約束すれば、主は何があっても実行なさいます。主から、あるいは主の真の代表者、精神指導者から与えられた義務を確実に果たすことが純粋な献身者の義務です。その条件を満たしさえすれば、あとは主が全てを遂行なさいます。
主の責任にも独特の質があります。実は主に責任はありません。主の仕事は全て、任命されたさまざまなエネルギーによって実行されるからです。しかしそれでも、超越的な遊戯を通してさまざまな役目を進んで果たしています。主は幼い頃に牛飼いの役割を果たしました。ナンダ・マハーラージャの息子として、主は自分の責任を完璧にまっとうしたのです。同じように、マハーラージャ・ヴァスデーヴァの息子としてクシャトリヤの任務を完遂し、闘魂みなぎるクシャトリヤの手腕を発揮しました。クシャトリヤの王は、ほとんどの場合、妻を得るのに戦ったり誘拐したりしなくてはなりません。クシャトリヤならこのような行為を通して、妻としたい女性に騎士としての力量を誇示しなくてはなりませんし、またそのことでクシャトリヤの娘は、自分の夫になってほしい男性の武勇を見ることができるからです。人格神シュリー・ラーマでさえ、結婚式の時にその騎士道精神を見せています。主はハラダヌルと呼ばれていた最強の弓を折ることで、あらゆる富の母であるシーターデーヴィーを妻としました。クシャトリヤ精神は結婚式の会場で示されますが、その戦闘行為がとがめられるわけではありません。主シュリー・クリシュナはそのような責任を完全にまっとうされました。そのため主には16,000人以上の妻がいましたが、それぞれの場合において主は騎士道精神あふれたクシャトリヤとして戦って妻を獲得しました。16,000人の妻を得るために16,000回戦うことは、至高人格神だけにできることです。同じように、主はさまざまな超越的遊戯で完全に責任をまっとうされました。
14番目の質である知識は、次のように5つの項目に分けられます。 (1)知性、(2)感謝、(3)特定の場所、主題、時に応じた状況を理解する力、(4)全てに関する完璧な知識、(5)自己に関する知識、です。唯一愚か者だけが恩人に感謝しません。しかし主は、自分を除いて誰からも恩恵をもらう必要はありません。主は自ら完全な方だからです。それでも主は献身者からの純粋無垢な奉仕をありがたく感じます。主は献身者の素朴で無条件の奉仕に感謝し、奉仕を返して彼らの愛情に応えようします。もちろん献身者には、そのような望みは少しもありません。主への超越的な奉仕そのものが献身者にとっては超越的な恩恵ですから、主に仕えて何かを授かろうとは思っていません。ヴェーダの格言sarvaṃ khalv idaṃ brahmaという言葉から私たちが理解できること、それは、主は、物質界の空があまねく存在するように、ブラフマジョーティという自らの輝きによって万物の内にも外にも遍在し、またそれゆえに主は全知であるということです。
主は他の全ての生命体とは、はっきりと異なる特別の美しさを備えていますが、とりわけ主の創造物の中で最も美しい方、ラーダーラーニーの心さえ魅了して離さない特別の美しさに満たされています。ですから主はマダナ・モーハナ、すなわち天使の心さえ奪ってしまう者として知られています。シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミー・プラブは、主のその他の超越的な質を細かく分析し、主シュリー・クリシュナこそが絶対的最高人格神(パラブラフマン)であると確証しています。主は想像を絶するエネルギーを持つ方だからこそ全能であり、そのことから、ヨーゲーシュヴァラ、すなわち全ての神秘的力の最高の主人という名前で知られています。主はヨーゲーシュヴァラとして、精神的で、永遠性・喜び・知識が結合された姿を備えています。献身者でない者は、主の知識に備わる活動的な特質を理解できません。なぜなら単に知識という主の永遠の形を知るだけで満足しているからです。偉大な魂たちは、主と同じ段階の知識を得たいと考えています。これは、その他のどんな知識も常に不十分で変わりやすく、限界がある一方で、主に関する知識は永遠に不動で底知れないということを意味しています。主はドヴァーラカーの市民たちと毎日のように会っていたのですが、それでも彼らは主に何度も何度も会いたいと願っていた、とシュリーラ・スータ・ゴースヴァーミーは『シュリーマド・バーガヴァタム』で断言しています。生命体は、主の特質を究極の目標として評価することはできるのですが、それらを全て把握することはできません。この物質世界はマハット・タットヴァから作られていて、これは、原因の海の上に横たわる主の神秘的な眠り、ヨーガ・ニードラの中で主が夢を見ている状態ですが、それでもなお、創造界は、主の創造という実際の現象であるかのように見えます。これが意味することは、主の夢見る状態もまた、現実の現れだということです。ですから主は一切万物を自ら超越的な支配下に置くことができ、こうしてどこにいつ現れても、それを完璧に行うのです。
主は上記の特質を全て備えているため、創造界にある現象を全て維持し、そうすることで主に殺された敵にさえ解放の境地を授けます。主は解放された魂の中でも最高の者をも魅了するため、ブラフマーやシヴァという最も偉大な神々にさえ崇拝されています。主はプルシャ・アヴァターラという自らの化身においても、創造エネルギーの支配者です。『バガヴァッド・ギーター』(9-10)でも確証されているように、創造の物質エネルギーは主の指揮下で機能しています。主は物質エネルギーの制御スイッチともいうべきお方であり、無数の宇宙内の物質エネルギーを支配していることから、全宇宙における無数の化身の根本原因です。ひとつの宇宙だけでも50万人以上のマヌの化身が現れ、それ以外にも、さまざまな宇宙にさまざまな化身が現れます。しかしマハット・タットヴァを超えた精神界で化身の降誕はなく、さまざまなヴァイクンタ惑星の中には主の完全拡張体が存在しています。精神界の惑星の数は、マハット・タットヴァにある無数の宇宙にある惑星の少なくとも3倍はあります。そして主のナーラーヤナとしての全ての姿は、主のヴァースデーヴァの様相の拡張ですから、主は同時にヴァースデーヴァ、ナーラーヤナ、クリシュナでもあります。主は、śrī-kṛṣṇa govinda hare murāre, he nātha nārāyaṇa vāsudeva、すなわちどれもひとつの存在なのです。ですから主の特質は、どれほど偉大な人間であっても数え尽くすことはできません。
ātmānaṁ cānuśocāmi
bhavantaṁ cāmarottamam
devān pitṝn ṛṣīn sādhūn
sarvān varṇāṁs tathāśramān

訳語

翻訳

私は自分自身のことを考えていますが、神々の中でも至上なるあなたのことや、全ての半神はもちろん、聖人たち、ピトゥリローカの住人たち、主の献身者たち、そして人間社会におけるヴァルナとアーシュラマ制度に従順な全ての人々についても考えています。

解説

人間生活の完成を達成するためには、人間と神々、聖者、ピトゥリローカの住人、主の献身者たちの協力、そして生活階級を科学的に区分するヴァルナとアーシュラマ制度が必要です。ですから、人間生活と動物生活の違いは、神々との関連を通して聖者の経験に導かれながら科学的なヴァルナとアーシュラマ体制に従うことから始まり、そしてやがて最高絶対真理者、人格神、主シュリー・クリシュナとの永遠の関係確立という頂点にまで徐々に高められていきます。動物の意識から人間の意識へ、そして人間の意識から神聖な意識へと高めることだけを目的とする、神が定めたヴァルナーシュラマ・ダルマが、愚かさが高じることで荒廃するとき、平和で進歩的な生活のためにある全ての制度は機能しなくなります。カリ時代において毒蛇の最初の攻撃は、神が定めたヴァルナーシュラマ・ダルマに向けられ、その結果、ブラーフマナの正しい資質を備えた人がシュードラと呼ばれ、シュードラの質しか持たない人間がブラーフマナとしてまかり通るようになっていますが、それは間違った生得権の主張に基づいています。生得権を主張してブラーフマナになることは、資格のひとつとしては挙げられるかもしれませんが、正しくありません。ブラーフマナの本当の気質は心と感覚の抑制にあり、さらに忍耐心、正直さ、清潔さ、知識、誠実、ヴェーダ知識に対する熱意と信念を修練することにあります。いまでは必要な資質は考慮されなくなっており、間違った生得権の主張が、大衆にもてはやされた如才ない詩人が書いた『ラーマ・チャリタ・マーナサ』によっても支えられています。
これは全てカリ時代の影響の結果です。だからこそ、雌牛の姿となった母なる地球はこの嘆かわしい状態を悲しんでいるのです。
brahmādayo bahu-tithaṁ yad-apāṅga-mokṣa-
kāmās tapaḥ samacaran bhagavat-prapannāḥ
sā śrīḥ sva-vāsam aravinda-vanaṁ vihāya
yat-pāda-saubhagam alaṁ bhajate ’nuraktā
tasyāham abja-kuliśāṅkuśa-ketu-ketaiḥ
śrīmat-padair bhagavataḥ samalaṅkṛtāṅgī
trīn atyaroca upalabhya tato vibhūtiṁ
lokān sa māṁ vyasṛjad utsmayatīṁ tad-ante

訳語

翻訳

幸運の女神ラクシューミージーのまなざしをブラフマーのような神々が追い求め、そして彼らは彼女のために人格神に身をゆだねる日々を重ねましたが、そのラクシューミージー自身は蓮の花の森にあるご自分の住処を捨て、自ら主の蓮華の御足への奉仕に従事しました。私は、主の蓮華の御足に刻まれた印である旗、雷、象使いの棒、蓮華で飾られたことで、三界全ての幸運を任せられる特別な力を授けられました。しかし結局、自分の幸運さを感じたときに、主は私を置いて行かれたのです。

解説

世界の美しさと富は主の力によって増すのであり、人間が作った計画によるものではありません。主シュリー・クリシュナが地上にいらっしゃったとき、その蓮華の御足にある特別な印が地面に刻まれましたが、そのすばらしい恩恵があったからこそ、地球全体が完璧な環境に包まれました。つまり川、海、森、丘、鉱山など、人間と動物の必需品を提供する代表者たちが、それぞれの義務を十分に果たしていたということです。そのために地球の富は、3つの天体系における惑星全てをしのぐほどの富に恵まれたのです。ですから私たちは主の恩恵がいつも地上に降り注がれるよう祈るべきであり、そうすれば主のいわれのない慈悲を授かり、生活に必要なものを全て授かって幸せに暮らすことができます。では、至高主が地球での使命をまっとうして自分の住処に戻ってしまうのであれば、どうやって主をここに引き留められるのか、と聞く人がいるかもしれません。主を引き留める必要はない、というのがその答えです。主はどこにでもいるお方ですから、主が望みさえすればいつも私たちと共にいることができるのです。私たちが聞き、唱え、思い出すなどの方法を通して主への献身奉仕に専念していれば、遍在する力を持つ主は私たちと共にいるのです。
主と関係のないものはこの世にありません。私たちがただひとつ学ばなくてはならないのは、その関係の源を探し出すことで、侮辱することのない奉仕をして主と結ばれるということです。私たちは、主の超越的な音を通して主と結ばれます。主の聖なる御名と主自身は同じであり、主の聖なる御名を侮辱することなく唱える人は、主が目の前にいることをすぐに悟ります。ラジオの音声を聞けば、その音の源と部分的に結ばれていることがわかるように、超越的な音を口にすれば、私たちは主の存在をありのままに感じることができるのです。現代では全てがカリによって汚染されていますが、経典と主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブによれば、主の聖なる御名を唱えればすぐにその汚れから解放されて、少しずつ超越的な境地に高められ、神の元に戻って行くことができる、とあります。主の聖なる御名を侮辱することなく唱える人は、主と同じように吉兆な境地に入り、世界中にいる主の純粋な献身者の運動は、問題にあふれた世界情勢をすぐに変えることができます。主の聖なる御名を広める方法だけが、カリ時代の悪影響から私たちを守ってくれるのです。
yo vai mamātibharam āsura-vaṁśa-rājñām
akṣauhiṇī-śatam apānudad ātma-tantraḥ
tvāṁ duḥstham ūna-padam ātmani pauruṣeṇa
sampādayan yaduṣu ramyam abibhrad aṅgam

訳語

翻訳

宗教の権化よ。私は無神論の王たちが配備した邪悪な軍隊によって大変苦しめられましたが、人格神の恩恵によって救われました。同じようにあなたも、立ち続ける力もないほどの苦境にありましたが、そのようなあなたを救うために、主は内的エネルギーを使い、ヤドゥ家の中に化身となってお現れになりました。

解説

アスラたちは他人の幸せを壊してでも自分の感覚を満たす生活を楽しみたいと思っています。この野心を満たすために、アスラたち、とりわけ無神論の王や国の指導者は、あらゆる種類の武器をそろえて平和な世界に戦争を起こそうとしています。彼らには権力増大の野心しかなく、母なる地球はそのような邪悪な軍隊が増えたことで耐えがたい苦痛を感じています。アスラの人口が増えれば、宗教原則に従う人々、特に献身者、あるいはデーヴァたちは不幸になっていきます。
そのような状況で人格神は化身となって現れ、不要なアスラたちを殺し、真実の宗教原則を再確立させます。これが、主シュリー・クリシュナの使命であり、主はその使命をまっとうしました。

※注釈:アクシャウヒニー部隊は、戦闘馬車21,870台、象21,870頭、歩兵109,350人、馬65,610頭で構成されている。
kā vā saheta virahaṁ puruṣottamasya
premāvaloka-rucira-smita-valgu-jalpaiḥ
sthairyaṁ samānam aharan madhu-māninīnāṁ
romotsavo mama yad-aṅghri-viṭaṅkitāyāḥ

訳語

翻訳

それゆえ誰が至高人格神との離別の苦しみに耐えられるというのでしょうか?主は重力さえ超越し、サッティヤバーマーのような主が心から愛する者たちの厳粛さや激しい怒りを、愛情あふれる微笑みや喜ばしいまなざし、そして心を込めた哀願で和らげました。主が私(地球)の上を旅するとき、私の心はその蓮華の御足の埃で歓喜に包まれ、私の体は草花によって豊かに包まれました。それは喜びによって逆立つ私の毛のようでした。

解説

主は、ドヴァーラカーから離れて何千人もの女王たちと離れる機会がありましたが、主と地球との関係に関して言えば、主はその蓮華の御足で地上を歩いていたのですから、離れる機会はありませんでした。ですから、主が地上から離れて精神的住処に戻ってしまった時の、地球の惜別の思いはさらにつらいものだったのです。
tayor evaṁ kathayatoḥ
pṛthivī-dharmayos tadā
parīkṣin nāma rājarṣiḥ
prāptaḥ prācīṁ sarasvatīm

訳語

翻訳

地球と宗教の権化がこのように話していたとき、神聖なパリークシット王が、東に向かって流れるサラスヴァティー川の岸辺に到着した。

解説

これで、バクティヴェーダンタによる『シュリーマド・バーガヴァタム』、第1編・第16章、「パリークシットはどのようにカリ時代を受けいれたか」の解説を終了します。