シュリーマド・バーガヴァタム 1.16.26-30
節
satyaṁ śaucaṁ dayā kṣāntis
tyāgaḥ santoṣa ārjavam
śamo damas tapaḥ sāmyaṁ
titikṣoparatiḥ śrutam
tyāgaḥ santoṣa ārjavam
śamo damas tapaḥ sāmyaṁ
titikṣoparatiḥ śrutam
jñānaṁ viraktir aiśvaryaṁ
śauryaṁ tejo balaṁ smṛtiḥ
svātantryaṁ kauśalaṁ kāntir
dhairyaṁ mārdavam eva ca
śauryaṁ tejo balaṁ smṛtiḥ
svātantryaṁ kauśalaṁ kāntir
dhairyaṁ mārdavam eva ca
prāgalbhyaṁ praśrayaḥ śīlaṁ
saha ojo balaṁ bhagaḥ
gāmbhīryaṁ sthairyam āstikyaṁ
kīrtir māno ’nahaṅkṛtiḥ
saha ojo balaṁ bhagaḥ
gāmbhīryaṁ sthairyam āstikyaṁ
kīrtir māno ’nahaṅkṛtiḥ
ete cānye ca bhagavan
nityā yatra mahā-guṇāḥ
prārthyā mahattvam icchadbhir
na viyanti sma karhicit
nityā yatra mahā-guṇāḥ
prārthyā mahattvam icchadbhir
na viyanti sma karhicit
tenāhaṁ guṇa-pātreṇa
śrī-nivāsena sāmpratam
śocāmi rahitaṁ lokaṁ
pāpmanā kalinekṣitam
śrī-nivāsena sāmpratam
śocāmi rahitaṁ lokaṁ
pāpmanā kalinekṣitam
訳語
satyam—誠実さ; śaucam—清潔さ; dayā—他人の不幸に耐えられないこと; kṣāntiḥ—怒りにつながる要因があっても自己抑制ができること; tyāgaḥ—寛大さ; santoṣaḥ—自己の満足; ārjavam—率直さ; śamaḥ—心の固定; damaḥ—感覚器官の抑制; tapaḥ—自分の責任を正しく認識すること; sāmyam—友人と敵を区別しない; titikṣā—他人の侮辱に耐えること; uparatiḥ—損失と利益に無関心であること; śrutam—経典の教えに従っている; jñānam—知識(自己の悟り); viraktiḥ—感覚の楽しみへの無執着心; aiśvaryam—指導力; śauryam—騎士道; tejaḥ—影響力; balam—不可能なことを可能にすること; smṛtiḥ—自分の正しい義務を見い出すこと; svātantryam—他人に依存しないこと; kauśalam—全ての活動を器用にこなす; kāntiḥ—美しさ; dhairyam—妨害に乱されない; mārdavam—心優しさ; eva—そのように; ca—もまた; prāgalbhyam—巧妙さ; praśrayaḥ—優雅さ; śīlam—作法をわきまえて; sahaḥ—決断力; ojaḥ—完璧な知識; balam—正しい実行; bhagaḥ—楽しみの対象; gāmbhīryam—喜々としている; sthairyam—不動性; āstikyam—忠実さ; kīrtiḥ—名声; mānaḥ—崇拝されるにふさわしい; anahaṅkṛtiḥ—思い上がりのないこと; ete—これら全て; ca anye—また他の多くの物事; ca—そして; bhagavan—人格神; nityāḥ—永遠に続いている; yatra—~の場所; mahā-guṇāḥ—偉大な気質; prārthyāḥ—持つにふさわしい; mahattvam—偉大さ; icchadbhiḥ—そのように望む者たち; na—決して~ない; viyanti—劣化する; sma—いつも; karhicit—いつでも; tena—主によって; aham—私自身; guṇa-pātreṇa—全ての質の源; śrī—幸運の女神; nivāsena—休息所によって; sāmpratam—つい最近; śocāmi—私は~について考えている; rahitam—~を奪われて; lokam—惑星; pāpmanā—全ての罪の貯蔵場所によって; kalinā—カリによって; īkṣitam—見られている。
翻訳
主の内にはこのような性質が内在しています。(1)誠実さ、(2)清潔さ、(3)他人の不幸に耐えられないこと、 (4)怒りを抑制する力、 (5)自己の内で満足していること、(6) 率直さ、(7)安定した心、(8)感覚器官を抑制する力、(9)責任感、(10)平等、(11)忍耐心、(12) 平静さ、(13)忠実さ、(14)知識、(15)感覚を楽しむ気持ちのないこと、(16)指導力、(17)騎士道精神、(18)影響力、(19)全てを実現させる力、(20)適切な義務の遂行、(21)完全な独立性、(22)巧妙さ、(23)完璧な美しさ、(24)落ち着き、(25)心優しさ、(26)明敏さ、(27)優雅さ、(28)寛大さ、(29)決断力、(30)あらゆる知識を完璧に備えている、(31)全てを適切に遂行する能力、(32)楽しみの対象物を全て所有する、(33)喜びにあふれている、(34)不動性、(35)忠誠心、(36)名声、(37)崇拝に値する質、(38)思い上がりのないこと、(39)(人格神としての)存在感、(40)永遠性。そしてその他数多くの超越的な気質を備え、それらは主とともに永遠にあり、決して主と離れることはありません。その人格神、全ての善と美の源である主シュリー・クリシュナは今、この地上における崇高な遊戯を完遂させました。主がいなくなったあと、カリ時代がその影響力をあらゆる場所に浸透させており、そのために私はこのような状況に陥っている様子を見て嘆き悲しんでいるのです。
解説
地球を粉々にして、その原子の数を全て数えることができたとしても、主の計り知れない超越的な特質を推測することは到底できません。主アナンタデーヴァは、無数の舌を使って至高主の超越的な質を語ろうとし、そのことに数え切れないほどの年数を費やしたけれども、主の特質を言い尽くすことは不可能だったと言われています。この節で挙げられている主の特質は、私たち人間が主を見ることのできる範囲内で、わかるように列挙されているにすぎません。しかしたとえそうだとしても、これらの質はさらに細かく分けることができます。シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーは3番目の質、すなわち「他人の不幸に耐えられない」という気質を(1)服従した魂を保護することと、(2)献身者の幸せを願うこと、とに分けました。『バガヴァッド・ギーター』で主は、全ての魂が主ただ一人に身を委ねるようにと望んでいることを強調し、そうすればあらゆる罪の反動から、そのような全ての人を自分が守ると約束しています。服従しない魂は献身者ではありませんし、そのために一般大衆は特に守られているわけではありません。主は献身者の良き望みを全て満たしてあげたいと考えていますから、超越的な愛情奉仕に真剣に励んでいる献身者を特に注意深く見守っています。そして、そのような純粋な献身者が神の元に帰る道において、責任をまっとうできるよう手を差し伸べます。10番目の平等という質については、太陽が皆に平等に太陽光線を注ぐように、主は皆に平等に親切であるということです。それでも、太陽光線による恩恵を受け取ることができない人々もたくさんいます。同じように、身を委ねさえすればあらゆる面で守る、と主は約束なさっているのに、不運な者たちはその気持ちを受け入れようとせず、そのためにあらゆる苦しみにさいなまれています。主は誰もが幸せになってほしいと思っていますが、不運な生命体は、ただ忌まわしいつきあいのために主の教えをそのまま受け止められません。しかしそのことで主が責められるべきでは決してありません。主は献身者によってのみ、幸せを願う者、と呼ばれています。主は献身者だけをひいきにしているように見えますが、実際のところ主の平等な対応を生命体が受け入れるか拒むか、という点にかかっています。
主は必ず約束を守ります。必ず守る、と約束すれば、主は何があっても実行なさいます。主から、あるいは主の真の代表者、精神指導者から与えられた義務を確実に果たすことが純粋な献身者の義務です。その条件を満たしさえすれば、あとは主が全てを遂行なさいます。
主の責任にも独特の質があります。実は主に責任はありません。主の仕事は全て、任命されたさまざまなエネルギーによって実行されるからです。しかしそれでも、超越的な遊戯を通してさまざまな役目を進んで果たしています。主は幼い頃に牛飼いの役割を果たしました。ナンダ・マハーラージャの息子として、主は自分の責任を完璧にまっとうしたのです。同じように、マハーラージャ・ヴァスデーヴァの息子としてクシャトリヤの任務を完遂し、闘魂みなぎるクシャトリヤの手腕を発揮しました。クシャトリヤの王は、ほとんどの場合、妻を得るのに戦ったり誘拐したりしなくてはなりません。クシャトリヤならこのような行為を通して、妻としたい女性に騎士としての力量を誇示しなくてはなりませんし、またそのことでクシャトリヤの娘は、自分の夫になってほしい男性の武勇を見ることができるからです。人格神シュリー・ラーマでさえ、結婚式の時にその騎士道精神を見せています。主はハラダヌルと呼ばれていた最強の弓を折ることで、あらゆる富の母であるシーターデーヴィーを妻としました。クシャトリヤ精神は結婚式の会場で示されますが、その戦闘行為がとがめられるわけではありません。主シュリー・クリシュナはそのような責任を完全にまっとうされました。そのため主には16,000人以上の妻がいましたが、それぞれの場合において主は騎士道精神あふれたクシャトリヤとして戦って妻を獲得しました。16,000人の妻を得るために16,000回戦うことは、至高人格神だけにできることです。同じように、主はさまざまな超越的遊戯で完全に責任をまっとうされました。
14番目の質である知識は、次のように5つの項目に分けられます。 (1)知性、(2)感謝、(3)特定の場所、主題、時に応じた状況を理解する力、(4)全てに関する完璧な知識、(5)自己に関する知識、です。唯一愚か者だけが恩人に感謝しません。しかし主は、自分を除いて誰からも恩恵をもらう必要はありません。主は自ら完全な方だからです。それでも主は献身者からの純粋無垢な奉仕をありがたく感じます。主は献身者の素朴で無条件の奉仕に感謝し、奉仕を返して彼らの愛情に応えようします。もちろん献身者には、そのような望みは少しもありません。主への超越的な奉仕そのものが献身者にとっては超越的な恩恵ですから、主に仕えて何かを授かろうとは思っていません。ヴェーダの格言sarvaṃ khalv idaṃ brahmaという言葉から私たちが理解できること、それは、主は、物質界の空があまねく存在するように、ブラフマジョーティという自らの輝きによって万物の内にも外にも遍在し、またそれゆえに主は全知であるということです。
主は他の全ての生命体とは、はっきりと異なる特別の美しさを備えていますが、とりわけ主の創造物の中で最も美しい方、ラーダーラーニーの心さえ魅了して離さない特別の美しさに満たされています。ですから主はマダナ・モーハナ、すなわち天使の心さえ奪ってしまう者として知られています。シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミー・プラブは、主のその他の超越的な質を細かく分析し、主シュリー・クリシュナこそが絶対的最高人格神(パラブラフマン)であると確証しています。主は想像を絶するエネルギーを持つ方だからこそ全能であり、そのことから、ヨーゲーシュヴァラ、すなわち全ての神秘的力の最高の主人という名前で知られています。主はヨーゲーシュヴァラとして、精神的で、永遠性・喜び・知識が結合された姿を備えています。献身者でない者は、主の知識に備わる活動的な特質を理解できません。なぜなら単に知識という主の永遠の形を知るだけで満足しているからです。偉大な魂たちは、主と同じ段階の知識を得たいと考えています。これは、その他のどんな知識も常に不十分で変わりやすく、限界がある一方で、主に関する知識は永遠に不動で底知れないということを意味しています。主はドヴァーラカーの市民たちと毎日のように会っていたのですが、それでも彼らは主に何度も何度も会いたいと願っていた、とシュリーラ・スータ・ゴースヴァーミーは『シュリーマド・バーガヴァタム』で断言しています。生命体は、主の特質を究極の目標として評価することはできるのですが、それらを全て把握することはできません。この物質世界はマハット・タットヴァから作られていて、これは、原因の海の上に横たわる主の神秘的な眠り、ヨーガ・ニードラの中で主が夢を見ている状態ですが、それでもなお、創造界は、主の創造という実際の現象であるかのように見えます。これが意味することは、主の夢見る状態もまた、現実の現れだということです。ですから主は一切万物を自ら超越的な支配下に置くことができ、こうしてどこにいつ現れても、それを完璧に行うのです。
主は上記の特質を全て備えているため、創造界にある現象を全て維持し、そうすることで主に殺された敵にさえ解放の境地を授けます。主は解放された魂の中でも最高の者をも魅了するため、ブラフマーやシヴァという最も偉大な神々にさえ崇拝されています。主はプルシャ・アヴァターラという自らの化身においても、創造エネルギーの支配者です。『バガヴァッド・ギーター』(9-10)でも確証されているように、創造の物質エネルギーは主の指揮下で機能しています。主は物質エネルギーの制御スイッチともいうべきお方であり、無数の宇宙内の物質エネルギーを支配していることから、全宇宙における無数の化身の根本原因です。ひとつの宇宙だけでも50万人以上のマヌの化身が現れ、それ以外にも、さまざまな宇宙にさまざまな化身が現れます。しかしマハット・タットヴァを超えた精神界で化身の降誕はなく、さまざまなヴァイクンタ惑星の中には主の完全拡張体が存在しています。精神界の惑星の数は、マハット・タットヴァにある無数の宇宙にある惑星の少なくとも3倍はあります。そして主のナーラーヤナとしての全ての姿は、主のヴァースデーヴァの様相の拡張ですから、主は同時にヴァースデーヴァ、ナーラーヤナ、クリシュナでもあります。主は、śrī-kṛṣṇa govinda hare murāre, he nātha nārāyaṇa vāsudeva、すなわちどれもひとつの存在なのです。ですから主の特質は、どれほど偉大な人間であっても数え尽くすことはできません。