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第4章

超越的知識

śrī-bhagavān uvāca
imaṁ vivasvate yogaṁ
proktavān aham avyayam
vivasvān manave prāha
manur ikṣvākave ’bravīt

訳語

翻訳

至高人格神、主シュリー・クリシュナ語る。
私はこの不滅のヨーガの科学を太陽神ヴィヴァスヴァーンに教えた。
ヴィヴァスヴァーンはそれを人類の父マヌに教え
マヌはイクシュヴァークに教えたのである。

解説

 ここで私たちは『バガヴァッド・ギーター』の歴史を知ることができる。ギーターは太古の昔から、太陽星をはじめ、あらゆる惑星の王族階級に伝えられた。惑星の王たちは住民を保護することに特に力を入れていたので、物質の束縛から情欲に至るまで、あらゆるものから人々を保護して治めるために『バガヴァッド・ギーター』の科学を熟知しておかなければならなかった。人間生活とは、至高人格神との永遠の関係の中で精神知識を高めることであり、教育、文化、信仰を通してそれを国民に教えることこそ、国や惑星を率いる立場にいるすべての者の義務である。すなわち、国の元首たる者は、国民が人間として生まれてきた機会を生かして、この偉大な科学を利用し繁栄の道を歩めるように、クリシュナ意識の科学を広めなくてはならないということなのである。
 この時代、太陽神は太陽系にあるすべての惑星の源である太陽の王、ヴィヴァスヴァーンとして知られていた。『ブラフマ・サンヒター』(5-52)には次のように書かれている。
yac-cakṣur eṣa savitā sakala-grahāṇāṁ
rājā samasta-sura-mūrtir aśeṣa-tejāḥ
yasyājñayā bhramati sambhṛta-kāla-cakro
govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi
 主ブラフマーは言った。「根源のお方、至高人格神ゴーヴィンダ(クリシュナ)に尊敬の礼を捧げさせてください。主の指令のもと、全惑星の王である太陽は、限りない力と熱を有することとなりました。太陽は主の目を表し、主が命じるまま従順にその軌道を回っています」
 太陽は全惑星の王であり、太陽神(現在はヴィヴァスヴァーンという名)が太陽を治め、熱と光を与えながらほかの惑星を統治している。ヴィヴァスヴァーンはクリシュナの指揮のもとで回転し、主クリシュナは彼を『バガヴァッド・ギーター』の科学を理解する最初の弟子となさった。ゆえにギーターは、つまらない俗界の学者たちが思索を重ねて作り上げてきた論文ではない。太古の昔から伝えられてきた権威ある知識の書なのである。
 『マハーバーラタ(シャーンティ・パルヴァ348-51~52)』の中で下記のようにギーターの歴史をたどることができる。
tretā-yugādau ca tato
vivasvān manave dadau
manuś ca loka-bhṛty-arthaṁ
sutāyekṣvākave dadau
ikṣvākuṇā ca kathito
vyāpya lokān avasthitaḥ
 「至高主との関係についてのこの科学は、トレーター・ユガとして知られる時代の初期にヴィヴァスヴァーンからマヌに伝えられた。人類の父であるマヌはこれを、我が子マハーラージャ・イクシュヴァークに伝えた。イクシュヴァークはこの地球惑星の王であり、主ラーマチャンドラが降誕したラグ王朝の祖先である」。したがって『バガヴァッド・ギーター』は、マハーラージャ・イクシュヴァークの時代から人間社会に存在していたのである。
 カリ・ユガは43万2千年間続くが、現在はちょうど5千年を過ぎたところである。この時代の前にドヴァーパラ・ユガ(80万年間)があり、その前にトレーター・ユガ(120万年間)がある。要するに今から200万5千年ほど前にマヌが、弟子であり息子であるマハーラージャ・イクシュヴァーク、つまりこの地球の王に『バガヴァッド・ギーター』を語ったということになる。このマヌの時代は3億530万年間続き、現在は1億2千40万年経っている。至高主が弟子である太陽神ヴィヴァスヴァーンにギーターを語ったのは、マヌが誕生する以前であるということを受け入れてざっと計算すると、それは少なくとも1億2千40万年前のことであり、人間社会に伝わってから約200万年経ったことになる。それを5千年前に再び主がアルジュナに語られた。これがギーターそのものと、それを語った主シュリー・クリシュナによって示されたギーターの歴史の概要である。語った相手が太陽神ヴィヴァスヴァーンであったのは、彼がクシャトリヤ、それも全クシャトリヤの父祖、すなわちスーリャ・ヴァンシャ・クシャトリヤであったからである。至高人格神によって語られた『バガヴァッド・ギーター』はヴェーダと変わらぬ有徳な書であり、この知識はアパウルシェーヤ、すなわち人知を超えたものである。ヴェーダの教えは人間の解説を交えることなくそのまま受け入れられるものであるから、ギーターもまた、俗的な解釈をせずに受け入れなくてはならない。論争好きな俗人が、自分勝手にあれこれギーターを思索するかもしれないが、それは真実の『バガヴァッド・ギーター』ではない。『バガヴァッド・ギーター』は師弟継承を通じて、変えることなくそのまま受け継がれなくてはならない。主が太陽神に語り、太陽神が息子のマヌに語り、マヌが息子のイクシュヴァークに語った 。 ここに書かれているのはまさにそのことである。
evaṁ paramparā-prāptam
imaṁ rājarṣayo viduḥ
sa kāleneha mahatā
yogo naṣṭaḥ paran-tapa

訳語

翻訳

この無上の科学はこのようにして師弟継承の鎖によって伝えられ
聖王たちはこれをよく会得していたが
時代とともに鎖は切れ
人々はその科学の真義を見失った。

解説

 ギーターは特に聖王たちのためのものであったと、ここではっきりと述べられている。国民を統治していく中で、ギーターの目的を遂行するのが聖王の務めだからである。誰のためにもならないことにこの本の価値を浪費して、ありとあらゆるいい加減な解説を作り上げるような邪悪な人間がいる。そのような者のために『バガヴァッド・ギーター』があるのではないことは確かである。不徳な論評者たちによって本来の目的が消散したとたん、師弟継承を再確立させる必要性が出てきた。5千年前、師弟継承の鎖が途切れてしまったことを主御自身が確認したからこそ、ギーターの真意は失われたと宣言なさったのだ。それは今も同じで、ギーターの訳本は山とあるが(主に英語版)、そのほとんどが権威ある師弟継承に従っていない。シュリー・クリシュナの言葉をビジネスに利用しているが、クリシュナを至高人格神として認めていないというのが、さまざまな俗学者が著した解説書の実体である。この精神は邪悪である。邪悪な者は神を信じず、それでいて神の持ち物を楽しもうとするのだ。こうして、パランパラー(師弟継承)で受け継がれてきたあるがままのギーターを、英語で解説する必要性が非常に高まったため、この大きな需要を満たそうという試みがここでなされているわけである。変えることなくそのまま受け継がれてきた『バガヴァッド・ギーター』は、人間社会にとって大きな恵みであるが、哲学者たちの思索が作り上げた論文だと受け取るならば、読むだけ時間の無駄だといえよう。
sa evāyaṁ mayā te ’dya
yogaḥ proktaḥ purātanaḥ
bhakto ’si me sakhā ceti
rahasyaṁ hy etad uttamam

訳語

翻訳

太古の昔よりあるこの科学
神と人との関係を説く無上の学を
今日、献身者にして友なる君に語ろう。
君はこの科学の超越的神秘を会得できるのだ。

解説

 人間には2種類ある。献身者と、欲深い悪質な者である。この偉大なる科学を受け取る者として至高主がアルジュナを選ばれたのは、彼が主の献身者であったからである。私欲に目がくらんでいる者に、この崇高な神秘的科学が理解できるはずがない。この偉大な知識の書は数多く発行されており、献身者が注釈を付けているものもあれば、欲の権化のような者が解説しているものもある。献身者の書く注解は真実であるが、欲深い者の注解は何の役にもたたない。アルジュナはシュリー・クリシュナを至高人格神として受け入れたのであり、そのアルジュナの足跡に従ってギーターに注釈をつけることこそ、この偉大な科学の本意に仕える本物の献身奉仕である。しかし私欲に目のくらんだ者は、主クリシュナをあるがままには受け入れない。それどころかクリシュナについて捏造し、一般の読者をクリシュナの教えから外れた方向に導いてしまう。そのように道を誤ってはならないと、ここで警告されている。人は、アルジュナから続く師弟継承に従おうとすべきであり、そうすることによって『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』という、この崇高な科学の恩恵に浴することができるのである。
arjuna uvāca
aparaṁ bhavato janma
paraṁ janma vivasvataḥ
katham etad vijānīyāṁ
tvam ādau proktavān iti

訳語

翻訳

アルジュナ問う。
太陽神ヴィヴァスヴァーンが生まれたのは
あなたの誕生よりはるかに昔のこと。
あなたが彼にこの学問を授けたとは
いったいどのように理解すればよいのですか。

解説

 アルジュナは正真正銘の献身者である。そんな彼がクリシュナの言葉を信じられないなどということがあろうか。実はアルジュナは自分のために訊いたのではなかった。至高人格神を信じない者や、クリシュナを至高人格神として認めたくない邪悪な質を持つ者のために、まるで自分が至高人格神、すなわちクリシュナのことを知らないかのように、この点についての質問をしたのである。このことは第10章から明らかになっていくが、アルジュナはクリシュナがすべての源であり、完璧に超越的な至高人格神であるということを、完全に知っていたのだ。もちろんクリシュナはデーヴァキーの息子としてこの地上に降誕された。一般の人には、クリシュナが永遠に根源である至高人格神と同じ存在だとは、到底理解できない。だからこの点を明らかにするため、クリシュナ御自身から権威ある言葉を聞けるようにアルジュナはこの質問を投げかけたのだ。クリシュナが至高の権威であることは、太古の昔から全世界が認めていることであり、今に始まったことではない。そしてそれを拒否しているのは私欲に我を忘れた者だけである。何であれアルジュナがクリシュナにこの質問をしたのは、自分たちの好き勝手な理解に合うように、クリシュナの存在をねじ曲げている邪悪な者たちを阻むため、クリシュナ御自身に述べていただきたかったからである。クリシュナの科学を学ぶことは、誰にとっても自己を高めるために必要なこと。したがって、クリシュナが御自身について語るということは、全世界にとってたいへん吉兆なことなのだ。私欲にすべてを奪われてしまった人にとっては、クリシュナが御自分のことを語るということ自体に違和感があるかもしれない。自分の尺度でしかクリシュナを測れないからである。しかし献身者はクリシュナが自ら語られた言葉を心の底から受けとめる。クリシュナについてもっと知りたいと常に渇望しているため、権威あるクリシュナの言葉を崇めずにはいられない。クリシュナを普通の人間だと考えている無神論者は知ることになるであろう。クリシュナは人知を超えたお方であり、至福と知識でできた永遠のお体(サッ・チッド・アーナンダ・ヴィグラハ)をお持ちになり、超越的で物質自然の様式を超え、時間と空間の影響を受けることのないお方であるということを。アルジュナほどの献身者がクリシュナの超越的な立場を誤解することなど決してない。主を前にして彼がこのような質問をしたのは、クリシュナがただの人間で物質自然の様式の影響を受けると考えている無神論者たちに反論する、ただそれだけのためである。
śrī-bhagavān uvāca
bahūni me vyatītāni
janmāni tava cārjuna
tāny ahaṁ veda sarvāṇi
na tvaṁ vettha paran-tapa

訳語

翻訳

至高人格神は語る。
征服者アルジュナよ
私も君も、数えきれないほどの誕生を迎えた。
私はそのすべてを覚えているが
君は何も覚えてはいない。

解説

 数えきれない主の化身については『ブラフマ・サンヒター』(5-33)で次のように述べられている。
advaitam acyutam anādim ananta-rūpam
ādyaṁ purāṇa-puruṣaṁ nava-yauvanaṁ ca
vedeṣu durlabham adurlabham ātma-bhaktau
govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi
 「至高人格神ゴーヴィンダ(クリシュナ)に尊敬の礼を捧げます。主は完全無欠、絶対確実かつ始まりのない根源のお方です。無数のお姿に拡張なさりながらも根源であり続け、最古であり、それでいて常に新鮮な若さをたたえておられます。このように永遠で至福にあふれた主の全能のお姿は、第一級のヴェーダ学者にさえ理解することはできませんが、純粋な献身者には常にその姿を現していてくださるのです」
 『ブラフマ・サンヒター』(5-39)にはこのようにも書かれている。
rāmādi-mūrtiṣu kalā-niyamena tiṣṭhan
nānāvatāram akarod bhuvaneṣu kintu
kṛṣṇaḥ svayaṁ samabhavat paramaḥ pumān yo
govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi
 「至高人格神ゴーヴィンダ(クリシュナ)に尊敬の礼を捧げます。主はいつもラーマ、ヌリシンハなどのようなさまざまな化身、また数多くの準化身に姿を変えておられますが、クリシュナとして知られる至高人格神そのお方であり、そのままの姿でも降臨なさいます」
 「主は唯一無二のお方であるが、無限のお姿に化身される」とヴェーダにも書かれている。主はヴァイドゥーリャ石のようにさまざまに色を変えても、本質はひとつのままである。純粋な献身者にはこの多数の姿が理解できるが、ただヴェーダを理解しただけではわからない。(vedeṣu durlabham adurlabham ātma-bhaktau)アルジュナのような献身者は主の忠実な交際者であり、主が化身される際には必ず一緒に化身し、さまざまな立場で主に仕える。アルジュナもそういう献身者のひとりであり、何百年か前、主クリシュナが太陽神ヴィヴァスヴァーンに『バガヴァッド・ギーター』を語られた時にも、別の立場でアルジュナがやはり存在していたということがこの節から理解できる。しかし主とアルジュナの違いは、主はその出来事を覚えているのに対し、アルジュナは覚えていないという点である。これが、部分である生命体と至高主との違いである。アルジュナはここで敵を征服することのできる大勇の士として書かれているが、いくつも過ごした過去の人生で起こったことを何ひとつ思い出せない。ゆえに、物質的な評価がどれほど優れている生命体であろうと、至高主と肩を並べることは決してできない。主の忠実な交際者は間違いなく解放された人ではあるが、それでも主と同等になることなどできないのである。『ブラフマ・サンヒター』の中で主は過つことのないお方(アチュタ)であると述べられているが、これは物質世界と関わりを持っていても、決して御自身を忘れることのないお方という意味である。したがってアルジュナのように解放された者であろうと、いかなる面においても生命体が至高主と比較になることなどあり得ないのだ。アルジュナは主の献身者であるが、主の立場を忘れてしまうことがある。それでも主の恩寵により、絶対確実なる主の立場をすぐに思い出すが、献身者でない者や悪魔的な質の者には主の超越的な質が理解できない。つまりギーターの内容は、私欲で覆われた人間には理解できないということである。両方とも永遠の存在ではあるが、クリシュナは何百年前にしたことを覚えておられるのに対し、アルジュナは思い出せない。また生命体は肉体が変わることによって何もかも忘れてしまうが、主は決してお忘れにならないこともここでわかる。主は決して変化することのないサッ・チッド・アーナンダの体をお持ちであるからである。主はアドヴァイタ、すなわち御自身とお体には何の違いもない。制約された魂にとって肉体は別のものであるが、主に関わるものはすべてが精神的である。また主のお体と御自身には違いがないため、物質界に降りて来られたときでさえも、その立場は普通の生命体とはまるで違う。欲にかられた人間には、主のこの超越的な質に順応することができない。そのことを主御自身が次の節で説明なさる。
ajo ’pi sann avyayātmā
bhūtānām īśvaro ’pi san
prakṛtiṁ svām adhiṣṭhāya
sambhavāmy ātma-māyayā

訳語

翻訳

私は生まれることなく滅することなく
私の超越的体は恒常不変である。
私はすべての生物の至高主であるが
どの時代にも原初の超越的な姿で出現する。

解説

 至高主はその誕生の特殊性について語られた。主は普通の人間のように思われるかもしれないが、過去に数限りなく迎えられた「誕生」のすべてを覚えておられる。しかし普通の人間は数時間前にしたことさえ思い出せない。昨日の今と同じ時間に何をしていたかと尋ねられても、即答できる人などほとんどいないであろう。前日の同じ時間に何をしていたか思い出そうと、必死に記憶をたぐり寄せるに違いない。そんな状態でありながら、それでも「我こそ神なり。クリシュナなり」と言い張る者もいる。そのような無意味な主張に惑わされてはならない。また主は御自身のプラクリティ、すなわちお姿についても説明なさっている。プラクリティとは「自然」という意味でもあり、スヴァルーパ、すなわち「自らの姿」という意味でもある。主は御自身の姿で現れるとおっしゃっている。主は一般の生命体が次々と肉体を変えていくように体を変えたりはなさらない。制約された魂は、今世ではある種の体を与えられているかもしれないが、次の生でまた別の体を与えられる。物質世界では生命体は固定した体を与えられるのではなく、次から次へと体を移り変わっていく。

しかし主はそうではない。いつもその内的エネルギーによってもともとのお体で現れる。つまりクリシュナは2本の腕にフルートを携えた根源の姿で、物質世界に汚されることのない永遠の姿で現れるということである。宇宙の主であるクリシュナは同じ超越的なお体で現れるが、あえて普通の生命体のような誕生をなさる。肉体のように劣化したりはしないが、幼年期から少年期へ、少年期から青年期へと成長なさる。それなのに青年期からは年をとらないというのだから驚きである。クルクシェートラで戦ったあと、家に帰ればたくさんの孫がクリシュナを待っていた。ということは俗界の計算でいくと、かなり年を重ねておられたということになる。それなのに20才や25才の青年のようだったという。老人になったクリシュナの絵を見たことがない。過去、現在、未来にわたって全創造物の中で最も古いお方であるにもかかわらず、私たちのように老いるということがないのだ。体もそして知性も、衰え、変化するということがない。ゆえに主クリシュナは物質世界に身を置いたとしても生まれることがなく、至福と知識にあふれた永遠のお姿のままで、その体も知性も決して変化しないのである。事実、主の出現と消滅は太陽のようで、昇っては私たちの前に現れ、また私たちの視野から姿を隠してしまう。私たちは太陽が見えなくなると沈んでしまったと思い、また現れると地平線の上に昇ったと考えてしまう。実際には太陽はいつも決まった場所にあるのに、欠陥だらけの不完全な感覚のために、私たちは太陽が空に現れた、消えたという判断をしてしまうのだ。クリシュナの出現と消滅は、普通の生命体とは根本的に違う。このことは主クリシュナが内的エネルギーによって永遠性と喜びと知識に溢れ、物質自然に汚されることが決してないということを証明している。ヴェーダでも、至高人格神は決して生まれることがないが、何度も何度も降誕すると明言している。また数々のヴェーダの補足文献の中でも、主は誕生を繰りかえしているように思えるが、そのお体が変化することはないと確証されている。バーガヴァタムの中では、母親の前にナーラーヤナとして4本の腕と6種類の完璧なる富を携えて現れた。主が本来の永遠なる姿で現れるのは生命体へのいわれのない慈悲からである。非人格主義者たちのように主の姿を勝手に想像して作りあげたりせずに、至高主の本来の姿に思いを馳せることができるようにという思いやりである。『ヴィシュヴァ・コーシャ辞書』によれば、マーヤーすなわちアートマ・マーヤーという言葉は、主のいわれなき慈悲を表している。主はこれまでになさった出現と消滅をことごとく覚えておられるが、一般の生命体は別の体に入ったとたん、前の体についての記憶を一切失くしてしまう。この地上ですばらしく超人的なことを繰り広げられたクリシュナは、あらゆる生命体の至高主である。つまり主は常に変わらぬ絶対真理であり、そのお姿と御自身はまったく同じであり、その質と体には何の違いもないということである。ここで至高主はなぜこの世界に現れたり消えたりするのか、という疑問が生じるかもしれない。その答えは次の節で説明されることになる。
yadā yadā hi dharmasya
glānir bhavati bhārata
abhyutthānam adharmasya
tadātmānaṁ sṛjāmy aham

訳語

翻訳

宗教が正しく実践されなくなったとき
反宗教的な風潮が世にはびこったとき
バラタ王の子孫よ
私はいつどこへでも現われる。

解説

 ここでスリジャーミーという言葉がとても重要な意味を持っている。至高主の姿、すなわち体はどれも永遠に存在するものであり、創造されたものではないと前節で説明されているため、スリジャーミーという言葉は創造という意味では使えない。したがって主は御自身の姿のままで現れるというのが、スリジャーミーの意味である。主は定期的に、すなわちブラフマーの1日に生まれるマヌのうち、7番目のマヌの第28時代であるドヴァーパラ・ユガの終わりにいつも出現されることになっているが、何をなさるにおいてもすべて主の完全なる自由意思であり、そのような規則原則に縛られているわけではない。ゆえに主は世の中に反宗教的な思想が勢いを増して真の宗教が消滅したときにはいつでも、御自分の意志で出現なさるのだ。ヴェーダには宗教原則が示されているが、その規則に反するようなことをしていると、人はどんどん反宗教的な人間になってしまう。こういった原則は至高主の定めた法律であるとバーガヴァタムは説く。宗教のシステムを作り出せるのは、ただ至高主だけである。ヴェーダはもともと至高主御自身がブラフマーのハートの中に語られたものだとされている。ゆえにダルマ、すなわち宗教の原則は至高人格神からの直々の指示であり(dharmaṁ tu sākṣād bhagavat-praṇītam)、『バガヴァッド・ギーター』で明確に示されている。ヴェーダの目的は至高主の指示通りに原則を確立することである。主はギーターの最後の部分で直接指示を出しておられる。「私だけに身を委ねよ。それが宗教の最高原則である。それ以上のものはない」と。ヴェーダ原則は「至高主に完全に身を委ねよ」と人に勧める。そして邪悪な質を備えた者によってその原則が破られたとき、主は現れる。バーガヴァタムを読めば、主ブッダがクリシュナの化身であったことがわかる。物質主義がはびこって、その支持者たちがヴェーダの権威を口実に利用していた時に現れたのだ。動物の供犠に関しても、ヴェーダには特別な目的のためにだけ厳密な規則にしたがって行うよう指示がされているのに、邪悪な心を持つ人々はその規則を無視して、動物を犠牲にし続けていた。この愚行を止めさせ、非暴力というヴェーダの原則を確立するために、主ブッダは現れたのである。このようにアヴァターラ、すなわち主の化身にはそれぞれ特別の使命があり、すべて啓示経典に書かれている。経典に書かれていない者をアヴァターラだと受け入れてはならない。至高主はインドという地にしか現れないと考えるなら、それは事実ではない。主はいつどこにでも好きな時に現れることができる。そして化身するたびに、それぞれの環境に合わせて人々が理解できるように宗教を説いてくださる。しかしその使命はいつも変わらず、人々を神の意識に導き、宗教原則に従わせることである。御自身の姿で降臨されることもあれば、息子や使者という形で誠実な代理者を送り込むこともあるし、御自身が姿を変えて現れることもある。
 『バガヴァッド・ギーター』の原則はアルジュナに語られたが、またその他の精神的に高い段階にいる人々にも語られた。世界中の誰よりも彼らの精神性が優っていたからである。2+2=4という数式は、初心者向けの算数でも、高度な数学の中でも通用する。一方、数学には初歩的なものから高度なものまであることも事実である。つまり化身は一つひとつ違っても、主の教える原則は同じである。ただ、さまざまな状況に応じてその教え方が高いレベルであったり初級向けであったりするだけのこと。宗教原則の高度な部分は人間社会を4つの区分と4つの階級に分けることから始まり、そのことはのちに説明される。とにかく主がさまざまに化身なさる全目的は、すべての場所でクリシュナ意識を目覚めさせることであり、状況の違いに応じて現れたり、現れなかったりするのである。
paritrāṇāya sādhūnāṁ
vināśāya ca duṣkṛtām
dharma-saṁsthāpanārthāya
sambhavāmi yuge yuge

訳語

翻訳

信心深い者を助け
邪悪な者をこらしめ
宗教原則を再確立するために
私はどの時代にも降臨する。

解説

 『バガヴァッド・ギーター』によれば、サードゥ(聖人)とはクリシュナ意識の人のことである。外見は反宗教的に見えても、クリシュナ意識の質を完全に備えている人はサードゥとみなされる。一方、クリシュナ意識を無視する人は、ドゥシュクリターンと呼ばれる。そのような悪人すなわちドゥシュクリターンは、たとえ俗的な教育を豊かに身につけていたとしても、実は愚かで最低の人間であると述べられている。反対に学問を知らなくても教養がなくても、100%クリシュナ意識でいる人は、サードゥとして受け入れられるのである。無神論者に関しては、悪魔ラーヴァナやカンサに行ったと同じように、主が直々に手を下す必要はない。主にはたくさんの有能な代理者がいて、主に代わって悪魔に処罰を下す。しかし悪魔のように欲深な者に苦しめられている純粋な献身者に対しては、その痛みをやわらげてやろうと御自身が現れてくださる。欲にかられた者たちは、たとえそれが自分の親族であったとしても、献身者を痛めつける。プラフラーダ・マハーラージャはヒラニヤカシプの息子であったが、父親からひどいめにあっていた。クリシュナの母であるデーヴァキーはカンサの妹であったが、クリシュナが自分のもとに生まれてくるというだけの理由で、夫のヴァスデーヴァとともに、ひどい迫害を受けた。主クリシュナが現れた第一の理由はカンサを殺すことではなく、むしろデーヴァキーを助けるためであったが、結果的には両方が同時に行われた。だから至高主がさまざまな姿で化身されるのは、献身者を助け、邪悪な人々を滅ぼすためであるとここで言われているのだ。
 クリシュナダーサ・カヴィラージャ著の『チャイタニヤ・チャリタームリタ』(マディヤ 20-263~264)では化身の定義が次のように要約されている。
sṛṣṭi-hetu yei mūrti prapañce avatare
sei īśvara-mūrti ‘avatāra’ nāma dhare
māyātīta paravyome sabāra avasthāna
viśve avatari’ dhare ‘avatāra’ nāma
 「アヴァターラすなわち至高主の化身は、神の王国から降りて来て俗界に現れる。特定のお姿で降臨なさる至高人格神のことを化身、すなわちアヴァターラと呼ぶ。化身は精神界すなわち神の王国にいらして、物質界に現れたときにアヴァターラという名で呼ばれることとなる」
 プルシャーヴァターラ、グナーヴァターラ、リーラーヴァターラ、シャクティ・アーヴェーシャ・アヴァターラ、マンヴァンタラ・アヴァターラ、ユガーヴァターラというように、アヴァターラにもさまざまな種類があり、すべて宇宙に予定通りに現れる。しかし、すべてのアヴァターラの根源となる原始の主は、至高主クリシュナである。純粋な献身者は、ヴリンダーヴァナで崇高な活動を繰り広げた本来のお姿で、主を見たいと切望している。主シュリー・クリシュナはそんな彼らの不安を和らげるという、特別な目的を持って降誕される。したがって、クリシュナ・アヴァターラの本来の目的は、純粋な献身者に満足を与えるためなのである。
 どの時代にも現れると、主御自身がおっしゃっている。それはつまり、カリ時代にも化身されるということである。『シュリーマド・バーガヴァタム』にも書かれているように、サンキールタナ運動(聖なる御名を集団で唱えること)をし、クリシュナ意識をインド中に広めるというクリシュナの崇拝方法を広めた主チャイタニヤ・マハープラブこそ、カリの時代における化身である。サンキールタナというこの精神文明は、村から村へ、町から町へと世界中に広がるであろうと、主チャイタニヤは予言なさった。主チャイタニヤが至高人格神クリシュナの化身であることは、ウパニシャッド、『マハーバーラタ』、『シュリーマド・バーガヴァタム』などの啓示経典の機密な箇所に密かに書かれている。主クリシュナの献身者は主チャイタニヤのサンキールタナ運動にたいへん魅了される。このアヴァターラは悪党どもを殺すのではなく、いわれのない慈悲で解放なさるのである。
janma karma ca me divyam
evaṁ yo vetti tattvataḥ
tyaktvā dehaṁ punar janma
naiti mām eti so ’rjuna

訳語

翻訳

アルジュナよ
わが顕現と活動の超越性を理解する者は
その肉体を離れたあとに
再び物質世界に誕生することなく
わが永遠の住処に来たりて住むのだ。

解説

 主が御自身の超越的お住まいから降臨されることは、第6節ですでに説明済みである。至高人格神の出現の真理を理解できる者は、すでに物質の束縛から解放されているので、今の肉体を離れるとすぐに神の王国に戻ることになる。このように生命体が物質の束縛から解放されることは、決して簡単なことではない。非人格主義者やヨーギーたちが解放を得るまでには、何度も何度も誕生を繰り返し、たいへんな困難を乗り越えなければならない。そうしてやっと得られた解放も、非人格的なブラフマ・ジョーティルに溶け込むという部分的なものにすぎず、再びこの物質界に戻ってくるという危険性を含んでいる。それに比べて献身者の場合は、主のお体と活動が示す超越性をただ理解するだけで、この体が終われば主のお住まいに到達することができ、物質界に戻る危険性もない。主は無数のお姿で化身されると『ブラフマ・サンヒター』(5-33)には書かれている(advaitam acyutam anādim ananta-rūpam)。超越的なお姿をどれほどたくさんお持ちであろうとすべてひとつであり、至高人格神とまったく同一なのである。世俗的な学者や経験主義の哲学者たちには理解できないこの事実を、人は確信を持って理解しなくてはならない。ヴェーダ(『プルシャ・ボディニー・ウパニシャッド』)には次のような記述がある。
eko devo nitya-līlānurakto
bhakta-vyāpī hṛdy antar-ātmā
 「至高人格神は無数の超越的お姿で、純粋な献身者と永遠に交際なさっている」と。主自らがギーターのこの節の中で、ヴェーダの見解を確証しておられる。ヴェーダの権威と至高人格神の強さでこの真実を受け入れ、哲学的に推論して時間を無駄にしない者は、解放という最も高い段階の完成を手に入れる。ただ信念を持ってこの事実を受け入れるだけで、人は間違いなく解放に到達できるのである。タット・トヴァム・アシというヴェーダの見解は、この場合に当てはまる。主クリシュナが至高主であると理解し、主に向かって「あなたこそ至高のブラフマンすなわち至高人格神そのものです」と言える者は、ただちに解脱を得ることは間違いなく、主との超越的な交際も保証されている。言い換えれば、そのような誠実な献身者は完成を得るということで、ヴェーダでは次のように断定されている。
tam eva viditvāti mṛtyum eti
nānyaḥ panthā vidyate ’yanāya
 「ただ主を至高人格神であると知るだけで、生と死から解放されるという完全な段階に到達できる。この完成を得る道は、ほかにない」(『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』3-8)。これに代わる方法はないということは、主クリシュナを至高人格神として理解できない人は、無知の様式にいるため救われることはないという意味である。蜂蜜の瓶の外側だけ舐めているようなものであり、俗的な学問で『バガヴァッド・ギーター』を解説しようとしているにすぎない。このような経験主義の哲学者は、物質界では重要な役割を担っていたとしても、解脱を得る資格を持ち合わせているとはかぎらない。そうした高慢な俗学者が主の献身者のいわれのない慈悲を得るには、ひたすら待つしかないのだ。だからこそ人は信念と知識を持ってクリシュナ意識を育てなくてはならない。それが完成を手に入れる方法なのである。
vīta-rāga-bhaya-krodhā
man-mayā mām upāśritāḥ
bahavo jñāna-tapasā
pūtā mad-bhāvam āgatāḥ

訳語

翻訳

執着と恐怖と怒りから解放され
完全に私に没頭し保護を求めた者が
どれほど多くいたことか。
彼らは私を知ることで浄化され
私への超越的愛を手に入れたのだ。

解説

 これまでにも述べたように、俗的なことにあまりにも影響されている人にとって、至高絶対真理の特質を理解することは非常に難しい。一般的に、肉体概念の生き方に執着している人は、物質的なことにのめりこんでいるので、至高主が意志を持った存在であることを理解するのは不可能に近い。そういう物質主義者たちには、知識と永遠なる喜びにあふれた不滅の超越的な体が存在するなど、想像すらできない。物質的な概念では、肉体は衰えるものであり、無知に覆われている、まったく哀れなものである。一般の人々は至高主のお姿について教えられたとき、この体と同じ肉体概念を心の中に思い描いてしまう。そのような物質的な人は、物理的に大きな存在が至高なものだと考える。よってそのような人々は至高主には個別の姿や人格がないと考える。そしてあまりにも物質的な思想に凝り固まっているため、肉体から解放されても個別性はなくならないという概念に恐怖を覚える。精神的な生命は個別であると知らされると、彼らは再び意志を持って生きることを恐れ、人格のない無に溶け込むほうがましだと思ってしまう。生命体のことを海に湧いたり溶け込んだりする泡にたとえ、個別性なく存在することこそ精神的に最も高い完成であると考えるのだ。これは精神的存在という完全な知識を持っていない、ある意味恐ろしい段階なのだ。さらにまた、精神的存在というものをまったく理解できない人も大勢いる。多種多様な学説や、正反対の哲学的思索などに当惑した人々はうんざりし、怒りすら覚え、至高の原因などというものは存在せず、結局すべては無なのだという愚かな決断を下してしまう。そのような人は病んでいる状態にある。俗的なものに執着するあまり精神生活に見向きもしない者もいれば、至高の精神的原因に溶け込みたいと望む者もあり、希望の持てない精神的思索の数々に腹を立てて何もかも信じられなくなっている者もいる。この最後の部類に属する者たちは陶酔物に保護を求め、感情的な幻想を精神的映像だと受け入れてしまったりする。人は3段階の物質的意識を避けなくてはならない。3段階の物質的意識とは、物質的な生活に執着すること、自分の本来の姿は精神的なものであることを恐れること、そして人生に挫折するあまり虚無的概念を持ってしまうことである。そのためには真正な精神指導者の導きを受けながら至高主に完全なる保護を求め、師弟継承と献身生活の規定原則に従うことである。献身生活の最終段階をバーヴァ、すなわち神への超越的な愛と呼ぶ。
 『バクティ・ラサームリタ・シンドゥ』(1-4-15~16)には献身奉仕の科学について、次のように説明されている。
ādau śraddhā tataḥ sādhu-
saṅgo ’tha bhajana-kriyā
tato ’nartha-nivṛttiḥ syāt
tato niṣṭhā rucis tataḥ
athāsaktis tato bhāvas
tataḥ premābhyudañcati
sādhakānām ayaṁ premṇaḥ
prādurbhāve bhavet kramaḥ
 「人はまず、自己を悟りたいという望みを持たなくてはならない。その望みが、精神的に高められた人と交際しようという段階に自分を引き上げてくれる。そうすると次の段階で高尚な精神指導者から入門を許され、駆け出しの献身者はその指導のもと、献身奉仕の道を歩き始めることとなる。精神指導者に指導を受けながら献身奉仕を行うことにより、人はあらゆる物質的執着をなくしていき、自己の悟りを強固にする。そして絶対的な至高人格神シュリー・クリシュナについて聞くことに味わいを覚えるようになる。この味わいがクリシュナ意識へのさらなる執着へと人を誘い、バーヴァすなわち神への超越的な愛の準備段階へと高めていく。神への真実の愛はプレーマと呼ばれ、人生の最高完成段階である」

 プレーマの段階になると、至高主への超越的愛情奉仕が途絶えることがない。ゆえに、真正なる精神指導者から教えを受けながら献身奉仕をするというゆるやかな過程をたどれば、あらゆる物質的執着がなくなる。そして精神的な個別性に対する恐れを持つことなく、無の哲学に行き着くという間違いを犯さずに、最高の段階に達成することとなる。そして最終的に、至高主のお住まいに到達することができるのである。
ye yathā māṁ prapadyante
tāṁs tathaiva bhajāmy aham
mama vartmānuvartante
manuṣyāḥ pārtha sarvaśaḥ

訳語

翻訳

私へ身を委ねた程度に応じて
私は人々に報いる。
プリターの子よ
生きとし生ける者は皆
あらゆる方角から私への道を進んでいるのだ。

解説

 誰もが主のさまざまな顕現を通して、クリシュナを探し求めている。人は至高人格神クリシュナを非人格的な光であるブラフマ・ジョーティルとして部分的に理解したり、また原子の粒を含めすべてにあまねく偏在する至高の魂として理解する。しかし、クリシュナを完全に理解できるのは純粋な献身者だけである。クリシュナは万人の悟りの対象であり、誰もがそれぞれ求める分だけ満足できるのである。超越的な世界でもクリシュナは、純粋な献身者の望みに応じて超越的な行動をとり、彼らと愛の交換をしておられる。至高の主人としてクリシュナを仰ぎたい者もいれば、親密な友であってほしいと望む者もいる。息子にしたいと願う者もいれば、恋人として慕う者もいる。クリシュナはすべての献身者に平等であり、御自分に向けられる愛情の深さによって報いてくださるのだ。献身者との愛情交換は物質世界においても同じこと。それぞれ違った崇拝の仕方をするが、誰にも分け隔てなく返してくださる。この物質世界でも、かの超越的世界でも、純粋な献身者たちはクリシュナとじかに交際し、お仕えし、そうした主への愛情奉仕の中に超越的な喜びを見出すのだ。また非人格主義者や、生命体の個別性を無くすという精神的自殺を望む者に対してクリシュナは、御自身の光輝に溶け込ませるという形で助ける。そのような非人格主義者たちは、永遠で至福に満ちた至高人格神を受け入れようとはしない。自分で個別性を拒絶するため、主への超越的な愛情奉仕の喜びを味わうことができない。中には、非人格的な状態にもしっかりとどまっていることができず、また物質界に舞い戻って眠っていた願望を行動に移す者もいる。そのような人たちは精神惑星に入ることを許されたわけではないので、またこの物質惑星で活動する機会が与えられる。クリシュナはヤジュニェーシュワラとして、成果を期待して行動する者たちに対しては、規定の義務を果たして得られる結果を与え、神秘力を求めるヨーギーにはその力を与える。つまり、クリシュナの恵みなくしては誰もいかなる成功も望めないということであり、いかなる精神的過程も、すべて同じ道の異なった段階に位置しているにすぎないのである。したがって、クリシュナ意識の最も高い完成を遂げないかぎり、すべての試みは不完全な状態にあるということである。『シュリーマド・バーガヴァタム』(2-3-10)には次のように書かれている。
akāmaḥ sarva-kāmo vā
mokṣa-kāma udāra-dhīḥ
tīvreṇa bhakti-yogena
yajeta puruṣaṁ param
 「望みのない者(献身者の状態)であろうと、あらゆる成果をほしがる者であろうと、解脱を追い求める者であろうと、人は皆、全き完成のために全力で至高人格神を崇拝し、クリシュナ意識の頂点を極めなくてはならない」
kāṅkṣantaḥ karmaṇāṁ siddhiṁ
yajanta iha devatāḥ
kṣipraṁ hi mānuṣe loke
siddhir bhavati karma-jā

訳語

翻訳

この世の人々は仕事の成功と果報を求め
神々を崇拝してはそれを願う。
そうすれば当然のこと
物質界の果報は直ちに得られるのだ。

解説

 この物質界に存在する神々について、人は大きな考え違いをしている。偉大な学者として通用していても実際には知性の乏しい人間たちが、こういった神々を至高主の姿のひとつだと誤解しているのだ。実際には、神々は至高主のさまざまな姿ではなく、主の一部分にすぎない。至高主はおひとりであるが、部分は無数に存在する。ヴェーダは nityo nityānām「神はひとりなり」と言う。Īśvaraḥ paramaḥ kṛṣṇaḥ 至高なる神は唯ひとり、クリシュナだけであり、神々はこの物質界を管理するための力しか与えられていない。神々は皆、それぞれ必要に応じた力を与えられた生命体(ニッティヤーナーム)であり、ナーラーヤナ、ヴィシュヌ、クリシュナという至高主と肩を並べることはできない。至高主と神々を同じレベルで考える人はパーシャンディー、すなわち無神論者と呼ばれる。ブラフマーやシヴァのような偉大な神々でさえ、至高主と比較にはならない。事実、至高主はこれらの神々に崇拝されているお方なのである(śiva-viriñci-nutam)。にもかかわらず、神人同型説や動物形態観(神または超自然物を動物の形で表すこと)という誤解の影響で、愚かな人々に崇拝される人間の指導者がたくさんいるということは、実に奇妙な話である。iha devatāḥ とは、力のある者、すなわちこの物質界での神という意味である。しかし、ナーラーヤナ、ヴィシュヌ、クリシュナすなわち至高人格神は、物質界に属するお方ではない。物質創造を超越した存在である。非人格主義者※の代表者であるシュリーパーダ・シャンカラーチャーリャでさえ、ナーラーヤナすなわちクリシュナは、この物質創造を超越した存在であることを認めている。それでも愚かな人々(フリタ・ジュニャーナ)は即座の結果を求めて神々を崇拝する。結果を得ることはできるが、そんなものは一時的であり、知性乏しき者のためにあるのだということが彼らにはわからない。知性あるクリシュナ意識の者は、即興的かつ一時的な恩恵のために無益な神々を崇拝したりしない。この物質世界の神々は、それを崇拝する者たち共々、物質界の破壊の際に消滅してしまう。神々から与えられる恩恵は、物質的かつ一時的なのである。物質界も、そこに住む者たちも、神々も、神々を崇拝する者たちも皆、宇宙という大海に生じる泡にすぎない。それなのにこの世の人間社会は、土地や家族、楽しむためのものといった一時的で物質的な富を、血まなこになって追い求めている。このように世俗的なものを手に入れるがために、神々や、人間社会で力のある者を崇拝する。政界のリーダーを拝み倒して大臣の地位にでも就けたなら、最高の恩恵を手に入れたと考える。つまり、一時的な恩恵にあずかりたくて、いわゆる指導者や実力者にペコペコ頭を下げて付いて回っているにすぎず、実際彼らが手に入れるものはその程度のものでしかない。このような愚かな人間はクリシュナ意識に関心がなく、どうすれば物質存在の苦しみから永遠に解放されるかということには興味を示さない。ただ感覚を楽しませることだけを追い求め、そのためにわずかな便宜を図ってもらおうと、力を与えられた生命体である神々の崇拝に熱中している。クリシュナ意識に興味を持つ者は非常にまれであることを、この節は表している。大半の人間は物質的な喜びに関心があり、そのため力を与えられた生命体を崇拝するのである。

※非人格主義者とは、絶対真理には究極的に人格や姿があることを認めず、無機質なブラフマンの光に溶け込む解脱を最終目的としている者を意味する。
cātur-varṇyaṁ mayā sṛṣṭaṁ
guṇa-karma-vibhāgaśaḥ
tasya kartāram api māṁ
viddhy akartāram avyayam

訳語

翻訳

物質自然の三様式と活動に応じて
私は人間社会を4つに区分した。
この四階層は私が造ったのだが
私は行為を超越し不変不動であることを知れ。

解説

 万物の創造者は至高主である。すべては主から生じ、主によって維持され、破壊されたあとは主の中に眠る。ゆえに、知性階級から始まる4つの社会区分を作ったのも至高主である。知性階級の人々は徳の様式にあるため、学術的にはブラーフマナと呼ばれる。その次の行政管理を司る階級の人々は激情の様式にあるため、クシャトリヤと呼ばれる。ヴァイシャと呼ばれる商人たちは、物質自然の激情と無知の様式が混在していて、シュードラと呼ばれる労働者階級の人々は、無知の様式にある。この4つの階級は主クリシュナが造ったものであるが、主御自身はそのどれにも属さない。人間社会を形成している制約された魂ではないからだ。人間社会は動物社会と似ているが、人を動物の段階より引き上げるためのものである。そして系統的にクリシュナ意識を育ませるために、主は前述の段階を造られた。人がどんな仕事を選ぶかは、その人が物質自然のどの様式の影響を受けているかによって決まる。どの様式にどのような命の兆候が現れるのかは、本書の第18章で述べられているが、クリシュナ意識の人はブラーフマナさえをも超えている。ブラーフマナはブラフマン、すなわち至高人格神を知る質を備えているはずだが、そのほとんどは非人格的な現れであるブラフマンとしての主クリシュナに近づこうとする。しかし、ブラーフマナという限られた知識を超えて至高人格神主シュリー・クリシュナの知識に達した者は、クリシュナ意識の人、すなわちヴァイシュナヴァとなるのである。ラーマ、ヌリシンハ、ヴァラーハなど、クリシュナの完全拡張体の知識はすべて、クリシュナ意識の中に含まれている。クリシュナが人間社会の4階級を超越しているのと同じように、クリシュナ意識の人は属している団体、国家、人種などにかかわらず、人間社会のあらゆる階層を超越しているのである。
na māṁ karmāṇi limpanti
na me karma-phale spṛhā
iti māṁ yo ’bhijānāti
karmabhir na sa badhyate

訳語

翻訳

私はどんな活動にも影響されない。
どんな結果をも望んでいない。
私についてのこの真理を知るならば
君も行いの反動に苦しむことはない。

解説

 国王は決して間違ったことをしない。ゆえに王は国の法律の対象外である、という決まりが物質界には存在する。同様に、至高主は物質界を創造した本人であるが、物質界の出来事に影響を受けることはない。主は創造し、その創造物から距離を置いている。しかし生命体は物質資源を自分の思うようにしようとする性向があるため、物質的行為の反動にからまってしまう。社員の行動の良し悪しは会社の経営者の責任ではなく、社員それぞれの責任である。生命体は感覚を満たそうという個々の行為の反動にからまっているが、これは主が定めたものではない。もっと感覚の喜びを楽しもうと、この世の仕事に忙しくしている生命体は、死んでからも天国で楽しみたいと熱望する。自己の内で満ち足りておられる主は、いわゆる天国の幸せなどというものに魅力を感じない。天界の神々は主に仕えるしもべに過ぎない。社長は、社員のように低次元なものを望まない。至高主は物質の作用、反作用を超越しているのだ。例えば、雨が降らなければ植物は育たないとはいえ、地上に育つさまざまな植物に対する責任が雨にあるわけではない。ヴェーダのスムリティ※は、この事実を次のように明言している。
nimitta-mātram evāsau
sṛjyānāṁ sarga-karmaṇi
pradhāna-kāraṇī-bhūtā
yato vai sṛjya-śaktayaḥ
 「物質創造の究極の原因、それはただひとつ至高主である。直接の原因となっているのは物質自然であり、これによって宇宙現象が目に見えるようになっている」。神々、人間、下等動物など創造物はさまざまあるが、すべて過去に行った善や悪の行為の反動によるものである。主はそういった活動に必要な便宜と規定通りの自然様式を与えるだけであり、過去においても、現在においても、彼らの行為の責任を何ら負ってはいない。『ヴェーダーンタ・スートラ』(2-1-34)には vaiṣamya-nairghṛṇye na sāpekṣatvāt すなわち主はすべての生命体に公平であると明言されている。生命体は皆、自分の行動の責任を負わなくてはならない。至高主は外的エネルギーという物質自然の代理者を通して、ただ便宜を与えているだけである。この限りなく複雑なカルマの法則、すなわち成果を求める活動について完全に理解すれば、行為の結果に一喜一憂することがない。つまり、至高主の超越的な性質を理解している人はクリシュナ意識の経験を積んだ人であり、カルマの法則に縛られることは決してないのである。主の超越性を知らず、一般の生命体と同様に主の行為も成果を求めるものだと考えるなら、自身の行為の反作用に苦しむことになるのは間違いない。至高の真理を知る者こそ、クリシュナ意識に安住した解放された魂なのである。

※スムリティとはシュルティ(原本のヴェーダや諸ウパニシャッド)を補足する啓示経典のこと。
evaṁ jñātvā kṛtaṁ karma
pūrvair api mumukṣubhiḥ
kuru karmaiva tasmāt tvaṁ
pūrvaiḥ pūrva-taraṁ kṛtam

訳語

翻訳

古来より解脱した魂たちは皆
私の超越性を理解して行動した。
ゆえに君も古人たちを見習い
自分の義務を遂行せよ。

解説

 人間には2種類ある。心の中まですっかり物質的なものに汚染されてしまっている人と、物質的なものから解放された人。クリシュナ意識は、そのどちらの人間にとっても等しく有益である。汚れに満ちた人は、献身奉仕の規則的な行動指針に従ってクリシュナ意識への道に専念すれば、徐々に浄化されていく。すでに浄化されている人は、そのままクリシュナ意識で行動し続けることにより、ほかの人たちの手本となって恩恵を与えるだろう。愚かな人や、クリシュナ意識を始めたばかりの人は、クリシュナ意識の知識を身に着けていないため、行動そのものを止めようとする。戦場での責任を放棄したいというアルジュナの望みを、主は認めなかった。大切なのは、いかに行動すべきかを知ることである。クリシュナ意識での活動を放棄して、人里離れたところに座って見せかけのクリシュナ意識をすることは、クリシュナのために戦場で戦うことよりずっと劣っている。ここでアルジュナに勧められているのは、前述の太陽神ヴィヴァスヴァーンのように、主の弟子の足跡に従ってクリシュナ意識で行動せよということである。至高主は御自身のことはもとより、過去にクリシュナ意識で行動した者のすべてをご存じである。だからこそ主は、何百万年も前にこの術を主から直々に学んだ太陽神を見習えと勧めているのだ。ここで語られている主クリシュナの弟子たちは皆、クリシュナから与えられた義務を遂行して解脱しているからである。
kiṁ karma kim akarmeti
kavayo ’py atra mohitāḥ
tat te karma pravakṣyāmi
yaj jñātvā mokṣyase ’śubhāt

訳語

翻訳

活動とは、また無活動とはいかなるものか
賢明な者でも、この定義に迷う。
今、私が活動とは何かを説明しよう。
これを知って君は                  
あらゆる不幸から解放されるのだ。

解説

 クリシュナ意識の活動は、過去の神聖な献身者を手本にしながら行わなくてはならない。このことは第15節で述べられている。なぜ自分勝手に行動してはならないのか、その理由をこれから説明する。
 この章の初めで説明されているように、クリシュナ意識で行動するには、師弟継承上の権威者の指導に従わなくてはならない。クリシュナ意識の体系は、まず最初に太陽神に語られ、太陽神が息子のマヌに、そしてマヌが息子のイクシュヴァークに語り継がれた。それは遠い昔から今に至るまでこの地上で続いている。ゆえに人は、師弟継承上にある権威者の足跡に従って行かなくてはならない。そうしなければ、どれほど聡明な人であろうと、クリシュナ意識が基準となる行動を見て戸惑ってしまう。至高主がアルジュナに直接クリシュナ意識を説こうとお決めになったのは、この理由からである。主からアルジュナに直接語られた教えであるから、その足跡に従おうとする者は決して道を見失うことがないのである。
 不完全な経験から得た知識では、信仰の道を確かめられないと言われる。事実、宗教原則を設定できるのは、至高主以外にはいない。Dharmaṁ tu sākṣād bhagavat-praṇītam. (『シュリーマド・バーガヴァタム』6-3-19)不完全な思索をめぐらして宗教原則を作り出すことなど、誰にもできはしないのだ。人は、ブラフマー、シヴァ、ナーラダ、マヌ、クマーラ、カピラ、プラフラーダ、ビーシュマ、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミー、ヤマラージャ、ジャナカ、バリ・マハーラージャのような偉大な権威者たちの足跡に従うべきなのである。あれこれ心で推測しても、宗教とは何か、自己の悟りとは何かなどわかりはしない。だからこそ主は献身者へのいわれのない慈悲から、活動、無活動の何たるかを直接アルジュナに説明なさるのである。物質存在の束縛から解放されるには、クリシュナ意識で行動すること、これしかない。
karmaṇo hy api boddhavyaṁ
boddhavyaṁ ca vikarmaṇaḥ
akarmaṇaś ca boddhavyaṁ
gahanā karmaṇo gatiḥ

訳語

翻訳

活動の諸相はまことに複雑にして神秘であり
これを理解することは実に難しい。
ゆえに人は活動と無活動と禁断の活動について
正しく学ばなければならない。

解説

 物質の束縛から解放されたいと真剣に望むなら、活動(カルマ)と無活動(アカルマ)、認められていない活動(ヴィカルマ)との違いを理解しなくてはならない。行為と、反動と、禁断の行為は非常に難しい問題なので、よく分析する必要がある。クリシュナ意識、および自然の三様式による活動というものを理解するためには、まず至高主と自分との関係を知らなくてはならない。これを熟知している者は、生命体は至高主の永遠の仕え人なのだからクリシュナ意識で行動しなくてはならない、ということがわかっている。『バガヴァッド・ギーター』の全内容は、この結果に導くものである。この意識にそぐわない結論、行動はすべてヴィカルマ、すなわち禁じられた行為なのだ。これらすべてを理解するにはクリシュナ意識の権威ある人たちと交際し、彼らからその秘訣を学ぶこと。これは至高主からじかに学ぶのと変わらないほど優れた方法である。それ以外の方法では、最高の知性を備えた人であっても当惑することになるだろう。
karmaṇy akarma yaḥ paśyed
akarmaṇi ca karma yaḥ
sa buddhimān manuṣyeṣu
sa yuktaḥ kṛtsna-karma-kṛt

訳語

翻訳

活動の中に無活動を見て
無活動の中に活動を見る者は
いかなる仕事に就いていようとも
超越した立場にある聡明な人である。

解説

 クリシュナ意識の人は、自然にカルマの束縛から解放されている。いかなる行為もクリシュナのために為しているため、結果に左右されて楽しんだり苦しんだりしない。ゆえにクリシュナのためにさまざまな活動を行いながら、社会においても聡明である。アカルマとは行為の反動がないという意味である。非人格主義者たちは、行為の結果によって自己を悟る道が閉ざされてしまうことを恐れるあまり、成果を求める活動をやめてしまう。しかし主が意志を持った存在であると信じている者は、自分は至高人格神の永遠なる仕え人であるという立場をよくわきまえている。だからこそクリシュナ意識の活動に従事するのだ。すべてをクリシュナのためにするので、いかなる奉仕に就いていようと超越的な幸せを味わっている。このような状態にある人には、自分の感覚を満たしたいという思いがない。クリシュナの永遠なる仕え人であるという自覚が、行為のもたらす反動からいかなる影響も受けないように、その人を守ってくれるのである。
yasya sarve samārambhāḥ
kāma-saṅkalpa-varjitāḥ
jñānāgni-dagdha-karmāṇaṁ
tam āhuḥ paṇḍitaṁ budhāḥ

訳語

翻訳

いかなる欲も持たずに行動する者は
完全智を得た人と心得よ。
聖者たちはそのような人々を
大智の火でカルマを焼き尽くした人と呼ぶ。

解説

 クリシュナ意識の人の行動を理解できるのは、完全な知識を備えた人だけである。クリシュナ意識の人は感覚満足につながるものをことごとく避けるため、完全なる知識で行為の反動が焼き尽くされてしまった人だと言える。自分は至高人格神の永遠なるしもべであるという、本来の立場を完全に知り尽くしているからである。この完璧な知識を手に入れた者こそ、本当に博学な人である。主の永遠なる仕え人であるという知識は火にたとえられ、この火はひとたび灯ると、いかなる行為の反動をも焼き尽くしてしまう 。
tyaktvā karma-phalāsaṅgaṁ
nitya-tṛpto nirāśrayaḥ
karmaṇy abhipravṛtto ’pi
naiva kiñcit karoti saḥ

訳語

翻訳

行動のもたらす結果にまったく執着せず
常に満ち足りて自由である者は
いかなる仕事に就こうと
結果にとらわれるような行動はとらない。

解説

 行為の反動に束縛されなくなるのは、すべてをクリシュナのために行うというクリシュナ意識になって初めて可能となる。クリシュナ意識の人は至高人格神への純粋な愛から行動するため、行為の結果には何の魅力も感じない。すべてをクリシュナに預けているので、自分の生活についても関心がない。生活の安定を気にかけることも、所有物を守ろうという気もない。力のかぎり自分の責務を果たし、すべてをクリシュナに委ねる。このような無執着な人は、良いとか悪いとかいう結果にまったくとらわれていないので、まるで何もしていないかのように見える。これがアカルマ、すなわち反動を伴わない行為の証しである。ゆえに、クリシュナ意識の欠如したほかの行動は、すべてその行為者を束縛することとなり、これが先に説明されているヴィカルマの本当の様相なのである。
nirāśīr yata-cittātmā
tyakta-sarva-parigrahaḥ
śārīraṁ kevalaṁ karma
kurvan nāpnoti kilbiṣam

訳語

翻訳

このような英知の人は心と知性を完全に抑制し
自分の物という所有の観念を一切持たず
生きていくに最低限必要なものしか求めない。
このように生きることにより
決して罪深い反動に影響されない。

解説

 クリシュナ意識の人は仕事の結果に良し悪しを求めない。心と知性が完全に制御されているからだ。自分は至高主の一部分であり、部分はその役割を果たすだけだということを知っている。全体の一部分がする仕事は自分のものではなく、ただ至高主が自分を通して行為しているだけなのだということをよくわきまえている。手が動くのも手が勝手に動いているわけではなく、体全体の努力によって動いているのだ。クリシュナ意識の人には、自分の感覚を楽しませたいという欲がなく、常に至高主の望みを自分の望みとしていて、まるで機械の部品のような行動をとる。機械を長持ちさせるためには部品に油をさしたり掃除したりすることが必要なように、クリシュナ意識の人は主への超越的な愛情奉仕をし続けるためだけに、自己の維持に努める。だからどんな努力を払っても、反動を受けることはないのである。まるで動物のように、自分の体さえも自分のものだとは考えていない。冷酷な飼い主が飼っている動物を殺すこともあるが、それでも動物は抗議もしない。実際のところ自活もしていない。自己を悟ることに没頭しているクリシュナ意識の人は、物質的なものを所有するという誤った行為に時間を費やさない。体と魂を維持していくためにも、不正な手段でお金をためることが必要であるとは思わない。したがって、物質的な罪悪に手を染めることは絶対にない。何を為しても、その行為の反動を受けることはないのである。
yadṛcchā-lābha-santuṣṭo
dvandvātīto vimatsaraḥ
samaḥ siddhāv asiddhau ca
kṛtvāpi na nibadhyate

訳語

翻訳

自然に得られるもので満足し
二元性を超越して誰を妬むことなく
成功にも失敗にも心を動かさぬ者は
いかなる行為にも束縛されない。

解説

 クリシュナ意識の人は自分の体に関してもさほどの努力をしない。自然に恵まれて手に入れたもので満足する。乞い願ったり借りてまで手に入れようとせず、自分の力のかぎり誠実に働いて得たもので満ち足りている。ゆえに生計は独立している。クリシュナ意識で行っている自分の奉仕は、他人と比べることもなければ、他人からの批判に揺らぐこともない。しかし主への奉仕のためなら、物質界の二元性に惑わされることなく、どんな活動にも参加するのだ。物質界の二元性は、暑さ、寒さ、幸せ、苦しみなどの形で感じられる。クリシュナ意識の人はクリシュナに満足していただくためならどんなことでもためらわずにできるので、二元性を超越していると言える。だからこそ、成功しようと失敗しようと動じない。超越的な知識を完全に備えた人だけが、この兆候を表すのである。
gata-saṅgasya muktasya
jñānāvasthita-cetasaḥ
yajñāyācarataḥ karma
samagraṁ pravilīyate

訳語

翻訳

物質自然の様式に執着することなく
超越的知識の中に完全に身を置く者は
主の超越性の中に完全に溶け込んでいく。

解説

 クリシュナ意識に満ちてくると、あらゆる二元性から解放され、物質の様式に汚されなくなる。クリシュナとの本来の関係がわかっているため解脱でき、もはや心がクリシュナ意識から逸れることはない。つまり何をするにしても行動のすべてが、クリシュナ、すなわち原初のヴィシュヌのためなのである。したがって専門的には、その人の為すことすべてが供養だと言える。なぜなら、至高主ヴィシュヌ、すなわちクリシュナを喜ばせることこそ、供養の目的だからである。そういう行為の反動は間違いなく主の超越性に溶け込んでしまうため、このような人が物質の影響を受けて苦しむことは決してない。
brahmārpaṇaṁ brahma havir
brahmāgnau brahmaṇā hutam
brahmaiva tena gantavyaṁ
brahma-karma-samādhinā

訳語

翻訳

クリシュナ意識に没頭している人は
その精神的活動の貢献により
必ず神の王国に達する。
その活動の成就は絶対であり
捧げられたものも精神的である。

解説

 クリシュナ意識での活動がどのようにして人を精神的なゴールに導いていくのか、そのことがここで説明されている。クリシュナ意識にはさまざまな活動があり、以下に続く節がそのすべてを説いていくが、ここではクリシュナ意識の原則だけを説明する。物質に汚染され制約された魂は当然、物質的環境の中で行動することとなるのだが、なんとかそのような状況から抜け出さなくてはならない。クリシュナ意識こそ、その方法である。例えば、乳製品を食べ過ぎて腹痛で苦しんでいる患者の治療には、カードという別の乳製品が使われる。こうしてギーターに書かれているように、物質的なものにすっかり染まってしまった制約された魂は、クリシュナ意識によって治癒される。一般的にヤジュニャ、すなわち活動(供養)と呼ばれるこの方法は、ただヴィシュヌ、すなわちクリシュナを喜ばせるためのものである。クリシュナ意識の活動すなわちヴィシュヌのためだけに行われる活動がこの物質界で増えれば増えるほど澄みきった意識が行き渡り、環境はさらに精神化される。ブラフマ(ブラフマン)とは「精神的」という意味である。至高主は精神的で、主の超越的な体から発せられる光線をブラフマ・ジョーティル、すなわち精神的光輝と呼ぶ。存在するものはすべてブラフマ・ジョーティルの中にあるのだが、ジョーティルが幻想(マーヤー)や感覚を満たしたいという欲望で覆われてしまったとき、それを物質と呼ぶ。クリシュナ意識は速やかにこの覆いを取り去ることができる。クリシュナへの捧げ物、そのような捧げ物を消費する人、消費する過程、捧げる人、結果、それらすべてを結びつけるものがブラフマン、すなわち絶対真理なのである。絶対真理がマーヤーに覆われている状態を物質現象と呼ぶ。物質現象を絶対真理に繋げると、その精神性を取り戻す。クリシュナ意識は、幻惑された意識をブラフマンすなわち至高の存在に回帰させていく方法である。心が完全にクリシュナ意識に没頭している状態をサマーディ、すなわち恍惚状態と呼ぶ。このような超越的な意識で行われることはすべてヤジュニャ、すなわち絶対者への供養なのである。このような精神的意識のもとでは、寄与する人も、寄与される物も、それを消費する行為も、その行為者も、行為の指導にあたる人も、結果、つまり最終的に得られるものも、すべてが絶対者である至高ブラフマンの中でひとつとなるのだ。これがクリシュナ意識の方法である。
daivam evāpare yajñaṁ
yoginaḥ paryupāsate
brahmāgnāv apare yajñaṁ
yajñenaivopajuhvati

訳語

翻訳

さまざまな供養をして
完璧な崇拝を神々に捧げるヨーギーもいれば
至高ブラフマンの火の中に
供養を投じるヨーギーもいる。

解説

 前述のようにクリシュナ意識で義務を遂行する人は、完璧なヨーギー、または最高級の神秘家とも呼ばれる。しかしそのほかに神々を崇拝する者もいれば、至高ブラフマン、すなわち至高主の非人格的な様相を崇拝する者もいる。部門が違えば供養の仕方も異なるが、それは表面的に手順が違うだけのことであって、供養の本当の意味は、ヤジュニャとしても知られる至高主ヴィシュヌに満足していただくことである。さまざまな供養の方法は、大きくふたつに分けることができる。財を求める供養と、超越知識を求める供養である。クリシュナ意識の人は至高主の満足のために財産のすべてを差し出すが、一時的な俗的快楽を求める者は、インドラや太陽神などに代表される神々の満足のために財産を差し出す。そして至高主には意志がないと考える者は、非人格的なブラフマンの存在に溶け込むことによって、自分の本性そのものを捧げる。神々は大いなる力を有した生命体で、宇宙の熱、水分、光などあらゆる物質の機能を維持、管理するために、至高主から任命された存在である。俗的な恩恵を求める者は、ヴェーダ儀式に沿ってさまざまな供養で神々を崇拝する。そのような人々を、バフ・イーシュヴァラ・ヴァーディー、すなわち八百万の神を信仰する者と呼ぶ。しかし絶対真理であるお方の非人格的様相を崇拝し、神々の姿は一時的なものだと考える者は、至高の火の中に自分の個別性を捧げ、至高者の存在に溶け込むことによって、個々の存在を終わらせてしまう。このような非人格主義者は、至高者の超越的な資質を理解しようと哲学的な思索を重ねることに時間を費やす。つまり結果を求めて働く者は、物質的な喜びのために自分の所有物を捧げるのに対し、神には意志がないと考える者は、至高主の存在に溶け込みたいと思い描いて、自分の俗的立場を捧げるのだ。主が意思を持った存在であると認めない者にとって、火の供物台は至高主ブラフマンであり、その火で焼き尽くされる自分の存在こそが捧げ物なのである。しかしアルジュナのようなクリシュナ意識の人は、すべてをクリシュナの満足のために捧げるため、所有物はもちろんのこと、自分自身も何もかもをクリシュナのために差し出す。こうして最高級のヨーギーとなり、それでいて決して個別性を失わない。
śrotrādīnīndriyāṇy anye
saṁyamāgniṣu juhvati
śabdādīn viṣayān anya
indriyāgniṣu juhvati

訳語

翻訳

ある者(清純なブラフマチャーリー)は
聴くことや感覚を抑制の火に投じて供えものとし
ほかの者(規定に従う世帯者)は
感覚の対象を供養の火壇に供える。

解説

 ブラフマチャーリー、グリハスタ、ヴァーナプラスタ、サンニャーシーという人間生活の4区分はどれも、完全なヨーギーすなわち超越主義者になるためのものである。人間生活は、動物のようにただ感覚を満たすためにあるのではない。人間生活の4階級は、人が完全な精神生活を送ることができるようにと配慮されたものである。ブラフマチャーリー、すなわち真正な精神指導者に指導を受ける学徒は、感覚を満たすことを避けて心を制御する。ブラフマチャーリーはクリシュナ意識に関することにしか耳を貸さない。聴くという行為は理解するための基本原則であるため、純粋なブラフマチャーリーは harer nāmānukīrtana すなわち至高主の栄光を唱え聴くことに没頭し、ハレークリシュナ、ハレークリシュナという超越的な音響に耳を傾けることに聴力を使う。同様に、感覚を満たすことをある程度許されている世帯者にも、かなり厳しい制約がある。人間社会にとって、性生活、飲酒、肉食などは日常茶飯事のことであるが、規則正しく生きる世帯者は、性生活など感覚を満たす行為に無制限に耽るべきではない。文化的な人間社会では宗教生活の原則に従った結婚という制度があるが、これは性生活に制限をかけるためのものである。性生活に制限を設け、執着をなくすようにすること、これも一種のヤジュニャだと言える。なぜなら、性欲を抑制している世帯者は、より高い超越的生活のために、感覚を満たしたいという当たり前の傾向を犠牲にしているからである。
sarvāṇīndriya-karmāṇi
prāṇa-karmāṇi cāpare
ātma-saṁyama-yogāgnau
juhvati jñāna-dīpite

訳語

翻訳

心と感覚を抑制して
自己の悟りを得たいと望む者は
呼吸と感覚器官すべてを供養として
精神統一の火に投じる。

解説

 ここで、パタンジャリが考案したヨーガシステムのことが述べられている。パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』では、魂のことをプラテャグ・アートマー、およびパラーグ・アートマーと呼んでいる。感覚の喜びに耽っている状態の魂をパラーグ・アートマーと呼び、その同じ魂が感覚の喜びから執着を失くすとプラテャグ・アートマーと呼ばれるようになる。魂は体内で作用している10種類の気の影響を受けていて、これは呼吸法を通して知覚される。パタンジャリ式のヨーガでは、体内の気の機能を技術的にコントロールする方法を教えている。それは最終的にはすべての気の働きが、魂の物質的な執着を浄化するための助けとなるからである。このヨーガシステムでは、プラテャグ・アートマーが究極目的である。このプラテャグ・アートマーというのは、物質的活動から退いた状態である。耳は音を聞き、目はものを見て、鼻は匂いを嗅ぎ、舌は味わい、手は触る 。このように感覚器官はその対象物と相互に作用し合い、自己の外側の活動に従事しているのである。これをプラーナ・ヴァーユの機能と呼ぶ。アパーナ・ヴァーユは下降し、ヴィヤーナ・ヴァーユは伸縮し、サマーナ・ヴァーユは均整を保ち、ウダーナ・ヴァーユは上昇する。人は啓発されるとこれらの気を用いて、自己の悟りを追い求めようとするのである。
dravya-yajñās tapo-yajñā
yoga-yajñās tathāpare
svādhyāya-jñāna-yajñāś ca
yatayaḥ saṁśita-vratāḥ

訳語

翻訳

厳しい誓いを立てて
財産を捧げる者あり。
厳しい苦行をする者あり。
八秘法のヨーガを行じる者あり。
また、超越的知識を求めてヴェーダを学ぶ者もいる。

解説

 供養にもさまざまな種類があり、自分の財産をいろいろな慈善事業に施す人もいる。インドでは、ダルマ・シャーラー、アンナ・クシェートラ、アティティ・シャーラー、アナーターラヤ、ヴィデャー・ピータのように、富裕な企業組織や王侯階級の人たちによるいろいろな種類の慈善団体がある。どこの国にも、病院や高齢者向け施設があり、また貧しい人々に食料、教育、医療を提供するための慈善施設などもたくさんある。これらの慈善活動は、ドラヴィヤマヤ・ヤジュニャと呼ばれる。また生活水準を上げたいとか、宇宙のより高い惑星に移りたいとか望む人たちは、チャンドラーヤナやチャートゥルマースャのようなさまざまな苦行をする。こういった苦行は、厳格な規則に従って生活するという厳しい誓いを立てることが必要となる。例えば、チャートゥルマースャを行う者は、4カ月間(7月から10月まで)ひげを剃らず、特定の食物を断ち、日に一度しか食事せず、外出もしない。このように生活の快適さを犠牲にすることをタポーマヤ・ヤジュニャと呼ぶ。またパタンジャリ式(絶対者の存在に溶け込む)、ハタ・ヨーガ、アシュターンガ・ヨーガ(特定の完成を求める)などのようにいろいろな神秘的ヨーガを行う者もいれば、聖地を巡礼する者もいる。このような行為はすべてヨーガ・ヤジュニャと呼ばれ、物質界にいながら何かの完成を求めるのがその目的である。ほかにもさまざまなヴェーダ文献、特にウパニシャッド、『ヴェーダーンタ・スートラ』すなわちサーンキャ哲学などの勉強に精を出す者もいる。このように学問を捧げることをスヴァーデャ-ヤ・ヤジュニャと呼ぶ。これらのヨーギーたちは皆それぞれの方法で誠実に供養を行い、より高い人生を求めている。しかしクリシュナ意識はこういったたぐいではなく、至高主に直接奉仕をするものであり、前述のいかなる方法でも到達することはできない。クリシュナ意識になるには、至高主とその神聖な献身者の慈悲しかない。だからこそクリシュナ意識は超越的なのである。
apāne juhvati prāṇaṁ
prāṇe ’pānaṁ tathāpare
prāṇāpāna-gatī ruddhvā
prāṇāyāma-parāyaṇāḥ
apare niyatāhārāḥ
prāṇān prāṇeṣu juhvati

訳語

翻訳

超越境にとどまろうとして、呼吸の抑制法に惹かれ、
呼気を吸気に、吸気を呼気に入れ
ついには呼吸を静止させ
超越境に入る者もいる。
ほかには食を削ぎ、呼気を捧げ
供物とする者もいる。

解説

 呼吸をコントロールするこのヨーガ法はプラーナーヤーマと呼ばれ、ハタ・ヨーガの最初の段階でさまざまなポーズ(座法)を通して修練する。この方法は感覚をコントロールし、精神的な悟りを深めるために勧められていて、体内の気を操って逆方向に流すことも含まれている。アパーナ気は下方向に流れ、プラーナ気は上方向に流れているが、プラーナーヤーマ・ヨーギーはこのふたつの気流が中和してプーラカ、すなわち均衡状態になるまで呼吸を逆流させる修練をする。呼気を吸気に捧げることを、レーチャカと呼ぶ。そして両方の気流が完全に止まった状態をクンバカ・ヨーガという。このクンバカ・ヨーガを修練することによって寿命を延ばすことができ、精神的悟りを完成させる助けとなる。知性あるヨーギーは次の人生を待つことなく、一度の人生で完成を達成したいと望み、クンバカ・ヨーガを修練して何年も寿命を延ばす。しかしクリシュナ意識の人は常に主への超越的愛情奉仕の状態にあるので、自然に感覚のコントロールができている。感覚がいつもクリシュナへの奉仕に向けられていて、ほかのものに逸れるということがない。したがって、生涯を終える時には、自然に主クリシュナの超越的な領域へと移っていくので、寿命を延ばそうとは考えない。『バガヴァッド・ギーター』(14-26)に書かれているように、直ちに解脱の段階に引き上げられるのである。
māṁ ca yo ’vyabhicāreṇa
bhakti-yogena sevate
sa guṇān samatītyaitān
brahma-bhūyāya kalpate
 「至高主に純粋な献身奉仕をする者は物質自然の様式を超越し、直ちに精神的段階に引き上げられる」

 クリシュナ意識の人は初めから超越的な段階にあり、ずっとその意識で居続ける。ゆえに堕落することなく、まっすぐに神の王国に入っていくのである。クリシュナ・プラサーダム(主に捧げた食べ物のお下がり)だけを食べるということは、自動的に食べる行為を抑えることになる。食を抑えることは感覚をコントロールするのにとても役立ち、感覚の制御なくしては、物質の束縛から抜け出すことなどできないのである。
sarve ’py ete yajña-vido
yajña-kṣapita-kalmaṣāḥ
yajña-śiṣṭāmṛta-bhujo
yānti brahma sanātanam

訳語

翻訳

供養の真意を知って行う者たちは
罪の反動から浄化され
供養のもたらした甘露を味わいつつ
至高なる永遠の境地に入っていく。

解説

 前述の、さまざまな種類の供養(財産を捧げる、ヴェーダや哲学理論を学ぶ、ヨーガ方法を修練する)に共通した目的は、感覚をコントロールすることである。物質存在の根底にあるのは感覚を満たすことであり、そこから離れないかぎり、知識と至福と生命力に満ちた永遠の段階に上る機会は与えられない。この段階は永遠の境地、すなわちブラフマンの境地である。前述の供養はどれも、物質存在の罪深い反動の浄化を助けるものである。このように人生を高めていくことによって、人は今生で幸福で豊かになるだけでなく、人生の終わりには非人格的ブラフマンに溶け込むか、あるいは至高人格神クリシュナとの関係を築くか、どちらにしても永遠なる神の王国に入っていくのだ。
nāyaṁ loko ’sty ayajñasya
kuto ’nyaḥ kuru-sattama

訳語

翻訳

クル王朝で最高のお方よ
供養を行わずして
この地上で、この生涯で幸せなど望めない。
ましてや、次の生はどうなることか。

解説

 いかなる体に入って物質世界に存在しようと、生命体は自分本来の立場をわかってはいない。これまで繰り返してきた多数の罪深い生涯の反動が複雑にからみあって、今こうして物質世界に存在しているのである。無知こそ罪深い生活の根本原因であり、その罪深い生活こそが生命体を物質世界に引き込んでいる。人間として生まれたことは、この物質存在のもつれから抜け出せるかもしれない唯一の抜け道である。だからこそヴェーダは、宗教、経済的安楽、快楽の規制、最終的にこの苦しみに満ちた状況から完全に抜け出せる方法を示して、脱出の機会を与えてくれているのだ。宗教の道、すなわち前述で勧められているさまざまな種類の供養は、自動的に私たちの経済的問題を解くことになる。ヤジュニャを行うことによって十分な食べ物や牛乳などが得られ、たとえ人口が増加しても食糧不足にはならない。そして食べ物が体に十分行きわたると、次は当然、感覚を満たしたいという段階になる。だからヴェーダは欲望を規制するために、神聖な結婚を勧めているのであり、それによって人はしだいに物質の束縛から解放されていく。そしてやがて、至高主と関係を築くという最高完成の解脱を得るのだ。それならば、ヴェーダに従ったヤジュニャをしたいと思わない者が、どうやってその体にいながらにして幸福な生活など望めようか? ましてや、別の体、別の惑星など論外である。天界の惑星にはそれぞれ度合いの違った物質的快楽があるが、どの場合でもヤジュニャを行った人には、計り知れない幸せが用意されている。しかし、クリシュナ意識を修練して精神的な惑星に昇ること以上の幸せはない。ゆえにクリシュナ意識の生活は、物質存在がもたらすあらゆる問題の解決策になるのである。
evaṁ bahu-vidhā yajñā
vitatā brahmaṇo mukhe
karma-jān viddhi tān sarvān
evaṁ jñātvā vimokṣyase

訳語

翻訳

これらの供養はどれもヴェーダによって是認され
さまざまな活動から生じたものである。
この理(ことわり)をよく知れば君は
解脱を得ることとなろう。

解説

 これまで述べてきたように、ヴェーダにはあらゆる種類の活動をする人に合わせ、さまざまな供養について書かれている。人はあまりにも深く肉体概念にとらわれてしまっているため、体、心、知性のどれを使っても活動ができるようにと、これらの供養が用意されているのだ。しかしこれらはすべて、最終的に肉体から解放されることを目的として勧められたものである。至高主は自らの言葉で、このことを確証なさっている。 
śreyān dravya-mayād yajñāj
jñāna-yajñaḥ paran-tapa
sarvaṁ karmākhilaṁ pārtha
jñāne parisamāpyate

訳語

翻訳

敵を討ちこらす者よ
知識ある供養は物質の供養よりはるかに優る。
プリターの子よ
供養なる活動は人を超越知識に導くのだ。

解説

 あらゆる供養の目的は、完全な知識に行き着くこと。そして物質的苦悩から解放され、最終的には至高主への超越的な愛情奉仕(クリシュナ意識)に就くことである。とはいえ、こうしたさまざまな供養には奥義があり、これを知らなくてはならない。人はそれぞれ独自の信念を持っているため、供養の行い方も違う場合がある。超越的知識に信念を持てる段階になって供養をする人は、何の知識もなくただ財産を供えるだけの人より、ずっと高い段階にある。知識の伴わない儀式は物質的なものにすぎず、精神的恩恵が得られないからである。本当の知識は、超越的知識の最高峰であるクリシュナ意識へと人を導く。知識の向上を望めない儀式は、物質的活動でしかないのだ。しかし超越的知識の段階にまで向上すると、そうした活動はすべて精神的段階のものとなる。行う人の意識によって、供養はカルマ・カーンダ(結果を求める活動)にもなれば、ジュニャーナ・カーンダ(真実を追求する知識)にもなる。人生の終わりをジュニャーナ・カーンダで終えることのほうがより良いのは、明らかである。
tad viddhi praṇipātena
paripraśnena sevayā
upadekṣyanti te jñānaṁ
jñāninas tattva-darśinaḥ

訳語

翻訳

精神の師に近づいて真理を学び
恭しく問い、教えに従って師に仕えよ。
自己の本性を悟った魂は真理に精通しているので
弟子に知識を授けることができるのだ。

解説

 精神的悟りの道は確かに難しい。ゆえに主は、主御自身から続く師弟継承上にある真正な精神の師に近づけ、と助言しておられる。この師弟継承の原則に従わない者は、真正の精神指導者にはなれない。根源の精神指導者は至高主であり、師弟継承上にある人は主のメッセージをありのまま弟子に伝えることができる。いつの世にも偽者が横行するが、我流で編み出した方法では精神的な悟りは得られない。『シュリーマド・バーガヴァタム』(6-3-19)には dharmaṁ tu sākṣād bhagavat-praṇītam すなわち、宗教の道は至高主自らが語られたとある。したがって、頭であれこれ考えたり、つまらない議論をいくら重ねても正しい道に導かれることはなく、知識の詰まった本をひとりで読んでも、精神生活の向上にはつながらない。知識を授かるには、真正な精神指導者に近づかなくてはならないのだ。精神指導者に対しては絶対服従の姿勢で臨み、偽りの威信など捨てて、つつましいしもべのような気持ちで仕えるべきである。自己の悟りを得た精神指導者を満足させることこそ、精神生活を向上させる秘訣であり、精神的な理解を深めるには、質問と従順さを適切に兼ね備えていなくてはならない。従順に奉仕しなくては、深い知識を持つ精神指導者との問答も効果をもたらさないのだ。弟子となる者は、精神指導者のテストに合格しなければならない。その望みに偽りがないとわかったとき、師は弟子を祝福し、真なる精神的理解を授ける。この節では、盲目的に従うことと、くだらない質問をすることを禁じている。ただ師の言いなりになっているのではなく、従順な姿勢で仕え質問しながら、明確な理解を深めていくことが大切なのである。そもそも真正な精神指導者というのは弟子にたいへん優しいので、弟子が従順でいつでも仕える心づもりでいれば、知識の受け渡しは完璧なものとなる。
yaj jñātvā na punar moham
evaṁ yāsyasi pāṇḍava
yena bhūtāny aśeṣāṇi
drakṣyasy ātmany atho mayi

訳語

翻訳

自己を悟った魂から真理を得た者は
再び幻想に陥ることはない。
この知識によってすべての生命体は至高の存在
すなわち私の一部であると知るからである

解説

 自己を悟った魂から知識を得る、すなわち物事の実相を知ると、生命体は皆、至高人格神主クリシュナの一部分であるということがわかる。自分はクリシュナから独立して存在しているのだという考え方を、マーヤー(ma ― ~ではない、ya ― これ)と呼ぶ。「クリシュナはただ歴史上の偉人であって、私たちとは関係がない。絶対者とは、ブラフマンという意志を持たない存在だ」と考える者がいる。しかし事実は『バガヴァッド・ギーター』に書かれているように、このブラフマンというのはクリシュナの光輝であり、至高人格神クリシュナこそ、すべての根本原因なのである。『ブラフマ・サンヒター』には、クリシュナこそ至高人格神であり、あらゆる原因の原因であると、明記されている。何百万と存在する化身でさえ、クリシュナのさまざまな拡張体にすぎない。同様に、生命体もクリシュナから拡張したものである。クリシュナは無数に拡張することによって個別性を失ってしまうと、マーヤーヴァーディー哲学者たちは誤った考え方をしている。これは物質的思考である。物質世界では物を小さく切って配ってしまうと、元の物体ではなくなってしまう。しかしマーヤーヴァーディー哲学者たちには、絶対の意味は1+1=1であり、また1-1=1であることが理解できない。絶対世界とはそういうことである。
 私たちは絶対学について十分な知識を持っていないため幻想に覆われ、自分がクリシュナから離れた存在であると考えてしまっている。私たちはクリシュナから分散した一部分ではあるが、クリシュナと別のものではない。生命体にとって体の相違とはマーヤーであり、真実ではないのだ。私たちは皆、クリシュナを満足させるために存在している。アルジュナが、クリシュナとの永遠の精神的関係よりも、一時的な親族との血縁関係のほうが重要だと考えたのは、マーヤーにほかならない。ギーターの教えの全容は、この点に的を置いたものである。すなわち生命体はクリシュナの永遠なる奉仕者であり、クリシュナから独立することはできない。そして自分はクリシュナから独立した存在なのだと考えることを、マーヤーと呼ぶ。至高主から分散した一部分である生命体には、果たすべき目的がある。太古の昔からこの目的を忘れてしまったために、生命体は人間、動物、神々など、さまざまな体をまとって存在している。この体の多様性は、主に超越的奉仕をすることを忘れてしまったことが原因で起こる。しかしクリシュナ意識を通して超越的奉仕に就いたなら、直ちに幻想から解き放たれるのである。そのような純粋な知識は、真正な精神指導者からでなければ得られない。これによって私たちは、生命体はクリシュナと同等だという妄想を打ち砕くことができるのである。至高の魂クリシュナこそ、生きとし生ける者すべての至高の保護者であるという理解が完全な知識であり、この保護地から離れることによって生命体は物質エネルギーに惑わされ、自分は孤立した存在だと錯覚してしまうのだ。このように本当の自分を物質的にとらえればとらえるほど、クリシュナを忘れてしまう。しかしそのように幻想状態にある生命体がひとたびクリシュナ意識に目覚めたなら、それは直ちに解脱への道を歩き出したということであり、『シュリーマド・バーガヴァタム』(2-10-6)でこのように確証されている。muktir hitvānyathā-rūpaṁ svarūpeṇa vyavasthitiḥ クリシュナの永遠なるしもべという本来の立場に身を置くこと(クリシュナ意識)、これが解脱である。
api ced asi pāpebhyaḥ
sarvebhyaḥ pāpa-kṛt-tamaḥ
sarvaṁ jñāna-plavenaiva
vṛjinaṁ santariṣyasi

訳語

翻訳

たとえ極悪非道の罪人であろうと
この超越的知識の舟に乗る者は
苦しみの大海原を
難なく渡り越えてゆけるのだ。

解説

 クリシュナとの本来の関係を正しく理解することは無上の益であり、無知の大海で生き残ろうともがき苦しんでいる者を、即座に引き上げてくれる。この物質世界は、「無知の大海」「燃え盛る山火事」と呼ばれることがある。どれほど泳ぎが上手くてもこの海で生き残るには、たいへんにもがき苦しまなくてはならない。今にも溺れそうにもがく者に、さっと手を差し伸べ引き上げてくれる人がいたなら、それは偉大な救世主だと言える。至高人格神から授かる完璧な知識は、解脱へと続く道である。クリシュナ意識というこの上なく崇高な舟には、とても簡単に乗り込むことができるのである。
yathaidhāṁsi samiddho ’gnir
bhasma-sāt kurute ’rjuna
jñānāgniḥ sarva-karmāṇi
bhasma-sāt kurute tathā

訳語

翻訳

アルジュナよ
燃え盛る火が薪を灰に焼き尽くすように
知識という火は
あらゆる物質的行為の反動を
焼き尽くして灰にする。

解説

 自己と至高の魂、そして両者の関係についての完全なる知識のことを、ここでは火にたとえている。この火は不敬な行いの反動(カルマ)を焼き尽くすばかりでなく、敬虔な行いの反動をも焼き尽くして灰にしてしまう。反動(カルマ)にもいろいろな段階がある。それらは反動をつくっている段階、反動が形になる段階、反動を受ける段階、そして反動を受ける前段階である。しかし、生命体本来の立場についての知識は、これらすべての反動を焼き尽くして灰にしてしまう。人は完全な知識に目覚めると、その知識が先天的なカルマも、後天的なカルマも、すべて焼き尽くしてしまうのだ。ヴェーダの『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』(4-4-22)には、このように書かれている。ubhe uhaivaiṣa ete taraty amṛtaḥ sādhv-asādhūnī「人は敬虔な行いの結果も、不敬虔な行いの結果も、共に焼き尽くすことができる」と。
na hi jñānena sadṛśaṁ
pavitram iha vidyate
tat svayaṁ yoga-saṁsiddhaḥ
kālenātmani vindati

訳語

翻訳

超越知識ほど崇高かつ純粋なるものはない。
すべての神秘の結実である。
献身奉仕でこれを達成した者は
やがてこの知識を内で楽しむこととなる。

解説

 私たちが超越的知識と言うとき、それは精神的理解を意味する。超越的知識ほど崇高で純粋なものはない。無知こそ束縛の原因であり、知識こそ解放の導因である。献身奉仕の円熟がこの超越的知識であり、これを手にした者は、ほかに平安を求める必要はない。自己の内で平安を味わっているからである。すなわちこの知識と平安は、クリシュナ意識において頂点に達するということであり、これこそが『バガヴァッド・ギーター』の結論なのである。
śraddhāvāḻ labhate jñānaṁ
tat-paraḥ saṁyatendriyaḥ
jñānaṁ labdhvā parāṁ śāntim
acireṇādhigacchati

訳語

翻訳

超越的知識に堅い信念を持ち
感覚の欲望を制御する者は
この無上の知識に到達し
すみやかに至高の精神的平安を手に入れるであろう。

解説

 クリシュナに堅い信念を持つ信仰の厚い者だけが、クリシュナ意識のこの無上の知識を手に入れることができる。最高の完成を得るにはクリシュナ意識で行動するしかないと、ただそう信じている者が信仰の厚い人間と呼ばれる。この信念を持てるようになるには、献身奉仕と、あらゆる物質的な汚れからハートを清める力のあるこのマントラ「ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー / ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー」を唱えることである。さらに感覚を制御することも大切である。クリシュナに信念を持ち、感覚を制御する者は、すみやかにクリシュナ意識の知識を獲得することができるのだ。
ajñaś cāśraddadhānaś ca
saṁśayātmā vinaśyati
nāyaṁ loko ’sti na paro
na sukhaṁ saṁśayātmanaḥ

訳語

翻訳

だが啓示経典に疑いを抱き
無知にして信なき者たちが
神の意識に達することはない。
疑い深い魂は
現世も来世も不幸である。

解説

 権威ある信頼すべき啓示経典は多数あるが、中でも『バガヴァッド・ギーター』が最高である。動物同然の人は啓示経典に信念を持たず、またその知識も持ち合わせてはいない。わずかばかり知っていたり、その内容をいくらか引用できたとしても、実際にはそれらの言葉を信用してはいない。また『バガヴァッド・ギーター』のような経典には信念を持っているが、至高人格神シュリー・クリシュナを信じず、崇拝もしないという人間もいる。そのような人はクリシュナ意識を続けることができず、堕落してしまう。中でも信念がなくていつも疑いを持っている人は、決して精神的に向上できない。神と、神が啓示した言葉を信じない人は、現世でも来世でも、人生に意義を見出せない。幸福とは無縁なのである。ゆえに人は信念を持って啓示経典に書かれている原則に従わなくてはならない。そうすれば知識の段階へと昇って行くことができる。精神性が理解できる超越的な段階まで人を引き上げてくれるのは、この知識のほかにはない。つまり疑い深い人間は、解放されないということである。それゆえ人は、師弟継承上にある偉大なアーチャーリャの足跡に従わなくてはならない。それが成功への扉を開く鍵である。
yoga-sannyasta-karmāṇaṁ
jñāna-sañchinna-saṁśayam
ātmavantaṁ na karmāṇi
nibadhnanti dhanañ-jaya

訳語

翻訳

富の征服者よ
果報を求めずに献身奉仕をし
超越的知識によって疑いを打ち砕いた者は
自己の本性に徹して不動になり
行為の反動に縛られることがない。

解説

 至高人格神から授けられた『バガヴァッド・ギーター』の教え通りに従う人は、その超越的知識のおかげで、あらゆる疑いを払いのけることができる。至高主の一部分としてクリシュナ意識に満ち溢れているその人は、すでに自己に関する知識を備えている。そのような人が行為からの束縛を超越していることは、確かな事実である。
tasmād ajñāna-sambhūtaṁ
hṛt-sthaṁ jñānāsinātmanaḥ
chittvainaṁ saṁśayaṁ yogam
ātiṣṭhottiṣṭha bhārata

訳語

翻訳

ゆえに、バーラタよ
無知ゆえ心に浮かぶ疑いを
知識の剣で斬り捨てよ。
ヨーガでしっかり身を固め
立ち上がって戦うのだ。

解説

 この章で説明されているヨーガ方法は、サナータナ・ヨーガ、すなわち「生物による永遠の活動」と呼ばれる。ヨーガには2種類の供養法がある。ひとつは自分の所有物を捧げる方法。そしてもうひとつは「自己を知る」という純粋な精神的活動である。いくら物質的な所有物を捧げても、それが精神的な悟りにつながるものでなければ、それは物質的な供養でしかない。しかし精神的な目的を持って、すなわち献身奉仕として捧げるのなら、完璧な供養となる。精神的な活動においても、やはりふたつの区別がある。自己の本性(または自己本来の立場)を知ることと、至高人格神に関する真実を知ることである。『バガヴァッド・ギーター』に書かれているとおりに従って歩む者は、このふたつの重要な精神的知識をとてもたやすく理解することができる。自分が至高主の一部分であるという完璧な知識を、難なく得ることができるのだ。そしてこれは主の超越的な活動を理解する上で非常に有益である。この章の初めで至高主自らが、その超越的な活動について語っておられる。ギーターの教えが理解できない人は信仰心のない人であり、主が与えてくださった一部分としての個別性を誤用している。このような教えがあるにもかかわらず、それでもまだ永遠で祝福に満ちた全能の至高人格神の本質が理解できない人は、愚か者の最たる者と呼ばれても仕方ないであろう。

 クリシュナ意識の原則を受け入れることによって、無知はしだいに薄れていく。神々にさまざまな供養をする、ブラフマンに供養を行う、独身生活を貫く、家庭生活の中で供養を行う、感覚を制御する、ヨーガの秘法を実践し苦行を行う、財産を捧げる、ヴェーダを学ぶ、ヴァルナーシュラマ・ダルマと呼ばれる社会制度に身を置く、これらの実践によって、クリシュナ意識は目覚めてくるのである。これらはどれも供養であり、すべて規定された行動が基盤となっている。そしてこれらすべての活動の中で最も大切なことは、自己を悟ることである。これを目的として努力する者は『バガヴァッド・ギーター』を真に学ぶ者といえるが、クリシュナという権威に疑いを抱く者は、もとの悪い状態に戻ってしまう。だからこそ『バガヴァッド・ギーター』やそのほかの経典を学ぶ際は、真正な精神指導者のもとで奉仕をし、身を委ねて学べと勧められているのだ。至高主の教えは何百万年も前に太陽神に受け継がれ、そこからこの『バガヴァッド・ギーター』の教えが地上に降りて来た。真正な精神指導者は太古の昔から続く師弟継承上にいて、この至高主自らの教えから決して逸れない。ゆえに、人は『バガヴァッド・ギーター』に書かれているとおりにその道を行くべきであり、自分を誇張し、人を正しい道から逸れさせようとする自分勝手な人間に、気を付けなくてはならない。主は間違いなく至高のお方であり、その行いはすべて超越的である。このことを理解する者は、『バガヴァッド・ギーター』を学び始めた時から、すでに解脱しているのである。
 以上、『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第4章「超越的知識」に関するバクティヴェーダンタの解説は終了。