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解説

第7章

特定の役割を担う、予定された主の化身

brahmovāca
yatrodyataḥ kṣiti-taloddharaṇāya bibhrat
krauḍīṁ tanuṁ sakala-yajña-mayīm anantaḥ
antar-mahārṇava upāgatam ādi-daityaṁ
taṁ daṁṣṭrayādrim iva vajra-dharo dadāra

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主ブラフマーは言った:無限の力を持つ主が、遊戯のひとつとしてガルボダカと呼ばれる宇宙の大海に沈んだ地球を持ち上げるためだけにイノシシの姿をとった際、最初の悪魔[ヒランニャークシャ]が現れ、主は彼を御自身の牙で突き刺された。

解説

 創造の初期より、悪魔と、そしてヴァイシュナヴァである神々、これら2種類の生命体が、宇宙の様々な惑星を支配しています。主ブラフマーは神々の中でも最初の存在であり、ヒランニャークシャはこの宇宙における最初の悪魔です。ある一定の状況下でのみ惑星は無重力の球のように空中に浮かんでおり、これらの状況が乱されれば、宇宙の半分を占めているガルボダカ海に落ちることもあります。もう半分は無数の惑星系がその中に存在する球形のドームになっています。無重力の空間の中で惑星が浮かんでいるのは、その惑星の内部構造によるもので、現代行われているような、地下から石油を採掘するために地球を掘削することは、私たちの時代に住む悪魔たちによる一種の撹乱であり、それは、地球の浮遊状態に悪影響をもたらす可能性があります。以前にもヒランニャークシャ(ゴールドラッシュの酷い搾取者)をはじめとする悪魔たちによって同じような撹乱を受け、地球は無重力の状態から逸(ルビ:そ)れてガルボダカ海に落ちてしまいました。主は、物質世界の全ての創造の維持者として、巨大なイノシシの姿をとり、同じように巨大なその鼻で地球をガルボダカの水から救い上げました。偉大なヴァイシュナヴァの詩人、シュリー・ジャヤデーヴァ・ゴスーヴァーミーは次のように歌っています。
vasati daśana-śikhare dharaṇī tava lagnā
śaśini kalaṅka-kaleva nimagnā
keśava dhṛta-śūkara-rūpa
jaya jagadīśa hare
「ケーシャヴァよ!イノシシの姿をおとりになった至高主よ!主よ!地球はあなたの牙の上に乗せられ、それはまるで影模様が浮かび上がる月のようでした。」
 それが主の化身の徴候です。主の化身は、想像で化身をでっちあげるような空想家の絵空事ではありません。主の化身は上に述べられたような、ある特別な状況下で現れ、そしてその化身は、人類の小さな脳では想像することすらできない任務を果たすのです。現代における数多くの安っぽい化身の創造者は、地球を持ち上げるのに適した鼻を持つ巨大なイノシシとして現れた主の実際の化身に目を向けるべきでしょう。
 地球を持ち上げるために主が現れた際、ヒランニャークシャという名の悪魔が主の計画していた使命の遂行を妨害しようとし、その結果として主の牙によって突き刺され、殺されたのです。シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーによると、主は自らの手を使って悪魔ヒランニャークシャを殺した、とあります。ですから彼の見解では主が自らの手で殺した後で、その悪魔は牙で突き刺されたということになります。シュリーラ・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティー・タークラもこの見解を支持しています。
jāto rucer ajanayat suyamān suyajña
ākūti-sūnur amarān atha dakṣiṇāyām
loka-trayasya mahatīm aharad yad ārtiṁ
svāyambhuvena manunā harir ity anūktaḥ

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プラジャーパティは、まず妻アークーティの胎内にスヤジュニャを授け、スヤジュニャは妻ダクシナーの胎内にスヤマを初めとする神々を授けた。インドラデーヴァとして、スヤジュニャは、3つの惑星系[上位、下位、中位]の非常に大きな苦悩を軽減することで、宇宙の苦しみを軽くしたため、後に人類の偉大なる父であるスヴァーヤンブヴァ・マヌによってハリと呼ばれるようになった。

解説

 空想的で、知識が劣った人々による権威のない神の化身の捏造を阻止するため、権威ある啓示経典には真正な化身の父親の名前もまた記されています。ですから権威ある経典にその父親の名前や出現した村、場所の名前が書かれていない者が、神の化身として認められることはありません。『バーガヴァタ・プラーナ』には今からおよそ40万年先に現れるとされているカルキという化身の名前が、父親の名前と、現れる村の名前と共に記載されています。ですから知性ある人は、権威づけられた経典に記載されていない低級な化身など受け入れたりしないのです。
jajñe ca kardama-gṛhe dvija devahūtyāṁ
strībhiḥ samaṁ navabhir ātma-gatiṁ sva-mātre
ūce yayātma-śamalaṁ guṇa-saṅga-paṅkam
asmin vidhūya kapilasya gatiṁ prapede

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その後主は、他の9人の女性[姉妹]とともに、プラジャーパティ・ブラーフマナであるカルダマと彼の妻デーヴァフーティの息子となって、化身カピラとして現れた。主は母親に自己の悟りについて語り、そのおかげで彼女はその生涯のうちに物質の泥を完全に洗い流し、それによってカピラが説いた道である解放を得た。

解説

 主カピラによる母デーヴァフーティーへの教えは『シュリーマド・バーガヴァタム』の3編(25〜32章)に詳しく説明されており、その指示に従った者は誰でもデーヴァフーティが得たものと同じ解放を得ることができます。主は『バガヴァッド・ギーター』を語り、それによってアルジュナは自己の悟りを得ました。そして現在でもアルジュナが歩んだ道に従う者は誰でもシュリー・アルジュナが得たものと同じ恩恵を得ることができます。経典はこの目的のためにあるのです。愚かで知性のない人は空想によって独自の解釈をすることで、従者を間違った方向に導きます。それが原因となって彼らは物質存在という監獄の中に居続けることになるのです。しかし、主クリシュナや主カピラが示してくださった教えに従うだけで、人は現在でも最も高い恩恵を得ることができるのです。
 アートマ・ガティムという言葉は至高主に関する完璧な知識という意味で重要です。人は主と生命体が質的には同じであることを知っただけで満足してはなりません。私たちの限られた知識で理解できる限界まで主を知るべきです。主をあるがままに完全に知ることは、シヴァやブラフマーのような解放された者にでさえ不可能なのですから、他の神々やこの世界の人々は言うまでもありません。しかし、偉大な献身者の原則と経典から得られる教えに従うことで、人は主の特徴をある程度まで知ることができます。主の化身である主カピラは、主の人格を備えた姿についてご自身の母親に余すことなく説明し、それによって彼女は主の姿を悟り、ヴァイクンタローカの中の主カピラが支配する場所へ達することができました。主の化身はそれぞれ、精神世界の中に自分の住処をお持ちです。ですから、主カピラも自分のヴァイクンタ惑星を別に持っていらっしゃいます。精神世界は無ではありません。ヴァイクンタ惑星は無数に存在し、主は自身の無数の拡張体を通して各惑星を支配し、そこに暮らす純粋な献身者たちも主や主の永遠なる交際者と同じように生活しています。
主が自分自身、またはご自身の完全拡張体によって降誕なさる際、それらの化身はアンサ、カラー、グナ、ユガ、そしてマンヴァンタラ化身と呼ばれ、主の指示によって主の交際者が降誕なさる時、そのような化身はシャクテャーヴェーシャ化身と呼ばれます。しかし、どの場合においても、全ての化身は権威ある経典の確固たる叙述によって裏付けられているのであって、どこかの利己的な布教者の空想によるものではありません。前述のどの化身に分類されようと、主のこれらの化身は至高人格神が常に究極の真実である、と宣言しています。至高なる真理の非人格的な概念というのは、至高真理のありふれた概念から主の姿を否定する方法にすぎないのです。
 生命体は本来、主と同じように精神的な存在です。唯一の違いというのは主は物質自然の様式による汚れが一切なく、常に至高で純粋であるのに対して、生命体は徳、激情、無知の物質様式との関わりのため汚れる傾向を持つということです。物質様式によるこの汚れは知識、放棄、そして献身奉仕によって完全に洗い流すことができます。主への献身奉仕が究極の課題であり、それゆえ主への献身奉仕に直接従事している者は『バガヴァッド・ギーター』(14-26) に書かれているように、精神科学において必要な知識を得るだけではなく、物質的な繋がりからの放棄を手に入れ、結果として完全なる解放によって神の王国に高められるのです。
māṁ ca yo ’vyabhicāreṇa
bhakti-yogena sevate
sa guṇān samatītyaitān
brahma-bhūyāya kalpate
 まだ解放されていない段階でも、生命体は人格神である主クリシュナや、主の完全拡張体であるラーマやナラシンハへの超越的な愛情奉仕に直接従事することができます。ゆえに、そのような超越的献身奉仕の発展に応じて、献身者はブラフマー・ガティム、またはアートマ・ガティムまで確実な進歩を遂げ、最終的にはカピラシャ・ガティム、すなわち主の住処を難なく手に入れます。主への献身奉仕にはとても強い殺菌作用があるため、献身者の現在の人生においてでさえ物質的感染を防ぐことができます。献身者は完全な解放を得るために、次の誕生まで待つ必要はないのです。
atrer apatyam abhikāṅkṣata āha tuṣṭo
datto mayāham iti yad bhagavān sa dattaḥ
yat-pāda-paṅkaja-parāga-pavitra-dehā
yogarddhim āpur ubhayīṁ yadu-haihayādyāḥ

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偉大な聖者アトリは子孫を授かるために祈り、彼に満足した主はアトリの息子、ダッタートゥレヤ[アトリの息子であるダッタ]として化身することを約束なさった。そして主の蓮華の御足の恩恵によって、多くのヤドゥやハイハヤ等がとても浄化され、物質的、そして精神的の両方の恩恵を手に入れた。

解説

 人格神と生命体の間にある超越的な関係は、5種類の愛情関係において永遠に確立されていて、それらはシャーンタ、ダースャ、サキャ、ヴァーツァリャ、マードゥリャとして知られています。聖者アトリと主は愛情あるヴァーツァリャの関係で繋がっており、したがって、彼の献身の完成の結果として、人格神を息子として授かりたいと望みました。主は彼の祈りを受け入れ、御自身をアトリの息子としてお与えになりました。主と主の純粋な献身者が親子関係で結ばれた実例を、多く挙げることができます。主は無限であるため、主の父親となる献身者もまた無限に存在します。事実上、主は全ての生命体の父なのですが、献身者との超越的な愛情によって、主は誰かの父親になるよりも献身者の息子になることに、より大きな喜びを得ます。実際には父が息子に仕えるのに対して、息子は父から様々なものをねだるだけです。ですから、常に主に仕えたいと願っている純粋な献身者は主を父親としてではなく、息子として手に入れたいと望みます。主も献身者からのこのような奉仕を受け入れ、それがゆえに献身者は主ご自身以上の存在となります。非人格主義者たちは至高主と融合することを望みますが、献身者は最も偉大な一元論者の望みさえも超えて、主よりも高い位置を手に入れます。主の両親やその他の親族は主との親密な関係によって自ずと神秘的な全ての富を得るのです。そのような富はあらゆる物質的楽しみ、解脱、神秘的な力を全て含みます。ですから、主の献身者は自分の人生の貴重な時間を無駄にしてまで、それらを別々に追い求めたりしません。人生の貴重な時間というのは全て、主への超越的な愛情奉仕に注がれるべきです。そうすれば他の望ましい結果は自ずと手に入ります。しかしこのような結果を手に入れたとしても、献身者の御足への侮辱という落とし穴に落ちないよう、常に気をつける必要があります。この顕著な例がハイハヤです。彼は献身奉仕であらゆる完成を得たのですが、献身者の御足を侮辱したため、主パラシュラーマによって殺されました。主は偉大な聖者アトリの息子となり、ダッタートゥレヤとして知られることになりました。
taptaṁ tapo vividha-loka-sisṛkṣayā me
ādau sanāt sva-tapasaḥ sa catuḥ-sano ’bhūt
prāk-kalpa-samplava-vinaṣṭam ihātma-tattvaṁ
samyag jagāda munayo yad acakṣatātman

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あらゆる惑星系を創造するため、私は様々な禁欲生活に耐え、苦行を行わなければならなかった。そして私に満足したゆえに、主は4人のサナ[サナカ、サナット・クマーラ、サナンダナとサナータナ]として化身なさった。前創造の際に精神的な真実は失われたが、4人のサナたちが丁寧に説明をしたため、聖者たちはすぐに真実を明確に理解した。

解説

 『ヴイシュヌ・サハスラ・ナーマ』の祈りのなかで「サナット」と「サナータマ・タマ」という主の名前が挙げられています。主と生命体は両者とも質的にサナータナ、つまり永遠ですが、主はサナータマ・タマ、つまり最上級に永遠です。生命体は確かにサナータナですが、非永遠性の領域に落ちる可能性も持ち合わせているため、最上級ではありません。したがって、生命体は最上級のサナータナである主とは量的に違うのです。
 サンという言葉は施しの意味でも使われます。つまり全てが主への施しとして捧げられると、主は自身を明け渡すことで献身者に報います。このことは『バガヴァッド・ギーター 』(4.11) ye yathā māṁ prapadyante でも確証されています。ブラフマージーは前創造期の時のように全宇宙状態を創造することを望み、また前回の破壊の際に絶対真実についての知識が宇宙から完全に消されたため、その同じ知識が再び普及されることを望みました。でなければ、創造は無意味だからです。超越的な真実は最重要であるため、常に束縛された魂には各創造期に解放の機会が与えられます。ブラフマージーの使命は、4人のサナたち、すなわち、サナカ、サナット・クマーラ、サナンダナ、サナータナがブラフマージーの4人の息子として現れた際、主の恩恵を通して全うされました。これら4人のサナたちは、至高主の知識の化身であったため超越的な知識をわかりやすく説明し、聖者たちは難なく直ちにこの知識を吸収することができました。4人のクマーラたちの足跡に従う者は、自身の内に至高人格神を見ることができるのです。
dharmasya dakṣa-duhitary ajaniṣṭa mūrtyāṁ
nārāyaṇo nara iti sva-tapaḥ-prabhāvaḥ
dṛṣṭvātmano bhagavato niyamāvalopaṁ
devyas tv anaṅga-pṛtanā ghaṭituṁ na śekuḥ

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自身の禁欲生活と苦行の方法を示すため、主はダルマの妻であり、ダクシャの娘であるムールティの胎内の中に、ナーラーヤナとナラとして双子の姿でお現れになった。キューピッドの仲間である天空の美女たちは、主の誓いを破らせようと試みたが失敗した。なぜなら、自分たちと同じように美しい者たちが、主ご自身から生まれ出るのを目にしたからである。

解説

 主は存在するもの全ての根源であるため、あらゆる禁欲生活や苦行の源でもあります。聖者たちは自己の悟りで成功を収めるため、厳しい苦行の誓いを立てます。人間生活はそのようなタマスャ、つまり独身を固く誓うブラフマチャリャの生活をするためにあります。タパスャという厳格な生活において、女性との交流は許されません。人間生活はタパスャ、すなわち自己を悟るためにあります。4つの社会階級と生活段階からなるサナータナ・ダルマ制度が提唱する真の人間文明は、人生の3つの段階で女性との交流を厳しく禁じています。段階的な文化的発展において、人生は独身生活、世帯生活、隠居生活、放棄生活という4つの区分に分けられます。25歳になるまでの人生の最初の段階で、男性はブラフマチャリャとして、真正な精神指導者の指導のもと、物質存在において女性が真の拘束力であることをただ理解するために教育を受けます。束縛された人生の物質的束縛から自由になりたい者は、女性の姿に魅了されることから自由にならなければなりません。女性、つまり美しい性は生命体にとって魅力の原理であり、男性の姿(特に人間において)は自己の悟りのためにあります。全世界が女性の魅力で動かされており、男性は女性と結ばれた瞬間、固く結ばれた物質的束縛の犠牲者となります。誤った支配権に酔いしれ、物質世界を支配しようとする欲望は、特に男性が女性とひとつになった直後に始まります。家を手に入れること、土地を保有すること、子どもを授かること、そして社会で地位を得ることに対する欲望や、生まれた場所とその地域社会への愛着、そして富の渇望はどれも全て幻影、または幻想的な夢のようなものにすぎないのです。そして、これらが人間をわずらわせ、これにより人々の人生の真の目的である自己の悟りへの発展が妨げられるのです。特に高い社会階級、つまり知識階級の両親(ブラーフマナ)、管理階級の両親(クシャトリヤ)、商業従事者の両親(ヴァイシャ)の間に生まれたブラフマチャーリー、つまり5歳以上の少年は、真正なグル(師匠)のもと、25歳まで教育を受けます。そして厳格に規則を守り、生計を立てるための具体的な教育を受けるのと同時に、人生の価値を理解します。その後ブラフマチャーリーは家に帰り、世帯生活に入ってふさわしい女性と結婚することが許されます。しかし多くのブラフマーチャーリーは世帯者になるために家に帰るのではなく、女性との繋がりを一切持たないナイスティカ・ブラフマーチャーリーとして生活を続けます。彼らは女性との交わりが自己の悟りを妨げる不必要な重荷だという理解のもと、サンニャーサの階級、つまり放棄階級を受け入れます。人生のある特定の段階で性欲は非常に強いため、グルはナイスティカ・ブラフマーチャーリーの道を続けることのできないブラフマチャーリーに結婚する資格を与えますが、この判断をすることができるのは、真正なグルのみです。いわゆる家族計画のプログラムが必要なのです。ブラフマチャリャとして徹底的な修練を経て、経典に定められている規定に則って女性と交際する世帯者は、猫や犬のような世帯者になることはありません。そのような世帯者は50歳を過ぎた頃、ヴァーナプラスタとして女性との交際から離れ、女性との関係を持たずに一人で生活する術を身につけます。この修練が完了すると家族と離れた世帯者は、結婚した妻をも含む女性たちから離れてサンニヤーシーとなります。女性との交流を避けるこの仕組み全体を考察すると、女性は自己の悟りの妨げであるのがわかります。そして人生を通じて、誓いとともに女性との関わりを断ち切る原理を教えるため、主はナーラーヤナとして現れたのです。厳格なブラフマチャーリーたちの禁欲的な生活に嫉妬した神々は、彼らの誓いを破らせるためキューピッドの兵士を送り込みました。しかし主においては、主自身が自らの神秘的な内的エネルギーを使って、同様の美しい人々を無限に作ることが可能であり、他の者たちによって魅了される必要などないのです。このことを天空の美女たちが理解したため、試みは失敗に終わりました。 菓子屋は決して菓子に魅了されないという有名なことわざがあります。いつもお菓子を作っている菓子屋は、それらの菓子を食べたいとはあまり思いません。同じように、主は自身の喜びの力によって無限なる精神的な美女を作ることができ、物質創造の偽りの美しさにはまったく魅了されません。これを知らない者は、主クリシュナはヴリンダーヴァナのラーサ・リーラーで女性たちを楽しんだ、ドヴァーラカーで1万6千の妃たちと楽しんだ、などと愚かにも主張するのです。
kāmaṁ dahanti kṛtino nanu roṣa-dṛṣṭyā
roṣaṁ dahantam uta te na dahanty asahyam
so ’yaṁ yad antaram alaṁ praviśan bibheti
kāmaḥ kathaṁ nu punar asya manaḥ śrayeta

訳語

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主シヴァのような偉大な猛者たちは怒りの一瞥で情欲を克服し、征服することができるが、自身の怒りの圧倒的な影響から自由になることはできない。これら全てを超越した主の心にそのような怒りが入ることは決してない。ならば情欲など主の心に宿ることなどできるだろうか?

解説

 主シヴァがとても厳格な瞑想を行っていた際、情欲を司る神のキューピッドが性欲の矢を放ちました。彼に激怒した主シヴァは怒りに満ちた目でキューピッドを一瞥し、一瞬にしてキューピッドの体が消滅しました。主シヴァはとても強い力を持っているのにもかかわらず、そのような怒りの影響から自由になることはできませんでした。しかし主ヴィシュヌの行動には、そのような怒りは決して見られません。むしろ、ブリグ・ムニがわざと主の胸を蹴り、主の寛容さを確かめようとしたとき、主は怒るどころか、自身の胸が硬すぎて彼が足をひどく痛めたのではないかと考え、ブリグ・ムニにゆるしを求めたほどです。寛容の証として、主にはブリグ・パーダという(ブリグの)足の跡がついています。主はどんな怒りにも決して影響されないのですから、怒りよりも弱い力を持つ情欲が生じる余地などあるはずがありません。情欲や欲望が満たされない場合に怒りが現れますが、怒りが存在しないのであれば、情欲などどうして生じることがあるでしょうか?主はアープタ・カーマ、すなわち自ら自身の望みを満たす者として知られています。主は自身の望みを叶えるために他の誰かの助けを借りる必要はありません。主は無限であり、したがって、主の望みも無限です。主以外のあらゆる生命体は全てにおいて限界があります。ならば限られた者に無限なるお方の望みを満たすことなどできるでしょうか?結論として、絶対人格神には情欲も怒りもなく、時に絶対者が情欲や怒りをあらわにしたとしても、それは絶対的な恩恵として捉えられるべきです。
viddhaḥ sapatny-udita-patribhir anti rājño
bālo ’pi sann upagatas tapase vanāni
tasmā adād dhruva-gatiṁ gṛṇate prasanno
divyāḥ stuvanti munayo yad upary-adhastāt

訳語

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(王がそこにいたにも関わらず)王の二人目の妻が放った厳しい言葉に侮辱されたドゥルヴァ王子は、まだ幼い少年であったが、森へ行き厳しい苦行を行った。そして彼の祈りに満足した主は、高位や低位の偉大なる聖者たちによって崇められるドゥルヴァ惑星を彼にお与えになった。

解説

 偉大な献身者であり、マハーラージャ・ウッターナパダの息子であるドゥルヴァ王子は、まだ5歳の頃、自身の父親の膝の上に座っていました。彼の継母は、王が彼女の継子を撫でているのが気に入らず、彼を引きずり下ろし、自分のお腹から生まれていない子供は、王の膝に座る資格などないと言い渡しました。幼い少年は自分の継母の行動に侮辱されたと感じました。また、父親も二人目の妻に愛着を持ちすぎていたために、何も反論しなかったのです。このあとで、ドゥルヴァ王子は自身の母親の元に行き、不満を訴えました。実の母親もこのような侮辱的な振る舞いに対してどうすることもできず、涙を流しました。少年は母親にどうすれば父の王座に座ることができるのか問いかけたところ、哀れな后は、助けられるのは主だけであると答えました。どこで主を見つけることができるのか、という少年の問いかけに、偉大なる聖者たちは時に深い森の中で主を見ると言われている、と后は答えました。そして幼い王子は目的を達成するため、森へ行き、厳しい苦行を行うことに決めたのです。
 ドゥルヴァ王子は、人格神によって、この目的のために特別に送られた精神指導者、シュリー・ナーラダ・ムニの指導のもと、厳しい種類の苦行を行いました。ドゥルヴァ王子は18文字から成る祈り、oṁ namo bhagavate vāsudevāyaをナーラダから授かり、主ヴァースデーヴァは4本腕を持つ人格神、プリシュニガルバとして化身し、7つの星よりも上に位置する特定の惑星を王子にお授けになりました。ドゥルヴァ王子は苦行において成功を収めたあと、主に直接会い、そして自分の望みが全て叶ったことに満足しました。
 ドゥルヴァ・マハーラージャ王子に授けられた惑星は不動のヴァイクンタ惑星であり、至高主ヴァースデーヴァのご意志によって物質世界に配置されたものです。この惑星は物質世界に存在していますが、破滅の際も破壊されることなくその場所にあり続けます。そしてそれは決して破壊されることのないヴァイクンタ惑星であるため、ドゥルヴァ惑星の下に位置する7つの星の住人だけではなく、ドゥルヴァ惑星の上に位置する惑星の住人たちにも崇拝されています。マハリシ・ブリグの惑星はドゥルヴァ惑星の上に位置しています。
 このように主の純粋な献身者を満足させるためだけに、主は自身をプリシュニガルバとして化身なさいました。そしてドゥルヴァ王子はもう一人の純粋な献身者であるナーラダに入門を授かった後、上で述べられている祈りを唱えただけで、完成に達しました。したがって、真剣な者は純粋な献身者に導かれさえすれば、主に直接会うという最も崇高な完成に達し、目的を果たすことができるのです。そして純粋な献身者がどんなことをしてでも主にお会いしようとする強い決意があれば、主は自ら姿を現してくれます。
 ドゥルヴァ王子の活動の詳細は『シュリーマド・バーガヴァタム』の4編で詳しく読むことができます。
yad venam utpatha-gataṁ dvija-vākya-vajra-
niṣpluṣṭa-pauruṣa-bhagaṁ niraye patantam
trātvārthito jagati putra-padaṁ ca lebhe
dugdhā vasūni vasudhā sakalāni yena

訳語

翻訳

マハーラージャ・ヴェーナは正義の道から逸れ、ブラーフマナたちは彼を稲妻の呪いで厳しく罰した。これによりヴェーナ王は自身の善行と富と共に焼き尽くされ、地獄へと送られた。主はいわれなき慈悲によって、彼の息子プリトゥとして降誕し、罰を受けたヴェーナ王を地獄から救い、農産物としてあらゆる種類の作物を生産することで、土地を利用した。

解説

 ヴァルナーシュラマ・ダルマ制度によると、敬虔で学識あるブラーフマナたちが、社会を守る役目を自然と担っていました。ブラーフマナたちは自らの知識をもって献身的に仕えることで、管理職である王たちに、完全に公正な国の治め方を教え、そのために国家は完璧な福祉国家に発展していったのです。王やクシャトリヤの管理者たちは学識あるブラーフマナたちと行政について必ず相談し、したがって彼らは、決して独裁的な君主ではなかったのです。『マヌ・サンヒター』のような経典や、偉大な聖者による他の権威ある書物は国民を治めるための指導原則であり、より知性の低い人々は民主主義の名のもとに法典を作る必要はなかったのです。子どもが将来の安泰についてあまり知らないと同じように、より知識の乏しい大衆は自分の幸せについてわずかな知識しか持ち合わせていません。経験豊かな父親は無垢な子供を進歩の道へ導きますが、それと同じように、子供のような大衆には同様の指導が必要なのです。基本的な幸福の規則はすでに『マヌ・サンヒター』やその他のヴェーダ経典に述べられています。学識あるブラーフマナたちは、知識の基準となる書物に基づき、その特定の時と場所に応じて王に助言します。そのようなブラーフマナたちは賃金を得て王に仕える使用人ではなかったため、経典に基づいて王に指示する力を持っていました。この制度はマハーラージャ・チャンドラグプタの時まで続き、彼の総理大臣であったブラーフマナ・チャーナキャは、無給で彼に仕えていました。
 マハーラージャ・ヴェーナはこのような統治の原則を破り、学識あるブラーフマナたちに逆らいました。寛大なブラフマーたちは自分のことではなく、全ての民の大いなる幸せのことを考えていました。彼らは、ヴェーナ王の間違った行いのために彼を罰することを望み、そして全能の主に祈り、王に呪いをかけました。
 偉大なる魂に服従しないという行為によって、長寿、従順さ、良い評判、正義、高位の惑星へと高められる可能性、そして偉大な者たちからの祝福といった全てのものが、打ち消されてしまいます。人々は偉大な魂の足跡に厳格に従う努力をしなくてはなりません。マハーラージャー・ヴェーナは確かに過去の正しい行いによって王になりましたが、偉大な魂を故意にないがしろにしたため、上記のような、自らが備えていた全てのものを奪われ罰せらました。『ヴァーマナ・プラーナ』ではマハーラージャ・ヴェーナの歴史と彼の堕落について細かく描写されています。マハーラージャ・プリトゥはムレッチャの家族に生まれ、らい病に苦しめられている父親であるヴェーナが置かれている地獄のような状況について聞くとすぐに前王を浄化のためにクルクシェートラへ連れ戻し、彼を全ての苦しみから解放されました。
 神の化身であるマハーラージャ・プリトゥはブラーフマナたちの祈りによって、地上の無秩序を正すために降誕しました。主はあらゆる種類の作物を生産しました。しかし同時に父親を地獄のような状況から解放するという、息子としての義務も果たしました。プトゥラという言葉はプトゥ、つまり地獄から解放する者という意味です。これこそが、立派な息子というものです。
nābher asāv ṛṣabha āsa sudevi-sūnur
yo vai cacāra sama-dṛg jaḍa-yoga-caryām
yat pāramahaṁsyam ṛṣayaḥ padam āmananti
svasthaḥ praśānta-karaṇaḥ parimukta-saṅgaḥ

訳語

翻訳

主はナービ王の妻、スデヴィーの息子として現れ、リシャバデーヴァとして知られた。主は平常心を保つために物質的なヨーガを実践した。この段階もまた解放の最も高い完成の状況とみなされ、この段階において人は自己に立脚し、完璧に満たされる。

解説

 自己の悟りを得るための数ある神秘的な修行のなかで、ジャダ・ヨーガもまた、権威ある方法の一つです。このジャダ・ヨーガでは無口な石のようになり、物質的反動に影響されないよう修練する必要があります。石が外側からどのような攻撃を何度受けても全く反応しないのと同じように、肉体に与えられる苦痛を進んで耐えることによってジャダ・ヨーガを修練するのです。そのようなヨーギーたちは自ら苦痛を与えるための数ある方法の中でも、剃ったり、また他の道具を使ったりせずに頭の毛を引き抜く修練をします。しかしこのようなジャダ・ヨーガの修練の真の目的は、あらゆる物質的執着から解放され、自身に完全に立脚することです。生涯の最終段階において、リシャバデーヴァ皇帝は自分の体に対するひどい扱いにも、全く動じることはなく、口の聞けない狂人のようにさまよい歩きました。長い髪と長い髭を伸ばし、全裸でさまよい歩く狂人のような主を見て、街にいる知性の低い子どもや男性たちは主に唾を吐いたり、尿をかけたりしました。主は自身が排便した汚物の上に横たわり、身動き一つしませんでした。しかし主の体から排出された便は香り高い花のように芳しく、聖なる人ならすぐに彼がパラマハンサ、人間の完成において最も高い段階にいる者だと分かりました。自分の排便を香り高くすることのできない者は、決して、リシャバデーヴァの真似をしてはなりません。ジャダ・ヨーガの修練はリシャバデーヴァや、完成の同じ段階にいる他の者には可能ですが、普通の人間にとってこのような特異な修練は不可能です。
 この節で述べられているように、ジャダ・ヨーガの真の目的はプラシャーンタ・カラナー、つまり感覚を制御することです。ヨーガの過程は、それがどんな部類のものであっても、抑えの効かない物質的な感覚を制御し、そうすることで自己の悟りの準備をするためのものです。特にこの時代において、ジャダ・ヨーガは実用的な価値がありませんが、バクティ・ヨーガの修練はこの時代にちょうど適しているため、簡単に行えます。正しい情報源、『シュリーマド・バーガヴァタム』から聞くという簡単な方法が、ヨーガの最も高く完全な段階に私たちを導いてくれます。リシャバデーヴァはナービ王の息子、アーグニードゥラ王の孫であり、バラタ王の父親でした。そしてそのバラタ王に由来して、この地球はバーラタ・ヴァルシャと呼ばれていました。リシャバデーヴァの母親はここではスデヴィーと記されていますが、彼女はメルデヴィーとしても知られています。時々スデヴィーはナービ王のもう一人の妻だと言われますが、別の場所でリシャバデーヴァはメルデヴィーの息子であると明記されているため、メルデヴィーとスデヴィーは同じ人物の異なる名前だというのが明らかです。
satre mamāsa bhagavān haya-śīraṣātho
sākṣāt sa yajña-puruṣas tapanīya-varṇaḥ
chandomayo makhamayo ’khila-devatātmā
vāco babhūvur uśatīḥ śvasato ’sya nastaḥ

訳語

翻訳

私[ブラフマー]が執り行っていた供犠の最中、主はハヤグリーヴァ化身としてお現れになった。主は供犠の権化であり、主のお体は黄金色である。また主はヴェーダの権化でもあり、全ての神々の精神的な魂である。主が呼吸した際、ヴェーダ賛歌の美しい音が主の鼻孔から発せられた。

解説

 一般的にヴェーダ賛歌は、果報を求める者が成果を得るため、神々を満足させることを目的に行う儀式です。しかし主は供犠、そしてヴェーダ賛歌の権化です。したがって、主に直接、献身奉仕をする者は、自動的に供犠の目的を果たし、神々を満足させています。主の献身者はヴェーダの規則に従って供犠を行ったり、神々を満足させることはしないかもしれませんが、それでも果報を求める者や、あらゆる神々の崇拝者よりも高い立場にいるのです。
matsyo yugānta-samaye manunopalabdhaḥ
kṣoṇīmayo nikhila-jīva-nikāya-ketaḥ
visraṁsitān uru-bhaye salile mukhān me
ādāya tatra vijahāra ha veda-mārgān

訳語

翻訳

創造期の終わり、後にヴァイヴァスヴァタ・マヌとなるサッティヤヴラタは、魚の化身として現れた主が中位の惑星までに至るあらゆる生命体の保護者であるのを見る。創造期の終わりに起きる洪水による膨大な水を私が恐れたので、私[ブラフマー]の口からヴェーダが飛び出し、主はその果てしなく広がる水を楽しみ、ヴェーダをお守りになる。

解説

 ブラフマーの1日の間に14のマヌが存在し、各マヌの最後には中位の惑星までの破壊が起こり、その膨大な量の水はブラフマーにとっても恐ろしいものです。こうして後にヴァイヴァスヴァタ・マヌとなる者の統治の初期でも、彼はそのような破壊を目撃します。有名なシャンカースラの退治など、数多くの出来事も起こります。これらの予言はブラフマージーの過去の経験によるものであり、彼は破壊の恐ろしい光景を目の当たりにすればヴェーダが自分の口から出てしまうのを知っていましたが、主は魚の化身として全ての生命体、すなわち神々、動物、人間、そして偉大な聖者だけではなく、ヴェーダをもお守りになるのです。
kṣīrodadhāv amara-dānava-yūthapānām
unmathnatām amṛta-labdhaya ādi-devaḥ
pṛṣṭhena kacchapa-vapur vidadhāra gotraṁ
nidrākṣaṇo ’dri-parivarta-kaṣāṇa-kaṇḍūḥ

訳語

翻訳

攪拌棒として使われていたマンダラ山を乗せる場所[旋回軸]となるため、根源の主は、亀の化身の姿をおとりになった。神々と悪魔たちは甘露を抽出するため、マンダラ山を使ってミルクの海を攪拌していた。山は前後に動いて、眠りに落ちながら痒みを感じていた亀の主の背中を掻いた。

解説

私たちには見えませんが、この宇宙にはミルクの海が存在します。現代の科学者でさえも、頭上には何百、何十万もの惑星が浮かんでおり、各惑星には異なる環境があると認めています。『シュリーマド・バーガヴァタム』が提示する多くの情報は、私たちが持つ現在の経験とは一致しないかもしれません。しかしインドの聖者たちに関する限り、知識はヴェーダ文献から得られるものであり、私たちは真正な知識の書物(シャーストラ・チャクスルヴァト)に目を通すべきだと、権威ある者はためらうことなく認めています。ですから私たちは宇宙に浮かんでいる惑星を全て実際の目で見ない限り、『シュリーマド・バーガヴァタム』に述べられているミルクの海の存在を否定することはできません。そのような実験は不可能なため、言うまでもなく私たちは『シュリーマド・バーガヴァタム』の言葉をありのままに受け止めなくてはなりません。なぜならそれはシュリーダラ・スヴァーミー、ジーヴァ・ゴースヴァーミー、ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティーや他の精神の師によって権威あるものとして認められているからです。偉大な権威の足跡に従うことがヴェーダ式の方法であり、想像の範囲を超えるものを理解するための唯一の方法です。
 根源の主は全能であるため、何事もご自分の思いのままにすることができます。ですから主が特定の目的を果たすために、亀や魚の化身の姿ををおとりになるのは決して驚くべきことではありません。ですから、私たちは『シュリーマド・バーガヴァタム』のような真正な経典の言葉をためらうことなく受け入れなくてはなりません。
神々と悪魔たちが力を合わせて取り組んだミルクの海の攪拌という大事業は、巨大なマンダラ山を置く巨大な場所、つまり旋回軸を必要としました。したがって神々の試みを手助けするため、根源の主はミルクの海を泳ぐ巨大な亀の化身の姿をおとりになりました。同時に、その山はまどろむ主の背骨を掻き、主の痒みを和らげました。
trai-piṣṭaporu-bhaya-hā sa nṛsiṁha-rūpaṁ
kṛtvā bhramad-bhrukuṭi-daṁṣṭra-karāla-vaktram
daityendram āśu gadayābhipatantam ārād
ūrau nipātya vidadāra nakhaiḥ sphurantam

訳語

翻訳

 神々の大きな恐れを取り除くため、人格神はナラシンハ化身の姿をおとりになった。主は、棍棒を手に戦いを挑んできた悪魔の王[ヒラニヤカシプ]を御自身の大腿の上に乗せて、怒りで眉を激しく動かし、口を開き恐ろしい歯をむき出しにしながら、爪を突き刺して殺した。

解説

ヒラニヤカシプと偉大な献身者であった彼の息子、プラフラーダ・マハーラージャの歴史は『シュリーマド・バーガヴァタム』の7編で語られています。ヒラニヤカシプは物質的成果によって偉大な力を持つようになり、ブラフマーの恩恵によって自分は不死身であると思い込んでいました。ブラフマージーは自身も不死身ではないため、不死の恩恵を彼に与えることを断りました。しかしヒラニヤカシプは不死身にほぼ近い存在になれるよう、ブラフマージーの恩恵をうまく引き出しだのです。ヒラニヤカシプは、どんな人間や神々にも、また通常のどんな種類の武器によっても殺されないことを、そして昼にも夜にも死ぬことはないことを確信していました。しかし主はヒラニヤカシプのような物質的な悪魔の想像を絶する半人半獅子の化身の姿をとり、ブラフマージーの恩恵を破ることなく悪魔を殺しました。ヒラニヤカシプは、主に膝の上で殺されることによって、地上でも水上でも空中でもないところで、殺されたのです。悪魔はナラシンハの爪によって突き刺され、それはヒラニャカシプが想像できる人間の武器を超えるものでした。ヒラニヤカシプの文字通りの意味は、物質的な人間の究極的な目的である「黄金で柔らかい寝具を求める者」という意味です。神との関係を持たないそのような悪魔的な人間は、物質的な成果につけあがり、至高主の権限に挑んだり、主の献身者である者を苦しめるようになります。プラフラーダ・マハーラージャはヒラニヤカシプの息子に生まれ、そして彼は偉大な献身者であったため、彼の父親は可能な限りを尽くして彼を苦しめました。彼の苦境を見た主はナラシンハデーヴァの化身の姿をとり、神々の敵を倒すためだけに、悪魔が想像もできない方法でヒラニヤカシプを殺しました。神を信じない悪魔たちの物質的な計画は、全能なる主によって、必ず失敗に終わるのです。
antaḥ-sarasy uru-balena pade gṛhīto
grāheṇa yūtha-patir ambuja-hasta ārtaḥ
āhedam ādi-puruṣākhila-loka-nātha
tīrtha-śravaḥ śravaṇa-maṅgala-nāmadheya

訳語

翻訳

川で強力なワニに足を襲われた象の長は非常に苦しんでいた。鼻に蓮華の花をもち、彼は主に呼びかけた。「根源の享受者よ、宇宙の主よ!巡礼の地のごとく名高く、解放を授けるお方よ!唱えるに相応しいあなたの聖なる御名をただ聞くだけで皆、浄化されるのです。」

解説

 川の中ではより力の強いワニによって足を襲われた象の長を救った出来事は『シュリーマド・バーガヴァタム』の8編で語られています。主は絶対的知識であるため、主の聖なる御名と主の人格には何の違いもありません。象の長はワニに襲われた際、とても苦しんでいました。象のほうがワニよりも強いのが常ですが、水の中では、ワニがより強い力を持ちます。そしてその象は前世で主の偉大な献身者であったため、過去の善行のおかげで主の聖なる御名を唱えることができました。どの生命体も、この物質界で常に苦しんでいますが、それは、この場所が、何らかの困難に絶えず遭遇せざるを得ない場所だからです。しかし『バガヴァッド・ギーター 』(7−16)で述べられているように、過去の善行に支えられた者は主への献身奉仕に従事します。不敬虔な行いに支えられている者は、苦しんでいたとしても主への献身奉仕に従事することができません。このことも『バガヴァッド・ギーター 』(7−15)で確証されています。人格神ハリはすぐさま永遠の使いであるガルダの背中に乗って現れ、象をお救いになりました。
 象は、自分と至高主の関係を知っており、主をアーディ・プルシャ、根源の享受者と呼びました。主も生命体も意識を持つという理由から喜びの享受者ではありますが、主は全ての創造者であるため、根源の享受者なのです。家族の中で父親も息子も間違いなく喜びの享受者ですが、父親が根源の享受者であり、息子たちは父に次ぐ享受者です。純粋な献身者は、宇宙にある全てのものが主の所有物であり、生命体は主に与えらえたものしか楽しめないことをよく知っています。生命体は自分に分け与えられていない物に触れることすらできません。根源の享受者の概念は『イーショパニシャッド』でわかりやすく説明されています。主と自分との違いを理解している者は、まず最初に主に捧げることなしに何かを受け取ることは決してありません。
 象は主のことをアキーラ・ロカ・ナータ、宇宙の主と呼んでいます。つまり象の主(ルビ:あるじ)でもあります。象は、主の純粋な献身者であることから、特にワニの攻撃から救われるべきですし、また主の献身者は決して打ち負かされることがないと約束されているため、象が主に守ってくれるよう呼びかけたのも、慈悲深い主がすぐそれに応じたのも、もっともなことです。主は全てを守るお方ですが、主の優位性を否定したり主と同等であると主張して偽のプライドに浸っている者よりも、主の優位性を認めている者をまずお守りになります。主は常に優位にあるお方なのです。主の純粋な献身者は、主と自身のこの違いを理解しています。純粋な献身者は完全に身を委ねているため、最優先に守られ、反対に主の存在を否定して自身を主と名乗る者はアスラと呼ばれ、彼らは、主の許可のもとでしか機能しない、限られた力によって保護されています。主は誰よりも優位であるため、主の完璧さも優位であり、それは、誰の想像をも超えたものなのです。
 象は主をティールタ・シュラヴァハ、「巡礼地のごとく名高いお方」と呼びかけています。人々は自覚のない罪な行いの反動から救われるため、巡礼の地に行きます。しかし主の聖なる御名を思うだけで人はあらゆる罪の反動から解放されます。ですから主は巡礼の聖地と同じようにすばらしいのです。人は巡礼の地にたどり着いてからあらゆる罪の反動から解放されることができますが、家や他の場所で主の聖なる御名を唱えるだけで同じ恩恵が得られるのです。純粋な献身者は聖地巡礼に行く必要がありません。真剣に主を思うだけで、あらゆる罪の行いから解放されることができるのです。主の純粋な献身者は決して罪を犯したりはしませんが、世界中が罪深い雰囲気に満ちているため、当然ながら純粋な献身者でも知らないうちに罪を犯してしまう可能性があります。意識して罪を犯す者は主の献身者にふわさしくありませんが、無意識に罪深いことをしてしまった純粋な献身者は必ず主に救われます。なぜなら純粋な献身者は常に主を思っているからです。
主の聖なる御名はシュラヴァナ・マンガラと言われています。これは「聖なる御名を聞くだけで吉兆なものを全て手に入れる」という意味です。『シュリーマド・バーガヴァタム』の別の箇所で主の聖なる御名はプンニャ・シュラヴァナ・キールタナと説明されています。主のことを唱えたり聞く行為自体が敬虔な行いであるということです。主はこの地球に降誕し、この世の行動に関して他の人々と同じように振舞いますが、それは人々が主について聞く話題を作るためです。でなければ主はこの世界ですることもなければ、何かを行う義務もありません。主はご自身の無償の慈悲によって現れ、そしてご自身の意思通りに行動します。ヴェーダやプラーナは主の様々な行動についての記述であふれていますが、それは一般の人々に自然と主の活動について聞いたり読んだりすることへの興味を抱かせるためです。しかし一般的に人々の貴重な時間の大部分を占めているのは、この世の現代物語や小説などです。そのような文献は誰の得にもならず、かえって若い者たちの心をいたずらに乱し、情熱と無知の様式を高め、物質的環境への束縛の増大に繋がります。読んだり聞いたりするための能力は、主の活動を読み、聞くことに使われるべきです。そうすればあらゆる恩恵が与えらるのです。
したがって、主の聖なる御名や主に関する話題は常に聞くに値するものであると結論づけることができます。そしてそのため主はこの節でナーマ・デーヤ、「唱えるのに相応しい聖なる御名を持つ者」と呼ばれているのです。
śrutvā haris tam araṇārthinam aprameyaś
cakrāyudhaḥ patagarāja-bhujādhirūḍhaḥ
cakreṇa nakra-vadanaṁ vinipāṭya tasmād
dhaste pragṛhya bhagavān kṛpayojjahāra

訳語

翻訳

主は、象の切なる願いを聞いて、非常に苦しんでいる象が自分の助けをすぐに必要としていることをお感じになった。そこで主はすぐさまご自身の武器である法輪[チャクラ]を携え、鳥の王ガルダの翼に乗り、その場にお現れになった。象を救うため、主はワニの口を法輪で切り裂き、鼻を掴んで象を持ち上げお救いになった。

解説

 主はご自身のヴァイクンタ惑星に暮らしています。この惑星がどれほど離れているのか誰も予想することはできません。飛行船や、思考と同じ速さを持つ宇宙船に乗ってその惑星にたどり着こうとする者が、何百万年間旅をしたとしても、その惑星を見つけることはできない、と言われています。現代の科学者は物質的な飛行船を発明するのに対し、ヨーギーたちは思考と同じ速さを持つ宇宙船を使って旅をするという、より微細で物質的なことを試みています。ヨーギーたちは思考と同じ速さを持つ宇宙船の力を借りてどんな遠い場所にも素早くたどり着くことができます。しかし思考の速さで飛ぶ宇宙船も、物質世界のはるか向こうに位置するヴァイクンタローカにある神の王国に入ることなどできません。それならばどうやって象の祈りがはるか遠い場所にまで聞こえ、主はすぐにその場に現れることができたのでしょうか?このようなことは人間の想像で計算することはできません。これらは全て主の無限なる力により可能であり、ゆえに主はここでアプラメーヤと呼ばれています。なぜなら最も優れた人間の頭脳をもってしても、数学的に計算することで主の力と能力を測ることはできないからです。主はそのように遠い場所から聞くことも、食べることもでき、そして同時に違う場所へ瞬時に現れることもできます。これが、主の全能なる力なのです。
jyāyān guṇair avarajo ’py aditeḥ sutānāṁ
lokān vicakrama imān yad athādhiyajñaḥ
kṣmāṁ vāmanena jagṛhe tripada-cchalena
yācñām ṛte pathi caran prabhubhir na cālyaḥ

訳語

翻訳

主はあらゆる物資様式を超越していながらも、アーディテャとして知られるアディティの息子たちの資質を全て凌いでいた。主はアディティの一番下の息子としてお現れになった。そして宇宙の全ての惑星を足で踏み超えたため、主は至高の人格神である。3歩分の土地を求めると見せかけ、主はバリ・マハーラージャの全ての土地を奪われた。主が頼んだのは、誰かに正当な所有権のあるものを、その人に頼むことなく奪い取ることなどできないからに過ぎない。

解説

 バリ・マハーラージャと彼のヴァーマナデーヴァへの施しについての話は『シュリーマド・バーガヴァタム』の第8篇で語られています。バリ・マハーラージャは正当な所有権を行使して宇宙の全ての惑星を征服しました。王は他の王を力づくで征服することができ、そのようにして得る財産は、正当なものと見なされます。こうして、バリ・マハーラージャは、宇宙の全ての土地を所有しており、かつブラーフマナに対する気前の良さを持ち合わせていました。ですから主は物乞いのブラーフマナに扮装し、バリ・マハラージャに3歩分の土地を与えてくれるよう頼みました。全ての所有者である主は、バリ・マハーラージャが所有する全ての土地を奪い取ることも出来たのですが、バリ・マハーラージャは王の権限でそれらの土地を保有していたため、そうはしせんでした。バリ・マハーラージャが主ヴァーマナにそのようにわずかな施しを求められた際、彼の精神の師であるシュクラーチャーリャはその提案に反対しました。なぜなら彼はヴァーマナデーヴァが物乞いを装っているヴィシュヌご自身だと知っていたからです。物乞いがヴィシュヌご自身だと理解したとき、バリ・マハラージャは精神の師の命令に従うのではなく、求められた土地をすぐに主への施しとして捧げることに決めました。この同意を受けて主ヴァーマナは最初の2歩で宇宙の全ての地を覆い、3歩目をどこに置くべきなのか、バリ・マハーラージャにお尋ねになりました。バリ・マハラージャは喜んで自分の頭の上に主の3歩目を授かりました。これによって自身が所有している全てを失う代わりに、主が、自分の忠実な友となり、なおかつ番人となるという恩恵を授かったのです。ですから、主のために全てを与えることで、人は失うものは何もはなく、反対に全く予期しなかったものまで手に入れるのです。
nārtho baler ayam urukrama-pāda-śaucam
āpaḥ śikhā-dhṛtavato vibudhādhipatyam
yo vai pratiśrutam ṛte na cikīrṣad anyad
ātmānam aṅga manasā haraye ’bhimene

訳語

翻訳

主の蓮華の御足を洗った水を自らの頭に受けたバリ・マハーラージャは、自分の精神指導者に禁じられたにもかかわらず、主との約束を守ることだけを考えた。主に3歩目の足を置いていただける場所として、王は自らの体を捧げた。このような人物にとっては、自分の力で手に入れた天界の王国でさえ何の価値も見出さないのである。

解説

多大な物質的な犠牲と引き換えに、主の超越的な好意を得ることによって、バリ・マハーラージャは、永遠の喜びという、今までと同様の、あるいはそれ以上の条件が揃ったヴァイクンタに自らの場所を手に入れることができました。ですから物質的な力によって手に入れた天界の王国を捧げたからといって、決して敗者になったわけではありませんでした。言い換えれば、ある者が苦労して手に入れた物質的な所有物を主が奪い、永遠な命、至福、知性へと導く主への個人的な超越的奉仕を与える際、主のそのような奪い取るという行為は、純粋な献身者に対する主の特別な恩恵として捉えられるべきなのです。
物質的な所持品は、それがどれほど魅力的であったとしても、永遠ではありえません。したがって、人は自らそれらの所有物を捨てるか、肉体を去る際にそれらの所持品を置いていかなくてはなりません。知性ある人はどんな物資的な所持品も一時的であり、主を喜ばせることで、主がご自身のパラム・ダーマに永遠の住処を与えてくださるよう、それらの所持品を主への奉仕に使うのが最も賢い使い方だと知っているのです。
主のパラム・ダーマは『バガヴァッド・ギーター 』(15.5-6)で次のように説明されています。
nirmāna-mohā jita-saṅga-doṣā
adhyātma-nityā vinivṛtta-kāmāḥ
dvandvair vimuktāḥ sukha-duḥkha-saṁjñair
gacchanty amūḍhāḥ padam avyayaṁ tat
na tad bhāsayate sūryo
na śaśāṅko na pāvakaḥ
yad gatvā na nivartante
tad dhāma paramaṁ mama
 この物質界で家、土地、子孫、社会、友、富という形で現れた数々のものを所有する者は、これらのものを一時的にしか所有できません。マーヤーによって作られたこれら幻想的な品々を全て永遠に所有することなどできません。そのようなものを所有する者は、自己の悟りにおいてより惑わされた人です。ですから、偽の名声から解放されるためにも、人は所持品を減らすか、あるいは何も持たないべきです。物質世界において私たちは物質自然の3様式と交わることによって汚れています。ですから一時的な所有物と引き換えに、主への献身奉仕によって精神的に高められれば高められるほど、私たちは物質的幻想の執着から解放されていきます。人生のこの段階を達成するには、精神的存在とその永久的な効果について確信を持たなくてはなりません。精神的な存在の永続性を確実に知るには、自ら所有物を減らすか、難なく物質的存在を維持するために最低限のものだけを所有することが必要です。人は不自然な欲求を生み出すべきではありません。そうすれば最低限のものだけで満足できるようになります。人生の不自然な欲求は感覚の活動にほかなりません。現代文明の進歩はこれら感覚の活動に基づいています。つまりそれは感覚満足の文明なのです。完璧な文明というのはアートマ、つまり魂の文明を指します。感覚満足しか考えていない文明人は動物と同等です。なぜなら動物は感覚の活動以上のことを行えないからです。感覚より上にあるのが心です。思索のみの文明も人生の完全な段階ではありません。なぜなら心の上には知性があり、『バガヴァッド・ギーター』では知性ある文明について述べられています。ヴェーダ文献には感覚の文明、心の文明、知性の文明、魂の文明を含む、人間文明のためのさまざまな教えが説かれています。『バガヴァッド・ギーター』は人間の知性を中心に扱っており、精神的な魂の文明という、より進歩した道へと導きます。そして『シュリーマド・バーガヴァタム』 は、魂を主題として扱う、完璧な人間文明のあるべき姿なのです。人が魂の文明の段階にまで高めらるとすぐに、上記の『バガヴァッド・ギーター』の節で説明されている神の王国に入る資格が与えられるのです。
 神の王国に関する一つ目の知識は、暗闇の物質世界に必要な太陽、月、電気などがそこでは必要ないということを述べています。そして神の王国に関する二つ目の知識は魂の文明、つまりバクティ・ヨガの方法を取り入れてその王国にたどり着けた者は人生の完成を達成すると説明されています。その後、その人は主への超越的な愛情奉仕の知識に溢れる、魂の永遠なる段階へと昇ります。バリ・マハーラージャは自身の多大な物質的な財産と引き換えにこの魂の文明を受け入れ、それゆえに神の王国へと向かう資格を得ました。物質的な力で手に入れた天界の王国は、神の王国に比べれば最も取るに足らないもののように思えたのです。
 感覚満足のために作られた物質的な文明の快適さを手に入れた者は、手にした物質的な力と引き換えに、バリ・マハラージャの足跡に従うことで、『バガヴァッド・ギーター』で勧められ『シュリーマド・バーガヴァタム』でさらに細かく説明されているバクティ・ヨーガの方法を受け入れて神の王国に到達できるよう努めるべきです。
tubhyaṁ ca nārada bhṛśaṁ bhagavān vivṛddha-
bhāvena sādhu parituṣṭa uvāca yogam
jñānaṁ ca bhāgavatam ātma-satattva-dīpaṁ
yad vāsudeva-śaraṇā vidur añjasaiva

訳語

翻訳

ナーラダよ、お前は人格神のハムサーヴァターラ化身から神の科学と神への超越的な愛情奉仕について教わった。主はお前が献身奉仕に熱心に励むのを見て非常に満足なさった。そしてまた、人格神、主ヴァースデーヴァに身を委ねた魂である者たちこそが理解できる、献身奉仕の科学の全てをお前に明確に説明なさったのだ。

解説

 献身者と献身奉仕は相関的な言葉です。主の献身者になろうという気持ちがなければ、献身奉仕の細部に足を踏み入れることはできません。主シュリー・クリシュナがシュリー・アルジュナに献身奉仕の科学である『バガヴァッド・ギーター 』を説明しようと望まれたのは、アルジュナが自身の友であっただけではなく、主の偉大な献身者でもあったからです。あらゆる生命体は本来至高の生命体、絶対人格神の部分体であるため、それに比例してわずかな独立性も持ち合わせています。主の献身奉仕を始める最初の資格は自発的な協力者になることであり、したがって主の超越的な献身奉仕にすでに従事している者に自ら協力しなくてはなりません。そのような人たちに協力することで候補者は徐々に献身奉仕の術を学んでいき、その学習の進歩に応じて物質と関係を持つことによる汚れから解放されていきます。このような浄化方法は、人を確固たる信念に固定させ、徐々に献身奉仕に対する超越的な味わいを得られる段階にまで高められます。したがって、彼は主への献身奉仕に心から惹かれるようになり、彼のその確信が、超越的な愛の段階の一歩手前の恍惚の段階へと自身を引き上げるのです。
 献身奉仕に関するそのような知識は、献身奉仕の性質に関する予備的知識とその実践に関する二次的知識という、2つの部分に分けることができます。『バーガヴァタム』は人格神と主の美しさ、名声、富、品格、魅力、そして超越的な質に関するものであり、それらの描写は、主との愛情交換へと人を魅了します。生命体が主への愛情奉仕に惹かれることは自然なことですが、この愛情奉仕への望みは物質と関わりを持つことで不自然に覆われてしまいます。そして『シュリーマド・バーガヴァタム』が、その不自然な覆いをすっかり取り除く助けをしてくれるのです。したがって、『シュリーマド・バーガヴァタム』は超越的知識の灯火のような役割を果たすと、ここでは特に述べられています。献身奉仕における超越的な知識のこの2つの部分は、ヴァースデーヴァに身を委ねた魂である者にだけ明かされます。『バガヴァッド・ギーター 』(7-19)で述べられているように、ヴァースデーヴァの蓮華の御足に完全に身を委ねたそのような偉大な魂は非常に稀なのです。
cakraṁ ca dikṣv avihataṁ daśasu sva-tejo
manvantareṣu manu-vaṁśa-dharo bibharti
duṣṭeṣu rājasu damaṁ vyadadhāt sva-kīrtiṁ
satye tri-pṛṣṭha uśatīṁ prathayaṁś caritraiḥ

訳語

翻訳

主はマヌの化身としてマヌ王朝の子孫となり、御自身の強力な法輪の武器によって邪悪な王族階級を征服した上で、彼らを支配した。どの状況においても絶対的な主の統治は栄光に満ち、その栄光は3つのローカ、そしてさらに宇宙の最上部にあるサティヤローカ惑星系にまで知れ渡った。

解説

マヌの化身については第一編ですでに述べました。ブラフマーの1日の間に14のマヌが次々と入れ替わります。このようにブラフマーの1ヵ月には420人の、1年には5,040人のマヌが存在します。ブラフマーは彼の計算で100年生きるため、一人のブラフマーが統轄する間に、
50万4千のマヌが存在することになります。ブラフマーは無数に存在し、どのブラフマーもマハー・ヴィシュヌの一呼吸の間しか生きることができません。これで至高人格神の総エネルギーの4分の1のみを占める物質世界の至るところで、至高主の化身がどのように活動なさっているのかが想像できます。
 マンヴァンタラの化身は法輪の武器で悪党たちを罰する至高人格神と同様の力で、様々な惑星の邪悪な支配者を罰しました。マンヴァンタラ化身は主の超越的な栄光を広めているのです。
dhanvantariś ca bhagavān svayam eva kīrtir
nāmnā nṛṇāṁ puru-rujāṁ ruja āśu hanti
yajñe ca bhāgam amṛtāyur-avāvarundha
āyuṣya-vedam anuśāsty avatīrya loke

訳語

翻訳

ダンヴァンタリ化身の姿をとった主は、自らの名声ひとつで、常に病んでいる生命体の病を瞬く間に治癒される。そして神々が長い寿命を持つのも、ひとえに主のおかげである。だからこそ人格神は永遠に称えられるのである。また主は供犠から御自身の取り分をお受け取りになるのであり、そして、主こそが、この宇宙の医学や医療の知識の始まりなのである。

解説

 『シュリーマド・バーガヴァタム』の始めで述べられているように、全ては人格神という究極の源から生まれます。ですから、医学や医療の知識もダンヴァンタリ化身の姿をとった人格神によって始められ、だからこそ、その知識がヴェーダに記されているということが、この節から理解できます。ヴェーダはあらゆる知識の根源であり、生命体の病に対する完全な治癒に必要な医学知識もそこに記されています。体を持つ生命体は、その体が持つ構造ゆえに病に侵されています。肉体は病の象徴です。病は人によってそれぞれですが、全ての人にとって生と死が存在するのと同じように、病も必ず存在します。ですから人格神の恩恵によって、体と心の病が治癒されるだけではなく、魂も生と死の繰り返しから解放されるのです。主の名前にはバヴァウシャディという名前があり、それは主が物質存在という病を治癒する根源であるという意味です。
kṣatraṁ kṣayāya vidhinopabhṛtaṁ mahātmā
brahma-dhrug ujjhita-pathaṁ narakārti-lipsu
uddhanty asāv avanikaṇṭakam ugra-vīryas
triḥ-sapta-kṛtva urudhāra-paraśvadhena

訳語

翻訳

クシャトリヤとして知られる統治を担った管理階級者が地獄で苦しむことを望み、絶対真実の道から逸れた時、主は聖者パラシュラーマの化身として地球のとげであるかのような望ましくない王たちを根絶した。こうして主は自身の鋭く尖った斧でクシャトリヤを3度撲滅することを、7回繰り返したのである。

解説

 この宇宙内にいるクシャトリヤ、つまり管理階級者は、私たちが住むこの惑星、あるいは他の惑星にあっても、事実上、全能なる人格神の代表であり、民衆を神の悟りに導くために存在します。 君主制、民主主義、寡頭制、独裁制、君主独裁など、どんな行政であろうと、 全ての国家とその管理者は、大衆を神の悟りへと導くという重要な責任を担っています。これは人間にとって不可欠なことであり、民をこの目的へと導く責任を担うことが、父親、精神指導者、そして最終的には国家の役目なのです。物質存在の創造全体がこの目的のために作られたのですが、それはただ、至高なる父の意志に背いたがために堕落し物質自然に束縛された魂たちにチャンスを与えるためなのです。物質自然の力は、果てしない痛みと苦しみという地獄のような状況へと、人々を徐々に導いていきます。束縛された生活の規則や規定に従わない者はブラフモージッタ・パター、すなわち絶対真実の道に逆らう者と呼ばれ、彼らは罰を受ける必要があります。人格神の化身、主パラシュラーマは世界がこのような状況にある時に現れ、邪悪な王を全て、21回殺しました。その時数多くのクシャトリヤ王がインドから世界の至る所に逃げ、マハーバーラタによると、エジプトの王も元々はパラシュラーマの懲罰のためにインドから逃れてきたとされています。王や管理者が神を信じることをせず、罪深い文明を計画するならば、どんな状況であったとしても同じように罰せられます。これが全能なるお方のご指示なのです。
asmat-prasāda-sumukhaḥ kalayā kaleśa
ikṣvāku-vaṁśa avatīrya guror nideśe
tiṣṭhan vanaṁ sa-dayitānuja āviveśa
yasmin virudhya daśa-kandhara ārtim ārcchat

訳語

翻訳

至高人格神は、宇宙のあらゆる生命体への無償な慈悲がゆえ、御自身の内的エネルギー、シーターの主人として、御自身の完全拡張体と共にマハーラージャ・イクシュヴァークの家系にお現れになった。父のマハーラージャ・ダシャラタの指示のもと、主は妻と弟ともに森に入り、そこで長い年月を過ごされた。10の頭を持つ物質的に非常に強力なラーヴァナは、主に対して大きな侮辱を犯し、よって最後には主の手によって殺された。

解説

主ラーマは至高人格神であり、弟のバラタ、ラクシュマナ、シャトルグナは主の完全拡張体です。主を含む兄弟は4人ともヴィシュヌ・タットヴァであり、決して普通の人間ではありません。主ラーマチャンドラの弟たちを普通の生命体だとする、不徳で無知な、ラーマーヤナの解説者が多く存在します。しかし、この神の科学に関する最も真正な経典『シュリーマド・バーガヴァタム』で、主の弟たちは主の拡張体であると明言されています。元々、主ラーマチャンドラはヴァースデーヴァ、ラクシュマナはサンカルシャナ、バラタはプラデュムナ、そしてシャトルグナはアニルッダの化身であり皆、人格神の拡張体です。ラクシュミージー・シーターは主の内的エネルギーであり、普通の女性でもなければ、ドゥルガーという外的エネルギーの化身でもありません。ドゥルガーは主の外的エネルギーであり、主シヴァと関わっています。
『バガヴァッド・ギーター』(4.7)に述べられているように、真の宗教の遂行に矛盾が生じる度に、主は降誕なさいます。主ラーマチャンドラも、主の内的エネルギーの拡張体である弟たち、そしてラクシュミージー・シーターデーヴィを引き連れ、同じ状況下で現れたのです。
 父のマハーラージャ・ダシャラタから家を離れて森の不便な状況下で暮らすよう指示され、主ラーマチャンドラはアヨーディヤーの王に即位することを宣言されたにもかかわらず、父親の理想の息子としてその指示に従いました。弟の一人ラクシュマナジーも、そして主の永遠の妻であるシータージーも、主と共に向かうことを望まれました。主はお二人に同意し、3人はダンダカーラニャの森に入り、そこで14年間暮らしました。森で生活をしている間、ラーマチャンドラとラーヴァナの間に争いが起こり、後者が主の妻であるシーターを誘拐しました。その争いは、非常な力を持つラーヴァナとその王国や家族の征服によって幕を閉じました。
 シーターはラクシュミージー、すなわち幸運の女神なのですが、彼女はどんな生命体によっても快楽の対象とみなされるべきではありません。彼女は主人のシュリー・ラーマチャンドラと共に、生命体から崇拝されるべきお方です。ラーヴァナのような物質的な人間は、この偉大な真実を理解することができず、それどころかラーマの元からシーターを奪うことを望み、それによって大きな不幸を招くことになるのです。富と物質的な繁栄を追い求めている物質主義者は、至高主の支配権を認めずに主の本質を奪い取ろうとするのがラーヴァナのやり方であると、ラーマーヤナから学ぶべきです。ラーヴァナは非常に高い物質的水準にあったため、自身の王国ランカーを純金、つまりこの上ない物質的な富へと変えました。しかし主ラーマチャンドラの至高性に気づくことができず、主の妻であるシーターを誘拐することで主に歯向かったため、ラーヴァナは殺され、彼の富と力は破壊されたのです。
主ラーマチャンドラは6つの富を完全に備えた完全なる化身であるため、主はこの節でカレシャ、つまり、あらゆる富の主人と述べられています。
yasmā adād udadhir ūḍha-bhayāṅga-vepo
mārgaṁ sapady ari-puraṁ haravad didhakṣoḥ
dūre suhṛn-mathita-roṣa-suśoṇa-dṛṣṭyā
tātapyamāna-makaroraga-nakra-cakraḥ

訳語

翻訳

遠く離れた親しい友[シーター]を思い、心を痛めた人格主ラーマチャンドラは[天界の王国を燃やそうとした]ハラのような真っ赤な目で敵のラーヴァナの都市を一瞥なさった。恐れにおののく大海は、自身の家族であるサメ、蛇、ワニなどの水生生物が主の怒りに満ちた真っ赤な目から発せられる熱によって焼かれていたため、主のために道を開けた。

解説

至高人格神は他の全ての生命体と同じように、感覚のある生物が持つ全ての感情を持ち合わせていらっしゃいます。なぜなら主は最高の、そして根源の生命体であり、他の全ての生命体の至高なる源だからです。主はニティヤ、つまり他の全ての永遠なる存在の中でも最も秀いでている永遠なるお方です。主が最高のお方であり、他は全て主に依存した大多数の存在なのです。多くの永遠なる存在がその一つの永遠なるお方によって支えられ、それゆえ両者とも質的には一つなのです。そのような同一性によって、どちらの永遠なる存在も全ての感情を本来持ち合わせていますが、しかし至高なる永遠のお方の感情の量と、そのお方に依存している永遠なる者の感情の量には違いがあります。ラーマチャンドラの目が怒りで赤く燃えたとき、その熱によって、大海に住む生物たちもその熱を感じるほど海全体が熱くなったため、海の権化は恐れ慄き、主に敵の都市に簡単にたどり着ける道を差し出しました。非人格者たちは完全性の中に無を求めているので、主のこのような激しい怒りの感情に混乱するでしょう。主は絶対であるため、彼らは、主は絶対であるために、俗的な感情であるかのような怒りの感情が存在しないことで、その絶対性がかえって強調されると考えているのです。乏しい知識のため、絶対者の感情は質や量に関するありきたりの概念を超えていることに彼らは気付きません。もし主ラーマチャンドラの感情がありきたりなものだとすれば、海全体とその中に生きる生物たちの平安をかき乱すことがどうしてできたのでしょう。普通の人間の怒りに燃えた目が、大海に熱を起させることなどできるでしょうか。絶対真理の人格的そして非人格的な概念に関しては、これらの要素を踏まえるべきです。『シュリーマド・バーガヴァタム』の冒頭で言われているように、絶対真理は全ての源であるため、絶対者にこの一時的な俗世界に反映されている感情が欠けているはずなどありません。むしろ絶対者の中に存在する様々な感情は、それが怒りであろうと情けであろうと、同じ質的影響を持っています。言い換えればこれらの感情は全て絶対的な次元に存在するため、それらの感情が持つ価値に、普通の感情が持つような違いはありません。超越的世界に関して世俗的な判断をする非人格主義者たちが考えているように、絶対者にそのような感情が欠如していることなど、あるはずがないのです。
vakṣaḥ-sthala-sparśa-rugna-mahendra-vāha-
dantair viḍambita-kakubjuṣa ūḍha-hāsam
sadyo ’subhiḥ saha vineṣyati dāra-hartur
visphūrjitair dhanuṣa uccarato ’dhisainye

訳語

翻訳

ラーヴァナが交戦している時、天国の王インドラを乗せる象の鼻がラーヴァナの胸に激しくぶつかり砕け散った。そして、散らばったその破片は全方向を照らした。こうして、全ての方角を征服したと考えたラーヴァナは、自分の武勇を誇りに思い、戦闘中の兵士たちの間を歩き始めた。しかし、人格神ラーマチャンドラの弓が音をたてた瞬間、生命の気とともに、ラーヴァナの喜びにあふれた笑い声は、突然途切れた。

解説

生命体がどれほど強い力を持っていても、神に死の定めを受ければ、誰も彼を救うことはできません。同様にどれほど弱くても、主に守られているならば、誰も彼を消滅させることはできないのです。
bhūmeḥ suretara-varūtha-vimarditāyāḥ
kleśa-vyayāya kalayā sita-kṛṣṇa-keśaḥ
jātaḥ kariṣyati janānupalakṣya-mārgaḥ
karmāṇi cātma-mahimopanibandhanāni

訳語

翻訳

 神への信仰を持たない王たちの戦力によって、世界が過度な負担を背負うとき、主は世界の苦痛を取り除くためだけにご自身の完全部分体とともに降誕なさる。主は美しい黒髪を持つ根源の姿で現れる。そして超越的な栄光を広めるため、並外れた活動をお見せになる。誰も主の偉大さを正確に推し量ることはできない。

解説

 この節は特に主クリシュナと主の直接の拡張体である主バラデーヴァの降誕を説明しています。主クリシュナも主バラデーヴァも一人の至高人格神です。主は全能であり、自身を無数の姿や力に拡張させ、それら全てが一つの至高なるブラフマンとして知られます。主のそれらの拡張体は、個人的な拡張体と分離した拡張体との2種類に分けられます。個人的な拡張体はヴィシュヌ・タットヴァと呼ばれ、分離した拡張体はジーヴァ・タットヴァと呼ばれます。そうした拡張が行われる過程において、主バラデーヴァは至高人格神クリシュナの最初の個人的な拡張体です。
 『ヴィシュヌ・プラーナ』や『マハーバラータ』でクリシュナとバラデーヴァは年齢を重ねても美しい黒髪をお持ちであると述べられています。主はアヌパラクシャ・マールガハ、もしくはより専門的なヴェーダ用語ではアヴァン・マナサー・ゴーチャラハ、つまり一般の人々の限られた感覚では見ることも理解することも決してできない者と呼ばれています。『バガヴァッド・ギーター』(7-25)で主はnāhaṁ prakāśaḥ sarvasya yoga-māyā-samāvṛtaḥと言っています。つまり、主は誰彼問わずにご自身を現さない権利を持っているということです。正真正銘の献身者だけが、主の特徴を認識できるのであり、そのような数多くの特徴の一つがこの節で述べられています。それは、主がsita-kṛṣṇa-keśaḥ、つまり、いつも美しい黒髪を持っているお方である、というものです。主クリシュナも主バラデーヴァもそのような髪を持ちっているため年齢を重ねてもお二方は16歳の少年のような姿をしていました。これが人格神の持つ特徴です。『ブラフマー・サンヒター』で主はあらゆる生命体の中で最古の人格であるにもかかわらず、いつも若々しい少年のようであると書かれています。それが精神的な体の特徴です。誕生、死、老化、病が物質的な体の特徴ですが、精神的な体は、これらの徴候を持たないことを特徴としています。ヴァイクンタローカに住む、永遠の命と至福の中に生きる生命体は、老化による影響のない、同じ精神的な体を持っています。『バーガヴァタム』(第6編)ではヤマラージャの使いが連れ去ろうとしたアジャミラを救いに来たヴィシュヌドゥータたちも若い少年のように見えたと述べられており、この節の説明を裏付けています。したがって、ヴァイクンタローカに住む主の、あるいは他の住人の精神的な体は、この世界の物質的な体とは全く異なるものだということが確証されています。ですからその世界からこの世界に降誕する際、主はバヒランガー・マーヤー、すなわち外的、物質的なエネルギーがわずかにも混ざることのない、アートマ・マーヤー、つまり内的エネルギーの精神的なお体で降誕なさるのです。非人格的なブラフマンが物質的な体を受け入れてこの物質界に現れるという主張は、非常に馬鹿げたものです。したがって、主がこの世界に降誕なさる時には、物質的な体ではなく、精神的なお体を持って現れます。非人格的なブラフマジョーティは、主のお体から発せられる輝かしい光でしかなく、主のお体とブラフマジョーティと呼ばれる主の非人格的な輝きの質には何の違いもありません。
 ここで疑問となるのは、なぜ不徳の王族階級によってもたらされた世界の重荷を減らすため、全能なる主が降誕なさるのかということです。もちろんそのような目的のために主自らがわざわざいらっしゃる必要はないのですが、主は、主の栄光を唱えて人生を楽しみたいと望む純粋な献身者を励ますことを目的に、自身の超越的な活動を示すために降誕なさるのです。『バガヴァッド・ギーター 』(9.13-14)でマハートマー、つまり主の偉大な化身者たちは主の活動を唱えることで至福を味わうと述べられています。あらゆるヴェーダ文献は、人々の意識を主と主の超越的な活動へと向けるために存在します。ですから、主が俗世の人々と関わりを持つなかで行った活動が、純粋な献身者にとっては話の主題となるということです。
tokena jīva-haraṇaṁ yad ulūki-kāyās
trai-māsikasya ca padā śakaṭo ’pavṛttaḥ
yad riṅgatāntara-gatena divi-spṛśor vā
unmūlanaṁ tv itarathārjunayor na bhāvyam

訳語

翻訳

主クリシュナが至高主であることに疑いの余地はない。そうでなければどうやって母親の膝の上で抱かれるほど幼い頃に、プータナのような巨大な悪魔を殺したり、まだ生後3ヶ月の時に足で荷台をひっくり返したり、まだ四つんばいの頃に2本のアルジュナの木を空に触れるほど高く引き抜いたりすることができたであろうか。主以外には誰も、これらの行為をすることなどできない。

解説

 憶測によって、あるいは知性の低い人々が作った投票による多数決を用いて、神を身勝手に作り上げることはできません。神は永遠に神であり、一般の生命体は永遠に神の一部分です。神は唯一無二で、一般の生命体は無数に存在します。それら全ての生命体は神自身によって維持され、そしてそれこそが、ヴェーダ文献の見解なのです。クリシュナが母親の膝の上で抱かれていた時、悪魔プータナが母親の前に現れ、赤ん坊を自分の膝の上に抱いて授乳させてほしいと頼みました。母ヤショーダーはそれに同意し、赤ん坊は立派な女性の身なりをしたプータナの膝の上に置かれました。プータナは自分の胸の乳首に毒を塗り、赤ん坊を殺そうと企んでいたのです。しかし、全てが予定通りに進んだとき、主は、乳と一緒に彼女の生命の気まで吸い取り、6マイル (およそ9.7キロメートル) 以上もあったとされるその悪魔の巨体が倒れ落ちました。主にとっては6マイルよりもさらに大きくなることはいともたやすいことなのですが、女悪魔プータナと同じ大きさになる必要などどこにもありませんでした。主がヴァーマナ化身として現れたときに、主は小人のブラーフマナを装いましたが、バリ・マハーラージャが約束した土地を手に入れる際、主は自身の歩幅を数千、数百万マイルほどはるかにある宇宙の天辺まで拡張なさいました。ですから自身の体を大きくし、奇跡を起こすことなどクリシュナにとって容易なことですが、主は、母ヤショーダに対する息子としての深い愛情から、そのような行動をお望みになりませんでした。自分の膝の上に座るクリシュナが、女悪魔プータナを退治するために6マイルもの大きさになっているのを見たら、ヤショーダーの自然な母性愛は傷ついていたでしょう。なぜなら自分の息子だと思っているクリシュナが実は神自身だと知ることになるからです。クリシュナの神性を知ってしまえば、ヤショーダーマイーはクリシュナに対する自然な母親としての愛情をなくしてしまうでしょう。しかし主クリシュナは、母親の膝に座る子供であっても、宇宙を覆うヴァーマナデーヴァであっても、常に神なのです。主は、神になるために厳しい苦行など必要としません。しかしそのような方法で神になれると考える人たちもいます。厳しい禁欲生活と苦行に耐えたからといって、誰も主と同一、または対等になることはできませんが、多くの神々しい性質を手に入れることはできます。生命体は神々しい質のほとんどを手に入れることはできますが、神になることはできません。それに対してクリシュナはどんな苦行を行わなくても、母親の膝の上に抱かれる幼児であろうと、育ち盛りであろうと、どんな成長段階にあっても、神であり続けるのです。
 実際に、主は生後たった3ヶ月の頃、ヤショーダーマイーの家の荷台に隠れていたシャカタースラを退治なさいました。そして家事を行なおうとする母親を、四つんばいで歩きながら邪魔したとき、彼女は主をひき臼に縛りつけましたが、悪戯な子供はひき臼をヤショーダーマイーの庭にあった2本の高いアルジュナの木のところまで引きずりました。そしてひき臼が木の間にひっかかった際、二本の木はものすごい音を立てて倒れたのです。何が起きたのか確かめるためヤショーダーマイーがその場に駆けつけたとき、彼女は庭を四つんばいで歩いていた主ご自身が大惨事を起こしたとも知らず、主のご慈悲によって自分の息子は倒れる木々から救われたのだと思い込みました。このように、それが主と献身者の間の愛情交換のあり方です。ヤショーダーマイーは主を自分の子供とすることを望み、主は彼女の膝の上でまさに赤ん坊のように振る舞いましたが、同時に必要に応じて全能なる主の役割も果たされたのです。この遊戯のすばらしさは、主が全ての人の望みを叶えてくださったことです。巨大なアルジュナの木々を倒した遊戯における主の任務は、ナーラダの呪いによって木の姿に変えられたクヴェーラの二人の息子たちを解放してやること、そして自分の家の庭で主が遊ぶのを見ながら超越的な喜びに浸るヤショーダの庭を、小さな子供のように四つんばいになって遊ぶことだったのです。
 主はどんな状況でも宇宙の主であり、巨体であろうが、小さな子供であろうが、どんな姿であっても、御自身の望むように振舞うことができます。
yad vai vraje vraja-paśūn viṣatoya-pītān
pālāṁs tv ajīvayad anugraha-dṛṣṭi-vṛṣṭyā
tac-chuddhaye ’ti-viṣa-vīrya-vilola-jihvam
uccāṭayiṣyad uragaṁ viharan hradinyām

訳語

翻訳

そしてまた牛飼いの少年たちとその動物たちがヤムナー川の毒された水を飲んでしまった時には、[幼少期の]主は、自身の慈悲深い一瞥で彼らを生き返らせたあと、ヤムナー川の水を浄化しようと、まるで遊ぶように水中に飛び込み、そこに潜んでいた毒の波を生じさせる舌を持つカーリヤ蛇を厳しく罰した。このような超人的な活動を行える者は、至高主以外にいるだろうか?
tat karma divyam iva yan niśi niḥśayānaṁ
dāvāgninā śuci-vane paridahyamāne
unneṣyati vrajam ato ’vasitānta-kālaṁ
netre pidhāpya sabalo ’nadhigamya-vīryaḥ

訳語

翻訳

カーリヤ蛇が懲罰された夜、ヴラジャブーミの住民たちが安心して眠っているとき、乾燥した葉によって山火事が起き、一人残らず死を迎えることは避けられないことのように思われた。しかし、バララーマと共に主は、目を閉じるだけで彼らを救われたのである。これが主の超人的な活動というものである。

解説

 この節で、主の活動が超人的であると述べられていますが、主の活動は常に超人的であると知っておくべきであり、そしてそれが、普通の生命体と主を区別するものなのです。巨大なバニヤン樹やアルジュナの木を引き抜いたり、目を閉じただけで燃え盛る山火事を消し止めるのは、人間がどんなに努力したところでできるものではありません。しかし実際には、『バガヴァッド・ギーター』(4-9)で確証されているように、これらの活動だけが驚異的なのではなく、主の活動はどんな活動であっても全てが超人的なのです。主の超人的な活動を知る者は誰でも、その超越的な質によってクリシュナの王国に入るのにふさわしい者となります。こうして、現在の肉体を去った後、主の超越的な活動を知る者は、神のもとであるふるさとへと帰って行くのです。
gṛhṇīta yad yad upabandham amuṣya mātā
śulbaṁ sutasya na tu tat tad amuṣya māti
yaj jṛmbhato ’sya vadane bhuvanāni gopī
saṁvīkṣya śaṅkita-manāḥ pratibodhitāsīt

訳語

翻訳

牛飼いの女性[クリシュナの育ての母親、ヤショーダー]が縄で息子の手を縛ろうとしていたとき、縛る度に縄の長さが足りなくなることに気が付いた。とうとう縛るのを諦めると、しばらくして主クリシュナが口を開き、母親はその中に全ての宇宙が存在するのを見た。これを目の当たりにした彼女の心に疑問が生じたが、息子の神秘性について別の理由を見つけて納得した。

解説

 ある日悪戯っ子の主クリシュナが母親のヤショーダーを邪魔したので、彼女は罰を与えるため子供を縄で縛り始めました。しかしどれほど縄を使っても長さが常に足りません。こうして彼女は疲れ果ててしまいましたが、その間に主は口を開け、愛情深い母親は息子の口の中に全ての宇宙が存在するのを目の当たりにしました。彼女はとても驚きましたが、クリシュナへの深い愛情がゆえ、全能なる神ナーラーヤナが優しさから息子を度重なる災難から守ってくださっているのだと思いました。クリシュナへの深い愛情のため、彼女の息子が至高人格神ナーラーヤナであるなどとは考えもしなかったのです。まさにこれが、多種多様な献身者と繰り広げられる主の全ての遊戯を完璧に遂行する主の内的エネルギー、ヨーガ・マーヤーの働きなのです。神でもない者にこのような驚異的なことを繰り広げることなどできるはずがありません。
nandaṁ ca mokṣyati bhayād varuṇasya pāśād
gopān bileṣu pihitān maya-sūnunā ca
ahny āpṛtaṁ niśi śayānam atiśrameṇa
lokaṁ vikuṇṭham upaneṣyati gokulaṁ sma

訳語

翻訳

主クリシュナは、育ての父親ナンダ・マハーラージャをヴァルナ神に対する恐怖から救い、マヤの息子によって山の洞窟に閉じ込められていた牛飼いの少年たちを助け出した。また日中は忙しく働き、その重労働によって夜中はぐっすり眠るヴリンダーヴァナの住民たちに、主クリシュナは精神世界における最高位の惑星へ到達する資格を授けた。これらの活動は全て超越的であり、主の神性を間違いなく証明する。

解説

 主クリシュナの育ての父であるナンダ・マハーラージャは夜がすでに明けたと思い、真夜中に沐浴をするためヤムナー川へと向かいました。すると、ヴァルナ神が、父親を救うために現れるだろう人格神、主クリシュナを一目見たいがために、ナンダ・マハーラージャをヴァルナ惑星へと連れ去ったのです。しかしナンダ・マハーラージャがヴァルナに連れ去られることは実際にはありません。その理由はヴリンダ―ヴァンの住民は、一種のサマーディ、つまりバクティ・ヨガの恍惚のなかで常に人格神を瞑想し、クリシュナのことを想っていたからです。彼らに物質存在の苦しみに対する恐れなどありません。『バガヴァッド・ギーター』では、超越的な愛の中で至高人格神に完全に身を委ね、主と交流することで、物質自然の法則による苦しみから解放されると確証されています。ここでヴリンダーヴァナの住民は日々の重労働で非常に忙しく、その重労働によって夜中はぐっすり眠っていたとはっきりと記されています。ですから実際に瞑想やその他の精神的な活動に費やす時間はわずかしかありませんでした。実際のところ、彼らは最も高い水準の精神的活動にだけ従事していたのです。彼らが行うことは全て、主シュリー・クリシュナと繋がっていたため精神化されていました。活動の中心はクリシュナであり、そのため物質世界でのいわゆる活動は精神的な力で満ち溢れていたのです。これがバクティ・ヨガという道の利点です。人々は主クリシュナのために自身の義務を果たすべきであり、そうすれば全ての人の活動はクリシュナの考えに満ちたものとなり、その活動は精神的悟りにおける最高の恍惚境となるのです。
gopair makhe pratihate vraja-viplavāya
deve ’bhivarṣati paśūn kṛpayā rirakṣuḥ
dhartocchilīndhram iva sapta-dināni sapta-
varṣo mahīdhram anaghaika-kare salīlam

訳語

翻訳

ヴリンダーヴァナの牛飼いの男たちが、クリシュナの指示に従って天界の王インドラへ供物を捧げるのをやめたとき、ヴラジャとして知られる一地帯は、7日間続いた豪雨によって押し流される危険に晒された。主クリシュナはまだ7歳であったにも関わらず、ヴラジャの住民への無償の慈悲から、片手だけでゴヴァルダナとして知られる丘を持ち上げた。主は動物たちを激しい水の流れから守るために、そうしたのである。

解説

 子供たちは蛙の傘と呼ばれる傘で遊びますが、主クリシュナはまだ7歳の頃に、ヴラジャブーミの住民たちが供物を捧げることをやめた天界の王インドラの怒りからヴリンダーヴァナの住民や動物たちを守るため、ヴリンダーヴァナのゴヴァルダナ・パルヴァタとして知られる大きな丘を掴み、片手で7日間持ち続けることができたのです。
 実際には、至高主への奉仕を行っているならば、神々の働きへの返礼として、彼らに供犠を捧げる必要はありません。神々を満足させるためにヴェーダ文献で勧められている供犠は、供物を捧げる者が、より高い権威者の存在を悟るためのきっかけとなるものです。神々は主によって物質的な物事を司る神として任命されており、『バガヴァッド・ギーター』によると、神々が崇拝される時、その過程は至高主を間接的に崇拝する方法として受け入れられます。しかし至高主が直接崇拝される場合、神々を崇拝したり、特定の状況下で勧められている供物を神々に捧げる必要はありません。ですから主クリシュナは、ヴラジャブーミの住民に対し、天界の王インドラに供物を捧げないようにと勧めたのです。しかし主クリシュナがヴラジャブーミにいることを知らなかったインドラは、ヴラジャブーミの住民に怒り、その冒涜に対して復讐をしようとしました。しかし有能な主はご自身の力でヴラジャブーミの住民や動物たちを守りました。主は、至高主の献身者として直接主に仕えている者は誰でも神々を満足させる必要などないと証明されました。その神々がたとえブラフマーやシヴァほどに偉大な存在であったとしてもです。この一件は、主クリシュナが至高人格神であり、それは母親の膝の上に座る子供であろうと、7歳の少年であろうと、125歳という高齢であろうと、どんな状況においてもそうあり続けるとはっきりと証明しています。どの場合においても主は決して普通の人間と同じ次元にはいないため、歳を重ねても16歳の若い少年のように見えていました。これらが主の超越的な体の特徴なのです。
krīḍan vane niśi niśākara-raśmi-gauryāṁ
rāsonmukhaḥ kala-padāyata-mūrcchitena
uddīpita-smara-rujāṁ vraja-bhṛd-vadhūnāṁ
hartur hariṣyati śiro dhanadānugasya

訳語

翻訳

主が、甘く美しい歌でヴリンダ―ヴァンの住民の妻たちの情欲を掻き立てながら、ヴリンダ―ヴァンの森でラーサ・ダンスの遊戯を行っていたとき、天界の財務係[クヴェーラ]の裕福な従者であるシャンカチューダという名の悪魔が乙女たちをさらい、後に主は彼の頭を胴体から切り離した。

解説

 ここにある記述はブラフマージーからナーラダに向けられたものであり、ブラフマージーが主クリシュナの降誕の際に起きる未来の出来事をナーラダに伝えていることに特に留意する必要があります。主の遊戯は過去、現在、未来を見ることができる能力に秀でた者によって知られ、その一人であるブラフマージーは未来に起きることを予言しています。主がシャンカチューダを殺したのは、ラーサ・リーラのあとで起きた出来事であり、同時に起こったことではありません。前節でも山火事の一件での主の行いは、主がカーリヤ蛇を罰した時の遊戯とともに語られ、ここでも同様にラーサ・ダンスの遊戯とシャンカチューダを殺したことが一緒に説明されています。これらの出来事はブラフマージーがナーラダに予言をした後の未来に起きることでつじつまが合います。悪魔シャンカチューダは、ファールグナの月の期間にホーリカの主の遊戯が繰り広げられている最中に、主によって殺されました。それでインドでは今でもホーリカの主の遊戯の前日に、シャンカチューダの肖像を燃やして同じような儀式を行いますが、それは一般的にホーリーとして知られています。
 一般的に主や主の化身の降誕や活動は経典で予言されており、そのため偽の化身は、権威ある経典で述べられている出来事について知識のある人々を騙すことはできません。
ye ca pralamba-khara-dardura-keśy-ariṣṭa-
mallebha-kaṁsa-yavanāḥ kapi-pauṇḍrakādyāḥ
anye ca śālva-kuja-balvala-dantavakra-
saptokṣa-śambara-vidūratha-rukmi-mukhyāḥ
ye vā mṛdhe samiti-śālina ātta-cāpāḥ
kāmboja-matsya-kuru-sṛñjaya-kaikayādyāḥ
yāsyanty adarśanam alaṁ bala-pārtha-bhīma-
vyājāhvayena hariṇā nilayaṁ tadīyam

訳語

翻訳

プラランバ、デーヌカ、バカ、ケーシー、アリスタ、チャヌーラ、ムスティカ、象のクヴァラヤーピーダ、カンサ、ヤヴァナ、ナラカースラなどの悪魔の性質を持つ者たち、シャルヴァ、猿のドヴィヴィダ、バルヴァラ、ダンタヴァクラ、7頭の雄牛、シャンバラ、ヴィドゥラータ、ルクミーのような勇将、そしてカーンボジャ、マツヤ、クル、スリンジャヤやケーカヤなどのような偉大な戦士は皆、主ハリと直接、あるいはバラデーヴァ、アルジュナ、ビーマという名の主と、激しく戦うだろう。そうして殺される悪魔たちは非人格的なブラフマジョーティ、またはヴァイクンタ惑星にある主ご自身の住処へと到達するであろう。

解説

 物質世界及び精神世界の両方に存在するあらゆる顕現は、全て主クリシュナの様々な力の現れです。人格神バラデーヴァは主の直接の個人的拡張体であり、ビーマやアルジュナなどは主の個人的な仲間です。主は(主が現れるときは必ずそうされるのですが)、御自身の仲間とエネルギーの全てを伴って降臨されます。ですからプラランバなどここで名前を挙げられている悪魔や悪魔の性質を持つ者たちといった反抗的な魂は、主ご自身または主の仲間によって殺されます。これらの出来事は全て10編で詳しく説明されていきます。しかしここで理解すべきなのは、上に述べられている殺されるはずの生命体は皆、主のブラフマジョーティとの融合、またはヴァイクンタと呼ばれる主の数ある住処に入ることが許され解放を得るということです。これはすでにビーシュマデーヴァによって(第1編)説明されています。クルクシェートラの戦場に参加した者、また主やバラデーヴァと戦って殺された者は、皆死ぬ時の心の状況に応じて精神的な存在を手に入れるという恩恵を得るのです。主の存在を認めた者はヴァイクンタに入り、主をただの偉大な力を持つ者として捉えた人々は主の非人格的なブラフマジョーティーという精神的な存在に融合することで解放を達成します。しかしその誰もが物質的存在から解放されるのです。主と敵対する役を演じた者がそのような恩恵を受けるのであれば、超越的な関係のなかで主に信心深く仕えた者の立場は容易に想像できます。
kālena mīlita-dhiyām avamṛśya nṝṇāṁ
stokāyuṣāṁ sva-nigamo bata dūra-pāraḥ
āvirhitas tv anuyugaṁ sa hi satyavatyāṁ
veda-drumaṁ viṭa-paśo vibhajiṣyati sma

訳語

翻訳

サテャヴァティーの息子[ヴィヤーサデーヴァ]の姿で化身された主は、自ら編纂したヴェーダ文献が、寿命が短く知識の乏しい人々にとって非常に難しいものだとお考えになり、そのため主はヴェーダの知識の木を特定の時代の状況に応じ、様々な分野に分けるであろう。

解説

 ここでブラフマーはカリ時代に生きる短命な人々のために編纂される『シュリーマド・バーガヴァタム』について触れています。第1編で説明されているように、カリ時代に生きる知識の乏しい人々は、寿命が短いだけではなく、無神論をうたう人間社会の不穏な環境によって引き起こされる様々な問題に悩まされています。物質自然の法則によると、肉体の物質的な快適さを向上させるのは、無知の様式における活動です。知識を向上させるということの本当の意味は、自己の悟りについての知識を培うことなのです。しかしカリ時代において知識の乏しい人は、100年という短い生涯(実際には、今では40年から60年ほどに縮みましたが)が全てだと思い込んでいます。彼らは人生の永遠性についての情報をまったく持っていないがために知性に欠けており、40年ほどしか存在しないこの一時的な肉体を自己と同一視し、それを生命の唯一の基本原則だと思い込んでいます。そのような人は、ロバや牛と同等だとみなされます。しかし主は、あらゆる生命体の慈悲深い父親として、彼らに『バガヴァッド・ギータ』などの短い文献を通して膨大なヴェーダの知識を、そしてそれを習得した者には『シュリーマド・バーガヴァタム』を授けてくださるのです。同様に『プラーナ』や『マハーバーラタ』も物質自然の様式に生きる多種多様な人々のためにヴィヤーサデーヴァがお書きになったものです。しかしそのどれもが、ヴェーダの原則から独立したものではありません。
deva-dviṣāṁ nigama-vartmani niṣṭhitānāṁ
pūrbhir mayena vihitābhir adṛśya-tūrbhiḥ
lokān ghnatāṁ mati-vimoham atipralobhaṁ
veṣaṁ vidhāya bahu bhāṣyata aupadharmyam

訳語

翻訳

無神論者は、ヴェーダの科学的知識に精通したのち、偉大な科学者マヤによって精巧に創られた人の目には見えないロケットで天空を飛び回りながら、様々な惑星の住人たちを滅ぼす。その頃主は、ブッダの姿で魅力的な装いをして人々の心を惑わせ、宗教に代わる原則を布教するであろう。

解説

 この主ブッダの化身は、現在の人類の歴史にあるブッダの化身とは異なります。シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーによると、この節に述べられているブッダの化身は別のカリ時代に現れました。1人のマヌの生涯の間に72回以上カリユガが巡り、そのうちの一つにここで記されているような特徴を持つブッダが現れます。主ブッダは、人々が非常に物質主義的になるときに地上に降誕し、そして常識的な宗教原則を布教します。そのようなアヒンサー自体は宗教原則ではないのですが、実際に宗教的な人にとっては重要な性質です。他の動物や生き物に危害を加えてはならないと勧められているのは、そのような行為は危害を加える者にとっても同様に危険だからです。それゆえこれを常識としての宗教といいます。しかしこれらの非暴力の原則を学ぶ前に、人々は謙虚でいること、そして傲慢でないことという二つの原則をまず学ぶ必要があります。謙虚さをもち、傲慢さをなくさない限り、人は他者に危害を与えない非暴力な人にはなれません。そして非暴力を身につけたあと、人は忍耐強さと質素な生活を学ぶべきです。誰もが偉大な宗教の布教者と精神指導者に敬意を表し、また制御された活動のために感覚を鍛えながら、家族や家への執着をなくすことを学び、主への献身奉仕に従事するといったことを行わなくてはなりません。最終的に人は主を受け入れ、主の献身者になる必要があります。でなければ宗教ではありません。宗教原則において神が中心にあるべきで、さもなくば単なる道徳的な教えはウパダルマとして一般的に知られる、宗教に準ずる原則、つまり宗教原則に類似したものに過ぎないのです。
yarhy ālayeṣv api satāṁ na hareḥ kathāḥ syuḥ
pāṣaṇḍino dvija-janā vṛṣalā nṛdevāḥ
svāhā svadhā vaṣaḍ iti sma giro na yatra
śāstā bhaviṣyati kaler bhagavān yugānte

訳語

翻訳

その後カリユガの終わりに、聖者や高位の3階級に属する尊い家系の家々でさえ、主の話題が途絶える時、政府の権力が低い生まれのシュードラ階級やより低い階級から選ばれた大臣の手に渡るとき、さらに供儀の方法に関する知識が完全に失われる時、主は罰を下す至高の者としてこの世に現れる。

解説

 カリユガと呼ばれるこの時代の最終段階における物質世界の最もひどい状態の徴候がここで述べられています。この状態の要点は無神論です。聖者と呼ばれる者たちや、社会階級において一般的にドヴィジャ・ジャナ、すなわち再誕者として知られている高位のカーストの人々でさえ無神論者になっていきます。こうして、誰もが主の聖なる御名でさえほとんど忘れてしまうのですから、主の活動に関して忘れてしまうのは言うまでもありません。社会のより高いカースト、つまり社会階級の人々の運命を導く知識者階級、社会の法と秩序を導く管理者階級、そして社会の経済発展を導く商業者階級はどれも、至高主に関する知識によく精通し、主の御名、質、遊戯、仲間、品々、個性などを事実として知っているべきです。聖者や社会階級の高位に位置する人々は、神の科学に関する知識、すなわちタットヴァ・ジュニャーナの程度に応じて評価されるのであり、生まれや肩書きで評価されるのではありません。神の科学に関する知識や献身奉仕に関する実践的な知識を併せ持たないそのような肩書きは、死体の飾りにすぎません。そして社会にこのような飾られた死体があまりにも増えすぎるると、人間の前進的、平和な生活に様々な異常が生じます。上位の社会階級の修練や教養の欠如がゆえにドヴィジャ・ジャナ、再誕者と呼ばれる人がいなくなります。再誕者の重要性はこれらの偉大な経典の様々な箇所で説明されてきましたが、ここで再び、父と母の性行為による誕生は、動物の誕生と変わらないということが述べられています。しかしそのような動物と同じような誕生や(精神生活の科学的文化を全く伴わない)食べる、寝る、恐れる、そして性行為をするという動物が持つ原則に基づいた生活の発展は、シュードラの生活、露骨に言えば、低俗で教養のない生活と呼ばれます。カリユガの社会における政治的権力は、教養がなく神を信じない労働階級者の手に渡り、ヌリデーヴァ(または政府の大臣)はヴリサラ、つまり社会の教養に欠けた低俗階級になるとここで述べられています。教養のない、低位の階級の人々があふれる人間社会には、誰も平和と繁栄を期待することはできません。そのような教養に欠けた社会的動物の兆候はすでにあちこちに見られ、それに気づき、神の意識の科学に精通した再誕者の原則を取り入れ、社会秩序の改革に務めることが指導者たる者の義務なのです。これは世界中に『シュリーマド・バーガヴァタム』の文化を広めることで達成できます。人間社会が堕落した状況の中、主はカルキアヴァターラとして降誕し、悪魔の性質を持つ人々を容赦なく殺していきます。
sarge tapo ’ham ṛṣayo nava ye prajeśāḥ
sthāne ’tha dharma-makha-manv-amarāvanīśāḥ
ante tv adharma-hara-manyu-vaśāsurādyā
māyā-vibhūtaya imāḥ puru-śakti-bhājaḥ

訳語

翻訳

創造の始まりには苦行、私自身[ブラフマー]、そして子孫を産む偉大な聖者たち、プラジャーパティが存在し、創造が維持されている間、主ヴィシュヌ、統治力を持つ神々、そしてあらゆる惑星の王が存在する。しかし最期には非宗教、そして主シヴァと怒りに満ちた無神論者などが存在する。全ては皆、主の至高なる力である主のエネルギーの現れである。

解説

 物質世界は主のエネルギーによって創られます。そのエネルギーは、創造界における最初の生命体であるブラフマージーの苦行によって、創造の初期に顕現され、そしてその後、偉大な聖者として知られる9人のプラジャーパティが現れます。創造が維持される段階では主ヴィシュヌへの献身奉仕、つまり事実上の宗教、あらゆる神々、そして世界を維持するさまざまな惑星の王が存在します。最後に創造が終わりに向かう時、始めに非宗教の原則が現れ、そしてその後、怒りに満ちた無神論者とともに主シヴァが現れます。しかしこれらは皆、至高主の様々な現れにすぎません。ですからブラフマー、ヴィシュヌ、マハーデーヴァ(シヴァ)は、物質自然の様々な様式の異なる化身なのです。ヴィシュヌは徳の様式の主であり、ブラフマーは激情の様式の主、シヴァは無知の様式の主です。究極的に物質創造というのは、物質世界に閉じ込められている束縛された魂に解放の機会を与えるための一時的な現れにすぎません。そして主ヴィシュヌの保護のもと徳の様式を育んだ者は、ヴァイシュナヴァの原則に従うことで解放を得る最高の機会を手に入れます。そして彼らは神の王国へと高められ、この不幸に満ちた物質世界に戻ることは、二度とありません。
viṣṇor nu vīrya-gaṇanāṁ katamo ’rhatīha
yaḥ pārthivāny api kavir vimame rajāṁsi
caskambha yaḥ sva-rahasāskhalatā tri-pṛṣṭhaṁ
yasmāt tri-sāmya-sadanād uru-kampayānam

訳語

翻訳

ヴィシュヌの能力を完全に描写することができる者などいるだろうか。それは、科学者に宇宙にある原子の素粒子を数える能力があったとしても、不可能である。なぜならトリヴィクラマの姿で、自らの足を使って、難なく最高位の惑星サテャローカを超えて、物質自然の三様式のニュートラルな状態の領域まで達したのは、主のみだからである。そしてあらゆるものが動いた。

解説

物質的科学者にとって最も高度な科学の進歩は、原子エネルギーです。しかし物質的科学者は、この宇宙全体に含まれている原子の粒子の数を予想することはできません。たとえそれらの粒子を数えたり、空を布団のように丸めることができたとしても、それでも誰も至高主の力とエネルギーの規模を推定することはできません。主がトリヴィクラマとして知られているのは、ある時ヴァーマナの化身としてご自身の足を最高位の惑星系サテャローカを超えるところまで広げ、物質世界の覆いと呼ばれる物質自然がニュートラルな状態にある領域まで到達されたからです。物質界の空の上には7層の物質から成る覆いがあり、主はそれらの覆いさえも貫くことができたのです。主がつま先でその覆いに穴を開けたところから、物質界の空へと原因の海の水が流れ込み、そしてその流れは、三界の惑星を清める聖なるガンジス川として知られるようになりました。つまり、超越的な力をお持ちであるヴィシュヌと同等なる者は存在しません。主は全能であり、主と比肩する、または主を超える者など存在しないのです。
nāntaṁ vidāmy aham amī munayo ’gra-jās te
māyā-balasya puruṣasya kuto ’varā ye
gāyan guṇān daśa-śatānana ādi-devaḥ
śeṣo ’dhunāpi samavasyati nāsya pāram

訳語

翻訳

私もそしてお前より前に生まれた全ての聖者たちも、全能なる人格神を完全には知らない。ならば、私たちよりも後に生まれた者に主を理解することなどできるだろうか?主の最初の化身、シェーシャでさえ千の頭を使って主の全能さを称え続けているのにもかかわらず、主について最後まで知ることはできないでいる。

解説

全能なる至高人格神は内的、外的、境界エネルギーという三つの主なエネルギーと、その三つのエネルギーの無限の拡張体をお持ちです。そのような主の力の拡張体を推定することができる者など決していません。なぜなら、シェーシャ化身の姿をした主御自身でさえも、千の頭を使ってそのエネルギーについて描写し続けてきたにもかからわず、その力を推し量ることはできないからです。
yeṣāṁ sa eṣa bhagavān dayayed anantaḥ
sarvātmanāśrita-pado yadi nirvyalīkam
te dustarām atitaranti ca deva-māyāṁ
naiṣāṁ mamāham iti dhīḥ śva-śṛgāla-bhakṣye

訳語

翻訳

しかし主への奉仕に純粋に身を委ねたゆえ、人格神である至高主から寵愛を受けた者は、克服しがたい幻想の海を乗り越え、主を理解することができる。しかし最期には犬やジャッカルに食されるであろうこの肉体に執着を持つ者は、主を理解することができない。

解説

主の純粋な献身者は、主がいかに偉大であり、そして主の多様なエネルギーの拡張体がいかにすばらしいかを理解しているという点で、主の栄光を知っていると言えます。しかしこの朽ち滅びる体に執着を持つ者が、神の科学の領域に入ることはほぼありません。物質的な肉体を自己とする概念に基づく物質世界全体が、神の科学に関して無知なのです。物質主義者は自分の肉体の幸せのためだけではなく、子孫、親族、社会の人々、国の人々などの肉体の幸せのためにも、いつも忙しく活動しています。政治的、国家的、国際的な観点からたくさんの慈善活動や博愛活動の分野がありますが、どの活動分野も物質的な体と精神的な魂を同一視するという間違った領域を超えることはできません。ですから、肉体と魂についての間違った概念から抜けださない限り、神に関する知識などあるはずがなく、また、神に関する知識がなければ、物質文明の発展がどれほどまばゆいものあっても、その文明は失敗したものだと見なされるべきなのです。
vedāham aṅga paramasya hi yoga-māyāṁ
yūyaṁ bhavaś ca bhagavān atha daitya-varyaḥ
patnī manoḥ sa ca manuś ca tad-ātmajāś ca
prācīnabarhir ṛbhur aṅga uta dhruvaś ca
ikṣvākur aila-mucukunda-videha-gādhi-
raghv-ambarīṣa-sagarā gaya-nāhuṣādyāḥ
māndhātr-alarka-śatadhanv-anu-rantidevā
devavrato balir amūrttarayo dilīpaḥ
saubhary-utaṅka-śibi-devala-pippalāda-
sārasvatoddhava-parāśara-bhūriṣeṇāḥ
ye ’nye vibhīṣaṇa-hanūmad-upendradatta-
pārthārṣṭiṣeṇa-vidura-śrutadeva-varyāḥ

訳語

翻訳

ナーラダよ、主の力は知ることも計ることもできないが、それでも私たちは身を委ねた魂であるゆえ、主がヨガ・マーヤのエネルギーを通じて、いかに行動なさるのかを理解することができる。同様に、主の力は全能なるシヴァ、無神論者の家族に属する偉大なる王プラフラーダ・マハーラージャ、スヴァーヤンブヴァ・マヌ、彼の妻シャタルーパ、そして彼らの息子や娘たちであるプリヤヴラタ、ウッターナパーダ、アークーティ、デーヴァフーティ、プラスーティ、さらにプラーチーナバルヒ、ルブ、ヴェーナの父であるアンガ、マハーラージャ・ドゥルヴァ、イクシュヴァーク、アイラ、ムチュクンダ、マハーラージャ・ジャナカ、ガーディ、ラグ、アンバリーシャ、サガラ、ガヤ、ナーフシャ、マーンダータ、アラルカ、シャタダンヴェ、アヌ、ランティデーヴァ、ビーシュマ、バリ、アムールッタラヤ、ディリーパ、サウバリ、ウタンカ、シビィ、デーヴァラ、ピッパラーダ、サーラスヴァタ、ウッダヴァ、パラーシャラ、ブーリシェーナ、ヴィビーシャナ、ハヌマーン、シューカデーヴァ・ゴースヴァーミー、アルジュナ、アーリシュティシェーナ、ヴィドゥラ、シュルタデーヴァなどにも知られている。

解説

 上に挙げられている過去や現在に活躍した主の偉大な献身者や、さらには未来に現れる主の献身者たちも含めて誰もが、主の様々な力のみならず、主の御名、質、遊戯、仲間、個性といった力についてもよく知っています。どのようにして、それを知ることとなったのでしょうか。もちろん思索を重ねたり、あるいは認識するための限られた道具を利用して理解したのではありません。認識するための限られた道具(それが感覚、あるいは顕微鏡や望遠鏡のような物質的な道具であったとしても)では、私たちの目に映る主の物質エネルギーでさえも、完全に理解することはできないのです。例えば科学者たちの推定をはるかに超えた、何百万、何十億もの惑星が存在します。しかしこれらは主の物質エネルギーの現れにすぎません。そのような物質的な試みで、科学者たちは主の精神エネルギーについて何を知ることができるでしょうか?「もしも」や「おそらく」をいくつも並べたてた推論は、知識を発展する手助けにはなりません。それどころか、そのような推論は、神を理解することを断念させ、神など存在しないと宣言させるような失望へと人々を導くのです。ですから良識ある人間は、自分の小さな脳で理解できる範囲を超えた話題について推測するのをやめ、自ずから真の知識の領域へと導いてくださる唯一のお方、至高主へ身を委ねようとします。単に必死に努力したり、頭を働かせたりすることで、あるいは推論を重ねたり、言葉を操ったりすることだけでは至高人格神を理解することなど決してできない、とウパニシャッドに明記されています。主を知ることが出来るのは主に身を委ねた魂だけです。ここでは物質的な生命体の中で最も偉大なブラフマージーがこの真実を認めています。ですから実験的知識の道を追求してエネルギーを無駄にするようなことをやめなくてはなりません。人は主に身を委ね、上記の人々の権威を認めることで知識を手に入れるべきです。主は無限であり、魂が主に身を委ねる度合いに応じて主を知ることができるよう、ヨーガ・マーヤの恩恵によってその魂を助けてくださいます。
te vai vidanty atitaranti ca deva-māyāṁ
strī-śūdra-hūṇa-śabarā api pāpa-jīvāḥ
yady adbhuta-krama-parāyaṇa-śīla-śikṣās
tiryag-janā api kim u śruta-dhāraṇā ye

訳語

翻訳

主に身を委ねた魂は、女性、労働者階級、山岳住民、シベリア人など罪深い生活を送る集団の出身であったとしても、また鳥や獣であっても、主の純粋な献身者に身を委ねて献身奉仕における彼らの足跡に従うことで、神の科学について知り、幻想エネルギーの束縛から自由になることができる。

解説

 時に、至高主にどう身を委ねればいいのかと尋ねる人たちがいます。『バガヴァッド・ギーター 』(18-66)のなかで、主はアルジュナに、自身に身を委ねるようにと言いますが、それを望まない人たちは、神がどこに存在し、誰に身を委ねるべきなのかと問います。そのような質問や問いかけの答えがここで明確にされています。人格神は私たちの目の前に現れていないかもしれませんが、真剣に導きを求めている者に対し、主は神のもと、ふるさとへと導いてくれる真正な人を送ってくださいます。精神的悟りへの道の発展に物質的な資格は必要ありません。物質界では、もし誰かが何らかの仕事を受け入れれば、それに応じて何らかの資格を持つ必要があります。その資格を持たない人はその仕事には適しません。しかし主への献身奉仕に必要な資格は、身を委ねることだけです。自分の身を委ねるかは本人が決めることです。その人が望めば、すぐに身を委ねることができ、そうすることで彼の精神生活が始まるのです。神の真正な代表者は、神と同様の存在です。言い換えれば愛情ある主の代表者はより親切で、近づきやすい存在です。罪深い魂は直接主に近づくことができませんが、主の純粋な献身者には簡単に近づくことができます。そして、もしそのような主の献身者の導きの元に身を置くと決めれば、彼もまた神の科学を理解し、超越的で純粋な献身者のようになり、永遠なる喜びが存在する神のもと、ふるさとへと解放を得ることができるのです。
 ですからそのような望みをもつ者にとって、神に関する科学を悟ることや、必要のない無益な生存競争から解放されることは、決して難しいことではありません。しかし、身を委ねることをしない、無駄に人生を費やす無知な思索家にとっては、それは非常に困難なことなのです。
śaśvat praśāntam abhayaṁ pratibodha-mātraṁ
śuddhaṁ samaṁ sad-asataḥ paramātma-tattvam
śabdo na yatra puru-kārakavān kriyārtho
māyā paraity abhimukhe ca vilajjamānā
tad vai padaṁ bhagavataḥ paramasya puṁso
brahmeti yad vidur ajasra-sukhaṁ viśokam

訳語

翻訳

絶対なるブラフマンとして知られるものは、悲しみのかけらもない無限なる至福に満ち溢れている。それは確かに、人格神であられる至高なる享楽者の究極的な側面にほかならない。主はいかなる時も、いかなる困難も持たず、何かを恐れることもない。主は物質とは対照的な、完全なる意識である。汚れがなく、区別を持たない主は、あらゆる因果関係の原初の原因であり、主のなかに結果を求める供儀は存在せず、幻想エネルギーが主の前に立ちはだかる余地もない、主はそのようなお方である。

解説

 至高の享受者である人格神は、あらゆる原因の至高の要因であるゆえ、至高なるブラフマン、または至高善なのです。非人格的なブラフマンの悟りの概念は、物質存在の幻想的な概念と主を区別しているため、初歩の段階だと言えます。つまり、明かりがその対になる暗闇と区別された概念であるのと同じように、非人格的なブラフマンは、物質的多様性と区別された絶対者の様相のひとつです。しかし光をより理解した者は、光にも多様性があるということに気づきます。したがって、ブラフマンの悟りの最終段階は、ブラフマンの光の源である至高人格神、つまり最高善、または全ての根源を意味します。よって人格神との出会いには、悟りの初期段階であり、物質的な幻想とは対照的な非人格的ブラフマンの悟りも含まれます。人格神はブラフマンの悟りの第3の段階です。第一編でも説明されているように、私たちはブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンという絶対真理の三つの様相を理解しなければなりません。
 プラティボダ・マートゥラムとは物質存在と正反対の概念です。物質には物質的な苦しみがあるため、ブラフマンの悟りの最初の段階には、そのような物質的な苦しみが否定され、誕生と死、病と老化の苦しみからかけ離れた永遠の存在を実感することができます。それが非人格的なブラフマンにおける最初の概念です。
 至高主は全ての至高の魂であるため、至高なる概念のなかには愛情が存在しています。この愛情の概念は魂と魂の繋がりによるものです。父親が息子に愛情を抱くのは二人の間に何らかの親密な関係が存在するからです。しかし物質界におけるそのような愛情には多くの制限があります。人格神との出会いには愛情深い関係が実際に存在するために、無量の愛情が余すことなく表れます。主は肉体や心という物質の性質を帯びた愛情の対象ではなく、あらゆる生命体のための、完全で、ありのままの、そして汚れのない愛情の対象なのです。なぜなら主は、至高の魂、つまり全てのハートに宿るパラマートマーだからです。そして解放された段階において、主に対する完全な愛が目覚めるのです。
 このように主との関係には、物質世界のように終わりを恐れる必要のない、永遠なる幸せが絶え間なく満ち溢れているのです。主との関係は決して壊れることがないため、悲しみも恐れもありません。そのような幸せを言葉で説明することは不可能で、主との関係には、物質世界のように終わりを恐れる必要のない、永遠なる幸せが絶え間なく満ち溢れているのです。しかしこの節で述べられているような、至高なるお方である人格神と交わす絶え間ない幸せというのは、『ウパニシャッド』での非人格的な概念を超越したものであると理解する必要があります。『ウパニシャッド』の記載は多かれ少なかれ物事の物質的な概念を否定していますが、これは至高主の超越的な感覚を否定するものではありません。ここでもまた、至高主は純粋(シュッダム)であるという主張のなかに、同じのことが確証されています。シュッダムという言葉は、人格神の感覚が物質的な要素から作られているのではなく、全て超越的で物質と自己を同一視するという汚れから自由であるということを示しています。また解放された魂も感覚を持たないわけではありません。そうでなければ、自然に沸き起こる絶え間ない喜びのなかで交わされる、無限の精神的な幸せの交換が存在するはずがありません。主と献身者のあらゆる感覚には物質的な汚れがありません。なぜならここで明記されているように(sad-asataḥ param)、彼らは物質的な原因や結果を超越しているからです。幻想的な物質エネルギーは、主や超越的な献身者の前では自らを恥じ、活動することができません。物質世界に悲しみのない感覚の活動はありませんが、ここで主や献身者の感覚には悲しみがないとはっきり述べられています。物質的な感覚と精神的な感覚には確かな違いが存在します。そして人々は物資的な概念から精神的な感覚を否定するのではなく、その違いを理解するべきです。
 物質世界の感覚は物資的な無知で満ちています。権威ある者たちは、あらゆる方法を尽くして物質的概念から感覚を浄化することを勧めてきました。物質世界において、感覚は個人や自己の満足のために巧みに扱われますが、精神世界では感覚が本来の目的、つまり至高主の満足のために正しく使われています。そのような感覚の活動は自然なもので、そこでは感覚が精神的に浄化されているため、感覚の喜びは物質的な汚れによって妨げられることも、途切れることもありません。そしてそのような感覚の満足は超越的な愛情を交わす者たちの間で平等に分けられます。この活動は無限で常に増大していくため、物質的な試みや不自然な計画が入る余地などありません。そのような超越的な質をもつ喜びはブラフマ・サウキャムと呼ばれ、第5篇でより詳しく説明されていきます。
sadhryaṅ niyamya yatayo yama-karta-hetiṁ
jahyuḥ svarāḍ iva nipāna-khanitram indraḥ

訳語

翻訳

そのような超越的な境地において、ジュニャーニーやヨーギーが行うような不自然な心の抑制や思索、瞑想などは必要ない。天界の王インドラが井戸を作るといった煩わしいことをしないように、人はそのような過程を放棄する。

解説

貧しい男性は水を得るために井戸を必要とし、そのために地面を掘るという煩わしい作業をします。同様に超越的な悟りのない人々は心について思索したり、感覚を制御して瞑想を試みます。しかし、至高なるお方である人格神への超越的な愛情奉仕に実際に従事すれば、すぐにそのような感覚の抑制や精神的な完成が同時に可能となるということを彼らは知りません。この理由から偉大な解放された魂も、主の活動について聞いたり唱えたりする行為に触れることを望むのです。この点に関してインドラの例はとても適切です。天界のインドラ王は宇宙で雲を操ったり雨を降らせることを司る者、つまり神々の一人であり、そのため自分の水を確保するために井戸を掘る必要などありません。彼にとって水を得るために井戸を掘ることなど馬鹿げた話です。同様に、主への愛情奉仕に従事している人は、すでに人生の究極の目的を達しており、神の本質や神の活動を探るために思索にふけったりする必要などないのです。また主の想像上の人格や真の人格について瞑想する必要もありません。主への超越的な愛情奉仕に実際に従事しているため、主の純粋な献身者は推論や瞑想の結果をすでに得ているのです。ですから人生の真の完成とは主への超越的な愛情奉仕につくことです。
sa śreyasām api vibhur bhagavān yato ’sya
bhāva-svabhāva-vihitasya sataḥ prasiddhiḥ
dehe sva-dhātu-vigame ’nuviśīryamāṇe
vyomeva tatra puruṣo na viśīryate ’jaḥ

訳語

翻訳

人格神は、あらゆる吉兆な事柄の至高なる主人である。なぜなら、生命体が物質的な生活、あるいは精神的な生活において行う活動の結果は、主によって授けられるからだ。そのため、主は究極の恩人である。個々の生命体は全て生まれることのない存在であるため、物質的な肉体が滅びても生命体は体内の空気のように存在し続ける。

解説

生命体は生まれることなく、永遠であり、そして『バガヴァッド・ギーター 』(2-30)で確証されている通り、物質的な肉体が滅びても、生命体が消滅することはありません。生命体が物質的な存在の中に居続ける限り、彼によってなされる行動の結果は来世、また時には現世において与えられます。同様に精神生活における活動の結果も、主から5種類の解放という形で与えられます。非人格主義者であっても、至高人格神の恩恵なくして至高なる存在に融合するという望みを達成することはできません。主は人々の望みと同様の結果を現世で与えると『バガヴァッド・ギーター 』(4-11)は確証しています。生命体は選択をする自由が与えられており、主はそれに応じて結果を与えてくださるのです。
 ですから望む目的を達成するため、人格神だけを心から崇拝することが人々の義務なのです。非人格主義者も思索したり瞑想したりする代わりに、日々の主への献身奉仕を直接行うことで望んだ結果を簡単に得ることができます。
 しかし献身者は非人格主義者が望むような精神的な存在への融合ではなく、主と交際したいと自然に望むものです。ですから献身者は元々持っている傾向に従い、主の召使い、友、父親、母親、恋人になるという望みの結果を達成します。主への献身奉仕は聴く、唱えるといった9つの超越的な方法を含みます。このような簡単で自然な献身奉仕を行うことで、献身者はブラフマンの存在に融合することよりもはるかにすばらしい結果を得るのです。ですから献身者が至高なる存在の性質について思索することや不自然に無について瞑想する必要は全くありません。
 しかしながら、現在の肉体が滅びたあと、人は主と直接交流することのできる体を持たない、という間違った考えを持つべきではありません。生命体は生まれることはありません。つまり生命体が物質の肉体の創造とともにこの世に現れる、ということではないのです。一方で、生命体のもつ望みこそが肉体を発達させるのも事実です。肉体の進化は生命体の望みによるものなのです。生命体の望みに応じて物質の肉体が発達していきます。ですから、生命力によって生成された肉体が存在するのは、精神的な魂があるがゆえです。生命体は永遠であるため、ちょうど体内の空気のように存在しています。ですから外の覆い、つまり肉体が滅びても、生気は体内の空気のように存在し続けます。そして主は究極の恩人であるため、主が命ずることで、生命体はサールーピャ(主と同じ体を持つ)、サーローキャ(主と同じ惑星で暮らせるよう同等の便宜が与えられる)、サールスティ(主と同じような富を持つ)、サーミーピャ(同等の立場で主と交流する)といった、主との交流にふさわしい精神的な体が与えられます。
 主はとても優しいお方であるため、たとえ主の献身者が、物質的交際によって汚されていない、純粋な献身奉仕を最後まで全うすることができないとしても、来世で献身者や裕福な家庭に生まれることによって再びチャンスが与えられます。そして物質的な生存競争に乱されることなく、献身者は自らの存在を完全に浄化し、現在の肉体を放棄したあとすぐに、ふるさと、神のもとへ戻ることができるのです。このことは『バガヴァッド・ギーター 』で確証されています。
これに関する詳しい記述はシュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミー・プラブパーダの『バガヴァッド・サンダルバ』に書かれています。前節でも述べられているように、精神的な存在に達成した献身者は永遠にそこに存在し続けるのです。
so ’yaṁ te ’bhihitas tāta
bhagavān viśva-bhāvanaḥ
samāsena harer nānyad
anyasmāt sad-asac ca yat

訳語

翻訳

愛しい息子よ、私は現象界の創造者である至高人格神について手短に説明した。主(ハリ)の他に、現象世界や実体世界が存在する原因となるものはない。

解説

 私たちはいつも、はかない物質世界と、その世界を支配しようと努める束縛された魂、という関係を経験しています。そのためブラフマージーはナーラダデーヴァに、この一時的な世界は主の外的エネルギーの働きであり、生きるために苦闘する束縛された魂は至高主である人格神の境界エネルギーである、と説明しています。あらゆる原因の根本原因である至高主、ハリの他に、これら現象全ての活動の原因となるものは存在しません。しかし、だからといって主自身が非人格的な部分に分けられるわけではありません。主はこのような外的エネルギーと境界エネルギーの相互作用の影響を受けることはありません。『バガヴァッド・ギーター 』(9-4)で主はご自身の力を通してのみ、あらゆる場所に存在していると確証しています。顕現したすべてものは主のエネルギーだけを拠り所としていますが、それでも主は至高人格神としてすべてものから離れています。力とその力を持つ者は一つであり、またそれと同時に異なっているのです。
 王が国内に牢獄を作ることを責めるべきではないのと同じように、私たちは、主がこの不幸な世界を創造したことを非難するべきではありません。牢獄は、国の掟に従わない者に対する施設で、政府が国を治めるために必要です。同様に、不幸に満ちたこの物質世界は、主を忘れて偽の現象界を支配しようする人たちのために作られた、主のはかない創造物なのです。しかし主は堕落した魂がふるさと、神の元へ戻ることを常に切望しており、そのため権威ある経典、主を代表する者たち、そしてご自身の化身を通して、束縛された魂に何度もその機会を与えてくださっています。主はこの物質世界に直接的な執着を抱いていないため、それを創造したことに対して、主を責めるべきではないのです。
idaṁ bhāgavataṁ nāma
yan me bhagavatoditam
saṅgraho ’yaṁ vibhūtīnāṁ
tvam etad vipulī kuru

訳語

翻訳

ナーラダよ、神の科学であるこの『シュリーマド・バーガヴァタム』の概要は至高人格神によって私に伝えられた。そしてそれは主の多様な力の集大成として語られた。どうかお前にはこの科学を広めて欲しい。

解説

 後に明かされていく6つの節を通して、人格神によって簡潔に語られた『バーガヴァタム』は神の科学であり、人格神の強力な現れです。主は絶対なるお方であるため、神の科学『シュリーマド・バーガヴァタム』と何の違いもありません。ブラフマージーはこの神の科学を主から直接授かり、それをそのままナーラダに伝え、ナーラダは、シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァにそれを広めるよう指示なさいました。ですから至高主に関する超越的知識は俗的な論者による推論ではなく、物質様式の範囲を超えた汚れのない、永遠で完璧な知識なのです。したがって『バーガヴァタ・プラーナ』は超越的な音の姿をとった主の直接的な化身であり、人々はこの超越的な知識を師弟継承を通じて、主の正真正銘の代表者から受け取るべきです。その師弟継承は、主からブラフマージー、ブラフマージーからナーラダ、ナーラダからヴィヤーサ、ヴィヤーサデーヴァからシュカデーヴァ・ゴースヴァーミー、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーからスータ・ゴースヴァーミーへと続いてきました。ヴェーダの木の熟した果実は、高いところにある枝から地面に落ちて壊れることなく、一つの手から別の手へと降ろされていくのです。ですから上に記されているように、師弟継承を通じて正真正銘の代表者から神の科学を聞かない限り、その主題を理解するのはとても困難です。『バーガヴァタム』を職業として語り、観客の感覚を満足させて生計を立てるような人からは決して聞いてはならないのです。
yathā harau bhagavati
nṛṇāṁ bhaktir bhaviṣyati
sarvātmany akhilādhāre
iti saṅkalpya varṇaya

訳語

翻訳

全生命体の至高の魂であり、あらゆるエネルギーの最高の源である人格神ハリへの超越的な献身奉仕を人間が育めるよう、決意をもってこの神の科学を説明してほしい。

解説

 『シュリーマド・バーガヴァタム』は献身奉仕の哲学であり、人間と至高人格神との関係に関する科学でもあります。カリ時代以前には、主と主のエネルギーに関する知識の書物など必要ありませんでしたが、カリ時代の始まりとともに人間社会は徐々に女性との不正な交わり、陶酔物の使用、賭博、動物の不必要な殺害という4つの罪悪の影響を受けるようになりました。こうした罪を犯すことで、人々は、神との永遠の関係を徐々に忘れるようになりました。こうして人々は人生における究極の目的に対して、ある意味で盲目になったのです。人生の究極の目的は、動物のように無責任な人生を送り、食べる、寝る、恐れる、性行為をするという4つの動物の基本行動に、より洗練された方法で耽ることにあるのではありません。そのような無知の暗闇の中にいる盲目な人間社会にとって、『シュリーマド・バーガヴァタム』は、物事を正しく見るための灯火です。したがって神の科学を初めから、つまり現象界の誕生から説明する必要があるのです。
 すでに説明したように、『シュリーマド・バーガヴァタム』はとても科学的であるるため、この偉大な科学を真面目に学ぼうとする者はこれを熟読、または正真正銘の話し手から定期的に聞くことで神の科学を理解することができます。誰もが人生で幸せを追い求めていますが、この時代における人々は盲目であるため、人格神があらゆる物事の究極の源であるがゆえに(janmādy asya yataḥ)、全ての幸せの源もまた主であるという正しい見解を持ち合わせていないのです。侵されることのない完全な幸せは、主との献身的な関係によってのみ達成することができます。そして主との交流だけが私たちを惨めな物質存在から解放してくれるのです。この物質世界における喜びを追い求める人も『シュリーマド・バーガヴァタム』の偉大な科学の保護を求め、最終的に成功を収めることができます。ですからナーラダの精神指導者は、ナーラダに決意をもって適切な計画でこの神の科学を広めるよう要求、あるいは指示したのです。ナーラダは決して生計を立てるために『バーガヴァタム』の原則を教えるよう指示されたのではありません。彼は布教の精神でこの科学を真剣に広めるよう、精神の師に指示されたのです。
māyāṁ varṇayato ’muṣya
īśvarasyānumodataḥ
śṛṇvataḥ śraddhayā nityaṁ
māyayātmā na muhyati

訳語

翻訳

主の様々なエネルギーとの関係における主の活動は、至高主の教えに沿って語られ、理解され、そして聴かれるべきである。それらを献身的な態度で敬意を込めて定期的に行えば確実に主の幻想エネルギーから抜け出すことができるだろう。

解説

ある物事を真剣に学ぶための科学は、狂信者の感情論とは異なります。狂信者や愚かな人は、外的エネルギーと関わりをもつ主の活動は自分にとって無意味だと考え、自分は主の内的エネルギーに参加する、より高位の者だというような誤った主張をすることがあります。しかし実際には、外的エネルギーと関わりをもつ主の活動も、内的エネルギーと関わりをもつ主の活動も、どちらも同じようにすばらしいものです。一方で主の外的エネルギーから完全に解放されていない人々は、外的エネルギーに関する主の活動について信心をもって、定期的に聴くべきです。主のラーサ・リーラの活動に間違った魅力を感じ、愚かにも正しい過程を飛び越えて主の内的エネルギーの活動について聞こうとすべきではありません。バーガヴァタムの低俗な語り手は主の内的エネルギーの活動について熱く語り、そして物質の感覚満足に浸る偽の献身者は、段階を経ずに間違って解放の段階の話題に飛びつくため、両者は外的エネルギーの深い罠へと落ちてしまうのです。
 彼らの中には主の遊戯を聴くということは、ゴーピーたちとの活動や主がゴーヴァルダナの丘を持ち上げた時の遊戯を聴くことであると考え、プルシャーヴァターラなどの主の完全拡張体や、物質界の創造、維持、破壊に関する拡張体の遊戯は無関係だと考える人がいます。しかし純粋な献身者はラーサ・リーラであっても、または物質世界の創造、維持、破壊であっても、主の遊戯には何の違いもないことを知っています。むしろプルシャーヴァターラとしての主の活動は特に、外的エネルギーに囚われている人々のために説明されているのです。ラーサ・リーラなどの話題は解放された魂のためであり、束縛された魂のためではありません。ですから束縛された魂はまず外的エネルギーと関わりをもつ主の遊戯を感謝と献身を持って聴くべきであり、それは解放された段階でラーサ・リーラについて聴くのと等しい行為です。束縛された魂は解放された魂の活動を真似るべきではありません。主シュリー・チャイタニヤは一般の人々とラーサ・リーラーについて聴くようなことは決してなさいませんでした。
 神の科学である『シュリーマド・バーガヴァタム』において、始めの9編は10編を聴くための基礎を築くためのものです。このことについては本編の最終章でより詳しく説明され、3編ではより明らかになっていきます。ですから主の純粋な献身者は10編からではなく、『シュリーマド・バーガヴァタム』を冒頭から読む、あるいは聴くべきなのです。私たちはいわゆる献身者から、すぐに10編に取り掛かるよう幾度か依頼を受けましたが、そのようなことはしませんでした。なぜなら私たちは『シュリーマド・バーガヴァタム』を、堕落した魂が感覚的に理解するためのものとしてではなく、神に関する科学として提示したいからです。感覚的なものとして提示することは、シュリー・ブラフマージーのような権威者たちによっても禁じられていることです。『シュリーマド・バーガヴァタム』を科学的に提示されたものとして読み聴くことで、束縛された魂は感覚満足に基づく幻想エネルギーから解放され、超越的な知識のより高い段階へと徐々に高められていくのです。
これで、バクティヴェーダンタによる『シュリーマド・バーガヴァタム』第2編・第7章「特定の役割を担う、予定された主の化身身」の要旨解説を終了します。