シュリーマド・バーガヴァタム 2.7.27

tokena jīva-haraṇaṁ yad ulūki-kāyās
trai-māsikasya ca padā śakaṭo ’pavṛttaḥ
yad riṅgatāntara-gatena divi-spṛśor vā
unmūlanaṁ tv itarathārjunayor na bhāvyam

訳語

翻訳

主クリシュナが至高主であることに疑いの余地はない。そうでなければどうやって母親の膝の上で抱かれるほど幼い頃に、プータナのような巨大な悪魔を殺したり、まだ生後3ヶ月の時に足で荷台をひっくり返したり、まだ四つんばいの頃に2本のアルジュナの木を空に触れるほど高く引き抜いたりすることができたであろうか。主以外には誰も、これらの行為をすることなどできない。

解説

 憶測によって、あるいは知性の低い人々が作った投票による多数決を用いて、神を身勝手に作り上げることはできません。神は永遠に神であり、一般の生命体は永遠に神の一部分です。神は唯一無二で、一般の生命体は無数に存在します。それら全ての生命体は神自身によって維持され、そしてそれこそが、ヴェーダ文献の見解なのです。クリシュナが母親の膝の上で抱かれていた時、悪魔プータナが母親の前に現れ、赤ん坊を自分の膝の上に抱いて授乳させてほしいと頼みました。母ヤショーダーはそれに同意し、赤ん坊は立派な女性の身なりをしたプータナの膝の上に置かれました。プータナは自分の胸の乳首に毒を塗り、赤ん坊を殺そうと企んでいたのです。しかし、全てが予定通りに進んだとき、主は、乳と一緒に彼女の生命の気まで吸い取り、6マイル (およそ9.7キロメートル) 以上もあったとされるその悪魔の巨体が倒れ落ちました。主にとっては6マイルよりもさらに大きくなることはいともたやすいことなのですが、女悪魔プータナと同じ大きさになる必要などどこにもありませんでした。主がヴァーマナ化身として現れたときに、主は小人のブラーフマナを装いましたが、バリ・マハーラージャが約束した土地を手に入れる際、主は自身の歩幅を数千、数百万マイルほどはるかにある宇宙の天辺まで拡張なさいました。ですから自身の体を大きくし、奇跡を起こすことなどクリシュナにとって容易なことですが、主は、母ヤショーダに対する息子としての深い愛情から、そのような行動をお望みになりませんでした。自分の膝の上に座るクリシュナが、女悪魔プータナを退治するために6マイルもの大きさになっているのを見たら、ヤショーダーの自然な母性愛は傷ついていたでしょう。なぜなら自分の息子だと思っているクリシュナが実は神自身だと知ることになるからです。クリシュナの神性を知ってしまえば、ヤショーダーマイーはクリシュナに対する自然な母親としての愛情をなくしてしまうでしょう。しかし主クリシュナは、母親の膝に座る子供であっても、宇宙を覆うヴァーマナデーヴァであっても、常に神なのです。主は、神になるために厳しい苦行など必要としません。しかしそのような方法で神になれると考える人たちもいます。厳しい禁欲生活と苦行に耐えたからといって、誰も主と同一、または対等になることはできませんが、多くの神々しい性質を手に入れることはできます。生命体は神々しい質のほとんどを手に入れることはできますが、神になることはできません。それに対してクリシュナはどんな苦行を行わなくても、母親の膝の上に抱かれる幼児であろうと、育ち盛りであろうと、どんな成長段階にあっても、神であり続けるのです。
 実際に、主は生後たった3ヶ月の頃、ヤショーダーマイーの家の荷台に隠れていたシャカタースラを退治なさいました。そして家事を行なおうとする母親を、四つんばいで歩きながら邪魔したとき、彼女は主をひき臼に縛りつけましたが、悪戯な子供はひき臼をヤショーダーマイーの庭にあった2本の高いアルジュナの木のところまで引きずりました。そしてひき臼が木の間にひっかかった際、二本の木はものすごい音を立てて倒れたのです。何が起きたのか確かめるためヤショーダーマイーがその場に駆けつけたとき、彼女は庭を四つんばいで歩いていた主ご自身が大惨事を起こしたとも知らず、主のご慈悲によって自分の息子は倒れる木々から救われたのだと思い込みました。このように、それが主と献身者の間の愛情交換のあり方です。ヤショーダーマイーは主を自分の子供とすることを望み、主は彼女の膝の上でまさに赤ん坊のように振る舞いましたが、同時に必要に応じて全能なる主の役割も果たされたのです。この遊戯のすばらしさは、主が全ての人の望みを叶えてくださったことです。巨大なアルジュナの木々を倒した遊戯における主の任務は、ナーラダの呪いによって木の姿に変えられたクヴェーラの二人の息子たちを解放してやること、そして自分の家の庭で主が遊ぶのを見ながら超越的な喜びに浸るヤショーダの庭を、小さな子供のように四つんばいになって遊ぶことだったのです。
 主はどんな状況でも宇宙の主であり、巨体であろうが、小さな子供であろうが、どんな姿であっても、御自身の望むように振舞うことができます。