シュリーマド・バーガヴァタム 2.7.42
節
yeṣāṁ sa eṣa bhagavān dayayed anantaḥ
sarvātmanāśrita-pado yadi nirvyalīkam
te dustarām atitaranti ca deva-māyāṁ
naiṣāṁ mamāham iti dhīḥ śva-śṛgāla-bhakṣye
sarvātmanāśrita-pado yadi nirvyalīkam
te dustarām atitaranti ca deva-māyāṁ
naiṣāṁ mamāham iti dhīḥ śva-śṛgāla-bhakṣye
訳語
yeṣām — それらにのみ; saḥ — 主; eṣaḥ — その; bhagavān — 人格神; dayayet — 主の慈悲を授ける; anantaḥ — 無限な力; sarva-ātmanā — 無条件に、あらゆる方法で; āśrita-padaḥ — 身を委ねた魂; yadi — もし、そのように身を委ねたら; nirvyalīkam — 見せかけもなく; te — それらのみ; dustarām — 乗り越えられない; atitaranti — 乗り越えることができる; ca —そしてそれらの品々; deva-māyām — 主の多様なエネルギー; na — 〜でない; eṣām — それらの; mama — 私の; aham — 私自身; iti — ゆえに; dhīḥ —意識ある; śva — 犬たち; śṛgāla —ジャッカルたち; bhakṣye — 食に関して
翻訳
しかし主への奉仕に純粋に身を委ねたゆえ、人格神である至高主から寵愛を受けた者は、克服しがたい幻想の海を乗り越え、主を理解することができる。しかし最期には犬やジャッカルに食されるであろうこの肉体に執着を持つ者は、主を理解することができない。
解説
主の純粋な献身者は、主がいかに偉大であり、そして主の多様なエネルギーの拡張体がいかにすばらしいかを理解しているという点で、主の栄光を知っていると言えます。しかしこの朽ち滅びる体に執着を持つ者が、神の科学の領域に入ることはほぼありません。物質的な肉体を自己とする概念に基づく物質世界全体が、神の科学に関して無知なのです。物質主義者は自分の肉体の幸せのためだけではなく、子孫、親族、社会の人々、国の人々などの肉体の幸せのためにも、いつも忙しく活動しています。政治的、国家的、国際的な観点からたくさんの慈善活動や博愛活動の分野がありますが、どの活動分野も物質的な体と精神的な魂を同一視するという間違った領域を超えることはできません。ですから、肉体と魂についての間違った概念から抜けださない限り、神に関する知識などあるはずがなく、また、神に関する知識がなければ、物質文明の発展がどれほどまばゆいものあっても、その文明は失敗したものだと見なされるべきなのです。