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解説

第10章

バーガヴァタムは、全ての問いに対する答え

śrī-śuka uvāca
atra sargo visargaś ca
sthānaṁ poṣaṇam ūtayaḥ
manvantareśānukathā
nirodho muktir āśrayaḥ

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シュリー・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは言った。『シュリーマド・バーガヴァタム』には、次の10項目に関する供述が含まれている。宇宙の創造、二次的な創造、惑星系、主による加護、創造の動機、マヌの交代、神の科学、ふるさとである神の元へ戻ること、解放、そして至高善である。
daśamasya viśuddhy-arthaṁ
navānām iha lakṣaṇam
varṇayanti mahātmānaḥ
śrutenārthena cāñjasā

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至高善の超越性を他と区別するため、その他の徴候は、ヴェーダの推論や、直接的な説明、そして偉大な聖者による要約のいずれかによって描写される。
bhūta-mātrendriya-dhiyāṁ
janma sarga udāhṛtaḥ
brahmaṇo guṇa-vaiṣamyād
visargaḥ pauruṣaḥ smṛtaḥ

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16から成る物質要素の創造、すなわち5つの要素[火、水、地、空気、空]、音、姿、味、匂い、触覚、そして目、耳、鼻、舌、肌、心はサルガと呼ばれ、その後に続く物質自然の様式の相互作用はヴィサルガと呼ばれる。

解説

これから続く7節のなかで、『シュリーマド・バーガヴァタム』において10の項目に分類された内容が説明されます。一つ目の節は、物質的な知性と心から成る物質的自我を含む、土、水、といった16の要素の創造に関して言及したものです。それに続く創造は、最初のプルシャ、ゴーヴィンダの化身であるマハー・ヴィシュヌの上記の16のエネルギーが相互に作用した結果、起こるものです。これは後に、ブラフマーが記した『ブラフマ・サムヒター』のなかで、次のように説明されています。
yaḥ kāraṇārṇava-jale bhajati sma yoga-
nidrām ananta-jagadaṇḍa-saroma-kūpaḥ
ādhāra-śaktim avalambya parāṁ sva-mūrtiṁ
govindam ādi-puruṣaṁ tam ahaṁ bhajāmi
マハー・ヴィシュヌとして知られるゴーヴィンダ、主クリシュナの最初のプルシャ化身は、ヨーガ・ニドラーの神秘的な眠りに入り、そしてその主の超越的な体の毛穴の一つ一つに、無数の宇宙が、顕現する可能性を秘めた状態で存在しています。
前節のシュルテーナによると(つまり、ヴェーダの結論を参照すると)、創造は、至高人格神自らが、ご自身の特定のエネルギーを現すことによって、可能となります。このようなヴェーダの見解を受け入れなければ、創造は、物質自然の産物であるかのように見えます。知識が乏しいがゆえに、このような結論に至るのです。ヴェーダの見解から、あらゆるエネルギー(内的、外的、境界)の根源は、至高人格神であると結論づけることができます。そしてこれまで説明してきたように、生命のない物質自然によって創造が行われるというのは、誤った結論です。ヴェーダの結論は超越的な光であるのに対して、ヴェーダに基づかない結論は、物質的な暗闇です。至高主の内的エネルギーは至高主と同じであり、外的エネルギーはその内的エネルギーとの接触によって活性化します。外的エネルギーと触れて、反応する内的エネルギーの部分は境界エネルギー、または生命体と呼ばれます。
したがって、原初の創造は至高人格神、つまりパランブラフマンが直接の原因であり、基の材料の相互作用的な結果である二次的な創造は、ブラフマーによって創られます。このようにして全宇宙の活動が始まります。
sthitir vaikuṇṭha-vijayaḥ
poṣaṇaṁ tad-anugrahaḥ
manvantarāṇi sad-dharma
ūtayaḥ karma-vāsanāḥ

訳語

翻訳

生命体にとって正しい状態とは、主の法則に従い、その結果、至高人格神の加護のもと、完全な心の平安を得た状態をいう。マヌたちと彼らの法律は、人生に正しい方向性を与えるために存在する。果報的活動に対する欲望が、活動を行う動機となる。

解説

この物質世界は主の意志によって創造され、一定期間維持され、再度破壊されます。創造の材料と、二次的な創造者であるブラフマーがまず、主ヴィシュヌの第一と第二の化身によって創られます。最初のプルシャ化身はマハー・ヴィシュヌであり、二番目のプルシャ化身はガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌです。そのガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌからブラフマーが創造されます。3番目のプルシャ・アヴァターラは、クシーロダカシャーイー・ヴィシュヌであり、宇宙の全ての至高の魂として存在し、ブラフマーが創った創造界を維持なさいます。シヴァはブラフマーの数多くの息子の一人であり、彼が創造を破壊します。したがって、宇宙の原初の創造者はヴィシュヌであり、そのヴィシュヌはご自身の無償の慈悲によって、創造された生命体を維持します。そのため主の勝利を認め、純粋な献身者になり、苦しみと危険が常に存在するこの世界で平和に暮らすのが、全ての束縛された魂の義務です。この物質創造を感覚を満たす場所として捉え、そのためにヴィシュヌの外的エネルギーに惑わされている束縛された魂たちは、再び物質自然の法則である創造、破壊にさらされるのです。
『バガヴァッド・ギーター』では、宇宙の最も高位な惑星から最も低位の惑星、パーターラローカに至るまで全ては破壊される運命にあり、束縛された魂は自らの良い活動や悪い活動を通して、あるいは現代の宇宙船で宇宙を旅することができますが、たとえ惑星によって寿命の長さが違ってはいても、どこでも彼らを死が待ち受けていると、述べられています。永遠の人生を得る唯一の方法は、物質的な惑星に存在するような再誕がないふるさと、神の元へと帰ることです。ヴァイクンタの主との関係を忘れてしまったせいで、このとても単純な事実に気付いていない束縛された魂たちは、この物質世界で永遠に生きようと考えます。外的エネルギーに惑わされた彼らは、ふるさとである神の元へと戻るという使命を忘れ、様々な経済的、宗教的な発展に従事しています。マーヤーの影響により、この忘却の力はとても強く働くため、束縛された魂が神の元へと戻りたいと望むことはありません。感覚満足によって、彼らは繰り返し生死の餌食となり、結果として、ヴィシュヌのもとに戻るための機会である人生を無駄にしています。様々な時代と創造期にマヌたちによって創られた、規則が示された経典はサド・ダルマ、人類のための正しい指導書と呼ばれ、人々は自分たちの人生を正しく終わらせるために、自分のために、全ての啓示経典を活用するべきです。創造界は偽りではなく、束縛された魂に神の元へ戻るための機会を与える一時的な現れなのです。神の元へと戻りたいという望み、そしてその目的のために行われる活動こそ、義務における正しい道を構成します。そのような規則的な道が受け入れられると、主はご自身の無償の慈悲で献身者にあらゆる加護を与えます。一方で献身者でない人たちは自身の活動を危険にさらしながら、果報的反動の鎖に自らを縛り付けています。これに関連して、サド・ダルマという言葉は重要です。サド・ダルマ、つまり神の元に戻り、主の純粋な献身者になるために行われる義務は、唯一の敬虔な行いです。他の誰もが敬虔なふりをしますが、実はそうではありません。ただこの理由から『バガヴァッド・ギーター』で主は、物質存在の危険な生活による苦悩から解放されるためには、名ばかりの宗教的活動を全て捨て、主の献身奉仕に完全に従事することを勧めていらっしゃいます。サド・ダルマに立脚して活動することこそ、人生の正しい方向性です。人生の目的はふるさと、神の元へと戻ることであり、一時的な存在のために良い肉体、あるいは悪い肉体を得ながら物質世界での誕生の繰り返しにさらされることではないのです。ここに人間生活の知性が存在し、人々はそのような人生の活動を目指すべきです。
avatārānucaritaṁ
hareś cāsyānuvartinām
puṁsām īśa-kathāḥ proktā
nānākhyānopabṛṁhitāḥ

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神の科学は、人格神の数々の化身について、そして主の偉大な献身者たちの活動と共に、主の様々な活動について描写している。

解説

宇宙が存在している期間を通して、生命体の活動を記録する歴史書が作られます。人は概して、様々な人間と時代の歴史や叙事を学ぶ傾向がありますが、神の科学に関する知識が欠けているため、人格神の化身に関する歴史を学ぼうとはしません。物質創造は束縛された魂の救済のために創られたことを常に覚えておくべきです。慈悲深い主はご自身の無償の慈悲ゆえ、物質世界における様々な惑星に降誕し、束縛された魂を救済するために行動なさいます。それについての歴史や叙事こそ読む価値のあるものです。『シュリーマド・バーガヴァタム』は偉大な献身者との関係における、主の超越的な話題を私たちに与えてくれます。ですから、献身者と主に関する話題に敬意を持って耳を傾けるべきなのです。
nirodho ’syānuśayanam
ātmanaḥ saha śaktibhiḥ
muktir hitvānyathā rūpaṁ
sva-rūpeṇa vyavasthitiḥ

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生命体が、自らの束縛を受ける傾向とともに、マハー・ヴィシュヌの神秘的な眠りに融合することを、宇宙現象の終結という。生命体が、常なる変化を伴う粗雑な、そして微細な物質的な体を捨てたあとで得る、体の不変の状態を解放と呼ぶ。

解説

すでに何度か述べてきたように、生命体には2つの種類があります。生命体のほとんどは永遠に解放されている、つまりニッティヤ・ムクタですが、永遠に束縛されている生命体も存在します。永遠に束縛されている魂は物質自然を支配する傾向を育みやすく、したがって、物質的な宇宙創造は、彼らに2種類の機会を与えるために現されます。一つは束縛された魂が自身の傾向に応じて宇宙現象を支配する機会を与えるため、もう一つは束縛された魂に神の元に帰る機会を与えるためです。ですから宇宙現象が終結を迎えるとき、束縛された魂のほとんどは、神秘的な眠りに入ったマハー・ヴィシュヌ人格神の存在へと融合し、次の創造で再度創造されます。しかしヴェーダ文献という形で現された超越的な音に従い、その結果、神の元に帰ることができる束縛された魂たちは、条件づけられた粗雑な、そして微細な物質的な体を捨てた後、本来の精神的な体を手に入れます。物質的に条件づけられた体は、生命体が自分たちと神との関係を忘れた結果生まれるものであるため、宇宙現象が現れている間を通して、束縛された魂には、主の様々な化身が深い慈悲心から編集した啓示経典の助けを借りて、本来の生命の立場を取り戻す機会が与えられます。そのような超越的な文献を読んだり聞いたすることは、物質存在の条件づけられた段階においても解放を得る助けになります。全ヴェーダ文献は人格神への献身奉仕を目的とし、そこに身を置いた瞬間、その人は束縛された人生から解放されます。粗雑な、そして微細な物質的な姿は、単に束縛された魂の無知によるものであり、主への献身奉仕に身を置くとすぐに、彼は束縛された段階から解放される資格を手にします。この献身奉仕は、主への超越的な執着であり、それは、主があらゆる喜びの感覚の源であるがためです。誰もが快楽のための喜びの感覚を追い求めていますが、あらゆる魅力の至高なる源(raso vai saḥ rasaṁ hy evāyaṁ labdhvānandī bhavati)を知りません。ヴェーダ讃歌はあらゆる喜びの至高なる源について次のように述べています。「あらゆる喜びの無限なる根源は人格神である」。そして『シュリーマド・バーガヴァタム』のような超越的な文献からこの知識を手に入れることができる幸運の持ち主は、永遠に解放され、神の王国で自分の相応しい場所を得るのです。
ābhāsaś ca nirodhaś ca
yato ’sty adhyavasīyate
sa āśrayaḥ paraṁ brahma
paramātmeti śabdyate

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至高なる存在、または至高の魂として世に知られる至高のお方は、宇宙現象の至高なる源であると同時に、その貯蔵庫、そして終結である。したがって主は絶対真理、至高なる根源である。

解説

『シュリーマド・バーガヴァタム』の冒頭で説明されているように、あらゆるエネルギーの至高なる源の同義語はjanmādy asya yataḥ, vadanti tat tattva-vidas tattvaṁ yaj jñānam advayam/ brahmeti paramātmeti bhagavān iti śabdyate、パランブラフマ、パラマートマー、またはバガヴァーンと呼ばれています。この節で使われているイティという言葉は同義語を完成させ、つまりバガヴァーンを指しています。これは後に続く節でより詳しく説明されますが、このバガヴァーンは究極的に主クリシュナを意味します。なぜなら『シュリーマド・バーガヴァタム』はすでに至高人格神をクリシュナだと認めているからです。Kṛṣṇas tu bhagavān svayam .あらゆるエネルギーの原初の源、つまり至高善はパランブラフマなどと呼ばれる絶対真理であり、バガヴァーンこそ最高の絶対真理です。しかし『バガヴァッド・ギーター』のahaṁ sarvasya prabhavo mattaḥ sarvaṁ pravartateなどで証明されているように、ナーラーヤナ、ヴィシュヌ、プルシャなど、バガヴァーンの同義語においては、クリシュナが最高です。それに加え、『シュリーマド・バーガヴァタム』は、音の化身としての主クリシュナの現れです。
kṛṣṇe sva-dhāmopagate
dharma-jñānādibhiḥ saha
kalau naṣṭa-dṛśām eṣaḥ
purāṇārko ’dhunoditaḥ
(『シュリーマド・バーガヴァタム』1-3-43)
ヴェーダ全体の結論に基づいて、主クリシュナこそあらゆるエネルギーの究極の源であり、クリシュナという言葉もそれを意味することがわかります。そしてクリシュナ、またはクリシュナの科学を説明するため、『シュリーマド・バーガヴァタム』が用意されたのです。『シュリーマド・バーガヴァタム』の第一編において、スータ・ゴースヴァーミーと、シャウナカのような偉大な聖者たちとの間で交わされた問いと答えの中でこの真実が述べられており、第1章と第2章でその真実について説明されています。第3章でこの主題はよりはっきりと示されており、第4章ではさらに明確になります。第2編では人格神としての絶対真理がさらに強調されており、その人格神とは、至高主クリシュナのことを指しています。すでに説明されてきた4節に及ぶ『シュリーマド・バーガヴァタム』の概要は、とても簡潔です。究極的に至高人格神は、ブラフマー・サンヒターでブラフマーによって、īśvaraḥ paramaḥ kṛṣṇaḥ sac-cid-ānanda-vigrahaḥとして証明されています。そしてそのことは『シュリーマド・バーガヴァタム』の第3編でも結論づけられています。主題の全容が『シュリーマド・バーガヴァタム』の第10編と11編で詳しく説明されています。そして『シュリーマド・バーガヴァタム』の第3、4、5、6、7編で語られているスヴァーヤンブヴァ・マンヴァンタラやチャークシュシャ・マンヴァンタラなどのマヌの入れ替わり期やマンヴァンタラにおいても、主クリシュナについて述べられています。第8編ではヴァイヴァシュヴァタ・マンヴァンタラが同じ主題を間接的に説明しており、第9編でも同じ解説がされています。第12編ではそれがさらに詳しく、特に主の化身について、説明されています。したがって『シュリーマド・バーガヴァタム』の全容を学ぶことで、主シュリー・クリシュナが究極の至高善、つまり、あらゆるエネルギーの究極の源であるということが結論づけられるのです。そして、崇拝者の水準に応じて、ナーラーヤナ、ブラフマー、パラマートマーといった名前の示すところが、様々に説明されるのです。
yo ’dhyātmiko ’yaṁ puruṣaḥ
so ’sāv evādhidaivikaḥ
yas tatrobhaya-vicchedaḥ
puruṣo hy ādhibhautikaḥ

訳語

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様々な感覚器官を持つ個人をアディヤートミックと呼び、それらの感覚を司る個々の神をアディダイヴィックと呼ぶ。そして目に映る姿をアディバウティックと呼ぶ。

解説

至高の支配者である至高善は、人格神の完全分身であるパラパートマ、つまり至高の魂として顕現されたものです。『バガヴァッド・ギーター』(10-42)では次のように述べられています。
athavā bahunaitena
kiṁ jñātena tavārjuna
viṣṭabhyāham idaṁ kṛtsnam
ekāṁśena sthito jagat
物事を司るヴィシュヌ、ブラフマー、シヴァなどの神々は全て、至高人格神である主クリシュナのパラマートマーが持つ様相の異なる現れであり、主はご自身から発せられた各宇宙の中に入り、そうした姿でご自身を現します。それでもなお、支配者と、支配される者の明確な区別が存在します。例えば食品管理部署では、食品の管理者は、管理されている人間と同じ要素で構成されている人間です。同様に、物質世界にいる各個人は誰もが、高位の神々によって支配されています。例えば私たちには感覚がありますが、その感覚は、より上位にある神々によって支配されています。私たちは光なしでは見ることはできず、その光の高位の支配者が太陽です。太陽神は太陽惑星に暮らしており、私たち個々の人間、またこの地球上に暮らすその他の生命体は、少なくとも目に関しては、太陽神によって支配されています。同様に、私たちが持つ感覚は全て高位の神々によって支配されており、彼らも私たちと同じ生命体なのですが、一方は力を授けられており、そのもう一方は支配を受けています。支配された生命体はアディヤートミックの者と呼ばれ、支配者はアディダイヴィックの者と呼ばれます。物質世界におけるこれらの地位は全て、様々な果報的活動の結果です。どんな生命体も非常に敬虔な活動をすることで、太陽神やブラフマーにでさえ、あるいはその他高位の惑星系の神々にもなることができます。同様に、人は低級な果報的活動によって、高位の神々から支配を受けることになります。ですから個々の生命体は、支配者と支配される者という異なる立場に生命体を置く、パラマートマーの至高の支配を受けているのです。
支配者と支配される者を区別するもの、すなわち物質的な肉体はアディバウティック・プルシャと呼ばれます。肉体はときにプルシャと呼ばれ、このことはヴェーダの賛歌において、sa vā eṣa puruṣo ’nna-rasamayaḥ と確証されています。この体はアンナ・ラサが具現化したもの、と呼ばれます。この肉体は食物に依存しています。しかし肉体をまとった生命体は何も食べません。なぜなら体の所有者は、本質的に精神だからです。機械のようなこの肉体は、使い物にならなくなるために、物質の入れ替えを必要とします。したがって、個々の生命体と惑星を司る神々の違いは、アンナ・ラサマヤの体が違うことによって生ずるものなのです。太陽は巨大な体を持ち、人間はより小さい体を持っているかもしれませんが、目に見えるこれらの体は物質で作られています。それでもなお、支配者と支配される者という関係を持っている太陽神と個々の人間は、両者とも同一の、至高なる存在の部分体です。そしてその至高なる存在こそが、これらの部分を異なる立場に就かせます。ですから結論として、至高なるお方は、全ての生命体の拠り所なのです。
ekam ekatarābhāve
yadā nopalabhāmahe
tritayaṁ tatra yo veda
sa ātmā svāśrayāśrayaḥ

訳語

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先に挙げた生命体の3つの段階は、全て互いに依存している。ひとつでも欠如すると、他のものを理解することはできない。しかし、その一つ一つを見る、全ての拠り所の拠り所である至高なる存在は、全てにおいて独立しておられるため、至高の拠り所なのである。

解説

無数の生命体が存在し、どの生命体も支配者と支配される者という関係において、お互いに依存しています。しかし知覚の媒体がなければ、誰が支配者であり、誰が支配されている者なのか、知ることも理解することもできません。例えば、太陽は私たちの視力を司っていますが、太陽は天体を持っているため、私たちはその太陽を実際に目にすることができ、私たちが目を持っているからこそ、日光は役立つものとなります。私たちに目がなければ、日光は役に立たず、太陽光がなければ、目は使い物になりません。ですから、両者は相互依存しており、どちらも独立した存在ではありません。すると自然と浮かんでくる質問は、誰がそれらを互いに依存するように作ったか、という質問です。そのような相互依存の関係を作った人は、究極的に、そして完全に独立している存在でなくてはなりません。『シュリーマド・バーガヴァタム』の冒頭で述べられているように、あらゆる相互依存の対象となる物の究極の源は、完全に独立した主体です。あらゆる相互依存の究極の源は、何にも依存していない至高真理、またはパラパートマー、つまり至高なる魂です。主はスヴァーシュラヤーシュラヤハです。主はご自身にのみ頼っており、それゆえに全ての至高なる根源の拠り所です。パラマートマーとブラフマンはバガヴァーンに従属しているのですが、バガヴァーンはプルショーッタマ、すなわち至高なるお方であるため、至高なる魂の源でもあります。『バガヴァッド・ギーター』(15-18)で主クリシュナは、自身がプルショーッタマであり、全ての源であるとおっしゃっているため、シュリー・クリシュナこそが至高の魂と至高なるブラフマンを含むあらゆる生命体の究極の源、そして拠り所であると結論づけられています。至高の魂と個々の魂の間に違いはないと受け入れたとしても、個々の魂は、物質エネルギーの幻想から解放されることに関して、至高の魂に依存しています。個人は幻想エネルギーの手中にあるため、質的には至高の魂と同一であるにもかかわらず、自身を物質と同一化するという幻想の中にいます。そして、実際の人生についての誤った概念から抜け出すためには、個々の魂は至高の魂と同一であると認識する必要があり、そのためには至高の魂に依存しなければならないのです。その意味では、至高の魂も至高なる拠り所であり、それについては何の疑いもありません。
個々の生命体、ジーヴァはいつも至高の魂、パラマートマーに依存しています。なぜなら個々の魂は自身の精神的な本質を忘れてしまうのに対して、至高の魂、パラマートマーは自身の超越的な立場を忘れないからです。ジーヴァ・アートマーとパラマートマーの異なる立場については、『バガヴァッド・ギーター』のなかで特に述べられています。その第4章で、ジーヴァ魂であるアルジュナは、過去に幾度も繰り返された自分の誕生について忘れていると説明されていますが、主、すなわち至高の魂は、それを忘れることはないのです。主はご自身が数十億年前に『バガヴァッド・ギーター』を太陽神に教えたことさえ覚えていらっしゃいます。『バガヴァッド・ギーター』(7-26)で次のように述べられている通り、主は何百万、何十億年前のことも覚えていらっしゃるのです。
vedāhaṁ samatītāni
vartamānāni cārjuna
bhaviṣyāṇi ca bhūtāni
māṁ tu veda na kaścana
永遠で至福に溢れる知識の体を持つ主は、過去に起きたこと、現在起こっていること、そして将来起こることについても全て完全に把握していらっしゃいます。しかし、主はパラマートマーとブラフマン両方の拠り所であるにもかかわらず、知識の乏しい人たちは主をありのままに理解することができません。
宇宙意識と個々の生命体の意識を同一化するという主張は、完全に間違った主張です。なぜならアルジュナは主と常にいるにもかかわらず、彼のような人間、つまり一個の魂でさえも、過去の行いを思い出すことはできなかったからです。それならば宇宙意識と同一であると誤って主張する、ちっぽけで取るに足らない人間が自分の過去、現在、未来について何を知ることができるというのでしょうか。
puruṣo ’ṇḍaṁ vinirbhidya
yadāsau sa vinirgataḥ
ātmano ’yanam anvicchann
apo ’srākṣīc chuciḥ śucīḥ

訳語

翻訳

様々な宇宙を別々に分けてから、最初のプルシャ・アヴァターラの降誕地である原因の海から現れた主の巨大な宇宙体[マハー・ヴィシュヌ]は、創造された超越的な水[ガルボーダカ]の上に横たわることを望み、それぞれの宇宙へと入った。

解説

生命体と、全ての生命体の独立した根源である至高主、パラマートマーについて分析した後、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、全ての生命体の唯一の責務である主への献身奉仕が、私たちにとっていかに必要であるかを提示しています。至高主シュリー・クリシュナと主の完全分身、および完全分身の拡張はどれも違いがないため、至高なる独立性はそれぞれに備わっています。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはこのことを証明するため(パリークシット王に約束したように)、物質創造の領域においても現れるプルシャ・アヴァターラとしての人格神の独立性を説明しています。主のそのような活動も超越的であるため、それらもまた、絶対なる主のリーラー、つまり遊戯です。こうした主の遊戯は、それを聴く者たちにとって、献身奉仕の分野で自己の悟りを得るために、大きな助けとなります。一部の人は「それではなぜ、この世界の何よりも甘美な、マトゥラーとヴリンダーヴァナの地で繰り広げられた主の超越的なリーラを味わわないのか?」と反論するかもしれません。シュリーラ・ヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティーは、主のヴリンダーヴァナでの遊戯は、主の上級の献身者によって味われるものであると答えています。初心の献身者は主のそのような至高で超越的な活動を誤解してしまうため、創造、維持、破壊に関する物質領域で繰り広げられる主の遊戯こそが、プラークリタ、つまり主の世俗的な献身者たちが実際に味わうことができるものなのです。体操を基本としたヨーガ方法は、存在の肉体的概念に執着し過ぎている人に向いているのと同じように、物質世界の創造と破壊に関する主の遊戯は物質的に執着し過ぎている人に適しています。そのような世俗的な人々は、主との関係において、物理の法則に基づいて肉体と宇宙が機能するということを、その法則の制定者である至高人格神を理解することで理解できるのです。科学者たちは物質的な法則に関する様々な専門用語を用いて物質的な機能を説明していますが、このような盲目の科学者たちは、その法則の制定者のことを忘れています。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、その法則の制定者のことを指し示しているのです。人は複雑なエンジンや発電機の機械的構造に驚くのではなく、すばらしい働きをするそのような機械を作った技師を称えるべきです。それが献身者と献身者ではない人の違いです。献身者たちは物理的な法則を司る主をいつも称えています。『バガヴァッド・ ギーター』(9-10)のなかで、物質自然における主の指示が次のように説明されています。
mayādhyakṣeṇa prakṛtiḥ
sūyate sacarācaram
hetunānena kaunteya
jagad viparivartate
「物理的法則に溢れる物質自然は、私の様々なエネルギーの一つである。そのため、それは独立した存在でもなく、盲目的でもない。私は超越的に全能であるため、私が物質自然を一瞥するだけで、自然の法則は素晴らしく作用する。物理的法則の活動と反応はそうして作用し、このようにして物質世界は創造、維持、破壊を幾度も繰り返しているのだ。」
しかし、知識の乏しい人々は個々の体内、そして宇宙現象内の物理的法則についての研究に感嘆し、愚かにも神の存在を否定します。彼らは物理的法則が何の形而上学的な支配も受けずに、独立していると思い込んでいます。『バガヴァッド・ ギーター』(9-10)は、そうした愚かな考えに次のように答えています。
avajānanti māṁ mūḍhā
mānuṣīṁ tanum āśritam
paraṁ bhāvam ajānanto
mama bhūta-maheśvaram
「愚かな人々[ムーダーハ]は、至福と知識に溢れた永遠の姿をした人格神を知らない」。愚かな人たちは主の超越的なお体を自分と同じようなものだと考え、そのため物理的な法則における活動では目に見えない、主の無限なる支配力を想像することができません。しかしご自身の力を通して降誕なさるとき、一般の人々は肉眼で主を目にすることができます。主クリシュナはご自身のままの姿を現し、主ご自身としての素晴らしい遊戯を繰り広げました。『バガヴァッド・ギーター』は、このような活動と知識が主題となっています。それでも愚かな人たちは、主クリシュナを至高主として受け入れません。彼らは自分たちが無限に小さくなることも、無限に大きくなることもできないために、主の無限小や無限大の姿について思いを巡らせるのが普通です。しかし彼らは、主の無限大、あるいは無限小の姿は、主の最高の栄光ではないということを知るべきです。主の力の最も素晴らしい顕現は、無限なる主が私たちの一人として、私たちの前にその姿を表してくださることです。それでも主の活動は、限界のある生命体が行うこととは異なります。7歳の時に山を持ち上げたり、若い盛りに1万6千人の妻を持ったりしたことが主の無限なるエネルギーのいくつかの例なのですが、ムーダハたちはそのことについて見たり聞いたりしても、伝説に過ぎないと否定し、主を自分たちと同じ存在の一人であると考えます。彼らは、主シュリー・クリシュナがご自身の力を通して人間の姿をとったとしても、主こそが至高なる支配者としての力を完全に備えた至高主であることを理解することができないのです。
しかし、ムーダハが師弟継承を介して『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』で述べられている主のメッセージに従順な姿勢で耳を傾ければ、彼らも主の純粋な献身者の恩恵によって、主の献身者になることができます。そして、ただこの理由のためだけに、知識の乏しい人々に向けて『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』では物質世界における主の遊戯が描写されているのです。
tāsv avātsīt sva-sṛṣṭāsu
sahasraṁ parivatsarān
tena nārāyaṇo nāma
yad āpaḥ puruṣodbhavāḥ

訳語

翻訳

その至高なるお方は非人格的ではない。ゆえに確かにナラ、すなわち人間である。そのため至高なるナラによって創られた超越的な水はナーラとして知られる。そして主はその水の上に横たわるため、ナーラーヤナとして知られる。
dravyaṁ karma ca kālaś ca
svabhāvo jīva eva ca
yad-anugrahataḥ santi
na santi yad-upekṣayā

訳語

翻訳

物質要素、活動、時間と物質の三様式、そしてそれらを楽しむために創られた生命体は全て、主のご慈悲によって存在しているのであり、主がそれらに配慮しなくなればたちまち、全てが実在しなくなることを人々は知るべきである。

解説

生命体は物質要素、時間、物質の三様式などを楽しむ存在です。なぜなら彼らは物質自然を支配したいと望んでいるからです。実際には、主が至高なる亭楽者であり、生命体は主の楽しみの手助けをするべき存在で、そうすることで、結果的に全ての者が超越的な快楽を味わうのです。したがって、楽しむ者も、楽しみを提供する者も快楽を味わうのですが、幻想エネルギーに惑わされたがために、生命体は主のような亭楽者になりたいと望みます。しかし実際、そのような楽しみは彼らのためにあるのではありません。『バガヴァッド・ギーター』で、ジーヴァたち、すなわち生命体は主の至高の質、すなわちパラー・プラクリティであると述べれられています。ヴィシュヌ・プラーナにも同じことが述べられています。ですから生命体は決してプルシャ、つまり実際の亭楽者ではありません。そのため、物質世界で生命体が体験している快楽の精神は偽りのものです。精神世界では生命体は質的に純粋であるため、至高主が快楽を享受することに、共に従事しているのです。物質世界では、自分たちの行動の結果によって(カルマ)快楽を得ようとする生命体の精神が、自然の法則のおかげで徐々に弱まっていき、そうなると、幻想エネルギーは、束縛された魂の耳に、主と一つになるべきだとささやくのです。これこそが幻想エネルギーの最後の罠です。主の慈悲によって、最後の幻想が取り去られた時、生命体は再び本来の立場に戻り、本当の解放を達成します。この物質世界の束縛からの解放を得るために、主は物質世界を創造し、一定期間(前節で述べられていたように、主の年数で千年)維持し、またご自身の意志で破壊なさいます。ですから生命体は、完全に主の慈悲に依存しており、科学的発展による彼らの快楽と言われるものも、主が望めば、塵と化すのです。
eko nānātvam anvicchan
yoga-talpāt samutthitaḥ
vīryaṁ hiraṇmayaṁ devo
māyayā vyasṛjat tridhā

訳語

翻訳

主は、神秘の眠りにつく寝所に横たわりながら、様々な種類の生命体を現したいというご自身の望みに従い、外的エネルギーによって、黄金色の精液の象徴を生み出した。

解説

『バガヴァッド・ギーター』(9-7~8)では物質世界の創造と破壊について次のように述べられています:
sarva-bhūtāni kaunteya
prakṛtiṁ yānti māmikām
kalpa-kṣaye punas tāni
kalpādau visṛjāmy aham
prakṛtiṁ svām avaṣṭabhya
visṛjāmi punaḥ punaḥ
bhūta-grāmam imaṁ kṛtsnam
avaśaṁ prakṛter vaśāt
「各周期の終わり、創造的な力、つまり物質自然とその物質自然のなかで苦しむ生命体は全て主の超越的な体に入り、また主がそれらを現したいとお望みになった時、それらは再び全て主によって顕現される。ゆえに物質自然は主の支配のもとで活動している。それらは全て、物質自然の働きのもと、そして主の支配のもと、主のご意志によって幾度も創られ、破壊される。」
そのため、物質的な宇宙が創造される、つまり顕現される以前に、主はエネルギーの総体(マハー・サマスティ)として存在し、そして自らを多数に分散したいと望むがために、ご自身を多様な総体エネルギー(サマスティ)に拡張なさいます。多様な総体エネルギーから、主はさらにご自身を3つの様相における個体(ヴィヤスティ)、つまり先に説明されたアデャートミック、アディダイヴィック、アディバウティックとして拡張されるのです。このように、創造界全体と創造エネルギーは同一であると同時に、異なるのです。そして全ては主(マハー・ヴィシュヌ、またはマハー・サマスティ)から生まれ出たものであるため、宇宙エネルギーはどれも主と違いはないのですが、一方でそのような拡張したエネルギーは、主が意図した特定の機能や顕示の様式を持つため、やはり主と異なるのです。生命体も同じような主エネルギー(境界エネルギー)であるため、主と同一でありながら、同時に主と異なるのです。
非顕現の段階では、生命エネルギーはその力を主の内に秘め、、それらが宇宙現象へ解き放たれた際、物質様式の影響のもとで、様々な望みに従って様々な形をとるのです。生命エネルギーのこのような様々な現れは、生命体の束縛された状態です。一方でサナータナ(永遠)の世界にいる解放された生命体は、無条件に身を委ねた魂たちであり、そのため創造と破壊という条件の影響下にはありません。このように、この創造は、主が神秘の眠りにつく寝所から一瞥することで起こります。こうして、全ての宇宙、そして宇宙の主、ブラフマーが幾度も現され、破壊されるのです。
adhidaivam athādhyātmam
adhibhūtam iti prabhuḥ
athaikaṁ pauruṣaṁ vīryaṁ
tridhābhidyata tac chṛṇu

訳語

翻訳

前述のとおり、主の一つのエネルギーがどのようにして三つ、つまり、支配する生命体、支配される生命体、そして肉体に分けられるのか、私から聞くがよい。
antaḥ śarīra ākāśāt
puruṣasya viceṣṭataḥ
ojaḥ saho balaṁ jajñe
tataḥ prāṇo mahān asuḥ

訳語

翻訳

顕現されたマハー・ヴィシュヌの超越的な体の中に位置する空から、感覚のエネルギー、精神力、体力、そして全生命力の根源の総体が生まれた。
anuprāṇanti yaṁ prāṇāḥ
prāṇantaṁ sarva-jantuṣu
apānantam apānanti
nara-devam ivānugāḥ

訳語

翻訳

王の従者が主人に従うように、エネルギーの総体が動き出す時、他の生命体も動き、エネルギーの総体が働くのを止めた時、他の生命体も全て、感覚の活動を止める。

解説

個々の生命体は、至高なるプルシャの総体エネルギーに完全に依存しています。電球が何にも依存せずには、光を放たないのと同じように、誰も独立した存在ではありません。どんな電気製品も発電所に頼っており、発電所は電力を発電するにあたって、貯水池に依存しています。そして水は雲に、雲は太陽に、太陽は創造に、そして創造は至高人格神の活動に頼っているのです。このように、至高人格神こそがあらゆる原因の根源なのです。
prāṇenākṣipatā kṣut tṛḍ
antarā jāyate vibhoḥ
pipāsato jakṣataś ca
prāṅ mukhaṁ nirabhidyata

訳語

翻訳

ヴィラート・プルシャによって刺激された生命力は、空腹と渇きを生み出した。主が飲んだり食べたりすることを望んだ時、口が開いた。

解説

母親の胎内にいるあらゆる生命体の感覚器官や知覚が発達する過程は、生命体全ての総体であるヴィラート・プルシャの発達の過程と同じ原則に従っていることがわかります。ですから、あらゆる種類の発生の至高なる原因は非人格的なものでもなければ、望みを持っていないわけでもありません。全ての知覚や感覚器官に対する望みは、至高なる存在の内にあり、そのため、個人の内にも存在するのです。この望みは、至高の生命体、つまり絶対真理に本来備わっているものです。主は全ての口の総体を備えているため、個々の生命体も口を持っています。他の感覚や感覚器官についても同じです。ここでは口が全ての感覚器官を象徴するものとして挙げられており、同じ原理が他のものにも当てはまります。
mukhatas tālu nirbhinnaṁ
jihvā tatropajāyate
tato nānā-raso jajñe
jihvayā yo ’dhigamyate

訳語

翻訳

口から口蓋が現れ、そして舌も生まれた。その後で、舌がその味を楽しむことができるように、様々な味が生まれた。

解説

 ヴァルナが、美味しい味を含む水分全てを司る神であることから、この進化の段階的な過程は、支配する神々(アディダイヴァ)についての説明であると言えます。口はいろいろな汁を味わう舌が宿る場所となり、その舌を司る神がヴァルナです。これはつまり、ヴァルナも舌の発達と共に創られたことを示唆しています。道具としての舌と口蓋は、アディブータム、つまり物質の形をとったものですが、生命体であり、それらの機能を司る神々は、アディダイヴァです。そしてその機能を実際に経験する生き物がアディヤートマです。このように、これら三つの部類について、ヴィラート・プルシャの口が開いた後、それらがいかにして生じたのかということに関しても説明されています。この節で述べられている4つの原理は、三つの主要な原則、つまり、すでに述べられたアディヤートマ、アディダイヴァ、アディブータムを説明するためのものです。
vivakṣor mukhato bhūmno
vahnir vāg vyāhṛtaṁ tayoḥ
jale caitasya suciraṁ
nirodhaḥ samajāyata

訳語

翻訳

至高なる存在が話すことを望んだとき、口から言葉が発せられた。するとそれを支配する神である火がその口から生まれた。しかし主が水の中で横たわっている間、これらの働きは全て停止していた。

解説

様々な感覚が持つ段階的な発達の特性は、それらを司る神々によって同時に支えられています。したがって、感覚器官の活動は至高なる意志によって支配されていると理解されるべきです。感覚はいわば、束縛された魂に与えられた権利のようなものであり、彼らは、至高主によって委任された感覚を司る神々の支配のもとで、それらを適切に使う必要があります。そうした制限規制に反した者は、より低位の生命体へ堕落するという罰を受けることになります。例えば、舌とそれを司る神、ヴァルナについてみてみましょう。舌は食べるためにあり、人間、動物、鳥はそれぞれ異なる権利を持っているため、異なる味覚を持っています。人間の味覚と豚の味覚は、同じ水準にはありません。しかし特定の生命体が異なる自然の様式に応じて、ある一定の嗜好を育てた際に、支配する神々はその生命体にそれに応じた種類の体を与えます。もし人間が、豚のように何でも見境なく食べることを好むなら、支配する神々は必ずや、彼が次に生まれてくるときには豚の肉体を与えます。豚は排泄物も含めて、どんな食べ物でも口にします。ですから、どんなものでも食べることを好むようになった人間は、次に生まれる際に、堕落した生活が待っていることを知るべきです。

しかし、束縛された魂が、ある特定の食べ物を存分に味わうための体を望んだわけですから、そのような生命の形もまた、神の恩恵なのです。もし人が豚の体を手に入れたなら、主がその便宜を与えてくれたため、それは主の恩恵として理解すべきです。死後に与えられる次の体は、やみくもに与えられるのではなく、より高い管理の下で与えられます。ですから、人間は来世でどのような体を手に入れるのか、ということに関して、気を配る必要があります。無分別で無責任な生活は危険であり、全ての経典がそのことを明言しています。
nāsike nirabhidyetāṁ
dodhūyati nabhasvati
tatra vāyur gandha-vaho
ghrāṇo nasi jighṛkṣataḥ

訳語

翻訳

その後、至高なるプルシャが香りを嗅ぐことを望んだ時、鼻腔と呼吸が生み出され、鼻の器官と香りが生まれ、香りを運ぶ空気を支配する神々も現れた。

解説

鼻の器官、香り、そして空気や嗅覚を司る神々は全て、主が香りを嗅ぐことを望んだ時に、同時に生み出されました。ヴェーダのマントラでは、至高なるお方がまずお望みになってはじめて、従属する生命体が行動できるということが、ウパニシャッドの中で確証されています。主が見て初めて、生命体は目にすることができ、主が匂いを嗅ぐときに、生命体もまた匂いを嗅ぐことができるのであり、そして他のことについても同じことが言えます。要するに、生命体は依存せずには何もできないということです。何かを行うことをただ考えるだけならできますが、主に頼らずして行動することはできません。主の恩恵によって、生命体は思考の独立性を備えてはいますが、しかしその考えが実現するのも、主の恩恵のおかげなのです。そのことから「計画は人にあり、決裁は神にあり」ということわざがあります。ここで説明されているのは、生命体の絶対的依存性と、至高主の絶対的独立性に関する主題です。神と同等であると主張する、より知識の乏しい人はまず、神と同一であると主張する前に、自分が絶対的であり、独立していることを証明すべきなのです。
yadātmani nirālokam
ātmānaṁ ca didṛkṣataḥ
nirbhinne hy akṣiṇī tasya
jyotiś cakṣur guṇa-grahaḥ

訳語

翻訳

こうして全てが暗闇の中に存在していた時、主はご自身を、そして創造物の全てを見ることをお望みになった。すると目、輝きを放つ太陽神、視覚のエネルギー、そして視覚の対象が全て現れた。

解説

宇宙は元々深い暗闇であり、それゆえ創造の総体はタマス、または暗闇と呼ばれます。夜こそが宇宙の真の様相であり、人は自分も含めて、何も見ることができません。主はご自身の無償の慈悲から、まずご自身を見ることを望み、そして創造の全てを見ることもまた望みました。そのために太陽が現れ、あらゆる生命体に視覚のエネルギーが与えられ、そして視覚の対象も現れました。これはつまり、現象界の全ては太陽が創造されたあとで見えるようになったということです。
bodhyamānasya ṛṣibhir
ātmanas taj jighṛkṣataḥ
karṇau ca nirabhidyetāṁ
diśaḥ śrotraṁ guṇa-grahaḥ

訳語

翻訳

偉大な聖者たちの探究への望みが発展することによって、耳、聴力、聴力を司る神、そして聴力の対象物が現れた。偉大な聖者たちは至高なる自己について聞くことを望んだ。

解説

『バガヴァッド・ギーター』で述べられているように、人々は知識の発展を通して、summum bonum、つまり、全ての至高善である至高主について知ろうとするべきです。知識とは、主の指示のもとで働いている自然の法則や物理の理解に関する知識だけを意味しているわけではありません。科学者たちは、物質自然下で作用する物理的な法則について聞くことに夢中になります。彼らは遠く離れた他の惑星で起きていることをラジオやテレビという媒体を通して聞くことに熱心ですが、聴力と聴覚器官は至高なる自己、つまり至高主について聞くために、主によって与えられたものであるということを知るべきです。不幸にも聴力は、俗的な出来事についての音の振動を聞くことに誤用されているのです。偉大な聖者たちは、ヴェーダの知識を通して主について聞くことだけに関心を持ち、それ以外のことについては関心を持たなかったのです。その関心こそが、知識を聴覚で受容することの始まりなのです。
vastuno mṛdu-kāṭhinya-
laghu-gurv-oṣṇa-śītatām
jighṛkṣatas tvaṅ nirbhinnā
tasyāṁ roma-mahī-ruhāḥ
tatra cāntar bahir vātas
tvacā labdha-guṇo vṛtaḥ

訳語

翻訳

柔らかさ、硬さ、暖かさ、冷たさ、軽さ、重さなどの物質の持つ物理的な性質を知覚する望みが現れた時、感覚の遠因、皮膚、毛穴、体毛、そしてそれらを司る神々(木々)が生まれた。皮膚の内側と外側には、知覚が顕著となる空気の覆いがある。

解説

柔らかさといった物質の持つ物理的な性質は知覚の対象であり、そのため物理的な知識を得るためには、触覚が重要な役割を果たします。人は手で触れて物質の温度を計ったり、物を手で持ち上げることで重さを測ったりすることができ、そしてそのようにして重さや軽さを予測します。皮膚、毛穴、体毛はどれも、触覚と相互依存しています。皮膚の内側と外側に吹いている空気も感覚認識の対象です。この感覚認識も知識の源であり、したがって、ここでは物理的な知識や生理学的な知識が、上述の至高なる自己に関する知識に従属していることを示唆しています。至高なる存在に関する知識は現象に関する知識へと発展することはありますが、物理的な知識が至高者に関する知識へと導くことはありません。
しかし、体毛と地球の表面に生えている植物には密接な関係があります。第3編で述べられるように、野菜は食べ物や薬として、肌の栄養になります:tvacam asya vinirbhinnāṁ viviśur dhiṣṇyam oṣadhīḥ 
hastau ruruhatus tasya
nānā-karma-cikīrṣayā
tayos tu balavān indra
ādānam ubhayāśrayam

訳語

翻訳

その後、至高なるお方が様々な種類の活動を行うことを望んだ時、二本の手とそれらを操る力、そして天空の神インドラが現れた。またそれらの手とその神に依存している活動も現れた。

解説

生命体の感覚器官はどれも、どの段階においても独立して発展するものではない、ということがはっきりとわかります。主は感覚の主(フリシーケーシャ)として知られています。生命体の感覚器官は主のご意志によって現され、そして各器官は特定の神々によって支配されています。したがって誰も、自分のことを感覚の所有者であるなどと主張することはできません。生命体は感覚によって操られ、感覚は神々によって支配され、神々は至高主の召使いです。それが創造界に存在する秩序なのです。全ては最終的に至高主によって支配されており、物質自然の独立性も、生命体の独立性も存在しません。自身の感覚の主だと主張する、惑わされた生命体は、主の外的エネルギーに支配されているのです。自身のちっぽけな存在に傲慢になっている限り、その生命体は主の外的エネルギーの厳しい支配のもとにあると理解されます。そして彼らがどれだけ自身は解放された魂だと主張したとしても、幻覚(マーヤー)の手中から解放されることなどありえないのです。
gatiṁ jigīṣataḥ pādau
ruruhāte ’bhikāmikām
padbhyāṁ yajñaḥ svayaṁ havyaṁ
karmabhiḥ kriyate nṛbhiḥ

訳語

翻訳

そしてその後、動きを司ることをお望みになったため、主の足が現れ、その足からヴィシュヌという名のそれを司る神が生まれた。主自らがその行動を監督することで、あらゆる種類の人間が自分たちの義務である供儀を熱心に行っている。

解説

人間はそれぞれ自分の特定の義務に従事しており、そしてそれらの活動は、人間たちが行ったり来たりすることからも明らかです。これは世界の大都市において特に顕著であり、人々は、一つの場所から他の場所へと各都市を忙しそうに飛び回っています。この移動は都市に限らず、都市の外でも、様々な交通手段を使って一つの場所から別の場所、一つの町から別の町へと移動するのが見受けられます。人はビジネスで成功するために、道路の上を車や鉄道で、地下を地下鉄で、空は飛行機で動き回っています。しかしこうした移動の真の目的は、快適な生活のための富を得ることです。この快適な生活のために、科学者たち、芸術家たち、工学者たち、技術者たちといった誰もが人間活動の様々な分野に従事しています。しかし彼らは、それらの活動をいかにして、人間生活の使命を果たすものにするかという術を知りません。この秘訣を知らないため、彼らの活動は全て制御のない感覚満足を目的とし、だからこそ、こうした全ての活動によって、彼らは知らず知らずのうちに、暗闇の深い領域へと落ちていくのです。
彼らは至高主の外的エネルギーに心を奪われてしまっているため、至高主ヴィシュヌのことを完全に忘れ、そのために物質自然の条件下で今現れているこの人生は、最大限の感覚満足を楽しむためだけにあるのだと、当然のことのように考えています。しかしそのような人生についての誤った概念は、人々が求める心の平和を誰にも与えることができず、自然の資源を使って知識を発展させたにもかかわらず、この物質文明では誰も幸せではありません。平和の秘訣は、世界平和の道を目的とした供犠を絶えず行うことです。『バガヴァッド・ギーター』(18-45~46)も同じ極意を次の節で勧めています。
sve sve karmaṇy abhirataḥ
saṁsiddhiṁ labhate naraḥ
sva-karma-nirataḥ siddhiṁ
yathā vindati tac chṛṇu
yataḥ pravṛttir bhūtānāṁ
yena sarvam idaṁ tatam
sva-karmaṇā tam abhyarcya
siddhiṁ vindati mānavaḥ
主はアルジュナにおっしゃいました。「自分の特定の職務を遂行するだけで人生の最高の完成を手に入れることができる方法を、私から聞くがよい。人は、至高主を崇拝し、至高主ヴィシュヌのために供儀を行うことで人生の最高の完成を手にすることができる。至高主はあまねく存在し、そしてその主が管理することで各生命体は、自らの望むものを自らの性質に応じて手に入れるのである。」
人生において異なる性質を持っていることは決して悪いことではありません。なぜなら人間は、それぞれ異なる職務に応じて、人生の計画を立てる独立性をそれぞれに備えているからです。しかしそれでも、自分は完全に独立した存在ではないことをよくわきまえておかなくてはなりません。人は必ず、至高主、あるいは様々な代理者の支配下にあります。このことを理解し、至高主ヴィシュヌへの超越的な愛情奉仕に長けた権威者たちが定めたように、人は自身の職務と労働の結果を通して至高主に仕えるべきです。このような人生の職務を果たすために、足は体のなかでも最も重要な道具です。なぜなら足がなければ人は一つの場所から別の場所へと移動することはできないからです。そのために主はヤジュニャを行うための、全ての人間の足に対して特別な支配権を持っているのです。
nirabhidyata śiśno vai
prajānandāmṛtārthinaḥ
upastha āsīt kāmānāṁ
priyaṁ tad-ubhayāśrayam

訳語

翻訳

その後、性行為の快楽や繁殖のため、そしてまた天上の甘露を味わうために主は生殖器を発達させた。こうして、生殖器官、そしてそれを司る神、プラジャーパティが存在する。性的快楽の対象物とそれを司る神は、主の生殖器の支配下にある。

解説

束縛された魂にとっての天上の快楽は性的快楽であり、この快楽は生殖器によって味わうことができます。女性は性的な快楽の対象であり、性的快楽の知覚と女性はどちらもプラジャーパティが司り、そのプラジャーパティは主の生殖器の支配下にあります。非人格主義者たちはこの節から、主は非人格的ではないことを知るべきです。なぜなら主はご自身の生殖器をお持ちであり、性行為におけるあらゆる快楽の対象はその生殖器に依存しているからです。性行為を通して天上の甘露を味わうことができないのであれば、誰もわざわざ子供の面倒を見るための苦労を負ったりはしないでしょう。この物質世界は束縛された魂たちにふるさとである、神の元に戻るために再び生まれてくる機会を与えるために作られており、だからこそ、創造目的の維持のためには生命体の生殖が必要なのです。性的な快楽はそのような行動の動機となり、人はそのような性的な快楽の行為においても主に仕えることができます。そのような性的快楽から生まれた子供たちが神の意識において正しく修練されれば、それは奉仕に値します。物質創造の本来の目的は、生命体のなかに眠っている神への意識を目覚めさせることです。人間以外の生き物たちにおいては、その性的快楽は、主の使命への奉仕という動機を持ち合わせてはいません。しかし人間の姿において、束縛された魂は、救いを得るためにふさわしい子孫を残すことで主に奉仕することができます。子供たちを神の意識に養育することができるならば、何百もの子供をもうけ、性行為という天上の快楽を味わってもかまわないのです。 しかしそうでなければ、子供を授かることは豚と同じようなものです。その点では、むしろ豚の方が人間よりも優れています。なぜなら豚は一度に何匹もの子豚を生むことができるのに対し、人間は一度に一人しか産むことができないからです。このように、生殖器、性的快楽、女性、子孫は全て主への奉仕に関連していることを常に覚えておくべきです。至高主への奉仕とのこの関係を忘れた者は、自然の法則によって物質存在の三重の苦しみに苛まれることになります。性的な快楽の知覚は犬の体にも存在しますが、そこには神の意識はありません。人間の生涯は、神の意識を受け入れることができることから、犬の生涯とは異なるのです。
utsisṛkṣor dhātu-malaṁ
nirabhidyata vai gudam
tataḥ pāyus tato mitra
utsarga ubhayāśrayaḥ

訳語

翻訳

その後、主が食べ物のかすを排出させたいと望んだ際、排出用の開口部である肛門と感覚器官、そしてそれを司る神であるミトラが共に発達した。感覚器官と排出された物質はどちらもそれを司る神の保護下にある。

解説

排泄する際にも排泄物が管理下にあるのであれば、生命体は独立しているなどと、どうして主張することができるでしょうか。
āsisṛpsoḥ puraḥ puryā
nābhi-dvāram apānataḥ
tatrāpānas tato mṛtyuḥ
pṛthaktvam ubhayāśrayam

訳語

翻訳

その後、主が一つの体から別の体へと移動することをお望みになった際、へそ、そして放出と死の空気が合わせて作られた。へそは、死と分かつ力の、両方の保護所である。

解説

プラーナ・ヴァーユが生命を持続させ、アパーナ・ヴァーユが生命力を停止させます。両方の振動が腹部の穴、へそから発せられます。へそは、一つの体から別の体を繋げます。主ブラフマーはガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌのへその穴から別の体として生まれ、そして他の普通の肉体も、それと同じ原則に従って生まれます。子供の体は母親の体から生まれ、子供が母親の体から離される時、それはへその緒を切ることでなされます。このようにして至高主は、数々の別の体を持つ存在として御自身のことをお現しになったのです。したがって、生命体は分離した部分体であり、独立した存在ではないのです。
āditsor anna-pānānām
āsan kukṣy-antra-nāḍayaḥ
nadyaḥ samudrāś ca tayos
tuṣṭiḥ puṣṭis tad-āśraye

訳語

翻訳

主が食物と飲料を摂取したいと望まれたときに、腹部、腸、動脈が現れた。これらの栄養と代謝の源は、川と海である。

解説

腸を司る神は川であり、動脈を司るのが海です。飲食物によってお腹を満たすことが、栄養の源となり、飲食物の代謝は、体のエネルギ―の浪費を補います。したがって、肉体の健康は腸と動脈の健全な働きに頼っています。それら二つを司る神々である川と海は、腸と動脈を健康に保ちます。
nididhyāsor ātma-māyāṁ
hṛdayaṁ nirabhidyata
tato manaś candra iti
saṅkalpaḥ kāma eva ca

訳語

翻訳

主がご自身のエネルギーの活動について考えたいと望んだとき、ハート(心の居場所)、心、月、決意、そしてあらゆる欲望が現れた。

解説

各生命体のハートは、至高人格神の完全拡張体である至高の魂、パラマートマーが宿る場所です。その主の存在がなければ、生命体は過去の行いに応じた活動のエネルギーに入ることはできません。物質世界において束縛された生命体は、個々が備えている傾向に応じて創造界の中に現れ、魂の指示のもと、それぞれに必要な肉体が至高の物質エネルギーによって与えられます。これは『バガヴァッド・ギーター』(9-10)で説明されています。そのため、束縛された魂のハートに至高の魂が宿る時、その束縛された魂のなかに、その魂に必要な心が形成され、人が眠りから目覚めた時に自分の義務を思い出すのと同じように、魂は自身の責務を思い出します。したがって、生命体の物質的な心は至高の魂がハートの中に宿ったときに発達し、その後で心、それを司る神(月)、そして心の活動(つまり考え、感じ、望むこと)が現れます。心の活動はハートが形成されなければ始まることはなく、ハートは主が物質創造の活動を見ることをお望みになったときに現れるのです。
tvak-carma-māṁsa-rudhira-
medo-majjāsthi-dhātavaḥ
bhūmy-ap-tejomayāḥ sapta
prāṇo vyomāmbu-vāyubhiḥ

訳語

翻訳

体の7つの要素、すなわち皮膚の薄い層、皮膚そのもの、肉、血、脂肪、脊髄、骨は全て地、水、火で構成されている。一方で生命の呼吸は空、水、空気によって創られる。

解説

物質世界全体は主に三つの要素、つまり地、水、火によって構成されています。しかし生命力は空、空気、水によって構成されています。したがって、水は、全ての物質創造の粗雑な、そして微細な姿の両方に存在する共通の要素なのです。そして不可欠な要素であるがゆえに、物質創造において最も顕著である水は、5つの要素の中でも主要な要素であるということに留意する必要があります。つまり、この物質的な体は5つの要素を体現したものであり、粗雑な現象は地、水、火という3つの要素によって知覚されます。皮膚の薄い層のおかげで触覚が機能し、骨は硬い石同様です。生命の呼吸は空、空気、水によって創られ、そのため、外気、定期的な沐浴、そして十分な空間は、健康や活力を増進させることに役立ちます。また穀物や野菜などの地から取れる新鮮な食べ物、新鮮な水、そして熱は粗雑な体の維持にとって望ましいものです。
guṇātmakānīndriyāṇi
bhūtādi-prabhavā guṇāḥ
manaḥ sarva-vikārātmā
buddhir vijñāna-rūpiṇī

訳語

翻訳

感覚器官は物質自然の様式に執着し、物質自然の様式は偽の自我の産物である。心はあらゆる種類の物質的な経験(苦楽)にさらされ、そして知性は、思考の判断の表れである。

解説

物質自然に惑わされ、生命体は自分を偽の自我と同一視します。より正確に言うと、生命体が物質的な肉体に囚われるや否や、自らの精神的な魂としての立場を忘れ、肉体に基づく関係と自らを同一視するのです。この偽の自我は物質自然の様々な様式と交わり、その結果、感覚は物質自然の様式に執着します。心は様々な物質的な経験を感じるための道具ですが、知性は判断する力を持っており、何でもより良い方向へと変えることができます。そのため、知性ある人は正しく知性を使うことで、物質存在の幻想からの解脱を得ることができます。知性ある人は物質存在の不自然さに気付くことができ、その結果、自分が一体誰なのか、なぜ様々な種類の苦しみにさらされているのか、どうすればあらゆる苦しみを取り除くことができるのかを探究します。そして望ましい交際を通して、発展した知性を持つ人は、自己の悟りという、より優れた人生へと向かうことができるのです。ですから、知性ある人は解放の道を歩む偉大な聖者や成人たちと交際することが勧められています。そのような交際によって、束縛された魂は、物質への執着を減らすための教えを受け取ることができ、その結果、知性ある人は徐々に物質の幻想と偽の自我を取り除き、永遠、知識、至福に溢れた真の人生へと高められるのです。
etad bhagavato rūpaṁ
sthūlaṁ te vyāhṛtaṁ mayā
mahy-ādibhiś cāvaraṇair
aṣṭabhir bahir āvṛtam

訳語

翻訳

このように、人格神の外面的様相は、すでに私が説明したような、様々な惑星といった粗雑な姿で覆われている。

解説

『バガヴァッド・ギーター』(7-4)で説明されているように、人格神から分離された物質エネルギーは地、水、火、空気、空、心、知性、偽の自我という8種類の覆いによって覆われています。これらは全て主の外的エネルギーとして、人格神から発せられたものです。これらの覆いは太陽を覆う雲のようなものです。雲は太陽による創造物ですが、それでも実際には太陽が見えないよう、私たちの目を覆います。太陽は決して雲に覆われることはありません。雲は最大数百Kmの上空まで広がることができますが、太陽は数百万Km以上あります。ですから数百Kmの広がりしか持たない覆いが数百万キロメートルのものを覆うことなどできません。したがって、至高人格神の様々なエネルギーの一つが、主を覆うことなど、もちろんあり得ません。しかしこれらの覆いは主によって、物質自然を支配することを望む束縛された魂の目を覆うために創られたものなのです。実際には、束縛された魂は物質という、創造の力を持つ幻想の雲に覆われており、主はそんな彼らの目には映らないという権利を留保しています。そのような人は超越的な視力を持つ目を備えていないため、人格神を見ることができず、それゆえ主の存在と主の超越的な姿を否定します。巨大な物質的な様相の覆いは、知識の乏しい人たちによって受け入れられ、そしてそれはどういうことなのか、ということが次の節で説明されています。
ataḥ paraṁ sūkṣmatamam
avyaktaṁ nirviśeṣaṇam
anādi-madhya-nidhanaṁ
nityaṁ vāṅ-manasaḥ param

訳語

翻訳

ゆえにこれ[粗雑な現象]を超えたところに、最も希薄な姿よりもさらに希薄な、超越的現象がある。それは始まりも、中間も、終わりもなく、ゆえに表現や思索の限界を超えており、物質的な概念とは異なるものである。

解説

至高なるお方の粗雑な質を持つ外面的なお体は一定の間隔で現れるため、至高人格神の外面的な様相や姿は、始まりも中間も、さらには終わりもない主の永遠のお姿ではありません。始まり、中間、終わりがあるものは何でも物質的なものと呼ばれます。物質世界は主から始まり、物質世界の始まりより以前に存在する主のお姿は、最も希薄な、またはさらに希薄な物質的概念をも確実に超越しています。物質世界では、エーテルが最も希薄なものとされています。エーテルよりも希薄なものが心と知性、そして偽の自我です。しかし外側の8つの覆いは、絶対真理の外側の覆いであると説明されています。ですから絶対真理は、物質的概念の表現や思索を超えたものです。主は確かにあらゆる物質的概念を超越していらっしゃいます。これはニルヴィシェーシャナムと呼ばれます。しかしニルヴィシェーシャナムを、超越的な資質を持たない存在だと、誤解してはなりません。ヴィシェーシャナムは質を意味します。ですからニルを付け足すことは、物質的な質や多様性を持たないという意味です。この否定を表す表現は、4つの超越的な資質によって説明されています。それらは非顕現、超越的、永遠、そして心や言葉の概念を超えている、という資質です。言葉の限界を超えているということは、物質的な概念の否定を意味します。そして超越的な段階にない限り、主の超越的なお姿を知ることは不可能なのです。
amunī bhagavad-rūpe
mayā te hy anuvarṇite
ubhe api na gṛhṇanti
māyā-sṛṣṭe vipaścitaḥ

訳語

翻訳

主をよく理解する純粋な献身者は、私が今、物質的な視点からあなたに説明した主のどの姿も受け入れることはない。

解説

非人格主義者は、上に挙げた二つの方法で絶対人格神を捉えます。一方ではヴィシュヴァ・ルーパ、すなわち遍く満ちる宇宙体の姿で主を崇拝し、他方では主の非顕現の、描写することのできない微細な姿を思い浮かべます。汎神論と一元論は至高なる存在の粗雑な概念と微細な概念のそれぞれに適用できますが、しかしどちらの概念も学識ある主の純粋な献身者によって否定されています。なぜなら彼らは主の実際の立場を知っているからです。これはアルジュナが体験した至高なる主シュリー・クリシュナのヴィシュヴァ・ルーパを記録した、バガヴァッド・ギーターの11章ではっきりと述べられています。
adṛṣṭa-pūrvaṁ hṛṣito ’smi dṛṣṭvā
bhayena ca pravyathitaṁ mano me
tad eva me darśaya deva rūpaṁ
prasīda deveśa jagan-nivāsa
(『バガヴァッド・ギーター』11-45)
主の純粋な献身者であるアルジュナは、無神論者が思いをめぐらせる対象である主の宇宙体(ヴィシュヴァ・ルーパ)を目にしたことがなかったのですが、それを目の当たりにした時、彼の好奇心は満たされました。しかし純粋な献身者としての愛着のせいで、主のそのような姿を見ても、アルジュナの心は満たされませんでした。彼は主の巨大な姿を見るのを恐れたのです。そのため、アルジュナは主に4本腕のナーラーヤナの姿、またはクリシュナの姿をとってくださるようにと祈りました。それらの姿だけが、アルジュナを満足させることができたからです。主は多種多様なお姿でご自身を表す至高なる力を確実に持っているのですが、主の純粋な献身者達は、トリパード・ヴィブーティ、すなわち神の王国として知られる、主の住処で永遠に現されている姿に関心を持っています。主はトリパード・ヴィブーティの住処で二つの姿、つまり4本腕の姿、または2本腕の姿でご自身を現されます。物質創造のなかに現れるヴィシュヴァ・ルーパは、無数の手と、何もかもが無限の様相を持つ無限の大きさを持っています。主の純粋な献身者達は、ナーラーヤナやクリシュナという、ヴァイクンタでの姿の主を崇拝します。主の恩恵によって、時にその同じヴァイクンタの姿がシュリー・ラーマ、シュリー・クリシュナ、シュリーラ・ナラシンハデーヴァとして物質世界にも現れるため、純粋な献身者達はそれらの姿をもまた崇拝します。一般的に物質世界で現されている様相というのは、ヴァイクンタ惑星に存在しないため、純粋な献身者達によって受け入れられません。純粋な献身者たちがもとより崇拝しているのは、ヴァイクンタ惑星にいらっしゃる主の永遠の姿なのです。献身者ではない非人格主義者たちは主の物質的な姿を想像し、最終的には主のブラフマジョーティに融合するのですが、主の純粋な献身者たちは初めの段階においても、解放の完璧な段階においても、永遠に主の崇拝者です。純粋な献身者による崇拝は決して止むことはありません。一方、非人格主義者の崇拝は、彼が解放を達成した後でブラフマジョーティとして知られる主の非人格的な姿に融合したときに終わってしまいます。ですから、ここでは主の純粋な献身者達は、ヴィパシチタ、つまり主に関する完璧な知識を持つ学識ある者、と描写されています。 
sa vācya-vācakatayā
bhagavān brahma-rūpa-dhṛk
nāma-rūpa-kriyā dhatte
sakarmākarmakaḥ paraḥ

訳語

翻訳

人格神は、自らの超越的な御名、質、遊戯、環境を持つ超越的な姿で御自身を現す。そのような活動には全く影響を受けないにもかかわらず、それらに没頭しているように見える。

解説

物質創造が必要になるとき、超越的な人格神は物質世界にて、創造、維持、破壊のために必要な姿をお取りになります。人は主の活動を真に理解できるだけの知性を持つべきであり、主が物質自然によって作られた姿を受け入れて物質世界に降誕するなどという間違った結論を抱くべきではありません。物質世界で創造された姿を持つと、物質世界でなされるあらゆる物事に執着を持つようになります。一定期間の物質的な活動を行うために物質的な姿を受け入れた束縛された魂は、物質の法則の支配下にあります。しかしこの節では主の姿や活動は束縛された魂のそれと同じに見えたとしても、それらは超自然的で、束縛された魂にとって不可能であると、明確に述べられています。至高人格神である主は、そのような活動に影響を受けることは決してありません。バガヴァッド・ギーター(4-14)で主は、次のようにおっしゃっています。
na māṁ karmāṇi limpanti
na me karma-phale spṛhā
iti māṁ yo ’bhijānāti
karmabhir na sa badhyate
主は様々な化身や人格を通して行っているように見える活動に決して影響されることもなければ、果報的な活動を通して成功を達成する望みもありません。主は富、力、名声、美、知性、放棄という様々な力で完全に満ちているため、束縛された魂のように肉体的な努力をする理由もないのです。したがって、主の超越的な活動と、束縛された魂の活動の違いを見分けられる知性ある人もまた、活動の反動に束縛されることはありません。主はヴィシュヌ、ブラフマー、シヴァとして物質自然の三様式を指揮していらっしゃいます。ヴィシュヌからブラフマーが生まれ、ブラフマーからシヴァが生まれました。ブラフマーはヴィシュヌから分離した部分体であることもあれば、またヴィシュヌご自身であることもあります。ブラフマーは宇宙に様々な種類の生命を創造するのですが、それは主が自ら、または主が権限を与えた代理を通して、全現像を創造なさることを意味しています。
prajā-patīn manūn devān
ṛṣīn pitṛ-gaṇān pṛthak
siddha-cāraṇa-gandharvān
vidyādhrāsura-guhyakān
kinnarāpsaraso nāgān
sarpān kimpuruṣān narān
mātṝ rakṣaḥ-piśācāṁś ca
preta-bhūta-vināyakān
kūṣmāṇḍonmāda-vetālān
yātudhānān grahān api
khagān mṛgān paśūn vṛkṣān
girīn nṛpa sarīsṛpān
dvi-vidhāś catur-vidhā ye ’nye
jala-sthala-nabhaukasaḥ
kuśalākuśalā miśrāḥ
karmaṇāṁ gatayas tv imāḥ

訳語

翻訳

王よ、全ての生命体は、過去の行いに応じて、至高主によって創られることを知るがよい。全ての生命体には、ブラフマーや、ダクシャなどのブラフマーの息子たち、ヴァイシュヴァタ・マヌなどの周期的な長、インドラ、チャンドラ、ヴァルナのような神々、ブリグ、ヴィヤーサ、ヴァシシュタなどの偉大な聖者たち、ピトゥリローカやシッダローカの住民たち、チャーラナたち、ガンダルヴァたち、ヴィデャーダラたち、アスラたち、ヤクシャたち、キンナラや天使たち、蛇たち、猿の姿をしたキンプルシャたち、人間たち、マートゥリローカの住民たち、悪魔たち、ピシャーチャたち、幽霊、霊魂たち、狂人たち、悪霊たち、良い星と邪悪な星たち、鬼たち、森に生息する動物たち、鳥たち、家畜、爬虫類たち、山々、動く生命体と静止している生命体、 胚、卵、汗、種から生まれる生命体たち、そして水中、地上、空中に生息していようとも、喜び、苦悩の状態に、あるいは喜びと苦悩が入り交じった状態にいようとも、その他のあらゆる生命体が含まれる。彼らは皆、過去の行いによって至高主に創造されたのである。

解説

生命体の種類がここで挙げられており、宇宙における最も高位の惑星から最も低位の惑星に至るまで、生命の様々な種は例外なく全て、全能なる父、ヴィシュヌによって創造されました。したがって、誰も至高人格神から独立した存在ではありません。そのため『バガヴァッド・ギーター』(14-4)の次の節で主は、あらゆる生命体はご自身の子孫であると述べています。
sarva-yoniṣu kaunteya
mūrtayaḥ sambhavanti yāḥ
tāsāṁ brahma mahad yonir
ahaṁ bīja-pradaḥ pitā
物質自然は母親に例えられます。どの生命体も母親の体から生まれますが、母親がそのような誕生の究極の原因ではないのは事実です。父親が誕生の究極の原因です。父親から種を受け取らない限り、どんな母親も子供を産むことはできません。したがって、無数の宇宙におけるあらゆる種類の姿や立場にある生命体は全て全能なる父親、人格神の種から生まれるのであり、知識の乏しい人だけが、生命体が物質自然から生まれると考えてます。至高主の物質エネルギーの支配下にある生命体は全て、ブラフマーから取るに足らない蟻に至るまで、過去の行いに応じて、様々な肉体をまとってこの世に生まれます。
物質自然は主のエネルギーの一つです(『バガヴァッド・ギーター』(7-4))。そして物質自然はより高位の質である生命体に比べて、劣っています。主の高位の質と低位の質が組み合わさり、あらゆる宇宙の事柄を現します。
より優れた生活状態の中にいて比較的幸せである生命体もいれば、苦しい生活状態の中にいる生命体もいます。しかし実際には、どの生命体も物質的な束縛された人生において、本当に幸せではありません。刑務所生活では、第一級の囚人であるからと言って、他の第三級の囚人と比べて幸せである、ということはありません。知性ある人なら、第三級の刑務所生活から一級の刑務所生活に昇格されることを試みるのではなく、刑務所そのものから解放されることを目指すべきです。なぜなら一級の囚人に昇格したとしても、次期にはまた、三級の囚人へと降格するからです。人は刑務所生活から解放され、ふるさと、神の元へと戻ることを目指すべきです。これこそがあらゆる種類の生命体にとっての真の目標です。
sattvaṁ rajas tama iti
tisraḥ sura-nṛ-nārakāḥ
tatrāpy ekaikaśo rājan
bhidyante gatayas tridhā
yadaikaikataro ’nyābhyāṁ
sva-bhāva upahanyate

訳語

翻訳

徳の様式、激情の様式、闇の様式という物質自然の異なる様式に応じて、神々、人間、そして地獄に住む生命体として知られる様々な生命体がいる。王よ、ある特定の自然の様式も、他の二つと合わさりながら三つに分けられ、だからこそ各種の生命体は、他の様式にも影響され、そしてその影響による傾向を身につける。

解説

個々の生命体は特定の自然の様式の指揮下にありますが、同時に他の二つの様式に影響される可能性を常にはらんでいます。一般的に、物質的な囚われの中にいる束縛された魂は、激情の様式に影響されています。なぜならそれぞれが個々の望みを叶えるために、物質自然を支配しようとしているからです。しかしある人が激情の様式にあったとしても、交際によって、他の自然の様式に影響される可能性が常に存在します。もし望ましい交際があれば、人は徳の様式を育むことができ、悪い交際をすれば、闇、つまり無知の様式を育むことになるでしょう。全てのものは流動しています。人は良い交際や悪い交際によって習慣を変えることができ、そして善と悪を区別できるほどの知性を備えなくてはなりません。最高の交際は主の献身者への奉仕であり、その交際を通じて、人は主の純粋な献身者の恩恵によって最も資格のある人間になれます。シュリーラ・ナーラダ・ムニの人生においてすでに見てきたように、彼は主の純粋な献身者との交際の機会を得ただけで、主の最高の献身者になりました。生まれは下女の息子であり、父親の事も知らず、最低限の教育すら受けていませんでした。しかしただ献身者との交際を得ることによって、そして彼らの食事のお下がりを食べたことで、彼は献身者たちの超越的な質を徐々に培っていきました。そのような交際によって、主の超越的な栄光を唱えて聞くことへの愛着が顕著となり、そして主の栄光は主と何ら変わりないため、彼は音の権化を通じて、主との直接の交際を得たのです。同様に、アジャーミラの人生にまつわる話(第6編)もあります。彼はブラーフマナの息子であり、ブラフーマナの義務の遂行における教育と適切な修練を受けていたにもかかわらず、売春婦との悪い交際によって、チャンダーラという最低の質、つまり人間にとっての最下級の道に足を踏み入れることとなったのです。そのため『バーガヴァタム』は、解放の扉を開けるために、常にマハット、偉大な魂との交際を勧めています。物質世界を支配しようと従事している人たちと交際することは、地獄の最も暗い領域に入ることを意味します。人は偉大な魂との交際を通して自身を高めていくべきです。それこそが人生の完成の道です。
sa evedaṁ jagad-dhātā
bhagavān dharma-rūpa-dhṛk
puṣṇāti sthāpayan viśvaṁ
tiryaṅ-nara-surādibhiḥ

訳語

翻訳

人格神である主は、宇宙における全ての者の維持者として、創造を確立した後に様々な化身でお現れになる。そして人間、人間ではない生命体、神々といったあらゆる種類の束縛された魂を自分のもとへと呼び戻す。

解説

至高人格神ヴィシュヌは生命体たちを幻想の手中から取り返すため、彼らの様々な社会において自らの化身を現します。主のそのような活動は人間社会の中だけに限られたものではありません。主は御自身を魚、猪、木など様々な姿にさえも化身しますが、主に関する知識を持たない知性の乏しい人たちは、主が人間として人間社会に姿を現しても、主をあざけります。主は『バガヴァッド・ギーター』(9-11)で次のようにおっしゃっています。
avajānanti māṁ mūḍhā
mānuṣīṁ tanum āśritam
paraṁ bhāvam ajānanto
mama bhūta-maheśvaram
今までの節で説明されてきたように、主は決して物質創造の産物ではないと結論づけられています。主の超越的な立場が変わることはありません。主は知識と至福の永遠のお姿であり、様々なエネルギーを通して全能なるご意志を発揮なさいます。そのため、決してご自身の活動の反動の対象になることはありません。主は活動と反動のあらゆる概念を超越していらっしゃいます。主が物質世界で私たちの目に見える姿をとられたとしても、その現れは主の内的エネルギーのみによるものです。なぜなら主は物質世界の善悪の概念を超えているからです。物質世界において、魚や猪は人間よりも低位であると考えられますが、主が魚や猪として現れるとき、主が、物質的な意味での魚や猪になるわけではありません。主が全社会や全種にお現れになるのは主の無償の慈悲からであり、決して主がそれらの一員であると捉えてはなりません。善と悪、低位と高位、重要と無意味などの物質世界の概念は物質エネルギーにおける判断であり、至高主はこれらあらゆる概念を超越しています。パラン・バーヴァムという言葉、すなわち超越的な性質を物質的な概念と比較することは決してできないのです。全能なる主のお力は常に一定であり、低位の動物の姿をお取りになったからといって減少するわけではないことを忘れてはなりません。主シュリー・ラーマ、主シュリー・クリシュナ、そして魚や猪の姿をした主の化身の間には何の違いもありません。主は遍く満ちていると同時に、ありとあらゆる場所に局在しています。しかし、知識の乏しい愚かな人は主のパラム・バーヴァムに対する知識が不足しているがために、主がなぜ人間や魚の姿を取れるのかを理解できません。井戸の中の蛙が海を井戸と同じであると考えるのと同じように、人は自分が持つ知識の基準に物事を照らし合わせるものです。井戸の中の蛙は、海について想像することもできず、海の広大さについて知らされると、海というものが井戸よりも少し大きいものなのだと考えます。そのため、主の超越的な科学について無知な人には、主ヴィシュヌがどのようにして生命体の各社会にご自身を現すのかということを、理解することは難しいのです。
tataḥ kālāgni-rudrātmā
yat sṛṣṭam idam ātmanaḥ
sanniyacchati tat kāle
ghanānīkam ivānilaḥ

訳語

翻訳

その後、創造期の終わりに、風が雲を吹き消すように、主ご自身が破壊者ルドラのお姿で全創造を破壊なさる。

解説

ここでの創造と雲との比較はとても適切です。雲は作られ、または空に位置していますが、吹き消された時にも、同じ空に姿を持たずに存在し続けます。同様に、全創造はブラフマーの姿をした至高人格神によって創られ、ヴィシュヌの姿で維持され、やがてルドラ、すなわちシヴァの姿で破壊されます。この創造、維持、破壊は『バガヴァッド・ギーター』(8.19~20)で次のようにわかりやすく説明されています。
bhūta-grāmaḥ sa evāyaṁ
bhūtvā bhūtvā pralīyate
rātry-āgame ’vaśaḥ pārtha
prabhavaty ahar-āgame
paras tasmāt tu bhāvo ’nyo
’vyakto ’vyaktāt sanātanaḥ
yaḥ sa sarveṣu bhūteṣu
naśyatsu na vinaśyati
物質世界という自然界は、まず見事に創造され、素晴らしく発達し(最も偉大な数学者の計算をも超える)とてつもなく長い間、存在し続けますが、その後ブラフマーの夜の間に、滞ることなく再度破壊されます。そしてブラフマーの夜の終わりにまた同じ維持と破壊の原理に従うため、新たな創造界として現れます。
この一時的な世界を永住の住処として捉えている愚かな束縛された魂は、知性を持って、なぜこのような創造と破壊が行われているのかを学ばなくてはなりません。物質世界で果報的に活動する者たちは、至高主の物質世界を司る代理者によって提供された力と材料を使って、巨大な企業、巨大な住宅、巨大な帝国、巨大な産業、そしてその他多数の巨大なものを創造することにとても熱心です。そのような資源と、貴重なエネルギーを費やして、束縛された魂は創造し、自らの気まぐれを満たしますが、やがて、自らの創造したもの全てを手放し、さらなる創造を続けるために、別の人生の段階に入ることを余儀なくされるのです。この一時的な物質世界でエネルギーを浪費している愚かな束縛された魂に希望を与えるため、創造されたり破壊されることなく永遠に存在する自然が他に存在すること、そして束縛された魂は何をすべきか、という知識を与えてくださいます。その結果生命体は人生において、貴重な人生のエネルギーをどこに使うべきなのかを理解できるのです。至高なる意志によって、やがて確実に破壊される物質にエネルギーを浪費するのではなく、束縛された魂は、主への献身奉仕にエネルギーを活用するべきです。そうすれば彼は誕生、死、創造、破壊のない、知識と無限の至福に満ちた永遠の命が存在する、永続的な自然へと移行します。このようにして、この一時的な創造は、一時的な物に執着している束縛された魂に知識を与えることを目的として、展開され、破壊されるのです。それに加えてこの創造界は、全ての果報的な活動者の最高の目的である感覚の満足のためではなく、自己の悟りへの機会を与えるために存在しているのです。
ittham-bhāvena kathito
bhagavān bhagavattamaḥ
nettham-bhāvena hi paraṁ
draṣṭum arhanti sūrayaḥ

訳語

翻訳

このように、偉大な超越主義者たちは至高人格神の活動を描写するが、純粋な献身者たちは、これらの様相を超えた、超越的な様相における、より壮麗なものを目にするに値する。

解説

主は、ご自身の様々なエネルギーによる物質的な現象の創造者と破壊者であるというだけではありません。単なる創造者と破壊者以上のお方であり、それはなぜなら、主にはアーナンダ、つまり喜びの様相があるからです。主のこの喜びの様相は純粋な献身者のみによって理解され、他の者には理解することができません。非人格主義者は主の遍く満ちる影響力を知るだけで満足します。これをブラフマンの悟りと呼びます。非人格主義者より優れているのが、ハートの中に主の部分的表れであるパラマートマーとしての主を見る神秘主義者達です。しかし愛情奉仕を実際に交わすことで、主の直接的な喜び(アーナンダ)のエネルギーに関わる純粋な献身者達が存在します。永遠の現象であるヴァイクンタ惑星と呼ばれる住処にいる主は、常に交際者たちと一緒にいて、様々な超越的な味わいの中で純粋な献身者たちによる超越的な愛情奉仕を楽しんでいらっしゃいます。そのため主の純粋な献身者たちは、創造界が現れている間に主への献身奉仕の修練を行い、神の王国へ入る資格を得ることで現象世界における好機を最大限に生かすのです。『バガヴァッド・ギーター』(18-55)はこのことを確証しています。
bhaktyā mām abhijānāti
yāvān yaś cāsmi tattvataḥ
tato māṁ tattvato jñātvā
viśate tad anantaram
純粋な献身奉仕を発展させることによって主を真に知ることができ、こうして主への真正な奉仕における修練を経て、様々な立場で主との直接的な交際に入ることができます。主との交際で最も栄光ある交際は、ゴーローカ・ヴリンダーヴァナの惑星で可能となります。そこでは主クリシュナがゴーピーたちやお気に入りの動物、スラビ牛たちと一緒に楽しんでおられます。クリシュナのこの超越的な地についての描写は、主シュリー・チャイタニヤがこの点に関して最も権威ある文献と位置付けている『ブラフマー・サンヒター』のなかで描かれています。
nāsya karmaṇi janmādau
parasyānuvidhīyate
kartṛtva-pratiṣedhārthaṁ
māyayāropitaṁ hi tat

訳語

翻訳

主が、物質世界の創造と破壊を直接行うことはない。主の直接的な介入についてのヴェーダの描写は、物質自然が創造者であるという考えを否定するためだけにある。

解説

物質世界の創造、維持、破壊に関するヴェーダの説明は次の通りです:yato vā imāni bhūtāni jāyante; yena jātāni jīvanti; yat prayanty abhisaṁviśanti ーすなわち全てはブラフマンによって創られ、創造後には全てがブラフマンによって維持され、そして破壊された後、全てはブラフマンの中に保存されます。ブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンに関する知識を持たない粗野な物質主義者たちは、物質自然が物質現象の究極の原因であると結論づけており、現代の科学者達も物質自然が物質世界におけるあらゆる現象の究極の原因であるという見解を共有しています。この見解は全てのヴェーダ文献によって否定されています。ヴェーダンタ哲学はブラフマンが創造、維持、破壊、全ての源泉であると述べており、ヴェーダンタ哲学の当然な解説である『シュリーマド・バーガヴァタム』は janmādy asya yato ’nvayād itarataś cārtheṣv abhijñaḥ svarāṭなどと述べています。
不活性物質は間違いなく作用する力を持っているエネルギーですが、自発的に動く力は持っていません。ですから『シュリーマド・バーガヴァタム』は、アビジニャハとスヴァラート、つまり至高なるブラフマンは不活性物質ではなく、至高なる意識であり、独立していると述べることで、janmādy asya という格言を説明しています。したがって、不活性物質が物質世界の創造、維持、破壊の究極の原因であることはありえません。表面的には物資自然が創造、維持、破壊の原因に見えますが、実際には意識ある至高のお方、人格神が物質自然を創造へと促すのです。主は、創造、維持、破壊全ての原因であり、このことは『バガヴァッド・ギーター』(9-10)で証明されています。
mayādhyakṣeṇa prakṛtiḥ
sūyate sa-carācaram
hetunānena kaunteya
jagad viparivartate
物質自然は主のエネルギーの一つであり、主の指示下で活動することができます(アディヤクシェーナ)。父親が母親に接触することで母親が子供を授かることができるのと同じように、主が超越的な眼差しを物質自然に向ける時に初めて、物質自然は活動することができます。未熟な者には母親が子供を産むように見えますが、しかし経験ある人は、父親が子供に生を与えることを知っています。このように、物質自然は独自にではなく、至高なる父親の接触を受けてから、物質世界の動く現象や不動の現象を生み出します。物質自然を創造や維持などの原因と考えることは「ヤギの首元にある乳首のような論理」と呼ばれます。このajā-gala-stana-nyāyaの論理について、シュリーラ・クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴースヴァーミーの『チャイタニヤ・チャリタームリタ』は、次のように(尊師シュリー・シュリーマド・バクティシッダーンタ・サラスヴァティー・ゴースヴァーミー・マハーラージャが説明しているように、)述べています: 「質料因としての物質自然は、プラダーナとして知られ、動力因としてのそれは、マーヤーとして知られています。しかし物質自然は不活性な物質であるため、創造の遠因ではありません。」カヴィラージャ・ゴースヴァーミーは次のように述べています。
ataeva kṛṣṇa mūla-jagat-kāraṇa
prakṛti — kāraṇa yaiche ajā-gala-stana
(Cc. Ādi 5.61)
クリシュナの完全拡張体であるカーラナールナヴァシャーイー・ヴィシュヌこそが、物質を刺激し、動かすのです。非常に適した例として、帯電が挙げられます。鉄の塊は、もちろん火ではないのですが、しかし真っ赤になるまで熱を加えると、他の物を焼くという火の性質を備えます。物質は鉄塊に例えられ、ヴィシュヌの至高なる意識の操作、または眼差しによって帯電されたり、真っ赤に熱を帯びるのです。そのような帯電によってのみ、物質のエネルギーは様々な活動や反動を通して現れます。したがって不活性の物質は、宇宙現象の動力因でも質料因でもありません。シュリー・カピラデーヴァは次のようにおっしゃいました。
yatholmukād visphuliṅgād
dhūmād vāpi sva-sambhavāt
apy ātmatvenābhimatād
yathāgniḥ pṛthag ulmukāt
(『シュリーマド・バーガヴァタム』3-28-40)
根源の火、その炎、火花、煙は全て一つです。火は火なのですが、炎と異なり、炎は火花と異なり、火花は煙と異なります。各要素、すなわち炎、火花、煙の中に火の完全な性質が存在していますが、同時にそれぞれ異なる性質をもちつつ、異なる立場にあります。煙が空を漂うとき、良く知る、あるいは知らない現象を連想させる様々な姿が現れるために、宇宙現象は煙に例えられます。火花は生命体に例えられ、炎は物質自然(プラダーナ)に例えられます。私たちは、それぞれが根源の火の質によって力を与えられているがために、効力があることを知るべきです。すなわち物質自然、宇宙現象、そして生命体は全て主(火)の異なるエネルギーに過ぎません。ですから、物質自然を宇宙現象の本来の原因(サーンキャ哲学によるとプラクリティ、創造の原因)であると考える人たちの結論は間違っています。物質自然は、主なしに独自に存在することはできません。ですから、至高主をあらゆる原因の原因として除外することはajā-gala-stana-nyāya、つまりヤギの首にある乳首から乳を絞ろうとする論理なのです。ヤギの首にある乳首状の突起から乳が出るように見えるかもしれませんが、そのような乳首から乳を絞り出そうとするのはとても愚かなことです。
ayaṁ tu brahmaṇaḥ kalpaḥ
savikalpa udāhṛtaḥ
vidhiḥ sādhāraṇo yatra
sargāḥ prākṛta-vaikṛtāḥ

訳語

翻訳

ここで要約して説明された創造と破壊の過程は、ブラフマーの1日の間に適用される法則である。また物質自然が分散するマハットの創造における法則でもある。

解説

創造には3種類あり、マハー・カルパ、ヴィカルパ、カルパと呼ばれます。マハー・カルパでは主がカーラノーダカシャーイー・ヴィシュヌとして、マハット・タットヴァのあらゆる力と創造的な物質と道具の16要素を備えた、最初のプルシャ化身の姿をお取りになります。創造的な道具は11、材料は5つあり、全てマハット、すなわち物質的自我の産物です。カーラノーダカシャーイー・ヴィシュヌの様相をした主によるこれらの創造をマハー・カルパと呼びます。ブラフマーの創造と物質的材料の分散はヴィカルパと呼ばれ、日々のブラフマーによる創造はカルパと呼ばれます。そのためブラフマーの各日はカルパと呼ばれ、ブラフマーの日々を単位として計算すると30のカルパがあります。これは『バガヴァッド・ギーター』(8-17)でも次のように確証されています。
sahasra-yuga-paryantam
ahar yad brahmaṇo viduḥ
rātriṁ yuga-sahasrāntāṁ
te ’ho-rātra-vido janāḥ
高位の惑星系の一昼夜はこの地球の1年に値します。これは現代の科学者も受け入れており、宇宙飛行士たちによって証明済みです。同様に、より高位の惑星系の領域では、一昼夜の期間が天界の惑星の一昼夜よりも長いのです。4つのユガは天空の暦の観点から計算されており、そのため天空の惑星の観点からすると12万年になります。これはディヴィヤ・ユガと呼ばれ、千のディヴィヤ・ユガがブラフマーの1日を構成します。ブラフマーが一日の間に行う創造はカルパと呼ばれ、ブラフマー自身が創造されることをヴィカルパと呼びます。そしてマハー・ヴィシュヌの呼吸によってヴィカルパが可能になるとき、それをマハー・カルパと呼びます。これらのマハー・カルパ、ヴィカルパ、カルパには定期的で規則的な周期があるのです。これらに関するマハーラージャ・パリークシットの質問に対して、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはスカンダ・プラーナのプラバーサ・カンダの中で答えを述べました。それは次の通りです。
prathamaḥ śveta-kalpaś ca
dvitīyo nīla-lohitaḥ
vāmadevas tṛtīyas tu
tato gāthāntaro ’paraḥ
rauravaḥ pañcamaḥ proktaḥ
ṣaṣṭhaḥ prāṇa iti smṛtaḥ
saptamo ’tha bṛhat-kalpaḥ
kandarpo ’ṣṭama ucyate
sadyotha navamaḥ kalpa
īśāno daśamaḥ smṛtaḥ
dhyāna ekādaśaḥ proktas
tathā sārasvato ’paraḥ
trayodaśa udānas tu
garuḍo ’tha caturdaśaḥ
kaurmaḥ pañcadaśo jñeyaḥ
paurṇamāsī prajāpateḥ
ṣoḍaśo nārasiṁhas tu
samādhis tu tato ’paraḥ
āgneyo viṣṇujaḥ sauraḥ
soma-kalpas tato ’paraḥ
dvāviṁśo bhāvanaḥ proktaḥ
supumān iti cāparaḥ
vaikuṇṭhaś cārṣṭiṣas tadvad
valī-kalpas tato ’paraḥ
saptaviṁśo ’tha vairājo
gaurī-kalpas tathāparaḥ
māheśvaras tathā proktas
tripuro yatra ghātitaḥ
pitṛ-kalpas tathā cānte
yaḥ kuhūr brahmaṇaḥ smṛtā
このようにブラフマーの30のカルパは次の通りです: (1)スヴェータ・カルパ、(2)ニーラローヒタ、(3) ヴァーマデーヴァ、 (4)ガーターンタラ 、(5)ラウラヴァ、 (6)プラーナ、 (7)ブリハット・カルパ、 (8) カンダルパ、 (9) サドヨータ、 (10) イーシャーナ、(11)ディヤーナ 、(12)サーラスヴァタ、 (13) ウダーナ、(14)ガルダ、(15)カウルマ、(16)ナーラシンハ、(17)サマーディ、 (18)アーグネーヤ、(19) ヴィシュヌジャ、(20)サウラ、(21)ソーマ・カルパ、(22) バーヴァナ、(23) スプマ、(24) ヴァイクンタ (25)アルチシャ、(26)ヴァリー・カルパ、(27)ヴァイラージャ、(28)ガウリー・カルパ、(29)マーへーシュヴァラ、 (30) パイトリ・カルパ
これらはブラフマーの1日に過ぎず、彼は百歳まで、何ヶ月も何年も生き続けるのですから、カルパにおいてだけでも何度創造が行われるのか、想像がつきます。それに加え、ブラフマ・サンヒターで述べられているように (yasyaika-niśvasita-kālam athāvalambya jīvanti loma-vilajā jagadaṇḍa-nāthāḥ)、ヴィカルパという、マハー・ヴィシュヌの呼吸によって創られるものもあります。ブラフマーたちはマハー・ヴィシュヌの一呼吸間しか生きません。つまりヴィシュヌの息を吸って吐く行為がマハー・カルパであり、これらは全て、至高人格神によるものです。なぜなら主以外、全ての創造の主は存在しないからです。
parimāṇaṁ ca kālasya
kalpa-lakṣaṇa-vigraham
yathā purastād vyākhyāsye
pādmaṁ kalpam atho śṛṇu

訳語

翻訳

王よ、粗雑で微細な様相における時間の長さと、それぞれに特有な徴候に関しては、じきに説明するが、まずここでパードマ・カルパについて説明しよう。

解説

現在継続しているブラフマーのカルパは、ヴァラーハ・カルパ、またはスヴェータヴァラーハ・カルパと呼ばれています。なぜなら、ヴィシュヌの腹部から生えた蓮華の上に生まれたブラフマーが創造している期間に、ヴァラハとして主が化身したからです。そのためこのヴァラーハ・カルパは、パードマ・カルパとも呼ばれます。これはジーヴァ・ゴースヴァーミーや、最初の解説者、スヴァーミー・シュリーダラに従ったヴィシュヴァナータ・チャクラヴァルティー・タークラなどのアーチャーリヤたちによっても立証されています。ですからブラフマーのヴァラーハ・カルパをパードマ・カルパと呼ぶことに何の矛盾もありません。
śaunaka uvāca
yad āha no bhavān sūta
kṣattā bhāgavatottamaḥ
cacāra tīrthāni bhuvas
tyaktvā bandhūn sudustyajān

訳語

翻訳

シャウナカ・リシは、創造に関する全てのことを聞いた後で、スータ・ゴースヴァーミーにヴィドゥラについて尋ねた。なぜなら彼は、ヴィドゥラが非常に別れがたい親族を残して自分の家を後にしたことを以前スータから聞いていたからである。

解説

シャウナカが率いるリシたちは、世界の巡礼地を旅している間、マイトレーヤ・リシに出会ったヴィドゥラについて聞くことに、さらに関心を抱いていました。
kṣattuḥ kauśāraves tasya
saṁvādo ’dhyātma-saṁśritaḥ
yad vā sa bhagavāṁs tasmai
pṛṣṭas tattvam uvāca ha
brūhi nas tad idaṁ saumya
vidurasya viceṣṭitam
bandhu-tyāga-nimittaṁ ca
yathaivāgatavān punaḥ

訳語

翻訳

シャウナカ・リシは言った:超越的な主題について話し合ったヴィドゥラとマイトレーヤの間でどのような話題が語られたのか、ヴィドゥラが何を問い、マイトレーヤが何と答えたのか、どうか私たちに知らせてください。またヴィドゥラがなぜ家族との繋がりを捨て、なぜ再び家に戻ったのか教えてください。そして巡礼の地にいる間のヴィドゥラの活動についても教えてください。

解説

シュリー・スータ・ゴースヴァーミーは、物質世界の創造と破壊に関する事柄について語っていましたが、シャウナカ率いるリシたちは、物理的な事柄よりもさらに高い水準にある超越的な話題について聞きたいと願っていたのが見てとれます。粗雑な肉体と物質世界に夢中な人たちと、超越的な知識に興味がある、より高い段階にいる人たちという、2種類の人間が存在します。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、物質主義者と超越主義者の両者にとって有益です。物質世界と超越世界の、両方における主の栄光ある活動に関して『シュリーマド・バーガヴァタム』を聞くことによって、人間は同じように恩恵を得ることができます。物質主義者たちは物理的な法則や、それらがどのように作用しているのかについて関心を持っており、それらの物質が持つ魅惑的な様相に奇跡を見出します。物質の魅惑的な力のせいで、彼らは主の栄光を忘れてしまうことがあります。しかし物理的な活動とその素晴らしさは全て、主によって引き起こされているとはっきりと知るべきです。庭のバラが徐々に形を取り、色づき、そして美しく、甘い香りを放つのは、盲目的に作用する物理的な法則によるものではありません。一見そう見えるかもしれませんが、物理的な法則の裏には至高主の完全なる意思が存在するのです。そうでなければ、物がそれほど規則的に形を取ることなどありません。画家は細心の注意を払い、芸術的感性をもって見事に薔薇を描きますが、それでも絵に描かれた薔薇は、本物の薔薇のように完璧ではありえません。それならば、本物の薔薇が持つ美しさは、知性なしに生まれたなどと、どうして言えるでしょうか?このような結論は、乏しい知識によるものです。創造と破壊に関する上記の説明から、至高なる意識は偏在しているため、完璧な意識を持って、あらゆる事象に配慮することができると知るべきです。それが至高主が遍在していることの証です。しかし粗野な物質主義者よりも愚かな人たちは自分が超越主義者であると名乗り、至高で遍く満ちる意識を持っていると主張しますが、それについて何の証拠も差し出しません。そのような愚かな人たちは壁の反対側で何が起きているのかすら知ることができませんが、至高なるお方の遠大で遍く満ちる意識を持っていると、誤った自惚れに浸っています。彼らにとっても『シュリーマド・バーガヴァタム』を読むことは助けになります。ただ至高なる意識を持っていると主張するだけでは、至高の意識を持つことにはならないと、彼らの目を覚ましてくれます。まず物質世界において、そのような至高なる意識を持っていることを証明してみせるべきです。しかしナイミシャーランヤのリシたちは、粗野な物質主義者や偽物の超越主義者の域を超えていたため、権威者たちが語る超越的な事柄における本当の真実を知ることに、常に関心を持っていました。
sūta uvāca
rājñā parīkṣitā pṛṣṭo
yad avocan mahā-muniḥ
tad vo ’bhidhāsye śṛṇuta
rājñaḥ praśnānusārataḥ

訳語

翻訳

シュリー・スータ・ゴースヴァーミーは述べた:偉大な聖者がパリークシット王の問いに答えながら説明した事柄について、今あなたたちに説明しましょう。どうか注意深くお聞きください。

解説

どんな質問も権威者を引用して答えることができ、それは良識ある人たちを満足させます。同じような制度は、法廷でも見られます。最も有能な弁護士は自身の案件を立件する手間をあまりかけず、法廷での過去の判定からの証拠を提出します。これはパランパラー制度と呼ばれ、博識な権威者はでたらめな解釈をでっち上げるのではなく、その制度に従います。
īśvaraḥ paramaḥ kṛṣṇaḥ
sac-cid-ānanda-vigrahaḥ
anādir ādir govindaḥ
sarva-kāraṇa-kāraṇam
(『ブラフマー・サンヒター』 5-1)
余すところなく全ての事象にその御業をうかがい知ることのできる、至高主に従おうではないですか。
これで、バクティヴェーダンタによる『シュリーマド・バーガヴァタム』第2編・第10章「バーガヴァタムは、全ての問いに対する答え」の要旨解説を終了します。