シュリーマド・バーガヴァタム 2.10.22
節
bodhyamānasya ṛṣibhir
ātmanas taj jighṛkṣataḥ
karṇau ca nirabhidyetāṁ
diśaḥ śrotraṁ guṇa-grahaḥ
ātmanas taj jighṛkṣataḥ
karṇau ca nirabhidyetāṁ
diśaḥ śrotraṁ guṇa-grahaḥ
訳語
bodhyamānasya — 理解することを望んで; ṛṣibhiḥ — 権威によって; ātmanaḥ — 至高なる存在の; tat — それ; jighṛkṣataḥ — 主が始めようと望んだ時; karṇau — 耳; ca — 〜もまた; nirabhidyetām — 現れた; diśaḥ — 方角、または空気の神; śrotram — 聴力; guṇa-grahaḥ — 聞く対象物
翻訳
偉大な聖者たちの探究への望みが発展することによって、耳、聴力、聴力を司る神、そして聴力の対象物が現れた。偉大な聖者たちは至高なる自己について聞くことを望んだ。
解説
『バガヴァッド・ギーター』で述べられているように、人々は知識の発展を通して、summum bonum、つまり、全ての至高善である至高主について知ろうとするべきです。知識とは、主の指示のもとで働いている自然の法則や物理の理解に関する知識だけを意味しているわけではありません。科学者たちは、物質自然下で作用する物理的な法則について聞くことに夢中になります。彼らは遠く離れた他の惑星で起きていることをラジオやテレビという媒体を通して聞くことに熱心ですが、聴力と聴覚器官は至高なる自己、つまり至高主について聞くために、主によって与えられたものであるということを知るべきです。不幸にも聴力は、俗的な出来事についての音の振動を聞くことに誤用されているのです。偉大な聖者たちは、ヴェーダの知識を通して主について聞くことだけに関心を持ち、それ以外のことについては関心を持たなかったのです。その関心こそが、知識を聴覚で受容することの始まりなのです。