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第17章

三種類の信念

arjuna uvāca
ye śāstra-vidhim utsṛjya
yajante śraddhayānvitāḥ
teṣāṁ niṣṭhā tu kā kṛṣṇa
sattvam āho rajas tamaḥ

訳語

翻訳

アルジュナは尋ねた。
クリシュナよ
経典の規則に従わず自分勝手な想像で崇拝する人々は
いかなる立場にあるのでしょうか?
徳、激情、無知のいずれの様式に属するのでしょうか?

解説

 第4章第39節には、ある特定の崇拝に信念を持つ人はしだいに知識の段階へと高められ、平安と繁栄の最高段階に達すると説明されている。第16章には、経典の定める原則に従わない人はアスラすなわち悪魔と呼ばれ、経典の指示に忠実に従う人はデーヴァすなわち神々と呼ばれると述べられている。では経典で指示されていない規則に信念を持って従う人は、どのカテゴリーに属すのであろうか? アルジュナのこの疑問をクリシュナが明らかになさる。誰か人間を選んで神と祭り上げ、その人物に信念を持って崇拝する者は徳の様式、激情の様式、無知の様式のいずれにあるのか? そのような人も人生の完成段階に達することができるのか? 真の知識を得て、完璧なる最高の段階まで昇ることが可能なのか? 経典の定めた規則を守らず別のものに信念を持って、神々や人間を崇拝する人たちの努力は報われるのか? このような疑問をアルジュナはクリシュナに投げかけたのである。
śrī-bhagavān uvāca
tri-vidhā bhavati śraddhā
dehināṁ sā svabhāva-jā
sāttvikī rājasī caiva
tāmasī ceti tāṁ śṛṇu

訳語

翻訳

至高人格神は言った。
肉体に覆われた魂の信念には
個々に備わる自然の様式に応じて
徳、激情、無知という3種類がある。
これについて耳を傾けよ。

解説

 経典の規定原則を知っていながら怠惰のためにそれに従わない人は、物質自然の様式に支配される。徳、激情、無知のいずれかの様式で行った過去の行いに応じて、特定の資質を得ることになる。生命体は物質自然と関わって様式に応じた心情を持つようになるため、自然の様式との関係は永遠に続く。しかし正当な精神の師と交際し、師からの指示や経典の教えを守るならその性質を変えることができ、無知から徳へ、あるいは激情から徳へとしだいに変化していく。結論として、特定の様式の中での盲信は、完成段階に達する助けにはならないということである。私たちは知性を使って正統な精神の師の交際を得ながら、万全の注意を払って物事を見つめていかなくてはならない。そうすることによって人は、より上の自然の様式へと自分を高めていくことができるのである。
sattvānurūpā sarvasya
śraddhā bhavati bhārata
śraddhā-mayo ’yaṁ puruṣo
yo yac-chraddhaḥ sa eva saḥ

訳語

翻訳

バラタの子よ
人は自分の置かれた自然の様式に応じて
独自の信念を育てる。
生命体がそれぞれに持つ信念は
獲得した様式に沿うと言われているのだ。

解説

 いかなる人間であろうと、誰もが独自の信念を持っている。しかしその人が獲得した資質に応じて、信念も徳、激情、無知のいずれかに分かれる。そして各自の信念に応じた人と交際するようになる。ここで大切な事実は第15章にも書かれているように、生命体は本来至高主の微小な一部分だということであり、つまり人は本来物質自然の様式を超越しているということなのだ。しかし至高人格神との関係を忘れてしまい、制約された生活の中で物質自然と関わってしまうと、それにからんださまざまな自分の立場を作り上げてしまう。その結果として生じた見せかけの信念や不自然な生活状態は、あくまで物質的なものでしかない。何らかの思想や人生観に引きずられてはいても、魂は本来ニルグナすなわち超越的なのである。ゆえに至高主との関係を再確立するためには、溜めてしまった物質的汚れを浄化してしまわなくてはならない。これがクリシュナ意識という、恐れのない唯一の方法である。クリシュナ意識を確立した人には、完成段階まで昇ることが保証されている。自己を悟るこの道を行かなければ、自然の様式の影響から免れることはできない。
 この節で使われているシュラッダー、すなわち信念というサンスクリット語は非常に重要で、これは本来徳の様式から生じる。神々に信念を持つ人もいれば、勝手に作り上げた神に信念を持つ人も、頭の中で捏造した何かに信念を持つ人もいるが、強い信念というのは物質的な徳の様式の産物だとされている。しかし物質的に制約された生活の中では、完全に浄化された活動など存在しない。何か混じり気のある状態で、完全な徳の様式ではないのだ。純粋な徳の様式は超越的であり、その中では至高人格神の本当の資質が理解できる。完全に浄化された徳の様式の信念でないかぎり、信念も物質自然の様式に汚されている。そして汚れた様式は心にまで広がるため、ハートが関わった特定の様式の信念が培われるのである。つまりハートが徳の様式にある人は徳の信念を持ち、激情の様式にある人は激情の信念を持ち、ハートが暗い幻想の様式にある人は信念も同じように汚れているということである。この世界にはさまざまな種類の信念があり、信念の違いの数だけ宗教も存在する。宗教的信念は純粋な徳の様式の中に存在するというのが真の原則であるが、私たちはハートが汚れているために、いろいろな宗教原則があるように思ってしまう。また信念がそれぞれ違うために、さまざまな崇拝が行われてしまうのである。
yajante sāttvikā devān
yakṣa-rakṣāṁsi rājasāḥ
pretān bhūta-gaṇāṁś cānye
yajante tāmasā janāḥ

訳語

翻訳

徳の様式にある者は神々を崇拝し
激情の様式にある者は邪悪な者を崇拝し
無知の様式にある者は幽霊や霊魂を崇拝する。

解説

 この節で至高人格神は、さまざまな種類の崇拝者がどのような活動をするか述べておられる。至高人格神だけが崇拝に値するお方だと経典は教えているが、経典の指示にあまり精通していない者や信念を抱いていない者は、それぞれの置かれた物質自然の様式特有の状況に応じていろいろなものを崇拝する。徳の様式にある人は神々を崇拝するのが一般的である。神々にもブラフマー、シヴァを初め、インドラ、チャンドラ、太陽神、そのほかにもいろいろあるが、徳の様式の人々は特定の目的のために特定の神を崇拝する。同様に、激情の様式にある人は邪悪な者を崇拝する。第二次世界大戦の時に闇市で巨額の富を得たカルカッタの男性が、感謝のあまりヒトラーを崇拝していたことがあった。このように激情や無知の様式にいる人が権力を持つ人間を神と選ぶというのはよくあることで、誰を神として崇めても同じ結果が得られると考えているのである。
 そしてここでは、激情の様式の人はそうした神を作り上げて崇拝し、無知の様式という暗闇にいる人は死んだ霊を崇拝するとはっきりと書かれている。中には死者の眠る墓を崇拝する人もいるし、また性的に奉仕することも闇の様式だとされる。インドの人里離れた村では、幽霊を崇拝する人々もいる。インドの低い階級の人々の中には森に行き、幽霊の住む木があると知ると、その木に捧げ物をして崇拝する者もいる。しかしこの種の行為は神の崇拝ではない。神の崇拝というのは純粋な徳の様式にある超越的な人のためのものである。『シュリーマド・バーガヴァタム』(4-3-23)には sattvaṁ viśuddhaṁ vasudeva-śabditam「純粋な徳の様式にある者はヴァースデーヴァを崇拝する」と書かれている。これはつまり、物質自然の様式から完全に浄化されて超越的な段階に達した人は、至高人格神を崇拝することができるという意味である。
 徳の様式に属するとされている非人格主義者は、5種類の神々を崇拝する。彼らが崇拝するのはヴィシュヌの物質界での非人格的な様相であるが、哲学的にはこれもヴィシュヌとして知られている。ヴィシュヌは至高人格神の拡張体であるが、非人格主義者は究極的に至高人格神を信じていないため、ヴィシュヌの姿は非人格的なブラフマンの別の様相でしかないと考えている。また同様に主ブラフマーのことも、激情の様式の非人格的様相であるととらえている。時には自分たちが崇拝の対象としている5種類の神々について言及することもあるが、究極の真理は無機質なブラフマンだと信じているため、最終的にはそうした崇拝の対象をすべて放棄してしまう。結論として言えるのは、物質自然の様式に付随するさまざまな質を浄化するには、超越的な資質を持つ人と交際するしかないということである。
aśāstra-vihitaṁ ghoraṁ
tapyante ye tapo janāḥ
dambhāhaṅkāra-saṁyuktāḥ
kāma-rāga-balānvitāḥ
karṣayantaḥ śarīra-sthaṁ
bhūta-grāmam acetasaḥ
māṁ caivāntaḥ śarīra-sthaṁ
tān viddhy āsura-niścayān

訳語

翻訳

自尊心と利己心にかられて
経典で勧められていない厳しい苦行をし
情欲と執着に駆り立てられ
愚かにも体という物質要素のみならず
体内に宿る至高の魂にまでも苦痛を与える者は
悪魔であると知るがよい。

解説

 経典に書かれていない耐乏生活や苦行を作り出す人々がいる。単に政治目的など何かの思惑から行われる断食はその一例であるが、こうしたことは経典では指示されていない。経典は精神的向上のための断食は勧めているが、政治や社会的な目的では勧めていない。このような苦行をする者は間違いなく悪質であると『バガヴァッド・ギーター』は言う。そうした行為は経典の教えに背くものであり、一般の人々の益にはならない。実際には自尊心、偽りの自我意識、情欲、物質的喜びへの執着ゆえの行為であり、体という物質的要素の構成を乱すだけでなく、体内に宿っている至高人格神をも乱すことになる。政治目的などで行うこうした権威なき断食や苦行は、ほかの人々にとっても非常に迷惑な行為であることは間違いなく、ヴェーダ経典に記述されていない。悪質な人間はこのような方法で、敵や反対勢力に自分の要求を押し通すことができると考えるかもしれないが、こうした断食で命を落とすこともあるのだ。至高人格神はこれを認めず、このような行為をする者は悪質であるとおっしゃっている。こうした運動はヴェーダ経典の教えに背くものであるため、至高人格神に対して無礼な行為なのだ。これに関してアチェータサハというサンスクリット語が重要な意味をもつ。正常な精神状態にある人なら、経典の教えに従うべきである。経典を無視し、その教えに背いて独自の耐乏生活や苦行を作り上げるのは、正常な精神状態にない人のすることである。私たちはいつも前の章に書かれてあることを心に留め、悪質な人間は最終的にどこに行くのかを覚えておかなければならない。彼らは主によってまた邪悪な者の子宮に宿ることを強いられ、何度生まれても至高人格神と自分との関係を知ることなく、邪悪な考えを持って生き続けることになる。しかしそのような人でももし精神の師に導かれるという幸運に恵まれ、ヴェーダの知恵を授けてもらうことができたなら、この束縛から抜け出し、やがて至高の目的地に達成することができるのである。
āhāras tv api sarvasya
tri-vidho bhavati priyaḥ
yajñas tapas tathā dānaṁ
teṣāṁ bhedam imaṁ śṛṇu

訳語

翻訳

人の好む食べ物さえ
物質自然の三様式に応じて3種類ある。
供養、苦行、慈善についても同様である。
これから語るその違いについて
耳を傾けよ。

解説

 物質自然のどの様式にあるかによって食べる物も違えば、供養や苦行や慈善の行い方もいろいろである。すべてが同じ段階で行われているわけではない。どの行為がどの様式に属するかを分析的に理解できる人は実に賢明であり、何を食べてもどんな供養や慈善を行っても同じだと考える人は物事を識別できない、知性に欠けた人である。伝道家の中には「どんな好きなことをしていても、完成に到達することができる」と提唱する者がいるが、そのような愚かな指導者たちは経典の教えに従わず、独自の方法を作り出して一般大衆を誤った方向に導いているのだ。
āyuḥ-sattva-balārogya-
sukha-prīti-vivardhanāḥ
rasyāḥ snigdhāḥ sthirā hṛdyā
āhārāḥ sāttvika-priyāḥ

訳語

翻訳

徳の様式の人が好む食べ物は寿命を延ばし
生活を浄化し、力、健康、幸福、満足を与える。
そうした食べ物は水分が多く、脂肪分に富み
健康的でハートに喜びを与える。
kaṭv-amla-lavaṇāty-uṣṇa-
tīkṣṇa-rūkṣa-vidāhinaḥ
āhārā rājasasyeṣṭā
duḥkha-śokāmaya-pradāḥ

訳語

翻訳

苦すぎるものや酸っぱすぎるもの
塩分や辛さや刺激が強すぎるもの
乾燥したものや焦げたものは
激情の人が好む食べ物である。
こうした食べ物は悩み、苦しみ、病気を引き起こす。
yāta-yāmaṁ gata-rasaṁ
pūti paryuṣitaṁ ca yat
ucchiṣṭam api cāmedhyaṁ
bhojanaṁ tāmasa-priyam

訳語

翻訳

食べる3時間以上前に料理された食べ物
味のない物、腐敗して悪臭を放つ物
他人の食べ残しや禁制の物が入っている食べ物は
闇の様式にある人によって好まれる。

解説

 食べ物の目的は寿命を延ばし、心を浄化し、体力をつけることであり、ほかには何の目的もない。過去の偉大な権威者たちは、乳製品、砂糖、米、麦、果物、野菜など、健康に最適で寿命を延ばす食べ物を厳選していた。徳の様式にある人はこのような食べ物を非常に好む。焼トウモロコシや糖蜜などの食品はそれ自体あまり美味しいものではないが、ミルクその他の食べ物と混ぜることによって美味しくなる。そのようにして食べることによって徳の様式となる。こうした食べ物はすべてもともと純粋で、肉や酒類のような禁制のものとはかけ離れたものである。第8節に書かれている脂肪の多い食べ物とは、動物を屠殺して入手する動物性たんぱく質とはまったく関係ないものである。動物性たんぱく質はミルクという最高にすばらしい食べ物からも摂取できる。ミルク、バター、チーズなどの製品によって動物性たんぱく質を得られるのであるから、罪なき動物を殺す必要はまったくない。動物が殺され続けているのは、けだもののような精神状態にある人間のなせる業である。ミルクを飲むことは必要な脂肪分を摂る文化的手段であるが、屠殺は人間のすべきことではない。たんぱく質は豆類、ダール、全粒粉などからも十分に摂取できるのだ。
 激情の様式の人が好む食べ物は、苦すぎたり、塩分が多すぎたり、辛すぎたり、唐辛子を入れすぎたりで、胃の中の粘液を減らして胃痛を起こさせ、病気を引き起こす。無知すなわち闇の様式の食べ物は、本質的に新鮮でないものである。どんな食べ物でも食べる3時間以上前に調理されたもの(主に捧げた食べ物であるプラサーダムを除いて)は、闇の様式の食べ物とされる。時間のたった食べ物は腐敗していくため悪臭を放ち、無知の様式の人は魅惑されることがあっても、徳の様式の人は顔を背ける。
 食べ残しの食物に関しては、まず至高主に捧げたもの、または聖人、特に精神の師が口にしたものに限り食べてよい。それ以外の食べ残しは闇の様式のものとされ、感染や病気のもととなる。闇の様式にいる人はこのような食べ物をたいへん好むが、徳の様式にいる人は好まないどころか触れることすらしない。最高の食べ物とは、至高人格神に捧げた残り物である。『バガヴァッド・ギーター』の中で至高主は、Patraṁ puṣpaṁ phalaṁ toyam「野菜や小麦粉やミルクで作られた食べ物が、献身をこめて捧げられたとき、それを受け入れる」とおっしゃっている。もちろん、愛と献身こそ至高人格神が受け入れてくださる主要なものであるが、プラサーダムをどのように用意すべきかについての指示もなされている。経典の指示に従って用意した上で至高人格神に捧げた食べ物なら、どれほど時間のたったものでも食べてよい。なぜならそのような食べ物は超越的だからである。したがって、防腐性に富み、誰の口にも美味しい食べ物にするためには、至高人格神に捧げることである。
aphalākāṅkṣibhir yajño
vidhi-diṣṭo ya ijyate
yaṣṭavyam eveti manaḥ
samādhāya sa sāttvikaḥ

訳語

翻訳

数ある供養の中でも
報いを求めぬ者が経典の指示に従って義務として行うものが
徳の様式の供養である。

解説

 一般的に供養は何らかの目的を心に秘めて行われるが、そのような望みを持たずに義務として行うべきであることが、ここで述べられている。例えば寺院や教会で行われる儀式などはたいてい物質的な利益を求めて行われるが、これは徳の様式の行為ではない。寺院や教会へは義務として訪れ、いかなる物質的な利益も求めずに花や食べ物などを捧げるべきである。ただ神を参拝するだけのために寺院に行っても意味がないと誰もが考えるが、経典は経済的利益を求める崇拝を勧めてはいない。神像のもとへはただ尊敬の礼を捧げるために足を運ぶべきであり、そのような行為が人を徳の様式へと導いてくれるのである。経典の教えに従って至高人格神に尊敬の礼を捧げる、それこそが教養ある人間の為すべきことである。
abhisandhāya tu phalaṁ
dambhārtham api caiva yat
ijyate bharata-śreṣṭha
taṁ yajñaṁ viddhi rājasam

訳語

翻訳

バーラタ家の長たる者よ
だが、物質的利益や自尊心のために行われる供養は
激情の様式のものであると知るがよい。

解説

 天界の惑星に昇るため、あるいはこの世で何らかの物質的利益を求めて供養や儀式が行われることもあるが、そうしたものは激情の様式の供養だとみなされる。
vidhi-hīnam asṛṣṭānnaṁ
mantra-hīnam adakṣiṇam
śraddhā-virahitaṁ yajñaṁ
tāmasaṁ paricakṣate

訳語

翻訳

経典の指示に敬意を払わず
プラサーダム(精神的食物)を配ることなく
ヴェーダのマントラを唱えもせず
僧侶に謝礼することもなく
信念を持たずに行われる供養は
無知の様式のものである。

解説

 闇すなわち無知の様式の信念は、実際には信念とは言えない。経典の教えなど無視してただお金を儲けるために神々を崇拝し、得たお金を気晴らしに使ってしまう人もいる。そのような見せかけの宗教儀式は純粋ではなく、闇の様式のものである。悪質な心情を生み出しはしても、人間社会に恩恵をもたらすことはない。
deva-dvija-guru-prājña-
pūjanaṁ śaucam ārjavam
brahmacaryam ahiṁsā ca
śārīraṁ tapa ucyate

訳語

翻訳

体の謹厳さとは
至高主、ブラーフマナ、精神の師を崇拝し
父母のような目上の者を敬い
清潔、実直、禁欲、非暴力でいることである。

解説

 至高主はここでさまざまな種類の謹厳さや苦行について語られるが、その最初が体に関するものである。主や神々、ブラーフマナの資格を持つ完璧な人たち、精神の師、父母のような目上の人たち、ヴェーダ知識に精通しているすべての人を敬うべき、あるいは敬うことを学ぶべきである。このような方々には正しい敬意を払わなくてはならない。また外面的にも内面的にも清潔であるよう心がけ、実直な行動をとることも学ぶ必要がある。経典で認められていないことはすべきでなく、結婚生活以外の性行為についても経典が認可していないのだからしてはならない。これを禁欲生活と呼ぶ。以上が体に関しての謹厳さや苦行である。
anudvega-karaṁ vākyaṁ
satyaṁ priya-hitaṁ ca yat
svādhyāyābhyasanaṁ caiva
vāṅ-mayaṁ tapa ucyate

訳語

翻訳

言葉に関する謹厳さとは
誠実で心地よく有益なことを話し
他人を乱す言葉を使わないこと。
そしてきちんとヴェーダ文献を朗唱することである。

解説

 他人の心をかき乱すような話し方をしてはならない。もちろん教師の場合は生徒の教育のために真実を伝えなくてはならないこともあるが、生徒以外と話すときには、心を乱れさせないように気をつけなくてはならない。これが話すことに関する謹厳さである。さらに無意味なことも話すべきでない。精神的な集まりの中で話すのは、経典で支持されている内容を語ることであり、速やかに経典を引用して自分の語っていることを裏付けなくてはならない。と同時に、その話し方も聞く人の耳に心地よいものでなくてはならない。このような話し合いが人に最高の恩恵をもたらしたり、人間社会の向上につながることもあるのだ。無限の知識があふれているヴェーダ文献こそ、私たちの学ぶべきものである。以上が話すことに関する謹厳さである。
manaḥ-prasādaḥ saumyatvaṁ
maunam ātma-vinigrahaḥ
bhāva-saṁśuddhir ity etat
tapo mānasam ucyate

訳語

翻訳

そして満足すること、実直であること
真剣であること、自己制御すること
自分の在り方を清めること
これらは心に関する謹厳さである。

解説

 心を厳格な状態にするためには、感覚を満たしたいという思いから離れることである。他人のために良いことをしようという思いを、常に持ち続けるような心を養わなくてはならない。心を鍛える最善の方法は真剣に物事を考えることであり、クリシュナ意識から逸れることなく、感覚を満たすようなものを遠ざけるよう常に努めることが大切なのだ。自分の性質を清めるとはクリシュナ意識になることである。自分の感覚を喜ばせようという思いから心を引き離さないかぎり、心は満足を覚えない。感覚の喜びを追い求めれば求めるほど、心にはますます不満がつのる。現代の私たちはありとあらゆる方法で感覚を満たそうとしているため、決して心が満足しない。心にとって最高の方法は、諸プラーナや『マハーバーラタ』のような、満足を与える話を満載したヴェーダ経典に心を向けることである。人はこうした知識を生かして浄化されていく。心から偽りを追い出して、万人のための福祉を考えなくてはならない。沈黙とは、常に自己を悟ろうという思いを持ち続けていることである。この意味において、クリシュナ意識の人は完全に沈黙を守っている。心を制御するとは心を感覚の喜びから遠ざけることである。人はいかなる行動においても正直でいて、自らの在り方を清めなくてはならない。以上に述べた資質すべてが心の動きに関する謹厳さである。
śraddhayā parayā taptaṁ
tapas tat tri-vidhaṁ naraiḥ
aphalākāṅkṣibhir yuktaiḥ
sāttvikaṁ paricakṣate

訳語

翻訳

この3つの謹厳たる姿勢を
物質的な利益を求めずに
ただ至高主のためだけに持ち続けることが
徳の様式の苦行と呼ばれるものである。
satkāra-māna-pūjārthaṁ
tapo dambhena caiva yat
kriyate tad iha proktaṁ
rājasaṁ calam adhruvam

訳語

翻訳

尊敬や名誉や崇拝を得たいがために
自尊心から行う苦行は
激情の様式のものとされる。
そのような苦行は不安定で長続きしない。

解説

 他人から注目されて名誉や尊敬や崇拝を受けたいがために、苦行や耐乏生活をする人がある。激情の様式の人は従者に自分を崇拝させ、その足を洗わせ、財を貢がせる。このような見せかけのことを目的とした苦行や耐乏生活は激情の様式であるとみなされる。結果は一時的なものであり、しばらくは続いてもいつか終わりが来る。
mūḍha-grāheṇātmano yat
pīḍayā kriyate tapaḥ
parasyotsādanārthaṁ vā
tat tāmasam udāhṛtam

訳語

翻訳

自らを痛めつけたり
他人を殺したり傷つけたりという
愚かさゆえに行う苦行は
無知の様式にあると言われる。

解説

 不死身になって神々を殺したいと望んだヒラニヤカシプのように、愚かな苦行を行った例はたくさんある。ヒラニヤカシプはブラフマーにその力をくださいと祈ったが、結局は至高人格神に殺されてしまった。何か不可能なことのためにする苦行は、間違いなく無知の様式のものである。
dātavyam iti yad dānaṁ
dīyate ’nupakāriṇe
deśe kāle ca pātre ca
tad dānaṁ sāttvikaṁ smṛtam

訳語

翻訳

見返りを求めず、適切な時と場所で
受けるに値する人に義務として施す慈善は
徳の様式のものとみなされる。

解説

 ヴェーダ経典は精神的活動に携わる人への施しを勧めているが、誰にでも見境なく施すことは勧めていない。それが精神的完成を助けることにつながるかどうかを常に考慮しなくてはならないため、日食か月食の時に、あるいは月末に聖地で、寺院で資格あるブラーフマナやヴァイシュナヴァ(献身者)に施すことを経典は勧めている。そうした施しに見返りを求めてはならない。憐れみの情から貧しい人へ施すことがあるが、その人が施しを受けるに値しない人であった場合、精神的向上は望めない。すなわち見境のない慈善をヴェーダ経典は勧めていないのである。
yat tu pratyupakārārthaṁ
phalam uddiśya vā punaḥ
dīyate ca parikliṣṭaṁ
tad dānaṁ rājasaṁ smṛtam

訳語

翻訳

それに対して
見返りや結果を期待して行われる慈善や
不本意に行う施しは
激情の様式のものであるとみなされる。

解説

 天界の王国に昇りたくて慈善を施したり、あまりにもたいへんな施しをして「どうしてこんなに多額を費やしてしまったのだろう」と、のちに後悔することもある。また時には目上の人から頼まれて、義理で布施をすることもある。この種の慈善は激情の様式のものであると言われている。
 感覚を満たすことばかり行っているような施設や協会に贈与する慈善団体が数多くあるが、ヴェーダ経典はそのような慈善を勧めていない。経典が奨励するのは徳の様式の慈善だけである。
adeśa-kāle yad dānam
apātrebhyaś ca dīyate
asat-kṛtam avajñātaṁ
tat tāmasam udāhṛtam

訳語

翻訳

また不浄な場所で
為されるべきでない時に
受け取る価値のない人に対して
十分な注意も敬意も払わずに施される慈善は
無知の様式のものであると言われる。

解説

 陶酔物やギャンブルに耽る結果をもたらすような寄付は、ここでは勧められていない。その種の寄付は無知の様式のものであって、誰の益にもならないどころか罪深い人間を助長することになる。また適切な人に対して行う場合でも、敬意も注意も払わないような慈善は、これも闇の様式のものであると言われる。
oṁ tat sad iti nirdeśo
brahmaṇas tri-vidhaḥ smṛtaḥ
brāhmaṇās tena vedāś ca
yajñāś ca vihitāḥ purā

訳語

翻訳

オーム、タット、サットという3つの言葉は
至上絶対真理を表すために
創造の初めから使われていた。
ヴェーダのマントラを唱える時や
至高主を満たすための供養の際に
ブラーフマナたちはこの3つの象徴的な言葉を用いた。

解説

 苦行、供養、慈善、食べ物は3つの様式(徳、激情、無知)に分類されるという説明がここまでなされてきた。しかし一級、二級、三級のいずれに分類されようと、どれもすべて物質自然の様式の制約を受けて汚されていることには変わりない。しかしそれらがオーム、タット、サットすなわち至高人格神に向けられた場合は、精神的向上の手段となると経典は述べている。この3つのサンスクリット語は特に絶対真理、すなわち至高人格神のことを表しており、とりわけオームという言葉はヴェーダのマントラの至る所で使われている。
 経典の指示に従って行動しない者は絶対真理に到達できない。一時的な結果を得ることはあっても、人生の究極目的にはたどり着けない。すなわち慈善も、供養も、苦行も、すべて徳の様式でなされなければならないという結論に行き着く。激情や無知の様式で行われたことは、明らかに質が良くないからである。オーム、タット、サットという3つの言葉は、至高主の聖なる御名、例えばオーム、タッド、ヴィシュノーホの言葉などと共に唱えられ、ヴェーダのマントラや至高主の聖なる御名が唱えられるときはいつでもオームが付け加えられる。これがヴェーダ経典の指示である。この3つの言葉はヴェーダのマントラからのもので、Oṁ ity etad brahmaṇo nediṣṭhaṁ nāma というのが最初のゴールを表し、tat tvam asi(『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』6-8-7)が2番目のゴールを示し、sad eva saumya(『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』6-2-1)が3番目のゴールであり、この3つが結合されてオーム、タット、サットとなる。最初の生命体であるブラフマーが供養を行った時、彼はこの3語で至高人格神を表した。以来、その同じ原則が師弟継承を通じて守られているため、このマントラには重大な意味が秘められているのである。ゆえに『バガヴァッド・ギーター』は、いかなる活動もオーム、タット、サット、すなわち至高人格神のためにせよと勧める。この3語を志として苦行や慈善、供養を行う人は、クリシュナ意識で行動しているのである。クリシュナ意識とは超越的な活動を科学的に遂行することであり、これによって人は至高人格神の御国に帰ることができる。そのような超越的活動の努力は決して無駄には終わらない。
tasmād oṁ ity udāhṛtya
yajña-dāna-tapaḥ-kriyāḥ
pravartante vidhānoktāḥ
satataṁ brahma-vādinām

訳語

翻訳

ゆえに超越主義者が経典の規定に従って
供養、慈善、苦行を行うときは
至高者に達すべく
必ずオームの言葉で始める。

解説

 Oṁ tad viṣṇoḥ paramaṁ padam(『リグ・ヴェーダ』1-22-20)ヴィシュヌの蓮華の御足は献身奉仕の最高段階である。至高人格神のために行うことはすべて、その成功が保証されている。
tad ity anabhisandhāya
phalaṁ yajña-tapaḥ-kriyāḥ
dāna-kriyāś ca vividhāḥ
kriyante mokṣa-kāṅkṣibhiḥ

訳語

翻訳

実りある結果を期待することなく
ただタットの言葉を胸に
供養、苦行、慈善をせよ。
そのような超越的活動の目的は
物質の束縛から解放されることである。

解説

 精神的な段階に昇りたければ、何に対しても物質的な益を求めてはならない。いかなる行動もすべては究極的な目的、すなわち精神王国という神のもとに帰るために行うべきである。
sad-bhāve sādhu-bhāve ca
sad ity etat prayujyate
praśaste karmaṇi tathā
sac-chabdaḥ pārtha yujyate
yajñe tapasi dāne ca
sthitiḥ sad iti cocyate
karma caiva tad-arthīyaṁ
sad ity evābhidhīyate

訳語

翻訳

プリターの子よ
サットという言葉が示すように
絶対真理こそが祈祷をこめた供養の対象である。
そのような供養を行う者もサットと呼ばれ
至高主の喜びのために行う供養、苦行、慈善の働きすべては
絶対自然そのものであり
これらすべてもサットと呼ばれる。

解説

 プラシャステー・カルマニすなわち「規定原則」というサンスクリット語から、ヴェーダ文献には受胎の時から死の瞬間までさまざまな浄化の方法が規定されていることがわかる。こうした浄化の儀式は究極的に生命体を解放するために行われ、その中ではオーム、タット、サットを唱えるようにと勧められている。サッド・バーヴェーとサードゥ・バーヴェーというサンスクリット語は超越的な状況を表している。クリシュナ意識で行動することをサットヴァと呼び、クリシュナ意識の活動に完全に目覚めている人はサードゥと呼ばれる。『シュリーマド・バーガヴァタム』(3-25-25)の中では、サターム・プラサンガートというサンスクリット語が使われ、超越的な主題は献身者との交際の中で理解できるようになっていくと書かれている。超越的知識に到達するには良い交際が不可欠である。入門を許されるときや聖なる糸が与えられる際にオーム、タット、サットが唱えられることでもわかるように、あらゆるヤジュニャの対象はオーム、タット、サットすなわち至高主なのである。さらにタッド・アルティーヤムというサンスクリット語は、主の寺院で料理その他の手助けをすることや主の栄光を広めるためのあらゆる行為も含め、主を代表するものに対して奉仕を行うことを表している。このようにオーム、タット、サットという至高の言葉はすべての活動を完成させ、あらゆるものを完璧にするために広く使われている。
aśraddhayā hutaṁ dattaṁ
tapas taptaṁ kṛtaṁ ca yat
asad ity ucyate pārtha
na ca tat pretya no iha

訳語

翻訳

プリターの子よ
いかなる供養、慈善、苦行であろうと
至高主への信念なく行われるものは永遠ではない。
それはアサットと呼ばれ
今世でも来世においても無益である。

解説

 超越的なものを対象にせず行われることは、たとえそれが供養であろうと慈善や苦行であろうと、無益である。ゆえにこの節ではそのような活動は忌まわしいと宣言されている。何事も、至高主のためにクリシュナ意識で行われなくてはならない。そうした信念もなく、正しい指導も受けずに行ったことからは、実りある結果は得られない。どのヴェーダ文献も至高主に信念を持つよう勧めている。すべてのヴェーダの教えを追求していくと、究極の目的となっているのはクリシュナを理解することであり、この原則に従わずして誰も成功を収めることはできない。ゆえに最善の方法は、クリシュナ意識の出発点から真正な精神の師の指導を受けることであり、それが万事成功の秘訣である。
 人は制約された状態にあるかぎり、神々や幽霊あるいはクヴェーラのようなヤクシャを崇拝することに魅せられる。徳の様式は激情や無知より優れてはいるが、直接クリシュナ意識を受け入れる人はこうした物質自然の三様式すべてを超越する。しだいに向上する方法も存在するが、純粋な献身者との交際の中でじかにクリシュナ意識を実践することができるなら、それに優まさる道はなく、それがこの章で勧めていることなのだ。この方法で成功するためにはまず正しい精神の師を見つけ、指示を仰ぐことである。そうすれば至高主への信念を培うこととなり、やがてその信念が実を結んだ時、神への愛と呼ばれるものになる。この愛こそが生命体にとっての究極の目標である。ゆえに人は直接クリシュナ意識を始めるべきであり、これが、第17章が私たちに贈るメッセージなのである。
 以上、『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第17章「三種類の信念」に関するバクティヴェーダンタの解説は終了。