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第18章

放棄の完成

テキスト

arjuna uvāca
sannyāsasya mahā-bāho
tattvam icchāmi veditum
tyāgasya ca hṛṣīkeśa
pṛthak keśi-niṣūdana

Synonyms

arjunaḥ uvāca — アルジュナは言った; sannyāsasya — 放棄の;mahā-bāho —全能なるお方よ ; tattvam — 真理;icchāmi — 私は望む; veditum — 理解すること; tyāgasya — 放棄の; ca — もまた; hṛṣīkeśa — 感覚の主人よ;pṛthak — 違って; keśī-niṣūdana — ケーシー悪魔を殺したお方よ

Translation

アルジュナは言った――全能なる御方よ、悪魔ケーシーを滅ぼされた御方よ、私は放棄(テャーガ)と放棄階級(サンニャース)の目的を知りたいと思います。

Purport

 『バガヴァッド・ギーター』は第17章で終了していて、第18章はそれまでの議論の補足的まとめである。『バガヴァッド・ギーター』の各章で主クリシュナは、バガヴァーンへの献身奉仕を強調しておられる。同じ点が第18章でも最も内密な知識の道としてまとめられている。第1章から第6章までで「全ての超越主義者、ヨーギーの中で私を常に思うものが最高である」と献身奉仕が強調され、第7章から第12章では、純粋な献身奉仕とその性質と活動が議論された。第13章から第18章では知識、放棄、物質自然と超越自然の活動、献身奉仕が議論され、至上主ヴィシュヌを表す語オーン・タット・サットにより象徴される至上主との関係に基づき全活動がなされるべきであると結論された。献身奉仕のみが人生の究極目的と『バガヴァッド・ギーター』第3部は示している。過去のアーチャーリャや『ブラフマ・スートラ』すなわち『ヴェーダーンタ・スートラ』を参照してそれが確立された。マーヤーヴァーディーの中には『ヴェーダーンタ・スートラ』の知識を独占していると思っている者もいるが、実際には『ヴェーダーンタ・スートラ』は献身奉仕を理解するためのものである。なぜなら、第15章にあるように、主御自身が『ヴェーダーンタ・スートラ』の理解者、編纂者でいらっしゃるからである。『バガヴァッド・ギーター』が説明するように、全ヴェーダ経典の主題は献身奉仕である。

 第2章で『バガヴァッド・ギーター』の全概要が述べられたように、第18章でも全教示がまとめられ、人生の目的は、放棄すること、物質自然の三様式を超えた超越的状況に愛着することの2点であると示される。アルジュナは『バガヴァッド・ギーター』の主要なふたつの主題である放棄(テャーガ)と放棄階級(サンニャース)についてその意味を明らかにしようとして質問する。

この節で至上主に呼び掛けるために用いられた2つの語、フリケーシャとケーシー・ニスーダナが重要である。フリケーシャは全感覚の支配者クリシュナであり私たちが心の平穏を得られるよう常に助けて下さる。アルジュナは平穏を保てるように全てをまとめて下さいとフリケーシャにお願いした。アルジュナには疑いがあった。疑いは常に悪魔に喩えられる。それでアルジュナはクリシュナをケーシー・ニスーダナと呼び掛けたのである。ケーシーは最も恐るべき悪魔で、主に滅ぼされた。アルジュナは疑惑という悪魔をクリシュナが滅ぼして下さることを期待している。

テキスト

śrī-bhagavān uvāca
kāmyānāṁ karmaṇāṁ nyāsaṁ
sannyāsaṁ kavayo viduḥ
sarva-karma-phala-tyāgaṁ
prāhus tyāgaṁ vicakṣaṇāḥ

Synonyms

śrī-bhagavān uvāca — バガヴァーンは言われた; kāmyānām — 欲望を持って; karmaṇām — 活動の;nyāsam — 放棄; sannyāsam — 放棄階級の; kavayaḥ — 智者; viduḥ —知る; sarva — 全ての;karma — 活動; phala — 結果の; tyāgam — 放棄; prāhuḥ — 呼ぶ; tyāgam — 放棄;vicakṣaṇāḥ — 経験を積んだ人

Translation

バガヴァーンは言われた。――偉大な賢者は物質的欲望に基づいた活動を捨てることを放棄階級(サンニャース)とよび、智者は全活動の結果を捨てることを放棄(テャーガ)とよぶ。

Purport

私たちは結果を期待して活動すべきではない。これが『バガヴァッド・ギーター』の教えである。しかし人の精神知識を向上させる活動は次節で明らかにされるように放棄してはならない。ヴェーダ文典では特定の目的を持つ様々な供儀が規定されている。良い息子をもうけたり高位の惑星に到達するために行われる供儀もあるが、欲望に促された供儀は行うべきでない。しかしハートを浄化したり、精神科学的に向上するための供儀は放棄すべきでない。

テキスト

tyājyaṁ doṣa-vad ity eke
karma prāhur manīṣiṇaḥ
yajña-dāna-tapaḥ-karma
na tyājyam iti cāpare

Synonyms

tyājyam — 放棄しなくてはならない; doṣa-vat — 悪のように; iti —このように; eke — 一集団; karma — 仕事; prāhuḥ — 彼らは言う;manīṣiṇaḥ — 偉大な思想家; yajña —供犠の; dāna — 布施; tapaḥ — そして苦行; karma — 仕事; na — 決して~ではない;tyājyam — 放棄されるべきである; iti — このように; ca —そして; apare — 他人

Translation

全ての果報的活動を誤ちとして放棄すべきと主張する賢者もいるが、供儀、布施、苦行の活動を決して放棄すべきでないと考える聖者もいる。

Purport

ヴェーダ文典の中で様々な点が論争の的になっている。例えば供犠では動物を殺してもよいとされているが、動物を殺すことは全く忌まわしいことであると主張する人もいる。
ヴェーダ文典は供犠で動物を殺すことを薦めているが、その場合、動物は殺されたとは見倣されない。供犠により動物に新しい生命が与えられるのである。別の動物として新しい生命が与えられる場合もあり、ただちに人間形態に昇進させられる場合もある。しかし聖者の間に意見の相違があり、動物を殺すことは常にさけるべきとする聖者も、ある特定の供犠のためには動物を殺すのも良いとする聖者もいる。供犠についての様々な意見をこれから主御自身が明らかにされる。

テキスト

niścayaṁ śṛṇu me tatra
tyāge bharata-sattama
tyāgo hi puruṣa-vyāghra
tri-vidhaḥ samprakīrtitaḥ

Synonyms

niścayam — 確かに; śṛṇu — 聞きなさい; me — 私から; tatra — そこに; tyāge — 放棄に関して;bharata-sat-tama — バーラタ家の最たる者よ; tyāgaḥ — 放棄; hi — 確かに; puruṣa-vyāghra — 人間の中の虎よ; tri-vidhaḥ — 三種類の;samprakīrtitaḥ — 明言される

Translation

バーラタ家の最も素晴らしい者よ、放棄について私の判断を聞きなさい。人間界の虎よ、経典には3種類の放棄があると言われている。

Purport

放棄に関する意見の相違は存在するが、ここでバガヴァーン、シュリー・クリシュナが判断をくだされる。それが最終意見とされるべきである。ヴェーダは主が与えられた様々な法律である。今、主が直接おられるので主の御言葉が最終決定とされる。放棄のプロセスは、それがなされた物質自然の様式に関して考慮されるべきだと主は言われる。

テキスト

yajña-dāna-tapaḥ-karma
na tyājyaṁ kāryam eva tat
yajño dānaṁ tapaś caiva
pāvanāni manīṣiṇām

Synonyms

yajña — 供犠の; dāna — 布施; tapaḥ — そして苦行;karma — 活動; na — 決して~ない; tyājyam — 放棄されうこと;kāryam — なされなくてはならない; eva — 確かに; tat — その; yajñaḥ—供犠; dānam —布施; tapaḥ — 苦行; ca — もまた;eva —確かに; pāvanāni — 浄化する; manīṣiṇām — 偉大な魂でさえも

Translation

供儀、布施、苦行の活動は放棄してはならず、行うべきである。実際に供儀、布施、苦行は偉大な魂さえ浄化する。

Purport

ヨーギーは人間社会を向上させるために活動すべきである。人間を精神生活に昇進させるために様々な浄化儀式があり、例えばヴィヴァーハ・ヤグニャとよばれる結婚の儀式がそのひとつである。放棄階級にあり、家庭関係を放棄したサンニャーシーが、結婚儀式を奨励すべきであろうか。人間社会の福祉のための活動はいかなるものであれ放棄すべきでないと、ここで主はおっしゃった。結婚儀式ヴェヴァーハ・ヤグニャは、人間の心を整えて精神的に向上できるように心を落ち着かせる。放棄階級にあったとしてもサンニャーシーはこのヴィヴァーハ・ヤグニャをほとんどの人に奨励すべきである。サンニャーシーは女性と交際すべきではないが、人生のより低い階級にいる若い人々は結婚儀式で配偶者を受け入れることができる。至上主に到達するために全ての供儀が規定されている。それゆえ低い段階ではそれを放棄してはならない。同様に布施もハートを浄化するためのものである。前述のように適切な人に布施をするなら、それにより精神生活を向上させることができるのである。

テキスト

etāny api tu karmāṇi
saṅgaṁ tyaktvā phalāni ca
kartavyānīti me pārtha
niścitaṁ matam uttamam

Synonyms

etāni — これら全て; api — 確かに; tu —しかし; karmāṇi — 活動; sańgam — 交際; tyaktvā — 放棄すること;phalāni — 結果; ca —もまた; kartavyāni — 義務としてされるべきである; iti — このように; me —私の; pārtha — プリターの息子よ;niścitam — 確かな; matam — 意見; uttamam — 最古のもの

Translation

これらの全活動は執着や結果の期待を持たずに行うべきである。おおプリターの子よ、義務としてそれを行いなさい。これが私の最終意見だ。

Purport

全ての供儀は浄化作用を持つが、供儀の履行によるいかなる結果も私たちは期待してはならない。つまり物質的に向上するための供儀は放棄すべきだが、私たちを浄化し、精神的段階に高める供儀は放棄すべきではない。人を献身奉仕に導く活動は受け入れるべきというのが最高の宗教的基準である。献身奉仕を助ける活動なら、供儀であれ布施であれ、いかなる活動も受け入れるべきである。

テキスト

niyatasya tu sannyāsaḥ
karmaṇo nopapadyate
mohāt tasya parityāgas
tāmasaḥ parikīrtitaḥ

Synonyms

niyatasya — 規定された; tu —しかし; sannyāsaḥ — 放棄;karmaṇaḥ — 活動の; na — 決して~ない; upapadyate — 与えする; mohāt — 幻想によって; tasya — それらの; parityāgaḥ— 放棄; tāmasaḥ — 無知の様式に;parikīrtitaḥ — 宣言される

Translation

規定された義務は決して放棄してはならない。幻想のために自分に規定された義務を放棄するなら、そのような放棄は無知の様式のものと言われる。

Purport

物質的満足を得るための活動は放棄すべきであるが、至上主のために料理してそれを主に捧げ、そしてその残り物を頂くといった人を精神的活動に導く活動は勧められている。放棄階級者は自分のために料理すべきでないと言われている。自分のために料理することは禁じられているが、至上主のために料理することは禁じられていない。同様にサンニャーシーは自分の弟子のクリシュナ意識向上のために結婚儀式を催してもよい。そのような活動を放棄することは無知の様式の活動と理解される。

テキスト

duḥkham ity eva yat karma
kāya-kleśa-bhayāt tyajet
sa kṛtvā rājasaṁ tyāgaṁ
naiva tyāga-phalaṁ labhet

Synonyms

duḥkham — 不幸な; iti — このように; eva —確かに; yat — その; karma — 仕事; kāya — 肉体のために; kleśa — 骨折り;bhayāt — 恐れから; tyajet — 放棄する; saḥ — 彼; kṛtvā — した後で; rājasam — 激情の様式に; tyāgam — 放棄; na — ~ではない; eva — 確かに; tyāga —  放棄の; phalam — 結果; labhet — 得る

Translation

労を厭って規定された義務を行わなかったり、身体的不快を恐れて活動を放棄することは激情の様式の放棄とされていて、それにより放棄の向上に導かれることはない。

Purport

クリシュナ意識の人は、自分が果報的活動をしているのではないかと恐れて金銭を作ることを放棄すべきでない。仕事によりクリシュナ意識のために使う金銭を作ることができるなら、また早朝起床することによって超越的クリシュナ意識を向上させることができるなら、恐れや労を厭うためにそれらの活動を放棄してはならない。そのような放棄は激情の様式のものである。激情的な活動の結果は常に悲惨である。もしもそのように考えて活動を放棄するなら、放棄の結果を得ることは決して不可能である。

テキスト

kāryam ity eva yat karma
niyataṁ kriyate ’rjuna
saṅgaṁ tyaktvā phalaṁ caiva
sa tyāgaḥ sāttviko mataḥ

Synonyms

kāryam — それはなさらなけらばならない; iti — このように; eva —実は; yat — その; karma — 仕事; niyatam —規定された; kriyate — 行われる; arjuna — おお、アルジュナ; sańgam — 交際;tyaktvā — 放棄する; phalam — 結果; ca — もまた; eva — 確かに; saḥ —その; tyāgaḥ — 放棄; sāttvikaḥ — 得の様式に; mataḥ — 私の意見に

Translation

おおアルジュナよ、物質的な交際を結果に対する執着を捨て、規定の義務はなされるべきという理由だけでそれを果たすなら、それは徳の様式の放棄である。

Purport

このような意識で規定された義務は果たすべきである。結果に対する執着を捨て、活動の様式に影響されずに活動すべきである。クリシュナ意識の人は工場で働く場合、工場の仕事からも、そこで働く人からも影響を受けず、ただクリシュナのために働く。活動の結果をクリシュナのために放棄するのは超越的な活動である。

テキスト

na dveṣṭy akuśalaṁ karma
kuśale nānuṣajjate
tyāgī sattva-samāviṣṭo
medhāvī chinna-saṁśayaḥ

Synonyms

na — 決して~ない; dveṣṭi — 嫌悪; akuśalam — 不吉兆; karma— 仕事; kuśale — 吉兆に ; na — ~もまた~ない; anuṣajjate — 執着する; tyāgī — 放棄者; sattva —徳の様式に; samāviṣṭaḥ — 没頭して; medhāvī — 知性的な;chinna — 断って; saḿśayaḥ — 疑いを全て

Translation

徳の様式の人が、不吉兆なことを嫌わず吉兆なことに執着せず、知性を持って放棄を行うとき、彼はその活動に疑いを持たない。

Purport

自分の体を苦しませる人や物があっても、クリシュナ意識の人や徳の様式の人はそれらを嫌うことはない。彼は自分の活動を面倒だと厭うことなく、適切な場所で適切な時間に活動をする。そのような超越的な人は最も知性のある人で、自分の活動に全く疑いを持たないと理解すべきである。

テキスト

na hi deha-bhṛtā śakyaṁ
tyaktuṁ karmāṇy aśeṣataḥ
yas tu karma-phala-tyāgī
sa tyāgīty abhidhīyate

Synonyms

na — 決して~でない; hi — 確かに; deha-bhṛtā — 肉体を持った生命体によって;śakyam — 可能である; tyaktum — 放棄されることkarmāṇi—活動; aśeṣataḥ — 全体で; yaḥ — ~である人は誰でも; tu — しかし; karma — 仕事の; phala — 結果の; tyāgī — 放棄者; saḥ — 彼は; tyāgī — 放棄者; iti — このように;abhidhīyate — ~と言われる

Translation

肉体に覆われた生命体が活動を全て放棄することは不可能である。しかし活動の結果を放棄した人は真の放棄者と言われる。

Purport

『バガヴァッド・ギーター』に述べられているように、人が活動を常に放棄することは不可能である。クリシュナのために働き、その果報的結果を自分では楽しまず、全てをクリシュナに捧げる人が真の放棄者である。クリシュナ意識国際協会の会員のなかには、オフィス、工場やその他の場所で懸命に働き、収入を全て協会に捧げる者が多数いる。そのような崇高な魂が真の放棄階級に位置するサンニャーシーである。活動の結果をいかにして放棄すべきか、いかなる目的のために結果が放棄されるべきかここで明確に説明されている。

テキスト

aniṣṭam iṣṭaṁ miśraṁ ca
tri-vidhaṁ karmaṇaḥ phalam
bhavaty atyāgināṁ pretya
na tu sannyāsināṁ kvacit

Synonyms

aniṣṭam — 地獄に導く; iṣṭam — 天国に導く;miśram — 混ざった; ca — そして; tri-vidham — 三種類の;karmaṇaḥ — 仕事の; phalam — 結果; bhavati — 来る; atyāginām — 放棄していない人にとって;pretya — 死後; na — ~でない; tu —しかし; sannyāsinām — 放棄階級の人にとって; kvacit — いつでも

Translation

放棄しないものには望ましいもの、望ましくないもの、それらの混合という2種類の活動の結果が生じる。しかし放棄階級者には、そのような快楽や苦痛を与える活動の結果は存在しない。

Purport

クリシュナとの関係を知りつつクリシュナ意識で活動する人は常に解放されている。それゆえ彼は自分の活動の結果のために死後苦楽を味わう必要はない。

テキスト

pañcaitāni mahā-bāho
kāraṇāni nibodha me
sāṅkhye kṛtānte proktāni
siddhaye sarva-karmaṇām

Synonyms

pañca —五つの; etāni — これらの; mahā-bāho — 剛勇の士よ; kāraṇāni — 原因; nibodha — ただ、理解する; me — 私から; sāńkhye — ヴェーダーンタに; kṛta-ante — 結論として; proktāni — 言った; siddhaye — 完成を求めて;sarva — 全ての; karmaṇām — 活動

Translation

剛の者アルジュナよ、ヴェーダーンタには全活動をなす5つの原因があると言われている。これからそれらについて私から聞きなさい。

Purport

 活動がなされれば必ず何らかの反動があるが、クリシュナ意識の人は、どのようにして活動の反動の結果としての苦楽を経験しないのか、という疑問が挙がるかも知れない。主はヴェーダーンタ哲学を参考にしてそれがいかにして可能なのか説明される。主は全活動には5つの原因があり、あらゆる活動を達成するにはこれら5つの原因が考慮されなければならないと言われた。サーンキャとは知識の茎という意味で、全ての偉大なアーチャーリャが受け入れた知識の最終的な茎がヴェーダーンタである。シャンカラでさえ『ヴェーダーンタ・スートラ』をそのように受け入れていた。それゆえそのような権威が参照されてしかるべきである。

 スーパーソウルが最終的な支配を行う。『バガヴァッド・ギーター』ではサルヴァスヤ・チャーハン・フリディ・サンニヴィシュタハと述べられている。スーパーソウルは生命体に過去の活動を思い出させて、生命体に特定の活動をさせる。そして内なるスーパーソウルの指示の下になされたクリシュナ意識の活動は今生においても死後においても反動を生じさせない。

テキスト

adhiṣṭhānaṁ tathā kartā
karaṇaṁ ca pṛthag-vidham
vividhāś ca pṛthak ceṣṭā
daivaṁ caivātra pañcamam

Synonyms

adhiṣṭhānam — 場所; tathā — もまた; kartā — 行為者;karaṇam — 道具; ca — そして; pṛthak-vidham — 様々な種類の; vividhāḥ — 様々な; ca — そして; pṛthak — 別個の; ceṣṭāḥ — 動力; daivam — 至上の;ca — もまた; eva —確かに; atra — ここに; pañcamam — 五番目の

Translation

活動の場所(体)、行為者、様々な感覚、様々な努力、そして究極的にはスーパーソウルが行動の5要素である。

Purport

アディシュターナンという語は体を意味する。体中の魂は活動することにより活動の結果を発生させる。それゆえ魂はカルター、すなわ猶打為者と呼ばれる。魂が知覚者であり、※2行為者であることはシュルティでも確認できる。活動のための器官重感覚であり、その感覚によって魂は様々な活動をする。各々の活動のためには様々な努力が必要である。しかし生命体の全活動は心臓の中に友としていらっしゃるスーパーソウルによる。至上主が至上の原因である。それゆえ心臓の中に位置していらっしゃるスーパーソウルの指示に従って活動する人はいかなる活動にも束縛されない。完全にクリシュナ意識の人は、究極的には自分の活動を自分で行うのではなく、全てを至上の音坐心であるスーパーソウル、すなわちバガヴァーンに依存しているのである。

テキスト

śarīra-vāṅ-manobhir yat
karma prārabhate naraḥ
nyāyyaṁ vā viparītaṁ vā
pañcaite tasya hetavaḥ

Synonyms

śarīra — 肉体による; vāk — 話すこと; manobhiḥ — そして心;yat — その; karma — 活動; prārabhate —始まる; naraḥ —人; nyāyyam — 正しい; vā — あるいは; viparītam — 反対の ; vā — あるいは; pañca — 五つの; ete — これら全て; tasya — その;hetavaḥ —原因

Translation

体、心、言葉によりなされた活動は、正しいものも誤ったものも、これらの5つの要素により行われる。

Purport

「正しと、「誤った」という語がこの節で非常に重要である。正しい活動とは教典に定められた指示に従ってなされる活動で、誤った活動とは教典の教えに背く活動である。
しかしいずれの活動を行うにしても、これらの五要素が必要である。

テキスト

tatraivaṁ sati kartāram
ātmānaṁ kevalaṁ tu yaḥ
paśyaty akṛta-buddhitvān
na sa paśyati durmatiḥ

Synonyms

tatra — そこに; evam — このように; sati — ~である; kartāram — 行為者 ; ātmānam —彼自身; kevalam — ただ~だけ; tu — しかし; yaḥ— ~である人は誰でも; paśyati — 見る; akṛta-buddhitvāt — 知性がないために; na —決して~ない; saḥ — 彼は; paśyati — 見る;durmatiḥ — おろかな

Translation

それゆえ自分だけが行為者であると考え、5つの要素を考慮しない者は知性が低く、物事をありのままに理解していない。

Purport

知性のない人は、スーパーソウルが友として自分の中に座して活動を指示していらっしゃることが理解できない。場所、行為者、努力、感覚は物質的原因であり、最終的原因は至上者バガヴァーンである。それゆえ人は4つの物質的原因だけではなく、最終的な力を持つ至上原因も見るべきである。至上者を見ない者は自分が行為者と考える。

テキスト

yasya nāhaṅkṛto bhāvo
buddhir yasya na lipyate
hatvāpi sa imāḻ lokān
na hanti na nibadhyate

Synonyms

yasya — ~の人; na — 決して~ない; ahańkṛtaḥ — 偽我意識から;bhāvaḥ — 自然; buddhiḥ — 知性; yasya — ~の人; na —決して~ない; lipyate — 執着されて; hatvā — 殺すこと;api — ~でさえも; saḥ — 彼は; imān — この; lokān — 世界; na —決して~ない; hanti — 殺す; na —決して~ない; nibadhyate — 束縛される

Translation

偽我意識に左右されず知性が混乱していない者は、この世界で人を殺すことなく、活動に束縛されることもない。

Purport

戦いたくないという欲望は偽我意識から生じたものであると主はこの節でアルジュナに言われた。アルジュナは自分が活動の行為者であると考えていて、内と外の至上の裁可を
考慮しなかった。至上裁可の存在を知らない者は自分の行動に惑いを持つ。活動のための器官を知り、自分が行動者であると知り、至上主が至上の裁可を与える御方であると知る人は全てのことを完全に行い、幻想にとらわれることは決してない。自分が活動し自分が活動の原因であると考えるのは偽我意識と無神論から、すなわちクリシュナ意識を持たないことから生じる。スーパーソウルすなわちバガヴァーンの指示のもとにクリシュナ意識で活動する人は、たとえ殺したとしても殺した事にならない。また殺すという活動の反動にも決して影響されない。指令官の命令に従って兵士が人を殺すのは懲罰の対象とはならない。しかし兵士が自分の音坐心で殺人を犯すと疑いなく法廷で裁かれなければならない。

テキスト

jñānaṁ jñeyaṁ parijñātā
tri-vidhā karma-codanā
karaṇaṁ karma karteti
tri-vidhaḥ karma-saṅgrahaḥ

Synonyms

jñānam — 知識; jñeyam — 知識の対象;parijñātā — 知る人; tri-vidhā — 三種類の; karma —  行為の; codanā — 行動を起こす力; karaṇam — 感覚;karma — 行為; kartā — 行為者; iti — このように; tri-vidhaḥ — 三種類の; karma — 行為の; sańgrahaḥ — 蓄積

Translation

知識、知識の対象、知覚者は活動を動機づける3要素である。感覚、行為、行為者が活動の3構成要素である。

Purport

知識、知識の対象、知覚者という3者が日常的行為の機動力である。行為のための器官、行為自体、行為者が行為の構成要素とよばれる。人が行う行為は全てこれらの要素を備えている。行為が行われる前に行為の機動力が存在し、それがインスピレーションと呼ばれる。行為が具体的に形をとる以前に細妙性の行為がなされ、次に行為が具体的な形のものとなる。まず考、感、意志という心的プロセスがあるのだが、それがインスピレーションと呼ばれる。インスピレーションは経典から与えられる場合もグルから与えられる場合もある。インスピレーションと行為者が存在すると、全感覚の中心である心と感覚の助けにより具体的な活動が生まれる。活動の全構成要素の総合体が行為の集積を呼ばれる。

テキスト

jñānaṁ karma ca kartā ca
tridhaiva guṇa-bhedataḥ
procyate guṇa-saṅkhyāne
yathāvac chṛṇu tāny api

Synonyms

jñānam —知識; karma — 行為; ca — もまた; kartā — 行為者; ca —もまた; tridhā — 三種類の; eva — 確かに;guṇa-bhedataḥ — 異なった物質自然の三様式に基づいて; procyate — ~と言われる; guṇa-sańkhyāne — 異なった様式に基づいて; yathā-vat — それが~であるように; śṛṇu — 聞きなさい; tāni— それらの全て; api — もまた

Translation

物質自然の三様式により三種類の知識、活動、活動者が存在する。それらについて私から聞きなさい。

Purport

第15章では物質自然の三様式が詳しく説明され、徳の様式は光り輝き、激情の様式は物質主義的で、無知の様式は狂気と怠惰を生むと述べられていた。物質自然の全様式は人を束縛するものであり、解放を与えることは決してない。徳の様式にあったとしても束縛されるのである。第17章ではそれぞれの様式により、どのような知識、行為、行為者が存在するのかについて主は語る意志を示された。

テキスト

sarva-bhūteṣu yenaikaṁ
bhāvam avyayam īkṣate
avibhaktaṁ vibhakteṣu
taj jñānaṁ viddhi sāttvikam

Synonyms

sarva-bhūteṣu —全ての生命体に; yena — それによって; ekam— 一つ; bhāvam — 状態; avyayam — 破壊できない; īkṣate— 人は見る; avibhaktam — 分けられない; vibhakteṣu — 分けられた無数の中に; tat — その; jñānam — 知識; viddhi—知る; sāttvikam — 徳の様式に

Translation

生命体が無数の姿に分かれたとしても、全ての生命体の中にひとつの精神的性質を見出す知識は、徳の様式のものと知りなさい。

Purport

神々、人間、動物、鳥類、獣類、水生類、植物など全生命体の中に精神魂を見出す人は徳の様式の知識を持つ。全生命体は過去の活動に応じて様々な体を持つが、全生命体の中にはひとつの魂が存在する。第7章で述べられているように、至上主の上位エネルギーにより全ての体の中に生命体が存在する。上位エネルギーである生命力が、すべての体の中にあると見ることは徳の様式の視点である。体は滅ぶが生命エネルギーは滅びない。体に様々な種類が存在するので様々な生命体が存在するようにみえる。束縛された生命状況では物質存在の様々な形態が存在するので、生命力が分離しているように見える。そのような非人格的な知識は自己の悟りのひとつの様相である。

テキスト

pṛthaktvena tu yaj jñānaṁ
nānā-bhāvān pṛthag-vidhān
vetti sarveṣu bhūteṣu
taj jñānaṁ viddhi rājasam

Synonyms

pṛthaktvena — 分かれたため; tu — しかし; yat —その;jñānam —知識; nānā-bhāvān — 様々な状態; pṛthak-vidhān — 異なった; vetti — 知る; sarveṣu— 全ての中に; bhūteṣu — 生命体; tat — その; jñānam — 知識; viddhi — 知られるべきである; rājasam — 激情に関した

Translation

様々な体の中に様々な生命体があると見る知識は、激情の様式のものと知りなさい。

Purport

物質的体が生命体であり、体が滅ぶとともに意識も滅びるという概念は、激情の様式の知識である。そのような知識によれば、様々な意識の発達程度に従って様々な体が存在し、魂が意識を現すのではなく、体自体が魂であって、体を越えて魂が存在するのではないとされている。その知識は、意識を一時的存在ととらえている。個別の魂が存在するのではなく、知識に満ちた遍在的魂が存在し、この体は無知の一時的顕現であると主張する者もいる。またこの体を越えた領域には、個別魂も至上魂も特に存在しないと考える者もいる。このような概念は全ての激情の様式の産物である。

テキスト

yat tu kṛtsna-vad ekasmin
kārye saktam ahaitukam
atattvārtha-vad alpaṁ ca
tat tāmasam udāhṛtam

Synonyms

yat — ~であるもの; tu —しかし; kṛtsna-vat — 全てのすべてであると;ekasmin — 一つの; kārye — 活動; saktam — 執着した;ahaitukam — 根拠なく; atattva-artha-vat — 真の知識を持たない; alpam — 大変貧弱な; ca — そして; tat —それ; tāmasam — 無知の様式で; udāhṛtam — ~と言われる

Translation

ただひとつの活動がすべてであると考え、それに執着し、真実の知識を持たない貧弱な知識は無知の様式のものと言われる。

Purport

束縛された生命状況の生命体は無知の様式の中に生まれるので、一般の人の知識は常に無知、すなわち闇の様式のものである。権威者や経典を通じて知識を培わない者は、体に関する知識だけしか持ち得ず、経典の指示に従った活動をすることに関心がない。彼にとって神とは金銭のことであり、知識とは身体的な欲求を満足させることである。そのような知識は絶対真理とは関連がなく、普通の動物が持つ食、寝、戦、交接にのみ関する知識である。そのような知識はここでは闇の様式の産物であるとされている。つまり、体を超越した魂の知識は徳の様式の知識と呼ばれ、俗的倫理や心的思索による理論や教養は激情の様式、体を快適に保つだけの知識は無知の様式のものと言われている。

テキスト

niyataṁ saṅga-rahitam
arāga-dveṣataḥ kṛtam
aphala-prepsunā karma
yat tat sāttvikam ucyate

Synonyms

niyatam — 規定された; sańga-rahitam — 執着のない;arāga-dveṣataḥ — 愛情や嫌悪のない; kṛtam — なされる;aphala-prepsunā — 果報を求めない人によってkarma — 活動; yat — その; tat — それ; sāttvikam — 得の様式の; ucyate — ~と言われる

Translation

執着を持たず規則正しく行われ、愛憎や果報的結果を求めずになされる活動は徳の様式のものと言われる。

Purport

社会の様々な階級や区分に応じて教典で定められた規則正しい職業的義務が、執着や所有権を持たずに行われれば、それに対する愛憎は存在しない。そのような活動が自分の満
足のためではなく、至上主の満足のためにクリシュナ意識でなされたとき、徳の様式の活動と呼ばれる。

テキスト

yat tu kāmepsunā karma
sāhaṅkāreṇa vā punaḥ
kriyate bahulāyāsaṁ
tad rājasam udāhṛtam

Synonyms

yat — ~であるもの; tu — しかし; kāma-īpsunā — 果報を求めるものによって; karma — 活動; sa-ahańkāreṇa — 偽我意識で; vā — すなわち; punaḥ — 再びkriyate —なされる;bahula-āyāsam — 大変苦労して; tat — それ; rājasam — 激情の様式に; udāhṛtam — ~と言われている

Translation

自分の望みを満たそうと、偽我意識により大きな努力をもってなされた活動は激情の様式のものと言われる。

テキスト

anubandhaṁ kṣayaṁ hiṁsām
anapekṣya ca pauruṣam
mohād ārabhyate karma
yat tat tāmasam ucyate

Synonyms

anubandham — 未来の束縛の; kṣayam — 破壊;hiḿsām — そして、他の者への苦悩; anapekṣya — 結果を考慮しない; ca — もまた; pauruṣam — 自己満足した; mohāt — 幻想によって; ārabhyate — 始められた;karma — 活動; yat — その; tat — その; tāmasam — 無知の様式の; ucyate — ~と言われている

Translation

幻想の中で経典の教えを無視して行われ、未来の束縛を気にせず、他のものに与える暴力や苦しみも考慮しない活動は無知の様式のものと言われる。

Purport

人は活動するとき、国家やヤマドゥータと呼ばれる主の代理人を考慮すべきである。無責任な活動は経典に教えられている規定原則を破壊するので、破滅的である。そのような活動は多くの場合暴力的で他のものを苦しませる。そのような無責任な活動は個人的な狭い経験に基づいて行われる。これが幻想とよばれるものである。そのような幻想的な活動は全て無知の様式の産物である。

テキスト

mukta-saṅgo ’nahaṁ-vādī
dhṛty-utsāha-samanvitaḥ
siddhy-asiddhyor nirvikāraḥ
kartā sāttvika ucyate

Synonyms

mukta-sańgaḥ — 全ての物質的交際から解放された;anaham-vādī — 偽我意識のない; dhṛti — 決意をして; utsāha — そして、大きな決意; samanvitaḥ— 資格のある; siddhi — 完成した; asiddhyoḥ — そして失敗;nirvikāraḥ — 変換しない; kartā — 行為者; sāttvikaḥ — 徳の様式の; ucyate — ~と言われている

Translation

物質自然の三様式と関わることなく偽我意識を持たず、大きな決意と熱意を持ち、成功失敗に左右されずに義務を遂行する者は徳の様式の行為者と言われる。

Purport

クリシュナ意識の人は常に物質自然の三様式を超越している。自分に託された活動の結果を期待しない。なぜなら偽我意識や自尊心がないからである。それにもかかわらず彼は活動が終わるまで常に熱意を持って働く。懸命に働くことを厭わずに常に熱意を持ち、成功失敗に左右されない。そして苦しみも幸福にも乱れない。そのような活動者は徳の様式に位置している。

テキスト

rāgī karma-phala-prepsur
lubdho hiṁsātmako ’śuciḥ
harṣa-śokānvitaḥ kartā
rājasaḥ parikīrtitaḥ

Synonyms

rāgī — 大変執着した; karma-phala — 行為の結果; prepsuḥ — 望んで; lubdhaḥ — 欲深い;hiḿsā-ātmakaḥ — いつも妬み深い; aśuciḥ — 不純な;harṣa-śoka-anvitaḥ — 喜びや悲しみに左右される; kartā — そのように活動するもの; rājasaḥ — 激情の様式に; parikīrtitaḥ— 明言されている

Translation

活動とその結果に執着し、それらの結果を楽しもうと渇望的で常に妬み深く不純で、苦楽に左右される活動者は激情の様式に位置すると言われる。

Purport

人が特定の仕事やその結果に執着するのは、物質主義や妻子との一家団欒に大きな執着を持つからである。そのような人は自分の人生を向上させようと望むことなく、この物質界を出来る限り住み良い場所にしようとする。彼は非常に渇望的で自分が得たものは永遠で決して失われることはないと考える。そのような人は常に他者を妬み、感覚満足のためにはどれほど間違ったことも行う。それゆえそのような人は不潔であり、自分の収入が汚れたものかどうか気にしない。彼は自分の活動が順調に進んでいれば有頂天になり、逆境に立たされると大いに落胆する。そのような活動者は激情の様式に位置している。

テキスト

ayuktaḥ prākṛtaḥ stabdhaḥ
śaṭho naiṣkṛtiko ’lasaḥ
viṣādī dīrgha-sūtrī ca
kartā tāmasa ucyate

Synonyms

ayuktaḥ — 教典の規定に基づかないprākṛtaḥ— 物質的な; stabdhaḥ — 頑固な; śaṭhaḥ — 人をだます;naiṣkṛtikaḥ — 他人を侮辱するのがうまい; alasaḥ —怠惰な; viṣādī— 気むづかしい; dīrgha-sūtrī — 先延ばしにする; ca — もまた; kartā— 活動するもの; tāmasaḥ — 無知の様式に; ucyate — ~と言われている

Translation

常に経典の教えに背いた活動をし、物質的で頑固で他人に侮辱的であり、怠惰にして気難しく因循な者は、無知の様式の活動者と言われる。

Purport

経典の教えの中に、私たちが何をすべきかを見出すことができる。そのような教えに関心がない者は一般になすべきでない活動を行う。彼らは経典の指示に従わず、物質自然の三様式に動かされて活動する。彼らは紳士的ではなく、一般に狡猾で人々に対して侮辱的である。彼らは非常に怠惰でなすべき義務があったとしても、それを正しく遂行せずに後でしようとする。そのように彼らは気難しく不機嫌である。彼らは因循で、1時間で終わる仕事が彼らには何年もかかる。そのような行為者は無知の様式に位置している。

テキスト

buddher bhedaṁ dhṛteś caiva
guṇatas tri-vidhaṁ śṛṇu
procyamānam aśeṣeṇa
pṛthaktvena dhanañ-jaya

Synonyms

buddheḥ — 知性の; bhedam — 違い; dhṛteḥ— 決意の; ca —もまた; eva — 確かに; guṇataḥ — 物質自然の様式によって; tri-vidham — 三種類の;śṛṇu — よく聞きなさい; procyamānam — 私の語ること;aśeṣeṇa — 詳しく; pṛthaktvena — 異なって; dhanañjaya —おお、富の勝利者よ

Translation

おお富の勝利者よ、物質自然の三様式の違いによる様々な理解と決意について詳しく語るのでよく聞きなさい。

Purport

物質自然の三様式の違いによりどのような知識書:知識の対象言知覚者が存在するのか説された後、主は行為者の知性と決意について同じように説明される。

テキスト

pravṛttiṁ ca nivṛttiṁ ca
kāryākārye bhayābhaye
bandhaṁ mokṣaṁ ca yā vetti
buddhiḥ sā pārtha sāttvikī

Synonyms

pravṛttim — 行うこと; ca — もまた; nivṛttim — 行わないこと; ca — そして; kārya — 何をなすべきか; akārye —そして、何をなすべきではないか; bhaya — 恐れる; abhaye — そして、恐れないこと; bandham —束縛; mokṣam — 解放; ca— そして; yā — ~であるもの; vetti — 知る; buddhiḥ — 理解; sā — その; pārtha — プリダーの息子よ; sāttvikī— 徳の様式の

Translation

プリターの子よ、徳の様式の理解とは何をなすべきか、何を恐れ何を恐れるべきでないか、何が束縛を与え何が解放を与えるかを知ることである。

Purport

経典の指示に従って活動することはプラブリッティ(なされるべき活動を行うこと)と呼ばれる。経典で行うように指示されていない活動は行うべきでない。経典の指示を知らない者は行為の作用反作用に束縛される。知識に基づく判断ができる理解は徳の様式のものである。

テキスト

yayā dharmam adharmaṁ ca
kāryaṁ cākāryam eva ca
ayathāvat prajānāti
buddhiḥ sā pārtha rājasī

Synonyms

yayā — それによって; dharmam — 宗教の諸原理;adharmam — 非宗教; ca — そして; kāryam — 何をなすべきか; ca — もまた; akāryam —何をなすべきではないか;eva — 確かに; ca — もまた; ayathā-vat — 不完全に;prajānāti —知る; buddhiḥ — 知性; sā — その; pārtha— プリターの子よ; rājasī — 激情の様式に

Translation

プリターの子よ、宗教と非宗教が区別できず、なすべき活動となすべきでない活動の区別が出来ない理解は激情の様式のものである。

テキスト

adharmaṁ dharmam iti yā
manyate tamasāvṛtā
sarvārthān viparītāṁś ca
buddhiḥ sā pārtha tāmasī

Synonyms

adharmam —非宗教; dharmam —宗教; iti —このように; yā—その; manyate — 考える; tamasā — 幻想によって; āvṛtā — 覆われて; sarva-arthān — 全てのもの; viparītān — 誤った方向に; ca — もまた; buddhiḥ — 知性; sā —その;pārtha — プリターの息子よ; tāmasī — 無知の様式に

Translation

無知と闇の呪縛の下で非宗教を宗教と考え、宗教を非宗教と考え常に誤った方向に努力する理解は、おおパールタよ、無知の様式のものである。

Purport

無知の様式の知性は常に逆方向に作用し、実際には宗教でないものを宗教として受け入れ、真の宗教を拒否する。無知の中にいる人は偉大な魂を普通の人と考え、普通の人を偉大な魂と受け入れる。彼らは真実を真実でないと考え、真実でないものを真実と受け入れる。どのような活動をしても、彼らは逆方向に進む。それゆえ彼らの知性は無知の様式と言われる。

テキスト

dhṛtyā yayā dhārayate
manaḥ-prāṇendriya-kriyāḥ
yogenāvyabhicāriṇyā
dhṛtiḥ sā pārtha sāttvikī

Synonyms

dhṛtyā — 決意; yayā — それによって; dhārayate — 支える; manaḥ — 心の; prāṇa — 生命; indriya — そして感覚; kriyāḥ — 活動; yogena — ヨーガの訓練によって;avyabhicāriṇyā — まったく途切れのない; dhṛtiḥ — 決意;sā —その; pārtha — プリターの子よ; sāttvikī — 徳の様式に

Translation

おおプリターの子よ、心、生命、感覚の活動を支配し、ヨーガの訓練による着実さのために壊れることのない決意は徳の様式のものである。

Purport

ヨーガとは至上魂を理解する手段である。決意を持って至上魂から決して離れず、心、生命、感覚的活動をすべて至上主に集中させる人はクリシュナ意識で活動している。そのような決意は徳の様式のものである。アヴャビチャーリニャーという語は大きな意義をもち、クリシュナ意識を行う人は決して他の活動に逸れるということはないという意味である。

テキスト

yayā tu dharma-kāmārthān
dhṛtyā dhārayate ’rjuna
prasaṅgena phalākāṅkṣī
dhṛtiḥ sā pārtha rājasī

Synonyms

yayā — それによって; tu —しかし; dharma — 宗教性; kāma — 感覚の満足; arthān — そして経済発展;dhṛtyā — 決意によって; dhārayate — 支える; arjuna— おおアルジュナよ; prasańgena — 執着のために;phala-ākāńkṣī — 果報を望んで; dhṛtiḥ — 決意; sā —その; pārtha — プリターの子よ; rājasī —激情の様式に

Translation

おおアルジュナよ、宗教、経済発展、感覚満足の果報的結果に固く執着する決心は激情の様式のものである。

Purport

宗教や経済的活動の果報的結果や感覚満足を常に望み、心、生命、感覚をそのために用いる人は激情の様式の人である。

テキスト

yayā svapnaṁ bhayaṁ śokaṁ
viṣādaṁ madam eva ca
na vimuñcati durmedhā
dhṛtiḥ sā pārtha tāmasī

Synonyms

yayā — それによって; svapnam — 夢; bhayam — 恐怖; śokam —悲嘆; viṣādam — 気難しさ;madam —幻想; eva — 確かに; ca — もまた; na —決して~ない;vimuñcati — 捨て去る; durmedhā — 知性のない; dhṛtiḥ— 決意; sā —その; pārtha — プリターの子よ; tāmasī— 無知の様式に

Translation

おおプリターの子よ、夢、恐怖、悲嘆、気難しさ、幻想を越えることの出来ない愚かな決意は無知の様式のものである。

Purport

徳の様式の人は夢を見ないというわけではない。ここで「夢」とは睡眠過多のことであ“る。夢は常に存在する。徳の様式、激情の様式、無知の様式のいずれであっても夢は自然に現れる。睡眠過多で、自分が物質的快楽を楽しむべき者であるという自尊心を捨てることができず、物質界を常に支配しようと夢みて、生命、心、感覚をそのために用いる者は無知の様式の決意を持つ人と考えられる。

テキスト

sukhaṁ tv idānīṁ tri-vidhaṁ
śṛṇu me bharatarṣabha
abhyāsād ramate yatra
duḥkhāntaṁ ca nigacchati

Synonyms

sukham — 幸福; tu —しかし; idānīm — 今; tri-vidham— 三種類の; śṛṇu —聞きなさい; me — 私から;bharata-ṛṣabha — バーラタの中で最高のものよabhyāsāt — 修練によって; ramate — 楽しむ; yatra — そこで; duḥkha — 苦しみの; antam — 終わり; ca —もまた; nigacchati — 得る

Translation

バーラタ家の最高のものよ、束縛された魂に楽しみを与え、彼らを苦しみから救う3種類の幸福について私から聞きなさい。

Purport

束縛された魂は物質的幸福を何度も繰り返し楽しもうとして、噛んだ物を噛み直す。しかしそのような快楽を追求していても、幸運にして偉大な魂と交際することができれば束縛された魂にも物質的束縛からの解放が与えられる。つまり束縛された魂は常に感覚満足を行っているが、良い交際を持つことによりそれがただ同じ事の繰り返しであると悟ることができるようになる。そして真のクリシュナ意識に目覚めたならば、束縛された魂はいわゆる幸福の追求から解放される。

テキスト

yat tad agre viṣam iva
pariṇāme ’mṛtopamam
tat sukhaṁ sāttvikaṁ proktam
ātma-buddhi-prasāda-jam

Synonyms

yat — その; tat — その; agre — 最初は; viṣam iva— 毒のような; pariṇāme — 最後は; amṛta — 甘露;upamam — ~にたとえる; tat — その; sukham — 幸福;sāttvikam — 徳の様式に; proktam — 言われている;ātma — 自己に; buddhi — 知性の; prasāda-jam — 満足から生まれる

Translation

最初は毒のようだが最後には甘露のようになり、人を自己の悟りに目覚めさせるものが徳の様式の幸福と言われる。

Purport

自己の悟りの追求においては、心と感覚を抑制し心を自己に集中させるために、様々な規定原則を守らなければならない。これらを遵守することは究めて難しく毒のように苦いのだが、これらの規定原則に従って超越的立場に達すれば真の甘露を味わい人生を楽しむことができる。

テキスト

viṣayendriya-saṁyogād
yat tad agre ’mṛtopamam
pariṇāme viṣam iva
tat sukhaṁ rājasaṁ smṛtam

Synonyms

viṣaya — 感覚の対象の; indriya — そして感覚; saḿyogāt — 結合から; yat — その; tat— その; agre — 最初は; amṛta-upamam — まさに甘露のような; pariṇāme — 最後は; viṣam iva — 毒のような; tat— その; sukham —幸福; rājasam — 激情の様式の; smṛtam — 考えられている

Translation

感覚がその対象に触れることにより得られ、最初は甘露のようだが、最後には毒のようになる幸福は激情の様式のものであると言われる。

Purport

若い男女が会えば、男性は感覚の僕となり女性を見つめ、女性に触れ、性的関係を持つようになる。そのような行為からは最初は大きな感覚的快楽が得られるかも知れないが、そのような快楽は少しの時間が経てば、少なくとも最終的には毒のようになる。男女が別れ離婚して、悲嘆や悲しみがそれに付きまとう。そのような幸福は常に激情の様式のものである。感覚とその対象が接触することにより生じる幸福は常に苦悩の原因であり、人は皆これを避けるように努めるべきである。

テキスト

yad agre cānubandhe ca
sukhaṁ mohanam ātmanaḥ
nidrālasya-pramādotthaṁ
tat tāmasam udāhṛtam

Synonyms

yat — ~であるもの; agre — 最初は; ca —もまた;anubandhe —最後は; ca — もまた; sukham — 幸福;mohanam —惑わす; ātmanaḥ — 自己の; nidrā — 眠り;ālasya — 怠惰; pramāda — そして幻想; uttham — ~から生じる; tat — その; tāmasam — 無知の様式に; udāhṛtam — ~と言われている

Translation

自己の悟りに盲目的で、最初から最後まで幻惑にすぎず、睡眠や怠惰や幻想から生じる幸福は無知の様式のものと言われる。

Purport

怠惰や睡眠に喜びを見出し、どのような活動をし、どのような活動をしてはならないかを知らない者は疑いなく無知の様式の人である。無知の様式の人にとっては全てが幻想であり、最初にも最後にも幸福は存在しない。激情の様式の人には最初何らかの束の間の幸福があるかも知れないが、最後には苦痛のみとなる。しかし無知の様式の人にとっては最初にも最後にも苦しみだけしか存在しない。

テキスト

na tad asti pṛthivyāṁ vā
divi deveṣu vā punaḥ
sattvaṁ prakṛti-jair muktaṁ
yad ebhiḥ syāt tribhir guṇaiḥ

Synonyms

na — ~ない; tat — その; asti — 存在する; pṛthivyām — 地球上に; vā — または; divi — 高位惑星系に; deveṣu— 神々の中に; vā — または; punaḥ — 再び; sattvam— 存在; prakṛti-jaiḥ — 物質の自然より生じた; muktam— 解放された; yat — その; ebhiḥ — これらの影響から;syāt — ~である; tribhiḥ — 三つ; guṇaiḥ — 物質自然の様式

Translation

物質自然より生まれた三様式から自由な者はここにも、高位惑星系に住む神々の中にも存在しない。

Purport

全宇宙に物質自然の三様式の影響があまねく存在すると主はここでまとめられた。

テキスト

brāhmaṇa-kṣatriya-viśāṁ
śūdrāṇāṁ ca paran-tapa
karmāṇi pravibhaktāni
svabhāva-prabhavair guṇaiḥ

Synonyms

brāhmaṇa — ブラーフマナの; kṣatriya — クシャトリヤ;viśām — そしてヴァイシャ; śūdrāṇām — シュードラの; ca — そして; parantapa — おお、敵を征服したものよkarmāṇi — 活動; pravibhaktāni — 分けられる; svabhāva — 彼ら自身の性質; prabhavaiḥ — ~から生じた; guṇaiḥ — 物質世界の様式

Translation

おお敵を懲らしむ者よ、ブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラは物質的様式から生じた性質によってそれぞれの区別がある。

テキスト

śamo damas tapaḥ śaucaṁ
kṣāntir ārjavam eva ca
jñānaṁ vijñānam āstikyaṁ
brahma-karma svabhāva-jam

Synonyms

śamaḥ — 穏やかさ; damaḥ — 自制; tapaḥ — 苦行; śaucam — 清純さ; kṣāntiḥ — 忍耐; ārjavam — 誠実さ; eva — 確かに; ca — そして; jñānam — 知識;vijñānam — 智恵; āstikyam — 宗教性; brahma — ブラーフマナの; karma — 義務; svabhāva-jam — 生来の性質

Translation

穏やかさ、自己支配、謹厳さ、忍耐、誠実、知識、智恵――これらはブラーフマナが活動するときに示す生来の性質である。

テキスト

śauryaṁ tejo dhṛtir dākṣyaṁ
yuddhe cāpy apalāyanam
dānam īśvara-bhāvaś ca
kṣātraṁ karma svabhāva-jam

Synonyms

śauryam — 英雄的行為; tejaḥ — 力; dhṛtiḥ — 決意;dākṣyam — 計略に富むこと; yuddhe — 戦場において; ca — そして;api —もまた; apalāyanam — 逃げ出さないこと; dānam — 寛大さ;īśvara — 指導力のある; bhāvaḥ —性質; ca —そして;kṣātram — クシャトリヤの; karma — 義務; svabhāva-jam — 生来の性質

Translation

英雄的で力に満ち、決意、計略に富み、戦場における勇敢さ、寛大さ、指導力――これがクシャトリヤの活動の性質である。

テキスト

kṛṣi-go-rakṣya-vāṇijyaṁ
vaiśya-karma svabhāva-jam
paricaryātmakaṁ karma
śūdrasyāpi svabhāva-jam

Synonyms

kṛṣi — 農耕; go — 牛; rakṣya — 保護;vāṇijyam — 商売; vaiśya — ヴァイシャの; karma — 義務;svabhāva-jam — 生来の性質; paricaryā — 奉仕;ātmakam — ~からなる; karma — 義務; śūdrasya — シュードラの; api — もまた; svabhāva-jam —生来の性質

Translation

農耕、牛の保護、商業がヴァイシャの性質であり、シュードラには労働と他者に対する奉仕がある。

テキスト

sve sve karmaṇy abhirataḥ
saṁsiddhiṁ labhate naraḥ
sva-karma-nirataḥ siddhiṁ
yathā vindati tac chṛṇu

Synonyms

sve sve — それぞれ自分の; karmaṇi — 仕事; abhirataḥ — 応じて; saḿsiddhim — 完成; labhate — 達する;naraḥ — 人; sva-karma — 自分の仕事に; nirataḥ — 従事する; siddhim — 完成; yathā —~しながら; vindati — 達成する; tat —それ; śṛṇu — 聞く

Translation

自分の性質に応じて定められた仕事をすることにより誰もが完成に達することができる。それがいかにして可能なのか私から聞きなさい。

テキスト

yataḥ pravṛttir bhūtānāṁ
yena sarvam idaṁ tatam
sva-karmaṇā tam abhyarcya
siddhiṁ vindati mānavaḥ

Synonyms

yataḥ — その人から; pravṛttiḥ — 法質; bhūtānām— 全ての生き物の; yena —その人によって; sarvam — 全て; idam— これ; tatam — 偏在している; sva-karmaṇā — 自分の仕事によって; tam — 主を; abhyarcya — 崇拝することによって; siddhim — 完成; vindati — 達する; mānavaḥ — 人

Translation

全存在の源であり全てに遍在しておられる主を崇拝すれば、自分の仕事を行うことを通じて人は完成に達することができる。

Purport

 第15章に述べられていたように、全生命体は至上主の極微部分である。『ヴェーダーンタ・スートラ』で確認できるように至上主が全生命体の源でいらっしゃる。『バガヴァッド・ギーター』の第7章に述べられているように、至上主は外的エネルギーと内的エネルギーという2つのエネルギーにより全てに遍在しておられる。それゆえ人は主のエネルギーを用いて主を崇拝すべきである。一般にヴァイシュナヴァ献身者は主の内的エネルギーで至上主を崇拝する。主の外的エネルギーは主の内的エネルギーのゆがんだ反映である。至上主はパラマートマーの完全拡張体により全ての場所に存在しておられる。主は全ての神々、全ての人類、全ての動物のスーパーソウルとして全ての場所にいらっしゃる。それゆえ人は至上主の極微部分として至上主に奉仕すべきであると知らなければならない。誰もが完全なクリシュナ意識で主に献身奉仕しなければならないとこの節は薦めている。

 感覚の支配者でいらっしゃるフリケーシャにより、自分は特定の職業を与えられていると私たちは考えなければならない。自分に与えれた仕事の結果によってバガヴァーン、シュリー・クリシュナを崇拝すべきである。完全なクリシュナ意識で常にこのように考える人は主の慈悲によって全てを充分に知ることができる。それが人生の完成である。主が『バガヴァッド・ギーター』(12-7)で言われているように至上主御自身がそのような献身者をお救いになる。それこそが人生の最高完成である。いかなる職業に就いていても至上主に奉仕する人は最高完成に達する。

テキスト

śreyān sva-dharmo viguṇaḥ
para-dharmāt sv-anuṣṭhitāt
svabhāva-niyataṁ karma
kurvan nāpnoti kilbiṣam

Synonyms

śreyān — よりよい; sva-dharmaḥ — 自分の職業;viguṇaḥ — 不完全に行われた; para-dharmāt — 他の者の職業よりも; su-anuṣṭhitāt —完全に行われた ;svabhāva-niyatam —人の性質に応じて規定された;karma — 仕事; kurvan — 逐行すること; na — 決してーない; āpnoti — 達成する; kilbiṣam — 罪の報い

Translation

他者の職業を完全に行うよりも、自分の職業を不完全に行うほうが優れている。生来の性質に応じて規定された義務は決して罪の報いの影響を受けない。

Purport

 職業的義務は『バガヴァッド・ギーター』に規定されている。以前の節で既に述べられてるようにブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラはそれぞれの持つ物質自然の様式に応じて義務が規定されている。人は他者の義務を模倣してはならない。シュードラが行う仕事に生来の関心を持つ者は、ブラーフマナの家系に生まれたとしてもブラーフマナであると不自然に名乗るべきでない。人は自分の性質に応じた仕事をすべきである。至上主への奉仕としてなされる限り、職業に貴賎はない。ブラーフマナには徳の様式の職業的義務がある。しかし徳の様式の性質を生来持たない人は、ブラーフマナの職業的義務を模倣してはならない。クシャトリヤすなわち行政官は、様々な忌まわしい行為をなさなければならない。クシャトリヤは暴力を行使して敵を殺すことを余儀なくされることもあり、駆け引きのために嘘をつく必要がある場合も存在する。そのような暴力や外交的手段は政治に常に付随するものであるが、クシャトリヤは自分の義務を放棄してブラーフマナの義務を行おうとしてはならない。

 は至上主を満足されるために活動すべきである。例えばアルジュナはクシャトリヤであったが、敵と戦うのを躊躇していた。戦闘がバガヴァーン、クリシュナのために行われるならば、堕落の恐れはない。商業の世界でも商人は様々な嘘をついて利潤を得なければならない。嘘をつかなければ商人には利潤はない。取引のために、全く利益はないと商人が言うこともあるが、利益がなければ商人は生計が立たないと私たちは理解すべきである。それゆえ商人が無利益と言えば、それは単なる嘘であると私たちは理解しなければならない。しかし嘘をつかなければならない仕事を辞めてブラーフマナの職業を行おうと商人は考えるべきではない。そのようなことが薦められているのではない。自分の仕事によりバガヴァーンに奉仕するなら、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラのいづれであろうとかまわない。ブラーフマナでさえも、様々な供儀を行うために動物を殺す場合がある。動物を供儀の中で捧げなければならない場合もあるからである。同様にクシャトリヤが自分の職業に則って敵を殺すなら、それは罪ではない。第3章で詳細かつ明確に説明されたように、全ての人はバガヴァーンでいらっしゃるヤギャ、すなわちヴィシュヌのために働くべきである。自分の感覚満足のためになされた活動は束縛の原因となる。自分の様式に応じた仕事をただ至上主のために行うべきであると結論することができる。

テキスト

saha-jaṁ karma kaunteya
sa-doṣam api na tyajet
sarvārambhā hi doṣeṇa
dhūmenāgnir ivāvṛtāḥ

Synonyms

saha-jam — 生まれながらの; karma — 仕事; kaunteya— クンティの子よ; sa-doṣam — 欠点に満ちて; api — ~であるけれど; na—決して~ない; tyajet — 放棄すべきである; sarva-ārambhāḥ — 全ての冒険; hi — 確かに; doṣeṇa — 欠点に満ちて; dhūmena — 煙に; agniḥ — 火; iva — ~のように; āvṛtāḥ — 覆われている。

Translation

火が煙に覆われているように、いかなる努力も何らかの欠点に覆われている。おおクンティーの子よ、たとえ欠点に満ちていたとしても自分の性質から生まれた仕事を放棄してはならない。

Purport

 束縛された生活ではいかなる活動も物質自然の三様式に汚染されている。ブラーフマナでさえも供儀で動物を殺す場合もある。同様にいかに敬虔なクシャトリヤといえども敵と戦わなくてはならず、戦闘を避けることはできない。またいかに敬虔なヴァイシャであっても商売を続けるためにには隠し事をしなけらばならない場合も、闇市場で仕事をしなければならない場合もある。これは必要なことであり、避けることはできない。同様に、良くない主人をもつシュードラは、主人の命令に従って、してはならないことをする場合もある。これらの欠点があったとしても、人は自分に定められた義務を遂行すべきである。なぜならそれは自分の性質から生じたものだからである。

 ここでは良い例が挙げられている。火は純粋であるが、火には煙が付随する。しかし煙が火を汚すことはない。火の中に煙が混入していても、火は全要素の中で最も純粋とされる。クシャトリヤの仕事を放棄してブラーフマナの職業を行おうとしても、ブラーフマナの職業には不愉快な義務がないとは限らない。すると物質自然の汚れから完全に解放されている人は物質界にはいないと結論する人もいるかも知れない。それに関して人煙の例は非常に適切である。冬に火中から焼石を取り出すときは、目に煙がしみ体が煙に汚されるが、そのような状態にある火でさえも利用しなければならない。同様に不愉快なことがあっても、自分の生来の仕事は放棄してはならず、むしろ自分の職業によりクリシュナ意識で至上主に奉仕する決意を固めなければならない。それが完成段階である。至上主の満足のために職業義務を遂行すれば、その欠点はすべて浄化される。仕事の結果が浄化され献身奉仕と結び付いたとき、人は内なる自己を完全に見ることができる。それが自己の悟りである。

テキスト

asakta-buddhiḥ sarvatra
jitātmā vigata-spṛhaḥ
naiṣkarmya-siddhiṁ paramāṁ
sannyāsenādhigacchati

Synonyms

asakta-buddhiḥ — 執着のない知性をもった; sarvatra — どこでも; jita-ātmā —心を支配した;vigata-spṛhaḥ — 物質的欲望のない;naiṣkarmya-siddhim — 反動のない完成;paramām — 最古の; sannyāsena — 放棄階級によって; adhigacchati — 人は達成する

Translation

自己を支配し、執着を持たず、物質的快楽を無視する者は、放棄の実践により反動のない最高完成段階に達することができる。

Purport

常に自らを至上主の極微部分と見做し、自分の仕事の結果を楽しむ権利は自分にはないと考えることが真の放棄である。私たちは主の極微部分なので、活動の結果は主が楽しまれるべきである。これがクリシュナ意識である。クリシュナ意識で活動する人が真のサンニャーシー、すなわち真の放棄階級である。そのような心情を持てば、人は実際に満足を得ることができる。なざなら至上主のために活動しているからである。そのようにして彼は物質的なものに全く関心がなくなり、主に奉仕することから得られる超越的喜びの他には興味がなくなる。サンニャーシーは過去の活動の反動から解放されているとされるが、クリシュナ意識の人はいわゆる放棄階級を受け入れなくても自動的にその完成段階に達する。このような状態の心は、ヨーガールーダすなわちヨーガの完成段階と呼ばれる。第三章で確認できるように、自分の内に満足している人は自分の活動のいかなる反動も恐れる必要はない。

テキスト

siddhiṁ prāpto yathā brahma
tathāpnoti nibodha me
samāsenaiva kaunteya
niṣṭhā jñānasya yā parā

Synonyms

siddhim —完成; prāptaḥ — 達成すること; yathā — ~ように;brahma — 思考のもの; tathā —それで; āpnoti — 人は達する;nibodha — 理解しようとする; me — 私から; samāsena — 簡潔に; eva — 確かに; kaunteya —お クンティの息子よ;niṣṭhā — 段階; jñānasya — 知識の; yā — その;parā — 超越的な

Translation

おおプリターの子よ、私がこれからまとめる方法に従えば、このような完成に達した人がいかにして最高完成段階ブラフマンに達することができるか私から学びなさい。

Purport

職業的義務を遂行することにより、すなわちその義務をバガヴァーンのために行うことにより人がいかにして完成段階に達することができるか、主はアルジュナに説明される。仕事の結果を単に至上主の満足のために放棄すれば、人はブラフマンの最高段階に達することができる。それが自己の悟りのプロセスである。知識の実際の完成は純粋なクリシュナ意識を達成することにある。そのことが以下の節で説明される。

テキスト

buddhyā viśuddhayā yukto
dhṛtyātmānaṁ niyamya ca
śabdādīn viṣayāṁs tyaktvā
rāga-dveṣau vyudasya ca
vivikta-sevī laghv-āśī
yata-vāk-kāya-mānasaḥ
dhyāna-yoga-paro nityaṁ
vairāgyaṁ samupāśritaḥ
ahaṅkāraṁ balaṁ darpaṁ
kāmaṁ krodhaṁ parigraham
vimucya nirmamaḥ śānto
brahma-bhūyāya kalpate

Synonyms

buddhyā — 知性によって; viśuddhayā — 完全に浄化された;yuktaḥ — 従事した; dhṛtyā — 決意によって; ātmānam — 自己; niyamya — 規制して; ca — もまた; śabda-ādīn — 音のような; viṣayān — 感覚の対象; tyaktvā — 捨てること; rāga — 執着; dveṣau — そして嫌悪; vyudasya — 捨てる; ca — もまた; vivikta-sevī — 人里離れたところに住むこと; laghu-āśī — 少しだけ食べる; yata — 支配して; vāk —言葉; kāya —体; mānasaḥ — そして心; dhyāna-yoga-paraḥ — 三昧にある; nityam — 一日24時間; vairāgyam — 無執着;samupāśritaḥ —~頼りにして; ahańkāram — 偽我意識; balam — 偽りの強さ; darpam — 偽りの自尊心; kāmam— 欲望; krodham — 怒り; parigraham — そして物質的なものを受け入れること; vimucya — ~から解放されて; nirmamaḥ— 所有の意識がない; śāntaḥ —穏やかな;brahma-bhūyāya — 自己の悟りのための; kalpate — 資格がある。

Translation

知性により浄化され、決意により心を支配し、感覚満足の対象を放棄し、愛憎から解放されることにより、人里離れた所に住み、僅かだけ食べ、言葉の力や心や体を支配し、常に三昧にあり、執着せず、偽我意識、偽の力、偽の自尊心、欲望、怒りや偽の所有欲を持たず、物質的なものを受け入れず、穏やかな人は自己の悟りの段階に高められる。

Purport

 人が知性により浄化されると徳の様式に位置されるようになり、心を支配し常に三昧を味わうようになる。彼は感覚満足の対象に執着せず、何を行っても愛憎から自由である。執着しない人はそのように自然に人里離れた所に住むことを好み、必要以上食べず、体と心の動きを支配するようになる。また自分が体であると考えないので偽我意識を持つこともない。様々な栄養物を取って立派な体を作ろうともしない。自分が体であると考えないので誤った自尊心を持たない。主の恩寵によって与えられた物で満足し、感覚満足が得られないといって怒ることもない。感覚満足の対象を手に入れようと努力することもない。彼は偽我意識から完全に解放され、物質的な物事には全く執着しない。それがブラフマブータの段階と呼ばれるブラフマンの自己の悟りの段階である。生命が物質的なものではないと悟ることにより、穏やかになり心が乱されなくなる。

āpūryamāṇam acala-pratiṣṭhaṁ
samudram āpaḥ praviśanti yadvat
tadvat kāmā yaṁ praviśanti sarve
sa śāntim āpnoti na kāma-kāmī

「無数の河川が流れ込んでも海は泰然として不変であるごとく、欲望が次々に起こっても、追わず取り合わぬ人は平安であるが、欲望を満足させようと努める者はそうではない」と『、ハガヴァッド・ギーター』(二・七十)で述べられている。

テキスト

brahma-bhūtaḥ prasannātmā
na śocati na kāṅkṣati
samaḥ sarveṣu bhūteṣu
mad-bhaktiṁ labhate parām

Synonyms

brahma-bhūtaḥ —至高なるものと一つとなって;prasanna-ātmā —完全な喜びに満ち; na —決して~ない; śocati —嘆く;na —決して~ない; kāńkṣati —欲する; samaḥ —平等である;sarveṣu — 全てのものに対して; bhūteṣu —生命体; mat-bhaktim —私への献身奉仕; labhate —得る; parām —超越的な

Translation

このように超越的な者はただちに至上ブラフマンを悟り、完全な喜びに満ち、嘆くことも物を求めることもなく、全ての生命体に平等である。その段階で私への純粋な献身奉仕が達成される。

Purport

 マーヤーヴァーディーにとっては絶対者とひとつのなるブラフマブータ段階が最終的目標である。しかしヴァイシュナヴァすなわち純粋な献身者にはさらなる道程があり、純粋な献身奉仕を達成しなければならない。すなわち純粋な献身奉仕を行う段階にいる者は、既に絶対者とひとつになるブラフマブータと呼ばれる状態に到達しているのである。至上主絶対者とひとつでない限り、主に奉仕を捧げることはできない。絶対概念では奉仕を捧げる者と捧げられる者には相違はないが、より高い精神的意味においてはその区別が存在する。

 生命が物質的であるという概念の下で感覚満足のために活動すると結果は悲惨なものである。しかし絶対世界で純粋な献身奉仕を行うときにはそのような悲苦や憂いは存在しない。クリシュナ意識で神に奉仕する生命体も自らの内に満ち足りている。彼はまさに汚れた水が全て浄化された河のようである。純粋な献身者はクリシュナ以外のものを考えないので常に喜びに満ちている。主の奉仕に満ち足りているので物質的なものを失って悲嘆することもないし、何かを求めて熱望することもない。全生命体が至上主の極微部分であり、主の永遠の僕であると悟っているので物質的快楽を求めることもない。物質界で誰が上で誰が下であるかなどと考えない。そのような身分の高低は儚いものである。そして献身者は物質の一時的な出現や消滅には関わらない。献身者にとっては黄金も石も同じ価値しかない。これがブラフマブータ段階であり、純粋な献身者は容易にとの段階に達する。その段階では至上ブラフマンとひとつになり個別性を破壊するという概念は忌まわしいものとなり、天界の王国に到達することは幻想となり、感覚は毒歯を折られた蛇のようになる。毒歯が折れた蛇は恐るに足りないように、支配された感覚は恐れる必要がない。物質的に汚染された人にとっては世界は惨めなものだが、献身者にとって全世界は精神空間ヴァイクンタ同様である。この世界で最も偉大な人物でさえ献身者にとっては蟻と同じである。この時代に純粋な献身奉仕を説かれた主チャイタンニャの慈悲によりそのような段階を達成することができるのである。

テキスト

bhaktyā mām abhijānāti
yāvān yaś cāsmi tattvataḥ
tato māṁ tattvato jñātvā
viśate tad-anantaram

Synonyms

bhaktyā —純粋な献身奉仕によって; mām —私を; abhijānāti—人は知ることができる; yāvān — ~と同じほどに; yaḥ ca asmi — そのままの私; tattvataḥ — 真に; tataḥ —それから; mām — 私を;tattvataḥ — 真に; jñātvā —知って; viśate — 入る;tat-anantaram — その後

Translation

ただ献身奉仕によってのみ、私をバガヴァーンとしてあるがまま理解することができる。そのような献身的態度によって私を充分意識する者は神の王国に入ることができる

Purport

 バガヴァーン、クリシュナや、その完全拡張体を心的思索によって非献身者が理解することは不可能である。もしバガヴァーンを理解しようと望むなら、純粋な献身者の指導の下で献身奉仕を行うべきである。さもなければバガヴァーンの真理を理解することは不可能である。主は自らを全ての人にお現しになるわけではないと『バガヴァッド・ギーター』(7-25)でいわれている。クリシュナ意識と献身奉仕を行う人だけがクリシュナを理解することができる。大学の学位はクリシュナを理解する助けにならない。

 クリシュナの科学に精通してしる人は、クリシュナのお住みになる精神王国に到達することができる。ブラフマンになることは個別魂を失うことではなく、その段階には献身奉仕が存在する。そして献身奉仕が存在する限り、神、献身者、献身奉仕のプロセスが存在しなければならない。解放の後にもそのような知識は消滅しない。解放とは生命の物質的概念から自由になることである。精神生活では全てが純粋なクリシュナ意識で存在する。ヴィシャテーすなわち「私に入る」という語が非人格ブラフマンと同化するという一元論を支持すると誤って考えてはならない。ヴィシャテーとは個別性をもって至上主の国に入り、主と交際し、主に奉仕することを意味する。例えば緑色の鳥が緑色の樹に入るのは樹とひとつになるためではなく、樹の実を味わうためである。マーヤーヴァーディーはよく河が海に入り海と同化する例をよく挙げる。そのように同化することはマーヤーヴァーディーに幸福感を与えるかも知れないが、ヴァイシュナヴァは海に住む水生動物のように個別性を保つ。深海には多くの水生動物を見かけることができる。海面を観察するだけでは充分ではない。深海に住む水生動物のことも知らなければならない。

 純粋な献身奉仕を行うことにより献身者は至上主の超越的性質と富の真実を知ることができる。第11章に述べられているように、献身奉仕によってのみ理解することができる。献身奉仕によりバガヴァーンを理解できるようになり、主の王国に入ることができると同じ主題がここで確認されている。

 物質概念から解放されたブラフマブータ段階に到達した後、人は主について聞くことができ、感覚的快楽に対する渇望と欲望が消滅するにつれ、主の奉仕にさらに愛着するようになり、そのような愛着により献身者は物質的汚染から解放される。その段階に到達すると至上主を理解できるようになる。これは『シュリーマド・バーガヴァタム』にも述べられている。解放の後はバクティすなわち超越的奉仕が継続する。『ヴェーダーンタ・スートラ』(4-1-12)にも解放の後献身奉仕のプロセスが継続されると記述されている。『シュリーマド・バーガヴァタム』では生命体が本来の立場に戻ることを献身的解放と定義している。生命体の本来の立場は既に述べたように至上主の極微部分であり、奉仕することである。

テキスト

sarva-karmāṇy api sadā
kurvāṇo mad-vyapāśrayaḥ
mat-prasādād avāpnoti
śāśvataṁ padam avyayam

Synonyms

sarva — 全ての; karmāṇi — 活動; api — ~であるけれでも; sadā — いつも; kurvāṇaḥ — 行って; mat-vyapāśrayaḥ — 私に保護され; mat-prasādāt — 私の慈悲によって; avāpnoti — 人は達する; śāśvatam — 永遠の; padam — 住居; avyayam— 滅びることのない

Translation

あらゆる行動を行っていても、私の純粋な献身者は私に保護されて、私の恩寵により永遠で滅びることのない王国に到達する。

Purport

マド・ヴャパーシュラヤハという語は「至上主の保護の下で」という意味である。物質的汚染から自由になるために、純粋な献身者は至上主や至上主の代表者であるグルの指示に従って活動する。純粋な献身者にとって献身奉仕に時間制限はない。彼は1日24時間常に逸れることなく至上主の指示の下に活動している。このようにクリシュナ意識で活動する献身者に対して主は非常に慈悲深くいらっしゃる。様々な困難が存在しても彼はしだいに超越的王国クリシュナローカに昇って行く。彼にはそこに到達することが保証され、それに疑いの余地はない。至上の王国では変化が存在しない。全てが永遠で、滅びることなく、知識に満ちている。

テキスト

cetasā sarva-karmāṇi
mayi sannyasya mat-paraḥ
buddhi-yogam upāśritya
mac-cittaḥ satataṁ bhava

Synonyms

cetasā — 知性によって; sarva-karmāṇi — あらゆる種類の活動; mayi — 私に; sannyasya — 放棄して;mat-paraḥ — 私の保護のもとで; buddhi-yogam — 献身的活動; upāśritya — ~に保護を求めて; mat-cittaḥ— 私を意識して; satatam — 一日24時間; bhava — まさに~になる

Translation

いかなる活動をするにも私に依存し、常に私の保護の下で行動しなさい。そのような献身奉仕で私を充分に意識しなさい。

Purport

クリシュナ意識で活動する人は世界の支配者であるかのように振舞うことはない。人はまさに召使のように至上主の指示の下で活動すべきである。召使には独立権はなく、主人の命令によってのみ召使は行動する。至上の主人のために働いている召使は利権や損失には影響されず、主人の命令に忠実に義務を果たすのである。アルジュナはクリシュナの直接の指示の下に活動しているが、クリシュナのいらっしゃらないとき人はいかに行動すべきかと議論する人もいるかも知れない。クリシュナの代表者の指示にしたがって活動すれば、この『バガヴァッド・ギーター』にあるクリシュナの教えに直接に従うのと同じ結果が得られる。この節でサンスクリット語のマト・パラハという語が非常に重要であり、人生の目的はクリシュナ意識で活動し、クリシュナを満足させる以外にはないという意味である。そして活動するときは「自分が今クリシュナによって与えられた義務を遂行している」とクリシュナのことのみを考えるべきである。そのように活動していれば自然にクリシュナのことのみを考えるようになる。これが完全なクリシュナ意識である。しかし自分の恣意的活動の結果を至上主に捧げるべきでないと私たちは知らなければならない。そのようなものはクリシュナ意識の献身奉仕ではない。クリシュナの命令に従って活動しなければならない。これが非常に重要な点である。クリシュナの命令は正統なグルから師弟継承を通じて与えられる。それゆえグルの命令は人生の第一義務であると理解しなければならない。正統なグルを受け入れてその指示の下活動するなら、クリシュナ意識における人生の完成は確実なものとなる。

テキスト

mac-cittaḥ sarva-durgāṇi
mat-prasādāt tariṣyasi
atha cet tvam ahaṅkārān
na śroṣyasi vinaṅkṣyasi

Synonyms

mat — 私の; cittaḥ — 意識して; sarva — 全ての;durgāṇi — 障害; mat-prasādāt — 私の恩寵によって;tariṣyasi — あなたは克服するだろうatha — しかし; cet — もし; tvam —あなた; ahańkārāt — 偽我意識で; na śroṣyasi — 聞かない;vinańkṣyasi — あなたは道に迷うだろう

Translation

私を意識するようになれば、おまえは私の恩寵により人生の障害を全て克服することができる。しかしそのような意識で活動せず、偽我意識で行動し私の言葉を聞かなければ、おまえは道を見失うだろう。

Purport

完全なクリシュナ意識の人は自分の義務を遂行することに関して、いたずらに不安を感じることはない。このようにして全く不安から解放されることを愚かな人々は知らない。クリシュナ意識で活動する者にとって主クリシュナが最愛の友である。献身者は最愛の友のことを常に思い、主を満足されるために1日24時間献身的に働いている友に主は御自身を与えられる。それゆえ私たちは生命の物質的概念に惑わされてはならない。自分が物質自然の法則から独立していて、自由に活動できると誤って考えるべきではない。しかしクリシュナ意識で活動する人たちはただちに解放され、物質的不安から自由になる。クリシュナ意識で活動しない者は生死の繰り返しの荒波の中に自分を見失うと知るべきである。束縛された魂は何をすべきか何をすべきでないか知らないが、クリシュナ意識で活動する人は自由に活動できる。なぜなら全てをクリシュナが内面から指示してくださるし、グルがそれを確認して下さるからである。

テキスト

yad ahaṅkāram āśritya
na yotsya iti manyase
mithyaiṣa vyavasāyas te
prakṛtis tvāṁ niyokṣyati

Synonyms

yat — もし; ahańkāram — 偽我意識の; āśritya — したがって;na yotsye — 私は戦わない; iti — このように; manyase — あなたが考える; mithyā eṣaḥ — これはまったく偽りの; vyavasāyaḥ — 決意; te — あなたの; prakṛtiḥ — 物質自然; tvām— あなた; niyokṣyati — 従事するだろう

Translation

私の指示に従わず戦わないなら、あまえは道を誤ることになる。生来おまえは戦うべきなのだ。

Purport

アルジュナは武官であり、クシャトリヤの性質を持って生まれた。それゆえ彼の義務は戦うことである。しかし彼は偽我意識のために自分の師や祖父や友を殺せば罪の報いを被らなければならないと考えていた。彼は実際自分をあたかも活動の主であると考えていた。自分の活動の結果の善悪を自分が支配しているかのように思い上がっていたのである。バガヴァーンが隣にいらっしゃって彼に戦うよう指示しておられるのをアルジュナは忘れていた。何が善で何が悪なのか教えて下さるのはバガヴァーンであり、人はただ人生の完成を達成するためにクリシュナ意識で活動しなければならない。誰も自分の運命を創造することはできない。それができるのはバガヴァーンだけである。それゆえ最善の方法は、バガヴァーンに指示を仰ぎそれに従って活動することである。バガヴァーンや神の代表者であるグルの指示に誰もが従うべきである。バガヴァーンの命令を躊躇せず実行すべきである。そうすればいかなる状況においても安全である。

テキスト

svabhāva-jena kaunteya
nibaddhaḥ svena karmaṇā
kartuṁ necchasi yan mohāt
kariṣyasy avaśo ’pi tat

Synonyms

svabhāva-jena — 生来の性質; kaunteya — おお、クンティの息子よ; nibaddhaḥ — 制約されて; svena — あなた自身の; karmaṇā —活動; kartum — 行うこと; na — ~でない;icchasi — あなたが好む; yat — ~であるもの; mohāt — 幻想によって;kariṣyasi — あなたは行うであろう; avaśaḥ — しかたなく; api —~さえも;tat — それ

Translation

幻想の下でおまえは私の指示に従って行動することを今拒んでいるが、おおクンティーの子よ、しかし、持って生まれた性質によりおまえは全く同じことをするであろう。

Purport

至上主の指示に反した活動をするならば、自分の持つ様式によって活動することを余儀なくされる。誰もが物質自然の特定の様式の組み合わせに影響されて活動する。しかし至上主の指示に従って自発的に活動する人は栄光に輝く者である。

テキスト

īśvaraḥ sarva-bhūtānāṁ
hṛd-deśe ’rjuna tiṣṭhati
bhrāmayan sarva-bhūtāni
yantrārūḍhāni māyayā

Synonyms

īśvaraḥ —至上主; sarva-bhūtānām —全ての生き物たちの; hṛt-deśe — 心臓に; arjuna — おお、アルジュナよ; tiṣṭhati —住んでいる; bhrāmayan —放浪の原因に;sarva-bhūtāni —全ての生命体; yantra —機械の上に;ārūḍhani —乗せられて; māyayā —物質エネルギーの力のもとで

Translation

おおアルジュナよ、至上主は誰の心臓の中にもいて、物質エネルギーで構成された機械の上に座している全生命体の放浪を支配する。

Purport

アルジュナは至上の知識を持たないので、彼が戦うべきか考えたとしてもそれは彼の限られた判断でしかない。主クリシュナは個別魂が全てではないと教えられた。バガヴァー
ン、クリシュナが局所的スーパーソウルとして生命体の心臓の中に座され、生命体を指示される。体が変化すれば生命州体は自らの過去を忘れる。しかしスーパーソウルは過去、現在、未来を知り、生命体の全活動を観察し続けられる。それゆえ生命休め全活動は、このふさわスーパーソウルにより指示されるのである。生命体は自分に相応しい物質的体を得て、物質エネルギーにより、スーパーソウルの指示の下に作られた体に座す。生命体は特定の体に乗せられると、ただちにその身体的状況に束縛された活動をしなければならない。同じ運転手でも、高速自動車に乗るならば低速自動車に乗るよりも速く走ることができる。同様に、至上魂の命令により物質自然は生命体の過去の欲望に相応した体を生命体のために形成する。生命体は独立しているわけではない。自分がバガヴァーンから独立していると考えてはならない。個別魂は常に主の支配下にある。それゆえ個別魂の義務は服従することである。それがこの節の教えである。

テキスト

tam eva śaraṇaṁ gaccha
sarva-bhāvena bhārata
tat-prasādāt parāṁ śāntiṁ
sthānaṁ prāpsyasi śāśvatam

Synonyms

tam — 彼に; eva — 確かに; śaraṇam gaccha — 服従する; sarva-bhāvena — 全ての点において; bhārata — おお、バーラタの息子よ; tat-prasādāt — 主の恩寵によって; parām — 超越的な; śāntim — 平安; sthānam — 住居;prāpsyasi — あなたは得るであろう; śāśvatam — 永遠な

Translation

おおバラタの子孫よ、スーパーソウルに完全に服従せよ。スーパーソウルの恩寵によりおまえは超越的な平安を得て至上の永遠王国に到達するであろう。

Purport

 生命体は全ての者の座していらっしゃるバガヴァーンに服従すべきである。それによりこの物質存在のあらゆる悲惨な物事から解放されるだけでなく、最終的に至上神の王国に到達することができる。超越世界はヴェーダ文典(『リグ・ヴェーダ』1-22-20)にタット・ヴィシュノホ・パラマン・パダンと記述されている。全創造は神の王国なので全物質は精神的である。しかしパラマン・パダンは特に精神空間、すなわちヴァイクンタと呼ばれる永遠の王国を表している。

『バガヴァッド・ギーター』の第15章に述べられているように主は全生命体の心臓に位置しておられる。それゆえ内なるスーパーソウルに服従することが薦められているが、それはすなわちバガヴァーン、クリシュナに服従することである。アルジュナは既にクリシュナを至上主と受け入れた。クリシュナは第10章でパラン・ブラフマ・パラン・ダーマと受け入れられているのである。自分の体験からだけではなく、ナーラダやアシタ、デーヴァラやヴャーサのような偉大な権威者を証拠としてアルジュナはクリシュナをバガヴァーンであり、全生命体の至上の王国と受け入れた。

テキスト

iti te jñānam ākhyātaṁ
guhyād guhya-taraṁ mayā
vimṛśyaitad aśeṣeṇa
yathecchasi tathā kuru

Synonyms

iti — このような; te — あなたに; jñānam — 知識; ākhyātam— 説明した; guhyāt —秘儀の; guhya-taram — さらに秘儀な; mayā — 私によって; vimṛśya — 考慮して;etat —これについて; aśeṣeṇa — 十分に; yathā — ~どおりに; icchasi — あなたの望む; tathā — それ; kuru — 行う

Translation

さらに内密な知識をおまえに説明した。これらをよく考慮して、自分の望み通りに行動しなさい。

Purport

 主は既にブラフマブータの知識をアルジュナに説明された。ブラフマブータ段階にいる者は内密な知識により喜びに満ち、悲嘆せず、何も熱望しない。そしてまたクリシュナはスーパーソウルの知識も明らかにされた。それもまたブラフマンの知識であるが、より優れた知識である。

 ここでヤテーチャン・タター・クル「おまえの望むように行動せよ」という語が、神は生命体の僅かな独立性を干渉されないことを示している。『バガヴァッド・ギーター』で主は人がどのようにすれば生命状況を向上させられるかをあらゆる面から説明された。アルジュナに与えられた最良のアドヴァイスは、彼の心臓にいらっしゃるスーパーソウルの命令に服従することである。人は正しい分別力を持ち、スーパーソウルの命令に服従すべきである。それにより人間生活の最高完成であるクリシュナ意識に常に留まることができる。アルジュナはバガヴァーンから直接戦うことを命じられた。主が生命体の服従を必要としていらっしゃるのではなく、バガヴァーンに服従することにより、生命体に至上の恩恵がもたらされるのである。服従する前に、知性の許す限り人はこのことを考慮すべきであり、それがバガヴァーンの教えを受け入れる最善の道である。そのような教えはクリシュナの正統な代表者であるグルを通じても得られる。

テキスト

sarva-guhyatamaṁ bhūyaḥ
śṛṇu me paramaṁ vacaḥ
iṣṭo ’si me dṛḍham iti
tato vakṣyāmi te hitam

Synonyms

sarva-guhya-tamam — 全てのうちで最も内密な; bhūyaḥ — 再び; śṛṇu — よく聞きなさい; me — 私から; paramam — 至上の; vacaḥ — 教え; iṣṭaḥ asi — あなたは親愛な; me— 私に; dṛḍham — 大変; iti —このように; tataḥ — ゆえに;vakṣyāmi — 私は語っている; te — あなたのために; hitam — 利益

Translation

おまえは私の親友なので私の至上の教えである最も内密な知識を授ける。おまえのためになることなので、よく聞きなさい。

Purport

主はアルジュナに内密な知識(ブラフマンの知識)と、さらに内密な知識(心臓に位置するスーパーソウルの知識)をお授けになった。さらにこれから主は「ただバガヴァーンに服従せよ」という最も内密な知識をお授けになる。第9章の最後の部分で主はマン・マナーハ、すなわち「ただ私のことを考えよ」とおっしゃった。それと同じ教えが『バガヴァッド・ギーター』の教示の精髄を強調するために繰り返される。この『バガヴァッド・ギーター』の精髄は普通の人には理解できない。理解できるのはただクリシュナに非常に親愛なる人、すなわちクリシュナの純粋な献身者のみである。これが全ヴェーダ文典の最も重要な教えである。ここでクリシュナが語っていらっしゃるのは最も重要な知識であり、ただアルジュナのみではなく、全生命体がそれに従うべきである。

テキスト

man-manā bhava mad-bhakto
mad-yājī māṁ namaskuru
mām evaiṣyasi satyaṁ te
pratijāne priyo ’si me

Synonyms

mat-manāḥ — 私のことを思い; bhava — まさに~になる;mat-bhaktaḥ — 私の献身者; mat-yājī — 私の崇拝者; mām— 私に; namaskuru — 敬意をささげる; mām — 私に; eva — 確かに; eṣyasi — あなたは来るだろう; satyam — 本当に; te — あなたに; pratijāne — わつぃは約束する; priyaḥ — 親愛なる; asi— あなたは~である; me — 私にとって

Translation

常に私のことを思いなさい。私の献身者になり、私を崇拝し、私に敬意を捧げなさい。そうすればおまえは間違いなく私のもとにくる。親友のおまえにそれを約束しよう。

Purport

 最も内密な知識とはクリシュナの純粋な献身者になり、常にクリシュナのことを思い、クリシュナのために活動することである。見せかけの瞑想家になってはならない。いつもクリシュナのことを考えることができるように自分の生活を形作るべきである。人は自分の日常生活がいつもクリシュナと結び付いているように行動すべきである。1日24時間クリシュナのことのみを考えているような生活をしなければならないのである。そしてそのような純粋なクリシュナ意識の人は疑いなくクリシュナの王国に帰り、そこでクリシュナと直接交際することができると主は約束される。アルジュナがクリシュナの親友なので、この最も内密な知識がアルジュナに伝えられた。アルジュナの足跡に従う者は誰もがクリシュナの親友となり、アルジュナが到達したのと同じ完成に達することができる。

 2本の腕でフルートを持ち、孔雀の羽で髪を飾った美しい顔を持つ青い肌の少年クリシュナに心を集中すべきであると特に強調される。『ブラフマ・サンヒター』やその他の経典にはクリシュナに関する記述が見られる。人はバガヴァーンの本来の姿であるクリシュナに心を集中すべきである。主の他の姿に注意を逸らすことさえすべきではない。主はヴィシュヌ、ナーラーヤン、ラーマ、ヴァラーハなど無数の姿を持っていらっしゃるが、献身者はアルジュナの前に現させた姿に集中すべきである。クリシュナの姿に心を集中させることが最も重要な知識である。そしてアルジュナがクリシュナの親友であったので、この知識がアルジュナに与えられたのである。

テキスト

sarva-dharmān parityajya
mām ekaṁ śaraṇaṁ vraja
ahaṁ tvāṁ sarva-pāpebhyo
mokṣayiṣyāmi mā śucaḥ

Synonyms

sarva-dharmān — あらゆる種類の宗教; parityajya —捨てて; mām —私に; ekam — ~だけ; śaraṇam —服従するために; vraja — 行く; aham —わたし; tvām —あなた; sarva —全ての;pāpebhyaḥ —罪の報いから; mokṣayiṣyāmi —解放されるだろう; mā — ~するな; śucaḥ —心配する

Translation

全ての宗教を放棄し、ただ私に服従せよ。恐れるな。私がおまえを全ての罪の報いから救おう

Purport

至上ブラフマンの知識、スーパーソウルの知識、社会生活の様々な階級や地位の知識、放棄階級の知識、無執着の知識、感覚や心の支配、瞑想その他について、主は様々な知識や宗教の過程を説明された。様々な宗教を様々な方法で主は説明されてきたのである。『バガヴァッド・ギーター』をまとめるにあたり、これまで説明してきたプロセスを全て放棄し、ただクリシュナに服従せよと主は言われた。そのように服従すれば、あらゆる罪からの報いから救われる。なぜなら主自身がそのように約束されたからである。

第8章で述べられたように、全ての罪の報いから解放された人だけが主クリシュナの崇拝を行うことができる。すると全ての罪の報いから解放されていない限り、服従のプロセスを受け入れられないと思う人もいるかも知れない。そのような疑いに対してここでは、全ての罪の報いから解放されていなくとも、ただシュリー・クリシュナに服従するだけで自動的に罪の報いから解放されると述べられている。罪の報いから解放されるために、大きな努力をする必要はない。クリシュナが全生命体を救って下さる至上の救い主ていらっしゃると私たちは理解すべきである。私たちは信念と愛を持って主に服従すべきである。

クリシュナに服従する過程は『ハリ・バクティ・ヴィラース』(11-676)に述べられている。

ānukūlyasya saṅkalpaḥ
prātikūlyasya varjanam
rakṣiṣyatīti viśvāso
goptṛtve varaṇaṁ tathā
ātma-nikṣepa-kārpaṇye
ṣaḍ-vidhā śaraṇāgatiḥ

人を究極的に主の献身者に導くような宗教原則だけを受け入れるのが献身奉仕の過程である。社会的階級の地位に従って定められた職業的義務を遂行しても、クリシュナ意識に到達できなければ、その努力は全く無駄である。私たちをクリシュナ意識の最高段階に導かないものを受け入れてはならない。いかなる状況にあってもクリシュナがあらゆる困難から救ってくださると確信すべきである。自分の体と魂をどのように維持しようかなどと考える必要はない。クリシュナが維持して下さるのである。自分は無力な存在であり、人生を向上させるのはクリシュナの慈悲によるしかないと常に考えるべきである。完全なクリシュナ意識で真剣に主に献身奉仕を捧げる人は、ただちに物質自然の汚れから解放される。知識の素養や神秘的ヨーガ体系の瞑想などによる様々な宗教の過程や浄化儀式が存在するが、クリシュナに服従するだけで、そのように時間を浪費する必要がなくなる。クリシュナに服従すればただちに向上することができ、全ての罪の報いから解放されるのである。

私たちはクリシュナの美しい姿に魅力を感じるべきである。クリシュナは完全に魅力的なのでクリシュナと呼ばれる。美しく力に満ちた全能の主であるクリシュナの姿に魅惑される人は幸福である。様々な超越主義者がいて、非人格的ブラフマンの様相に関心を持つ者や、スーパーソウルの様相に関心を持つ者もいる。しかしバガヴァーンの人格的様相に、とりわけバガヴァーンをクリシュナ御自身として関心を持つ者は最も完全な超越主義者である。つまり完全な意識でクリシュナに献身奉仕することが最も内密な知識であり、『バガヴァッド・ギーター』の最重要点である。カルマ・ヨーギー、経験的哲学者、神秘主義者や献身者は全て超越主義者と呼ばれるが、純粋な献身者が最高の超越主義者である。特にマー・シュチュハという語は「恐れるな、躊躇するな、心配するな」という意味で非常に重要である。全ての宗教を放棄し、ただクリシュナに服従することについて混乱するかも知れないが、そのような心配は無駄である。

テキスト

idaṁ te nātapaskāya
nābhaktāya kadācana
na cāśuśrūṣave vācyaṁ
na ca māṁ yo ’bhyasūyati

Synonyms

idam — これ; te — あなたによって; na —決して~ない; atapaskāya — 苦行しない者; na —決して~ない; abhaktāya — 献身者ではないものに; kadācana — どんなときでも; na —決して~ない; ca — もまた; aśuśrūṣave — 献身奉仕を行うものに; vācyam — 語られるべき; na —決して~ない; ca — もまた;mām — 私に対して; yaḥ — ~であるものは誰でも; abhyasūyati — 妬む

Translation

謹厳でない者、献身的でない者、献身奉仕を行わない者や私を妬む者にはこの内密な知識が説明されることはない。

Purport

宗教過程の謹厳生活を行ったことのない者、クリシュナ意識で献身奉仕を行ったことのない者、純粋な献鯵身者に仕えたことのない者や、特にクリシュナを単に歴史上の人物ととらえたりクリシュナの偉大さを妬む者に対して、この最も内密な知識を伝えてはならない。しかし、ときに見かけられるように、クリシュナを妬む悪魔でさえも異なった方法でクリシュナを崇拝し、また商売として『バガヴァッド・ギーター』に関して異なった講義を行う場合もある。しかし実際にクリシュナを理解しようと望む人は『バガヴァッド・ギーター』のそのような解釈に耳を傾けてはならない。『バガヴァッド・ギーター』の要旨は感覚に左右される者には理解不可能である。たとえ感覚に左右されずヴェーダに定められている原則に従っていたとしても、献身者でなければクリシュナを理解することはできない。献身者として表面的に振る舞っていてもクリシュナ意識の活動をしていなければ、クリシュナを理解することはできない。『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナが至上者であり、クリシュナより優れる者も同等な者もいないと主御自身が説明されたのでクリシュナを妬む者が多数いる。そのような人に『バガヴァッド・ギーター』を語るべきではない。なぜなら彼らには理解できないからである。信念のない人が「バガヴァッド・ギーター』やクリシュナを理解することは不可能である。純粋な献身者の権威に基づいてクリシュナを理解していない限り、『バガヴァッド・ギーター』の解釈をしてはならない。

テキスト

ya idaṁ paramaṁ guhyaṁ
mad-bhakteṣv abhidhāsyati
bhaktiṁ mayi parāṁ kṛtvā
mām evaiṣyaty asaṁśayaḥ

Synonyms

yaḥ — であるものは誰でも; idam — この; paramam — 最も; guhyam— 内密な神秘; mat — 私の; bhakteṣu — 献身者の間で; abhidhāsyati — 説明する; bhaktim — 献身奉仕; mayi — 私に; parām — 超越的な; kṛtvā —行って; mām — 私に; eva — 必ず; eṣyati — 来る;asaḿśayaḥ — 疑いもなく

Translation

この至上の神秘を献身者に説明する者には純粋な献身奉仕が保証され、そのような者は最終的に私のもとに帰ることができる。

Purport

一般に『バガヴァッド・ギーター』の議論は献身者の間ですることが薦められている。非献身者はクリシュナも『バガヴァッド・ギーター』も理解できないからである。クリシュナや『バガヴァッド・ギーター』をありのままに受け入れない者が『バガヴァッド・ギーター』の恣意的な解説をしてはならない。侮辱になるからである。『バガヴァッド・ギーター』はクリシュナをバガヴァーンとして受け入れる人にだけ説明されるべきである。『バガヴァッド・ギーター』は献身者のためのものであり、哲学者の思索のためのものではない。しかし『バガヴァッド・ギーター』をありのままに提示しようとする者は、献身的活動の中で向上し、純粋な献身奉仕の段階に到達する。純粋な献身奉仕の糖采として、そのような献身者は本来の故郷バガヴァーソのもとに帰ることができる。

テキスト

na ca tasmān manuṣyeṣu
kaścin me priya-kṛttamaḥ
bhavitā na ca me tasmād
anyaḥ priya-taro bhuvi

Synonyms

na —決して~ない; ca — もまた; tasmāt — 彼よりも; manuṣyeṣu — 人々に中で; kaścit — 誰も; me — 私に; priya-kṛt-tamaḥ— もっと愛しい bhavitā — ~になるだろう; na — ~もまた~でない; ca — そして;me — 私に; tasmāt — 彼よりも; anyaḥ — 他の者;priya-taraḥ — もっと愛しい; bhuvi — この世界で

Translation

そのような献身者ほどこの世界で私にとって愛しい者はいない。現在においても、未来においてもそのような者が私には最も愛しい

テキスト

adhyeṣyate ca ya imaṁ
dharmyaṁ saṁvādam āvayoḥ
jñāna-yajñena tenāham
iṣṭaḥ syām iti me matiḥ

Synonyms

adhyeṣyate — 学ぶであろう; ca — もまた; yaḥ — ~である人は; imam —この; dharmyam — 神聖な; saḿvādam — 会話;āvayoḥ — 私たちの; jñāna — 知識の; yajñena — 供犠によって; tena — 彼によって; aham — 私; iṣṭaḥ — 崇拝した;syām — ~だろう; iti — このように; me — 私の; matiḥ — 意見

Translation

そして私はこの神聖な会話を学ぶ者を、知性により私を崇拝する者と宣言する。

テキスト

śraddhāvān anasūyaś ca
śṛṇuyād api yo naraḥ
so ’pi muktaḥ śubhāḻ lokān
prāpnuyāt puṇya-karmaṇām

Synonyms

śraddhā-vān — 誠実な; anasūyaḥ — 妬まない; ca — そして;śṛṇuyāt — 聞く; api — 確かに; yaḥ — ~である人; naraḥ — 人; saḥ —彼; api — もまた; muktaḥ — 解放されて;śubhān — 吉兆な; lokān —惑星; prāpnuyāt — 彼は到達する; puṇya-karmaṇām — 敬虔な者たちの

Translation

妬みを持たず信念を持って聞く者は、罪の報いから解放され、敬虔な者たちが住む吉兆な惑星に到達する。

Purport

第18章第67節で主を妬む人に『バガヴァッド・ギーター』を語るべきでないと主が禁じられた。つまり『バガヴァッド・ギーター』は献身者だけのものである。しかし主の献身者が公開講座を開いて、献身者でない人も講座に出席する場合もある。なぜそのような公開講座が開かれるのであろうか。ここで説明されているように、全ての人が献身者でないにしても、クリシュナを妬まずバガヴァーンに信念を持っている人も多数存在する。そのような人が正統な献身者から主について聞けば、その結果として彼らはただちに罪の報いから解放され、その後敬虔な人々の住む惑星系に到達する。『バガヴァッド・ギーター』を聞くだけで、純粋な献身者になろうとしない人でさえ敬虔な活動の結果を達成することができる。このように、純粋な献身者になろうとしない人でさえ敬虔な活動の結果を達成することができる。このように、純粋な献身者はあらゆる人々を全ての罪の報いから解放し、人々に主の献身者になる機会を与えるのである。

一般に、罪の報いから解放された者と敬虔な者は、容易にクリシュナ意識を受け入れることができる。ここでプンニャ・カルマナーンという語が重要であり、ヴェーダ文典に記述されているアシュヴァメーダ・ヤグニャのような大供儀を行うことをこの語は意味する。純粋ではないが献身奉仕を行う敬虔な者は、ドゥルヴァ・マハラージの住むドゥルヴァローカすなわち北極星に到達する。ドゥルヴァ・マハラージは主の偉大な献身者であり、彼は自分の惑星を持っていて、それが北極星である。

テキスト

kaccid etac chrutaṁ pārtha
tvayaikāgreṇa cetasā
kaccid ajñāna-sammohaḥ
praṇaṣṭas te dhanañ-jaya

Synonyms

kaccit — ~かどうかはetat —これ; śrutam — 聞いた; pārtha — おお、プリターの息子よ; tvayā — あなたによって; eka-agreṇa — よく注意して; cetasā — 心によって; kaccit —~かどうかajñāna — 無知な; sammohaḥ — 幻想; praṇaṣṭaḥ — 掃されたte — あなたのdhanañjaya — 富の征服者(アルジュナ)よ

Translation

おおプリターの子よ、富の征服者よ、心を集中して聞いたか。おまえの無知と幻想は今や消え去ったか。

Purport

主はグルとしてアルジュナを指導していらっしゃるので、『バガヴァッド・ギーター』を正しく理解したかどうかアルジュナに聞くのは主の義務であった。理解不充分な点があ
ればそれについて、さらに必要ならば全『バガヴァッド・ギーター』ついて主は再び説明しようとなさっていた。クリシュナやクリシュナの代表者である正統なグルから『バガヴァッド・ギーター』を聞く人は無知を全て消すことができる。『バガヴァッド・ギーター』は詩人や作家が創作したような普通の著作唖物ではなく、バガヴァーン御自身が語られた教典である。クリュナやクリシュナの正統な代表者から幸宕信して『バガヴァッド・ギーター』を聞いた人は解放を与えられ、無知の闇から自由になることには疑いの余地はない。

テキスト

arjuna uvāca
naṣṭo mohaḥ smṛtir labdhā
tvat-prasādān mayācyuta
sthito ’smi gata-sandehaḥ
kariṣye vacanaṁ tava

Synonyms

arjunaḥ uvāca — アルジュナ言った; naṣṭaḥ — 消え去った; mohaḥ — 幻想; smṛtiḥ — 記憶; labdhā — 再び得た; tvat-prasādāt— あなたの慈悲によって; mayā — 私によって; acyuta — お、誤つことなきクリシュナよ; sthitaḥ — ~の状態にある; asmi — 私は; gata — 取り除かれた;sandehaḥ — 全ての疑い; kariṣye — 私は実行します; vacanam — 指示; tava — あなたの

Translation

アルジュナは言った。――おお過つことなき御方クリシュナよ、私の幻想は今消え去りました。御身の慈悲により私の記憶は甦りました。私は疑いも揺らぐこともありません。御身の教えに従って行動いたします。

Purport

アルジュナを代表とする全生命体の本来の性質は、至上主の命令に従って行動することであり、生命体は自らを律しなければならない。生命体の本来の立場は至上主の永遠の僕であると、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは言われた。この原則を忘れないために生命体は物質自然に束縛されている。しかし主に仕えるなら、生命体は神の解放された僕となる。生命体の本来の立場は奉仕することであり、生命体は幻想的マーヤーか至上主のいずれかに奉仕しなければいけない。至上主に奉仕する生命体は正常な状態にあり、幻想的外的エネルギーに奉仕する生命体はかならず束縛されなければならない。生命体は幻想の中でこの物質界に奉仕している。そのような生命体は様々な欲望に束縛されているのにも拘わらず、自らが世界の支配者であると考えている。解放された人はそのような幻想を持たず、自らの望みに従い至上主に自発的に服従する。生命体が自らを神であると考えるのは生命体を捕えるマーヤーの最後の幻想的罠によるものである。そのようにして生命体は自分が束縛された魂ではなく神であると考えるようになる。そのような者たちは知性を失っていて、もし神ならばいかなる物にも疑問がなく何事にも惑わされないはずであるが、自分がはたしてそのような状態であるのか考えようとしない。それがマーヤーの最後の罠である。幻想エネルギーから解放されるとは、バガヴァーン、クリシュナを理解して主の命令に従って行動することである。

この節でモーハという語が重要である。モーハとは知識に反するものという意味である。真の知識とは全生命体が主の永遠の僕であると理解することである。しかし物質自然に対する支配欲があるために、生命体は自分がそのような立場にあると考えず、自分が世界の支配者であると考える。主や純粋な献身者の慈悲によりこの幻想を克服することが可能となり、その幻想が消え去ればクリシュナ意識で行動することができる。

クリシュナ意識とはクリシュナの命令に従って行動することである。束縛された魂は物質の外的エネルギーに幻惑されて、至上主が全てを知り、全てを所有していらっしゃる支配者であると理解することができない。主の望むものを主は献身者に与えられる。主は全ての者の友であり、特に献身者に関心を持っていらっしゃる。主がこの物質自然と全生命体の支配者でいらっしゃる。また主は尽きることのない時間の支配者で、全ての富と全てのエネルギーをお持ちである。バガヴァーンは御自身さえも献身者にお与えになる。主を知らない者は幻想に呪縛されマーヤーの僕となり、献身者になることができない。しかしアルジュナはバガヴァーンから『バガヴァッド・ギーター』を聞いた後全ての幻想から解放された。アルジュナはクリシュナが単に自分の友であるばかりでなく、バガヴァーンでいらっしゃると理解できた。彼はこのようにクリシュナを実際に理解したのだ。『バガヴァッド・ギーター』を学ぶことはクリシュナを実際に理解することである。完全に知識を持つ人は自然にクリシュナに服従するようになる。人口の不必要な増加を抑えることがクリシュナの望みであると理解したアルジュナは、主の望みに従って戦う決意を固め、再び弓矢を取りバガヴァーンの命令の下に戦うのであった。

テキスト

sañjaya uvāca
ity ahaṁ vāsudevasya
pārthasya ca mahātmanaḥ
saṁvādam imam aśrauṣam
adbhutaṁ roma-harṣaṇam

Synonyms

sañjayaḥ uvāca — サンジャヤ言った; iti — このように; aham —私;vāsudevasya — クリシュナの; pārthasya — そしてアルジュナ; ca — もまた;mahā-ātmanaḥ — 偉大な魂の; saḿvādam — 会話;imam — この; aśrauṣam — 聞いた; adbhutam — すばらしい; roma-harṣaṇam — 毛を逆立たせる

Translation

サンジャヤは言った。――私はこのようにクリシュナとアルジュナの2人の偉大な魂の会話を聞きました。それがあまりに素晴らしいゆえ私の髪は逆立っています。

Purport

『バガヴァッド・ギーター』の最初の部分でドゥリタラーシュトラは秘書のサンジャヤにクルクシェートラの戦場で何が起こったか尋ねた。そこで出来事全てが彼のグルであるヴャーサの恩寵によりサンジャヤのハートに伝えられ、そのようにして彼は戦場での出来事を説明することができた。二人の偉大な魂の会話はこれが最初でありおそらく最後となるので、素晴らしいものとなった。バガヴァーンが主の偉大な献身者のアルジュナに御自身と御自身のエネルギーについて語られたので、素晴らしい会話なのである。私たちがアルジュナの足跡に従ってクリシュナを理解すれば、私たちの人生は完成し幸福に満ちたものとなる。サンジャヤはそれを悟ったのである。それを理解するとともに彼はその会話をドゥリタラーシュトラに語り、クリシュナとアルジュナがいるところには必ず勝利があると結論を下した。

テキスト

vyāsa-prasādāc chrutavān
etad guhyam ahaṁ param
yogaṁ yogeśvarāt kṛṣṇāt
sākṣāt kathayataḥ svayam

Synonyms

vyāsa-prasādāt — ヴャーサデーヴァの慈悲によって; śrutavān — 聞いた; etat — この; guhyam — 内密な; aham —私;param — 至上の; yogam — 神秘主義; yoga-īśvarāt — 全ての神秘主義の支配者から; kṛṣṇāt — クリシュナから; sākṣāt— 直接に; kathayataḥ — 語って; svayam — 個人的に

Translation

全神秘主義者の支配者クリシュナがアルジュナに直接語られた最も内密な言葉を、私はヴャーサの慈悲により直接聞くことができました。

Purport

ヴャーサはサンジャヤのグルであった。そしてヴャーサの慈悲によりバガヴァーンを理解したというサンジャヤの言葉は、人はクリシュナを直接理解するのではなくグルを通じて理解すべきであるということを意味している。体験は確かに直接的なものであるが、グルは透明な媒体である。これが師弟継承の神秘である。グルが正統ならば、弟子はアルジュナが聞いた『バガヴァッド・ギーター』をありのまま直接に聞くことができる。神秘主義者やヨーギーは全世界に多数存在するが、クリシュナが全ヨーガ・システムの支配者でいらっしゃる。「クリシュナに服従せよ」というクリシュナの教えは『バガヴァッド・ギーター』の中に明確に語られている。それに従う者は第6章の最後の部分でも確認できるように最高のヨーギーである。

ヴャーサはサンジャヤのグルであった。そしてヴャーサの慈悲によりバガヴァーンを理解したというサンジャヤの言葉は、人はクリシュナを直接理解するのではなくグルを通じて理解すべきであるということを意味している。体験は確かに直接的なものであるが、グルは透明な媒体である。これが師弟継承の神秘である。グルが正統ならば、弟子はアルジュナが聞いた『バガヴァッド・ギーター』をありのまま直接に聞くことができる。神秘主義者やヨーギーは全世界に多数存在するが、クリシュナが全ヨーガ・システムの支配者でいらっしゃる。「クリシュナに服従せよ」というクリシュナの教えは『バガヴァッド・ギーター』の中に明確に語られている。それに従う者は第6章の最後の部分でも確認できるように最高のヨーギーである。

『バガヴァッド・ギーター』ではカルマ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガと全ヨーガ体系が説明された。クリシュナがそのような全ての神秘主義の支配者でいらっしゃる。しかし私たちが理解すべきことは、アルジュナが幸福にもクリシュナを直接理解できたように、サンジャヤもまたヴャーサの慈悲によりクリシュナを直接聞くことができたことである。クリシュナから直接聞くことと、ヴャーサのような正統なグルから聞くことには全く違いがない。グルはまたヴャーサデーヴァの代表者でもある。それゆえグルの降誕日に弟子はヴャーサ・プージャ儀式を行うようヴェーダで指示されている。

テキスト

rājan saṁsmṛtya saṁsmṛtya
saṁvādam imam adbhutam
keśavārjunayoḥ puṇyaṁ
hṛṣyāmi ca muhur muhuḥ

Synonyms

rājan — お王よ; saḿsmṛtya — 思い返して; saḿsmṛtya —思い返して; saḿvādam — 会話; imam — この;adbhutam — すばらしい; keśava — 主クリシュナの; arjunayoḥ— そしてアルジュナ; puṇyam —敬虔な; hṛṣyāmi — 私は喜びを味わっている; ca — もまた; muhuḥ muhuḥ — 何度も何度も

Translation

おお王よ、クリシュナとアルジュナの驚くべき聖なる会話を思い返すたびに、私は身震いするほど喜びを味わいます。

Purport

『バガヴァッド・ギーター』を理解することは非常に超越的なので、アルジュナとクリシュナの話題に精通する者は正しい人となり、アルジュナとクリシュナの会話が忘れられなくなる。これが精神生活の超越的立場である。つまり正しい権威者であるクリシュナから『バガヴァッド・ギーター』を聞くならば、完全にクリシュナ意識が得られる。クリシュナ意識を得た人は常に絶え間ない啓発を受け、毎瞬間人生を楽しむことができる。

テキスト

tac ca saṁsmṛtya saṁsmṛtya
rūpam aty-adbhutaṁ hareḥ
vismayo me mahān rājan
hṛṣyāmi ca punaḥ punaḥ

Synonyms

tat — それ; ca — もまた; saḿsmṛtya — 思い出して;saḿsmṛtya — 思い出して; rūpam — 姿; ati — 非常に;adbhutam — すばらしい; hareḥ — 主クリシュナの; vismayaḥ — 驚き; me — 私の; mahān — 偉大な; rājan — お王よ; hṛṣyāmi— 私は喜んでいる; ca — もまた; punaḥ punaḥ — 何度も何度も。

Translation

おお王よ、クリシュナの素晴らしい姿を思い出すたびに私はさらに驚きに打たれます。

Purport

アルジュナに示されたクリシュナの宇宙体をサンジャヤもヴャーサの慈悲により見たことがうかがえる。もちろん主クリシュナがそのような姿を以前示されたことはないと言われている。宇宙体はアルジュナだけに示されたのだが、そのとき偉大な献身者の中にはクリシュナの宇宙体を見た者がいて、ヴャーサもそのうちのひとりであった。ヴャーサは主の偉大な献身者で、クリシュナの強力な化身とされている。ヴャーサはそのクリシュナの姿を弟子のサンジャヤに示した。そしてサンジャヤはクリシュナの素晴らしい姿を思い出して幾度も喜びを得ているのである。

テキスト

yatra yogeśvaraḥ kṛṣṇo
yatra pārtho dhanur-dharaḥ
tatra śrīr vijayo bhūtir
dhruvā nītir matir mama

Synonyms

yatra — ~であるところに; yoga-īśvaraḥ — 神秘主義の支配者;kṛṣṇaḥ — 主クリシュナ; yatra — ~であるところに; pārthaḥ — プリターの息子; dhanuḥ-dharaḥ — 弓矢を持つ者;tatra — そこに; śrīḥ — 富; vijayaḥ — 勝利; bhūtiḥ — 非凡な力; dhruvā — 確かに; nītiḥ — 道徳性; matiḥmama — 私の意見

Translation

全神秘主義の支配者クリシュナと至上の射手アルジュナが居る所には富、勝利、非凡な力、道徳性が間違いなく存在します。これが私の意見です。

Purport

『バガヴァッド・ギーター』はドゥリタラーシュトラの質問で始まった。ドゥリタラーシュトラはビーシュマやドローナやカルナなど偉大な戦士に支援された自分の息子たちの軍が勝利を納めると思っていた。しかし戦場の様子を語った後「王は勝利できるとお考えのようでしたが、クリシュナとアルジュナがいらっしゃる所には常に幸運が待っているというのが私の意見です」とサンジャヤはドゥリタラーシュトラ王に言った。サンジャヤはドゥリタラーシュトラの勝利は期待できないと直接宣言したのであった。クリシュナが付いていらっしゃるアルジュナ側の勝利は確実であった。クリシュナがアルジュナの御者を務められたのはさらにひとつの富の現われである。クリシュナは富に満ちていらっしゃり、放棄もその富のひとつである。クリシュナは放棄の支配者でもいらっしゃるので、そのような放棄の例は他に多数存在する。

戦争は実際にドゥルヨーダナとユディシュティラの間のものであった、アルジュナは兄のユディシュティラ側に参加していた。クリシュナとアルジュナがユディデュティラについていたので、彼の勝利は確実であった。誰が世界を支配するかを決定する戦争であった。そしてサンジャヤは支配権はユディシュティラに移されると予言した。ユディシュティラは正義を貫き敬虔であったのみならず、生涯嘘をつかない厳格な道徳家であったので、サンジャヤは彼が戦争で勝利を納めた後ますます繁栄するとも予言している。

知性のない人々には『バガヴァッド・ギーター』が戦場での2人の友の会話であると考えている者が多くいるが、2人の友の会話は経典たりえない。クリシュナがアルジュナに戦うように煽動したことは不道徳であると主張する者もいる。しかし実際のところは、明らかに述べられているように、『バガヴァッド・ギーター』は道徳に関する至上の教えである。至上の道徳的教示が第9章第34節に述べられている。人はクリシュナの献身者になるべきであり、全宗教の精髄はクリシュナに服従することである。『バガヴァッド・ギーター』の教えが道徳と宗教の至上のプロセスである。その他の全プロセスは人を浄化してその至上のプロセスに導く作用を持つかも知れないが、『バガヴァッド・ギーター』の最終的教示はクリシュナに服従することであり、それが全宗教と道徳の最終結論であり、第18章の結論である。

『バガヴァッド・ギーター』から理解できるように、哲学的思索や瞑想により自己を悟るのもひとつの方法であるが、完全にクリシュナに服従することが最高の完成である。これが『バガヴァッド・ギーター』の教えの精髄である。社会生活上の規定原則に従う道や様々な宗教の規定原則に従う道も内密な知識の道ということができる。宗教儀式も内密なものであるが、瞑想や知識の素養はさらに内密である。完全なクリシュナ意識でクリシュナに服従することが最も内密な教えである。これが第18章の精髄的知識である。

『バガヴァッド・ギーター』のいまひとつの主要点は実際の真理がバガヴァーン、クリシュナであることである。絶対真理には非人格的ブラフマン、局所的パラマートマー、究極的にクリシュナという3様相がある。絶対真理の完全な知識とはクリシュナの完全な知識を意味する。クリシュナを理解するならば、全分野の知識がクリシュナの理解の中に含まれる。クリシュナは内的エネルギーの中にいらっしゃるので常に超越的でいらっしゃる。主のエネルギーから出現した生命体には永遠に束縛された者と永遠に解放された者という2種類が存在する。生命体は無数存在し、クリシュナの部分とされている。物質的エネルギーは24の要素に分類される。物質宇宙は永遠なる時間に影響され、外的エネルギーにより創造維持され、繰り返し出現消滅する。

『バガヴァッド・ギーター』ではバガヴァーン、物質自然、生命体、永遠なる時間、全活動という5主題が語られたが、それらの主題は全てバガヴァーン、クリシュナに依存している。非人格的ブラフマン、局所的パラマートマーやその他の超越的概念はバガヴァーンの理解の中に存在する。表面的にはバガヴァーン、生命体、物質自然、時間は別のものに見える。至上主から離れて存在するものはないが、しかし常に至上主は全てのものに対して不同の存在でいらっしゃる。主チャイタンニャは不可知、同一不同の哲学を説かれた。この哲学体系が絶対真理に関する完全な知識である。

生命体は本来の立場では純粋精神であり、至上精神の極微部分である。主クリシュナは太陽に、生命体は太陽光線に例えられる。生命体はクリシュナの中間エネルギーなので、物質エネルギーと精神エネルギーの中間に位置する。生命体は主の上位エネルギーに属するので僅かな独立性を持つ。その独立性を正しく使えば生命体はクリシュナの直接命令に従うようになり、そのとき生命体は喜与エネルギーとして正常な状況に到達する。

以上。『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第18章“結論・・・放棄の完成”に関するバクティヴェーダンタの解説は終了。