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第16章

神聖な質と悪魔的な質

テキスト

シュリ-バガワン ウワチャ
アバヤマ サトオワ-サマシュデエr
ジャナナ-ヨガ-ヰヤワストイテエハ
ダナマ ダマsh チャ ヤジャナsh チャ
スワダヤヤs タパ アrジャワン
アヒマサ サタヤン アカロダs
タヤガハ シャンテエr アパイシュナン
ダヤ ブテシュw アロルプトオワマ
マrダワマ hリr アチャパラン
テジャハ クシャマ ダrテエハ シャウチャン
アドロホ ナテエ-マニタ
バワンテエ サンパダマ ダイヰン
アビジャタシャヤ バラタ

Synonyms

śrī-bhagavān uvāca — バガヴァーンは言ったabhayam — 無恐怖; sattva-saḿśuddhiḥ — 自らの存在を浄化することjñāna — 知識で; yoga— 結び付ける; vyavasthitiḥ — 立場; dānam — 布施; damaḥ — 心を支配すること; ca —そして; yajñaḥ — 供犠; ca — そして; svādhyāyaḥ — ヴェーダ文典を学ぶこと; tapaḥ — 苦行; ārjavam —質素であること;ahiḿsā — 非暴力; satyam — 誠実さ; akrodhaḥ — 怒らないこと; tyāgaḥ — 放棄; śāntiḥ — 平静; apaiśunam — 他人の欠点をとがめること; dayā — 慈悲; bhūteṣu — 全ての生命体に対して; aloluptvam — 貪欲でないこと; mārdavam — 温和; hrīḥ — 謙虚さ; acāpalam —決意; tejaḥ — 活発さ; kṣamā— 寛容; dhṛtiḥ — 不屈の精神; śaucam — 清潔さ;adrohaḥ — 妬みのないこと; na —~でない; ati-mānitā — 名誉欲; bhavanti — ~である; sampadam — 質; daivīm — 超越的な性質; abhijātasya — ~から生まれた人の; bhārata — バーラタの息子よ

Translation

バガヴァーンは語られた。――無恐怖、自らの存在を浄化すること、精神的知識の養成、布施、自己抑制、供儀、ヴェーダ学習、謹厳生活、質素であること、非暴力、誠実さ、怒らぬこと、離欲、平静、他人を咎めだてぬこと、生き物全てに哀れみの情を持つこと、羨望せぬこと、温和であること、謙虚さ、揺るがぬ決意を持つこと、活発さ、寛容、不屈の精神、清潔さ、嫉妬や名誉心がないこと、このような超越的な性質は神聖な質を持つ神聖な人々のものである。

Purport

第15章の最初の部分では、この物質界のバニヤン樹について説明があった。その気の根は生命体の活動に例えられ、その中には吉兆なものも不吉なものもある。また第9章ではデーヴァすなわち神聖な者とアスラすなわち悪魔について説明されていた。ヴェーダ儀式によれば、徳の様式の活動は解放への道を進む上で有利であり、そのような活動はダイヴァ・プラクリティすなわち本質的に超越的であるとされている。これら超越的な性質を持つ人々は解放の道を向上していく。一方、激情と無知の様式の支配下で活動している人々は解放を達成する可能性はない。そのような人々はいつまでも人間としてこの物質界に留まるか、もしくは動物やその他のより低い生命形態をとってここに留まらなければならない。この第16章において、主は超越的な資質とそれに付随する諸性質、そして悪魔的資質とその諸性質について、またそれらの諸性質の長所短所についても説明して下さる。

超越的な性質すなわち神聖な性向を持って生まれた人を意味するアピジャータスヤという語は大きな意味を持つ。神聖な環境で子供をもうけることはヴェーダ文典ではガルバーダーナーサンスカーラと呼ばれていて、神聖な性質の子をもうけようと思う両親は人間の社会生活のために設定されたこの10の原則に従うことが必要である。『バガヴァッド・ギーター』で私たちが学んだように、そのような子をもうけるために行う性生活はクリシュナ自身である。つまりクリシュナ意識のもとでの性生活は禁止する必要がないのである。クリシュナ意識の人ならば、少なくとも、子供を犬猫同様にもうけるべきではない。そのようにクリシュナ意識に没頭している父母に生まれる子供は非常に恵まれている。

社会生活を社会生活上の4区分と職業生活上の4区分すなわちカーストに分類する社会制度であるヴァルナーシュラマ・ダルマは、人間社会を家柄によって差別するのではなく、教育条件や資質によって区別するものであり、この制度により人間社会の平和と繁栄を保つことができるのであるここで述べられている性質とは物質界からの解放を得るための精神的理解を助けるための超越的性質のことである。

ヴァルナーシュラマ制度においては、サンニャーシーすなわち放棄階級にある人全ての社会的地位や階級にいる人々の上に位置し、彼らのグルであるとされている。ブラーフマナは社会上の他の3区分すなわちクシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラに属する人々のグルであるが、社会制度の最上位にあるサンニャーシーはブラーフマナのグルでもあるとされている。サンニャーシーとしての第1の資格は恐れないことである。なぜならサンニャーシーは何の援助もなく扶養してくれる人も持たず、常に独りでいなければならないので、バガヴァーンの慈悲にのみ依存しなければならないからである。「全ての人間関係を捨ててしまえば、誰かが私を保護してくれるだろう」と考えるようなら放棄階級を受け入れるべきではない。クリシュナすなわちパラマートマーとして知られているバガヴァーンの局所的様相が常に私たちの内にいらっしゃり、全てを御覧になっていて、そして私たちの望みを全て常に知っていらっしゃるので、パラマートマーとしてのクリシュナが服従した魂を維持して下さると固く確信していなければならない。「私はひとりになることは決してない。森の深く暗いところにいたとしてもクリシュナがともにいて守って下さる」と私たちは思うべきなのである。この固い信念が無恐怖(アバヤン)であり、この心理状態は放棄階級の人にとって必要不可欠である。

次に、自分を浄化することが必要である。放棄階級には遵守すべき規定原則が数多く存在する。最も重要なことは、サンニャーシーが女性とはいかなる親密な関係を持つことも厳格に禁じられていることである。他の人がいない場所では、女性と言葉を交わすことさえ禁じられているのである。理想的サンニャーシーでいらっしゃった主チャイタンニャがプーリーに滞在していらっしゃったとき、女性の献身者は尊敬の礼を捧げるために近づくことさえできなかった。遠くの方から礼を捧げることが女性献身者には奨励されていたのだった。これは女性蔑視ではなく、サンニャーシーが女性と親しむべきではないという厳格な戒律を主は遵守されたからであった。浄化のためには社会的地位に応じて規定された原則に従うことが必要とされる。サンニャーシーにとっては、女性と親交すること及び感覚満足の富を所有することは厳禁されている。模範的サンニャーシーでいらした主チャイタンニャの生涯をみれば、主がいかに女性に関して厳格でいらっしゃったか理解することができる。主は最も堕落した者たちを受け入れられ、バガヴァーンの最も寛大な化身でいらっしゃるのだが女性に関してはサンニャース階級の規定原則に厳格に従われた。主の献身者のひとりであるチョータ・ハリダースは他の親密な献身者とともに主チャイタンニャと交際していたのだが、どういうわけか若い女性を欲望の目差しで見つめてしまった。すると主チャイタンニャは非常に厳格でいらっしゃったのでチョータ・ハリダースを交際者の中から追放されたのだった。「サンニャーシーや物質界の鎖から脱出して精神界に昇りバガヴァーンのみもとに帰ろうと願う人にとって、物や女性を実際に楽しまなくても、ただ欲の目で見るだけでも重大な誤ちである。そのような者はそんな不法を犯す前に自殺した方がまだよい」と主チャイタンニャは言われた。これがそのための心身浄化としてなすべきことである。

次の項目はギャーナ・ヨーガ・ヴャヴァスティティすなわち常に知識を素養することである。サンニャーシーの生活は、世帯者やその他に精神的向上のための真の生活を忘れている人々に知識を施すためにある。サンニャーシーは自らの食を一軒一軒乞い歩くことになっているが、これはサンニャーシーが乞食であるという意味ではない。超越的な人が持つべき資格のひとつが謙虚さであり、サンニャーシーが一軒一軒謙虚に訪ねるのは食物を乞うためばかりではなく、正確には世帯者に会い彼等のクリシュナ意識を目覚めされるためのものである。これがサンニャーシーの義務なのである。実際には精神的に高い段階にいて、グルからの命令を受けているならば、クリシュナ意識を論理と理解を持って説教しなければならない。また精神的にさほど高い段階にいない人は放棄階級を受け入れるべきではないが、もし十分な知識を持たずに放棄階級受け入れたのなら正統なグルから十分に聴聞して知識を培わなければならない。サンニャーシーすなわち放棄階級にある人は必ず無恐怖、サットワシュッディ(純粋性)、ギャーナ・ヨーガ(知識)の段階にいなければならないのである。

次の項目は布施であり、これは世帯者に要求されるものである。世帯者は道義に適した手段で生計を立て、その収入の半分をクリシュナ意識を広めるために費やすべきである。この目的に沿う団体に世帯者は布施すべきである。誰にするかが問題となる。後で説明するように、徳の様式、激情の様式、無知の様式の布施がある。教典では徳の様式の布施が奨励されているが、無知、激情の様式のものは勧められていない。なぜならそれらは金銭の浪費にすぎないからである。あくまで布施はクリシュナ意識を世界中に広めるためのものでなければならない。それが徳の様式の布施である。

ダマ(自己抑制)については、特に世帯者にとって必要な項目である。妻帯していたとしても、不必要な性生活を行うべきではない。世帯者に関して性生活に関しても規制があり、子孫を増やす目的の性生活だけが認められている。もし子供を望まないなら、妻との性生活を行うべきではない。現代社会では、子供を産み育てる責任を避けるために避妊やその他言語道断の方法が用いられているが、それは超越的性質ではなく、悪魔的な性質である。世帯者であったとしても精神的向上を望むならば、性生活を抑制しクリシュナに仕える以外の目的で子供をもうけてはならない。将来クリシュナ意識になる子供を生めるのなら、何百人でも子供をもうけてもよいが、その自信がないのなら、単に性的満足のためだけの性生活に溺れてはならない。

供儀を行うためには、かなりの財力が必要なので供儀もまた世帯者が行うべき項目である。他の階級すなわちブラフマチャーリー、ヴァーナプラスタ、サンニャーシーに属する人々は全く金銭を持たず物乞いによって生計を立てている。したがい様々な供養は世帯者が行うものとなっている。世帯者はヴェーダ文典で命ぜられているアグニ・ホートラ供儀を行わなければならないのだが、現代にこうした供儀を行うためには莫大な費用が必要とされるので、実際のところ世帯者がそれを行うのは不可能である。この時代に勧められている最も適切な供儀はサンキールタン・ヤギャと呼ばれ、これは「ハレー・クリシュナ・ハレー・クリシュナ・クリシュナ・クリシュナ・ハレー・ハレー/ハレー・ラーマ・ハレー・ラーマ・ラーマ・ラーマ・ハレー・ハレー」を唱えることで、最高の供養であるとともに最も費用のかからない供養である。それゆえ誰もがその犠牲を行い、その恩恵に浴することができる。以上の3項目、すなわち布施、感覚抑制、供養の遂行は世帯者に課せられたものである。

スワディーヤすなわちヴェーダ学習はブラフマチャーリャすなわち学生期の人に課せられた義務である。ブラフマチャーリャは決して女性と交際してはならず、禁欲生活の中で、精神的知識を培うためにヴェーダ文典の学習に心を集中すべきである。これがスワディーヤである。

タパスすなわち謹厳生活は隠遁生活に課せられている。人は一生を通じて世帯者でいるべきではなく、人間生活にはブラフマチャーリャ、グリハスタ、ヴァーナプラスタ、サンニャーシーの4区分があることを忘れてはならない。それゆえグリハスタすなわち世帯生活の後は隠遁しなければならないのである。もし百年の寿命があるとすれば、25年を学生生活として、次の25年を世帯者として、その後の25年を隠遁生活、最後の25年を放棄階級として過ごすべきである。これがヴェーダの命ずる宗教上の規則である。世帯生活を退いた人は、体と心と舌の謹厳生活を実行すべきであり、これがタパスヤである。ヴァルナーシュラマ・ダルマ社会全体は本来タパスヤのためにある。タパスヤを行わなければ解放を得ることは不可能である。謹厳生活を行う必要はなく、ただ思索を続ければ万事うまくいくという節はヴェーダ文典の中でも『バガヴァッド・ギーター』の中でも勧められていない。そのような説は見世物的な精神主義者が信者集めのために捏造したものである。様々な制度や規定原則があっては、一般の人々が関心を持たないため、宗教という名目で信者を集めようとする者たちは、一目を魅くことだけを行い、会員やそして自らの生活さえ厳しく制限することはない。しかしヴェーダではそのような方法は一切認められていないのである。

簡潔さというブラーフマナ的な性質に関しては、特定の段階にいる人ばかりではなくブラフマチャーリー・アーシュラム、グリハスタ・アーシュラム、ヴァーナプラスタ・アーシュラム、サンニャース・アーシュラムなどいずれの人もこれを守るべきである。人は簡素で率直、正直でなければならない。

アヒンサーとは、いかなる生物であったとしても、その生命の進歩するプロセスを阻止してはならないということである。精神魂は肉体が滅んだ後も滅ばないので、感覚満足のために動物を殺しても差し支えないと考えるのは誤りである。現在、穀物、果物、牛乳の供給が十分にあり動物を殺す理由は全くないにも関わらず、人は好んで動物を食べている。このアヒンサーは誰もが守るべきものである。他に方法がない場合には、動物を止むを得ず殺すこともあるが、必ずその動物を供養する中で捧げなければならないことになっている。いずれにせよ、精神的進歩を望む人は他に食物があるときは決して動物に暴力を行使してはならない。真のアヒンサーとは生命の進歩のプロセスを阻止してはならないという意味である。動物たちも様々な生命形態の間を転生しながら進化の過程をたどっていて、動物が殺されれば、その進化が阻害されてしまうのである。動物が寿命の尽きないうちに時ならず殺されてしまえば、他の形態に進化するためには残り期間をまたその形態にもどって過ごさなければならない。ゆえに単に人間の味覚を満足させるために、動物の進歩を阻止してはならない。これがアヒンサーである。

サテャムとは個人的利益のために真実を曲げてはならないということである。ヴェーダ文典には意味を理解するのが困難な個所もあるが、その真意や要旨は正統なグルから学ぶべきである。シュルティとは権威から聴聞するという意味であって、これがヴェーダを理解する方法である。現代、『バガヴァッド・ギーター』の原典を誤解釈した解説者が多数いるが、私たちは自分の利益のための解釈をしてはならない。私たちは言葉の真の意味を示すべきであり、そのためには正統なグルから学ぶことが必要とされる。

アクローダは怒らないことである。私たちは挑発されても耐えるべきである。なぜなら、怒りは私たちの全身を汚すからである。怒りは激情の様式を欲望の産物なので、超越的な立場にある人は怒りを抑えなければならない。アパイシュナムとは他人の欠点を見つけ出そうとしたり、それを不必要に正そうとしないことである。勿論泥棒を泥棒と呼ぶことは誤りではないが、正直な人を泥棒と呼ぶことは精神的向上を願う人にとって大きな障害になる。フリーとは常に慎み深く、決して言語道断の行動をとらないことである。アチャーパラムとはひとたび決心をすれば心を乱さないことである。計画を立てそれ実行し始めると事態が思うように進展しないこともあるが、私たちはそれを遺憾に思ってはならず、忍耐と決意を持って前進し続けなければならない。

ここで用いられているテージャスとはクシャトリヤの人々のための項目である。クシャトリヤは弱者を保護するために常に強健でなければならず、非暴力の姿勢をとってはならない。暴力が必要であればためらわず行使すべきである。しかし敵よりも優位な立場にある場合、ある状況のもとでは、微罪などは情状酌量して寛容の態度を示してもよい。

ショウチャムは清潔という意味であるが、これは単に心や体の清潔さのみではなく、取引上の清潔さも示していて、この項目は特に商業者に向けられたものである。商業者は決して闇取引で取引すべきではない。ナーティ・マーニターとは名誉を期待すべきではないという意味である。これは、ヴェーダ文典の中で4階級中最も下位とされているシュードラ(労働者)階級に対するものである。シュードラは名声や地位を不必要に求めずに、現在の立場に留まるべきである。なぜなら社会秩序を保つために高位階級に尊敬の念を持つのがシュードラの義務だからである。

以上述べてきた26の項目は超越的な性質である。社会的および職業的階級に応じて私たちはこれらの性質を培うべきである。物質的な状況は悲惨なものではあるが、全ての階級の人々がこれらの性質を修養すれば、しだいに超越的悟りの最高段階に達することができるようになる。これがこの節の要旨である。

テキスト

ダンボ ダrポ 'ビマナsh チャ
カロダハ パルシュヤン エワ チャ
アジャナナマ チャビジャタシャヤ
パルタ サンパダン アスリン

Synonyms

dambhaḥ — プライド; darpaḥ — 傲慢さ; abhimānaḥ — 自負心; ca —そして; krodhaḥ — 怒り; pāruṣyam — 荒々しさ; eva — 確かに; ca —そして; ajñānam —無知;ca — そして; abhijātasya — ~から生まれた人の; pārtha — プリターの息子よ; sampadam — 質; āsurīm — 悪魔的な性質の

Translation

矜持、尊大な態度、自負心、怒り、苛酷な態度、無知。プリターの子よ、これらが悪魔的な性質である。

Purport

この節では地獄への近道が記述されている。悪魔的な人々は実際には宗教の原則に従わないにも拘らず、宗教や精峠神科学にどれほど精通しているかを誇示したがるものである。彼らは常に自分の教育程度や財産を自慢して、他人に対して尊大である。そして人から崇拝され、尊敬されることを望む。些細なことで激怒して苛酷な言葉使いをし、温和な態度をとることがない。何をすべきか、何をすべきでないかを彼らは知らない。全てのことに恣意的で何事も自分の思うように行い、いかなる権威をも承認しない。彼らは胎内にいるときからこれらの悪魔的性質を備えていて、誕生し成長するに応じてこれらの不吉な性質が現れてくるのである。

テキスト

ダイヰ サンパダ ヰモクシャヤ
ニバンダヤスリ マタ
マ シュチャハ サンパダマ ダイヰン
アビジャト 'sイ パンダワ

Synonyms

daivī — 超越的な; sampat — 長所; vimokṣāya — 解放を意味した; nibandhāya — 束縛に; āsurī — 悪魔的な質; matā — ~であると考えられる; mā — ~するな;śucaḥ — 心配する; sampadam —長所; daivīm —超越的な; abhijātaḥ — ~から生まれた; asi — あなたは~である; pāṇḍava— パーンドゥの息子よ.

Translation

神聖な性質は人を解放に導き、悪魔的な性質は人を束縛へと導く。パンドゥの子よ、心配する必要はない。君は神聖な質を持って生まれて来たのだ。

Purport

悪魔的な性質を持って生まれてきたのではないという言葉によって主クリシュナはアルジュナを励まされた。アルジュナが戦うべきか戦うべきでないかを考えることからも、彼が悪魔的な性質を持つために参戦しているのではないことが理解できる。殺すべきか殺すべきでないかを考えるということは彼が怒り、偽の名誉心、残酷さに影響され支配されて行動しているのではないことを示している。それゆえアルジュナは悪魔的性質の人物ではない。クシャトリヤ、すなわち武人にとって敵に矢を放つことが超越的行為であり、逆にその義務を遂行しないことは悪魔的とされている。したがってアルジュナは悲嘆する必要は全くない。それぞれの階級に定められた行為を実行することは超越的な行為である。

テキスト

ドオワウ ブタ-サルガウ ロケ 'スミン
ダイワ アスラ エワ チャ
ダイヲ ヰスタラシャハ プロクタ
アスラマ パルタ メ shrヌ

Synonyms

dvau — 二つ; bhūta-sargau — 生命体を作った; loke — 世界に; asmin —この; daivaḥ — 神聖な; āsuraḥ — 悪魔的な; eva —確かに; ca — そして; daivaḥ — 神聖なもの;vistaraśaḥ — 長々と; proktaḥ —言った; āsuram — 悪魔的なもの; pārtha — — プリターの息子よ; me — 私から; śṛṇu — ただ聞きなさい

Translation

プリターの子よ、この世界には神聖な質を持つ者、悪魔的な質を持つ者という2種の存在がある。これまで神聖な質について説明してきたが、さてこれから悪魔的な質について聞きなさい。

Purport

主クリシュナはアルジュナが神聖な質を持って生まれてきたことを保証されたのち、これから悪魔的性質について説明して下さる。この世界に2種類の束縛された魂が存在する。神聖な質を持って生まれてきた者たちは規則に従って生活する。すなわち彼らは教典の教えや権威者の指示に従って生活するのである。人は権威ある教典で示されている義務を遂行すべきであるという心情は神聖なものである。教典の教えに従わず、恣意的な行動をすることが、悪魔的すなわちアスラ的であるといわれている。経典に教示されている規定原則に従うかどうかが唯一の基準である。神々も悪魔もともにプラジャーパティから生まれたのだが、唯一の相違点は前者がヴェーダの教えに従い後者がそれを遵守しないことであるとヴェーダに述べられている。

テキスト

プラヲオルテエマ チャ ニヲオルテエマ チャ
ジャナ ナ ヰドオr アスラハ
ナ シャウチャマ ナピ チャチャロ
ナ サタヤマ テシュ ヰダヤテ

Synonyms

pravṛttim — 正しく振舞うこと; ca —もまた; nivṛttim — 適切でない振る舞いをしないこと; ca —そして; janāḥ — 人々; na — 決して~でない; viduḥ— 知る; āsurāḥ — 悪魔的質の; na —決して~でない; śaucam— 清潔さ; na — ~もまた~でない; api — もまた; ca — そして; ācāraḥ — 振る舞い; na —決して~でない; satyam — 真理; teṣu — 彼らの中に;vidyate — ~がある

Translation

悪魔の性質を持つ者たちは何をなすべきか、何をなるべきでないかを知らず、彼らの中には清潔さも適切な行動も真実も見かけることができない。

Purport

文明を持ついずれの人間社会にも教典に基づいて規定原則が存在し、その社会が成立したときからその規定原則が遵守されている。ヴェーダ文化を取り入れ、最も発達した文明と持つとされているアーリャン人の間では、ヴェーダ教典に従わない者たちは悪魔であると見なされている。それゆえ、この節では悪魔は教典の教えを知らず、それに従おうとしないと記述されている。悪魔たちののぼ全てが教典を知らず、たとえ知っている者がいたとしてもそれを守ろうとしない。彼らは信念がなく、ヴェーダの指示に従った行動をしようとしないのである。悪魔たちは外的にも内的にも汚れている。人は常に自分の体を清潔であるように努めなければならない。そのために沐浴し、歯を磨き、髪を剃り、衣服を着替えるなど注意して行うべきである。内的な清潔さを保つためには常に神の御名を忘れずに、「ハレー・クリシュナ・ハレー・クリシュナ・クリシュナ・クリシュナ・ハレー・ハレー/ハレー・ラーマ・ハレー・ラーマ・ラーマ・ラーマ・ハレー・ハレー」をいつも唱えなければならない。悪魔たちはこの内的及び外的清潔を保つための規則を好まないのである。

人間の行動については多くの規則があり、例えば『マヌ・サンヒター』は人類の法律書とされていて、現在でもヒンドゥー教徒たちは『マヌ・サンヒター』に従っていて、相続法やその他の法律上の義務もその教典に基づいて定められている。その『マヌ・サンヒター』には女性は自由を与えられるべきではないと明確に記述されている。それは女性を奴隷状態にしておけという意味ではなく、子供と同じように扱うべきであるというとこを示している。子供に自由を与えることはできないが、子供は奴隷ではない。女性にも男性と同様の自由を与えるべきたという悪魔たちの考えは世界の社会状況を改善してはいない。実際には女性は一生を通じて保護が与えられなければならない。幼いときは父親に保護され、若いときは夫から、そして老いてからは息子によって保護されなければならない。これが『マヌ・サンヒター』による社会的常識である。しかし現代教育は女性の生活を不自然におだて上げ、正当な結婚を軽んずる傾向が生まれ、その結果女性の道徳的状況が低下してきている。悪魔は社会の益となる教えを受け入れない。彼らは偉大な聖人たちの経験にも、また聖人たちによる規定原則にも従わないので、彼らの社会的状況は非常に悲惨なものである。

テキスト

アサタヤン アプラテエシュタマ テ
ジャガダ アhウr アニシュワラン
アパラスパラ-サンブタマ
キン アニャト カマ-ハイトウカン

Synonyms

asatyam — 現実のものでない; apratiṣṭham — 根拠もなく; te — 彼らは; jagat — 宇宙; āhuḥ — 言う;anīśvaram — 支配者もいない; aparaspara — 原因もない;sambhūtam — 起こった; kim anyat — 他の原因もない;kāma-haitukam — 性欲だけが原因である.

Translation

この世界は現実のものではなく、また何の根拠も持たず、そして支配する神もいないと悪魔たちは言う。全ては性欲によって生まれ出たもので、その他には何の原因も存在しないと彼らは言うのだ。

Purport

悪魔たちは世界が幻影だと結論する。原因もなく結果もなく、支配者も、目的も存在せず、全ては非実存なのだと彼らは考えている。彼らはこの宇宙が物質的な作用反作用により偶然に発生したものであると主張し、ある目的のもとに神が世界を創造したとは決して考えていない。彼らの理論によれば、世界は自然に出現したのであって、その背後に神が存在すると信ずべき理由は存在しない。彼らにとって精神と物質の区別はなく、ゆえに彼らは至上魂を受け入れない。全ては物質だけであり、全宇宙は無知の大集合体である。また彼らの理論によれば全てのものは空であって、存在する全現象はすべて知覚の際の無知によるものである。実際には存在しないものを夢の中で創造することはできるが、目が覚めれば全てが夢であったとわかるように、多種多様な現象は無知によって生じたものであると彼らは主張しているのである。しかし実際のところは、人生は夢であると主張している悪魔たちが単にその幻想を楽しむのが上手なだけである。したがって彼らは正しい知識を得ることができずに、しだいに夢の国に巻き込まれていく。子供が生まれるのは男女の性交の結果にすぎず、同様にこの世界も精神の存在なしに生まれたものであると彼らは結論する。彼らにとって生命体はただ物質が偶然にある特定の結合をした結果生じたものであり、魂の存在など全く問題外である。多くの生物が汗や死体から湧き出てくるように、全生物界は宇宙現象の中の物質結合のある状態から生じたものであり、だから物質自然こと全現象の原因であって他に何の原因もないと彼らは説明する。彼らは『バガヴァッド・ギーター』の中のクリシュナの言葉「わたしの指示によって全物質界は動いている」を全く信じない。つまり悪魔たちは世界創造に関する正しい知識を持たず、各々の悪魔がそれぞれ独自の理論を持っているのである。悪魔たちは教典の教えを標準的に理解するということを知らないために、彼らにとっては教典の様々な解釈は皆同じものなのである。

テキスト

エタマ ダrシュトイン アワシュタビャ
ナシュタトマノ 'rパ-ブダヤハ
プラバワンタy ウgラ-カルマナハ
クシャヤヤ ジャガト 'ヒタハ

Synonyms

etām — この; dṛṣṭim —見解; avaṣṭabhya — 受け入れて; naṣṭa— 失って; ātmānaḥ — 彼ら自身; alpa-buddhayaḥ — 知性のない人; prabhavanti — 栄える; ugra-karmāṇaḥ — 不快な活動をする; kṣayāya — 破壊のために;jagataḥ — 世界の; ahitāḥ — 利益をもたらせない

Translation

そのような結論に従って、正気を失い、知性を持たない悪魔たちは世界を破壊に導く活動にたずさわる。

Purport

The demoniac are engaged in activities that will lead the world to destruction. The Lord states here that they are less intelligent. The materialists, who have no concept of God, think that they are advancing. But according to Bhagavad-gītā, they are unintelligent and devoid of all sense. They try to enjoy this material world to the utmost limit and therefore always engage in inventing something for sense gratification. Such materialistic inventions are considered to be advancement of human civilization, but the result is that people grow more and more violent and more and more cruel, cruel to animals and cruel to other human beings. They have no idea how to behave toward one another. Animal killing is very prominent amongst demoniac people. Such people are considered the enemies of the world because ultimately they will invent or create something which will bring destruction to all. Indirectly, this verse anticipates the invention of nuclear weapons, of which the whole world is today very proud. At any moment war may take place, and these atomic weapons may create havoc. Such things are created solely for the destruction of the world, and this is indicated here. Due to godlessness, such weapons are invented in human society; they are not meant for the peace and prosperity of the world.
悪魔的な人々は世界を破壊に導くような活動を行う。主はここで悪魔たちの知性が乏しいと語っていらっしゃる。神の概念を持たない物質主義者たちは自らを進歩的であると考
えているが、『バガヴァッド・ギーター』によれば、彼らは知性に欠け思慮分別が全くない。彼らはこの物質界を最大限に楽しもうとして、感覚満足のために常に発明を続けている。このような物質的発明が人類文明の進歩であると考えられているが、その発明の結果として人々はより暴力的になり、そして他の動物に対しても他の人間に対しても、より残酷になった。彼らは他の生命体に対して、また他の人々に対してどのような行動をすべきなのか知らない。悪魔的な人々の間には動物の屠殺がよく見られる。最終的には全てを破壊するような物を発明するであろうこのような人々は、全世界の敵であると考えてよい。間接的にこの節は、現代社会の大きな誇りである核兵器の発明を明示している。いかなるときにも戦争が勃発する可能性があり、この核兵器が大混乱を巻き起こすことになるであ悪魔的な人々は世界を破壊に導くような活動を行う。主はここで悪魔たちの知性が乏しいと語っていらっしゃる。神の概念を持たない物質主義者たちは自らを進歩的であると考えているが、『バガヴァッド・ギーター』によれば、彼らは知性に欠け思慮分別が全くない。彼らはこの物質界を最大限に楽しもうとして、感覚満足のために常に発明を続けている。このような物質的発明が人類文明の進歩であると考えられているが、その発明の結果として人々はより暴力的になり、そして他の動物に対しても他の人間に対しても、より残酷になった。彼らは他の生命体に対して、また他の人々に対してどのような行動をすべきなのか知らない。悪魔的な人々の間には動物の屠殺がよく見られる。最終的には全てを破壊するような物を発明するであろうこのような人々は、全世界の敵であると考えてよい。間接的にこの節は、現代社会の大きな誇りである核兵器の発明を明示している。いかなるときにも戦争が勃発する可能性があり、この核兵器が大混乱を巻き起こすことになるであ

テキスト

カマン アシュリタヤ ドオshプラマ
ダンバ-マナ-マダンヰタハ
モハダ grヒトオワサダ-gラハン
プラワルタンテ 'シュチ-wラタハ

Synonyms

kāmam — 欲望; āśritya — ~の言いなりになって; duṣpūram —飽くことのない; dambha — プライドの; māna — 虚栄;mada-anvitāḥ — うぬぼれに浸って; mohāt — 幻想によって; gṛhītvā — 取って; asat — はかない; grāhān —物; pravartante — 彼らは栄える; aśuci — 不定な;vratāḥ — 自認した

Translation

飽くなき欲望を住みかとし、自惚れと虚栄に浸っている悪魔的な人々は、幻惑されてはかない物に魅せられ、不浄な活動に固執する。

Purport

ここに悪魔的心情が記述されている。悪魔たちの欲望は飽くことを知らず、物質的快楽を求める彼らの飽くなき欲望は常に増加し続けるのである。彼らは一時的な物しか受け入れないので常に不安に満ちている。それにも関わらず、そのような活動を彼らは続ける。知識がないために、誤った方向に進んでいることに彼らは気づかない。一時的な事物だけを受け入れるそのような悪魔たちは、独自の神を作り上げ、自らマントラを捏造し、そして恣意的にそれらを唱える。その結果として、悪魔たちは性的快楽と富の蓄積にますます執着するようになる。これに関しては「アシュチ・ヴラターレ」(不浄な誓い)という語が極めて重要である。彼らの魅力の対象はただ酒・女・ギャンブル・肉食であり、これらが彼らの不浄(アシュチ)な習慣である。自負心と虚偽の威厳によって彼らはヴェーダでは決して認められていないようなある種の宗教原則を作り出す。これらの悪魔的な人々は世にも忌むべき存在であるにも関わらず、社会は彼らに虚偽の栄誉を不自然に与えている。地獄に向かって堕ちつつあるのだが、彼らは自分が向上しているのだと思っている。

テキスト

チンタン アパリメヤマ チャ
プララヤンタン ウパシュリタハ
カモパボガ-パラマ
エタワダ イテエ ニshチタハ
アシャ-パシャ-シャタイr バダハ
カマ-カロダ-パラヤナハ
イハンテ カマ-ボガルタン
アニャヤエナルタ-サンチャヤン

Synonyms

cintām — 恐れと不安; aparimeyām — 計ることのできない;ca — そして; pralaya-antām — 死に至るまで;upāśritāḥ — ~に保護を求めて; kāma-upabhoga — 感覚の満足; paramāḥ — 人生の最高の目的; etāvat — このように; iti — この方法で; niścitāḥ — 確かめて;āśā-pāśa — 欲望の網に捕らえられて; śataiḥ — 何百のものによって; baddhāḥ — 縛られて; kāma — 欲望の; krodha— そして怒り; parāyaṇāḥ — いつもその思いに浸って;īhante — 彼らは望む; kāma — 情欲; bhoga — 感覚満足; artham — ~目的のために; anyāyena — 不法な; artha — 富の; sañcayān — 蓄え

Translation

人間文明に最も必要なのは感覚満足であると彼らは信じているので、死に至るまで彼らの不安は計り知れない。幾百幾千の欲望の網に捕らえられ、欲情と怒りに浸りきり、彼らは感覚満足のためには不法な手段を用いても金銭を確保しようとする。

Purport

悪魔的な人々は感覚的快楽こそが人生の究極目標であると信じていて、その信念を死の瞬間まで持ち続ける。死後の生を信じないので、彼らは各自のカルマすなわちこの世界での活動によって肉体の死後に様々な形態の肉体に転生することを全く信じない。人生の計画を立てたとしても彼らはそれを達成することができず、次々に新しい計画を立てたとしても、それらは達成され得ない。このような悪魔的心情の持ち主が死の間際になって、自分の志を達成するために4年だけ寿命を伸ばしてくれと医者に嘆願した有様を私たちは知っている。このような愚者は医者が一瞬たりとも人の寿命を伸ばし得ないことを知らない。定められた寿命が尽きれば、人間の願望には何の斟酌もなく事は運ばれるのである。運命として与えられている寿命の他には1秒たりとも、自然の法則は猶予を与えることはない。

神すなわち自己の内にいらっしゃるスーパーソウルを信じない悪魔的な人は、ただ感覚満足のためにありとあらゆる罪を犯す。自分の心臓の中に目撃者がいることを知らないのである。スーパーソウルは個別魂の行為を常に観察している。ウパニシャドに記述されているように。1本の樹に2羽の鳥が住んでいて、1羽は枝の間を飛び回り木の実を食べていて幸や不幸を味わっているが、もう1羽はただそれを観察しているだけである。だが悪魔的な人はヴェーダの知識を知らず、信念を持たないので、結果として起きることを考慮せずに、感覚満足のためにはいかなることを行ってもよいと思っている。

テキスト

イダン アダヤ マヤ ラbダン
イママ プラpシャヤエ マノラタン
イダン アストイダン アピ メ
バヰシュヤテエ プナr ダナン
アサウ マヤ ハタハ シャトルr
ハニシュヤエ チャパラン アピ
イシュワロ 'ハン アハマ ボギ
sイド 'ハマ バラワン スキ
アダヨ 'ビジャナワン アスミ
コ 'ニョ 'ステエ サダrショ マヤ
ヤクシュヤエ ダシャヤミ モデエシュヤ
イタy アジャナナ-ヰモヒタハ

Synonyms

idam — この; adya —今日; mayā — 私によって; labdham — 得た; imam — この; prāpsye — 私は得るであろう; manaḥ-ratham— 私の望みに従って; idam — この; asti — ~がある;idam — この; api — もまた; me —私のもの; bhaviṣyati — 将来増やそう; punaḥ — 再び; dhanam — 富;asau — その; mayā — 私によって; hataḥ — 殺された; śatruḥ— 敵; haniṣye — 私は殺そう; ca — もまた; aparān — 他人;api — 確かに; īśvaraḥ — 主; aham — 私は~である; aham —私は~である; bhogī — 享楽者; siddhaḥ — 完璧; aham — 私は~である;bala-vān —力強い; sukhī —幸福な; āḍhyaḥ —裕福な;abhijana-vān — 高貴な縁者に囲まれてasmi — 私は~である; kaḥ — だれ; anyaḥ — 他人; asti — ~がある; sadṛśaḥ — ~のような; mayā — 私を; yakṣye — 私は供犠をしよう; dāsyāmi — 私は布施をしよう; modiṣye — 私は喜ぶだろう; iti — このように;ajñāna — 無知によって; vimohitāḥ — 惑わされて

Translation

「現在これだけの富を持っているが、計画を練ってもっと増そう。今これだけの所有物を持っているが、将来もっと増やすことにしよう。敵をひとり殺した。他の敵も全て殺そ
う。私が全ての主人で、あらゆる物の享楽者である。私は完壁で、力に満ち、幸福である。私が最も富裕な人間であって、高貴な縁者たちに囲まれている。私ほど有力な者も幸福な者もいない。私は供犠も布施もする。それらも私の喜びだ。」無知に幻惑されて、悪魔的な人々はこのように考えている。

テキスト

アネカ-チタ-ヰブランタ
モハ-ジャラ-サマヲオルタハ
プラサクタハ カマ-ボゲシュ
パタンテエ ナラケ 'シュチャウ

Synonyms

aneka — 多数の; citta — 不安によって; vibhrāntāḥ — 当惑して; moha — 幻想の; jāla — 網によって;samāvṛtāḥ — 囲まれた; prasaktāḥ —執着した;kāma-bhogeṣu — 感覚満足に; patanti — 彼らは落ちていく; narake — 地獄に; aśucau — 不浄な

Translation

様々な不安に狼狽し、幻想の網に捕らえられている彼らは感覚満足に強く執着して、地獄へと堕ちていく。

Purport

悪魔的な人の蓄財欲は際限がない。そのような者の考えることは専ら現在自分がどれだけ財産を持ち、いかにしてその富を増やすかということのみである。彼らはそのために手段を選ばないので、闇市場などで取引をする。現在所有している土地、家族、家、銀行預金などに夢中になり、そしてそれらを一層よくしようと常に考えている。彼は自分自身の力のみを信じており、現在自分が得ているものは過去の善行によるものであるということを全く知らない。そのようにして富を得る機会が与えられているのだが、過去の活動にしたがって自分が今その富を得ているということを知らずに、ただ自分の努力の結果、現在の富を得たのだと考えているのである。悪魔的な人はカルマの法則を信じず、自分の能力によって結果を達成したのだと考えている。カルマの法則によれば、人が高貴な家柄に誕生したり、裕福になったり、高い教育を受けたり、また非常に美しい容姿を持ったりするのは過去の善行の果報なのである。しかし悪魔的な人は、全てそのようなことは偶然か、または自分自身の能力によると考えていて、様々な人々の持つ容姿や教養の背後にある見えない手を感じることができない。そのような悪魔的な人にとって競争相手は敵である。多くの悪魔的な人々がいて互いに敵対し合っている。この敵愾心は個人間、家族間、そしてついには国家間のものに発展し、そのために常に世界中で衝突や戦争が絶えないのである。

悪魔的な人は、他の全ての人々を犠牲にしてもかまわないと思っている。一般に悪魔的な人は自分自身を至上神だと思っている。悪魔的な説教者は従者たちに次のように語る。
「あなたがたはなぜ他に神を探そうとするのか。あなたがた自身が神である。自分の望み通りに何でもしたことをすればよい。神などというものを信じてはならない。神を捨てなさい。神は死んだのだ」これが悪魔的な説教である。

悪魔的な人は自分と同程度かもしくはそれ以上に富や影響力のある人を見たとしても、自分ほど富や影響力をも持つ者はいないと考える。高位の惑星に昇ることに関しても、悪魔は供儀(ヤギャ)を信じない。彼らは自己流の供儀を捏造し、高位の惑星系に行けるような機械を発明しようとする。こうした悪魔の代表者がラーヴァナであり、彼はヴェーダに規定されている供儀を行わずとも誰もが天界の惑星に達することができるような階段を立てる計画を人々に発表した。同様に現代においても悪魔的な人々は機械的手段によって高位系惑星系に行こうと懸命になっている。このように彼らの精神状態は混乱しているのである。正しい知識を持たない彼らはその結果として地獄に堕ちていく。ここでモーリジャーラというサンスクリット語が大きな意味を持つ。ジャーラとは網という意味であって網にかかった魚のように彼らは逃れることができないのである。

テキスト

アトマ-サンバヰタハ スタbダ
ダナ-マナ-マダンヰタハ
ヤジャンテ ナマ-ヤジャナイs テ
ダンベナヰデエ-プルワカン

Synonyms

ātma-sambhāvitāḥ — 自己満足; stabdhāḥ — 生意気な;dhana-māna — 富と偽の名声の; mada — 幻想に; anvitāḥ — 没頭した; yajante — 彼らは供犠する; nāma — 名ばかりの; yajñaiḥ — 供犠で; te— 彼らは; dambhena — プライドから; avidhi-pūrvakam — 一切の規定原則に従わないで

Translation

自己満足的で常に尊大であり、自らの富と虚名に目がくらみ、一切の規定原則を無視して彼らは誇らしげに名ばかりの供儀を催す。

Purport

自分たちが世の中で最も偉大な存在であると思い、いかなる権威も経典も認めずに、悪魔たちはいわゆる宗教儀式や供儀を行うこともある。いかなる権威も認めないので、彼らは非常に不謹慎である。これは富の蓄積によって幻惑されているからである。時折、そのような悪魔が説教徒となり人々を誤った方向に導き、そして宗教改革者や神の化身として有名になることもある。供儀を誇示したり、様々な神々を崇拝したり、また自己流の神を捏造することもある。一般の人々は彼らを神の化身であると崇拝し、愚者たちは彼らを偉大な宗教家であり、精神的知識に秀れた人であると考える。彼らは放棄階級の法衣を身に着け、そしてその姿でありとあらゆる愚考をなす。実際には放棄階級を受け入れた人に対して実に多くの戒律があるのだが、悪魔たちはそうした戒律には一切関心がない。自分で作った道が自分自身の道であって、誰もが通らなければならない正しい道など存在しないと彼らは考えているのである。アヴィディ・プールヴァカンという語は規則を無視するという意味で、ここで特に強調して用いられている。これは常に無知と幻想によるものである

テキスト

アハンカラマ バラマ ダrパマ
カママ カロダマ チャ サマシュリタハ
マン アトマ-パラ-デヘシュ
プラドオヰシャント 'ビャスヤカハ

Synonyms

ahańkāram — 偽我意識; balam — 力; darpam — プライド;kāmam — 欲望; krodham — 怒り; ca —もまた; saḿśritāḥ — ~に保護を求めて; mām — 私を; ātma — 彼ら自身の中に ;para — そして他人の中に; deheṣu — 肉体; pradviṣantaḥ — 非難して; abhyasūyakāḥ — 妬む

Translation

偽我意識と力、自負心と欲望、怒りに惑わされ、悪魔たちは自他の体内に在すバガヴァーンを妬み、真の宗教を非難する。

Purport

神が至上の立場にいらっしゃることを受け入れない悪魔的な人々は教典の内容を信じようとせず、様々な教典やバガヴァーンの存在を妬む。いわゆる名声、富の蓄積、力が原因となってこのような心理状態が生まれるのである。現代の人生は次の生涯のための準備期間であることを彼らは知らず、その無知のために他の人々にも真の自己にも妬みを持ち、他の人々の体ばかりか自分の体に対しても暴力をふるうのである。精神的知識が皆無なので、彼はバガヴァーンの至上の支配について考えることもなく、諸経典やバガヴァーンに嫉妬心を持っているので神の存在について誤った議論を主張し、教典の権威を否定する。また、自分が独立したものであると考え、何をするにしても自分が有力者であると思っている。権力や富において自分と肩を並べる者はいないので、自分は何でもでき、それを止められる者はいないと思っている。彼の飽くなき欲望の追及を阻止しようとする敵が現われると、彼は自らの手でその敵を倒そうとする。

テキスト

タン アハマ ドオヰシャタハ カルラン
サマサレシュ ナラダマン
クシパンy アジャスルアン アシュバン
アスリシュw エワ ヨニシュ

Synonyms

tān —人々; aham — 私は; dviṣataḥ — 妬んで; krūrān — 有害な; saḿsāreṣu — 物質存在の海の中へ; nara-adhamān — 最低な人間; kṣipāmi— 私は入れる; ajasram — 永遠に; aśubhān — 不吉兆な; āsurīṣu— 悪魔的な; eva — 確かに; yoniṣu — 子宮の中に

Translation

嫉妬心に満ち、他者に災いをもたらす最低の人間たちをわたしは繰り返し物質存在の海の中、悪魔的な生命形態に投げ入れる。

Purport

ある特定の個別魂がそれに相応した肉体に置かれるのは、至上主の御意志によるものであることがこの節で明らかにされている。悪魔的な人はこのような主の至上の立場を認めず、自分の望み通りの行動をしているが、次生がどのようなものになるか決定するのはバガヴァーンであり、彼自身がそれを決定することはできない。『シュリーマド・バーガヴァタム』の3篇には、肉体の死後個別魂は優位の力の監督の下に特定の母体の胎内に入れられそれに相応した形態を得ると記述されている。それゆえ物質界には動物、昆虫、人類その他の多種多様な生命体が見かれられるのであり、これら全ては優位の力によって配慮されているのである。悪魔たちは欲望の塊であり、憎悪に満ち、常に不潔である。森や山野を徘徊する様々な種類の猟人たちは悪魔に属するとされている。

テキスト

アスリマ ヨニン アパンナ
ムダア ジャンマニ ジャンマニ
マン アプラピャイワ カウンテヤ
タト ヤンタy アダママ ガテエン

Synonyms

āsurīm — 悪魔的な; yonim — 種; āpannāḥ — 得るmūḍhāḥ — 愚か者; janmani janmani — 生まれても・生まれても; mām — 私に; aprāpya — 達成しないで; eva — 確かに; kaunteya — クンティの息子よ; tataḥ —その後は;yānti —行く; adhamām — 忌まわしい; gatim — 目的地

Translation

クンティーの子よ、悪魔として転生を繰り返す彼らは決して私に近づくことができない。彼らは次第に堕ちていき、ついには最も忌まわしい存在となるのだ。

Purport

神は慈悲深いと一般に知られているが、この節でわかるように、神は悪魔に対しては決して慈悲深くはいらっしゃらない。悪魔的な人々は何度生まれ変わり繰り返し同じ悪魔の胎内に投げ入れられても至上主の慈悲に浴することができず、しだいに堕ちていき、やがては犬・猫・豚のような体を達成することになるとここで明確に記述されている。このような悪魔たちはいずれの生においても神の慈悲を受ける機会に恵まれない。ヴェーダ教典にも、そのような人々はしだいに犬や豚に堕ちていくと述べられている。これが事実であれば神が慈悲深いお方である、ということに反論を唱える人もいるかもしれない。この答えとして、『ヴァーダーンタ・スートラ』に「至上主はいかなる者に対しても憎悪を持っていらっしゃらない」という一節をみつけることができる。主がアスラすなわち悪魔を最低の生命形態の中に置かれるのは主の慈悲のもうひとつの様相である。至上主がアスラを滅ぼされることもあるが、それは彼のための恩恵となることである。なぜならヴェーダ文典には至上主に殺された者は全て解放を得ると記述されているからである。これについてはラーヴァナ、カムサ、ヒランニャカシプなど多くのアスラの歴史があり、そのようなアスラたちを殺すために至上主は様々な化身となってお現われになった。幸運にして主に殺されれば、アスラたしも神の慈悲に浴することができるのである。

テキスト

トゥリヴィダンナラカシェダン
ドゥヴァーランマーシャナマートマナハ
カーマハクロダスタターロバハス
タスマーデタットラヤンテャジェト

Synonyms

tri-vidham...三種類の narakasya....地獄の idam.........この dvaram.......門 nasanam......破壊的な atmanah......自己の kamah........欲望 krodhah......怒り tatha........同様に lobhah.......渇望 tasmat.......それゆえに etat.........これらの trayam.......三つ tyajet.......人は放棄しなくてはならない

Translation

欲望、怒り、渇望という地獄に到る三つの門がある。これらは魂を堕落に導くので、正気な人間はこれらを放棄すべきである。

Purport

悪魔的生活がどのようにして始まるかがここに説明されている。まず欲望が生じる。それが満たされないと怒りと渇望が生まれる。様々な悪魔的な生命形態に堕ちたくないならば、この3つの敵を放棄するよう努力すべきである。これらの敵を放置しておくと、この物質界から解放を得るのが不可能になるほど、自己が破壊されてしまうからである。

テキスト

エタイr ヰムクタハ カウンテヤ
タモドオ-ワライs トリビr ナラハ
アチャラタy アトマナハ シュレヤs
タト ヤテエ パラマ ガテエン

Synonyms

etaiḥ — これらから; vimuktaḥ — 解放されて; kaunteya —クンティの息子よ; tamaḥ-dvāraiḥ — 無知の門から;tribhiḥ — 三種類の; naraḥ — 人; ācarati — 行う; ātmanaḥ — 自己のため; śreyaḥ — 恩恵;tataḥ — その後は; yāti — 彼は行く; parām — 至高の;gatim — 目的地

Translation

クンティーの子よ、これら3つの地獄門から逃れ得た人は、自己の悟りに到れるように努力し、しだいに究極の目的地に達するであろう。

Purport

欲望、怒り、渇望という人間生活における3つの敵に対して私たちは非常に注意深くなければならない。この3敵から遠ざかるに応じて、人間は純粋になり、そしてヴェーダ文典に記述されている規律に従うことができるようになる。人間に対して定められた規定原則に従うことによって、しだいに精神的悟りの段階へと向上していくことができ、そのようなプロセスを実践して幸いにしてクリシュナ意識に達することができれば、成功が約束されるのである。人を浄化に段階に高めるためにヴェーダ文典では活動とその反作用がどのようにして起こるかが説明されている。全ての方法は人間に3つの敵を征服させる目的で定められている。このプロセスに従って知識を培うことにより、やがて人は自己の悟りの最高段階に達することができる。すなわち自己の悟りは献身奉仕の中で完成するのである。そのような献身奉仕の中では束縛された魂に解放が保証される。そのためにヴェーダでは4種のカーストと精神的段階の制度が定められてある。様々なカーストすなわち社会区分にそれぞれに守るべき規律が定められていて、それに忠実に従う人は自動的に精神的悟りの最高段階まで高められ、疑いなく解放を達成することができるようになる。

テキスト

ヤハ シャストラ-ヰデエン ウツルjヤ
ワルタテ カマ-カラタハ
ナ サ sイデエン アワプノテエ
ナ スカマ ナ パラマ ガテエン

Synonyms

yaḥ — ~である誰もが; śāstra-vidhim — 教典の規則; utsṛjya — 放棄する; vartate — とどまる;kāma-kārataḥ — 欲望のおもむくまま行動すること; na — 決して~でない; saḥ —彼は; siddhim — 完成; avāpnoti — 達成する; na —決して~でない;sukham — 幸福; na —決して~でない; parām — 至高の;gatim — 完成段階

Translation

教典の教えを放棄し欲望のおもむくままに行動する者は、完成を達成することも幸福を手にすることも、そして至高の目的地に至ることもできない。

Purport

前述のようにシャーストラ・ヴィディ(教典の指示)は、様々なカーストや人間社会の階級に応じてそれぞれに与えられていて、誰もがこれらの規定原則を守るべきである。これらの原則に従わず、情欲、渇望、欲望のおもむくままに行動するならば、決して人生の完成を達成することはできない。つまり理論的にはこれらを理解しても、実践しない人は最下級の人間とみなされるのである。人間という生命形態の中にいる生命体は知性を乱してはならず、自分の生命を最高段階に到らせるための規則に従うべきであり、それらに従わなければ堕ちていくことになるのである。しかしこれらの規定原則や道徳律に従っていても最終的に至上主を理解する段階に達しなければ、その全知識は無益である。そしてたとえ神の存在を認めたとしても、実際に神に奉仕しなければこれもまた無益なことである。それゆえ人はしだいに自分をクリシュナ意識と献身奉仕の段階まで高めるよう努力すべきである。その段階に達してこそ最高完成段階に達することができるのであって、それ以外に方法はない。

カーマ・カーラタという語は非常に重要である。意図的に規則を破る人は欲望に動かされていて、禁止されているのを承知の上であえて犯すのである。これが恣意的行動と呼ばれるものである。すべきことを意図的に行わない人のことを恣意的であるという。そのような人々は至上主から罰を受けなければならず、人間生活の目的である精神的完成に達することはできない。人間生活は自らの存在を浄化するためにあり、規定原則を守らない人は自分を浄化することができず、真の幸福の段階に達することのも不可能である。

テキスト

タスマch チャストラマ プラマナマ テ
カリャカリャ-ヰヤワストイタウ
ジャナトオワ シャストラ-ヰダノクタマ
カルマ カルトウン イハrハsイ

Synonyms

tasmāt — それゆえに; śāstram — 教典; pramāṇam —証拠; te —あなたの; kārya — 義務; akārya — そして禁じられた活動; vyavasthitau — 決心して; jñātvā — 知って;śāstra — 教典の; vidhāna — 規則; uktam — 断言したように; karma — 仕事; kartum —する; iha — この世界に;arhasi — あなたはすべきである

Translation

ゆえに人間は教典の規則によって、なすべきことなすべきでないことを知らなければならない。そしてその規定原則を知り、自らを高めることができるように行動すべきである。

Purport

第15章に述べられていたように、ヴェーダ教典にある様々な規定原則はクリシュナを知るためのものである。この『バガヴァッド・ギーター』によってクリシュナを知り、クリシュナ意識に到達し、献身奉仕を行うようになった人はヴェーダ知識の最高完成に到達したのである。主チャイタンニャ・マハープラブはその方法をきわめて容易なものにして下さった。ただ「ハレー・クリシュナ・ハレー・クリシュナ・クリシュナ・クリシュナ・ハレー・ハレー/ハレー・ラーマ・ハレー・ラーマ・ラーマ・ラーマ・ハレー・ハレー」を唱え、主に献身奉仕を捧げ、食物を神像に捧げた後でそれを頂くようにと主チャイタンニャは人々に勧められた。これら全ての献身的活動を直接行う人はヴェーダ文典の全知識を学んだと見なされ、究極の結論に完全に到達しているのである。もちろんクリシュナ意識を持たない一般の人々すなわち献身奉仕を行わない人々は教典の教えに従って何をすべきか、すべきでないかを判断しなければならない。彼らは議論することなくそれに従って行動しなければならないのである。これがシャーストラすなわち教典の原則に従うという意味である。束縛された生命体は感覚が不完全であり、欺く傾向があり、誤ちを避けられず、そして幻惑されるという4つの欠点を持つが、これらの欠点はシャーストラの中には存在しない。束縛された生命体のこれらの欠点を持っている限り、規定原則を設定することはできない。それゆえ、前述の4欠点を持たない教典に述べられている規定原則は太古から変更されることなく大聖者、アーチャーリャ、偉大な魂たちによって受け入れられてきているのである。

インドには精神的知識理解のために宗教団体が多数存在するが、大別してヴァイシュナヴァとマーヤーヴァーディの2派に分類され、両派ともヴェーダの原則に従って生活している。教典の原則に従わなければ完成段階に到達することは不可能である。したがってシャーストラの要旨を理解している人は幸運であるとされている。

人間社会においては、バガヴァーンを理解するために規定された原則を嫌うことがあらゆる堕落の原因であり、これこそが人生における最大の背反である。そのために、バガヴァーンの物質エネルギーであるマーヤーが3重の苦悩という形で私たちに絶えず困難を与えている。この物質エネルギーは物質自然の三様式で構成されている。人間は至上主を理解する道に入る前に徳の様式の段階まで自らを高めなければならない。無知や激情の様式の段階に留まるならば、この2つの様式が悪魔的生活の原因となる。無知と激情の様式の影響下にある人々は教典や聖者やバガヴァーンを正しく理解することを嘲り、グルの教えに従わず教典に定められている規定を無視する。献身奉仕の栄光を聞いたとしても、彼らは何の魅力も感じず、そして自己流の進歩の道を作り上げる。以上が悪魔的な生活状態に向かう人間社会の欠点の一部である。しかし、向上の道へと導いて下さる正統な精神の師(グル)に従うならば人生の成功を達成することができる。

以上、『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第16章“神聖な質と悪魔的な質”に関するバクティヴェーダンタの解説は終了。