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第13章

自然、享楽者、意識

arjuna uvāca
prakṛtiṁ puruṣaṁ caiva
kṣetraṁ kṣetra-jñam eva ca
etad veditum icchāmi
jñānaṁ jñeyaṁ ca keśava
śrī-bhagavān uvāca
idaṁ śarīraṁ kaunteya
kṣetram ity abhidhīyate
etad yo vetti taṁ prāhuḥ
kṣetra-jña iti tad-vidaḥ

訳語

翻訳

アルジュナ言う。
親愛なるクリシュナよ
プラクリティ(自然)とプルシャ(それを楽しむ者)について
「活動の場」と「その場を知る者」について
知識と知識の対象について
私は知りたいのです。
至高人格神答える。
クンティーの子よ
この体は「活動の場」と呼ばれ
この体を知る者は「活動の場を知る者」と呼ばれる。

解説

 プラクリティ(自然)、プルシャ(それを楽しむ者)、クシェートラ(活動の場)、クシェートラ・ジュニャ(その場を知る者)、そして知識と知識の対象について知りたいと、アルジュナは思った。その質問に答えてクリシュナは「この体は『活動の場』と呼ばれ、この体を知る者は『活動の場を知る者』と呼ばれる」とお答えになった。制約された魂にとってこの体は活動の場である。制約された魂は物質存在の罠にかかり、物質自然を支配しようとする。そのために、能力に見合った活動の場を与えられる。その活動の場が体である。では体とは何なのか? 体は感覚器官でできている。制約された魂は自分の感覚を満たしたいと思い、能力に応じてその目的を達するための体、つまり活動の場を与えられる。ゆえに体はクシェートラ、すなわち制約された魂にとっての活動の場と呼ばれるのだ。体と自分を同一視してはならない。自己はクシェートラ・ジュニャと呼ばれ、「活動の場を知る者」である。「活動の場」と「場を知る者」、すなわち体と体を知る者の違いを理解するのは、それほど難しいことではない。子供から老人になるまで体は実に多くの変化を遂げていくが、それでも同じひとりの人間であることは変わらない。このように「活動の場」と「場を知る者」は違うのである。制約された魂も、自分が体とは別のものであるということは理解できる。このことは最初の部分で説明されている。dehino ’smin すなわち生命体は体の中にいて、その体が幼少期から少年期へ、少年期から青年期へ、そして青年期から老年期へと変化していく。そして体の所有者はその変化を知っているのだ。この体の所有者は間違いなくクシェートラ・ジュニャである。「私は幸せだ」「私は男性だ」「私は女性だ」「私は犬だ」「私は猫だ」などと考えることがあるが、これらは「活動の場の認識者」に対する呼び名であり、「場を知る者」と「体」とは別のものである。私たちは衣服などさまざまなものを身に着けるが、そうしたものと自分は別であることを知っている。同様に、自分と体とは別物であることも少し考えてみれば理解できる。体を持つ者は誰でも活動の場を知るクシェートラ・ジュニャと呼ばれる者であり、体はクシェートラすなわち活動の場そのものなのである。
 『バガヴァッド・ギーター』の最初の6つの章では、体を知る者(生命体)について、そして至高主を理解するための姿勢について述べられている。真ん中の6つの章には、至高人格神について、また献身奉仕における個々の魂と至高の魂との関係について述べられていて、至高人格神の最上位の立場と個々の魂の従属する立場についても明確に定義されている。生命体はいかなる状況においても従属的な立場にあるのに、そのことを忘れているため苦しんでいるのだ。そして敬虔な活動によって啓発を受けると、苦しむ者、富を求める者、好奇心旺盛な者、知識を求める者というそれぞれの立場から至高主に近づく。このことも説明されている。そして生命体がどのようにして物質自然に関わるようになったのか、また結果を求める活動や知識の育成、献身奉仕の履行というさまざまな方法を通して、至高主がどのように解放を授けてくださるのかについての説明が、第13章から始まっていく。生命体は肉体とはまったく別物であるのに、なぜか関わってしまう。このことも説明されている。
kṣetra-jñaṁ cāpi māṁ viddhi
sarva-kṣetreṣu bhārata
kṣetra-kṣetrajñayor jñānaṁ
yat taj jñānaṁ mataṁ mama

訳語

翻訳

バラタの子孫よ
私がすべての体を知る者であることも知っておきなさい。
そしてこの体と体を知る者についての理解こそが知識なり。
これが私の意見である。

解説

 肉体と肉体を知る者、および個々の魂と至高の魂についての主題を論じる上で、主、生命体、物質という3つの項目を知ることとなる。すべての活動の場すなわち体には、個々の魂と至高の魂というふたつの魂が存在する。至高の魂とは至高人格神クリシュナの完全拡張体である。だからこそクリシュナはこのようにおっしゃる。「私も活動の場を知る者ではあるが、自分の体しか知らない者たちとは違い、すべての活動の場を知っている。私はパラマートマーすなわち至高の魂として、すべての体の中に宿っているのだ」と。
 活動の場とその場を知る者という主題について『バガヴァッド・ギーター』から学ぼうとする者は、正しい知識を得ることができる。
 「私は個々のすべての体における活動の場を知っている」と主はおっしゃる。個々の魂はそれぞれ自分の体については知っているが、自分以外の体については何も知らない。個々のあらゆる体の中に至高の魂として宿る至高人格神は、すべての体について知り尽くしておられる。主は多種多様な全種類の生命体の体をご存知である。一国民は自分の所有する土地については熟知しているかもしれないが、王は自分の宮廷だけではなく、国民一人ひとりが所有する土地すべてを把握している。同様に個々の生命体は自分の体を所有しているが、至高主はすべての体を所有しておられるのだ。王国は本来王の所有物であり、国民は二次的な所有権を有しているにすぎない。同様に、すべての体を本当に所有しているのは至高人格神なのである。
 体は感覚で構成されている。至高主はフリシーケーシャと呼ばれるが、これは「感覚の支配者」という意味である。国における活動のすべてを統治しているのは王であって、国民の支配権は二次的なものでしかないのと同じように、本来、至高主こそが全感覚の支配者なのだ。「私もまた知る者である」と主はおっしゃる。これはすべてを知っておられるのは主であり、個々の魂は自分の体のことしか知らないという意味である。ヴェーダ経典には以下のような記述がある。
kṣetrāṇi hi śarīrāṇi
bījaṁ cāpi śubhāśubhe
tāni vetti sa yogātmā
tataḥ kṣetra-jña ucyate
 体はクシェートラと呼ばれ、中にはその体の所有者と至高主が住んでいる。至高主はその体のことも所有者のことも知っている。したがって主は「あらゆる活動の場を知るお方」と呼ばれる。活動の場、活動を知る者、すべての活動を知る者の区別は次のように説明されている。体の本質、個々の魂の本質、至高の魂の本質に関する完璧な知識をヴェーダ経典ではジュニャーナと呼ぶ。これがクリシュナの意見である。個々の魂と至高の魂は、別ではあるがひとつであるということを理解することが知識なのだ。活動の場と活動を知る者とを理解していない人は完全な知識を持っていないことになる。プラクリティ(自然)、プルシャ(自然を楽しむ者)、イーシュヴァラ(自然と個々の魂を知り、支配する者)の立場をよく理解しておくことが大切であり、この3者それぞれの能力を混同してはならない。画家、絵、イーゼルを区別せよということである。自然とは活動の場であるこの物質世界のことであり、生命体はこの自然を楽しむ。そしてこの両者の上におられるのが至高の支配者なる至高人格神である。ヴェーダの中に次のような言葉がある(『スヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』1-12)bhoktā bhogyaṁ preritāraṁ ca matvā / sarvaṁ proktaṁ tri-vidhaṁ brahmam etat.ブラフマンの概念には3種類ある。プラクリティとは活動の場としてのブラフマンであり、ジーヴァ(個々の魂)は物質自然を支配しようとするブラフマンである。そしてその両方を支配する者もブラフマンであるが、これが本当の支配者なのだ。
 この章では、2種類の知る者のうち一方は誤りを犯しやすく、他方は誤ることがないということも説明されていく。前者が下位で、後者が上位である。活動の場を知るこの2者を同一であると考える者は、至高人格神を否定していることになる。至高人格神は「私もまた活動の場を知る者である」と明言なさっているのだ。ロープを蛇と見間違うのは知識がない人である。体にはさまざまな種類があり、それぞれに所有者がいる。それぞれ物質自然を支配できる能力が異なるため、それに応じた身体が与えられているのである。しかしそのすべての体の中には、主も支配者として宿っておられる。ここで使われている「チャ」というサンスクリット語は重要である。これはすべての体を指している、というのがシュリーラ・バラデーヴァ・ヴィデャーブーシャナの見解である。クリシュナは至高の魂であり、個々の魂とは別にすべての体の中に宿っておられるのだ。そしてクリシュナはここではっきりとおっしゃっている。「真の知識とは、活動の場を支配しているのも、限りある喜びしか受け取れない者を支配しているのも、至高の魂であると知ることである」と。
tat kṣetraṁ yac ca yādṛk ca
yad-vikāri yataś ca yat
sa ca yo yat-prabhāvaś ca
tat samāsena me śṛṇu

訳語

翻訳

では「活動の場」とは何なのか、どんな構成なのか
どのように変化し、またどこから来るのか
「場を知る者」とは誰で、どんな影響を与えるのか
簡潔に説明するのでよく聞きなさい。

解説

 主は「活動の場」と「活動の場を知る者」の本来の立場について説明なさる。この体は何からできているのか、構成している物質は何なのか、誰の支配下で動いているのか、どのように変化を遂げていくのか、その変化はどこから来るのか、何が変化させるのか、変化の理由は何か、個々の魂の究極の目的は何なのか、そして個々の魂の本当の姿は何なのか。人はこれらのことを知っておかなければならない。また個々の命ある魂と至高の魂との違い、それぞれが与える影響の違い、能力の違いなどについても知るべきである。至高人格神が自ら説明してくださっているこの『バガヴァッド・ギーター』を、ただ理解しさえすればよいのだ。そうすればすべてが明らかになる。しかしすべての体に宿っておられる至高人格神を個々の魂である生命体ジーヴァと同じものだと考えないように気をつけなければならない。そのような考え方は、有力と無力を同じとみなすようなものである。
ṛṣibhir bahudhā gītaṁ
chandobhir vividhaiḥ pṛthak
brahma-sūtra-padaiś caiva
hetumadbhir viniścitaiḥ

訳語

翻訳

「活動の場」と「場を知る者」についての知識は
賢者たちがさまざまなヴェーダ文献の中で著してきた。
とりわけ『ヴェーダーンタ・スートラ』の中で
その原因と結果について論理的に述べられている。

解説

 この知識を説明する者として、至高人格神クリシュナ以上の権威者はいない。それでも博識な学者や一般的な権威を持つ者たちは、当然のこととして先の権威者たちの言葉を証拠として挙げる。クリシュナは、最も議論の対象となる個々の魂と至高の魂の二元性と非二元性に関する内容について、権威として認められているヴェーダーンタなる経典を参照しながら説明なさる。まず「これはさまざまな賢者の言葉である」とおっしゃった。クリシュナ以外で賢者といえば、まずヴィヤーサデーヴァ(『ヴェーダーンタ・スートラ』の著者)がその偉大な人物のひとりとして挙げられるだろう。彼は『ヴェーダーンタ・スートラ』の中で、二元性について完璧な説明をしている。またヴィヤーサデーヴァの父であるパラーシャラも偉大な賢者である。彼は宗教に関する著作の中で書いている。aham tvaṁ ca tathānye....「私たち、つまりあなたも私も、その他さまざまな生命体たちも、肉体の中にいるがすべて超越的である。今は個々のカルマに応じて物質自然の三様式にからまってしまい、高い次元にいる者もいれば低い段階の者もいる。高い段階も低い段階も無知ゆえに存在し、無数の生命体の中で作り出されている。しかし完全無欠な至高の魂は自然の三様式に汚されず、超越的な存在である」同様に原書のヴェーダ、特に『カタ・ウパニシャッド』では、魂、至高の魂、体の区別について記されている。このことを説明した偉大な賢者はたくさんいるが、中でもパラーシャラの説明が最も主要であると言われている。
 チャンドービヒとは、さまざまなヴェーダ文献を表すサンスクリット語で、例えばヤジュル・ヴェーダの一派である『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』は、自然、生命体、至高人格神について説いている。
 前述のように、クシェートラとは活動の場のことであり、クシェートラ・ジュニャ(場を知る者)には個々の生命体と至高の生命体の2種類ある。『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』(2-5)に brahma pucchaṁ pratiṣṭhā とあるように、至高主のエネルギーの顕現にはアンナ・マヤとして知られるものがある。これは生存のため食料に依存することであり、至高主の物質的な悟りである。食物の中に絶対真理を悟ると、次にプラーナ・マヤがあり、生命の兆候や生命体の中に絶対真理を見出すことができる。さらにジュニャーナ・マヤでは生命の兆候を超えて、考え、感覚、意欲という段階まで悟りが広がる。そして次はヴィジュニャーナ・マヤと呼ばれるブラフマンの悟りである。この段階では生命体の心や生きている兆候が、生命体そのものとは別のものであることが理解できるようになる。そして最高の段階は、アーナンダ・マヤと呼ばれる至福に満ちた資質の悟りである。このようにブラフマンの悟りには5段階あり、ブラフマ・プッチャムと呼ばれている。このうち最初の3段階であるアンナ・マヤ、プラーナ・マヤ、ジュニャーナ・マヤは、生命体の活動の場に関するものであり、アーナンダ・マヤと呼ばれる至高主はこれらの活動の場を超越しておられる。『ヴェーダーンタ・スートラ』も ānanda-mayo ’bhyāsāt という言葉で、至高人格神は本来喜びに満ちておられると表現している。主は御自身の超越的な至福を味わうために、ヴィジュニャーナ・マヤ、プラーナ・マヤ、ジュニャーナ・マヤ、アンナ・マヤに御自身を拡張されるのだ。活動の場では生命体が喜びの享受者とされているが、アーナンダ・マヤとは別物である。これはつまり、もし生命体がアーナンダ・マヤとつながることを喜びにすると決意すれば、その人は完成に達するということなのだ。以上が、活動の場を最もよく知る至高主とその下位に位置する生命体、活動の場である自然の本当の描写である。私たちは『ヴェーダーンタ・スートラ』すなわち『ブラフマ・スートラ』を通してこの真理を学ばなくてはならない。
 『ブラフマ・スートラ』の教義は原因と結果に従って非常にすばらしく整えられていることが、ここに記されている。スートラすなわち格言の中に次のようなものがある。na viyad aśruteḥ(2-3-2)、nātmā śruteḥ(2-3-18)、parāt tu tac-chruteḥ(2-3-40)である。ひとつめの格言は活動の場を表し、ふたつめは生命体を表し、3つめは至高主すなわち全生命体の中の最高善を表している。
mahā-bhūtāny ahaṅkāro
buddhir avyaktam eva ca
indriyāṇi daśaikaṁ ca
pañca cendriya-gocarāḥ
icchā dveṣaḥ sukhaṁ duḥkhaṁ
saṅghātaś cetanā dhṛtiḥ
etat kṣetraṁ samāsena
sa-vikāram udāhṛtam

訳語

翻訳

五大要素、誤った自我意識、知性、未顕現状態
10の感覚器官、心、5つの感覚の対象、欲望、憎悪
幸福、苦悩、集合、生命の兆候、信念
これらすべては活動の場とその相互作用であるとみなされる。

解説

 偉大な賢者たちによる権威ある言葉やヴェーダ賛歌、『ヴェーダーンタ・スートラ』の格言などから、この世界の構成要素は次のようであることがわかる。まず第一に、土、水、火、空気、空間があり、これは五大要素(マハー・ブータ)である。それから誤った自我意識、知性、未顕現の自然の三様式があり、次に目、耳、鼻、舌、肌という、知識を得るための5つの感覚器官がある。さらに声、足、手、肛門、生殖器という5つの運動器官があり、その上に心がある。心は内部にあるので、内部感覚と呼ばれることもある。つまり心を含めて11の感覚器官があることになる。そして匂い、味、姿、感触、音という感覚の対象が5つあり、以上24項目の集合を活動の場と呼ぶ。この24項目を分析研究すれば、活動の場のことがよく理解できる。次に、粗野な体の五大要素の表れであり相互に作用する欲望、嫌悪、幸福、苦悩(または悲嘆)がある。生きている兆候として意識と信念があるが、これは心、自我、知性という目に見えない体の現れである。活動の場にはこうした目に見えない要素も含まれている。
 五大要素は誤った自我意識が目に見える形で表れたものであり、学術的には物質的概念、すなわちターマサ・ブッディと呼ばれる「無知の中の知性」という最初の段階の自我意識が現れたものである。さらにこれは、物質自然の三様式が姿を現していない段階のことをも表していて、プラダーナと呼ばれている。
 24要素の相互作用についての詳細を知りたい人は、もっと深く哲学を学ぶ必要がある。『バガヴァッド・ギーター』では要点だけが述べられている。
 体とはこうした要因すべてを表しているものであり、誕生、成長、維持、繁殖、退化、そして最後には消滅という6つの変化を遂げる。したがってこの活動の場は永遠に存在するのではなく、物質的な場にすぎない。しかしこの活動の場を知るクシェートラ・ジュニャはこの体の所有者であって、体とは別のものなのである。
amānitvam adambhitvam
ahiṁsā kṣāntir ārjavam
ācāryopāsanaṁ śaucaṁ
sthairyam ātma-vinigrahaḥ
indriyārtheṣu vairāgyam
anahaṅkāra eva ca
janma-mṛtyu-jarā-vyādhi-
duḥkha-doṣānudarśanam
asaktir anabhiṣvaṅgaḥ
putra-dāra-gṛhādiṣu
nityaṁ ca sama-cittatvam
iṣṭāniṣṭopapattiṣu
mayi cānanya-yogena
bhaktir avyabhicāriṇī
vivikta-deśa-sevitvam
aratir jana-saṁsadi
adhyātma-jñāna-nityatvaṁ
tattva-jñānārtha-darśanam
etaj jñānam iti proktam
ajñānaṁ yad ato ’nyathā

訳語

翻訳

謙虚さ、高慢でないこと、非暴力、寛容、実直
真正な精神の師に近づくこと、清潔さ、不動の精神
自制、感覚を満たす対象から心を引き離すこと
誤った自我意識を捨てること
生老病死を苦厄とみなすこと
無執着、妻子や家庭に愛着しないこと
快・不快の状況下でも冷静であること
私に対して不動かつ純粋な献身的姿勢であること
人里離れて独居を望むこと
世間の人々に執着を持たぬこと
自己を悟ることの重要性を認めること
絶対真理を哲学的に探究すること
以上が知識の本質であり
これ以外はすべて無知であると私は明言する。

解説

 知性乏しき者はこの知識への過程を誤解し、これは活動の場の相互作用だと考えることがある。しかし現実にはこれこそが、知識に至る過程である。この過程を受け入れるなら、絶対真理の存在に近づく可能性がある。前にも述べられているように、これは24要素の相互作用ではなく、それらの要素のもつれから抜け出す方法である。体をまとった魂は24要素で覆われた体の罠にかかっているのであり、ここで述べられている知識への過程こそ、その罠から抜け出す方法なのだ。こうした知識への過程に関する記述のうちで、最も重要なのは第11節の1行目の部分である。Mayi cānanya-yogena bhaktir avyabhicāriṇī「知識に至る過程の最終目標は、至高主への純粋な献身奉仕である」。ゆえに主への超越的な奉仕を歩まない、あるいは歩めないなら、ほかの19項目はたいして価値のないものとなる。しかし完全なるクリシュナ意識で献身奉仕に努めるなら、ほかの19項目も自動的に育まれていく。『シュリーマド・バーガヴァタム』(5-18-12)に yasyāsti bhaktir bhagavaty akiñcanā sarvair guṇais tatra samāsate surāḥ と書かれているように、献身奉仕の段階に達した人は知識の優れた質がすべて備わってくる。第8章に書かれているように、精神の師を受け入れることは必須であり、献身奉仕をする者にとっても最重要事項である。超越的生活は真正な精神の師を受け入れた時から始まる。この知識の道こそ真理の道であると、至高人格神シュリー・クリシュナはここで明言なさっている。これ以上のものを思索することは実に無意味なことなのだ。
 ここで挙げられている知識について、以下のように解析できよう。

 「謙虚さ」とは、人から称賛される満足感を追い求めないことである。私たちは人生を物質的にとらえているためになんとか人から讃えられたいと望むが、自分が体ではないという完全な知識を持つ人にとっては、名誉であれ不名誉であれ、体に関することはすべて意味のないことなのだ。このような物質的なものに惑わされ、追い求めてはならない。宗教で名を上げることを切望するあまり、教義を理解しないうちから実際には宗教原則に従っていない団体に所属し、自らをさも良き宗教指導者のように見せたがる人をよく見かける。その人が本当に精神科学において高い段階にあるかどうか、自分の目で確かめてみなければならない。ここに挙げられている項目がその判断基準となるであろう。
 「非暴力」とは、一般的に殺さないことや、体に危害を加えないという意味にとられているが、本当の意味は「他者に苦悩を与えないこと」である。一般の人々は物質的な概念で人生を送り、無知に捕らわれてしまっているため、絶えず物質的な苦しみを味わっている。ゆえに人々を精神的知識の段階にまで引き上げようとしないかぎり、暴力を奮っているのと同じことなのだ。全力を尽くして真の知識を広め、人々が目覚めてこの物質にからまってしまった世界から抜け出せるようにしなければならない。これが非暴力である。
 「寛容」とは、他人から受ける誹謗中傷に耐えることである。精神知識を高めていく途上で人から侮辱されたり屈辱を受けたりすることがよくあるが、物質自然とはそのようにできているので、これは避けられないことなのだ。プラフラーダはわずか5才で精神的知識を培っていたが、その献身を敵視する父親によって身の危険にさらされた。あらゆる手段を使って息子を殺そうとした父に対してもプラフラーダは寛容であった。精神的知識を高めていこうとするとたくさんの妨害に見舞われるが、忍耐強くあり、固い決意を持って進み続けなくてはならない。
 「実直」とは、駆け引きなく、たとえ敵に対してでも真実を明かせるほどに正直でいることである。

 精神の師を受け入れること、これは必須である。なぜなら真正な精神の師から指導を受けなければ、精神科学においての向上など望めないからだ。人は謙虚な姿勢で精神の師のもとへ行き、あらゆる奉仕を尽くさなくてはならない。そうすれば師は喜び、弟子に祝福を与える。真正な精神の師はクリシュナの代表者なので、その師から祝福を得た弟子は、たとえ規定原則に従っていなくても直ちに向上することができる。また一切の疑念なく師に仕える者は規定原則を守ることが容易になるのだ。
 「清潔さ」は、精神生活を向上させていくためには欠くことができない。清潔さには、外的なものと内的なものの2種類ある。外的な清潔さとは沐浴をすることであり、内的清潔さを保つためには絶えずクリシュナを心に想い、「ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー / ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー」を唱えなくてはならない。この方法により、過去から積もり積もったカルマが心の中から一掃されるのである。
 「不動の信念」とは、精神生活を向上させる強い決意を持つという意味である。決意なくして向上は望めない。

 「自制」とは、精神生活を向上させていく上で有害となるものを受け入れないということである。これを常なることとして、精神的向上を妨げるものはすべて遠ざけなくてはならない。これが本当の放棄である。諸感覚は非常に強力で常に満たされることを渇望しているが、こうした不必要な要求を満たしてはならない。体を健康に保って精神生活を向上させ、義務を遂行するという目的で感覚は満たされるべきなのだ。中でも最も重要かつ自制しがたい感覚は舌である。舌をコントロールできる人は、ほかの感覚器官をも制御することができるであろう。味わうことと声を出すことが、舌の働きである。ゆえに、舌はいつもクリシュナに捧げた供物を味わい、ハレークリシュナを唱えていなければならない。また目に関しては、クリシュナの美しいお姿だけを見るようにしなければならない。そうすることで目を自制させることができる。同様に、耳はクリシュナに関することを聞くことに、鼻はクリシュナに捧げた花の香りを嗅ぐことに使うべきである。これが献身奉仕の道であり、『バガヴァッド・ギーター』は献身奉仕の科学を詳しく説くものであることがここで理解できる。献身奉仕は主要かつ唯一の方法なのだ。知性乏しき『バガヴァッド・ギーター』の解説者は読者の心をほかに向けようとするが、『バガヴァッド・ギーター』には献身奉仕以外の主題などない。
 「誤った自我意識」とは、体が自分だと考えることである。自分は体ではなく精神的な魂なのだと理解できたとき、人は本当の自我意識に目覚める。自我意識は存在する。誤った自我意識は望ましくないが、真の自我は望ましい。ヴェーダ文献(『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』1-4-10)には、ahaṁ brahmāsmi「私はブラフマンであり、魂である」と書かれている。「私は」という自我意識は、自己の悟りを得た解放された段階にも存在する。この「私は」という意識が自我意識であるが、それが肉体を指して使われるなら「誤った自我意識」であり、真実に適応されるなら、それは真の自我である。「自我意識を捨てよ」と説く哲学者もいるが、これは無理なことである。自我意識とは、自分が何者であるかということだからである。しかし体を自分だとみなす誤った考えは、もちろん捨てなくてはならない。
 私たちは、生老病死が苦しみのもとであることを理解するよう努めなくてはならない。誕生に関してはさまざまなヴェーダ文献が言及していて、『シュリーマド・バーガヴァタム』の中では、子供がまだ生まれる前の世界観が書かれている。母親の子宮の中で苦しんでいる状態などをすべて細やかに描写している。誕生とは苦しみに満ちたものであることをよく知っておかなければならない。母親の子宮の中がどれほど苦しかったか覚えていないため、私たちは生と死の繰り返しに対して解決法を見い出せずにいるのだ。誕生と同様に死ぬ時にもありとあらゆる苦しみが伴い、そのことも権威ある経典にはすべて記されている。こうしたことを話し合うべきである。病気や年をとることは誰もが実際に経験している。病気になりたい人も老人になりたい人もいないのだが、これは避けては通れない。生老病死についてよく考え、物質的なこの生活に対して悲観的な考えを持たないかぎり、精神生活を向上させようという原動力は得られない。
 「妻子や家庭に愛着しない」とは、これらに何の感情も持つなという意味ではない。妻子や家庭が愛情の対象となるのはごく自然なこと。しかしそれらが精神的に向上する上で好ましくないならば、執着しないようにすべきである。家庭を快適な場所にする最良の方法はクリシュナ意識である。完全にクリシュナ意識である人は家庭をとても幸せにできる。クリシュナ意識は非常に簡単な方法だからだ。すべきことはただ「ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー / ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー」を唱え、クリシュナに捧げた供物を食べ、『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』のような本について話し合い、神像の崇拝をするだけである。これら4つのことは人を幸せにする。このように家族を養成すべきなのだ。家族が朝晩一緒に座って「ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー / ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー」と唱える。このように家庭生活を送り、4つの原則を守ってクリシュナ意識を高めていくことができるなら、家庭生活を放棄する必要はない。しかしそのような協力を得られず、精神生活の向上に好ましくないような家庭生活なら、捨てるべきである。アルジュナがしたのと同じように、私たちもまたクリシュナを悟りクリシュナに仕えるためにすべてを差し出すべきなのだ。アルジュナは親族を殺したくなかった。しかしクリシュナを悟る上でこの親族が障害となることを理解したとき、クリシュナの教えを受け入れて戦うことを決意し、彼らを殺したのである。いかなる状況にあろうと、人は家庭生活のもたらす幸や不幸に執着してはならない。なぜならこの世界には完全なる幸せも完全なる不幸も存在しないからである。
 幸せも不幸せも、物質生活に付随する要因である。『バガヴァッド・ギーター』で勧められているように、耐えることを学ばなくてはならない。来ては去っていく幸や不幸に振り回されないためには物質的な生活に執着せず、どちらの状況にあっても穏やかな心でいられるように努めることである。人は欲しいものが手に入ると非常に喜び、避けたいものが来ると落胆する。しかし本当に精神的な段階にいれば、そうしたことに心が乱されることはない。そのような段階になるためには、確固たる不動の献身奉仕を行わなくてはならない。逸れることなくクリシュナに仕えるということは、聴く、唱える、崇拝する、尊敬の礼を捧げるなど、第9章の最終節で説明されている9つの献身奉仕に就くということであり、この方法に従わなくてはならないのである。
 精神的な生活に入った人は、物質的な人と交わるのが嫌になってくる。自分の性に合わなくなってしまうからだ。自分の気持ちが、好ましくない交際を避けて人里離れた場所に住みたいという思いからどれほどかけ離れたものであるか、見つめてみるといい。献身者は不必要なスポーツや、映画や、社交の催しなどに、自然と関心を失くしていく。そうしたことは時間の無駄でしかないとわかっているからだ。世の中には性生活やその他のことについて研究を重ねる学者や哲学者が大勢いるが、『バガヴァッド・ギーター』によれば、そのような研究や哲学的思索には何の価値もなく、まず意味のないことである。魂の質について哲学的に探究せよと『バガヴァッド・ギーター』は勧める。人が研究すべきは自己についてであると、ここで勧められているのである。
 自己を悟る方法としては、バクティ・ヨーガが格段に実践的であるとここに明示されている。献身に対して疑問が湧けば、直ちに至高の魂と個々の魂との関係について考えてみることだ。このふたつは同じではない。少なくともバクティという概念、すなわち献身的な生き方の概念においては別のものである。ここで明確に述べられているように、個々の魂が至高の魂に仕える行為はニッティヤム、すなわち永遠である。したがって、バクティすなわち献身奉仕は永遠なのだ。この哲学的確信を培わなくてはならない。
 『シュリーマド・バーガヴァタム』(1-2-11)にはこのことが説明されている。Vadanti tat tattva-vidas tattvaṁ yaj jñānam advayam.「絶対真理を真に悟った者は、絶対真理にはブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンという3つの段階の悟りがあることを理解している」。バガヴァーンこそ絶対真理の完全な悟りである。ゆえに人は至高人格神をそのように理解できる段階に達し、献身をこめて主に仕えなくてはならない。これが知識の完成である。
 謙虚さを身に着ける段階から至高の真実、すなわち絶対的たる至高人格神を悟る段階に到るまでのこの方法は、1階から最上階まで昇る階段のようなものである。たくさんの人がこの階段を昇り、2階まで行けた人もいれば、3階、4階まで行けた人もいる。しかしクリシュナを理解するという最上階まで行かないかぎり、低い知識の段階にいることになる。神と肩を並べながら精神的知識を高めようとする者に待ち受ける結果は、挫折でしかない。謙遜なくして理解はあり得ないと明確に述べられている。自分を神だと思うこと以上の思い上がりはない。物質自然の厳しい法則に打ちひしがれる状態でありながらも、人は無知ゆえに「私は神だ」と思う。ゆえに知識の第一歩はアマーニトヴァすなわち謙虚さなのである。人は謙虚になり、自分は至高主に仕える者であることを知らなくてはならない。至高主に逆らっているために、人は物質自然の言いなりになっているのである。私たちはこの真実を確信しなくてはならない。
jñeyaṁ yat tat pravakṣyāmi
yaj jñātvāmṛtam aśnute
anādi mat-paraṁ brahma
na sat tan nāsad ucyate

訳語

翻訳

では知り得る者について説明しよう。
君はこれを知り、永遠性を経験できよう。
ブラフマンすなわち精神には始まりがなく
私に従属し、この物質界の影響を超えている。

解説

 主は、「活動の場」と「活動の場の認識者」について説明してくださり、さらに「活動の場の認識者」を知る方法も話してくださった。そして今、知り得る者について話し始めようとなさっている。まず魂について、次に至高の魂についてである。魂と至高の魂という、両方の認識者についての知識を得ることによって、人は人生の甘露を味わうことができる。第2章で説明したように、生命体は永遠である。このこともここで確証されている。ジーヴァが誕生した特定の日はないし、ジーヴァートマー※が至高主から現れた歴史をたどることも、誰にもできない。つまり始まりがないのである。 na jāyate mriyate vā vipaścit(『カタ・ウパニシャッド』1-2-18)というヴェーダの節はこのことを確証している。体の認識者には誕生も死もなく、知識であふれているのだ。
 ヴェーダ文献(『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』6-16)には、至高の魂としての至高主は pradhāna-kṣetrajña-patir guṇeśaḥ すなわち体を知る者の最たるお方であり、物質自然の三様式の支配者であることも述べられている。またスムリティには dāsa-bhūto harer eva nānyasyaiva kadācana と書かれている。生命体は永遠に至高主の奉仕に就いているのだ。主チャイタニヤも教えの中でこのことを確証なさっている。したがって、この節に書かれているブラフマンについての記述は個々の魂に関するものである。ブラフマンという言葉が生命体に対して用いられている場合、それはアーナンダ・ブラフマではなく、ヴィジュニャーナ・ブラフマであると理解しなくてはならない。アーナンダ・ブラフマとは、至高人格神ブラフマンのことなのである。

※ジーヴァ、ジーヴァートマーとは、個々に自己を持つ、意識の小さい一部分を指す。無限のジーヴァが存在し、それらのすべてが至高主に依存している。
sarvataḥ pāṇi-pādaṁ tat
sarvato ’kṣi-śiro-mukham
sarvataḥ śrutimal loke
sarvam āvṛtya tiṣṭhati

訳語

翻訳

あらゆるところに主の手あり、足あり
目も頭も顔も、至る所にある。
至高の魂はこのように存在し
あまねく遍在している。

解説

 無限の光線を発しながら存在している太陽と同じように、至高の魂すなわち至高人格神も存在しておられる。主はすべてに遍在する姿で存在され、その中に偉大な師であるブラフマーから小さな蟻に至るまで、全生命体が存在している。頭も足も手も目も無限にあり、生命体も無限にいる。そのすべてが至高の魂の中に存在し、依存している。ゆえに至高の魂はあらゆるところに遍在しておられるのである。しかし個々の魂はどこにでも手や足や目があるわけではない。そんなことは不可能である。「私は無知ゆえに自分の手足が至る所に広がっていることを認識できない。しかし正しい知識を得れば認識できるようになるのだ」と思っているならば、そのような考えは矛盾している。個々の魂は物質自然によって制約を受けていて、至高ではない。至高主と個々の魂はまったく別のものなのだ。至高主はその手を限りなく広げることができるが、個々の魂にはできない。『バガヴァッド・ギーター』の中で主は、私たちが花や果物やわずかな水でも捧げるなら受け入れるとおっしゃっている。もし主が遠く離れたところにおられるなら、どうして受け入れることができるだろうか? 地球から遠く離れたお住まいに居ながらにして、手を伸ばして誰からの捧げ物でもお受け取りになる 。これが主の全能なる証あかし、すなわち無限なる力なのである。『ブラフマ・サンヒター』(5-37)には goloka eva nivasaty akhilātma-bhūtaḥ とある。主はいつも超越的な惑星で崇高な活動を繰り広げながらも、あまねく遍満しておられるが、個々の魂がどこにでも遍在することはない。したがってこの節は個々の魂ではなく、至高の魂すなわち至高人格神について述べているのである。
sarvendriya-guṇābhāsaṁ
sarvendriya-vivarjitam
asaktaṁ sarva-bhṛc caiva
nirguṇaṁ guṇa-bhoktṛ ca

訳語

翻訳

至高の魂は全感覚の源であるが
感覚を持たない。
すべての生命体を養うお方であるが
何にも執着しない。
自然の様式を超越していると同時に
その様式のすべてを支配している。

解説

 至高主は生命体の全感覚の源ではあるが、生命体のような物質的感覚は持っておられない。個々の魂は実際には精神的感覚を持っているのだが、制約された生活の中にいて、物質的要素で覆われた状態にある。ゆえに感覚的活動は物質を通して現れるのだ。しかし至高主の感覚はそのように覆われることなく、超越的である。ゆえにニルグナと呼ばれる。グナとは物質的な様式という意味であるが、主の感覚は物質に覆われていない。主の感覚は私たちの感覚とは違うということを知っておかなければならない。主は私たちの感覚に基づいた行動すべての源ではあるが、御自身の感覚は超越的で決して汚れることがない。このことは『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』(3-19)にある apāṇi-pādo javano grahītā の節の中でうまく説明されている。至高主には物質で汚れた手はないが、捧げられた物を受け取る手はある。これが制約された魂と至高の魂との違いである。至高主は、物質的な目ではないが目をお持ちであることは間違いない。でなければどうして見ることができるだろうか? 主は過去、現在、未来すべてをご覧になっている。生きとし生けるもののハートの中に宿り、私たちが過去にしたこと、現在していること、そして未来に私たちを待ち受けていることのすべてをご存知なのだ。このことも『バガヴァッド・ギーター』の中で「主はすべてをご存知であるが、誰も主のことを知らない」という言葉で確証されている。至高主には私たちのような足はないが精神的な足をお持ちになり、宇宙中を行き交うことができると書かれている。言い換えれば、主は意識のない存在ではないというということである。目も足も手もすべてお持ちなのだ。そして私たちもそうしたものを持っているのは、私たちが至高主の一部分だからである。しかし主の手足や目、感覚器官は、物質自然に汚されていない。
 主が現れるときは御自身の内的エネルギーによって本来のお姿のままで現れると、『バガヴァッド・ギーター』も確証している。至高主は物質エネルギーの主であるため、そのエネルギーに汚されたりはしない。主の現れそのものが精神的であると、ヴェーダ文献に書かれている。サッ・チッド・アーナンダ・ヴィグラハという永遠の姿をお持ちなのだ。主はあらゆる富に満ち、すべての富を所有し、あらゆるエネルギーの持ち主でもある。最も知性的なお方であり、知識に満ちておられる。これらが至高人格神の兆候の一部である。主は生命体すべてを維持し、活動のすべてをご覧になっている。ヴェーダ経典を通して理解するかぎり、至高主は常に超越的である。主の頭や顔や手足は今の私たちには見えないが、私たちが超越的な段階まで高まったなら、そのお姿を見ることができる。したがって物質的な影響を受けている段階の非人格主義者たちには、至高人格神を理解することができないのである。
bahir antaś ca bhūtānām
acaraṁ caram eva ca
sūkṣmatvāt tad avijñeyaṁ
dūra-sthaṁ cāntike ca tat

訳語

翻訳

動くもの動かぬものすべての生命体の
内にも外にも至上真理は存在している。
至上真理は精妙であり
物質的感覚では見ることも理解することもできない。
はるか遠くに存在しているのだが
またすべての者の近くにもいる。

解説

 ヴェーダ文献を読むと、至高主ナーラーヤナはすべての生命体の内にも外にも存在していることがわかる。精神界にも物質界にも住んでおられて、私たちからはるか遠く離れているにもかかわらず、すぐそばにもいる。ヴェーダ文献には次のような記述がある。Āsīno dūraṁ vrajati śayāno yāti sarvataḥ(『カタ・ウパニシャッド』1-2-21)主はいつも超越的な喜びの中にいらっしゃるが、私たちには主がどのようにその完全なる富を味わっておられるか理解できない。物質的な感覚では見ることも理解することもできないのだ。ヴェーダの声明の中でも、私たちの物質的な心や感覚では至高主を理解することはできないとある。しかし献身奉仕でクリシュナ意識を修練して心と感覚を浄化した人は、いつもクリシュナを見ることができる。『ブラフマ・サンヒター』の中でも、至高なる神への愛を育んだ者は途切れることなくいつも主を見ていることができると確証されている。また『バガヴァッド・ギーター』(11-54)でも、Bhaktyā tv ananyayā śakyaḥ「献身奉仕によってのみ、主を見、理解できる」と書かれている。
avibhaktaṁ ca bhūteṣu
vibhaktam iva ca sthitam
bhūta-bhartṛ ca taj jñeyaṁ
grasiṣṇu prabhaviṣṇu ca

訳語

翻訳

至高の魂はすべての生き物の中に分かれているように思われるが
決して分離することなく、常にひとつである。
至高の魂はすべての生命体を維持しているが
すべてを滅ぼし、育てるのだと理解せよ。

解説

 主はすべての者の中に至高の魂として宿っておられる。これは主が分離しているということだろうか? そうではない。主はひとつなのだ。太陽の例が挙げられる。太陽は正午には子午線にある。しかしいろんな方向に5000マイル行って「太陽はどこか?」とそれぞれに尋ねても、誰も皆「頭上で輝いてますよ」と同じ答えをするだろう。ヴェーダ文献では、至高主は分離していないが分離しているかのように存在しているということを表すために、この例が用いられている。またヴェーダ文献では、太陽がさまざまな場所に現れると多くの人々に思われているのと同じように、ヴィシュヌは全能であるがゆえに、ひとりでありながらどこにでも存在するのだと書かれている。そして至高主はすべての生命体を維持なさると同時に、破壊の時にはすべてを滅ぼしてしまわれる。このことは第11章で「私はクルクシェートラに集まったすべての戦士たちを滅ぼすためにやって来た」と主御自身がおっしゃったことで確証されている。また「時」という姿ですべてを滅ぼすとも述べられている。主は破壊者であり、万物を殺すお方である。創造が行われると主はすべてを原初の段階から育て上げ、破壊の時が来ればすべてを滅ぼしてしまわれる。主が生きとし生ける者の源であり、休息の場でもあるという事実をヴェーダの詩節は確証している。創造のあとすべては全能なる主に支えられ、破壊のあとまた主の中に戻って休む。ヴェーダの詩節はそのことを明示している。Yato vā imāni bhūtāni jāyante yena jātāni jīvanti yat prayanty abhisaṁ viśanti tad brahma tad vijijñāsasva(『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』3-1)
jyotiṣām api taj jyotis
tamasaḥ param ucyate
jñānaṁ jñeyaṁ jñāna-gamyaṁ
hṛdi sarvasya viṣṭhitam

訳語

翻訳

主は輝くものすべての光の源であり
物質の闇を超越し、不顕現である。
主は知識であり、知識の対象であり、知識の目的であり
生きとし生ける者のハートに宿っている。

解説

 至高の魂すなわち至高人格神は、太陽、月、星など、あらゆる輝く物体の光の源である。精神王国は至高主の光輝で満ちているため、太陽も月も必要ないとヴェーダ文献には書かれている。物質世界ではブラフマジョーティル、すなわち主の精神的光輝が物質要素のマハット・タットヴァ※で覆われているため、太陽や月、星、電気の明かりが必要である。しかし精神界ではそのようなものは必要ない。主の輝きがすべてを照らしているからだとヴェーダ文献に明記されている。したがって、主が物質世界にいないことは明らかである。主ははるか遠くにある精神界にいらっしゃるのだ。このこともヴェーダ文献で確証されている。Āditya-varṇaṁ tamasaḥ parastāt(『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』3-8)主はまるで太陽のように永遠に輝くお方であるが、この物質世界の暗闇を超えたはるか遠いところにおられる。
 主の知識は超越的である。ブラフマンは超越的知識の集約であるとヴェーダ文献は確証している。精神界へ移り住みたいと望む者には、各自のハートに宿る至高主が知識を与えてくださる。あるヴェーダマントラ(『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』6-18)はこのように言う。taṁ ha devam ātma-buddhi-prakāśaṁ mumukṣur vai śaraṇam ahaṁ prapadye.いやしくも解放を望む者は、至高人格神に身を委ねなくてはならない。ヴェーダ文献には目標となる究極の知識についても、次のように書かれている。tam eva viditvāti mṛtyum eti「生と死の境界線を越える唯一の方法は、主を知ることである」(『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』3-8)。
 主は至高の支配者として、すべての者のハートの中におられる。主には手も足もあり、至るところに広がっている。しかしこれは個々の魂には当てはまらない。ゆえに活動の場を知る者には、個々の魂と至高の魂という2種類が存在するということを認めなくてはならない。私たちの手足は自分の周りにしか伸ばせないが、クリシュナの手足はどこにでも行けるのだ。このことは『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』(3-17)で、sarvasya prabhum īśānaṁ sarvasya śaraṇaṁ bṛhat と確証されている。至高人格神すなわち至高の魂は、プラブつまり生きとし生ける者すべての主人なので、主こそがすべての生命体にとっての究極的な保護地なのである。したがって、至高の魂と個々の魂は常に別のものであるという事実を否定してはならない。

※マハット・タットヴァとは、プラクリティから発生する最初の要素であり、最も微細な状態の物質である。根源の、総物質エネルギーから未分化のもので、マハット・タットヴァから物質界が顕現する。
iti kṣetraṁ tathā jñānaṁ
jñeyaṁ coktaṁ samāsataḥ
mad-bhakta etad vijñāya
mad-bhāvāyopapadyate

訳語

翻訳

これで活動の場(体)、知識、知り得る者について簡潔に語った。
これを完全に理解して私のもとに来ることができるのは
我が献身者のほかにはいない。

解説

 体と知識と知り得る者について、主は簡潔に説明なさった。これは知る者、知り得る者、知る過程という3つのことに関する知識である。これらを総称してヴィジュニャーナすなわち知識の科学と呼ぶ。主の純粋な献身者はこの完璧な知識を理解することができるが、それ以外の人にはできない。一元論者はこの3つの項目が究極的な段階でひとつになると言うが、献身者はそのような考え方を受け入れない。クリシュナ意識の中で自己を理解することが知識であり、知識の向上である。私たちは物質的な意識に先導されているが、すべての意識をクリシュナの活動へ向けてクリシュナこそがすべてであると悟ったとたんに、真の知識を手に入れることができるのだ。言い換えれば知識とは、献身奉仕を完全に理解するための予備的な段階でしかないということである。第15章ではこのことが明確に説明されている。
 要約すると、第6節と第7節の mahā-bhūtāni から cetanā dhṛtiḥ までの部分は、物質要素と命の兆候のある特定の顕現について分析したものであることがわかるであろう。そして第8節から第12節の amānitvam から tattva-jñānārtha-darśanam までの部分は、活動の場を知る者、すなわち魂と至高の魂の両方を知る過程について述べられており、第13節から第18節の anādi mat-param から hṛdi sarvasya viṣṭhitam までの部分は、魂と至高主、すなわち至高の魂について説明されている。
 このように、活動の場(体)、理解する過程、魂と至高の魂の両方という3つの項目について述べられているのである。ここでは特に、この3つの項目を明確に理解できるのは純粋な献身者だけだと書かれている。こうした献身者にとって『バガヴァッド・ギーター』は完全に有益であり、彼らは至高主クリシュナの特質という至高の目的に達成するのだ。つまり『バガヴァッド・ギーター』を理解し、望ましい結果を得ることができるのは、ほかならぬ献身者だけだということである。
prakṛtiṁ puruṣaṁ caiva
viddhy anādī ubhāv api
vikārāṁś ca guṇāṁś caiva
viddhi prakṛti-sambhavān

訳語

翻訳

物質自然にも生命体にも
始まりはないと理解せよ。
そこに生じる変化も物質の様式も
物質自然の産物である。

解説

 この章で与えられる知識によって、体(活動の場)と、体を知る者(個々の魂と至高の魂の両方)について理解することができる。体は活動の場であり、物質自然で構成されている。肉体をまとってその活動を楽しんでいる個々の魂は、プルシャすなわち生命体である。彼もひとりの「知る者」であり、もうひとりの「知る者」は至高の魂である。もちろん至高の魂も個々の魂も、それぞれ至高人格神から違った形で現れたものであるということを理解しておかなければならない。生命体は主のエネルギーに属していて、至高の魂は主ご自身の拡張体に区分される。
 物質自然も生命体も共に永遠である。つまりどちらも創造の以前から存在していたということになる。物質顕現は至高主のエネルギーから生じ、生命体も同じであるが、生命体は高位エネルギーに属する。生命体も物質自然も、この宇宙が現れる以前から存在していたのだ。物質自然は至高人格神であるマハー・ヴィシュヌの中に吸収されていて、必要とされる時にマハット・タットヴァを媒介として現れる。同様に生命体も主の中にいるのだが、制約されていて至高主に仕えることを嫌うため、精神界に入れてもらえない。しかし物質自然の現れとともにこうした生命体たちにも再び物質界で活動する機会が与えられ、精神界に入って行く準備をすることができる。これが物質創造の神秘である。実際、生命体はもともと至高主の精神的な一部分なのだが、反抗的な性質のために物質自然の中で制約を受けているのだ。至高主の高位エネルギーである生命体がどのようにして物質自然と関わるようになったのかということは重要ではない。なぜ、どのようにしてそうなったのかは、至高人格神が熟知しておられる。「物質自然に魅了された者は、存在のためにもがき苦しむ」と主は経典の中でおっしゃっている。しかし私たちは、いかなる変化も物質自然の三様式による影響もすべて物質自然の産物であるということを、これらの節の説明から正しく知らなくてはならない。生命体に関するあらゆる変化や多様性は、体が原因で起こる。精神的な魂に関するかぎり、生命体は変わることなく常に同じなのである。
kārya-kāraṇa-kartṛtve
hetuḥ prakṛtir ucyate
puruṣaḥ sukha-duḥkhānāṁ
bhoktṛtve hetur ucyate

訳語

翻訳

物質自然はあらゆる物質的原因と結果の根源だと言えるが
この世界の多種多様な苦楽の原因は生命体である。

解説

 生命体の体や感覚に現れるさまざまな兆候は、物質自然がその原因である。840万種類ある生命体の多様性はすべて物質自然が作り出したものであり、個々のさまざまな快楽に応じて生じ、それによってどの体の中に住みたいかを望むのである。そして入った体の種類に応じて、さまざまな喜びを感じたり苦しみを味わうことになる。そうした物質的な幸不幸は体に由来したものであって、生命体自身とは何の関係もない。生命体は本来喜びに満ちたものであり、それが本当の状態なのである。しかし物質自然を支配したいと望んだために物質界にいるのだ。精神界にはそのような望みは存在しない。精神界は純粋であるが、物質界では体が求めるありとあらゆる喜びを求めて、誰もが必死になっている。この体は感覚的欲望の結果だと表現したほうが明確かもしれない。感覚は望みを満たすための道具である。生命体は物質自然から体と諸感覚を合わせて与えられ、次の節で明らかにされているように、過去に抱いた望みや行動によって、恵まれた環境に生まれたり苦悩に満ちた環境に生まれたりする。その人の望みと行動によって、物質自然は生命体をさまざまな環境に置くのである。ゆえに次にどのような境遇に生まれるのか、どのような苦楽を与えられるのかは、今いかに生きているかによって決まるのだ。そしてひとたび特定の体に入れられると、生命体は物質自然の支配下に置かれる。物質である体が自然の法則に従うからである。この時点で生命体には自然の法則を変える力はない。例えば犬の体を与えられた生命体は、その体に入ったとたんに犬として行動しなくてはならず、それ以外のもののようにふるまうことはできない。また豚の体に入れられた生命体は糞を食べることを強いられ、豚として行動する。同様に神々の体を与えられれば、神々としてふるまわなくてはならない。これが自然の法則である。しかしどの境遇にあろうとも、至高の魂は個々の魂と共にいてくださる。このことはヴェーダ経典(『ムンダカ・ウパニシャッド』3-1-1)の中で、dvā suparṇā sayujā sakhāyaḥ と説明されている。至高主は生命体に対してとても優しく、個々の魂がいかなる環境にあろうとも至高の魂、すなわちパラマートマーとして寄り添ってくださるのである。
puruṣaḥ prakṛti-stho hi
bhuṅkte prakṛti-jān guṇān
kāraṇaṁ guṇa-saṅgo ’sya
sad-asad-yoni-janmasu

訳語

翻訳

物質自然の中に存在する生命体は
その生活様式に従い、自然の三様式を楽しむ。
それは物質自然と関わるからである。
このように生命体はさまざまな体の中で
善や悪に遭遇する。

解説

 この節は生命体がどのようにしてある体から別の体へと移っていくのかを理解する上で、とても重要である。第2章では生命体はまるで服を着替えるように別の体に移っていくと説明されているが、生命体が物質存在に執着しているがために、そのように服を着替えることになるのである。この偽りの現象に心を奪われているかぎり、いつまでも次から次へと体を変え続けなくてはならない。物質自然を操ろうとするから、そのような不快な状況に陥れられるのだ。物質的な望みに影響されて生命体は神になったり、人間になったり、動物、鳥、ミミズ、水生動物などになったり、また聖人になることもあれば、虫になることもある。このようなことが続いていくのだ。そしてどの体の中に入っていても自分がその環境での主人だと思い込んでいるが、実際には物質自然の影響下にいるにすぎない。
 生命体がどのようにしてそれぞれの体に入れられるのかがここに説明されている。それは物質自然と関わりを持ったためである。ゆえに人は立ち上がり、物質の三様式を超えて超越的な段階に身を置かなくてはならない。これこそクリシュナ意識と呼ばれるものである。クリシュナ意識にならないかぎり、物質的な意識によって次々と体を変えていくことを強いられる。太古の昔からずっと物質的な望みを持ってきたからであるが、こうした概念を変えなくてはならない。そのような変化は、権威ある人々の言葉に耳を傾けることによってのみ可能となる。その最良の例がここにある。アルジュナはクリシュナから神の科学を学んだ。もし生命体がこの聴くというプロセスに従うならば、長年抱いてきた物質自然を支配したいという望みが失われていく。そしてその失った望みに比例した分だけ、精神的な幸福を味わうようになっていくのだ。あるヴェーダのマントラは言う。「 至高人格神との交際の中で学んだ分だけ、人は永遠なる至福の生活を楽しむことになるのだ」と。
upadraṣṭānumantā ca
bhartā bhoktā maheśvaraḥ
paramātmeti cāpy ukto
dehe ’smin puruṣaḥ paraḥ

訳語

翻訳

さらにこの体の中にはもうひとり
超越的な喜びの享受者である主が宿っている。
主は至高の所有者であり
生命体を監督し行動を認可する者であり
至高の魂として知られている。

解説

 個々の魂といつも共にいてくださる至高の魂は、至高主の代理であるとここに書かれている。主は普通の生命体ではない。一元論派の哲学者たちは体を知る者はひとりであると考え、至高の魂と個々の魂の間には何の違いもないと思っている。この点を明らかにするために、主はすべての体の中にパラマートマーとして現れているとおっしゃっている。主は個々の魂とは違い、パラすなわち超越的なのだ。個々の魂は特定の場での活動を楽しむだけであるのに対し、至高の魂は限りない喜びを味わい、肉体的活動に加わるわけでもなく、証人として、監督者として、許可を与える者として、至高の喜びの享受者として宿っておられる。主のお名前はパラマートマーであり、アートマーではない。主は超越的なのだ。アートマーとパラマートマーが別のものであることは、疑いもなく明らかなことである。至高の魂すなわちパラマートマーの手足はあらゆるところに存在しているが、個々の魂はそうではない。またパラマートマーは至高主であるため、個々の魂が物質的に楽しもうとすることを内から認可しておられる。至高の魂の許可なくして個々の魂は何もできない。個々はブクタ、すなわち維持される者であり、主はボクター、すなわち維持するお方なのである。生命体は無数に存在するが、主はそのすべての中に友として宿っておられる。
 個々の生命体は皆、永遠に至高主の一部分であり、両者は非常に親密な友人関係にある。これが真実である。しかし生命体は至高主の認可に反抗する傾向があり、自然を支配しようとして勝手な行動をとる。このような傾向があるため、生命体は至高主の境界エネルギーと呼ばれるのだ。生命体は境界エネルギーあるいは精神的エネルギーの、どちらにも位置することができる。生命体が物質エネルギーに制約されているかぎり、至高主は友すなわち至高の魂として共にいて、なんとか精神エネルギーに戻してやろうとしてくださる。主はいつもそうしてやりたいと思っていてくださるのだが、わずかな独立性を持つ生命体は、いつも精神的な光と関わることを拒む。この独立性の誤用のために、人は制約された物質自然の中で苦闘しているのである。ゆえに主は常に内からも外からも指示を与えておられる。外からは『バガヴァッド・ギーター』に書かれているように教えを授けてくださり、内からは物質次元の活動は本当の幸せをもたらさないということをわからせようとなさっている。「もうそんなことはやめて私のほうを向きなさい。私に信念を持ちなさい。そうすれば幸せになれるのだ」と主はおっしゃる。そしてパラマートマーすなわち至高人格神に信念を持つ知性ある人は、至福と知識にあふれた永遠の人生に向かって歩を進めるのである。
ya evaṁ vetti puruṣaṁ
prakṛtiṁ ca guṇaiḥ saha
sarvathā vartamāno ’pi
na sa bhūyo ’bhijāyate

訳語

翻訳

物質自然、生命体、自然の様式の相互作用に関する
この哲学を理解する者は
必ず解放を得る。
現在どのような境遇にあろうと
決してこの世界に再び誕生することはない。

解説

 物質自然、至高の魂、個々の魂、これらの相互関係について明確な理解をする人は、解放される資格を得て精神的な次元に達し、もはやこの物質自然に戻されることはない。これが知識の結果である。知識の目的とは、生命体は偶然この物質存在の世界に堕ちてきたのだということを明確に理解することである。自ら進んで権威者や賢者や精神の師の交際を求め、自分本来の立場をよく理解して、至高人格神が説明なさった『バガヴァッド・ギーター』を学ぶことにより、精神的な意識すなわちクリシュナ意識を取り戻さなくてはならない。そうすればこの物質存在に戻らないことは確実となり、知識と喜びにあふれた永遠の生活を送るため精神界に移されるのである。
dhyānenātmani paśyanti
kecid ātmānam ātmanā
anye sāṅkhyena yogena
karma-yogena cāpare

訳語

翻訳

至高の魂を
瞑想によって自分の中に知覚する者もいれば
知識を培うことによって知覚する者もいる。
また結果を求めず働くことによって知覚する者もいる。

解説

 自己の悟りの探究に関し、制約された魂は2種類に分類できると、主はアルジュナにおっしゃった。無神論者、不可知論者、懐疑論者などは精神的理解の枠外にいるが、そのほかにも、精神生活の理解に信念を持っている人々がいる。内観的な献身者、哲学者、結果を求めず働く人たちである。一元論主義を打ち立てようとする人も、無神論者や不可知論者に含まれる。つまり至高人格神の献身者だけが精神的なことを理解する上で、最高の状況にいるのだ。なぜなら献身者は、「至高人格神はすべての者の中にパラマートマーすなわち至高の魂として拡張し、あまねく遍満しておられるお方であり、この物質自然を超えた精神世界にいらっしゃる」ということを知っているからである。もちろん知識を培って至高の絶対真理を理解しようとする人もいて、彼らは信念ある人として分類される。サーンキャ哲学者たちはこの物質界を24の要素に分析し、個々の魂を第25番目の項目としている。個々の魂の本質は物質要素を超越しているということを理解できるようになったとき、その上に至高人格神がいることも理解できるようになる。この至高人格神こそが第26番目の要素である。こうしてサーンキャ哲学者たちも、少しずつクリシュナ意識での献身奉仕に近づいていくのだ。また結果を期待しないで働く人は態度においても完璧であり、クリシュナ意識で献身奉仕をする段階まで昇る機会が与えられる。純粋な意識を持ち、瞑想によって至高の魂を見出そうとする人々もいると、ここに書かれている。彼らは自分の内に至高の魂を見つけた時点で超越的な段階となる。また知識を深めて至高の魂を理解しようとする人もいるし、ハタ・ヨーガを修練して未熟な方法で至高人格神に満足していただこうとする人もいる。
anye tv evam ajānantaḥ
śrutvānyebhya upāsate
te ’pi cātitaranty eva
mṛtyuṁ śruti-parāyaṇāḥ

訳語

翻訳

また精神的知識には精通していないが
人から至高者について聴き
崇拝し始める者もいる。
このような人は権威者から聞こうというその態度がゆえに
生死の道を超越するであろう。

解説

 この節は特に現代社会に当てはまる。現代の社会には精神的なことに関する教育がまったく行われていないのが現実だからである。無神論や不可知論を唱えたり、哲学的なことを語る者もいるが、実際にはそこに哲学的知識はない。一般の人々に関しては、善良な魂でありさえすれば、聴くことによって向上する機会が与えられている。この聴くというプロセスが非常に重要なのだ。近世においてクリシュナ意識を説き広めた主チャイタニヤは、聴くことを非常に強調なさった。まったく普通の人であってもただ権威ある人から聴くだけで、特に超越的音響である「ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー / ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー」を聴くなら、精神的向上を遂げることができると主チャイタニヤはおっしゃった。ゆえに誰もがこの好機を活かして悟った魂の語る言葉に耳を傾け、いつしかすべてを理解することができるようになるべきである。そうすれば必ず至高主を崇拝するようになる。「この時代では誰も立場を変える必要はないが、勝手な推論を並べ立てて絶対真理を理解しようとしてはならない」と主チャイタニヤはおっしゃった。私たちは至高主のことを熟知している人の仕え人になる術を学ぶべきである。幸運にも純粋な献身者に保護を求め、自己の悟りについて学び、その人の足跡に従うことができたなら、しだいに純粋な献身者の段階に高められていくであろう。この節では特に聴くことを強く勧めていて、これは非常に適切な教えである。一般の人々はたいてい、いわゆる哲学者と名乗る人たちほどの能力を備えてはいないが、権威ある人の教えに誠実に耳を傾けることでこの物質存在を超越し、故郷である神の王国へ戻って行くことができるのである。
yāvat sañjāyate kiñcit
sattvaṁ sthāvara-jaṅgamam
kṣetra-kṣetrajña-saṁyogāt
tad viddhi bharatarṣabha

訳語

翻訳

バーラタ家の長たる者よ
動くもの、動かぬもの
存在するものはすべて
活動の場とそれを知る者との結合でしかないことを知れ。

解説

 この節では、宇宙が創造される以前から存在している、物質自然と生命体のことが説明されている。創造されたものは何であれ、この両者の結合である。木、山、丘のように動かないものも多数あるし、動くものも多数存在する。そうしたすべてのものは物質自然と上位の自然なる生命体との結合である。上位自然すなわち生命体が関与しなければ、何も育たない。物質自然と精神自然との関係は永遠に続くが、この結合を可能にしているのは至高主である。すなわち至高主こそが両自然の支配者なのだ。至高主は物質自然を創造し、その中に上位自然が入る。こうして万物の出現と活動が生じるのである。
samaṁ sarveṣu bhūteṣu
tiṣṭhantaṁ parameśvaram
vinaśyatsv avinaśyantaṁ
yaḥ paśyati sa paśyati

訳語

翻訳

すべての体内で個々の魂に寄り添う至高の魂を見る者
滅びゆく体内に宿るこのふたつの魂が
どちらも不滅であると知る者
彼らは真実を見ている。

解説

 良い交際によって、体、体の所有者すなわち個々の魂、個々の魂の友という3つの組み合わせを理解できる人は、真に知識を備えた人である。精神的主題について真実を知る人との交際がないかぎり、この3つを理解することはできない。そのような交際がない人は無知な状態にあり、ただ体のことだけを見ているので、体が滅びればすべてが終わると考えている。しかし現実はそうではない。体が滅びたあとも魂と至高の魂は存在し、さまざまな動くもの動かないものの中に永遠に転生し続ける。パラメーシュヴァラというサンスクリット語は「個々の魂」と訳されることがある。魂は体の主人であって、その体が滅びればまた別の体へと移っていくからである。そういう意味では魂は主人であるが、中にはこのパラメーシュヴァラを至高の魂であると解説する者がいる。どちらの場合でも至高の魂も個々の魂も存続し続け、滅びることは決してない。このように事実を把握している人は、心と体に起こる変化を見ることができる。
samaṁ paśyan hi sarvatra
samavasthitam īśvaram
na hinasty ātmanātmānaṁ
tato yāti parāṁ gatim

訳語

翻訳

あらゆるところ、あらゆる生命体の中に
至高の魂が等しく遍在していると知る者は
心によって堕落することなく
至高の目的地へと近づいてゆく。

解説

 自らが物質として存在していることを受け入れることにより、生命体は本来の精神存在とは違った状況に置かれることになる。しかし至高主がパラマートマーとしてあまねく遍満していることを理解すれば、つまりすべての生命体の中に至高主が宿っていることを知れば、破壊的な心情によって堕落することなく、しだいに精神界へと昇っていく。心は感覚を満たそうと夢中になってしまうものであるが、ひとたびこの心が至高の魂に向けられたなら、その人は精神的理解をどんどん深めていくのである。
prakṛtyaiva ca karmāṇi
kriyamāṇāni sarvaśaḥ
yaḥ paśyati tathātmānam
akartāraṁ sa paśyati

訳語

翻訳

すべての活動は物質自然から成る肉体によって行われ
自己は何も為さないとわかっている者は
真実を理解している。

解説

 この体は至高の魂の指示のもとで物質自然によって造られたものであり、体が行ったいかなる活動も、その生命体自体が為しているわけではない。幸せを求めてすることであれ苦悩をもたらす結果となることであれ、人はすべて体の性質ゆえに強いられて動いているが、自己そのものは肉体の為す行為とはまったく無関係である。体は過去の望みに応じて与えられるのであり、望みを叶えるために、その与えられた体を使って人は動く。実際には体とは、欲望を満たすために至高主が設計してくださった機械なのだ。人は欲望がゆえに苦しんだり楽しんだりさまざまな環境に置かれている。生命体に関するこの超越的な見解が持てるようになると、人は物質的な活動から遠のくようになる。このような視点を持つ人が真実を見ている人なのである。
yadā bhūta-pṛthag-bhāvam
eka-stham anupaśyati
tata eva ca vistāraṁ
brahma sampadyate tadā

訳語

翻訳

肉体の違いによる差別観を捨て
生命体がどこにでも広がっていることを知る賢明な者は
ブラフマンの概念に到達する。

解説

 生命体の体がさまざまに違うのは、個々の魂の望みがそれぞれ違うから生じるのであり、実際には魂そのものとは無関係である。このことが理解できる人は真実を見ていると言える。生命体を物質的にとらえると、神々、人間、犬、猫などさまざまな種類が見える。これは物質的な見方であり、真の見方ではない。こうした物質的な差別観は生命を物質的にとらえているために生じる。肉体が滅びても精神的な魂はひとつであり続ける。精神魂は物質自然と関わるがために、さまざまな体を得ることとなる。このことを理解できたとき、人は精神的な視野を手に入れ、人間、動物、大きさ、低さなどの識別感から解放される。そして意識が浄化されて、精神的な自己本来の立場でクリシュナ意識を育てることができるのである。そのような人がどのように物事を見るようになるのかが、次の節で説明されている。
anāditvān nirguṇatvāt
paramātmāyam avyayaḥ
śarīra-stho ’pi kaunteya
na karoti na lipyate

訳語

翻訳

不滅の魂は超越的かつ永遠で
物質自然の三様式を超えたものであるということが
永遠性の視野を持つ者には理解できる。
アルジュナよ
肉体と関わっていても魂は何も為さず
またその影響を受けることもないのだ。

解説

 物質の体が誕生するがゆえに生命体が生まれるように見える。しかし実際には生命体は永遠で、生まれることなく、体の中に入っていても超越的かつ永遠である。ゆえに滅びることもなく、本来は喜びに満ちているのだ。いかなる物質的な活動もしないため、体があるために行う活動から影響を受けることはない。
yathā sarva-gataṁ saukṣmyād
ākāśaṁ nopalipyate
sarvatrāvasthito dehe
tathātmā nopalipyate

訳語

翻訳

空間は目に見えないという性質のため
至る所に遍在しているが何物とも混同しない。
同様に、ブラフマンの視野を得た魂は
体の中にあっても体と混合することはない。

解説

 空気は水の中にも、泥にも、糞にも、どこにでも入っていくが、いずれとも混ざることはない。同様に生命体もさまざまな体に入れられているが見えない性質であるため、体と混合することはない。したがってどのようにして生命体がこの体と関わっているのか、体が滅びたあとどのように出ていくのかなど、物質の目で見ることは不可能である。科学でこのことを確認できる者はいない。
yathā prakāśayaty ekaḥ
kṛtsnaṁ lokam imaṁ raviḥ
kṣetraṁ kṣetrī tathā kṛtsnaṁ
prakāśayati bhārata

訳語

翻訳

バラタの子よ
太陽がたったひとつでこの全宇宙を照らしているように
生命は体内に宿り
意識で体全体を照らしている。

解説

 意識に関してはさまざまな説があるが、『バガヴァッド・ギーター』のこの箇所では太陽と太陽光線の例が挙げられている。太陽が一箇所にとどまっていながら全宇宙を照らしているのと同じように、微小な精神的魂は体内の心臓に宿り、意識で体全体を照らしている。つまり光線は太陽が存在する証拠であるのと同様に、意識は魂が存在する証拠なのである。体内に魂が存在する間は体全体に意識がみなぎっているが、魂が体を去ったとたんに意識はなくなってしまう。このことは知性のある人なら簡単に理解できるはずである。つまり意識は物質が結合してできるものではなく、生命体が宿っている兆候なのである。生命体の意識は質的には至高の意識と同じであるが、至上ではない。なぜならある特定の体にみなぎっている意識は、ほかの体には及ばないからだ。しかし個々の魂の友としてすべての体に宿る至高の魂は、すべての体を知っておられる。これが至高の意識と個別の意識との違いである。
kṣetra-kṣetrajñayor evam
antaraṁ jñāna-cakṣuṣā
bhūta-prakṛti-mokṣaṁ ca
ye vidur yānti te param

訳語

翻訳

知識の目で体とその認識者との違いを見つめ
物質自然の鎖から脱出する方法を知る者は
至上の目的地に到達する。

解説

 体、体の所有者、至高の魂の違いを知らなくてはならないというのが、第13章の要旨である。第8節から第12節で述べられているように、人は解放を得る方法を知らなくてはならない。そうすれば至高の目的地に行き着くことができるのだ。
 信念のある人はまず、神の話を聴かせてくれる良い交際を得るべきであり、それによってしだいにすべてが明らかになってくる。精神の師を受け入れれば物質と精神の違いがわかるようになり、さらなる精神的悟りへの道が開ける。精神の師はさまざまな指導をしながら、命に対しての物質的概念をなくす方法を生徒に教えていく。例えばクリシュナは『バガヴァッド・ギーター』の中でアルジュナにその方法を教えておられる。
 人は、この体が物質であって24の要素に分析できるということを理解できる。体は目に見える顕現であり、心と心理的現象は目に見えない顕現である。生命の兆候はこうしたものの相互作用なのだ。そしてこれらの上に魂があり、至高の魂も存在する。魂と至高の魂という、ふたつの魂である。この物質界は魂と24の物質要素との結合で作用している。全物質顕現は魂と物質要素の結合であると考え、至高の魂の立場をも理解できる人は、精神界に移される資格がある。以上のことを熟考してしっかりと認識し、精神の師の助けを得ながらこの章を完全に理解しなくてはならない。
 以上、『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第13章「自然、享楽者、意識」に関するバクティヴェーダンタの解説は終了。