バガヴァッド・ギーター あるがままの詩 13.15

sarvendriya-guṇābhāsaṁ
sarvendriya-vivarjitam
asaktaṁ sarva-bhṛc caiva
nirguṇaṁ guṇa-bhoktṛ ca

訳語

翻訳

至高の魂は全感覚の源であるが
感覚を持たない。
すべての生命体を養うお方であるが
何にも執着しない。
自然の様式を超越していると同時に
その様式のすべてを支配している。

解説

 至高主は生命体の全感覚の源ではあるが、生命体のような物質的感覚は持っておられない。個々の魂は実際には精神的感覚を持っているのだが、制約された生活の中にいて、物質的要素で覆われた状態にある。ゆえに感覚的活動は物質を通して現れるのだ。しかし至高主の感覚はそのように覆われることなく、超越的である。ゆえにニルグナと呼ばれる。グナとは物質的な様式という意味であるが、主の感覚は物質に覆われていない。主の感覚は私たちの感覚とは違うということを知っておかなければならない。主は私たちの感覚に基づいた行動すべての源ではあるが、御自身の感覚は超越的で決して汚れることがない。このことは『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』(3-19)にある apāṇi-pādo javano grahītā の節の中でうまく説明されている。至高主には物質で汚れた手はないが、捧げられた物を受け取る手はある。これが制約された魂と至高の魂との違いである。至高主は、物質的な目ではないが目をお持ちであることは間違いない。でなければどうして見ることができるだろうか? 主は過去、現在、未来すべてをご覧になっている。生きとし生けるもののハートの中に宿り、私たちが過去にしたこと、現在していること、そして未来に私たちを待ち受けていることのすべてをご存知なのだ。このことも『バガヴァッド・ギーター』の中で「主はすべてをご存知であるが、誰も主のことを知らない」という言葉で確証されている。至高主には私たちのような足はないが精神的な足をお持ちになり、宇宙中を行き交うことができると書かれている。言い換えれば、主は意識のない存在ではないというということである。目も足も手もすべてお持ちなのだ。そして私たちもそうしたものを持っているのは、私たちが至高主の一部分だからである。しかし主の手足や目、感覚器官は、物質自然に汚されていない。
 主が現れるときは御自身の内的エネルギーによって本来のお姿のままで現れると、『バガヴァッド・ギーター』も確証している。至高主は物質エネルギーの主であるため、そのエネルギーに汚されたりはしない。主の現れそのものが精神的であると、ヴェーダ文献に書かれている。サッ・チッド・アーナンダ・ヴィグラハという永遠の姿をお持ちなのだ。主はあらゆる富に満ち、すべての富を所有し、あらゆるエネルギーの持ち主でもある。最も知性的なお方であり、知識に満ちておられる。これらが至高人格神の兆候の一部である。主は生命体すべてを維持し、活動のすべてをご覧になっている。ヴェーダ経典を通して理解するかぎり、至高主は常に超越的である。主の頭や顔や手足は今の私たちには見えないが、私たちが超越的な段階まで高まったなら、そのお姿を見ることができる。したがって物質的な影響を受けている段階の非人格主義者たちには、至高人格神を理解することができないのである。