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第13章

自然、享楽者、意識

テキスト

arjuna uvāca
prakṛtiṁ puruṣaṁ caiva
kṣetraṁ kṣetra-jñam eva ca
etad veditum icchāmi
jñānaṁ jñeyaṁ ca keśava
śrī-bhagavān uvāca
idaṁ śarīraṁ kaunteya
kṣetram ity abhidhīyate
etad yo vetti taṁ prāhuḥ
kṣetra-jña iti tad-vidaḥ

Synonyms

arjunaḥ uvāca — アルジュナは言った; prakṛtim — 物質自然; puruṣam —享楽者; ca — もまた; eva — 確かに; kṣetram — 田野;kṣetra-jñam — 知田者; eva — 確かに; ca — もまた; etat — この全て; veditum — 理解すること; icchāmi —私は望む; jñānam — 知識; jñeyam — 知識の対象; ca — もまた; keśava — おお、クリシュナ; śrī-bhagavānuvāca — バガヴァーンは言った; idam — この;śarīram — 肉体; kaunteya — おお、クンティの息子よ; kṣetram —田野; iti — このように; abhidhīyate — ~と呼ばれるetat — この; yaḥ — ~するもの; vetti — 知る; tam — 彼は; prāhuḥ — ~と呼ばれる;kṣetra-jñaḥ —知田者; iti — このように; tat-vidaḥ — これを知る人々によって

Translation

アルジュナ言う。クリシュナよ、私は物質自然(プラクリティ)と享楽者(プルシャ)、田野と知田者、また知識と知識の対象について知りたいのです。
バガヴァーン、クリシュナは答えられた。クンティーの子よ、この肉体が『田野』であり、この肉体を認識している者が『知田者』である。

Purport

アルジュナは、プラクリティ(物質自然)、プルシャ(享楽者)について、またクシェートラ(田野)とクシェートラ・ギャ(知田者)そして知識とその対象について知りたいと思った。その質問に答えてクリシュナはこう言われた。――この肉体が田野であり、この肉体を認識する者が知田者であると。この肉体は束縛された魂のための活動の田野である。束縛された魂はわなにかかり、迷って物質界に落ち、その世界を支配しようと試みる。そして、自分の能力相応に物質自然を支配しようとし、そのためにこの肉体を着ている。肉体の活動が田野なのである。では肉体とはどういうものか?肉体はいろいえな感覚で構成されている。束縛された魂が感覚満足を得ようと欲し、能力に応じてその目的を達するために肉体が与えられた。つまり活動の田野が提供されたのだ。だから肉体がクシェートラつまり束縛された魂の活動の田野である。さて、その肉体を「これは自分だ」と認識している人をクシェートラ・ギャ、知田者と呼ぶ。肉体と知田者の相違を理解するのは、そう難しいことではない。幼い頃から老年に至るまで肉体には実に多くの変化があったにもかかわらず、ひとりの「人」として自分が存続していることは誰でも理解できよう。だから田野(肉体)と知田者は別のものである。束縛された魂は自分が肉体とは別のものであるという事実を知ることができる。このことはデーヒノー・スミン、すなわち「生命体は肉体に住み、肉体は幼年時代から少年時代へ、そして青壮年期、老年期へと絶えず変化している」と前に説明されている。その肉体の中にいる肉体の所有者は、肉体が変化し続けていることを知っている。この所有者が知田者つまりクシェートラ・ギャである。私たちはときどき次のように思う。「私は幸福だ」、「私は男だ」、「私は女だ」、「私は犬だ」、「私は猫だ」――。それらはその知田者の肉体上のよび名であって、知田者そのものは肉体ではない。私たちは衣服その他いろいろな品物を身につけるが、自分自身がその品物ではないことをよく知っている。同様に少し考えてみれば、自分が肉体ではないことを理解できる。誰でも肉体を持つ者はクシェートラ・ギャ、知田者である。肉体は活動の田野そのものである。

『バガヴァッド・ギーター』の初めの6章には肉体の認識者(生命体)と至上者を理解するための姿勢が説明されている。中間部の6章にはバガヴァーンと献身奉仕の科学の中の個別魂とスーパーソウルの相違について説明されている。バガヴァーンがあらゆるものに超越し、絶対上位の立場にいらっしゃり、個別魂がそれに完全従属する立場にあることが、その中間部6章に余すところなく説明されている。どんな場合でも生命体はバガヴァーンに従わなければならない。そのことを忘れているために彼らは苦悩している。敬虔な活動を続けることにより心の曇りが晴れるにしたがい、彼らは各自の能力に応じて至上主に近づいていく。何かに悩に苦しんでいる人、財物を欲しがっている人、好奇心の強い人、知識を求めている人――そういった様々なタイプの人々のことも説明してあった。さて、第13章を始めるにあたっては、生命体がどのようにして物質自然と接触するようになったか、そしてどのようにして至上主により――果報的活動、知識の養成、また献身奉仕の実践など種々の方法(みち)を通じて――そこから救い出されるかが説明されてある。生命体は全く肉体とは異なる別のものなのだが、とにかく肉体を関係を持ってしまった。そのことについても説明してある。

テキスト

kṣetra-jñaṁ cāpi māṁ viddhi
sarva-kṣetreṣu bhārata
kṣetra-kṣetrajñayor jñānaṁ
yat taj jñānaṁ mataṁ mama

Synonyms

kṣetra-jñam —知田者; ca —もまた; api — 確かに; mām —私に; viddhi — 知る; sarva — 全て; kṣetreṣu— 肉体の中に; bhārata — おお、バーラタの息子よ; kṣetra — 田野(肉体); kṣetra-jñayoḥ — そして、知田者; jñānam — ~の知識; yat — ~であるもの; tat — その; jñānam —~の知識.; matam —意見; mama —私の

Translation

バラタの子孫よ、この私がまた全ての体の認識者であることを知りなさい。そして体と体の認識者について理解することが知識であると私は考えている。

Purport

肉体と、肉体を認識する者、および魂とスーパーソウル――この主題を学ぶにあたって、3つの項目がある。主と生命体と物質である。どの活動の田野すなわち肉体のなかにも2つの魂がある。個別魂とスーパーソウルである。このスーパーソウルはバガヴァーン、クリシュナの完全拡張体なので、ここでクリシュナは「わたしもまた認識者だが、個別魂とは異なり、わたしは超識者である。わたしはスーパーソウルとして全ての体のなかに住んでいる」とおっしゃった。

この主題――活動の田野と知田者について、『バガヴァッド・ギーター』を通じて細心綿密に学ぶ人は、最高の知識を得られるであろう。

「わたしは全ての体の全知田者である」と主はおっしゃった。個別魂は自分の体については知っているが、他人の体のことは全くわからない。スーパーソウルとして全ての体の中にいらっしゃるバガヴァーンは全ての体について知っておられるのだ。一市民は自分の所有する土地について様々なことを全て知っているだろうが、王は自分の宮殿のことだけではなく、個々の市民が所有している動産不動産についてあらゆることを知っている。同様に生命体は各自の体を所有しているが、バガヴァーンは全ての個体の所有者でいらっしゃる。王が王国全体の本来の持ち主であって、国民個人の土地所有権はあくまでも二次的なものにすぎない。同様に至上主こそ全ての生命体の本当の所有者でいらっしゃるのだ。

肉体は感覚で構成されている。至上主ははフリケーシャとも呼ばれ、それは全感覚の支配者という意味をである。至上主は本来の、第一の感覚支配者でいらっしゃる。ちょうど国内の活動は全て王の支配下にあり、市民たちはそれに従属している二次的な支配者であるのと同様である。「わたしもまた認識者である」と主は言われるが、これは超識者を意味している。個別魂は自分の体のことしか知らないのである。ヴェーダ文典には次のように述べられている。

kṣetrāṇi hi śarīrāṇi
bījaṁ cāpi śubhāśubhe
tāni vetti sa yogātmā
tataḥ kṣetra-jña ucyate

肉体はクシェートラ(田野)とよばれ、その体の中に所有者と至上主が住んでいる。至上主は体と体の所有者との両方を知っている。だからその御方は全知田者と呼ばれている。活動の田野と活動の認識者、および全ての活動の認識者との区別がそのように説明されている。肉体の性質、個別魂の性質、スーパーソウルの性質。これら3つについての完全な知識がクリシュナの意見によれば、ヴェーダ文典でギャーナ(知識)と呼ばれている。個別魂とスーパーソウルが同時に同であり異であると知ることが知識なのである。活動の田野と活動の認識者の区別がわからない人は完全な知識を欠いているのである。私たちはプラクリティ(自然)、プルシャ(自然の享楽者)とイーシュワラ(自然と個別魂の認識者)の3者の地位をよく理解していなければならない。この3者を混同してはならないのである。画家と絵具と画架を混同すべきではない。活動の田野であるこの物質界が自然である。そして自然の享楽者が生命体であり、至上支配者バガヴァーンがその両者の上にいらっしゃるのである。ヴェーダの言葉(『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャド』1-12)によればブラフマン概念には3つある。プラクリティは活動の田野としてのブラフマンであり、ジーヴァ(個別魂)は物質界を支配しようとしているブラフマンである。そしてその両者の支配者もブラフマンであり、これが実際の支配者である。

この章でまた、2つの認識者のうち、一方は誤りを犯す傾向にあり、他方は決して誤りと犯さないことが明確に説明されている。一方が上位であり、他方が下位である。この2者が同一のものであると見なす人は、ここで明確に「私もまた知田者である」と言っておられるバガヴァーンと意見を矛盾させている。縄を蛇と見間違うのは知識の不足している人である。様々な種類の体があり、それぞれ様々に所有者がいる。個別魂は各自の能力に応じて物質界を支配しようとするので、各自が異なった肉体を着ているのである。だがどの体の中にも至上主が真実(ほんとう)の支配者として住んでいらっしゃる。「チャ」というサンスクリット語が非常に重要であり、シュリーラ・バラデーヴァ・ヴィデャーブーシャンの考え方によれば、この語は全てのありとあらゆる体を指している。クリシュナは、ひとつひとつの体の中にいる個別魂と異なり、全ての体の中に実在しているスーパーソウルでいらっしゃる。そして主はここではっきりと「スーパーソウルこそ、田野と知田者の両者の支配者である」とおっしゃっっている。

テキスト

tat kṣetraṁ yac ca yādṛk ca
yad-vikāri yataś ca yat
sa ca yo yat-prabhāvaś ca
tat samāsena me śṛṇu

Synonyms

tat — その; kṣetram — 田野; yat — 何; ca —もまた; yādṛk — あるがままに; ca — もまた; yat — 何; vikāri — 変化する; yataḥ — それから; ca — もまた; yat — 何; saḥ —彼は; ca —もまた; yaḥ — 誰; yat — 何; prabhāvaḥ — 影響; ca —もまた; tat — その; samāsena — 予約して;me — 私から; śṛṇu — 理解する

Translation

さてこの田野と知田者とは何なのか、どのように変化しまたどこから来るのか、知田者は誰でどんな作用をするのか簡潔に説明するからよく聞きなさい。

Purport

主は田野と知田者の構成状態について説明なさる。この肉体がどんな物質で組成されているか、誰の支配下にこの肉体が作用しているか、また肉体にはどんな変化があるのか、変化の原因は何か、その理由は。個別魂の究極目的は何か、また個別魂は実際にどんな相(すがた)をしているのか。以上のようなことについて私たちは知っていなければならない。そしてまた個別魂とスーパーソウルの区別について、両者の作用の相違点について、また力やその他の相違点について理解しなければならない。この『バガヴァッド・ギーター』でバガヴァーン、クリシュナが自らそれらを説明して下さるのだから、私たちは主から直接『バガヴァッド・ギーター』を理解しさえすればよい。そうすれば、これら全てが明らかになる。ただ注意しなければならないのは、各自の体内にいらっしゃるバガヴァーンと個別魂(ジーヴァ)を同等のものであると誤って考えてはならないことである。力のある者とない者を同一視してはならないのである。

テキスト

ṛṣibhir bahudhā gītaṁ
chandobhir vividhaiḥ pṛthak
brahma-sūtra-padaiś caiva
hetumadbhir viniścitaiḥ

Synonyms

ṛṣibhiḥ — 聖賢によって; bahudhā — 様々な方法でgītam — 述べた; chandobhiḥ — ヴェーダの聖歌によって; vividhaiḥ— 様々な; pṛthak — 様々に; brahma-sūtra — ヴェーダンタの; padaiḥ — 格言によって; ca — もまた; eva — 確かに; hetu-madbhiḥ — 原因と結果で; viniścitaiḥ— 確か

Translation

聖賢はたちはこの知識について多くのヴェーダ文典で様々に表現し説明しているが、特に『ヴェーダーンタ・スートラ』が因果律について道理分明である。

Purport

この知識の説明者としては、バガヴァーン、クリシュナこそ無上無比の権威である。学識秀れた学者や斯道の大家は、いうまでもなく必ず先達の権威者の論を証拠として引用するものである。クリシュナはこの知識のなかで最も議論の対象となる点――個別魂とスーパーソウルの二元性と非二元性に関する点を、この理論における権威として誰もが認める『ヴェーダーンタ・スートラ』を照会しながら説明される。まず主は「聖賢たちの説によれば――」と言っておられる。「聖賢」に関しては、クリシュナ以外ではまずヴャーサデーヴァ(『ヴェーダーンタ・スートラ』の著者)が卓越した存在である。彼は著書『ヴェーダーンタ・スートラ』のなかで、前述の二元性について余すところなく完全に説明した。そして彼の父であるパラーシュラもまた偉大な聖賢であり、宗教に関する著作で「あなたも私もそして全ての生命体たちも、私たち全ては肉体をまとってはいるが、全て超越的である。現在私たちは各自のカルマによって物質自然の三様式に巻き込まれていて、高い境涯にあるも低いところにいる者もいる。両者とも無知が原因で無数の生命体となって存在している。しかしスーパーソウルは完全無欠、不謬であって、決して物質自然の三様式に影響されず、それに超越している」と書いている。同様にヴェーダ文典、ことに『カタ・ウパニシャド』は個別魂とスーパーソウルと肉体の区別を明確にしている。この問題については多くの偉大な聖賢たちが各々論じているが、なかでもパラシュラーマの論が最も重要である。

「チャンドービ」というサンスクリット語は様々なヴェーダ文典のことを指す。たとえばヤジュル・ヴェーダの一部である『タイッティリーヤ・ウパニシャド』には自然、生命体、バガヴァーンについての説明がある。

前述のようにクシェートラは活動の田野であり、クシェートラ・ヤギャには2種類ある。個別の生命体と至上の生命体である。『タイッティリーヤ・ウパニシャド』(2-9)にあるように、至上主のエネルギー顕現にアンナ・マヤと呼ばれるものがあり、これは生存のために食物に依存することである。これは至上者の物質的悟り方である。それからプラーナ・マヤ。食物のなかに最高絶対真理を悟ったあとで、次には生命の徴候、生命の姿の中に絶対真理を発見することができる。それからまた前進して、考えること、感じること、意志することの三作用の中に真理を悟るようになる。これがギャーナ・マヤ。その先がブラフマンの悟り。これはヴィギャーナ・マヤといい、ここまでくると、生命体の知的作業と生命の徴候の両者が生命体そのものを別のものであると理解できるようになる。その次が最高の段階であるアーナンダ・マヤで、この段階では完全に至福に満ちた性質を知(さと)ることができる。このようにブラフマンを悟るのに5つの段階があり、これをブラフマ・プッチャンという。このうち最初の3つ――アンナ・マヤとプラーナ・マヤとギャーナ・マヤ――が生命体の活動の田野の関するものである。そしてアーナンダ・マヤとよばれる至上者はこれら全ての活動に田野を超越しているのである。『ヴェーダーンタ・スートラ』でも至上者のことを「アーナンダ・マヨーピャーサート」と述べている。バガヴァーンは本来喜びに満ちているという意味である。御自身の至上の至福を楽しむために主はヴィギャーナ・マヤ、プラーナ・マヤ、ギャーナ・マヤ、そしてアンナ・マヤへと御自身を拡張された。活動の田野では生命体が享楽者とされているが、生命体はアーナンダ・マヤではない。これは、生命体がアーナンダ・マヤと調和すれば、生命体は生命体としての完成に達するということを意味している。至上の認識者としての至上主、それに従属しその下位に位置する生命体、そして多種多様な活動の田野としての自然。この3者の位置はおよそ以上のようなものである。私たちは『ヴェーダーンタ・スートラ』すなわち『ブラフマ・スートラ』からこの真理を学ばなければならない。

『ブラフマ・スートラ』の教義は因果律に従って非常に適切に配列されていることがここで述べられている。そのスートラすなわちアフォリズムには次のようなものがある。「ナ、ヴィヤダシュルテー」(2-3-2)、「ナートマーシュルテー」(2-3-18)、「パラートトゥタッチュルテー」(2-3-40)。最初のアフォリズムは活動の田野すなわち肉体のことを指し、2番は生命体、つまりプルシャを指し、3番目は至上主、全存在の至上善を指している。

テキスト

mahā-bhūtāny ahaṅkāro
buddhir avyaktam eva ca
indriyāṇi daśaikaṁ ca
pañca cendriya-gocarāḥ
icchā dveṣaḥ sukhaṁ duḥkhaṁ
saṅghātaś cetanā dhṛtiḥ
etat kṣetraṁ samāsena
sa-vikāram udāhṛtam

Synonyms

mahā-bhūtāni — 偉大な要素; ahańkāraḥ — 偽我意識;buddhiḥ — 知性; avyaktam — 未顕現状態; eva— 確かに; ca — もまた; indriyāṇi — 感覚; daśa-ekam — 11; ca — もまた; pañca — 5; ca — もまた; indriya-go-carāḥ— 感覚の対象; icchā — 欲望; dveṣaḥ — 憎悪; sukham — 幸福; duḥkham —悲苦;sańghātaḥ — 集合; cetanā — 生命の徴候;dhṛtiḥ — 信念; etat — これら全て; kṣetram — 田野; samāsena — まとめて; sa-vikāram — 相互作用とともに; udāhṛtam — 礼をしました

Translation

五大要素、偽我識、知性、未顕現状態、10の感覚器官、心、5感の対象、欲望、憎悪、幸福、悲苦、集合、生命の徴候、信念、およそこれらのものが活動の田野とその相互作用だと考えられている。

Purport

ヴェーダ・マントラや『ヴェーダーンタ・スートラ』にある偉大な聖賢たちの権威ある言明によれば、この世界の構成要素は次のとおりであると考えられている。――まず第1に、土、水、火、空気、空間。これらが五大要素(マハーブータ)である。それから、偽我識、知性、そして自然の三様式がまだ顕現していない状態、知識を得るための5つの感覚、――眼、耳、鼻、舌、皮膚――それから5つの運動感覚――声、足、手、肛門、生殖器。そしてこれらの感覚の上に心がある。心は内部にあるので内部感覚と呼ぶこともある。したがって合計11の感覚がある。次に感覚の対象が5つ――香、味、姿、触、音。以上24のテーマをよく分析研究すれば、活動の田野がどのようなものかよく理解できる。それから欲望、憎悪、幸福、悲苦がある。もの4つは粗厚体の中での5大要素の作用および表現作用である。生命のは徴候は意識と信念であるが、このふたつは精妙体から出てくる。つまり心、偽我識、知性の精妙要素も活動の田野に含まれている。

5大要素は偽我識の粗厚な顕現である。そしてその偽我識は原初段階の偽我識、つまり学術的には物質主義的概念すなわち無知性の知ターサマ・ブッディと呼ばれているものの現われであり、さらにこのターサマ・ブッディは物質自然の三様式の未顕現状態から生起し、この未顕現状態がプラダーンと呼ばれている。

24要素の相互作用を詳しく知りたいなら、これに関する詳細な哲学を学ばなければならない。『バガヴァッド・ギーター』は要点だけを述べているのである。

こうした様々な素因の複合によって肉体が表出されているわけだが、この肉体は6つの変化を経過する。誕生、成長、一定期間その状態を続け、繁殖(子を産む)、諸機能の退化、そして最後に消滅する。それゆえ活動の田野は一時的に存在する物質であって決して永久に存続するものではない。だが知田者は永遠に存在し続けるのである。

テキスト

amānitvam adambhitvam
ahiṁsā kṣāntir ārjavam
ācāryopāsanaṁ śaucaṁ
sthairyam ātma-vinigrahaḥ
indriyārtheṣu vairāgyam
anahaṅkāra eva ca
janma-mṛtyu-jarā-vyādhi-
duḥkha-doṣānudarśanam
asaktir anabhiṣvaṅgaḥ
putra-dāra-gṛhādiṣu
nityaṁ ca sama-cittatvam
iṣṭāniṣṭopapattiṣu
mayi cānanya-yogena
bhaktir avyabhicāriṇī
vivikta-deśa-sevitvam
aratir jana-saṁsadi
adhyātma-jñāna-nityatvaṁ
tattva-jñānārtha-darśanam
etaj jñānam iti proktam
ajñānaṁ yad ato ’nyathā

Synonyms

amānitvam — 謙虚; adambhitvam — 見栄を捨てること;ahiḿsā — 非暴力; kṣāntiḥ — 寛容; ārjavam — 正直; ācārya-upāsanam — 正統なグルに近づくこと; śaucam — 清潔; sthairyam — 堅忍不抜の精神; ātma-vinigrahaḥ — 自制; indriya-artheṣu— 感覚に関して; vairāgyam — 放棄;anahańkāraḥ — 偽我意識を捨てること; eva —確かに;ca — もまた; janma — 誕生の; mṛtyu — 死; jarā — 老年;vyādhi — そして病気; duḥkha — 悲苦; doṣa — 欠点; anudarśanam — 見つけること; asaktiḥ — 無執着; anabhiṣvańgaḥ — 交際しないで;putra — 息子を求めて; dāra — 妻; gṛha-ādiṣu —家など;nityam — 一定の; ca — もまた; sama-cittatvam — 平静;iṣṭa — 望ましいもの; aniṣṭa — そして望ましくないもの; upapattiṣu — 得ることができて; mayi — 私に; ca — もまた; ananya-yogena— by 純粋な献身奉仕によって; bhaktiḥ — 献身;avyabhicāriṇī — 不変の; vivikta — 人里離れた; deśa—場所; sevitvam — 望んで; aratiḥ — 執着しないで; jana-saḿsadi — 世間の人々に; adhyātma— 自己に固定する; jñāna — 知識に; nityatvam — 不変; tattva-jñāna — of 真理を知ることの; artha — 対象を求めて; darśanam —哲学; etat — これら全て;jñānam —知識; iti — このように; proktam — 明言する;ajñānam — 無知; yat — ~であるもの; ataḥ — これから;anyathā —他の者

Translation

謙遜、虚栄(みえ)を捨てること。非暴力、寛容、正直、正統なグルに近づくこと、清潔、堅忍不抜の精神、自制、感覚満足の対象から心を引き離すこと、偽我識を捨てること、生老病死を苦厄とみなすこと、無執着、妻子家庭に愛着しないこと、快・不快の事にあたって冷静で、至上主(わたし)に対する不動の献身的態度をもち、世俗を離れた静かな地に独居を望み、世間の人々との無益な交際をしないこと、自己の本性を悟ることの重要性を知り絶対真理うぃ哲学的に探究する――以上のことが知識の本質でありこれに反することが無知であるとわたしは明言する。

Purport

 ここで挙げられている知識について知力の低い人は時折誤解して、それらも活動の田野の相互作用の一種ではないかと思うこともある。しかし、これらが真の知識なのである。ここに書いてあることを受け入れ、そのように努力すれば絶対真理に近づくことが可能である。これらは決して24要素の相互作用ではない。24要素の鎖から抜け出す真実の方法なのである。体をまとった魂は24要素でできたケースにはめ込まれている。そしてここに書いてある知識が、その状態から抜け出す道なのである。このうち最も重要なところは第11節の最初の部分である。知識の過程の最終目標は至上主への純粋な献身奉仕である。したがい、もしこれに到達し得ないならば、他の19の個条はさして重要な意味を持つものではない。またクリシュナ意識に満ちて献身奉仕にはげんでいると、他の19個条は自然に身につくものである。『シュリーマド・バーガヴァタム』(5-18-12)に書いてあるように、献身奉仕の道に入った人には知識の美徳がすべて具わってくる。第8節にある「グルにつく」ことは非常に大切な項目であり、献身奉仕においてもこれは重要なことである。精神生活は正統なグルについたときから始まる。バガヴァーン、主クリシュナがここで明確にこの知識の過程が真理の道であると言っておられるのだから、これ以上のものがあるのではないかと考えるのはナンセンスである。

 ここにある知識の諸項目についてひとつずつ詳説してみよう。「謙遜」とは他人から賞賛される満足感を追い求めるな、他人にほめられたがるな、ということである。本来ひとに賞賛されたいという気持ちは、自分が肉体であるという考えの中の代表的なもののひとつであり、物質的な人に限ってこの気持ちにかりたてられるものである。逆に完全な知識を持っている人は、自分が肉体ではないことをよく知っているので、体にかかわった名声や不名誉などはどんなものであれ何の益にもならぬ無用のものと心得ている。人間は物質次元のこの幻惑を断ち切らなくてはならない。人々は宗教をすることにより有名になりたいと望んでいる。それゆえ宗教原則が何たるかを理解せず、宗教原則に従わない宗教団体に属し、いかにも自分が宗教についての賢明な相談相手であるかのように自己宣伝している人もいる。人は精神科学に関して自分がどれほど進歩しているのか確かめてみるべきです。それは、ここにある項目をひとつひとつあてはめてみれば判断できるだろう。

 「非暴力」は一般に不殺生、不傷害の意味にとられているが、真の意味は「他を悲しませない、苦しませないこと」である。無知とは生命を物質的ものと考えることだが、一般の人々はこの無知の中に住んでいるので、絶えず物質的な苦悩にさいなまれ、互いに苦しめ合っている。それゆえ、人々を精神的段階に引きあげない限り、人は気づかずとも何らかの暴力を行っていることになる。私たちは人々に真実の知識を知らせるために最善をつくし、人々を目覚めさせて物質的苦悩から救い出さなければならない。これがアヒンサー、非暴力である。

 「寛容」――これは他人から受ける中傷や不名誉に耐えることである。精神知識を身につけ、それを実行している人がいると、世間の人々の中には、嘲笑したり悪口を投げたりする者もいる。物質界とはそうした場所なのである。わずか5才にもかかわらず精神知識を学び修練していたプララーダのような少年でさえ、父が彼の信仰に反対したために非常な危険にさらされた。父親はいろいろな方法で彼を殺そうとしたのだが、彼は父をゆるした。正しい知識をみにつけて精神的に進歩しようとすれば多くの障害に遭遇するであろうが、私たちはそれに耐えて断固として前進しなくてはならない。

 「誠実、正直」――これは人は何事にも外交的手段を用いることなく、たとえ敵に対してさえ真実を明かせるほどの率直さを持たなければならないという意味である。「グルを持つこと」――これは実に重要である。なぜならグルの教尊がなければ精神的科学の中で真実(ほんとう)に進歩することは不可能だからである。グルに対しては心の底から謙遜な気持ちで接し、できる限りの奉仕をして彼が快く弟子に祝福を授けて下さるようにしなければならない。正統なグルはクリシュナの代理人なので、師が弟子に精神的恩恵を授けると、弟子は規定原則に従わなくてもただちに進歩することできるようになり、また無条件に師に従い仕えている人にとっては規定原則に従うことが容易になる。

 「清潔」――これは精神的進歩を達成する上での真髄である。清潔には2種類ある。外的清潔と内的清潔である。外的清潔とは沐浴することであり、そして内的清潔を得るためには、心で常にクリシュナを想い、そしてハレークリシュナ・マントラ「ハレー・クリシュナ・ハレークリシュナ・クリシュナ・クリシュナ・ハレー・ハレー/ハレー・ラーマ・ハレー・ラーマ・ラーマ・ラーマ・ハレー・ハレー」を唱えることが必要である。これにより過去生より心の中に積もり積もったカルマが浄化されるのである。

 「堅忍不抜の精神」――これは人が精神生活の進歩向上を達成しようという固い決心を持つべきであるという意味である。この大決心がなければ実質的な進歩はできない。「自制」――これは精神的向上に有害となるものは何事であろうと受け入れてはならないということである。人はこれを習慣として行い、精神的進歩に障害となる全ての物を拒否しなければならない。これが真の放棄である。諸感覚は常に感覚満足を追求していて、その力は途方もなく強い。諸感覚の不必要な要求は断乎として拒絶しなければならない。私たちは、体を健康に保って精神生活で進歩していけるように必要最低限の感覚を満たすだけでよい。最も重要で、最も自制しがたい感覚は舌である。もし舌を自制できたなら、他の感覚も自制できよう。舌の作用は味わうことと発声することである。それゆえいつもクリシュナに捧げた食物のお下がりを味わい、ハレー・クリシュナを唱えることを規則的に習慣づけなければならない。眼はクリシュナの美しい姿だけを注視させなければならない。これで眼の自制ができる。同様に耳はクリシュナについて聞くこと、そして鼻はクリシュナに捧げた花の香を嗅ぐことだけ使用すべきである。これは献身奉仕のプロセスであり、ここで『バガヴァッド・ギーター』が献身奉仕の科学を明細に説いていることが理解できよう。献身奉仕こそ『バガヴァッド・ギーター』の主目的であり、かつ唯一の目的である。知性のない『バガヴァッド・ギーター』の解説者は読者の心を他に向けさせようとするが『バガヴァッド・ギーター』には献身奉仕以外のテーマはない。

 偽我識とは自己を肉体だと受け入れることである。自分が肉体ではなく、魂であると理解したとき、人は真実の自我意識を達成する。自我意識は存在する。偽我識は誤りであるが、真の自我意識は誤りではない。ヴェーダ文典(『ブリハダーラニャカ・ウパニシャド』1-4-10)に「アハン・ブラフマースミ」すなわち私はブラフマンである、私は魂である、と述べられている。この「私は」という自我意識は自己を悟った解放の段階にも存在する。この「私は」という意識が自我意識だが、この肉体を指して「私は」という場合それは偽我識である。自我意識を捨てよと説く哲学者もいるだ、しかし私たちは自我意識を捨てることはできない。自我意識は自分が何であるのかを示すものだからである。もちろん自己を肉体と見なす誤った考えは捨てなければならない。

 この世に生まれること、死ぬこと、老いること、そして病になることという4つのことがらを苦厄であると人はよく理解しなければならない。多くのヴェーダ文典は誕生について様々に叙述していて、特に『シュリーマド・バーガヴァタム』は生まれる前の状態、子供が子宮内にいるときの有様、苦痛やその他を描写している。誕生するということが苦痛に満ちたことであるとよく理解しなければならない。私たちは胎内でどれほど苦しんだかすっかり忘れているので、生と死の繰り返しについて何の解決法も考えようとしない。誕生のときと同様に、この世を去るときにも多種多様な苦しみがある。これについても権威ある経典には十分な説明がある。私たちはこの問題について討論し合うべきである。病気と老いについては各自が実際に経験している。病気になりたい人はなく、老人になりたい人もいない。しかしどうしてもこの2つの問題を避けるわけにいかない。生老病死の苦痛を考慮し、この物質的生活について悲観的見解を持たないと、精神的進歩向上への機動力が得られないのだ。

「妻子、家庭に執着しないこと」――これはそれらに対して何の感情も持つなという意味ではない。それらはごく自然な愛情の対象である。しかし精神的向上のために家庭生活が望ましくなくなったならば、決してそれらに執着してはならない。家庭を幸福にする最良の方法はクリシュナ意識である。もしクリシュナ意識に満ちているならば、自分の家庭を幸福にするころができる。クリシュナ意識のプロセスがとても容易だからである。ただ「ハレー・クリシュナ・ハレー・クリシュナ・クリシュナ・クリシュナ・ハレー・ハレー/ハレー・ラーマ・ハレー・ラーマ・ラーマ・ラーマ・ハレー・ハレー」を唱えクリシュナに捧げた食物のお下がりを食べ、『バガヴァッド・ギーター』や『シュリーマド・バーガヴァタム』にような本の内容をテーマにときどき家族と話し合ったり、神像を崇拝するだけでよい。この4つを行うならば、人は幸福を得ることができる。人は家族をこのように教育しなければならない。家族の全員が朝晩一緒に座って「ハレー・クリシュナ・ハレー・クリシュナ・クリシュナ・クリシュナ・ハレー・ハレー/ハレー・ラーマ・ハレー・ラーマ・ラーマ・ラーマ・ハレー・ハレー」を唱えるようにすればよい。もし前述の4つの規則に従った家庭を作り、家族全員のクリシュナ意識を高めることができたなら、なにも家庭生活を離れて修行専一の生活に入る必要はない。しかし家庭がどうしても自分の方針に共鳴せず自分の精神生活向上の障害となるようなら、断乎として家庭への執着を捨てるべきである。クリシュナを悟り、クリシュナに仕えるためには人間はあらゆるものを犠牲にしなければならない。ちょうどアルジュナがそうしたように――。アルジュナは身内の人々を殺したくなかったのだが、彼らがクリシュナを悟る上で障害になるとわかったとき、アルジュナは敢然とクリシュナの言葉に従って彼らと戦い、彼らを殺した。どんな場合でも人は家庭生活の幸・不幸に心を奪われてはいけない。本来この物質界には完全に幸福な状態や完全に不幸な状態は有り得ないのだから。

 幸と不幸は物質的生活の付随物である。『バガヴァッド・ギーター』で忠告されているように、私たちはそれらを耐えることを学ばなくてはならない。去りまた来る幸・不幸に引きずりまわされないためには、物質次元の人生観や生活態度を捨てなければならず、そして幸福が来ても不幸が来ても心の平安を失わないようにしなければならない。私たちは自分が望んでいる物や環境が得られると幸せになり、望ましくない事物に出あうと不幸になる。だが、そうした物質環境の変化に心を乱されれることは、精神的立場にいる限り有り得ないのである。この環境に達するためには、確固たる信念のもとに献身奉仕にはげまなければならない。それることなく仕えること――これは9種の献身奉仕を行うことを意味する。唱える、聞く、崇拝する、尊敬を捧げる、その他、第9章の最終節に説明してあるようにこの規定に従わなくてはならない。

 精神生活に入った人は物質主義的な人々と交際するのを嫌うようになる。その気持ちがどれ程のものか、人里離れた所に住んでみて自分を試してみるのもいいであろう。一般に献身者は不必要な遊戯、映画鑑賞や社交的な集まりに出ることを好まない。そうしたことが時間の浪費であることをよく知っているからである。世の中には性生活やその他のテーマを研究している学者や哲学者大勢いるが、『バガヴァッド・ギーター』によればそのような研究や哲学的考察はおよそ無価値であり、大なり小なり無価値なことである。『バガヴァッド・ギーター』は魂の性質について哲学的に探究することをすすめている。私たちは自分とは何者か見極めなければならない。ここではそれが奨励されているのである。

自己の悟りのためにはバクティ・ヨーガが特に実際的であるとここに明確に書かれている。献身奉仕について何か疑問をもったら、すぐにスーパーソウルと個別魂の関係について考えなければならない。少なくともバクティ哲学、すなわち献身奉仕の人生観においては、個別魂とスーパーソウルがひとつにはなりえない。明確に述べられているように、個別魂が至上魂に従い仕えることがニチャムすなわち永遠である。人はバクティすなわち献身奉仕は永遠であるという哲学的信念を確立しなければならない。

 『シュリーマド・バーガヴァタム』(1-2-11)に説明されているように「絶対真理を真に悟った人は絶対真理がブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンという3つの相であらわれていることを知っている」のである。バガヴァーンこそが絶対真理を悟る上での最深の奥義である。それゆえ人はバガヴァーンを理解する段階まで到達できるように努め、その至上主に心から献身奉仕を捧げなければならない。これが知識の完成なのである。

 謙遜の実修から始まり絶対真理すなわち絶対者バガヴァーンを悟るまでの過程は階段を1階から最上段まで登るようなものである。多くの人が1階にいる。2階まで上った人、3階まで上った人も大勢いる。だが最上階に上らない限り、すなわちクリシュナ意識を得ない限り、人は知識に関してより低い段階にいるのである。もし神に対抗しながら精神的知識の向上を望んでいるとするならば、その希望はまことに空しい結果に終わる。謙遜なくして知識の体得は不可能であると明確に述べられている。自分が神であると考えるのは最も尊大な態度である。生命体は物質自然の苛酷な法則に常に蹴られ苦しめられているのに、無知のために「私は神だ」とそれでも思っているのである。それゆえ知識の先ず第一歩はアマーニトヴァすなわち謙遜である。人は謙遜でなければならず、至上主に服従すべきであると知らなければならない。至上主に反抗しているがために物質自然に服従させられているのである。私たちはこの真理をよく理解し確信しなければならない。

テキスト

jñeyaṁ yat tat pravakṣyāmi
yaj jñātvāmṛtam aśnute
anādi mat-paraṁ brahma
na sat tan nāsad ucyate

Synonyms

jñeyam — 知ることができるもの; yat — それ; tat — そのpravakṣyāmi — さてこれから説明しよう; yat —それ; jñātvā — 知ること; amṛtam —甘露; aśnute — 人は味わうanādi — 無始; mat-param — 私に従属する; brahma — 精神; na — どちらも~でない; sat — 原因; tat — その; na — ~もまた~でないasat— 結果; ucyate — ~であるといわれている

Translation

さて、これから可知物について説明しよう。それを知り、君は永遠性を経験できよう。ブラフマンすなわち精神は無始でわたしに従属しこの物質界の因果律を超えている。

Purport

 主は活動の田野と知田者について説明され、続けてその知田者を知るための過程を説明して下さった。さて次に主は私たちに可知物すなわち個別魂とスーパーソウルの両者についての説明を始めようとしておられる。知田者、すなわち魂とスーパーソウルの両者について知れば、生きることの味わいを得ることができる。第2章で既に説明してあるように生命体は永遠である。その真理がここでも確認されている。ジーヴァがいつごろ誕生したか、その特定の日はない。至上主からどのようにジーヴァートマーが表出したのか、その歴史をたどることは誰にもできない。それゆえ生命体は無始ということができる。ヴェーダ文典(『カタ・ウパニシャド』1-2-18)はこの体の認識者が不生不死であって完全な知識を持っていると確信している。

 スーパーソウルとしての至上主についてもヴェーダ文典(『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャド』6-16)には、この体の最高認識者であり、物質自然の三様式の支配者であると述べられている。主チャイタンニャもこのことを確認された。それゆえ、この節で述べられているブラフマンの記述は個別魂に関するものである。生命体に関してブラフマンという語が用いられているときは、生命体がアーナンダ・ブラフマではなくヴィギャーヤ・ブラフマであると理解しなければならない。アーナンダ・ブラフマとは至上ブラフマンであるバガヴァーンである。

テキスト

sarvataḥ pāṇi-pādaṁ tat
sarvato ’kṣi-śiro-mukham
sarvataḥ śrutimal loke
sarvam āvṛtya tiṣṭhati

Synonyms

sarvataḥ — あらゆるところに; pāṇi — 手; pādam — 足; tat — その; sarvataḥ — あらゆるところに; akṣi — 眼; śiraḥ — 頭;mukham —顔; sarvataḥ — あらゆるところに; śruti-mat — 耳を持って; loke — 世界に; sarvam — 全てのもの;āvṛtya — 覆って; tiṣṭhati — 存在する

Translation

あらゆるところに主の手、足、目、頭、顔、耳を持つ。あらゆるところに浸透している至高の魂が存在する。

Purport

 スーパーソウル、すなわちバガヴァーンは無限の光線を放射している太陽のような存在でいらっしゃる。あらゆる時所に遍在する姿でスーパーソウルは存在され、その姿の中に最初の偉大な教師であるブラフマーをはじめとして、小さな蟻に至るまでの全生命体が存在している。無限の頭、足、手、眼があり、無限の生命体が存在するが、それら全てはスーパーソウルの中に存在し、そしてスーパーソウルに依存して存在している。それゆえスーパーソウルは全ての場所に遍在しておられるのである。だが個別魂に関しては全ての場所に手、足、眼を持っているとは言えない。そのようなことは不可能である。無知の中にいる間は無限に広がる手足を意識できないが、正しい知識の段階に達すれば、それを意識できるようになると考えるならば、それは矛盾である。つまり個別魂は物質自然に束縛されるようになったので、至上主では有り得ない。至上主と個別魂は全く異なるのである。至上主は自分の手を無限に伸ばし広げることがおできになるが、それは個別魂には不可能である。『バガヴァッド・ギーター』の中には「もし人が愛と献身で葉、花、果物、水を私に捧げるならば、私はそれを受け入れる」という主の御言葉である。主が地球のはるか彼方におられるとすれば、どうして捧げ物をお受け取りになれよう。主は全能の御方であり、無限力の持ち主でいらっしゃる。主は遠い住居にいらっしゃっても、地上(ここ)で誰かが何かを捧げれば、すぐ手を伸ばしてお受け取りになる。これが主の御力である。『ブラフマ・サンヒター』にあるように「主は常にかの超越的惑星で遊んでいらっしゃるが、同時に全宇宙に遍在していらっしゃる」のである。個別魂の場合は、宇宙に遍在しているとは決して言えない、したがいこの節は個別魂のことではなく至上魂すなわちバガヴァーンについて記述しているのである。

テキスト

sarvendriya-guṇābhāsaṁ
sarvendriya-vivarjitam
asaktaṁ sarva-bhṛc caiva
nirguṇaṁ guṇa-bhoktṛ ca

Synonyms

sarva — 全ての; indriya — 感覚; guṇa — 様式の;ābhāsam — 根源の源; sarva — 全て; indriya — 感覚; vivarjitam — ~しないで; asaktam — 執着しないで; sarva-bhṛt — the 一切生命体を維持する人; ca — もまた; eva — 確かに; nirguṇam — 物質的質を持たないで;guṇa-bhoktṛ — 三様式の主人; ca — もまた

Translation

スーパーソウルは全感覚の源だが感覚を持たない。一切生命体を維持しながら一切に執着せず、三様式を超越しながら三様式を支配している。

Purport

 至上主は生命体の全感覚の源でいらっしゃるが、生命体の持つような物質的感覚は主には存在しない。実際、個別魂は精神的感覚を持っているのだが、束縛された状態では生命体が物質要素に覆われているので、感覚的活動が物質を通してのみ現われているにすぎない。しかし至上主の感覚はそのように覆われていず、超越的で「ニルグナ」と称される。グナとは物質自然の三様式のことであり、至上主の感覚は物質に覆われていない。それゆえ主の感覚は私たちの感覚のようなものではないと理解すべきである。至上主は私たちの全ての感覚作用の根源でいらっしゃるが、物質に汚されていない超越的な感覚を持っていらっしゃる。『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャド』(3-9)には「バガヴァーンは物質に汚された手はお持ちでないが、主は主御自身の手があり、捧げられた物は全てその手でお受け取になる」と述べられる。これが束縛された魂とスーパーソウルとの相違である。主は物質的な眼はお持ちでないが、主は眼を持っていらっしゃる。さもなければ、主は御覧になることができない。主は過去、現代、未来のあらゆる事物を見ていらっしゃるのだ。主は生命体のハートの中に住んでいらして、私たちが過去に行ったこと、現在行っていること、そして未来に行うであろうことを全て知っていらっしゃる。「主は全ての事物を知っていらっしゃるが、主を知る者は誰もいない」と、『バガヴァッド・ギーター』は確認している。至上主は私たちのような足はお持ちではないが、精神的な足をお持ちなので、大宇宙のいたることろに旅することがおできになる、つまり至上主は人格をお持ちなのである。主は御自身の眼、足、手、その他全てを持っていらっしゃるが、しかし主の眼、手、足やその他の感覚は物質自然に汚されていないのである。

『バガヴァッド・ギーター』に確認されているように、主は姿をお現しになるとき、内的エネルギーを用いて主本来の姿、ありのままの姿でお現れになる。主は物質エネルギーの支配者でいらっしゃるので、物質的エネルギーに影響され、汚れることは決して有り得ない。ヴェーダ文典には主の全身は精神的であることが述べられている。主は本来の姿、永遠の姿をお持ちであり、その姿はサッチダーナンダ・ヴィグラハと呼ばれている。主は無限の富をお持ちであり、全ての富の所有者、あらゆるエネルギーの持ち主でいらっしゃり、そして完全な知識と最高の知性を具えていらっしゃる。これらはバガヴァーンの特徴の一部である。全ての生命体を維持しているのが主であり、そして主が全生命体の全活動を御覧になっている。ヴェーダ文典を通じて私たちが理解する限り、至上主は常に超越的でいらっしゃる。いま私たちは主の手足や頭や顔を見ることはできないが、私たちが物質自然を超越した境地に達したならば、主の御姿を見ることができる。感覚が物質で汚されているために主の御姿を見ることができない。それゆえ、物質の影響下にいるマーヤーヴァーディーたちはバガヴァーンを理解することができないのである。

テキスト

bahir antaś ca bhūtānām
acaraṁ caram eva ca
sūkṣmatvāt tad avijñeyaṁ
dūra-sthaṁ cāntike ca tat

Synonyms

bahiḥ — 外; antaḥ — 内; ca — もまた; bhūtānām — 生命体全ての; acaram — 動かないもの; caram — 動くもの;eva — もまた; ca —そして; sūkṣmatvāt — 精妙なので; tat — その; avijñeyam — 知ることもできない; dūra-stham — はるか遠く; ca — もまた; antike — 近く; ca — そして; tat — その

Translation

動くもの動かぬもの全ての生命体の、内にも外にも至上真理は存在している。至上真理は精妙なので、物質的感覚で見ることも理解することもできない。はるか遠くに存在しまた全てのものの近くにもいる。

Purport

 ヴェーダ文典によれば、至上主ナーラーヤンは各生命体の内にも外にも、そして精神界、物質界の両方にもいらっしゃり、私たちの非常に遠くにも、同時に非常に近くにも存在していらっしゃる。ヴェーダ文典にはそのような記述がある。そして主は常に超越的至福の中にいらっしゃるので、私たちは主が無限の富をどのように楽しんでおられるか理解できない。私たちの物質的感覚では見ることも理解することもできないのである。すなわちヴェーダ文典は、私たちの物質的な心と感覚を浄化すれば、いつも主を見ることができる。このことは『ブラフマ・サンヒター』でも「至上神に愛を持つ献身者は絶えず主を見ることができる」と確認することができる。またこの『バガヴァッド・ギーター』でも「献身奉仕によってのみ主を見、理解することができる」(11-3)と明言されている。

テキスト

avibhaktaṁ ca bhūteṣu
vibhaktam iva ca sthitam
bhūta-bhartṛ ca taj jñeyaṁ
grasiṣṇu prabhaviṣṇu ca

Synonyms

avibhaktam — 分かれないで; ca — もまた; bhūteṣu — 全生命体の中に; vibhaktam — 分けられた; iva — ~のように; ca — もまた;sthitam — 位置して; bhūta-bhartṛ 全生命体を位置する人; ca —もまた; tat — その; jñeyam — 理解される; grasiṣṇu — 滅ぼす; prabhaviṣṇu — 創造する; ca — もまた

Translation

スーパーソウルは各個のなかに分かれているようにも見えるが決して分かれることなく常にひとつである。スーパーソウルは全生命体を維持しているが、全てを滅ぼし全てを創造すると知れ。

Purport

 主は各個の生命体のハートの中にスーパーソウルとして住んでいらっしゃる。これは主が分割されているということであろうか。否、主はひとつでいらっしゃる。太陽を例にとってみよう。正午に太陽は子午線に存在し、空の上に輝いている。5千マイル離れたところにいる人に太陽はどこかと質問すれば、やはり頭上に輝いていると答えられるだろう。ヴェーダ文典では、一なるヴィシュヌは、太陽が多くの人のために多くの場所に現われているように見えるように、全能の力によりあらゆる時所に存在していらっしゃるとも述べられている。そして至上主は全生命体を維持していらっしゃるが、破壊の時期がくればあらゆるものと滅ぼしてしまわれる。これは11章で主が「わたしはクルクシェートラに集まった戦士を全て滅ぼし尽くすために来た」と言われたように、明らかである。また主は時という姿で全てを滅ぼすと述べられた。主は全てのものの絶滅者、殺りく者でいらっしゃる。創造のとき、主は全てを原初の状態からそれぞれの形に育て上げ、破壊のときそれら全てを滅ぼし尽くされるのだ。ヴェーダのマントラに確認されているように主は一切の生命体の根源であり、休息の場である。つまり創造の後、一切のものは主の全能の力により維持されて、破壊の後全てのものは主の中に帰って休むのである。このとこはヴェーダのマントラの中で繰り返し確認されている真理である。

テキスト

jyotiṣām api taj jyotis
tamasaḥ param ucyate
jñānaṁ jñeyaṁ jñāna-gamyaṁ
hṛdi sarvasya viṣṭhitam

Synonyms

jyotiṣām — 全ての光るものの中で; api — もまた; tat — その;jyotiḥ — 光の源; tamasaḥ — 闇; param—~を超えて; ucyate — ~と言われる; jñānam — 知識; jñeyam— 知られること; jñāna-gamyam — 知識によって近づけること; hṛdi — ハートに; sarvasya — 全ての人の;viṣṭhitam — 位置して

Translation

主は全ての光るものの光の源であり、物質性の闇を超え、不顕現である。主は知識、知識の対象、知識の目的で、各自のハートに住んでいる。

Purport

 スーパーソウル、すなわちバガヴァーンは太陽、月、星などあらゆる光り輝くこのの光の源でいらっしゃる。ヴェーダ文典では、精神界には太陽や月がないと述べられている。精神界には至上主の光輝が存在するからである。この物質界においては主の精神的光輝ブラフマジョーティが物質要素マハト・タットヴァで覆われているために、私たちは太陽や月や電気を必要とする。しかし精神界にはそのようなものは全く必要ない、主の光輝により全てのものが照らされているとヴェーダ文典に明確に述べられている。それゆえ主は物質界に位置していらっしゃるのではないことが明らかである。主は精神空間のはるか上方、精神界にいらっしゃるのである。これもヴェーダ文典に確認されていることである。主はまさに太陽のように永遠に輝いていらっしゃる。しかし主は物質界のはるか彼方にいらっしゃるのである。 

 至上主の知識は超越的である。ヴェーダ文典は、ブラフマンが超越的知識の凝集したものであると述べている。精神界に移りたいと切望している人には各自のハートに住んでおられる至上主がそのための知識を授けて下さる。ヴェーダのマントラ(『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャド』6-16)には「もし人が真実に解放を希(ねが)うならばバガヴァーンに完全に服従しなければならない」と述べられている。究極知識の目的についてはヴェーダ文典(『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャド』3-8)に至上主を知ることによってのみ生死を超越することができると述べられている。

 至上主は至上の支配者として全てのもののハートの中に住んでいらっしゃる。主は全ての場所に遍在する手足を持っていらっしゃるが、これは個別魂についてはあてはまらない。したがい2種類の知田者――個別魂とスーパーソウル――が存在することを私たちは認めなければならない。人の手足は局部的であるが、クリシュナの手足は全ての場所に遍在している。このことも『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャド』(3-17)で確認されている。すなわちバガヴァーン、スーパーソウルは全生命体のプラブつまり主人であり、それゆえ全生命体にとっての究極的な保護の地でいらっしゃる。ゆえに個別魂とスーパーソウルは常に異なるという事実を否定することはできない。

テキスト

iti kṣetraṁ tathā jñānaṁ
jñeyaṁ coktaṁ samāsataḥ
mad-bhakta etad vijñāya
mad-bhāvāyopapadyate

Synonyms

iti — このように; kṣetram — 田野(肉体)tathā— もまた; jñānam — 知識; jñeyam — 可知物; ca—もまた; uktam — 述べた; samāsataḥ — 簡潔に;mat-bhaktaḥ — 私の献身者; etat — これら全て; vijñāya — 理解したあとで; mat-bhāvāya — 私の性質に; upapadyate — 達する

Translation

わたしは田野(肉体)と知識、可知物について簡潔に語ってきた。献身者のみこれを完全に理解しわたしのもとに来ることができよう。

Purport

 肉体、知識、可知物について主は簡潔に説明された。この知識には3つのものが含まれていて、それらは知田者と可知物、そして知識の過程である。これら3つを総合してヴィギャーナすなわち知識の科学という。完全な知識を理解できるのは献身者だけであり、その他の者たちには理解不可能である。一元論は究極の境地においては、その3者がひとつとなると言うが、献身者はこの説を退ける。知識とは、知識を発展させることとは、クリシュナ意識のなかで自分自身を理解するということを意味する。私たちは現在物質的意識で行動しているが、全意識をクリシュナの活動に向けて、クリシュナこそが全てであることを悟るやいなや、真の知識が体得できる。言葉を変えれば、知識とは至上主への献身奉仕を完全に理解するための準備段階に他ならないのである。これについては第15章で明確にされている。

 これまでに要約をするならば、第6節と第7節マターブーターニからチェータナードリティまでのところは物質要素および生命の微候のある特定の顕現について分析説明されていることがわかるであろう。これらのものが結合して肉体すなわち活動の田野が形成される。そして第8節から第12節マーニートヴァムからタットヴァギャナールターダルシャナムまでは2種類の知田者すなわち個別魂とスーパーソウルを理解するための知識過程が説明されている。第13節から第18節アナーディマトパラムからフリディサルヴァスカヴィスティタムまでは個別魂と至上主であるスーパーソウルについて述べられている。

こうして3つの項目が説明されてきた。(1)活動の田野(肉体)、(2)理解の過程、(3)スーパーソウルと個別魂。そしてここでは特に主の純粋な献身者だけがこの3つの項目を完全に理解できるということが強調されている。至上主クリシュナの国に着くことができるのは献身者なので、こうした献身者にこそ『バガヴァッド・ギーター』は有用なのである。つまり、この『バガヴァッド・ギーター』を理解して望みをかなえられるのは献身者のみなのである。

テキスト

prakṛtiṁ puruṣaṁ caiva
viddhy anādī ubhāv api
vikārāṁś ca guṇāṁś caiva
viddhi prakṛti-sambhavān

Synonyms

prakṛtim — 物質自然; puruṣam — 生命体; ca—もまた; eva — 確かに; viddhi — あなたは知らなくてはならない; anādī — 無始; ubhau — 両方とも; api — もまた; vikārān — 変化; ca — もまた; guṇān — 物質自然の三様式ca —もまた; eva —確かに; viddhi — 知る; prakṛti —物質自然; sambhavān — から生み出された

Translation

物質自然と生命体はともに無始である。それらの変化と3様式はともに物質自然の産物である。

Purport

 この章で与えられる知識により、肉体(活動の田野)と知田者(個別魂とスーパーソウルの両者)について理解することができる。この肉体は活動の田野であり、そして物質自然で組成されている。肉体をまとい肉体の活動を享受している個別魂がプルシャすなわち生命体である。そのプルシャがひとりの知田者であり、そしてスーパーソウルがもうひとりの知田者である。もちろんスーパーソウルと個別魂はバガヴァーンの種類の異なった顕現であるということを理解しなければならない。生命体は主のエネルギーに属し、スーパーソウルは主自身の拡張体に属する。

 物質自然も生命体も永遠である。つまり両者とも創造の以前から存在しているのである。物質顕現は至上主のエネルギーから現われ、そして生命体も至上主のエネルギーの顕現なのだが、生命体は上位エネルギーに属するのである。物質自然も生命体もこの宇宙が現われる以前から存在していた。物質自然はバガヴァーン、マハー・ヴィシュヌに吸収されていたのだが、命じられたときマハト・タットヴァの作用によって顕現した。同様に生命体も主のなかにいた。そして束縛されていたために至上主に仕えることを嫌い、そのために精神界に入ることを許されないでいた。そして物質自然の現出とともに再び物質界で活動して、精神界に入る準備をする機会が生命体に与えられるのである。これが物質創造の神秘である。実際、生命体は至上主の精神的な一部なのだが、反抗的性質のために物質自然につながれているのである。至上主の上位エネルギーである生命体がどのようにして物質自然と係わり合うようになったかは重要なことではない。それはバガヴァーンがよく御存知でいらっしゃる。そして教典の中で主は「物質自然に魅き付けられた者たちは厳しい生存競争の下にいる」とおっしゃる。だが私たちはこの数節の説明から、三様式による物質自然の変化と影響も物質自然の産物に他ならないということを理解しなければならない。生命体に関するあらゆる変化と多様性は肉体が原因で起こるのである。精神魂に関する限り、全ての生命体は同等なのである。

テキスト

kārya-kāraṇa-kartṛtve
hetuḥ prakṛtir ucyate
puruṣaḥ sukha-duḥkhānāṁ
bhoktṛtve hetur ucyate

Synonyms

kārya — 結果の; kāraṇa — 原因; kartṛtve — 創造に関して; hetuḥ —  道具; prakṛtiḥ —物質自然; ucyate — ~であるといわれる; puruṣaḥ — 生命体; sukha — 幸福の; duḥkhānām — そして悲苦;bhoktṛtve —快楽の; hetuḥ —道具; ucyate — ~であるといわれる

Translation

物質自然はあらゆる物質次元の原因と結果の根源であり、生命体は物質界の多種多様な苦楽の原因であるといえよう。

Purport

諸生命体における肉体や感覚の多種多様な相違は物質自然によって生じたものである。生命体の種類は840万種あり、この多様性は物質自然の産物で、生命体の様々な感覚的快楽から発生し、そして生命体が自分の欲望によって住む肉体をその中から選ぶのである。異なった肉体には異なった種類の幸・不幸があるが、物質次元の幸・不幸は肉体に由来するのであって生命体自身には関係がない。生命体は元来喜びに満ちたものであり、喜びに満ちた状態が生命体の本来の状態である。物質自然を支配したいという欲望のために生命体は物質界にいるのである。精神界にはそのような欲望は全く無く、精神界界は純粋な場所である。だが物質界では肉体のために様々な快楽を得ようと誰もが苦闘している。肉体は感覚的欲望の結果として現われたものであるといえばさらに明確に理解できるであろう。諸感覚は欲望を満たすための道具であり、欲望を満たすための道具である感覚と肉体は物質自然によって提供されたものである。そして次の節で明らかにされているように、生命体は過去の欲望と行動により幸福な環境に恵まれたり、苦痛に満ちた境遇に入ることを余儀なくされたりする。生命体の欲望と行動に従い物質自然は生命体を様々な環境に置く。だから今如何にあるかが将来の環境と苦楽の原因になる。ひとたび特定の肉体のなかに置かれると生命体は物質自然の支配下に入る。肉体は物質なので、物質自然の法則に従って動くからである。その状態では生命体にはその法則を変える力はない。たとえばある生命体が犬の肉体の中に置かれたとする。犬の肉体の中に置かれるやいなや、犬の行動様式に従うことを余儀なくされる。それ以外の行動はできないのである。豚の体の中に置かれたら、さっそく糞を食べ豚のように行動する。神々の体に入れば神々のように行動しなければならない。これが自然の法則である。だがどのような環境にいたとしても個別魂は必ずスーパーソウルとともにいる。これについてはヴェータ『ムンダカ・ウパニシャド』3-1-1)に至上主は生命体に対して非常に慈悲深く、生命体がどのような環境のなかにいても常にスーパーソウルとして個別魂に付き添っていらっしゃる」と述べられている。

テキスト

puruṣaḥ prakṛti-stho hi
bhuṅkte prakṛti-jān guṇān
kāraṇaṁ guṇa-saṅgo ’sya
sad-asad-yoni-janmasu

Synonyms

puruṣaḥ — 生命体; prakṛti-sthaḥ — 物質エネルギの中に位置して; hi — 確かに; bhuńkte — 楽しむ;prakṛti-jān — 物質自然によって生み出されて; guṇān —物質自然の三様式; kāraṇam — 原因; guṇa-sańgaḥ —物質自然の三様式の交際; asya — 生命体の; sat-asat — 善と悪に; yoni — 様々な種類の生命体;janmasu — 誕生の

Translation

このように生命体は物質自然の中にあって特定の生活様式に従い、物質の三様式を享受する。それは物質自然と係わるからである。このように生命体は様々な種のなかで然や悪に遭遇する。

Purport

 いかにして生命体がひとつの肉体から別の肉体へと移動するかを理解するために、この節は非常に重要である。ちょうど人が着物を取り替えるように生命体は肉体から肉体へと移住すると第2章で説明されている。この衣服交換は生命体が物質存在に執着しているためにおこる。この虚の現象に心が捕らえられている限り生命体は肉体から肉体へと移住する。物質自然を支配したいという欲望のために、生命体はそのような不自由で不都合な環境に置かれるのである。物質的欲望の影響により、あるときは神々、また人間や野獣、鳥や虫、水生動物やあるいは聖人として誕生するのである。これが際限もなく続いていく。そして、いかなる場合にも生命体は自分が環境の支配者であると考えているが、実際には物質自然の影響のもとにいるのである。

 いかにして生命体が様々な肉体に入れられるかがここに説明されている。それは物質自然に三様式との係わり方によって決定されるのである。それゆえ私たちはその三様式を超越して、超越的な状態に位置されなければならない。それがクリシュナ意識とよばれている。クリシュナ意識にならない限り、太古の昔から持ち続けている物質的な欲望のために、生命体は物質的意識によって肉体を次々と移住することを余儀なくされる。しかし私たちはそのような考え方を変えなければならない。その精神的改革は権威者の言葉を聞くことによってのみ可能となる。その最良の例がここにある。アルジュナがクリシュナから神の科学を聞いているのである。生命体がもしこのように聞くというプロセスを身に付けるならば、太古から育ててきた物質自然を支配するという欲望を消滅されることができる。そしてその欲望が減るにしたがい、次第に精神的な喜びを味わえるようになる。ヴェーダのマントラには「バガヴァーンとの交わりが深まるにつれて、生命体は永遠至福の生活を楽しむようになる」と述べられている。

テキスト

upadraṣṭānumantā ca
bhartā bhoktā maheśvaraḥ
paramātmeti cāpy ukto
dehe ’smin puruṣaḥ paraḥ

Synonyms

upadraṣṭā — 監督者; anumantā — 認可する人; ca — もまた;bhartā — 主人; bhoktā — 最高の享楽者; mahā-īśvaraḥ— 至上主; parama-ātmā — スーパーソウル; iti — もまた; ca — そして; api — 事実; uktaḥ — 言われる; dehe — 肉体の中に; asmin — この; puruṣaḥ —享楽者; paraḥ — 超越的な

Translation

だがこの肉体のなかには超越的な享楽者である主が住んでいる。主は至上の所有者で、生命体を監督し行動を認可し、そしてスーパーソウルとして知られている。

Purport

 ここでは個別魂と常にともにいらっしゃるスーパーソウルが至上主の代理であるということが述べられている。スーパーソウルは普通の生命体ではないのである。一元論の哲学者たちは肉体の認識者はひとりであると考えているので、スーパーソウルと個別魂は異なるものではないと考えている。この点を明白にするために、主はパラマートマーは個別魂と異なり、「パラ」というついているように、超越的なのである。個別魂はある特定の田野における活動を経験するが、スーパーソウルはそのように有限の享楽者ではなく、また肉体の行動に参加されるのではない。スーパーソウルは目撃者として、監督者、裁可者として、また究極的な享楽者として存在していらっしゃるのである。アートマーではなくパラマートマーという名が示すように、主は超越的でいらっしゃる。アートマーとパラマートマーが異なるということは明白である。スーパーソウルすなわちパラマートマーの手足はいたる所に存在しているが、個別魂に関してはそのようなことはない。パラマートマーは至上主なのだから、個別魂の物質的欲望の認可者、裁定者として臨在しておられる。スーパーソウルの裁可がなければ個別魂は何もできない。個別の生命体は「ブクタ」すなわち維持さえる者であり、主は「ボークタ」すなわち維持する者でいらっしゃる。生命体は無数に存在し、その各々のなかに主は友として臨在していらっしゃるのである。

個別の生命祁体は永遠に至上主の一部分なので、両者は最も親しい友人関係にある――これが真実である。ところが生命体は至上主の裁可に反抗する傾向にあり、自分が主となって物質自然を支配しようとする。そしてこのような習性を持つために個別の生命体は至上主の中間エネルギーと呼ばれるのである。生命体は物質エネルギーのなかにも、精神エネルギーのなかにも居住可能であり、物質エネルギーに束縛されている間は至上主がスーパーソウルとして友として各生命体のなかに住み、各生命休恥を精神エネルギーに戻そうと導いて下さる。主は常に熱心に各生命体を精神エネルギーに連れ戻そうとしておられるのだが、生命体はわずかばかりの独立性を持っているために精神的光と交わることを拒否し続けているのである。このようにわずかな独立権を誤用することが原因で、生命体たちは束縛された物質自然の中で物質的に苦闘することを余儀なくされる。だから主は絶えず内からも外からも生命体に指図を与え指導をし続けていらっしゃるのである。外からは『バガヴァッド・ギーター』に書いてあるような教訓をお与えになり、内からは物質次元の活動が真実の幸福には通じないということを納得させようと、「それをやめて、私の方を向きなさい。私を信じなさい。そうすれば真実の幸福が得られるのだ」と主はおっしゃる。すなわちバガヴァーンに信念を持つ知性の豊かな人は完全な知識と至福に満ちた永遠の生活に向かって前進し始めるのである。

テキスト

ya evaṁ vetti puruṣaṁ
prakṛtiṁ ca guṇaiḥ saha
sarvathā vartamāno ’pi
na sa bhūyo ’bhijāyate

Synonyms

yaḥ — ~である人; evam —このように; vetti — 理解する;puruṣam — 生命体; prakṛtim — 物質自然; ca— そして; guṇaiḥ — 物質自然の三様式; saha — ~と;sarvathā — 全ての方法で; vartamānaḥ — ~に位置していて; api —~にもかかわらず; na —決して~でない; saḥ —彼は; bhūyaḥ — 再び;abhijāyate — 誕生する

Translation

物質自然と生命体と物質自然の三様式の相互関係に関する哲学を理解する者は必ず解放を得て、現在どのような地位にいても決してこの世界に再び誕生しない。

Purport

 物質自然、スーパーソウル、個別魂、そしてこれらの相互関係を明確に理解するならば、人は解放を得て精神的雰囲気の中に入り、再び物質自然に戻らなくでもよい資格を得る。これが知識の結果である。知識の目的とは生命体が物質自然に偶然に落ちたのだということを明確に知ることである。私たちは権威者や聖者たちと交際し、グルについたりして努力をかさね、自分が何であるかということをよく理解し、そして精神的意識すなわちクリシュナ意識に立ち帰らなければならない。バガヴァーンがお語りになった『バガヴァッド・ギーター』も真義を学び知るのがその手段である。そうすれば物質的存在に戻る必要が確実になくなり、そして知識と至福に満ちた永遠の生活をするために精神界に移されるのである。

テキスト

dhyānenātmani paśyanti
kecid ātmānam ātmanā
anye sāṅkhyena yogena
karma-yogena cāpare

Synonyms

dhyānena — 瞑想によって; ātmani — 自己の中に;paśyanti — 見る; kecit — ある人; ātmānam — スーパーソウル;ātmanā — 心によって; anye —他の人; sāńkhyena — of 哲学的議論の; yogena — ヨーガによって;karma-yogena — 果報的欲望を持たない活動によって; ca — もまた; apare — また別の人

Translation

瞑想によってスーパーソウルを内に知覚する者もいる。知識の素養により、また果報的活動を通じてスーパーソウルを内に知覚する者もいる。

Purport

束縛された魂は、人間としての自己の悟りに関する限り、〃二種類に分類できることを主はアルジュナにお教えになった。無神論者、不可知論者、懐疑論者のような人々にとっては精神的なことなど理解の外である。しかし他の者たち、精神生活を理解しようと信念を持っている人々すなわち内省的な献身者、哲学者、果報的な結果を求めずに活動する人々がいる。二元論の学説を定着させようとしている人も無神論者か不可知論者のなかに分類することができる。バガヴァーンの献身者だけが精峠神的知識を理解するという点に関して最も正しい立場にいる。なぜならこの物質自然を超えたところに結糊昌界があり、そこにはパラマートマーすなわち全てのものの中にスーパーソウルとして拡張され、全てに遍在していらっしゃるお方バガヴァーンがいらっしゃることを献身者は知っているからである。もちろん、知識の素養によって絶対真理を理解しようと努力している人々もいて、そのような人は信念を持つ人に分類される。そのようなサーンキャ哲学者たちは、この物質界を二十四の要素に分析し、そして個別魂を二十五番目の項目においた。個別魂が二十四要素を超えたものであることを理解できるようになればサーンキャ哲学者も個別魂の上にバガヴァーンがいっらしやることを知るであろう。バガヴァーンが二十六番目の要素である。このようにしてサーンキャ哲学者もまた次第にクリシュナ意識の献身奉仕に近づいていくのである。果報的結果を求めずに蒲動する人々の態度も完全なものである。そのような人々にはクリシュナ意識の献身奉仕の段階まで進むチャンスが与えられる。ここではまた純粋な気持ちで唄想によりスーパーソウルを発見しようと努めている人々がいることが述べられている。そして自分のなかにスーパーソウルを発見したとき、彼らは超越的な立場に位置される。同様に知識を深めてスーパーソウルを知ろうと努めている人々もいるが、また他にはハタ・ヨーガの修練をしてバガヴァーンを喜ばせようとしている幼稚な考え方の人もいる。

テキスト

anye tv evam ajānantaḥ
śrutvānyebhya upāsate
te ’pi cātitaranty eva
mṛtyuṁ śruti-parāyaṇāḥ

Synonyms

anye — 他の人; tu — しかし; evam — このように; ajānantaḥ — 精神的知識もなく; śrutvā — 聞くことによって; anyebhyaḥ — 他の人から; upāsate — 崇拝し始める; te — 彼らは; api — もまた;ca — そして; atitaranti —超越する; eva — 確かに; mṛtyum — 死への道; śruti-parāyaṇāḥ — 聞くという態度をもって

Translation

またある者は精神的知識について知らないが人から至上者について聞き至上者を崇拝しはじめる。このような人は権威者から聞こうという態度のために生死の鎖から解放されるであろう。

Purport

 この節は特に現代の社会にあてはまる。現代の社会においては実際に精神的な教育が全く行われていないからである。無神論や不可知論を唱えたり、また哲学的にふるまう者もいるが真の哲学的知識は存在しない。一般の人に関しては、善良な魂ならば、聞くことによって精神的に向上する機会がある。この聞くというプロセスは非常に重要である。近代においてクリシュナ意識を説き広められた主チャイタンニャは特に超越的な音である「ハレー・クリシュナ・ハレー・クリシュナ・クリシュナ・クリシュナ・ハレー・ハレー/ハレー・ラーマ・ハレー・ラーマ・ラーマ・ラーマ・ハレー・ハレー」を聞くことによる向上は著しいと述べられた。それゆえ「真理を悟った人から聞けば、誰でもしだいに全てのことが理解できるようになる」とここで述べられている。その過程に従えば必ず至上主を崇拝するようになるのである。「この時代では誰でも自分の立場を変える必要はなく、ただ人は絶対真理を知的思索の論理によって理解しようとする努力を放棄すべきである」と主チャイタンニャは述べられた。私たちは至上主の知識を体得した人々に奉仕することを学ばなければならない。もし幸運にして純粋な献身者に保護を求めることができ、自分の本性が何であるかについて聞き、そして純粋な献身者の指導に従うならば、人は次第に純粋な献身者の立場に高められるであろう。この節は特に聞くことを強く勧めているが、これは適切なことである。一般の人々は自称「哲学者」からみればそれほど能力を持つと言えない場合が多いが、権威ある人々から信念を持って聞いているならば、この物質存在を超越して、神の国すなわち真実の家郷(ふるさと)に帰ることができるのである。

テキスト

yāvat sañjāyate kiñcit
sattvaṁ sthāvara-jaṅgamam
kṣetra-kṣetrajña-saṁyogāt
tad viddhi bharatarṣabha

Synonyms

yāvat — どんなものでも; sañjāyate — 存在する; kiñcit —何か; sattvam — 存在するもの; sthāvara — 動かないもの;jańgamam —動くもの; kṣetra — 肉体の; kṣetra-jña — そして肉体を知る人; saḿyogāt — その結合によって; tat viddhi — それをしなくてはならない; bharata-ṛṣabha — バーラタ族の首長よ

Translation

バラタの一族の首長よ、動くものも動かぬものも存在する全て、活動の田野と知田者との結合であることを知れ。

Purport

この節は、宇宙創造の以前から存在している物質自然と生命体について説明している。創造されたものは何であれ、この両者の結合である。樹木、山、岡など動かぬものは多数
あり、また動くものも無数にある。だが全てのものはこの物質自然と上位自然の結合したものにすぎない。上位自然すなわち生命体が関与しなければ、何ものも成長し得えない。両者の関係は至上主の意志によって永遠に進行し続けている。つまり至上主が上位下位両自然の支配者であり、主は物質自然を創造し、そのなかに上位自然をお入れになる。すると全ての活動と顕現が出現するのである。

テキスト

samaṁ sarveṣu bhūteṣu
tiṣṭhantaṁ parameśvaram
vinaśyatsv avinaśyantaṁ
yaḥ paśyati sa paśyati

Synonyms

samam — 等しく; sarveṣu — 全ての中に; bhūteṣu — 生命体;tiṣṭhan-tam — 住んで; parama-īśvaram — スーパーソウル;vinaśyatsu — 必滅の体の中に; avinaśyantam — 破壊されない; yaḥ — ~である人; paśyati — 見る; saḥ — 彼は;paśyati — 実際に見る

Translation

全ての体の中で個別魂にスーパーソウルが付き添い、必滅に体の中のこの2者が不滅であると知る者は、真実を見る者である。

Purport

 良い交際を持つことにより、肉体、肉体の所有者である個別魂の友という3者が結合していることを知る人は実際に知識を得た人である。精神の問題について真の理解を持っている人と交際しなけらば決してこの3つのものを理解することはできない。このような交際を持たない人は無知であり、肉体だけしか見えないので、肉体が滅べば全て終わると考えているが、それは真実ではない。肉体の死後も個別魂もスーパーソウルも永遠に存在して、動くもの動かぬもの実に様々な形態の中に転生し続ける。パラメーシュラワというサンスクリット語は個別魂と訳される場合もあるが、それは魂が肉体の主人であり、肉体の死後は別の体に移るからである。そのような意味では確かに魂を主人と呼んでもよい。しかし一方パラメーシュワラをスーパーソウルと受け入れている人々もいる。いずれにしても個別魂とスーパーソウルは生き続け決して破壊されることはない。この事実を知っている人は肉体の死に際して何が起こっているのかを実際に見ることができる。

テキスト

samaṁ paśyan hi sarvatra
samavasthitam īśvaram
na hinasty ātmanātmānaṁ
tato yāti parāṁ gatim

Synonyms

samam — 等しく; paśyan —見ること; hi — 確かに; sarvatra— あらゆるところに; samavasthitam — 等しく偏在して; īśvaram — スーパーソウル; na — ~でない; hinasti —堕落する; ātmanā — 心によって; ātmānam — 魂; tataḥ — それから; yāti — 達する; parām — 超越的な; gatim — 目的地

Translation

あらゆるところ、あらゆる生命体のなかにスーパーソウルが等しく遍在していると知る者は、心によって堕落することなく至高の目的地へと近づいて行く。

Purport

 生命体は物質存在を受け入れることによって、本来の精神存在とは異なった状況に立つことになる。しかし至上主がスーパーソウルとしてあらゆる所に存在していらっしゃることを理解すれば、すなわちバガヴァーンが全ての生命体の中にいらっしゃることを知ったならば、生命体は破壊的心情によって堕落することは決して有り得ず、そして次第に向上して精神界へと戻っていく。つまり心は一般に感覚満足の中毒になっているが、心がひとたびスーパーソウルの方に向けられると、人は自然に精神的向上の道を進み始めるのである。

テキスト

prakṛtyaiva ca karmāṇi
kriyamāṇāni sarvaśaḥ
yaḥ paśyati tathātmānam
akartāraṁ sa paśyati

Synonyms

prakṛtyā — 物質自然によって; eva — 確かに; ca — もまた;karmāṇi — 活動; kriyamāṇāni — 行われた;sarvaśaḥ —あらゆる点で; yaḥ — ~である人; paśyati — 見る; tathā —もまた; ātmānam —彼自身; akartāram — 何もしない人; saḥ — 彼は; paśyati — 完全に見る。

Translation

物質自然によって創られた肉体により全ての活動は行われ、自己は何も為さないと知る者は真実・実相を見ている。

Purport

 肉体はスーパーソウルの指示のもとに物質自然によって創られたものであり、肉体によって為されるいかなる活動も生命体自身が行っているのではない。幸福にも通じるものであれ、不幸に導かれるものであれ、人の為す行為は肉体本来の性質が私たちに行為させているものであり、自己そのものは肉体の為す全ての行為とは無関係である。この肉体は過去の欲望に応じて与えられたものである。実際に肉体とは欲望を満たすために至上主によって設計された機械である。様々な欲望のために様々な環境に置かれ、その結果として不幸や幸を味わうのである。生命体に関するこのような超越的な視野を持ったとき、人は物質的な活動を離れるのである。このような視点を持つ人が真実なすがた、実相を見ているのである。

テキスト

yadā bhūta-pṛthag-bhāvam
eka-stham anupaśyati
tata eva ca vistāraṁ
brahma sampadyate tadā

Synonyms

yadā — ~の時; bhūta — 生命体の; pṛthak-bhāvam — 別々の肉体; eka-stham — ひとつの中に位置して; anupaśyati— 権威者を通してみようとする; tataḥ eva — その後;ca — もまた; vistāram — 広がり; brahma — 絶対的なもの; sampadyate — 彼は達する; tadā — その時

Translation

肉体の千差万別による差別観を捨て、生命体が様々な場所に広がっていることを知ったとき、思慮分別のある人はブラフマン意識に達する。

Purport

 個別魂の様々な欲望によって生命体の様々な肉体が現出したのであり、そのような様々な肉体が魂自身のものではないと知るとき、人は実相を見ているのである。生命体を物質次元で見ると、神々に見えたり、人間、犬その他に見える。これは物質的な視野であって、真の視野ではない。このような物質的な差別観は生命を物質的に見るために精神魂は各々様々な肉体を持つ。これがよく理解できたとき、精神的視野に達したといえる。そして人は人間、動物、大きい、低級といったような差別観から自由になり、意識が浄化され、自己の精神的な本来の姿でクリシュナ意識を育てることができるようになる。そのような人は物事をどのような視点から見るかが次節で説明されている。

テキスト

anāditvān nirguṇatvāt
paramātmāyam avyayaḥ
śarīra-stho ’pi kaunteya
na karoti na lipyate

Synonyms

anāditvāt — 永遠性のために; nirguṇatvāt — 超越的であるために; parama — 物質自然を超えて; ātmā — 魂; ayam — この; avyayaḥ —不滅の; śarīra-sthaḥ — 体の中に住んで; api —~だけれども; kaunteya — クンティーの息子よ; na karoti — 何もしない; na lipyate — かかわらない

Translation

永遠の視野を持つ者は不滅の魂が超越的、永遠であり、物質自然の三様式を超えたものであると知ることができる。おおアルジュナよ、肉体と接触しても魂は何も為さず、その影響を受けない。

Purport

 生命体は、肉体の誕生によって生まれるように見えるが、しかし実際は生命体は永遠であり、生まれることはないのである。そして肉体の中に位置していても、生命体は超越的で永遠である。このように生命体は破壊されることなく、元来至福に満ちている。生命体はいかなる物質的活動もなさない。それゆえ肉体に接触したために為された活動は生命体には何の影響も及ぼさないのである。

テキスト

yathā sarva-gataṁ saukṣmyād
ākāśaṁ nopalipyate
sarvatrāvasthito dehe
tathātmā nopalipyate

Synonyms

yathā — ~だけれども; sarva-gatam — 全てに偏在している; saukṣmyāt — 精妙であるために; ākāśam — 空間; na — 決して~ではない; upalipyate — 混ざる; sarvatra — いたるところに; avasthitaḥ — 位置して; dehe— 肉体の中に; tathā — そのように; ātmā — 自己; na —決して~ではない;upalipyate — 混ざる

Translation

空間は精妙な質を持つためにいたるところに遍在していても何物とも混合しない。同様にブラフマンの視野を持つ魂は肉体の中にあって肉体と混合しない。

Purport

 空気は水、泥、糞、その他全てのものの中に入っていけるが、どんなものとも混合しない。同様に生命体はいかなる肉体に住んでいても、その精妙な質のために肉体と混合することはない。したがい生命体が肉体の中でどこにどのようにして存在するのか、肉体が破壊された後どのように肉体から出るのか。物質の眼では決して見ることはできない。科学でこのことを確認できるものは誰もいない。

テキスト

yathā prakāśayaty ekaḥ
kṛtsnaṁ lokam imaṁ raviḥ
kṣetraṁ kṣetrī tathā kṛtsnaṁ
prakāśayati bhārata

Synonyms

yathā — ~のように; prakāśayati —照らす; ekaḥ —ひとつ; kṛtsnam— 全体; lokam — 宇宙; imam — この; raviḥ —太陽;kṣetram — この肉体; kṣetrī — 魂; tathā — 同様に;kṛtsnam — 全て; prakāśayati —照らす; bhārata — バーラタの息子よ

Translation

バラタの子よ、ひとつの太陽がこの全世界を照らしているように、魂は肉体のなかに在って体のすべてを意識で照らしている。

Purport

 意識については様々な学説があるが、この『バガヴァッド・ギーター』では太陽と陽光がその例に挙げられている。太陽がひとつの場所にあって全世界を照らしているように、精神魂という微粒子は心臓の中にあって意識で体全体を照らしている。このように日光が太陽の存在の証拠であるのと同様に、意識が魂の証拠である。魂が肉体にあるときは体全体に意識が行き渡っている。体から魂が去ればもはや意識はなくなる。知性のある人ならばこの事実は容易に理解できよう。だから意識は物質の結合によって産出されたものではない。意識は生命体の徴候である。生命体の意識は質的には至上意識と等しいが、至上ではない。なぜなら特定の一個体の意識は他の個体には及ばないからである。しかし、スーパーソウルは個別魂の友として全ての体の中にいらして、全ての肉体を知っていらっしゃる。これが至上意識と個別意識の相違点である。

テキスト

kṣetra-kṣetrajñayor evam
antaraṁ jñāna-cakṣuṣā
bhūta-prakṛti-mokṣaṁ ca
ye vidur yānti te param

Synonyms

kṣetra — 肉体の; kṣetra-jñayoḥ — 肉体の所有者の; evam —このように; antaram — 違い;jñāna-cakṣuṣā — 知識という視野によって; bhūta — 生命体の; prakṛti — 物質自然から; mokṣam — 解放; ca —もまた; ye — ~である人; viduḥ — 知る; yānti— 近づく; te — 彼らは; param — 至上の

Translation

知識の眼をもち、肉体とその認識者との違いを知る者は、物質自然の鎖から脱出する方法も知り至上の目的地に到達する。

Purport

 肉体、肉体の所有者、スーパーソウルの相違点を知るべきであるというのがこの第13章の要旨である。そして人は第8節から第13節に述べられている解放の方法を知らなければならない。そのようにして至上の目的地に至ることができるようになるのである。

 信念のある人はまず良い交際を持ち、神の話を聞き、精神的知識を身につけるべきである。グルを受け入れれば物質と精神の相違を学ぶことができ、より深い真理体得の道を進むことができるようになる。グルは様々な教示を与えて、生命が物質的なものであるという概念から弟子を解放して下さる。たとえば、この『バガヴァッド・ギーター』ではクリシュナがアルジュナをそのように指導していらっしゃる。

 この肉体が物質であることは誰でも知っている。肉体は24の要素に分析でき、粗厚な権現である。そして精妙な顕現とは心と心理現象である。生命の知徴候はこれらの相互作用である。そしてこれらの上に魂があり、スーパーソウルもいらっしゃる。この物質界は魂と24要素の連結相関によって作動している。全物質現象が魂と24要素との組み合わせで生起するという構造を理解し、また至上魂の立場を理解できる者は精神界に移転される資格を持つ。この真理をよく熟考瞑想し、そして体得しなければならない。そして人はグルの助力を受けて、この第13章を完全に理解するよう努めなければならない。

 以上、『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第13章“自然、享楽者、意識”に関するバクティヴェーダーンタの解説は終了。