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第12章

献身奉仕

テキスト

アrジュナ ウワチャ
エワマ サタタ-ユクタ ヤエ
バクタs トオワマ パリュパサテ
ヤエ チャpy アクシャラン アヰヤクタマ
テシャマ ケ ヨガ-ヰタマハ

Synonyms

arjunaḥ uvāca — アルジュナは言った; evam — このように; satata — いつも;yuktāḥ — 従事して; ye — ~する人たち; bhaktāḥ — 献身者;tvām —あなた; paryupāsate — 正しく崇拝している; ye — ~する人たち; ca — ~もまた; api — 再び; akṣaram — 感覚を超えて;avyaktam — 未顕現の; teṣām — 彼らの; ke — 誰;yoga-vit-tamāḥ — ヨーガの知識で最も完成した人

Translation

アルジュナ問う。――常時あなたへ献身奉仕を適切に捧げている者と、非顕現の、非人格ブラフマンを礼拝している者と、どちらがより完全でしょうか。

Purport

クリシュナはここで、神のパーソナルな側面、非人格な顕現、そして宇宙普遍相について語っている。そして、あらゆる種類の献身者やヨギーについて説明している。一般に、超越主義者は2種類に分けられる。1つはマーヤーヴァーディー、他の1つはヴァイシュナヴァ。ヴァイシュナヴァ献身者は至上主に全エネルギーを捧げて仕える。マーヤーヴァーディーは直接クリシュナに仕えようとはしないで、非顕現の、非人格ブラフマンを瞑想する。

絶対真理を悟るための様々な方法のなかで、献身奉仕、つまりバクティ・ヨーガが最高であることを、私たちはこの章で知ることができる。人が、バガヴァーンと交際したいと思えば、献身奉仕の道をとるほかない。

献身奉仕によって至上主を直接崇拝している人々を、ヴァイシュナヴァと呼び、非人格ブラフマンを瞑想している人々をマーヤーヴァーディーという。アルジュナはここで、どちらの立場がより良いかと質問している。絶対真理を悟るには、いろいろな方法があるけれども、「バクティ・ヨーガ、つまり私に献身奉仕を捧げるのがすべてのなかで最高の方法だ」とクリシュナはこの章で指摘する。神と交際するにはこれが最も直接的であり、その上、最もやさしい方法である。

『バガヴァッド・ギーター』の第2章で、「生物は肉体ではなく、精神的な火花である」ことを、至上主は説明された。そして、絶対真理は精神の完全体であることを。第7章では、生物はその至上の完全体の部分であること、そして、部分は常に完全体に注意を集中せよ、と教えている。そしてまた第8章では、誰でも肉体を離れる時にクリシュナを想えば、直ちに精神界に移住し、クリシュナ御自身が常在する郷に向う、と書いてある。また第6章の終りには、主はハッキリと、「あらゆる種類のヨギーのなかで、クリシュナを常に自己の内で想っている人こそ最も完全なヨギーである」とおっしゃっている。クリシュナのパーソナルな姿を恋慕しているぺきである。これこそ、最高の精神的な悟りであることが、どの章においてもその結論となっているのだ。

ところが、クリシュナのパーソナルな姿に全く恋慕をもたない人々がいる。彼らの無恋慕さは頑固といってもいい程で、『バガヴァッド・ギーター』の注解にあたっても、読者をクリシュナから引ぎ離そうとし、人々の献身のすぺてを非人格プフフマジョーティに向けてしまう。つまり、彼らは人間の感覚が及ばない非顕現の、絶対真理の非人格相を瞑想したがるのである。

このように超越主義者には2種類あり、いまアルジュナは、どちらの方法がやさしく、またどちらの人々が最も完全であるかを質問している。いいかえれば、クリシュナのパーソナルな姿を恋慕している自分の立場を明確にしようとしているのだ。彼は非人格のプラフマンにはどうしても恋慕を感じない。自分の立場が安全確実かどうかを知りたいわけである。この物質界においても、また至上主の精神界においても、非人格な顕現というのは、瞑想するのに厄介てある。実際間題として、絶対真理の非人格的様相を私たちは完全に理解できるだろうか。それはでぎない。だから、アルジュナアは、「そんなことは時問の無駄ではないか?」と言いたいのだ。彼は第11章において、クリシュナのパーソナルな姿を恋慕しているのが最上である、なぜなら、そうすることによって同時に他の様々な相(すがた)をも理解できるし、またそれがクリシュナへの彼の愛晴を妨げないということを経験した。アルジュナがクリシュナにしたこの重大な質問は、絶対真理についての非人格的概念とパーソナルな概念の相違を明らかにする。

テキスト

シュリ-バガワン ウワチャ
マyy アヱシュヤ マノ ヤエ ママ
ニタヤ-ユクタ ウパサテ
シュラダヤ パラヨペタs
テ メ ユクタタマ マタハ

Synonyms

śrī-bhagavān uvāca — バガヴァーンは言った; mayi — 私に; āveśya —固定して; manaḥ — 心を;ye — ~する人; mām —私を; nitya — 常に; yuktāḥ — 従事して; upāsate — 崇拝する; śraddhayā — 信念を持って; parayā—超越的な; upetāḥ — 与えられた; te —彼らに; me — 私によって; yukta-tamāḥ — ヨーガで最も完成した者; matāḥ — ~と考えられる

Translation

バガヴァーンは答えた。――私のパーソナルな姿を心に固定し、大いなる超越的な確信をもって私を崇拝する者たち、彼らこそ最も完璧であると私は考える。

Purport

アルジュナの質問に対する答えで、クリシュナは明白に言明している。「私のパーソナルな姿に集中して、私を確信し、献身をもって崇拝する人が、最も完全なヨーガを行っているのだ」と。そのようなクリシュナ意識の人にとっては、物質次元の活動はないのだ。すべてのことをクリシュナのために使っているのだから、純粋な献身者は常時そうしている。唱名している時もあり、クリシュナのことが書いてある本を読んだり聞いたりしている時もあり、プラサーダムを料理したり、何かクリシュナのために使う物をマーケットの買いに行ったりする時もある。あるいは寺院の清掃をしたり、皿を洗ったりもする。というふうに、彼は1秒たりともクリシュナのための活動を捧げていない時間を費やすことはないのだ。このような活勤こそ完全なサマーディである。

テキスト

 ヤエ トオw アクシャラン アニrデシュヤン
アヰヤクタマ パリュパサテ
サルワトラ-ガン アチンタヤマ チャ
クタ-スタン アチャラマ ドルワン
サンニヤミャエンドリヤ-gラママ
サルワトラ サマ-ブダヤハ
テ プラプヌワンテエ マン エワ
サルワ-ブタ-ヒテ ラタハ

Synonyms

ye — ~する人々; tu — しかし; akṣaram — 感覚の知覚を超えた者; anirdeśyam — 無限の;avyaktam — 未顕現の; paryupāsate — 崇拝に完全に従事している; sarvatra-gam — 偏在している; acintyam — とらえがたい; ca —~もまた; kūṭa-stham — 不変の; acalam— 不動の; dhruvam — 固定した; sanniyamya — 支配している;indriya-grāmam — 全ての感覚; sarvatra —いたるところ;sama-buddhayaḥ — 等しい; te — 彼ら; prāpnuvanti— 達成する; mām — 私を; eva — 確かに; sarva-bhūta-hite — 全ての生命体のために; ratāḥ — 従事して

Translation

だが、非顕現相、すなわち知覚を超え、不可思議、不変、不動の、絶対真理の非人格的な概念を完全に礼拝して、様々な感覚を抑制し、あらゆる生きものを平等にあつかい、ひろく世界の福利のために働く者たち、彼らも終には私のもとに来る。

Purport

最高神クリシュナを直接に崇拝しないで、別な、間接的な方法を通って同じ目的地に達しようと励んでいる人も、最後にはやはり同じところ、シュリー・クリシュナのところに行き着く。「何度も生まれ変わった後で、賢者はヴァースデーヴァがすべてであることを知り、私に保護を求めてくる」。数多の誕生をくりかえして学んだ結果、知識において完全になった時、その人はクリシュナに服従する。この節に書いてあるような方法で神に近づくには、いろいろな感覚を抑制して、すぺての人に奉仕し、一切衆生の福利のために働かなければならない。だから、完全な悟りを達成するには、どうしても主クリシュナに近づく以外にはないのである。クリシュナに完全に服従するまでには、しばしば厳しい苦行をしなければならぬ場合がある。

個々の魂のなかにいるパラマートマーを知覚するためには、見る・聞く・味わう・動く等の感覚的活動を中止する必要がある。その時初めて、パラマートマーはあらゆるところに在ることがわかる。そのことがわかると、どの生物に対しても嫉妬の気持ちがおこらなくなる。彼は人間と動物を差別しない。彼は外皮を見ず、魂だけを見るからだ。だが、この非人格的な悟りは、一般の人には非常に難しい。

テキスト

クレショディカタラステシャーン
アヴャクターサクタチェサーン
アヴャクターヒガティルデュカン
デハヴァドビラヴァーピャテ

Synonyms

klesah.........困難,  adhika-tarah...とても,  tesam..........彼らの中で,  avyakta........未顕現のものに,  asakta.........執着して,  cetasam........心が~である者,  avyakta........未顕現のものに,  hi.............確かに,  gatih..........進歩,  duhkham........困難で,  deha-vadbhih...肉体化されたものにより,  avapyate.......達成される,

Translation

至上者の非人格的な相、即ち非顕現のものに相に魅かれる人々の進歩は大そう困難である。肉体をもつ者たちにとって、その道は常に困難を伴う。

Purport

超越主義者のなかで、至上主の知覚出来ない非顕現、非人格な相を瞑想する人々をジニャーナ・ヨギーといいます。そしてクリシュナ意識に満ちて主への献身奉仕をしている人々をバクティ・ヨギーといいます。さて、ここではジニャーナ・ヨーガとバクティ・ヨーガの相違が明確に述べられています。最終的には同一の目的地に到達しますが、ジニャーナ・ヨーガの道程はまことに難しいのです。それにひきかえ、バガヴァーンに直接仕えるバクティ・ヨーガの方はずっとやさしく、しかも肉体を持つ魂にとって自然な道程なのです。個々の魂は、記憶を絶した太古の昔から体を持っていました。ですから魂にとって、「自分はこの体ではない」ということを理論だけで理解するのは非常に難しいことです。したがって、バクティ・ヨギーはクリシュナの神像を崇拝しますが、それを通じて心の中に具体的な概念を定着させることができるからです。もちろん、寺院に祀られたバガヴァーンの神像を崇拝するのは偶像崇拝ではありません。性質を持った至上主(サグナ)を崇拝する場合と、無性質の至上主(ニルグナ)を崇拝する場合について、ヴェーダ文典にはっきり書いてあります。寺院で神像を崇拝するのはサグナ崇拝です。物質によって表された主を崇拝する。しかし、たとえば石・木・または油絵などの物質で表されていても、主の姿は実際には物質ではありません。それは至上主の絶対的な資質なのです。

一つ良い例を挙げてみましょう。街にポストがあります。そこに手紙を入れると当然なんの苦労も無く手紙は目的地に届きます。でもその辺にある古い箱や、郵便局から認可されていない偽のポストなどに入れれば、それは届きません。それと同じように、神にはご自分で正式に認めた神像の姿があります。これをアルチャー・ヴィグラハといいます。このアルチャー・ヴィグラハは至上主のアヴァターラなのであって、神はこの姿を通して奉仕をお受けくださるです。主は全能です。どんなことでもできます。ですから彼は、彼のアルチャー・ヴィグラハとしてのアヴァターラを通して、献身者の奉仕を受けることができるのです。これは、制約された生活をしている人々のために作られた方法です。

したがって、献身者は至上主に難なく直ぐに、直接近づくことができますが、非人格的な方法に従って精神的悟りを求めている人々は、困難な道を歩まなければいけません。彼らは『ウパニシャッド』のようなヴェーダ文典を通じて、至上者の非顕現相を把握する必要があり、言語も学ばなければならないし、また、知覚で捕らえられない、”何ものか”を理解し、これらの方法、すべてを悟らなければなりません。これは普通の人にとってそんなに容易なことではありません。それにひきかえ、献身奉仕にはげんでいるクリシュナ意識の人は、ただ正統なグルの指導を受けて、規則的に神像を崇拝し、主の栄光について聞き、主に捧げたお下がりの食べ物をいただくだけで、いともやさしくバガヴァーンを悟ることができます。マーヤーヴァーディたちは、わざわざ不必要に困難な道を、しかも最終的に絶対真理を悟ることができるかどうかもわからない、あやふやで危険な道を歩んでいることに疑いありません。ヴァイシュナヴァたちは、何の危険も厄介も困難もなく、まっすぐバガヴァーンのもとに到達できます。同じような章句が『シュリーマド・バーガヴァタム』に書いてあります。いわく「人は結局、最後にはバガヴァーンに絶対服従しなければならないのなら(この服従の方法をバクティと呼ぶ)、ブラフマンはこれだとか、いやそれではないとか言って悩んだり苦労して一生を過ごすのは実に厄介なことではないか」 ですから、ここではその難儀な自己の悟りの道を選ぶな、と忠告しています。この道は、究極の目的地に着けるかどうか、まことに不確実なものなのだから。

生物は永久に個々の魂であり続けるのですが、もし彼が精神の完全体のなかに溶け込みたいと欲するなら、自己の本性についての知識的な面と永遠性は悟れるかも知れないけれど、至福に満ちた面を悟ることはできません。そうした超越主義者、つまりジニャーナ・ヨーガの道を高度に進んだ人も献身者の恩寵によって、バクティ・ヨーガ、献身奉仕を知り、そこに到達することがあります。そんな場合でも、長年にわたる非人格的悟りの修行が障りとなります。なぜなら、彼は自分の考えをなかなか捨てきれないからです。故に体を持った魂にとって、”非顕現なるもの”は、修行中も悟りのときも常に厄介なものなのです。すべての個々の魂は、それぞれ部分的には独立した存在ですが、非顕現の悟りは至福に満ちた自己の精神的本性に逆らうことだと、よくよく心得ているべきです。その道を選んではいけません。完全に献身奉仕を行うというクリシュナ意識の道こそが、すべての個々の生物にとって最上なのです。この献身奉仕を怠っていると、神を信じない者に落ちてしまう危険があります。以上のような理由で、既にこの節で述べているとおり、知覚し得ない非顕現なるものに注意を集中する修行法は何時いかなる場合でも勧められません。殊に現代では尚更です。主クリシュナが勧めていません。

テキスト

ヤエ トオサルワニ カルマニ
マイ サンニャシャヤ マト-パラハ
アナニャエナイワ ヨゲナ
ママ ダヤヤンタ ウパサテ
テシャン アハマ サムダルタ
ムルタユ-サマサラ-サガラト
バワミ ナ チラト パルタ
マyy アヱシタ-cヘタサン

Synonyms

ye — ~するもの; tu — しかし; sarvāṇi — 全て; karmāṇi —活動; mayi — 私に; sannyasya — 放棄して;mat-parāḥ — 執着して; ananyena — 区分なく; eva — 確かに; yogena — そのようなバクティヨーガの修練によって; mām — 私に; dhyāyantaḥ — 瞑想する;upāsate — そして崇拝する; teṣām — 彼らの; aham —私は;samuddhartā — 救う者; mṛtyu — 死の; saḿsāra —物質的な存在の中で; sāgarāt — 大洋から; bhavāmi — 私は~になる; na — ~でない; cirāt — 長い時間の後; pārtha — プリターの子よ; mayi — 私に; āveśita — 固定した; cetasām — 心が~の中の

Translation

だが、私を崇拝して、すべての行為を私のために行い、逸脱することなく私にすべてを捧げ、献身奉仕をして常に私を瞑想し、心を私に固定する者たち――おおプリターの子よ、私は速やかに彼らを生死の大海から救い出す。

Purport

献身者は非常に恵まれている。なぜなら、彼らは主によって速やかに物質存在から解放されるのだから、とここにハッキリ書いてある。純粋な献身奉仕を続けていると、「神は偉大であり、個々の魂は主に従属している」という悟りに達する。主に奉仕を捧げることが彼の義務である。そうしないと、彼はマーヤーに奉仕を捧げることになるのだ。

以前にも述べてあったように、至上主には献身奉仕を通じてのみ近づけるのだから、完全に献身しなければならない。彼のもとに達するためには心を十分にクリシュナに固定しなければならない。ただクリシュナのためにだけ仕事をしなければならない。たとえどんな仕事にたづさわっていても、それはクリシュナのためだけにするのだ。それが献身奉仕の基準である。献身者はバガヴァーンを喜ばせること以外には、どんな功績も望んではいない。彼の人生の使命はクリシュナを喜ばせることであり、アルジュナがクルクシェトラの戦いでそうしたように、あらゆることをクリシュナの満足のために犠牲にすることができる。

至上主はここで約束している。そのような奉仕をしている純粋な献身者を速やかに物質的存在という大海から救い上げる、と。ヨーガの修行を高度に積んだ人々には、そのヨーガの修行によって、思いどおりに好きな惑星へと魂を移動させることができるし、また他にも様々な救いの方法をとる人々もいる。しかし献身者に関するかぎり、ここにハッキリと、主御自らが救いとって下さると書いてある。献身者は精神界に移るのに、たいへんな熟練者になるまで待つ必要はない。

『ヴァラーハ・プラーナ』にある節がある。

nayāmi paramaṁ sthānam
arcir-ādi-gatiṁ vinā
garuḍa-skandham āropya
yatheccham anivāritaḥ

これを解説すると、献身者は魂を精神的な惑星に移すためのアシュターンガ・ヨーガの修行を必要としない。その責任は至上主御自ら負ってくださる。彼はここで、「私自ら救出者となる」と、はっきり宣言なさっている。子供は何から何まですっかり両親に世話をしてもらっている。そうすることで彼の立場は安全である。これと同じように、献身者は別の惑星に移るためにヨーガ修行にはげむ必要はない。それどころか、主の大慈悲によって、至上主はガルダという鳥に乗って速やかに来迎し、献身者を物質的存在から救い上げて下さるのだ。海に落ちた人は苦しんでアプアプもがいているかもしれない、またスイスイと上手に泳いでいる人もあるだろう。だが、いづれの場合にしても自分をその海から

yā vai sādhana-sampattiḥ
puruṣārtha-catuṣṭaye
tayā vinā tad āpnoti
naro nārāyaṇāśrayaḥ

引き上げることができない。しかし誰かが来て水からつまみ上げてくれたら、簡単に助かるのだ。それと同じように、主は献身者を物質的存在からつまみ上げて下さる。人はただクリシュナ意識の簡単な修行と、献身奉仕に自分を完全に捧げることをしなければならない。知性があるのなら、他の道ではなく是非ともこの献身奉仕の道を選ぶべきである。『ナーラーヤニーヤ』には、このことを確証している節がある。この節の意味は「様々な種類の果報的活動をしたり、心の思索で知識をみがこうとしてはいけない。バガヴァーンに献身している人は、他のヨーガの修行や、思索・宗教儀式・供儀・寄付などによって得られる恩恵をすべて身につけることができる。これこそ献身奉仕のもつ特別な恩恵である」。

方法は至って簡単だ。自分の為すべき仕事をしながら、ハレー・クリシュナ・ハレー・クリシュナ・クリシュナ・クリシュナ・ハレー・ハレー/ハレー・ラーマ・ハレー・ラーマ・ラーマ・ラーマ・ハレー・ハレーを唱える。この超越的な唱名が献身者をバガヴァーンに魅きつけるのだ。

『バガヴァッド・ギーター』の結論が、第18章に書いてある。

sarva-dharmān parityajya
mām ekaṁ śaraṇaṁ vraja
ahaṁ tvāṁ sarva-pāpebhyo
mokṣayiṣyāmi mā śucaḥ

「他のすべての自己の悟りのための修行を止めて、クリシュナ意識になって献身奉仕にはげめ。そうすることによって人生の最高完成に達する。過去に犯した罪悪行について心配する必要はない。なぜなら至上主が献身者についての責任を負って下さるのだから」と。精神的な悟りを開いて自分を救おう無駄な努力をせずに、すべての人が、至上全能の神、クリシュナに保護を求めること。これが人生の最高完成である。

テキスト

マyy エワ マナ アダツワ
マイ ブデエマ ニヱシャヤ
ニワsイシュヤsイ マyy エワ
アタ ウrダワマ ナ サマシャヤハ

Synonyms

mayi — 私に; eva — 確かに; manaḥ — 心に; ādhatsva— 固定する; mayi —私に; buddhim —知性; niveśaya — 適用する; nivasiṣyasi — 君は生きるだろう; mayi — 私の中に; eva — 確かに; ataḥ ūrdhvam — その後; na —決して~でない; saḿśayaḥ— 疑い

Translation

心をバガヴァーンである私に固く結びつけ、知性のすべてを私のために使え。そうすることによって疑いなく君は私のなかに常に住んでいるのだ。

Purport

主クリシュナに献身奉仕をしている人は、至上主と直接に結ばれて生活しているから、彼の立場は全くはじめから物質段階を超えていることに疑いない。物質段階に住んでいない献身者は――すなわちクリシュナのなかに住んでいるのである。主の聖なる御名と主御自身とは不異(おなじ)なのだから、献身者がハレー・クリシュナを唱えているときはクリシュナとクリシュナの内なる勢力が献身者の舌の上で踊っているのだ。彼がクリシュナに食物を捧げると、クリシュナはそれをお受けになる。そして、そのお下がりを食べることによって彼はクリシュナ化されていく。これは『バガヴァッド・ギーター』および他のヴェーダ文典で推奨されている方法なのだが、実際に実行してみないと、どうしてそうなるのかということが理解できないのだ。

テキスト

アタ チタマ サマダトウマ
ナ シャkノシ マイ ストイラン
アビャサ-ヨゲナ タト
マン イチャプトウマ ダナンジャヤ

Synonyms

atha — もし、それゆえ; cittam — 心; samādhātum — 固定するため;na — ~でない; śaknoṣi — お前は~できる; mayi — 私に; sthiram— 一定した; abhyāsa-yogena — 献身奉仕を行うことによって; tataḥ —そのとき; mām — 私を; icchā — 望み; āptum —得るため; dhanam-jaya — 富の征服者、アルジュナよ.

Translation

愛するアルジュナ、富の超克者(ダナーンジャナ)よ、もし私に不動の心を固定できないのなら、バクティ・ヨーガの規定原則に従え。この道のよって、私のもとに来たいという望みを育てよ。

Purport

この節には、バクティ・ヨーガにおける2つの方法が書いてある。1つは現在すでにバガヴァーン、クリシュナに対する超越的な愛によって、クリシュナを慕っている人に適用されるもの。もう1つは、まだ超越的な愛によって至上主への恋慕を育て上げていない人のための方法である。この第2のクラスに対しては、様々な定められた規定原則があり、終にはクリシュナを恋慕する境地に上ることができるようになっている。

バクティ・ヨーガは感覚の浄化である。物質存在に住んでいる現在の感覚は常に汚れている。感覚満足に浸っているからである。だが、バクティ・ヨーガの実行によって、感覚を浄化することができ、浄化されれば直接に至上主と接触をもつことができる。この物質存在においては、ある主人に仕えているとしても、本当に主人を愛して使えているわけではない。仕えているのは単に金を稼ぐためである。主人にしても、私をべつに愛しているわけでもない。私の働きに対して金を払っているだけである。愛など問題にならないのだ。しかし、精神的な生活においては、純粋な愛をもつ境地まで昇らなければならない。この愛の境地には、現在ある感覚を使って献身奉仕を修練することによって到達できるのだ。

いま、神への愛はすべての人々のハートのなかで眠っている。様々な形で神への愛が現われてはいるのだが、物質的なものと結びついているので汚れている。だから、物質次元のものを洗い落としてハートを浄化し、眠っているクリシュナへの本来の愛をよみがえらせなければならない。これが全道程(プロセス)なのである。

バクティ・ヨーガのために定められた規定原則は、熟達した精神の師(グル)の指示に従って実行しなけらばならない。早朝に起きて、沐浴した後、寺院に入って、祈りを捧げ、ハレー・クリシュナを唱え、それから神像(ディーティ)に捧げる花を用意したり神像に捧げる食物を料理し、プラサーダム(捧げ物のお下がり)を食べる……等々のことをするのである。様々な種類の規定原則があって、人はそれに従わなければならない。そして常に純粋な献身者から『バガヴァッド・ギーター』や、『シュリーマド・バーガヴァタム』を聞くことだ。こうしたことを実行していれば、誰でも神への愛の段階に達し、やがて必ず神の精神的な王国に入ることができる。精神の師(グル)の指示のもとで規定原則に従ってバクティ・ヨーガの修練をすること――これが神の愛の境地に到る確実な道なのである。

テキスト

アビャセ 'py アサマルト 'sイ
マト-カルマ-パラモ バワ
マダ-アルタン アピ カルマニ
クルワン sイデエン アワpシャヤsイ

Synonyms

abhyāse — 実際に; api — ~さえも; asamarthaḥ — 不可能;asi — お前は; mat-karma — 私の仕事; paramaḥ — ささげて; bhava — になる; mat-artham — 私のために; api — ~でさえ; karmāṇi — 仕事; kurvan —行う; siddhim — 完成; avāpsyasi — お前は達成できるだろう

Translation

バクティ・ヨーガの規定原則の修練ができないなら、私のために働くように努めよ。私のために働くことによって、君は完成の境地に到るからだ。

Purport

精神の師(グル)の指示に従ってバクティ・ヨーガの規定原則を修練する――これもできない人でさえ、至上主のために働くことによって完成の境地に引き上げられる。どのように働けばよいのかは、既に第1章の第53節で説明してある。まずクリシュナ意識運動を広めることに好意をもつこと。大勢の献身者たちがクリシュナ意識運動の宣布活動に従事しているが、彼らは救助を必要としている。だから、直接バクティ・ヨーガの規定原則を修練できなくても、そうした仕事を助けることはできるだろう。彼らは、土地や、資本金や、働く人や若干の組織を必要とするように、クリシュナへの奉仕にも同じことが必要である。両者の相違はただ、物質主義者は感覚を満足させるために働くが、一方は同じことをしているようでも、クリシュナを喜ばせるためにしているのであって、これは精神的な活動なのだ、という点である。豊かにお金を持っている人なら、クリシュナ意識の宣布のための事務所や寺院を立てるのに協力することができるし、また出版事業を助けることもできるだろう。様々な分野の活動があるのだから、ぜひ関心を持ってほしい。自分が働いた報酬を全部捧げることはできない人でも、そのうち何パーセントかをクリシュナ意識の宣布に献じることはできるだろう。このクリシュナ意識の運動に対する自発的な奉仕は、その人を神への愛のより高い境地へ導き、やがて彼は完成に達するのだ。

テキスト

アタイタダ アpy アシャクト 'sイ
カルトウマ マダ-ヨガン アシュリタハ
サルワ-カルマ-フアラ-タヤガマ
タタハ クル ヤタトマワン

Synonyms

atha — ~だとしても; etat — これ; api —~も; aśaktaḥ —不可能; asi — お前は; kartum — 行う; mat — 私に; yogam — 献身奉仕で; āśritaḥ — 保護を求める;sarva-karma — 全ての活動の; phala — 結果;tyāgam — 放棄; tataḥ — それから; kuru — ~する;yata-ātma-vān — 自己に位置して

Translation

しかし、もし君がこの意識で私のために働くこともできぬなら、自分の働きの報果をすべて手離し、自己に位置するように努めよ。

Purport

社会的、家庭的、宗教的立場から、また他の障害があって、クリシュナ意識の活動に協力できない、という場合もあるだろう。直接クリシュナ意識の活動に身を投じたくても、過程が猛反対するとか、その他の様々な困難があるということもあるだろう。そんな難題をかかえている人には、「蓄積した仕事の報果を何か善いことのために捧げよ」と勧めている。ヴェーダの規則のなかにこの行いのことは記述されている。供儀(ヤグニャ)、プンニャの特殊な効用、または過去の活動の報果をどのようにそれに見合った仕事に適応すればよいか等々、様々な記述がでている。こうした指示に従っていくことで、人は徐々に正しい知識を身につけ向上していくのだ。クリシュナ意識の活動には全く関心のない人でも、ある種の病院とか社会施設に、苦労して働いて貯めたお金を寄付するという場合もあるが、これもここでは推奨されている。なぜならば、働きの報果を手離す訓練をすることは、必ず人の心をだんだん浄化していくものだからだ。そして心が浄化されれば、クリシュナ意識を理解できるようになるのである。もちろんクリシュナ意識は他の経験に依存するものではなく、クリシュナ意識そのものが心を浄化するのだが、ただクリシュナ意識を受け入れるのに障害のある場合は、自分が働いた報果を手放すように努めなさい、ということなのだ。社会のため、共同体のため、国のため等々に奉仕をすることも認められるだろう。そうしていれば、おそかれ早かれ、至上主に純粋な献身奉仕を捧げる境地にまで到るであろう。『バガヴァッド・ギーター』(18・48)に“ヤタ・プラヴリティル・ブーターナーン”と記されている。至上目的のために捧げようと決心したならば、たとえその人が、“至上目的はクリシュナである”ことを知らなくても、その犠牲の方法によって、やがてだんだんとクリシュナが至上目的だということが理解できるようになってくるのだ。

テキスト

シュレヨ ヒ ジャナナン アビャサj
ジャナナダ ダヤナマ ヰシシュヤテ
ダヤナト カルマ-フアラ-タヤガs
タヤガch チャンテエr アナンタラン

Synonyms

śreyaḥ — より良い; hi — 確かに; jñānam — 知識;abhyāsāt — 実際に行うよりも; jñānāt — 知識よりも;dhyānam — 瞑想は; viśiṣyate — より良いと考えられる;dhyānāt — 瞑想より; karma-phala-tyāgaḥ — 果報的活動の結果を放棄することにより; tyāgāt — そのような放棄により; śāntiḥ — 平和; anantaram — その後

Translation

これを修練するのが不可能なら知識を究めよ。だが知識より瞑想が勝り、瞑想より活動の報果の放棄が勝る。報果を放棄すれば心の平和が得られるからだ。

Purport

前節で述べているように、献身奉仕には2種類ある。規定原則に従って実行する場合と、バガヴァーンを完全に恋慕している場合である。また、実際問題としてクリシュナ意識の規定原則に従えない人々は、知識を究めるのがよろしい。なぜなら、知識によって人は自分の真の立場を理解できるようになるからだ。知識が深まっていくにつれて、瞑想を求めるようになる。瞑想によって人は次第次第にバガヴァーンを理解できるようになっていく。自分自身が至高者である、と思わせる方法があるが、この種の瞑想は献身奉仕できないタイプの人が選ぶ。正しい瞑想が不可能ならば、定められた義務を遂行する――たとえば、ブラーフマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ、それぞれのために規定された義務がヴェーダ文典に書いてある。これらについては『バガヴァッド・ギーター』の最終章に説明してある。ただどんな場合も、自分の行為の結果、または働きに対する報果を放棄しなければならない。つまりカルマの報果を何か善いことのために使用せよ、ということである。

要するに、最高の目的であるバガヴァーンのもとに行くためには、2つの方法があるのだ。1つは、少しずつ進んでいく方法。そしてもう一つは直接法。クリシュナ意識による献身奉仕は直接法である。前者に含まれるが、自分の活動の報果を放棄する法である。やがて知識が深まり、瞑想の段階に入り、それからパラマートマーが理解できるようになり、最後にバガヴァーンのところに到く。漸進法でも直接法でも、どちらの道を選んでもよい。ただ、直接法は誰にでもできるわけではない。だから、間接法、漸進法でもよいのである。だが、アルジュナに対しては間接法を勧めていないことがわかる。彼はすでに至上主を愛し、奉仕をするという段階にいるからだ。間接法はこの境地まで来ていない人々に適用される。彼らは、放棄、知識、瞑想、パラマートマーとブラフマンの悟り、と順々に従わなければならない。しかし、『バガヴァッド・ギーター』では直接法を強調している。どの人も直接法を選んで、バガヴァーン、クリシュナに服従せよ、と勧めているのだ。

テキスト

アドオヱシュタ サルワ-ブタナマ
マイトラハ カルナ エワ チャ
ニルマモ ニラハンカラハ
サマドオ-ハカ-スカハ クシャミ
サントウシュタハ サタタマ ヨギ
ヤタトマ ダrダア-ニshチャヤハ
マyy アrピタ-マノ-ブデエr
ヨ マダ-バクタハ サ メ プリヤハ

Synonyms

adveṣṭā — 嫉妬のない; sarva-bhūtānām — 全ての生命体に; maitraḥ — 親しい; karuṇaḥ —親切な; eva —確かに; ca —~もまた; nirmamaḥ — 支配するという意識なしに; nirahańkāraḥ — 偽の自我なしに; sama — 平等; duḥkha — 不幸; sukhaḥ — 幸福; kṣamī— 許す; santuṣṭaḥ — 満足した; satatam — 常に; yogī— 献身に従事している者; yata-ātmā — 自己支配した;dṛḍha-niścayaḥ — 決意を持って; mayi — 私に;arpita — 従事した; manaḥ — 心; buddhiḥ — そして知性; yaḥ — ~するもの; mat-bhaktaḥ — 私の献身者;saḥ — 彼; me — 私にpriyaḥ — 親愛なる

Translation

どんな生物にも妬心を持たず親切な友となり、「私」、「私の所有(もの)」という迷妄、偽せの自我(エゴ)を捨て、幸・不幸を等しく平静に受け入れ、寛大で、常に満足しており、自己を抑制し、決意をもって献身奉仕を行い、心と知性を固定する者――このような私の献身者を私は愛する。

Purport

純粋な献身奉仕という主題に再び戻って、主はこの2節のなかで、純粋な献身者の超越的な資格を語っておられる。純粋な献身者はどんな環境にあっても決して乱されない。誰に対しても妬心を抱かない。自分に敵意を持っている人に対しても敵意を抱くことはない。「私の過去における誤りが原因で、この人は私に対して敵のように振舞っているのだ。だから抗議するより、自分が苦しむ方がいい」と考える。『シュリーマド・バーガヴァタム』に、こう書いてある。悲しい目にあったり、困難な状況におちいったりした時はいつでも、献身者はこう考える。「これは私に対する主の慈悲なのだ。」と。「私が過去に犯した誤りを思えば、現在の苦しみよりもっと苦しむべきなのだ。至上主のお慈悲によって、私は負うべき罰のすべてを受けていない。バガヴァーンの慈悲によって、ほんの少しの罰を受けているのだ」と彼は思う。だから献身者は様々な苦しくつらい環境にあっても平静で温和で忍耐強い。また献身者は誰に対しても常に親切である。敵に対してさえも。

“ニルマナ”という言葉は、献身者が肉体に関するいろいろな苦痛や困難に対して殆ど関心を持たない、気にしない。なぜなら、彼は「自分は物質の体ではない」ということを完全に知っているからだ、という意味だ。自分と自分の肉体を同一視しない。偽の自我(エゴ)の概念が無い。そして幸福な時も不幸な時も安定している。死物狂いになって何か或ることを達成しよう、獲得しよう、などと思わないから、いつも楽しい。精神の師(グル)から授けられた教えを固く守るので、彼は完成した神秘家である。感覚を抑制するので、決然としている。誤った議論に動揺せず、献身奉仕における彼の不動の決心は、どんな人でも変えることができない。クリシュナが永遠の主であることを完全に意識しているから、誰も彼を悩ましたり邪魔したりすることはできない。以上のようなすべての資格により彼は、至上主に心と知性を完全に固く結びつけることができる。こんな献身奉仕の模範は、疑いなく非常に稀である。しかし、献身者は献身奉仕の規定原則を実行していれば、この段階まで昇るのだ。その上、主はこうまでおっしゃる。「私はそのような献身者を大そう愛している」と。なぜならクリシュナ意識で行う彼の活動ひとつひとつに、主は常に喜んでおられるからだ。

テキスト

ヤスマン ノドオヰジャテ ロコ
ロカン ノドオヰジャテ チャ ヤハ
ハルシャマルシャ-バヨドオヱガイr
ムクト ヤハ サ チャ メ プリヤハ

Synonyms

yasmāt — (~の者)から; na —決して~ない; udvijate — いらいらさせられる;lokaḥ — 人々; lokāt — 人々から; na —決して~できない; udvijate— 乱される; ca —~も; yaḥ — 誰でも; harṣa —幸福から; amarṣa — 不幸; bhaya —恐れ; udvegaiḥ — そして不安; muktaḥ — 自由になった; yaḥ — ~する(者); saḥ —誰でも; ca— ~もまた; me — 私に; priyaḥ — とても愛しい

Translation

誰をも困難におとしいれず、誰からも乱されぬ者、幸、不幸、恐れ、不安に処して平静な者、このような人を私は愛する。

Purport

献身者の資格について、ここにもう少し書いてある。献身者は誰かを困らせたり、心配させたり、怖がらせたり、または、いやな思いをさせたりすることがない。献身者は誰に対しての親切だから、他人にそんなことをして悩ませたりしない。と同時に、他人が献身者を不安な状態にしようとしても、彼は乱されない。主の恩寵で、彼は外部からの邪魔や不安材料にビクともしないように修練されている。実際問題として、献身者は常にクリシュナ意識に浸りきり、献身奉仕を行っているのだから、そんな物質次元の状況が彼を動かすことなどできはしない。一般に物質至上主義的な人は、何か自分の体や感覚に快い事物があるときにはとても幸福だが、他人が感覚の満足のために何かをも持っているのに自分はそうでない、ということになると、みじめな気持ちになり、他人を嫉妬するものだ。敵から報復されそうだと思えば恐怖を感じ、何か事がうまく運ばないと、ガッカリする。このような状態をすべて常に超越している献身者を、クリシュナは大そう愛して下さるのだ。

テキスト

アナペクシャハ シュチr ダクシャ
ウダsイノ ガタ-ヰヤタハ
サルワランバ-パリタヤギ
ヨ マダ-バクタハ サ メ プリヤハ

Synonyms

anapekṣaḥ — 中立的な; śuciḥ — 純粋な; dakṣaḥ — 熟達した;udāsīnaḥ — 心配から自由になった; gata-vyathaḥ — 苦しみから解放された; sarva-ārambha — あらゆる努力の; parityāgī — 放棄する; yaḥ — ~する者は誰でも; mat-bhaktaḥ — 私の献身者;saḥ — 彼は; me — 私に; priyaḥ — とても愛しい

Translation

俗的な活動に依存せず、純粋で、熟達しており、気苦労せず、あらゆる苦痛を超越し、結果を期待した骨折りをしない、このような私の献身者を私は愛する。

Purport

献身者はお金を提供される場合もある。が、金を得ようとして奮闘してはいけない。もし無理なく自然に、至上主の恩寵で金が入ってくる場合にも、それに動揺させられない。ふつう、献身者は、少なくとも日に2回は沐浴し、朝は早く起きて献身奉仕にはげむ。こうして彼は体の内外とも清潔である。献身者は何事も上手に行う。なぜなら彼は生命の活動の精髄(エッセンス)をことごとく知悉し、また権威ある経典を確信しているから。献身者は決して特定の党派やグループ等の会員にはならないから、至って気楽である。彼は決して苦しまない。あらゆる名称、装飾を気にしないからだ。彼は体はただの装飾であるとわかっているので、肉体的な痛みがあったとしても、悩まない。純粋な献身者は、献身奉仕の原則に反しているようなものには、どんなことにも力をいれない。たとえば、大きなビルを建てるには大変なエネルギーを必要とするから、それが献身奉仕を勧めるために益とならない場合には、彼は決してこんな仕事をしない。彼は主のために寺院を建てる。そのためには、彼はどんな苦労でもいとわず努力する。だが、個人的な目的で大きな家を建てたりはしないのだ。

テキスト

ヨ ナ フリシュヤテエ ナ ドオヱシュトイ
ナ ショチャテエ ナ カンクシャテエ
シュバシュバ-パリタヤギ
バクテエマン ヤハ サ メ プリヤハ

Synonyms

yaḥ — ~する(者); na — 決して~でない; hṛṣyati — 楽しみを得る; na —決して~でない; dveṣṭi — 悲しみ; na —決して~でない; śocati —悲嘆; na —決して~でない; kāńkṣati — 望み; śubha — 吉兆な~の; aśubha— 不吉兆な~の; parityāgī — 放棄する; bhakti-mān— 献身者; yaḥ — ~するもの; saḥ — 彼は; me — 私に;priyaḥ — とても愛しい

Translation

どんな事物に対しても喜ばず歎かず、こうあって欲しいとも、欲しくないとも思わず、吉凶禍福な事物を放棄する者、このような献身者を私は愛する

Purport

純粋な献身者は物質次元の得失で幸福になったり不幸をかこったりしない。息子や弟子が欲しくてたまらない、という心境にはならないし、息子や弟子ができなくても別にガッカリもせず淋しいとも思わない、自分にとって非常に大切なものを失っても、嘆いたりしない。同様に欲しいと思っているものが得られなくても、失望などしない。あらゆる種類の吉凶禍福や罪深い活動を超越している。至上主の満足のためなら、どんな種類の危険にもき敢然として立ち向かう用意が、いつもできている。彼の献身奉仕を邪魔するものは何一つない。こうした献身者をクリシュナは大そう愛して下さる。

テキスト

サマハ シャトラウ チャ ミトレ チャ
タタ マナパマナヨハ
シトshナ-スカドオ-ハケシュ
サマハ サンガ-ヰワrジタハ
トウリャ-ニンダ-ストウテエr マウニ
サントウシュト ヤエナ ケナチト
アニケタハ ストイラ-マテエr
バクテエマン メ プリヨ ナラハ

Synonyms

samaḥ — 平等; śatrau — 敵に; ca — ~も; mitre —友人; ca — ~も; tathā — そのように; māna — 名誉に;apamānayoḥ — 不名誉に; śīta — 寒い; uṣṇa — 熱;sukha — 幸福; duḥkheṣu — 不幸; samaḥ —平等; sańga-vivarjitaḥ — あらゆる交際から自由になって; tulya— 平等; nindā — そしられるとき; stutiḥ — ほめられるとき; maunī— 無口; santuṣṭaḥ —満足している; yena kenacit — あらゆるもので; aniketaḥ — 住むところがない; sthira — 固定した;matiḥ — 決意; bhakti-mān — 献身して;me — 私に; priyaḥ — 愛しい; naraḥ — 人

Translation

友も敵も等しく扱い、名誉、不名誉、寒暑、苦楽、また賞賛、非難に動かされず、全く汚れた交際をせず、常に静かで、何事にも満足し、住所住居に執着なく、知識に固定し、献身奉仕になげむ者、このような人を私は愛する。

Purport

献身者は常に悪い活動から離れている。人は時々賞賛され、また非難される。これは人間社会の常であって、献身者はこうした人為的な名誉や不名誉、幸福や不幸には超然としている。また彼は大そう忍耐強い。クリシュナに関する話題以外は口をきかないから、無口な人だと言われる。沈黙を守る、ということは、全く口をきくなという意味ではない。無駄口をきくな、くだらないおしゃべりをするな、ということである。人は大事(エッセンス)なことだけ話せばよい。そして献身者にとって最も大事な話とは、至上主のための話である。献身者はどんな状況の下でも幸福である。時には美味な食物を食べることもあり、またその反対のときもある。だが彼はどちらの場合も満足している。住居の設備などにも関心がない。ある時は木の下で暮らし、またある時は宮殿のような大豪邸に住んでいるが、どちらにしても執着しない。決心は固く知識も安定しているから、固定した人だと言われる。献身者の資格について同じことをくりかえしたり、念を押したりしているけれども、これは、献身者たるものはぜひともこのような資格をすべて身につけるべきだと、強調するためなのだ。よい資質がなかったら、純粋な献身者とは言えない。ハラーヴ・アバクタシャ・クト・マハド・グナーハ、「献身者に非ざる者は善良な資質を有さず」。献身者だと認めてもらいたい人は、良い資質を身につけなければいけない。もちろん、このために無理な努力をしなくても、クリシュナ意識を深め、献身奉仕にはげんでいると、自然にこうした資質が身についていくのだ。

テキスト

ヤエ トオダルマムルタン イダマ
ヤトクタマ パリュパサテ
シュラダダナ マト-パラマ
バクタs テ 'トイワ メ プリヤハ

Synonyms

ye — ~する人; tu — しかし; dharma — 宗教の; amṛtam — 甘露; idam — この; yathā — ~のように; uktam —言った; paryupāsate— 完全に従事して; śraddadhānāḥ — 信念を持ち;mat-paramāḥ — 私を至上主、すべてだと受け入れて;bhaktāḥ — 献身者; te —彼らは; atīva — 非常に、とても; me —私に; priyāḥ — 愛しい

Translation

この献身奉仕という永遠不滅の道を行く人々、私を至高目的として、完全に確信を持って仕える人々を私はこの上なく愛している。

Purport

この章の第2節から最後の節まで――“マヤーヴェシャ・マノ・エ・アーム(私に心を固定し)”から“エ・トゥ・ダルマームリタム・イダム(この永遠の宗教)”まで――至上主は、彼に近づくための方法、超越的奉仕の道を説明して下さったのだ。主はこの方法を大そう愛され、この道を通ってきた者を受け入れて下さる。どちらが良いかとの質問――非人格のブラフマンを求める人と、バガヴァーンにパーソナルに仕える人と――を、アルジュナが提起したところ、主は実に明白に、「精神的な悟りに到るすべての方法のなかで、バガヴァーンに献身奉仕することが最上であることに何の疑いもない」と答えられた。別な言葉を用いれば、良い交際を通じて純粋な献身奉仕への恋慕が深まり、やがて正統な精神の師(グル)につくことになって、確信と恋慕と献身をもってその精神の師(グル)から至上主について聞いたり、唱えたり、献身奉仕の規定原則を守るようになる。それをつづけているうちに主への超越的奉仕をするようになる。この章で勧めているのはこの道なのであって、献身奉仕は疑いもなく自己を悟り、バガヴァーンのもとに達する唯一無二の絶対的な方法なのである。至高絶対真理を非人格的なものとする考え方、これはこの章で説明してあるように、自己の悟りの最高の方法に服従できないでいる間はその方法が勧められている。つまり、純粋な献身者と交際する機会に恵まれるまでは、非人格的な概念も恩恵があるかもしれない、ということである。絶対真理を非人格と考えている人は、報果を求めないで仕事をし、瞑想にはげむ。また精神を物質についての知識を深めていく。これは純粋な献身者にめぐり合わないうちは必要な修行である。だがもし幸いにして、真っ直ぐクリシュナ意識になって純粋な献身奉仕をしたい気持ちになった人は、精神的悟りの段階を一歩一歩よじのぼる必要はなくなる。『バガヴァッド・ギーター』の中間部の6章(第7~12章)で説明してあるように、献身奉仕というもっと適切な道があるのだ。魂を身体と共に保つために何の物質的心配もいらなくなる。主の恩寵によって、すべてのものは自動的に与えられるからである。

以上『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第12章“献身奉仕”に関するバクティヴェーダーンタの解説は終了。