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第8章

至上者のもとに到る道

arjuna uvāca
kiṁ tad brahma kim adhyātmaṁ
kiṁ karma puruṣottama
adhibhūtaṁ ca kiṁ proktam
adhidaivaṁ kim ucyate

訳語

翻訳

アルジュナ問う。
我が主よ、至高なるお方よ
ブラフマンとは何か、自己とは何か
成果を求める活動とは、物質現象とは、そして神々とは何なのか
どうかご説明ください。

解説

 この章でシュリー・クリシュナはアルジュナの数々の質問に答えてくださる。最初の質問は「ブラフマンとは何か?」である。主はここでカルマ(成果を求める活動)、献身奉仕、ヨーガの原理、そして純粋な献身奉仕についても説明なさっている。至高絶対真理はブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンとして知られていると、『シュリーマド・バーガヴァタム』で説明されている。生命体すなわち個々の魂もまた、ブラフマンとも呼ばれるのだ。アートマーとは体、魂、心のことを指すが、アルジュナはこれについても質問した。ヴェーダ辞典でも、アートマーとは心、魂、体、感覚のことであると書かれている。
 アルジュナは至高主のことをプルショーッタマ、すなわち至高のお方と呼びかけているが、これは彼がクリシュナのことをただの友達としてではなく、絶対的な答えに導いてくださる至高の権威者だとわかって尋ねているということを表している。
adhiyajñaḥ kathaṁ ko ’tra
dehe ’smin madhusūdana
prayāṇa-kāle ca kathaṁ
jñeyo ’si niyatātmabhiḥ

訳語

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マドゥスーダナよ
供養を受け取る主はどなたなのですか。
いかにして体内に住んでいるのですか。
また献身奉仕をする者は死の時に
どのようにしてあなたを知ることができるのですか。

解説

 「供養を受け取る主」とはインドラかヴィシュヌのことかもしれない。ヴィシュヌはブラフマーやシヴァを含む主要な神々の長であり、インドラは行政を司る神々の長である。インドラも、ヴィシュヌも、ヤジュニャを行う人々によって崇拝されている。しかしアルジュナはここでヤジュニャ(供養)を受け取る主はどなたなのか、そしてどのようにして主が生命体の体内に宿っておられるのかを尋ねている。
 アルジュナは主のことをマドゥスーダナと呼んでいる。これはクリシュナがかつてマドゥという名の悪魔を退治されたからである。実際にはこうした質問は疑いがあるから生じるものであり、クリシュナ意識の献身者であるアルジュナの心に浮かんではならない。この種の疑いは悪魔のようなものである。ここでアルジュナがマドゥスーダナと呼びかけたのはクリシュナが悪魔退治に長けた方だからである。自分の心に湧きおこる悪質な疑惑をクリシュナに退治してもらいたい、アルジュナはそう考えたのである。
 この節の中でプラヤーナ・カーレーという言葉が非常に重要である。人生で行ってきたことは何でも、死の時に試されるからである。常にクリシュナ意識である人について知りたいとアルジュナは切望した。そのような人は最後の瞬間どのようになるのか。死の間際には体の機能がすべて失われ、心も正常な状態ではなくなる。体の状態に犯されて至高主のことを覚えていられなくなるかもしれない。偉大な献身者であるマハーラージャ・クラシェーカラは「親愛なる主よ、今、私は健全です。私の心に住む白鳥があなたの御足という蓮の茎に入って行けるよう、今すぐ死ぬほうがいいのです」と祈っている。水鳥である白鳥は蓮の花に潜り込んで遊ぶため、この比喩が使われている。白鳥は蓮の中に入って戯れる習性がある。マハーラージャ・クラシェーカラは主に言っている。「現時点では心は穏やかであり、体も健康です。あなたの蓮華の御足を想いつつ今すぐ死ねば、これまでの献身奉仕もきっと完成すると思います。しかし自然に死ぬまで待たなくてはならないなら、どうなってしまうかわかりません。その頃には体の機能は失われ、のどは詰まり、あなたのお名前を唱えることができるかどうか定かではありません。ですから、今すぐ死なせてくださったほうがいいのです」と。どうすればそのようなときに心をクリシュナの蓮華の御足に固定させることができるのか、とアルジュナは尋ねているのである。
śrī-bhagavān uvāca
akṣaraṁ brahma paramaṁ
svabhāvo ’dhyātmam ucyate
bhūta-bhāvodbhava-karo
visargaḥ karma-saṁjñitaḥ

訳語

翻訳

至高人格神は言った。
不滅にして超越的たる生命体をブラフマンと呼び
生命体の永遠の性質を自己(アデャートマ)と呼ぶ。
そして生命体の体の進化に関する活動をカルマ
すなわち物質的結果を生む活動と呼ぶ。

解説

 ブラフマンは不滅であり、永遠に存在し、いかなるときもその資質は変わらない。しかしブラフマンの上にパラ・ブラフマンがいる。ブラフマンは生命体のことであり、パラ・ブラフマンは至高人格神のことである。生命体の本来の立場は、物質界にいるときの立場とは違う。物質的な意識にあるときは物事を支配しようとするが、精神的な意識すなわちクリシュナ意識にあるときは、至高主に仕えようとする。物質的な意識にあるかぎり、生命体は物質世界でさまざまな体をまとわなくてはならないのである。これをカルマ、つまり物質的な意識の力によるさまざまな創造物と呼ぶ。
 ヴェーダ文献の中では生命体はジーヴァートマー、またはブラフマンと呼ばれるが、決してパラ・ブラフマンとは呼ばれない。生命体(ジーヴァートマー)はさまざまな立場をとり、暗い物質自然に溶け込んで自分を物質だと思い込む場合もあるし、高位の精神自然と自分を同一視する場合もある。ゆえに生命体は至高主の境界エネルギーと呼ばれる。自分を物質自然だと思うなら物質的な体を得るし、精神自然だと思うなら精神的な体を得るのだ。物質自然の中では840万種類のうちのいずれかの体を得ることになるが、精神自然ではたったひとつの体しかない。物質自然では個々のカルマによって人として現れることもあれば、神々のときもあり、動物や鳥などのときもある。物質的な天界の惑星に行きたいがために、供養(ヤジュニャ)に精を出す者もいる。しかし天界の惑星へ行って、積んだだけの果報を使い果たしてしまうと、また人間の姿をとって地上に舞い戻る。この過程をカルマと呼ぶ。
 『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』には、ヴェーダ方式の供養の方法が書かれている。供養のための祭壇には、5種類の火に投じる5種類の捧げ物が用意される。5種類の火は天界の惑星、雲、地上、男性、女性を表し、5種類の捧げ物は信念、月神、雨、穀物、種子を表している。
 供養の方法もいろいろあり、天界にある特定の惑星に行きたいならそれに応じた特定の儀式をしなければならない。その結果、望む惑星に行くこととなる。そしてその供養の果報が尽きると、生命体は雨という形で地上に下りて来る。それから穀物という形になり、それが人間に食べられ、精液という形に変化する。そして女性の体内に宿って再び人間の姿となり、また供養を行う。このサイクルを何度も繰り返すのだ。このようにして生命体は絶え間なく物質的な道を行ったり来たりしている。しかしクリシュナ意識の人はそのような供養を避け、まっすぐにクリシュナ意識の道を歩んで、神のもとに戻る準備をする。
 『バガヴァッド・ギーター』に非人格的な解説を付ける者は、物質界ではブラフマンはジーヴァの姿をとるなどと根拠のない推論をし、これを実証するためにギーターの第15章第7節を取り上げる。しかしその節で主は生命体のことを「私自身の永遠なる断片である」とも語っておられる。神の断片である生命体は物質界に堕ちるかもしれないが、至高主(アチュタ)は決して堕ちることがない。したがって至高のブラフマンがジーヴァの姿をとるなどという仮説は決して受け入れられない。ヴェーダ経典では、ブラフマン(生命体)とパラ・ブラフマン(至高主)がはっきりと区別されているということを覚えておくことは、非常に重要なのである。
adhibhūtaṁ kṣaro bhāvaḥ
puruṣaś cādhidaivatam
adhiyajño ’ham evātra
dehe deha-bhṛtāṁ vara

訳語

翻訳

体を持つ者の中で最高の者よ
絶え間なく変化している物質自然をアディブータ(物資現象)と呼ぶ。
太陽や月のようなすべての神々を含む主の宇宙体を
アディダイヴァと呼ぶ。
そして体を持つすべての生命体のハートの中に
至高の魂として宿る私、すなわち至高主は
アディヤジュニャ(供養の主)と呼ばれる。

解説

 物質自然は絶えず変化している。一般的に体は、誕生し、成長し、一定期間その状態でとどまり、副産物を作り、衰え、消滅するという6つの段階を経過する。この物質的性質をアディブータと呼ぶ。ある時点で作られ、ある時点で消滅するのだ。あらゆる神々と神それぞれの惑星を含む至高主の宇宙体の概念を、アディダイヴァタと呼ぶ。そして体内で個々の魂と共に宿っているのが、主の完全なる表れである至高の魂である。至高の魂はパラマートマーあるいはアディヤジュニャと呼ばれ、ハートの中に宿っておられる。エーヴァという言葉はこの節の文脈において特に重要である。なぜなら主はこの言葉を使って、パラマートマーと御自身には何の違いもないということを強調なさっているからである。至高の魂、つまり至高人格神は個々の魂のすぐそばに座り、行動のすべてを目撃し、それぞれが持つさまざまな種類の意識の源でもある。至高の魂は個々の魂に自由に行動できる機会を与えて、その行動を見ておられるのだ。主に超越的な奉仕をする純粋な献身者には、至高主がこのようにさまざまな様相を備えていることが理解できる。至高の魂として現れている至高主のことが理解できない初心者は、アディダイヴァタと呼ばれる主の巨大な宇宙体を瞑想する。ヴィラート・プルシャすなわち主の宇宙体は、足が低位の惑星で、目が太陽と月で、頭が上位の惑星系である。初心者はこの宇宙体を瞑想するように勧められているのである。
anta-kāle ca mām eva
smaran muktvā kalevaram
yaḥ prayāti sa mad-bhāvaṁ
yāti nāsty atra saṁśayaḥ

訳語

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死が訪れて体を離れる時に
私だけを想っているものは誰でも
直ちに精神界の私のもとに来る。
このことに疑いの余地はない。

解説

 この節では、クリシュナ意識の重要性が強調されている。クリシュナ意識で体を離れることができた人は誰であれ、直ちに至高主のおられる精神界に移される。至高主は純粋なものの中で最も純粋なお方であるため、常にクリシュナ意識でいる人もまた純粋なものの中で最も純粋だと言える。スマラン(覚えていること)という言葉は重要である。献身奉仕を通してクリシュナ意識を修練することのない不純な魂は、クリシュナを覚えていることができない。だから人は人生の最初からクリシュナ意識を修練すべきなのである。もし人生の最後に成功したいなら、クリシュナを覚えているということが不可欠である。ゆえに人は、いつも絶え間なくこのマハー・マントラ「ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー / ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー」を唱えていなければならない。「木よりも忍耐強くあれ(taror api sahiṣṇunā)」と、主チャイタニヤはおっしゃった。ハレークリシュナを唱える人に、数々の障害が訪れることもあるだろう。それでもいかなる障害にも耐えて唱え続けなければならない。「ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー / ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー」と。そうすれば人生の幕を閉じる時、クリシュナの恵みを存分に受け取ることができるのだ。
yaṁ yaṁ vāpi smaran bhāvaṁ
tyajaty ante kalevaram
taṁ tam evaiti kaunteya
sadā tad-bhāva-bhāvitaḥ

訳語

翻訳

クンティーの子よ
誰もが、この体を捨てる時に想っている状態に
間違いなく移っていくのだ。

解説

 死という危機にあって、人の状態がどのように移り変わっていくのかが、ここで説明されている。クリシュナのことを想いながら体を離れていく人は、至高主の超越的な世界に到達するが、クリシュナ以外のことを想っていても同じ超越的な境地に達するという考え方は正しくない。私たちが特に注意しておかなければならないのはこの点である。どうすれば正しい心の状態で死ぬことができるのか? マハーラージャ・バラタは偉大な人物であったが、人生の最後に鹿のことを想ったため、次の生では鹿の体に入ってしまった。鹿になっても過去の生活を覚えていることはできたとはいえ、動物の体を受け入れなければならなかったのだ。人は生きている間にさまざまな思いをため込み、その思いが死の瞬間に影響を与える。つまり今生が来世を作り出しているということである。もし徳の様式で常にクリシュナのことを想って今の生を生きるなら、人生の幕を閉じる時にクリシュナのことを思い出すことが可能となり、それは超越的なクリシュナの世界に移っていくことに大きく役立つのだ。クリシュナへの奉仕に超越的に没頭していれば、来世は物質的ではなく、超越的(精神的)な体を得ることとなる。だから「ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー / ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー」と唱えることこそ、人生の最後の心の在り方を正しく変える、最高の方法なのである。
tasmāt sarveṣu kāleṣu
mām anusmara yudhya ca
mayy arpita-mano-buddhir
mām evaiṣyasy asaṁśayaḥ

訳語

翻訳

ゆえにアルジュナよ常にクリシュナの姿の私を心に抱き
戦いという君の義務を遂行せよ。
行為を私に捧げ、心と知性を私に固く結びつけておけば
君は間違いなく私のもとに到る。

解説

 アルジュナに授けられたこの教えは、物質活動に携わるすべての人間にとってとても重要である。定められた義務や仕事をやめてしまえとは、主はおっしゃっていない。そうした活動を続けながら、同時にハレークリシュナを唱えてクリシュナのことを想っていればよいのだ。そうすれば物質の汚れから解放され、心と知性をクリシュナに結びつけておける。クリシュナの御名を唱えることで、クリシュナローカという至高の惑星に移されることには、疑いの余地もないのだ。
abhyāsa-yoga-yuktena
cetasā nānya-gāminā
paramaṁ puruṣaṁ divyaṁ
yāti pārthānucintayan

訳語

翻訳

パールタよ
私を至高人格神として瞑想し
この道から逸れることなく私を想い続ける者は
必ずや私のもとに到る。

解説

 この節で主クリシュナは、主を想っていることの重要性を強調しておられる。マハーマントラ(ハレークリシュナ)を唱えることで、クリシュナへの思いはよみがえる。主の御名を唱えること、そしてその音の響きに耳を傾けることによって、耳も、舌も、心も、主を想うことに使われる。これはとても簡単な神秘的瞑想法であり、至高主に到達することを大いに助けてくれる。プルシャムとは「楽しむ者」という意味である。生命体は至高人格神の境界エネルギーではあるが、物質に汚染されている状態にある。自分こそ楽しむ者だと考えているが、最高の享楽者ではない。ナーラーヤナやヴァースデーヴァなど、さまざまな完全拡張体として現れる至高人格神こそ至高の享楽者であると、ここに明確に書かれている。
 献身者はハレークリシュナを唱えながら、ナーラーヤナ、クリシュナ、ラーマなどの至高人格神の姿を、常に想っていることができる。このように修練することで献身者は浄化され、絶え間なく唱えてきた甲斐あって、人生の最後を迎えると神の王国へと移って行く。ヨーガの修練とは心の内に宿る至高の魂を瞑想することであり、それはハレークリシュナを唱えて、常に心を至高主につなぎとめておくことでもある。心は移ろいやすいもの。だから力づくでも、心がクリシュナのことを想い続けるようにする必要があるのだ。よく挙げられる例としてイモ虫がある。蝶になることだけを想っているイモ虫は、同じ生涯のうちに蝶となるのだ。同じように私たちも絶えずクリシュナのことを想い続ければ、人生の幕を閉じる時、クリシュナと同じ質の体を得られることは間違いない。
kaviṁ purāṇam anuśāsitāram
aṇor aṇīyāṁsam anusmared yaḥ
sarvasya dhātāram acintya-rūpam
āditya-varṇaṁ tamasaḥ parastāt

訳語

翻訳

すべてを知る最古の指導者として
最小のものより小さく
すべてを維持する者として
物質概念を超えた、想像も及ばぬ存在であり
絶えず意識のみなぎる実在として
至高人格神を瞑想せよ。
主は太陽のように燦然と輝き
物質自然を超越していると知れ。

解説

 この節では、至高主を想う方法が述べられている。最も大切な点は、至高主は感覚のない非人格的な存在ではないし、決して無でもないということである。非人格なもの、ないものを瞑想することなどできない。それはあまりにも難しすぎる。しかしクリシュナを想うという方法はとても簡単であり、そのことがここで明言されている。最初に、主はプルシャすなわち感覚のある存在であり、私たちはラーマやクリシュナという人物を思い浮かべる。想う対象がラーマであれクリシュナであれ、主がどのようなお方であるかは『バガヴァッド・ギーター』のこの節に書かれている。主はカヴィ、すなわち過去も、現在も、未来も、すべてを知っておられるということを意味する。また万物の根源なる最古のお方であり、万物は主から生じたのである。また主は宇宙の最高支配者でもあり、人類を養い、導いてくださる方でもある。そして最小のものよりまだ小さい。生命体は毛先の1万分の1の大きさだが、主は想像を絶するほど小さく、その微小な生命体のハートの中に入って行かれるのだ。だから最小のものよりまだ小さいと言われるのである。至高主は至高の魂として、原子の中にも最小の生命体のハートの中にも入り、制御なさる。それほど微小でありながら、主は至る所に遍満して、すべてを維持しておられる。主によってこれらすべての惑星が支えられているのだ。こんなに巨大な惑星がどうやって空中に浮かんでいるのだろう、と私たちは不思議に思うことがある。至高主はその想像も及ばないエネルギーで数々の大きな惑星や銀河を支えておられると、ここに書いてある。アチンティヤ(想像を絶する)という言葉がここで使われていることは非常に重要である。神のエネルギーは私たちの概念や思考の範囲を超越したものである。だから「想像を絶する」と表現されているのである。これに異論を唱えることのできる人はいるだろうか? 主はこの物質世界に遍満し、かつそれを超えているのだ。精神世界に比べれば取るに足らないこの物質世界でさえ、私たちには理解できない。ならばそれを超えるものなど理解できるはずがない。アチンティヤとはこの物質界を超越したもの、私たちの議論や論理、哲学、思索では計り知れない、想像を絶するもの、という意味である。ゆえに知性ある者は役に立たない論争や思索を避け、諸ヴェーダ、『バガヴァッド・ギーター』、『シュリーマド・バーガヴァタム』のような経典に書かれていることを受け入れ、定められた原則に従わなくてはならない。そうすれば正しい理解へと誘いざなわれるのである。
prayāṇa-kāle manasācalena
bhaktyā yukto yoga-balena caiva
bhruvor madhye prāṇam āveśya samyak
sa taṁ paraṁ puruṣam upaiti divyam

訳語

翻訳

死の瞬間に生気を眉間に集中し
ヨーガの力によって心を逸らすことなく
献身に満ちて至高主を想う者は
必ずや至高人格神のもとに達する。

解説

 死の時には、献身に満ちた心を至高人格神に結びつけておかなければならないと、この節には明記されている。ヨーガを修練した人には、眉間(アージュニャー・チャクラ)に生気を上昇させるよう指導されている。6つのチャクラの瞑想を含むシャット・チャクラ・ヨーガの修練のことが、ここで示されているのだ。純粋な献身者はそのようなヨーガを行わないが、常にクリシュナ意識でいるため主の慈悲によって、死の時を迎えても至高人格神を想っていることができる。このことは第14節で説明されている。
 この節では、ヨーガ・バレーナという言葉の特殊な用法が重要である。なぜならシャット・チャクラ・ヨーガであろうと、バクティ・ヨーガであろうと、人はヨーガを修練することなくしては、死に際にこの超越的な境地になれないからである。臨終になって、いきなり至高主のことを思い出すことなどできない。何らかのヨーガ法、特にバクティ・ヨーガを修練しておかなければならないのだ。死を迎える時、心は混乱を極める。生きているうちにヨーガを通して、超越性というものを身に付けておかなければならない。
yad akṣaraṁ veda-vido vadanti
viśanti yad yatayo vīta-rāgāḥ
yad icchanto brahma-caryaṁ caranti
tat te padaṁ saṅgraheṇa pravakṣye

訳語

翻訳

ヴェーダに精通し、オーム・カーラを唱え
放棄階級に身を置く偉大な賢者は、ブラフマンに帰入する。
この完成を望む者は、独身禁欲生活を貫こうとする。
救いとなるその方法について
ここで君に簡単に述べることとしよう。

解説

 主シュリー・クリシュナはアルジュナに、眉間に生気を集中させるシャット・チャクラ・ヨーガを修練せよとお勧めになった。しかしアルジュナがその方法を知らないかもしれないと考え、このあとに続く節でやり方を説明されている。ブラフマンは唯一無二ではあるが、その現れ方や姿はさまざまであると、主はおっしゃる。特に非人格主義者たちは、アクシャラすなわちオーム・カーラ(オームという音節)とブラフマンが同一であるとみなしている。ここでクリシュナは、放棄階級の賢者たちが入って行こうとする非人格ブラフマンについて説明しているのだ。
 ヴェーダ方式の学問では、生徒は真っ先にオームを唱えることを教わり、完全なる独身生活を送りながら精神指導者と生活して、究極的な非人格ブラフマンのことを学ぶ。このようにして、ブラフマンのふたつの様相を悟るのである。この修練は生徒が精神生活を高める上で非常に重要ではあるが、現代ではそのようなブラフマチャーリー(独身禁欲)生活はまずできない。社会構造があまりにも変わってしまい、学徒が最初から独身生活を貫くことは不可能である。世界中には多種多様な分野の学問を学ぶための教育機関があるが、ブラフマチャーリーの原則に従って教育を受けられる認可施設はない。独身生活を送らないかぎり、精神生活を向上させることは非常に難しい。だから主チャイタニヤはおっしゃったのだ。このカリの時代に与えられた経典の教えによれば、至高主を悟ることのできる方法はただひとつ、主の聖なる御名「ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー / ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー」を唱えることである、と。
sarva-dvārāṇi saṁyamya
mano hṛdi nirudhya ca
mūrdhny ādhāyātmanaḥ prāṇam
āsthito yoga-dhāraṇām

訳語

翻訳

ヨーガとは
感覚に基づくすべてのものから無執着になることである。
感覚の扉をすべて閉じて
心を心臓に、生気を頭頂に固定させ
ヨーガの中に自己を納めるのだ。

解説

 ここで勧められているように、ヨーガを修練するためには感覚的快楽の扉をすべて閉じなければならない。これはプラテャーハーラと呼ばれる修練で、感覚をその対象から引き離すということである。目、耳、鼻、舌、触覚という知識を得るための感覚器官は、自分が楽しむために用いないよう、しっかりと管理しておかなければならない。そうすることで心はハートに宿る至高の魂と結びつき、生気は頭頂まで引き上げられる。第6章にこの方法が詳しく述べられている。しかし先に述べたように、この方法は今の時代には向かない。最善の方法はクリシュナ意識である。献身奉仕を行いながらいつも心をしっかりとクリシュナに結びつけておける人は、乱されることのない超越的な状態、つまりサマーディに居続けることが簡単にできるのだ。
oṁ ity ekākṣaraṁ brahma
vyāharan mām anusmaran
yaḥ prayāti tyajan dehaṁ
sa yāti paramāṁ gatim

訳語

翻訳

このヨーガの行を修め
至高の文字の組み合わせである聖なるオームの音節を唱え
至高人格神を想いつつ体を離れる者は
確かに精神惑星に到達する。

解説

 オームとブラフマンと主クリシュナには何の違いもないことが、ここにはっきりと書かれている。クリシュナの非人格的な音響はオームであり、ハレークリシュナという音響の中にもオームは含まれている。この時代では、ハレークリシュナ・マントラを唱えよと、明確に勧められている。だからもし人生の最後に「ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー / ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー」を体を離れることができたなら、その人が修練してきた様式に応じた精神惑星に達することは間違いない。クリシュナの献身者は、クリシュナの惑星であるゴーローカ・ヴリンダーヴァナに入る。人格論者にはほかにもヴァイクンタ惑星として知られる無数の惑星が用意されているが、非人格主義者たちはブラフマ・ジョーティル※にとどまる。

※ブラフマ・ジョーティルとは、姿、性質、活動が存在しない主の非人格的側面の悟りを意味する。
ananya-cetāḥ satataṁ
yo māṁ smarati nityaśaḥ
tasyāhaṁ su-labhaḥ pārtha
nitya-yuktasya yoginaḥ

訳語

翻訳

プリターの子よ
揺らぐことなく常に私を想う者は
絶え間ない献身奉仕により
やすやすと私のもとに来る。

解説

 この節は特に、バクティ・ヨーガで至高人格神に仕える純粋な献身者が到達する、最終目的地について述べている。これまでの節では苦悩する者、好奇心の強い者、物質的な利得を求める者、思索好きな哲学者という4種類の献身者について述べられた。カルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、ハタ・ヨーガ という、解脱を得るさまざまな方法についても語られた。これらのヨーガ法の原則には、バクティもある程度は付け加えられているが、この節で特に述べられるのは、ジュニャーナやカルマ、ハタがまったく混じっていない純粋なバクティ・ヨーガについてである。アナニャ・チェーターハという言葉が示しているように、純粋なバクティ・ヨーガを行う献身者は、クリシュナ以外何も求めない。純粋な献身者は天界の惑星に昇りたいとも、ブラフマ・ジョーティルと一体になりたいとも思わないし、物質的束縛から救われたいとも、解放されたいとも思わない。純粋な献身者にはいかなる望みもないのである。 

 『チャイタニヤ・チャリタームリタ』では、純粋な献身者のことをニシュカーマと呼んでいる。これは自分のためには何も望まない、という意味である。完全なる平安を味わえるのは、そのような人だけである。自己の利得を求めて必死になっている者には得られない。ジュニャーナ・ヨーギー、カルマ・ヨーギー、ハタ・ヨーギーは利己的な興味を持っているが、完璧な献身者は至高人格神を喜ばせることしか望まない。だから主はおっしゃるのだ。「揺らぐことなく常に私を想う者は、やすやすと私のもとに来る」と。
 純粋な献身者はいつも、数ある主のお姿のうちのいずれかに献身的に仕えている。クリシュナにはラーマやヌリシンハのようにさまざまな完全拡張体や化身があり、献身者は至高主のその超越的なお姿のどれに心を定めて愛情奉仕をしてもかまわない。そのような献身者は、ほかのヨーガを修練している人たちが悩まされるような問題に遭遇することがない。バクティ・ヨーガはとてもシンプルであり、かつ純粋で、簡単に実行できる。ただハレークリシュナを唱えることだけで始められるのだ。主は誰に対しても慈悲深いお方であるが、すでに説明したように、逸れることなくいつも主に仕えている者には、特に心が傾く。そのような献身者を、主はあらゆる方法で助けてくださるのである。ヴェーダ(『カタ・ウパニシャッド』1-2-23)に yam evaiṣa vṛṇute tena labhyas/ tasyaiṣa ātmā vivṛṇute tanuṁ svām と書かれているように、至高主に完全に身を委ねて献身奉仕をする人は、至高主をありのままに理解することができる。また『バガヴァッド・ギーター』(10-10)に dadāmi buddhi-yogaṁ tam と書かれているように、主はそのような献身者には十分な知性を与え、最終的に主の精神王国に達成できるようにしてくださる。
 純粋な献身者が備えている特別な資格は、時も場所も関係なく、常にクリシュナへの想いから逸れることがないことである。それを妨げるものなど何もない。いつでもどこでも、主に仕えることができるのだ。献身者は主が住んでおられたヴリンダーヴァナなどの聖地に住むべきだという人もいるが、純粋な献身者はどこに住んでいようと、献身奉仕をすることによって、ヴリンダーヴァナの雰囲気を造ることができる。シュリー・アドヴァイタは主チャイタニヤに「主よ、どこであろうと、あなたがおられるところがヴリンダーヴァナです」と言った。
 サタタムとニッティヤシャハという言葉は「いつも」「規則正しく」「毎日」などの意味であるが、この言葉が示しているように、純粋な献身者は常にクリシュナのことを想って瞑想している。それが純粋な献身者の資格であり、このような人は最も簡単に主のもとに行くことができる。『バガヴァッド・ギーター』は、ほかのどの方法よりもバクティ・ヨーガを勧めている。一般的にバクティ・ヨーギーには次の5つの仕え方がある。(1)シャーンタ・バクタ(中立の立場で献身奉仕をする)(2)ダーシャ・バクタ(従者として献身奉仕をする)(3)サッキャ・バクタ(友として仕える)(4)ヴァーツァリャ・バクタ(親として仕える)(5)マードゥリャ・バクタ(至高主の恋人として仕える)

 純粋な献身者はいつもこのいずれかの立場で、至高主に超越的な愛をこめて仕え、至高主を忘れることなどできない。そのような人にとって主のもとに行くことはたやすいことである。純粋な献身者は一瞬たりとも至高主のことが頭から離れない。そして至高主も同じように、片時たりとも純粋な献身者を忘れることはできない。これが「ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー / ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー」を唱えるという、クリシュナ意識の方法に秘められた偉大なる祝福なのである。
mām upetya punar janma
duḥkhālayam aśāśvatam
nāpnuvanti mahātmānaḥ
saṁsiddhiṁ paramāṁ gatāḥ

訳語

翻訳

私のもとに到達した偉大な魂
すなわち信心深いヨーギーは
決して再び苦悩に満ちたこのはかない世界には戻らない。
彼らは最高の完成に達したのだから。

解説

 この物質界は生老病死という苦しみに満ちた場所である。至高の惑星であるクリシュナローカ、すなわちゴーローカ・ヴリンダーヴァナに到達した人は、当然この場所に戻りたいとは思わない。ヴェーダ経典では、この至高の惑星のことをアヴィヤクタ、アクシャラ、パラマー・ガティであると表現されている。つまり私たちの物質的な目では見えず、説明のできない惑星であるが、マハートマ(偉大な魂)が目指す最高の目的地という意味である。マハートマーは真理を悟った献身者から超越的なメッセージを授かり、クリシュナ意識を修練しながらますます献身奉仕を高めていく。超越的な奉仕に没頭した彼らは、もはや物質的な惑星に昇りたいとは思わないし、それどころか精神的な惑星にさえ行きたいと思わない。彼らの求めるのはクリシュナだけ。クリシュナとのふれあい 以外には、何もほしいとは思わない。これが人生の最高完成である。この節は特に、至高主クリシュナを意識ある存在として受け入れている献身者について書かれている。こうしたクリシュナ意識の献身者は、人生の最高完成に達する。すなわち、彼らこそ最も優れた魂なのである。
ā-brahma-bhuvanāl lokāḥ
punar āvartino ’rjuna
mām upetya tu kaunteya
punar janma na vidyate

訳語

翻訳

物質界の最高位から最低位に位置するすべての惑星は
誕生と死を繰り返す苦しみの場所である。
しかし私の郷に来た者は
クンティーの子よ
決して再び誕生することはない。

解説

 カルマ、ジュニャーナ、ハタなど、いかなる種類のヨーギーも、クリシュナの超越的な住居に達したあと二度と戻らないためには、最終的にバクティ・ヨーガにおける献身的な完成、すなわちクリシュナ意識に到達しなくてはならない。最高位の物質惑星、すなわち神々が住む惑星に到達する人々は、またこの生と死を繰り返さなくてはならない。地上にいる人々が高位の惑星に昇っていくのと同様に、ブラフマローカ、チャンドラローカ、インドラローカのような高位の惑星にいる人々も、地上に堕ちてくる。『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』には、人がブラフマローカに達することを可能にしてくれるパンチャーグニ・ヴィッディヤーと呼ばれる供養が勧められているが、ブラフマローカでクリシュナ意識を高めることができなかった人は、再び地上に戻ってこなければならない。高位の惑星でクリシュナ意識を高めた人は、さらに高い惑星へと昇って行き、宇宙が破壊される時、永遠の精神王国まで引き上げられる。バラデーヴァ・ヴィデャーブーシャナは彼が著した『バガヴァッド・ギーター』の解説の中で、次の節を引用している。
brahmaṇā saha te sarve
samprāpte pratisañcare
parasyānte kṛtātmānaḥ
praviśanti paraṁ padam
 「この物質宇宙が破壊される時、絶えずクリシュナ意識でいるブラフマーとその献身者たちはすべて精神宇宙に移され、個々の望みに応じた精神惑星に行く」
sahasra-yuga-paryantam
ahar yad brahmaṇo viduḥ
rātriṁ yuga-sahasrāntāṁ
te ’ho-rātra-vido janāḥ

訳語

翻訳

人類の計算によれば
千の時代がブラフマーの昼の長さであり
ブラフマーの夜の長さと同じである。

解説

 物質宇宙の存続期間には限りがあり、それはカルパの繰り返しで表される。ひとつのカルパはブラフマーの昼1回分であり、これは、サッティヤ、トレーター、ドヴァーパラ、カリという4つのユガ(時代)が1000周期する長さである。サッティヤ時代の特徴は徳と自由と宗教で、無知や悪徳は存在しない。この時代は172万8千年続く。トレーター時代になると悪が生じ、129万6千年続く。ドヴァーパラ時代では徳と宗教がさらに衰え、悪が増える。この時代は86万4千年続く。そして最後のカリ時代(現在はこの時代に入って5千年が経過)は、闘争、無知、無宗教、悪にあふれ、真実の徳などほぼ存在しない。この時代が43万2千年続くのである。カリ・ユガでは、その終末に至高主が自ら現れてくださるまで悪がはびこる。主はカルキ・アヴァターラとして現れて悪徳な者を滅ぼし、献身者を救ってくださる。そして次のサッティヤ・ユガが始まり、またこの周期が繰り返される。この4つのユガが1000回繰り返された期間がブラフマーの昼1回分であり、夜も同じ長さである。ブラフマーはこのような年を100年生き、そして死ぬ。この「100年」を地上の計算ですると、合計311兆400億年ということになる。このように計算するとブラフマーの生涯は途方もなく、まるで不死身のように思えるが、永遠という観点からすれば、輝く一瞬のきらめきにすぎない。「原因の海」では無数のブラフマーが大西洋に浮かぶ泡のように現れては消え、消えては現れている。ブラフマーも彼の創造したものも、すべては物質宇宙の一部分であり、絶えず流転るてんしているのだ。
 物質宇宙では、ブラフマーでさえ生老病死のサイクルから抜け出すことはできない。しかしブラフマーはこの宇宙を管理して至高主に直接仕えているので、すぐに解脱を達成できる。高い段階にあるサンニャーシーは、ブラフマーの惑星であるブラフマローカに昇って行く。そこは物質宇宙で最高の惑星であり、惑星系の上層部にあるどの天界の惑星よりも長く存在する。しかしそのようなブラフマーやブラフマローカの住人であっても、時が来れば物質自然の法則に従って死を迎えるのである。
avyaktād vyaktayaḥ sarvāḥ
prabhavanty ahar-āgame
rātry-āgame pralīyante
tatraivāvyakta-saṁjñake

訳語

翻訳

ブラフマーの昼が始まると全生命体は姿を現し
ブラフマーの夜が来ると彼らは再びその姿を消す。
bhūta-grāmaḥ sa evāyaṁ
bhūtvā bhūtvā pralīyate
rātry-āgame ’vaśaḥ pārtha
prabhavaty ahar-āgame

訳語

翻訳

何度も何度もブラフマーの夜が明けるたび
全生物は現れ出て
ブラフマーの夜が訪れるたび
彼らは絶望的に消滅する。

解説

 この物質世界にとどまろうとする知性乏しき者は、高位の惑星に昇って行けるかもしれないが、いずれまた地球というこの惑星に下りて来なければならない。彼らはブラフマーの昼の間は、高位、低位にかかわらずこの物質界にある惑星で活動しているが、ブラフマーの夜が来ると絶滅してしまう。昼の間は物質界で活動するためのさまざまな体を与えられていて、夜になるとその体は無くなり、ヴィシュヌの体の中で密集する。そしてまた次のブラフマーの昼が始まると現れる。Bhūtvā bhūtvā pralīyate「昼の間は現れていて、夜になるとまた破壊される」。究極的には、ブラフマーの人生が終わると何もかも破壊され、無限かと思われるほど長い長い年月を未顕現状態で過ごす。そしてブラフマーがまた生まれると、次の周期の間は再び顕現状態で過ごす。このように彼らは物質界の魔力に捕らわれているのだ。しかしクリシュナ意識に没頭する知性ある人々は、「ハレー クリシュナ・ハレー クリシュナ・クリシュナ クリシュナ・ハレー ハレー / ハレー ラーマ・ハレー ラーマ・ラーマ ラーマ・ハレー ハレー」を唱えながら、この人生を主への奉仕のために最大限活用するのだ。それゆえ彼らは、この人生の間においてもクリシュナの精神惑星に移住して、永遠に至福の状態となり、再び物質界に生まれることはなくなる。
paras tasmāt tu bhāvo ’nyo
’vyakto ’vyaktāt sanātanaḥ
yaḥ sa sarveṣu bhūteṣu
naśyatsu na vinaśyati

訳語

翻訳

だがこの顕現、未顕現の現象を超えて
現れていない自然がもうひとつ実在する。
それは至高であり、決して滅びることなく
この世のすべてが消滅しても
そのまま残る。

解説

 クリシュナの高位エネルギー、すなわち精神エネルギーは超越的であり、永遠である。ブラフマーの昼や夜によって現れたり消えたりする物質自然の変化を、すべて超えている。クリシュナの高位エネルギーはその性質において、物質自然とまったく正反対なのだ。高位エネルギーと低位エネルギーについては、第7章で説明されている。
avyakto ’kṣara ity uktas
tam āhuḥ paramāṁ gatim
yaṁ prāpya na nivartante
tad dhāma paramaṁ mama

訳語

翻訳

ヴェーダーンタの学者たちが、
未顕現、完全無欠と称す至高の目的地、
そこに到達した者は決して物質界に戻らない。
そこが至高なる私の郷である。

解説

 『ブラフマ・サンヒター』の中では、至高人格神クリシュナの至高の住居のことを、チンターマニ・ダーマという言葉で表している。これは「あらゆる望みが叶えられる場所」という意味である。ゴーローカ・ヴリンダーヴァナとして知られる主クリシュナの至高の住居には、タッチストーン※でできた宮殿がたくさん建ち並んでいる。「望みの樹」と呼ばれる、ほしい食べ物はどんなものでも出してくれる木があったり、無限にミルクを出してくれるスラビ牛もたくさんいる。そこで主は何百何千もの幸運の女神(ラクシュミー)たちに仕えられ、ゴーヴィンダ、すなわちあらゆる原因の原因であるお方と呼ばれている。主はいつもフルートを吹いておられる(veṇuṁ kvaṇantam)。

 蓮の花びらのような瞳、雲の色をした肌。主の超越的なお姿ほどに魅力的なものは、どの世界にも存在しない。その美しさはあまりにも魅力的で、キューピッドが何千人集まっても及ばない。サフランの布を身にまとい、首には花輪を、頭にはクジャクの羽根をつけておられる。主クリシュナは精神王国の中の最高惑星であるゴーローカ・ヴリンダーヴァナについて、『バガヴァッド・ギーター』の中ではほんのわずかなヒントを与えておられるにすぎないが、『ブラフマ・サンヒター』の中では明確に説明なさっている。ヴェーダ文献(『カタ・ウパニシャッド』1-3-11)では、至高主の住居に優まさるものはなく、そこが究極の目的地であると書かれている(puruṣān na paraṁ kiñcit sā kāṣṭhā paramā gatiḥ)。そしてそこに到達した者は決して物質界には戻らない。クリシュナの至高の住居とクリシュナ御自身はまったく同質であり、両者には何の違いもない。デリーから南東へ90マイルのところにある、この地上のヴリンダーヴァナは、精神世界にある至高のゴーローカ・ヴリンダーヴァナの模写である。クリシュナはこの地上に現れた時、インドのマトゥラー地方で168平方マイルの広さを占めるその地に降り立ち、崇高な戯れを繰り広げられたのだ。

※タッチストーンとは、触れた物をなんでも金に変えてしまう石のこと。
puruṣaḥ sa paraḥ pārtha
bhaktyā labhyas tv ananyayā
yasyāntaḥ-sthāni bhūtāni
yena sarvam idaṁ tatam

訳語

翻訳

すべてに優るバガヴァーンのもとに行けるのは
逸れることなく仕え続ける者だけである。
主は御自身のお住まいに居ながらにして
どこにでも存在し
万有万物は主の内に存在する。

解説

 至高のお方クリシュナがお住まいになる場所こそ、二度と戻ることのない至高の目的地であるとここに明記されている。『ブラフマ・サンヒター』はこの至高の場所をアーナンダ・チンマヤ・ラサ、すなわち「すべてが精神的な至福で満ちている場所」と形容している。そこに現れるさまざまなものはすべて精神的喜びでできていて、物質的な要素はまったくない。この多様性は至高主御自身が精神的に拡張しておられるために生じる。なぜなら、第7章で説明されているように、そこに現れているものは完全に精神的エネルギーだからである。主は常に御自身の至高の住居にいらっしゃるにもかかわらず、物質エネルギーの力でこの物質界の隅々にまで充満しておられる。つまり主は、その精神エネルギーと物質エネルギーによって物質宇宙にも精神宇宙にも、どこにでも存在しているのだ。ヤッスャーンタ・スターニとは「すべては主の内に、すなわち主の精神エネルギーあるいは物質エネルギーの内にある」という意味である。主はこのふたつのエネルギーによって、あらゆるところに遍満しておられる。
 クリシュナの住む至高の場所、あるいは無数のヴァイクンタ惑星に入ることができる方法は、バクティつまり献身奉仕だけである。そのことはここで使われているバクティヤーという言葉で明確に示されている。ほかの方法では至高の住居に達することはできない。ヴェーダ(『ゴーパーラ・ターパニー・ウパニシャッド』1-21)も、至高の住居と至高人格神について述べている。Eko vaśī sarva-gaḥ kṛṣṇaḥ その場所にはただひとり、唯一無二の至高人格神だけがおられる。そのお名前をクリシュナと言う。クリシュナはこの上なく慈悲深いお方で、そこにひとりの姿で存在しながら、何百万、何千万にも完全な形で御自身を拡張しておられる。ヴェーダは主のことを木にたとえている。一か所に立ち続けながら、さまざまな実を結び、花を咲かせ、次々と新しい葉を茂らせる木に。無数のヴァイクンタ惑星を統轄する主の完全拡張体は皆4本の腕を持ち、プルショーッタマ、トゥリヴィクラマ、ケーシャヴァ、マーダヴァ、アニルッダ、フリシーケーシャ、サンカルシャナ、プラデュムナ、シュリーダラ、ヴァースデーヴァ、ダーモダラ、ジャナールダナ、ナーラーヤナ、ヴァーマナ、パドマナーバ など、さまざまな名前で呼ばれている
 「主は常にゴーローカ・ヴリンダーヴァナという至高の住居にいながら、すべてがうまくいくようにあらゆるところに遍満しておられる(goloka eva nivasaty akhilātma-bhūtaḥ)」と『ブラフマ・サンヒター』(5-37)も確証している。ヴェーダ(『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』6-8)でも、parāsya śaktir vividhaiva śrūyate/ svābhāvikī jñāna-bala-kriyā ca と書かれているように、主ははるか遠くにいらっしゃるのだが、そのエネルギーが無限に広がっていて、宇宙中に現れているすべてのものを不備ひとつなく、完璧に管理しておられるのである。
yatra kāle tv anāvṛttim
āvṛttiṁ caiva yoginaḥ
prayātā yānti taṁ kālaṁ
vakṣyāmi bharatarṣabha

訳語

翻訳

バーラタ族で最も優れた者よ
ヨーギーはいつこの世を去るかによって
再びこの世界に戻るか、戻らないかが決まる。
そのさまざまな時について説明しよう。

解説

 至高主の純粋な献身者は完全に身を委ねた魂であり、いつ体を離れるか、どうやって離れるかなど気にもかけない。すべてをクリシュナの手に委ね、いとも簡単に、そして幸せな気持ちで神のもとへ帰っていく。しかしカルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、ハタ・ヨーガのような方法に依存する不純な献身者は、適切なタイミングに体を離れられるかどうかで、生死の世界に戻って来るか来ないかが決まる。
 完璧なヨーギーはこの物質界を離れる時と状況を選ぶことができるが、まだ未熟なヨーギーの場合、成功するかどうかは望ましいタイミングにたまたま離れられるかどうかという偶然にかかっているのだ。いつ体を離れればこの世界に戻ってこなくて済むかについては、次の節で主が説明してくださる。アーチャーリャ・バラデーヴァ・ヴィデャーブーシャナによれば、ここで用いられているサンスクリットの「カーラ」という言葉は、「時の主宰神」を示している。
agnir jyotir ahaḥ śuklaḥ
ṣaṇ-māsā uttarāyaṇam
tatra prayātā gacchanti
brahma brahma-vido janāḥ

訳語

翻訳

月が満ちていく2週間、太陽が北を行く6ヶ月の間で
火の神の支配下にあり、光が射す、1日のうちの吉祥な時間帯。
至上ブラフマンを知る者が
もしこの時にこの世を去れたなら
至高主のもとに到達できるのだ。

解説

 火、光、日中、月の出ている2週間と書かれているが、そのすべてにそれぞれの主宰神がいて、魂が他界していくための便宜を図っていることを理解しておかなければならない。死が訪れた時、魂を新しい生活に連れていくのは心である。偶然であれ準備を整えたからであれ、先に述べられている時間帯に体を離れることができたなら、人は非人格のブラフマ・ジョーティルに達することができるのだ。ヨーガ実践で高められた神秘家は、体を離れる時と場所を自分で選ぶことができる。一般の人にはそのような力がないが、もし偶然にも吉兆な瞬間に体を離れたなら、その人はもう生と死の繰り返しに戻らなくていいのだ。そうならなければ、戻ってくるしか仕方がない。しかしクリシュナ意識の純粋な献身者は恐れない。偶然であれ計画通りであれ、吉兆な時間に体を離れようと不吉な時間に離れようと、彼らはこの世界に戻ってくる心配がないのである。
dhūmo rātris tathā kṛṣṇaḥ
ṣaṇ-māsā dakṣiṇāyanam
tatra cāndramasaṁ jyotir
yogī prāpya nivartate

訳語

翻訳

煙の中、夜、月が欠けていく2週間、太陽が南側を通る6ヶ月
この時に体を離れた神秘家は
月の惑星に行く。
しかし彼らは、再びこの地上に戻ってくるのだ。

解説

 「地上で成果を求める活動や供養を極めた人は、死ぬと月に行く」とカピラ・ムニは『シュリーマド・バーガヴァタム』第3編で述べている。こうした気高い魂は神々の計算で1万年間ほど月に住み、ソーマ・ラサ※を飲んで楽しく暮らす。そしてやがては地上に戻ってくる。つまり私たちの鈍い感覚ではとらえられなくとも、月には地上より高い段階の生命体がいるということである。

※ソーマ・ラサ・・・ハーブからできた飲み物で、命を回復させるために重宝される。
śukla-kṛṣṇe gatī hy ete
jagataḥ śāśvate mate
ekayā yāty anāvṛttim
anyayāvartate punaḥ

訳語

翻訳

ヴェーダによれば
この世界を去るには、ふたつの道がある。
明るい道と暗い道。
明るい道を行く人は二度と戻らず
暗い道を行く人はまた戻ってくる。

解説

 この地上を離れること、戻ってくることに関して、アーチャーリャ・バラデーヴァ・ヴィデャーブーシャナは、『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』(5-10-3~5)から、同様の記述を引用している。太古の昔から結果にこだわって働く人や哲学的な思索に耽る人は、この往来を繰り返している。実際彼らはクリシュナに自分を明け渡さないので、究極の救いを得ることができないのである。
naite sṛtī pārtha jānan
yogī muhyati kaścana
tasmāt sarveṣu kāleṣu
yoga-yukto bhavārjuna

訳語

翻訳

アルジュナよ
献身者はこのふたつの道を知っていても
決して惑わされることはない。
ゆえにたゆまず献身奉仕に励め。

解説

 ここでクリシュナはアルジュナに、物質界を離れる時に魂のとるべき道に迷うな、と忠告している。至高主の献身者は準備したとおりに体を離れられるのか、偶然にそうなるのかなど、心配すべきではない。しっかりとクリシュナ意識を強固なものにして、ハレークリシュナを唱えていればいいのだ。どちらの道を行くのか思い悩むなど煩わしいことだと、わかっていなくてはならない。クリシュナ意識に没頭する最善の方法は、常に主への奉仕に就いていることである。そうすれば間違いなく、まっすぐに精神王国へと導かれていく。ヨーガ・ユクタという言葉はこの節の中で特に重要である。確実にヨーガの道を行く人は、いかなる活動においても常にクリシュナ意識でいる。シュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーはこのように助言している 。anāsaktasya viṣayān yathārham upayuñjataḥ「世俗的なことに執着を持たず、何を為すにもクリシュナ意識でなくてはならない」。ユクタ・ヴァイラーギャと呼ばれるこの方法によって人は完成に達する。したがって献身者は、このようなさまざまな道に関する記述に惑わされたりしない。至高の住居へと向かう道は、献身奉仕によって保証されていると知っているからである。
vedeṣu yajñeṣu tapaḥsu caiva
dāneṣu yat puṇya-phalaṁ pradiṣṭam
atyeti tat sarvam idaṁ viditvā
yogī paraṁ sthānam upaiti cādyam

訳語

翻訳

献身奉仕の道を行く者は
ヴェーダ学習、供養の履行、苦行、慈善
哲学的思索、果報的活動がもたらす結果をも得る。
ただ献身奉仕をするだけでこれらすべての成果を得て
最後には永遠の至高の住居に到達する。

解説

 この節は第7章と第8章の要約で、特にクリシュナ意識と献身奉仕について書かれている。人は精神の師の指導のもとでヴェーダを学び、師のもとで生活しながらたくさんの苦行を実践していかなければならない。ブラフマチャーリーは精神指導者の家で召使のように仕えて暮らし、家々を托鉢してまわり、いただいた施し物を精神指導者のところへ運ぶ。師が定めた食べ物だけを食べ、師から食事に呼ばれなければ、その日は断食する。これはブラフマチャリャについて述べられたヴェーダ原則の一部である。
 しばらくの間(少なくとも5才から20才の間)師のもとで学び、やっと完全な質を備えた人間になる。ヴェーダの勉強はひじかけ椅子にゆっくり腰かけて思索を楽しむことではなく、人としての品格を形成するためのものである。この訓練のあと、ブラフマチャーリーは結婚して家庭生活に入ることを許される。家庭生活に入ってからは、さらなる向上を目指してたくさんの供養を行わなくてはならない。また『バガヴァッド・ギーター』に書かれているように、国、時期、相手に応じて、徳、激情、無知の様式をよく見極めた上で、慈善も施さなくてはならないし、家庭生活を放棄してからはヴァーナプラスタの階級を受け入れ、森で暮らし、木の皮を身にまとい、髭をそらないなど、厳しい苦行をする。ブラフマチャーリー、家庭生活、ヴァーナプラスタの段階を経て、最後にサンニャーサとなって、人は人生の完成段階まで高められることとなる。そして中には天界の王国まで昇る者もいて、もっと高められると、精神世界の非人格的なブラフマ・ジョーティルやヴァイクンタ惑星やクリシュナローカに入っていく。これがヴェーダ文献の説く生き方である。
 しかしクリシュナ意識の美しさは、献身者となること、ただそれだけで人生のあらゆる段階でやるべき慣習的行為をすべて凌しのぐことができるという点にある。 
 idaṁ viditvā とは、『バガヴァッド・ギーター』の本章と第7章の中でシュリー・クリシュナが教えてくださっていることを理解しなくてはならない、という意味である。これらの章を学識や憶測によってではなく、献身者との交際の中で聞くことによって、理解しなければならない。第7章から第12章までは『バガヴァッド・ギーター』の真髄である。最初の6つの章と最後の6つの章は、真ん中の6つの章の覆いとも言うべきもので、主によって特別に守られている。もし幸運にも『バガヴァッド・ギーター』 、なかでもこの真ん中の6つの章を、献身者との交際の中で理解することができたなら、その人の人生は直ちに栄光あるものとなり、苦行、供養、慈善、思索など、あらゆるものを超えてしまう。なぜなら、ただクリシュナ意識を実践するだけで、人はこうした行為の結果をすべて達成できるからである。
 わずかでも『バガヴァッド・ギーター』に信念を持っている人は、献身者から『バガヴァッド・ギーター』を学ぶべきである。第4章に明記されているように、『バガヴァッド・ギーター』を理解できるのは献身者だけであり、献身者でない者はその目的を正しく理解できない。ゆえに、思索家からではなく、クリシュナの献身者から『バガヴァッド・ギーター』を学ばなくてはならない。これが信念の証しである。献身者を探し、幸運にもその交際を得られたとき、その人の『バガヴァッド・ギーター』の勉強と理解が始まる。献身者との交際の中で向上していくことによって人は献身奉仕に就くようになり、この奉仕がクリシュナ、すなわち神について、またクリシュナの行動や姿、崇高な戯れ、お名前、さまざまな特性などについての疑いをすべて晴らしてくれる。そしてそのような疑いが完全に消え去ったとき、地に足を付けて学べるようになる。『バガヴァッド・ギーター』の学習に喜びを感じ、常にクリシュナ意識を感じていられる段階に達するのだ。このような高い段階になると人は完全にクリシュナへの愛に包まれる。この人生最高の完成段階に達すると、献身者は精神世界ゴーローカ・ヴリンダーヴァナにあるクリシュナのもとへと移され、永遠に幸せに暮らすのである。
 以上、『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第8章「至上者のもとに到る道」に関するバクティヴェーダンタの解説は終了。