節
訳語
翻訳
解説
第1章
神を悟る第一歩
節
oṁ namo bhagavate vāsudevāya
訳語
oṃ—主よ; namaḥ—あなたに敬意を表します; bhagavate—人格神に; vāsudevāya—ヴァスデーヴァの息子、主クリシュナに。
翻訳
主よ。遍在する人格神よ、あなたに尊敬の礼を捧げます。
解説
ヴァースデーヴァーヤは「ヴァスデーヴァの息子、クリシュナに」という意味です。クリシュナ、ヴァースデーヴァの名前を唱えることで、慈善、禁欲生活、苦行の優れた結果全てを得ることができるため、このoṃ namo bhagavate vāsudevāyaというマントラを唱えることで、『シュリーマド・バーガヴァタム』の著者、語り手、読者は、全ていまの喜びの源である至高主、クリシュナに敬意を表していることになります。『シュリーマド・バーガヴァタム』の第1編では創造の原理について説明されているため、第1編は「創造」と呼ばれています。
同じように第2編では、創造後の宇宙現象界について述べられています。さまざまな天体系が主の宇宙体の各部分として、第2編で解説されています。そのため、第2編は「宇宙現象界」と呼ぶことができます。第2編には10の章があり、これらのなかに『シュリーマド・バーガヴァタム』の目的、そしてこの目的のさまざまな兆候について述べられています。最初の章では唱名の栄光について述べられていますが、初心の献身者が主の宇宙体を瞑想できる方法についても述べられています。最初の節でシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、死ぬ時になすべきことについて尋ねたマハーラージャ・パリークシットの問いに答えています。マハーラージャ・パリークシットは、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーを迎えたことを嬉しく思い、クリシュナの親友であるアルジュナの子孫であることを誇りに思いました。実に謙虚な人物なのですが、主クリシュナが自分の祖父たち、すなわちパーンドゥの子息たちに、とりわけ自分の祖父であるアルジュナに優しかったことに感謝しています。そして、主クリシュナはいつでもマハーラージャ・パリークシットの家族に満足していたために、死に際にある彼が自己の悟りの方法を極められるように、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーが遣わされました。マハーラージャ・パリークシットは幼い頃から主クリシュナの献身者であったため、クリシュナに自然に愛情を感じており、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーもその強い愛情を理解することができました。ですから王の義務についての問いを喜んで受け入れました。主クリシュナへの奉仕こそが全生命体の究極の本務であることを王がほのめかしたことから、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーはその思いを歓迎し、「あなたはクリシュナについて尋ねた。だからその問いは栄光に満ちている」と言いました。最初の節の訳は次の通りです。
節
śrī-śuka uvāca
varīyān eṣa te praśnaḥ
kṛto loka-hitaṁ nṛpa
ātmavit-sammataḥ puṁsāṁ
śrotavyādiṣu yaḥ paraḥ
varīyān eṣa te praśnaḥ
kṛto loka-hitaṁ nṛpa
ātmavit-sammataḥ puṁsāṁ
śrotavyādiṣu yaḥ paraḥ
訳語
śrī-śukaḥ uvāca—シュリー・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーが言った; varīyān—栄光に満ちた; eṣaḥ—これ; te—あなたの; praśnaḥ—質問; kṛtaḥ—あなたによってなされた; loka-hitam—全人類にとって有益な; nṛpa—王よ; ātmavit—超越主義者達; sammataḥ—承認されて; puṃsām—全ての人々の; śrotavya-ādiṣu—聞くこと全て; yaḥ—~であるもの; paraḥ—至高。
翻訳
シュリー・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーが言った。「王よ。あなたの質問は栄光に満ちあふれている。誰にとっても有益だからである。この質問の答えは、聞くという行為を満たす最も大切な主題であり、超越主義者たちにも認められている」
解説
パリークシット王の質問そのものが、聞くにふさわしい最善の主題だったため、すばらしい質問であることが讃えられています。そのような問いを投げかけ、その答えを聞くことで、最高かつ完璧な境地に到達することができます。主クリシュナは根源の至高の人物ですから、主にまつわるどんな問いも根源的で、なおかつ完璧なものなのです。主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブは、人生の最高完成はクリシュナへの超越的な愛情奉仕をすることである、とおっしゃいました。クリシュナに関連する問いと答えは、私たちをその超越的な境地に高めてくれるので、マハーラージャ・パリークシットによるクリシュナの哲学に関する問いは大いに讃えられるものです。マハーラージャ・パリークシットは、心を完全にクリシュナだけに没頭させたいと思いましたが、その思いは、クリシュナの非凡な活動について聞くだけで満たされます。例えば『バガヴァッド・ギーター』では、主クリシュナの降誕、他界、活動の超越的な質を知るだけで、ふるさとである神のもとへと帰り、苦しい物質界には決して戻って来ることはない、と述べられています。ですから、いつもクリシュナについて聞く、という行為は大変吉兆なことなのです。だからこそマハーラージャ・パリークシットは、心をクリシュナに専念できるようにと、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーにクリシュナの活動について話すよう、お願いしたのです。クリシュナの活動はクリシュナそのものです。クリシュナの超越的な活動を聞いているかぎり、私たちは物質存在の条件づけられた生活から離れることができます。主クリシュナにまつわる主題は、大変吉兆なため、話す人、聞く人、尋ねる人の心を清めてくれます。それらは、主クリシュナの足先から流れ出ているガンジス川に例えられます。ガンジス川がどこを流れようと、その場所を、そしてその水で沐浴する人を清めます。同じように、クリシュナ・カター、クリシュナの話題はとても純粋であるため、どこで語られても、その場所、聞く人、尋ねる人、話す人など、それに関わるもの全てが浄化されます。
節
śrotavyādīni rājendra
nṛṇāṁ santi sahasraśaḥ
apaśyatām ātma-tattvaṁ
gṛheṣu gṛha-medhinām
nṛṇāṁ santi sahasraśaḥ
apaśyatām ātma-tattvaṁ
gṛheṣu gṛha-medhinām
訳語
śrotavya-ādīni—聞く主題; rājendra—皇帝よ; nṛṇām—人間社会の; santi—~がある; sahasraśaḥ—何百何千もの; apaśyatām—盲目の人間の; ātma-tattvam—究極の真理、自己に関する知識; gṛheṣu—家庭で; gṛha-medhinām—物質的な物事に熱中している者達の。
翻訳
皇帝よ。物質的なことに没頭している者たちは、究極の真理に関する知識に盲目であるため、聞くべく多くの主題を人間社会の中に見出している。
解説
啓示経典には、世帯者の生活を表す2つの専門用語があります。一つはグリハスタ、もう一つがグリハメーディです。グリハスタは、妻や子どもたちと暮らしていても、究極の真理を悟るために崇高な生活をしている人々を指します。一方グリハメーディは、家族のためだけに(それが拡大された、あるいは集中された形であっても)生きているため、他人を妬みます。メーディは他人への嫉妬を表します。グリハメーディは家族のことだけを考えているので、他人を妬むのは当然です。そのため、あるグリハメーディは別のグリハメーディとは仲が悪く、その拡大された形である共同体、社会、国家も、利己的な関心をもつその相手とうまくやっていけないのです。カリ時代では、どの世帯者もほかの世帯者に嫉妬しています。それは究極の真理に関する知識を知らないからです。彼らには聞くべき主題、つまり政治、科学、社会、経済などがたくさんありますが、知識が貧弱なために、人生の究極の苦しみ、すなわち誕生、死、老い、病気に関する問いを無視しています。実際、人間生活は生老病死から完全に解放されるためにあるのですが、グリハメーディは物質自然界に惑わされているために、自己の悟りに関すること全てを忘れています。人生の問題の究極の解決は、ふるさとに、神のもとに帰ることにあり、それができてこそ『バガヴァッド・ギーター』(8-16)で述べられているように、物質存在の苦しみである生老病死を取り除くことができます。
ふるさとに、神のもとに帰る方法は、至高主について、そして主の御名、姿、特質、崇高な遊戯、主に関わるものごと、主の多様性について聞くことにあります。愚かな人々はこのことを知りません。彼らは、はかないものの名前や姿について聞こうと望んでおり、聞くという傾向を究極の善のためにいかに活用するのかを知らないのです。彼らは間違って導かれているために、究極の真理者の名前、姿、特質について間違った書物を作ったりします。ですから、ただ他人を妬んで生きるグリハメーディになってはいけません。経典の教えに従う正しい世帯者になるべきです。
節
nidrayā hriyate naktaṁ
vyavāyena ca vā vayaḥ
divā cārthehayā rājan
kuṭumba-bharaṇena vā
vyavāyena ca vā vayaḥ
divā cārthehayā rājan
kuṭumba-bharaṇena vā
訳語
nidrayā—眠ることで; hriyate—無駄にする; naktam—夜; vyavāyena—セックスにふけること; ca—もまた; vā—どちらも; vayaḥ—寿命; divā—日々; ca—そして; artha—経済; īhayā—発達; rājan—王よ; kuṭumba—家族達; bharaṇena—維持している; vā—どちらも。
翻訳
そのような妬み深い世帯者の生活は、夜は眠ること、またはセックスに溺れることに、そして昼はお金を稼ぐか、家族を維持することに費やされる。
解説
現在の人間文化は、夜は眠ることとセックスにふけること、日中はお金を稼ぎ、家族の維持のためにそのお金を使うということで成り立っています。そのような文化はバーガヴァタの学派によって非難されています。
人間生活は物質と精神が組み合わさったものであり、ヴェーダ知識は全て、精神魂を物質の穢れから解放させることに向けられています。これに関連する知識をアートマ・タットヴァと言います。あまりにも物質主義的な人々はこの知識を知らず、物質的な楽しみを味わうための経済発展に心を向けています。そのような物質主義的な人々をカルミー、すなわち結果にこだわる労働者といい、彼らには、規制内での経済発展、あるいは性的快楽のための女性との交わりが許されています。一方で、カルミーを超えた人々、すなわちジュニャーニー、ヨーギー、献身者たちが性的快楽を追求することは厳しく禁じられています。カルミーはおおよその場合、アートマ・タットヴァを知らないため、彼らの生活は精神的な利益をもたらすことなく費やされます。人間生活は経済発展のための重労働、あるいは犬や豚のようにセックスにふけるために用意されたのではありません。物質的な生活、そしてそのために生じる苦しみという問題を解決させるためにあるのです。しかしカルミーたちは、夜は眠り、セックスにおぼれることで、また昼は財産を貯めるための重労働に励むことで貴重な人生を無駄にし、そうすることで物質主義的な生活をよりよいものにしようとしています。物質主義的な生き方がここで要約され、そして愚かな人々が人間生活という恩恵をどのように無駄にしているかが、次のように説明されていきます。
節
dehāpatya-kalatrādiṣv
ātma-sainyeṣv asatsv api
teṣāṁ pramatto nidhanaṁ
paśyann api na paśyati
ātma-sainyeṣv asatsv api
teṣāṁ pramatto nidhanaṁ
paśyann api na paśyati
訳語
deha—体; apatya—子ども達; kalatra—妻; ādiṣu—そしてそれらに関連する全ての物事; ātma—自分の; sainyeṣu—戦う兵士達; asatsu—過ちを犯す; api—~にもかかわらず; teṣām—それら全ての; pramattaḥ—過度に執着して; nidhanam—破滅; paśyan—経験してきて; api—~ではあるが; na—~しない; paśyati—それを見る。
翻訳
アートマ・タットヴァを欠いた者たちは、「あてにならない戦士」ともいうべき体、子ども、妻などに強く執着しているために、人生の問題について問おうとしない。これまで何度も経験してきたというのに、避けられない破滅が見えないのである。
解説
物質界は死の世界と呼ばれています。何百万年もの寿命を持つブラフマーから数秒間しか生きられない細菌に至るまで、全ての生命体が生存競争をしています。よって私たちの一生は、誰をも死に陥れる物質自然界との戦いと言えるでしょう。人間の姿を得た生命体は、この厳格な生存競争の正体が理解できるだけの十分な能力があるのですが、家族、社会、国などに執着し過ぎているため、体力、子ども、妻、親戚などの助けを借りて、勝てるわけのない物質自然界と戦って勝とうとしています。これまでの経験を通して、また先人たちの例を見て充分にわかっているはずなのに、子ども、親戚、社会の人々という戦士たち全てが、やがては苦闘のはてに破滅していくことが見えません。自分の父も、その父の父もすでに死に、自分もやはり必ず死に、子どもの親になるだろう自分の子どももやがては死んでいくことを心得ておかなくてはなりません。誰であっても、物質自然界との競争で生き残ることはできません。人間社会の歴史がそのことを証明しているというのに、愚かな人たちは、将来、人は物質科学の助けを得て永遠に生きられるようになる、と豪語します。人間社会に見られるこの貧弱な知識は、明らかに間違って人を導くものであり、精神魂の本質を無視した結果生じるものです。私たちはこの物質界に執着しているために、この世界は夢として存在しています。さもなければ、精神魂はいつでも、物質自然界とは異なる存在なのです。物質自然界という広大な海は「時」という波を起こし、いわゆる生活環境は、私たちの目の前に体、妻、子ども、社会、同国人などとして現れる、泡のようなものです。自己に関する知識がないために、私たちは無知の力の犠牲になり、こうして、「永遠の生活」という物質界ではありえないことを追求するむなしい努力をしながら、人間生活の貴重なエネルギーを無駄にしています。
友人、親戚、また妻、子どもたちはあてにならない存在であることはもちろん、彼らは物質存在という表面的な魅力に惑わされています。そのような彼らが私たちを救ってくれるわけがありません。それでも私たちは、家族、社会、国のなかにいさえすれば安全だと考えています。
人間文化の物質的な発展は全て、死体の飾りのようなものです。世の全ての人々は、数日の間、動きまわっている死体にすぎないのですが、それでも、人間生活の全エネルギーがこの死体を飾ることに無駄に使われています。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、惑わされた人間の活動の真相を示したあと、人類がなすべきことを指摘しています。アートマ・タットヴァの知識のない人々は間違って導かれているのですが、主の献身者、そして超越的知識を完璧に悟った人々が惑わされることはありません。
節
tasmād bhārata sarvātmā
bhagavān īśvaro hariḥ
śrotavyaḥ kīrtitavyaś ca
smartavyaś cecchatābhayam
bhagavān īśvaro hariḥ
śrotavyaḥ kīrtitavyaś ca
smartavyaś cecchatābhayam
訳語
tasmāt—この理由のために; bhārata—バラタの子孫よ; sarvātmā—至高の魂; bhagavān—最高人格神; īśvaraḥ—支配者; hariḥ—全ての苦痛を消しさる主; śrotavyaḥ—~は聞かれるべき; kīrtitavyaḥ—讃えられるべき; ca—もまた; smartavyaḥ—思い出されるべき; ca—そして; icchatā—望む者の; abhayam—自由。
翻訳
バラタ王の子孫よ。一切の苦しみから解放されたいと望む者は、至高の魂、支配者、そして苦悩からの救世者である人格神について聞き、そのお方を讃え、また思い出さなくてはならない。
解説
シュリー・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは前節で、物質生活に執着している愚かな人々が、眠ること、性生活にふけること、経済的状況を発展させること、消滅する定めにある親族を維持することで物質的状況を改善しようとしながら、貴重な時間を無駄にしていると説明しました。精神魂はこのような物質的活動に夢中になり、果報的活動の法則のサイクルに自らを陥れています。その結果として、水中生物、植物、爬虫類、鳥、動物、未開人といった840万種の生命体において誕生と死を繰り返すことになり、そしてその後で再び、果報的活動のサイクルから抜け出すチャンスである、人間の姿を得るのです。ですから、この悪循環から解放されたいと思う人は、カルミー、すなわち自分がしたことの善悪の結果を楽しもうとすることをやめなくてはなりません。良いことであろうと悪いことであろうと、それは自分のためではなく、存在するもの全ての究極の所有者である至高主のためにすべきです。その方法が『バガヴァッド・ギーター』(9-27)で勧められており、全て主のために活動するよう教えられています。ですから、まず主について聞くことが必要です。完璧に、入念に聞いたあとは主の行動を讃えなくてはなりませんし、讃えることで主の超越的な質をいつも思っていられるようになります。主を称賛する言葉を聞くことは、主の超越的な質と同じであり、そうすることで、私たちは主といつもふれあっていることになります。その結果、あらゆる恐怖から解放されていきます。主は、全生命体の心臓に住んでいる至高の魂(パラマートマー)であり、上記のような聞く方法と讃える方法を通して、主の創造界における全ての生命体に、交流の機会を与えてくださるのです。主について聞き、主を讃えるという過程は、誰でも実践できるものであり、それは与えられた運命によって人が行うであろう全ての活動において、その人を究極の成功へと導く過程なのです。人間にもさまざまな段階があります。果報的活動者、経験主義哲学者、神秘主義ヨーギー、そして最後に純粋無垢な献身者です。この全ての人たちが同じ方法を実践し、望ましい成功を達成することができます。誰でも、あらゆる恐怖から解放されたいと思っていますし、申し分のない幸福な生活を求めています。この境地をすぐに達成する完璧な方法が『シュリーマド・バーガヴァタム』で勧められており、それがシュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーという偉大な権威者によって示されています。主について聞き、主を讃えることで、万人の活動が精神的活動になり、物質的苦痛のあらゆる概念は完璧に消滅されるのです。
節
etāvān sāṅkhya-yogābhyāṁ
sva-dharma-pariniṣṭhayā
janma-lābhaḥ paraḥ puṁsām
ante nārāyaṇa-smṛtiḥ
sva-dharma-pariniṣṭhayā
janma-lābhaḥ paraḥ puṁsām
ante nārāyaṇa-smṛtiḥ
訳語
etāvān—これら全て; sāṅkhya—物質と精神に関する完璧な知識; yogābhyām—神秘的力に関する知識; sva-dharma—特定の定められた義務; pariniṣṭhayā—完全な理解によって; janma—誕生; lābhaḥ—利益; paraḥ—至高者; puṃsām—人の; ante—最期に; nārāyaṇa—人格神; smṛtiḥ—記憶。
翻訳
人間生活の最高完成とは、物質と精神に関する完璧な知識の習得によって得られる完成や、神秘的力の修練による完成であろうと、あるいは規定の義務の完璧な実践によって得た完成であろうと、人生の最期に人格神を思い出すことにある。
解説
ナーラーヤナは物質創造界を超えた超越的な人格神です。創造され、維持され、そして破壊されるもの全ては、マハト・タットヴァ(物質原則)の中にあり、そしてそれこそが物質界として知られています。人格神、ナーラーヤナの存在に、このマハトゥ・タットヴァの支配は及ばず、そしてまたナーラーヤナの御名、姿、特質などにも物質界の支配が及ぶことはないのです。物質と精神とを識別する経験哲学の推論によって、あるいは修練者を宇宙内外の惑星へと到達させてくれる神秘的な力の修練によって、またあるいは宗教上の義務を遂行することによって、人は最高完成を達成することができますが、それはナーラーヤナ・スムリティ、すなわち人格神を絶えず思っている境地に到達することができればこそ、得られるものです。これはジュニャーニー、ヨーギー、カルミーが、経典で定められた義務に関して超越的活動を実践するにあたり、純粋な献身者との交際によって彼らに最後の重要な仕上げが加えられることによってのみ、可能になるのです。精神的完成を達成した歴史的な実例は数多く残されており、例えばサナカーディ・リシ、9人の名高いヨーゲーンドラたちは、献身奉仕に自らを捧げた後で初めて、完成の境地を達成しました。主の献身者は誰ひとりとしてジュニャーニーやヨーギーが行うような方法を実践し、献身奉仕の道から逸れることなどありません。誰でも自分に定められた活動において最高完成を達成したいと望んでおり、ここでは、その完成をナーラーヤナ・スムリティといい、誰もがそのために最善を尽くさなくてはならない、と示されています。言い換えれば、私たちは、人格神を毎瞬間思い出せることができるように自らの生涯を調整しなければならない、ということです。
節
prāyeṇa munayo rājan
nivṛttā vidhi-ṣedhataḥ
nairguṇya-sthā ramante sma
guṇānukathane hareḥ
nivṛttā vidhi-ṣedhataḥ
nairguṇya-sthā ramante sma
guṇānukathane hareḥ
訳語
prāyeṇa—おもに; munayaḥ—全ての聖者達; rājan—王よ; nivṛttāḥ—~を超えて; vidhi—規定原則; ṣedhataḥ—制限から; nairguṇya-sthāḥ—超越的境地にいる; ramante—~に喜びを感じる; sma—明白に; guṇa-anukathane—栄光を讃えている; hareḥ—主の。
翻訳
パリークシット王よ。主に規則や制限を超えたところにいる最も優れた超越主義者たちが、主の栄光について話すことに喜びを感じるのだ。
解説
最も優れた超越主義者は解放された魂であり、そのため規定原則の範囲を超えています。これから精神的境地に昇ろうとする初心の献身者は、規定原則に従って精神指導者に導かれる立場にいます。そのような献身者は、例えるなら、医学上のさまざまな制約に従って治療を受けている患者のようなものだと言えるでしょう。一般的に、解放された魂たちもまた、超越的な活動について描写することに喜びを感じるものです。上記のように、ナーラーヤナ、ハリ、人格神は物質創造界を超越しているため、その姿や特質は物質的ではありません。最も優れた超越主義者あるいは解放された魂は、超越的知識を学ぶことで高尚な経験をして主を悟るため、超越的な質にあふれた主の崇高な遊戯について話すことで喜びを感じます。『バガヴァッド・ギーター』(4-9)で人格神は、自身の降誕と活動はどれもディヴィヤム、つまり超越的である、と宣言なさっています。物質エネルギーに魅せられている一般の人々は、主も自分と同じだと当然のように考えているため、主の姿や御名などは全て超越的である、という教えを受け入れることができません。最も優れた超越主義者は物質的なものには一切関心がなく、主の活動に関心を寄せていますが、このことは主が物質界にいる私たちのうちのひとりではない、という事実を如実に表しています。ヴェーダ経典でも確証されているように、至高主は一人しかいませんが、無垢な献身者たちとともに超越的な遊戯を繰り広げ、同時に、バラデーヴァの拡張体である至高の魂として私たちの心臓の中にいます。ですから、超越的悟りの最高完成は、主の超越的な質について聞き、そして描写することに喜びを感じることにあり、非人格論の一元論者が求めているブラフマンの存在に没入することではありません。真の超越的喜びは超越的な主を讃えることにあり、主の非人格的な様相に没入することではありません。しかし、優れた超越主義者ではない低次元にある人々も存在しており、彼らは、主の超越的な活動を描写することに喜びを感じません。むしろ彼らは、主の存在の中に没入することを目的に、主の活動について形式的に議論しているだけにすぎません。
節
idaṁ bhāgavataṁ nāma
purāṇaṁ brahma-sammitam
adhītavān dvāparādau
pitur dvaipāyanād aham
purāṇaṁ brahma-sammitam
adhītavān dvāparādau
pitur dvaipāyanād aham
訳語
idam—この; bhāgavatam—『シュリーマド・バーガヴァタム』; nāma—その名前の; purāṇam—ヴェーダの補足書; brahma-sammitam—ヴェーダの真髄と認められて; adhītavān—研究した; dvāpara-ādau—ドヴァーパラ・ユガの終わりに; pituḥ—私の父から; dvaipāyanāt—ドヴァイパーヤナ・ヴィヤーサデーヴァ; aham—私自身。
翻訳
私はドヴァーパラ・ユガの終わりに、ヴェーダ経典の補足書である『シュリーマド・バーガヴァタム』という、あらゆるヴェーダに匹敵するこの偉大なるヴェーダ経典を、私の父シュリーラ・ドヴァイパーヤナ・ヴィヤーサデーヴァから学んだ。
解説
規則や制限を超えたところにいる最も優れた超越主義者たちは、おもに人格神について聞いて讃えることに没頭する、というシュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーの言葉が、彼自身の実体験を通して示されています。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、誰もが認める解放された魂として、そして最も優れた超越主義者として、マハーラージャ・パリークシットが迎える最後の7日間に居合わせた最良の聖者たちに受け入れられました。そして彼自身、主の超越的な活動に魅せられ、偉大なる父親であるシュリー・ドヴァイパーヤナ・ヴィヤーサデーヴァから『シュリーマド・バーガヴァタム』を学んだという自らの経験を語りました。『シュリーマド・バーガヴァタム』、あるいはその他の科学的文献もそうですが、家に居ながらにして自分の知的能力に頼って学ぶことはできません。解剖学の医学書や哲学書は書店で手に入りますが、自宅でそのような本を読むだけで資格のある医師になることはできません。医科大学に入り、博識な教授に導かれて書物を研究しなくてはならないのです。同じように、『シュリーマド・バーガヴァタム』という神に関する科学の大学院的研究は、シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァのような自己を悟った魂の蓮華の御足のもとでこそ学べるものです。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは誕生したその日から解放された魂でしたが、それでも、シュリー・ナーラダ・ムニという別の偉大な魂の教えのもとで『シュリーマド・バーガヴァタム』を編纂した、自らの偉大な父であるヴィヤーサデーヴァから教えを受けなくてはなりませんでした。主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブは、人物であるバーガヴァタから『シュリーマド・バーガヴァタム』を学ぶべきだと、ある博識なブラーフマナに教えました。『シュリーマド・バーガヴァタム』は、至高の人物の超越的な御名、姿、特質、遊戯、身の回りの物事、そして多様性について、人格神の化身であるシュリーラ・ヴィヤーサデーヴァによって語られました。主の崇高な遊戯は、主の純粋な献身者と共に繰り広げられ、この歴史的な出来事が、クリシュナに関する出来事であるからこそ、この偉大な文献で描写されているのです。この書物はブラフマ・サミタムとも呼ばれていますが、それは、『バガヴァッド・ギーター』と同じように、主クリシュナの音の化身だからです。『バガヴァッド・ギーター』は至高主によって語られたものですから、主の音の化身で、そして『シュリーマド・バーガヴァタム』は、主の活動について主の化身によって語られたものですから、主の音の化身なのです。この書物の冒頭に述べられているように、これはヴェーダという望みの木の真髄であり、ブラフマンの主題についての最も優れた哲学的学術書である『ブラフマ・スートラ』に関する適切な解説書です。ヴィヤーサデーヴァは、ドヴァーパラ・ユガの終わりにサッティヤヴァティーの息子として現れ、そのため、この節にある「ドヴァーパラ・ユガの始まり」を示すドヴァーパラ・アーダウという言葉は、カリ・ユガが始まる直前であることを示しています。シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーによると、この表現は、木の上部を「はじまり」と呼ぶ論理と比較できます。つまり、実際には木の根が木のはじまりなのですが、木の上部は最初に見える部分だという常識から、木の成長の最終部分がその木のはじまりである、と言われるのです。
節
pariniṣṭhito ’pi nairguṇya
uttama-śloka-līlayā
gṛhīta-cetā rājarṣe
ākhyānaṁ yad adhītavān
uttama-śloka-līlayā
gṛhīta-cetā rājarṣe
ākhyānaṁ yad adhītavān
訳語
pariniṣṭhitaḥ—完全に悟った; api—~にかかわらず; nairguṇye—超越性の中に; uttama—啓発された; śloka—節; līlayā—遊戯によって; gṛhīta—魅了されて; cetāḥ—注意; rājarṣe—神聖な王よ; ākhyānam—描写; yat—それ; adhītavān—私は研究した。
翻訳
神聖な王よ。確かに私は超越的な境地にいた。しかし、啓蒙的な詩節によって叙述されている主の崇高な遊戯の描写を聞き、そのとりこになったのだ。
解説
絶対真理は、哲学的な推論を通してまず非人格のブラフマンとして悟られ、さらに超越的知識を高めることで至高の魂(パラマートマー)として悟られます。しかしもし、主の恩寵を授かった非人格論者が『シュリーマド・バーガヴァタム』にある優れた説明によって啓発を受ければ、彼もまた人格神の超越的な献身者になります。貧弱な知識では絶対真理の人格性を理解することはできませんし、主の個人としての活動は、知性に欠ける非人格論者にはどうしても受け入れがたいのです。しかし、推論と議論が、絶対真理を理解する超越的方法とあいまると、強情な非人格論者でさえ、主の個人としての活動に心惹かれるのです。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような人物は、俗的な活動に惹かれることはありませんが、そのような献身者でも、優れた方法を通して納得すれば、必ず主の超越的な活動に魅了されます。主も、主の活動も超越的であり、主は決して非活動的でも非人格でもないのです。
節
tad ahaṁ te ’bhidhāsyāmi
mahā-pauruṣiko bhavān
yasya śraddadhatām āśu
syān mukunde matiḥ satī
mahā-pauruṣiko bhavān
yasya śraddadhatām āśu
syān mukunde matiḥ satī
訳語
tat—それ; aham—私; te—あなたに; abhidhāsyāmi—吟唱しよう; mahā-pauruṣikaḥ—主クリシュナの最も誠実な献身者; bhavān—貴殿; yasya—~であるものの; śraddadhatām—完全な敬意と集中を傾ける者の; āśu—まもなく; syāt—そのようになる; mukunde—解放を与える主に; matiḥ—信念; satī—揺るぎない。
翻訳
その『シュリーマド・バーガヴァタム』をあなたの前で語ろう。それはあなたが、主クリシュナの最も誠実な献身者であるからだ。『シュリーマド・バーガヴァタム』に注意深く敬意をもって耳を傾ける者は、解放を授ける至高主に対する揺るぎない信念を手に入れるのである。
解説
『シュリーマド・バーガヴァタム』は誰もが認めるヴェーダ叡智であり、そのヴェーダの知識を授かる方法、つまり真の師弟継承を通じて超越的知識を受け入れる過程をアヴァローハ・パンターと言います。物質的知識を高めるためには各個人の能力と研究能力が要求されますが、精神的知識の場合、その進歩はほとんど精神指導者の慈悲にかかっています。精神指導者は弟子に満足しなくてはならず、その条件が満たされてこそ、精神的科学を学ぶ生徒の前に真実はおのずと表されるのです。しかし、その方法が魔術を使ったような手段、つまり精神指導者が弟子に電流でも流し込むかのような魔術で教えを授ける、といったイメージで誤解されることがあってはなりません。真の精神指導者は、ヴェーダの叡智という権威に基づいて全てを弟子に説明します。弟子はその教えをただ知力によって受け取るのではなく、謙虚な問いと奉仕の態度で受け入れます。つまり精神指導者も弟子も誠実でなくてはならないのです。この場合、精神指導者であるシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、偉大な父、シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァから学んだことをそのまま説く準備ができており、また弟子のマハーラージャ・パリークシットは、主クリシュナの偉大な献身者です。献身者は、主の献身者になりさえすれば精神的なもの全てを授かる、と誠実に信じています。この教えは主自ら『バガヴァッド・ギーター』のページに刻まれ、そこには「主(シュリー・クリシュナ)が全てであり、主にのみ、全てを委ねる人は、完全に敬虔な人物になる」と明確に説明されています。主クリシュナに対するこの揺るぎない信念が、『シュリーマド・バーガヴァタム』の弟子になる心の準備を整え、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーのような献身者から『シュリーマド・バーガヴァタム』を聞く人は、マハーラージャ・パリークシットのように、最後には必ず解放の境地に到達します。『シュリーマド・バーガヴァタム』の職業吟唱家や1週間だけ聞いて信仰する偽物献身者は、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーとマハーラージャ・パリークシットとは異なります。シュリーラ・ヴィヤーサデーヴァは『シュリーマド・バーガヴァタム』をジャンマーディ・アッシャという最初の節(SB 1.1.1)から説明し、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーもまた、王に同じ節を説明しました。シュリー・チャイタニヤ・マハープラブという献身者の姿で現れた主クリシュナは、『シュリーマド・バーガヴァタム』(第11編)で、マハープルシャとして述べられています。シュリー・チャイタニヤ・マハープラブは、献身奉仕をする献身者として現れた主クリシュナご自身であり、カリ時代にいる堕落した魂たちに特別の恩寵を授けるために降誕なさいました。主クリシュナのマハープルシャの様相に捧げるにふさわしい2つの祈りがあります。
dhyeyaṁ sadā paribhava-ghnam abhīṣṭa-dohaṁ
tīrthāspadaṁ śiva-viriñci-nutaṁ śaraṇyam
bhṛtyārti-haṁ praṇata-pāla bhavābdhi-potaṁ
vande mahāpuruṣa te caraṇāravindam
tīrthāspadaṁ śiva-viriñci-nutaṁ śaraṇyam
bhṛtyārti-haṁ praṇata-pāla bhavābdhi-potaṁ
vande mahāpuruṣa te caraṇāravindam
tyaktvā sudustyaja-surepsita-rājya-lakṣmīṁ
dharmiṣṭha ārya-vacasā yad agād araṇyam
māyā-mṛgaṁ dayitayepsitam anvadhāvad
vande mahāpuruṣa te caraṇāravindam
dharmiṣṭha ārya-vacasā yad agād araṇyam
māyā-mṛgaṁ dayitayepsitam anvadhāvad
vande mahāpuruṣa te caraṇāravindam
(SB 11.5.33・4)
言い換えると、プルシャは享楽者、そしてマハープルシャは至高の享楽者、すなわち最高人格神、シュリー・クリシュナを指している、ということです。至高主シュリー・クリシュナに近づくのにふさわしい人をマハー・パウルシカといいます。真の吟唱者から注意深く『シュリーマド・バーガヴァタム』について聞く人なら誰でも、解放を授けることのできる主の誠実な献身者に確実になれます。『シュリーマド・バーガヴァタム』を一心に聞くことにおいてマハーラージャ・パリークシットを凌ぐ人物はおらず、『シュリーマド・バーガヴァタム』の節を語ることにおいてシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーをしのぐ人物はいません。ですから、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーとマハーラージャ・パリークシットという二人の理想的な吟唱者と傾聴者の足跡に従う人は、誰であっても、間違いなく彼らのように解放を手に入れます。マハーラージャ・パリークシットは聞くだけで解放を達成し、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは語るだけで解放を達成しました。話すことと聞くことは、9つある献身奉仕のうちの2つの過程であり、それら全て、あるいは幾つかだけでも、この原則に熱心に従えば、絶対的な境地を達成することができます。ですから、『シュリーマド・バーガヴァタム』のジャンマーディ・アッシャという最初の節から最後の第12編の最後の節に至るまでの全文が、マハーラージャ・パリークシットの解放が達成されるよう、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーによって語られたのです。『パドマ・プラーナ』では、ガウタマ・ムニがマハーラージャ・アンバリーシャに対し、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーが語ったのと同じく定期的に『シュリーマド・バーガヴァタム』を聞くよう助言したと描写されています。マハーラージャ・アンバリーシャは、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーによって語られた通りに『シュリーマド・バーガヴァタム』を最初から最後まで聞いた、とここで確証されています。ですから、『シュリーマド・バーガヴァタム』に本当に関心を抱いている人は、あちこちから部分的に読んだり聞いたりするといった不適切な態度をとるべきではありません。マハーラージャ・アンバリーシャやマハーラージャ・パリークシットのような偉大な王たちの足跡に従い、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーの真正な代表者から聞かなくてはなりません。
節
etan nirvidyamānānām
icchatām akuto-bhayam
yogināṁ nṛpa nirṇītaṁ
harer nāmānukīrtanam
icchatām akuto-bhayam
yogināṁ nṛpa nirṇītaṁ
harer nāmānukīrtanam
訳語
etat—それは~である; nirvidyamānānām—物質的望みから完全に自由である者達の; icchatām—あらゆる物質的楽しみを望んでいる者達の; akutaḥ-bhayam—疑いと恐れの一切ない; yoginām—みずから満足している者達の; nṛpa—王よ; nirṇītam—決定された真理; hareḥ—主、シュリー・クリシュナの; nāma—聖なる御名; anu—誰かに従い、いつも; kīrtanam—唱えている。
翻訳
王よ。偉大な権威者たちが説く方法に従って主の聖なる御名を常に唱えることは、物質的な望みから自由な者、物質的な楽しみの全てを望む者、そして超越的な知識によって自ら満足している者を含む全ての者たちにとって、成功を手に入れるための疑いも恐れもない方法である。
解説
前の節では、ムクンダに執着する必要性が認められています。様々な分野で、様々な人が成功を求めています。しかし、そのほとんどが物質的な満足を最大限に楽しもうとする物質主義者です。物質主義者の次に、超越主義者がいます。彼らは、物質的な楽しみについての完璧な知識を備えているため、幻想にすぎない物質的な生活には関わりません。彼らは自己を悟ることで満たされている人たちばかりです。さらに高い境地には主の献身者がおり、物質界を楽しもうという思いも、そこから抜け出そうというも思いもありません。主シュリー・クリシュナを満足させることだけを望んでいます。言い換えると、主の献身者は自分の利益を全く望まない、ということです。主の望みであれば、物質的な便宜は全て受け入れ、そうでなければそのような便宜は全て、解放の境地さえも、捨てることができます。また、主の満足だけを望んでいるため、自分を満足させようとは思ってはいません。この節でシュリー・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、主の聖なる御名の超越的唱名を勧めています。聖なる御名を冒涜することなく唱えたり聞いたりする人は、主の超越的な姿、主の特質、そして主の崇高な遊戯などに精通するようになります。そしてこの節では、主の聖なる御名について権威者から聞いたあと、その御名をいつも唱えるべきである、とも述べられています。これは、権威者から聞くことが何よりも大切だということです。聖なる御名を聞く人は、主の姿、特質、遊戯などについて聞く境地に徐々に高められ、こうして主の栄光を唱える必要性が継続して高められていきます。この過程は、献身奉仕を上手く実践するためだけではなく、物質的なことに執着している人たちにも勧められています。シュリー・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーによると、これが成功を達成するための方法であることは、確固とした事実であり、そのことは彼だけではなく、先代のアーチャーリャたちも断言していることです。ですから、これ以上証拠を挙げる必要はありません。この方法は、様々な思想的分野で成功を求める学徒にだけでなく、果報的活動者、哲学者、主の献身者としてすでに成功を収めた人たちにも勧められています。
シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーによると、主の聖なる御名の唱名は大声でなされるべきであり、また『パドマ・プラーナ』で勧められているように御名に対する冒涜を犯すことなくなされなくてはなりません。主に何もかもを委ねることで、全ての罪の結果から自分を救うことができます。そして主の聖なる御名に身を委ねることで、主の御足に対する冒涜からも自分を救うことができます。しかし、主の聖なる御名の御足を冒涜してしまえば、自分を守ることはできません。主の御名への冒涜には10種類あることが『パドゥマ・プラーナ』で述べられています。
最初の冒涜は、主の栄光を世に広めている偉大な献身者を中傷することです。
2番目の冒涜は、主の聖なる御名を俗的な特質に基づいて判断することです。主は全宇宙の所有者であるため、様々な場所で異なった御名で呼ばれていますが、それぞれの御名における主の完全性まで異なるわけではありません。至高主を指す特定の言葉はどれも主のためにあるもので、どの御名も神聖な気質を備えています。聖なる御名には主と同じ力があり、この創造界のどの場所のどの人たちでも、妨げられることなく、その土地の理解に基づいて主の特定の御名を唱え、讃えることができます。どの御名も吉兆であり、どの御名が精神的で、その御名が物質的である、などと区別してはなりません。
3番目の冒涜は、権威あるアーチャーリャや精神指導者の命令を無視することです。
4番目の冒涜は、経典やヴェーダ知識を非難することです。
5番目は、自分の俗な判断で主の聖なる御名を定義づけてしまうことです。主の聖なる御名は主と全く同じですから、その聖なる御名と主は異なるものではない、と理解しなくてはなりません。
6番目の冒涜は、聖なる御名を自分勝手に解釈することです。主も、そして主の聖なる御名も想像上のものではありません。主は崇拝者たちが想像したものであり、だからその御名も想像上のものである、と考える貧弱な知識を持つ者がいます。主の御名をそのような気持ちで唱えても、その唱名で望むべき成功を達成することはできません。
7番目の冒涜は、聖なる御名の力に頼って意図的に罪を犯すことにあります。経典には、主の聖なる御名を唱えるだけで全ての罪の反動から解放される、と述べられています。この超越的な方法を利用し、聖なる御名を唱えれば罪の結果が全て中和されることを期待して罪を犯し続ける者は、聖なる御名の御足に対する最悪の冒涜者です。このような冒涜者は、浄化のために勧められているどんな方法を全て実行しても、自分を純粋にすることはできません。つまり、主の聖なる御名を唱える以前は罪な人間であったとしても、聖なる御名に身を委ねて罪から解放された後では、聖なる御名の唱名が自分を守ってくれることを期待して罪を犯さないよう、自らを厳しく戒めなければならない、ということです。
8番目の冒涜は、主の聖なる御名、そしてその名を唱える方法は、物質的で吉兆な活動と同等のものだ、と考えることにあります。物質的な恩恵を得るための数々の優れた活動がありますが、聖なる御名とその唱名は、単なる吉兆で神聖な奉仕ではありません。確かに、聖なる御名は聖なる奉仕なのですが、俗的な目的のために利用するべきではありません。主の聖なる御名と主は全く同じであるため、聖なる御名を人類への奉仕のために利用しようとしてはいけないのです。大切なことは、至高主は至高の享楽者だという点にあります。主は、誰かの召使いでもなければ、誰かに何かを供給する立場にもありません。同様に、聖なる御名は主と同じであるため、聖なる御名を自分個人への奉仕に利用してはなりません。
9番目の冒涜は、主の聖なる御名を唱えることに関心のない相手に、聖なる御名の超越的な質について説くことにあります。聞きたいとも思っていない相手にそのような教えを説くと、その行為は聖なる御名の御足に対する冒涜であると考えられます。
10番目の冒涜は、聖なる御名の超越的な質について聞いたあとでも、興味を持てないことにあります。唱名する者は、聖なる御名の唱名の効果を、偽の利己心から解放として認識します。偽の利己心は、自分が世界を楽しむ、世界にあるもの全ては自分の楽しみのためだけにある、と考えることに表れます。物質主義的な社会全体は、そのような「私」や「私のもの」という偽の利己心に従って動いていますが、聖なる御名の唱名の真の結果は、そのような間違った考え方から解放されることにあります。
節
kiṁ pramattasya bahubhiḥ
parokṣair hāyanair iha
varaṁ muhūrtaṁ viditaṁ
ghaṭate śreyase yataḥ
parokṣair hāyanair iha
varaṁ muhūrtaṁ viditaṁ
ghaṭate śreyase yataḥ
訳語
kim—何か; pramattasya—困惑した者の; bahubhiḥ—多く; parokṣaiḥ—未経験; hāyanaiḥ—年月; iha—この世界で; varam—より良い; muhūrtam—一瞬; viditam—意識する; ghaṭate—~を試みることができる; śreyase—最高の関心に関連して; yataḥ—それによって。
翻訳
無駄に過ごし、何の経験も積まずに長生きする、そのような生き方にどれほどの価値があるだろうか。ほんの一瞬であっても完璧な意識で過ごすほうがましではないか。そのほうが、自分にとって至高の関心を探求する始まりになるのだから。
解説
シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、全ての進歩的な人たちが主の聖なる御名を唱えることの重要性について、マハーラージャ・パリークシットに教えました。7日間の余命に直面した王を勇気づけるため、シュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーが強調したのは、人生の問題に関する知識もなく何百年間生きても無益であり、それより至高の関心を達成するために完全な意識で一瞬を生きるほうがましである、という教えです。生涯で求めるべき至高の関心は、永遠で、知識と喜びに満ちています。物質界の外界の様相に惑わされ、「食べて、飲んで、楽しむ」という動物じみた傾向の中で暮らしている人々は、目に見えない間に過ぎ去る時の流れのなかで貴重な歳月を無駄にしています。人間生活は精神的成功を達成するために束縛された魂のために用意されたものであり、この最終目標を手に入れる最も簡単な方法は、主の聖なる御名を唱名することであると、完璧な意識で理解すべきです。この点については、前節である程度説明しましたが、聖なる御名の御足に対する様々な冒涜についてさらに理解を深めたいと思います。シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミー・プラブは、数多くの権威ある経典から節を引用し、聖なる御名の御足に対する冒涜に関して巧みに解説しています。『ヴィシュヌ・ヤーマラ・タントラ』を引用して、シュリーラ・ジーヴァ・ゴースヴァーミーは、主の聖なる御名を唱えるだけで全ての罪の影響から解放されることを証明しています。そして『マールカンデーヤ・プラーナ』の言葉を引用し、シュリーゴスヴァーミージーはこう言っています。シュリー・ゴスヴァーミージーは、『マールカンデーヤ・プラーナ』を引用して、主の献身者を冒涜することも、献身者を誹謗する者たちに耳を貸すことも許されないことであるとしています。さらに献身者は、その誹謗する者の舌を切り落とすことで、それ以上の誹謗をさせないようにするべきだとして、それができなければ、主の献身者に対する誹謗を聞くよりは自殺したほうがましだ、と言っています。結論として、献身者に対する誹謗を聞いてはならず、またそれを許してはいけないということです。主の聖なる御名と神々たちの名前を区別することについては、啓示経典(BG.10-41)によって、桁外れの力を持つ生命体ですら主クリシュナという至上のエネルギー源の部分体でしかない、と明言されています。主を除き、誰もが主に従属し、誰も主から独立した存在ではありません。至高主のエネルギーよりも力が強く、あるいは等しい者はいないため、主の御名ほどの力を持つ名前の者もいません。主の聖なる御名を唱えることで、万物の源と一致したエネルギーを手に入れることができます。ですから、主の至高かつ聖なる御名をほかの名前と同じものと考えてはなりません。ブラフマー、シヴァなど、力を持つ他の神々でも、至高主ヴィシュヌと等しくなることは決してありません。主の威力ある聖なる御名は確かに私たちの罪の反動を取り除いてくれますが、聖なる御名という超越的な力を自分の邪悪な活動に使う者は、世界で最も堕落した人間だと言えるでしょう。そのような人間を主も、そして主のどの代表者たちも許すことはありません。ですから私たちは自分の生涯を、冒涜することなく主の栄光を称賛することに活用しなくてはなりません。そのような活動は、例え一瞬であっても、無知のなかで長生きする人生とは比較にならないものです。無知のなかで生きる生涯は、精神的な高まりを求めることなく何千年もの月日を生きる木の生涯と同じようなものです。
節
khaṭvāṅgo nāma rājarṣir
jñātveyattām ihāyuṣaḥ
muhūrtāt sarvam utsṛjya
gatavān abhayaṁ harim
jñātveyattām ihāyuṣaḥ
muhūrtāt sarvam utsṛjya
gatavān abhayaṁ harim
訳語
khaṭvāṅgaḥ—カトヴァーンガ王; nāma—名前; rāja-ṛṣiḥ—神聖な王; jñātvā—知識によって; iyattām—寿命; iha—この世界で; āyuṣaḥ—人生の; muhūrtāt—ほんの一瞬で; sarvam—全て; utsṛjya—捨てている; gatavān—経験した; abhayam—完全に安全な; harim—人格神。
翻訳
神聖な王であったカトヴァーンガは、自分の一生があと一瞬しかないことを告げられ、すぐさま物質的活動を捨て、至上の保護所である人格神に身を委ねた。
解説
責任感を十分に持ち合わせている人は、人としての生涯が担う主要な義務を常に意識していなくてはなりません。物質生活の必要性を満たす活動が全てではないのです。来世で最善の境地に到達できる義務を注意深く実践できるように心掛けるべきです。人間生活は、主要な義務を果たせるよう、自らを準備するためにあります。この節では、マハーラージャ・カトヴァーンガが神聖な王として表現されていますが、それは、彼が国を統治するという責任ある立場にありながら、人生の主要な義務を忘れなかったからです。マハーラージャ・ユディシュティラやマハーラージャ・パリークシットのようなラージャルシ(神聖な王)たちにも同じことが言えます。彼らは、自分の主要な義務を果たすことに万全の注意を払ったがゆえに、模範となる人物たちです。マハーラージャ・カトヴァーンガは神々に、悪魔たちと戦うため天界に招かれ、王として、神々に満足してもらおうと精一杯戦いました。神々は王に心から満足し、物質的な快楽を得ることができるという恩恵を彼に授けようとしましたが、カトヴァーンガ王は自らが果たすべき主要な義務について細心の注意を払っていたので、自分に寿命がどれだけ残されているのかと神々に尋ねました。このことからわかるのは、彼は来世のために自らを準備することに関心があったために、神々から物質的な恩恵をもらうことについてはさほど関心がなかったということです。しかし彼は余命が一瞬であることを知らされます。これを聞いた王は、物質的楽しみの頂点を満喫できる天界をすぐに離れて地球に戻り、完全に安全な保護所である人格神に、究極の庇護を求めました。そしてそのすばらしい試みを完成させ、解放されました。神聖な王によるこの試みが一瞬の時間のなかで達成された理由は、王が主要な義務を決して忘れなかったからです。このように、マハーラージャ・パリークシットは、シュリーマド・バーガヴァタムという形で主の栄光を聞く主要な義務をたった7日間で遂行しなくてはなりませんでしたが、偉大なシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーからこのように励まされました。主のご意思により、マハーラージャ・パリークシットは、時を移さず偉大なシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーと出会い、そして彼によって遺された、精神の成功についての貴重な財産が、素晴らしい形でシュリーマド・バーガヴァタムに収められているのです。
節
tavāpy etarhi kauravya
saptāhaṁ jīvitāvadhiḥ
upakalpaya tat sarvaṁ
tāvad yat sāmparāyikam
saptāhaṁ jīvitāvadhiḥ
upakalpaya tat sarvaṁ
tāvad yat sāmparāyikam
訳語
tava—あなたの; api—もまた; etarhi—ゆえに; kauravya—クルの家系に生まれた者よ; saptāham—7日間; jīvita—寿命; avadhiḥ—~の制限まで; upakalpaya—それらを執行させる; tat—それら; sarvam—全て; tāvat—長い間; yat—~であるものは; sāmparāyikam—来世のための儀式。
翻訳
マハーラージャ・パリークシットよ。あなたの寿命はあと7日間を残すところとなった。したがってその間に、最良の来世を得るための必要な儀式の全てを執行することができる。
解説
シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、非常にわずかの間に来世の準備をしたマハーラージャ・カトヴァーンガの例について話したあと、これから自由に使える7日間があるのだから、その時間を来世を迎える準備のために有益に使うことは容易いことだ、とマハーラージャ・パリークシットを励ましました。間接的にゴースヴァーミーはマハーラージャ・パリークシットに、残された生涯の7日間に主の音の権化に身を委ね、そして解放されるように、と言っているのです。つまり、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーがマハーラージャ・パリークシットに話して聞かせたのと同じように『シュリーマド・バーガヴァタム』をただ聞くだけで、誰もが来世のために最善の準備ができる、ということです。儀式は形式的なものではありませんが、それでも遂行するにあたって望ましい条件があり、それらがこれから語られます。
節
anta-kāle tu puruṣa
āgate gata-sādhvasaḥ
chindyād asaṅga-śastreṇa
spṛhāṁ dehe ’nu ye ca tam
āgate gata-sādhvasaḥ
chindyād asaṅga-śastreṇa
spṛhāṁ dehe ’nu ye ca tam
訳語
anta-kāle—生涯最期にあたって; tu—しかし; puruṣaḥ—人物; āgate—到着して; gata-sādhvasaḥ—死に対する恐れがまったくない; chindyāt—切り落とさなくてはならない; asaṅga—無執着; śastreṇa—~と言う武器によって; spṛhām—全ての望み; dehe—物質的礼拝堂に関連して; anu—~に関連して; ye—それら全て; ca—もまた; tam—それら。
翻訳
人生の最終段階では、死を恐れぬほど勇敢でなければならない。しかし同時に、肉体と肉体に関する全てのものへの執着と、それにまつわる願望に対する、あらゆる執着を断ち切らなくてはならない。
解説
粗雑な物質主義の愚かさとは、貴重な人間のエネルギーによって作られたものは何もかも放棄しなくてはならないことは明らかであるにもかかわらず、この世界で永遠に住み続けられる、と誰もが考えることにあります。愚かな大政治家、科学者、哲学者たちは、精神魂については何も知らず、数年しかない人生を全てだと思い込み、死んだあとには何も残らない、と考えています。このような貧弱な知識は、世界中のいわゆる博識な人々のなかにでさえ見られ、それが人間の生気を滅ぼし、その恐ろしい結果はすでに強く感じることができます。それでも、愚かな物質主義者たちは来世で何が起こるのか考えようともしません。バガヴァッド・ギーターでは、生命体の個別性は、外側の衣服でしかない体が死に絶えてもなくならないと知るべき、ということを前提として教えています。服が古くなれば新しいものに取り換えるように、個々の生命体も体を換え、その交換が死と呼ばれるのです。ですから、死は今の寿命が尽きるときに起こる肉体の変化の過程、と言えます。賢明な人は、死に対する心構えを持ち、来世で最良の肉体を得ようと試みなければなりません。最良の体は精神的な体であり、それは神の国に戻ることのできる人、あるいはブラフマンの境地に入ることのできる人が手に入れるものです。この編の第2章で、この主題がさらに深く論じられますが、体の変化に関しては、今すぐに来世の準備をしなくてはなりません。愚かな人たちは、現世の一時的な生活のことしか頭になく、愚かな指導者も肉体や肉体に関係することだけを解決させようとしています。肉体に関わること、といってもそれは肉体だけのことではなく、家族、妻、子ども、社会、国など、その他多くの物事も含まれ、その全てが命の終わりとともになくなります。死んだあと、肉体に関わることは全て忘れます。これは私たちが夜眠っているときにわずかに体験しています。眠っている間は、数時間ではあっても、肉体のこと、肉体に関係することは全て忘れています。死とは、次の体という束縛期間に入る前の数ヶ月間の睡眠だと言えます。どのような束縛かは、各自の望みに応じて自然界の法則によって決められます。ですから、今の肉体があるうちに望みを変えるべきであり、だからこそ生きているうちに訓練を受けなくてはなりません。その修練はいつでも、死ぬ数秒前でも始められますが、一般的には人生の初期から訓練を受け、ブラフマチャリャ、そしてグリハスタ、ヴァーナプラスタ、サンニャーサと徐々に進歩していきます。その修練を可能にする制度がヴァルナーシュラマ・ダルマ、またはサナータナ・ダルマという人間生活を完璧にするための最善の方法です。ですから、家族、社会、政治中心の生活は、50歳になったら、あるいはそれ以前に捨てなくてはなりません。それができれば、次のヴァーナプラスタとサンニャーサ・アーシュラマで来世の準備のための修練が始まります。一般的に、大衆の指導者という服をまとった愚かな物質主義者は、家族との関係を断とうとすることなく、家族にまつわることに執着し、それがゆえに、彼らは自然界の法則の犠牲となり、自分たちの活動に応じた粗雑な肉体を再び得ることになるのです。彼らは、人生の終わりに大衆から尊敬を受けるかもしれませんが、だからといって、手足をきつく縛り付ける自然界の法則からは誰も逃げられません。ですから、自ら進んで家族や社会、国、またはそれらにまつわるものへの執着を主への献身奉仕に移行させることが最善策なのです。この節では、家族への執着という望みを全て捨てることが勧められています。優れた望みを得る機会をつかむべきであり、それができなければ、病的な望みを捨てる機会はやってきません。望みは生命体に本来備わっているものです。生命体は永遠ですから、生命体が本来持つ望みもまた、永遠です。人が望みを持たない、というのは不可能です。しかし、望む対象を変えることはできます。ですから、ふるさとに、神のもとに帰ろうとする望みを高めなくてはなりませんし、そうすれば物質的な利益、物質的な名声、物質的な人望などを得ようとする思いは、献身奉仕が高まるにつれ、なくなっていきます。生命体の本質は奉仕であり、生命体が抱く望みはその奉仕活動に向けられています。政府の最高幹部から路傍の貧者まで、誰かに何かに奉仕をしています。その奉仕の精神は、奉仕を望む対象を物質的なものから精神的なもの、すなわち悪魔から神に移すことで完成するのです。
節
gṛhāt pravrajito dhīraḥ
puṇya-tīrtha-jalāplutaḥ
śucau vivikta āsīno
vidhivat kalpitāsane
puṇya-tīrtha-jalāplutaḥ
śucau vivikta āsīno
vidhivat kalpitāsane
訳語
gṛhāt—自宅から; pravrajitaḥ—出ていって; dhīraḥ—自己制御; puṇya—敬虔な; tīrtha—神聖な場所; jala-āplutaḥ—充分に洗って; śucau—清められて; vivikte—人里離れた; āsīnaḥ—座って; vidhivat—規則に従っている; kalpita—~をして; āsane—座る場所に。
翻訳
家を離れ、自己を抑制する修行に励まなくてはならない。神聖な場所で定期的に沐浴し、正しく浄められた、誰もいない場所に座るのである。
解説
よりよい来世を得るために、私たちは、世間で言われる我が家というものから出ていかなくてはなりません。ヴァルナーシュラマ・ダルマ、すなわちサナータナ・ダルマのシステムは、50歳を過ぎたら、できるだけ早く家族とのつながりから離れることを定めています。現代文化は快適な家庭生活、最高基準の生活環境が基盤にあり、仕事を離れた人たちは、美しい女性や子どもに囲まれて、家具がそろった家で快適に余生を過ごすつもりでおり、快適な家庭を放棄することなど全く望んでいません。政府の高級官僚や大臣は死ぬまで名誉ある地位にしがみつき、家庭の快適さを放棄することなど夢にも思っていないのです。そのような妄想に取りつかれた物質主義者たちは、さらに快適な生活を求めて様々な計画を立てますが、残酷な死は突然に容赦なく訪れ、彼の望みとは裏腹に、この壮大な計画者は連れ去られ、今の体を奪われて他の体へと移ることを余儀なくされます。ですから、このような計画者は、過去の活動に応じた結果にもとづいて840万種類の体の一つを受け入れることを余儀なくされるのです。家庭の快適さにあまりにも執着している人々は、罪深い生活を長く続けているために、普通は来世で下等な生物に生まれるのであり、こうして人間生活のエネルギーが無駄に使われることになります。人間生活を無駄にする危険を冒さないためにも、50歳、あるいはその歳になる前に、死の警告を受け入れなくてはなりません。50歳に達する前から死の警告はすでにあるのであって、だからこそ人生のどの段階にいようとも、より良い来世のために準備をすべきだということを理解しておくことが大切なのです。サナータナ・ダルマ制度に従う人々は、人としての生活を無駄にしないよう、より良い来世のために訓練を受けます。世界中にある聖地は、より良い来世を求めて準備しようと仕事を離れた人々が、居住するための場所です。知性ある人々は、人生最期の時、さらに言えば、50歳を超えれば聖地に行くべきであり、物質生活の足かせである家族への執着から解放されるために、精神的に生まれ変わって生活しなくてはなりません。物質的な執着を断ち切るためだけに家庭を放棄することが勧められています。なぜなら死ぬまで家庭生活にしがみついている人は物質的な執着を断ち切ることができず、物質に執着していれば精神的自由の意味も理解できないからです。しかしたとえ合法、あるいは違法な方法によって家を出て聖地に別の家を構えたとしても、それだけで自己満足するべきではありません。出家して聖地に行く人は多くいますが、望ましくないつきあいのために、異性との不義な関係に陥って、再び家庭を持つこともあります。物質の幻想エネルギーは非常に強く、幸せな家庭を捨てた人でも、再びそのような幻想に惑わされてしまうことがよくあります。ですから、性的な望みを一切持たずに独身生活をし、自己抑制を修練しなくてはなりません。自分の存在を改善したい人にとって、性欲の追求は自殺行為、あるいはそれよりも忌まわしい行為とされています。ですから、家庭生活を捨てるということは、全ての感覚の望み、特に性的な望みを抑える人間になる、ということでもあります。その方法は、藁、鹿皮、敷物を重ね、正しく浄められた場所に座り、前述の通り冒涜することなく主の聖なる御名を唱えることです。心を物質的な物事から逸らせて、主の蓮華の御足に集中させること、この簡単な方法が私たちを助け、精神的な成功という最高段階にまで導いてくれるのです。
節
abhyasen manasā śuddhaṁ
trivṛd-brahmākṣaraṁ param
mano yacchej jita-śvāso
brahma-bījam avismaran
trivṛd-brahmākṣaraṁ param
mano yacchej jita-śvāso
brahma-bījam avismaran
訳語
abhyaset—修練しなくてはならない; manasā—心によって; śuddham—神聖な; tri-vṛt—3つで構成されて; brahma-akṣaram—超越的な文字; param—至高者; manaḥ—心; yacchet—支配下に置く; jita-śvāsaḥ—呼吸の空気を制御することで; brahma—絶対的な; bījam—種; avismaran—忘れ去られることなく。
翻訳
このように座ったあと、心を3つの超越的な文字(a-u-m)に集中させ、呼吸を整えながら、この超越的な種を忘れないよう心を制御せよ。
解説
オームカーラ、あるいはプラナヴァは、超越的な悟りの種であり、3つの超越的な音、a-u-m(ア−ウ−ム)で構成されています。これは人を法悦状態に導く超越的かつ機械的な唱名法であり、偉大な神秘家たちの経験に基づき考案された呼吸法と合わせてこの音を心で唱えることで、物質的な考えに没頭している心を抑制することができます。これが、心の習慣を変える方法です。心を殺してしまうわけではありません。心や望みは止めることはできませんが、精神的悟りのために活動したいという望みを強めることはできます。また、心を使う対象の質を変えなくてはなりません。心は活動する感覚器官の中心になっていますから、考えること、感じること、望むことの質が変われば、自然に、道具である感覚による活動の質も変わります。オームカーラは全ての超越的な音の種であり、心と感覚に望ましい変化をもたらすことができるのは、超越的な音だけです。心理的に異常な人でさえ、超越的な音によって治療することができます。『バガヴァッド・ギーター』では、プラナヴァ(オームカーラ)が最高絶対真理者の直接の、そして文字の表れとして認められています。すでに勧められている方法で主の聖なる御名をそのまま唱えられない人は、簡単にプラナヴァ(オームカーラ)を唱えることができます。オームカーラは、神に向かって呼びかける言葉、例えば「我が主よ」という意味で、オーム・ハリ・オームが「主よ、最高人格神よ」という意味であるのと同じです。先に説明したように、主の聖なる御名と主自身は同一ですし、オームカーラにもまた同じことが言えます。しかし、不完全な感覚のために主の超越的な個人としてのお姿や御名が理解できない人(つまり、初心者)は、呼吸を制御し、同時に心のなかでプラナヴァ(オームカーラ)を繰り返し唱えるという機械的な方法で、悟りの修練を積むことができます。これまで何度も説明しましたが、人格神の超越的な御名、姿、特質、遊戯などは物質的な感覚では絶対に理解できないため、感覚の活動の中心である心を通して、そのような超越的な悟りを始めなくてはなりません。献身者は直接、心を絶対真理の人格に集中させます。しかし、絶対者の個人としての様相を受け入れることのできない人は、心をさらに高い境地に導くために、非人格の様相において自制心を育むのです。
節
niyacched viṣayebhyo ’kṣān
manasā buddhi-sārathiḥ
manaḥ karmabhir ākṣiptaṁ
śubhārthe dhārayed dhiyā
manasā buddhi-sārathiḥ
manaḥ karmabhir ākṣiptaṁ
śubhārthe dhārayed dhiyā
訳語
niyacchet—引き込める; viṣayebhyaḥ—感覚的従事から; akṣān—感覚; manasā—心の力で; buddhi—知性; sārathiḥ—操縦者; manaḥ—心; karmabhiḥ—果報的活動によって; ākṣiptam—~に没頭して; śubha-arthe—主のために; dhārayet—耐える; dhiyā—完全な意識の中で。
翻訳
心が徐々に精神的に高められていくにつれ、心を感覚の活動から引き離しなさい。そうすれば知性によって感覚は抑制できるようになる。物質的な活動に強く没頭していた心も、人格神への奉仕に使うことができるようになり、完全な超越的意識に心は定まるであろう。
解説
プラナヴァ(オームカーラ)を機械的に唱え、心を精神的に高めて呼吸を制御する最初の方法は、専門的にはプラーナーヤーマ、つまり神秘的方法、あるいはヨーガの方法と呼ばれています。このプラーナーヤーマの最終段階は、法悦境、専門的にサマーディと呼ばれる境地に到達することにあります。しかしこれまで、サマーディの境地に至った聖者でさえ、物質的なことに没頭した心を抑えられなかった事例があります。例えば、偉大な神秘家、ヴィシュヴァーミトゥラ・ムニはサマーディの境地にあったにもかかわらず、感覚の犠牲になり、メーナカーと結ばれました。これは歴史に記録されている事実です。今、心が感覚的な事について考えるのを止めていたとしても、潜在意識の状態で過去の感覚的活動を覚えており、それが自己の悟りに完全に専念しようとする修練者を乱します。ですから、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは次の方法、すなわち、心を人格神への奉仕に固定させる方法を勧めています。主シュリー・クリシュナ、人格神は『バガヴァッド・ギーター』(6-47)でもこの直接的な方法を勧めています。こうして心が精神的に洗い清められたあと、私たちは聞く、唱えるというさまざまな献身奉仕の活動を通して、主への超越的な愛情奉仕に励まなくてはなりません。これは、適切な導きの下で実践すれば、乱された心を持つ者でさえも、心を高められる最も確かな方法なのです。
節
tatraikāvayavaṁ dhyāyed
avyucchinnena cetasā
mano nirviṣayaṁ yuktvā
tataḥ kiñcana na smaret
padaṁ tat paramaṁ viṣṇor
mano yatra prasīdati
avyucchinnena cetasā
mano nirviṣayaṁ yuktvā
tataḥ kiñcana na smaret
padaṁ tat paramaṁ viṣṇor
mano yatra prasīdati
訳語
tatra—その後; eka—1つずつ; avayavam—体の手足; dhyāyet—~に集中させるべきである; avyucchinnena—完全な姿から逸らせることなく; cetasā—心によって; manaḥ—心; nirviṣayam—感覚の対象物に穢されることなく; yuktvā—適応されて; tataḥ—その後; kiñcana—なんでも; na—~しない; smaret—~のことを考える; padam—人物; tat—その; paramam—至高者; viṣṇoḥ—ヴィシュヌの; manaḥ—心; yatra—~すると; prasīdati—調和する。
翻訳
そのあと、体全体という実像から心を逸らせることなく、ヴィシュヌの手足を順に瞑想しなくてはならない。こうして、心は全ての感覚の対象物から解放される。それ以外に何も考えるべきではない。最高人格神、ヴィシュヌは究極の真理だからこそ、主のなかにのみ、心は完全な調和を見出すであろう。
解説
愚かな人々はヴィシュヌの外的エネルギーに惑わされているため、幸福をめざして歩み続ける探求の究極目標は人格神、主ヴィシュヌとの絆の確立にあることを知りません。ヴィシュヌ・タットヴァは、人格神のさまざまな超越的姿の無限の拡張体であり、そのヴィシュヌ・タットヴァの至高かつ根源の姿はゴーヴィンダ、主クリシュナ、すなわち全ての原因の究極原因です。ですから、ヴィシュヌのことを考えること、あるいはヴィシュヌ、特に主クリシュナの超越的なお姿を瞑想することは、瞑想の最終目標です。この瞑想は、主の蓮華の御足から始めることが勧められています。しかし、主の体全体のことを忘れたり、それについて誤解をしてはいけません。主の超越的なお体の各部分を考える練習をすべきです。この節では、至高主は非人格ではない、と断言されています。主は人物ですが、しかし、そのお体は私たちのような束縛された人々の体とは異なります。そうでなければ、シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは、プラナヴァ(オームカーラ)から始まり、ヴィシュヌ個人の手足に至る瞑想を、完全な精神的完成を到達する手段として勧めなかったはずです。ですから、貧弱な知識しか持ち合わせていない人々が誤って解釈する偶像崇拝のために、インドの数多くの大寺院にヴィシュヌの神像が存在するのではありません。むしろ、ヴィシュヌの超越的な手足を瞑想するための精神的場所なのです。ヴィシュヌ寺院にある崇拝を目的とした神像は、人智を超える主の力ゆえに、主ヴィシュヌご自身と全く同一なのです。ですから、寺院にあるヴィシュヌの御手足に初心者が心を集中させる、あるいは瞑想するという啓示経典に書かれているこの方法は、動じることなく一所に座ってプラナヴァ(オームカーラ)に心を集中させるということができない、あるいはシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーという偉大な権威者がここで勧めているような、ヴィシュヌの御手足に心を集中することのできない人たちにとって、簡単に瞑想できる機会となるのです。一般人にとっては、寺院でヴィシュヌの姿を瞑想するのは、先に説明された、a-u-m(ア・ウ・ム)で構成された精神的結合であるオームカーラを唱えるよりも、もっと恩恵があります。オームカーラとヴィシュヌのお姿に変わりはありませんが、絶対真理の科学をよく知らない人々は、ヴィシュヌのお姿とオームカーラのそれとを別々のものと見ることで相違の要素を作り出そうとしています。この節では、ヴィシュヌのお姿こそ瞑想の究極目標であり、だからこそ、姿も形もないオームカーラを唱えるよりもヴィシュヌのお姿を瞑想するほうが優れている、と言われています。修練者にとって、前者は後者よりも難しいと言えるのです。
節
rajas-tamobhyām ākṣiptaṁ
vimūḍhaṁ mana ātmanaḥ
yacched dhāraṇayā dhīro
hanti yā tat-kṛtaṁ malam
vimūḍhaṁ mana ātmanaḥ
yacched dhāraṇayā dhīro
hanti yā tat-kṛtaṁ malam
訳語
rajaḥ—物質自然界の激情の様式; tamobhyām—そして物質界の無知の様式によって; ākṣiptam—刺激されて; vimūḍham—混乱させられて; manaḥ—心; ātmanaḥ—自分自身の; yacchet—それを矯正させる; dhāraṇayā—(ヴィシュヌの)考えによって; dhīraḥ—宥められた者; hanti—破壊する; yā—それら全て; tat-kṛtam—それらによって為されて; malam—汚い物事。
翻訳
人の心は、物質自然界の激情の様式に絶えず刺激され、無知の様式のために混乱している。しかし、ヴィシュヌとの絆を築くことでそのような傾向を正すことができ、これらの様式が作り出した汚れを清めれば、心を落ち着かせることができる。
解説
激情と無知の様式によって動かされている人は、神を悟る超越的な境地に到達できる真の候補者にはなれません。徳の様式にいる人だけが、至高の真理の知識を得ることができます。激情と無知の様式の影響は、富と女性に対する強い欲望となって現れます。そして富と女性を求め過ぎる人々は、主ヴィシュヌの非人格的な力の様相を思い続けることでその傾向を正すことができます。一般的に非人格論者や一元論者は激情と無知の様式に惑わされています。非人格論者は自分を解放された魂だと思っていますが、絶対真理の超越的な人物としての様相を知りません。実際に絶対者の人物の様相を知らないため、彼らの心は不純です。バガヴァッド・ギーターでは、非人格論を掲げる哲学者は、何百回もの誕生を経たあとに、人格神に身を委ねるようになると言われています。初心の非人格論者が神の人物としての様相を悟ることができるように、全てが主と関係していることを汎神論の哲学を通して悟る機会が与えられています。
汎神論のなかでもより高い段階では、絶対真理の姿のない様相を認めていませんが、絶対真理の概念を、いわゆる物質エネルギーという分野まで拡大させています。物質エネルギーによって作られた万物は、生命体の本質である奉仕の態度を通して絶対者と合致させることができます。主の純粋な献身者は、奉仕の態度を通して全てを精神的なものに変える技術を知っており、その献身奉仕と合致したときのみ、汎神論は完璧なものになります。
節
yasyāṁ sandhāryamāṇāyāṁ
yogino bhakti-lakṣaṇaḥ
āśu sampadyate yoga
āśrayaṁ bhadram īkṣataḥ
yogino bhakti-lakṣaṇaḥ
āśu sampadyate yoga
āśrayaṁ bhadram īkṣataḥ
訳語
yasyām—そのように規則的に思い出す方法によって; sandhāryamāṇāyām—そして、その習慣に立脚することで; yoginaḥ—神秘家達; bhakti-lakṣaṇaḥ—献身奉仕の方法を修練して; āśu—すぐに; sampadyate—成功する; yogaḥ—献身奉仕との関連; āśrayam—~の庇護下で; bhadram—全てにおいて善なる者; īkṣataḥ—それを見ているもの。
翻訳
王よ、主の善なる人格的様相を思い、また見るという習慣に自分を定着させることで、主の直接の庇護を受け、すぐさま主への献身奉仕の境地に達することができる。
解説
神秘的修練の成功は、献身的態度に助けられてこそ実現します。汎神論、すなわち全能者があらゆる場所に遍在することを感じるという理論は、ある意味では、心を献身奉仕の考え方に慣れさせることでもあり、この献身奉仕的態度が神秘主義者の神秘的修行を成功させるのです。しかし、わずかでも献身奉仕の要素が混ざっていなければ成功を収めることはできません。汎神論的考えを通して育まれた献身的な気持ちは、やがて献身奉仕に高まっていき、その点が非人格論者にとって唯一の恩恵と言えます。『バガヴァッド・ギーター』(12-5)では、非人格的な方法で自己を悟るのはより困難である、と断言されています。長い歳月のあと、非人格論者も主の人物の様相に没頭するようにはなるのですが、それは間接的な道を通って目的地に辿りつく方法だからです。
節
rājovāca
yathā sandhāryate brahman
dhāraṇā yatra sammatā
yādṛśī vā hared āśu
puruṣasya mano-malam
yathā sandhāryate brahman
dhāraṇā yatra sammatā
yādṛśī vā hared āśu
puruṣasya mano-malam
訳語
rājā uvāca—幸運な王が言った; yathā—ありのままに; sandhāryate—考えが築かれる; brahman—ブラーフマナよ; dhāraṇā—考え; yatra—どこに、どのように; sammatā—要約して; yādṛśī—~による方法; vā—あるいは; haret—救われて; āśu—速やかに; puruṣasya—人の; manaḥ—心の; malam—汚れた物事。
翻訳
幸運なパリークシット王がさらに尋ねた。「ブラーフマナよ。どうか詳しくご説明ください。心をどのように、どこに向けたらよいのでしょうか。そして、心の中にある汚れを取り除くためには、どのように意識を集中させるのべきなのでしょうか」
解説
束縛された魂の心にある汚れは、当人にとってあらゆる困難の源です。束縛された魂は、物質存在のさまざまな苦しみにさいなまれていますが、深い無知のために、物質界で長く投獄生活を続ける間に、心に蓄積された汚れが原因で起こる困難を取り除くことができないでいます。もともと私たちは至高主のご意思に仕える立場にあるのですが、心の汚れのために自分勝手な望みに仕えようとしています。この望みは、心に平安を与えるどころか、新しい問題を作り出し、その結果、誕生と死の輪廻に私たちを縛り付けるのです。果報的活動と経験主義哲学というこの汚れは、至高主との交際によってのみ取り除くことができます。主は全能なお方ですから、人智を超える力によって私たちに交際の機会を授けてくださいます。こうして、絶対者の人格的様相に信念を固定させられない人々は、ヴィラート・ルーパ、すなわち主の宇宙に広がる非人格的様相と関わる機会が与えられます。主の非人格的な宇宙の様相は、主の無限の力の表れです。力とその力の源は同じですから、その非人格的な宇宙の様相であっても、束縛された魂が主と間接的に関わる助けになり、魂は徐々に主と直接ふれあう段階に高められていきます。
マハーラージャ・パリークシットは、すでに主シュリー・クリシュナの人格的様相とじかに結ばれていたため、自分の心を、どこでどのようにして主のヴィラート・ルーパに専念させるのかと尋ねる必要はありませんでした。しかし、永遠と知識と喜びにあふれた主のお姿である超越的な人格的様相を想像することができない人のために、詳しく説明を求めました。献身者でない人々は、主の人格的様相について考えることができません。貧弱な知識しか持ってないために、ラーマやクリシュナのような主の人物としてのお姿は、彼らには不快なものでしかありません。主の力についての貧弱な知識しか持ち合わせていないのです。『バガヴァッド・ギーター』(9-11)では主が自ら、貧弱な知識しか持たない彼らは、人格神を凡人と考え、嘲笑する、とおっしゃっています。彼らは主の人智を絶する力を知りません。主はその力を使って、人間社会で、あるいはその他もろもろの生物の社会で活動することができ、同時に、超越的な立場から少しも逸れることなく全能の主としてとどまることができます。ですから、主の人物としての永遠なお姿を受け入れられない人々のために、マハーラージャ・パリークシットは、まず心を主に固定させる方法についてシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーに尋ねました。そしてゴースヴァーミーは次のように詳しく説明していきます。
節
śrī-śuka uvāca
jitāsano jita-śvāso
jita-saṅgo jitendriyaḥ
sthūle bhagavato rūpe
manaḥ sandhārayed dhiyā
jitāsano jita-śvāso
jita-saṅgo jitendriyaḥ
sthūle bhagavato rūpe
manaḥ sandhārayed dhiyā
訳語
śrī-śukaḥ uvāca—シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーが言った; jita-āsanaḥ—座位を制御する; jita-śvāsaḥ—制御された呼吸法; jita-saṅgaḥ—制御された連想; jita-indriyaḥ—制御された感覚; sthūle—濃密な物質の中に; bhagavataḥ—人格神に; rūpe—~の様相の中に; manaḥ—心; sandhārayet—専念しなくてはならない; dhiyā—知性によって。
翻訳
シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーが答えた。「座位を正し、プラーナーヤーマ・ヨーガで呼吸を整え、心と感覚を制御し、さらに知性を使って心を主の粗雑な力(ヴィラート・ルーパ)に集中させなくてはならない」
解説
物質と深く関わっている束縛された魂の心は、魂が肉体観念という限界を超えることを許しません。そのため、瞑想のヨーガ法(座位と呼吸を制御し、心を至高者に固定させること)は、愚鈍な物質主義者の性質を整えるために定められています。物質主義者が物質に没頭している心を清めなければ、超越的存在に思いを集中させることはできません。そのために、心を粗雑な物質、あるいは主の外的様相に集中するように勧められています。次の節では、主の巨大なお姿の各部分について説明されています。物質的な人々は、そのような抑制方法に従って神秘的な力を得たいと強く願っていますが、ヨーガの制御は欲情、怒り、貪欲など、心に積もった物質的な汚れを根絶するためにあります。神秘主義のヨーギーが、神秘的な制御法に心を奪われ横道に逸れてしまえば、ヨーガで成功を収めるという使命を果たすことができません。なぜなら最終的な目的は、神の悟りだからです。ですから、違う観念をもって自らの物質的な心を集中させることが勧められており、その結果として、主の力を悟ることができます。さまざまな力が超越的存在の道具として表れていることに気づいた人は、自動的に次の段階に進むことができ、そして徐々に、完全な悟りを得ることが可能となります。
節
viśeṣas tasya deho ’yaṁ
sthaviṣṭhaś ca sthavīyasām
yatredaṁ vyajyate viśvaṁ
bhūtaṁ bhavyaṁ bhavac ca sat
sthaviṣṭhaś ca sthavīyasām
yatredaṁ vyajyate viśvaṁ
bhūtaṁ bhavyaṁ bhavac ca sat
訳語
viśeṣaḥ—個人の; tasya—主の; dehaḥ—体; ayam—この; sthaviṣṭhaḥ—濃密な物質; ca—そして; sthavīyasām—全物質の; yatra—その中で; idam—これら全ての現象界; vyajyate—経験される; viśvam—宇宙; bhūtam—過去; bhavyam—未来; bhavat—現在; ca—そして; sat—結果としての。
翻訳
この巨大な物質現象世界全体は、絶対真理の個人の体が顕現した姿であり、そのなかで、宇宙から生じた物質の時間、すなわち過去、現在、未来が体験される。
解説
物質であっても精神であっても、最高人格神のエネルギーの拡張体でないものはなく、『バガヴァッド・ギーター』(13-13)で述べられているように、全能の主は超越的な目、頭、その他体の部分全てがあらゆる場所に遍在しています。主はどこにいても、何でも見たり聞いたり触れたり、あるいは自らを現すことができます。絶対的世界にある自分の住処にいても、極小の魂たち全ての至高の魂として遍在しているからです。相対的な世界にしても、それが主の超越的なエネルギーの拡張だからこそ、それは主の、現象世界としての顕現だと言えるのです。主は自分の住処に住んでいますが、主のエネルギーはあらゆる場所に拡散しているため、まるで太陽が1カ所にありながらあらゆる場所に拡散しているようなものです。太陽光線は太陽そのものと同じであり、太陽の拡張体として解釈されるからです。『ヴィシュヌ・プラーナ』(1-22-52)では、火が1カ所から光と熱を拡散するように、至高の精神魂である人格神は自分の無数のエネルギーをあらゆる場所に拡散させている、と述べられています。巨大な宇宙という現象世界は、主のヴィラート体の一部に過ぎません。知性の足りない人たちは、主の超越的かつあらゆる面で精神的なお姿を理解することができませんが、それはあたかも未開の原住民が稲妻や巨大な山、四方に広がる菩提樹などに圧倒されるのと同じように、彼らは主のさまざまなエネルギーに驚嘆するのです。原住民族は、虎や象がより優れた力やエネルギーを持っていることに対して、その力を讃えます。アスラたちは、主の存在をどうしても認めることができません。啓示経典は、主にまつわる生き生きとした描写にあふれ、主が自ら化身となって現れたり、非凡な力やエネルギーを示したりするにも関わらずです。また過去において、ヴャーサデーヴァ、ナーラダ、アシタ、デーヴァラという博識な学者たちによって、『バガヴァッド・ギーター』ではアルジュナによって、そして現代ではシャンカラ、ラーマーヌジャ、マドゥヴァ、シュリー・チャイタニヤのようなアーチャーリャによって、主は最高人格神として認められているにも関わらず、アスラたちはその存在を認めることができないのです。啓示経典が示す証拠も受け入れず、偉大なアーチャーリャたちを認めません。じかに自分の目で見たいと思っているのです。ですから、彼らの挑戦の答えとなるであろうヴィラートという、主の巨大な体なら彼らも見ることができますし、また彼らは虎、象、稲妻など、優れた物質的な力の表れに対して称讃するのを常としていますから、ヴィラート・ルーパを崇めることはできるのです。主クリシュナはアルジュナに頼まれて、アスラらのためにヴィラート・ルーパを示しました。純粋な献身者は、主の巨大な世俗の姿を見慣れていないため、目的に応じた特別な視覚を必要とします。ですから主は、ヴィラート・ルーパを見ることのできる特別な視覚をアルジュナに授け、そのことは『バガヴァッド・ギーター』の第11章で説明されています。主のヴィラート・ルーパの姿は、アルジュナのためではなく、誰彼かまわず化身と考えて大衆を間違って導く知性の足りない人々のために特別に示されました。自分は化身だと安っぽく言い張る人に、ヴィラ―トゥ・ルーパを現すことで化身であることを証明するように要求すればよいのだと指示しているのです。主のヴィラート・ルーパの顕現は無神論者への挑戦であると同時に、アスラたちへの恩寵でもあります。彼らは、主をヴィラートとして考えることで心から汚れを洗い流し、近い将来、主の超越的なお姿を本当に見られる資格を手に入れることができます。これが、無神論者や愚鈍な物質主義者たちに対する、慈悲深い主の恩寵なのです。
節
aṇḍa-kośe śarīre ’smin
saptāvaraṇa-saṁyute
vairājaḥ puruṣo yo ’sau
bhagavān dhāraṇāśrayaḥ
saptāvaraṇa-saṁyute
vairājaḥ puruṣo yo ’sau
bhagavān dhāraṇāśrayaḥ
訳語
aṇḍa-kośe—宇宙の殻の中で; śarīre—~の体内で; asmin—この; sapta—7重; āvaraṇa—覆い; saṃyute—そのように為されて; vairājaḥ—巨大な宇宙の; puruṣaḥ—主の姿; yaḥ—それ; asau—主; bhagavān—人格神; dhāraṇā—概念; āśrayaḥ—~の対象。
翻訳
7重の物質要素で覆われた宇宙の殻のなかに示された人格神の巨大な宇宙体は、ヴィラートの概念の主要な部分である。
解説
主は同時に無数の他の体を持ち、その全てが主の根源の姿、シュリー・クリシュナと同じです。『バガヴァッド・ギーター』では、主の根源かつ超越的な、そして永遠のお姿はシュリー・クリシュナ、絶対人格神であると確証されていますが、主は人智を超える内的エネルギー、アートマ・マーヤーを使って、自らを無数の姿と化身に同時に拡張させることができ、またそれによってご自身の力を減少させることはありません。主は完璧なお方であり、無数の完全なお姿が主より作り出されても、主は何も失わずに、完全なままで存在しています。これこそが主の精神的、あるいは内的なエネルギーなのです。『バガヴァッド・ギーター』の第11章で、人格神、主クリシュナは、人間の姿で降誕する主のことを理解できない知性の劣る人々に対し、主が唯一無二であり、実際に至高の絶対人物に値する力を持つことを納得させるために、ヴィラ―ト・ルーパを現しました。物質主義的な人々は、不完全ながらも、太陽に匹敵する無数の惑星を含む巨大な宇宙空間を頭で考えることができます。しかし彼らが見るのは頭上に円形に広がる空だけで、何百何千万ものほかの宇宙と同じように、この宇宙が水、火、空気、空間、自我、知的概念、物質自然という7層の物質の殻で包まれ、主がマハー・ヴィシュヌの姿で横たわっている原因の海に、ちょうど空気の入ったフットボールのように漂っているということなど、知る由もありません。全宇宙の種は、主の分身マハー・ヴィシュヌの呼吸から放出され、ブラフマーたちが住んでいる各宇宙は全て、マハー・ヴィシュヌが息を吸うときに消滅します。このようにして物質自然界は主の至高のご意思で作られ、そして消滅します。哀れで愚かな物質主義者が、死すべき人間の主張をまともに受けて、取るに足らない生き物を主と同等の化身だと提唱するのは、いかに無知なことであるかが想像できます。ヴィラート・ルーパは主によって、愚かな人間たちに教訓を与えるために特別に示されたのであり、主クリシュナがして見せたようにヴィラート・ルーパを実際に示すことができる場合にだけ、その人間を神の化身として受け入れることができます。物質主義的な人は、自分の利益のため、シュカデーヴァ・ゴースヴァ―ミが勧めた通りに自分の心をヴィラート、すなわち主の巨大な姿に集中させるかもしれませんが、自らを主クリシュナだと主張しながらも主のようには行動できず、また宇宙全体を内包するヴィラート・ルーパを現すこともできないような詐欺師に間違って導かれないよう気を付けなければなりません。
節
pātālam etasya hi pāda-mūlaṁ
paṭhanti pārṣṇi-prapade rasātalam
mahātalaṁ viśva-sṛjo ’tha gulphau
talātalaṁ vai puruṣasya jaṅghe
paṭhanti pārṣṇi-prapade rasātalam
mahātalaṁ viśva-sṛjo ’tha gulphau
talātalaṁ vai puruṣasya jaṅghe
訳語
pātālam—宇宙の底にある惑星; etasya—主の; hi—確かに; pāda-mūlam—足の裏; paṭhanti—彼らはそれを研究する; pārṣṇi—かかと; prapade—つま先; rasātalam—ラサータラという名の惑星; mahātalam—マハータラという名の惑星; viśva-sṛjaḥ—宇宙の創造者の; atha—そのように; gulphau—足首; talātalam—タラータラという名の惑星; vai—それらの通りに; puruṣasya—巨大な人物の; jaṅghe—すね。
翻訳
それを悟った者たちは、パーターラという名の惑星が、宇宙相の主の御足の裏を構成し、踵とつま先はラサータラという名の惑星であることを会得した。さらに足首はマハータラ惑星、脛(ルビ:すね)がタラータラ惑星を構成しているのである。
解説
至高人格神のお体の存在なくして、宇宙顕現は存在し得ません。『バガヴァッド・ギーター』(9-4)で確証されているように、現象界にあるものは全て主に支えられていますが、物質主義者が見るもの全てが最高人格神であると考えるのは間違っています。主の宇宙相の概念は、物質主義者に至高主について考える機会を与えます。しかし世界を支配的な視野で見ることで神を悟ることではできない、ということを彼らは知っておく必要があります。物質資源を搾取するという物質的観点は、主の外的エネルギーの幻想が原因で生じるものであり、そのため、主の宇宙相を見て最高真理を悟ろうとする人は、仕えようとする心構えを養う必要があります。その心構えをよみがえらせずにヴィラートの姿を悟るという考えはあまり効果的ではありません。超越的な主の姿はどれをとっても、物質創造界の一部ではありません。どのような状況下でも至高の魂としての本性を保ち、決して物質の三様式に影響されません。なぜなら物質界にあるものは全て穢れているからです。主はいつでもご自身の内的エネルギーによって存在しています。
宇宙は14天体系に分けられます。7天体系、すなわち下からブール、ブヴァル、スヴァル、マハル、ジャナス、タパス、サッテャとあり、これらは上位の天体系です。低位の天体系として、上からアタラ、ヴィタラ、スタラ、タラータラ、マハータラ、ラサータラ、パーターラがあります。この節では、一番下の惑星から説明が始まります。主の体の説明は、その御足から始まるという献身奉仕の決まりがあるからです。シュカデーヴァ・ゴースヴァーミーは主の献身者として認められている人物であり、その説明に間違いはありません。
節
dve jānunī sutalaṁ viśva-mūrter
ūru-dvayaṁ vitalaṁ cātalaṁ ca
mahītalaṁ taj-jaghanaṁ mahīpate
nabhastalaṁ nābhi-saro gṛṇanti
ūru-dvayaṁ vitalaṁ cātalaṁ ca
mahītalaṁ taj-jaghanaṁ mahīpate
nabhastalaṁ nābhi-saro gṛṇanti
訳語
dve—2つ; jānunī—2つの膝; sutalam—スタラという名の天体系; viśva-mūrteḥ—宇宙体の; ūru-dvayam—2本の腿; vitalam—ヴィタラという名の天体系; ca—もまた; atalam—アタラという名の惑星; ca—そして; mahītalam—マヒータラという名の天体系; tat—それの; jaghanam—尻; mahīpate—王よ; nabhastalam—宇宙空間; nābhi-saraḥ—へそのくぼみ; gṛṇanti—彼らはそのように解釈する。
翻訳
宇宙体の膝はスタラという名の天体系で、そして2本の腿はヴィタラとアタラ天体系である。尻はマヒータラ、宇宙空間は主のへそのくぼみである。
節
uraḥ-sthalaṁ jyotir-anīkam asya
grīvā mahar vadanaṁ vai jano ’sya
tapo varāṭīṁ vidur ādi-puṁsaḥ
satyaṁ tu śīrṣāṇi sahasra-śīrṣṇaḥ
grīvā mahar vadanaṁ vai jano ’sya
tapo varāṭīṁ vidur ādi-puṁsaḥ
satyaṁ tu śīrṣāṇi sahasra-śīrṣṇaḥ
訳語
uraḥ—高い; sthalam—場所(胸); jyotiḥ-anīkam—発光する惑星; asya—主の; grīvā—首; mahaḥ—発光惑星の上の天体系; vadanam—口; vai—正確に; janaḥ—マハルの上の天体系; asya—主の; tapaḥ—ジャナスの上の天体系; varāṭīm—額; viduḥ—~として知られて; ādi—根源者; puṃsaḥ—人物; satyam—頂点の天体系; tu—しかし; śīrṣāṇi—頭; sahasra—1,000; śīrṣṇaḥ—複数の頭を持つ者。
翻訳
巨大な姿を持つ根源の人格者の胸は、光を放つ天体系、首はマハル惑星、口はジャナス惑星、額はタパス天体系である。サッテャローカという頂点の天体系は、千の頭を持つ主の頭部である。
解説
太陽や月という光り輝く惑星は宇宙のほぼ中間に位置しており、そのため、根源なる主の強大な体の胸として知られています。その光を放つ惑星の上に、宇宙の管理者である神々が住む天国であるマハル、ジャナス、タパスという天体系が位置し、その上にサッテャローカ天体系があり、そこには、ヴィシュヌ、ブラフマー、シヴァという物質自然の様式を司る主要な管理者が住んでいます。このヴィシュヌは、クシーローダカシャーイー・ヴィシュヌという名で知られ、全生命体の至高の魂として活動します。原因の海には無数の宇宙が浮かんでおり、その各宇宙には主のヴィラートの姿が、無数の太陽、月、天国の神々、ブラフマー、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァたちとともに存在し、『バガヴァッド・ギーター』(10-42)で述べられているように、その全てが主クリシュナの人智を超えるエネルギーの一部を占めています。
節
indrādayo bāhava āhur usrāḥ
karṇau diśaḥ śrotram amuṣya śabdaḥ
nāsatya-dasrau paramasya nāse
ghrāṇo ’sya gandho mukham agnir iddhaḥ
karṇau diśaḥ śrotram amuṣya śabdaḥ
nāsatya-dasrau paramasya nāse
ghrāṇo ’sya gandho mukham agnir iddhaḥ
訳語
indra-ādayaḥ—天界の王インドラに率いられている神々たち; bāhavaḥ—腕; āhuḥ—~と呼ばれる; usrāḥ—神々たち; karṇau—耳; diśaḥ—4つの方角; śrotram—聴覚; amuṣya—主の; śabdaḥ—音; nāsatya-dasrau—アシュヴィニ・クマーラとして知られる神々たち; paramasya—至高者の; nāse—鼻孔; ghrāṇaḥ—嗅覚; asya—主の; gandhaḥ—香り; mukham—口; agniḥ—火; iddhaḥ—燃えさかる。
翻訳
主の腕はインドラに率いられている神々、10の方角は主の耳、物理的な音は主の聴覚を表す。鼻孔は2人のアシュヴィニ・クマーラたち、物質的な香りは嗅覚を表す。主の口は燃えさかる炎である。
解説
『バガヴァッド・ギーター』の第11章にある人格神の巨大な姿の説明は『シュリーマド・バーガヴァタム』のこの部分でさらに説明されています。『バガヴァッド・ギーター』(11-30)の説明は、「ヴィシュヌよ、私にはわかっています。あなたがその燃え盛る口で八方から来る人々を
飲み込んでおられることを。そのまばゆい光輝で宇宙全体を覆い、恐ろしい灼熱の光線を現しておられることを」とあります。このように、『シュリーマド・バーガヴァタム』は『バガヴァッド・ギーター』を学ぶ人々にとって、ギーターを卒業した後に研究するものと言えます。どちらもクリシュナ、絶対真理についての科学であり、相互に補い合っています。
飲み込んでおられることを。そのまばゆい光輝で宇宙全体を覆い、恐ろしい灼熱の光線を現しておられることを」とあります。このように、『シュリーマド・バーガヴァタム』は『バガヴァッド・ギーター』を学ぶ人々にとって、ギーターを卒業した後に研究するものと言えます。どちらもクリシュナ、絶対真理についての科学であり、相互に補い合っています。
至高主の巨大な姿、ヴィラート・プルシャには、管理する神々と管理される生命体が含まれていると言われています。ひとつの生命体の微細な部分でさえ、主に力を与えられた代表者によって支配されています。神々は主の巨大な姿に含まれているからこそ、主を崇拝することは、その対象が巨大な物質的概念でも、主シュリー・クリシュナという永遠かつ超越的なお姿であっても、神々やその他全ての部分体を満たすことができ、それは木の根に水を注げばエネルギーが木の各部分に送られるのと同じです。したがって物質主義者にとっても、主の宇宙的な巨大な姿を崇拝すれば正しい道に導かれます。さまざまな望みを満たすために数多くの神々に救いを求めるような、間違った崇拝で危険を冒す必要はありません。真の生命体は主自身であり、その他全ては想像にすぎません。全ては主の内にのみ含まれているからです。
節
dyaur akṣiṇī cakṣur abhūt pataṅgaḥ
pakṣmāṇi viṣṇor ahanī ubhe ca
tad-bhrū-vijṛmbhaḥ parameṣṭhi-dhiṣṇyam
āpo ’sya tālū rasa eva jihvā
pakṣmāṇi viṣṇor ahanī ubhe ca
tad-bhrū-vijṛmbhaḥ parameṣṭhi-dhiṣṇyam
āpo ’sya tālū rasa eva jihvā
訳語
dyauḥ—宇宙空間; akṣiṇī—眼球; cakṣuḥ—目(諸感覚)の; abhūt—そのようになった; pataṅgaḥ—太陽; pakṣmāṇi—まぶた; viṣṇoḥ—人格神、シュリー・ヴィシュヌの; ahanī—昼と夜; ubhe—両方; ca—そして; tat—主の; bhrū—眉; vijṛmbhaḥ—動き; parameṣṭhi—至高の生物(ブラフマー); dhiṣṇyam—位置; āpaḥ—ヴァルナ、水の管理者; asya—主の; tālū—口蓋; rasaḥ—分泌物; eva—確かに; jihvā—舌。
翻訳
宇宙空間は主の眼窩、眼球は見る力としての太陽を表す。主のまぶたは昼と夜、主の眉の動きのなかにブラフマーや同様の至上の人物たちが住んでいる。主の口蓋(ルビ:こうがい)は水の管理者であるヴァルナ、万物の分泌液すなわちエキスは主の舌である。
解説
この節の説明を聞くと、常識と矛盾しているかのように見えます。太陽は眼球と言われたり、またときには宇宙空間と説明されたりするからです。しかし、シャーストラの教えに常識が入る余地は全くありません。シャーストラの説明をただ受け入れるべきであり、常識よりもヴィラート・ルーパの姿のほうに信念を置くべきです。常識はいつでも不完全ですが、シャーストラの説明はいつでも完璧で完全です。矛盾と思われるのは、私たちの不完全さによるものであり、シャーストラが不完全だということではありません。それがヴェーダの知恵に近づく方法です。
節
chandāṁsy anantasya śiro gṛṇanti
daṁṣṭrā yamaḥ sneha-kalā dvijāni
hāso janonmāda-karī ca māyā
duranta-sargo yad-apāṅga-mokṣaḥ
daṁṣṭrā yamaḥ sneha-kalā dvijāni
hāso janonmāda-karī ca māyā
duranta-sargo yad-apāṅga-mokṣaḥ
訳語
chandāṃsi—ヴェーダ聖歌; anantasya—至高者の; śiraḥ—頭頂の泉門; gṛṇanti—彼らは言う; daṃṣṭrāḥ—歯; yamaḥ—罪人の管理者、ヤマラージャ; sneha-kalāḥ—愛情という芸術; dvijāni—歯並び; hāsaḥ—微笑み; jana-unmāda-karī—最も惑わせるもの; ca—もまた; māyā—幻想エネルギー; duranta—超えられない; sargaḥ—物質創造界; yat-apāṅga—~である者の一瞥; mokṣaḥ—~を見渡している。
翻訳
ヴェーダ聖歌を主の頭頂の泉門と彼らは呼び、また主の歯は罪人を罰するヤマ、死の神と言う。愛の芸術は主の歯並び、最も魅惑的な幻想の物質エネルギーは主の微笑みである。物質創造界というこの広大な海は、主が私たちに投げかける視線である。
解説
ヴェーダの見解によると、物質創造界は主が物質エネルギーを一瞥した結果であり、この節では、それが最も魅惑的な幻想エネルギーと言われています。物質主義に惑わされている束縛された魂たちが知っておくべきことは、物質的で一時的な創造界は本当の世界の模造であり、主のそのような魅惑的な一瞥に惑わされる者たちは、罪人の支配者であるヤマラージャの管理下に置かれる、という事実です。主は、美しい歯を見せながら愛情をこめて微笑みます。主にまつわるこの真実を理解できる知的な人物が、主に完全に身を委ねる魂になるのです。
節
vrīḍottarauṣṭho ’dhara eva lobho
dharmaḥ stano ’dharma-patho ’sya pṛṣṭham
kas tasya meḍhraṁ vṛṣaṇau ca mitrau
kukṣiḥ samudrā girayo ’sthi-saṅghāḥ
dharmaḥ stano ’dharma-patho ’sya pṛṣṭham
kas tasya meḍhraṁ vṛṣaṇau ca mitrau
kukṣiḥ samudrā girayo ’sthi-saṅghāḥ
訳語
vrīḍa—謙虚さ; uttara—上部; oṣṭhaḥ—唇; adharaḥ—あご; eva—確かに; lobhaḥ—切望; dharmaḥ—宗教; stanaḥ—胸; adharma—無宗教; pathaḥ—方法; asya—主の; pṛṣṭham—背中; kaḥ—ブラフマー; tasya—主の; meḍhram—性器; vṛṣaṇau—睾丸; ca—もまた; mitrau—ミトゥラー・ヴァルナ達; kukṣiḥ—腰; samudrāḥ—海; girayaḥ—丘; asthi—骨; saṅghāḥ—積み重ね。
翻訳
慎ましさは主の上唇、切望は主のあご、宗教は主の胸部、無宗教は主の背中である。物質界の生命体全てを創造したブラフマージーは主の性器、ミトゥラー・ヴァルナたちは主の2つの睾丸である。海は主の腰、丘と山は主の骨格である。
解説
至高主は、知性の足りない思索家が間違って考えているような、非人格的存在ではありません。主は、至高の人物であり、そのことは全てのヴェーダ経典も確証しています。しかし、その人格は、私たちが考え得るものとは違っています。またここでは、ブラフマージーが主の性器として機能し、ミトゥラー・ヴァルナたちが主の睾丸として表現されています。これはつまり、主は身体的器官を備えた完璧な人物だということですが、主の各器官は私たちのそれとは異なり、異なる機能を発揮できます。ですから「主は非人格である」と表現されるときは、その人格性は私たちの不完全な想像のなかにあるものとは違う、と理解しなくてはなりません。しかし丘や山、海や空をヴィラート・プルシャという主の巨大な体の部分だと理解することによって、主を崇めることができます。主クリシュナからアルジュナに示されたヴィラート・ルーパは、主を信じない者たちに対する挑戦なのです。
節
nadyo ’sya nāḍyo ’tha tanū-ruhāṇi
mahī-ruhā viśva-tanor nṛpendra
ananta-vīryaḥ śvasitaṁ mātariśvā
gatir vayaḥ karma guṇa-pravāhaḥ
mahī-ruhā viśva-tanor nṛpendra
ananta-vīryaḥ śvasitaṁ mātariśvā
gatir vayaḥ karma guṇa-pravāhaḥ
訳語
nadyaḥ—川; asya—主の; nāḍyaḥ—血管; atha—そしてその後; tanū-ruhāṇi—体の毛髪; mahī-ruhāḥ—植物と木; viśva-tanoḥ—宇宙体の; nṛpa-indra—王よ; ananta-vīryaḥ—全能者の; śvasitam—呼吸; mātariśvā—空気; gatiḥ—動き; vayaḥ—過ぎゆく時代; karma—活動; guṇa-pravāhaḥ—自然界の三様式の反動。
翻訳
王よ。川は主の巨大な体の血管であり、木は主の毛、全能の空気は主の呼吸である。過ぎ行く時代は主の動き、主の活動は物質自然の三様式の反動である。
解説
人格神は、いろいろな学派が提唱する貧弱な考え方とは違い、命のない石でもなく、また無活動でもありません。主は時の流れとともに行為するため、現在の活動はもちろん、過去と未来についても知り尽くしています。主が知らないことは何もないのです。束縛された魂は、主の活動である物質自然界の様式の反動に動かされています。『バガヴァッド・ギーター』(7-12)で言われているように、自然界の様式は主の指揮だけで動いていますから、自然界は盲目的でも、ひとりでに動いているわけでもありません。それらの活動の背後には主の指揮があるのであって、人々に誤解されているように、主は何もしていないわけではありません。ヴェーダは、至高主は個人的に何もすることはない、と言ってはいますが、優位の立場にいる人の場合と同じように、全ては主の指揮のもとに動いています。主の許可なくして1枚の葉さえ動かない、と言われます。『ブラフマ・サムヒター』(5-48)では、全ての宇宙、その宇宙の長たち(ブラフマー)は、主が呼吸をしている間だけ存在している、と言われています。同じことがこの節でも確証されています。物質界で宇宙と惑星を存在させている空気は、不変のヴィラート・プルシャの呼吸の一部にすぎないのです。ですから、川、木、空気、過ぎ行く時代などを見れば、主には姿がないとする考えに間違って導かれることなく、人格神を認識することができます。『バガヴァッド・ギーター』(12-5)では、絶対真理の姿のない観念に気持ちが強く傾いている人は、人物としての姿を思う知的な人よりも、真理を理解するのは困難であると言われています。
節
īśasya keśān vidur ambuvāhān
vāsas tu sandhyāṁ kuru-varya bhūmnaḥ
avyaktam āhur hṛdayaṁ manaś ca
sa candramāḥ sarva-vikāra-kośaḥ
vāsas tu sandhyāṁ kuru-varya bhūmnaḥ
avyaktam āhur hṛdayaṁ manaś ca
sa candramāḥ sarva-vikāra-kośaḥ
訳語
īśasya—至高の支配者の; keśān—頭髪; viduḥ—あなたは私からそれを知ることができる; ambu-vāhān—水を運ぶ雲; vāsaḥ tu—衣服; sandhyām—昼と夜の終わり; kuru-varya—クル家の最善者よ; bhūmnaḥ—全能者の; avyaktam—物質創造界の主要原因; āhuḥ—~と言われている; hṛdayam—知性; manaḥ ca—そして心; saḥ—主; candramāḥ—月; sarva-vikāra-kośaḥ—全ての変化の源。
翻訳
クル家のなかで最も優れた者よ。水を運ぶ雲は主の頭髪であり、昼と夜の終わりは主の衣服であり、物質創造界の至高の原因は主の知性である。主の心は、あらゆる変化の源である月である。
節
vijñāna-śaktiṁ mahim āmananti
sarvātmano ’ntaḥ-karaṇaṁ giritram
aśvāśvatary-uṣṭra-gajā nakhāni
sarve mṛgāḥ paśavaḥ śroṇi-deśe
sarvātmano ’ntaḥ-karaṇaṁ giritram
aśvāśvatary-uṣṭra-gajā nakhāni
sarve mṛgāḥ paśavaḥ śroṇi-deśe
訳語
vijñāna-śaktim—意識; mahim—物質の原理; āmananti—彼らはそれをそう呼ぶ; sarva-ātmanaḥ—遍在する者の; antaḥ-karaṇam—自我; giritram—ルドラ(シヴァ); aśva—馬; aśvatari—ロバ; uṣṭra—ラクダ; gajāḥ—象; nakhāni—爪; sarve—その他全て; mṛgāḥ—雄鹿; paśavaḥ—四足獣; śroṇi-deśe—ベルトの部分に。
翻訳
物質の原理(マハト・タットヴァ)は、専門家たちが断言するように、遍在する主の意識、そしてルドラデーヴァは主の自我である。馬、ロバ、ラクダ、象は主の爪、そして野生動物や四足獣は主の腰周りに位置している。
節
vayāṁsi tad-vyākaraṇaṁ vicitraṁ
manur manīṣā manujo nivāsaḥ
gandharva-vidyādhara-cāraṇāpsaraḥ
svara-smṛtīr asurānīka-vīryaḥ
manur manīṣā manujo nivāsaḥ
gandharva-vidyādhara-cāraṇāpsaraḥ
svara-smṛtīr asurānīka-vīryaḥ
訳語
vayāṃsi—さまざまな鳥類; tat-vyākaraṇam—単語; vicitram—芸術的; manuḥ—人類の父; manīṣā—思考; manujaḥ—人類(マヌの息子達); nivāsaḥ—住処; gandharva—ガンダルヴァという名の人間; vidyādhara—ヴィデャーダラ達; cāraṇa—チャーラナ達; apsaraḥ—天使達; svara—音楽的リズム smṛtīḥ—記憶; asura-anīka—悪魔的な兵士達; vīryaḥ—力。
翻訳
さまざまな鳥類は主の天才的な芸術的感性を表している。人類の父・マヌは主の模範的知性の象徴、人類は主の住処である。ガンダルヴァ、ヴィデャーダラ、チャーラナ、天使など、天界に住む人類は主の音楽的リズムの、悪魔的兵士は主の驚異的な力の表れである。
解説
主の美的感性は、孔雀、オウム、カッコーなど、芸術的で色彩鮮やかなさまざまな鳥類の創造に表れています。ガンダルヴァ、ヴィデャーダラたちといった天界に住む人類はすばらしい歌声を聞かせ、天界の神々たちの心さえとりこにすることができます。彼らのリズムは主の音楽的センスの表れです。ならば、主が人物でないはずがありません。主の音楽と芸術の感性、決して誤ることのない模範的知性は主の至高の人格を表す証です。『マヌ・サムヒター』は人類にとって基準となる法律書であり、全人類が、社会の規範を収めるこのすばらしい書物に従うよう勧められています。人間社会は主の居住地です。つまり、人は神を悟るために、そして神と交流するために生きている、ということです。この生涯は束縛された魂が永遠の神の意識をよみがえらせ、人生の使命をまっとうするための機会です。マハーラージャ・プラフラーダは、アスラの家系に生まれた主の代表者の模範と言えます。主の巨大な体と離れている生命体はいません。全ての生命体が至高の体と関係した特定の義務を持っているのです。各生命体に与えられた特定の義務が遂行できなければ、生命体の間で不調和が生じるのですが、至高主との関係を通して生命体同士が結ばれれば、野生動物と人間でさえ完全に調和することができます。主チャイタニヤ・マハープラブは、虎や象、そして獰猛な動物たちが共に至高主を讃えたマディヤ・プラデーシュのジャングルで、まさにこの調和を示してくださいました。これこそが全世界に平和と親交を築く方法なのです。
節
brahmānanaṁ kṣatra-bhujo mahātmā
viḍ ūrur aṅghri-śrita-kṛṣṇa-varṇaḥ
nānābhidhābhījya-gaṇopapanno
dravyātmakaḥ karma vitāna-yogaḥ
viḍ ūrur aṅghri-śrita-kṛṣṇa-varṇaḥ
nānābhidhābhījya-gaṇopapanno
dravyātmakaḥ karma vitāna-yogaḥ
訳語
brahma—ブラーフマナ; ānanam—顔; kṣatra—クシャトリヤたち; bhujaḥ—腕; mahātmā—ヴィラート・プルシャ; viṭ—ヴァイシャたち; ūruḥ—腿(もも); aṅghri-śrita—主の御足に守られ; kṛṣṇa-varṇaḥ—シュードラたち; nānā—様々な; abhidhā—名前で; abhījya-gaṇa—神々; upapannaḥ—追いつかれて; dravya-ātmakaḥ—可能な品物で; karma—活動; vitāna-yogaḥ—儀式の執行。
翻訳
ヴィラート・プルシャの顔はブラーフマナ、主の腕はクシャトリヤ、太ももはヴァイシャであり、シュードラは主の御足に守られている。崇拝に値する全ての神々も主の支配下にあり、主をなだめるために、ふさわしい物を供えることは万民の義務である。
解説
この節では一神教について言及されています。様々な名前をもつ神々に供儀を行うことは、ヴェーダ経典で勧められていますが、この節では、その神々でさえ最高人格神の姿のなかに含まれている、と言われています。根源の全体者の部分体にすぎないのです。同じように、人間社会の区分、すなわちブラーフマナ(知識階級)、クシャトリヤ(管理者)、ヴァイシャ(商業者階級)、シュードラ(労働者階級)は、全て至高者の体のなかに含まれています。ですから各人が、至高者を喜ばせるために相応しい品物を捧げることで儀式を行うよう、勧められています。一般的に、儀式は精製バターと穀物を捧げて行なわれますが、時代が進むにつれ、人間社会では、神の物質自然界が提供する物資を作り変えて、さまざまな物品を生産できるようになりました。ですから私たちは、主の栄光を広めるなかで、精製バターだけではなく、生産された他の品物も使って供儀を執り行うことを学ばなければなりません。そうすれば、人間社会は完璧なものになります。知識階級者、すなわちブラーフマナたちは、先代のアーチャーリャたちの助言を受けながら、そのような儀式執行を指示することができます。管理者階級は、その儀式を執行する環境を全て整えることができます。穀物を生産するヴァイシャたち、すなわち商業者階級は、儀式のためにさまざまな品々を用意することができます。そしてシュードラたちも、その儀式が首尾よく行なわれるよう肉体労働を通して仕えることができます。このように人間社会全体が協力し合い、現代に勧められている儀式、すなわち主の聖なる御名を集まって唱えるという儀式を、世界中の人々の繁栄のために実践することができるのです。
節
iyān asāv īśvara-vigrahasya
yaḥ sanniveśaḥ kathito mayā te
sandhāryate ’smin vapuṣi sthaviṣṭhe
manaḥ sva-buddhyā na yato ’sti kiñcit
yaḥ sanniveśaḥ kathito mayā te
sandhāryate ’smin vapuṣi sthaviṣṭhe
manaḥ sva-buddhyā na yato ’sti kiñcit
訳語
iyān—これら全て; asau—それ; īśvara—至高主; vigrahasya—その姿の; yaḥ—何でも; sanniveśaḥ—位置されているように; kathitaḥ—説明した; mayā—私によって; te—あなたに; sandhāryate—集中できる; asmin—この中に; vapuṣi—ヴィラートの姿; sthaviṣṭhe—その粗雑なものに; manaḥ—心; sva-buddhyā—人の知性によって; na—~ではない; yataḥ—主を超えて; asti—~がある; kiñcit—ほかの全て。
翻訳
これまで、人格神の粗雑で物質的、そして巨大な様相について説明してきた。解放を真剣に求める者は主のこの姿に心を集中させようとする。物質界にそれ以上のものはないからである。
解説
最高人格神は『バガヴァッド・ギーター』(9-10)で、物質自然界は主の命令を実行する代理者に過ぎない、と明言しています。物質自然界は主のさまざまな力の一つであり、主の指揮があってこそ機能します。主は至高の超越的主だからこそ、物質原理をただ一瞥(ルビ:いちべつ)するだけで物質が刺激され始め、その結果、物質界の活動が6種の段階的な変化を経て、次々と現れます。物質創造界全ては、このように時の流れとともに現れ、そして消えていくのです。
貧弱な知識しか持ち合わせていない知性の足りない人々は、人間のように姿を見せる主シュリー・クリシュナの人智を超える力をどうしても理解することができません(『バガヴァッド・ギーター』9-11)。主が物質界に私たち人間の一人として現れるのも、堕落した魂たちへのいわれのない慈悲心によるものです。主はあらゆる物質的概念を超えたお方ですが、純粋な献身者に対する尽きることのない慈悲心から物質界に降り、人格神として現れます。物質主義の哲学者や科学者は原子力や宇宙体の巨大な様相にとらわれすぎているため、真実の姿である精神的存在よりも物質的表れである外的現象界のほうにより深い敬意を払っています。主の超越的な姿は、このような物質的活動の範囲を超えており、主が限られた一カ所に存在すると同時に、全ての場所にも存在できるという事実は、自らの経験だけでものを考える物質主義的哲学者や科学者にとっては非常に理解しづらいものです。彼らが至高主の人格相を受け入れられないがために、主は優しいお心から、ご自身の超越的な姿であるヴィラ―トの様相を見せるのであり、そしてここではシュリーラ・シュカデーヴァ・ゴースヴァーミがこの主の姿について鮮やかに語っています。彼は、主のこの巨大な姿を超えるものは何もない、と結論づけています。物質主義的な思考力に恵まれていても、この巨大な姿の概念を超えたものは理解できません。物中心に考える人の心はいつも不安定で、1つの対象から別の対象に絶えず移り変わっています。ですからそのような人には、主の巨大な体の一部分を思うことで主のことについて考えることが勧められており、そうすることで、ただ知性だけを使うことによって森、丘、海、人間、動物、神々、鳥、獣など、物質界のあらゆる顕現の中に主を見出すことができます。物質現象界にあるもの全ては、巨大な姿の体の一部であり、そう考えることでゆれ動く心を主だけに固定させることができます。主の体のさまざまな部分に心を集中させるという方法は、神を無視する悪魔的な挑戦を徐々に消し去り、しだいに主への献身奉仕という段階に私たちを高めてくれます。全ては完全全体者の部分であるため、初心の生徒は、至高主は遍在すると説いている『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』の聖歌の意味を徐々に理解し、やがて主の体にどのような冒涜をも冒さない方法を学びます。神を中心にしたこの感覚は、神の存在に挑戦する傲慢さを取り去ります。こうして、万物は至高体の部分を成していることを知って、人は一切万物に敬意を払うことを学ぶのです。
節
sa sarva-dhī-vṛtty-anubhūta-sarva
ātmā yathā svapna-janekṣitaikaḥ
taṁ satyam ānanda-nidhiṁ bhajeta
nānyatra sajjed yata ātma-pātaḥ
ātmā yathā svapna-janekṣitaikaḥ
taṁ satyam ānanda-nidhiṁ bhajeta
nānyatra sajjed yata ātma-pātaḥ
訳語
saḥ—彼(至高の人物); sarva-dhī-vṛtti—あらゆる種類の知性を使った悟りの方法; anubhūta—認識して; sarve—誰もが; ātmā—至高の魂; yathā—できる限り; svapna-jana—夢を見ている人; īkṣita—~に見られて; ekaḥ—まったく同じ; tam—主に; satyam—至高の真理者; ānanda-nidhim—至福の海; bhajeta—崇拝しなくてはならない; na—決して~ない; anyatra—他の全て; sajjet—執着して; yataḥ—それによって; ātma-pātaḥ—自分の堕落。
翻訳
ちょうど人が夢の中で無数の姿を作り出すのと同じように、自らを多くの姿形に分化させる最高人格神に心を集中させなければならない。唯一の、あらゆる至福に満ちた絶対真理者だけに心を向けなくてはならない。それができなければ、間違って導かれ、堕落の道をたどることになるであろう。
解説
この節では献身奉仕の方法が、偉大なゴースヴァーミーであるシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーによって示されています。自己を悟るさまざまな方法に気持ちを逸らせるのではなく、悟り、崇拝、献身行為の対象としての最高人格神に心を集中させなくてはなりません。自己の悟りとは、生存競争のための物質的苦しみに抗(ルビ:あらが)い、永遠の人生を手に入れるために戦うことであり、だからこそヨーギーや献身者たちは、物質エネルギーの幻想による様々な誘惑に直面することでしょう。その誘惑は、屈強の兵士を物質存在という束縛の網に再び縛り付けることができるのです。ヨーギーは修行の結果として、アニマーやラギマーなどの物質的な意味での奇跡的な成功を得て、最も小さいものよりも小さくなったり、最も軽いものより軽くなったりすることができ、あるいは富や女性の形で、一般的な意味での物質的恩恵を手に入れることができます。しかし、再びそのような幻想の快楽に溺れてしまうと、自らを堕落させ、物質界でさらなる囚われの身となり、幻想に陥ることが警告されています。この警告を胸に、用心深い知性に従わなくてはなりません。
至高主は一人であり、主の拡張体は無数です。だから主は万物の至高の魂なのです。私たちが何を見ようと、その視野は二次的であり、まず主の視野が中心であることを知らなくてはなりません。主が最初に見なければ、私たちは何も見ることができないのです。それがヴェーダやウパニシャッドの教えです。何を見ても、何をしても、見て、行為する全ての活動の至高の魂は主なのです。個々の魂と至高の魂の間にあるこの「同時に一つで、同時に異なる」という理論は、主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブがアチンテャ・ベーダーベーダ・タットヴァの哲学として説かれています。ヴィラート・ルーパ、すなわち至高主の巨大な様相は、あらゆる物質的な現象を内包していますから、ヴィラートである主の巨大な様相は全生物と無生物の至高の魂です。しかしヴィラート・ルーパは、ナーラーヤナあるいはヴィシュヌの表れでもあり、さらに悟りの理解を高めれば、最終的に、主クリシュナが存在するもの全ての究極の至高の魂であることがわかるようになります。結論として、私たちはためらうことなく主クリシュナの崇拝者、主の完全拡張体であるナーラーヤナだけの崇拝者にならなくてはならない、と言えます。ヴェーダの聖歌には、最初にナーラーヤナが物質を一瞥(ルビ:いちべつ)し、そして創造が始まったと明言されています。創造の前にはブラフマーもシヴァも存在していないため、ほかの生物がいなかったのは言うまでもありません。シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャは、ナーラーヤナは物質創造界を超えたお方であり、他の全ての生命体は物質創造界の内にいる、という考えを認めています。ですから、物質創造界全体はナーラーヤナと同時に同じで、同時に違うのであり、これは主シュリー・チャイタニヤ・マハープラブのアチンテャ・ベーダーベーダ・タットヴァ哲学を支持しています。物質創造界はナーラーヤナの視線の力から作られたのですから、主と同じです。しかし、創造界が主の外的エネルギー(バヒランガー・マーヤー)の結果であること、また内的エネルギー(アートマ・マーヤー)から離れていることで、同時に、創造界は主とは別の存在だとも言えます。この節には「夢を見ている人」の例が巧みに使われています。夢を見ている人はその夢の世界で次々に物事を作り上げ、自分自身もその夢を見ている者としてそのなかに絡まっていて、その結果に惑わされています。物質創造界も主の夢のような創造と言えるのですが、主は超越的な至高の魂ですから、夢のような創造界の反動に絡まることも、影響を受けることもありません。主はいつでも超越的な境地にいますが、本質的に主は全てであり、主と別にあるものは何もありません。私たちは主の部分体ですから、逸れることなく、主だけに専念しなくてはなりません。それができなければ、物質創造界の力に次々と征服されます。『バガヴァッド・ギーター』(9-7)で次のように確証されています。
sarva-bhūtāni kaunteya
prakṛtiṁ yānti māmikām
kalpa-kṣaye punas tāni
kalpādau visṛjāmy aham
prakṛtiṁ yānti māmikām
kalpa-kṣaye punas tāni
kalpādau visṛjāmy aham
「クンティーの子よ。物質現象界全てが創造期の終わりに私の内に入り、次の創造期が始まるとき、私は自分のエネルギーを使ってふたたび物質創造界を作り出す」
しかし人間生活は、創造と破壊の繰り返しから抜け出す機会です。主の外的エネルギーから抜けだし、主の内的エネルギーのなかに入る機会でもあるのです。
これで、バクティヴェーダンタによる『シュリーマド・バーガヴァタム』、第2編・第1章、「神を悟る第一歩」の解説を終了します。