シュリーマド・バーガヴァタム 2.1.22

rājovāca
yathā sandhāryate brahman
dhāraṇā yatra sammatā
yādṛśī vā hared āśu
puruṣasya mano-malam

訳語

翻訳

幸運なパリークシット王がさらに尋ねた。「ブラーフマナよ。どうか詳しくご説明ください。心をどのように、どこに向けたらよいのでしょうか。そして、心の中にある汚れを取り除くためには、どのように意識を集中させるのべきなのでしょうか」

解説

 束縛された魂の心にある汚れは、当人にとってあらゆる困難の源です。束縛された魂は、物質存在のさまざまな苦しみにさいなまれていますが、深い無知のために、物質界で長く投獄生活を続ける間に、心に蓄積された汚れが原因で起こる困難を取り除くことができないでいます。もともと私たちは至高主のご意思に仕える立場にあるのですが、心の汚れのために自分勝手な望みに仕えようとしています。この望みは、心に平安を与えるどころか、新しい問題を作り出し、その結果、誕生と死の輪廻に私たちを縛り付けるのです。果報的活動と経験主義哲学というこの汚れは、至高主との交際によってのみ取り除くことができます。主は全能なお方ですから、人智を超える力によって私たちに交際の機会を授けてくださいます。こうして、絶対者の人格的様相に信念を固定させられない人々は、ヴィラート・ルーパ、すなわち主の宇宙に広がる非人格的様相と関わる機会が与えられます。主の非人格的な宇宙の様相は、主の無限の力の表れです。力とその力の源は同じですから、その非人格的な宇宙の様相であっても、束縛された魂が主と間接的に関わる助けになり、魂は徐々に主と直接ふれあう段階に高められていきます。
 マハーラージャ・パリークシットは、すでに主シュリー・クリシュナの人格的様相とじかに結ばれていたため、自分の心を、どこでどのようにして主のヴィラート・ルーパに専念させるのかと尋ねる必要はありませんでした。しかし、永遠と知識と喜びにあふれた主のお姿である超越的な人格的様相を想像することができない人のために、詳しく説明を求めました。献身者でない人々は、主の人格的様相について考えることができません。貧弱な知識しか持ってないために、ラーマやクリシュナのような主の人物としてのお姿は、彼らには不快なものでしかありません。主の力についての貧弱な知識しか持ち合わせていないのです。『バガヴァッド・ギーター』(9-11)では主が自ら、貧弱な知識しか持たない彼らは、人格神を凡人と考え、嘲笑する、とおっしゃっています。彼らは主の人智を絶する力を知りません。主はその力を使って、人間社会で、あるいはその他もろもろの生物の社会で活動することができ、同時に、超越的な立場から少しも逸れることなく全能の主としてとどまることができます。ですから、主の人物としての永遠なお姿を受け入れられない人々のために、マハーラージャ・パリークシットは、まず心を主に固定させる方法についてシュカデーヴァ・ゴースヴァーミーに尋ねました。そしてゴースヴァーミーは次のように詳しく説明していきます。