節
訳語
翻訳
解説
第5章
カルマ・ヨーガ——クリシュナ意識での活動
節
arjuna uvāca
sannyāsaṁ karmaṇāṁ kṛṣṇa
punar yogaṁ ca śaṁsasi
yac chreya etayor ekaṁ
tan me brūhi su-niścitam
sannyāsaṁ karmaṇāṁ kṛṣṇa
punar yogaṁ ca śaṁsasi
yac chreya etayor ekaṁ
tan me brūhi su-niścitam
訳語
arjunaḥ uvāca — アルジュナは言った sannyāsam — 放棄 karmaṇām — すべての活動の kṛṣṇa — クリシュナよ punaḥ — 再び yogam — 献身奉仕 ca — ~もまた śaḿsasi — あなたは称賛している yat — どちらか śreyaḥ — ~はより有益で etayoḥ — これらふたつのうちで ekam — ひとつ tat — それ me — 私に brūhi — どうか教えてください su-niścitam — 明確に
翻訳
アルジュナ言う。
クリシュナよ
最初は行為を放棄せよと言い
今度は献身こめて行為せよとお勧めになる。
どちらがより有益なのか
どうか明確にお示しください。
クリシュナよ
最初は行為を放棄せよと言い
今度は献身こめて行為せよとお勧めになる。
どちらがより有益なのか
どうか明確にお示しください。
解説
『バガヴァッド・ギーター』の第5章で主は、乾いた机上の空論より献身奉仕として行動することのほうが優れているとおっしゃっている。献身奉仕はそれ自体が超越的で、人をカルマから解き放してくれるため、あれこれ思索をめぐらすより容易だからだ。第2章では魂について、また魂がどのように体という物質に捕らわれているかについて、予備知識が説明された。この物質の檻から抜け出す手段であるブッディ・ヨーガ、すなわち献身奉仕のこともそこで説明されている。第3章では知識の段階に達した人はもはや義務を遂行する必要がないと説明され、第4章ではいかなる種類の供養も皆、真の知識へと続く道であるとアルジュナに説かれた。しかしその最後のところで、完全なる知識に目覚めて戦えと勧めておられる。このようにクリシュナが、献身に基づいた活動と知識に基づいた無活動の両方の重要性を強調なさったため、アルジュナは困惑し、どちらに心を固めるべきなのかわからなくなってしまった。完全なる知識に達した人は、感覚を満たすたぐいの行為をまったくしなくなるということは、アルジュナにもわかっていた。しかし献身奉仕として働く場合、どうやって働くという行為をしないでいられるのか? つまり彼はサンニャーサ、すなわち知識に基づいた放棄とは、あらゆる活動から解放されているものだと考えていたのだ。彼には仕事と放棄が両立するとは思えなかったからである。完全なる知識に基づいた活動にはカルマがないので、無活動と同じであるということがアルジュナには理解できていなかった。ゆえに彼は活動をやめるべきか、完全な知識で活動すべきなのかと尋ねたのだ。
節
śrī-bhagavān uvāca
sannyāsaḥ karma-yogaś ca
niḥśreyasa-karāv ubhau
tayos tu karma-sannyāsāt
karma-yogo viśiṣyate
sannyāsaḥ karma-yogaś ca
niḥśreyasa-karāv ubhau
tayos tu karma-sannyāsāt
karma-yogo viśiṣyate
訳語
śrī-bhagavān uvāca — 至高人格神は言った sannyāsaḥ — 仕事の放棄 karma-yogaḥ — 献身奉仕 ca — ~もまた niḥśreyasa-karau — 解脱への道へと導く ubhau — 両方 tayoḥ — ふたつの tu — しかし karma-sannyāsāt — 成果を求める仕事の放棄と比較して karma-yogaḥ — 献身奉仕 viśiṣyate — ~のほうがよい
翻訳
至高人格神は答える。
活動の放棄も、献身奉仕の活動も
共に人を解脱へと導く
だがこのふたつのうちでは
献身奉仕のほうが優っている。
活動の放棄も、献身奉仕の活動も
共に人を解脱へと導く
だがこのふたつのうちでは
献身奉仕のほうが優っている。
解説
結果を求める活動(感覚を満たそうとする活動)は、物質的束縛の原因となる。肉体の快適さを目的とした行動をとっているかぎり、人は必ずさまざまな肉体を取り替えながら生まれ変わることとなり、永遠に物質的束縛を受け続けるのだ。このことは『シュリーマド・バーガヴァタム』(5-5-4~6)で、次のように確証されている。
nūnaṁ pramattaḥ kurute vikarma
yad indriya-prītaya āpṛṇoti
na sādhu manye yata ātmano ’yam
asann api kleśa-da āsa dehaḥ
yad indriya-prītaya āpṛṇoti
na sādhu manye yata ātmano ’yam
asann api kleśa-da āsa dehaḥ
parābhavas tāvad abodha-jāto
yāvan na jijñāsata ātma-tattvam
yāvat kriyās tāvad idaṁ mano vai
karmātmakaṁ yena śarīra-bandhaḥ
yāvan na jijñāsata ātma-tattvam
yāvat kriyās tāvad idaṁ mano vai
karmātmakaṁ yena śarīra-bandhaḥ
evaṁ manaḥ karma-vaśaṁ prayuṅkte
avidyayātmany upadhīyamāne
prītir na yāvan mayi vāsudeve
na mucyate deha-yogena tāvat
avidyayātmany upadhīyamāne
prītir na yāvan mayi vāsudeve
na mucyate deha-yogena tāvat
「欲望を満たそうと狂気のごとく駆けずり回る人々は、苦しみに満ちた今の体が、欲を求めた過去の行いの結果であることを知らない。この体はほんの一時的なものだが、ありとあらゆる苦しみをもたらす。したがって欲望を満たすための行いは、良くないのである。自分の正体は何なのかという疑問を持たない人の人生は、失敗であると言わざるを得ない。自分の本質を知らないかぎり、なんとかして感覚を満たそうと、結果を求める行動に走る。そしてそのような意識で夢中になっているかぎり、次々と肉体を変えて生まれ変わり続けなければならないのだ。無知の影響を受けて、心がそのような活動に惹かれてはいるが、なんとかしてヴァースデーヴァに献身奉仕をしたいという愛情を育まなくてはならない。それが、物質存在の束縛から抜け出すための唯一の方法なのである」
このように、解脱するためにはジュニャーナ(すなわち、自分は肉体ではなく精神的な魂なのだという知識)だけでは不十分である。人は精神的な魂として行動しなくてはならない。そうでなければ、物質の束縛から抜け出ることなどできない。しかしクリシュナ意識で行動することは、見返りを求めて行動することとはまったく段階が違う。このことをよくわきまえた上での活動は人を強くし、真の知識へと導いてくれる。クリシュナ意識ではなく、単に結果を求める活動を放棄するだけでは、制約された魂のハートを本当に浄化することはできない。ハートが浄化されないかぎり、人はいつまでも物質的な段階に居続けなければならないのだ。しかしクリシュナ意識での行動は、人を物質的な行動の結果から引き離し、物質的な段階に堕ちないように助けてくれる。ゆえにクリシュナ意識での活動は、放棄より優ると言われているのである。放棄はいつも堕落する危険性と隣り合わせであり、『バクティ・ラサームリタ・シンドゥ』(1-2-258)でシュリーラ・ルーパ・ゴースヴァーミーが明言しているように、クリシュナ意識の欠如した放棄は、不完全なのである。
prāpañcikatayā buddhyā
hari-sambandhi-vastunaḥ
mumukṣubhiḥ parityāgo
vairāgyaṁ phalgu kathyate
hari-sambandhi-vastunaḥ
mumukṣubhiḥ parityāgo
vairāgyaṁ phalgu kathyate
「解脱を達成したいと熱望するあまり、至高人格神に関することまで物質的だと考えて放棄するならば、それは不完全な放棄である」
存在するものはすべて至高主のものであり、誰ひとり、何ひとつ自分のものだとは言えないという事実を知って初めて、その放棄は完全なものとなる。誰かのものなど、何ひとつないという真実を理解しなくてはならない。この状態になれば、放棄など問題になるであろうか? 何もかもクリシュナのものだということがわかっている人は、常に放棄している状態にあるのだ。すべてはクリシュナのものなのだから、クリシュナへの奉仕に使われなくてはならない。クリシュナ意識によるこの完璧な形での行動は、マーヤーヴァーディー学派のサンニャーシーたちが行う不自然な放棄より、比べものにならないほど優っているのである。
存在するものはすべて至高主のものであり、誰ひとり、何ひとつ自分のものだとは言えないという事実を知って初めて、その放棄は完全なものとなる。誰かのものなど、何ひとつないという真実を理解しなくてはならない。この状態になれば、放棄など問題になるであろうか? 何もかもクリシュナのものだということがわかっている人は、常に放棄している状態にあるのだ。すべてはクリシュナのものなのだから、クリシュナへの奉仕に使われなくてはならない。クリシュナ意識によるこの完璧な形での行動は、マーヤーヴァーディー学派のサンニャーシーたちが行う不自然な放棄より、比べものにならないほど優っているのである。
節
jñeyaḥ sa nitya-sannyāsī
yo na dveṣṭi na kāṅkṣati
nirdvandvo hi mahā-bāho
sukhaṁ bandhāt pramucyate
yo na dveṣṭi na kāṅkṣati
nirdvandvo hi mahā-bāho
sukhaṁ bandhāt pramucyate
訳語
jñeyaḥ — 知られるべきである saḥ — 彼 nitya — 常に sannyāsī — 放棄する者 yaḥ —(~である)人 na — 決して~ない dveṣṭi — 忌み嫌う na — ~でもない kāńkṣati — 望む nirdvandvaḥ — あらゆる二元性から解放されている hi — 確かに mahā-bāho — 豪勇の士よ sukham — 幸せに bandhāt — 束縛から pramucyate — 完全に解放されている
翻訳
仕事の結果に欲望も嫌悪も抱かぬ人は
常に放棄を行じている。
勇者アルジュナよ
そのような人はあらゆる二元相対を超え
容易に物質の束縛を断ち
完全に解脱している。
常に放棄を行じている。
勇者アルジュナよ
そのような人はあらゆる二元相対を超え
容易に物質の束縛を断ち
完全に解脱している。
解説
完全にクリシュナ意識の人は常に手放している状態にあり、行動の結果を期待することも、また良くない結果に憎しみを覚えることもない。このように至高主への超越的な愛情奉仕に専念して放棄の状態にある人は、完全な知識を備えていると言える。クリシュナと自分との本質的な関係を心得ているからである。そのような人は、クリシュナが全体であり自分はクリシュナの一部だという、質的にも量的にも正しいこの知識を熟知している。この知識こそ完璧なものなのだ。クリシュナと自分が同一だという考えは間違っている。部分が全体と等しいはずがないからである。「質的には同じであるが量的には異なる」というのが正確な超越的知識であり、この知識が人を渇望も悲嘆もない境地に導いてくれる。そのような状態の人の心には二元性がない。何をするにせよ、すべてクリシュナのために行動するからである。このように二元性という段階から解放されている人は、この物質世界にいながらにしてすでに解脱しているのである。
節
sāṅkhya-yogau pṛthag bālāḥ
pravadanti na paṇḍitāḥ
ekam apy āsthitaḥ samyag
ubhayor vindate phalam
pravadanti na paṇḍitāḥ
ekam apy āsthitaḥ samyag
ubhayor vindate phalam
訳語
sāńkhya — 物質界の分析研究 yogau — 献身奉仕での仕事 pṛthak — 異なる bālāḥ — 知性の乏しい人 pravadanti — 言う na — 決して~ない paṇḍitāḥ — 学ある者 ekam — 人において api — ~でさえ āsthitaḥ — 位置して samyak — 完全な ubhayoḥ — 両方の vindate — 楽しむ phalam — 結果
翻訳
学乏しき者は言う。
「献身奉仕(カルマ・ヨーガ)は
物質界の分析研究(サーンキャ)とは別なものだ」と。
学ある者は言う。
「どちらの道に専念しても、双方とも成果を得る」と。
「献身奉仕(カルマ・ヨーガ)は
物質界の分析研究(サーンキャ)とは別なものだ」と。
学ある者は言う。
「どちらの道に専念しても、双方とも成果を得る」と。
解説
魂の存在を見出すこと、それが物質世界を分析的に研究する目的である。物質世界の魂はヴィシュヌ、すなわち至高の魂であり、主への献身奉仕は、必然的に至高の魂への奉仕でもある。木を育てたいなら、まず木の根を探し出すという過程があり、次にその根に水をやるという過程がある。サーンキャ哲学を正しく学ぶ者は、物質世界の根であるヴィシュヌを見つけ出し、それから正しい知識に基づいて主に献身奉仕を捧げる。したがって、どちらの行為も目的がヴィシュヌであるため、本質的に同じなのである。根本的な原理を知らない者は、サーンキャの目的とカルマ・ヨーガの目的は違うと言うが、知識ある者は、このふたつの過程が同じ目的に向かっていることを知っている。
節
yat sāṅkhyaiḥ prāpyate sthānaṁ
tad yogair api gamyate
ekaṁ sāṅkhyaṁ ca yogaṁ ca
yaḥ paśyati sa paśyati
tad yogair api gamyate
ekaṁ sāṅkhyaṁ ca yogaṁ ca
yaḥ paśyati sa paśyati
訳語
yat — ~であること sāńkhyaiḥ — サーンキャ哲学の方法によって prāpyate — ~は達成される sthānam — 場所 tat — それ yogaiḥ — 献身奉仕によって api — ~もまた gamyate — 人は手に入れることができる ekam — ひとつ sāńkhyam — 分析研究 ca — そして yogam — 献身の活動 ca — そして yaḥ —(~である)者 paśyati — 見る saḥ — 彼 paśyati — 実際に見る
翻訳
分析研究によって到達する境地には
献身奉仕の活動によっても到達できる。
ゆえに、このふたつの道が同じであると知る者は
物事をありのままに見る。
献身奉仕の活動によっても到達できる。
ゆえに、このふたつの道が同じであると知る者は
物事をありのままに見る。
解説
哲学を深く学ぶ真の目的は、人生の究極の目的を見つけることである。人生最大の目的は自己を悟ることであり、どちらの過程を経ても同じ結論にたどり着く。サーンキャ哲学を研究する人は、生命体は物質世界の一部ではなく、完全なる至高の精神の一部であるという結論に行き着く。つまり、精神的な魂は物質世界に属していないのだから、至高主との関係において行動すべきなのだ。クリシュナ意識で行動する人は、本来の自分の立場で行動していると言える。ひとつめのサーンキャの方法では、まず物質から無執着になることが必要となる。そして献身奉仕のヨーガの方法では、クリシュナ意識で行動することが重要となる。一方は無執着を意味し、もう一方は執着を意味しているように思えるが、実際には双方に違いはない。物質から無執着であることと、クリシュナに執着することは同じなのである。このことが理解できる人は、物事の本質が見えている人である。
節
sannyāsas tu mahā-bāho
duḥkham āptum ayogataḥ
yoga-yukto munir brahma
na cireṇādhigacchati
duḥkham āptum ayogataḥ
yoga-yukto munir brahma
na cireṇādhigacchati
訳語
sannyāsaḥ — 放棄階級 tu — しかし mahā-bāho — 豪勇の士よ duḥkham — 苦悩 āptum — ~で人を悩ます ayogataḥ — 献身奉仕がなければ yoga-yuktaḥ — 献身奉仕に従事する人 muniḥ — 思索家 brahma — 至高主 na cireṇa — すみやかに adhigacchati — 達成する
翻訳
主への献身奉仕をすることなく
ただあらゆる活動を放棄するだけでは幸せになれない。
献身奉仕に身を投じる思慮深い者は
速やかに至高主のもとへと到達する。
ただあらゆる活動を放棄するだけでは幸せになれない。
献身奉仕に身を投じる思慮深い者は
速やかに至高主のもとへと到達する。
解説
サンニャーシーと呼ばれる放棄階級の人にも2種類ある。マーヤーヴァーディー・サンニャーシーはサーンキャ哲学を学ぶのに対し、ヴァイシュナヴァ・サンニャーシーはバーガヴァタム哲学を学ぶ。バーガヴァタムは『ヴェーダーンタ・スートラ』に関する正確な注釈を提供している哲学である。マーヤーヴァーディー・サンニャーシーも『ヴェーダーンタ・スートラ』を学ぶが、シャンカラーチャーリャ著の『シャーリーラカ・バーシャ』という、彼ら独自の注解書を用いている。バーガヴァタ派の学徒はパーンチャラートリキーの原則に従って、至高主への献身奉仕に就く。そのため、ヴァイシュナヴァ・サンニャーシーは多数の仕事を通じて、主への超越的奉仕をしている。ヴァイシュナヴァ・サンニャーシーは物質的活動と無関係ではあるが、さまざまな活動を通して主に献身的に仕える。一方、サーンキャとヴェーダーンタを学んで思索に耽るマーヤーヴァーディー・サンニャーシーは、主に超越的奉仕することを好まない。彼らはブラフマンについてあれこれ推測することに疲れ、学ぶこと自体に飽きてしまうため、正しく理解しないでバーガヴァタムに拠り所を求める。そのような姿勢で臨むため、『シュリーマド・バーガヴァタム』を学ぶ際に困難がつきまとう。無味乾燥な憶測をしたり、非人格的な解釈を人為的に作り上げることは、マーヤーヴァーディー・サンニャーシーにとって何の役にも立ちはしない。献身奉仕にいそしむヴァイシュナヴァ・サンニャーシーは、幸せな気持ちで超越的奉仕に就いていて、最終的に神の王国に入ることが保証されている。それに対してマーヤーヴァーディー・サンニャーシーは、時として自己を悟る道から外れ、物質的な行為でしかない博愛主義や利他主義の世界に舞い戻ってしまうことがある。何がブラフマンか、何がブラフマンでないのかとただ思いめぐらせるサンニャーシーも、何度か生まれ変わったのち、いつかはクリシュナのもとに行く。しかしその道よりもクリシュナ意識で活動するほうがより優れていると結論づけることができる。
節
yoga-yukto viśuddhātmā
vijitātmā jitendriyaḥ
sarva-bhūtātma-bhūtātmā
kurvann api na lipyate
vijitātmā jitendriyaḥ
sarva-bhūtātma-bhūtātmā
kurvann api na lipyate
訳語
yoga-yuktaḥ — 献身奉仕に従事して viśuddha-ātmā — 浄化された魂 vijita-ātmā — 自己を支配して jita-indriyaḥ — 感覚を征服して sarva-bhūta — すべての生命体に ātma-bhūta-ātmā — 哀れみ深い kurvan api — たとえ仕事に従事していても na — 決して~ない lipyate — ~は絡まっている
翻訳
献身奉仕する人の魂は清らかで
心と感覚は統御され
生きとし生けるものすべてを愛し、また愛される。
絶えまなく働こうとも
決して自らの行為に縛られることはない。
心と感覚は統御され
生きとし生けるものすべてを愛し、また愛される。
絶えまなく働こうとも
決して自らの行為に縛られることはない。
解説
クリシュナ意識によって解脱への道を歩む人は、生きとし生ける者すべてを愛し、またすべてから愛されている。その理由はクリシュナ意識にある。木の枝や葉が木と切り離せないのと同じように、そういう状態にある人は、命ある者をクリシュナから切り離して考えることができないのだ。彼らは木の根に水をやれば葉にも枝にもすべてに水が行きわたることを知っているし、胃に食べ物を入れれば体中にエネルギーがみなぎることも、よく心得ている。クリシュナ意識で行動する人はすべての者の奉仕者であるため、誰にとってもたいへん愛しい。誰もがそのふるまいに満足するのは、その人の意識が純粋だからである。意識が純粋であるため、心がしっかりと制御されている。そして心が制御されているため、感覚も制御されている。心が常にクリシュナに向けられていれば、クリシュナから離れることもないし、主への奉仕以外のことに感覚を使うことがない。クリシュナに関係のない話題を聞きたいとも思わず、クリシュナに捧げていない食べ物を口にしたいとも思わない。クリシュナに関係のない場所に行きたいと思うこともない。つまり感覚が制御されているのである。そのような状態にある人は、誰に対しても攻撃的にならない。「それなら、なぜアルジュナは(戦いにおいて)他を攻撃したのか? 彼はクリシュナ意識のはずではなかったのか?」と問う人がいるかもしれない。(第2章ですでに説明されたように)アルジュナは表面上攻撃的に見えるだけである。というのも魂は殺されることがないため、戦場に集まった魂は皆、個々に生き続けるからである。つまり精神的には、クルクシェートラの戦いで殺された者は誰もいない。実際にその場にいたクリシュナの指令に従って、ただ衣服を取り替えさせられただけのことである。したがって、クルクシェートラの戦場で戦っている間も、実際にはアルジュナは戦っていたわけではなかった。ただ完全なるクリシュナ意識で、クリシュナの指令に従っていただけなのである。このような人は決して行為の反動に絡まることがない。
節
naiva kiñcit karomīti
yukto manyeta tattva-vit
paśyañ śṛṇvan spṛśañ jighrann
aśnan gacchan svapañ śvasan
yukto manyeta tattva-vit
paśyañ śṛṇvan spṛśañ jighrann
aśnan gacchan svapañ śvasan
pralapan visṛjan gṛhṇann
unmiṣan nimiṣann api
indriyāṇīndriyārtheṣu
vartanta iti dhārayan
unmiṣan nimiṣann api
indriyāṇīndriyārtheṣu
vartanta iti dhārayan
訳語
na — 決して~ない eva — 確かに kiñcit — 何か karomi — 私はする iti — このように yuktaḥ — 神聖な意識にあって manyeta — 考える tattva-vit — 真理を知る者 paśyan — 見ること śṛṇvan — 聞くこと spṛśan — 触れること jighran — 嗅ぐこと aśnan — 食べること gacchan — 行くこと svapan — 夢を見ること śvasan — 呼吸すること pralapan — 話すこと visṛjan — 捨てること gṛhṇan — 受け入れること unmiṣan — 開くこと nimiṣan — 閉じること api — ~にもかかわらず indriyāṇi — 感覚 indriya-artheṣu — 感覚を満たすことにおいて vartante — 彼らをそのように従事させる iti — このように dhārayan — みなす
翻訳
神聖な意識の人は
見る、聞く、触れる、嗅ぐ、食べる
動く、眠る、呼吸する、という行為をしていても
実際は自分は何もしていないということを
自己の内で知っている。
話していようと、排せつしていようと
何かをつかんでいようと、目を開け閉じしていようと
ただ感覚がその対象に反応しているだけだと知り
常に超然としている。
見る、聞く、触れる、嗅ぐ、食べる
動く、眠る、呼吸する、という行為をしていても
実際は自分は何もしていないということを
自己の内で知っている。
話していようと、排せつしていようと
何かをつかんでいようと、目を開け閉じしていようと
ただ感覚がその対象に反応しているだけだと知り
常に超然としている。
解説
クリシュナ意識の人は存在そのものが純粋なので、彼らは、行為者、行為、状況、努力、運という5つの直接的、あるいは間接的要因に左右される活動とは何の関係もない。それはその人が、愛情をこめてクリシュナに超越的な奉仕をしているからである。体と感覚を用いて行動しているように見えるが、精神的な自分の真の立場を常に自覚している。物質的な意識にあると自分の感覚を満たそうとするが、クリシュナ意識でいるとクリシュナの感覚を満たそうとする。ゆえにクリシュナ意識の人は、感覚に任せてふるまっているように見えても、いつも感覚から自由でいる。見る、聞くという行為は、知識を受け入れるための感覚の働きであり、動く、話す、排せつすることなどは、活動するための感覚の働きである。クリシュナ意識の人はこのような感覚の作用に決して影響されない。自分は主の永遠なる奉仕者であることをわきまえているため、主への奉仕につながることしかしないのである。
節
brahmaṇy ādhāya karmāṇi
saṅgaṁ tyaktvā karoti yaḥ
lipyate na sa pāpena
padma-patram ivāmbhasā
saṅgaṁ tyaktvā karoti yaḥ
lipyate na sa pāpena
padma-patram ivāmbhasā
訳語
brahmaṇi — 至高人格神に ādhāya — 委ねて karmāṇi — すべての仕事 sańgam — 執着 tyaktvā — 捨て去って karoti — 行う yaḥ —(~である)人 lipyate — ~は影響される na — 決して~ない saḥ — 彼 pāpena — 罪によって padma-patram — 蓮の葉 iva — ~のように ambhasā — 水によって
翻訳
執着することなく義務を行い
その結果を至高主に献ずる人は
蓮の葉が水に濡れないのと同じように
あらゆる罪をはじいて寄せつけない。
その結果を至高主に献ずる人は
蓮の葉が水に濡れないのと同じように
あらゆる罪をはじいて寄せつけない。
解説
ここで書かれているブラフマニとは、クリシュナ意識のことである。物質世界は物質自然の三様式によってできていて、専門的にはプラダーナと呼ばれている。ヴェーダ聖歌では sarvaṁ hy etad brahma(『マーンドゥーキャ・ウパニシャッド』2)、tasmād etad brahma nāma rūpam annaṁ ca jāyate(『ムンダカ・ウパニシャッド』1-1-9)、『バガヴァッド・ギーター』(14-3)では mama yonir mahad brahma と言われ、これは、この物質界にあるものはすべてブラフマンの現れであり、現れ方はそれぞれ違っていても、根本原因は同じであることを示している。『シュリー・イーショパニシャッド』には、すべては至高ブラフマン、すなわちクリシュナとつながっていて、あらゆるものはクリシュナにのみ所属すると書かれている。万物は主クリシュナのもの、主こそ万物の所有者なのだからすべてを主への奉仕に使うべきであるということをよく心得ている人は、徳高いことであれ罪深いことであれ、活動の結果に関心を示さない。肉体さえも個々にふさわしい行動ができるようにと主が与えてくださった贈り物なのだから、クリシュナ意識で使えばいいのだ。そうすれば水の中にあっても濡れない蓮の葉のように、罪深い反動で汚れることもないのである。また主は『バガヴァッド・ギーター』(3-30)でも、mayi sarvāṇi karmāṇi sannyasya「すべての活動を、私(クリシュナ)に捧げよ」とおっしゃっている。つまり、クリシュナ意識でない人は肉体概念や感覚で行動するが、クリシュナ意識の人は、体はクリシュナのものなのだからクリシュナへの奉仕に使わなくてはならない、という知識に基づいて行動している、ということである。
節
kāyena manasā buddhyā
kevalair indriyair api
yoginaḥ karma kurvanti
saṅgaṁ tyaktvātma-śuddhaye
kevalair indriyair api
yoginaḥ karma kurvanti
saṅgaṁ tyaktvātma-śuddhaye
訳語
kāyena — 体で manasā — 心で buddhyā — 知性で kevalaiḥ — 浄化された indriyaiḥ — 感覚で api — ~でさえ yoginaḥ — クリシュナ意識の人 karma — 活動 kurvanti — 彼らは実行する sańgam — 執着 tyaktvā — 捨て去って ātma — 自己の śuddhaye — 浄化の目的のために
翻訳
ヨーギーはすべての執着を捨て
体、心、知性
そして感覚まで使って活動する。
ただ浄化されるためだけに。
体、心、知性
そして感覚まで使って活動する。
ただ浄化されるためだけに。
解説
クリシュナの感覚を満足させるためにクリシュナ意識で行う行為なら、体、心、知性、感覚を用いても、そのすべてが物質の汚れから浄化される。クリシュナ意識で行動する人は、いかなる物質的反動を受けることもない。したがってクリシュナ意識ならサッド・アーチャーラと呼ばれる浄化された状態での活動が容易になる。シュリー・ルーパ・ゴースヴァーミーは自著『バクティ・ラサームリタ・シンドゥ』(1-2-187)の中で、次のように説明している。
īhā yasya harer dāsye
karmaṇā manasā girā
nikhilāsv apy avasthāsu
jīvan-muktaḥ sa ucyate
karmaṇā manasā girā
nikhilāsv apy avasthāsu
jīvan-muktaḥ sa ucyate
「体と心と知性を用いてクリシュナ意識で行動する(すなわちクリシュナに仕える)者は、一般的には物質的とされる活動をどれほど行おうと、物質世界に居ながらにしてすでに解脱している」。 肉体が自分であるとか、自分のものだとは信じていないため、誤った自我意識がないのである。自分はこの体ではなく、この体の所有者でもないということをよく知っている。自分自身はクリシュナのものであり、その体もクリシュナに属するのだ。体、心、知性、言葉、命、富など何であれ、自分のものをクリシュナへの奉仕に差し出すとき、その人はクリシュナとつながり合う。クリシュナとひとつになり、自分が肉体だと信じるような誤った自我意識が消失してしまう。これが、完璧なクリシュナ意識の段階なのである。
節
yuktaḥ karma-phalaṁ tyaktvā
śāntim āpnoti naiṣṭhikīm
ayuktaḥ kāma-kāreṇa
phale sakto nibadhyate
śāntim āpnoti naiṣṭhikīm
ayuktaḥ kāma-kāreṇa
phale sakto nibadhyate
訳語
yuktaḥ — 献身奉仕に従事している人 karma-phalam — すべての行いの結果 tyaktvā — 捨て去って śāntim — 完全なる平安 āpnoti — 達成する naiṣṭhikīm — ゆるぎない ayuktaḥ — クリシュナ意識でない人 kāma-kāreṇa — 行為の結果を楽しむために phale — 結果に saktaḥ — 執着して nibadhyate — 絡まって
翻訳
不動で献身的な魂は
行為の結果をすべて私に捧げ
純粋な平安を手に入れる。
神との関わりなき者は
働きの報酬を渇望し
自らの行為に縛られる。
行為の結果をすべて私に捧げ
純粋な平安を手に入れる。
神との関わりなき者は
働きの報酬を渇望し
自らの行為に縛られる。
解説
クリシュナ意識の人と肉体意識の人の違いは、前者はクリシュナに執着しているのに対し、後者は行為の結果に執着しているところにある。クリシュナに執着してクリシュナのためにだけ働く人は、間違いなく解脱しているため、自分の為した行為がどのような結果になるか気にかけることがない。『シュリーマド・バーガヴァタム』には、行為の結果を心配するのは二元性の概念でいるからだと書かれている。つまり、絶対真理に関する知識を持ち合わせていないということである。クリシュナは至高の絶対真理、すなわち至高人格神である。クリシュナ意識には二元性というものは存在しない。存在するものはすべてクリシュナのエネルギーの産物であり、クリシュナはすべてにおいて善である。したがって、クリシュナ意識での活動は絶対的な段階のものであり、完全に超越的で、もたらす結果は物質的なものではない。ゆえに人はクリシュナ意識でいれば、平安に満たされていられるのだ。しかしいかにして感覚を満たそうかと損得勘定で右往左往しているかぎり、この平安が訪れることはない。クリシュナ以外には何も存在しないと悟ること、これがクリシュナ意識の秘訣であり、こうして人は不安のない、完全なる平安の境地に到達できるのである。
節
sarva-karmāṇi manasā
sannyasyāste sukhaṁ vaśī
nava-dvāre pure dehī
naiva kurvan na kārayan
sannyasyāste sukhaṁ vaśī
nava-dvāre pure dehī
naiva kurvan na kārayan
訳語
sarva — すべての karmāṇi — 活動 manasā — 心によって sannyasya — 放棄して āste —(~の状態で)いる sukham — 幸福の中に vaśī — 支配される人 nava-dvāre — 9つの門のある場所で pure — その町で dehī — 肉体をまとった魂 na — 決して~ない eva — 確かに kurvan — 何かをして na — ~でない kārayan — ~されるようにする
翻訳
肉体をまとった生命体が
自らの性質を制御し
もろもろの活動に対して無執着でいるなら
彼には果たすべき義務もなければ
またその行為の原因となることもなく
9つの門がある町(肉体)に
いとも楽しく住むこととなる。
自らの性質を制御し
もろもろの活動に対して無執着でいるなら
彼には果たすべき義務もなければ
またその行為の原因となることもなく
9つの門がある町(肉体)に
いとも楽しく住むこととなる。
解説
肉体をまとった魂は、門が9つある町に住んでいる。ここで町にたとえられているのが肉体であり、その行動はそれぞれの特定の性質によって自動的に管理されている。魂はこの肉体の制約に従ってはいるが、もし望むなら、その制約を超えることができる。自分(魂)の優れた性質をすっかり忘れてしまっているために、肉体と自分(魂)を同じものと考え、悩んだり苦しんだりしているのである。しかしクリシュナ意識になれたなら、自分本来の立場を思い出し、肉体の束縛から抜け出すことができる。つまり人はクリシュナ意識になれば、肉体的な活動を超越した存在でいられるということである。このように制御された生活をしていれば、思い悩むこともなく平穏に、9つの門がある町に住むことができるのだ。9つの門については、次のように説明されている。
nava-dvāre pure dehī
haṁso lelāyate bahiḥ
vaśī sarvasya lokasya
sthāvarasya carasya ca
haṁso lelāyate bahiḥ
vaśī sarvasya lokasya
sthāvarasya carasya ca
「生命体の体内に宿る至高人格神は、宇宙に存在するすべての生命体の支配者である。肉体には、9つの門(ふたつの目、ふたつの鼻腔、ふたつの耳、口、肛門、生殖器)がある。制約された状態にある生命体は自分と肉体を同一視しているが、もし自分の内に宿る至高主と自分を同一視することができたなら、肉体の中に居ながらにして、主と同じほど自由になることができる」(『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』3-18)
したがって、クリシュナ意識の人は、内側からも外側からも、肉体の活動から解放されているのである。
節
na kartṛtvaṁ na karmāṇi
lokasya sṛjati prabhuḥ
na karma-phala-saṁyogaṁ
svabhāvas tu pravartate
lokasya sṛjati prabhuḥ
na karma-phala-saṁyogaṁ
svabhāvas tu pravartate
訳語
na —決して~ない kartṛtvam — 所有権 na — ~でもない karmāṇi— 活動 lokasya — 人々の sṛjati — 生み出す prabhuḥ — 肉体の町の主人 na — ~でもない karma-phala — 活動の結果で saḿyogam — 関係 svabhāvaḥ — 物質自然の様式 tu — しかし pravartate — 活動する
翻訳
肉体の町の主人公である魂は
自ら行為することなく
他人に行為させることもなく
ゆえに行為の結果を生むこともない。
すべての活動は
物質自然の様式によるものである。
自ら行為することなく
他人に行為させることもなく
ゆえに行為の結果を生むこともない。
すべての活動は
物質自然の様式によるものである。
解説
生命体は至高主のエネルギー、すなわち特質のひとつではあるが、主の別の特質である低位エネルギーと呼ばれるものとは、まったく別のものである。このことは第7章で説明される。高位エネルギーである生命体は、太古の昔からずっと物質自然と関わり合いを持ってきた。肉体という一時的に手に入れた物質的なすみかこそ、さまざまな行為と、その結果として生じる反動との原因なのである。このように制約された環境に生きることで、人は無知ゆえに自分が肉体だと思い込み、行為のもたらす結果に一喜一憂する。この無知こそが、太古の昔から人を悩ませ、苦しめてきた原因なのである。肉体の為す行為を超越できれば、行為の反動からも直ちに解放される。肉体という町に住んでいると、まるでその町の主あるじのように思えるが、実際にはその町は彼のものではなく、その町の為すこと、あるいはそれに伴う反動も、彼に主導権があるわけではない。彼はただ物質界という海の真っ只中で、もがいている存在にすぎない。荒れ狂う波にもまれ、どうすることもできない。そんな彼にとって最良の解決法は、超越的なクリシュナ意識の力を借りて、この海から抜け出すことである。あらゆる混乱から彼を救い出すことができるのは、唯一この方法しかない。
節
nādatte kasyacit pāpaṁ
na caiva sukṛtaṁ vibhuḥ
ajñānenāvṛtaṁ jñānaṁ
tena muhyanti jantavaḥ
na caiva sukṛtaṁ vibhuḥ
ajñānenāvṛtaṁ jñānaṁ
tena muhyanti jantavaḥ
訳語
na — 決して~ない ādatte — 受け取る kasyacit — だれの~も pāpam — 罪 na — ~でもない ca — ~もまた eva — 確かに su-kṛtam — 敬虔な活動 vibhuḥ — 至高主 ajñānena — 無知によって āvṛtam — 覆われて jñānam — 知識 tena — それによって muhyanti — 混乱している jantavaḥ — 生命体
翻訳
罪深い行いをする人もあり
また徳高く善き行いをする人もあるが
至高主はそのどちらの責任も負わない。
だが肉体をまとった生命体は真の知識が無知で覆われ
常に惑い、苦しんでいる。
また徳高く善き行いをする人もあるが
至高主はそのどちらの責任も負わない。
だが肉体をまとった生命体は真の知識が無知で覆われ
常に惑い、苦しんでいる。
解説
ヴィブというサンスクリット語は、無限なる知識、富、力、名声、美、放棄という質にあふれる至高主を表している。主はいつも御自身の内で満たされているので、誰かの罪深い行為にも、敬虔な行為にも乱されることはない。どの生命体に対しても、主が特定の状況をつくりあげるのではなく、無知に惑わされた生命体が特定の生活状況に身を置きたいと望み、そこから行動と反動の繰り返しが始まるのである。もともと生命体はその高い質により、完全なる知識を備えているが、力に限りがあるため、無知に影響される傾向がある。主は絶大なる特質を持つお方であるが、生命体はそうではない。主はヴィブ、すなわち全知全能であるが、生命体はアヌ、すなわち原子にすぎない。しかし命ある魂なので自由意志が与えられ、望むという能力を持っている。この望みを満たしてくださるのは、全能なる主以外にはいない。そして生命体がさまざまな望みを抱えて惑わされていれば、それを叶えてくださるが、その望んだ状況を招いた行為と反動に関して主には何の責任もない。つまり肉体をまとった魂は、幻惑した状況の中で自分と肉体を同一視し、苦しみと幸せでできた一時的でしかない人生を受け入れてしまっているのだ。主はパラマートマー、すなわち至高の魂としていつも生命体と共にいるため、花の近くにいれば香りがわかるように個々の魂の望みをわかっている。欲望は生命体を縛っている目に見えない縄である。主はそれぞれの望みを資格に応じて満たしてくださる。つまり、人が望み、神が叶える。ゆえに個々は、自分の望みを自分で叶えるほど全能ではないということである。一方、主はいかなる望みも叶えることができ、誰に対しても中立であり、生命体のささやかな望みに干渉したりなさらない。だが、人がクリシュナを望んだ場合は別である。その人を特に大切にし、主をしっかりつかんで永遠に幸せでいたいという望みを持てるように励ましてくださる。ゆえにヴェーダ賛歌は、次のように明言している。eṣa u hy eva sādhu karma kārayati taṁ yam ebhyo lokebhya unninīṣate. eṣa u evāsādhu karma kārayati yam adho ninīṣate「主は、生命体が向上していけるようにと、敬虔な活動に就かせもするし、また地獄に行きたい者には、不敬虔な活動に就かせることもある」(『カウシータキー・ウパニシャッド』3-8)
ajño jantur anīśo ’yam
ātmanaḥ sukha-duḥkhayoḥ
īśvara-prerito gacchet
svargaṁ vāśv abhram eva ca
ātmanaḥ sukha-duḥkhayoḥ
īśvara-prerito gacchet
svargaṁ vāśv abhram eva ca
「不幸になるのも幸福になるのも、すべては主のおぼし召し。天国へ上るも地獄に落ちるも、すべて至高者の意のまま。風のまにまに雲が流れるように」
したがって太古の昔から、肉体をまとった魂がクリシュナ意識を避けたいという望みを持ち続けてきたことが、混乱の原因なのである。魂はもともと永遠で、至福に満ち、自己を知っているのだが、その存在が微小であるために、主に仕えるという本来の立場を忘れてしまい、無知の仕掛けた罠に捕まってしまっている。そして無知で我を忘れ、制約された自分の状態の責任は主にある、などと主張する。このことは『ヴェーダーンタ・スートラ』(2-1-34)でも確証されている。Vaiṣamya-nairghṛṇye na sāpekṣatvāt tathā hi darśayati「主は誰のことを嫌うことなく、贔屓にすることもない。たとえそのように人の目には見えても」
節
jñānena tu tad ajñānaṁ
yeṣāṁ nāśitam ātmanaḥ
teṣām āditya-vaj jñānaṁ
prakāśayati tat param
yeṣāṁ nāśitam ātmanaḥ
teṣām āditya-vaj jñānaṁ
prakāśayati tat param
訳語
jñānena — 知識によって tu — しかし tat — それ ajñānam — 無知 yeṣām — その人の nāśitam — ~は破壊される ātmanaḥ — 生命体の teṣām — 彼らの āditya-vat — 昇る太陽のように jñānam — 知識 prakāśayati — 明らかにする tat param — クリシュナ意識
翻訳
しかし、知恵の光明によって
無知の闇を打ち破ったならば
何もかもが明らかになる。
真昼の太陽のもと万物が明らかなように。
無知の闇を打ち破ったならば
何もかもが明らかになる。
真昼の太陽のもと万物が明らかなように。
解説
クリシュナを忘れている人は必ず迷い、クリシュナ意識でいる人は迷うということが一切ない。このことは『バガヴァッド・ギーター』で、sarvaṁ jñāna-plavena, jñānāgniḥ sarva-karmāṇi そして na hi jñānena sadṛśam と書かれている。知識は常に高く評価される。ではその知識とは何か? 第7章第19節に bahūnāṁ janmanām ante jñānavān māṁ prapadyate と書かれているように、完全なる知識はクリシュナに身を委ねたときに初めて得られるものである。何度も何度も生まれ変わって、クリシュナに身を委ねるという知識を完成させたとき、つまりクリシュナ意識になれたとき、すべてのことが明らかになる。それは真昼の太陽のもとでは何もかもが見えるのと同じである。生命体はさまざまな意味で迷っている。例えば、無知の最たるところに落ち込んだ者は、不敬にも自分は神だと考える。生命体が神なら、どうして無知に惑わされることなどあろうか? 神が無知でまごついたりするだろうか? もしそうなら、無知すなわち悪魔のほうが、神より偉大だということになる。真の知識は、完全にクリシュナ意識の人から学ぶものである。ゆえに人は、そのような神聖なる精神指導者を探し求め、師のもとでクリシュナ意識とは何かを学ばなければならない。太陽が闇を追い払うように、クリシュナ意識はあらゆる無知を確実に取り払ってくれるのだから。自分は肉体ではなく、肉体を超越したものであるということを完全に心得ていても、「魂」と「至高の魂」は区別できない人もいる。しかし、完全で真正なクリシュナ意識の精神指導者に保護を求めるなら、何もかもを知ることができる。神の代表者に会うことができたとき、人は神を知り、神と自分との関係を知ることができるのだ。神の代表者は、神についての知識を備えているため、神と同じように尊敬を払われることがあるが、自分が神だとは決して言わない。人は、神と生命体の違いをはっきりと知らなければならない。だからこそ、主シュリー・クリシュナは第2章(2-12)で「生命体はみな個別であり、主もまた個別の存在である」とおっしゃっている。過去も個別であったし、現在も個別であるし、未来においても、たとえ解脱したとしても、常に個別であり続けるのだ。夜には何もかもが暗闇の中でひとつに見える。しかし昼間、太陽が上がると、それぞれの個性がちゃんと見えてくる。精神生活において自分は個別の存在であるという認識、これこそが真の知識なのである。
節
tad-buddhayas tad-ātmānas
tan-niṣṭhās tat-parāyaṇāḥ
gacchanty apunar-āvṛttiṁ
jñāna-nirdhūta-kalmaṣāḥ
tan-niṣṭhās tat-parāyaṇāḥ
gacchanty apunar-āvṛttiṁ
jñāna-nirdhūta-kalmaṣāḥ
訳語
tat-buddhayaḥ — 常に知性が至高者にある人 tat-ātmānaḥ — 常に心が至高者にある人 tat-niṣṭhāḥ — 至高者のみに信念を持っている人 tat-parāyaṇāḥ — 主に完全に保護を求めている人 gacchanti — 行く apunaḥ-āvṛttim — 解放へ jñāna — 知識によって nirdhūta — 洗い清められた kalmaṣāḥ — 疑惑
翻訳
知性と心を至上者に固定して不動となし
彼を完全に信頼して保護所としたとき
人はその完全な知識によりすべての疑惑をぬぐい去って
解脱への道をまっすぐに進んで行くのだ。
彼を完全に信頼して保護所としたとき
人はその完全な知識によりすべての疑惑をぬぐい去って
解脱への道をまっすぐに進んで行くのだ。
解説
唯一無上の真実は、主クリシュナである。クリシュナが至高人格神だということを明らかにするのが、『バガヴァッド・ギーター』全体の核心であり、これがあらゆるヴェーダ文献の解説である。パラ・タットヴァとは、至高の事実という意味であり、至高主を知る者は、それがブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンであることを理解している。バガヴァーン、すなわち至高人格神こそが絶対真理における最上の言葉であり、これ以上のものは存在しない。mattaḥ parataraṁ nānyat kiñcid asti dhanañ-jaya と、至高主は言う。非人格的なブラフマンを支えているのもクリシュナである brahmaṇo hi pratiṣṭhāham。したがって、どの点から見ても、クリシュナこそ至高の真実なのである。心も、知性も、信念も、保護も、すべてを常にクリシュナに置いている者は、完全なるクリシュナ意識の状態にあり、不安や疑いは間違いなく洗い流されて、超越的な知識を完全に得ていると言える。クリシュナ意識の人は、クリシュナにおける二元性(同一性と個別性の両方が同時に存在すること)をよく理解し、そのような超越的な知識をしっかりと身に着けて、解脱への道を確実に歩んでいくのである。
節
vidyā-vinaya-sampanne
brāhmaṇe gavi hastini
śuni caiva śva-pāke ca
paṇḍitāḥ sama-darśinaḥ
brāhmaṇe gavi hastini
śuni caiva śva-pāke ca
paṇḍitāḥ sama-darśinaḥ
訳語
vidyā — 教育で vinaya — そして温和さ sampanne — 十分に備えて brāhmaṇe — ブラーフマナにおいて gavi — 牛において hastini — 象において śuni — 犬において ca — そして eva — 確かに śva-pāke — 犬喰い(賤民)において ca — それぞれに paṇḍitāḥ — 賢い人 sama-darśinaḥ — 平等に見る人
翻訳
真理を学んだ聖者は
まことに謙遜の美徳を備えている。
学ある温和なブラーフマナも
牛も象も犬も犬喰いも
彼は差別なく平等に観ている。
まことに謙遜の美徳を備えている。
学ある温和なブラーフマナも
牛も象も犬も犬喰いも
彼は差別なく平等に観ている。
解説
クリシュナ意識の人は、種類やカーストによって差別したりしない。社会的観点からすると、ブラーフマナと、カーストにさえ入れない最下層(アウトカースト)の人とは同じではないかもしれないし、犬や牛や象も、種類という面では異なっているが、それらは肉体の相違であり、博学な超越主義者にとっては何の意味もない。至高主はパラマートマーという完全部分体の姿ですべての者のハートの中に宿っておられるという、この生命体と至高主との関係を、クリシュナ意識の人は理解しているからである。至高主をこのように理解することこそ、真の知識である。生まれたカーストが違ったり、与えられた肉体の種類が違っていても、主は誰に対しても等しく優しい。すべてを友として扱い、いかなる環境に生命体がいようとも、パラマートマとして一緒に居続けてくださるのである。ブラーフマナの体とアウトカーストの人の体は同じではないが、主はどちらの体にも宿っている。肉体はさまざまな様式の物質自然からできているが、魂と、肉体に宿る至高の魂は、どちらも同じ精神的な質でできているのである。しかし「魂」と「至高の魂」は、質的に同じでも量的に同じではない。個々の魂はその与えられた体内にだけ存在するが、パラマートマーはすべての生命体の内に存在している。このことを完璧に理解しているクリシュナ意識の人こそ、真に学んだ人であり、誰をも平等に見るのである。意識があり、永遠で、至福に満ちているという点は、「魂」と「至高の魂」の共通の性質である。違っているのは、個々の魂の意識は、その限られた体の中だけのものであるのに対し、至高の魂はすべての生命体の体内に共通する意識だという点である。至高の魂は生きとし生けるすべての生命体の中に、いかなる区別もなく宿っているのである。
節
ihaiva tair jitaḥ sargo
yeṣāṁ sāmye sthitaṁ manaḥ
nirdoṣaṁ hi samaṁ brahma
tasmād brahmaṇi te sthitāḥ
yeṣāṁ sāmye sthitaṁ manaḥ
nirdoṣaṁ hi samaṁ brahma
tasmād brahmaṇi te sthitāḥ
訳語
iha — この生において eva — 確かに taiḥ — 彼らによって jitaḥ — 征服された sargaḥ — 誕生と死 yeṣām — 彼らの sāmye — 平静に sthitam — 位置して manaḥ — 心 nirdoṣam — 完璧な hi — 確かに samam — 平静に brahma — 至高者のように tasmāt — それゆえ brahmaṇi — 至高者において te — 彼らは sthitāḥ — ~は位置している
翻訳
万象を平等に観て常に心平静な人は
すでに生と死を超越している。
ブラフマンのように完全無欠であり
すでにブラフマンの中に在る。
すでに生と死を超越している。
ブラフマンのように完全無欠であり
すでにブラフマンの中に在る。
解説
前述のように、心が平静であることは、自己の悟りを得た人の特徴である。このような段階に達した人は、物質的制約、ことに誕生と死をすでに克服した人とみなされる。自分が肉体だと思い込んでいるかぎり、その人は制約された魂にすぎないが、自己を悟って平静な段階に上り詰めたとたんに、制約された人生から解放されるのだ。つまり、もはや物質世界に誕生することもなく、今生を終えたあと精神世界に入っていけるのである。主は何かに愛着することも嫌悪することもなく、完全なお方である。生命体もそのようなことがなくなれば、完璧になり、精神世界に入って行ける資格を得るのだ。そのような状態の人はすでに解脱していると考えられ、その特徴については以下に述べられることとなる。
節
na prahṛṣyet priyaṁ prāpya
nodvijet prāpya cāpriyam
sthira-buddhir asammūḍho
brahma-vid brahmaṇi sthitaḥ
nodvijet prāpya cāpriyam
sthira-buddhir asammūḍho
brahma-vid brahmaṇi sthitaḥ
訳語
na — 決して~ない prahṛṣyet — 喜ぶ priyam — 楽しいこと prāpya — 達成して na — ~しない udvijet — 動揺する prāpya — 獲得して ca — ~もまた apriyam — 不愉快なもの sthira-buddhiḥ — 自己を悟った asammūḍhaḥ — 困感しないで brahma-vit — 至上者を完全に知る者 brahmaṇi — 超越性の中に sthitaḥ — 位置する
翻訳
自己を知る者は
愉快な事物を得ても喜ばず
不愉快な事物に会っても悲しまない。
不動心と神の知識を持ち
すでに超越的な段階にある。
愉快な事物を得ても喜ばず
不愉快な事物に会っても悲しまない。
不動心と神の知識を持ち
すでに超越的な段階にある。
解説
自己の悟りを得た人の兆候がここで述べられている。最初の兆候は、肉体と本当の自分とを同一視するような幻想に捕らわれていないことである。自分はこの肉体ではなく、至高人格神の一部分であることをよくわきまえている。そのため、体に関する何かを得ても喜ぶことなく、何かを失くしても嘆くことがない。この確固たる心の状態をスティラ・ブッディ、すなわち自己に目覚めた知性と呼ぶ。ゆえにそのような状態にある人は、魂が肉体であると惑わされない。また肉体が永遠のものだと誤解したり、魂の存在を無視することも決してない。この知識が彼をさらに引き上げ、ブラフマン、パラマートマー、バガヴァーンという絶対真理の科学を完全に理解するようになる。こうしてその人は自分本来の立場を完璧に認識し、あらゆる面において、自分が至高主とひとつになろうなどと誤って考えることがない。この段階をブラフマンの悟り、すなわち自己の悟りと言う。この不動の意識こそ、クリシュナ意識と称するものである。
節
bāhya-sparśeṣv asaktātmā
vindaty ātmani yat sukham
sa brahma-yoga-yuktātmā
sukham akṣayam aśnute
vindaty ātmani yat sukham
sa brahma-yoga-yuktātmā
sukham akṣayam aśnute
訳語
bāhya-sparśeṣu — 外面的な感覚の喜びに asakta-ātmā — 執着しない人 vindati — 楽しむ ātmani — 自己の内で yat — その sukham — 幸福 saḥ — 彼は brahma-yoga — ブラフマンに集中することによって yukta-ātmā — 自己を悟った sukham — 幸福 akṣayam — 限りない aśnute — 楽しむ
翻訳
このように解脱した人は
物質的な感覚の喜びに惹かれることなく
内なる楽しみに浸っている。
こうして自己を悟った人は心を至高主に集中し
限りなき幸福を永遠に味わっている。
物質的な感覚の喜びに惹かれることなく
内なる楽しみに浸っている。
こうして自己を悟った人は心を至高主に集中し
限りなき幸福を永遠に味わっている。
解説
偉大なるクリシュナ意識の献身者、シュリー・ヤームナーチャーリャは言う。
yad-avadhi mama cetaḥ kṛṣṇa-pādāravinde
nava-nava-rasa-dhāmany udyataṁ rantum āsīt
tad-avadhi bata nārī-saṅgame smaryamāne
bhavati mukha-vikāraḥ suṣṭhu niṣṭhīvanaṁ ca
nava-nava-rasa-dhāmany udyataṁ rantum āsīt
tad-avadhi bata nārī-saṅgame smaryamāne
bhavati mukha-vikāraḥ suṣṭhu niṣṭhīvanaṁ ca
「クリシュナに超越的な愛情奉仕をするようになってから、いつも主への新しい喜びを味わっている。性行為のことが頭をかすめると、私はその思いにつばを吐きかけ、嫌悪で口を歪める」と。ブラフマ・ヨーガ、すなわちクリシュナ意識の人は、主への愛情奉仕にあまりにも没頭しているため、物質的に感覚を喜ばせるものへの味わいを、すっかり失くしてしまう。物質的な喜びの中で最たるものは、性行為による快楽である。全世界はこの魔力によって動かされ、物質的な人はこの動機なしには、働くことができない。しかしクリシュナ意識の人は性行為を避け、それよりもっと精力的に働くことができる。ここで精神的な悟りを得ているかどうかが見極められる。精神的な悟りと性的快楽は相容れない。クリシュナ意識の人は解放された魂であるため、いかなるものであれ、感覚を喜ばせるものには魅せられることがないのだ。
節
ye hi saṁsparśa-jā bhogā
duḥkha-yonaya eva te
ādy-antavantaḥ kaunteya
na teṣu ramate budhaḥ
duḥkha-yonaya eva te
ādy-antavantaḥ kaunteya
na teṣu ramate budhaḥ
訳語
ye — それらの hi — 確かに saḿsparśa-jāḥ — 物質的感覚との接触によって bhogāḥ — 楽しみ duḥkha — 苦痛 yonayaḥ — ~の源 eva — 確かに te — 彼らは~である ādi — 始め anta — 終わり vantaḥ — ~に服従する kaunteya — クンティーの息子よ na — 決して~ない teṣu — それらを ramate — 楽しむ budhaḥ — 知性ある人
翻訳
クンティーの子よ
感覚の快楽は一時的であり
必ず悲苦が生じる。
覚者は決してこの悲苦の源泉に近づかず
賢者は決してこのような快楽を喜ばない。
感覚の快楽は一時的であり
必ず悲苦が生じる。
覚者は決してこの悲苦の源泉に近づかず
賢者は決してこのような快楽を喜ばない。
解説
五官が物と接触して生じる快楽は、実にはかない。それは肉体そのものが一時的だからである。解脱した魂は、そのような一時的なものに関心を持たない。超越的な喜びを知ってしまった魂が、偽りの喜びを楽しもうなどとするだろうか?『パドマ・プラーナ』には、次のように書かれている。
ramante yogino ’nante
satyānande cid-ātmani
iti rāma-padenāsau
paraṁ brahmābhidhīyate
satyānande cid-ātmani
iti rāma-padenāsau
paraṁ brahmābhidhīyate
「神秘家たちは絶対真理から、無限の超越的喜びを引き出す。ゆえに、至高絶対真理である至高人格神は、ラーマとしても知られている」
また『シュリーマド・バーガヴァタム』(5-5-1)にも、このようにある。
nāyaṁ deho deha-bhājāṁ nṛ-loke
kaṣṭān kāmān arhate viḍ-bhujāṁ ye
tapo divyaṁ putrakā yena sattvaṁ
śuddhyed yasmād brahma-saukhyaṁ tv anantam
kaṣṭān kāmān arhate viḍ-bhujāṁ ye
tapo divyaṁ putrakā yena sattvaṁ
śuddhyed yasmād brahma-saukhyaṁ tv anantam
「親愛なる息子たちよ、人間という生を得た今、感覚の喜びを得るために必死に労働するなど道理に合わない。そのような喜びは、糞を食べる者(豚)のためのものだ。人間として生まれたからには苦行をし、存在そのものを浄化せよ。そうすればお前たちは、限りなく超越的な至福を味わうことができるであろう」
ゆえに真のヨーギーや学ある超越主義者たちは、物質世界に縛りつけられる原因となるような感覚の快楽などには魅せられない。人は物質的快楽にのめり込めばのめり込むほど、ますます物質的な苦しみに絡まっていくのである。
節
śaknotīhaiva yaḥ soḍhuṁ
prāk śarīra-vimokṣaṇāt
kāma-krodhodbhavaṁ vegaṁ
sa yuktaḥ sa sukhī naraḥ
prāk śarīra-vimokṣaṇāt
kāma-krodhodbhavaṁ vegaṁ
sa yuktaḥ sa sukhī naraḥ
訳語
śaknoti — ~できる iha eva — 現在の体で yaḥ —(~である)人 soḍhum — 耐えること prāk — ~の前に śarīra — 体 vimokṣaṇāt — 捨てて kāma — 欲望 krodha — そして怒り udbhavam — ~から生じる vegam — 衝働 saḥ — 彼は yuktaḥ — 我を忘れて saḥ — 彼は sukhī — 幸福な naraḥ — 人間
翻訳
もし人が肉体を脱ぎ捨てる以前に
五官による感覚の衝動に耐えて
欲情と怒りの力を抑制し得たなら
彼は現世においても幸福である。
五官による感覚の衝動に耐えて
欲情と怒りの力を抑制し得たなら
彼は現世においても幸福である。
解説
自己を悟る道を歩む上で、確実に向上したいと望むなら、感覚の衝動を抑えなくてはならない。話したい衝動、怒りの衝動、心の衝動、胃袋の衝動、性器の衝動、舌の衝動など、衝動にもいろいろある。これらさまざまな感覚がもたらす衝動をすべて抑制できる人は、ゴースヴァーミーあるいはスヴァーミーと呼ばれる。このようなゴースヴァーミーたちは全感覚を自分の支配下において、厳格な生活をしている。人は欲望が満たされないと怒りが生じ、心や目や胸が動揺する。ゆえにこの肉体を脱ぎ棄てる前に、なんとか制御することができるよう努めなくてはならない。これができる人は自己の本性を会得した人であり、自己の悟りの状態で常に幸福を感じている。欲望と怒りを抑制しようと最大の努力を払うことが超越主義者の義務である。
節
yo ’ntaḥ-sukho ’ntar-ārāmas
tathāntar-jyotir eva yaḥ
sa yogī brahma-nirvāṇaṁ
brahma-bhūto ’dhigacchati
tathāntar-jyotir eva yaḥ
sa yogī brahma-nirvāṇaṁ
brahma-bhūto ’dhigacchati
訳語
yaḥ —(~である)人 antaḥ-sukhaḥ — 内から幸福な antaḥ-ārāmaḥ — 内心で非常に楽しんで tathā — ~はもちろん antaḥ-jyotiḥ — 内に目的を持った eva — 確かに yaḥ — だれでも saḥ — 彼は yogī — 神秘家 brahma-nirvāṇam — 至高者の中での解放 brahma-bhūtaḥ — 自己を悟って adhigacchati — 達する
翻訳
内なる幸福を味わい
内なる世界で活動し、喜び楽しむ。
目的を自己の内に向けるその人こそ
完全な神秘家である。
彼は至高なる存在の内で解脱を得
最後には至高なる境地に到達するのだ。
内なる世界で活動し、喜び楽しむ。
目的を自己の内に向けるその人こそ
完全な神秘家である。
彼は至高なる存在の内で解脱を得
最後には至高なる境地に到達するのだ。
解説
自己の内から湧き出てくる幸せを味わっていなければ、うわべだけの幸せをもたらすにすぎない世俗の活動を、どうしてやめることなどできようか? 解脱を得た人は事実、大いなる幸せを常に味わっているのだ。だからこそ、どんな場所にでも静かに座り、自己の内で生命の動きを楽しんでいられる。このような解脱者は、もはや外的な物質界の幸福など求めない。これが、人が確実に神の王国に戻っていくことのできる、ブラフマ・ブータと呼ばれる境地なのである。
節
labhante brahma-nirvāṇam
ṛṣayaḥ kṣīṇa-kalmaṣāḥ
chinna-dvaidhā yatātmānaḥ
sarva-bhūta-hite ratāḥ
ṛṣayaḥ kṣīṇa-kalmaṣāḥ
chinna-dvaidhā yatātmānaḥ
sarva-bhūta-hite ratāḥ
訳語
labhante — 達成する brahma-nirvāṇam — 至高主の中での解放 ṛṣayaḥ — 内から意欲的な人 kṣīṇa-kalmaṣāḥ — いかなる罪もない人 chinna — 引きさいて dvaidhāḥ — 二元性 yata-ātmānaḥ — 自己の悟りに従事して sarva-bhūta — すべての生命体のために hite — 福祉活動において ratāḥ — 従事して
翻訳
疑いから生じる二元性を超越し
心を内に向け
生きとし生ける者の幸福のために忙しく働き
いかなる罪も犯さない者は
至高なる解脱の境地に達する。
心を内に向け
生きとし生ける者の幸福のために忙しく働き
いかなる罪も犯さない者は
至高なる解脱の境地に達する。
解説
あらゆる生命体の幸福のために活動している人と呼べるのは、完全にクリシュナ意識の人だけである。クリシュナがすべての源だということを真に理解してはじめて、他者のために行動することができる。クリシュナは至高の享楽者であり、すべての所有者であり、最高の友である。このことを忘れているために、人類は苦悩している。ゆえに、全人間社会にこの意識を呼び覚ますことが、最も高い福祉活動なのである。そしてより高い解放の境地にいる人でないかぎり、このような最高の福祉活動はできない。クリシュナ意識の人は、クリシュナが至高のお方であることに、微塵も疑いを持っていない。あらゆる罪から解放されているからである。これが神聖なる愛の段階である。
人間社会に対して、ただ物質的な面の福祉活動だけを行っても、本当の助けにはならない。体や心が一時的にほっとしたとしても、本当の満足にはつながらない。人々が直面している困難の本当の原因は、至高主と自分との関係を忘れてしまっていることにある。クリシュナとの関係を完全に理解している人は、肉体という仮の宿に居ながらも、実はすでに解脱した魂なのである。
節
kāma-krodha-vimuktānāṁ
yatīnāṁ yata-cetasām
abhito brahma-nirvāṇaṁ
vartate viditātmanām
yatīnāṁ yata-cetasām
abhito brahma-nirvāṇaṁ
vartate viditātmanām
訳語
kāma — 欲望から krodha — そして怒り vimuktānām — 解放された人の yatīnām — 聖なる人の yata-cetasām — 心を完全に制御している人 abhitaḥ — 近い将来確実に brahma-nirvāṇam — 至高の境地での解脱 vartate — ~がある vidita-ātmanām — 自己を悟った人
翻訳
怒りもいかなる物欲も持たず
自己を悟り、抑制し
完成を目指して努力する人には
至高の境地の解脱が
すぐそこに約束されている。
自己を悟り、抑制し
完成を目指して努力する人には
至高の境地の解脱が
すぐそこに約束されている。
解説
救いを求めてたゆまぬ努力をする気高い人々の中でも、クリシュナ意識の人が最上である。この事実について、『シュリーマド・バーガヴァタム』(4-22-39)では、次のように確証されている。
yat-pāda-paṅkaja-palāśa-vilāsa-bhaktyā
karmāśayaṁ grathitam udgrathayanti santaḥ
tadvan na rikta-matayo yatayo ’pi ruddha-
sroto-gaṇās tam araṇaṁ bhaja vāsudevam
karmāśayaṁ grathitam udgrathayanti santaḥ
tadvan na rikta-matayo yatayo ’pi ruddha-
sroto-gaṇās tam araṇaṁ bhaja vāsudevam
「ただひたすら至高人格神ヴァースデーヴァを崇拝し、献身的に仕えよ。感覚の力を支配することは、偉大な聖者にとっても容易ではない。しかし、超越的喜びの中で主の蓮華の御足に仕える者は、深く根付いた物質的な数々の欲を、根こそぎ取り去ることができる」
制約された魂の中では、行為の結果を楽しみたいという欲望があまりにも根強く、偉大な聖人たちであっても、抑制するのは至難のわざである。しかし、クリシュナ意識で絶え間なく献身奉仕に就いている献身者は、完全に自己を悟っていて、あっと言う間に至高の境地での解脱を手に入れてしまう。自分の本性を悟った完璧な知識のおかげで、いつも恍惚の喜びに浸っている。以下の引用文は、これに類似している。
darśana-dhyāna-saṁsparśair
matsya-kūrma-vihaṅgamāḥ
svāny apatyāni puṣṇanti
tathāham api padma-ja
matsya-kūrma-vihaṅgamāḥ
svāny apatyāni puṣṇanti
tathāham api padma-ja
「魚や亀や鳥は、見ること、思うこと、触ることにより子を育てる。私も同じだ、パドマジャよ!」
魚は、ただ見るだけで子供を育てる。また、亀はただ深く思うだけで子供を育てる。地面に卵を産み落とし、自分は水中で卵のことに思いを馳せるのだ。同様に、クリシュナ意識の献身者は、主のお住まいからどれだけ遠く離れていようとも、絶え間なく主を思っていることによって、すなわちクリシュナ意識でいることによって、主の傍に上っていくことができる。物質界の苦しみを感じることのないこの段階を、ブラフマ・ニルヴァーナと言う。絶えず至高の境地への想いに浸っているため、物質界の苦しみがないのだ。
節
sparśān kṛtvā bahir bāhyāṁś
cakṣuś caivāntare bhruvoḥ
prāṇāpānau samau kṛtvā
nāsābhyantara-cāriṇau
cakṣuś caivāntare bhruvoḥ
prāṇāpānau samau kṛtvā
nāsābhyantara-cāriṇau
yatendriya-mano-buddhir
munir mokṣa-parāyaṇaḥ
vigatecchā-bhaya-krodho
yaḥ sadā mukta eva saḥ
munir mokṣa-parāyaṇaḥ
vigatecchā-bhaya-krodho
yaḥ sadā mukta eva saḥ
訳語
sparśān — 音など感覚の対象 kṛtvā — 保って bahiḥ — 外部に bāhyān — 不必要な cakṣuḥ — 目 ca — ~もまた eva — 確かに antare — ~の間に bhruvoḥ — 眉 prāṇa-apānau — 上下に流れる気 samau — 停止して kṛtvā — 保って nāsa-abhyantara — 鼻孔の中に cāriṇau — 息を吹いて yata — 支配された indriya — 感覚 manaḥ — 心 buddhiḥ — 知性 muniḥ — 超越主義者 mokṣa — 解放のために parāyaṇaḥ — そう運命づけられて vigata — 捨て去って icchā — 望み bhaya — 恐れ krodhaḥ — 怒り yaḥ —(~である)人 sadā — 常に muktaḥ — 解放された eva — 確かに saḥ — 彼は~である
翻訳
感覚を外界の事物からさえぎり
視力を眉間に集中して、呼気と吸気を鼻孔の中にとどめ
心と感覚と知性を支配する超越主義者は
欲望と怒りと恐れのない解放された状態を目指す。
常にこのような境地にある人は、間違いなく解脱している。
視力を眉間に集中して、呼気と吸気を鼻孔の中にとどめ
心と感覚と知性を支配する超越主義者は
欲望と怒りと恐れのない解放された状態を目指す。
常にこのような境地にある人は、間違いなく解脱している。
解説
クリシュナ意識で活動していくと、自分の精神的立場をすぐに理解できる。そして献身奉仕を進めていくうちに、至高主のことも理解できるようになってくる。正しい姿勢で献身奉仕に取り組むと超越的な段階に達し、行動の内に主の存在を感じることができるようになる。この特別な段階を、至高なる解脱の境地と呼ぶ。
前述のように至高の境地について説明をしたのち、主はアルジュナに、アシュターンガ・ヨーガとして知られる神秘論を実践して、その境地に達する方法を教えられた。アシュターンガ・ヨーガには、ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラテャーハーラ、ダーラナー、デャーナ、サマーディの8つの段階がある。ヨーガについては第6章で詳しく明記されているが、この第5章の終わりでは、前置き的な説明にとどめておく。人は、ヨーガのプラテャーハーラの方法によって、音、感触、形、味、匂いなど、感覚の対象から自分を遠ざけなくてはならない。そうして、眉間に視力を預け、半眼で鼻頭に集中する。目は完全に閉じてはならない。眠ってしまうかもしれないからである。反対に完全に開けているのも良くない。感覚の対象に気が散る危険性があるからである。体内で上下に動く気流を中和して、鼻孔で呼吸の動きを抑止する。こうしたヨーガを実践することによって、感覚を制御することができるようになり、至高の境地の解脱に向かう準備ができる。
このヨーガは、人があらゆる恐れや怒りをなくして、超越的な境地で至高の魂の存在を実感する助けとなる。言い換えれば、クリシュナ意識こそがヨーガの本質を実践する最も簡単な方法だということである。このことは、次の章で詳しく説明される。常に献身奉仕に身を置いているクリシュナ意識の人は、ほかのものに感覚を奪われる心配がない。感覚を制御するのに、何も別の方法に頼る必要はない。感覚を制御するには、アシュターンガ・ヨーガよりクリシュナ意識のほうが、ずっと優れた方法なのである。
節
bhoktāraṁ yajña-tapasāṁ
sarva-loka-maheśvaram
suhṛdaṁ sarva-bhūtānāṁ
jñātvā māṁ śāntim ṛcchati
sarva-loka-maheśvaram
suhṛdaṁ sarva-bhūtānāṁ
jñātvā māṁ śāntim ṛcchati
訳語
bhoktāram — 受ける人 yajña — 供養の tapasām — そして苦行と禁欲 sarva-loka — すべての惑星とそこに住む神々 mahā-īśvaram — 至高主 su-hṛdam — 恩恵を施す者 sarva — すべての bhūtānām — 生命体 jñātvā — このように知って mām — 私(主クリシュナ)に śāntim — 物質的苦痛からの救済 ṛcchati — 人は達成する
翻訳
私はあらゆる供養と苦行の究極の受益者であり
すべての惑星と神々の至高主であり
一切の生命体に恩恵を施し幸福を願う者である。
これを知る者は
物質的苦難から救われて平安を得る。
すべての惑星と神々の至高主であり
一切の生命体に恩恵を施し幸福を願う者である。
これを知る者は
物質的苦難から救われて平安を得る。
解説
幻想エネルギーの罠にかかっている制約された魂は皆、物質界で平安を得たいと切望している。しかし、平安の定義をわかっていない。そのことが『バガヴァッド・ギーター』のこの部分で説明されている。人が行うあらゆる活動の結果を受け取るのは、主クリシュナである。これが平安の最大の定義である。惑星も神々もすべて主が所有するのだから、私たちは何もかも主への超越的な奉仕に差し出すべきである。主より偉大な者など存在しない。主クリシュナは、主シヴァや主ブラフマーのような最も偉大とされる神々より、はるかに偉大なのである。ヴェーダ(『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』6-7)には、至高主は tam īśvarāṇāṁ paramaṁ maheśvaraṁ であると書かれている。生命体は幻想に魅せられて、見るものすべてを支配しようと必死になっているが、現実には、これらはすべて主の物質エネルギーの支配下にあるのだ。物質自然の支配者は主であり、制約された魂はその物質自然の厳格な規則下にある。このまぎれもない事実を理解しないかぎり、個人的であろうと、集団的であろうと、この世界で平和に達することなど不可能である。主クリシュナはすべての究極的な所有者であり、偉大な神々を含むすべての生命体は、主に従属する者である。これがクリシュナ意識の意義である。完全なるクリシュナ意識になって初めて、人は完全なる平安を手に入れることができるのだ。
この第5章は、一般的にカルマ・ヨーガとして知られているクリシュナ意識を、実践的に説明したものである。カルマ・ヨーガでどうやって解脱できるのかという憶測からの質問にも、ここで答えられている。クリシュナ意識で行動するということは、主が所有者であるという認識で行動するということであり、このような行為は、超越的知識と変わりないものである。クリシュナ意識をそのまま実行することがバクティ・ヨーガであり、ジュニャーナ・ヨーガは、バクティ・ヨーガに続く過程にすぎない。クリシュナ意識とは、至高の絶対者と自分との関係を十分に知って行動することであり、クリシュナすなわち至高人格神について完全に知ることこそ、この意識の完成なのである。純粋な魂は至高主の永遠なるしもべであり、主の微小な一部分である。しかしマーヤー(幻想)を支配したいと望んだため、マーヤーと関わってしまい、これが数えきれないほどの苦しみの原因となっている。物質と関わっているかぎり、物質的な必然性で動かなければならないことは付きもの。しかしクリシュナ意識は、物質的な行為をしている間も、人を精神生活に招き入れてくれる。なぜなら、物質界で修練することによって、精神的存在が目覚めるからである。精神的に高まれば高まるほど、人は物質の罠から解放されていく。主は、誰に対しても公平である。すべては、クリシュナ意識における義務を、それぞれがどれほど実行しているかにかかっている。あらゆる点で感覚を制御し、欲望と怒りから影響されないように守ってくれる、それがクリシュナ意識である。そして、先に述べた衝動を抑えて、しっかりとクリシュナ意識の状態でいるなら、人は超越的な段階、すなわちブラフマ・ニルヴァーナの段階に行くことができる。そうすれば8段階のヨーガ方式は、自動的に修練したことになる。なぜならクリシュナ意識はその目的のすべてを満たしているからである。ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラテャーハーラ、ダーラナー、デャーナ、サマーディを修練することによって、意識はしだいに向上する。しかしそれは献身奉仕によって得られる完成の序章にすぎない。人間に平安をもたらすのは献身奉仕だけである。これが人生における最高の完成なのである。
以上、『シュリーマド・バガヴァッド・ギーター』第5章「カルマ・ヨーガ - クリシュナ意識での活動」に関するバクティヴェーダンタの解説は終了。